真 遺 教 田 中 鐵 漢 090-8402-1303 aef172047@lib.bbiq.jp 4753kqry@jcom.zaq.ne.jp http://buddhatekkan.com/ 《 真 遺 教 》 真遺教は神仏や人物では及び得ない。 唯、体験によってのみ至り得る空前絶後の真理である。 是には、如何為るものも及ばない。 人間と宇宙の真理を説き遺す。 小生も、そうであったのであるが、 中学から高校へ掛けて、学校の教科以外の事柄、当時は其れとは 意識出来ないのであるが、実存への疑義から精神世界は始まるので ある。 「何か在る。」咽喉下迄来ているのであるけれども、其れが何だか判 らない。 「一体何が在るのか?」と、此の問い掛けが人間の意識に浮かぶと 云う事自体、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しに他ならない のである。 是が、先ず東洋の古代インダス文明の最も肥沃な穀倉地帯に、自然 現象と一体為る瞑想を生み、ヨーガ行へと進展し、釈尊成道に至る訳 である。 それから中東の砂漠地帯に神が生まれた。 人間の諸能力により、多様化された高度文明化社会が、そうした心 の内部からの問い掛けに対する障害と為り、正道への回帰を妨げて いるのである。 そもそも現代社会に於いて、坐禅に達し得た人は少なく、人知を超え る人であり、智慧に生まれ変わらんとする人なのである。 令和元年に小生が「涅槃入り」する迄は、釈尊の成道迄の事であり、 仏道とは、無限為る宇宙の如く説かれて来たのである。 金剛般若経であったか、 「宇宙の広大さに言い及ぶ事が出来るか?」。「出来ません。」 「仏道の際限無い事は、彼に等しい。」と。 然るに、極仏は「覚天」して「涅槃入り」する迄の事である。 後は、涅槃妙心智慧によりて世界人類を生(活)かして往かねばなら ない。貴重な時間の無駄遣いを為すべきではないのである。 世界人類の幸福と平和と繁栄を構築する為に、世界人類の物質的、 精神的基本的条件確保を完遂しなければ為らないのである。 此の完璧なる真理を、小生鐵漢が古希に「覚天」したのである。 人類史上空前絶後である。 是、吾師の恩恵の御蔭であって、生涯にして、延べ十八年間余りの 千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)の賜に他ならない。 空前絶後の正法苦行にして初めて至り得た、「宇宙(生命)の本質」 (涅槃)の永遠に不滅為る恒常普遍の真理である。 真の教育、教化(導)、布教とは此の真理を伝え、是に向かわ使める 事であり、真の施政とは是に違わず、是に基づいた為政である。 一旦、坐禅に往き着けば、後は宇宙の真理を開示し往く。 唯一の永遠に不滅為る恒常普遍の真理を世界中の指導者を含め、 全人類に開示するだけである。 そして、世界人類をして涅槃現成せ使めるだけである。 是を以って、地上を一新更始せずには措かないのである。 是が人類三毒解消の最短路である。 自己を生きるか、それとも世界人類の幸福と平和と繁栄と、 何れを望むか? 是は、正邪、深浅、真偽種々在れど、人間を見極める試金石足る。 後者を選択する人であれば、何遣って居っても「人を生(活)かす」人 であるから、其の人が世界を導かねばならないのである。 世界の第一線に立って、命在らん限り、可能な限りの働きを為すべき である。 菩提心による、真の働きが出来る人であるからだ。 坐禅入りする迄の、小生での十年間余りであるけれども、 要は、此の十年間余りの是非を問うているのではない。 「坐禅入り」するか、否かの問題である。 たとえ「坐禅入り」しても、最短路には、「涅槃入り」するか、否かである が、是も、釈尊中道による「正法」同様、真中道による「涅槃」、 「涅槃」とは「正法」の事であるから、自ずから「宇宙(生命)の本質」( 涅槃)と云う、永遠に不滅為る恒常普遍の真理足る事である。 小生が古希に於いて「覚天」し得たのは、小生が独自に為し得たもの でなく、小生の存在同様、太古からの因縁の集積に縁りて、出来上が ったもので、時空の必然性の為せる業である。 此処に至る迄の総てに縁りて、「涅槃」、「宇宙(生命)の本質」を現成 (げんじょう)し得て居るのであって、此の事は、つまり人類の是迄の 総てが、此の究極の正法苦行によりて肯定され得たと云う事である。 宇宙の本質は涅槃為るが故に、人類が此れ以上在り得ない処迄、 至り得たと云う事である。 後は、此処から生まれる涅槃妙心智慧によりて、世界中が是に拠る 信頼と団結で人心一新しなければならないのである。 此処に於いて、世界人類が此の事を肝に銘じて、各自、此の自覚を 新たにしなければ為らない。 分裂でなく、一(いつ)であるのが宇宙の実体であり、是を「涅槃」と云 うのである。 調和と均衡と静寂である。平和と平等の事だ。 分裂と対立と混沌ではない。 我々が意にも懸けない、虫一匹にも此の心が具わって居るのである。 此の涅槃の心を自覚しなければ為らない。 今や、人類は是迄の過去を反省し、即刻、生まれ変わりて、 将来を構築、完遂しなければ為らないのである。 人類を支配したり、制(抑)圧したり、力による敵対関係によるのでな く、「涅槃」の信頼と団結に基づく涅槃妙心智慧を生む事によりて、 「世界人類を生(活)かす」智慧で人類を導き、世界統一しなければな らない。 世界人類を時空を超えて最大限に生(活)かすべく、指導者達を教導 する事である。 どの様に? 施政内容、「世界人類を生(活)かす」施政とは? 武器ではない、智慧だ。人類を守る智慧。自然を守る智慧。 是が施政である。 (涅槃)世界とは欲の得失でなく、真理の究盡だ。 宇宙に空前絶後為る「覚天」と「世界人類平和の究盡」とは、 宇宙裡に人類生命が在る。後、在るのは疑問だ。疑問の後に在るの は正解である。正解を見出すのが人類史である。正解が出たら、後 は実践だ。世界中に実践する。 先ず、世界人類を然るべく教導する。世界中の指導者達に然るべく 真遺教を教導する。 人類を守る施政(智慧)とは、「真遺教」に基づいて、信頼と団結で 全一足り、涅槃妙心智慧を永遠に不滅為る恒常普遍の真理と為し、 何処迄も是に徹する事である。 人類は対立である。 是を信頼による団結で統一しなければ為らない。 統一した教えとは、 「涅槃」と云う永遠に不滅為る恒常普遍の真理のみである。 是、宇宙の実相である。 世界人類の為に、何処迄も最善の智慧を生む事である。 智慧を生むは身に非ず、心である。 心の進化を遂げたら、後は智慧を尽くすのみ。 最善の智慧を生む事に徹する事だ。 固定観念でなく、常に新たに生み出す。 信頼と団結が防衛と軍事に取って代わるべきだ。 是が真の智慧である。 世界平和の礎と為さねば為らない。 智慧が沸くのは、身心が引き締まった時である。 限り無き菩提心が必要不可欠である。 「他を生(活)かす」事が「自を生(活)かす」事に為る。 何と為れば、自他一如為るが故に。 「生(活)かす」とは、吾心が「宇宙(生命)の本質」(涅槃)足る事であ る。 斯(か)るが故に、 本質に違(たが)わず、本質足り得て、 宇宙の調和と均衡の静寂を人類世界に体現して居ると云う事である。 故に世界平和を具現するのである。 《 「覚天」に於ける真実 》 「覚天」間近に為ると、やがて二元相対世界が一塵も残さず、完璧に 一元絶対世界、つまり「覚天」して「涅槃入り」した「涅槃」と転ずるので ある。 涅槃現成体現体験である。 小生の二元の一元化体験は、上求菩提と下化衆生に於いてであっ た。 刹那に、完璧に一(いつ)に転ぜられる(=体現される)体験であるから 、其処には二元相対世界(男女、勝敗、得失等)の一切が消滅するの である。 此処迄来ると、一切の分別は死滅、崩落し、人類の究極の二元為る 凡聖の欠片も消滅し、上求菩提と下化衆生為る仏道が消滅し、必然 的に世界人類の幸福と平和と繁栄に直結する「施政入り」するのであ る。 必然的にそうで在るのであって、小生の余命の問題であるが。 一元には、既に(仏)道無く、涅槃妙心智慧、生(活)きるのである。 是、菩提心の「涅槃人」である。 《 心の進化とは 》 人類が獲得した人類特有の大脳新皮質の機能為る分別によりて、 人類は高度文明化為ら使めたと同時に、極悪なる原爆投下とヒトラ ー独裁と人種差別を招来したのである。 人類は古代に於いて、既に心の進化を遂げ、解脱していたのである が、是は現実を改善する迄には至り得なかった。 人類が是迄の極悪業報を体験して、今日に至って、正に其の日本に 於いて、其れ等を完璧に払拭するだけの、正法苦行為る千日行(三 時間坐睡二十四時間仏作仏行)の極善業によりて、完璧に人類の二 元対立世界を一元化為し得た「覚天」によりて、空前絶後に「宇宙(生 命)の本質」に一如為る「涅槃入り」し、涅槃現成したのである。 二元相対の一塵も残さぬ完璧なる涅槃世界を現成し得た事により、 今後の一切の悪業を根絶し得たのであり、自今已後の涅槃妙心智慧 によりて、世界人類の幸福と平和と繁栄を構築し、完遂する段階に入 った訳である。 《 真為る積極性とは 》 真為る積極性とは如何為るものか? 其れは、信頼と団結である。 人類は、其処迄、為し得るだけの確信を持てないのである。 一体何処に、其の確信を抱くだけの根拠が在り得るのか? 其れは、永遠に不滅為る恒常普遍の確実為る真理(実)以外には在 り得ない。 確実為る普遍の真理をして、確信せ使むるのである。 是が涅槃現成(じょう)である。 吾、鐵漢の空前絶後の涅槃現成である。 此の今をして、永遠為ら使めるのである。 否、有無を言わせず、斯くなければ為らないし、為ら使めねばならな いのである。 其れ以外、在り得無いと云う事である。 此処が世界人類の指導者足る者達の責務であり、使命である。 《 無 題 》 真理は「人を生(活)かす」が、 菩提心無き無我は「人を生(活)かさ」ない。 真の無我とは菩提心に等しい。 何と為れば、「宇宙(生命)の本質」は人類を生み出すが故に。 「解脱」とは「宇宙(生命)の本質」に触れる体験であり、 其れが、三毒からの解放に直結するのである。 「宇宙(生命)の本質」は「涅槃」と云う真理の世界である。 《 身から大脳新皮質へ 》 何故に、身(=欲)に心が生じたか? 動物に於いては、弱肉強食の観点から地上に於ける量的進化を遂げ 、神経系の質的進化に移行したものであろう。 是が心筋細胞の拍動の如く、自律神経系を構成し、更に大脳新皮質 の自覚的意識に迄進化し生命の最終段階に、菩提心によりて「宇宙( 生命)の本質」に回帰すべく、「涅槃入り」によりて涅槃妙心智慧に至 ら使めるのである。 《 西洋のスカラーと、東洋のベクトル 》 身が大脳新皮質迄、進化究盡すると、東洋では、苦行によりて、身は 身自(みずか)らを、中道によりて放棄し、「宇宙(生命)の本質」(涅槃 )に回帰すべく「解脱(悟り)」に至ら使めた訳である。 是が心の進化の至り得た処であったのであるが、 西洋に於いて、大航海時代が、欧米の富を獲得する為の手段として 非条理為る黒人の奴隷化が勃発するのであるが、此の点についての 反省が為されていない。ヒトラーのユダヤ人迫害に等しいものであっ た様だ。 原爆投下による人類への制裁と共に、人類三大悲劇にも拘らず、 キリスト教国家でありながら、其の反省すら為されていないと云う事は 原爆投下の威力でもあるまい。 是等に対する根本的反省無しには、何事も成立し得ないのである。 コロナの対応以前に為さねばならない事が在るのである。 為すべき事が為されれば、後は自ずから終息するものである。 一方、東洋に於いては、其れ等の極悪業報に報いるべく、古代中道 からの解脱(悟り)に基づいて、涅槃為る真理に至り得たのである。 此処に於いて、世界人類が真遺教に基づき、宇宙の真理を教導され る事により、世界人類の幸福と平和と繁栄を構築し、完遂するに至る のである。 世界の霊峰は日本に在る。 《 男と女 》 小生、人間を観ずるに、男、女(LGBT等も)では観ない。 価値は男、女に在るのではなく、 花を採択する人か、団子を採択する人かである。 孰(いず)れかで、人間(の価値)を判断する。 問題は男、女ではないのであって、 要するに、花を採るか、否かである。 男、女は平等でなければ為らない。 其れ程、貪欲は簡単ではない。 釈尊も御遺教で語られている。 『我は、良医の病を知って薬を説くが如し、服と不服とは医の咎(とが) に非ず。又、善く導く者の、人を善道に導くが如し、之(これ)を聞いて 行かざるは、導く者の過(とが)に非ず。』と。 小生は解脱して素直である。 涅槃裡の諸欲が、人類の真の多様性と為る。 高峻な頂ならば、自(おの)ずから広大な麓が拡がるのである。 《 心理的性愛 》 如何為る男女間も、「涅槃人」には及ばない。 「解脱」して、既に身の束縛から自由であり、「人を生(活)かす」者 であるが故に。 即ち、「涅槃」は心理的純粋な性愛の究極でもあるのだ。 斯くして、 あらゆる総ての人類を「涅槃」へ誘(いざな)うのであるのか? 是、薩埵(=菩薩、菩提心)の行願、同事の究竟でもある。 「解脱」では及び得ない。「涅槃」にして初めて及ぶ。 好き嫌いや、取った取られた以前の、二元相対世界を超越した、 人類の及ばない世界である。 《 コルベ神父 》 アウシュビィッツ強制収容所内で、一人の囚人が脱走すると、同じ 号棟の十人の囚人が餓死刑に処せられる事に為っていた。 そして遂にコルベ神父が殉教を、友の為に決意する日が遣って来た。 神父の号棟の囚人が一人脱走したのである。 十名が選ばれ、其の中の一人の男性囚人が「さようなら。私には妻と 子供達がいる……。」と呟くのを耳にした時、独り身の神父は其の男 の身代わりと為りて、自(みずか)ら死を選んで贖罪を果たしたのであ る。 此の神父の行為は、イエス・キリストが、人類を其の罪から救う為、身 代わりに磔(はりつけ)に為ったと云う教義(虚構)、罪を贖(あがな)う 贖罪(信仰)に基づく殉教を、人間の極限状態に於いて実践したもの である。 是は、イエス・キリスト(キリストであるイエス)が十字架上の死によっ て、全人類の神に対する罪の状態(アダムとイブが禁断の木の実を 食べてしまった原罪)を贖うと云う贖罪(信仰)を自(みずか)ら実践す ると云うものである。 然るに、是は人類が実践すべき普遍的真理とは為り難い。 宗教に於ける殉教には、神の信仰の聖戦(ジハード)がある。 殉教者をシャハードと云う。 イスラム教の自爆テロも殉教作戦である。 一方、仏教に於いては、小乗仏教では、死後の無余涅槃を完全なる 究極の目標とし、抗議デモの焼身自殺もあった。 大乗仏教に於いては「宇宙(生命)の本質」自体を「涅槃」と称する のであって、煩悩や三毒から解放されて、自由に「人を生(活)かさん」 とする確証に基づく確信為るが故の菩提心のみで、何処迄も 涅槃妙心智慧を生み出す事による教導と施政であり、 (原)罪は存在しない。 《 神の宗教と仏教 》 人間、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に心が接触した刹那に覚る。 其の儘で、もう既に全てが具わって居ると云う事が。 「本具仏性」を覚知した刹那を「解脱」と云う。 「解脱」すれば、キリスト教の原罪が虚構である事は自明である。 故に、贖罪信仰は、贖(あがな)うべき罪なんかは存在しない。 罪どころか、心と云うものは本来、幸福であり、平和であり、豊かであ り、静寂である。是を「本具仏性」と云うのである。 此の「解脱」は「涅槃」の準備段階に過ぎないのであって、 仏道の究極は「涅槃」である。 「涅槃」とは「宇宙(生命)の本質」其のものの事である。 そもそも、生殖器官無くして、人類は存在しない。 少欲・知足であれば宜しいのであって、人間の根源悪の三毒(貪・瞋・ 癡)為ると地獄を生む。 《 鐵 漢 》 真理=真遺教=鐵漢=涅槃 ∥ 一 (いつ) ∥ 世界人類を生(活) かす 真理為るが故に、其の信頼と団結か、それとも地獄への三毒(貪・瞋 ・癡)か? と明確に為るのである。 神の宗教の信仰と、「涅槃」の自覚の真理である。 「涅槃」と云う実為る宇宙の真理は、小生鐵漢が、一年足らず前に 「覚天」したのである。 是が空前絶後の永遠に不滅為る恒常普遍の真理である。 真理が在って初めて、真の信仰と実践が在る。 虚構への信仰は世界人類を生(活)かす普遍的真理とは為り得ない。 是は、神仏への信に基づく殉教にも繋がる。 贖罪や、他者への訴えや、其の為に殉ずるもの等様々であるが、 世界人類の普遍的真理と為るには、其れが真理でなければ為らない。 真理であるか、虚構であるかは、自死を以ってしても為し得ない。 是迄、限り無き自死が在ったが、飽く迄も、真か虚かの問題であり、 生死の問題ではない。 其れを為し得るものが正法苦行による中道と真中道である。 《 宇宙と真理 》 宇宙(又、存在と時間)に、真理を超えるものは無い。 其の真理とは、永遠に不滅為る恒常普遍にして、生涯厳密千日涅槃 行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)にして初めて遭遇し得る奇跡 である。 宇宙と真理は不可分である。 其れは、量と質の関係にある。 量為る宇宙に、質なる真理である。 量(=スカラー)と質(=ベクトル)とは永遠と刹那の関係にある。 進化とは量の質化である。 山に譬えれば、富士山の山容と山頂の様なものだ。 山麓は大地に広がり、天に聳える。 植物が大地に根を張り、天を突く様なものだ。 凛(りん)として、天を突く様に命を感じる。 質化である。 其れが、敢えて、宇宙を涅槃と為すのである。 只の宇宙ではない。 生命の宇宙である。 身の心化。身の悪業でなく、心の善業の究竟である。 涅槃妙心智慧世界の完遂。 是によりて初めて、 宇宙即真理。 量即質。 山頂即山麓。 世界人類が平等にして幸福、平和であり、不平等無く、三毒(貪・瞋・ 癡)無く、不条理無く、非条理無く、無理無く、穏やかに、自然に、 宇宙の調和と均衡と静寂を人類世界に世界人類が個々に体現し得る 世界が何時か実現するのである。 《 人間の諸能力 》 芸術も真理に至るには、芸術を捨てなければ及ばない。 神技と在るが、神技に過ぎない。神技に止(とど)まる。 情の多様性に過ぎない。 人類の情と云うものに真実は無い。 薄情に聞こえると思うが、情の行き着く処は、情は情を捨てて菩提心 と生まれ変わる事である。 武蔵等の武士道為るものも、芸術同様、其の剣を捨てねば及ばない。 武蔵でさえ、捨て得なかった。 勝ち負けの二元相対から出られなかったのである。 スポーツも、勝ち負けに支えられている。 是を楽しむのが人間だ。 何れも、総ては坐禅に往き着くまでの事で、 根源に帰れば真理と菩提心以外には無いのである。 何と為れば、本能から欲と大脳新皮質に進化した。 欲と大脳新皮質の間に情が生まれた。 其れ等の系によりて、人類の悪の根源の三毒を生じているのである。 根源に在る欲、中でも人類が最も制し難い欲、睡眠欲を自己の意の 儘に制し得た人間でなければ、真実、真理を語る事は出来ないので ある。 是が出来て、そうして奇跡的に、否真実を言えば、因果の道理に基づ いて必然的に、宇宙と一如為り得て初めて「宇宙(生命)の本質」(涅 槃)其のものと為ったのである。 是を「涅槃人」と言うのであって、人類の身心の進化の真の究竟であ る。 是に基づいて、是までの人類史は一新されねばならないのである。 是迄の人類の過去の「宇宙(生命)の本質」に違(たが)えた諸悪業 を顧みて、是からの人類は涅槃妙心智慧で輝かしき未来を構築し、 此れを完遂し往かねばならないのである。 《 釈尊の限界 》 従来の仏法の限界は、真の「涅槃」に至っていない事、 「解脱」に於ける世法と仏法の二元相対世界から脱し得ていない事で ある。 「涅槃入り」と云う事は、「現実世界入り」と云う事で、 真の仏法に基づいた世法に、根本的に様変わりしなければ為らない。 対立でない。一丸である。涅槃妙心智慧による真法作りだ。 米国の、虚構為る贖罪体制の黒人差別に基づく、最強(金と力)であ りながら、自国第一主義である処が世界を狂わすのである。 最強で在るならば、世界人類第一主義でなければ為らない。 若し、そうであるならば、我々から米国第一主義である事を望むであ ろう。 偽体制による自国第一主義であるから、世界(中国を始めとする中東 )が整う筈が無い。 他は、知った事では無い。米国の在り様に倣って得をするだけだ、と。 人を生(活)かさないから、信頼も団結も在り得ない。永遠に。 其の「付け」が今だ。 過去の、黒人を足蹴にして得た富と力に基づいて得た力支配を生ん だ精神による知恵では適(かな)わないのである。 何と為れば、虚偽であるからだ。 真理でなければ、他国は従属しても、宇宙が許さない。永遠に。 成立出来る筈が無い。必ず過去のものと為る。 真理に基づかねば、地球の寿命と共に生きる事が出来る世の中には 為れない。 如何しても無理と、歪みと、悪を禁じ得ない。 米国の矛盾は世界のものだ。 真理に基づかない一発勝負を狙ってみる、だ。 真理、宇宙を超える事は、人間の出来る事ではないのである。 《 真に「人類を生(活)かす」もの ? 》 小生の為すべき事は、 真理を世の中に伝え、更に浸透せ使め、 是に基づいた世の中に、根本的に変革せ使める事である。 何と為れば、此の真理は、空前絶後にして、人類の認識を根源的 に革新するものであるからである。 人類史に於いて、此の原初の極めて必然的為る釈尊の成道を、進化 、完遂し足るものであり、人類の諸能力を在ら使めて居る処の根底を 為す、永遠に不滅為る恒常普遍の真理であり、 是が涅槃と称する「宇宙(生命)の本質」であるが故に。 相対立する世界の、二元の両極間を振幅しつつ、「宇宙(生命)の本 質」(涅槃)に一(いつ)為らんと、進化(=収束)し往くのである。 小生に至りて、両極を究竟し、自今已後、平等為る七十七億人を完遂 する迄、只管(ひたすら)収束し往くのみである。 世界の政治家足る者は、斯く在らねばならないし、 斯くして世界を、団結と信頼に基づいて導かねば為らないのである。 《 欲 と 覇権争奪戦 》 睡眠欲>食欲>性欲>|金欲>名誉欲 | 〔生理的欲〕 ←|⇒ 覇権争奪戦 (勝敗の二元世界) 《 世間 (欲界) と云うもの 》 退化 ←|→ 進化 覇権争奪戦 〔世間〕 信頼 地獄←淫欲←三毒(貪・瞋・癡)←大脳新皮質と欲→菩提心→涅槃 〔癡愚と安泰〕 (人間) 〔積極性〕 ↑ 本能 (動物) 悟ると、最も疎(うと)ましきものが身為る淫である。 人類が生きんとして求める淫欲は、死への入口である。 斯(化)るが故に、キリスト教に於いては、アダムとイブの失楽園の罪 を置いた。 要は、退化為らずして、「人を生(活)かす」進化為るべしと云う事で ある。 少なくとも、人間として此の世に生を受けたならば、本能よりも進化す べきだ。 退化するならば、人間として生まれない方が宜しいのである。 恥を知らない禽獣(きんじゅう)の方が益(ま)しだ。 菩提心の有無が、其の試金石である。 毎日(日課と三時起) 八時 朝準 ネット 十一時 托鉢 就寝 《 宇宙の調和と均衡と静寂に回帰 》 宇宙の調和と均衡と静寂を喪失する因が人類三毒(貪・瞋・癡)であ る。 人類が、其の母体為る宇宙の調和と均衡と静寂を取り戻すには、 此の宇宙に倣う以外には在り得ないのである。 宇宙を科学し、征服すると云う方向性から一歩退いて、自己を忘れて 、宇宙に証されるのである。 悟った人間は、宇宙を自己に復元し往く人間である。 正に菩提心為るものは、「宇宙(生命)の本質」からの促しによりて、 人間集団が部落形態から社会構造化されると伴に、人類の四苦や 欲への貪著に起因するものであるが故に。 真理と云うものは、菩提心と云う起動力とも云うべき涅槃妙心力に基 づいて至り得る、永遠に不滅為る恒常普遍為るものである。 「宇宙(生命)の本質」に違(たが)えずに接近し、接触して、「涅槃入り 」して、世界人類の幸福と平和と繁栄を完遂出来るのである。 其処には、人種差別無く、原爆投下無く、ヒトラーは存在しないのであ る。 国政は、先ず生存権の保障以前に暴力団で無い事だ。 《 恩寵 (おんちょう) とは 》 「恩寵(ちょう)とは神仏等が人間に与える恵み、愛。」とある。 自然の恩恵とは言うが、宇宙の恩寵に触れられる事は皆無である。 是は、小生の如く、「覚天」せざれば、至り得ない真理であるが故に。 然るに、是こそ空前絶後の恩寵中の恩寵であるにも拘らず、一人とし て、此の真理を知らないのである。 我々人類は宇宙の調和と均衡と静寂に回帰する事が必須であるが、 是は我々人類が、未だ知らざる宇宙の恩寵を蒙る事が出来るからで あり、是こそ人類が生み出す如何なるものも及べない処の、無上の恩 恵なのである。 総てに正鵠を射るが故に、此の弁(わきま)えが必要不可欠なのであ る。 此処に至らざるが故に、兎角、大儲けのつもりで、大損して居るのが 人類である。 是が三毒(貪・瞋・癡)の癡愚と云うものだ。 至宝を得るには、至難を経ねば至り得ないと云う事か。 止むを得ないと言えば、止むを得ざるものではあるが、 小生何も特別な人間ではない。 唯、昔から信・鈍・根と言う。 是、偏(ひとえ)に、菩提心の三態である。 《 宇宙真理を体得した鐵漢 》 正に、世界人類の幸福と平和と繁栄こそが宇宙原理である筈なのに 、何故に地球に寿命があるのか? 其れは宇宙の最高の智慧者にも寿命があるのと同様である。 此の真理は、宇宙を貫く、永遠に不滅為る恒常普遍の真理である。 真理は智慧を究竟す。 此の宇宙の真理の体得者が鐵漢である。 永遠不滅の真理である。 鐵漢は、仮令、宇宙が消滅しようとも、世界の唯一の永遠不滅為る 真理の体得者である。 仮令、「覚天」しても、得た真理は世界人類に伝え遺さない限り、何の 益にも為らないのである。 敢えて、世界人類に伝え遺さねばならない。 時空を越えて、世に二つの大事在り。 一つは「坐禅入り」であり、他の一つは「涅槃入り」である。 《 坐禅と涅槃 》 小生、今や坐禅から離れてしまったので、何やら、坐禅がつまらない ものの様に思われるかもしれないが、 要は、坐禅する時間が在ったら、 世界人類の幸福と平和と繁栄の為の智慧の一つでも生む時間に費 やすべきであると云う、 つまり「人を生(活)かす」の、刹那の「覚天」為る真中道による「涅槃 入り」に基づく「涅槃」為る「宇宙(生命)の本質」の、永遠に不滅為る 恒常普遍の真理に基づく判断である。 「坐禅入り」と「涅槃入り」とは蛍火と太陽との開きは在れども、 椀水に映る月も、海面に映る月も同じ月である。 要するに、「覚天」迄の菩提心の問題である。 其処に、人種差別は在り得ないし、原爆の破壊エネルギーの問題で もないし、ヒトラーの独裁力は関係無いのである。 唯、自己の菩提心の強さ在るのみ。 坐禅の功徳は、如何為る宝石も及び得ないものである。 自己と畳一枚在れば、他、何にも要らない。 誰でも、何処でも、何時でも出来る。 本物と云うものは、永遠に不滅為る恒常普遍為るものである。 無条件にして、如何なる者も此れを制し得ない。 故に、小生、坐禅を覚え立てには逆に、刑務所に入ってでも、正直、 坐禅に専念出来たらなァー、と思った程であった。 吾師は小生の其の心を見抜かれて、御自身に準(なぞら)えて、ズバ リと言ってのけられた。 「刑務所に入ってでも坐禅をする。」と。 悟った人間と云う者は、是位の神通力が在るものである。 そして其処に何の不思議も無い。 既に感応道交して居るが故に。 坐禅と云うものは、人間世界の総てに於いて、常識で把握出来ないも のである。 《 菩提心は自律特攻心 》 我々が置かれている世界は、地獄に成立して居る迷妄世界である。 其処に、若者が見出し得る確かなる救いの世界、つまり正解為るもの は無いのである。 総ては、止むを得ざる慰めでしかない。 何か一つでも、恒常普遍に世界人類を導き得る確足るものが在る であろうか? 無いのである。 だからこそ、東洋に於いて十牛図を生んだ。 先ず第一、尋牛(じんぎゅう)である。 其の確足るものを探し、尋ね行くのである。 此の迷妄世界の中を。 小生も、其の頃は迷える子羊であった。 紆余曲折、世間の常識の中を十年余り、遂に釈尊の坐禅に往き着い たのである。 是が「坐禅入り」である。 そして、「涅槃入り」であるが、是は釈尊「中道」と同様、鐵漢「真中道」 として、共に、人類が守護すべき「宇宙(生命)の本質」である。 是に基づいて、人類は涅槃智慧を生んで、世界人類の幸福と平和と 繁栄を構築し、完遂しなければ為らないのである。 此の真理に往き着くには、偏(ひとえ)に、尋牛の心で、是は菩提心 であって、是は太陽の機能の様なもので「世界人類を生(活)かす」心、 世界人類の平和が、此の菩提心に底流しているのである。 小生は、此の菩提心、世界人類の平和を願う心を自律特攻心と称す る。 極論すれば、究竟の真理も坐禅の功徳によって得られた正解の副産 物である。 自己を為しているものは、総て他であるけれども、 自己と云えば、只、此の菩提心一つ、 最終的には、万事に於いて、自己以外に頼れるものは何一つ無い。 《 米国の大過誤 》 米国は、先ず黒人に対し、土下座して反省する事無しに、米国の将 来は在り得ない。 世界の諸悪は、其処から流れ出る。 是が諸悪の根源と言っても過言では無い。 悪が悪を生んで限り無いのだ。 米国の黒人差別が、どれ程の悪影響を世界に与えているか、慚恥の 自覚が欠如している。 厚顔無恥の者は諸々の禽獣と相異なる事無し。 世界の長足る者は、其の資質無くしては為し得ない。 悪の統率者としての道しか残された道は在り得ないのである。 米国の黒人に対する差別は絶対に許すべからざるものである。 此の非法を、仮に、許したとしたら、世界は成立しない。 今の世界一の大国が、コロナウィルスの感染者、死者数に於いても 世界一であるとは何事か? 世界一、共に抑え込むべき国家で在りながら、逆である事は、一体 如何なる事を語るのか? 是は、取りも直さず、世界一の大国の在り様が誤って居る事を 露呈するものに過ぎないのである。 つまり、対応の仕方が、精神的に、根本的に誤っているのである。 其の心構えが、黒人に対しても、同様に露呈しているのである。 是は、大航海時代からのものである。 僅か、五百年余り前の事であり、現代に至っても、未だ真に反省に至 って無いが故に、哀れにも過去の非人間的精神を露呈した儘、今日 に至っているのである。 此の事に対する自覚が皆無である。 無自覚の儘に、今日に至って居る処が、米国の最大の悲劇である。 何と為れば、是は地獄への一路門であるからだ。 此の実情を明確に弁(わきま)えて、此の癡愚さ、無恥さを根本的に 猛省する事無しに、此の悲劇は解消され得ないのである。 現代最悪の大失態であり、世界が見て、見ぬ振りをせざるを得ない程 の非条理極まりない、世界を地獄へ引き摺り落す最悪の欠陥である。 中国の覇権は、米国への不信感が誘因と為らざるを得ない部分を 否定出来ない。 是、世界諸悪の根源であり、米国国民の、是に対する鈍感さ、 つまり驕慢さには測り知れない失望感を抱かざるを得ない。 是を解消しない限り、世界は開けないのである。 《 涅槃 (規則裡の不規則) の妙 》 物事は、規則通りに遣って居れば出来ると云うものではない。 不規則にこそ、生み出す機が在る。 では、不規則が良いかと言えば、然(さ)に非ず。 規則裡の不規則為るが故に然(しか)也。 規則無き処に不規則の機無し。 規則か、不規則かの二択の問題でなく、 要は、其れ等二元の底流が、「我を生(活)かす」でなく、「人を生( 活)かす」と云う事である。 是は、空前絶後の、至難中の至難事を経て至り得た最終結論である。 つまり、人類の身心の極限を極め尽くして至り得たものである。 斯(か)るが故に、軽視すべきものでは無い。 是をして、施政の中軸と為すべきものである。 何と為れば、永遠に不滅為る恒常普遍の真理為るが故に。 小生鐵漢独自の、特殊なものではなく、 飽く迄も、普遍性を究竟してのものなのである。 要略すれば、単純に、馬車馬の様に我武者羅に為せば宜しいのでな く、「悟り」でも、然(そ)うであるが、例えば、釈尊成道も、我武者羅の 挙句の、中道に至り得て初めて、成道し得たのである。 小生も、極仏(=生涯厳密千日涅槃行)の、可能性を極めた挙句に得 られた、一元為る、在るべき「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の真理であ ったのだ。 柿の実が熟して、木から地に落ちた様なものだ。 仏果と云う「人を生(活)かす」ものを結実したのである。 此の落地した熟果でなければ為らない。 其の為の諸条件であったのだ。 水だ!太陽だ!土だ!と云うよりも、熟果である。 熟果を生むべく、諸条件を整えねばならないのである。 是が、真の施政である。 是が、水だ!太陽だ!土だ!なんて遣って居ったら、 熟果に往き着かないであろう。 飽く迄も熟果の為、「人を生(活)かす」為の施政にして初めて最短路 で熟果を得る事が出来るのである。 此の熟果を得る為には、是を取り巻く、全てが、是を生んだのである。 何一つ欠けても、為し得なかったであろう。 諸条件を満たすには、環境が復元されねばならないし、自然を復元す るには、世界人類を生(活)かし合わねば、其れは不可能であるし、 生(活)かし合う為には、取った取られた、勝った負けたの二元対立世 界では不可能であるし、 如何しても、自己でなく、「人を生(活)かす」の退歩の脚、自(みずか )ら退いて、全体の為を思う生(活)き方、 自(みずか)らの保身、安泰でなく、全体の為の必要不可欠為る 自己犠牲は、全体が覚悟せねば為し得ないのである。 其の為には、第一主義は、 世界人類第一主義迄、退(しりぞ)いて、其処に立脚する以外には、 為し得ないのである。 是が、真理為る涅槃妙心智慧である。 此の智慧によりて、世界人類が平等に遣って往ける世界を構築する 為に、自己を制する。 抑止、制圧でなく、真理に基づく正しき自制と云う正道を歩まねば為ら ないのである。 是は、馬車馬(引き)第一主義では地獄行きだ。 矢張り、身第一主義ではなくて、心、更に智慧第一主義が、人類が 採択すべき正道である。 此の涅槃妙心智慧に基づく生き方に、進化を遂げねばならないので ある。 《 道 (宗教性) を超えた涅槃 》 小生が医学生で坐禅(=道(宗教性))を知らない時と、古希の今と 共通する部分と云えば、自己を遮(さえぎ)るものが全く何も無いと云 う事である。人も居ない。唯、世界平和を希求する心あるのみである。 未だ、何も知らざる一人の医学生に過ぎない時と、古希の今とは、 人生の出発点以前とゴール以後の違いが在れども、其処に共通する ものと云えば、道以前の一学生と涅槃人であるけれども、 前者は道(宗教性)以前の、無限の宇宙の如く開けたる、既に約束さ れて居る可能性の様なものを孕(はら)んだ心、是こそ「宇宙(生命) の本質」(涅槃)からの促しに他ならないのであるが、 一方後者は道(宗教性)以後の、道(宗教性)を超えた、世界人類の 生命の本質為る涅槃である。 是が真の宗教である。 真の宗教に至るには、多様為る宗教性が必然的に不可欠為るものと して何処迄も、肉付けされた世界が構築され往くのである。 《 人類 (身後) 究竟心進化 》 小生が、釈尊の『最後身』に倣って、自(みずか)らを『最後身心』と 称したのには、其れなりの故有っての事である。 究極の心の進化(「悟り(=身心脱落)」と「解脱」と「覚天(=涅槃 入り)」)は、夫々「宇宙(生命)の本質」(涅槃)への接近であり、接触 あり、帰一である。 「悟り」は坐禅の功徳三昧で、「解脱」は出家して寺を出て、欲界で 初(厳密千日解脱)行完了して、寺に復帰する直前の、自由に解放さ れた段階で、そして「覚天」は生涯後(厳密千日涅槃)行中、上求と下 化の、十五回(五年間)の完了と再起の繰り返しの極限に於いて遂に 十六回目に、其の迷う母体に、夫々「宇宙(生命)の本質」が刹那に、 偶然に必然性を以って、真理を体現せ使めたのである。 是等総ては、自己と云う存在の根源的変革である。 是等は恰(あたか)も、蝉が孵(ふ)化して幼虫と為り、脱皮して蛹(さ なぎ)と為り、羽(う)化して成虫と為って飛立つ様なものである。 故に、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違(たが)える様な心的状態や、 正法為らざる苦行では是等は生じないのである。 故に、釈尊も中道を経て、無我状態に於いて初めて成道され、『最後 身』足り、小生も不退転の菩提心裡に『最後身心』と為ったのである。 此処迄至れば、 道(宗教)を超越して、後は「人を生(活)かす」のみである。 只管、「人を生(活)かす」為に、日々二十四時間命が在るのである。 従って、必然的に施政に究竟する事に為るし、又其れ以外には無い 訳で、若し然(そ)うで無ければ、其れ迄の過去を全て否定する事に 為るのであって、其れは在り得ないのである。 偶然必然為らぬ不昧因果である。 命在らん限り、「世界人類を生(活)かす」涅槃妙心智慧を世界に 究竟するのみである。 要するに、極仏(=生涯後(厳密千日涅槃)行)に目的は無いのであ って、当然仏道を極めて居るのであるが故に、上求菩提と下化衆生 の両側面が在るのであるが、是等の本質的在り様以外のものは無い のであって、是等の宿命的為る振幅せる不確定性に基づいて初めて 「覚天」し得たのである。 是を譬えれば、「覚天」為る証(あか)し無き涅槃様状態とでも云うべき ものである。 心の進化の究極に至るには、此の究極の自制によって開放された 自由さが不可欠なのである。 此処に於いて初めて道(宗教)を超越する契機と為る刹那(=「覚天」 )が在り得るのである。 此の無我(=真の菩提心)にして初めて至り得るものである。 斯(か)るが故に、『最後身心』足るのである。 本来菩提心は、必然的に「宇宙(生命)の本質」に帰一し往くものなの である。 然るに、釈尊をして中道に至ら使めた断食苦行や、小生をして真中道 に至ら使めた、実り無き極仏行の、『死に至る菩提心』が自(おの)ず から「正法」を生み、「涅槃」を生んで、宇宙裡に生かされている人類 に、『生きる指針』を開示したのである。 是等は、共に信受し往くべきもので、敢えて追体験すべきものでは無 い。 要するに、二十四時間、三百六十五日、少欲・知足にして精進(坐禅 )すると云う正法に基づいて、「解脱」し、永遠に水と油の如く世の中を 正し、「世界人類を生(活)かす」智慧を構築し、完遂する事に尽きる のである。 仏界に於いては、初(厳密千日解脱)行を専らと為し、「解脱」しなけ ればならない。 更に、後(厳密千日涅槃)行に親しむも好ましきものである。 是が「宇宙(生命)の本質」(涅槃)であり、是に同じ、帰一して、是に 違(たが)わないのが、世界人類の幸福と平和と繁栄の構築と完遂 への最短路である。 具体的、現実的に、 世の中の事と云うのは、 退く事無くして、完成するものではない。 何と為れば、生命為るものは、 宇宙から生かされて居るものであり、 生かされて居る存在同士が、我を立て合って、 勝った、負けた。 取った、取られた。は無いのである。 人類は諸々の禽獣とは相異なるのである。 生かされている存在であるからこそ、 皆が生かし合って往かねばならないのである。 基本的に平等為る生命なのであって、然(そ)うでなければ為らない。 地上の有限為る資源に対しても、加速度的に増加する人類は、 少なくとも、少欲・知足が根本に無ければ為らないし、 「世界人類を生(活)かし合う」心が根本に無ければ、 世界は成立し得ないのである。 《 捨 て 処 》 人間と云う者は、 捨て処を知るべきである。 捨て処を知るには、人間は、大切なものは、 一から百迄捨てるべきではない。然(そ)うでなくて、 其の中、肝心要の最後の一つだけ捨てなければ宜しいのである。 是で往けば、皆旨く往く。 角を立て合って、覇権争奪合戦する必要が無く為る。 其の最後の一つは、時空を超えた一つである。 是、永遠に不滅為る恒常普遍の真理である。 そして、是に付随する、多様為る五十であろう。 是が涅槃である。 是は捨てて、捨てられるものではない。 人間の分別に依らない真理であり、 宇宙の調和と均衡と静寂である。 是が真の生き方である。 人間関係初め、総てに斯く在るべきである。 斯く在れば、世界人類は間違い無く、宇宙に帰一し、 信頼と団結は、自ずから生まれるのである。 《 令和新世紀、空前絶後の大課題 》 人知に血が通っていない。 死んだ知の集積に過ぎない。 各国、各分野のリーダーは居れども、夫々が分断し、対立し、孤立し て、相互に、根本的信頼 に基づく連携が欠如している。 つまり、三毒(貪・瞋・癡)に立脚する自己の立場を離れて、三善根( 施・慈・慧)の立場に立って思い、考え、行動しなければ為らないので ある。 小生の全てを支える托鉢は、百%、先方の信心、心遣いに依存する ものであるが、其れだけでは乞食(こじき)に過ぎない。 しかし行乞(こつ)為る、乞食(こつじき)は、釈尊、吾師、自己の真理 に証されたものである。 托鉢される方も、する方も一心で、唯、機械的でも、「人を生(活)かす 」と云う目的を果たし得るのである。 根本的に「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に立脚して居るからこそ成り立 つのである。 小生の様に、釈尊の原点、換言すれば、吾師の道、つまり自己の道 に一切を委ねる信頼に基づいているが故に、為し得るものである。 信頼とは、好く言われるのであるが、 総ては、相対的、或いは神仏等虚為る、或いは学問的な人類の実存 とは係わり無いものである。 唯一、小生の「涅槃」のみが信頼に値するものである。 政治的信頼性は、是に基づく以外築き得ないのである。 社会的規範を逸脱しないからこそ、又然(さ)も無くば力尽くで、各国 の指導者足り得ているのである。 いずれにしても、人間の諸能力の行き着いた処であって、其処から出 る困難さが、今を現じて居るのである。 是が人間の諸悪の根源為る三毒(貪・瞋・癡)の末路であろう。 唯、社会通念の在ら使めて居る立場であって、何時、三毒が暴発する か判らない。 斯(こ)うした、小生と社会情勢との立場の違いが現存するのである。 今、アメリカと日本に象徴される双方の現実を熟慮するに、 西洋の知恵と東洋の智慧の根本的相違が明らかと為る。 自国の想定外の総理辞任に於ける、菅氏と二階氏の配慮には、死ん だ、血の通わない知恵を、「人を生(活)かす」智慧に転ずる機を感じ た。 (坐禅で悟って、)三善根(施・慈・慧)に立脚し、あらゆる障碍を砕破し て、世界人類の立場に立って智慧を練り上げて生み出す。 其処には必ず善策が生まれるのである。 改善される事必定である。 機械的では何も生まない。 自己の本分には、全身全霊で取り組まねば為らないのである。 人類の知恵は死物であり、生きていない。 三毒(貪・瞋・癡)に立脚した智慧に過ぎないのである。 原爆投下、人種差別、激甚自然災害等、総て然(そ)うである。 世界人類の立場に立って、如何して、其れ等が在り得ようか? 如何して、敏感に感じないで居れようか? 人類の、万物の霊長足る大脳新皮質の可能性は未だ全く開拓されて いないのである。 無量の智慧は、悪の根源、、三毒(貪・瞋・癡)に阻害された儘の状態 である。 如何為る困難も打開する智慧が、未だ生み出されない儘に為ってい るのだ。 今だからこそ、其の真剣さに立つ契機を得たのである。 日本人の正確さに倣うべきである。 終わりが、新世紀への始まりである。 死んだ、三毒に立脚した知恵が、血の通った、「世界人類を生(活)か す」涅槃妙心智慧に転ずるには、坐禅が最善である。 坐禅によりて精神集中し、邪気(念)を払い、自己を離れて宇宙の立場 で判断し得るのである。 鐵漢は偏(ひとえ)に、其の賜物に他ならない。 《 人類諸悪の根源 》 人類の諸悪、 大量破壊兵器、人種差別、ヒトラー等の根源は、 人類の三毒(貪・瞋・癡)である。 原爆投下、黒人差別、激甚自然災害等の根源は、 夫々個別に在るのではなく、 人類の三毒(貪・瞋・癡)によるものである。 坐禅すれば人間は「悟る」。 悟れば、三毒(貪・瞋・癡)は、自(おの)ずから三善根(施・慈・慧)に 転ずる。 「宇宙(生命)の本質」に帰一し、「涅槃」の永遠に不滅為る恒常普遍 の真理を得たのである。 是、宇宙をして、調和と均衡と静寂為ら使めているものである。 真理は人類を裏切らない。 真理を裏切るのが人類である。 真理は人類を真理為ら使めんとして居るのであるが、 是に違(たが)えるのが、人類の常なのである。 真理(=一元)は神仏を超越するし、人間(=二元)世界を超越する。 世界人類に信頼を得るのは真理以外には在り得ない。 真理を信ずる事が、世界に信頼を取り戻す契機と為るであろう。 正に是を世界中の選挙に掲げるべきである。 其れが、真の選挙足るべきである。 米国の諸悪が解消される事が、世界中の諸悪を解消する事に?がる のである。 《 究竟は「覚天」に究盡す 》 「覚天」は、一元(=涅槃)化であり、 宇宙(神仏等も)と人の二元化(=キリスト教失楽園や極仏等)の 逆である。 椀水に映る月を極めれば、 海面に映る月も同じであるし、 大海も分かるのである。 原初は如何とも在れ、吾関わらず。 只管、人事智慧の構築、完遂在るのみ。 世界連邦を構築し、国境を超えて 世界人類の物質的、精神的基本 的条件確保を目的と為すべし。 是が政治の本分である。 《 本質の究竟真理 》 率直に、「宇宙の本質」が小生をして最終的に正(ただ)使めた、とも 表現し得るのであるが、 事の始まりは、小生が坐禅に至り得て、坐禅を専らと為す様に為って、 其の功徳を、初めて知るに至るのであるが、 坐禅の功徳とは、取りも直さず、人間が無心に為って、知る事が出来 る「宇宙(生命)の本質」に過ぎないのである。 本質に導かれる。つまり、心の進化の端緒を得た訳である。 心の進化とは、 先ず、従来の人類の諸業(学問的真理も含めて)為る我が、本質に 導かれて(=自己を忘れて)、生命其のものの、暖かさ、優しさ、落ち 着き、柔軟為る心を得るのである。 (敢えて小生、我と言ったが、是は此の道以外の、即ち、永遠に不滅 為る恒常普遍の真理、或いは「世界人類を生(活)かす」大我為らざる 我の事である。 学問的真理は大脳新皮質の、掴み処の無い、体現され得ない、 「宇宙(生命)の本質」為らざる虚為る果て無き真理に過ぎない。 「宇宙(生命)の本質」為らば、真理として人類が体現し得るので ある。 一方「宇宙の本質」の真理は大脳新皮質の慮知心による菩提心によ る涅槃妙心力を借りて、生死を超えた全身全霊によって明らかに体 現された空前絶後の究竟真理である。 若しも釈尊が人類救済の、解脱を求めての断食苦行で、敢えて死を 選んだとしたら、釈尊は世界一の馬鹿者であったのだ。 然るに、釈尊は求道に於ける諦観による中道に基づいて、成道した のである。) 是は、「宇宙(生命)の本質」に接近して居る状態である。 此の延長線上に、程無く、「悟り」がある。 斯くして、人類の三毒(貪・瞋・癡)は、難無く、三善根(施・慈・慧)に転 ずるのである。 是が人間の菩提心を、更に、確足るものと為し、時至りて、必然的に 初行に至るのである。 完了すれば、既に比肩する者は無く、不退転にして、初行を興すべき である。 此の段階から、時至りて「解脱」は然るべくして訪れる。 釈尊が、自(みずか)らを「最後身」と為したには、其れ為りの故有る のである。 つまり、断食苦行→中道→成道、此の追体験は為すべきではなく、 此の先を、心の進化為さ使めねばならないからである。 又、小生鐵漢をして、「最後身心」と称したのにも、同様の故有っての 事である。 つまり、生涯後厳密千日涅槃行→真中道→「覚天」による「涅槃」、 此の追体験も為すべきものではない。 此の先は涅槃妙心智慧による施政以外無いからである。 斯様に、心の進化を究竟するには、心の緊張と緩和裡の、心に掛か る事柄が消えた雲間が不可欠である。 然るに、是等は為して為し得るものではなく、不退転の菩提心により て、自(おの)ずから「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に導かれ往くが如く に、是に帰一し得た刹那に体現された真実である。 共に、自(みずか)ら体現した自明の真理として信受するもので、 追体験する必要は無いのである。 偶然裡の必然である。 以上が認識されれば、後は、斯く足る是等の中道と真中道に基づい て、世界人類の幸福と平和と繁栄の基盤である処の、世界人類の 物質的、精神的基本的条件確保を構築、完遂せ使めねばならないの である。 是が政治家の真の使命である。 《 忍 の 徳 》 断食苦行によりて中道に至り得て、成道された釈尊にして初めて、 当然の事として受け入れる事であるか。 釈尊、般(はつ)涅槃に臨まれて、 『忍の徳たる事、持戒苦行も及ぶ事能(あた)わざる処也。 能(よ)く忍を行ずる者は、乃(すなわ)ち名付けて有力(うりき)の 大人(だいにん)と為すべし。 若し其れ悪罵(おめ)の毒を歓喜し忍受して、甘露を飲むが如くする 事能(あた)わざる者は、入道智慧の人と名付けず。 所以(ゆえ)は如何(いかん)と為れば、瞋恚(しんい)の害は、即ち、 諸々の善法を破り、好名聞を壊(え)す、今世後世の人、見んと喜(ね が)わず。』と。 是も、大脳新皮質によりて、自(おの)ずから閉じるに至るものである。 《 日本の政治家と僧侶の使命 》 古代ギリシャでは、呼吸(息)[=プシュケー]が生命、心を意味し、 日本でも、息(いき)から「生きる」が生まれた様に、 呼吸は人間為る生命体と宇宙間との間断無き大気交換による、 最も基本的、生命エネルギーの発生源である。 観念的でなく、此の呼吸を極めるには千日行以外には無いのである。 千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)によりて、自(おの)ずから 腹式(臍下丹田)呼吸に転ずる。 小生が「涅槃入り」した「覚天」も、特に呼吸を通して、「宇宙(生命)の 本質」(涅槃)を自己に体現し得たのである。 坐禅中の呼吸と云うものは、通常意識せず、正に自然なのであるが、 其処(そこ)に、刹那に異常を惹起し、持続不能の不協和状態を呈し た事によりて、「行」でない「人」だ!と刹那に天意(=本質)を覚(さと )り、「覚天」し、「涅槃入り」したのである。 人類史上、最極悪は米国による日本への二度に亘る原爆投下に極 まるのである。 故に人類は地上非核化によりて、人心一新し、其れによりて信頼を 新たに築かねばならないのである。 日本は今日に至る迄、此の地獄の負の遺産を、極善為る正の遺産 足る「涅槃」迄、心の進化を完遂せ使めたのである。 正に是は不昧因果〔因果を昧(くら)まさず〕に他ならない。 世界は今や、正に此の「涅槃」へと収束し往く進化の途上に在るので ある。 令和新世紀を迎えて、我々は涅槃妙心智慧によりて、少欲・知足にし て、物質的、精神的基本的条件確保を第一義に図り、世界人類の幸 福と平和と繁栄を構築し、完遂しなければ為らないのである。 千日行を世に興す事が人類の進化を加速する。 是は禅僧の責務である。 世の中は人間の能力を生(活)かし、自己主張する方向性であるが、 此の、心を耕し、「世界人類を生(活)かす」、此の真理(実)への方向 性が最重要不可欠なのである。 政治家と僧侶は連携して、世界を興起せ使むるべく、涅槃妙心智慧 を生まねばならないのである。 日本の政治家、及び僧侶が今後、世界に対して果たさねばならない 責務は重大である。 《 小生がトランプ氏ならば 》 先ず、世界が一つに為れる礎を築く。 信頼だ。是が無ければ何一つ始まらない。 其の為に、敢えて、地上非核化。 次、地上最も複雑に不安定に混沌とした中東情勢。 不毛なる中東の極端な格差を無くすべき世界レベルでの智慧。 それから、コロナ対策である。 米国の失態の根本原因が何処に在るのか? 社会常識からすれば、明らかに其の真逆であるべきであるが、 真実は然(そ)うはならないのは何故か? 恐らく、此処にこそ、人類の最大の問題点が在るのである。 高度文明化する過程で、人類が陥った過誤が有ったに違いないので ある。 余りに物質偏重する中に、人類が見失ってしまった貴重な部分である 。 是が他ならぬ鐵漢なのである。 米国が野球界に於けるイチロー氏に寄せる心だ。 賞賛はすれど、自身は如何にも為らない。 黒人に対する差別、我欲の統制が効かない。 つまり、能力偏重と本質の喪失である。 是は、現代高度文明化に随伴する人間の三毒(貪・瞋・癡)害の典型 である。 要するに、東洋と西洋とを分かつ最も顕著なる特質である、東洋の「 悟り」であるのだ。 正に、「高度文明化」と「悟り」とは、人類の特質の二つの対極足るも のである。 日本と米国に其の典型を見るのである。 印度やブラジルの途上国に於ける感染者数が異常に大なる事とは 事情は明らかに異なるのである。 第二次世界大戦の終結の直接的原因と今時の感染症パンデミックの 特徴の原因、是等双方の底流は一つなのである。 人間の能力の暴走と表裏一体為る、本質の喪失である。 是は人類の三毒(貪・瞋・癡)の結末なのである。 斯くして、西洋、取り分け、現国連常任理事国家は東洋、日本、鐵漢 を範として、是に基づくべきなのである。 そうして、国連の真の主張に基づいて、常任理事国家が「世界連邦」 に生まれ変わらねば為らないのである。 此の様に、世界情勢と云うものは、根源から取り組まなければ変革し 得ないものである。 「急がば回れ」、「退歩の脚」だ。 本質的取り組み無くして、改善は在り得ない。 小手先の二元対立でなく、本質的一元化を図らねば、問題は解決し ないのである。 黒人差別も同様である。 是は、本質的には自国の貪欲を満たす為に、偶々(たまたま)黒人が 其処に居たと云うだけで、黒人を動物的に奴隷化したのであって、 其れは日本に原爆投下したのと同様なのである。 自国の三毒(貪・瞋・癡)の結果である。 矢張り、 坐禅(行)による、二十四時間の根源からの取り組みにして初めて、 本質に基づく、相対的為らざる、不動の正解(=真理)に至り得るの である。 社会通念では、其処に至る前に、取り返しの付かない三毒(貪・瞋・癡 )為る行為に陥ってしまう。 悲劇は、相手を(切り)捨てた処から始まる。 仮令、相手が離れたとしても、其の事で相手を見捨てたら旨く行かな いのである。 何と為れば、自己為る者は全一為る存在であるからだ。 全体が一(いつ)と為って調和し、均衡が取れて、静寂なる「涅槃」が 現成し、宇宙の真理為るからである。 小生が坐禅を止めたのも、其の事を体現し、「覚天」したからである。 つまり、本質為らざる、学問的帰結としての on か off かの攻撃用の スイッチに為ってしまう。 万物の霊長足る人間生命の本質的問題を、本質為らざる学問的 レベルに置き換えて処理すると云う大過誤に陥ってしまったので ある。 其れは、「宇宙(生命)の本質」為る涅槃妙心智慧によりて処理し なければ為らないのである。 学問為るものは、如何に複雑為れども、其れはシグナルの複雑さで、 大脳新皮質の複雑さ、つまり未だ、身の進化の極限に過ぎない。 進化を終えた身から、心の進化への移行が無い。 未だ本質的には、アルプス山中の苦行者にも至り得ていないのであ る。 先ずは、釈尊の原点に復帰してからの事である。 其処からして初めて、スイッチに及ばない、 本質に帰一する事が出来るのである。 《 大戦終結は史上最悪原爆支配の開始 》 世界三大負の遺産中最悪為る原爆支配による日米の関係(沖縄問 題等)に於いて、日本にとっての米国による核の傘は全く不要である。 若しも日本に再び原爆投下への方向性が生じたならば、世界は地獄 に堕ちるであろう。 今現在でも、世界は平安を維持する事すら困難なのである。 原爆投下の脅し以上の、日々の生存の危機に陥っているのである。 其の原因は、総て終戦以後の人類の在り様に在ったのである。 今こそ人類は是迄を原爆から自衛へ、自衛から涅槃へと正さねばなら ないのである。 「涅槃入り」した鐵漢の日本の菅氏が、其の先頭を切るのである。 第二次世界大戦の終結は、原爆投下と云う人類史上最悪の、最も人 類三毒(貪・瞋・癡)の極悪極まるものであり、終結為らぬ、原爆支配 の開始であった。 斯(か)るが故に、今の地獄が在るのである。 火と水と風と気温の、果てし無き時空に於ける激甚自然災害と感染 症パンデミックによる日常生活持続不能状態。 黒人に対する大航海時代以来の奴隷化する蔑視。 物質世界のテレビゲーム的米中の対立。 是等の悲劇は総て原爆支配に因る大戦の終結に始まっているので ある。 大戦の終結は表向きであり、地獄の開始に他ならない。 何と為れば、原爆投下と其の支配を引き摺って居るからである。 人類と云う者は根本的に解決しなければ改善し得ないのである。 ヒトラー独裁が原爆独裁に極悪化したに過ぎない。 是に付随する沖縄不法占拠である。 「沖縄問題は原爆独裁の弊害である。」 二次大戦は今だに継続して居るのである。 地上非核化にして、初めて二次大戦は完全に終結するのである。 中国の南沙諸島問題処の話では無い。 沖縄県民の為に日本の独立国家を侵害すべきではない。 そもそも核の傘の発想自体に誤りがある。 地上非核化であれば、そんなものは不要である。 自衛隊だけで宜しいのである。 米国の侵犯は不要だ。 人類生きるのに格闘技は不要なのである。 TVゲーム位で宜しいのである。 人世は格闘技に在るのではなく、涅槃にある。 涅槃とは宇宙の調和と均衡と静寂である。 「宇宙(生命)の本質」である。 是は涅槃妙心智慧による世界。 本質に基づく信頼と一体の世界である。 地上非核化、自然復元、沖縄完全返還。 日本植民地化完廃。 日本は米国依存を断って、沖縄も含めて完全自立すべきである。 人類は理想的には、信頼に基づく、自衛隊の無い国家足るべきであ る。 此の方向性を持ってこその人類である。 個人レベルに於いても、国家レベルに於いても、 「宇宙(生命)の本質」に基づく「涅槃」の在り様である。 人類の心の進化の究極である。 何と為れば、自衛隊と「涅槃」とは異質であり、両立しない。 自衛隊の個別的自衛権と、警察組織が在れば宜しいのである。 武器を生む前に坐禅すべきである。 米国は、カポネは消滅したが原爆投下したとは何事か? カポネの方が益しである。 極限に迄、極悪化して居るのが現在である。 今が極悪の頂点である。 人類は心の進化を遂げるべく生まれたのである。 涅槃迄。 涅槃を目指すのが人類の方向性である。 是を日本が米中と共に先導するのである。 何と為れば、世界唯一の日本が涅槃の発祥地であるからだ。 此処から世界平和を発信するのである。 世界人類、一人として、世界平和を希求しないものは居ないのである。 人間であるならば、是真である。 涅槃の真理説けるのは 小生鐵漢だけ 出来る事は小生鐵漢を 崇仰するのみである 鐵漢を神と受け留めて 生(活)かすのみ 真に最後身心也 《 ヒトラーと原爆と黒人差別 》 ヒトラーと原爆と黒人差別、是等は世界の三大負の遺産である。 果たして、米国は世界遺産の発起国でありながら、負の世界遺産の 時点で、成り行き上、一時(?)、立場上退いた。 小生、ヒトラーを終結させた当事国が、極悪化して原爆投下、原爆支 配している。 ヒトラーが原爆に極悪化したのである。 更に、五百余年前の家畜の如き黒人奴隷の習癖が、未だに当然の 如く警察権力に露呈して止まる事が無い。 更に、人類の貪欲の帰結としての自然破壊が齎した、止まる処を知ら ない記録的、壊滅的異常気象、激甚自然災害と、嘗て無いウィルスに よる感染症パンデミックと、其れ等に随伴する世界規模の生存上の 危機的状況等、正に地獄の一歩手前である。 斯るが故に、 此の機に及んで、不昧因果(因果を昧(くら)まさず)、小生鐵漢が 空前絶後にして「覚天」し、涅槃為る真理に至り得たのである。 是迄の一切の人類の諸業、諸学の依り処を得たのである。 是に基づいて、諸事万端、取り計らって行くべきである。 人類は自己を顧みて、懺悔する心を生む事無くして、心の進化は得ら れないのである。 心の進化に不可欠為る、菩提心の基と為る、(三毒(貪・瞋・癡)為ら ぬ)慚恥(ざんち)(=恥を知る)の心が欠かせない。 《 「本質」からの促しの不解なもどかしさ 》 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し、は 人心には「擬(もど)かしさ」と表現されるものである。 「擬(もど)く」の形容詞で、「じれったく、歯痒い」、「気が急(せ)き、落 ち着かない」、「思う様に為らず、じれったい」の意。 Frustrating(英)、心痒(心がかゆい)(中)。 つまり「擬(もど)かしく、歯痒い様子で探し回る」のである。 此の促しによる擬(もど)かしさの生き様は全く様(さま)に為らない。 まともで無いから、一見不良の様なものである。 当然の事ながら、裏を返せば、此の「促し」の母体である「宇宙(生 命)の本質」(涅槃)を予感させる要素の様なものであるが故に、 解らないから、然(そ)う為らざるを得ないのである。 先ず、此の疑義に本質への方向性を与えるものとして「坐禅入り」す るのである。 そして、本質へ接近し、接触し、帰一し、「涅槃入り」して坐禅は其の 役割を終えるのである。 高校入学時の頃の「促し」為る疑義から坐禅に往き着く迄十年間、 是無ければ何も始まらない。 此の最も様(さま)に為らない時期が最も重要である。 そして、「初行入り」迄十年間程、「後行入り」迄二十年間、 「覚天」迄十五年間である。 令和元年九月「覚天」して、丁度一年である。 斯様な訳で、 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しに応えるには、つまり 真に本質的生き方をする者は、釈尊も然(そ)うであった様に、 坐禅以外には在り得ないのである。 坐禅は人心を本質化し、涅槃妙心智慧を生ま使め、世界平和を構築 、完遂せ使めるのである。 自心の疑義が「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に帰一する 唯一の手段が坐禅である。 《 「宇宙の本質」と菩提心と坐禅 》 人類の真価は、偏(ひとえ)に菩提心に有る。 此の菩提心は、人類の三毒(貪・瞋・癡)が「宇宙(生命)の本質」か らの促しによりて、人心を、永遠に不滅為る恒常普遍の真理である 処の「宇宙(生命)の本質」(涅槃)へと進化せ使め、世界人類の幸福 と平和と繁栄を構築し、完遂せ使めんとする心である。 此の「促し」によりて、インダス文明に於いて自然(現象)と一体為る 農耕生活裡に瞑想が生じ、部落から社会構造化するにつれて菩提 心生じ、自心の擬(もど)かしさとして、「涅槃」に帰一する迄に下記の 諸段階を経るのである。 「促し」による擬(もど)かしさから本質に迫る唯一の手段が、瞑想や ヨーガに端を発する坐禅であり、坐禅以外は人事一切、総て人類の 二元相対世界の域を出でざるものである。 先ず、「坐禅入り」→「悟り」→「解脱」→「覚天(涅槃入り)」→「涅槃」と、 「悟り(身心脱落)」迄は出家、在家に係わらず、「坐禅入り」すれば、 間も無く至り得るものである。 是、偏(ひとえ)に坐禅の功徳によるものである。 此の功徳(「悟り」)は、人をして、精神(心理)的出家足ら使めるもので あるが、解脱には、出家と千日行(初行)が不可欠である。 「解脱」以降は大気圏外の領域である。 是を可能為ら使めるのは、唯一坐禅在るのみである。 坐禅を生ま使め、坐禅(行)為さ使め、現実実践為さ使めるのが菩提 心である。 菩提心は積極的、能動的であり、坐禅は消極的、受動的である。 菩提心は本質より出で、手段為る坐禅を生み、「宇宙(生命)の本質」 (涅槃)に帰一せ使め、坐禅を放棄して、「世界人類を生(活)かす」の である。 《 涅槃妙心智慧に基づく究竟知恵 》 人類は鐵漢独り、真に「涅槃」に至って、まだ一年経過したばかり、 唯一の真理、「涅槃」からの真法を真遺教に書き遺す日々である。 古代、釈尊在世当時、智慧は聞思の智慧と行智慧で、行智慧は頭陀 行であった。 二千五百年後の今、行智慧は究竟生涯厳密千日涅槃行であり、 「涅槃入り」によりて究竟智慧為った。 小生鐵漢により、智慧は「涅槃」に究盡されたのである。 人と人との間は、特に米国と中国に象徴される。 人心の時空に於ける究極に至って初めて、本質より可能と為るもので あり、三毒為る人類が「宇宙(生命)の本質」(涅槃)へ接近、接触、帰 一して至り得た「涅槃」より、施政知恵を生み、世界人類の幸福と平 和と繁栄の基盤である処の、世界人類の物質的、精神的基本的条件 確保を構築、完遂せ使めねばならない。 是が人類の「宇宙(生命)の本質」(涅槃)への進化の必然性である。 既に、心の進化は究竟され、涅槃入りした最後身心が、未だ進化遂 げざる世界(地獄)を教導し、進化せ使めるのが宇宙の必然性である 。 最後身心は 地上の最後の一人 を守る最後の一人 である 《 吾師の恩 》 坐禅は宗教であるが、是、超宗教・超科学的にして真理へ至る唯一 の手段である。 解脱 覚天 涅槃入り 涅槃 ↓ ↓ ↓ ↓ 正信――→確信――→確心――→心(本質)――→真理(涅槃) 正信で無くんば、解脱無きが故に真理に至らず。 僧侶の自殺行為による抗議等は消極的自爆テロに異ならず、 又、イエスを生んでも、虚構である以上、共に真理為らざるもので、 世界人類を教導し、生(活)かし得ぬものである。 世界人類を教導するには、確証に基づく確心無くんば為し得ず、 神は虚構にして、確信は持ち得ないのである。 坐禅(行)には確証に基づく確心が有る。 小生が吾師に心酔したのは、今に為って分析してみるに、師の確か さであったのだと思う。 原始仏教の究極であった、托鉢自活による十二頭陀行中、十一項目 は衣食住に関する戒で、最後のみ威儀としての但坐不臥である。 師は此の但坐不臥(常坐)を以って、千日行(三時間坐睡二十四時間 仏作仏行)を賞揚されたのである。 そして後行(=後厳密千日涅槃行)に対して、 「一体、如何遣って眠るのか?」と言い残されて居る。 小生、「後行入り」(五十五歳)の時、 過去の遺物、禅板(坐睡時、顎下で頭部を支える六~七十㎝の板棒) を使ってみた。 昔の僧は皆、然(そ)う遣って眠ったらしい。 しかし、坐睡は自力(=菩提心)の勢いのみで、初めて為し得るもので あって、道具等に依存する様なものではない。 正月元旦より即日為せた。 是が、小生が心酔した、師の確かさである。 師でなければ、此の確かさには至り得ないのである。 吾師の志によりて、伝統を出られ、原田祖岳老師の廃寺を東照寺に 托鉢再建されて後、鉄牛寺(=新道元宗)を建立された師にして初め て為し得た師の確かさであり、其の恩恵によりて、今の小生が在る。 不昧因果。 師の下を離れて四十年近く為る。 師足る者、如何に在るべきか? 小生は、宗教に対する「信」と云うよりも、「坐禅の功徳」から師に相見 (しょうけん)したのであり、此の小生にして、吾師は敢えて、但坐不臥 からの千日行を生まれたのだと思う。 小生が、其れに向き合う「刹那」に遭遇したのは、寺を出て後、暫くし て自転車で野宿しながらの日本一周の、厳密な坐禅行の途中の事で あった。 《 「甘え」から、泣く子も黙る寂静涅槃 》 人間には、老若男女を問わず、貪り から涅槃へ通ず「甘え」と云う ものが有る。 是は、唯一「涅槃」へ通ず情である。 寂静へ至る情。 赤子が泣き飽きて、静まる様なものだ。 泣く子が黙る「大涅槃人」である。 大いなる愛に、泣く子が泣く事を忘れるのである。 其処から真の積極性、菩提心を興して、世界人類に及ぼして欲しい。 《 真 理 》 真理は永遠不滅の恒常普遍為る「宇宙(生命)の本質」である。 是以外に真理為るものは無い。 最初の真理は釈尊成道であった。 真理とは永遠に不滅の恒常普遍為るものである。 斯くして、正法が生まれたのである。 是に基づいて、二千五百年後に極東、日本に於いて、初の正法苦行 為る千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)が生まれたのである。 中世以降、人類は本質を探究する事から目を背(そむ)け、現象のみ を追求してきた。 釈尊の予言によると、 釈尊滅後の千年間は正法であるが、其の後は中世以降の千年間は 像法(=正法に似た法)、そして末法と為っているが、 其の結果が、世界の今の現状である。 宇宙と生命を分離出来ない様に、身と心も分離出来ない。 宇宙は進化して、生命を育み、生命は進化して、身は大脳新皮質を 生じ、心を生んだのである。 心は進化して「悟り」、「解脱」し、「涅槃」に至った。 是等は夫々、「宇宙(生命)の本質」への接近、接触、帰一として、 人類が体現した唯一の真理である。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しと、諸悪(苦)の根源である 三毒(不善根)(貪・瞋・癡)との化学反応によりて、菩提心 生じ、 是によりて、心は進化を遂げ、最終的に「宇宙(生命)の本質」である 処の「涅槃」に帰一出来たのである。 菩提心でなければ、「宇宙(生命)の本質」である「涅槃」には至り得な いのである。 本質に帰一するには、菩提心で「涅槃入り」する以外に無いのである。 学問では本質には至り得ない。 此の真理によりて世界人類の幸福と平和と繁栄は完遂するのである 。 令和新世紀の菅新総裁には、世界を斯く、導いて頂く事を祈願致しま す。 大脳新皮質を本質化し、真理為る真実を事実化して往く作業であ る。 是、心の進化の究竟を普遍化するものなのである。 此の理想を迷い無く、確信を持って為し得るのは、偏(ひとえ)に 「覚天」し、「涅槃入り」した事に基づくが故である。 是、人類史上、空前絶後であり、 世界人類を幸福と平和と繁栄に至ら使める唯一無二の正道である。 是は、要するに、心を「解脱」出来ない有限為る二元対立の身に置く か、それとも、解脱と究極の真理を志向するこころ、つまり「宇宙(生 命)本質」(涅槃)に置くか、と云う事である。 三毒の貪り から奴隷にしてしまう、原爆を生む、淫快や金を貪る。 故に、我々は貪 なのだから、是を一歩控えて、自制すべく努める。 是が人間の品格を保ち、日本及び世界が向上する本因なのである。 是、万人共通に不可欠為る心掛けである。 支配者階級には、取り分け、心すべき事である。 貪り は火、心進化すれば少欲、知足にして鎮火する。 「大涅槃人」 は、一切の人事をブチ抜いて居るから、総てに於いて、 人を諭し得なければ為らない。 例えば、性愛の究極は「涅槃」であるとか、 学問の究極の目的も、他の一切の人事同様、真理為る本質であると か、何と言っても正鵠を射て居る訳であります。 「涅槃入り」した後の、此の真遺教を遺す作業が不可欠な訳でありま す。 良薬為れども、服と不服とが在る。 服すと云う事が不可欠なのでありますが、 「最後身心」 に応じねば、其れ迄の事である。 空前絶後にして、唯一最終最後の機会なのである。 釈尊にしては、解脱であったけれども、 小生鐵漢にして、「涅槃入り」して、真に「最後身心」 為るが故に、 此の機を失すれば、永遠に地上、地獄行きは必定不可避なのであり ます。 《 身 (=体力) と 心 (=智慧) 》 人類の究極の目標は世界人類の幸福と平和と繁栄である。 是を実現する為には、世界各国が其の目標を共有(本来ならば享有) し、其の下に一致団結して、其の為の涅槃妙心智慧を生み出す事に 尽きるのは明白である。 涅槃妙心智慧とは、「宇宙(生命)の本質」である涅槃に基づいた、 つまり「世界人類を生(活)かす」為の智慧の事である。 結局、人類の目標は「世界人類を生(活)かす」智慧を生み出し、 是を実践する 事である。 小生鐵漢が「覚天」して至り得た「人を生(活)かす」智慧を生み出す事 について触れて置く。 釈尊であれば、成道後の御生涯は正に其の成道に至る智慧である 仏教を構築する事であったのであるが、小生鐵漢に於いては、「涅槃 入り」によりて、小生に可能な限りの「世界人類を生(活)かす」智慧の 構築と完遂に他ならないのである。 此の「智慧」を生む、二十四時間三百六十五日の規則正しく、唯其れ だけに専念するのである。 体力を強化する事は世間で常識的であるが、能動的、積極的に此の 智慧を生む事は施政者でない限り、普通は為されない事であるだろ う。 然るに、此の「人を生(活)かす」智慧以外には、人類の究極の目的を 果たす事は無いのである。 此の「人を生(活)かす」智慧を見失っているのが我々なのである。 世間では、スポーツを楽しみ、関心を寄せるのであるが、 其処から一歩進んで、より能動的、積極的に「世界人類を生(活)かす 」智慧について、もっと関心を持つべきである。 政界に於いても、貪と、其の副産物としての保身、安泰 でなく、 一歩進んで、能動的、積極的に其の智慧を生み出す事に専念しなけ れば為らない。 国民の代表として、斯く在るのが、施政者としての使命であると確信 する。 斯くして、体力を増強、或いは維持する事から、智慧を生み出す事に、 移行して往くと云う事こそ、是は人類の心の進化の証しなのである。 本気で、其の事に取り組めば、体力と智慧と、同じエネルギーを使う であろうが、人類の最終目標の為には、何れでなければ為らないか は、自明の理である。 此の真の智慧を生む為には、心を、敢えて斯く究盡しなければ為し得 ないのである。 智慧は自然に流れ出て来るものでも、容易に生み出されるものでもな い。 其れに二十四時間三百六十五日、専念して、可能な限り規則正しく、 智慧至上主義と為らねば為し得ないものなのである。 又、然(そ)うであるからこそ、智慧が生み出され得るのである。 《 世界の基盤 》 上に起つ者の責務は、透明で有る事。 教育者も同様である。 世界のトップは、尚更の事である。 透明であると云う事は、真理であると云う事である。 つまり、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に帰一していると云う事である。 絶対的信頼が、此処に成り立つ。 透明であって初めて、世界平和の基盤が確立するのである。 心の進化と透明性は同義である。 貪が世界を闇にする。 信頼壊れ、教育破壊され、世界の基盤が壊れる。 光無く、希望無く、喜び消える。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)は「貪」でなく「施」である。 平和とは「本質に同ずる」事である。 日本が世界の霊峰である。 世界の不透明なる闇を晴らすのが、令和新世紀の最大の責務である 。 生きる喜びを復活するのが日本の責務である。 日本が世界に範を示す。 生(活)きる喜びは本質的信頼 に有る。 《 涅槃妙心智慧 》 「宇宙(生命)の本質」である、本来の心為る「人類を生(活)かす」「涅 槃」は心の進化の究竟である。 極仏為る生涯後厳密千日涅槃行に於いて、機熟して、刹那に 「行」でない「人」だ!と「覚天」し「涅槃入り」して至り得た、「人類を生( 活)かす」涅槃妙心智慧が機能する世界、是が「涅槃」である。 是が唯一の、永遠に不滅為る恒常普遍の真理である。 本来人間の心は「涅槃」に由来し、此れが諸悪(苦)の根源為る三毒( 貪・瞋・癡)によって、「解脱」の段階から「悟り」、そして迷妄へと、つま り「宇宙(生命)の本質」から離脱した、二元相対世界に転落してしま って居るのである。 人類の智慧と云うものは必ず「覚天」、「涅槃入り」、「涅槃」迄至るも のなのである。 涅槃智慧が得られていないのは、未だ、人類の「人類を生(活)かす」 菩提心が及び得ていないのである。 世界人類の幸福と平和と繁栄を構築するだけの労苦が必要不可欠 なのである。 可能為るものを、否、見捨てられないものを見捨てて、自己満足して 居るのであるから。 米国、印度は今や地獄である。 本来ならば、米国が印度を救済すべきなのであるが、現実と云うもの は然(そ)う云うものなのである。 小生鐵漢を否定する者は世界平和を思わない癡愚者に過ぎない。 《 花より団子 》 「花より団子」とは言うけれども、花とは世界人類の幸福と平和と繁栄 であり、団子とは自国(己)的欲である。 花は永遠に不滅為る恒常普遍であり、 団子は二元相対の時空的に有限為るものである。 要するに、儚(はかな)き身を択(と)るか、本質為る涅槃妙心を択(と) るかである。 夫婦、団子ペアーが、花志向と為るべきが団子志向と為って居るのを 貪 と言うのである。 夫々、自立した二個の花志向と為らねば、世の中は改善しないので ある。 世間と云うものが、然(そ)う為る事が世界平和の基盤なのである。 然るに、団子ペアー、或いは団子志向が基盤と為って居るのが、 世界が改善しない根本原因である。 世界を、無視と無関心で地獄と為す。 個々の自覚の問題である。 世間に、此の自覚を喚起するには、少なくとも最低限、指導者が率先 垂範しなければ為らない。 其処から、波間の隅々に迄、浸透させねばならないのであるが、 現実は、其の逆である。 指導者が、団子志向の範を波間の隅々に迄示して、世界各国に其れ を正す力が無い。 世界各国の無力さを露呈するのが、今の現実である。 唯一、日本こそが世界に自覚を喚起せ使める最後国家 である。 日本の奇跡は世界を奇跡為ら使めるのである。 世界に自覚を促す。 世界に本気為ら使めて、貪り から覚醒せ使め、 物質的、精神的基本的条件確保志向為ら使めん事を! 人類誕生以来、命が命と為して、最後国家為ら使めて居るのであ る。 《 地獄(悪)の連鎖を涅槃(奇跡)の連鎖へ 》 ヒトラー独裁は集団心理の権化である。 ヒトラーが人類三毒の権化を演じたのである。 人間の悪の根源が如何に恐ろしいか。 世界平和は個人個人が自己の心の三毒を三善根に転ずる以外には 無いのである。 仮令(たとえ)悪意を抱かずとも、人類は集団心理で、無関心、無視、 で間接的殺人集団に陥ってしまうのである。 人類は能動的、積極的に此の菩提心を発しない限り、本有する三毒 によりて、対立は避けられず、現米中間に象徴される不可避なる戦争 状態に陥ってしまう。 人類は能動的、積極的為る菩提心の発露以外には地獄を避ける事 は出来ないのである。 菩提心の発露とは未だ「覚天」せざる「人を生(活)かす」と云う本質に 至らざる自己を発菩提すると云う事であり、世界に悪を生まない処の 一)、物質的基本的条件確保不可能の救済と、 精神的基本的条件確保不可能の救済。 二)、貪に因る諸悪の自制と其の取り締まりと根絶。 三)、貪に因る諸悪発生の芽を制する。 事である。 更には、菩提心によりて、能動的、積極的に、米中の対立を対立でな く、米中間に信頼を生む事である。 米国と中国間に信頼を回復するには? 是が現代の最大の課題である。 米中の天秤には支柱が無ければ成り立たないのである。 此の支柱こそ、正に永遠に不滅為る恒常普遍の真理為る「涅槃」の 「世界人類を生(活)かす」 涅槃妙心智慧 である。 斯くして初めて双方に調和と均衡と静寂が成立し得るのである。 此の機に小生が真理に至ったと云う事が不昧因果 なのである。 米中が従来の流れに抗して、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の本質的 信頼に基づいて、米中間の信頼の礎を築く事が、此の第一歩である。 だからこそ、此処に其の「証(あか)し」としての地上非核化の意義が あるのである。 何と為れば、正に此の上記三)の貪に因る諸悪の芽こそが原爆 支配連合の根源であるからである。 是を契機として、米中が新たなる信頼に基づいて不要なる世界中の 出費(軍事費)を、世界を建て直し、改善する為の資金源と為す事が 出来、是によりて、上記一)が実現可能と為る。 地上非核化を即刻実現すべし。 是が世界に奇跡を起こす端緒と為るのである。 悪が悪を生むのでなく、 奇跡が奇跡を連鎖する。 《 「解脱」と「涅槃」と 人類 》 人間は「解脱」すれば水と油に為るが、是が人を生(活)かすには、 「涅槃」に帰一しなければ為らない。 「涅槃」に帰一するとは、「覚天」して、水と油にして、元の木阿弥に 為る事である。 人類には、此の真中道を釈尊中道と共に信受(堅持)する事である。 《 本質的(究竟)信頼 は「覚天」の仏果 》 「覚天」と「説く」とは完全に同格である。 後残るものは自己への信頼 である。 何と為れば、「覚天」を超えるものは何も無く、「宇宙(生命)の本質」に 帰一したからである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)を超えるものは何一つ無い。 此処から、本質的信頼とは絶対的信頼であり、究竟信頼である。 此の信頼を超えるものは何一つ在り得ない。 神と個人が同一為る処の信頼 である。 此処に、神への信は全く意味を為さなく為る。 何と為れば、「宇宙(生命)の本質」を超える神と云うものは虚像に 等しいからである。 人間は能動的、積極的でなければ為らない。 能動的、積極的に「貪(むさぼ)る」のでなく、 能動的、積極的に「施(ほどこ)す」のである。 「貪(むさぼ)り」は地獄を生じ、 「施(ほどこ)し」は涅槃を生ず。 受動・消極は間接的殺人に至る。 世間と云うものは、能動的、積極的貪か、 受動・消極為る間接的殺人かの何れかである。 唯、能動・積極為る施のみが、此の世に「涅槃」を生んだのである 。 《 絶対 (本質的) 信頼 》 一旦、上求菩提の終極である、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に帰一し 得て、後は、「人を生(活)かす」のみ。 其れ迄の一切は、時空を超えて、肯定されるのである。 是は釈尊中道同様、追体験すべきものでない、中道と、只管「世界人 類を生(活)かす」涅槃妙心智慧の構築と完遂に尽きる真中道である。 其の為の二十四時間三百六十五日、無駄な時と云うものは在り得な い、如何なる刹那も総てが、自己のー100は必ず+100に生まれ変 わる。故に、常に自由に勤めるのである。 是、全面的自己信頼の根拠である。 此の信頼の拠り処は、「涅槃」為る真理であるが故に、絶対信頼 為 るのである。 《 「悟り」の自覚 と 信頼 》 命には二つ在る。 一つは「人」。 後一つは「自分」。 何時も、「人」で在り続ける事は出来ない。 矢張り、「自分」が在っての「人」だ。 「人だ!」と言っているのは「自分」なんだ。 「人だ!」を、 上求菩提で遣り、下化衆生で遣り、最後は自分(=極力、規則正しく) で遣るのである。 「宇宙(生命)の本質」は「涅槃」であり、 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に帰一するのは菩提心によるものであ る。 本質為る涅槃の自己は菩提心為るエネルギーに因るものであり、 是が自己を自己為ら使め、宇宙を宇宙為ら使めて居るのである。 此のエネルギーの一片によりて、宇宙に生み出されし、刹那の自己 と云う自覚の、「悟り(身心脱落)」 生じ、全ては此の自覚 に決定 付けられた方向性に基づくものである。 道元禅師が身心脱落によりて帰朝し、正法眼蔵を遺された様に、 小生鐵漢は、正法苦行の千日行初行を完遂した訳である。 道元禅師入滅後、荼毘に付して舎利を収め、四ヵ月後に遺稿の整理 が為された。二祖孤雲慧奘が全て整理、写本されたものである。更に 三祖と螢山禅師等によりて宗祖の本質的「悟り(身心脱落)」に、宗教 儀礼や中国禅門の諸様式を取り入れるべく再度入宋したのである。 そして現代に至り、百年程前に、西田幾多郎に二十年程遅れて京大 で教鞭を執った和辻哲郎が主著『倫理学』等で哲学的に道元禅師の 悟りに基づく『正法眼蔵』を採り上げた事で、禅師が世間に流布する 事と為ったのである.。 小生は坐禅を始めて三~四年目の頃に「悟り(=身心脱落)」、千日初 行完了後、不動の「悟り」に促されて、正に「犀の角の如く、唯独り「解 脱」した。つまり、「宇宙(生命)の本質」に接近し、接触し、 そして、見事に千日後行入りした訳である。 此の余談を許さぬ完璧さが、十五年後、古希の「涅槃入り」を可能為 ら使めたのである。 何も無い処、日常性から離脱せ使める、「宇宙(生命)の本質」(涅槃) への方向付けの契機と為る、「悟り(身心脱落)」の自己の自覚 が、 最終的に宇宙の真理為る「涅槃」を喝破するに至ら使めたのである。 此の本質的絶対自己 にして、本質的絶対信頼 が在り得るのであ る。 此の宇宙に只独り生み出された自己為る生命、即ち絶対孤独為る吾 の自覚 は万人に共通であり、純粋に、森羅万象を包括する坐禅によ る功徳によって得られたものである。 是は仏道(教)以前の、普遍的に万人が享有し得る体験なのである。 何と為れば、吾等が生命は「涅槃」に由来するものであるが故である。 是をして、既に正法苦行(初行)の菩提心有れば、心の進化は完成す るであろう。 然(さ)もなくば、只管「世界人類を生(活)かす」のみである。 何時でも、何処でも、誰でも、 「生(活)かす」基盤が「信頼」である。 「信頼」の基盤は、団子(=身)でなく花(=心)に生(活)きる事である。 政治も「身」を支えるのでなく、「心」を支える施政に進化して初めて「 宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違(たが)わず、帰一し、世界に平和を 構築、完遂し得るのである。 中国は未だ、身を支える施政にして、心を支える施政とは言い難い。 米国は未だ、身を支える施政に過ぎない。 日本は心を支える施政足る。 《 人間間の信頼の基盤為る自己への信頼 》 「悟り」とは「自己の自覚」であり「宇宙(生命)の本質」に接近した証し。 「解脱」とは「本質の自覚」であり「宇宙(生命)の本質」に接触した証。 「涅槃」とは「人の自覚」であり「宇宙(生命)の本質」に回帰した証し。 「涅槃入り」した「人を生(活)かす」自己は「悟り(身心脱落)」で自覚さ れた自己が底流を為している。 是は行以前、出家以前の坐禅の功徳によるものである。 全ては此の、宇宙の絶対自己の自覚に基づくものである。 此の自覚された絶対自己の前途に在るものは、釈尊在世時の頭陀 行中の但坐不臥以外には無い。 故に吾師は千日行を賞揚されたのである。 人間と云う者は、人と人との間の存在以前に、其の間を成り立たせて いる各個人に於ける自己為る我の本質的絶対自己の自覚無くして、 人と人との間も成り立たないのである。 真の人間とは、本質的絶対自己の自覚が大前提である。 此の全一為る自他の関係以外には、人間世界は真には成立し得な い。 本質的絶対信頼は自己への本質的絶対信頼が無くして、他への本 質的絶対信頼が成立する筈は無いのである。 貪欲への信頼は永遠に成立し得ない。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違(たが)えるからである。 故に、少欲、知足が鉄則である。 貪が施に転じてこそ、格差消滅し、宇宙の調和と均衡と静寂に同じ、 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に帰一し得るのである。 微に入り、細に入れば地上の最後の一人に至る迄、止む処が無い。 《 必要悪為る貪 》 三毒の貪――→「悟り」――→「解脱」――→「涅槃」 勝ったも、負けたも無い、 只、貪為るが故に、癡愚と為り、瞋恚と為るのである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し に、貪 や四苦に対する愁苦 無ければ菩提(道)心 生ぜず。 貪 は坐禅を生み、其れによりて「悟ら」使め、「宇宙(生命)の本質」( 涅槃)に回帰せ使むるのである。 貪為るが故に、世界は多様化され、世の中に繁栄を齎す。 一方、貪為るが故に、人間は菩提(道)心生じ、坐禅を生んで、「宇宙 (生命)の本質」(涅槃)に回帰し得るのである。 貪の意義 は、 三毒(貪・瞋・癡)為らぬ貪と云うものは、人類にとって必要悪であり、 或る意味で、人類の進化に不可欠為るものである。 要は、諸悪の根源為る貪も、三毒為らぬ貪から、人類の智慧によりて 、三善根(施・慈・慧)に転じ、世界人類の幸福と平和と繁栄への起爆 剤と為り得るのである。 是が霊妙極まりなき涅槃妙心智慧の働きであり、人類の真価である。 智慧の可能性は無量である。 福聚海無量 人類の心の進化には坐禅が必要不可欠。 坐禅無くして心の進化無し。 世界人類の幸福と平和と繁栄に坐禅が不可欠である。 坐禅が無いから現今の地獄なのである。 坐禅が必須科目に為れば、世界は間違い無く平和である。 貪が無ければ、人類は或る意味で求道者か動物である。 人類が動物と異なる処は、貪である処と知恵(智慧)が有る処だ。 故に人類は凡聖を問わず、究極の真理に至り得た、東洋の叡智為る 坐禅を行ずべきなのである。 三毒(貪・瞋・癡)―→地獄―→坐禅 貪には坐禅が正道なのである。 坐禅の功徳は不可思議である。 覇権の根源は、貪に因る信頼の欠落である。 貪無ければ覇権対立在り得無いのである。 人種差別の貪はヒトラー独裁の貪に転じ、やがて其れは原爆支配体 制の貪から、貪の母体為る生命存続の危機に瀕せざるを得ない状況 に陥って居るのである。 人類は今や、本質的絶対信頼によりて、原爆支配体制と云う貪の権 化の擡(たい)頭を地上非核化によりて根絶し、地上が一丸と為りて 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)へと進化せ使めねばならないのである。 人類史は正に貪に基づく人種差別 の歴史であった。黒人差別然り。 ヒトラー然り。現代に至りて、是が 原爆投下、支配に極まるのである。 是等総ては貪の裏返しの極悪であ る。 世界人類の幸福と平和と繁栄には 規則正しさ (鉄則) が不可欠である。 《 一 (いつ) の世界 》 人間が「勝った、負けた」の二元相対から出るには、吾命と一(いつ) 為る全人類の命為る立場、自他間の命が一枚岩である意識、 自他別個の命で無いと云う意識でなければ、物が二つに見えてしまう 。二元世界と為る。 此の大いなる立場でない限り、二元対立世界から出る事は出来ない。 一つ物を二つに分けない。 一(いつ)為る立場である。 《 坐禅の威儀 》 坐禅は人間の性能を向上させる根本である。 何と為れば、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの人類の無上法である からである。 諸悪の根源為る三毒(貪・瞋・癡)も、坐禅を行ずる事によりて、悟ら ずとも、即三毒為らぬ貪、「涅槃」に於いては貪為らぬ貪 に転ずる 事が出来るのである。 坐禅と云うものは行ずるだけで、其れだけの功徳を生ずるのである。 坐禅を行ずれば、其れだけで悪い事が出来無く為るし、嘘が付け無く 為る。 三毒(貪・瞋・癡)為る存在であるが故に、人間は坐禅をしない。 敢えて人類は坐禅を興隆すべし。 老若男女を問わず、日々二十~三十分でも坐禅に親しむ事は、世界 人類の幸福と平和と繁栄の礎を自(みずか)ら築く事に為るのである。 米国の地上核武装と中国の香港、 台湾、尖閣諸島覇権支配とを 交換条件に和解すべきである。 相互に、此の「世界人類を生(活) かす」立場( =本質的絶対信頼)に 立脚すれば、世界人類の幸福と 平和と繁栄の礎を築く。 《 本質為る現象 》 本質と現象は哲学の最重要なる根本的課題であったが、小生鐵漢が 此の令和新世紀に此を永遠に不滅為る恒常普遍の真理として、吾身 心に体現したのである。是、人類史上空前絶後であり、従来の大脳新 皮質の解釈為らぬ、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に帰一する事により て、本質(涅槃)に現象(進化)し往く生命の真実(理)を世界人類に開 示するものである。 人類は、 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しに応じ(=坐禅を始め) 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に接近し(=悟り(身心脱落し))、 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に接触し(=解脱し)、 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に帰一する(=(覚天して)涅槃入りする )。 世界人類は此の本質(涅槃)に現象(進化)し往く生命の真実(理)為 る能力を享有して居るのである。 小生がネットを始めたのは、此の真理を知って戴く為に他ならないの である。 世界人類の誰一人として、此の真理に違(たが)える事は出来ないの である。 何と為れば、是は世法を超越する、誰も侵す事の出来ない真理である からだ。 不昧因果為る因果の道理と共に、世界人類の物質的、精神的基本 的条件を確保しなければ為らない根拠が此処にあるのである。 令和新世紀以降の世界人類の択(と)るべき心は明確である。 此の真理に基づく新世法を世界的に構築しなければ為らない。 《 真理の前後 》 宇宙の真理を体現したのは、人類史上、小生独りである。 是が、古代からの「解脱」の別称としての「涅槃」でなく、小生が「覚天」 して「涅槃入り」した真実の「涅槃」である。 故に、此の真理為る「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に至った前後で、 従前の人類史が根本的に一変するのが 当然である。 何と為れば、本質無き現象の時代から本質に基づく現象への転換点 であるからだ。 要するに、虚構から真理(実)の新世紀への本質上の大転換期に直 面して居る訳である。 小生の高校入学当初、中退しての正に此の真理への試行錯誤の極 大振幅、つまり生に対する疑義の塊から五十四~五十五年後の古希 の(五年間で十五回にして十六回目の)「覚天」から「涅槃入り」へ収 束し、減衰し往く振動であった。 宇宙の本質が人類を幸福と平和と繁栄に導く(進化せ使むる)も のであると云う事は、小生鐵漢によりて既に実証(=体現)された 真理(実)であるが、人類には正に意外にしか思えないが故に神 を虚構するのである。 宇宙其のものが、本来、永遠に恒常普遍に総ての人類を向上さ せるべく機能して居ると云う真実が驚きであるからなのだ。 然るに是は、仮令(たとえ)、人類が如何なる境遇にあろうとも、永遠 に不滅為る恒常普遍の真理である。 斯(か)るが故に、人類は新たに微細に其の境遇を隅々に至る迄、 構築、完遂して往かねばならない。 我々が本来如何に恵まれた存在であるかは、実に驚くべき事であり、 感謝し、恩を抱かざるを得ないのである。 人類に本具する、此の能力を享有しなければ為らないのである。 此の本具仏性を覚ら使めるのが恩師釈尊であり、外から得られる相 対的為るものでなく、絶対的恩恵を知ら使めるのが吾師の恩であった のだ。 地獄に堕ちるのも、涅槃へ趣くのも、吾心一つによるものである。 《 情と菩提心 》 情と云うものは、欲から大脳新皮質への進化の途上に形成されたも のであり、欲に基づくものである。 情に生(活)きれば、世の中は間違い無く地獄に落ちるのである。 其処を大脳新皮質で制御するのである。 其の方法論として、過去より宗教生まれ、学問生まれ、芸術等が生ま れたのであるが、其の為に最上為るものが最初に「悟り」として、大脳 新皮質の最上為る機能である菩提心によりて、心の進化を遂げたの である。 正に万物の霊長足る人類であった。 是が心の進化の端緒と為った訳であるが、是以来、本質的心の進化 は果たされる処か、寧ろ釈尊の予言通り、退化し、今や地獄への 一途で、正に世界人類が生命の存続の危機に瀕しているのである。 図らずも不昧因果にして機を逸せず、二千五百年後に小生鐵漢が 菩提心によりて「覚天」し、「涅槃入り」して心の進化を完遂し得たので ある。 此の宇宙の真理を生(活)きるには、情を超越した、大脳新皮質の最 上機能である菩提心に基づかねば為らない。 情に基づく施政でなく、菩提心に基づく施政でなければ為らない。 つまり、菩提心によりて至り得た「宇宙(生命)の本質」の究極の、 永遠に不滅為る恒常普遍の真理である「涅槃」に基づかなければ為 らないのである。 如何為る知恵も、涅槃妙心による智慧には及ばない。 「涅槃」とは涅槃人の真中道によりて体現された真理であり、 世界人類には、釈尊中道と共に、鐵漢真中道による、 少欲、知足にして、三毒(貪・瞋・癡)転じた三善根(施・慈・慧)の 涅槃妙心智慧による「世界人類を生(活)かす」施政(生き方)が為さ れなければ為らないのである。 《 世界人類の真の教え(=真理) 》 小生、自(みずか)ら顧みるに、高校入学当初より中退して以来の混 沌から始まった。 正に盲人が闇中を徘徊するが如し。 家を出て放浪して回ったり、敢えて就労してみたり、宗教団体に関心 を寄せたり…………。 小生が真面(まとも)に然(そ)う遣るから、両親も半ば協力的に小生 に一任せざるを得なかった様である。 此の状態から始まっているのだ。 今の小生が、五十四~五十五年前の小生に出会っていたならば、 即刻、坐禅により教導出来、小生が「坐禅入り」する迄の十年間は 要しなかったであろうが、先ず何よりも、吾師の恩恵を受ける事が出 来た事が、最も小生の運命を決定付けるものであった。 師の千日行の賞揚である。 此の究極に至り得たのは、正に空前絶後であった。 斯くして、顧慮するに、 釈尊の御遺教は二千五百年前の古代文明の古代人から生まれた「 解脱」の、極仏を残したる唯一の真理であったのだ。 極仏を認めたるが故に、下化衆生に未だ完全に徹し得ざる部分を残 す。是は上求菩提に対しても同様である。 敗戦真際の特攻隊の様なものである。 此処は真理に基づいて、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰しなけ れば為らないのである。 当時は諸悪の根源、三毒(貪・瞋・癡)を重視したが、 小生は、更に心の進化を遂げ、「世界人類を生(活)かす」涅槃妙心 智慧を最重視するのである。 是によりて、自(おの)ずから悪の根源は消滅するのである。 諸悪の根源を断絶し得ない、果て無き極仏が、真理為る「世界人類を 生(活)かす」涅槃妙心智慧に転換したのである。 受動、消極的為る諸悪莫作よりも、 能動、積極的為る修善奉行によりて 自浄其意するのが真の「教え」足るのである。 今の混沌世界に於いては、地獄で悪を正すのでなく、 「真理」で世界人類を教導すべきである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰し、 本質的絶対信頼に基づく、本質的改善を世界的に実践すべく、 其の為の涅槃妙心智慧を世界的に興し、施政しなければならない。 阿部氏の持病が、 日本の命運を 左右すべきではない。 《 真の出家者 》 湖上で、小舟から落ちて溺れ掛けている親を見捨てて出家したと云う 中国の故人の逸話は、 吾親と世界人類の救済と二者択一を迫られたら、如何するか? と云う事を示唆している。 若し、吾親を選択したならば出家の意味がない。 仮令生き延びても、其の背後には世界人類の犠牲が在るのである。 真の出家者のみならず、世界人類は此の覚悟無くして、 世界人類の幸福と平和と繁栄は確立し得ないのである。 是を貪 と云う。 世界平和と貪とは対極を為す。 ヒトラーは此の真逆の貪著である。 日本から世界へ、地獄の三毒(貪・瞋・癡)為らぬ、 「悟り」の三善根(施・慈・慧)、「涅槃」の涅槃妙心智慧を 確立し往かねば為らない。 《 米国大統領選 》 米国の大統領選は、もう既に選挙されている。 小生の真理の「涅槃」か、 トランプ氏の諸悪の根源の三毒(貪・瞋・癡)かである。 全世界総ての人々の心は、 真理の「涅槃」と、三毒の奴隷との選択を迫られているのである。 前者を択(えら)ぶ人は、既に救われ、 後者を択(えら)ぶ人は、苦海に没するのである。 是は選挙以前の、誰も逃れる事の出来ない、 一人一人の明暗を分かつ、心の問題である。 《 分 別 》 菩提心以前の「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しによりて瞑想を 生んだ、社会構造化以前の村落での農耕古代人の生き様が最も純 朴であったであろうが、狩猟生活以後の最も安定した、心の進化の出 発点とも云うべきものであっただろう。 世界人類の幸福と平和と繁栄の為には、相対的分別我意識も欲も不 可欠であるのであるが、人類の三毒(貪・瞋・癡)による、「勝った、負 けた」、「取った、取られた」の二元相対の分別意識を象徴するが如き 、地球規模での地上を二つに分断せしめた二度の世界大戦を惹起し たのである。 人類の特質は、社会構造化すると共に「宇宙(生命)の本質」(涅槃) の働きによりて、人類三毒から菩提心生じ、「宇宙(生命)の本質」(涅 槃)へ接近して「悟り」、接触して「解脱」し、帰一して「覚天」して「涅槃 入り」し、極仏了じて「行」から「人」へ転じ、「世界人類を生(活)かす」 処の「涅槃」に回帰し、宇宙(生命)の進化(=上求菩提)を完遂した 事である。 絶対我意識 は「悟り(身心脱落)」による、宇宙に唯我為る自己の自 覚であるが、相対我意識 は諸悪(苦)の根源為る三毒(貪・瞋・癡) 害を蔓延(はびこ)らせるのである。 原爆無くんば、生涯後厳密千日涅槃行無く、「涅槃」無し。 極々悪為るが故に、極々善生ず。 十六回目(五年間)にして初めて、原爆投下の極悪業(=被爆と云う 地獄)に毫釐(ごうり、ほんの少し)も違(たが)わざる善業報為り得た 訳である。 「覚天」し「涅槃入り」して、上求菩提完遂したのである。 「行」でない、「人だ!」。「涅槃」の「人を生(活)かす」である。 吾師が、東京東照寺より福岡安国寺専門僧堂攝心会師家として来ら れる時に、『新幹線の窓の外を眺めていたら、壁に、アメリカ打倒!と 書いてあった。』と言われた。『嬉しかった。』とポツリと呟(つぶや)か れた。 今に及んで、其の事が思い出されるのである。 人類三毒(貪・瞋・癡)は、止まる処が無い。 斯(か)るが故に、原爆投下後の感染症パンデミックによる、今の地獄 に陥っているのである。 過去の人類の悪業に報いるべく、小生、一年前の「覚天」による「涅槃 入り」であった。 心の進化の究極は「宇宙(生命)の本質」(涅槃)である。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)へ至るには、心の進化を完遂しなけれ ば為らない。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しによりて、坐禅を始め、 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に接近し、接触し、帰一する事によって、 悟り(身心脱落し)、解脱し、覚天するのである。 我々は坐禅によりて悟る(身心脱落する)事で、日常性を超越する大 いなる生命を覚知し、解脱によりて、我々の心の煩悩や迷妄(苦)は、 円相で表現される処の「宇宙(生命)の本質」(涅槃)為るこころ(=本 質)の一波万波(=現象)に過ぎないのだと云う確信を得るのである。 更に、「覚天」によりて、心の真源為る「宇宙(生命)の本質」(涅槃) から吾身心が正される。 是、刹那に為される「涅槃」の体現である。 此の刹那以来、一時の坐禅も為していない。 既に身心で其の無駄を承知して居るからである。 身心が坐禅を為さない。 坐禅を為す時間があれば、遺教する 斯(か)様に、こころの真源と「宇宙(生命)の本質」(涅槃)とは同義で ある。 心の進化を究竟して初めて、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)へ至り、 「大涅槃人」と為るのである。 真に宇宙(の本質)を知る者は学者でなく、進化の究極為る最後身心 の「大涅槃人」のみである。 米国の大統領と日本の大涅槃人に、分別と智慧の人類の両極を見 る。 是、原爆の投下者と被爆者である。 不昧因果 。 極仏は菩提心によるもので、大脳新皮質由来の菩提心は身の進化 の究極で、心の進化の究竟の始まりである。 菩提心は宇宙の恒星の如き物で、宇宙以上でも、以下でもない。 恒星は生命誕生の原動力(エネルギー)であり、宇宙を構成している。 此の菩提心によりて、我々人類は心を、「宇宙(生命)の本質」(涅槃) に迄進化させ得たのである。 つまり、是は瞑想に始まり、「涅槃」に上求菩提を了じ、 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰するのである。 宇宙を超出するものは在り得ない。 生命を超出するものものが無い様に。 「最後身心」とは「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰し足る「大涅槃人 」の事である。 無限為る菩提心為るが故に、其れをして、究竟本質を了じ得たので ある。 故に、極悪も限界に至ったと云う事である。 是以上の造悪は、地上の終末を意味する。 つまり、自今已後は通戒偈、 『諸悪莫作 修善奉行 自浄其意 是諸仏教』 の真理(実)を、今にして真底より再認識するに至るのである。 世界人類が共に負を平等に分かち合い 、能動的、積極的に共に生 (活)かし合って往かねばならない。 無知、無関心、は言う迄も無く、「人を捨てる、否忘れる」事すら「宇宙 (生命)の本質」(涅槃)に違(たが)えるのである。 即ち、間接的造悪である。 常に、能動的、積極的に「世界人類を生(活)かす」でなければならな い。 自今已後、如何なる国策も、涅槃為る真理に基づいて施政されるべ きである。 米中は地上非核化と覇権行使とを交換条件に、時を移さず積極的、 能動的に和解するのが最善策である。 双方が垂範以って、諸悪を放棄して、生(活)かし合うのでなければ、 地上の地獄を改善して往く事は不可能である。 早い程、世界人類を生(活)かす。 「百害有って、一利無し。」である。 絶対為る心の真源に、双極為る相対対立である。 真源は相対より生じて、相対へ回帰する。 双極は双極を出でず。 真源無くして、双極為らず。 真源在りて、初めて双極が双極足り得るのである。 双極が真源を「忘れず、捨てず」。唯、真源を生(活)かすのみである。 《 淫快について 》 淫快は本来ならば迷妄為るものであるが、負である と云う事が解る のである。 是は、今に至って、有り難い事であると、嬉しい気がする。 是非を、真理の為に真理より断言する。 釈尊ならば、『静かな所に独り居を楽しむべき。』と御遺教で説かれ、 詳細には及ばれていない。 小生、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰して一年に為るが、是は 此の真理より、真理の為の真実である。 一年前に「覚天」する迄は、全く問題に為らなかった事であるが、「涅 槃入り」して一年に為る今、得られた真実である。 八大人覚で、少欲、知足、そして楽寂静(遠離)、精進、換言すれば 坐禅生活とも言える、で決して淫快を採らないのは真実であり、最 も安楽であると共に、人間と云う者は二十四時間刹那刹那に進 化しなければ為らないと云う事である。 人生とは、正に此の真理への真実一路なのである。 此の菩提心、つまり無形式の形式(=無分別の分別)を形成し、無行 の行、つまり本物の、分別に拠らない生き様を生むのである。 斯(こ)うしなければ為らない、と云うものでなく、自(おの)ずから本能 的に然(そ)う在ると云うものであるが、結果的に形式を踏襲する事に 為る。 かと云って、「覚天」以前の厳密さではない。 自(おの)ずから、然(そ)う在るのである。 少欲、知足は基本であるが、 五欲(睡眠欲、食欲、性欲、金銭欲、名誉欲)に於いて、 睡眠欲と食欲は必要最小限が少欲、知足であり、 性欲は、淫快は捨てる。 是が迷妄を生ずる処の最足るものである。 人間の本質的力を付けるのは、淫快を捨てて掛かる 事である。 然るに、世間と云うものは、金は必要最小限は無ければ為らないが、 淫快は必要最小限と云う訳には往かないが、淫快を捨てる事で真理 に適(かな)うのである。 永遠に生殖以外、生む事の無い、無駄な二元相対意識は不要に為る し、目的が明快に為る。 集中するし、エネルギー効果が極まる。 心身共に最上の状態を生むのである。 名誉欲は、要するに「世界人類を生(活)かす」に正されるのである。 我に基づけば造悪であるし、無我に基づけば真理に適(かな)う。 是等を実現するのが世界人類の物質的、精神的基本的条件確保に 基づく施政である。 当然の事ながら、是は全一的在り様を志向すべきである。 東洋と西洋夫々の長所を生(活)かし合わねばならない。 根本義為れば、自(おの)ずから拓(ひら)く。 力有る者が、世界を制(=教導)するのである。 力とは真理である。 《 「解脱」から「涅槃入り」迄 》 「解脱」迄の坐禅は「自己を忘れる」、及び其の初厳密千日解脱行で あるが、 「解脱」以降の坐禅は解脱によりて、我々の心の煩悩や迷妄(苦)は、 円相で表現される処の「宇宙(生命)の本質」(涅槃)為るこころ(=本 質)の一波万波(=現象)に過ぎないのだと云う確信を得て、やがて 極仏の「後行(=生涯後厳密千日涅槃行)入り」し、「常に坐禅の中に 於いて衆生を忘れず、衆生を捨てず、あらゆる功徳を一切に回向し 」、十五年余り後に「涅槃入り」する事と為ったのである。 「解脱」以降の、後行による「涅槃入り」迄は、地上から大気圏外へ出 る様なもので、果てし無く宇宙空間を、唯離れ往く様なもので、是は、 其の事自体が、「人類を生(活)かす」事ではないと云う事を自(おの) ずから体現して覚(さと)る、「覚天」する迄の上求菩提の究盡なので ある。 是、人類空前絶後の体験であり、是から人類は「人を生(活)かす」と 云う刹那を必然的に「宇宙(生命)の本質」(涅槃)から「覚天」為る体 現為さ使められるのである。 人類が褶曲為らぬ断層的進化を遂げる時は、人類も自力では為し得 ない。人類が自ら奇跡を起こし得るものでもなく、「宇宙(生命)の本質」 (涅槃)に帰一するには、人類任せでは、其の進化は為し得ないので あり、「大涅槃人」によりて、小生が吾師によりて、軌道を敷かれた如 く、今は小生が吾師の働きを担うというのも不昧因果である。 菩提心は宇宙の恒星の如きもので、宇宙以上でも、以下でもない。 恒星は生命誕生の原動力(エネルギー)であり、 宇宙を構成している。 此の菩提心によりて、我々人類は心を、「宇宙(生命)の本質」(涅槃) に迄進化させ得たのである。 是は(釈尊中道の)諦観でなく、刹那の「覚天」であり、菩提心の坐禅 による「悟り(身心脱落)」と、初行による「解脱」と、そして最終的「涅 槃入り」なのである。 此の最終的「覚天」が無ければ、世界的に敗戦時の特攻隊を認める が如き生き方しか採り得ないのである。 第三次世界大戦に至る事は不可避と為るであろう。 要するに、我々が生きると云う事は、国境を境にして他国を忘れると 云う事は第三次世界大戦が不可避であると云う事なのである。 決して「忘れ」てはいけないし、況(ま)してや「捨てて」はならないので ある。 「忘れる」事すら、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違(たが)えるのであ る。 「忘れた」刹那に「宇宙(生命)の本質」(涅槃)によりて正されたので ある。 此の、身心を挙げて、刹那に理屈抜きに、閃光体躯を貫くが如く、体 現するのが、上求菩提としての仏道の究極である。 斯くして、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に回帰し、「世界人類を生( 活)かす」と云う涅槃妙心智慧による真法を構築して、是を完遂せね ばならないのである。 是は感染症パンデミックからの智慧に留まらぬ、「宇宙(生命)の本質 」(涅槃)の永遠に不滅為る恒常普遍の真理によるものである。 道元禅師が『宝慶記』に、 「坐禅の中に於いて、衆生を忘れず、衆生を捨てず、乃至蛆虫に迄も 常に慈念を給ひ、誓って済度せん事を願い、あらゆる功徳を一切に回 向す。此の故に仏祖は常に欲界に在って坐禅弁道す。他界は愁苦無 きが故に菩提心発せず。世々に諸々の功徳を修して心柔軟為る事を 得。」と師の如浄禅師の(釈尊大乗禅の)御説法を記録されている。 道元禅師入滅後、荼毘に付し、舎利を収めて四ヵ月後に二祖孤雲慧 奘によりて遺稿の整理が為されたのである。 衆生を忘れ、衆生を捨てれば菩提心発せず、 菩提心を発して衆生を済度する為に敢えて欲界で坐禅弁道された。 又、「衆生を済度する」とは、「人を度す」。 釈尊に於いては、仏子を度し、八大人覚を教導する事であった。 其の意味での、衆生を忘れず、捨てずである。 「解脱」迄の上求菩提では、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)には及ばざ る事が「覚天」による「行」でない「人だ!」である。 「人を生(活)かす」の「涅槃入り」であった。 「世界人類を生(活)かす」のである。 此処に於いて初めて、上求菩提を完遂し得たのである。 正確に言えば、是は一年後には(「我(国)の為 の吾」でなく、)「世 界人類(の為 の吾)を生(活)かす」である。 太陽の如き「涅槃」と、蛍火の如き「解脱」である。 是をして真に「人を忘れない」、「人を捨てない」である。 是が「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違(たが)わない事である。 忘れるだけでも、捨てるだけでも「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違え る。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違えない為には、 極仏の「後行(=生涯後厳密千日涅槃行)入り」しなければ為らなかっ たと云う事である。 「忘れる」、「捨てる」から激甚自然災害、感染症パンデミック、人種差 別、原爆支配、更に大量破壊兵器…………と為り、 地獄への一路を辿ったのである。 仏道は「解脱」でも世の中に浸透しない。 「悟り」すら無いのである。 唯一の永遠に不滅為る恒常普遍の真理である、「宇宙(生命)の本質 」為る「涅槃」から教導して初めて、世の中に浸透し往く。 従来の政治に真理は無かった。 然るに、真理に基づく強固なる国際協調と其の施政によりて、やがて は、真理が世界人類の隅々に迄浸透するのである。 宇宙の真理に基づかない限り、世界人類の幸福と平和と繁栄は在り 得ないのである。 米中対峙する二元相対世界には永遠に打開策は見出せない。 唯一為る真理無きが故である。 空前絶後為る日本発の真理への絶対信頼によりて初めて、双方に 本有する信頼が可能と為るのである。 従来の伝統では不可能である。 此の真理の礎は千日初行であり、不可欠為る千日後行であったのだ。 小生が「涅槃入り」して「世界人類を生(活)かす」と云う 永遠に不滅為る恒常普遍の真理を得たのである。 軌を一にするかの様に、激甚自然災害と感染症パンデミックにより、 世界人類は生存の危機に瀕し、従来の生き方の見直しを余儀無くせ ざるを得なく為った。 此の機を逸しては、永遠に人類の幸福は在り得ない。 今程、人類の底力を発揮しなければ為らない時は、二度と現れない のである。 世界人類の指導者達は一丸と為りて、此の覚悟をしなければならな い時である。 此の自然破壊と人間破壊に対処し得るのは、人間同士の対立でなく、 真理に基づく信頼による団結以外には在り得ない。 是が人類の智慧であり、更なる智慧を生む為の原智慧であり、 根本智慧である。根本智慧とは宇宙の真理である。 菩提(道)心と探究心の違いについて、 前者は、心に本質が現象されたものであり、常に心に存在する。 後者は、本質の現象を表象(記号、象徴)化しようとする心であり、 意識的に存在する。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)が心に「促し」として、無意識的に現象す る。 総ての宗教家に欠けるものが、「涅槃」と云う真理の体現であり、 哲学者に欠けるものは、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)と云う、 永遠に不滅為る恒常普遍の真理の体現である。 真理の体現無き産物に過ぎない。 《 三毒と真理 》 人間と云うものは、「自覚」の問題である。 何処迄自覚が及んでいるか? である。 動物に自覚は無い。 唯、本能任せである。 「大涅槃人」は、宇宙の調和と均衡と静寂足る涅槃妙心への自覚か ら、無自覚為る迷妄によりて生じる、実在しない影を、恰も甘露を飲む が如く、済ますのである。 是が、不完全為る自覚者によりて、力による分裂を生じ、戦争に至ら ざるを得なく為ってしまうのである。 故に、此処に、「大涅槃人」の(涅槃妙心)智慧によりて、明快に事が 済み得るのである。 究極の自覚は、世界人類の幸福と平和と繁栄である。 此の自覚には、如何なる三毒(貪・瞋・癡)も如何とも為し得ない。 此の宇宙に、一塵も無きが真也。 人類の三毒(貪・瞋・癡)は宇宙(生命)の真理への必要悪足る迄。 《 本質と云うもの 》 小生は昔から、人のする様な事には興味が無かった。 人の遣る様な事は大した事無いのだと云う単純な気持ちである。 故に、今が在ると云う事は、恐らく間違い無い気がする。 何か、然るべき能力を持って居れば、其れに専念していたかもしれな いが、然(そ)うした才能が無かった御蔭で、人類の能力を超えた、「 涅槃」と云う「宇宙(生命)の本質」の永遠に不滅為る恒常普遍の真理 に至る事が出来たのである。 人類には、能力が無い事こそ一つの才能であると云う事を忘れては 為らない。 恐らく、子供心に、然(そ)うした諸道の限界が、直観出来ていたのか も知れない。 何にも考えた事も無いのだけれども、本質と云うのは、然(そ)う云う もので、老若男女に拘らない。 人がしないから、人が言わないからこそ、しなければ為らないし、 言わねば為らないのである。 宇宙(生命)の真実であるからである。 《 涅 槃 論 》 キリスト教に於ける終末論、或いは釈尊の末法思想等、 人類の未来は、地球の寿命を待たずして、近未来的に終わりが訪れ ると云う悲観的為るものであるが、斯(こ)うした思想や論法に拘らず、 実態は、「宇宙(生命)の本質」は人類をして「涅槃」へと進化せ使める ものである。 令和新世紀を境にして、是以前の二元相対の対立世界とは異なって、 今や、「涅槃」の絶対信頼世界で在るべきなのである。 従来の貪は、必要悪としての貪の極悪為る弊害を生むに至ったので あり、其の確証為る「宇宙(生命)の本質」(涅槃)への接近、接触、帰 一である。 即ち、現今の三毒(貪・瞋・癡)害悪の極限状況と、其の対極としての 「覚天」であったのだ。 極々悪の対極としての極々善との最大振幅からの、「涅槃」への減衰 振動しつつ収束し往く未来を、我々は築くべく心の進化を完遂しなけ れば為らないのである。 人類の三毒(貪・瞋・癡)は三善根(施・慈・慧)へと進化しなければな らない。 原爆支配からの「涅槃入り」に至るべく進化を遂げなければ為らない のである。 涅槃論の根拠は、小生鐵漢の「覚天」であり、是は自己自身、絶対に 否定し得ない真実である。 是は、従前の思想や論法でない、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)を体 現した真理(実)である。 世界人類の真の底力、真価が問われるのである。 《 迷 路 》 人間、何事も学問的に為ると、小さな迷路に入り込んだ気がする。 何度試みても迷路から出られない。 一旦退いて、 小生が至り得た「涅槃」から俯瞰すれば、 其の結果から、其のものが、もう既に 其れ等迷路に正解を与えているのだ。 小さな入り込んで苦しむ必要は無いのだ。 「涅槃」を遣って居れば、もう既に済んでしまって居るのである。 《 菩提心と性欲 》 最低限度、世界人類の平和の為に、 自己の性欲を捨て得る者でなければ、 其れは二元相対の身に過ぎない。 こころ足り得ない。 最低限の菩提心有る者は、果たして幾許ぞ。 世間とは其の身である。 性欲(淫快)すら意の儘に為らなくて、 一体何を為し得るであろう。 此の足場の無い処の向上する力(エネルギー)を菩提心と云う。 此の菩提心が最低限不可欠である。 でなければ、人類と言えども諸々の禽獣と相異なる事為し。 恥を知らない。 心の進化無ければ、地上は破滅するであろう。 求める事しか無いのを貪と言う。 唯、三毒(貪・瞋・癡)の害毒在るのみである。 先の、世界が二つに分断し、殺し合って、瀕死状態の日本に二度の 原爆投下で世界に勝利宣言をした。 此の三毒が、今や感染症パンデミックで世界最大の感染者と死亡者 を出し、其の政治中枢機関に世界最大の犠牲者を出したのである。 更に其の大統領選挙戦に於いても、最悪の選挙討論会を世界中に報 じ、選挙に於いて勝敗を認めない飽く迄も我執を押し通そうとするが 如き世界の指導者は、正に嘗てのヒトラーである。 嘗てヒトラーを封じ込めた連合国家のリーダーが今やヒトラーと為り、 中国を対峙する国家として立ち向かい、第三次世界大戦に向かわん として居るのである。 これがアメリカ国家の実体である。 此の宇宙に真理程強いものは無いのである。 だからこそ真理だ。 永遠不滅にして恒常普遍である。 真に強いと云う事は、二元相対世界ではない絶対世界である と云う事。 つまり、「悟った」、更には「解脱」し、 もっと強いのが、是、「宇宙(生命)の本質」為る「涅槃」の世界である。 此の絶対自己の絶対信頼に基づくのが、 世界人類の幸福と平和と繁栄の絶対世界である。 《 職 業 》 人間は職業が有れば、職業に依存する。 此の依存が諸悪を生む事と為るのである。 坐禅道は一切何物にも依存しない生命である。 故に托鉢による乞食行であるし、 往き着く処は、行無き行であり、 正に太陽の機能の様なものなのであろうと思う。 太陽は太陽である事を知らず、一切を生(活)かす。 宇宙(生命)の進化機能の様なものである。 職業も在るべき処のものは、限り無く果てし無い。 治生産業、元より布施に非ざる事無しである。 《 人を生(活)かす 》 我々は、世界人類と共に、万物の霊長として平不平等を超えて、同じ く命を受けて生(活)かされた。 然るに、其れ等の命が後天的に何等かの諸条件で、不平等為る格 差の下に生活を強いられているのである。 其れ等の不平等為る格差は、屡(しばしば)、其の国家の国政や民族 意識や文化に原因がある。 是等の原因を改善する為に、本来の物質的、精神的基本的条件を世 界規模で確保すべく、世界人類が彼等と共に生(活)きると云う事で ある。 《 日本と米国 》 人間は本有の三毒(貪・瞋・癡)を、「悟って」、或いは智慧で、本具す る三善根(施・慈・慧)に転ずる事が出来る。 現今の米国と日本に、人類の三毒と三善根の典型を見る気がする。 此の事は、人類が如何に生きるべきかを如実に顕現するものである。 人間は「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰すべく、諸悪の根源為る 三毒(貪・瞋・癡)による能力で勝っても、修善為る三善根(施・慈・慧) の智慧によりて生きるべく進化を遂げねばならないのである。 《 米国の真の罪過 》 米国の真の罪過は、二度に亘る、日本への原爆投下にあったのでは ない。 是以降の日本を統治する体制にある。 日本国民の心を、永遠に世界覇権の踏み台にして居る事である。 日本国民を米国の世界支配に仕るべき犠牲者にしている事である。 十六世紀の大航海時代以降の黒人奴隷に始まり、今に至る此の米 国国民の心底に巣食う是等の横柄さは米国の最大の致命的なる過 失である。 此の米国の三毒(貪・瞋・癡)の毒害が、日本国民のみならず、世界 人類の精神を毒して居る罪過を心底より米国は自覚しなければなら ない。 世界人類をして、原爆投下の正当性を認めさせ、原爆支配を肯定せ 使める限り、世界に信頼心は育(はぐく)まれないのである。 更に、日本人が、此の事を甘受する事自体、日本国民の精神を永遠 に腐敗せ使めるものである。 米国が自(みずか)らを反省して、撤退し、真の精神的自立を遂げ、 其の物質的力を世界に施し、世界人類共同体と為る事によりて、 世界から真の信頼を得れば、世界平和は、やがて訪れるのである。 人類三毒(貪・瞋・癡)による必要悪は「涅槃」を目的とするものであり、 令和新世紀以降の「涅槃」の世界に、最早必要悪は在り得ないのであ り、虚偽為るもので、最早在っては為らないものである。 《 涅槃の世界人類 》 釈尊に基づいた小生の生命体験が「覚天」為る涅槃入りの刹那であ った。 二千五百年前の釈尊も成道され、同じ志であったと思う。 其れは、東洋精神が進化した、世界の頂点であったのだ。 そして、吾師伴鐵牛老師によりて、既に軌道が敷かれ、不昧因果にし て、師の滅後二十四年、見事に心の進化を遂げたのである。 小生の完璧なる無疑其のものが、「涅槃」の真理を自証 (自(おの) ずから証し以て往く)して居る のである。 此の体現こそ、正に世界平和の礎である。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)が世の真法の真正為る根拠足るのであ る。 是に違(たが)う者(国家)の悪業報は必然にして不可避である。 小生の高校入学時の若い頃、若し是在らば、即刻此の道に身を置い たであろう。 然るべき真遺教である。 《 永遠為る「涅槃」と云う真理 》 「涅槃」と云う真理為る「宇宙(生命)の本質」は現象し、不可思議為る 刹那に人心をして進化(=体現)せ使めるのである。 我々人類に於いて、身からこころ へと進化したのである。 スポーツ→芸術→学問(哲学等)→宗教→涅槃(への段階的諸体現 ) 唯、体現 在るのみ。学問するか「涅槃」 するか?である。 何れも険しい道ではあるが、世界は「涅槃入り」しなければ物は言え ない。 自己を運びて、「悟り」、「解脱」し、「覚天」するのでない。 自己為らぬもの が刹那に、霹靂閃電、体現せ使めるのである。 雷の避雷針為る人材とは、菩提心の無心人(=真為る無我)である。 是は生涯正法苦行でなければ為り得ないのである。 此の自己為らぬもの は体現した者でなければ解らない。 是こそ、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)其のものである。 然るに、「悟り(身心脱落)」は、正法苦行以前の坐禅の功徳 により て、(宋の如浄禅師の下で、道元禅師が真剣に本気で坐禅を行じら れて数ヵ月後に身心脱落された様に)小生も坐禅の功徳を楽しんで いた時に、突然グラグラーッと、正に、9・11ニューヨーク超高層ビル 崩壊の如く、自己自身が根底から崩落した訳であります。 是こそ、坐禅で無ければ絶対に在り得ない奇跡でありまして、 是も、自己を運んで遣って居たのではない。 只管、坐禅の功徳 と一つに為って居ったのでありまして、 其処が、雷の避雷針足り得たのであります。 雷とは、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)其のものの、刹那に為される働 きであります。 是等は釈尊の前後を顧慮しても明らかである。 バラモン教→ウパニシャッド哲学→釈尊→小生鐵漢の「涅槃入り」。 心は進化する。 「悟り(身心脱落)」―→「解脱」―→「涅槃」 心の刹那の進化(向上)体験と云う、未知為る「宇宙(生命)の本質」( 涅槃)からの、身心への働き掛けであり、顕現であり、開示である断 層的不連続性によって生ずる智慧(自覚)によりて、人間は心的に生 まれ変わって往くのであるが、是等は説明可能な褶曲的連続性の知 恵や心の成長等とは異なるのである。 《 瞑想から坐禅行へ 》 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しによりて、古代人は農耕生活 裡に瞑想を為したのである。 心の進化の出発点は此の静慮、即ち瞑想(サマーディ;三昧)である。 是が「涅槃」為る「宇宙(生命)の本質」への回帰に帰結するのである。 瞑想(サマーディ)は禅定(ディヤーナ;禅那、靜慮)と訳された。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しと人類三毒(貪・瞋・癡)との 化学反応によりて、人心(=大脳新皮質)に菩提心生じ、瞑想はヨー ガ(苦)行へと進展し、理念上の「解脱」を希求するに至り、釈尊をして 中道に至ら使めたのである。 釈尊の中道によって至り得た成道は、道元禅師や小生の身心脱落為 る「悟り」でなく、自他一如為る、天地同根体験の「悟り」であったろうと 推測される。 又、波羅提木叉(=別解脱)為る釈尊御遺教に、『智慧によりて「解脱 」を得べし』とある如く、釈尊の「解脱」は体現されたのでなく、「涅槃」 同様、理念上のものであった。 人類は「悟って」、人間に本有する三毒(貪・瞋・癡)を三善根(施・慈・ 慧)に転じねばならない。 同じく御遺教に、 『睡眠する事勿れ。諸々の煩悩の毒蛇、眠って汝が心に在り。 常に伺って人を殺す事、怨家よりも甚だし。 睡蛇出でざるに眠るは無慚(=恥を知らない)の人也。 慚恥は鐵鉤の如く、得く人の非法を制す。 無愧(=無慚)の者は諸々の禽獣と相異なる事無し。』とある。 睡眠欲は最も制し難い欲である。 睡眠時間から一時間取って、坐禅する習慣を身に付ける事によりて、 生活全般を生(活)かす事は非常に好ましい事である。 《 必要悪為る三毒 》 人類は何故に三毒為る生命なのか? 其れは、小生鐵漢が「覚天」して「涅槃入り」し、 「宇宙(生命)の本質」為る「涅槃」に回帰し、 そして、此の永遠に不滅為る恒常普遍の真理に基づいて、 世界人類の幸福と平和と繁栄を完遂する為であったのだ。 如何に学問的に真実を究明しようとしても不可能である。 小生鐵漢が至り得た「涅槃」から、総ては明らかと為るのである。 若し、日本に原爆が投下されなかったならば、 小生鐵漢は、「涅槃」には至らなかったであろう。 不昧因果為るが故である。 小生の「涅槃入り」によりて、是迄の人類史は総て肯定されるのであ る。 然るに、一旦「涅槃入り」した以上、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違 (たが)う事は為しては為らないのである。 《 原点から、軌道に乗る迄 》 或る時、寺を衝動的に飛び出して、小生の、完全に孤独な模索が始ま ったのである。 出る前は、吾師の道を歩み、野の花に為るのだと思っていた。 出て、如何に遣って往くべきなのか、と暗中模索であった。 黒でもない、白でもない、グレイであった。 只言える事は、根源的求道の吾菩提心有るのみであった。 星一つ出ていない真っ暗闇の浜辺で、唯海の騒めきを耳にして居る 様なもので一歩も進めないのであるけれども、此の菩提心と云うもの が、道心とも言われる様に、其れ自体が道なのである。 既に、其の場、其の儘で全ては具わって居るのであろう。 危惧一つ有り得ないのである。 是、解脱以前の解脱である。 時には、坐禅すらも捨てるべきではないかとも。 時には歩き回ってみたり。 結局、自転車で日本の海岸線を周回しながらの、テントでの厳密坐禅 行であった。 最初は東京から山側に北上したけれども、急遽、折り返して海岸線に した。 途上、定住して坐禅行すべきであると思ったり、釈尊の坐禅を 為すべきだと思ったりした。 やがて、全く意識に無かった千日行の恐怖が刹那に、心の意識上に 浮かび上がって来たのだ。 其の時、自分の遣って居る事が、其れから逃げて居る事に思えたの である。 其れ以来、千日行が意識の前面に顕れ、只管千日行在るのみと為っ た。 小生、千日行為る正法苦行為らばこそ、大気圏外で地球を周回する 宇宙船に為らずに、地獄の中でも、仏道が息衝いて往けるのである。 千日行無くんば、何処に居ても、其の宇宙船から出る事は不可能で あったろう。 故に吾師は、千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)を賞揚され たのである。 《 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)が進化した道 》 人間社会が宇宙の花其のものである。 宇宙と宇宙の花とは別次元に在るのでなく、宇宙の花によりて、宇宙 は宇宙して居るのである。 宇宙の本質が宇宙に現象しているのである。 此の宇宙は無常であり、刹那生滅の原理と因果の道理に基づき、 進化する。 宇宙の進化は、小生鐵漢の「涅槃入り」を期して、人類に其の必要悪 為る三毒為ら使めたのである。 恐らくは、原爆に対する「覚天」、が人類に対する宇宙、の究竟 なのであろう。 是が宇宙と、宇宙が生んだ人類の在り様の宇宙規範 である。 是は宇宙に於ける国際的外交上の規範ではなく、宇宙に於ける地球 規模での世界人類の規範である。 後は其の仏果為る涅槃妙心智慧によりて、 地上の世界人類の幸福と平和と繁栄によりて、宇宙の進化を完遂し 了えねばならないのである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰すれば、心の進化の起源(原点) が、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し(=予兆)による瞑想であ った事は明白である。 心の進化は瞑想に端を発し、小生鐵漢の「涅槃」に進化完遂したので ある。 農耕古代人の瞑想は人類の輝かしき宇宙の本質為る精神世界完遂 の端緒であったのだ。 人類史に於いて、「涅槃」の体現は「宇宙(生命)の本質」を確証する 以外の何ものでもないのであり、所謂、神や仏を超越した体験である。 是をして「最後身心」と称する。 《 「最後身心」以降の世界 》 日本本土への二度の原爆投下から始まった大量破壊兵器支配体制 は、七十数年後の令和新世紀の、自然破壊による激甚自然災害と生 態系への悪影響に因る感染症パンデミック等により、日常生活存続 の極めて危機的状況を呈するに至ったが、是を回避する為の、世界 人類が択(と)り得べき最善の道への回帰を余儀無くさせられるので あり、是こそ、正に禅の道に他ならないのである。 禅の道に基づいた、幸福と平和と繁栄を新たに構築しなければ、人 類の未来は在り得無いと云うことを、令和新世紀は世界に知ら使める のである。 是は、「宇宙(生命)の本質」の「涅槃」と云う、永遠に不滅為る恒常普 遍の真理を現成するのである。 世界人類が、人種や、国家や、老若男女の差別無く、総て同等に帰す べき本源である。 「大(=宇宙)は小(=差別)を兼ねる」のである。 故に、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に基づく「解脱」や「涅槃」にではな いが、理想的には千日行の菩提心 さえ有れば、既に釈尊の御遺教 の別解脱し、従前の涅槃足り得るのである。 国民と共に、施政者の此の菩提心に基づいた、世界一体の施政が不 可決である。 進化とは優化であり、「涅槃」へと、進化を構築、完遂するのである。 《 性欲と金欲 》 男女間も、金も獲得しようとするものではない。 先ず、菩提心によりて、捨てた処、否全く思わない処から始まって、 其処から出来上がって、両者共自(おの)ずから為る処のものである。 生涯を通じて、両者共考えた事も無い、と云うのが菩提心 である。 自(おの)ずから自然に納(おさ)まる。落ち着く。 然るに、世間と云うものは、其の身の世界で、其れ等に趣く。 故に、釈尊は般涅槃の最期に諭された。 『一心に出動を勤求(ごんぐ)すべし。一切世間の動不動の法は、 皆是れ敗壊不安の相也。…… ……汝等且(しばら)く止みね、 復た語(もの)言う事得る事勿れ。……我滅度せんと欲す。 是我最後の教誨(きょうげ)する処也。』 と般涅槃された。 吾老師が言われて居った。 『金も命も要らないと言う奴は如何仕様も無い。と云う訳ですねェー。』 と。 真理は生命を内包する。 宇宙は「涅槃」為る真理其のものである。 《 「死ぬ」と云う事 》 人間、「身」では死なない。 死ぬのは「心」だ。 故に「心」を養うべし。 「心」を養うとは、精進する事である。 精進するとは、「人を生(活)かす」と云う事である。 「世界人類を生(活)かす」と云う事である。 生死は「心」の問題である。 「身」の死は、物の生滅の問題に過ぎない。 人世、そんなものに全てを懸けて居るのである。 故に情愛も「心」と為るべし。 百年の尊い生命を癡愚に済ますべきではない。 永遠に不滅為る真理(=宇宙)に回帰すべし。 《 大前提上の「涅槃」の完遂 》 宇宙に「涅槃」為る人類を大前提と為し、 人類の為すべきは、人類世界を宇宙の涅槃為ら使める事である。 此処に至るを「大涅槃人」と称す。 人類は必ず、斯く大前提足るべく進化するのである。 是が「涅槃」為る「宇宙(生命)の本質」の現象である。 万物は刹那生滅する無常為る存在であり、其処に時空を生じる。 太陽系地球人類は略(ほぼ)百年足らずを其の寿命と為す。 「覚天」は恰も、身体を害する物を食すと、反射的に嘔吐するが如き もので、間髪を容れない直観(=無分別智)による本能的反射である。 そもそも、存在の把握は、学問では不可能である。 永遠為る可能性に過ぎない。 唯、「涅槃」に於ける直観による智慧でのみ可能である。 其れは、大前提と為す処にある。 其れを分別せず、此の大前提に基づいて、 世界人類の幸福と平和と繁栄を涅槃に迄完遂せ使めるだけである。 人間は「覚天」によりて、全ては明らかと為るのである。 正に、「宇宙(生命)の本質」を神と為せば、小生はイエスであり、 人類に涅槃妙心(智慧)を開示して、其の智慧で世界人類の幸福と平 和と繁栄を構築、完遂せ使めるのである。 是ぞ正しく、虚構為らぬ、永遠に不滅為る恒常普遍の真理である。 《 世界の現況 》 小生が「覚天」して一年一ヶ月が経過し、コロナ感染症も八ヶ月程経 過して、今や戦後七十五年、アメリカ主導の国連による原爆支配と云 う抑圧体制の下に今に至って居る訳であります。 謂わば、人類三毒(貪・瞋・癡)支配の総括としての七十五年であった のである。 此の三毒悪害による、物理的破壊力による人間世界の破壊及び自 然破壊に随伴する激甚自然災害と生態系異常による感染症パンデミ ック等により、世界の指導者を始めとする世界人類間の信頼は、完全 に損(そこ)なわれ、其れに派生する種々な暴動等、それから米国に 於ける、人間性欠落の、半ば本能的黒人差別等、此処に於いて、正 に世界を主導すべき、米国を始めとして、コロナ禍の世界最悪の事態 を招来して居る事実から、我々は特に科学と政治と国民性が齎す最 大の弊害の根拠である人類三毒(貪・瞋・癡)の根本的為る、世界規 模での見直しを迫られて居るのである。 矢張り、人間世界は此の根源に立ち返らざるを得ないのである。 其の事が明確に問われて居る訳であります。 そして、其れと軌を一(いつ)にした、小生鐵漢の空前絶後の奇跡為 る真理の体現であった訳であります。 令和新世紀の菅新政権と米国新大統領選討論会に於ける、最早生 み出すべきものを見失ってしまった無気力為る非難と、其れに対応す る三毒の咆哮である訳であります。 人類が是迄追究して来た結果が、此の今なのである。 此処に於いて、小生鐵漢が日本を始めとする世界に、真理為る「宇宙 (生命)の本質」に基づく涅槃妙心智慧智慧の新世界の構築と完遂と 云う、空前絶後にして、奇跡的真実を開示するのである。 従来の政治と学問では、地獄に至ると云う事実から、是等を根源的に 改革しなければ為らないが為に、現象に翻弄されないだけの本質の 見極めが不可欠なのである。 此の本質の見極め、即ち涅槃世界の構築と完遂以外には在り得無 いのである。 世間的には、伝統を重んずるを重視すれども、伝統と云うものは、 其処から進化した、新た為るものを生み出す踏み台としての存在価値 が有るのであって、人類が安住するものではないのである。 進化した新た為るものとは、正に人類三毒(貪・瞋・癡)世界を三善根 (施・慈・慧)世界に転ずる事以外には無い。 つまり、「人を生(活)かす」。 世界人類を生(活)かし、生(活)かさ使める、と云う事である。 「世界人類を生(活)かさ使める」為には、「人を生(活)かして」居なけ れば為らない訳で、「人を生(活)かす」とは、三毒(貪・瞋・癡)からの 個々人に於ける貪著を離れて、三善根(施・慈・慧)への転換に始まり 、是に徹し切っる事であります。是が涅槃世界なのである。 現今は、大半は貪著処でなく、生命存続の危機的状況にある。 今こそ、富裕層と生活困窮者間の格差を埋めるべく、施策(智慧)を 敢えて講じる事で少なからぬ人命が救われる事に為るのである。 富裕層からの経済的流れ(支援)無くしては、世界は存立不能.である 。最悪に至る前に、此の事が強く望まれる。 失われつつある、罪無き人々の生命の存続の為の柔軟に対応し得る 施策が喫緊の最重大課題である。 廃棄食糧の活用と、物質的基本的条件確保の資金を、其れ等と対極 的為る出費で補填する等の施策(智慧)を生み出す事こそ、正に政治 の本分であると思う。 是によりて、少なからぬ人命が救われるのである。 「人を生(活)かす」為の施策である。 「困窮者を見捨てる」施策でもないし、 国家間の覇権争奪でもないのである。 中国が第二の米国と為る前に、今こそ、此の少欲・知足の道、 つまり、「人を生(活)かす」道、真の繁栄への道に転ずる時である。 生むは、金に非ず、覇権にあらず、世界人類間の信頼である。 絶対信頼は絶対自己の確立に基づく。 《「人を生(活)かす」と「人を生(活)かさ使める」》 「人を生(活)かす」と「人を生(活)かさ使める」と、 前者は小生にとってはネットの公開であり、其の製本であるけれども、 後者は、前者に基づいて、更に他者をして、夫々の立場から展転して 其れを展開すると云う事に為る訳でありまして、正に釈尊の「如来の 法身常に在(い)ます」為らぬ、「真理を常に現成する」のであります。 《 鐵漢の使命 》 小生、古希の「涅槃入り」迄は、万法(宇宙と全生命)に運ばれてきた が、「覚天」以降は、宇宙の「大涅槃人」、つまり宇宙の頂点として、次 は、其の自己を運んで、真理を開示しなければ為らないのであり、 其れが小生鐵漢の不可欠為る最要の使命である。 宇宙の花実としての、万物の霊長の真理こそ、洋の東西に拘らず、 人類が知るべき事は無いのである。 是こそ、宇宙から人類に伝えるべき真実なのである。 人類は、此の宇宙を忘れては為らないし、捨てても為らないのである。 其れは人類の、人間喪失の始まりだからである。 因果の道理、歴然として私無し。造悪の者は堕ち、修善の者は陞 (のぼ)る。毫釐(ごうり;ごくわずか)も違(たが)わざる也。 釈尊の御遺教は、其の事に他ならない。 人間は宇宙を忘れて、、神等と云うものを捏造(ねつぞう)して、其れで 殺し合いばかりして居るが、是は宇宙を見失って居るからである。 宇宙の真理を知る事が、人類に可能な限りの幸福と平和と繁栄を齎 (もたら)す事が出来るのである。 吾師が言い遺された。 「大法螺(おおぼら)が吹けない様では、悟ったとは言えない。」と。 其の事が、今に為って思い出される。 語れば、語る程、尽きる事無く出て来る。 頂点に立てば、総てが見渡せる様なものだ。 余りに時間が無い。 《 動物神経系の大脳新皮質迄の進化 》 脳の形成は、長さ2mm、直径0.2mm程のチューブである「神経管」か ら始まる。神経管の内側で多くの細胞が作られ、神経管が膨らむ事 により、脳が作られる。此の神経管はどの脊椎動物でも共通に出現 する。脊椎動物の脳は、どの生物種でも基本構造は同じで、「脳幹」 (生命維持本能)、「小脳」、「大脳」から成る。 魚類、両生類、爬虫類では、脳幹が脳の大部分を占めている。脳幹 は反射や、摂食、交尾の様な本能的な行動を司る。魚類と両生類で は、大脳には、生きていく為に必要な本能や感情を司る「大脳辺縁系 」しかない。進化的に古い大脳辺縁系は「古皮質」と呼ばれる。 鳥類や哺乳類になると、小脳と大脳が大きくなり、特に大脳が発達し、 「感覚野」、「運動野」と云った「新皮質」が出現する。 霊長類に為ると、新皮質が更に発達して大きくなり、「連合野」が出現 し、高度な認知や行動が出来る様になる。人では、新皮質が大脳の 90%以上をも占める。 胎児の脳は胎内で、進化を遂げた順に形成される。 脳幹、小脳、そして大脳の髄質から、大脳皮質は旧皮質、古皮質、新 皮質へと進化したのである。 旧皮質は魚類では人類の大脳に相当する。 古皮質は両生類以上で、爬虫類的反射。 旧、古皮質は人間では本能情動中枢と為っている。 新皮質は新哺乳類で進化し、人類に至って言語中枢や分別の叡智を 司(つかさど)る。 分別も「悟り」等の無分別(の分別)に至るのに不可欠為るものである 。 《 宇宙と人類 》 恐らく、果てし無き宇宙には、奇跡的に太陽系地球と其の人類と同一 為る諸条件を満たす惑星は必ず存在する筈である。 何と為れば、其の可能性も無限為るが故に。 しかし、何れにしても、吾地球は宇宙のオアシスである事は明らかで ある。 我々人類は無限の宇宙を、正に一人占めする存在であり、 是は実に誇らしき事実である。 自己の為に太陽が在り、月が在り、星が在るのである。 そして、其の宇宙の本質は、正に其の奇跡を生むべく、無常裡に 現象して居るのである。 宇宙が生命を育む、其の本質は何か? 宇宙(=涅槃)→生命→人類→涅槃 宇宙は自(みずか)らを人類化し、人類は自(みずか)らを宇宙化すべ く、刹那レベルで進化し往く。 植物が花実を生む様に、花実は自(みずか)ら死して、人類を生(活) かし、人類は本質的食物連鎖による生命の再生の如く、人類は、つま り「世界人類を生(活)かして」宇宙の本質に回帰する。 広義の食物連鎖、及び腐食連鎖に与える生態系異変の影響は 測り知れないものがあり、新型コロナウィルス発生の原因と為る。 《 往きと帰り 》 人間には二度の決断が要る。 一つは「初行入り」の決断と、 後一つは「涅槃入り」の決断である。 双方、真逆であるけれども、前者は厳密初坐睡行の覚悟と、 後者は真遺教至上の覚悟である。 双方、一寸(ちょっと)した事であるけれども、 是等両極何れにも、中途半端でない同等の徹し方である。 無限為る宇宙は「涅槃世界」を究竟する。 是は宇宙の進化の必然性である。 然(さ)も無くば、今は在り得ないのであり、 此の事を覚知し足る者が真の智者である。 《 本質と現象 》 本質は永遠であり、現象は刹那生滅にして無常である。 「宇宙(生命)の本質」は人類をして「悟り」、「解脱」、「涅槃」に至ら使め るのである。 本質は、宇宙の調和、均衡、静寂と平安、柔軟(和)である。 是、永遠に不滅為る恒常普遍の真理である。 永遠、不滅、恒常、普遍、真理、是等総て同義である。 然るに、現象は身の事であり、常に生滅する。 生と滅とは、光と闇の如く、一方が他方を規定する。 右と左、上と下の様に、一方のみで存在し得ない対義であり、 必ず表裏一体為るものである。 故に、人類の身は生まれ、滅して現象するのである。 是、永遠不滅為らざる物の世界である。 我々人類は、儚(はかな)き、有限為る現象の存在であるが故に、 其処に、永遠為る真理に至るべく、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)から 促され瞑想を営むに至ったのである。 そして、嘗て恐竜世界から人類が生じた様に、果たして、ほぼ五千年 を隔てて三毒為る人類が智慧によりて涅槃世界を体現したのである。 是によりて、従来のあらゆる現象世界(政治、宗教、学問(科学、哲 学、心理学等)等)の総ての在り様が、未知為る闇の先に、新た為る 突破口を見出し得て、真理為る世界が拓けるのである。 心が、菩提心一つ二千五百年後に「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回 帰した如く、身も魚類から恐竜世界に至り、種々なる地球環境の変遷 にも拘らず、大脳皮質の進化と共に、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に 導かれて、哺乳類の人類としての原点に迄至り得て、今や無限為る 宇宙の頂点に君臨して居るのである。 地球の誕生から地表の完遂迄、因果の道理歴然として私無く完遂し たのである。 《 死に行く時 》 菩提心無くんば、二元相対世界から出る事は出来ない。 自他を誤魔化して、迷妄裡に死に行くのみである。 要は、菩提心の趣く先への確信の有無が問題なのである。 是無くして、全ては誤魔化しに過ぎない。 満足に死ねる事の如何に困難至極であるか。 因果の道理は誤魔化す事は出来ないのである。 只管、真理在るのみ。 地獄に至る迄も、余道在る事無く、如何なる場合でも誤魔化さず、 飽く迄も、「人を生(活)かす」真理に徹するだけなのである。 《 動物神経系の大脳新皮質迄の進化 》 脳の形成は、長さ2㎜、直径0.2㎜程のチューブである「神経管」から 始まる。神経管の内側で多くの細胞が作られ、神経管が膨らむ事によ り、脳が作られる。此の神経管はどの脊椎動物でも共通に出現する。 脊椎動物の脳は、どの生物種でも基本構造は同じで、「脳幹」、「小脳」 、「大脳」から成る。 魚類、両生類、爬虫類では、生命維持本能の脳幹が脳の大部分を占 めている。魚類は旧皮質迄。脳幹は反射や、摂食、交尾の様な本能 的な行動を司(つかさど)る。 魚類と両生類では、大脳には、生きて往く為に必要な本能や感情を 司る「大脳辺縁系」しかない。進化的に古い大脳辺縁系は「古皮質」 と呼ばれる。 鳥類や哺乳類に為ると、小脳と大脳が大きくなり、特に大脳が発達し 、「感覚野」、「運動野」と云った「新皮質」が出現する。 霊長類に為ると、新皮質が更に発達して大きくなり、「連合野」が出現 し、高度な認知や行動が出来る様になる。 人では、旧、古皮質は本能情動中枢と為っている。 新皮質が大脳の90%以上をも占め、言語中枢や分別の叡智を司る。 分別も「悟り」等の無分別(の分別)に至るのに不可欠為るものである 。 胎児の脳は胎内で、進化を遂げた順に形成される。 脳幹、小脳、そして大脳の髄質から、大脳皮質は旧皮質、古皮質、新 皮質へと進化したのである。 90%の生命が絶滅 したと思われる古生代と中生代の境目の大絶滅 や、中生代と新生代の境目の恐竜等の大型動植物の大絶滅を始め として、僅かに生き残った生物 (哺乳類の祖先)が適応放散して多様 な生物が氷山の一角として現存して居るのである。 其の動物の神経系に於いて特質すべきは、扁形動物のプラナリアで 既に脳形成の遺伝子プログラムが認められているのである。 《 駿馬の真実 (直観) 》 人類にとって地上非核化は、核への進歩と停滞か、或いは退歩か? 是が人類にとって如何なる事を示唆するのか? 是は生命史に於ける、生命の巨大化から人類への必然性は、身から 心への進化の真実である。 恐竜絶滅に比する人類終末か、或いは恐竜から人類への必然的進 化かの何れかであろう。 長い仏教史、即ち瞑想から鐵漢古希の「覚天」迄の五千年間に於ける 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しから、「宇宙(生命)の本質」( 涅槃)への回帰迄の五千年間、更に簡略すれば、小生が殆ど伝統に 入らず、般若心経以外殆ど吾身心が、水と油の如く、受け入れなかっ たと云うのが本当であった。故に小生の様な人間は放り捨てる以外 無かったのである。 只、千日行一つの、それでも三十五年間を要し、奇跡的に「涅槃入り」 した如く、正法苦行為る千日行は世界に冠足り得るのである。 千日行を為せば、絶対不動為るのである。 若し、是を疑う者在らば、此の現実世界に於いて、此れを実践して みれば、即刻判明するのである。 是が出来ないからこそ、世の中、原爆沙汰を遣って居るに過ぎない。 否、原爆沙汰を遣らざるを得ないのである。 出来ないであろう。其処迄馬鹿には為れない。 此の馬鹿が世の中に不可欠なのである。 馬鹿が居なければ世の中は改善しない。 馬鹿だからこそ、利口でないからこそ出来るのである。 人間は悟らない限り、三毒為る存在である。 諸悪の根源、三毒(貪・瞋・癡)為る存在なのだ。 「悟った」からこそ、人事一切、此の「宇宙(生命)の本質」(涅槃)為る 真理より見透す事が出来るのである。 何と為れば、人事一切は、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)への進化の 途上の諸現象であるに過ぎないからである。 本質に回帰すれば、人事一切は未回帰の、途上の一波万波に過ぎ ない事が直観的に受け止められるのである。 此の真理に至るには、無限の学問と、無限の施政等を要するのであ る。 即ち、此の真理に基づく事が「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に同じ得て 、可能な限りの 世界人類の幸福と平和と繁栄への最短路である事 が既に明らかと為って居る訳であります。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰したと云う事は、一切の疑問を 超越して居る。 学問為るものは、「人を生(活)かす」の涅槃妙心に基づく事が大前提 である。 自己の怠慢が原因 と為る事は決して 在っては為らない 《 誤魔化さざるマジック 》 小生の遣って居る事は、マジックみたいなものである。 但し、人を誤魔化すのではない。 完璧に教導するマジックである。 世の中が、現在十角形だとする。 出発点は天然の三角形であったろうが、五千年を経て今や十角形に 為ってしまって居る。 是を、小生は「悟って」閉曲線を現じ、やがて真円を現成するに至った のである。 三毒(貪・瞋・癡)為るが故に、十角形から十五角形に迄為し、地獄に 堕ちようとする指導者には、十数角形為らぬ真円を見せても、真円は 時至りて無限角形から最終的に刹那に体現されるものであり、頭での 理解は及ばないであろうが、十五角形の様に角を増すのでなく、極力 十角形の儘で、円に為るべく、整えるのでなければ為らない。 内を整えれば、十角形は円に変わるのである。 是によりて、「涅槃」と言われる、宇宙の調和と均衡と静寂為る、永遠 に不滅為る恒常普遍の真理世界足る、可能な限りの 世界人類の幸 福と平和と繁栄を現成するのである。 《 唯一為る実在 》 我々人類が帰する処は、唯一、宇宙の涅槃である。 此の本質のみが、実在する真理である。 是以外総ては、実在せざるものである。 本質が必然的進化に基づいて現象し、更に本質を本質するのである。 故に、本質は物質、生命を貫く、分別を超えた真理である。 是を人に分からせる為に、脳を成立させている、其の母体為る神経 系から順を追って、人類特有の大脳新皮質の言語中枢を駆使して理 解出来る様に、特に動物本能が何故に人類の価値であるとか、超自 我的理想とか、煎じ詰めれば「涅槃」に迄至り得るのか、と云う、 謂わば本質的禅学為るものを、釈尊が成道後、仏道を当時の医学的 思考法で、其の体系を構成した様に、小生は「涅槃入り」後に、様々に 真理の証として表現しようとして居るのである。 動物本能による生命維持機能(本能)の脳幹から、物心、正負を超え た大脳新皮質の菩提心や直観や「覚天」等の超自我機能に至る迄の 進化の過程には、其の生命の遺産の妙に、実に成る程と思わせられ るのである。 《 米国について 》 東洋、特に日本に於いて、我々日本人は人類の根源悪為る三毒(貪 ・瞋・癡)を慎む、即ち少欲・知足に精進すると云う方向性を択るが、 米国に於いては、大航海時代に始まり、黒人奴隷による資本主義の 物質追求によりて、米国の国民社会の精神性の粗雑さ、未熟さが辿 る末期的状況が現今の社会環境の極限状況に於いて露呈して居る。 アメリカ国民の精神性を敢えて見出すとすれば、黒人発祥のジャズと 建国の大義為るキリスト教信仰であり、現実問題として、黒人差別と 原爆支配以来の傲慢さである。 何の為の物追求か? 我欲への貪の集合体である。 米国国民が、人間としての真の力を得て、米国全体が物追求の精神 性に於いても世界人類の信頼を得るだけのものを得るにはトランプ 氏を正すだけの真の人間力を得なければならない。 是は感染症パンデミックを収束し得ない人間的自制心の欠如である。 其処に気が付くだけの素養が在れば問題無いのであるが、逆にトラ ンプ氏に同調し、トランプ氏を生んでしまう国民性には、指導者と為っ てもヒトラーの再来にも為れないのである。 極悪為るヒトラーは現今の米国の在り様に再現されているのである。 国民レベルで、ヒトラーを打倒するだけの国民力が無い。 ヒトラーは米国の連合軍が打倒したが、ヒトラーの悪に真に打ち勝っ たのではなく、戦力として、其れだけの力が在ったに過ぎない。 正に恐竜王国の最大恐竜に過ぎないのである。 恐竜では、維持するには、食糧、水、酸素、更には進化するチャンス (短命であり、世代交代が多いと云う事)が無い。 地上で存続するには適さないが故に、人類に地上は交替したのであ る。 植物は、根→茎→葉→花→実、と進化し、 菌類(細菌~真菌)の菌根菌から共進化した植物の根と為り、茎、葉 、花実へと進化を遂げ、是が動物を育て、人類へと食物連鎖したので ある。 人類では、神経系→脳幹→大脳辺縁系→大脳皮質→大脳新皮質→ 涅槃妙心智慧と進化を遂げ、 此の涅槃妙心智慧為る実が世界人類を生(活)かすのである。 無限の過去からの、不可思議に無限為る宇宙の身心の最終産物が、 正に是、真の最後身心 である。 最後身心裡の最後身心為る小生鐵漢によりて至り得た「宇宙(生命) の本質」である涅槃、此処には、涅槃妙心智慧による涅槃世界完遂 の為の在りとあらゆる智慧が具有されて居る訳であります。 鐵漢が人類史上初めて、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰したと 云う事は、鐵漢、そして日本、そして東洋、そして此の地球環境でな ければ為らなかったと云う事であります。 無限為る宇宙ならばこそ、其の可能性は決して〇(ゼロ)とは為らな いのである。 其の途上為る、今、此処である。 現実世界の指導者の選出に於ける万波を我々は観察して居るので あるが、人類史上極悪なるヒトラー体制を原爆無しに崩壊させた帰結 としての、地上を二極に分断せ使め、其の最終段階に於いて、正に 原爆支配体制の宣言為る、日本への二度の原爆投下による悲劇が 始まったのである。 是ぞ正しく、ヒトラーに出来なかった理想世界を完遂させたのが米国 であったのだ。 第二の、ヒトラーのホロコーストは広島と長崎の被爆体験であり、原爆 支配体制の拠点としての、日本を占領下に置く基地構築であった。 是が、人類三毒の最終結論である、日本を拠点とする世界の原爆支 配体制の始まりであった。 此の地球レベルの、人間性を無視した物質世界の傲慢さが、戦後七 十数年、世界的感染症パンデミックと云う、或る意味で、世界的為る 人類存続の危機的状況を生んで居る訳である。 人間性を無視した物質追求の結果の自然破壊による、不可逆的激 甚自然災害と、是に起因する生態系異常によって生ずる生命への根 源的悪影響を及ぼす、食物連鎖や腐敗連鎖による、感染症パンデミ ックを惹起する異常変異ウィルスの台頭は、正に軌を一にする小生 鐵漢の「涅槃入り」による涅槃世界に背を向ける、物質人類への最終 的警鐘であり、終末的聾馬為る、ヒトラーの最後の地下壕内の悲劇 への前段階に相当するのである。 世界人類に対する狂者の独走も、アメリカ国民の底流にあるものと、 中国の覇権とが均衡する定常状態を保って居る様である。 根源悪は、アメリカ国民の二分した分断分子の無自覚なる三毒(貪・ 瞋・癡)である。 是、アメリカ国民の半数に内在する負の遺産の最たるものである。 然るに、世界人類は其処迄癡愚では無い。 今日、此の終末的聾馬の悲喜劇を、世界中で固唾を飲んで見守って 居るばかりだ。 いずれにしても、総てを破壊する、此の諸悪の根源の人類三毒(貪・ 瞋・癡)の癡愚は「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に甚だしく違(たが)え るものであり、因果の道理の悪業報は必然不可避である。 アメリカ国民に内在する、此の悪の根源は世界人類の三毒の象徴と して、ローマ法王と共に見守って往かねばならないのである。 真理と云うものは、無限の過去からの刹那刹那、海水分子一個一個 を構成する素粒子の変位等の物(身)心の現象の総ての集積の結果 であり、分別の及ばざるものである。 学問は飽く迄も真理其のものではなく、真理の様々なる表現法である に過ぎず、個々人の三毒(貪・瞋・癡)による集積の結果である処の、 其の傾向を正し、真理を志向する方向性が不可欠である。 三毒に基づく分別による主張に左右されず、真理に至り得た者に倣( なら)わねばならない。 「悟り(身心脱落)」迄は、学問は左右しないが、 「解脱」や「涅槃」に至るには、学問は捨てねば及び得ない。 本質に迫ろうとする学問でありながら、 本質に及ぶ事と、其れとは、相矛盾するのである。 本物とは、然(そ)う云うものである。 《 人間は如何に生きるべきか 》 人間、死ぬ時には安心して、納得して死にたいものだ。 後悔しながら苦渋の中で息を引き取るのでは生きた甲斐が無いので ある。 少なくとも、「人を生(活)かした」と思える死に方をしたいものだ。 是が死ぬ際の納得である。 でなければ、自己を認めて死ねないのである。 自己を認めた生き方、死に方をしたい。 是が、安心(あんじん)、安らぎと云うものであろう。 是が涅槃である。 地獄裡に生死は送りたくない。 其処で、生きて往く裡(うち)に、真実為るものを求めて、何かを見出さ んと苦行して往く訳であり、生涯を、何処其処の誰それさんや自己に 懸けるのであるが、其れでは「悟り」以前の二元相対世界の域を出な いのである。 其れは、体力によるものではない。 何れ衰え、死滅するものである。 又、権力によるものでもない。 盛者必衰為るものである。 又、人間の諸能力によるものでもない。 不可思議に、空しさを感じざるを得ない。 老若男女に拘らず、何時でも、何処でも、誰でも 永遠に不滅為る恒常普遍の真理に基づく人間の力でなければ、 人間は真に安楽為れるものでは無いのである。 是こそ、東洋人の菩提心によるものである。 特に日本人の風土に根差した心情、鈴木大拙氏は是を日本的霊性 と称して居られる様であるが、是は中国人や韓国人とも異なる日本人 の大脳の右脳と左脳の機能上の特質によるものである様だ。 其れが、坐禅と為り、至り得て正法苦行(千日行)と為るのである。 此の身の進化の大脳新皮質、前頭葉由来の菩提心によりて、初めて 至り得る涅槃妙心智慧の「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)か さ使めん」とする心の力によりて至り得る世界が、「宇宙(生命)の本質 」(涅槃)に基づく、可能な限りの 世界人類の幸福と平和と繁栄を構 築し、完遂せ使める世界なのである。 然(さ)もなくんば、死ぬ時は、皆、苦と迷妄の裡(うち)に死に往かね ばならないのである。 三毒(貪・瞋・癡)為る人類は諸々の禽獣と相異なる事無く、 是が国家権力を、世界を支配するのである。 真偽の見極めの付く人が居なければ世界は地獄に堕ちるのである。 国家権力の服を着た、三毒(貪・瞋・癡)人間と、真に世界を教導出来 る「大涅槃人」との見極めが付く人間と為らねばならない。 人類三毒とは、其の様なもので、三毒為る現代人はヒマラヤ山中の 苦行者にも及ばないのである。 真人と偽人との見極めである。 世の中には、持つべきものを知らない、癡も恥もしない三毒(貪・瞋・ 癡)と云うものがある。 《 学問と直観 》 「涅槃」からの直観は、学問為るものを制するものである。 「人を生(活)かす」のは、「涅槃」からの直観であり、学問ではない。 人間は実らぬ学問よりも、学問を超える直観で、「人類を生(活)かす」 べきである。 学問は、知的好奇心は然(さ)る事ながら、善用出来てこそのもので あり、且つ、同時に学問では至り得ないと云う事、つまり学問する事 の限界に気付く事が最要である。 学問の功績は無視し得ない、非常に価値があるが、だからと言って、 学問的探究為るものは学問的罪過、且つ不毛を現実的に、人類の命 運に関わる事態を救済すべく、直観を活用する機転を利かす事を実 践出来る事によりて、「世界人類を生(活)かさ使め」なければ為らない のである。 学問と等価に直観を用いるべきであるからだ。 人間と云う者は、学問にのめり込むのでなく、のめり込むべきは坐禅 である。 何と為れば、学問は閉回路であるが、坐禅は開回路であるからだ。 開回路とは「涅槃」への道の事である。 《 涅槃世界進化の黎明 》 大脳新皮質が涅槃世界を完遂する迄は、身心の進化を遂げるので ある。 最新の学説によれば、地球上の人類生存可能期間は二十六億年と 言われている。人類史は、僅(わず)か五百万年程であり、最低限で も千年後の人類の為に、我々は人類が絶滅する事無く、総てを尽くさ ねば為らないのである。 自己の事で無く、将来の「人類を生(活)かす」べく施政せねばならな い。 『必要は生みの母』と言う。 此の生命の最終産物足る大脳新皮質の菩提心による、「宇宙(生命) の本質」(涅槃)への回帰からの涅槃世界の構築と完遂に他ならない。 吾が地球は、正に此の宇宙の頂点と言っても過言ではない。 何と為れば、宇宙に違わない、宇宙其のものであるからだ。 二祖大迦葉は釈尊が出家の発(菩提)心した事を以って、最も至難事 であったと称揚した。 人類は、純粋に「人を生(活)かさ使める」学問を為すべきである。 如何して、特殊なる迷路に入り込む必要が在り得よう。 道とは、難解なる迷路でなく、直観的大道である。 若し核戦争が勃発したら、大量の塵やエアロゾル(浮遊粉塵)が大気 中に放出され、地球全体を覆って長期間に亘って太陽光を遮り、現代 の大気汚染と同様に、地球生態系に壊滅的打撃を与え、「核の冬」と 言われる核戦争の暗闇の世界を招来する事と為るのである。 現コロナ禍では収まらなく為らんとも為り兼ねないのである。 日本が核兵器禁止条約に批准しない理由は何か? 核支配為る作為で「宇宙(生命)の本質」(涅槃)を支配出来ると錯覚 しているのが、米国列強の国連常任理事国家である。 明らかに、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違えた、此の悪業報、必然 不可避なる事を知らざる輩である。 果たして、当列強国家群のコロナ禍惨事は正に地獄である。 人類は積極的修善の菩提心を発(おこ)さねばならないのである。 核保有国家が菩提心を興して、完全非核化するのが、積極的修善で あり、是無くしては、世界に信頼は構築され得ない。 保身と安泰は捨てて、可能な限りの 世界人類の幸福と平和と繁栄 を忘れ、捨てては為らないのである。 今こそ、世界に信頼を構築する絶好の機会である。 世界が真理為る涅槃へ向かって、涅槃妙心智慧によりて進化しなけ ればならない。 此の唯一為る正道こそ、可能な限りの 世界人類を幸福と平和と繁 栄に導く、唯一残された真道である。 《 人間の生き様の四大別 》 人間の生き様は、四つに大別出来ると思う。 先ずは一般的に義務教育で学び、自己の進路を決定し、既存の二元 相対世界の中で、其の歯車の一つに為る生き方。 二つ目は、独自の諸能力の延長線上で自己を生(活)かす生き方。 三つ目は、義務教育制度では納まり切れず、其処から逸脱して、人間 の本質的発揚から、其の理由は最初は、然(さ)程明確には非ざれど も、次第に明確に為って来る処の積極的志(こころざし)に基づくもの で、是が「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しによるものに他なら ない。 只、人類の最も高度為る、唯一「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の真理 に至る原動力である菩提心によりて、此の正道を歩む者である。 四つ目は、見捨てられた人々であるが、正に三つ目が、四つ目の多く の人達を生(活)かす生き方なのである。 敢えて「生き方」と言えば、是等の三通りの生き方であり、多くの見捨 てられた人々がいるのである。 実際には、其れ等の境界は曖昧である。 一般的には、最初の二つであるが、唯一、三つ目が真理に至る道で、 此の「涅槃人」の至り得た真理は世界人類が享有し、享受すべきも のなのである。 是は二元相対世界の如何なる者も及び得ないものである。 是無しには、生命自体が生命足り得ない。 恰も、切花の様なもので、儚(はかな)くも形骸のみの生命に他ならな い。確証無き信の域を出ないのである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの涅槃世界の自由無碍なる働きが出 ない。 「世界人類を生(活)かす」本源が世界平和には不可欠なのである。 是が、人類に北を示す北極星と為るのである。 原爆原理では人類は「涅槃」への心の進化を遂げ得ない。 此の「進化せ使める」確証が不可欠である。 其処に初めて絶対的信頼が可能と為るのである。 核爆弾などの大量破壊兵器を捨てて、 世界人類を、多くの見捨てられた人々も 捨てない、忘れない。 是が本質に違(たが)わない、在るべき姿である。 在るべき姿を生み得るのは唯一、日本だけである。 《 地獄裡の地獄から涅槃裡の涅槃迄 》 ダンテの『神曲』を連想させる様な題目であるが、『神曲』は、 世界文学を代表する、古典文学の最高傑作であり、十四世紀以降 のイタリア発祥のルネッサンスの先蹤(せんしょう;先例)であるダンテ (道元禅師直後のイタリアの詩人、政治家)の作であり、ロダンやゲー テを始め、鴎外、漱石に至る迄多大なる影響を及ぼした名著である。 ダンテ自身が「地獄の門」に入る処から始まり、仏道の六趣(道)に相 当する処の様々なる人生諸段階の経験を経て、最終的にキリスト教 の神である、「刹那、見神の域に達する」で終わる。 さて、世の中の真の在り様は、貪(淫快、金、力)(=以降、貪とする) をしないのではなく、此の貪に自(みずか)ら、即ち可能な限りの世界 人類の幸福と平和と繁栄を売る、つまり放棄するのでなく、貪の方に 貪著せず、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)為る涅槃世界を実現し往か なければ為らないのである。 然るに、世の中と云うものは、此の逆にして癡愚に、無自覚、無関心 に流れ行きてしまうのである。 世間の癡愚なる、無自覚、無関心が確固足る信念を持って、 涅槃世界の構築、完遂への進化を忘れたり、捨てたりしてはならない と云う事である。 「分かっちゃー居るけど、出来ない。」ではない。 人間が諸々の禽獣と相異なる処は、此処である。 世の中の無関心、無知が今の地獄を生んでいるのである。 国民の自覚に基づく、指導者への働き掛けが世界を変えるのである。 最近小生、三~四時間の睡眠で、ネット作りで托鉢(休日以外毎日六 時間)も儘為らない。 他の身を思い遣る心を自覚して、解脱への生活が始まり、 他の身心を思い遣る心に気付いて、真の地獄、涅槃裡の涅槃を知る。 此の涅槃裡の地獄は、心の地獄であり、自覚の問題であるが、 地獄裡の地獄は、身の地獄であり、是、施政の最大の使命である。 宇宙と云う時空は無限なれども、人間世界は此の涅槃裡の涅槃から 地獄裡の地獄迄である。 真の地獄と、是から知る真の涅槃は双方一枚岩である。 真の地獄でも然(そ)う云うもので、真に「人を生(活)かす」ものである。 人を殺す地獄ではない。 政治家と云う者は、地獄を生まず、地獄を解消する使命の人である。 真に「世界人類を生(活)かす」大人でなければ為らない。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の真理に基づきて、人類は傲慢為る虚 飾に迷妄を抱く事勿れ。 人類は常に正鵠を射て置かねばならないのである。 真理を知らざる三毒(貪・瞋・癡)為る政治屋に欺かれてはならない。 独楽が回り続けるには不動為る芯が在るからである。 宇宙の芯とは、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)を「覚天」し足る「涅槃人 」である。 日本が人類の将来の鍵を握って居る事を決して忘れては為らない。 「大涅槃人」 ← 「大解脱人」 涅槃裡の涅槃⇒涅槃裡の地獄⇒涅槃⇒施政⇒地獄裡の地獄 |⇒世間 《 米国人の特質 》 トランプ氏に代表される米国人は、菩提心の生じ難く、「宇宙(生命) の本質」(涅槃)から遊離した、最も「悟り」難い、現実主義的傾向の強 い傲慢な国民である印象を受ける。 従って、二元相対世界を離脱し難い。 若し、小生に菩提心が生じなかったならば、然(そ)う為らずに、逆に 迷える子羊と為って居ったと思うが、ゴジラに為るよりは地獄を生まな いだけ宜しいと思う。 要は、菩提心如何の問題である。 菩提心生じねば、荒海中を渉る難破船であり、 転覆せず、宇宙の恩恵を享受し、享有する、安楽為る航行足り得な かったのである。 菩提心は本質を無視した現象主義でない、身よりも心に生き、其処に 東洋の道以前の、真理を求めんとする心である。 是、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しに他ならない。 是が仏道と為るのである。 《 絶対裡の相対と相対裡の絶対 》 人類が示す技術は、其の巧みさや、相対的為るものでなくて、 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)為る絶対に、如何に同じ得て居るかでな ければならない。 此の絶対を打ち出せる者の技術は、人を教導する為の手段としての 技術であり、学問である。 絶対に対峙する相対でなく、絶対裡の相対と為るべし。 此の相対は、相対でありながら、相対ではない。 絶対とは、永遠に不滅為る恒常普遍の、総ての世界人類が平等に享 受し、享有する真理である。 此の真理は何処から得られるのかと言えば、純粋からである。 純粋とは、0,1,2,3……を未だ知らざる古代人以前の、つまり一切 の分別の根が断ち切れた時に、刹那に全身心で体現される「覚天」で ある。 是が人類に迄、進化した大脳新皮質の「涅槃」迄の、秘する可能性で ある。 故に、此の「大涅槃人」にして初めて、絶対裡の相対が打ち出せるの である。 世界は、相対裡の絶対に過ぎない。 《 宇宙の心 》 人類が求むべきものは神ではない。 神は、人類が誓願する究極の対象として 、全身全霊で思い描いた虚 像である。 其れは、神ではなく、真理である処の『宇宙の心』なのである。 宇宙と云うものは、科学の対象でもあり、人類が科学的に探究すべき ものとして捉えられて来たが、宇宙を科学するのは、人間を科学する のと同様、永遠に、其の実体には迫り得ないのである。 宇宙と人類は一枚岩である。 宇宙を離れて人類無し。 人類は、宇宙から無目的に出来上がったものでなく、宇宙の最終産 物、宇宙の究極の花なのである。 我々人類は一人残らず、此の宇宙の花として、生まれ、死ぬべきなの である。 宇宙の究極の恩恵が我々人類の心身である。 我々人類の身は有限であり、精精(せいぜい)百年程であるが、 人類は身と、宇宙の心を持って、此の世に誕生したのである。 永遠為る心は、信に非ずして「覚天」し、「涅槃入り」して「涅槃」を体現 した小生、鐵漢は其れ故に「最後身心」 なのである。 神は、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に迄、心の進化を遂げなければ為 らなかったのである。 此の心に迄、人類は回帰しなければ為らない。 求むべきものの無い、恩恵其のものである。 大自然の恩恵であり、自然の豊かなる恵み其のものである。 是、心の恵み其のものであるが故に、人類の三毒(貪・瞋・癡)は、 本来、三善根(施・慈・慧)なのである。 其の母体が「宇宙(生命)の本質」為る涅槃妙心である。 此の裏付けが在ってこそ、涅槃妙心智慧による、涅槃へ振幅しつつ 収束し往く進化一路門によりて、可能な限りの 世界人類の幸福と平 和と繁栄が可能と為るのである。 でなければ、現、米国の大統領選挙戦の様に、アメリカ国内が三毒( 貪・瞋・癡)と不三毒(不貪・不瞋・不癡)と二つに分断するのである。 人類の有限為る身心は、此の永遠に不滅為る恒常普遍の真理、即ち 涅槃に回帰して死ぬべきなのである。 是が、総ての世界人類に与えられて居る、吾我の使命であり、 是が人類の真価である。 唯生き長らえても、無意味であり、悲しむべき形骸であり、哀れむべき 形骸である。 本来無限為る我々が、有限為る存在として死に行くのでなく、 全人類が、永遠為る命として死ぬべきである。 政治も学問も、此れに資するべきものとして在る。 其の為の政治であり、学問でなければ為らない。 迷路に迷い込む政治、学問は、迷妄に他ならない。 為すべきものでなく、無益、無駄であるばかりでなく、有害である。 もっと普遍的に施政し、学ぶべきであり、身心の体現を志向すべきも のである。 心身による体現こそが政治、学問を真に生(活)かす。 《 非人情の人情 》 人類史上、空前絶後為る、「覚天」による「涅槃入り」は、奇跡中の奇跡 であるが故に、此処に至る迄の自己を顧慮するに、人間も此処に至 れば、是迄の自己の総てを肯定し、且つ此の自己を生か使めた全て に対して報恩の念を抱かずに居れないのであります。 前者に非人情の所以(ゆえん)在り、後者に人情の所以が在る訳であ ります。 人に 、如何だ、斯(こ)うだ、とは敢えて言わないけれども、必ずしも常 識的に思える事が万全なのではなく、自己に対しても、信ずる事を貫く 事が一番であると思う。 小生振り返って見るに、全てに対して本筋に於いて自己を貫いて来た 。若し一つでも折り合って居ったら、今は無いのである。 実に非人情裡の人情であろう。 《 宇宙の真理; 本質への回帰 》 宇宙の真理を語れる者は小生鐵漢、唯独りである。 世界の四大聖人(釈尊、孔子、ソクラテス、イエス)でも及び得ないの である。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)への回帰が本来、人類の究竟の至上命 題なのである。 キルケゴール(1813~1855、デンマーク、哲学者、思想家、『死に 至る病』)。 実存主義哲学の創始者。単独者として神の前で主体的に 生きる人間を宗教的<実在>と呼んだ。20世紀に為って世界的に知 られる様に為って、ハイデッガー等に大きな影響を与えた。 和辻哲郎『ゼエレン・キェルケゴール』 ショーペンハウエル(1788~1860、独、哲学者、『意志と表象とし ての世界』)。医学部に在籍し、哲学を学ぶ。古代インド哲学(ウパニ シャッド哲学)が彼の全思想を決定付けた。取分けニーチェ等に大き な影響を与えた。 ニーチェ(1844~1900、独、実存哲学者、『ツァラトゥストラは斯く 語りき』、実存主義の先駆者、生の哲学者。死後翌年『力への意志』 出版)は学生時代に、ギリシャ哲学と、ショーペンハウエルの『意志と 表象としての世界』の虜に為った。 ニーチェが以後の文学、哲学に与えた影響は多大であり、特に影響 を受けた人物は相当な数に為り、特にハイデッガー等であり、1968 年、フランス五月革命も思想的背景はニーチェであった。 是は、今の米国大統領選挙戦にも明らかであるが、学生運動等に象 徴される、左派、リベラルの革命に対する、保守、右派の危機である。 ニーチェは ユダヤ人を絶賛し、優生学には肯定的であったが、ヒトラ ーには批判的、否定的であり、世界大戦前の西洋に於いては、東洋 思想の真価が浸透するには、未だ未熟過ぎたのであった。 古代インド思想を礼賛し、釈尊を尊敬し、「ヨーロッパは、仏教を受け 入れる迄に成熟していない。」と語り、 哲学的に、仏道を諦観であるとして、永劫回帰為る超人を打ち出 した。 実に仏教的発想の点では、真に超人的であったと思うが、悲しからず 哉、本質的には異質である。 此処が、坐禅による本質の体現と学問との本質的相違点である。 前者は人間の諸能力を放棄し、自己を忘れる処から始まるが、後者 は知恵の限りを尽くす能力である。 双方、真逆の方向性でありながら、ニーチェの思想は、実に驚く程、 小生が正法苦行によって、真正に必然裡の偶然によりて至り得た真 理を言語化して居るのである。言語中枢は真理を表象する。 是は、万法(物質も精神も一切全て)が涅槃への減衰振幅しつつ収束 し往く進化の途上に在ると云う事である。 表象すれど、体現し得ないのである。 表象と体現とは全く異質である。 此処が、学問と本質との根本的相違である。 亡くなる十年程前には、彼の主張は狂人的と為った。 此の超人を救えるものは、確かに釈尊では及び得なかったのである。 人間が真に安堵を得るのは、真理を得た時のみである。 米国大統領選に於けるバイデン氏の勝利は、「悟り」以前の、坐禅の 功徳にすら及ばざるものである。 世の中では真には不可能。 「悟り」でも未だ至らず。 「解脱」でも未だ完了せず。 「涅槃」に至りて初めて、真理を確心する。 つまり「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰する事によりて初めて人間 は安堵し得る。永劫回帰した超人と為り得るのである。 僅か100年余り前の事である。 彼の辿った道は、余りにも超人的であったのだ。 其の事を端的に表 す逸話がある。 小学生の時、帰りに、にわか雨が降って来た。皆傘が無く走って返っ て来たのに、ニーチェ一人、頭にハンカチを載せて歩いて返って来た。 母が何故、走って帰って来ないのかと怒ると、「校則に、帰りは、走ら ず、静かに返れと書いてあるから。」と答えた。彼の生真面目さを表す エピソードである。 ハイデッガー(1889~1976、独、哲学者、『存在と時間』)は、20 世紀大陸哲学の最大の哲学者。ナチスに加担した。 「未だ我々を救えるものが在るとすれば、其れは神だけです。」と言っ た。キリスト教神学、現象学、ドイツ観念論、キュルケゴ-ル、ニーチ ェ等の実存主義に強く影響を受け、独自の存在論哲学を展開した。 西田幾多郎、鈴木大拙に影響を受けた久松真一(1889~1980、京 大教授、哲学者、仏教学者、『東洋的無』、『人間の真実存』)は西田 から、当時の代表的な禅僧の一人に参禅する事を勧められた。 ハイデッガーとの討論は(西田の絶対無からの)東洋的無が西洋の 虚無の限界に挑(いど)んだものであった。 西田が東条の大東亜共栄圏の新政策発表会で依頼され、『世界新秩 序の原理』を書いたが、東条の演説に、其の意向が反映されなかっ た事に対する失意の念を手紙で和辻に書き送った。 ハイデッガーと同年齢の和辻哲郎は『風土 人間学的考察』で、和辻が 風土性について考え始めたのは、ハイデッガーの『有と時間』を読ん だ時であったが、空間性が根源的な存在構造として活かされていない 事にハイデッガーの限界を見て、「空間(風土)性は時間(歴史)性と 相即する」と書き送った。 西田等の京都学派の影響下に在る梅原猛はハイデッガーを20世紀 最大の哲学者と位置付けている。 さて、小生始めに、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)への回帰が本来、人 類の究竟の至上命題なのであると書いたが、 ユダヤ教以前の真の自然宗教である原始バラモン教(=古代ヒンズ ー教、ヴェーダの宗教)から、釈尊が中道(諦観)によりて人類史上初 めて成道(悟り)に至り得て、仏道を構築したのであるが、 此の至上命題に至るには、先ず初行が不可欠であり、「解脱」した上 で、釈尊中道(=断食苦行の否定)同様、鐵漢真中道(=極仏為る生 涯後行からの回帰)に基づく(小生初行の時は托鉢知らざるによりて 、熟を営んだが、托鉢と後行は必然的に車の両輪である。)事が不可 欠と為り、正に「覚天」は奇跡である事によりて、宇宙の心が人類の心 である事を信奉する事が真理なのである。 大脳新皮質は「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰する為の手段と為 り、目的と為るのである。 略述すると、今コロナウィルス感染症パンデミックを契機に世界は、 欧州を含めて、米国を二分する三毒(貪・瞋・癡)的存在から、 米国を二分した他の不三毒(不貪・不瞋・不癡)的存在、更に東洋(特 に日本)の三善根(施・慈・慧)的存在への進化に、人類の将来は懸 かって居るのである。 キリスト教的実存→仏道的実存→超人的実存→涅槃世界 道元禅師は、九十余巻の御説法を書き遺された後、亡くなられる迄 の七年間の沈黙の後に、最期に釈尊の御遺教八大人覚について書 き認(したた)められたのであります。 小生は昨年(令和元年)九月に「覚天」して、一年二ヶ月足らず、 此処で、小生、今に至る迄、宇宙が進化して来て今に立脚し、将来へ の展望を、因果の必然性の立場から、一息半趺(いっそくはんぽ)の 経行(きんひん)のつもりで、慎重に完成迄の壮大なスケールで、心の 刹那に進化し往く真実の姿、真理を書き遺さなければ為らないと思う。 厳密(時刻) 《 世界の真道 》 令和の世界真秩序構築の、小生が拠処は、只管「宇宙(生命)の本質 」(涅槃)であり、正法苦行(=千日行)為る吾師伴鐵牛老師の心の恩 と、道場為る吾母の身の恩との賜物であった。 そして忘れては為らないのが、小生を生(活)かして下さる日本国民で あります。 此の真秩序構築は、米国が其の列強による国際連合体制施行の魁 (さきがけ)として、日本への最大の悲劇である処の二度に亘る原爆 投下に因る不昧因果なのである。 是は正に、戦後の資本主義体制の最終局面の人類史上最大の破壊 兵器力の制裁に依る体制下の人類が遭遇した最悪の、自然破壊に 因る宿命的に不可逆的、不可避為る激甚自然災害とウィルス感染症 パンデミックの影響下に於いて、人類が初めて世界規模での根本的 なる反省を余儀なくされたのである。 此処に於いて、世界の指導者は、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の真 理に基づいて、世界真秩序の構築に積極的に係わらざるを得なくなっ たのである。 此の能動的積極性は、人類が初めて空前絶後なる真理に至り得た 事と軌を一にするのである。 正に、刹那消滅と云う原理に基づく因果の道理に裏付けられた、世 界規模の大改革は、米国列強の奴隷制度に基づく力支配と聖戦(ジ ハード)から脱却して、両者の底流を為す、人類三毒(貪・瞋・癡)に よる短絡的、非合理な力による制圧でなく、真理(涅槃智慧)に基 づく信頼関係で共に生(活)かし合って往く新体制 に基づくもので ある。 是に拠りて、初めて、可能な限りの 世界人類の幸福と平和と繁栄が 構築され、完遂され往く事が可能と為るのであり、人類が択(と)り得る 道は此の真道以外には無いのである。 人類の択るべき道は、調和と均衡の真理への道か、対立と制圧の大 量破壊兵器と聖戦(ジハード)への道のいずれかなのである。 前者は平和を現じ、後者は地獄に陥る。 既に至り得た「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に同ずれば平和と為り、違 (たが)えば地獄と為るのである。 古来、我々は日常生活に於いて、是等の事は常識的に、子供心にも 、又若者は知って居るのであるけれども、大人に為るにつれて環境に 染まり、此の純真さ(=「宇宙(生命)の本質」(涅槃)への志向性)を 失ってしまうのである。 然るに、此の純真なる心の真実を悟らんと、是に生涯を懸けて真剣に 取り組もうとする者は稀有なのであるが、小生、物心付いて、古希に 至る迄は至たり得なかったのであるが、古希直前に「覚天」し、此の 純真さの源泉為る「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰し得たのであ る。 謂わば、古希直前に究極の奇跡を起こし得て、古希の面目を施した 訳である。 ところで、「面目」と言えば、禅門では特に臨済宗では修行僧に公案と 云うものに全身全霊で取り組ませる。漱石は円覚寺で、「本来の面目 (父母未生以前の本来の面目とは何か?)」為る公案で参禅した。 しかし、漱石には菩提心らしきものが余り強くなかったのか、諦めてし まったが、晩年の「則天去私」には、其の影響が色濃く反映している。 白隠禅師は此処を、師の如浄禅師へ、道元禅師が所見を呈して、 「身心脱落、脱落身心」とされた、と述べている。 最も有名な公案は、白隠もそうであった様に、「無字」の公案である。 小生も、伴鐵牛老師の参禅を通して、此の「無字」一筋であった。 師曰く、「どうだ、無字がわかったか?」。小生、「わかりません。」。 此の菩提心の正念相続が、やがて千日行と為り、初行の必然性は 後行であり、無限の後行にして初めて、奇跡の可能性が生じ得るの である。 実に奇跡的に幸運であった。 駿馬ならば、千日初行と、出来れば托鉢である。 さて、本題に戻って、 人類の択(と)るべき道は、調和の真理への道か、対立の大量破壊兵 器と聖戦(ジハード)への道かの何れかである。 大人の信頼 が勝つのか、それとも、小人の三毒(貪・瞋・癡) が勝 つのか、令和の涅槃世界に於いて、世界人類の智慧を結集して、 世界の指導者が何れの道を択り得るのか? 真理の道は平和であり、大量破壊兵器と聖戦(ジハード)への道は地 獄である。 既に、至り得た宇宙(生命)の真理は、同ずれば平和に至り、違(たが )えば地獄に至るのである。 是迄、此の真実に至り得なかったが故に、今に至って居るのであるが 、令和新世紀以降は、其の癡愚為る道 から、涅槃妙心に基づく智 慧の道 を択(と)らねばならないのである 此の英断を、世界人類が下さねば為らないのである。 人類は一挙に真理に生きる程、強く為れるものではない。 一歩一歩の涅槃への進化なのである。 一段一段上って往くのである。 世界人類が一歩一歩の改善である。 ボタンによる制裁と聖戦(ジハード)は人類が陥る退化為る退歩に過 ぎないのである。 真理に違(たが)える不可避の悪業報が必ず待っているのである。 二元相対世界の陥る地獄なのである。 真の強さは、其れ程、困難な事なのであるが、是に勇断を下して往く 勇猛心を起す事が.進化を遂げるのである。 真の強さとは、自制に基づく、心の進化である。 地獄は、此の逆で、心の退化による死滅である。 世の流れは、此の貪著 への志向性である。 故に、人類に課せられた使命を果たすには、人間は常に自らを制し、 「人を生(活)かす」 心に目覚める事である。 《 宗教家と政治家 》 宗教家と政治家の根本的相違点は、 前者は、自己が菩提心によりて真理を求道するのである。 坐禅。つまり仏道に往き着く。 『仏道を習うと云うは自己を習う也。自己を習うと云うは自己を忘れる 也。』 そして万法に証せられて身心脱落する(=悟る)のである。 そして、やがては、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の真理に至るのであ る。 一方、政治家が自己を忘れて居たら、政治家足り得ないのである。 真の宗教家は、世界人類の幸福と平和と繁栄の為に自己を惜しまな い人物であるが、政治家と云う者は自国の幸福と平和と繁栄を優先 するものである。 此処に両者の立場上の根本的相違点が在る。 つまり、宗教家は根源的個に立脚して普遍的真理に至り得た人物で あり、世界の政治家は自国優先の相対的目的を掲げる集団である。 しかし、若し政治家が其の域を出なければ、永遠に権力支配から出ら れないのであり、三毒(貪・瞋・癡)為る人類が対立と闘争から離脱す る事は不可能なのである。 其れ等から離脱して平和に至るには、必然的に宗教家の立場を択( と)らざるを得ないのである。 是無くして、可能な限りの 世界人類の幸福と平和と繁栄は在り得な い。 此処に矛盾が生ずるのであるが、 政治家の使命は、此の矛盾を超えなければ為らないのである。 逆に、是を乗り越えるのが政治家の真の使命である。 然(さ)もなくんば、世界平和は在り得ないばかりでなく、世界核戦争を 前提とする対立と闘争は必然不可避である。 つまり、政治家の本命も矢張り、宗教家の本命足らざるを得ないので ある。 是が人類の心の進化の究極である。 政治家も宗教家も共に、世界人類は真理為る涅槃世界に至らざるを 得ないのである。 何と為れば、是が涅槃為る「宇宙(生命)の本質」であるからだ。 本質ならばこそ、小生独りであっても、此の真為る命題、全なる個、個 なる全、全一で在り得るのである。 つまり、世界万国即自国、自国即世界万国の立場が可能と為り得る のである。 政治の究極も真理に基づかざるを得ないのであり、 然(さ)もなくば、現今の事態に至らざるを得ないのであり、 是は、自己の生存の可不可に係わって居るのである。 其れは、本来人間が三毒(貪・瞋・癡)為る生命体であり、宇宙は涅槃 為る世界であるからだ。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に同ず(帰一す)れば平和であるが、違( たが)えば地獄と為るのである。 故に、小生の最後身心が、若し黙ったら世界は終るであろう。 《 覚 天 》 大凡(おおよそ)人類の最も貴重と為す如何なるもの(坐禅、行、信念 、真理、価値、神仏、形而上的為るもの)も、何の前兆も無く、突然、 刹那に消滅せ使め得たものが、「世界人類を生(活)かす」具体的 実践 であったと云う事である。 是は「覚天」為る体現に於いて、呼吸システムに異変生じ、行の継続 不能を本能的直観で「覚天」した(=悟った)心的内容の説明である。 大学の図書館で偶然見つけた釈尊の坐禅の小冊子を見ながら、 坐禅を身体(からだ)で身に付けて以来四十四年間、坐禅一筋、一度 も体験した事の無い事であった。 是は永年、坐禅行(=正法苦行)に打ち込んだ功徳によって、「宇宙( 生命)の本質」(涅槃)が小生の身に体現され、心で覚天したのである 。「宇宙(生命)の本質」は「涅槃」と云う、永遠に不滅為る恒常普遍の 真理を「覚天」する迄は、「人を生(活)かす」と云う事に関しては、托鉢 と後行とネットと云う極仏以外は在り得なかったのである。 「解脱」と「涅槃」は「信」と「真理」の相違である。 「悟り(身心脱落)」は本質に接近し得て自己の真命に目覚めた体験。 「解脱」は本質に接触して、人心に本質が開示された体験。 「涅槃」は本質に回帰し得て、人身に体現され、宇宙の本質が如何為 るものであるかを直観せ使められた体験である。 小生、学生時代、九重に予備登山をして、テントで、プラトンの『ソクラ テスの弁明』を携帯し、一週間程であったと思うが、槍穂の単独縦走 をした。 小生の自然への憧れは其処迄であった。 其の後、釈尊の坐禅の小冊子に出会ったのである。 本来、自己の為の言語中枢は、「涅槃」への心の進化に基づいて、「 世界人類を生(活)かす」為に、其の進化を遂げるのである。 是が「涅槃」の大脳新皮質、言語中枢である。 《 喫緊の最重大課題;地上非核化 》 昨年の世界に見い出し得た唯一の光は、前トランプ大統領との非核 化への動向である。 今、バイデン新政権発足に当って、世界人類が心しなければ為らない のが、此の地上非核化と世界人類のコロナウィルスに対する自律心 堅持である。世界の生活習慣に拘らない普遍的自制心である。 環境に流されない、自己が為し得るコロナウィルスに対しての用心に は一律ならざる、用心と云うものが可能であると思う。 経済との両立は各個人個人の心の用い方で、可也の可能性が在り 得るのではないか。 さて、地上非核化であるが、是は世界人類が、人類の最悪の禍根を 断つべく、心を一つにしなければ為らないものである。 此の立場に立てる事が、世界人類の絶対的信頼の基盤と為るので ある。 三番目に取り組まねば為らないのが、根本的環境破壊対策である。 是こそ、科学的根拠に基づいて、菅首相の構想で抜本的に手を打っ て往かねばならないものと思う。 米国の分断のみならず、地上の分断は修復出来ない。 其の地上の二分の最終結末が、日本への二度の原爆投下と為って 居るのである。 そして、其の結果が、今米国の新大統領選挙戦に於ける二分である。 今、世界人類が「涅槃」への進化を遂げる、即ち二元敵対が消滅して 一(いつ)と為る、是を「涅槃入り」と言う、此の信頼を獲得しなければ、 人類は永遠に二元対立の病魔から離脱する事は出来ないのである。 是は時間の問題である。 百年後に引き延ばすか、十年後に為るか、即刻速断するか。 若し、人類が可能な限りの世界人類の幸福と平和と繁栄 を構築し 、完遂するのであれば、指導者として、涅槃に基づく涅槃妙心智慧の 実践が政治家としての真為る使命である。 四番目に、神は、キリスト教とイスラム教共に聖戦(ジハード)の否定 を宣言しなければ為らない。 然(さ)もなければ、共に神足り得ないのは明らかである。 神が絶対的存在であるならば、そうでなければ為らない。 《 世の中の限界 》 世の中の限界は、「花より団子」である。 花とは菩提心の志向性であり、団子とは金とセックスである。 世間の団子の馬車馬の牽き手為る指導者達と花との対立が、今の 米国に象徴的為る実態の本質である。 此の対立が世界の歴史である。 団子には嘘しか無い。 願わくは、団結たる花の、涅槃妙心智慧に基づく能動的積極性為る 実践力の堅実為らん事を! 自己を措いて、奇跡中の奇跡は無いと知れば、つまり真の不二為る 自己の自覚が在る。 是、身心脱落為る「悟り」である。 万法に証せられた「悟り」ではあるが、万法其のものが無い。 自己と万法とが別物である。 万法に回帰し足る自己である。 是を「涅槃」と言う。 然(さ)もなくんば、 極仏の無限の彼方を何処迄も彷徨(さまよ)う以外無いのである。 微塵の疑の在り様も無いのである。 宇宙と云う無限の可能性裡に於いて、我々は斯く在ら使められて居る 存在なのであり、是こそ奇跡的必然性であり、斯(か)るが故の、自己 の自覚為る真理の現成なのである。 他所を伺う事勿れ。吾心に全ては解く鍵が秘められて居る。 《 現代資本主義 》 本来、人間が「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違(たが)わない為には、 其れだけの時間が不可欠なのである。 其れが進化なのである。 然るに、現代は「生めよ、増やせよ」ばかりに先走って、出来上がった ものは永続性、発展性の無いもので、地獄の様相を呈するに至った。 現代の指導者達は、馬車馬牽きを止めて、本質に立ち戻り、 「急がば回れ」、永続性、発展性の為に退歩の進化を遂げねばならな いのである。 禅門では、「脚下照顧」(=足下を見よ)と言われる。 つまり、「在らぬ方向に先走るな」と云う事である。 少なくも、世界規模で、全人類の持てる有効時間の有効利用を果た すべきである。 知的好奇心や誉れや力の為の科学的先走りや、富裕さを生む手段に 昂じるのでなく、本質的価値(施政に於いては、世界人類の生命の確 保)の為に費やす十分なる時間を確保する事である。 其れによりて、人類は馬車馬と為らずに、十分に自覚の伴った生き方 が出来、全体的に永続、発展可能な世界と為るであろう。 「急がば回れ」。 人類は馬鹿では無いのである。 故に、「坐禅」、「涅槃」、「(涅槃妙心)智慧」なのである。 《 「覚天」の実際 》 呼吸も姿勢も形と強さから入り、是を堅持した儘、潰れ往き、智慧の 柔軟為る唯一の活路を得るのである。 此処が、身を離れて、心の生(活)きる進化の実際である。 世界人類を生(活)かすには、力では及ばない。 信頼に基づく団結と智慧である。 独裁でなく、心一つに全体が生(活)かし合うのでなければ及ばない。 生涯後厳密千日涅槃行為れど、唯、漫然と遣って居ったのでは及ば ない。 是に真徹して、更なる絞り込みが無ければ、其の進化は究竟しない のである。 つまり、何処迄も磨き上げんとする、是が菩提心であるが、絞り込み のエネルギーによりて初めて、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)が最後身 心としての人身心を貫徹して、人類を本質為ら使め、体現に至ら使め るのである。 (坐り方に、数息観があるが、是は坐禅の準備段階である。 坐禅行では、呼吸は自然が宜しい。但し、正法苦行の呼吸は 自ずから大解脱人、或いは大涅槃人独自の其れである。 是、欲界中の菩提心在りて初めて可能為る独自のものである。) 《 日 程 》 3:00―――起床 2:00頃前後1時間 (ネット) (昼食) 5:30―――朝食準備 5:00―――帰宅 (ネット) (夕食準備) 8:30―――朝課 6:30―――晩課 (朝食) (夕食 ) 10:15―――托鉢準備 8:00―――片付け (ネット) 11:00―――出 11:00―――就寝 (托鉢) 《 万法の三態 》 釈尊は中道に基づき、禅定によりて成道され、解脱された。 道元禅師は坐禅で、万法に証せられて 身心脱落した。 小生鐵漢は中道と真中道に基づき、万法に回帰(=涅槃)して涅槃妙 心智慧で世界人類を生(活)かすのである。 万法 とは物質的、精神的な全ての存在。又、其れが持つ真理、法則 である。 釈尊は、小生が可知為る万法に接触し、「解脱」した様に、人類の心 を解放し、安心(あんじん)せ使められた。 道元禅師は、小生も同様であるが、未知為る万法に証せられて、人 類を覚醒せ使めた。 小生鐵漢は、回帰し足る万法(=人為以前の万法)によりて、自己と 共に人類が正さ使められたのである。 是は、「覚天」して「涅槃入り」したと同時に現実為る実践に覚転され、 恰も反物質の如く消滅する処の、覚知されざる真万法(=真空、真無 )である。 《 現人類の最も看過されざる重責 》 従来の主導的立場に在った米英として、今コロナ禍によりて露呈され 、浮き彫りにされた米国の三毒(貪・瞋・癡)勢力と不三毒(不貪・不瞋 ・不癡)勢力との拮抗せる両分断勢力を率いるバイデン氏が直面し足 る、此の事態を如何に教導し得るかが、今コロナ禍以上に、主導国 家としての喫緊の重責に直面して居るのである。 是、現代資本主義文明の末路であり、是を打開する突破口を一体何 処に見出し得るかが、我々人類に残された最も重大なる責務なので ある。 此の人類の必然不可避なる、逃げ場の無い重責と時局に直面せざ るを得ない状況下に在りて、最も深い人類の根源悪に係わる問題で あり、是と軌を一にせる、日本に於ける、「覚天」した涅槃為る真理に 於いて初めて解決し得るものである。 富裕国程、此の三毒(貪・瞋・癡)現象が著しい。 是が人類の性(さが)である。 印度、ブラジルの感染者、死亡者の激増は貧困に起因しているが、 欧米の其れは三毒(貪・瞋・癡)に起因する。 よって、少なくとも其の半数以上が、恥を知らないのである。 是に人間の正気を取り戻さ使めるのが、正に日本の最大の使命なの である。 不昧因果。 大航海時代以来の奴隷化(=人種差別)、そして原爆支配志向。 そして極端なる格差を生む貪 に基づく富裕層の台頭。 世界の指導国家にして、斯く在るのは、最も恥ずべき事である。 バイデン氏としての使命が喫緊の問題と為る処であるが、もう既に半 ば自己放棄し、其の重責を回避する様に見受けられる。 是程のアメリカ国民の短慮と癡愚さには驚きを隠し得ないのである。 然るべき人物の不在以外の何者でも無い。 米国の失墜は不可避である。 《 西洋的手法と東洋的手法 》 宇宙を捉えるに、西洋では対象を分析的に把握して往くが、 東洋では、特に日本人は自然や宇宙を直観的に把握する。 是は、日本の四季の微妙な移ろいが日本人の心に影響して居る。 時空裡の物質(=人間の実在)を大前提と為す。 人類は、其の上に学問を構成するのである。 哲学的に存在として、或いは科学的に素粒子として。 しかし、何れも、釈尊の手掌上の悟空の域を出ない。 此の手法では、永遠に、恰も玉葱の皮を剥く様なものである。 是が西洋的手法である。 一方、東洋に於いては、 其の大前提裡に自己の一切を委ねる。 大脳新皮質を放棄する。 つまり、人類の方向性は、先ず此の東洋的手法から始まっている。 そして神の勢力の台頭(暗黒時代)、其の反動で、人間性(諸能力) の復活(ルネッサンス)、其の後外の世界を征服し、奴隷化し、自己の 富と権力を拡大する。 そして強大国家権力同士の戦争から二度の世界大戦、戦後の資本 主義経済戦争の暴走、其の末路が今である。 東洋的手法の完結した、つまり先の大前提に自己を委ねて、自己為 る生命に全てを委ねる事によりて、坐禅の功徳生じ、「悟る(身心脱落 する)」のである。 つまり、大前提と為して居ったものの正体を自覚する。 更に、其れに委ねるのでなく、其のものに帰一(=体現)した刹那に、 じこが、其の大前提其のものと為るのである。 其処に大前提の、つまり「宇宙(生命)の本質」(涅槃)が、自己の身心 為る全生命を貫徹して、自己に体現せ使めるのである。 其の大前提は「世界人類を生(活)かす」と云う宇宙の恩恵、其のもの と心の進化を遂げる(=回帰する) 《 鐵 漢 》 此の宇宙には、神も仏も居ない。 唯在るのは、宇宙の真理だけである。 今でも思い出す。 十七歳の時、ビルの屋上に寝っ転(ころ)がって、星一つ出ていない 闇夜の一点を、窺(うかが)う様に恨めしく仰ぎ見詰めた事を。 そうして、大学時代、槍穂連峰の前穂山頂に横に為って碧天を我が 物にした事を。 其の後、釈尊の坐禅に遭遇して、坐禅によりて、其れ迄の一切が明ら かと為ったのである。 出家して、寺を飛び出て以来、夜空の星は常に小生と一つであった。 千日行一つ、碧天の志で帰郷し、 行によりて、自己が大地に根付いたのを記憶している。 行を終了したら、旅に出るつもりで居たのだ。 記憶の一節一節を辿って、末節に「覚天」したのである。 世の中、学説や芸術を生んだ人々は多けれど、真理を得た人間は 皆無である。 生んだ説や情や術に過ぎない。 実在せる神や仏は釈尊一人である。 然れども、釈尊でも真理には至り得ていない。 真理への前段階で留まって居るのである。 「涅槃」為る「宇宙(生命)の本質」に至り得た人間は、 人類史上空前絶後にして、心の進化を遂げ、此の令和新世紀の 最後身心為る小生、鐵漢只独りである。 然るに、世の中は、其の神で殺し合い、真理に違(たが)えて、地獄を 生まんとして居るのである。 真理を生きんとして居るのではない。 真理を生きんとしてこそ、世界人類は可能な限り 幸福と平和と繁栄 に至り得るのである。 是迄の愚策を捨てて、智慧を構築しなければならない。 是からは、唯、其の完遂在るのみである。 世界の是迄の覇権主義から、真理を生きる方向性に転換しなければ 為らないのである。 現実と云うものは、人類が三毒(貪・瞋・癡)為る存在である以上、 癡愚為るものが基盤と為って居るが、 真理は、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)であり、当然在るべき姿なので ある。 癡愚為る世界が、当然在るべき世界に転じ、進化し往くのが真理の 在り様である。 旧態の知識による三毒害世界から、新た為る、真理の涅槃妙心智慧 に基づく涅槃世界へ移行しなければ為らないのである。 量の末路から、質に基づく構築と完遂への転換である。 《 「最後身心」としての使命 》 小生、一年二ヶ月前「覚天」して、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰 し得た時も然(さ)る事ながら、以来、其の真価が、日々に改めて愈々 (いよいよ)自(おの)ずから自覚されるのである。 つまり其の現実問題としての真義である。 もう既に、責任とか、使命とかでは表現し得ない働きに思えるのであ る。 当然、能力にあらず、又「悟り」等の諸覚醒過程の経過を超えて、「最 後身心」の自ずから為る抱負とでも謂おうか、若し、仮に神仏があると すれば、是こそ神仏足る立場でありましょう。 説や情や術以前の真理であります。 此処から、真説、真情、真術を打ち出すべきなのでありますが、 神仏は、微妙に、習う立場ではなく、其の霊妙極まり無き施政に及び 得るには、(各)為政者(方)の信頼と団結が無ければ、為し得ないも のであります。 力でなく、依存でなく、自発的、絶対信頼に基づく団結によりて、力や 依存を制して往く。 矢張り施政に於いても、此の菩提心が不可欠為るものであります。 是でなければ、可能な限りの 世界人類の幸福と平和と繁栄は構築 、完遂され得ないからであります。 其れは、人類が単なる理念に止まらず、神仏の基に、つまり真理に基 づいて国民を治めるが如きものなのであります。 説、情、術を真説、真情、真術と為す菩提心が不可欠なのであります。 可能な限りの 世界人類の幸福と平和と繁栄の構築と完遂とは、真に 此の菩提心に基づいて、行われ以て往かねばならないのであります。 其処からして、自(おの)ずから三毒(貪・瞋・癡)為らぬ、三善根(施・ 慈・慧)の実践が為されるのであります。 貪・瞋・癡為らぬ施・慈・慧の施政、誠に此の施・慈・慧の施政 であ ります。 涅槃世界とは絶対信頼と団結に基づく施・慈・慧の施政 であります。 戦後七十五年、人類が体験した事の無い危機的状況下に於いて、其 の起因たる三毒(貪・瞋・癡)害世界を打開して、三善根(施・慈・慧) に基づく涅槃世界へ進化し往く、新たな道への第一歩を人類は踏み 出したのである。 《 真の革命;高齢化と心の用い方 》 古希を超えて、人間は若い頃の瞬発力は及ばない。 上求菩提の正法苦行ならば未だしも、「人を生(活)かす」涅槃妙心に 於いて、「自己を生(活)かす」には智慧が要る。 つまり、瞬発力に頼らない為には、二十四時間の大部分を生(活)か し切る様な生(活)き方をしなければ為らない。 二十四時間の大部分を瞬発力を要しない様に心を用いる。 極力厳格に、持続的に時間を有効利用する以外には無い訳である。 つまり、高齢化する程に、生(活)き方と云うものは充実して居るので あり、又然(そ)うでなければ為らないと思う。 実質的、現実に生(活)かす為に、自(おの)ずから、三~四時間の睡 眠時間以外の全てに細心の用心が、一層不可欠と為る。 要するに、 最大限「人を生(活)かす」為には、可能な限りの細心の用心が不可欠 であると云う事である。 何と為れば、 其の細心の用心其のものが、結果的、実質的に最も「人を生(活)か して」居るからである。 是も、体験的に明らかである。 一概に、一律に白だ、黒だの短絡的手法では、真理には遠く及び得 ないと云う事である。 其の為には、最低限、其れ相応の一定の時間と、其れに適(かな)う 労苦無くしては為し得る事ではないのである。 小生が菩提心による、生涯の後厳密千日涅槃行以外には無いの確 信に基づいて、初めて至り得る奇跡であった如くに、其処に至る迄に は、其れだけの労苦無くしては、不可能である。 是が涅槃へ減衰振動しつつ収束し往く現実の実態なのである。 正法苦行によりて、「涅槃入り」するには、一点の隙も許されない刹那 に於いて初めて生じ得る奇跡であったのである。 「涅槃入り」して、涅槃世界の構築と完遂の段階に於いては、其の刹 那すらも許されない、葛藤為る刹那の連続であって初めて、可能と為 るものなのであり、其の葛藤のエネルギー、即ち菩提心にこそ、心の 進化の推進力が具わって居るのである。 奇跡を生む方向性から、一転して次は葛藤に真道を見出す、生まな い方向性、此の許さざる刹那、奇跡を生まない志向性の正念相続、 是こそが、可能な限りの 世界人類の幸福と平和と繁栄の構築と完 遂の実際なのである。 宇宙の真理を得る為の大気圏外への脱出によりて初めて、宇宙の真 理を得たら、次は、真道に、其の得られた「真に地球人類を生かす」真 理によりて、可能為る世界人類の真の生き方を地上に齎(もたら)す べく、地上へ着地する飛翔に転ずるのである。 斯く、人類は根源からの智慧無くしては、涅槃世界を構築、完遂する 事は不可能である。 是が「世界人類を生(活)かす」真の革命と云うものである。 《 「解脱人」と「涅槃人」 》 「解脱人」は人間の欲を制する。 釈尊と摩訶迦葉と、後は正法苦行無し。 小生「涅槃人」が釈尊の命を永遠のものとしたのである。 つまり、釈尊の予言の末法は、「涅槃」為る真理によりて否定された。 若し、釈尊が宇宙の真理に回帰し得ていたならば、末法は在り得ない のだ。 回帰し得ていないが故に、正法から像法、末法に陥らざるを得なかっ たのである。 究極の真理を人類に開示するのは、神を否定する超人、つまり「涅槃 人」のみである。 解脱すれば、「涅槃」に回帰せずとも、知り得る。 生きた儘の「涅槃入り」である。 人間、洋の東西を別(わか)たず、其の本質は同一である。 是は今のアメリカ国民に於いても全く変わりは無い。 然るに、現代に至っても、世界には、「悟り」、「解脱」、「涅槃」の真理が 無い。 唯一、日本には此の真理が在るが故に、人類三毒(貪・瞋・癡)が 在るのである。 真理無くんば、人類の根源悪為る三毒(貪・瞋・癡)も無し。 人類の根源悪を掌握しているのである。 是、「悟り(身心脱落)」起源為るが故である。 世界の霊峰足る日本。 日本人は人類史上、極悪と極善の両極を体験した世界に唯一の国 家であり、そして其処から、人間として自(おの)ずから果たすべき、 真の革命足る天命 を必然的に負うて居る。 世界には、米国の虚構為る神起源の、人種差別と原爆支配である。 現コロナウィルス感染症パンデミックが米国と云う傲慢にして驕れる 者の辿る愚道を世界中に浮き彫りにしたのである。 今こそ、此の反省が果たされなければ為らないのである。 其の証(あか)し足る、世界規模の絶対信頼獲得の礎と為る 地上非核化 なのである。 人間としての、此の真の反省に至っていない が為に、太陽の終焉 の如く、其の実体も分裂し、崩壊するのみである。 現中国は、今や、其れ等の狭間で其の立ち位置が定まらない。 自(おの)ずから、米国分断派と中国人種差別は怯犬の咆哮に似て いる。 自己を絶対信頼する者が、「最後身心」である。 然(さ)も無くんば、世界に信頼は在り得ない。 斯く、「人間は因果な者」で、 自分が、斯(こ)うだ!と思ったら、然(そ)う為る。 此の因果は誤魔化す事が出来ない。 不昧因果 である。 だから、例えば、卑近な例ではあるが、 性欲と金欲と権力欲が一番好いと思って居る者は、 セックスと金と権力の虜(とりこ)と為る。 「解脱人」は自在に、其れ等に翻弄されないが故に、 釈尊の手掌上から悟空が出る事は出来ないのである。 如何(いか)に説いても、本人が一番好むと、必ずそう為ってしまう。 誤魔化した積もりでも、欲に誤魔化されて居るのである。 其の癡愚さは如何(いかん)とも為し難い。 然(そ)う為りたくなければ、初めから自分で、「教え」を信じ、反省し、 精進する以外には無いのである。 真理は不昧因果 であり、 世界人類が、是に基づいた絶対信頼 を獲得する以外無い。 即断、勇断し、正道を歩む事が第一である。 歩むべき道が在ると云う事は、無上の歓喜(よろこ)びである。 世界の四大聖人の子孫足る、総ての宗教家や学者等の一切の教え や学説も総ては、此の真理(=涅槃)へ、何処迄も収束し往く、無限の 減衰振動に過ぎない。 人間の欲と情に根付く大脳新皮質との斯く為る共振作用の進化の過 程、其の歴史に他ならないのである。 然るに、其れ等一切とは次元を異にする、人類史上空前絶後為る 生涯厳密初・後千日行(正法苦行)によりて、初めて「涅槃入り」するに 至ったのであり、此の真理為る涅槃妙心智慧に基づきて、世界に施 政されなければ為らないし、又必ず斯く為るのである。 真理起源によりて初めて、可能な限りの 世界人類の幸福と平和と 繁栄が構築され、完遂され往くのである。 《 生理的欲求から心進化する人間 》 三 毒 ( 貪・瞋・癡 ) (慢心) (怒り) (迷妄) 欲 → 情→分別 進化→: 脳幹→大辺縁→大脳 解脱される心 迷い 煩悩 四苦 自己為る生命活動が、既に、単為る物質から生命現象を獲得した処 の進化の証(あか)しであるが、此の解釈は学者に委ねられている処 である。 人間の生命の大脳生理学的解釈について、 動物本能は脳幹の生命維持機能(本能)(反射、摂食、交尾)から、大 脳辺縁系の快不快の情動や共感から、大脳へと進化したのであるが 、動物本能は人類へ進化する段階で、大脳辺縁系の働きで脳幹の本 能が欲と情動行動(共感)に、更には分別と菩提心へと変容するに至 ったのである。 脳幹最上部の間脳視床下部(本能(食欲、性欲、睡眠欲)行動中枢、 情動行動中枢、自律神経中枢)から、上方に大脳辺縁系、及び大脳 (新)皮質への進化を遂げた。 生理(本能)的欲求(睡眠欲、食欲、性欲)は人間が生命を維持する上 で必要不可欠である。 此処で、生理(基本)的欲求の中枢前後について触れて置く。 大脳の芯に大脳辺縁系が在り、更に其の芯に、脳幹が下方に脊髄、 末梢神経へと移行して居る。 大脳辺縁系は、価値判断、意思決定、共感、直観力、感情(形成)に よる記憶、情動(反応)・感情の処理(好悪、快不快、怒り、恐怖、意欲 )。 快情動による接近と、不快情動による攻撃・回避は生存に不可欠 である。 脳幹は、上部、視床下部で生命維持に重要な中枢、本能行動中枢( 食欲、性欲、睡眠欲)。体温、摂食、呼吸中枢。情動行動中枢(自律 神経中枢)、自律機能(体温、ホルモン、浸透圧等)。 例えば、「怒り」は大脳辺縁系で生じ、大脳前頭葉で抑える。 「恐怖」は 〃 で挑(いど)む。 脳幹網様体は、呼吸・循環中枢の生命維持の不可欠機能。 脳幹を延髄から視床を介して、大脳皮質迄上行し、意識レベルの制 御、覚醒・睡眠の調節をし、呼吸、心拍数、血圧の調節中枢であり、 脊髄を下降して随意運動、筋緊張・反射、姿勢保持、歩行に係わる。 此処で、神経系の起源と進化について触れて置く。 神経細胞を持たない、神経系以前の原生単細胞生物のゾウリムシが 物体に衝突して方向変換する行動や、捕食者に襲われて遊泳速度を 速めて逃避する行動は細胞内の生体電位を利用して引き起こされる 事が判明している。 ゾウリムシの静止電位や活動電位、先(後)端部の機械刺激に対する 脱分極性と過分極性の電位変化、体内のカルシウムイオンによる繊 毛打の制御等、正に神経系の神経細胞・感覚器・効果器と同じ仕組 みが見られる。 神経系の重要な新しい形質の出現も、突然現れたのではなく、其の 様な出現の為には、継続的で連続的な息の長い変化が必要である。 90%の生命が絶滅したと言われる古生代と中生代の境目の大絶滅 や、中生代と新生代の境目の恐竜等の大型動植物の大絶滅を始め として、生命の歴史は、多くの種が現れては消えていった絶滅の歴史 で、僅(わず)かに残った生物が適応放散して多様な生物が現存した と思われる、其の様な氷山の一角とも思われる現存の生物の神経系 からでも、其の連続性が窺えるのである。 遺伝子発現の比較の結果によりて、脊椎動物の背(腹)側が昆虫や 環形動物の腹(背)側に相当していたのである。遺伝子レベルで見る と、多様な神経系の裏に、沢山の共通のメカニズム(=設計原理)が 存在する事もまた真実である。 扁形動物のプラナリアでは、脳形成の遺伝子プログラムは既に揃っ ていて、脳の基本と為る構造を作る為のロジックは進化のかなり初期 段階で出来上がっていたのではないかと思われる。 地球上で最も繁栄して居る動物群である昆虫の微小脳は、「小型・軽 量・低コストの情報処理装置の傑作」である。 次に、人間生命の心理学的解釈について、 独の心理学者フロイトは快を求め、不快を避けようとする快感(=快不 快)原則、又欲動の充足を延期する能力の現実原則を定め、快楽原 則から現実原則への変化は、欲動の昇華とした。 涅槃原則は「死の欲動の発現」と捉えた。 虚無主義(ニヒリズム)に陥る。 米の人間性心理学者マズローは「自己実現理論」(「人間は自己実現 に向かって絶えず成長する。」)の仮説を立てた。 ピラミッド状の階層を為し、人間の欲求を底辺から、 生理的欲求→安全の欲求→社会的欲求→承認(尊重)欲求→自己 実現の欲求(→自己超越の欲求(五十年程前の晩年に、「永遠の哲 学」のトランスパーソナル心理学はフロイト等が其の土台と為る))と 定義し、トランスパーソナル心理学会を設立した。 米のトランスパーソナル心理学者、ケン・ウィルバー(1949~)は 心理学の範疇を超えた、アメリカを代表する哲学者でもある。 「フロイトと仏陀を結合させた。」 最後に、身から心、そして「涅槃」への実際について、 世界平和は、最終的には科学力でなく、信頼に基づく団結力で英断し なければ為らないのである。 其の為には、「涅槃」に回帰した「最後身心」為る小生鐵漢の「涅槃人」 と云う進化の極頂点、物が身と為り、心と為り、「宇宙(生命)の本質」 (涅槃)に回帰すると云う、是非に拘らず、皆然(そ)う為っているのだ が、是を体現したのが小生鐵漢である。 宇宙は涅槃世界である。 地球の年齢四十五億年の間の、刹那生滅の原理と因果の道理に基 づく、身と心の区別が不明確と為る程迄に、人間能力を超えた無限 底刹那の進化の結果なのである。 身も心も実体は無いが、永遠の真理が在る。 宇宙とは真理(=涅槃)の現成である。 然(さ)て、実践面に入る。 人間の生理的欲求(睡眠欲、食欲、性欲)中、睡眠欲だけは、 何もしなくても 寝入ってしまう。 是を禁じ耐える事が最も困難である。 故に、三時間坐睡二十四時間仏作仏行が究極の千日行為る正法苦 行なのである。 是が「涅槃」への究極の能動的積極性の菩提心の正道である。 人類では大脳の表層一~三ミリメートルの、新聞一枚分の全表面積 があり、言語中枢がある大脳新皮質が、其の中でも特に前頭葉(おで こ辺り)が最も発達しており、此処が人類の未来を担う領域である。 是が胎児の脳の形成時も、最後に出来上がる。 此処で超自我(=菩提心)は生み出されるのである。 此の大脳新皮質前頭葉の菩提心で、脳幹以下(=間脳(視床、視床 下部)、中脳、延髄)、脊髄、末梢神経の中(うち)、大脳、大脳辺縁系 と、脳幹上部の間脳(視床、視床下部)迄、つまり分別・情動・欲シス テムによる人類三毒(貪・瞋・癡)の本源を制御し、其の根を断つのが 坐禅である。 是によりて、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)が体幹を正しめ、「涅槃入り 」するのである。 最も制し難き睡眠欲を制すると云う事は、根本的に既に食欲、性欲も 制し得て居るのである。 故に人間が動物的でなく、真に人間らしく生きる為の最も簡要な方法 は、必要最小限の睡眠時間で規則正しい生活をする事である。 是から一歩先んずるには、願わくば、日々一時間の坐禅である。 許す限りの坐禅が要である。 大脳新皮質前頭葉に於ける超自我(=菩提心)形成には、 睡眠を必要最小限と為し、坐禅に親しむべきである。 睡眠は自我の根源為る三毒(貪・瞋・癡)を温存するからである。 是を人類の心の用い方の根本と為すべきである。 是によりて、人類の諸能力の基盤が、世界人類を生(活)かすべく定 まり、菩提心が生(活)きるのである。 人生とは刹那生滅の原理と因果の道理に基づく、一連の継続する 現象為る心であり、更に現象から本質を志向し、本質に臨み、又本質 に帰一する心への進化の途上為る心でもある。 「人類は涅槃世界を構築し、完遂する者である。」と云うのは、人類史 上、「涅槃入り」した小生鐵漢のみが断言出来る真理である。 何と為れば、「宇宙(生命)の本質」が分別以前の涅槃世界である事を 実証し得たからである。 人類は地獄と涅槃と云う両極限、つまり米国の二度に亘る原爆投下 による日本人の被爆体験と、小生鐵漢の「覚天」による「涅槃入り」で あるが、是等の両極を為す最大振幅からの、涅槃への減衰収束振動 する進化の過程の途上に在ると云う、永遠に不滅為る恒常普遍の真 理に至り得たのである。 是が地球誕生以来四十五億年を経た進化の最先端である。 《 神と学問と直観と涅槃 》 表題は、歴史と共に、人間が現実に体験する精神的過程の諸段階で ある。 神も学問も直観も涅槃も、総て是等、異質為るものである。 先ず世界には神が在り、そして自己の能力を生(活)かす裡(うち)に 直観を得、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)への道を歩むのである。 神は人間の諸能力の限りを尽くして至り得た、虚構為る相対的最高 形態の精神世界であり、日本に於ける天皇の在り様に似た処がある。 学問は、善悪以前の、無記性為るものであり、芸術同様至り得る事の 出来ないものである。 直観は「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しであり、 涅槃は永遠に不滅為る恒常普遍の真理としての宇宙の実相である。 後在るのは、地獄に至る闘争の二元相対世界に至ら使める最大誘因 である人類三毒(貪 ・瞋・癡)である。 然るに忘れては為らないのは、若し此の世に、極限に迄拡散し行く人 類三毒の悲劇が無かったならば、「最後身心」 は生まれなかったと 云う事である。 不昧因果 にして「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の真理に至り得たので ある。 人類は一体、何(いず)れで、世界平和為ら使めんとするか? 真理への直観と、是に基づく英断以外無いのである。 小生、神を否定する以前に、涅槃為る真理を説く者である。 「神を説く事は出来ないが、真理は説ける。」である。 此処に至ったには、十代後半以来の「疑義」、及び其れによる放浪、 試行錯誤、医学、本気の試行錯誤、宗教への志向性、禅の道、出家、 千日行(初行)、四十歳で完了、更に五十五歳からの千日行(後行)、 そして古希直前の「覚天」の「涅槃入り」、涅槃へ回帰し得て、真遺教 の一年二ヶ月余りである。 此処に於いて思うに、 人間は、好く神、神と言うけれども、一体何を以って神と為すか? 哲学者は哲学で及び得ない処を神と為した。否、然(そ)うせざるを得 なかったのである。 一般的には、自己の願望の依り処として神に願うのである。 是が更に普遍性を持った、世界人類の為の神である筈なのに、其の 神で複雑に殺し合いをする。 其れ等の神とは、自我を肯定してくれる対象でしかない。 神でさえ分裂するのに、国民が分裂しない筈は無いのである。 果たして、世界が、国家が分裂して居る。 何れも、真理に至る前に殺し合いが始まるのである。 殺し合いの如何に容易な事か。 ボタン一つで、確実に果たせる処迄準備が整っている。 人間と云う者が真実に頑張れないのは、三毒(貪・瞋・癡)為る生き物 であるからである。 まともに頑張れる者が居ない。否、頑張ろうとしない。 破壊と闘争の連続である。 皆、短絡思想で真理に至る労苦が皆無である。 若者の、此の労苦が不可欠なのである。世間に馴染む前の。 真理を得たものは多いほど宜しいのである。 真理を得るは、奇跡以外無いのである。 狙った段階で、不可能である。 此の真理以外、世界に未来は在り得ないと云う事である。 米中を初めとして、世界が是を確信して頂いた上で、其の構築、完遂 に、つまり涅槃へ向けての絶対信頼の歩みを踏み出して頂きたい。 涅槃にして初めて絶対信頼が可能と為り、涅槃裡に人間の諸能力を 生(活)かすのである。 是が真の能力足る能力である。 此処に初めて、可能な限りの 世界人類の幸福と平和と繁栄が在る。 是が神以前の真理(実)に基づく「真人(しんと)」である。 神と能力の結末が今である。 真理は永遠であるが、寿命は儚(はかな)い。 最も優先すべきは真理、次直観、そして能力(学問等)である。 でなければ、世界中に浸透しない。 かといって、能力ばかりに執著しても、進展性が能力以内に止まって しまう。 真理に基づいて、直観を活かすべきである。 要は、直観の生(活)かし方である。 其処に可能性が在り得るのである。 直観は二元相対的能力の域を超えるからである。 可能性の見出せない、覇権至上、或いは任期止まりでは、永遠に可 能性は見出せないのである。 仏道は、迷妄為る世界を涅槃世界に転ずるに、三毒(貪・瞋・癡)を 三善根(施・慈・慧)に転じるのである。 坐禅を行ずれば、自(おの)ずから然(そ)う為る。 是が坐禅の功徳であるが、是を徹底するには、人間、「解脱」しなけれ ば為らないが、釈尊も御遺教に戒為る「別解脱」を遺されたのである。 三毒害世界を三善根世界にするには、先ず、此の「別三善根」でなけ れば為らない。 三毒(貪・瞋・癡)を三善根(施・慈・慧)為ら使めねば為らないのである 。坐禅を行ずれば、更には「悟れ」ば自(おの)ずから然(そ)う為る。 此のイ・ロ・ハのイが貪を為さず、施を修めるのである。 「善根を施す」 事である。 是無くしては、世の中は改善しない。 此の最足るものが、地上非核化 に他ならないのである。 地上非核化 の英断である。 此の極善根を世界人類に施す事が、世界平和の礎 と為るのである。 此の絶対信頼 によりて、世界は改善する。 でなければ、世界は、何処からとも無く、三毒(貪・瞋・癡)害世界へ流 れ去ってしまう。 此処からが正念場である。 小生は、千日行が意識上に上る迄は、千日行すら全く眼中に無かっ たのである。 其れ迄は、唯、走り回って、歩き回ったり、人工衛星に為ろうとしてい たり、釈尊の坐禅を偶像化して、崇拝したりした。 吾師が千日行を小生に施して戴いていたのであるが、 心無ければ「馬の耳に念仏」、全く意識上に上らなかったのである。 人間の深層心理と云うものは実に巧(うま)く出来ているのである。 恐怖を無意識裡に心の隅に葬(ほうむ)り去って、短絡的に処理してし まうのである。 其のプロセスは殆ど無意識裡に、無自覚に為されてしまう。 其の葬(ほうむ)り去られた、恐怖に包まれたダイアモンドの原石が、 小生の意識上に浮かび上がって来たのは、日本一周の自転車によ る坐禅行の途上であった。 此の偶然の、「ハッ」とする様な、善根の意識上への浮上が無ければ、 今の自己は無い。 是が不昧因果 で、師の善根が蘇(よみがえ)って、生き返ったのであ る。「あー、然(そ)うだったのか。」と気付かされた。 是を契機として、今の小生が在るのである。 仮に、若し然(そ)うでなければ、旅の途上での、此の気付きは無かっ たであろうし、其の後の「千日行入り」も無かったのである。 其の最初の段階で、巧(うま)く、処理が為されていたからこそ、「千日 行入り」出来たのである。 要するに、其の機が熟すには、其れだけの心の踏むべき諸段階が必 要なのである。 人間の深層心理の霊妙極まり無き神妙さは実に神技なのである。 是が、刹那の不昧因果の真実である。 是、吾師の真実であり、且つ小生の真実なのである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の霊妙極まり無き働きは、斯くの如きも ので、刹那、刹那の心の進化の賜(たまもの)なのである。 刹那生滅の原理、因果の道理に基づいて、物も心も無限の過去から 今日に至る迄の進化を遂げて、今が在るのである。 人間の限られた分別で左右可能なものではない。 世界を生まれ変わらせるには、此の善根が絶対不可欠なのである。 是が涅槃への正道である。 是無くして、従来の地平の延長線上に平和は存在しないのである。 三善根(施・慈・慧)の慧と云うものは、向こうから遣って来るものでは ない。 何も無い処に、自(おの)ずから、敢えて常に問い、能動的、積極的に 敢えて熟慮するのである。 小生の真遺教は、全て然(そ)うである。 「世界人類を生(活)かす」とは、然(そ)う云う事である。 悟った者の学問は、偏(ひとえ)に人を教導せんが為である。 永遠に人の為に、世界の為に、何も無い処に自(おの)ずから、敢えて 真心を尽くしてこそ、自己に留まらず、世界人類を生(活)かす事が出 来るのである。 全く、性欲でも、金欲でも、力欲でもない、別次元のものである。 《 三毒と涅槃 》 世界は三毒溶液である。 人間の存在自体が、本来三毒溶液なのである。 是、如何(どう)云う事かと言うに、 宇宙は涅槃為れど、人間は涅槃では無いのである。 涅槃は三毒を中和するが、飽く迄も三毒為らんと志向するのが三毒 であり、毒が毒である事から動じ様としない。 毒の源は貪である。 貪は溶液を為す実体である。 貪は本質ではない。三毒為る現象である。 世の中と云うものは、 人は誰でも、本当は真剣に為りたいのであるが、 然(そ)うは為れないのが事実であろう。 真剣には為れない諸素因に満ちているからだ。 自我の諸欲も測り知れないし、外的諸条件も然り。 でも真実は真剣でありたい。 其れが自分なのであるから。 是に負けると、本当は地獄なのであるし、 是に勝つ事は、歓喜(よろこ)びである。 本当に嬉しい。恐らく何事よりも。 其れが真実なのである。 小生が、子供の頃から、子供なりに、其れに取り組んで、不惜身命。 空前絶後にして古希まで、純粋、果敢に是に労したのである。 一般世間で、是が為せる訳が無い。 完熟した仏果をポロリと得るには至り得ないであろう。 要は正法苦行でなければ、其の仏果は完了し得ないのである。 世間の地獄からでは得られないものである。 故に、要は、何処迄真剣に為れるかに掛かっている。 真剣さとは、正法さに他ならない。 世間からは導き出せない道である。 正法とは、純粋為る菩提心である。 世間も無ければ、自己の将来も無い。 否、現実すらも無い。金も無い。欲も無い。 只管、恰も、、磁針が北を指しているが如し。 其の意味も無い。唯、指して居るが如く、行動しているのみである。 つまり、分別が無いのである。 其の様な本能が働いているのであろう。 故に懸念が無い。全くの子供の如し。 是が小生の三十代であった。 是が根本に在りて、其の延長線上に今が在るのである。 故に好運以外の何ものでもないし、奇跡以外の何ものでもない訳であ る。 世界は、強者の驕りと敗者の甘えによって相互に、地獄と云う世界を 生み出している。 事、男女間に於いても、 其れ等双方の特権の均衡に於いて、欲界を生み出している。 是等の均衡を打破するのは、「大涅槃人」である。 つまり唯、宇宙の真理を悟った人間だけである。 是は全てに著さない、宇宙の調和と均衡と静寂の見極めである。 強者は驕(おご)らず、弱者を生(活)かし、 弱者は甘えず、強者、弱者平等に精神的自立を為す。 且つ、施政は、其れを物質的、精神的基本的条件確保を最優先事項 と為し、真理から、物心両面を整えて往かねばならない。 《 癡 とは 》 癡とは、身から心への進化のプロセスを、貪によりて破壊し、本質的 進化を否定、逆行し、進化以前に退化すると云う現象である。 人間として、獣化してしまった、実に恥ずべき状態であり、 普遍的退行現象である。 ※退行とは、精神分析家フロイトによれば防衛機制の一つであり 、不満足な現実からの飛躍の産物であり、許容出来ない衝動( 三毒)をより適切な方法で処理するのでなく、自我を一時的又 は長期的に、発達段階の初期(禽獣)に戻してしまう事である。 個人の性格が、より幼稚な性癖を採用し、発達段階の初期 (禽獣)に戻る時に起こる。 《 自燈明 》 自燈明とは、「真の拠り処は自己の生命である。」と云う事である。 平和の根拠は、宇宙から授かった自己の生命に在る。 是以外に、如何なる根拠も、二元相対為るもので、 自己の生命への絶対信頼には及び得ないものである。 其れ故に神と云う偶像自体に何の根拠も無いのである。 其処で、自己の生命の真価を如何に知り得るかである。 其れを、人類史上初めて証明したのが、釈尊であった。 釈尊以前には、其の体現者は皆無であったのである。 唯、哲学的把握のみであった。 学問と体験とは全く異質である。 学識では、砂糖の甘さは分からない。 学識は甘さには決して為らないのである。 甘さの表現は不可能であるのと同様である。 学問の究極は決して体験には為り得ないのである。 寧ろ、学識は邪魔に為る。 無地がベストである。 是を釈尊は、「自燈明 (自己を拠り処とせよ)」 と諭された。 求道とは言うけれども、 求道とは、「人間は一体何を為すべきか?」と云う事である。 「自己が求めるものは一体何なのか?」と根源的に自己に問い掛け る事である。 此の根源的、普遍的問い掛けである。 「何を為せば宜しいのか?」の自己への問い掛けである。 是は人間の実存への問い掛けでもある。 一体何を為せば、実存為る本質に迫(せま)れるかと云う事である。 是は世間的な事では済まされないのである。 自己の生命との無言の対話と為るであろう。 是が自燈明である。神に非ず。世事(=能力)に非ず。 是が坐禅である。 「仏道を習うと云うは自己を習う也 自己を習うと云うは自己を忘るる也 自己を忘るると云うは万法に証せらるる也 万法に証せらるると云うは自己の身心 他己の身心をして脱落せ使むる也」 (万法とは宇宙及び心) 其処に自(おの)ずから、真の生命が自己に開示されるのである。 此の宝は何物にも代え難い宝である。 小生の遣(や)って居る事は、何も強い事を遣っているのでもないし、 又弱い事を遣って居るのでも無い。 宇宙の真理を唯当たり前に、当然に遣って居るに過ぎない。 是は宇宙の調和と均衡と静寂の様なもので、「涅槃」と言う真理であ る。 《 物為らざる善種、善根とは 》 世界平和への礎足る日本の立場を堅持するには、少なくも官僚の透 明性の確保が最低限不可欠である。 是無くしては、日本の立場を喪失してしまうであろう。 献身的一官僚を自殺に追い遣ってしまった体制を暗黙裡に看過する 現政権の在り様は異常である。 本質的改善が、現象的改善に遥(はる)かに優る事は明白である。 物理的量的改善でなく、精神的質的改善でなければ為らない。 「宇宙(生命)の本質」の現象面は、量(物理)的恐竜から質的三善根 (施・慈・慧)為る涅槃世界人類へと進化するのである。 米中から日本へ進化を遂げなければ為らないのである。 世界的に観ても、短絡的に物や金を増やせば宜しいと云うものではな い。 其の根に在る心の改善が為されなければ本末転倒である。 心正せば、物は収まるのである。 物を増やしても、政権は保てても、心は治まらない。 今の世界の現状が明らかに、其れを証明している。 「善根・善種を生む」 事が肝要であり、 是が世の中を改善し、世界平和の礎 と為るのである。 でなければ、世界は、何処からとも無く、三毒(貪・瞋・癡)害世界へ流 れ去ってしまう。 目先の施政でなく、将来を見据えた施政でなければ為らない。 正すべきを暗黙裡に済ますのは、宇宙の真理に違(たが)える、 世界平和に反する行為である。 今の教訓を生(活)かす智慧がなければ、同じ事を唯単に繰り返すだ けである。 世の中は「大涅槃人」に基づかない限り、地獄に堕ちるのである。 何と為れば、人類は三毒(貪・瞋・癡)為る存在であるからである。 《 迷 妄 》 迷妄とは、事実が分からず、事実でない事を事実だと思い込む事。 人生苦の根本煩悩、三毒(貪(=慢心)、瞋(=怒り)、癡(=迷妄、偽り)) は(「解脱」の為に克服すべき否定的心(迷い、煩悩、四苦)の代表 的 状態であり、)心の三要素(欲求、感情、分別)と対応している。 釈尊は、迷妄、又は無明(知)が煩悩(の根本原因)であると説いた。 人間は言語的判断を避けられない存在である。 西洋では、言語的識別を放棄すると虚無主義に陥る。 是が実存哲学の末裔為る現象学の限界であり、見果てぬ夢に終った 。 東洋では、其処に「悟り」や真理を見出す。 現象学の創始者フッサールは根拠足る「判断中止(エポケー)」自体 が一つの判断に過ぎない処に気付かなかった。 フッサールの現象学はハイデッガーに受け継がれている。 フッサールは田辺元を通して、西田哲学概略を聞き、田辺と討論して いる。 三 毒 ( 貪・瞋・癡 ) (慢心) (怒り) (迷妄) 欲 → 情→分別 進化→:脳幹→大辺縁→大脳 解脱される心 迷い 煩悩 四苦 《 指導者 》 真に出来た人物であるならば、人類の指導者足らねば為らない。 世界人類の物質的・精神的基本的条件確保こそ政治家の真の使命 であるが、人間の諸能力の特化した、専門家足るの意ではない、人 間としての、の意である。 永遠に不滅為る恒常普遍の真理としての人間の事である。 是からして初めて、人類は自(おの)ずから、人類の諸能力の道に通 じ得るのである。 否(いな)、然(そ)うでなければ為らない。 人間の命は元来、学者の法則や、政治家の物や、芸術家の情以前 の生命なのである。 世界人類の大多数が、一般の人間である。 其の普遍的人類の指導者足らねばならない。 普遍的生命の在り様が根本と為るのである。 此処を、つまり人類の根源を教導するのが、 人類の母体為る、世界人類を幸福、平和、繁栄に至ら使める処の、 「宇宙(生命)の本質」の働き、つまり涅槃妙心 を弁(わきま)えた人間 の智慧であり、宇宙の法則ではない、宇宙の本質、人類の本質、 つまり涅槃世界を構築、完遂すべく、人類を教導し、且つ、教導し得る る人材を生むべき指導者足らねば為らないのである。 其処に、自(おの)ずから、日常の自己の在り様と云うものが打ち出さ れる。 人類の諸能力を、其れ等の諸道の達人に為さ使めるのが坐禅である 。 坐禅の目的は「涅槃入り」であり、「宇宙の本質」への回帰である。 坐禅は、其の為の唯一無二の手段である。 其処(そこ)からの、「世界人類を生(活)かす」智慧の実践が、其の真 の目的である。 《 慚恥 (ざんち) の 服 》 釈尊、『御遺教』に、 『慚恥の服は諸(もろもろ)の荘厳に於いて最も第一為りとす。 慚(ざん)は鐵鉤(こう)の如く、能く人の非法を制す。 無愧(ぎ)の者は諸(もろもろ)の禽獣(きんじゅう)と相異なる事無し。』 と。 慚愧(ざんぎ)とは、自(みずか)らを顧(かえり)みて恥じる事。 慚は人に羞(は)じ、愧は天に羞ず。 涅槃経に、 「無慚愧は名付けて人とせず、名付けて畜生とす。」と。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の現象面は大自然が其の峻厳さを蔵し ている様に、人為に染まっていない所程、人間を寄せ付けない程に 厳しいものである。 人心も、亦然(しか)也。 人間の踏み込み得ない自然と云うものは、自(おの)ずから厳しい 自然を留めている。 人為に染まらない自浄性。 是が自然。自(おの)ずから然(しか)る。 是が人心の慚恥の服である。 是無ければ、自然も人為に染まり、世界をして、自然(じねん)為る 宇宙の涅槃足ら使め難いであろう。 人類の三毒(貪・瞋・癡)とは然(そ)う云うものである。 「涅槃」無くんば、「涅槃」足り得ず。 厳密と云うものは、相対的為るものではない。 自己に唯一為る在り様である。 (是を見失ってしまったのが、今の米国であり、 人類の精神の基本的人権を否定する精神為る、 他律を極めんと志向する処の、今の中国である。 二元相対為る世界の両極である。) 是、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に対する人間の慚恥 である。 是が人類をして、「涅槃人」に為さ使めるのである。 慚恥とは、天に恥じるのである。 吾等人類の母体為る宇宙に恥じるのである。 恥は、菩提心同様、人類に本具するものである。 天地人一如に、恥じるのである。 天に恥じ、地に恥じ、自己に恥じるのである。、 恥を知らざる者は、天無く、地無く、人無く、自己無き自我為る存在で あるが故に、「諸(もろもろ)の禽獣と相異なる事無し。」である。 慚恥は、菩提心と共に、「涅槃」への原動力である。 小生こそ、宇宙契約裡の 可能性其のものであり、他に可能性を求 めるのは、無限為る時空に、其れを推し量らんと可能性を求める様 なものである。 厳密 (時刻) さ と 世界人類を生(活)かす 《 人類諸欲と感染症パンデミック 》 世の中と云うものは、淫欲を生(活)かしては駄目だ。 世の中が、狂う根源である。全部嘘で出来ている。 世の中の表層と云うものは、淫欲の薄皮で覆われている。 先ず、是を剥がす事が第一だ。 世の中を狂わす。 世の中を改善する最初の一歩だと信じて、 世界人類の幸福と平和と繁栄の為に、 是を実践しなければ為らない。 人類の心のみならず、物質面の進化の第一歩だ。 是が、世界の感染症パンデミックの根源である。 心すべし。 小生が、真理を徹見した、世界改善のビッグバンの芯と為る。 是が、其の気に為れば、誰にでも遣れる、 世界人類改善の第一歩である。 淫欲と云うものは、淫欲其のものよりも、 其の魔物の奴隷と為ってしまう事の恐ろしさである。 諸欲総て同様である。 《 真理への道程 》 < 自己と他己 > 45億年前、地球誕生し、5億年後、呼吸、代謝しない、増殖のみの、 無生物と生物の中間的存在のウイルスから、細菌、そして単細胞へ と進化したのである。 細胞は分化と増殖により、やがて光合成をする他律的植物細胞と為 り、27億年前には、代謝をする自律的動物細胞へと進化を遂げた。 4億年前頃から、昆虫、魚類、恐竜、鳥類、人類までの進化を遂げた。 細胞核内DNAの塩基の突然変異による継続的、連続的長期に亘る 系統樹為る、枝分かれする進化である。 単細胞由来の神経(細胞)系以前の原生単細胞生物のゾウリムシの 諸行動は、半透過性細胞膜による細胞内生体電位を利用して惹起さ れる。 静止膜電位や活動電位、及び脱(過)分極性電位変化等、神経系神 系細胞・感覚器・効果器と同じ仕組みが見出された。 是等によりて、本能行動、情動(反応)、記憶等、総ての生命現象が 生じているのである。 其の様な一連の生理現象が出現するには、継続的、連続的、長期に 亘る変化が必要なのである。 又、遺伝子レベルで見ると、多様な神経系の裏に、沢山の共通のメカ ニズム(=設計原理)が存在する。 進化の系統樹的解釈も、生理学的、及び遺伝子レベルでの突然変異 による生命現象の、根本的為る科学的解釈が可能と為のである。 単細胞生物から人類に至る迄 のあらゆる生命現象も、精神の最高 位中枢に至る迄、生理学的、生化学的、解剖学的、遺伝子レベルで の解析で、或いは心理学的にも、生命の進化に於いて、一貫した原 理も次第に統合的に解明されるに至る。 然るに、宇宙と個人(人間)との相関的関係の把握に於いては、哲学 的に為らざるを得ない。 唯一坐禅のみが、其れを可能にするのである。 坐禅を行ずる事で、「功徳」、「悟り」、「解脱」、「涅槃」を体現するので ある。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)への接近と接触と回帰と云う、 是等の未知為る世界への、我々が自ら必然的、段階的に体現する 刹那の心の進化は身を離脱して、宇宙に帰一する心の進化である。 此の真理への回帰だけは、体現の世界であって、学問的、芸術的に は、つまり人間の能力では及び得ない真理の世界であり、 世界人類の幸福と平和と繁栄は、此処に基づかない限り、信頼性の 生まれない、対立する二元相対世界から出る事は出来ないのである。 唯、海を行く魚、空を行く鳥、地を行く人である。 海、空では生命は繁栄に至らないのである。 要は、現象から本質への涅槃(人)が進化の完遂である。 身と心とは、生命の現象の両極を為すものである。 身も生命ならば、心も生命である。 身は自己に著し、高々百年程のものであるが、心は普遍性を有し、 永遠に至る。 無心とは無身の事である。 無身は世界を目の当たりにして、菩提心を生み、坐禅によりて、道は 拓けて真実に至る。 菩提心は「悟り」を生み、「解脱」を生み、「涅槃」為る「宇宙(生命)の本 質」の真理に回帰するのである。 「宇宙(生命)の本質」は「涅槃」為る永遠に不滅為る恒常普遍の真理 であるが、其の現象は無常にして進化する物質及び身心世界である 。 真理=「宇宙(生命)の本質」(涅槃) (涅槃人)↑ ↓(涅槃人以外の生物) 心 ← 身 (人類) ( → : 進化する現象 ) 俗界の儘で在りながら、其の儘で宜しい。而も自律して居るから、取 捨しない。此処が人を教導し得る処である。手段を講じない。 自律と他律とが涅槃為る宇宙の調和と均衡と静寂に迄止揚して居る のである。 つまり、自律であり、他律である。自他一如にして、共に生(活)か使 めるのである。 < 自己と世界 > 古代ギリシャでは分別と能力の方向性を得て、ソクラテス(BC469~ BC399)等が様々なる知恵を生んだが、古代インドでは世界的穀倉 地帯で生活安定し、瞑想から、菩提心を得て解脱の方向性を得て、 釈尊(BC565?~BC486?)が成道された。 其れ等が、2500年後の今、原爆支配体制下の米中の対立と「涅槃」 の真理である。 令和新世紀以前は、地上の量と能力の、他を制圧する歴史であった が、令和新世紀以降は、空前絶後為る「宇宙(生命)の本質」(涅槃) の真理に基づく、質と智慧の黎明期である。 人類は是迄、真理を神と学問によりて、三毒(貪・瞋・癡)の赴(おもむ )く儘に追求して来た。 令和新世紀に、小生鐵漢が20年間に亘る、自我を除滅する正法苦 行、千日行によりて、宇宙真理に至り得たのである。 此の真理以外に、世界人類を生(活)かし得るものは無い。 東西両洋の、人類の真逆の方向性の結果が、地獄と「涅槃」為る、 米国列強の原爆支配体制と、日本による涅槃世界への教導である。 是は、「覚天」して「涅槃入り」した「大涅槃人」としての使命である。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の現象為る進化の必然性に基づくもの であり、人類が小生を超える事は不可能であり、是が小生の使命を 果たす必然性である。 人類の進路は涅槃妙心智慧の実践を果たす事であり、其れは単に、 時間の問題に過ぎない。 日本への、人類三毒(貪・瞋・癡)が生んだ極悪非道の極み足る、 二度に亘る原爆投下が惹起した、極善の究極為る「涅槃入り」であっ たのだ。 此の唯一の真理が人類の記憶に、永遠に極印を打つのである。 《 邪気 (念) 》 人間には邪気(念)と云うものが在って、是は極めて不(非)合理為る もので、斯(か)るが故に、邪なのである。 是が世の三毒(貪・瞋・癡)間に共振して、増幅し、其れ故に、集団心 理的正当性を共有し、邪悪の源と為り、(邪為るが故に)敗(弱)者の 依り処と為り得るのである。 唯、三毒(貪・瞋・癡)為るのみの、是が三毒(貪・瞋・癡)の採り得る唯 一の末路の邪道であるが、是も真理には屈せざるを得ないのである。 何と為れば、真理に基づいて全て吾等が存在して居るからである。 自己の三毒に拘らず、此の真理を信じ、是に同ずる以外には、正道 は在り得ないのである。 駿馬(しゅんめ)は、其の鞭(むち)を見ただ けで、走り出すのである。 唯、時間の問題に過ぎない。 ヒトラーの独裁も、世の常も、程度の差こそ在れ、同じものである。 諸善奉行(諸々の善を行じる事)の裡に、自(おの)ずから諸悪莫作( 諸々の悪を為す事無き事)であり、諸悪は消滅するのである。 20世紀大陸哲学の最も重要な哲学者の一人であったハイデッガーで さえ、ナチスを恰も自己の哲学の具現者であるかの様に賞讃する、 熱な一ナチス党員であったのだ。 本質に対する見極めが偽である。 と云うよりも、哲学其のものの真価が相対的次元のものでしかないと 言わざるを得ないのである。 正に、学問が社会的に大人に為るには、坐禅行が不可欠である。 学問と云うものが、全人的存在では無いからである。 学者は「大人」でなければ為らない。 「大人」とは学問以前の、人間の本質を弁(わきま)えた人物の事であ る。学問は純粋なだけに、社会的に利用され易く、其の眼力も不可欠 である。其れには坐禅行、つまり其れ等自体を捨てた処からの見極 めが無ければ為らない。 其処に初めて、真に不可欠為る物と、そうでない物との見極めが可 能と為るのであり、其処に、世界人類の信頼性が生まれるのである。 要は、大脳新皮質の神経細胞接合部の多さ、複雑な巧妙さでなく、 本質の把握には、其れ等を超越した直観的把握が必要なのである。 つまり、其れ等から解脱して本質に回帰する事である。 是が真の進化、進化の究極なのである。 如何に能力が脅威的であろうとも、本質から観ずれば、無益処か、 悪弊生ずるのである。 学者、芸術家の真の目的も、政治家の目的も一であって初めて、彼 等は本物と為るのである。 世界人類総てが、然(そ)う在るべきなのである。 其れを基底と為さねばならない。 其処に、神的信頼性が生まれるであろう。 《 闇夜の雲間の予兆 》 小生、過去を振り返って見るに、 小生が十六~十七歳の頃、ビルの屋上で寝っ転がって仰ぎ見た闇夜 の雲間の予兆は、実に斯くの如きものであったのだ。 斯(こ)う云う風に生きられれば好いなァー、と云う様な情的判断に基 づく、二元相対的生き方でなく、斯(こ)うでなければ為らないと云う、 意志的判断に基づく生き方をした様だ。 其れが、医学生の時に、坐禅の道を選択した。 十代後半からの 試行錯誤の振り子の止んで、進路が決定した瞬間 であった。 東京の東照寺で得度後、福岡の専門僧堂を飛び出す迄の沈黙の期 間を経て、出て完全に無一物の独りに為ってから、小生の真の試行 錯誤が始まったのである。 其の時既に坐禅が根幹に在ったのだが、如何(どう)遣って往くのか 見当も付かずに、暗中模索であった。 正に、坐禅と世界との始まりであったのだ。 其処に千日行が突如、意識上に現(あらわ)れて以来、半ば無意識的 にも其れに向けての生活と為ったのである。 其処が、千日行の千日行足る処で、千日行為らばこそ、人事一切は 払拭してしまうのである。 人、坐禅、釈尊等、小生自身の持ち合わせが総て千日行に置き換わ ってしまった。 故に潜在意識的にも、千日行を完了すると云う段階に入った訳であ る。 明確に決定(けつじょう)したのは、熟での教材として、某著の超新星 爆発の生涯に触れた時であった。 しかし実際に「行入り」する迄には、一歩一歩の踏むべき物心両面の 準備段階に数年間要した。 初行は坐禅と云うよりも、厳密行主体であった。 坐禅は、一日が終えて、夜中の行に過ぎないのである。 日中は100分の1秒の厳密さで、日常生活を営んだ。 要は、動と静との相乗効果による緊張感が行には有効不可欠である からである。坐禅も不足する位の方が、寧ろ励みが付いて宜しい。 初行完了して初めて横に為ったが、 喉元が閉じて、呼吸が出来ない。怖かったが直に慣れた。 そして、其の段階で、小生は坐禅を止めて、普通の人の様に為るべき ではないかと云う思いで止めてみたが、一週間もすれば、小生の尻が 坐蒲に吸い寄せられる様に坐っていた。坐らねば、どうも調子が悪い。 其の時感じた。小生の思惑は誤解に過ぎないものであったと。 それから十五年足らず、坐睡が無いだけの、千日行のつもりで働き、 厳密に、同様に坐禅行を始めた。 十数年間は、其れで良かったが、やがて労働条件で一~二時間の 坐禅も儘為らなくなり、「自分は一体何の為に生まれて来たのか。」と 思い至り、坐禅する為に鉄牛寺に行こうと思ったのである。 小生は、当時吾師が鉄牛寺の住職予定者であった某氏に、大分駅で 会ってもらった。 氏曰く、「自分には鉄牛寺を、此れ以上如何する資格も無いから、もう 如何にも為らなかったのだ。」と密かに小生に伝えて下さった。 其の時初めて、総ての事情が明らかと為ったのである。 寺は蛻(もぬけ)の殻であった。 鉄牛寺の納骨堂の独参室の奥の経台の上に、ポツンと師の小さな骨 壷が置かれていた。 師は当時、御高齢にも拘らず、御一人で山中の鉄牛寺で御住職を勤 めて居られたのである。 やがて、小生は結局、「後行入り」する事と為ったのである。 其れ以外、自己の採り得る道が無かったと云うのが真実であろう。 実に世の中と云うものは、巧みに出来上がっているものである。 不昧因果である。 是、「涅槃」へ回帰予定為る収束振動の事に他ならないのである。 空前絶後為る「大涅槃人」為ればこそ、世の為、人の為に真遺教とし て書き遺して置くべきであると思う。他には居ないが故に尚更である。 何か益する処が在ればと思うのである。 若し、小生に毎日二時間の坐禅が出来る仕事が在ったならば、又 自己を出さずに、世の中に迎合して居ったならば、今の自己は無かっ たのである。 小生が托鉢を覚えたのは其の時(55歳位)であった。 其れからの十五年余りである。 坐禅一筋にして初めて至り得た「涅槃」為る真理であった。 正に是が為に、坐禅と云うものが生まれたのである。 坐禅の所以(ゆえん)である。 坐禅は「涅槃」の為に在り、「涅槃」から生まれたものである。 無一物中無尽蔵。 無量為る哉生命。 《 規則性 》 人間の生活習慣には規則性と云うものがある。 社会生活には、各々の職業に応じて、夫々の職種の従事すべき時間 帯があるし、又、特定の職業に従事していない、独自の生き方をして いる場合もある。又、特定の集団、或いは個人的に厳格なスケジュー ルに則って、計画的に生活をしている場合等、様々であるが、其処に は自律的な場合と、他律的な場合が在り得る。 つまり、飽く迄も自発的に然(そ)うなのか、又止むを得ず然(そ)うな のかである。 又、永遠に然(そ)うなのか、一時的に然(そ)うなのかである。 以上、つまり其の規則性の厳格さの度合い、程度は様々である。 最も厳密な場合は、釈尊や大迦葉の頭陀行や、是由来の千日行(初 行)の如きもので、是は釈尊が『犀の角の様に唯独り歩め』と説かれ た様に、不惜身命にして、飽く迄も厳密に行ずるものであり、是、自律 性の頂点である。 真に自律とは、完全に無我為る「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの 「世界人類を生(活)かさんとする」、真に人の為、世界の為の自己の 在り様として、自(おの)ずから然(そ)う為る処のものであり、他律為 る自律、且つ自律為る他律である。 此の自と他は「宇宙(生命)の本質」の「涅槃」へ収束振動(=進化)し 往く、「宇宙(生命)の本質」の現象の両面性に他ならない。 最早既に小生鐵漢が「涅槃入り」しており、其処からの自律、他律と云 うものは、世界人類をして、「涅槃」為ら使めんとする、 完遂した菩提 心の為す処のものであり、其処から導き出される自律であり、他律な のである。 つまり、自律でもあり、他律でもあるのが真で、人類を教導する無限 収束振動の一端に過ぎない。 つまり、収束振動であって、一直線為るものでは在り得ないと云う事 である。 正法苦行(初行)が自律の究極である一方、後行(=生涯後厳密千 日涅槃行)に於いては、仏祖の坐禅(=大乗禅)は『坐禅の中に於い て、衆生を忘れず、衆生を捨てず、誓って済度せん事を願い、あらゆ る功徳を一切に回向す。此の故に、仏祖は常に欲界に在って坐禅弁 道す。諸々の功徳を修して(身心脱落によりて)心の柔軟為るを得れ ば也。』とあり、此処が「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰する要であ り、其の契機と為る処である。 此の心が真か、偽かで、地獄と涅槃の運命の分かれ道と為る。 此処を誤ると必ず地獄に堕ち、正道を歩めば涅槃に至るのは時間の 問題と為る。 小生が此の究極に於いて、「覚天」し、極仏の正体を見極め得たので ある。つまり、自他律の究極に自律生じる事、五年間でに十五回、 十六回目に自他律の他律了じ、「サァ-、愈々(いよいよ)。」と思った 刹那の自律の局面に於ける「覚天」であった。 「涅槃」への世界人類教導の為の、自他の収束振動であったのだ。 「行」ではない。「人だ!」と。小生が坐禅を組んで以来初めての、刹那 の体現(=「覚天」)であった。 此処に於いては、自であり、又他であるのが真である。 自律、他律は根源に於いては自他一如であり、全一為る宇宙で、 其処に現象される「宇宙(生命)の本質」為る調和と均衡と静謐為る 涅槃なのである。 本質的に自他が生(活)かし合っているからこその、「覚天」為る体現 が在り得たのである。 是が「涅槃」(=真実は宇宙(涅槃))の働きに他ならない。 釈尊の般涅槃の最期の御言葉。 『………汝等、且(しばら)く止(や)みね。復(ま)た語(もの)言う事得 る事勿(なか)れ。時将(雅)に過ぎなんと欲す。我滅度せんと欲す。 是我が最後の教誨(きょうげ)する処也。』 と般涅槃された。 「最早、疑を抱く事勿れ。自(みずか)らの心を依り処として、一心に出 動を勤求(ごんぐ)すべし。」と諭されたのである。 世の三毒と云うものは無意識的に真理を逆手(さかて)に取って、我欲 を追求し、且つ又、其れに同調する集団が居る事を知るべきである。 世界の良心の一致団結が、切に待たれるのである。 信頼性の育たない土壌に平和は在り得ない。 世界が消滅しないのを願う以外に無いのである。 人間は、自己為る天の恩恵を、何処迄生(活)かし得るかである。 或る者は、其れを動物的レベルでしか生(活)かし得ない者も居れば、 人間的に迷妄裡に終える人達が大半であろうが、然(そ)うでない場 合、信の域で、此れも虚構に対する信では無く、超科学的、超学芸的 、又超人類的に真理に基づく信による生への発動を望まんとする処、 つまり空前絶後為る涅槃の真理を実践せんとする事が、人類の究極 の生き方と為るのであるが、此の実践面に於いては、其の規則性、 自律と他律以前の自他一如為る処から生まれる規則性と共に歩む べきである。 嘗て、吾師が提唱で、「山の中で、独り行をしていた。何処で小便して も良さそうなものだけど、場所を決めて遣って居った。」と。 当然の行為にも規則性が自(おの)ずから具わる。 然(そ)う云うものであろう。其れが人間である。 其処に無意識的に、人間らしさを打ち出しているのである。 行為の本質は他律的であるけれども、打ち出している自己は自律的 である。 極仏は神仏同様、他律裡の自律であり、其の究極に於いて、真の自 律(=「涅槃人」)を覚(さと)るのであり、是が「涅槃入り」である。 是、「禅学」の極みである。 自己が打ち出し得るものを自覚して、此処迄至り得たのではない。 無自覚に、只管、心の赴く儘に、促されるが如くに、素直に、裏返せば 、初動に基づく慣性律で無自覚的に、此処に至っているのである。 全く無意識的、無自覚的為るものである。 敢えて言うならば、「人を生(活)かす為」、「世界を生(活)かすため」、 偏(ひとえ)に、一貫して菩提心のエネルギーによるものであろう。 善悪以前の無記性為る太陽エネルギーの様なものである。 是は宇宙の存在を肯定為ら使める本質であり、現象為るものである。 「存在」を肯定為ら使める、「存在」の根拠足る万法律である。 人類は「存在」を言語化する以前に、「言語化」以前の「受容」が出来 ねば、そもそもが自己否定する以外無いのである。 存在、つまり時間空間の受容から始まれば、何等問題は生じ得ない のである。「受容」に至る迄の問題に過ぎない。 道元禅師『正法眼蔵(現成公案)』 「仏道を習うと云うは自己を習う也 自己を習うと云うは自己を忘るる也 自己を忘るると云うは万法に証せらるる也 万法に証せらるると云うは自己の身心 他己の身心をして脱落せ使むる也 (万法とは宇宙及び心)」 『自己を忘るると云うは万法に証せらるる也』が、 存在(時間と空間)を「受容」すると云う事である。 つまり、人類の究極が坐禅に往き着く事に他ならない。 人は、「高が坐禅か、坐禅位。」と思いがちである。 「何も生まない。座って黙してしまうだけだ。」と。 是が出来ずに、今と云う地獄に至ってしまったのではないか。 少欲・知足にして、必要最小限で、世の常に惑わされず、真実に自覚 的に生きようとする態度である。 人類は誤魔化す事は不可能なのである。真理が其れを許さない。 是が不昧因果、因果の道理である。 坐禅の道を歩めるか、否か、と云う正道に至るのである。 生とは然(そ)う云うものなのである。 真実に向き合って生きるか、背(そむ)きながら生きるか、である。 小生の様に、其れで至り得た「涅槃人」為らばこそ、語り尽くせないの であるが、スポーツでは、優勝、優勝で人を酔わす。一種の「酔い」で ある。身体能力への酔いに他ならない。 身は心へと進化したではないか。 心は「涅槃」へと進化したではないか。 進化律を逆行するのは、真理に反する事なのである。 人類は真理に目覚めなければならないのである。 其れが、我等人類を人類足ら使めて居る本体なのだから。 然らざる人類が、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違背する事は癡愚 以外の何物でも無い。 小生も「覚天」した当初(一年三ヶ月前)は、自己にどれだけの事が語 れるのだろうかと思った。 しかし、其処は大脳新皮質、言語中枢の働きで、是は前頭葉の菩提 心に支配されているのである。 菩提心一つで、如何にでも為る処のものである。 人類の将来は、人類菩提心による真理(実)への志向性以外の何も のでもないのである。 是に基づいて、総てを生(活)かして往かねばならない。 小生は母が入院して、独りに為って以来、初めて一週間程、自宅から 一歩も出る事無く、世界史に向き合いながら、ホームページに掛かり 切りに為った。自(おの)ずから、然(そ)う為ったのである。 そうして、母が亡くなって三年余り経って今、再び其の様な状態が続い ている。 今回は、「涅槃」為る真理からの打ち出しで、減る処か、益々出て来る 。止まらない。チョッとした処から次々と出て来るのである。 規則性を保とうとすれども、然(そ)うはさせない様だ。 まァ、為すだけ為さねば落ち着き様も無い。 堤防に亀裂生じて、水が漏れ出した如くだ。 止むを得ない。 此の止むを得ない と判ずる中枢を小生は「涅槃中枢」 と称する。 人間の大脳新皮質は菩提心生ずる源泉に「宇宙(生命)の本質」(涅 槃)に帰一する領域「涅槃中枢」為る部位が存在し得るのである。 宇宙に対峙する人間でなく、宇宙に一(いつ)為る人間である。 最早、此の涅槃中枢によりて、菩提心生じ、自己のみならず、世界人 類をして世界を再構築し、是を完遂せ使めるのである。 正に是、涅槃妙心智慧の湧き出る領域である。 人間を支配するものは、人間ならず、自己に本具せる涅槃中枢に他 ならない。 迷妄為る自己を、此の自己に本具せる涅槃中枢によりて、自律せ使 めるのである。 そして此の中枢を、自己に開発し得た人間(=涅槃人)による世界教 導を実現しなければ為らないのである。是を目標と為さねばならない。 涅槃中枢から生ずる菩提心によりて、世界人類は平等であり、人種 差別は全廃されるに至るのである。 元来、人類は宇宙の本質が本具されているからこそ、其れを「覚天」 したのである。 各々の自己が、夫々自身を宇宙(涅槃)支配するのである。 自己の裡(うち)に宇宙其のものが内在して居るのである。 老若男女を問わず、人種、職業、あらゆる身分にも拘らず、本質的に 本具宇宙(涅槃)して居る訳である。 哺乳類の中の大脳新皮質の進化した人類として、其の前頭葉宇宙( 涅槃)中枢中核に菩提心を本具するのである。 「宇宙(生命)の本質」は「涅槃」為る永遠に不滅為る恒常普遍の真理 として現象するのである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)為る真理に、地上の風土性は無いが、 本具する真理に達する為の風土的要件はある。 古代インダス文明が地上の他の如何なる地域よりも最適であったの だ。食生活の安定と静穏な豊かな自然環境に恵まれていた。 其の大自然裡の農耕生活に、自(おの)ずから瞑想が生まれ、成道 への禅定に進展し、心の進化の礎を築いたのである。 斯くして、自己が自己を完全支配する完全自律為る、大脳新皮質、宇 宙(涅槃)中枢の涅槃妙心(智慧)の開発が可能と為るのである。 宇宙の生命現象は完全他律から、宇宙(涅槃)支配(=世界)の完全 自律への進化であり、是完全他律に同等で、完全自他律、つまり宇宙 の万法は自他未分化為る自他律為るものなのである。 換言すれば、万法とは自己(鐵漢)に内在する自他であり、 宇律とは、其の止揚に他ならない。 《 宇宙裡の大脳新皮質の進化 》 涅槃(妙心)中枢―→宇宙(物)中枢 世界人類を生(活)かす 「宇宙(生命)の本質」の真理 涅槃妙心智慧により は太陽系を生(活)かす 「宇宙(生命)の本質」為る 太陽の如く 涅槃へ進化する現象は 宇宙同様 自(他)律裡の他(自)律 自他未分化 にして ↑ 心せずして ↑ 宇宙の調和と均衡と静謐 ↑ の其の物質 「覚天」 ↓ ↑ ↓ 「解脱」 ↓ ↑ ↓ 菩提心 ↓ ↑ ↓ 心 ← 身 世界は三毒 (貪・瞋・癡)の表現(=戦(闘)争)である。 自然 (じねん)為る欲の風情為る可し。 正の遺産為るものは、人の生死の深さ分、 そして 負の遺産為るものは、人の貪(欲)の深さ分、 成るものである。 貪(欲)と云うのは衝動である。 衝動を生まないのが「解脱人」である。 衝動を生んでしまうのが、普通の人間である。 人間は本気で遣った事しか、言葉に出せない。 真の本気とは、「人を生(活)かす」事だ。 此の心が菩提心である。 《 覇権至上 》 人類は、今日に至る迄、其の力に盲従して来たが、今日に至りて、其 れが、妄想である事を否定し切れないのである。 矢張り、肩を窄(すぼ)め、身を縮込めらざるを得ないのである。 最早、是迄の様には遣って居られない。 否応無しに、細心の配慮をして自覚的に生きざるを得ないのである。 しかし、其の心遣いは、日常生活に於いて不可欠為るものでもある。 ややもすれば、我々人間は傲慢に、無自覚に為りがちである。 我々人類が是迄、其の三毒(貪・瞋・癡)に盲従し、無自覚であり過ぎ た処の、其の心の本源への配慮を思い起さねば為らないのである。 一歩ならず退いて、其の癡愚にして無自覚に陥っていた分を、人間に 回さねば為らないのである。 人間に回すとは、直接的に「人を生(活)かす」である。 恒常、普遍的に「人を生(活)かす」べく、基本的条件確保に尽力する。 人類は宇宙の子なのである。宇宙(=不昧因果)に対する畏怖の念 を知らない。 斯(か)るが故に、今の状態に陥っているのである。 総ては、欧米、及び国連主導国家の在り様である。 米国の遣り方は、戦争を、自らの覇権維持の手段と為す戦争商売を 掲げて、覇権奪回である。 米国は日本の厳密さに学ばねば為らない。 今の感染症パンデックが証明して居る。 此の悪循環を繰り返すのではなく、反省の時機である。 《 涅槃(妙心)世界の由来と未来 》 地球上、農耕生活に恵まれる古代文明地域での生活に随伴する多 様性(諸学問等)と文明化、そして一方で不毛地域での勢力拡張集団 による周辺地域の統合化、例えば古代インダス文明に於けるアーリア 人種の(平和裡為る)侵入等、が世界平和の基礎であったのだろう。 是が大航海時代では、単なる勢力拡張為る植民地支配を目的と為す 方向性に於いて、奴隷化生じ、是が強いては、やがてヒトラー独裁を 生む事と為ったのであるが、其の起源に於いては、人類は必然的に 自(おの)ずから多様性(諸学問等)と文明化と云う、人類の心の進化 を辿るのであるが、現代に於いて、其の末路に至ったのである。 然るに此の末路が人類の輝かしき将来への黎明足り得たのである。 此の人類の因果の必然性に基づく核心となる為るものが、是迄見過 ごされていた、東洋の叡智、つまり人間の本質に対する弁(わきま)え である処の禅の道にありて、至り得た、物理学的には反粒子世界為 る、悟道、つまり涅槃(妙心)世界、更には宇宙(心)世界なのである。 是が、今後、心的進化を遂げる人類の辿る、宇宙(心)世界への正道 なのである。 要するに、人類三毒(貪・瞋・癡)に基づかずして、三善根(施・慈・慧) に基づき足る宇宙(涅槃)世界の事であり、 是は、「互いに生(活)か し合う」、「宇宙(生命)の本質」為る涅槃世界の事である。 0か1である。0は後から作られたものである。 農耕生活に随伴して1,2,3……と数学が生まれたのである。 要するに、此の本質的禅学為る、『真遺教』は心の進化に於ける必然 性以外の何物でもないのであり、其の由来は瞑想からの坐禅であっ た。 人類は、坐禅を離れては真理には至り得ず、真理に至る唯一の 手段が坐禅である。是は 人類史が明らかに証明している。 人間の如何なる能力を以ってしても、真理には至り得ないのである。 何と為れば、如何なる能力も、能力と云うものは、人類が獲得して往 くものであり、其れは絶対的なるものではなくて、何処迄も相対世界の ものに過ぎない。若し能力に絶対的なもの、絶対能力為るものが在る とすれば、其れは虚構為る神仏以外には在り得ないのである。 然るに、坐禅は獲得するのではなく、其の能力を獲得しようとする 自己、正に其の自己を忘れる行(為)なのである。 其の延長線上に初めて宇宙に回帰する体験が生じ得るのである。 正に坐禅は其の為の唯一為る手段に過ぎない。 坐禅の目的は、智慧を得る事も然(そ)うではあるが、究極の真の目 的は「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰する事である。 二千五百年前の釈尊も、此処迄には至り得なかったが、其れは止む を得ない事である。 古来小生に至る迄、托鉢自活による(生涯後厳密)千日(涅槃)行(三 時間坐睡二十四時間仏作仏行)を行じた者は皆無であるからである。 人間の能力の延長線上に在るものは相対的なる人事に過ぎず、 捨てる事の延長線上に在るものは、絶対真理為る宇宙回帰である。 但し、真理は坐禅を内包する。 回帰すれば、最早、坐禅する間が有れば直接に「世界人類を生(活) かす」べく尽力するのである。 《 「覚天」は「覚人」に帰する 》 「覚天」は「覚自」為らず、詮ずる処、「覚人」に帰する。 天に添う非ず、人に添う也。 究竟、人を措いて、天無し。 天無く、自己無く、「人」也。 斯く在りて、初めて天も天足るのである。 天は天を思わず、人を育む。 生命無き太陽は太陽足り得ず、真天とは人類の事也。 故に、「覚天」による「人だ!」「人を生(活)かす」だ。 余道無し。 故に、是で「宇宙(心)中枢」為る訳である。 只管、涅槃妙心智慧を生み遺すのみ。 釈尊の「大人覚」の帰する処は「大覚人」である。 「人」の他に神を立てるから、是で殺し合いに為り、争いが絶えない。 「人」を神と為せば、「互いに生(活)かし合う」のである。 《 「涅槃入り」と宇宙(心)中枢 》 人類の如何為る行も、「覚天」の「涅槃入り」に及ぶものは無い。 一つには、是迄、正道の行、正法苦行が無かったからである。 人類の心の進化は、僅(わず)か五千年程の間に指数関数的 に進化を遂げた事に為るのである。 高度文明化に於ける人類の物の進歩には驚嘆せざるを得ない が、其れだけに、此の百年間を通して、及び戦後の資本主義に 於ける、人類三毒(貪・瞋・癡)の毒害による自然破壊の末路と 共に、其の不昧因果為る正法苦行による宇宙への回帰と、至り 得た宇宙の真理が、正に、今に顕現しているのである。 今、世界人類の指導者達、特に米中露の各指導者が必然的に、 彼等の、其の使命を果たすべき時に、正に、至り得たのである。 「涅槃入り」は、従前の「行」が、刹那に「人」に転ずるのである。 双方、共に人の志向する方向性としては、真逆である。 坐禅組まずして、ホームページ作りに専念するのみ。 「涅槃」は「解脱」を呑了(どんりょう)する。 淫欲に関しては、最も簡単である。避ければ宜しいだけ。 小生、今に至りて、「避ける」と云う事を覚えた。 坐禅を覚えて以来、初めてである。 三毒(貪・瞋・癡)を避けて、「人」を避けず。 淫か、不淫かは身体的なものではない。 心の問題である。 心不淫為らば、身体的淫には拘らないものである。 是が、「解脱」と云うものだ。 少欲・知足で迷妄無く、「世界人類を生(活)かす」 宇宙律。 《 米中露地上非核和平協定 》 米・中・露、そして日本の指導者が、肚(はら)を決めて、サタン(悪魔) でなく、サンタに成り切る。 米・中・露非核和平協定は、小生が初めに言った事であったが、 果たして、今異常自然環境と感染症パンデミックに陥って同じ結果に 至ったのである。 肚を決めるとは、 小生が今に為って肚が決まった。 「覚天」為らぬ、「覚人」である。 是、人が人を思う心、菩提心の核である。 飽く迄も、「人だ!」、「人を生(活)かす」である。 そうすれば、間違い無く、確実に「涅槃」への、約束された、収束振動 と為る。 国連トップから始めて、英、仏等々…………。 是を契機に、国連による、旧態の核支配体制から、一挙に世界人類 の過去を一新して、新時代の新体制を構築しなければならないので ある。 《 小生鐵漢の精進 》 以前、京大の山中教授が、新型コロナウィルス感染症パンデミックに も拘らず、日本が世界の他の先進諸国家等に比べて、上手(うま)く 対応出来ている、其の要因を『Factor(ファクター)X』として、其れを 究明されて居られたが、依然として不明の儘であった。 若し、小生鐵漢が其の『Factor(ファクター)X』に為れるのであれば、 と、〇(ゼロ)為らぬ、其の可能性を生(活)かそうと決意した。 小生に出来る事は、『真遺教』は然(さ)る事ながら、日常生活を「規則 正しく」する事位である。 規則性は、敢えて為そうとすれば、其れは『行』と為る。 恐らく、『真遺教』も其の段階に至ったのかもしれない。 小生の日常生活に於ける規則性位、当然の事ながら、「涅槃入り」して 以来、是迄一年三ヶ月程、『真遺教』の為の規則性の可能性であった のだが、今より、改めて、精進としての規則性として、令和新世紀に 備えて取り組むべく、決意した。 《 本質と現象(「悟り」の哲学) 》 本質と現象は宇宙の両面性である。 宇宙には本質性と現象性とが在る。 現象は、其の究極に於いて、本質為る宇宙に回帰し、 つまり、規則性究竟すれば涅槃生じ、規則性から涅槃に回帰し、 本質は、其の究極に於いて、現象為る宇宙に回帰する。 つまり、涅槃究竟すれば規則性に復元し、涅槃から規則性に回帰す る。 規則性為るが故に涅槃、涅槃為るが故に規則性である。 前者は生命の本質化であり、後者は生命の現象化である。 前者は「悟り」、「解脱」、「涅槃」。後者は「宇宙」である。 生命とは周期性であり、太陽系周期性の動的面為る 現象性(=規則性)と、静的面為る本質性(=涅槃)である。 生命は、是等の現象化と本質化とが正道であり、 此の宇宙律為らざるものは、正道為らざる余道であり、 因果律による業報受けざるには非ず。 《 真理裡の三毒 》 真理の宇宙世界は、調和と均衡と静謐である。 欲界の三毒世界は、不調和と不均衡と喧騒である。 何故に然(そ)うであるのか? 人間が少欲・知足に落ち着かず、貪によりて、其処から拡散するから である。 つまり、心が整って居ない。 欲の衝動に衝き動かされている状態である。 自(みずか)らに、収束する絶対的力が養われていない、二元相対為 るものであるからだ。 驚嘆する勿れ。其れが世間と云うものの実態である。 釈尊も息を引き取られる際に、『……汝等、且(しばら)く止(や)みね。 復(ま)た語(もの)言う事得る事勿(なか)れ。時将(雅)に過ぎなんと 欲す。我滅度せんと欲す。 是我が最後の教誨(きょうげ)する処也。』 と般涅槃された。 今も古代も、人間の迷妄は同一である。 然(そ)う云うものであると云う事の自覚は大きい。 此の自覚の拡散が、根本的に世の中を改善する善根と為る。 海外に比較すれば、日本人は質実である。 日本人の此の素養の故に日本で釈尊は開花したのである。 過去に於いて、一部に然らざる指導者が存在したが、其れが、地理 的、風土的影響力に培われた日本人の本質ではない。 《 前総理、阿部氏に思う事 》 若しも、阿部前総理が真に、今後の日本国民、強いては世界人類の 幸福と平和と繁栄を思うならば、此の儘、世界に闇の負債を遺し、葬 り去る事無く、自(みずか)ら、日本国民の前で、改めて人類の未来を 思い、心を我々に寄せて戴きたい。 《 「覚天」の真価 》 小生、一年三ヶ月前に「覚天」し、「涅槃入り」を遂げた。 「涅槃入り」すれば、世界は即刻、「涅槃」に転ずるのである。 「覚天」は、「宇宙(生命)の本質」が「涅槃」である事を覚(さと)る。 「宇宙(生命)の本質」に回帰した事を知るのである。 是、「涅槃」への収束振動が一定した事である。 二千五百年程前の釈尊の、人類史上初めての「悟り」以来の、心の 進化の完遂した最後身心足り得たのである。 世の中の女性は、出産と育児と云う大任(たいにん)を授けられてい る。 是に代わる男性の大任は、「悟り」であるだろう。 女性が出産し、男性が悟った。 是が、人間としての、男女の男女足る夫々の大任なのである。 釈尊以後、心の進化を遂げ、宇宙の真理に迄至り得た。 涅槃(妙心)世界と宇宙(心)世界である。 前者は自(他)律裡の他(自)律、後者は自他未分化である。 男女の大任以前の、正法苦行((生涯後厳密)千日(涅槃)行)了ず れば、人間が根源から既に完璧に済んでしまっている状態である。 唯、人類の三毒(貪・瞋・癡)が、其れを許せないだけである。 三毒(貪・瞋・癡)は認め得ざるが、人間は認めるのである。 釈尊は、比丘尼には348、比丘には250の具足戒を護持させた。 小生「最後身心」が、女性には出産の大任に代わる、男性には「悟り」 への、三毒(貪・瞋・癡)為らぬ、三善根(施・慈・慧)の善種 を施した。 《 「宇宙の真理」からの独白 》 「生む」と云う事は、生のみに非ず。 死も亦(また)、生むのである。 生まねば、生のみならず、死も亦、生まない。 「生まない」本体も、死のみならず、「生命」 を生むのである。 全ては、「生」の肯定(=受容)から始まっているのである。 『初めに、〔「生」の実感〕在りき。』 である。 「身心脱落(=悟り)」の『原初の“生”の実感』 である。 原初感為る、清涼感と、宇宙に対峙せる「独り」為る生命の、 楽しい様な、嬉しい様な静謐を湛えた不可思議感。 仏道は、此処から始まる。 是が仏道である。 是と現実世界。 其れが、十年間正念相続裡に現実を生(活)き、果たして「解脱」して、 軌道に乗り、(生涯)後(厳密千日涅槃)行、托鉢によりて十五年間練 り上げ、進化の究極に於いて、果たして不昧因果、必然裡に、奇跡 的に「覚天」し「涅槃入り」したのである。 故に、世界は、小生から始まらねば為らないし、小生無くして、 何も始まらないのである。 此処から、全てを打ち出す真無我。 真理からの湧出は止める事は出来ない。 唯一人、「宇宙の真理」の働きを避ける事は出来ないのである。 太陽を消す事が出来ない様なものである。 同じ事を、命の在る限り、言い続けるであろう。 《 托鉢と真理 》 小生が医学生時代、福岡安国寺専門僧堂開単攝心会師家(吾師)伴 鐵牛老師に初めて相見した。 出家する迄の八年間であったが、三年位後には、既に托鉢と坐禅の 寺(=鉄牛寺)の事を口にされた。 毎年、五月と十一月、一日~五日の五日間、延べ十六回の攝心会に は初回から全回、同様に参加し、其れが小生の生活の基軸であった。 然るに、小生が托鉢の事を知ったのは、坐禅時間を確保する為に、 初めて鉄牛寺へ出掛けて行った五十五歳の時であった。 長野県内の十数都市を、毎早朝一番列車で日没迄、一年余り、毎月 四十万円位托鉢した。 其の後、福岡県内を毎年一巡で、毎月半分位、やがて北九州市内を、 其の半分位。十五年前ではあるが、今から思うと、当初は元気であっ た。 吾師の「千日行」、「托鉢と坐禅」無ければ、斯(こ)うは遣れなかった。 何よりも行と托鉢とが、車の両輪であるからこそ、遣れたのである。 其れ以外の原動力は無い。 小生の托鉢と云うものは、100%他力であって、完全に、自力と云う ものは無い。 少しでも自己と云うものを持っていたら、托鉢は一歩も歩めないので ある。一歩でも歩を進める事が出来なく為る。 恰(あたか)もムカデが、歩む事を考えた瞬間、進めなく為るのと全く 同じである。 正法苦行無くんば托鉢無し。托鉢無くんば正法苦行無し。 其れも、正法苦行有りての事である。 千日行が命であった。 其れでも、古希直前に「覚天」して、「行」が「人」と為った。 「人を生(活)かす」の自己である。 自己として在るのは、唯真理、そして其れを伝え遺す事のみ。 「真理」のみ、是「宇宙」である。 「宇宙と云う真理」、是が小生に他ならない。 分かり易く言えば、太陽。太陽が自己。是が真理である。 小生が、独り寺を飛び出す以前は、自己が無い。 寺(=伝統)に無いから、自己が出来る訳が無い。 其れ故に、只、伴鐵牛老師の御心に、其の青写真が在ったのである。 世界人類の将来を担う、今の日本の政局の様なものである。 旅の途上、千日行が意識上に浮かび上がった。 千日行との関わりで、其の時、初めて自己が生まれたのである。 其れが三十五年程して、古希直前に、「宇宙の真理」に基づいて、 刹那に「極仏行」が「人」に逆転したのである。 世界人類が背負いたる今、と云う時、今人類が何を為さねば為らない か、其れが嘗て小生が寺を飛出して、老古仏足る吾師の千日行を 戴いた如く、日本の各政党が、一体何を興さねば為らないかである。 もう既に、其の正答は明らかと為っている。 釈尊も断食苦行によりて、中道に至り、成道された。 小生も、極仏行によりて、真中道に至り、「涅槃入り」したのである。 何(いず)れも、「癡愚から死に至る苦行」 によりて、夫々「中道」、「 真中道」に至り、真理に到達したのである。 正法とは「(世界)人(類)を生(活)かし合う」と云う「真理(=教え)」で ある。 (いざと云う時に備えて)常に堅忍質直に、少欲・知足にして、坐禅 (行)を嗜(たしな)むのが人の心掛けであるべきである。 《 黎明の新時代 : 令和三年 》 今年も残す処、後一日。 人間は何事も、自己の信ずる処ならば、何処迄も徹底する事である。 でなければ、事は為らない。100%徹底する事である。 だからこそ、其処に道が拓ける。 何と為れば、真理は、 永遠に不滅為る恒常普遍為るからである。 真理を欺く事は出来ない。 不昧因果。 小生も、余分は削ぎ落とされて、真に徹底して、 『真遺教』を遺す事に徹した。 此の自由は、真理に至った「最後身心」に許されるものである。 では、世界人類に自由は在り得ないのか? 「人を生(活)かす」の涅槃妙心(智慧)(=真理)を信じ、求める者 のみ、同等の自由を享受し、享有せ使め得るのであります。 以下、其処について、 《 「自未得度先度他」の 心 》 動物本能が人類の本性(人間に普遍的な思考、感覚、行動等の概念 )と欲に進化し、本性から大脳新皮質前頭葉由来の菩提心が生じた。 小生が 医学生時代、宗教(坐禅)に鞍替えした。 自己に正直に、自己を誤魔化さないのは、坐禅道を選択する以外無 かったのである。是、菩提心である。 必然的に得度に至った。 ロケットも、打ち上げ時の推力が最大であり、 床上の物体も動き出す瞬間の摩擦力が最大であり、 物体に力が働かない限り、慣性の法則で、物体は静止し続けるか、 等速運動をする様に、(初)発(菩提)心(の実行)が最も起こすのが 困難なのである。 小生の場合も、生涯自己を欺く事が出来なかったのである。 其の後、身心脱落した。 故に東照寺では、人から「仙人の様だ。」と言われたのを覚えている。 東照寺から安国寺へ行った時も、言われる儘で何も分からなかった。 僧侶と云うよりも、唯自己に正直に、師に委ねる以外無かったのであ る。 千日行に遭遇する迄は、其れでも坐禅だけは、自己と一つであった。 其の様に純粋で、自己を誤魔化す事が出来なかったからこそ、今が 在るのである。 僧侶の為す事、坐禅と般若心経以外、何一つ覚えなかった。頭に入 らなかったのである。寺に居た延べ二年間程。 要するに、突き放して自(みずか)ら遣らせるしか無かったのである。 今から思うと、御寺の御心遣いにも、小生、頭が上がらない。 道元禅師『正法眼蔵(発菩提心)』に、 摩訶迦葉が釈尊を褒(ほ)め奉るに、 「発心(=(初)発(菩提)心)と畢(ひっ)竟(=究竟)とは別である。 前者は起こす事が困難である。是は自未得度先度他の心である故に 釈尊の初発心を礼拝讃嘆する。」と。又、 「蛍火と太陽程ではあるが、自未得度先度他の心を起こしたならば、 差別は無いのである。」と。 (自未得度先度他とは、自己が未だ渡らざる前に、他人を済度せよ、 の意で、釈尊入滅後に編纂された「涅槃経」中の語。) 釈尊成道されて、千七百余年、道元禅師、御遺偈、 『五十四年 第一天を照らす 箇の(ぼう?)跳を打して 大千を触破す …… 』 (五十四年の生涯を懸けて、仏道(坐禅)の真実に至った。 此の自己が、其れを世の中に開示した。……) 禅師の「身心脱落」の真実であったのである。 小生鐵漢は、釈尊、道元禅師、そして八百余年後、吾師の千日行に よりて、師遷化されて二十四年後、宇宙の真理を究盡したのである。 『七十余年 宇宙に回帰し 世界を回帰せ使む』 何と為れば、人類は三毒(貪・瞋・癡)為る生命体であると云う事であ る。 真理とは、宇宙の調和と均衡と静謐(ひつ)であり、此の「涅槃」為る 宇宙に点在する水素原子から物質が生じた。 無機から有機、及び其れ等の可能なる多様化と淘汰、 そして其れに 基づく生命の進化と繁栄、弱肉強食の量から質的進化、そして人類 に於ける三毒の量から質、即ち身から心への進化、更に心の進化に よる、宇宙への回帰である。 宇宙が今を生んだ。 宇宙の進化の究竟は「人を生(活)かす」である。 では、何故に三毒也哉? 若し、三毒無くんば、日本の二度に亘る被爆体験無し。 其れ無くんば、敗戦国家日本の吾師の菩提心生ぜず、小生に千日行 は授(さず)からなかったのである。 此の極悪為る「原爆投下」と不昧因果の小生鐵漢の「涅槃入り」によ りて、本来ならば、人類の衰退と滅亡に帰するであろう世界人類の運 命が、此の新型コロナウィルス感染症パンデミックを契機として、世界 人類が生まれ変われる、真実、最後の好機と為ったのである。 「原爆投下」為る極悪と、「涅槃入り」為る極善の間に、小生の生涯が 始まっているのであるが、人類三毒(貪・瞋・癡)の台頭が、此の間に 人類の繁栄と同時に、是迄の悪業報を齎(もたら)したのである。 此処に於いて初めて、人類は刹那的に従来の人間生活存続の危機 感から、根本的に施政の見直し、と云うよりも、国家間の在り様が国 民レベルで其の日常生活に於ける見直し、つまり無駄を無くし、実直 に生きると云う姿勢(施政)が必要不可欠と為って来たのである。 是は国家レベルに於いては、尚更の事、世界人類の命運に関わる真 実なのである。 小生が「覚天」した直後のパンデミックであったが、其処に至る迄には 、戦後の人類三毒の暴走の始まりと為る、終戦以降の原爆支配体制 による力支配が底流にあるのである。 然(そ)う云う訳で、小生の「宇宙(生命)の本質」回帰は必然為るもの である。つまり、 人類三毒は本質回帰の為の必然的必要悪であったのである。 回帰せずんば、「涅槃」為る真理無し。 真理なき世の中は地獄以外の何ものでもない。 生きると云う事は欲であり、満たされねば、生の衝動と為り、時と場合 によりては、生存競争としての弱肉強食等、貪足らざるを得ないので あるが、貪は人類三毒(貪・瞋・癡)として際限無く瞋恚と癡愚を生み、 人間世界に毒害を及ぼし、人類を地獄に陥(おとしい)れるのである。 釈尊は、少欲・知足を説かれたが、是は、「宇宙(生命)の本質」(涅槃 )に接近して、心が進化した結果の、真に積極的、能動的生き方であ って、今に至り、其の極限に於いて小生を生んだのであり、今こそ、 真理より、真実に生きる時を迎えたのである。 然るに、人間の性能には高低がある。 高が低を導く以外無いのである。 性能が良い程、平和に為り、悪い程、地獄を生ず。 究極の芸術、究極の科学、形而上学的課題等は我々の「酔い」に過 ぎないものであって、是等は宇宙の真理為る、「人を生(活)かす」に転 ずべきものである。 現在、世界の飢餓者は世界人口の10人に1人で、原因は災害(干ば つ、洪水)、紛争↑、貧困である。又、中程度、深刻な食糧不安は4人 に1人であり、食糧不足の80%以上が自然災害地域居住者である。 現コロナウィルス感染者は、世界人口の100人に1人で、死者は 4000人に1人である。 それから、軍事費が飢餓者、食糧不足者の救済に充(あ)てられなけ ればならない。其の方向性が心の進化である。 我々は地上の個々の人間を志向すべきなのである。 究極の志向の遠心性は、究極為る求心回帰である。 斯くして、人間は如何に在らねばならないかを知るのである。 其れも、「世界人類が生(活)かし合う」以外には無いと云う事である。 先ずは、其処に帰着して、其処で初めて物事が始まるのである。 進化とは、世界人類が、先ず其処迄至る事が何よりも先決である。 「急がば回れ」、斯く在れば、是を「涅槃」と云うのである。 如何に物を生んでも、、其の、宇宙に違(たが)えば、今に、到らざるを 得ないのである。 人間関係と云うものは、「人を生(活)かす」心であり、是が“生きる ”と 云う事であり、人類愛とは「世界人類を生(活)かさ使め合う」と云う事 である。 小生は、此の真理を刹那に、恰も「青天の霹靂(へきれき)」の如くに 「覚天」したのである。 直後、坐蒲から立ち上がり、階下に駆け下りた。 そして、其れ迄の自己が総て瓦(が)解したのである。 此の当たり前の事が、落雷を受けた如く体躯の芯を貫いて体現され たのは、此の古希直前に於いて初めての体験であった。 其の事が、極仏行が氷解し、究極の二元相対の根が断ち切れて、自 (おの)ずから「涅槃入り」したのである。 唯、小生鐵漢独り、「涅槃入り」して宇宙を究竟し足るが故に、斯く説く のである。 真理から、人間同士が真の在り様を知らねば為らない。 小生でなければ、真理を伝え得る者は居ないが故に、生命在る限り、 小生亡き世にも、斯く在らんが為に、其の使命を果たさねば為らない のである。 小生は、人類史に於ける、従来の二元相対的、力支配に非ずして、 日本の枠に留まるものでなく、世界に垂範以って、斯く在ら使めねば ならない。 宇宙の真理其のものであり、『最後身心』である。 「世界人類を生(活)かさ使め合う」「教え」として信受すべきである。 真理を信受する事によりて初めて、人類の幸福と平和と繁栄為る 「涅槃」を享受し得るものである。 宇宙の本質から離れて、三毒為る分別が暴走するものではないので ある。 令和新世紀は、此の本質に回帰する、史上、最も進化し足る時代の 到来である。 小生、「涅槃入り」して、涅槃妙心を得、宇宙心を得た。 最終的、宇宙心は自他未分化の太陽の心である。 つまり、真理に至り得て、人々は(真)中道に基づいて、少欲・知足に して、「世界人類を生(活)かし合う」と云う世界を構築、完遂しなけれ ば為らないのである。 是が、釈尊の「刹那の悟り」に基づく御遺教の「自利利人の法」以降に 生まれた、自未得先度他の心である。 「宇宙(生命)の本質」の「涅槃」為る、永遠に不滅為る恒常普遍の真 理を信じて、「人を生(活)かす」と云う事である。 要は、一切衆生に普遍的に「人を生(活)かす」事に尽きるのであり、 是が「宇宙(=太陽)の心」である。 仏道の集大成が、小生鐵漢の、万人に普遍なる、「人を生(活)かす」 である。 此の太陽の様な当たり前の事が、世界の四大聖人以来、我々人類 が探究して来た根本問題の正解であったとは、解かって見れば、余り に当然である。 此処まで来たら、人類足る者、各国指導者間の信頼を醸成し、構築、 完遂し往くのみである。 鐵漢ならば、是だけで、 世界を制する。 「宇宙の真理」 為るが故に。 「宇宙の真理」を得た人間で あるならば、世界を主導す る人間として、常に随所に 主足る人間でなければ為ら ない。 人間の本性は、世界人類 が修羅でなく、涅槃を願う ものである。 地上がエベレストを生むが 如く、 小生に基づきて、 世界を構築、完遂すべし。 正に日本人が肚を据えて、 世界に範を垂れ、真理が 三毒 (貪・瞋・癡) を制す 時代が到来したのである。 《 完 璧 》 人間と云う者は、完璧である程、不完全に遭遇する。 此の両極は不可分である。 完璧は不完全を顕現するのである。 自己の生命は、他者の生命を思う。 自他一如、自他未分化為るが故である。 「涅槃」でありながら、飢餓は世界人口の10人に1人。 中程度・深刻な食糧不安は4人に1人であるとは、一体何を顕現する のか? 是は人間の在り様が誤って居る事を露呈する何物でもないのである。 施政が三毒(貪・瞋・癡)為るからである。 三毒(貪・瞋・癡)施政が、三善根(施・慈・慧)施政に転じなければ為ら ない。 何処に、三毒(貪・瞋・癡)施政の原因が在るのかを、世界の指導者 は徹底的に究明しなければ為らないのである。 徹底的に「涅槃」為ら使めるべく、施政を正(ただ)使めるべし。 何と為れば、真理為るが故。 世界の指導者には、其の責務があるのである。 其れが指導者足る者の使命である。 然(そ)うでなければ、世界の指導者として失格である。 世界の指導者達は一体何を遣って居るのか? 自己の責務を全指導者で反省しなければ為らないのである。 指導者とは、然(そ)う云う者である。 米国は日本に基地を置いて、一体、其れで何を為すつもりか? 其れが一体、世界平和に、如何(どう)影響力が有るのか、反省しな ければ為らない。 米国民はじめ、西洋人は、「宇宙(生命)の本質」を知らない。 米国は専ら、日本を拠点とする原爆(軍備)の世界支配体制と物質の 資本主義、即ち人類三毒(貪・瞋・癡)の象徴的存在である。 此の米国民の悪業報は現実に明らかであり、今や世界の潮流は日本 をはじめとする中国の今後の在り様に移行しつつある。 世界の黎明足る新時代の到来である。 何と為れば、令和新世紀が人類史上初めて「宇宙(生命)の本質」( 涅槃)に人類が回帰したが故である。 人類が初めて真理を手に入れたからである。 従来の人類史は、真理を知らざるが故に、人類三毒(貪・瞋・癡)の赴 (おもむ)く儘の、弱者を奴隷支配し、略奪し、世界を原爆支配体制志 向の、日本への二度の原爆投下、及び其れに継ぐ原爆支配体 制の構築であった。 米国が日本に於ける、原爆世界支配体制から撤退し、〇(ゼロ)から 真に世界平和の為に日中等と共に連携して往く国民性が構築されな い限り、米中対立は必要であり、地獄に帰せざるを得ないのである。 即刻、世界人口の10人に1人の飢餓と、4人に1人の中程度・深刻な 食糧不安を救済すべく、世界の指導者達が一丸と為りて、施政の改 善を施さねば為らない。 小生は、宇宙の真理と世界人類との落差を正すべく、人類の三毒(貪 ・瞋・癡)を改善しなければ為らないと提言するものである。 日本主導で、人類史上初の、地球規模の、此の改革を興(おこ)すべ きである。 此の宇宙に生じた生命の、我々人類に迄、進化した者の、宇宙に帰 一した心のみが、此の大宇宙を独占し得るのである。 其れは、常に天上天下唯我独尊なのである。 仮に、遥か彼方に同じく『最後身心』が居たとしても、其れは同等足る 者である。 大宇宙の進化は、我が地球以外に在り得ないのである。 是は量的現象面ではなく、「宇宙(生命)の本質」の「涅槃」為る、永遠 に不滅為る恒常普遍の真理なのである。 是が規則性である。 我々人類、そして今は、好い加減に偶然裡の産物ではないのであっ て、刹那生滅の原理、因果の道理と云う超科学的な人類の及び得な い必然裡の大宇宙の恩恵であって、人類史上、心の黎明たる、釈尊 孔子、イエスと共に世界の四大聖人たるソクラテスの無知の知も、 此処迄究盡されなければならない。是が智慧である。 生命は規則性裡に 進化し 生滅する。 《 日 程 》 3:00―――起床 2:00前後1時間 (ネット) (昼食) 5:30―――朝食準備 5:00―――帰宅 (ネット) (夕食準備) 8:30―――朝課 7:00―――晩課 (朝食) (夕食) 10:30―――托鉢準備 8:30―――片付け (ネット) 11:00―――出 11:00―――就寝 (托鉢) ※ 此の規則性こそが衆生を思い遣る心と為る。 完璧為らざる原因は、何時も自己である。 《 真の自律 :規則性裡の徹底 》 規則性の否定ではなく、収束振動の『気付き』による、涅槃妙心智慧 足る規則性の確立なのである。 是が自然(じねん)、自(おの)ずから然(しか)ら使められる真実であ る。 宇宙の調和と均衡と静謐(ひつ)は規則性の究竟なのである。 正法苦行によりて、人類三毒(貪・瞋・癡)を完璧に離脱した。 是、「行」の上での解脱である。 真の「解脱」は、其の十四~十五年後、日常生活に於ける正念相続後 、鉄牛寺へ往く直前であった。 人間の根源が、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)為る涅槃妙心であり、 解脱した心(=仏心)の三善根(施・慈・慧)が、我欲からの三毒(貪・ 瞋・癡)に盲従せ使められているのが人間である。 三毒に隷従する、三毒の奴隷状態である。 「悟れ」ば、此の闇雲の奥からの力により、人間の本質的変換が、根 源から無意識裡に果たされるのである。 「悟れ」ば坐禅は自(おの)ずから、柔軟心を得て、「人を思う」大乗禅 為る。 斯様に、「涅槃入り」に於いては、「人が外(はず)れた」、「人を忘れた」 、「人を捨てた」刹那に、涅槃妙心の「人を生(活)かす」真実に至り得 るのである。 規則性が進化を完遂し往く宇宙現象であり、是が生命の裏づけであ り、根拠であり、不昧因果 なのである。 規則性が完遂する処に、生命は完遂する。 規則性が違(たが)う時は、生命存続も違う。 宇宙(心)の規則性が人類の規則性なのであり、「人を生(活)かす」 自律 を完遂せ使めるのが、「涅槃」への収束振動なのである。 此の心が身を制する。 規則性は無機の本質である。 此の本質が生命の源である。 是が「宇宙(生命)の本質」の母体である。 人間の不規則性は規則性に回帰する。 規則性を知る為には不規則性との収束振動である。 三毒の極限が、善の極限を生んだ如く、 不規則性は宇宙の涅槃為る規則性に収束振動する。 つまり、解(わ)かって往くのである。 人類は「大解脱人」、「大涅槃人」には適(かな)わない。 本質への回帰は、「衆生を忘れない」、「衆生を捨てない」。 正法苦行によりて、根本的に全てを受容して居りながら、「真の自律」 を完遂するのである。 「真の自律」 とは宇宙(心)の真理である。 《 心の進化の究極の概略 》 人間は自我(欲)から始まるが、心が進化(=成長)するにつれて、 直観的に能力の次元でなく、人間の能力以前の生命の実存への切 込みから始めざるを得ないのである。 是は社会通念では解決出来ないものであり、是は教育の現場に於い て、其の本質的問い掛けにも答え得るだけの知見が不可欠なのであ る。 其の為には、少なくとも真理を語れなければ全く無力としか言い様も 無いのである。 其の時に、真理(=正解)を一言言って遣らねばならない。 『人を生(活)かす』事だと。 何故かと問えば、 『宇宙が然(そ)の様に働いているからだ。』と。 更に、『宇宙は元来、「世界人類が生(活)かさ使め合う」様に機能して いるのだ。』と。 小生は坐禅の功徳に心酔して、坐禅を好んで遣って居った時に、 突如として、「身心脱落」して悟った。 坐禅を始めて二年位の時だったと思う。 故に、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)への軌道に乗るには、 本質志向の真偽が第一、次に可能な限り、坐禅の時を持つ事が必要 。 悟って、氷山の一角の底の、本質為る生命の在る事を体現する事に よりて、柔軟心を得、人を思う心が生ずるのである。 本質は「涅槃」であり、是に回帰する。 自(他)律裡の他(自)律である。 此処に、更に敢えて規則性と云う、吾本願とは一見対峙する志向、 是は人間の生と死に似て、生を全うするには、死は其れに反するもの の様であるけれども、豈(あに)図らん哉、死在らばこその、生の充実 なのである。死無き生は動物に異ならず。 吾が本願と規則性も亦(また)、持続可能為る相乗効果的緊張感を生 ずるのである。 此の延長線上に、「宇宙(の調和と均衡と静謐)入り」するのである。 此処迄来ると、既に、宇宙の立場に居る。 分別でない、直観的分別なのである。 宇宙心に類するものである。 此処迄の原動力が菩提心である。 此の菩提心と恥とは表裏一体である。 宇宙からの菩提心に対して、恥じるのである。 相対的な恥ではない。 吾が母体為る宇宙に対して、絶対的に恥じるのである。 是が生の意義である。 世界人類を生(活)かす為。 世界人類の幸福と平和と繁栄の為である。 《 現パンデミックからの教訓 》 我々人類は、米国とブラジルに共通する在り様は、世界を地獄に陥( おとしい)れる、と云う教訓を得なければ為らない。 因果の道理 とは、 『悪を造りながら、悪に非ずと思い、悪の報在るべからずと邪思惟(ゆ い)するに依りて、悪の報を感得せざるには非ず。』である。 《 生命と科学 》 生命は、何ものにも置き換えられるものではない。 生命科学は、生命現象を普遍的に、解釈され得る方法で、置き換えら れたものに過ぎない。 然るに、生命の本質は、我々人類が測り得るものではない。 唯、体験によってのみ、初めて覚(さと)り得るものである。 極論すれば、吾「最後身心」によりてのみ、初めて知り得る、超科学的 為るものである。 真理に触れると云う事が、如何に困難であるかと云う事を、唯、知る のみである。 生命と云うものは、科学で知り得る事は、ほんの氷山の一角に過ぎな いと云う事である。 故に、科学者は無知なる智に、必ず至らざるを得ないのである。 《 信と行覚(=覚天) 》 信(=薩?(菩提心)の行願)は行覚(覚天)(=涅槃)に何処迄も 収束振動して往くのである。 『菩提心を発(おこ)すと云うは、「自未得度先度他(自己が未だ渡らざ る前に他を済度する)」の心を発願し営む事である。 是、「薩埵(さった)の行願(布施、愛語、利行、同事)」である。 是が仏道極妙の法則である。』 是が『修証義』の核である。 要するに、「人を生(活)かす」と云う事である。 《 身心に於ける自他律 》 身的他律性の究極――心以前の身の世界(植物、動物等) 身的自律性の究極――オリンピック等のメダル 心的他律性の究極――神仏への信仰、学問 心的自律性の究極――正法苦行(悟り、解脱、涅槃)と「宇宙入り」 《 真 理 》 七十年 研鑽 只管独り 宇宙真理を触破し 一年四ヶ月 只管独り 大千を触破す 宇宙真理の七十年 人の一年四ヶ月 後を残さず 調和 均衡 静謐 への 只管収束振動在るのみ 《 身から心へ進(心)化 》 我々の人類史は、(能)力から心へと進化して来た。 釈尊、イエス・キリスト以降、今日に至りて、人類史上初めての国家覇 権(金と力)から心(=真理)への収束の必然性である。 誰にも因果の道理を昧(くら)ます事は出来ない。 米国が分断を生ぜ使めた原因を究明し、自(みずか)ら反省して、 同じ過誤を二度と生まない様に正すべきである。 米国に地上非核化の自力が有れば、世界が再認識するであろうが、 内部構造の欠陥、覇権志向の弊害、分断に対する統合力が無い。 是からは、世界が一丸と為りて、只管収束振動すべく、其の歩調を合 わせて、連携して、進化を完遂しなければ為らない。 現今のアメリカは本質的に、嘗ての、世界を分断させ、世界大戦に至 ら使めたヒトラーを想起させるのである。 米国は今こそ、人類の根源悪為る三毒(貪・瞋・癡)に対する自覚を迫 られるのである。 頂点が「宇宙の本質」に違(たが)えば、世界に余程、本質的実力が 無い限り、纏(まと)まり様が無いのである。地獄の改善の仕様が無 い。 頂点の指導者足る者は、世界が団結出来るべく配慮して往かねば為 らない。心こそ進化して往かねばならないのである。 《 能力と真理 》 人間の諸能力は、人を感動させ、又驚嘆させる。 一方、真理と云うものは、落雷が大地に放電するが如き、静謐為る 根源的「覚醒」である。 前者は有限為る二元相対域を出ない、個別的特殊性 であり、斯(か )るが故に、感動を生じ、人間に回帰する。 後者は永遠に絶対為る普遍性 であり、斯(か)るが故に、万人をして 時空を超え、生死を超えて真理に教導し、宇宙に回帰する。 斯(か)様に、人類諸能力と真理とは蛍火と太陽の開きが在るのであ る。 如何為る能力も、小生に至り得ない。 是を伝える事は、真の「思い遣り」である。 能力と菩提心とは真逆であるからだ。 真理を求めるならば、菩提心を発(おこ)す事である。 世界人類が、其れ等の国家や宗教や民族の違いを超えて、 真理に基づいて、調和と均衡と静謐(ひつ)裡に、 等しく分かち合い、全体で生(活)かし合わなければ為らないのである 。 《 人類史上初の危機に直面 》 現パンデミック対策も然(さ)る事ながら、現環境問題対策は、其れに 輪を懸けて、人類の生滅に関わる最も深刻なる最重大課題である。 今後の十年が、人類生滅の命運を分かつ、可能な限り最小限の汚 染 (CO2、コロナウィルス等)と、可能な限り最大限の智慧 を実践 せざるを得ない時機と為る。 即刻、地球レベルでの決断と実行が絶対不可欠であり、人類の是迄 の悪業報の総決算足る今に直面して、今程、従来の相対的生き方で は済まない、人類一丸と為りて、此の絶対的危機的状況に、人類史上 初めて直面せざるを得なく為って、人類存続の明暗を分かつ此の十 年に、一筋の光明を放たねば為らないのである。 全人類が対人間でない、人類の是迄の悪業報としてのウィルスと自 然災害と云う、対自然環境に対して共通の人類存続課題に直面する のは人類史上、現今が初めてである。 又、此れ等に対する、人類の従来の生き方の抜本的見直しが必至と 為らざるを得ないのである。 此の十年間の不可避なる最重大課題に対する、是迄に無い根本的 英断が不可欠である。 正に人類滅亡の危機に直面して、現パンデミックでは、人類の敗北迄 には至らないが、此の十年間の人類の覚悟が為らざれば、十年後に は人類の敗北を認めざるを得ない状況に至るのである。 然(そ)う為れば、万物の霊長足る人類は万物の癡愚者であったと云 う事に為るであろうが、是迄の地球生命史の如く、此の生き残りが、 やがて、我々に生まれ替わって、過去の我々を語るであろう。 そして、我々よりは智慧の生(活)きた、より進化した人類史を築く事と 思う。 要するに、総力を挙げての、時間の問題である。 早ければ早い程、宜しいであろうが、此処に至り得るには、相応の時 間を要するのである。 只管、「涅槃」への収束振動による知見である。 人類は、人間の三毒(貪・瞋・癡)でなく、「宇宙(生命)の本質」( 涅槃)に同じねば為らない。 《 超科学的考察 》 人類の幸福と平和と繁栄は、『最後身心』に帰して、是より発(おこ)す 。 是が人類の進化の礎と為る。 何と為れば、真理為るが故に。 『最後身心』が宇宙の極頂である。 《 今、如何(どう)しなければ為らぬか? 》 今の此の混乱期、先の見えない、出口の無い、拡散の止まらないパ ンデミックと其の世界情勢下で、今、如何(どう)しなければ為らない か? 正解は、自己である。 何と為れば、真理であるから。 然るに、如何にも為らない自己もある。 生きている限りは、為す事が在るのである。 コロナウィルスの感染を拡散しない為にも。 国家や人や環境の問題ではない。 是は、バイデン氏も同様である。自己である。 然るに、自己が如何にも為らない。中国次第だ。 習氏も同様である。自己である。 然るに、是も、米国次第で、米国に負けない事だ、と。 結局は、二元相対の対立意識が如何(どう)にも為らない。 米中間の宇宙の真理 に基づく信頼感が、双方に成立していない。 然るに、唯一、日本に於いて、小生鐵漢によりて、此の真理に至り得 たのである。 真理以外、無いと。 そこで、真理とは如何(どう)云うものだ? 真理とは、皆、「自己が如何(どう)する」、以外無いと云うのが真理で ある。 其処(そこ)で、小生が此の真理(実)を説く。 沖縄基地支配は非合理である。 何と為れば、 沖縄支配の発想の根拠が中国支配にあるからだ。 此の為に、日本を半(なか)ば私物化すると云う、十七世紀以降の 米国の奴隷化制度に他ならない。 是に甘んぜざるを得ない日本人精神は、米国の隷属国家である事を 否めない。 先ず、米国の対中政策を改革して、米中露非核和平条約を締結すべ きである。 そして、日本に於ける米国基地を完全に撤廃すべきである。 是無くして、世界平和は机上の空論に過ぎない。 世界平和の核心は、米中露非核和平条約締結である。 米国の施政に於ける根源的罪過は、第二次世界大戦終戦時に始ま ったのである。 此の結果が不昧因果 為る現米国の現状であり、 米英のパンデミック感染者と死者の異常さと、米国国家の分断とは、 明らかに米英による十六~十七世紀以降の奴隷化制度に基づく、巨 万の富の蓄積と植民地支配の、強(勝)者の、人類三毒(貪・瞋・癡) に基づく驕慢さと、其の延長線上にある、対中政策の無謀さに起因し ている。 此の米国の罪過は、日本本土への二度の原爆投下と、其の後の 沖縄基地配備である。 すくなくとも、沖縄を基地として占拠すべきではない。 如何に対中政策であろうとも。 是は宇宙の真理からの言葉である。 トランプ氏が生まれたのも、其の不昧因果 為る必然性によるもので ある。 核支配(軍事破壊力)世界体制が出来上がっているが、是が一旦機 能し始めたら、地上地獄必定である。 機能しない抑止等は、在り得ない。 よって、当体制の帰する処は、もし、地獄でなければ、何だ? 其れこそ、真理なのである。 何と為れば、地獄に陥る脅しは、永遠為るものではない地獄に他なら ないからだ。 癡愚者の地獄行きの虚構に過ぎない。 だからこそ、真理迄に至り得た小生鐵漢が宇宙に唯一の真理を説き 明かして居るのである。 世界と云うものは、科学に基づく原爆支配等と云う短絡的、単純為る ものではない。 三毒(貪・瞋・癡)に基づく大脳新皮質の産物では、永遠に及び得ない ものである。 宇宙の真理に至り得た人間にして初めて、永遠に真実を語り得るし、 永遠に世界を教導出来るのである。 現今の米国の分断は、米国国民に確足る将来が見えないからである 。将来への展望が無いからである。 「知」では立たない。ブラジルの「情」でも立たない。 唯一、立つのは菩提心によりて、真理に至り得た国家である。 世界に唯一、日本在るのみ。 宇宙現象の進化は本質への回帰である。 量は質に準ずる。 是は、今日に至る迄の「宇宙(生命)の本質」の「涅槃」への進化に歴 然としている。 『本質は現象し、本質するのである。』 本質から遊離した現象は、本質に回帰し得ない亡霊に過ぎない。 然るに、二千二十年、人類史上初めて、本質に回帰し、真理を了得し たのである。 宇宙開闢以来、小生鐵漢によりて為し得た事である。 現代に於いて、人類が採り得る可能性を考察した結果、唯一釈尊坐 禅の在るに至り、吾師の正法苦行(=千日行)を得た訳である。 苦節、古希直前「涅槃入り」し、宇宙真理に至り得たのである。 釈尊中道、断食苦行するに及ばず。 宇宙は能動的に少欲・知足にして、 鐵漢真中道、正法苦行(=千日後行)するに及ばず。 宇宙は「人を生(活)かす」である。 (但し、後行は為すべきものであるが、極仏は不要。) 後は、 『世界人類を生(活)かさ使め合う』 のみ。 是が世界平和への最短路である。 《 一体 誰が どの様に 》 今、パンデミックの渦中であるが、是に対しては万全を尽くし、後は収 束するのを待つ以外には無い訳でありますが、 世界は、バイデン氏か、トランプ氏か、習氏か、果たして真理(鐵漢) か? 明らかな様に、自制と真理(鐵漢)であろう。 要するに、真理である。 人類史上、神仏以外、真理は在り得なかった。 神か釈尊成道(=悟り)である。 然るに、神は聖戦為る、制圧や支配の根拠足る、実在しない虚構に さえ為る事もある。 人類と云う者は「涅槃」への収束振動で、パンデミックも政局も、是等 の異常事態は即刻、収束しなければ為らないものである。 どれも駄目で、何れも二元相対世界のものでしかない。 真理ではなかったのである。 然るに、今、此処に、唯一独りが釈尊より宇宙真理に至り得たのであ る。 正に現パンデミックの直前、一年四ヶ月前である。 人知では、既に及び得ないものである事が明白である。 真理。 後は、世界の指導者達が、是に基づき、世の中を改善するのみであ る。 真理無き世から、真理に基づき足る世界の構築と完遂在るのみであ る。 《 鐵漢の一日 》 真理と金の拮抗の一日である。 真理 の背後には世界がある。 金の背後には自己の存続 がある。 両者の相乗作用である。 従前の生涯厳密千日行と托鉢である。 厳密行為れば、其処に自(おの)ずから、厳密に托鉢も在るが、 今、「人」に至り得てからは、自(おの)ずと、金も無い。 両者の調和と均衡と静謐(ひつ)であり、相乗効果でもある。 且つ、此の為の最大限の、且つ最小限の規則性なのである。 宇宙の調和と均衡と静謐は、究極の究竟であり、斯(か)るが故の、 其の刹那、刹那なのである。 《 「人を思う心」 》 高校入学して其の後中退、或る時、フラッと世の中に出て、放浪した。 日常生活では目にする事の出来ない世間の、最低限の裏世界の現 実を垣間見た。 零落(おちぶ)れ果てて、身を寄せる術(すべ)も無く、辛(かろ)うじて 横たわる、五~六人程の部屋に、路上の塵が風で一角に追い遣られ たかの如く、生きているとも死んでいるとも分からない。 布団に包(くる)まって横たわっている。 最後の最後の溜り場であった様だ。 不動の冷気が漂っていた。 人間の世界には、思い懸けぬ片隅に、こんな閉ざされた、裏社会の 一角も在ったのだと知った。 《 選挙戦 》 勝ち負けと云うものは、勝ち星の多い方を勝ちとするものである。 選挙戦であれば、得票数の大小で、明確に決定する。 然るに、世界のトップに為ると、是が、然(そ)うでない。 大小では決定しない。 小さくても、其処(そこ)に不正が在ったのだと、勝敗不正論を掲げて、 食い下がる。 挙句の果てに、政治の中枢を占拠する。 是は、二度の原爆投下で壊滅し、其処を占拠して、世界原爆支配体 制の拠点と為したのと同様である。 つまり、飽く迄も自己が世界の指導者として、他者を完全に自己の支 配下に置かねば、気が済まない三毒(貪・瞋・癡)の貪の究極に過ぎ ない。 真の勝者足る者は、世界を自己の支配下にするのでなく、 「世界人類を生(活)かさ使め合う」者の事である。 其処にこそ、世界人類の幸福と平和と繁栄があるのである。 米国の是迄の遣り方は、世界を地獄に陥れる遣り方に過ぎない。 頂点に立てる者が如何為る者でなければ為らないか、如何なる者で あるのかを知ら使めるのが、今の米国の現状である。 米国の根底が悪である事を露呈する何ものでもないのである。 次の頂点が、斯(こ)う為らない様に、世界は、其の根底に何が無け れば為らないのかを明確に知るのである。 其れこそ、宇宙の真理(実)に他ならない。 是を得るには、其れだけの事、真実が不可欠なのであり、其れが人 類の能力為らざる方向性、つまり求道すると云う菩提心によりて、 自我の根源の人類三毒(貪・瞋・癡)を悟った人物でなければ、此れを 可能為ら使める事は不可能なのである。 是を果たしたのが、小生鐵漢の『最後身心』なのである。 故に、如何なる人物も、『最後身心』に基づかない限り、此の二元相対 の対立世界を脱却する事は不可能なのであり、其れが是迄の現代で あったのである。 故に、世の中と云うものは、悪を為さない、悪を懲らしめるだけでは、 何も解決しないのである。 真実は、(諸悪を為さず、)善を施す 事である。 善を施す とは、如何為る事なのかを、世界人類は知らない。 其の究竟の意は、 自己の能力を捨てて、「自己を捨てて、人を捨てない。」 「自己を忘れて、人を忘れない。」と云う事であります。 是を生涯実践する事なのである。 如何(どう)して、其の様な神仏がする様な事をするのか、否、出来る のか?と。 其れは、生命其のもの、つまり釈尊の真実為る事を覚(さと)るからで ある。 是、坐禅の功徳 である。 此処に、二元相対為る人間世界から離脱する処の、真実の在処(あ りか)を予感させるのである。 故に、自己を忘れ、世界平和為ら使める、普遍的為る絶対に真理を 委(ゆだ)ねるのである。 斯(か)るが故に、 人類の根源悪為る三毒(貪・瞋・癡)が三善根((施・慈・慧)に転じ、 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰するのである。 つまり、「悟り(身心脱落)」、「解脱」、「覚天(涅槃入り)」を全身全霊で 身を以って、体現するのである。 是等を究盡した者を『最後身心』と云い、釈尊の『最後身』を継承する、 宇宙に唯一為る小生鐵漢の『最後身心』なのである。 人類の心と云うものは、身より進化を遂げて、此処迄進化を遂げねば 、宇宙に回帰する事は出来ないのであり、宇宙の真理に至る事は不 可能なのである。 《 小生鐵漢の生き様 》 小生の生き様は、宇宙に生かされる蟻(あり)である。 宇宙である為には、蟻でなければ為らない。 蟻である為には、宇宙でなければ為らない。 飽く迄も、宇宙である事が本分である。 其の為には、必然的に蟻なのである。 蟻だからこそ、宇宙であるのだ。 本質は蟻を現象し、 蟻は本質を開示する。 《 物と心の真実 》 宇宙空間生物の存在は極めて稀であり、宇宙は物質世界である。 160年程前にダーウィン(英)が『種の起源』を著し、4年後にDNAが 発見され、2年後にメンデル(オーストリア)の指摘因子をgene(遺伝 子)とした。遺伝子は殆(ほとん)どの生物にあり、染色体のDNA二重 らせん構造の塩基配列の遺伝情報である。 宇宙(物)に遺伝子は無い。 遺伝子の究極が心である。 心が三毒(貪・瞋・癡)害を生ぜ使め、心が悟って三善根(施・慈・慧) に転じ、「涅槃入り」し、物質世界にも等しい宇宙の涅槃に回帰するの である。 宇宙を宇宙足ら使めるのが人間の心である。 自己の心以外の世界は無いのである。 宇宙と云うものは人間の数だけの心を生んでいる。 心を生んだ母体は宇宙である。 心が究竟した真理は涅槃であり、此の事実が永遠に不滅為る、万人 の本来の心に恒常普遍為る真実なのである。 元来の心の在り様が涅槃なのである。 宇宙は物に過ぎない。 地上の生命以外の他の生命を求めて、宇宙を探し回るのは自己を知 らざる愚者のする事である。 宇宙が「地獄」だ「涅槃」だと言うのは、思う人の心の在り様の問題で あり、悟れば宇宙は涅槃である。 富士山もエベレストも、其の素晴らしさは然(そ)う思う心の素晴らしさ であり、芸術に於いても同様である。 一切の素晴らしさの根源為る心の根源が涅槃である。 他を追って探し回るべきではない。 自己の其の心を悟り、知るのみである。 一切の素晴らしさを掌握し尽くすのである。 《 総 論 》 地上の『最後身心』が宇宙に存在する可能性は、実に奇跡的為るも のであり、正に日本は宇宙の頂点足るべきである。 現象 ← |⇒ 本質(涅槃) (相対) | (絶対) 〔進化〕 物→身→人心→仏心→「覚天」(回帰)→「涅槃(妙心)入り」 「悟り」 「人を生(活)かす」 「解脱」 宇宙は、奇跡的、地球等の人類惑星以外は涅槃物質界であり、 人類自然界は涅槃世界である。 地球上の涅槃世界こそ、人類が生死し、人心 は身と共に、やがて 現象裡に死滅するか、仏心として本質裡に生きるかである。 心は拡散振動の極限に至り、不昧因果、収束振動によりて、『最後身 心』が「涅槃入り」し、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰した。 《 老 化 》 小生の寺を飛び出してからの正念相続、つまり三十代後半であるが、 今に至る迄、三十五年間保持しているのであったが、「覚天」して一年 四ヶ月、坐禅を離れて、最近踏ん張りの効かない自分に気が付いた。 従前の調子で往くから、其の理由が分からなかった。 何処かに其の原因が在るのだ、と。 是が、四苦の一つである、老化だ。 人間七十一歳にも為れば、矢張り、何時迄も従来の踏ん張りは効か ない。其処で、踏ん張らないで済む様に、極力、規則性を日常から護 持する事にした。 高齢に為る程に、日常の心遣いに極力、油断しない事である。 以上は、「老い」の現象的側面であるが、 本質的側面では、「老い」は充実の拠り処である。 「老い」でなければ学び得ない事もある。 仮令(たとえ)、機械の如く100%遣ったとしても、其れだけの事で、 世の中を教導し得たかと云う事とは、亦(また)別問題である。 「老い」によって初めて見えて来るものがある。 其れが、世間の人の心である。 人間と云う者は、人の間と書く。 此の実態は、三毒(貪・瞋・癡)為る有機的構成態の一つと云う事 である。 人間の存在の悲しさは此処にある。 構成態の一つでありながら、斯く在るが故に孤独であり、悲しく地獄 なのである。是が三毒害である。 本質から遊離した貪欲に過ぎないからである。 仮令(たとえ)現象的には誤魔化し得ても、本質的には誤魔化す事は 不可能である。 世界の今も、此の三毒(貪・瞋・癡)害の断末魔に他ならないのである 。 真理に目的は無い。 宇宙に、人類を育む為だとか云うものは無いのである。 真理其のものが、「涅槃」へ進化する処の目的なのである。 然るに、此の真理は、「覚天」しない限り分からない。 極佛(行)では、未だ明確なる真理とは為り得ていないのである。 唯、言える事は、世界人類の平等為る真の幸福と平和と繁栄への最 短路である事を信じて疑わないと云う事である。 因果の道理より不昧因果為るが故に。 此処に於いて「覚天」によりて初めて、極佛(行)為る確信に基づく 坐禅行(=正法苦行)と云う宇宙の単独飛翔を挿(はさ)まずして、 直接に「人を生(活)かす」事だと、全身全霊で体現し得たのである。 人類の能力(学問、芸術、スポーツ等)の磨き上げられた如何なるも のも、「普遍的に人を真に生(活)かす」 もので無い限り、総ては宇宙 を只管(ひたすら)彷徨(さまよ)う宇宙船に他ならないのである。 是等総ては極佛(行)に尽きるのである。 「人を生(活)かす」に戻れと云う事である。 人間の能力は高齢と共に下降線を辿る。 然るに、極佛(行)は頂点に於いて、刹那に、其の本道でない事を覚( さと)り、即座に其れを放棄して、本道為る真理、「人を生(活)かす」を 生きる。 此処から始まるのである。 「人を生(活)かす」には及び得ない。 能力と極佛(行)とは斯(か)様に真逆なのである。 《 「覚天」の真実 》 五年間で十五回の、「他、否自」の繰り返しの挙句の、十六回目の「他 、否自」で、真実、自と為ったかとホッと肩の荷を降ろして、ヤットの感 の刹那の、天理(=宇宙の真理)の開示であった。 坐禅続行不能。坐禅による坐禅否定であった。 坐禅が極佛(行)其のものを、刹那に直観的に一蹴したのである。 呼吸システムが正常に機能しない。 「極佛(行)」でない。「人」だと反射的に立ち上がった。 坐禅を覚えて以来、四十三年間程、初めての事であり、且つ、余りに も明確にして、一塵の疑も寄せ付けないものであった。 『最後身心』と為れば、坐禅する時間が在れば、「人を生(活)かす」の である。 極佛(行)は無益だと覚(さと)った。 極佛(行)の究極は、其れを為して居る自己に至るのである。 人事総て、能力は自己に至る。 真理を委ね足る極佛(行)でさえ、其の根底に自己が在ったのである。 故に、「宇宙(生命)の本質」の顕現足る「涅槃」の調和と均衡と静謐 の永遠に不滅為る恒常普遍性為る真理によりて、極佛(行)としての 小生鐵漢に体現せ使められたのであった。 是、本質の持つエネルギーとも言うべき物か。 アインシュタインの相対性理論の E=mc2 (E;エネルギー、m;質量 、c;光速度)。 是『物質(=質量)とエネルギーが可換である。』と云う 事である。 従って、素粒子は人間をして体現せ使めるエネルギーを持つのであ る。 つまり、人類の拡散振動より、「覚天」による「涅槃入り」からの、「涅槃 」への収束振動せ使めるのである。 極佛(行)は「解脱」の延長線上為る生涯後厳密千日涅槃行(=正法 苦行)であり、釈尊の究竟であり、謂(い)わば、世界人類の幸福と平 和を標榜する真理足るものと信ずべきものであったのであるが、 「覚天」しない限り、真理としての超科学的確証を欠く。 《 妄 想 》 人間の妄想為る油は、正道為る水に浮いて、 混ざり合う事は決して在り得ない。 是が正道の正道足る処であり、 「解脱」の「解脱」足る処である。 是が自然(じねん)と云うもので、自(おの)ずから然(しか)ら使む。 泡(あぶく)が湧(わ)いては消え、湧(わ)いては消え往く様なもので ある。 《 処世界梵〔唄(ばい)〕 》 〔釈尊入滅後200余年後の中国魏の唄。 (日本は卑弥呼(242~248生誕)の弥生時代)〕 『處世界如虚空。如蓮華不著水。心清浄超於彼。稽首禮無上尊。』 (しいしかいじきくん。 じれんかふじゃしい。 しんしんじんちょういひ。 きーしゅりんぶじょうそん。) 「世界に処する事虚空の如く、蓮華の水に著(つ)かざるが如し。 心の清浄なる事は彼に超ゆる。稽首して無上尊を礼し奉らん。」 更には、無上道(=正法苦行)を行じ奉るべし。 是は果て無き宇宙の如く、際限無い。 地上は略(ほぼ)七十七億個を基とする三毒(貪・瞋・癡)の有機的構 成体系から出来上がっているのである。 初厳密行を了じた者は既に(水と油の如く)解脱域に達している。 《 『最後身心』の智慧 》 妙(心)の為の厳(密)、厳(密)の為の妙(心)。 相反する双方 の同時進行、相乗効果と相補性。 顔面に併せ持つ右眼と左眼の機能。 東西両洋の長所を活かして最善を為す。 《 涅槃世界 》 睡眠欲は二日間。 食欲は二週間。 性欲は生涯。 禁欲し得る期間である。 人類存続には何れも禁欲不可能である。 世界人類の幸福と平和と繁栄の為に、眠くなり、腹が減り、異性を求 めるのである。 其の為に、 淫快の素因は人類存続であるだけに、消滅はしないが、 解脱すれば死んでいる。 生理(本能)的欲求が満たされれば、後天(社会・文化)的高次の欲 求※の方が、(其れ等への適応機制として生まれる処の)行動原理と 為る。 ( ※; 獲得、優越、達成、保身、防衛、支配、求知、解明等。) 是等の総括としての、大脳新皮質前頭葉の心の進化の究竟足る、虚 構為る他力の信仰為らぬ、正法(正道)への自力の菩提心への進化を 遂げるのである。 衆善奉行、要は「人を生(活)かす」が問題なのである。 《 宇宙の涅槃化作用 》 アインシュタインの相対性理論、 E=mc2 (E;エネルギー、m;質量、c;光速度) に在る様に、 「宇宙(生命)の本質」は物質(m)と可換為るエネルギー(E)による 涅槃化である。 宇宙の調和と均衡と静謐の現成(げんじょう)が、「涅槃」と云う、 永遠に不滅為る恒常普遍の真理である。 涅槃化すべき進化であり、其の為の菩提心なのである。 『最後身心』による、「涅槃」回帰に至る迄の心の進化であった。 宇宙とは、宇宙物から涅槃世界への永久機関である。 今では永久機関は実現不可能との結論に至っているが、是は 宇宙が、涅槃から涅槃への拡散振動、最大振幅、収束振動する 永久機関である事を知らないのである。 是を知る為には、根本的に社会通念から離れて、真理の根源からの 「気付き」が不可欠である。 例えば、「我々は星から生まれた。」と云う事。 是は超科学的に信じざるを得ないのである。 科学的にも否定する事は不可能である。 何と為れば、真実であるから。 以下同様に、世界人類の本質化(涅槃化)為る永久機関である事が 真理である。 若(も)し、然(そ)うでなければ、小生の奇跡為る「涅槃入り」は在り得 無い事と為る。 人類の分別に三毒(貪・瞋・癡)を本有して居るが故に、宇宙を神と為 し、自然と人類は征服すべき、対峙するものと思い為す。 此の頂点が米国である。 以下は殆(ほとん)ど、同様に忖度と保身で、是に倣(なら)わざるを得 ないのである。 他の追随を許さない迄に、原爆支配を完成させたからである。 斯(か)様に、此の世界に信頼も団結も成立の仕様が無いのである。 此の罪過程、大為るものは無い。 世界を地獄に陥れた根源悪為る三毒(貪・瞋・癡)害であった。 此処に激震が走ったのが、今に至って居るのである。 世界指導国家足る米国の本質は、其の分断と共に信頼し難いのは止 むを得ない。 其れ等の原因は十六~十七世紀以降の米英の奴隷化制度による富 の蓄積と植民地化支配に基づき足るが故である。 是等は世界が文明化社会と為る迄の過渡期的時代であった。 奴隷化支配と云う、人類の三毒の貪欲による非人道的非条理性由来 の悪弊の後遺症足るものであり、是は力支配の人間的欠落であり、 世界の指導国家足り得ないのである。 宇宙は涅槃世界である。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違(たが)えるものであるが故の、今の 現状なのである。 因果の道理、歴然として私無し、造悪の者は堕ち、修善の者は陞 (のぼ)る。毫釐も違(たが)わざる也。 今後、新世紀の出発点に先立って、是に対する忠誠為る反省が為さ れない限り、米国の現状は永遠に不可避と為る。 米中露非核和平条約締結が完了すれば、地上の今後の課題は総て 解消されるであろう。 環境対策では自然相手で、未だ人間相手の肝心要が済んでいない。 最も根深い人類の根源悪である。 アインシュタインは、日本で、湯川博士の前に平伏(ひれふ)して、 平身低頭、何度も何度も頭を下げて、泣きながら謝罪したではないか。 日本本土に二度の原爆を投下した当人に、此の反省が為されない儘 、トランプ現象迄引き摺って、分断を復元し得ない儘ではないか。 常識的な事では、其の根源悪は微動だにしないであろう。 トップが動けば世界が一新する。 動かねば、世界も動けない。 第一主義と誇りを唱えている場合ではない。 根源的反省に基づく実践無ければ、世界が信頼するに値しない。 《 分 断 》 今や、世界は各国のリーダーが夫々の国家、国民の繁栄を築かんと する時代から、宇宙の真理に到達した唯一の人物が、世界を俯瞰して 、現状に於いて最善であると判断した事を世界各国のリーダーが施政 すべき時代に移行しようとして居る。 世界大戦以降の分断が解決し得ないからである。 此の分断の根本原因は、人間の分別其のものに在る。 分別が、人間の根源悪である三毒(貪・瞋・癡)志向か、否かに基づく。 此れは、格差の問題ではない。貪欲であるか、否かである。 要するに、貪欲に基づく分別なのである。 米国に於いて、是で顕著に二分して居るのである。 世界の指導国家程、此の傾向が強い。 三毒(貪・瞋・癡)志向の最足るものが原爆支配である。 分断解消の根本的最善策が、米中露非核和平条約締結である。 小手先で解消し得る分断ではない。 原爆支配体制こそ、分断の根本原因である。 力支配に隙が在る。必ず、其の悪業報は必至である。 日本の柔道に於ける柔(やわら)、柔軟心に学ぶべきである。 柔軟足り得るには、此の確足る根拠が在るのであり、 是が、身心脱落(=悟り)によって得る、柔軟心であり、 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に接近した事によって生まれる心的変容 なのである。 頂点の原爆支配が、 どれ程、世界人類の最後の一人の心迄に、 分断を強いてしまっているかと云う認識と自覚が及び得ていない。 どれ程、世界人類の心全体に及ぶ迄に、心狂わす根本原因と為って いるかと云う認識が、自己の三毒(貪・瞋・癡)によりて出来なく為って しまって居る処に、悲観的に為らざるを得ない。 三毒は分別に基づくものである。 分別無ければ、三毒無く、少欲・知足なのである。 分別は本能と結合して貪を生む。 貪を生まざる分別は、無我、即ち真理に基づく分別以外、在り得ない のである。 其の「証し」が原爆支配と自然破壊である。 即ち、「涅槃」為る真理に至り得た人間でなければ、貪の解消は及び 得ない。 貪に基づく分別に流されてしまうだけだ。 原爆支配と、信頼に基づく団結(=平和)は、決して両立し得ないの である。 信頼無き団結は、暴力集団に為り兼ねないのである。 リーダーの英断が必要不可欠である。 宇宙真理を人類に伝え遺す事が、『最後身心』の絶対使命である。 偏(ひとえ)に、真摯(しんし)為る指導者方が、地上にどれだけ居るか に尽きる。 認識の甘さを痛感せざるを得ない。 唯一為る、「涅槃」への永久機関への最難関の英断在るのみ。 早い程、勝負が早いのである。 《 地上非核和平条約締結 》 原爆世界支配国家を構築し、完遂した米国が締結に取り掛からなけ れば、日本と中・露・英・仏(=米国以外の国連常任理事国家)の締結 に基づく団結が地上非核化に至ら使めるのである。 核のボタンと云う、原爆世界支配権力を米国大統領のみが行使出来 る原爆世界支配体制 と信頼と団結に基づく平和体制 とは両立し 得ないのである。 必然的に二者択一に為らざるを得ないものである。 仮に、両者の中道を往くとすれば、「二兎追う者は一兎をも得ず」。 必然的に地獄に堕ちざるを得ないのである。 人類の三毒(貪・瞋・癡)は、然るべき指導者が、英断 しない限り、 如何とも為し難きものである。 世界平和の第一条件は、米国の核放棄以外無い。 偏(ひとえ)に、米国(大統領)の核世界支配体制其のものが、人類( の尊厳)を否定する、短絡的為る、動物レベルのものである。 如何に綺麗事を陳(の)べ立てても、ボタン一つで、総て虚偽である事 が判るのである。 其の様な非条理は無い。 人間の否定であり、信頼の否定であり、 其のボタン支配から生まれ得るものは、何一つ無い。 唯在るものは、終戦に至る迄の、最後の沖縄の心である。 其処に至る迄に辿った、過去の人類の過誤は、力によって平和を求め た事に他ならない。 つまり、其の能力による平和構築 の結果なのである。 人間と云う者は、能力に基づいているのではない。 能力の根底に在るものは、人類の根源悪為る三毒(貪・瞋・癡)なので ある。 要するに、人類三毒によりて、平和を築かんとした結果が今なのであ る。 三毒為る能力による平和構築でなくて、三善根(施・慈・慧)による、自 (おの)ずから為る、真の信頼性に基づく平和構築でなければならない 。 此の三善根(施・慈・慧)は「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に生かされて 居る、人類の根底足る心であるからである。 是を知らざる、世の癡愚者達の世界構築は、小生鐵漢の「覚天」によ りて、刹那に否定されたのである。 此の『最後身心』が真実(理)を開示して居るのである。 今、仮令(たとえ)環境が改善され得たとしても、人間の心が改善され ない限り、必ず、再び環境も破壊されるであろう。 人類の貪は其れ程、根深いものなのである。 人類の極悪業が原爆投下と核(=大量破壊兵器)による世界支配で あり、其れ故に極善業が地上非核化(=米・中・露非核和平条約締結 )である事は明確である。 「覚天」による『最後身心』が空前絶後にして、宇宙の真理を人類に開 示したのである。 是を契機として、人類史は飛躍的に改善され得なければ為らないので ある。 「覚天」による涅槃回帰は、是迄の如何なる基準を以ってしても、及び 得ないものであるからである。 人間世界は連続性が真なのではないのであり、真の不連続性が二元 相対世界からの絶対為る真理の顕現なのである。 厳密為る連続性よりも、真理に基づく不連続でなければ為らないので ある。 是迄の人類の進化其のものが、変異に因るものであり、謂わばミスと 云う不連続性の刹那、刹那の集積に他ならないのである。 人類の真の進化は連続為る意識上の突然変異にこそ存するのである 。 人類の分別に基づく行動による飛躍でなく、 物質エネルギーに起因する処の涅槃化エネルギーによる意識上の変 異である。 仮令(たとえ)環境は改善されても、人間の心は改善され得ないのであ る。 本末転倒であり、真の改善は人心の改善足る非核化に他ならない。 此の団結を自(みずか)ら唱えなければ、世界の指導者としての資格 は無い。 他を犠牲にした、傲慢為る三毒(貪・瞋・癡)由来の自国第一と言わざ るを得ないのである。 「強者が富を獲得するのである」と云う様な、訳の分からない支離滅裂 なる論法では世界人類を納得させる事は出来ない。 悪の権化に他ならないのである。 人類と云う者は、力による掌握ではなく、心による掌握である。 前者は偽であり、後者が真である。 何と為れば、能力と云うものは真理に基づくものであるからである。 能力は二元相対の有限為るものに過ぎず、真理は絶対の、無限為る 宇宙に由来するものであるが故に。 《 世間の階梯 》 最も 低俗為るは、淫快を心だと勘違いして、癡愚者と為る事である。 物を生む、癡愚者でない人間。 能力を生(活)かす生き方をする人間。 精神性を重んじる、知的生き方をする人間。 心を志向し、菩提心を育(はぐく)み、真理を志向する人間。 生殖無き射精は相容れないのである。 非生産的であり、生の浪費である。 是も心の進化の一端であろう。 世界人類の幸福と平和と繁栄を志すならば、是位の真剣さを要するの である。 《 性善説か、性悪説か 》 世の中には 性善説と性悪説為る相反する説が在る。 率直に言って、人類は性悪為る存在である。 諸悪の根源が三毒(貪・瞋・癡)であり、貪の儘(まま)に、世界支配に 至るのである。 社会構造化すると伴に、東洋では菩提心が生じたが、西洋に於いては 、人間能力を極め尽くし、世界を分断せ使めた。 三毒(貪・瞋・癡)害である。 斯(か)るが故に、求めれば求める程失う。手に入らない。 捨てれば捨てる程、何時かは相応の見極めを持って生(活)きようとす るのであるが、菩提心次第で、地獄にも堕ち、又真理にも至るのであ る。 其れ程、人間の三毒(貪・瞋・癡)為る迷妄は、菩提心の真偽一つに懸 かっているのである。 故に真為る人間は相応の善業を得、偽為る人間は相応の悪業を感得 するのである。 捨てる程に手に入る。 性悪ではあるが、其の底は宇宙である。 宇宙と一つ。宇宙心、否宇宙物と言っても宜しい。 真の智慧の出(いず)る涅槃妙心である。 何一つ、拘(こだわ)るべきものを持たない心である。 只管(ひたすら)、「人を生(活)かす」事だけ。 是が宇宙の真理であり、 真の性善説とは、説に非ずして真実である。 修証一如 小生鐵漢が、 『最後身心』と して垂範以って 米中露非核 和平条約締結 を確信する。 人間と云う者は、完璧な時程、細心の 注意が必須。 人間は自(おの)ずから、涅槃収束し往 くに連(つ)れて、必ず自ずから、気を 引き締め往かねば為らないのである。 今後、益々、気を緩めては為らない。 改めて、日本が世界を率先垂範し往 かねば為らない。 日本に世界人類の幸福と平和と繁栄 の責務がある。 世界は、朝鮮半島を生(活)かす事が 世界を生(活)かす事と為るのである。 是、真理の発動である。 朝鮮半島を生(活)かす事が世界を生( 活)かす事と為る。 身は脆(もろ)い。究極は心である。 宇宙は物であり、究竟涅槃妙心(智慧 )足る。 肝心要は、真理に基づく責務である。 七十余年前、日本粉砕。 今や、米国粉砕。 米国内面は中国に劣る。 日本が先導する。 「人を生(活)かす」 は 行(日常の規則性) である。 《 日常と物質(エネルギー)の規則性 》 真の日常(規則)性は、「宇宙(生命)の本質」其のものであり、 宇宙の「涅槃妙心」以前の宇宙(物)の物質エネルギー(E=mc2)の 規則性に由来するものである。 《 人類の根源 》 人間世界の根幹は、「宇宙(生命)の本質」の教導から、其の現象面の 構築、そして其の完遂である。 人間世界の諸悪の根源は人類三毒(貪・瞋・癡)由来の毒害である。 《 人間性に基づく社会性 》 明確に為らざる事への拘(こだわ)り(=執著)を「捨て」、「忘れる」事が 、社会性への通過儀礼であるが、此の「明確為らざる事」こそ、極める べきものなのである。 是、真の人間性への入口である。 然るに、殆(ほとん)ど、人間が社会に飲み込まれて始まり、其の坩堝( るつぼ)裡に没し去る。 真の社会性とは、人間性を犠牲にするものでなく、人間性に基づく社 会性でなければならない。 《 「獲得」と「捨てる」の効果的刹那的切替 》 小生、此の一年四ヶ月間程、「覚天」する迄の自己は、 坐禅を覚えて以来四十五年間程、ずっと捨てて、獲得する事の無い時 を過ごして来た。 「覚天」して、「人を生(活)かす」事、ホームページ公開に徹したのであ る。 此の一年四ヶ月程の日常は、世事を吸収して、教導すべきを伝え遺す と云う作業であったのである。 是等、二律背反する方向性の生活の相違であるが、 今に為って初めて気が付いた。 小生の規則性の衰えの原因が、此の生活方法の違いに在ったのだと 。一年四ヶ月間の生活習慣の相違に起因するものであると、初めて気 が付いたのである。 其処で、以前であれば、全く問題に為らない事が、なかなか儘為らな いのも、考慮すべきであると、今に至って再び、嘗ての厳密であった心 の遣い方を、主体的にすべきであると判断した訳である。 《 『最後身心』からの実証的、 宇宙と人類への考察―菩提心 》 小生は人類が、未だ脱却し得ない力と量と云う身の進化のプロセスよ り、既に至り得て居る心の進化の究極、つまり宇宙の真理の立場で、 真の正道を、恐竜から人類への進化の真実を説き証(あか)すのであ る。 現実を生(活)かす智慧は二元相対世界からでなく、其れ等を超越した 、宇宙の真理から生まれ出るものである。 果たして、「集団による、死に至る地獄」からでなく、「独りの正法苦行 の涅槃」からである。 《 フェーズ ( 一 ~ 五 ) 》 一、質量(物質)に可換為る、「本質からの促し」のエネルギーと瞑想。 二、人類悪の根源為る三毒(貪・瞋・癡)由来の菩提心とヨーガ行。 三、釈尊成道後の正法苦行(=初行)後の「解脱」への菩提心。 四、「宇宙の本質」に回帰せ使めたる極佛坐禅行(=後行)。 五、真理に基づく世界構築、完遂への菩提心。 宇宙物質のエネルギーが「宇宙(生命)の本質」からの促しとして、世界 一肥沃な古代インダス文明の農耕生活人の瞑想に端を発するのであ る。 瞑想―(集落の社会構造化)→三毒→菩提心→坐禅→正法苦行( =初行)→極佛行(=後行)→「覚天」による「涅槃入り」。 人間は「悟り」、「解脱」し、「涅槃入り」した者でなければ、人類を教導す る事は不可能である。 其れ程、人類三毒(貪・瞋・癡)は容易に三善根(施・慈・慧)には転じ得 ないものである。 癡愚者には、真理は映(うつ)らない。 悟った人間でなければ真に人類を教導し得ない、と云う事である。 歴史を顧みれば、是は明らかであり、其の結果としての今なのである。 「悟り」などは意識上には存在しない程に、真理は人類の三毒(貪・瞋・ 癡)裡には無いが為である。 三毒は時・処・位に拘らず、如何なる境遇に於いても、悟らない限り三 毒なのであり、癡愚なのである。 其の証拠に、坐禅をしようと言う人間が出ない。 其れ程、人間と云う者は、癡愚である事の自覚が出来ない者なのであ る。 嘗て、釈尊成道後、仏道苦行がエジプトのキリスト教徒達に修道 と云 う行を生んだ。 三~四世紀、聖アントニウス(エジプト)は、砂漠(洞窟)等で四十年間 苦行し、其の周辺に人が集り、修道院が建ち並び、砂漠は修道僧で 一杯に為った。 当時のエジプトで全人口の半分が修道僧であったとも言う。 「砂漠での苦行者」、「修道生活の父」、「修道院の創始者」である。 又、断崖絶壁や柱の頂で修道生活をした。 五世紀、聖シメオン(シリア、登塔者)は、四十数年間、塔の上で修行 し、人々を教導した。 人間が本気に為れば、必ず坐禅しないでは居れないと云うのが本気 度なのである。 本気に為れば、人間は自(おの)ずから、坐禅に赴(おもむ)くものなの である。 坐禅は、善行中の至善である。 其の気に為れば、一日二十四時間の中、十分でも二十分でも心掛け るだけで、其の人の二十四時間を制するのである。 原爆抑止力では、人類三毒(貪・瞋・癡)を募(つの)らせる事しか出来 ない。愚策中の至愚である。 要は、其の気が生じるか、否か。 本気に為れるか、否かだけの事である。 『為せば成る。為さねば成らぬ何事も。成らぬは人の為さぬ也けり。』 人類三毒(貪・瞋・癡)への自覚が無い。 大脳新皮質は、進化を遂げ、前頭葉に菩提心を生ぜ使めたのである。 菩提心を契機として、坐禅為る方向性、是が即ち釈尊であり、達磨に 他ならない。 何時でも、誰でも、何処でも、一冊の説明書さえ有れば、即可能である 。 此の菩提心が、宇宙物質エネルギーを人類に発動せ使め、人類をし て、大脳新皮質自体を否定し、涅槃に回帰せ使めたのである。 人類の菩提心は、宇宙の太陽である。 菩提心の目的は、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)回帰である。 菩提心無き国家は、三毒(貪・瞋・癡)国家である。 菩提心有りて初めて、世界人類の幸福と平和と繁栄が可能と為る。 是迄人類は万物の霊長足る進化を遂げたが、更に身は心としての進 化に至り、大脳新皮質由来の心は菩提心を生ぜ使め、是によりて菩 提心は其の大脳新皮質自体の機能を涅槃化せ使めたのである。 涅槃化とは、瞑想に端を発し、三毒為る自己に菩提心生じ、ヨーガ行 為る求道は禅定、成道、つまり「悟り」、「解脱」、「涅槃入り」と、我等が 母体為る「宇宙(生命)の本質」への段階的帰一の進化を経て、宇宙 其のものに回帰したのである。 斯(こ)うした進化を遂げる過程に於いて、進化すればする程、其の関 門は困難であり、最終的、涅槃回帰に至りては、正に奇跡以外の何も のでもない。 是等は総て、現状の否定であった。 涅槃回帰に至りては、此処に至る迄の乗り物であった坐禅其のもの、 極佛行(=後行)其のものを正に、否定したのである。 是は、小生『最後身心』独り、空前絶後にして、最終的に宇宙の真理を 透過し得た奇跡であった。 此の奇跡を生ぜ使めた物(=エネルギー)は人類の方には在り得ない 。 宇宙物質(=質量)エネルギーに他ならないのである。 宇宙には、地球等以外には、生命は全く存しないのである。 アインシュタインの相対性理論(E=mc2)により、 エネルギーに可換為る物質質量によるエネルギー以外には、極佛行 (=生涯後厳密千日涅槃行)を否定し得る突然変異の如きものは在り 得ないのである。 従前の一切合切を否定して、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に回帰し 得たのである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の真理 に基づいて、斯く在ら使められ ているのである。 《 「心の進化」と 学問 》 「心の進化」に於ける、刹那の不連続性、「宇宙(生命)の本質」(涅槃) へ開け往く人心(=涅槃妙心)への 第一段階である「悟り(身心脱落)」の前後は、刹那の不連続為る進化 である。又、 第二段階である「解脱」であり、 最終段階の「涅槃入り」による、宇宙(=涅槃世界)への解放である。 是等総て、前後際断せる、不連続的、心の進化なのである。 此の真実を、如何なる数式で以ってしても、科学的に証明し、或いは 芸術的に表現し得たとしても、其れ等は視覚的、或いは聴覚的等の 五感に基づくものに過ぎないが、心の進化足る是等の諸段階的体験 は総て坐禅中の体現である。 真理を得るには坐禅以外に無いのである。 孔子の『論語(里仁)』に、 『朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可也』とある。 道とは真理の事である。 人類は、唯、真理を信受し、人類三毒(貪・瞋・癡)でなく、人類三善根( 施・慈・慧)に基づいて、人類諸能力を世界人類の幸福と平和と繁栄の 為に生(活)かさなければ為らないのである。 《 今 》 大前提為る始終不明為る、際限無き時空裡の一点の自覚と、此の時 空的拡散。 宇宙の調和と均衡と静謐(ひつ)(=質と云う完結した量)エネルギー が真理(涅槃)エネルギーであり、是が世界人類の幸福と平和と繁栄 の構築、完遂エネルギーと為るのである。 是は世界を分断するエネルギーではなく、世界が其れに基づく処の 団結エネルギーである。 是は、宇宙の永久機関足る、刹那生滅する物心の進化する処の 涅槃化エネルギーであり、又小生をして、『最後身心』足ら使めた処の 体現エネルギーでもあった。 《 人類存続要件を超越して 》 人類の生理(本能)的欲求である、睡眠欲、食欲、性欲の中前二者は 禁欲不可能にして、元来、少欲・知足足るべきものである。 性欲は種の存続に不可欠為るものではあるが、 是は坐禅と良く似ている。 初めは、坐禅で自己を律すれば、非常に困難であるけれども、 禅心、つまり常に人類を真に生(活)かさんとする心は根源的に其れを 凌駕しているのである。 坐禅中程の安楽は世の中には在り得ない。 「解脱」して、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に接触して、水と油足るので ある。 「解脱」して、刹那に宇宙の調和と均衡と静謐為る心を初めて知るの である。 「解脱」、更には「覚天」による「涅槃入り」が人心の頂点であり、 人類史為るものは、正に此の「涅槃」に収束振動の進化の途上にある のである。 世界人類の幸福と平和と繁栄の構築と完遂への涅槃妙心智慧の実 践あるのみ。 人類存続要件は正に克服されるべきものであり、是等を超越した、 宇宙の真理に帰一しなければ為らないのである。 《 人間の見極め ―反省 》 人間を見極めるには、過去の反省が為されているか、否かである。 是は人間に止(とど)まらず、世界人類史に於いても全く同様である。 「完璧」と云う事は、自己(国)だけが完璧である事と、 全体(世界)が完璧である事と在る。 真実は、自己(自国)と全体(世界)、つまり個と全とは分断して居るも のでなく、全の中の個であり、個に基づく全なのである。 是等、全と一の双方が両立して居る在り様を『全一』と云う。 つまり、宇宙と自己が、宇宙に回帰し得た自己(=涅槃人)である事だ 。 又、世界と自国とが一体であると云う事である。 此の『涅槃人』でさえ、世界人類が回帰し得た訳ではない。 回帰し得た人間は『最後身心』独りである。 故に、『最後身心』でさえ、完璧志向の人間なのである。 況(ま)して、一般の人間が完璧と云う事は、 唯、自己に対する反省が為されていない証拠である。 人間と云う者は、常に完璧志向にして、完璧途上に在ると云う事であ る。 何と為れば、宇宙とは、涅槃世界への永久機関である が故に。 「完璧」を言う人間は、自己に対する反省が至り得ていない事を露呈す るに過ぎない。 常に反省の連続であってこそ、人間は世界人類の幸福と平和と繁栄 に向かって進化していると言えるのである。 《 男 と 女 》 男と女とは、一対一に過ぎない。 世界は一と全である。 全一的在り様を知るべきである。 男女を世界と混同しては為らない。 世界は男女の延長線上でなく、真理に基づく心的進化の高次元為る ものである。 朝鮮半島を生(活)かす事が、世界を生(活)かす事と為る。 是、真理の発動である。 《 確 心 》 小生が今に為って、初めて確心した事がある。 是迄、ずーっと思って、否(いや)信じて来た事であった。 しかし、今に至って初めて、ハッと気が付いた。 然(さ)もなくんば、100%可笑(おか)しいと。 中夜寂然として声無く、釈尊は、般涅槃に弟子達に略して法要を説か れた。 『……汝等、且(しばら)く止(や)みね。復(ま)た語(もの)言う事得る 事勿(なか)れ。時将(まさ)に過ぎなんと欲す。我滅度せんと欲す。 是、我が最後の教誨(きょうげ)する処也。』と般涅槃された。 最期に、斯(か)くの如く吐露された釈尊の、此の真実の実状を確心 出来る者は、小生『最後身心』でなければ不可能である。 小生ですら、今、初めて此の真実を確心するに至り得たのであるから。 つまり、皆、自己為る者は有機的構成態の一つであると云う事である。 シーンと静まり返っていたにも拘らず、釈尊の心の中には、真実に違( たが)う、迷妄為る世間の声が騒(ざわ)めいていたのである。 吾師、伴老師は、『全部、嘘だ!』と吐露された。 小生にして、今、総てに納得がいくのである。 斯く、我々は有機的構成態の一つであるが故に、其の構成態裡に 共鳴する騒(ざわ)めきを聞くのである。 此の真実を確心するに至り得るには、無我為る宇宙に回帰し得てい なければ不可能である。 100%の無我にして初めて、其処に確心と云うものが生じ得るのであ る。 人類には、普段は無意識裡に、此の心の騒(ざわ)めく声と云うものが 、老若男女に拘らず、心に生ずる事がある。 しかし、真理と、其の騒(ざわ)めく世界とを明確に、超科学的把握で 為し得るのは『最後身心』でなければ不可能である。 故に、釈尊は最期に『汝等、且(しばら)く止(や)みね。復(ま)た語(も の)言う事得る事勿(なか)れ。』と吐露されたのである。 此の、心中に生ずる騒(ざわ)めきの声と云うものは、人類の身に由来 するものであり、心の進化に逆行するものである。 世間としては、其れが事実ではあるけれども、真理からすれば、其れ は三毒(貪・瞋・癡)(=身)由来の、二元相対世界の声に過ぎないもの である。 世界人類の幸福と平和と繁栄の構築、完遂には、宇宙由来の真理、 そして其れに基づく処の、宇宙に回帰した自己由来の規則性が不可 欠なのである。 世界人類の成熟度 は米中露非核和平 条約締結に尽きる 《 自活心と他活心 》 自活心(=自己を活かさんとする心)と他活心(=他を活かさんとする 心)の活かさんとする心の方向性が自と他に相違している。 しかし、是等双方の根は一(ひと)つである。 此の根源は、双方に作用する処の根本の心である。 是が、全体を生(活)かさんとする心である。 全体の中に自己も在る。 何者にも拘(こだわ)らない、自由為る心である。 全体を生(活)かす為に、機能する心である。 其処に、生(活)きた規則性が在り、生(活)きた涅槃妙心智慧を生む のである。 《 人間の質 ( たち、quality ) 》 此のコロナ禍は、世界人類に自己の質(たち)を見直す機会を与えた。 つまり、成熟していない自己は、自己を然(そ)の様に根底から自覚し たであろうし、成熟した自己は、自己の使命、「人を生(活)かす」を思う 本源の心に接し得たであろう。 此の自己の自覚は、根源的問い掛けを与えた事は疑わざる事実であ ろう。 自己を生(活)かすも、殺すも自己の心一つである。 是は不可避なる事実である。 斯くして、人間の業為るものは、人類の質(たち)の自然淘汰も果たす べく因果業報為るのである。 《 真善美 》 真善美は我から生ずるものであり、坐禅道は是等の根底で、是等を超 越した世界である。 是が西洋と東洋の根本的相違である。 前者は真善美の探究の結果としての現異常事態である。 後者は真善美の根底を透脱した世界の涅槃一路である。 西洋は東洋の釈尊の手掌上の悟空である。 《 白と灰と黒 》 七仏通誡偈(釈尊までの過去七仏の共通した教え)。 諸悪莫作 諸(衆)善奉行 自浄其意 是諸仏教 是等四句中、要は衆善奉行である。 此の一句で全てを言い尽くしている。 只管、諸々の善事を行じ切る、徹底した菩提心の実践在るのみ。 是、世界人類通誡の『教え』である。 例えば、核拡散防止条約は諸悪莫作であり、 核兵器禁止条約は衆善奉行である。 世界人類が如何に諸悪莫作(=諸々の悪を為さない)を遣っても、 世界は決して白くは為らない。真っ黒が真っ黒でなく為るだけ。 核兵器禁止条約であれば白。 三毒列強の損失に為る事は、団結して動じ様としない。 斯(か)様な次第で、三毒列強の衆善奉行が至難中の至難事なので ある。 如何しても、三毒(貪・瞋・癡)が三善根(施・慈・慧)と為らない。 自国の利のみを追求する慣習、習癖から脱却出来ないのである。 三毒に基づく団結でなくして、団結すべきは三善根に基づく団結であっ てこそ、団結の意義と云うものがあるのである。 支離滅裂にして、真正な根拠に欠く。 仏道に於いても、最も普遍的為る真正の根拠は、宇宙の真理に基づく 事である。是こそ、真正なる白。 黒から白への移行には、僧侶の正法苦行でなければ至り得ない。 更に、其処に必然的奇跡が不可欠である。 然るに、此の永遠に不滅為る恒常普遍の真理によりて、既に人類が 是から逸脱する事は宇宙を敵に廻す事に等しい。 此処に、「涅槃」への収束振動の必然性の真価が在るのである。 ミャンマーも斯く在る事を深く期待するものである。 《 米国民の恥 》 米国のコロナ感染者数が収束しない根本原因は五百年来の一連の 奴隷化と植民地支配と原爆支配に基づいた繁栄にある。 其れ等は人類悪の根源為る三毒(貪・瞋・癡)に由来する。 日本は唯一の二度の原爆投下により、灰の中から完全に生まれ変わ って、〇(ゼロ)から質直堅実に直向(ひたむき)に再建を果たして来た が、米国は、更に、原爆実効支配体制構築、完遂を、日本支配により て果たした。 此の一連の米国の傲慢さと恥の知らなさと云う人間的欠落が、いざ コロナ禍に対して、従来の米国民の勝者としての、其の特質が今の 結果を招来して居るのである。 因果の道理歴然として私無し。造悪の者は堕ち、修善の者は陞( のぼ)る。毫釐(ごうり)も違(たが)わざる也。 力と能力によって、他を制圧する生き方に起因する処の悪業報である 。 人間と云う者は、徹底して痛い目に合わなければ、容易には其の本質 には至り得ないものである。 故に、釈尊の断食苦行から中道が生まれ、 小生鐵漢の生涯後厳密千日涅槃行から真中道が生まれたのである。 駿馬は鞭(むち)の影を見ただけで走り出す。 核兵器禁止条約を締結するだけの実行力が有れば、 現コロナ禍に因る感染者数も収束するであろうが、英国の行動力に期 待する。 小生も、宇宙の調和と均衡と静謐に回帰した後、其れと一つに為るの に、どれだけ収束振動しなければ為らなかったか、困難である事は確 かである。 言い訳と屁理屈で、中々予定通り、ストレートに収まらない。 結果として現成して居る、宇宙の「涅槃」為る調和と均衡と静謐に至る 迄の如何に困難であるかと云う事である。 其処に至り得る迄には、唯、菩提心有るのみ。 此の菩提心で、微妙為る、此の『宇宙との違(たが)い(=ズレ)』を修 正し往くのである。 嘗ての三毒(貪・瞋・癡)によりて勝ち得た栄光(傲慢)が親子間で、或 いは代々と受け継がれて来ており、人類に本有する三毒為るが故に、 其処に疑いを挟む余地も無き儘に大人に為って来ているからである。 子供の頃から身に染み付いた環境(=国民性)に疑いを抱くのは容易 ではない。 其処に、宇宙の真理に違(たが)える、人間としての隙が生じて、分断 も含めて、今に至っているのである。 故に、此処に気付くのは、一度死に切って、根源的反省が為されなけ れば為らないのである。 温存と保身と忖度の延長線上に在るものは責任回避に起因する処の 取り返しの付かない、恐ろしき地獄に他ならない。 是を癡 と云うのである。 世の中に善悪無し。 小生の『最後身心』に基づくを以って善と為す。 只管、自今已後、収束一路在るのみ。 《 宇宙(太陽) と 我々人類 》 太陽は我々人類に、絶えずエネルギーを注ぎ込む。 我々人類は、其れによりて無量の智慧を生み得るのであり、我々人類 には、此の太陽の恩恵に対して、此れを生(活)かし得る制御・管理シ ステムが不可欠であり、是無くんば、我々人類は必然的に、此の機能 系統に不備が生じてしまうのは不可避である。 同様に、智慧に対する管理システム構想への心構えが不可欠なので あり、是は我々の日常生活に於ける、生きる心構え、態度であり、是 には、湧出エネルギーに対する管理システム、つまり、其れに対応す るだけの、厳密為る細心の配慮が不可欠なのである。 是無くんば、我々は、其の機能系統を維持し続ける事は出来ない。 湧出エネルギーに対する必要最低限の配慮である。 大い為る自然の湧出エネルギーに遜色無き対応能が、我々人類 足る価値である。 我々は、自然に対する畏怖の念を忘れれば、正念喪失してしまうので ある。 国家(人(類))対国家(人(類))間の、対立、分断でなく、 宇宙(太陽)に帰一する国家(人(類))間の団結である。 人類は個人レベルでなく、国家レベルで、更には世界レベル、更には 宇宙レベルでの生活の取り組みでなければ、涅槃現成 為り得ないの である。 何と為れば、人類の成り立ちは、元来、宇宙(太陽)を母体として成立 したし、して居るが故に、地球を母体とし、世界人類を母体として生き て往かねばならないからである。 マクロレベルで、ミクロレベルの配慮が不可欠と為らねば、やがて必ず 失策する。 然るに、マクロもミクロも究極的に実在しない限り、元来無き物であり、 元来無き者が、無き者に如何に限定しても、此れは決して限定し得な いものであり、仮令(たとえ)限定したとしても、其れは虚空に釘を打つ 様なものである。 自然は絶えず刹那生滅し往き、頭脳は停滞する。 頭脳も自然と伴(とも)に、常に刹那生滅し去って居るのが真実の在り 様なのである。 肝心な事は、虚空に釘を打つのでなく、宇宙に帰一する 事なのであ る。 正に人類の存在自体が奇跡であり、此の奇跡裡に生ずる事も亦奇跡 である。 我々の為すべき事は、奇跡為る真理を只管(ひたすら)信受し、 そして生(活)き、生(活)かすのみである。 《 日本主導、涅槃世界への心の進化 》 日本は世界人類の将来を決定付ける運命を担っているのである。 正法苦行(後行)による『最後身心』の必然的奇跡がなければ、其の 真実(理)に至り得なかった。 此の、刹那の奇跡によりて、宇宙に、「人類の生命の何足るか」が、 空前絶後に、人間の意識に明確と為ったのである。 つまり人間が宇宙に回帰し得て初めて、宇宙と人間が一つと為り、 無我為る「太陽の心」足り得たのである。 是は、力と量との問題では解決の付かない、質の問題なのである。 質に間違い無ければ、量は一個で宜しい。 人間と云う者は、質に至り得ないが為に、力と量の二元相対世界から 脱却し得ず、敗壊不安為る生涯で終わらざるを得ないのである。 宇宙の真理に基づいて、人類は「涅槃」に収束し往く正道を歩み得た のである。 日本主導為るべし。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の真理に基づいて初めて、 世界人類の幸福と平和と繁栄の構築と完遂への進化を先導し得るの である。 《 究竟菩提心取捨に拘らず 》 人間は取るか、捨てるかではない。 太陽である。 太陽に取る事も、捨てる事も無い。 三善根(施・慈・慧)、涅槃妙心智慧に基づき、三毒(貪・瞋・癡)執著を 離脱している。 ものが無ければ、影を生じない様なものだ。 正法苦行によりて、人間は「解脱」以前に、三毒(貪・瞋・癡)を根絶し、 「解脱」、「覚天」は、人類を永遠に制する。 《 癡愚者と智慧者 》 人類は、貪為る存在であるが故に、小生鐵漢は宇宙の真理、「涅槃」 に回帰し得たのである。 動物に貪無きが故に、「涅槃」知らず。 人類は貪と伴に、其の有害無益を知る。 故に、智慧者は、三毒(貪・瞋・癡)を三善根(施・慈・慧)に転了してい る。 癡愚者は、飽く迄も三毒(貪・瞋・癡)に執著して有害無益に死滅する。 智慧者は、其の癡愚を知り、地獄を涅槃に転ず。 《 善悪の彼岸 》 善悪の判断は時処位によりて、其の二元相対的判断に基づき、普遍 的為る基準は存在しない。 人文科学(哲学、倫理学)や宗教的に善悪について論じられている。 道徳的、宗教的……為るものが、夫々の時処位に応じた、特異的判 断基準が存在するであろう。 無分別 ―→妄分別―→分別智―→無分別智―→涅槃妙心智 (動物) | (三悪趣) (三善趣)| (仏) (真理) 動物本能界| 地獄・餓 | 善悪界(菩提心) | (菩提心) | 鬼・畜生界 | | [三毒(貪・瞋・癡)] | [三善根(施・慈・慧)] 原爆無くんば、真理には至り得なかった。 原爆とは我々人類の根源悪の三毒(貪・瞋・癡)害の至極悪である。 原爆は過去の物と為り得るが、真理は、在り哉(や)否哉(や)の、永遠 為る至極善である。 従って、或る意味で、原爆は我々人類が「涅槃」為る宇宙の真理に至 る必要極悪であった、と言わざるを得ない。 然(さ)も無くんば、釈尊中道に基づく、吾師伴老師から小生鐵漢の真 中道への奇跡は永遠に生起し得なかったのである。 此の釈尊中道から、小生の真中道、更に今に至る迄、其処に一貫して 居るのが、我々人類に最も根源的為る、世界平和への問い掛け、即ち 菩提心 なのである。 つまり善悪の見極めは、其れが普遍的為らざる個別的価値判断に基 づくものか、或いは普遍的、世界人類の幸福と平和と繁栄に基づくも のかに懸かっている。 我々 人類の諸能力の根底を為す人類三毒(貪・瞋・癡)為る我執 に由来するものか、或いは其れを「解脱」し、無量の菩提心に支え られた、三善根(施・慈・慧)に由来するものかである。 然(さ)も無くんば、永遠に不滅為る恒常普遍の真理には至り得ない。 其れによりて、善とも悪とも判断し得ると云う事である。 菩提心 とは、人類三毒(貪・瞋・癡)が、アインシュタインの相対性理 論(E=mc2)により、エネルギーに可換為る物質質量によるエネルギ ーに由来する「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しとの化学反 応によりて、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の涅槃妙心由来の三善根 (施・慈・慧)志向の精進を発菩提し、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に帰 一せんとする心である。 釈尊成道後、仏道が三~五世紀のエジプトのキリスト教徒達に、修道 と云う行を生んだが、やがて殆ど世俗化し消滅した。 精進無き神の信仰は虚構に過ぎない。 《 森 発 言 》 今回の森元首相の女性蔑視発言は、日本女性の真価を顕現するに 至った。 男女同権と云うよりも、寧ろ中枢男権が危ぶまれるの観在り。 温存・忖度・保身は男性の方に、特に、其の傾向が強い。 令和三年、益々、日本に期待される。 《 坐禅の功徳 》 坐禅の功徳は、小生が始めて坐禅を組んだ瞬間から始まっているの であり、其れ以来、其の恩恵に浴している。 当時は、其れは静穏にして安楽為るもので、兎角(とかく)哲学的に為 りがちな人間の実存が、坐禅と云うフィルターを通すと一変して、其れ は別次元の世界に転じるのである。 其れは、此の世の如何なるものからも体験し得ないものである。 流石(さすが)に、バラモン文明であり、釈尊なのである。 「好きこそ、物の上手なれ」で、坐禅こそ真理に浴する当体である。 後は、物の問題であるが、是は政策であり、生きる策(=生き方)であ る。悪事を犯さない限り、自(みずか)ら、万策を講ずる以外無い。 坐禅の功徳は、恒常普遍の真理為る、宇宙の調和(=涅槃)に由来す るものであり、是が「宇宙(生命)の本質」である。 是に回帰し得た状態が世界人類の平和である。 《 上求菩提とは 》 小生十五、六歳の頃、求道や宗教以前の、何か在る(筈だ)と云う掴 み様の無い予測めいたもの(前兆)が心を占めていた様な気がする。 其れが何であるのか、全く見当も付かない。しかし喉元まで、其れが 及んでいる様な気がするのである。 様々なる試行錯誤を経て、生命を求めて医学部に入学し、専門課程 に入ると共に、其の期待感は消え失せた。 其れから、背水の陣で本気で、最も相応(ふさわ)しき道を決めるのに 、宗教で、坐禅に見出したのである。 しかし是は科学的判断で、未だ求道心でも菩提心でもない。 「掴み処の無い、予測めいたもの」に相応しい道の選択であったのだ。 其れ故に、真理に至り得た小生『最後身心』は是を、「宇宙(生命)の 本質」(涅槃)からの促しの自心への投影※と受け取るのである。 其処に、「悟り」生じ、「解脱」し、「覚天(涅槃入り)」が在るのである。 其れは、自(おの)ずから現実の人々の在り様に及び、其の為の打ち 出しと為る訳である。 前項目の《 坐禅の功徳 》で述べた様に、心中で、医学を坐禅に転じた のが菩提(求道)心であり、是を以って発(菩提)心と為し、発上求菩提 と為す訳である。 小生は発(菩提)心以前の「坐禅の功徳」の段階で、既に「悟っ(身心脱 落し)た」。 上求菩提無き下化衆生は在り得ない。 本来、上求菩提は自己の生命の真実に対する問い掛けである。 此の問い掛け自体、人類の最も普遍的なる疑問である。 故に、此の問いの正解を得る事は、人類に普遍の救済に他ならない のである。 生命の真実の第一歩が坐禅の功徳である。 是が、「悟り(身心脱落)」への導入期である。 「悟り」は究極的「涅槃」為る「宇宙(生命)の本質」への接近である。 「解脱」が接触。「覚天」が回帰。 下化衆生は、噴水の如し。頂上の水勢は下る以外無いのであり、自然 (じねん)為るものである。 宇宙(回帰)の自然な働きである。 上りは労する。小生、古希迄労した。 下りは自然(じねん)。本質的に労しない。 只管(ひたすら)、知るのみである。 言語中枢三昧。 言語化によりて認識が及び、「真遺教」為るのである。 小生の従前の認識は、、すべて真理無きものに過ぎないが故に、 開け足る真理の前途は限り無いのである。 然るに、人類は其の認識には至り得ないが、 『朝に道を聞かば、夕べに死すとも可也』とある様に、 真理を聞き、信受してから、本腰が始まるのである。死ぬ処の事では 済まされないのである。 真理への信が人類の信頼を生み、団結を生み、根源悪の三毒(貪・瞋 ・癡)を制すのである。 真理への信頼に基づく世界団結である。 是によりて、世界人類の平和と繁栄の構築、そして完遂一路が可能と 為るのである。 〔※―古代インダス文明に於ける、世界一豊穣為る農耕生活者に瞑想 を生む、更には其の集落からの社会構造化と共に生じた三毒(貪・瞋・ 癡)の三善根(施・慈・慧)へ転ずる誘因足る、小生の十六才位から、 坐禅に往き着く二十六才位迄の略(ほぼ)十年間の、アインシュタイン による宇宙の物質質量に可換為るエネルギー(=フロイト、ユングのリ ビドー)に由来する「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しによりて、 三毒を本有する人間の心に投影された、ヨーガ苦行への菩提心 発現 (=発菩提心)の源足る影であったのだ。〕 《 フロイト精神分析学とユング分析心理学 》 心理学の開祖はアリストテレス(古代ギリシャ、哲学者) 「心は脳髄に在り」 (ソクラテス(BC5)→プラトン→アリストテレス(BC4)) ルネ・デカルト(十七世紀、仏、哲学者、数学者) 合理主義(近世)哲学の祖、「我思う、故に我在り」 哲学から心理学が生まれた。心身二元論 ウィリアム・ジェームズ(1842~1910、米、哲学者、心理学者) 「心理学の父」、『宗教的経験の諸相(1901)』 『プラグマティズム(1907)』。 西田幾多郎、 夏目漱石、内村鑑三等が影響を受けた。 『宗教的経験の諸相(1901)』によりて、後、トランスパ ーソナル心理学を生む事と為った。米国の代表的哲 学者であり、トランスパーソナル心理学者でもある ケン・ウィルバート(1949~ )はトランスパーソナル 心理学の代表的論客である。 フロイト(1856~1939、オーストリア、精神科医、精神分析学創始 者、無意識研究、リビドー(性的エネルギー)論) 七十歳の誕生日に、アインシュタインから祝電と共に次の一 つの質問が届いた。 「人には他者を攻撃しなければ為らない理由があるのではな いか。」と。 当日、フロイトは、次の趣旨の演説をした。 「我々は外見上の成功に欺かれて、自分を見失ってはならぬ 。」と。 フロイトは、マルクス、ダーウィンと並んで二十世紀の思想に 大きな影響を与えた。 フロイトの「力動論」や「リビドー」の概念はエネルギー保存則 を元にして居るとも言われる。 彼の性的一元論は次のユングによりて進化を遂げた。 ユング (1875~1961、スイス、精神科医、心理学者、ユング分析心 理学創始者) ニーチェ(1844~1900)(『ツァラトゥストラは斯く語りき』等) に感銘を受けて、近代心理学を受け入れる(=専攻する)準 備をした。 フロイト(1856~1939)と親交があった。 1951年、鈴木大拙氏と親交を結ぶ。 ユングがフロイトと訣別した理由は、フロイトがリビドーを性(反理性) 的なものと見做したのに対し、ユングはもっと一般的な心的エネルギー と見做した点だ。更に無意識に対しても、フロイトの様に快感原則に支 配された反理性的なものとは考えず、寧ろ意識を補償する積極的、肯 定的な機能を持ったものと見做す一方、個人的無意識と並んで人類に 普遍的な集合的無意識を仮定した事である。 ユングは「補償」の考えを背景に東洋思想や神秘主義にも興味と理解 を示し、其の事も在って、其の学説は文学をはじめ多方面の多方面の 人文科学に影響を及ぼしている。 フロイトの言う「無意識」は個人の意識に抑圧された内容の「ゴミ捨て場 」の様なものであるが、ユングの言う無意識とは「人類の歴史が眠る宝 庫」の様なものである。 ユング心理学(分析心理学)は個人の意識、無意識の分析をする点で はフロイトの精神分析学と共通しているが、個人的な無意識に留まら ず、其の奥底には個人を超え人類に共通しているとされる集合的無 意識(普遍的無意識)が存在すると考えた。 ユングは人間の成長過程を「個性化の過程」と呼び、全ての人間が経 験する処の、意識と無意識の調停作業とした。 ユング分析心理学に於ける影は、其の人の意識が抑圧したり、十分 に発達していない領域を代表するが、又未来の発展可能性も示唆す る。其の人の生きられなかった反面をイメージ化する力と言えよう。 影は否定的な意味を持つ(しばしば悪や恐怖の対象としてイメージ化 される)場合が多いが、此の否定性を乗り越えて、自己を発達させね ばならない。 其れは影を無意識の世界に追い遣るのではなく、寧ろ影との対決、影 を自分自身の否定的側面、欠如側面と意識化し、影を自我に統合す る事が、自我発達の道であり、自己実現の道(個性化の過程)である とユングは唱えた。 河合隼雄(1928~2007、心理学者、京大名誉教授) 日本初のユング研究所 《 人間生命の心理学的解釈 》 オーストリアの心理学者フロイトは快を求め、不快を避けようとする 快感(=快不快)原則、又欲動の充足を延期する能力の現実原則を定 め、快楽原則から現実原則への変化は、欲動の昇華とした。 涅槃原則は「死の欲動の発現」と捉えた。 虚無主義(ニヒリズム)に陥る。 米の人間性心理学者マズロー は「自己実現理論」(「人間は自己実 現に向かって絶えず成長する。」)の仮説を立てた。 ピラミッド状の階層を為し、人間の欲求を底辺から、 生理的欲求→安全の欲求→社会的欲求→承認(尊重)欲求→自己 実現の欲求(→自己超越の欲求(五十年程前の晩年に、「永遠の哲 学」のトランスパーソナル心理学はフロイト等が其の土台と為る))と 定義し、トランスパーソナル心理学会を設立した。 米のトランスパーソナル心理学者、ケン・ウィルバー(1949~)は 心理学の範疇を超えた、アメリカを代表する哲学者でもある。 「フロイトと仏陀を結合させた。」 自己(世界)を生か せるは自己だけ 余時間百%生かす 大の柔軟、 TVと小の厳密 《 「覚天」前後の変化 》 小生「覚天」して一年五ヶ月に為るが、其の前後で、小生の日常の変 化は先ず第一に、坐禅をしない。そして仰向けに為って睡眠を取る。 次は、ホームページ公開に専念した事。 そして、厳密二十四時間が、托鉢(十一時)と就寝(十一時)と夕食後 片付け(八時半)は殊更に注意した規則正しい生活に為った事である。 そして最後に、小生が有機的構成態と称したものであるが、坐禅行し なく為って、やがて大脳新皮質三昧に為って、淫快を生じた事である。 是は生涯後厳密千日涅槃行の結果止むを得ぬものと判断したのであ るが、又敢えて避けもしたが、如何しても止むを得ぬ。 それで、全く構わない事にしたのである。 然(さ)も無くんば、人類は人間破壊に陥るであろう。 人類存続に不可欠為るものが、大脳新皮質で消滅するものでは無い のである。 斯く為る次第で、性に関するものは小生位に為ると、自由自在ではあ るが、宇宙の真理に基づけば、後は構わ(=拘(こだわ)ら)なければ 宜しいのである。 《 デニ・ムクウェゲ氏 》 国連と云う原爆支配体制組織であっても、コンゴ等の世界に蔓延する レイプ(強姦)等の性暴力に対する世界的法規制の強化を真っ先に、 世界が一丸と為って図るべきである。 是こそ指導者達の使命である。 G7の日本が世界を主導する国家として、発案しないのは不合理であ る。 産婦人科医デニ・ムクウェゲ氏の功績に報いるべく、人類の恥を次世 代に負わすべきでない。 為し得る最善を尽くさねば為らないのである。 即刻、新世紀の今、世界規模で一気に対応しなければ為らない。 人間性を破壊しかねない、悪意による日常茶飯事的、暴力的人災の 最足る、放置され得べからざる、解決されなければ為らない重大課題 である。 日本国内の女性差別問題に敏感である今、世界規模である女性への 暴力に対して発言しない事は無いのである。 世界の政治家の三毒と差別に対する自覚に基づく連携強化を図り、 一気に対処すべく、世界を主導しなければ為らない。 世界の知恵の最先端が、宇宙の遥か彼方にまで出かけて行って、 学問的探究の覇権に労する力が有れば、せめて地球上の人間破壊 に至る地獄を直視するだけの人間性を忘れず、世界中の「見捨てられ た弱き女性達を生(活)かす」のが世界の指導者達の真の使命なので はないのか? 非核が及ばないから、レイプも禁止出来ないではない。 レイプを禁止出来れば、非核も為るのである。 『為せば成る。為さねば成らぬ何事も。成らぬは人の為さぬなりけり。』 要は本気度である。 早い程、解決が早い。 「解脱」は地上を覆い 宇宙真理が世界を包む 令和三年 人類新世紀の黎明 「涅槃」為る 宇宙の調和と静謐への 世界人類の平和と繁栄の 構築と完遂一路 《 世界人類涅槃化の実態 》 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰し了(お)えた『最後身心』は、 如何為る人間も、宇宙の調和と静謐為ら使める。 是も、すべては坐禅による、「覚天」以前の、生涯後厳密千日涅槃行 為る極佛行の賜(たまもの)である。 小生鐵漢が『最後身心』として、初めて至り得た真理(=宇宙)は世界 を包摂する。 ニーチェが『超人』を打ち出した如き、 大脳新皮質による従来の文化的偉人達とは一線を画して、 正法苦行による宇宙の真理の体現に基づくものである。 「真理」は真理為るが故に、人間世界の万事に於いて、其の真道を打 ち出さねばらない。 従来、未だ「真理」に至り得ていなかったが故に、 令和の新時代は、人間世界の真道の黎明期である。 《 世界の真実 》 世界人類に核兵器が不可欠であると云う神話は、 バイデン氏が、人間を信じられない事によるものである。 しかし、世界人類が、人間を信じる方向性を開示しているではないか。 人間を信じる世界人類の中で、唯バイデン氏一人の人間への不信感 が人間を信じる(=受け入れる)、世界人類の平和を希求する真心を 殺しているのである。 此の不信感が、世界中の最後の一人に及ぶ迄の宇宙の真理を受け 入れられないで居る。 バイデン氏は語るだろう。 「人間の三毒(貪・瞋・癡)が消えないではないか。」と。 『最後身心』は告げる。 「三毒(貪・瞋・癡)を三善根(施・慈・慧)に転じた人間ばかりではない か。 如何(どう)して貴方は人間の三善根(施・慈・慧)を信じられないのか。 貴方は人間の三毒(貪・瞋・癡)を信じる。 宇宙は人類其の者なのである。 我々人類が成立して居るのは、我々人類が宇宙其の者であるからだ。 其処に不信感が入り込む余地は無い。 人類の進化は真実(理)なのである。 真理とは調和と静謐である。 調和と静謐には不信感の一欠(か)けらも在り得ない。 宇宙回帰は真実であり、 真実が宇宙回帰なのである。 恥ずべきは、人間が信じられない心其のものである。」と。 《 菩提心は三毒を超越している 》 菩提心は、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しによりて投影され た三毒(貪・瞋・癡)の(発(菩提)心足る)影である。 影と、影を生んだ障害物とは別物である。 (「解脱」に至る)菩提心と三毒(貪・瞋・癡)とは別次元である。 正法苦行の坐睡が「解脱」への正道である事よりも明らかである。 「解脱人」でもなき一独裁者によりて、世界、七十七億の人間の命運を 意の儘に、左右するのは決して在るべからざる事である。 人間は「涅槃」為る「宇宙(生命)の本質」を信じて、斯(か)く在れば、 世界中の諸悪は、やがて自(おの)ずから消滅するのである。 是が涅槃に帰一する収束振動為る心の進化の真実である。 宇宙は進化し往く物でありな がら、其れに違背するのが 人類であり、最も困難な事が 心の進化である。 《 パワーバランス 》 米国と中国とは、相互に能力的に世界人類の代表者としての自覚 を持たねばならない。 此の新時代に於いても、未だ基本的なる此の自覚さえ不明確である。 国家間のパワーバランス(=勢力的均衡)目的でなく、(世界的)調和 に基づく静謐である。 パワーバランスとは「悪を犯さない」である。 消極的で受動的である。 能動的に、より積極的に「善を為す」べきである。 「善を為す」とは、「生(活)かし合う」 事である。 世界平和の為の調和である。 調和の為には、相互に「生(活)かし合う」精神が不可欠。 「生(活)きる」とは「生(活)かす」である。 「生(活)かせ」ば「生(活)き」る。 然(そ)う云う様に、宇宙は為っているのである。 「張り合う」のでない。「生(活)かし合う」のである。 基本的に、是を根本と為すべし。 国家間であろうが、個人間であろうが基本的には同様。 《 勝つと云う事 》 “勝つ”は負ける。 “勝つ”を究盡(ぐうじん)し尽くして、“勝つ”が無いのが勝つ。 飽く迄も、究盡し尽くした究竟である。 如何なる人間でも、其処(そこ)迄はしないであろう。 放棄するか、潰(つぶ)れるか、死ぬかである。 武蔵でも剣を捨て切れなかった。 絶対不滅為る“勝利”とは如何なるものか? 柔軟心にも至り得るべきである。 《 可能為る真理の概略 》 「坐禅(の功徳)入り」は物理学上の反世界の体現か。 「悟り(身心脱落)」は二元相対世界からの脱却。 「解脱」は欲求・情動(=脳幹、大脳辺縁系)からの解放。 「覚天」は「解脱」からの解放である。 是等の諸段階は、総て、現実世界の意識上の深化体験である。 二元相対世界の分別(=大脳(新)皮質)から解放され、 斯(か)くして「涅槃入り」し、二元相対世界の分別(=大脳(新)皮質) から解放され、最終的に、宇宙に回帰するのである。 超宇宙が、其れこそ宇宙の限界である。 此の限界為るものは実在しない。永遠為る宇宙である。 個人間、及び民族間、国家間レベルの相対的在り様での結論は、相 対的結論に過ぎない。 宇宙に回帰した自己と云う絶対的立場からの結論にして初めて、普遍 的為る真理足る。 自己とは宇宙の産物であるからだ。 真理と云う普遍性からの多様的対応でなければ、宇宙の調和と静謐を 具現する処の、世界人類の平和と繁栄足り得ないのである。 身は倦怠と放逸と堕落。 心は徹底と進化と涅槃。 地獄と涅槃(真理)は人間世界の進化に於ける両極であり、 既に、「解脱」にて、水と油であり、菩薩の行願、同事の実践である。 是、涅槃一路為る、「人を忘れない」、「人を捨てない」大乗禅の『最後 身心』に取捨無く、善悪無く、唯回帰した宇宙三昧である。 言語中枢機能三昧でもある。 《 人間の諸能力と本質 》 人間の本質に迫るには、宗教的、或いは学問的為る方法が在るが、 本質為るものは、学問的には体験し得ないものであり、 坐禅(行)によりて、自(みずか)ら体現する以外には無いのである。 道元禅師の『正法眼蔵(現成公案)』に、 『仏道を習うというは自己を習う也 自己を習うというは自己を忘るる也』とある如く、 其の本質に迫るには、「解脱」志向の段階で、自己の諸能力を放捨し、 正法苦行(初行(=三時間坐睡二十四時間仏作仏行))に専念しなけ れば為らないのである。 人間は発(菩提)心する段階で既に本質(=真理)を希求して居るので あり、斯(か)くの如く菩提心堅固な人は、迦葉が釈尊の発心を最も称 賛した様に、尊ぶべき人間である。 坐禅道に、人類から隔絶せる未踏の真理を、既に予兆し得て居る者で あるが故に。 人類の起源を科学的に現象的に探究する事も在るが、本質的に「涅槃 」為る「宇宙(生命)の本質」に回帰する事が正道なのである。 人心の果てを探し回り、人心の内奥には、過去からの人類史の記憶 の集積に繋縛(けばく)される。 只管(ひたすら)自心を依り処と為し、天命開悟すれば、其れが其の儘 世界人類を正道に導き、世界人類を真に生(活)かす事が出来るので ある。 知的好奇心を満たしても、其れが世界人類の平和に何等直結するも のでは無いのである。 其の様な事に手放しで大喜び出来る程、人間の心は未だ本質を弁( わきま)え得ては居ない。 脚下照顧、地上の世界人類の現実を直視しなければ為らない。 人間の生命、つまり「生(活)きる」と云う事、 如何に「生(活)き」るか? 又は 如何に「生(活)き」られるか? 又 如何に「生(活)き」ているか? である。 其れ等に不可欠なるものは、 生命と能力と本質である。 先ず、生きて居る事、そして真理足る本質である。 本質は現象(進化)し、諸能力として一定の進化を遂げる。 「宇宙(生命)の本質」は「涅槃」(為る宇宙)に帰一(回帰)すべく進化し て居るのであり、 要は、意識するしないに拘らず、回帰すべく進化しているのである。 詮ずる処、回帰する事なのである。 諸能力が回帰するとは? 諸能力によりて「人を生(活)かす」、「人を生(活)か使める」事である。 『最後身心』として回帰し了(お)えたら如何(どう)為るか? 後は、『最後身心』として、「人を生(活)かす」事である。 人間は世界人類と共に在るのである。 「人を生(活)かす」源足る太陽の如く。 人間で言えば、表現(教導)する事である。 人間の諸能力の究極は、其れ等の諸能力其のものを捨てて、「人を生 (活)かす」のである。 今はネットでホームページを公開する事。 ホームページ作りの内容は、「人を生(活)かすべく」である。 「人を生(活)かす」為に表現する日常生活である。 小生『最後身心』も「涅槃」への収束振動をしている。 つまり、「説く事」と「日常生活」とである。 「説きさえすれば善い」と云うのではない。 其処には、つまり「生きる事」には、自(お)ずから規則性、リズムと云う ものが具わって居る。 其れが調和と静謐である。 一人で勝手に生きているのではない。 他との相関関係裡に生きている。 他とは、宇宙の調和と静謐であり、人である。 宇宙の調和と静謐とは、規則性(均衡)である。 規則正しい生活。 規則正しく説くのが「涅槃」の在り様である。 其れへの収束振動。 何故に収束振動するのか? 規則性は自(おの)ずから、最も機能的在り様が現成(げんじょう)して 居るのである。 自然(じねん)為る規則性である。 其れと、「説く事柄」である。 其処に、収束振動する所以が在る。 「説くべき内容」についての判断。 既存の情報からの「生(活)きる」と「生(活)かす」に本質的に相応(ふさ わ)しい事、其の表現に、収束振動する所以が在るのである。 《 諸悪莫作と修善奉行 》 下根の諸悪莫作は禁じ難し。上根の修善奉行が最要也。 世の中は、下根の諸悪莫作を咎(とが)め労するよりも、上根の修善 奉行を共に「生(活)かし合う」べきである。 下根の修善奉行は為し難く、修善を生(活)かし、上下共に修善奉行 に益するが肝心也。 諸悪莫作以前に、皆一丸と為って、修最善為るが善し。 下根の諸悪莫作、修善奉行は直に為るべし。 然(さ)もなくんば、修善奉行も成らず。 上下共存するが、世の中の実態である。 悪を無くしても、善は興こらないのである。 『二兎追う者は一兎をも得ず』。 《 生存欲 》 欲(望、求)とは、人間、動物が、其れを満たす為に、何等かの行動、 手段を取りたいと思わせ、其れが満たされた時には脳内で「報酬系」 が活動し、快を感じる感覚。不快を感じさせない様にする。 フロイトは快感原則(=生(心)理学的な必要を満たそうとする事)に よりて、身から心への移行過程を科学した。 ユング以降は構造心理学での「報酬系」 へ移行した。 【生理的・本能的な欲求】(生命を維持し、子孫を残す短期的欲求) ・身体内部情報に基づいた欲求 睡眠欲、食欲、性欲、呼吸、飲水、排便、排尿、体温調整。 ・身体外部情報に基づいた欲求 逃避:不安や危機を感じた時逃げ出したいと云う欲求を生じる。 闘争:逆に戦う事で生存しようとする欲求。 「困難な状況に為ると、宗教的(祈り、念仏等)に、対象が ハッキリしていなくても、助けを求め、縋(すが)りたく為る 感情」を生存欲の一部として捉える。 【心理的(安全への)・社会的な欲求】(社会、文化的影響大の後天的) ・知識、名誉、地位 ・保身、防衛、支配、対立、攻撃、恭順、屈従、非難、拒絶、養護( 守り助ける)、求知、解明 《 現代世界の指導者足る資質 》 世界の指導者足る者は、人間の資質が問題である。 資質とは、人間としての全存在によりて、根源的に整えられた(=宇宙 に回帰し得た)大脳新皮質による分別、所謂(いわゆる)無分別の分 別と云う、明晰為る洗練された分別の事である。 是は物理的必然性によりて現成(げんじょう)してる、宇宙の調和と静 謐である。 《 慚恥(ざんち)の念 》 人間には、恥じると云う事が在る。 何に恥じるのか? 「宇宙(生命)の本質」に対して恥じるのである。 本質に帰一している自己に対して恥じるのである。 此の自己の使命が有りて、如何(どう)して恥じずに居れようか。 即断為り、生涯の方針は一道に定まる。 「涅槃」への収束振動は微細に至る迄、常に機能している。 《 過渡期 》 令和新世紀は、従来の、人類の諸能力(学問、宗教、芸術、スポーツ ………等)が限界点 を迎え、此の先にある世界、即ち其れ等の根底 を為す処の、深層心理学の対象と為る様なものではなく、其れ等を超 越した、唯一菩提心を残して、大脳新皮質が其れ自体を放捨する処の 禅の道へ移行する時期に入っているのである。 禅門で言われる『退歩の脚』、「退歩為る進化」の時代が到来したのだ 。トランプ現象は、正に其の顕現であった。 バイデン氏の核兵器禁止条約締結によりて、総ての難題のしこり が 解(ほど)け往く端緒(たんしょ)と為るであろう。 最大振幅からの、「涅槃」への収束振動段階に入ったのである。 小生の『最後身心』が、正に其の発端と為った。 《 志(こころざし) 》 人生との取り組みが純粋である程、人間は将来、大志を貫く事が出来 る。純粋であるから、世の中を客観的に把握出来るし、何の片寄りも 無く正道を打ち出せる。 是が指導者としての基本的なる資質である。 然るべき者の前途に在るものは真実である。 人間、真実(理)に至る唯一為る道が坐禅道である。 此の延長線上に在るものが、其の「功徳」と「悟り(身心脱落)」と「解脱 」、そして「涅槃」、真理なのである。 是以外に、人間の択(と)るべき正道は無い。 『最後身心』に基づいて正法苦行(初行)を実践すべきである。 然(さ)すれば、「解脱」に至り、世界の指導者としての資質が具わる。 是を土台として、世界を教導する志を持たねばならない。 世界の指導者が極悪道を貫けば、世界人類の心は末端に至る迄、其 の三毒(貪・瞋・癡)害に害されてしまうのである。 然(そ)うでなく、斯(か)くして、極善道を実践しなければ為らないので ある。 然(そ)うして、破壊された自然と人間の心、そして、其れ等の均衡を 再生しなければならない。 奴隷支配産業に基づく原爆支配志向に起因する対立と分断である。 《 分断の根本原因と最重大課題 》 世界中に波及する米国国民の分断は、米国国民の人格形成過程に 於ける分断であった。 奴隷化による富の蓄積は、自他の甚だしき分断であり、貪欲の魔界で ある。 そもそもトランプ氏を生んで、世界を破壊しておりながら、同胞意識も 責任感も罪の意識も恥も無いのである。 此の一体感の欠如は、米国国民一人一人の心の奥底に巣食う奴隷 化による富の蓄積と云う貪我 為る分別に起因する処のものである。 今時の「涅槃入り」へのスタートラインに立って、其の事が危惧される。 環境問題への取り組みも、今に至って初めて、癡愚者に堕す事を回避 した、受動的、消極的、「諸悪莫作」為る対応であった。 積極的、能動的生き方、「修善奉行」と云うものは、地上非核化(=核 兵器禁止)である。 小生の正法苦行(=初行)に相当するものが、バイデン氏の核兵器禁 止条約締結である。 是によりて、世界人類の平和の礎 が確立するのである。 世の中の、癡愚と云う慣性の法則には、宇宙の「涅槃」進化足る本質 上、地殻変動の地震の如き必然的為る、宇宙の質量に可換為るエネ ルギー由来の外力が必然的に機能するのである。 誰にも出来ない、遣(や)ろうとしない善行を施さねば為らないのである 。バイデン氏は其の力を具備しているか? 次期のハリス氏が、其の使命を継ぐ事に為るのか? 『最後身心』は程無く、現前しないのである。 「為せば成る。為さねば成らぬ何事も。成らぬは為さぬ心也けり」 正に、其の令和新時代である。 《 柔軟心 》 人間、柔軟心(にゅうなんしん)無くして世界平和には至り得ない。 要は、柔軟(にゅうなん)なる心である。 そして不可欠為るものが、徹底した受容力である。 そして其れ等を支えるのが、堅固なる菩提心である。 宇宙は、宇宙と云う事に於いて、有限であるが、菩提心と云うものは、 宇宙を宇宙と為す、測り知れない人類の心である。 宇宙を宇宙と為すのは、、唯菩提心在るのみ。 此の菩提心によりて「悟って(=身心脱落して)」、柔軟心足り得たので ある。 真の強さは、此の柔軟心である。 是によりて初めて、世界人類を教導出来るのである。 是無くんば、永遠に二元相対の、宇宙に迄及ぶ、覇権争奪戦に終わり が無く、地獄へ赴(おもむ)かざるを得ないのである。 常に原爆支配下の、取った、取られたの対立構造。 是等の末路は、指導者の資質無き者が世界をリードして来た事に起 因するものである。 偏(ひとえ)に正法苦行無かりし結末である。 真っ先に為さねばならないのが、核支配体制の本質的改革である。 然(そ)うして、世界人類の心に信頼感を生む事。 世界の指導者達の合意の下に、バイデン氏が率先垂範しなければな らないのである。 其処から、施策する。 次に環境改善、自然を再生する為の万策を講ずる。 斯(か)くして、自然と人類への三毒(貪・瞋・癡)害を改善しなければ為 らないのである。 菩提心は、真理への水先案内人である。 宇宙の真理足る調和と静謐は、人をして柔軟心を得せ使め、「涅槃入 り」せ使めて、世界人類を包摂するのである。 《 人情を捨てる 》 小生が 医学生時代、福岡での伴老師の開単攝心会に参加した当初、 独参の時に、老師がポツリと、「人情を捨てる」と言われた。 其の時、不思議にスーッと、肩の荷が下(お)りた気がしたのである。 其れが、潜在意識下で、自己の坐禅への道の本質なのであった。 人情(=情欲)為らぬ慈悲(=悟り)の世界である。 今から振り返るに、実に有り難い御言葉であった。 其の様な事は意識した事も無く、思い掛けなかったのだ。 しかし是は何事を為すにも、其の運命を大きく左右する基本的心構え である。 両者共に、人を思い遣る心であるが、人情は情欲に基づく相対的なも のである一方、慈悲は「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に基づくものであ る。 人情は我に基づき、慈悲は無我に基づく。 前者は西洋的特質であり、後者は東洋的特質である。 現コロナ禍に於いても其れ等の相違が顕著に露呈した。 ノーベル生理学・医学賞を受賞された山中教授が言及されたファクタ ーXは、我に基づく情欲でなく、他者を真に思い遣る無我為る慈悲心に 基づく、東洋、特に日本人の心情にほかならないと推察するのである。 因(ちな)みに、『正法眼蔵随聞記』(編者懷弉)に、 「学道の人は人情を捨つべき也。人情を捨つると云うは、仏法を順じ 行ずる也。」 とある。 是は、道元禅師の法嗣、孤雲懷弉(三十七歳)が、法嗣と為りて、両者 なお気鋭にして、油の乗り切った時期に師の教えを全身で受取った 四年間の、聞くに従いて記し留めたものである。 《 米国・中国 各々の自制 》 米国と中国の覇権争奪戦は、 米国は米国のみ、中国は中国のみの事しか無い。 アフリカの無政府状態。 黒人差別。 中国の台湾、香港、ウィグル、チベット等の基本的人権迫害。 タイのNLD政権に対する、国軍のクーデター等々。 地上の地獄に対して直視しない。 自国の平和と繁栄のみの、地上の平和を願わない。完遂して往かな い。 其れで、自国の在り様を果たして居ると言えるのか。 指導者としての責務を遂行していると言えるのか。 世界に平和を齎(もたら)そうとしているのか。 世界を見捨てる事は決して在っては為らない事である。 世界の地獄は、自己の心中の地獄である。 男が愚かなのは、女の所為(せい)であり、 女が愚かなのは、男の所為(せい)である。 国民が愚かなのは、指導者の所為(せい)であり、 指導者が愚かなのは、国民の所為(せい)である。 『最後身心』足る人材が不可欠である。 《 宇宙解釈から宇宙体現へ 》 無限為る時間、空間に於ける、運動する物質(マター)は、始めも終わ りも無く、全て永遠に併存する処の大前提である。 此の物質(マター)エネルギーが太陽と成り、動物為る生命を育(は ぐく)み、宇宙に於ける人間世界によりて「涅槃」回帰せ使め、涅槃妙 心智慧に基づきて、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に帰一すべく、世界 人類平和の構築と完遂に至ら使むるのである。 斯(か)様に、此の進化は、量から質への本質的移行性を具備する、 「涅槃」への永久機関足るのである。 然るに、生命誕生の科学的解明は未だ不明である。 我々は 思考の基準、つまり涅槃妙心智慧の母体為る「真理」を知らね ばならない。 「真理」が万事の判断の、唯一為る基準と為るのであるから。 故に『最後身心』以前に真理足るもの無し。 真理無き生命は迷妄である。 真理に基づき足る生命によりて初めて、涅槃妙心智慧に「生(活)かす (される)」涅槃世界が完成するのである。 真理無き愛国心は、三毒(貪・瞋・癡)に基づく覇権国家に陥らざるを 得ない。 真理に基づきて初めて、世界人類を平和へ教導する処の、涅槃世界 に基づく愛国心足るのである。 科学に欠けるものは真理である。 科学で得られた宇宙(生命)とは、単なる仮説としての組み立て設計図 に過ぎない。 科学を生(活)かすも、殺すも人間に基づく。 100%、物質(マター)から生命が誕生した。 故に進化は直観的にも分かるが、其れを科学するには、飽く迄も仮説 の域を出ないのである。 小生は是を、不毛なる極佛行に非ずして、邪道なる極科学と称するの である。 本質への志向性を忘却している。 「人を忘れている」。「人を捨てている」。 直観性である。 科学出来なければ真理には至り得ないのではない。 極科学するから、真理に辿(たど)り着けないだけである。 徹底分からないものは、直観的に大前提として受け容れ、 坐禅道へ赴(おもむ)くのである。 本物で在るならば、然(そ)うする筈であるが、人次第である。 人間は科学に翻弄(ほんろう)されては為らない。 科学するのは人間である。 人間の主体性在って初めて、科学を生(活)かす事が出来るのである。 「科学以前に人間在り」と云う事を忘れているのが人類の最悪の不幸 である。 科学以前に、本質の「悟り」への正道が在る。 「涅槃化エネルギー」足る宇宙エネルギーによりて、人類の三毒(貪・ 瞋・癡)に翻弄されないだけの菩提心を発(おこ)す道が、人類の進化 の正道である。 《 真の多様性 》 多様性とは言うけれども 自然の光の色彩は混ざる程に、透明に澄んで来るが、人工の絵の具 の色彩は混ざる程に、黒く濁って来る。 宇宙は無我為る、生(活)かすエネルギーであるが、人類は三毒(貪・ 瞋・癡)為る、我執のエネルギーである。 濁り往くか、澄み往くかの要は、夫々の根底が何か?である。 根底が、「人を生(活)かす」自己であるか、其れとも、「自己を生(活)か かす」人であるかである。 「人を生(活)かす」自己為る自己を生かす事も、自(おの)ずからにして 在り得る。 前者に基づく多様性にして、宇宙の調和と均衡と静謐を具現し、「涅槃 」為るのであるが、 後者に基づく多様性は、地獄で原爆体制の覇権闘争から抜け出せな い。 唯、未だ真理を知らざる癡愚なるが故である。 善く整えられし国家とは、善く整えられし自己に基づくのである。 未だ嘗て『最後身心』の為らざりしが故にして、不昧因果の結果也。 《 絶対的既得権 》 元来、人間は三毒(貪・瞋・癡)為る動物である。 是が、自他共に「涅槃」へ収束振動の進化を遂げ往くのである。 此の出発点が、小生が「涅槃入り」した一年五ヶ月前である。 個人レベルで、或いは地球規模で正負に振れ往くからこそ、人間は 一丸と為って、初めて向上する事を体験可能と為るのである。 三毒(貪・瞋・癡)為る人間世界に、「諸悪莫作」(=悪を為さない)を其 の信条と為しても、「修善奉行」の飛躍は生じ得ないのである。 其れでは、何時迄経っても、世界は改善され得ないのは当然である。 要するに、能動的、積極的に具体的に改善策を打ち出す以外、世界の 、温存と忖度と保身と云う慣性の法則は揺るがないのである。 世界人類が一丸と為りて、面による点の改革を遂行しなければ為らな い。 是こそ正に、紙面に拠らない、宇宙に拠った既得権の行使である。 元来、世法と云うものは、真理法に準ずべきものであって、当然地球 規模の普遍性を持たねばならないものである。 是に特殊性が有っては為らない。 時空に拘らず、世界人類が平等であるからだ。 然るに地上の現実は目を覆いたくなる程の悲惨な現状である。 真理に基づいた国際法の確立が世法の進化である。 既に、面為る量から点為る質への本質的進化を遂げた現在に於 いて、従来の国際法も本質的改善が為されなけれ為らないだろう。 宗教戦争や大航海時代の奴隷化による植民地支配に基づく、世界大 戦を通して、現代世界に、其の権利が享有される枠組みではあるが、 普遍的真理に基づいた、「世界人類が生(活)かし合う」国際法の確立 が、人類の菩提心の重大課題である。 バイデン氏と習氏の覇権争奪に帰するからである。 最早、今は正に、科学上のビッグバンの如き、質の新時代である。 《 米英の地獄 》 米英の地獄は世界の地獄である。 而(しか)も、其の第一主義と為れば、地獄の主、閻魔(えんま)に 他為らない。 何(いず)れにしても、第一主義は張り合いに他為らない。 善に基づく張り合いならば、激励にも為るが………。 自(みずか)ら、其の身を正さねば為らない。 自己の地獄は、世界の地獄なのである。 《 収束振動 》 振動は「涅槃」への、分別の迷いではなく、分別の機能による愚直為 る機械的反復である。 其処に、分別を超えた、真理為る「宇宙(生命)の本質」(涅槃)回帰と 云う奇跡が生じるのである。 《 日 程 》 3:00―――起床 2:00前後1時間 (ネット) (昼食) 5:30―――朝食準備 5:00―――帰宅 (ネット) (夕食準備) 8:30―――朝課 7:00―――晩課 (朝食) (夕食) 10:30―――托鉢準備 10:00―――片付け 11:00―――出 11:00―――就寝 (托鉢) 《 涅槃への収束振動の真実 》 人間と云う者は、「涅槃」『最後身心』の最大振幅からの、涅槃世界へ の収束振動をしてこそ、「涅槃」完遂し得るのである。 人類の進化とは、善と悪の収束振動によりて初めて、涅槃世界が完 成するのであって、此の愚直さが不可欠であり、 其れを可能為ら使める、真理を弁(わきま)えた度量が不可欠である。 斯く在れば、必ず、世界人類の「涅槃入り」為るのである。 《 急がば回れ 》 真理への最短路は、最も普遍的なる真実である。 是によりて、人類の諸道の真の在り様と云うものも、自(おの)ずから 明らかと為る。 個から全へ、特殊から普遍へ至る最善の正道の精髄が、唯一の正法 苦行の千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)である。 是によりて、釈尊と同じ位に至る事が出来るのである。 正道為らざる諸道に於いても、間違いの無い正しき道 を歩み得るの である。 正しき道 とは、如何(どう)云う事か? 是は、真理を具現する生き方の事である。 真理を具現するとは、極力、有らん限りの力を尽くして、宇宙エネルギ ーの代弁者と為りて生きる事である。 『最後身心』とは然(そ)う云う人間である。 其の本質は太陽と全く変わらない。 刹那に於いて、宇宙が開け、宇宙に回帰するのである。 人間と云う者は究極に於いて宇宙とピタリと一つに為る。 世界を制するのである。 全宇宙、全人類が、此の一刹那に懸かっている。 正に是が究竟涅槃 である。 是によりて、宇宙は分断せず、空前絶後にして、完結し了(お)得た のである。 子が親の理想を達成した様なものだ。 是が不昧因果為る真理(実)である。 《 分断と全一 》 如何為る超大国も、還元すれば、一人間である。 唯、ヒトラー独裁に陥らない事だけである。 ヒトラーは原爆を生み、覇権争奪を生み、分断に至るのである。 『最後身心』為る一人間が、其の儘全足り得ねばならない。 此の在り様を、「全一」と言う。 此の多様性に、分断等の、宇宙の調和と均衡と静謐に対する違背が 在っては為らないのである。 《 真 理(令和新世紀以降) 》 世界人類の物質的、精神的基本的条件の確保が、『最後身心』の「覚 天(涅槃入り)」した、世界人類が果たすべき使命である。 令和新世紀の真理は当基本的条件の拠り所である、涅槃化エネルギ ー為る宇宙物質(マター)エネルギーによりて体現した処の、永遠に不 滅為る恒常普遍の真理である。 《 身心脱落 (=悟り) 》 小生が坐禅を始めて、二、三年程経過して、 坐禅の功徳に浸っていた時、 刹那の、根底からの完全自己崩壊、グラグラーッと、そして記憶に残 った、宇宙の調和と均衡と静謐に対峙する、絶対孤独為る自己覚の 新鮮さである。 《 規則性 》 矢張り人間には、生きる為には、最終的に、其の規則性から出る事は 出来ないのである。 規則性と心と、何れに重点が在るかである。 目的に変わりは無いのであるが、重点が交互する。 心の為に規則が支えと為っている。 常に、此処に至る迄の真摯にして、愚直為る徹底した打ち込み有って 落ち着く。 エントロピー(乱雑さ)でない、真の多様性、 宇宙の調和と均衡と静謐も、其の完成品である。 調和については、釈尊の頃から、古代ギリシャに於いて、ピタゴラスに よりて音楽、哲学、数学に適用され、アリストテレス、プラトンに受け継 がれた。 近代科学(アインシュタイン等)の立脚点においても、調和概念に深く 関わっている。 漱石は『草枕』で、 「初めて我は画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保つ」と。 規則性、過失無き、善く整えられた心、恥じる心無くんば、世界平和は 不可能である。 一人残らず「人を生(活)かす」心が、世界人類の幸福と平和と繁栄を 構築、完遂せ使める。 《 正負の混迷・収束振動から0の涅槃へ 》 正は規則性、男性原理(漢民族等)。 負は心、女性原理(弱者、黒人等)であり、 0は涅槃である。 人類史は、 純朴な農耕集落から、人類三毒(貪・瞋・癡)による混迷・紛糾振動し 往き、其の悲劇は米国の、日本への二度に亘る原爆投下、そして世界 原爆支配体制の確立に極まったのである。 其の日本に於いて、釈尊の「悟り」は、正法苦行によりて「解脱」、「涅槃 」へと、「宇宙(生命)の本質」に回帰し、空前絶後に、世界に「涅槃」と 云う宇宙の真理を開示したのである。 世界の極大三毒世界は米中と云う対立構造を呈し、此の二元相対世 界からの、其れ迄に生じた世界的諸弊害を収束する涅槃世界の構築 、完遂への収束振動への一歩を歩み始めたのである。 然しながら、ミャンマーは未だ一国内に於ける分裂が顕著と為った。 アメリカ国民に露呈した分断は、ミャンマークーデターに及んだのであ る。 軍と市民を?(つな)ぐものは、「解脱」でなく、涅槃世界の宇宙真理で ある。 是を正すには世界人類を根本的に教導し得る宇宙真理でなければ、 原爆支配体制に於いては為し得ないのである。 其れを世界人類に開示するには地上非核化、つまり少なくも核兵器禁 止条約締結底の世界団結力無くしては為し得ない。 今や、世界人類は宇宙の真理を見極める時代に入ったのである。 地球上の難題は総て、涅槃世界への、人類が越えねば為らない不可 欠為る試練である。 《 生きる 》 人間、生きると云う事は、喰う事では無い。又能力でも無い。 当然、性愛でも無いし、金でも無い。人情でも無い訳だ。 自己の信念である。 自己の信じる道を歩む、此の心が菩提心 である。 是が往き着く処は、釈尊の坐禅である。 此の往き先は寺とは限らない。 往き先が、世の中に無かったから、 吾師は千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)を施された。 純粋な菩提心は千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)に往き着 くのである。 是さえ有れば、食う事は何とでも為る。否、何とでもする以外無いので あり、其の事が、生きると云う事である。 斯(か)くして、行を遣り遂げ、完了し、其の正念相続を十五年間程、 一時間の余所見(よそみ)も無く、坐禅する為に寺へ戻る迄為し、 寺へ戻る直前に、「解脱」したのである。 其れから、托鉢を覚え、後行(=生涯後厳密千日涅槃行)の十五年間 で、「涅槃」に至ったのである。 人類の究極の目的は、「覚天(=涅槃入り)」である。 「覚天(=涅槃入り)」する事が、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)回帰であ る。涅槃回帰が究極の目的であり、生命の真価であり、進化の究極の 目的であり、涅槃化する進化の永久機関の真意とする処である。 其処に至ると、万法に於いて解決して居り、世界人類を教導しなけれ ば為らない時である。 世界人類の三毒(貪・瞋・癡)を三善根(施・慈・慧)に導かねば為らな い時である。 貪でない、施。人類の我欲を捨て、「人を生(活)かす」。 人間には、先ず是が出来ない。 此れが、世界的、全般的分断であり、我々の日常茶飯である。 生(活)かし合うべく、妥協点を見出す。折り合いを付ける。 無駄な争いに走らない。平和裡に済ますには、可能な限りの折り合い を付けるければ為らないのである。 貪でなく施。瞋でなく慈。癡でなく慧。 是等の三毒(貪・瞋・癡)を智慧によりて三善根(施・慈・慧)に転じる処 が人間の価値である。 其処に、世界人類の平和が在り得る。 折り合いを付けられない頂点が米国と中国、米中である。 故に、核兵器禁止条約締結を世界に率先垂範する事が、世界の指導 者としての取るべき態度である。 此処(ここ)から始めるべきだ。 然(さ)もなくんば、常に世界戦争でなければ、其処への途上に過ぎな いのである。 《 宇宙の心 》 貴方は、抑(そもそも)宇宙の心を知っていますか? 人類は、正に是を知る為に生まれているのです。 是を知る事程の根本事は無い。 一切智の根源である。 人間に心が有るのに、母体為る宇宙に、其の源が無い筈が無いので ある。 我々人類は、宇宙の心に回帰すべく、進化しているのであり、常に其 の途上に在る。 唯独り『最後身心』のみが知る処である。 世界人類が、是を具現するのが因果の道理の究極である。 其れに違(たが)える者は、必ず其の悪業報を受け、恥じねば為らない のである。 「生(活)かし合う」のが「涅槃」為る宇宙の心である。 我々人類が宇宙の心に至るには、只管(ひたすら)坐禅(行)による 以外不可能である。 唯、坐禅(行)によりて、宇宙の心への扉が開かれ、其の功徳を戴き、 接近し、接触し、帰一し、其の涅槃回帰するのである。 一切他事無し。 超物理学的為る心の科学者でも、転生(生まれ変わり)説に止まる。 真理に至るには正法苦行(千日行)による体現以外には無い。 真理に往き着く事が如何に困難至極であるかは、『最後身心』に尽き るのである。 《 愛国心 》 小生、世界に唯一の、二度に亘る被爆国である日本に生まれて良か ったと真実思う。 因縁在りて、『最後身心』として、究極の真理に至り得たのである。 更に、日本には、斯(か)るが故に、殺人産業国家と為る危険性を回 避する自衛国家である事だ。 国家組織は一般的に、殺人業を営まざるを得ない運命にある。 勝者の論理の戦争産業の運命を免れ得ないのである。 故に人類は、例外を除いて、殺人業に基づかざるを得ないのであるが 、其の時代を経て、平和を構築、完遂する新時代を迎えたのである。 然(さ)もなくんば、人類に平和は在り得ない。 其れこそ、不可避なる殺人と云う原罪から根源的に免れ得ないのであ る。 此処に信頼感が育つ訳が無い。 更に愛国心は言う迄も無い。 三毒(貪・瞋・癡)世界の中で、最も願わしき時空に生まれ得た事を、 小生は、実に有り難く思うものである。 果てし無き、力と量の地獄に世界人類を誘導する、釈尊手掌上の二つ の悪しき悟空である。 令和新世紀は、従来の力と量による制圧、支配体制から、宇宙真理 に基づく、信頼団結世界への移行を果たし、世界人類が永遠の地獄 一路から不滅為る平和構築、完遂への一歩を踏み出さねば為らない と云う事は自明の理である。 軍事の為に国民を犠牲にする在り様と云うものは、我々日本人にとっ 言う迄も無く、世界人類の真情にとっても、願わしきものでない事は明 らかである。 時処位に基づく二元相対の判断によるものでなく、 是が、宇宙真理に基づく絶対判断に因るものでなければ、世界中の 国家が共有する愛国心に基づく訳には往かないのである。 然るに、世界の実状は、頂点列強が核支配体制の、信頼性の育たざ る状況下にある。 絶対にこそ信頼が生まれるのであり、相対世界には信頼性は育ち様 が無い。 本質的に生まれ変わらねば、心の進化は生じ得ない。 「諸悪莫作」の装いから、「修善奉行」への飛躍が出ない限り、温存と 忖度と保身に変わりは無い。 米国と中国は現日本に倣うべきである。 《 真理(実) 》 人類の心の進化には、真理が絶対不可欠。 修善奉行の至極は真理を信受し、具現する事である。 真理無くして、世界平和は絶対不可能。 其れは、泳ぎを知らない者が水中で生き延び得ないのと同様である。 真理在りて初めて、空往く鳥、海往く魚の如く迷う事無し。 釈尊は「我が心を依り処とせよ」と説かれた。 我が心は、宇宙の真理に帰一、回帰して初めて涅槃妙心足るのであ る。 涅槃妙心とは、「世界人類を生(活)かさんとする心」である。 宇宙の真理に違(たが)えば、必ず其の悪業報を受ける。 《 貪 性 》 宇宙には、雷を生む、電子、陽子の電荷由来の電界に付随する磁界( 場)と云うものが在る。 地球は、南北両極を両端とする一本の棒磁石と見做し得るそうだ。 何も無い処に磁性が働いている。 亀が海浜で孵化すると、直(ただ)ちに海の方に急ぎ、又渡り鳥の渡り も、此の磁性に基因する習性らしい。 物質には電荷に磁性が在る様に、 人類には欲求に貪性が本有し、其の弊、三毒(貪・瞋・癡)が習癖を形 成する。 貪性は悟(覚)らない限り、貪裡に死滅せざるを得ないのである。 悟(覚)れば、三善根(施・慈・慧)に転じ得る。 「解脱」すれば、貪性は消滅すると共に、其の悪癖も消滅する。 宇宙の本質は涅槃化エネルギーを包摂する永久機関足る涅槃為る永 遠に不滅為る恒常普遍の真理であり、人類三毒(貪・瞋・癡)は其(そ れ)への、刹那生滅の原理に基づく進化の途上に在るのである。 人類が三毒(貪・瞋・癡)世界に於いて、菩提(道)心を発(おこ)すか否 かが、地獄から涅槃への分岐点である。 人類には予定調和為る「覚天(涅槃入り)」から、其の完遂迄の心の進 化があるのであり、人類は此の修正(=進化)すべき未熟為る偽性( 仮性)より、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しが人類三毒(貪・瞋 ・癡)との化学変化で生起した菩提心によりて必然的に三善根(施・慈 ・慧)と転了され往く処の仮象(かしょう)に過ぎないが故に、心の進化 を遂げ、宇宙に回帰すべく、正道によりて涅槃回帰の予定調和に収束 するのである。 学問によりて、宇宙の根源に至る事は不可能であるが、 欲(求)に内在する貪性(三毒)が布施(三善根)に転ずるのは、自他 一如為る、二元相対世界を超越する絶対的体験、「悟り(身心脱落)」 によりて可能と為るものである。 人間と云う者は、欲に貪著せ使められる分別に、真理への志向性を説 く事で、其の貪性を教導し、世界を浄化し得るのである。 世界人類の物質的、精神的基本的条件確保が根本である。 其の為に、世界各国が連携して機能しなければ為らない。 其の基点として、特に米中露核兵器禁止条約を締結する事が必須で ある。 是が、指導者としての使命であり、英断の必然性である。 此の団結から、全ては始まる。 何と為れば、世界人類の平和を願わない人類は居ないのである。 其れが、「世界人類を生(活)かす」宇宙の心である。 《 性愛と云うもの 》 性欲は射精を目的とする。 是が「種の存続」だ。 「種の存続」の為の性欲である。 故に「種の存続」を目的としない、つまり射精を目的としない貪欲は 癡愚為るものである。 射精を目的としない性愛も、又癡愚である。 敗壊不安為る、儚(はかな)き身への執著であるが故に。 而も、目的の無い射精は実にだらしない。 癡愚としか言い様の無いものである。 世界には、物質的、精神的基本的条件すら与えられない悲惨、地獄が 満ち溢れているのだ。 淫快は、何等生むもの無く、「百害有って一利無し」、 人類の向上、進化に逆行するものである。 男子足る者は、斯(か)く為る腑甲斐(ふがい)無さからは、最早決別し なければ為らない。 自(おの)ずから、如何に為ければ為らぬかが自明である。 此処に、人間らしい弁(わきま)えが生まれる。 射精を消費、「種の存続」の為でない射精を浪費へ置き換えれば、他 の諸欲総てに於いて全く同様である。 此処に、自(おの)ずから少欲、知足が真実であると云う事が証明され たのである。 少欲、知足為るべしではなく、 涅槃世界の真実は少欲、知足為るものである、と。 少欲、知足でない者は、貪著の癡愚為る、地獄を志向する者なのであ る。 此処に資本主義体制に於ける金と力への偏重が誘因と為る格差、 及び中国国内の全面的格差の是正が不可欠と為る。 世界人類の幸福と平和と繁栄を願う者は、自(おの)ずから少欲、知足 足る人間であり、貪の三毒は、「人を生(活)かす」施の三善根に転じる のである。 涅槃世界は少欲、知足を、其の根本と為す処の真理の世界である。 軍事大国は貪の典型である。 何の為の軍事か?貪の為の軍事である。 軍事では無い自衛 が真理に基づく在り様である。 ローマ帝国※は滅亡したではないか。 何の為の軍事か? 其れは貪著為る人間世界に対立する為であるならば、此れは制圧、 支配体制を出る事は出来ない。 是が国連安全保障理事国家群の在り様である。 しかし、是は自国の貪著に基づく欺瞞(ぎまん)である。 真理に基づく、真実為る在り様と云うものは自衛 である。 宇宙の真理に回帰し得た者、『最後身心』が開示する涅槃世界。 『剣の達人は剣を捨てる』 是は今にして思えば、吾師、伴鐵牛老師の御言葉であった。 人間を切り殺すのを目的として生まれて来た人間は一人も居ない。 小生の坐禅も宇宙の真理に至る手段に過ぎない。 此の奇跡に至り得たらば、真の目的を果たさねば為らないのである。 『軍事の達人は軍事を捨てる』 そして自衛国家 足らねば為らない。 其の在り様の英断であり、団結でなければ世界平和には至り得ない のである。 信頼に基づく団結が貪著を制し、癡愚を排するのである。 是が人類の真価である。 此処に於いて、全世界諸国家規模の信頼が確立するのである。 然(さ)も無くんば、信頼性は成り立たない。 〔※―千二百年間程継続したローマ帝国の繁栄と栄華は、其の領土が 余りに広大で、統治する為に三百九十五年東西に二分した事で国力、 戦力が減って、西ローマが滅亡し、結果として別の道を辿り、イスラム 帝国による二百年間に亘る十字(架)軍の遠征により、千年余り継続 した東ローマ帝国も十五世紀半ば滅亡した。 「盛者必衰」の理(ことわり)通り、貪著必衰。 「聖戦」もキリスト教徒勢力の、イスラム教徒勢力への百年間に亘る侵 攻の間に生まれたものであり、貪著の種々の複雑な様相を呈した。〕 米国の黒人差別は、世界人類を 悪魔の眠りに陥(おと)し込み、狂わ す現代最悪の負の遺産である。 フィリピンのドゥテルテ氏に及ばな い。中国の習氏の肯(がえ)んじなさ に一理あり。 米国は世界の統率者の資質が欠落 して居る。 《 絶対真理(実) 》 如何なる外的条件にも左右されない、純粋に一個人の絶対的内的体 験であり、唯宇宙と自己と他己との関与に於いて体現し得た絶対体験 であり、如何なる者も大宇宙を変革し得ないのと同様、真理(実)であ るが故に、既に体現された真理(実)は、小生が死滅しようとも、如何 為る者も、如何とも為し得ない永遠に不滅為る恒常普遍の絶対真理 である。 是に違(たが)える者は、因果の道理によりて毫釐(ごうり)も違(たが) わざる悪業報を受けるのである。 原因が在るからこそ、其の結果が生まれる。 原因無き処に、結果は在り得ないのである。 善因善果、悪因悪果。 宇宙は嘘を付かない。 「人間を生(活)かす」のである。 世界人類を、平等に。 《 ビッグバン 》 現代のビッグバン為る学問上の仮説を掲(かか)げるのでなく、古代か ら今に至った唯一為る真理を説かねば為らない。 真理とは宇宙の調和と均衡と静謐を具現する涅槃世界である。 力と量の二元相対の現象世界より、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)化永 久機関足る、永遠に不滅為る恒常普遍の真理である。 力と量の現象為る相対世界の事では無い。 ブラックホールでない、「涅槃入り」である。 宇宙を表現する能力為る学問でなく、其れ以前の、宇宙によりて表現 される処の根源的体現である。 「金も命も要らぬ」底の教導を為さねば為らない真理(実)為るが故の ビッグバン為らぬ、『最後身心』の本音である。 《 不可逆為る一振れからの世界連合 》 無窮の「極佛行」有らばこそ、其の対極為る「人を生(活)かす」が生ま れ得た。 是が一定期間の行であれば、其処迄、生まれ得なかった。 其の様な、然るべき判断を下す事すらも無く、無益な機械的為るものに しか成り得なかったであろう。 徹し切ったからこそ、其処(そこ)に、恰(あたか)も、車道の進行方向に 進入禁止の標識を見て、進路回生せ使めるべく下車し、振り返って両 手を振って安全に無事故為ら使めたのである。 小生が、其の標識を初めて目にしたからこそ、涅槃真理への正道を得 たのである。 天災であろうが、人災であろうが自(みずか)ら体験する迄は適正なる 対応は為し難い。 我々人類は、自(みずか)ら其の真理を獲得する事は不可能である。 一切、自(みずか)らを運んで心の進化を遂げたのではなく、宇宙に よりて、自(みずか)らが運ばれて、三毒人類が涅槃世界の入口に至り 得たのである。 唯、天に覚(さと)ら使められて、「覚天」し得たのであり、 能力的にも自(みずか)ら体験して、涅槃収束振動し往く以外無い。 「行(自己)至上」でない、「人至上」だと、真逆の対極に迄、改め得たの である。 極行に徹したからこそ、極人に徹し得る。 振れ幅が大きい程、戻りも大きいのである。 是、不可逆の一振れである。 振れ幅が小さければ、戻りも小さい。 小生が生まれ変わったら、坐禅の二度手間は取らない。 世界を変革する世界連合 を構築、完遂する。 宇宙の真理に基づく信頼に団結した世界連合 である。 世界連合憲章に則って世界人類の物質的、精神的基本的条件確保と 格差是正を完遂する。 絶対真理を弁(わきま)えた世界中の指導者達が交代して統率し、 世界中の三毒(貪・瞋・癡)を三善根(施・慈・慧)に転ぜ使める。 法律が心を生むのではない。 心が万(よろず)の法を生むのである。 今を措いて、其の時は無い。 米中の心を教導する日本である。 《 孤 独 》 人間の孤独感は概して、一般的な相対(現象)的孤独、実存(虚無的 本質)的孤独、そして宇宙(真理的本質)的孤独とに分類出来る。 実存(虚無的本質)的孤独は、 マックス・シュタイナー(1806~1856、独、哲学者、『唯一者』)は、 キルケゴール(『単独者』)と同時代で実存哲学の先駆けと為り、 「孤独は知恵の最善の乳母(めのと)である。」 「私の事柄を、無の上に、私は据えた。」と、 自我を思想の根底に置いて、創造的虚無 を説いた。 エンゲルス、マルクスやニーチェの超人概念に影響を与えた。 ニーチェは狂人と為り、シュタイナーは餓死したらしい。 真の孤独とは、宇宙(真理的本質)的孤独である。 是は、真に安楽で、調和と均衡と静謐の清浄為る宇宙に受けた生の、 喜々とした、真の生命の歓喜(よろこび)である。 是が「悟り(身心脱落)」による真の孤独と云うものであり、二元相対世 界の孤独、隔離、疎外、孤立等の寂しさでなく、其れ等の対極に在る、 悟った絶対孤独、生涯二度と忘れない純粋な孤独の楽しさである。 生命とは、元来、然(そ)う云うものである。 仏道の各論は、涅槃為る宇宙の調和と均衡と静謐を具現する諸道の 頂点足るのである。 坐禅の安楽は、涅槃為る宇宙の調和と均衡と静謐に心の進化を遂げ る。 宇宙とは完璧な孤独だ。 《 真理(調和)の体現 》 調和は、BC2500年頃からの瞑想の体験に端を発する。 涅槃為る宇宙の調和と均衡と静謐に於ける、調和体験が、坐禅の功 徳以前の、真理への初めての体験である。 瞑想に始まり、坐禅の功徳、「悟り(身心脱落)」、そして「解脱」、「覚天 (涅槃入り)」と涅槃為る宇宙の調和と均衡と静謐に、心の進化を遂げ、 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)へ回帰するのである。 調和の対極に在るのが、人類の三毒(貪・瞋・癡)の根源、生理(本能) 的欲求である性欲(情動)等の五欲、及び支配、攻撃等の社会的欲求 への貪著に起因する闘争、混沌である。 フロイトやユングの方向性は適確であったが、人間の潜在意識の集合 体、無意識等を撥無(はつむ;払い除ける)して「悟れば」、刹那に言語 道断である。 調和(と均衡)は、自(おの)ずから静謐を生む。 覇権争いは混沌の代名詞であり、 信頼は調和の代名詞である。 ミャンマーの恥は 世界人類の恥だ 《 究 竟 》 無神論者や虚無主義者等と云った分別や自我意識でなくして、人類 の生命を超越した、究極の価値、東洋流に云うと極佛行(自力)、西洋 流に云うと神信仰(他力)、是等を完璧に否定し得る者でなければ、 世界人類を教導する事は出来ない。 人間は宇宙エネルギーで宇宙行を行ずるのが生きると云う事であり、 是をして仏道と称するものである。 釈尊迄の過去七佛の通戒偈、 諸悪莫作 修善奉行 自浄其意 是諸仏教 人間と云う者は、殺されても真理を求め、生きるものだ。 況(いわん)や、殺す事在らん哉。 ミャンマーの軍部の、僧侶等、市民に対する、日々の蛮行はヒトラー独 裁に類するものである。 今や、世界中に、ありとあらゆる人種差別が横行している。 是等は、世界の指導者足る者達の間の真理への信頼に基づく団結力 の無さに因るものである。 《 宇宙真理を具現せ使める指導者 》 小生、托鉢と「人を生(活)かす」(ホームページ)の七十一歳である。 金の為に遣っている時が、人間一番楽なのである。 生きる糧を得ている、不可欠為る必要最小限の事を為しているのであ るから、心は疲れないで済むし、唯其れだけに専念して居りさえすれ ば宜しいのであるから、心煩わす必要も無いし、結局、体力的には、 仮令(たとえ)苦ではあっても、一番楽なのである。 一番労するのは、「人を生(活)かす」事である。 人間と云う者は、出来れば前者に落ち着くのが一番ホッとする。 後者は金にも為らないし、純粋に人の為に吾身を削る事に他ならない からである。何処(どこ)迄も…………。 故に、此の労苦が生(活)きると云う 事である。 心が真に生(活)きている。金に眠っていない。 何処迄も創造的に、自己と云う可能性の世界であるからだ。 真に「人を生(活)かし」得る可能性である。 相対的為らざる絶対、真実の世界である。 身を削って、人を生(活)かさんとする心である。 何処迄削れるのかが、常に付き纏(まと)う。 其のギリギリを常に思う。身を削る創造性である。 小生は、托鉢と托鉢以外と明確に、其処が分離している。 蟻と太陽、束縛と解放であるが、其の心は双方とも完全に解放されて いる。 故に、実に稀なケースであるのだ。 是も生涯ものであって、保身と直結するものであるが故に猶更である。 少しでも楽に在りたいと思うものであるが、教導と云う創造性の誘惑が 強い。是、菩提心に他ならない。 下化衆生とは、斯(こ)う云うものか。 其れに、真理を如何に伝えるか、と云う事である。 此の可能性、真理の橋渡し役としての可能性である。 為し得る限りの可能性。 是が、世界人類の平和の可能性でもある。 故に、『最後身心』として自(おの)ずから真剣に為らざるを得ない。 真剣さの必然性だ。 自己を運ぶ事でなく、世界人類を運ぶ事であるからだ。 其の為に、常に在るのだ。 然(さ)て、如何(どう)しよう? 人間の心と云うものは、コロコロと玉の如く転がるもので、決して一定 していない。 菩提心が宇宙を貫いているからである。 是が、宇宙の進化の原動力為る、涅槃化エネルギー(=物質(マター )エネルギー)であろう。 菩提心によりて、世界人類の可能性を何処迄も追求し、世界人類を教 導する。 是が創造性である。 常に宇宙エネルギーと一(いつ)なのである。 其の中の托鉢。 又、托鉢であるからこその創造エネルギーでもあるのだ。 相乗効果である。 ギリギリであるからこその相乗効果である。 物と心との相乗効果。 世界の現実と宇宙の真理との相乗効果である。 是、宇宙エネルギーの実態だ。 『最後身心』為るが故に、総てを吐き出さずには居れないのである。 只管(ひたすら)、宇宙の真理を具現出来る指導者が待たれるの である。 世界各国の指導者達は、能力追求の方向性に止まって居るが、此の 幻想に招来される地獄から脱却すべく、我々人類が初めて至り得た 真理(実)への信頼と団結によりて、此の歩みを進めるのである。 小生を措いて、最早、宇宙は無い。 在るのは、宇宙無き地獄だ。 其処に、一体如何なる平和が在り得るのか。 在るのは、覇権争奪闘争と地獄往きだ。 此れが、人類の三毒(貪・瞋・癡)の帰する処である。 悟(覚)らない限り、人類の諸悪の根源為る三毒を超越した宇宙真理 足る真実の生命には至り得ないのである。 自覚した自己に基づかない限り、力と量の相対世界では、世界人類を 生(活)かし得る、信頼に基づく団結力は生まれ得ないのである。 此の遣る気、菩提心無き世界に平和は無い。 自(おの)ずから為る規則性とは? 此の志向する処、目的は? 規則性には、其の根拠が在るのである。 何に基づく規則性なのか? 是が明らかと為れば、行の必要性も無く為るのであり、 正に是を明らかに知る事が、仏道の目的に他ならない。 何を以って、人類を教導するのか? 只管(ひたすら)、真理である。 真理とは、「人を生(活)かす」。 宇宙エネルギーとは涅槃化(進化)エネルギーである。 前者は太陽の心であり、後者は「世界人類を生(活)かす」心、 涅槃妙心 である。 目的は、涅槃妙心智慧を生む事であり、其の為の規則性である。 釈尊の御遺教の八大人覚に於ける修智慧は行智慧であった。 小生鐵漢に至って、涅槃妙心智慧 に至り得たのである。 『法華経』に、 釈尊が何も説かずに、青蓮華の花をつまんで瞬きをされた(=拈華 瞬目)時、一人摩訶迦葉が其れを見てにっこりと微笑まれた(=破 願微笑)。 其の時、釈尊は、「吾に正法眼蔵涅槃妙心 あり。摩訶迦葉に附嘱 (ふしょく)す。」と摩訶迦葉(=初祖)に正法眼蔵涅槃妙心 を正伝 された。 とある。 《 宇宙真理(涅槃)規則性 》 3:00―――起床 2:00前後1時間 (ネット) (昼食) 5:30―――朝食準備 5:00―――帰宅 (ネット) (夕食準備) 8:30―――朝課 7:00―――晩課 (朝食) (夕食) 10:30―――托鉢準備 8:30―――片付け 11:00―――托鉢出発 11:00―――就寝 絶対規則性と 「世界人類を生(活)かす」 涅槃妙心は表裏一体。 菩提心は宇宙を貫徹する。 《 突然変異 》 人類に至る迄の生命の進化の原動力為る遺伝子の突然変異である が、是が無い人類三毒(貪・瞋・癡)には心の進化が断たれている。 動物本能が欲求と情動に、更に欲求と情動と分別に、更に此の段階で 分別から三毒、更に欲求と情動と分別と、そして「宇宙(生命)の本質」 (涅槃)からの促しとの化学反応による、三毒由来の菩提心が生起し、 「悟り」によりて心の進化を遂げ、宇宙に帰一せ使めんが為に、宇宙を 貫徹する菩提心によりて、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)回帰為ったの である。 故に、三毒為る人類に突然変異為らぬ心の異変、つまり「悟り」、「解脱 」、「覚天(涅槃入り)」在らばこそ、つまり三毒人類にも心の進化が可能 と為ったのである。 「悟り」、「解脱」、「覚天(涅槃入り)」は正に、心の慣性(=習癖)を撥無 (はつむ;払い除ける)する唯一の無上道である。 心の進化とは、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し(=涅槃化エ ネギー)に基づく、心の慣性の異変なのである。 心の進化に男女の別は無い。 従来の力と量の大小関係でなく、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)へ帰一 する問題である。 つまり心の進化度、本質回帰度の問題である。 是に基づいて上下が生ず。 つまり『最後身心』に基づく、世界人類の幸福と平和と繁栄の構築と完 遂の新時代に入るのである。 是は宇宙の必然性である。つまり宇宙は涅槃への、永遠に不滅為る 恒常普遍の永久機関なのである。 真理は『最後身心』から、世界人類の身心に、共観し足る身心を通し て浸透し往くのである。 七十七億の世界人類に、核兵器禁止条約締結の賛否を問うべし。 米英の核支配体制、黒人差別に因る分断、ミャンマーのクーデターに 因る分断等、力の原理で、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)には及び得な い。 現代の負の世界遺産は、今猶、現存する現実の最重大課題である。 《 核兵器禁止条約締結 》 人間世界と云うものは、エベレストの登頂に似ている。 最終段階の頂上直下の登頂が最も峻険である。 生命の存続に、総てが其の限界を超えるものであるからだ。 正に、此の最終段階為る核兵器禁止条約締結である。 頂点の米国に、其の菩提心が無ければ、以下言わずもがなである。 世界規模の恒常維持の安泰と温存と保身である。 然(しか)しながら、是は宇宙真理為る「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に 違(たが)う悪業である。 此の悪業報は必然不可避である。 一旦登頂すれば、後は下り坂。 世界平和への最終段階の入口に佇(たたず)み、退化然(さ)ながらの 現今である。 此処(ここ)が、正に、人類の真の正念場。 宇宙の真理に基づく信頼と団結によりて、一気に英断すべきである。 此処に、核武装国家の抑止と云う幻想為る安泰と温存と保身活動為 らぬ、人類の真価が顕現されるのである。 《 善悪の根拠 》 涅槃と規則性とは表裏一体である。 涅槃妙心は、善悪の判断及び世界人類の平和の真の拠り処であり、 人心の本源足る心である。 つまり宇宙の規則性が善悪の判断の指標足るのである。 宇宙の調和と均衡と静謐が、其れ等の完成品であり、 其処から森羅万象が生まれ、今の我々が存在するのである。 此の規則性は、小生が「覚天」する迄の厳密行の様な規則性ではなく 、つまり極佛行の規則性でない、「覚天(涅槃入り)」して「行」でない、 「人」だと体現せ使められた刹那以降の規則性なのである。 死んだ時計でない、生きた、「人を思う心」に基づく規則性なのである。 体現せ使められた事によって、刹那に、根源的為る「人を生(活)かす」 と云う、純粋為る涅槃化エネルギー其のものに生まれ変わったのであ る。 従(したが)って、不動の規則性ではあるが、其の根底に「人を忘れな い」、「人を思う」涅槃化エネルギー其のものに帰している。 真に生(活)きた心とは、生命の完成を期して、涅槃への収束振動を 志向し続けて居り、此れが善悪の判断の真の根拠足るのである。 つまり、善悪の判断の指標は、極佛行(人類の諸能力も含めて)由来 の規則性に派生する種々の相対的判断基準でなく、涅槃為る宇宙の 真理に由来する規則性、涅槃化エネルギーに基づく、涅槃へ収束振 動し往く規則性、是が真に「人を生(活)かす」、世界平和足ら使めるべ く機能する、厳密と柔軟が共存する、完璧為る宇宙の真理足る規則性 なのである。 小生『最後身心』から真為る絶対的善悪の判断基準が生み出される。 世界人類を教導するには、人類の三毒(貪・瞋・癡)を以って為す。 人類三毒は狂うが、是が地獄を生む。 宇宙真理は調和と均衡と静謐為るが、是が涅槃である。 涅槃回帰の『最後身心』、鐵漢を興(おこ)さずんば、地獄が涅槃に 帰一する事能(あた)わず。 人類は世界平和を思って初めて、自(みずか)らの三毒を三善根為ら 使め得るのである。 世界平和を真に願わざる人間は、自(みずか)らの三毒に狂う人間で ある。 《 生きる事は苦である 》 釈尊は悟られ、亡くなられる時に、 「生老病死は常に来たりて衆生を切る」と諭(さと)された。 生苦、老苦、病苦、死苦は四苦(人間の持つ四つの根元的苦)である。 (此の苦とは「逼迫(ひっぱく;追い詰められて余裕が無く為る)した 苦悩」の意。) 「元来、生きる事は苦である」と気付く事は、 苦を苦と思う事は当然であって、楽を苦悩して居るのではないと諦観 する事によって納得し、覚(さと)るのである。 諦観とは、真理に至り得れば、其れが真為るを知る処のものである。 自己の至り無さが、本来楽なるものを苦にして居るのでは無いと諦観 する事は非常に有意義であり、然(そ)う思うだけでも安心する部分が ある。 苦悩して居る事を苦悩する苦も在る。 一切皆苦の理が諦観出来れば、と云うよりも、 そもそも、根本的に「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し により て、古代人が瞑想を始めた様に、自(みずか)ら、何らかの行動を起こ す、或いは発心するのである。 生命の真実なる喜楽は、燥(はしゃ)ぐ様なものでなく、其の様な喜楽 は一時的興奮に過ぎないのである。 真実の楽は淡々とした、静謐甚深微妙為る安楽である。 然(しか)しながら、刹那の「悟り(身心脱落)」、「解脱」、「覚天」体験は 別である。 刹那為る「覚天」体現が即、(極佛行と云う究極の)分別の根(=残りか す)を滅尽(めつじん)する事なのである。 斯(か)くして、四苦、貪著や二元相対為る分別の根等を滅尽すれば、 宇宙真理為る涅槃世界に躍り出る事が出来るのである。 宇宙の調和と均衡と静謐を現実世界に実現する涅槃化なのである。 生きる事が苦ならば、何故に生まれ出づる意味が在るのか?と。 我々が受けた生が大前提であり、我々の分別の及ばざるものである。 自己の生命も、他己の生命も同一なる生命である。 悟(覚)り無き三毒(貪・瞋・癡)為る存在に、喜楽が有る筈が無いので ある。仮令(たとえ)有ったとしても、一時的な興奮に過ぎない。 奇跡が起きたとしても、世界中が喜楽と成る事は無いのである。 喜楽でなく、安楽なのである。 四苦からの滅苦の、覚(さと)りの弁(わきま)えが不可欠である。 生苦からの、攻撃、闘争、支配等の心理・社会的欲求は本質を弁(わ きま)えざる人間である。 敏感な者程苦悩する。 其処に未熟が重なれば、看過すべからざる問題と為る。 世界には、斯様(かよう)に、根本的に悪因に溢れているのである。 善因楽果、悪因苦果である。 大人は、未熟者を本質的に導く 事が出来ねばならない。 世界の霊峰足る日本に於いてさえも、其の事が、世界中のコロナ禍の 最終段階に於いて露顕される現今である。 物事は究めれば、其れ等の諸現象に内在する本質に関わらざるを 得ないのである。 本質的見極めの粘り強い労苦が、世界平和への命運を左右する。 自(みずか)ら、二元相対の迷路で、苦患(くげん)境をさ迷うべきでは ない。 一切皆苦、つまり日常的身(心)苦と壊(楽)苦と無常苦であるが、 智慧を以って、是等を観る時、苦を離れ、清浄への道に入る事が出来 るのである。 《 「人を捨てる」と云う事 》 「衆生を忘れる」、「衆生を捨てる」人間は、真実の自己を忘れ、捨てる 人間である。 是が真である証(あか)しは、 本来、世界人類の全生命は皆同等にして、自他一如為る生命であり、 「宇宙(生命)の本質」が現象し、多様化して『最後身心』足るピラミッド 頂点に究竟進化し、其の根底から頂点迄分離出来ない全一為る生命 の有機的構成態であるからである。 是は、唯一『最後身心』のみが至り得る宇宙の真理である。 因果の道理の根拠である。 百余分割しても、総て完全再生する、原始的為る、扁形動物プラナリ アの神経系に於いても 既に、脳形成の遺伝子プログラムより、人類の 脳神経系との遺伝子の相同性がある事が確認されている。 動物の神経系から人類の大脳新皮質に至る迄の進化の過程は、受精 卵の幹細胞が最初に神経細胞に分化する処から始まり、一番最後迄 成熟を続ける。 鳥類、哺乳類で出現した大脳新皮質は進化して、人類の特質為る大 脳新皮質は大脳の90%以上をも占め、言語中枢や分別の叡智を司( つかさど)る迄に進化した。 是は人類が両手でものを生み出していった事に基づき、其の為に最も 機能的為る直立二足歩行、そして直立安座、瞑想、悟りへと心の進化 を遂げたのである。 人類の大脳は体躯(く)に支えられた、身の進化の究極の、頭の一部 分に限局して居るに過ぎないが、是は地球の太陽系に対する如きもの で、人間世界の地球に対する、又大脳の体躯に対する関係に等しい。 是が体躯の上に安定した大脳でなければ、「悟り(身心脱落)」、「解脱」 、「覚天(涅槃入り)」等、是等総ては生じ得なかったのである。 総ては直立不動、禅定裡の事である。 斯(か)く為る諸体現、大脳機能による覚知は、禅定に基づいて心に 涵養された宇宙の涅槃化エネルギーの刹那為る発(はつ)露である。 恰(あたか)も、地殻内の不調和と不均衡と軋轢(あつれき)が復元さ れて、宇宙の調和と均衡と静謐に回帰したかの如く。 地殻のエネルギーの軋(きし)みが宇宙の本質に回帰する現象が地震 であり、其れ等の狭間にある、我々人類の心の貪著や迷妄が涅槃為 る宇宙に回帰するのが諸々の段階的諸体現である。 斯(か)く足る、大脳の本来の機能が発揮される為には、心の本源に 立ち戻らねば為らないのである。 覇権争奪に打ち興じている様では問題は永遠に解決しない。 人間らしさが、直立二足歩行に随伴する大脳新皮質の神経細胞(ニュ ーロン)の数(二千億個)と接合部位(シナプス)(数百兆個)の量的、質 的向上により、複雑、精緻な統合体の美しいネットワークを形成する事 に基因している事からも其の事は明白なのである。 其処を無視した、単なる大脳新皮質独自の暴走に帰結した、中国漢 民族による暴走(ミャンマー軍部の暴走と同質)と、格差である。 故に、如何に東洋の叡智が真に優れ足る根本であるかは言う迄も無 いのである。 学問や主義は真の本質から遊離したものに過ぎない。 人類は今からでも、坐禅によりて、従来の世界の立て直しを図らねば ならない。 誤った 大脳新皮質の使い方をして、得た結果が、今の米中の終わり の無い覇権争奪闘争である。 トップ為らばこそ、坐禅を行じて、世界を正しく導かねば為らない。 此の世に、坐禅を行じない、真の人物等は居る訳が無いのである。 「天性の人物だ」等と他を評する禅の大家も居るが、 坐禅を行じないで、其の様な人物が育つ訳が無いのである。 悟らないで、人間が真理(実)に至る事は不可能である。 真理(実)を知らざる人物が、人類を教導し得ないのは、是迄の歴史を 観れば明白である。 坐禅は自滅では無い。 宇宙に回帰する心の進化は、坐禅(行)によるものであり、 涅槃為る宇宙の真理に基づく信頼と団結によりて、世界平和の構築と 完遂を果たさねばならない。 「世界人類を生(活)かす」世界の二大頂点であるが、 如何(どう)して「世界人類を生(活)か」さないのか? 大脳新皮質の使い方が、地に足が着いていないからである。 大地に直立する事のみが、人類の人類足る証(あか)しである。 是を純粋に具現するのが坐禅であり、坐禅が人類生命の精髄である。 是によりて、人間は「涅槃」為る宇宙に回帰出来るのである。 《 刹那生滅 》 生命は刹那を存在し、存在を刹那する。 刹那、刹那来たりて、二度と戻らない。 個性無き、常に新たなる、清浄なる生命。 来る刹那、刹那は身を纏(まと)い、普遍なる真理である。 二度と戻らぬ刹那を生(活)かさねばならない。 最も貴重為るものである。 刹那を生(活)かす事こそ、 自己を生(活)かす事であり、 人を生(活)かす事である。 《 千日行 》 社会通念に基づく日常性と正法苦行為る千日初行の本質的相違点 について考察すると、 前者は、上下、左右、前後、内外、そして優劣等に対する強弱、大小、 高低等の知情意の選択的二元相対世界であり、 後者は其れ等を超越した純粋為る菩提心の、恰(あたか)も宇宙空間 を孤独に只管(ひたすら)直進する様な世界である。 一般人は此処で其の心情の拠る術を失い、只管(ひたすら)、強く、大 きく、多く、優れ足るを貪著する。 何れにしても、諸悪の根源為る三毒(貪・瞋・癡)を本有する人類為る が故に、発菩提心しない限り、地獄の閉塞世界に陥らざるを得ないの である。 其れ程、身に支配された心の人類なのである。 然るに、千日行は心に支配された身の人間である。 此の身と心の逆転が、自 から他 への転換の前提条件と為る。 世界の現状を顧みるに、如何に人類が是迄、吾身(=三毒)に甘えて 来たかを顧慮すれば、其れは余りにも顕著に、其の時処位に拘らず、 人類の癡愚を露呈しているのである。 延長線上に力と量の究極の覇権争奪世界が展開するのである。 究極の真理に至るには、生涯自活後厳密千日涅槃行(=後行)(三時 間坐睡二十四時間仏作仏行)でなければ不可能である。 小生、早朝から夕方迄の福岡県内の半年一巡の托鉢では、列車中の 開眼坐禅で、二度、つんのめる様に座席から転げ落ちた。 釈尊が死に至る断食苦行で中道を得たからこそ、以後悟られ、 小生鐵漢が釈尊中道に基づいて、生まれ変わる正法苦行を完遂(= 涅槃回帰)し、真中道為る心の進化を遂げ得たのである。 人間は名誉や勝利や貪著の為には、一時的にも専念し得るのである。 一体誰か、『最後身心』足り得る者が居るのか? 「発菩提心すべし。然らば与えられん。」。 勝敗を超越して、諦観為らぬ、永遠に不滅為る恒常普遍の絶対的能 動・積極的安心(あんじん)に至り得ていないと、涅槃回帰した『最後身 心』とは言えないのである。 世界人類には其れが出来ないので、米中の覇権争奪闘争に終止符が 打てない。 是が人類の限界に他ならない。 少なくとも一年半前迄は、小生も、涅槃為る宇宙真理には至り得てい なかったからである。 『最後身心』は空前絶後、真理を以って古希を迎えたとは奇跡の業報 であった。 世界平和の可能性は、『最後身心』志向する事である。 然(そ)うすれば、志(こころざし)常に高く、最も有効に心の進化を遂げ 、平和の光が射し始める。 米中の在り様が率先垂範して、諸悪莫作の受動的消極性で疲弊し往く のでなく、主体的に修善奉行の能動的積極性で地上非核化の勇断が 不可欠である。 『為せば成る。為さねば成らぬ何事も。成らぬは為さぬ心也けり。』 人間は、「勝ちたい」と云うものが残っている間は、未だ未熟である。 其の気が無く為る程成熟して初めて、世界平和への道を歩む事が出 来るのである。 唯一菩提心には、「勝ちだ!」は存在しない。安泰を求めない。 人間、菩提心程強いものは無い。 三毒(貪・瞋・癡)為る生命が必然的に地獄往きである事は不可避 である。 三毒で、地獄をさ迷う、癡愚為る頑迷固陋(がんめいころう)なのでは ない。 常に刹那、刹那の規則性と菩提心との商量である。 菩提心と規則性※とは相乗効果を生む。 < 宇宙真理(涅槃)規則性※ > 3:00―――起床 2:00前後1時間 (ネット) (昼食) 5:30―――朝食準備 5:00―――帰宅 (ネット) (夕食準備) 8:30―――朝課 7:00―――晩課 (朝食) (夕食) 10:30―――托鉢準備 8:30―――片付け 11:00―――托鉢出発 11:00―――就寝 西洋では、東洋の四苦の「生きる苦」は、実存から虚無主義、厭世主義 に陥り、東洋の苦行の道を辿らなかった。 此処が西洋人の限界であり、東洋人の叡智は、西洋では原爆投下為 ら使めたのである。 世界は米中露英仏の核兵器による安泰でなく、 真理の涅槃妙心に基づく世界人類の信頼と団結でなければ、 世界平和は在り得ない。 世界人類は安泰と保身と忖度の眠りでなく、 菩提心に基づく覚醒でなければ、 人類の三毒(貪・瞋・癡)は三善根(施・慈・慧)に転じ得ないのであ る。 《 現パンデミックとミャンマー軍部の暴走より 》 人間と云う者は、必ず宇宙の真理 に基づかなければ為らない。 是が世界平和を達成する超最短路である。 力と量の世界からの試行錯誤によって現代(=国連)が在るのである が、今や其の内実は殆ど機能していない。 此の試みは人類の諸悪の根源為る三毒(貪・瞋・癡)に基づきたるもの であるが故に、諸悪莫作の域を出ておらず、世界人類の平和にとって 不可欠為る修善奉行的側面が欠如、欠落しているのである。 是は、従来の力と量による施策では、如何に多く強くあろうとも、不可 能なのである。 其れでは、二元相対、敗壊不安の域を出ない。 真理に至るには、其れ等から脱却して、自己を忘れ、万法に証せられ るのでなければ、宇宙の真理(実)に至る事は出来ないのである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違(たが)える悪業は、其の悪業報を受 ける事必至、不可避である。 ミャンマー軍部の暴走は殺人兵器を持った暴走族が集団暴走し、市民 生活を脅(おびや)かしている様なものである。是を取り締まる世界警 察組織の構築が急務である。 其の為には、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に基づく信頼・団結が不可 欠なのである。 唯、無関心を装わざるを得ないでは、甚だ未熟としか言い様の無いも のである。 世界人類は、是を恥と受け留めねばならない。 人間として、是程の恥は無いのである。 二十一世紀最大の負の遺産であり、恥である。 無視する方も、される方も、世界人類に対する、ヒトラーやISを上回る 恥知らずである。 世界人類がミャンマー軍部に乗っ取られ、遣りたい放題に世界人類を 見縊(くび)る 。 是、世界人類の将来に深く係わらざるを得ない、不可避にして人類の 真価を問われる重大局面である。 現代に於ける、ミャンマー軍部は、正に人間性否定に対する、我々世 界人類への問い掛けに他ならない。 何故に彼らが人間性否定の権利を自在にし得るのか。 正にミャンマー軍部は人類の恥部であり、人類三毒の化(ば)け者であ る。 此処に於ける沈黙は、間接的殺人に他ならない。 中国は世界人類に対して、明確なる裁断を施すべきである。 原爆抑止は人類にとって、悪影響しか与え得ないものなのである。 人類の真価は一体何処に行ってしまったのか? 人類の三毒(貪・瞋・癡)は大航海時代の奴隷制度から人種差別(特 に黒人)、ヒトラー独裁、地上を分断する世界大戦、原爆投下、米国分 断、パンデミック、米中覇権争奪、ミャンマー分断と世界人類の精神世 界に一連の大きな風穴を開けた。 是は精神世界のみならず、地球環境に於いても根源的弊害為るオゾ ンホールが出来た。 地上十㎞のジェット気流迄の対流圏の上層、五十㎞迄の成層圏内の 、地上二十五㎞前後のオゾン層が地球を包む様に多くの紫外線を吸 収し、地上の生態系を保護して居るのであるが、南(北)極にオゾンホ ール(オゾン層の穴)が出来、温室効果ガス為る、冷媒、溶剤用のフロ ン、バロンがオゾン層を破壊し、ホールより入射した紫外線が、あらゆ る生物の遺伝子(DNA)に悪影響を惹起し、免疫機能低下、皮膚癌を 誘発する。 そして北(南)極、シベリア永久凍土等の氷を溶かし、有害な細菌、ウィ ルス等が放出される。 アルプスの 永久凍土では1000種類の微生物が確認されており、其 の実体は不明である。 オゾンホールについては、1983年以来、1987年モントリオール議定 書に報告されている。 総て是等は、人類の三毒(貪・瞋・癡)の暴走に他ならない。 戦勝国家群(国連安全保障理事国家群)による格差が拡大し往く、 暴走産業・経済、制圧と覇権による「儲かる」貪著でなく、信頼と団結に による「人を真に生(活)かす」涅槃妙心の生き方をして来なかった、 略奪文明の末路である。 悪に対してものが言えない。 正使める力を持たない。 信頼無く、団結無い、癡愚世界である。 報道は機械的で、「人を生(活)かす」力と為り得ていない。 国連は、原爆発明で、世界が有事の際には、是で制圧可能と云う事で 、成り立った国際組織である。 国連の中枢は原爆と大量破壊兵器である。 よって、此の発想から「オーム真理教団」が生まれた。 謂(い)わば、教団は国連の原爆(=大量破壊兵器)支配体制主導と 云う成立要件の、悪い部分に忠実であった組織であるし、其れ故に、 未だ継続して居るのである。 しかし、其れだけに諸悪莫作の受動消極的側面にしか機能していない のであり、世界規模の修善奉行の能動積極性と云う、最も重要不可欠 な機能を持つ組織でなければ、甚だ未熟な世界としか言い様の無い ものである。 涅槃と云う「宇宙(生命)の本質」に至り得た今時に於いては、如何に しても、此の機能を有する世界連合 の構築が不可欠な急務であると 確信する。 人類は今や、此の新時代に突入したのである。 今や、米中が率先垂範して、是迄の人心を入れ替えて、不完全な諸悪 莫作レベルの任意的国家集合組織でなく、完全な修善奉行レベルの 世界信頼団結組織を新たに構築しなければならない。 正に是が、小生の「覚天(涅槃入り)」による真に究竟涅槃した涅槃回 帰に基づいて、破壊された人間性と自然環境の可能な限りの改善を 図る事が、我々人類の最重大にして不可欠為る急務である。 《 本質と現象 》 本質は現象するが、現象は本質しない。 其れは、生命が誕生したら必ず死滅する様なものである。 然(しか)しながら、 唯一、現象が本質する方法が在る。 其れは、菩提(道)心を発(おこ)す事である。 発菩提(道)心によりてのみ可能である。 換言すれば、坐禅(行)によって、生命は本質(涅槃)化するのである。 人類の諸能力(為る現象)では不可能である。 一般的に、菩提心無き西洋に於いては現象すれど、本質(涅槃)化為 し得ない。 要するに、坐禅(行)さえ為せば、誰でも、何時でも、何処でも本質(涅 槃)化(=体現)するのである。 《 命が極めると云う事 》 正法苦行とは、菩提心により、自(みずか)らを忘れて真理に至る、 釈尊が進化した処の唯一の厳密行(=機械化)である。 一般的な、単為る機械化に非ずして、飽く迄も菩提心を基盤とするも のである。 是によりて初めて、死せずして、其の究極に於いて、真理に生(活)か され、「真の自己(世界)」に為れるのである。 人間の生命と云うものは、限り無き程に複雑である。 単純に規制(=機械化)すれば済む様なものであるが、其れでは人間 の心は死んでしまい、機械の如く、生き甲斐も、喜びも、希望も、生きる 意義すらも喪失してしまい、弱肉強食の動物界に異ならず、「世界人類 を生(活)かす」涅槃妙心智慧を生む「宇宙(生命)の本質」為る涅槃に 帰一し得ず、不完全極まりなき未熟国家と為らざるを得ないのである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違(たが)えるが故に、何れ心進化し足 る涅槃世界の信頼団結によりて制せられる事は必至である。 然(さ)れば如何(どう)する? 先ず、要は涅槃回帰した小生、『最後身心』を信じ、是に基づく事であ る。 是、菩提心に基づくものであるが故に、既に二元相対の地獄世界を脱 却し、そうして、単なる機械化に堕(だ)せず、人をして真に「人を生(活 )かす」生き方に教導するものである。 人類を統制するには 、其れが菩提心に基づくものであるか、或いは 二元相対世界の分別(主義、主張等の人類の諸能力)に基づくも のかが在る。 前者であれば、涅槃為る宇宙の真理に由来するものであり、永遠に「 世界人類を生(活)かす」のであるが、 後者は、人間が涅槃為る宇宙の真理、「宇宙(生命)の本質」に帰一せ んとする人間の心の主体性、つまり是が菩提心に他ならないが、此の 発菩提(道)心の萌芽を摘んでしまうのである。 仮令(たとえ)、其の場は制し得ても、是では、やがては其の将来は、 物質至上文明の地獄道を辿らざるを得ないのである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違(たが)えて、人類の生命が幸福、平 和には至り得ない事は、余りにも明白である。 「世界人類を生(活)かす」には限りが無く、菩提心に基づく機械化 も同様であり得る。 此の永遠為る真理足る涅槃妙心と、刹那に商量息衝く機械化との不 断の緊張感が生命を生(活)かす。 宇宙の調和と均衡と静謐為る、究極の、完成し足る緊張感に至るには 、限りが無いと云う事である。 何と為れば、『最後身心』を生んだのは、正に此の宇宙の涅槃化エネ ルギー以外の何者でも無いからである。 此の両極の一方を択(と)らずに、其れ等を収束振動させるのである。 是によりて、限り無き涅槃妙心の緊張感が培(つちか)われるのである 。斯(か)く在れば、表面的でない、真の人間へと教導し得る。 三毒(貪・瞋・癡)由来の虚構によりて、人類の自由を奪ってしまわない 。又、其れを看過しても為らないのである。 看過すれば、看過される者と本質的に変わらないからである。 菩提心有らば、此の限り無き収束振動によりて、必ず涅槃へ帰一する 事は必定である。 絶対に乱拡する事が無い。 時に従うて無窮為る、菩薩の行願の、同事の完成し足るものである。 急ぐ必要は無い。只管(ひたすら)、真摯(しんし)為る事である。 「失敗は成功の元」、復帰せんとする緊張感で人類を教導し得るので ある。 斯くして、究竟、涅槃回帰する必然性が、此処に在るのである。 此の為には、無駄な時間を作らず、生まない事である。(正念相続) 斯(か)るが故に、可能な限り、独り、静かが望ましい。〔楽寂静(釈尊『 八大人覚』)〕 如何なる境遇に在れども、是は努力次第で可能と為り得る。 斯(か)くして、「真に生(活)きた人間」と為り得るのである。 「真に生(活)きた人間」とは、「人を真に生(活)かせる人間」の事であ る。 人を生(活)かせない人間は、自(みずか)らも真に生(活)きる事は不 可能である。 癡愚為る人間が、癡愚為る人間を育てる様な事が在っては為らない。 ミャンマーは 中国が握っている 国益だ 未だ分断は 未解決である 《 大 穴 》 地上人類の心に開いた大穴と、上空成層圏オゾン層に開いた大穴、 総ては、人類三毒(貪・瞋・癡)の、ミャンマー軍暴走とオゾンホール為 る悪業報である。 自然破壊に対しては、採り得る対策は可能である。 問題は、地上完全孤立せんとするミャンマー軍である。 是に対する、採り得る対策が見出せない。 過去からの、世界に莫大な軍事費にも拘らず、地上の一点の癡愚者 達の盲走に対しては、如何とも為し得ない無力感である。 軍事は自衛があれば十分である。 禅門では必ず、『脚下照顧』と誡(いまし)めてある。 宇宙の彼方に行ってまで、科学的戦略を講じる以前に、「地に足を付け て足元を見よ」と云う事である。 此の一点に対する良薬は何であろう。 問題は、無防備なる民衆が無制限に殺害され往く事である。 ミャンマー軍の、ロヒンギャ難民虐殺の本質が無制限にミャンマー民 衆に向けられているのである。 若(も)し、是を看過すれば、大穴は拡大する一方である。 国益の為に、罪無き彼らの生命を犠牲にするべきではない。 指導者足る資格は如何にあらねばならないか? 人類(人間)の大穴は致命傷である。 人類(人間)は是程の三毒(貪・瞋・癡)による癡愚ではないのである。 本来、三善根(施・慈・慧)為る智慧によりて打開するのが宇宙の真理 である。 《 真理とは空前絶後為るもの 》 吾師伴鐵牛老師は鉄牛寺に、昇龍の如き御遺影と、「不昧因果」の掛 け軸を遺され、「眠るが如く」亡くなられたのである。 師の昇龍の気迫に比肩する者無し。 真理為るが故に、 不昧因果(=因果の道理)なのである。 不昧因果(=因果の道理)為るが故に、 真理なのである。 宇宙→瞑想→釈尊→道元禅師→鐵牛祖印→鐵漢→宇宙(回帰) と云う涅槃回帰の永久機関(=永劫回帰)と共に、五千年前以降の 心(=仏道)の進化を明確に証明したのである。 正に、今こそ地球規模の涅槃回帰の完遂だ! 仏道の伝教の実際は、時空を隔てても、不昧因果為るが故に、必ず 開花するのである。 心の進化とは、只管(ひたすら)菩提心に貫徹されるものである。 真理(体験)は、存在自体が時間的(=刹那)に、断絶されて初めて 顕現する(される)ものであるからである。 真理は奇跡としてしか、体験され得ないものである。 体験され得た事が、正に奇跡中の奇跡なのである。 故に『最後身心』である。 再現の必要性が無い。 人類が択(と)り得る、最後に遺された唯一の道である。 是が菩提心の必然性である。 人類は、此の真理を知る為に、どれだけの月日を費やして来たであろ う。 人類の意識(=自覚)は七百万年前の人類の誕生と同時に、大脳新 皮質による分別として生じたであろうが、いみじくも我々と同世代に至 って、大脳賦活系網様体為る脳幹網様体が脳幹を延髄から視床を介 して、大脳皮質迄上行し、意識レベルの制御、覚醒・睡眠の調節をして いる事が解った。 十七世紀には「良心」として、又デカルト(仏、近世哲学の祖)が、「我思 う、故に我在り」と意識を捉え、十九世紀半ば、哲学から心理学が生ま れ、無意識や潜在意識について言及された。 是等については、既に釈尊成道により仏道が生じ、唯識思想が生ま れた。 人間の心について、最も根源的なものは、人類が本有する諸悪の根 源為る三毒(貪・瞋・癡)ではなく、人類の心の進化の端緒と為った瞑 想を生ぜ使めた、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し である。 是は本人に明確には意識されないが、人生、生きる、生命、心(意識) 等の様々な根源的問い掛けを生ぜ使めるもので、発菩提(道)心の契 機を与えるものである。 人間の意識についても、東洋では心の分析が、そもそも仏教の空(性) (シューニャ、スンニャター;~を欠いている、又0(ゼロ)の名称)から、 釈尊の悟りに基づいて為された。 「一切法は因縁であり空しい。しかし比丘は空では無い。」 一世紀前半、最初の大乗仏教の経典「般若経」成立。 五世紀~七世紀に「般若心経」成立。 四世紀の大乗仏教の瑜伽行唯識学派から唯識思想が生まれた。 唯識は大乗仏教の空の思想に基づいている。 唯識の、三毒を根本とする煩悩の精緻な探究では、煩悩は自己を中 心に据えて志向した時に起きる数々の心の働きであり、他者や社会全 体を思考の中心に据えれば煩悩即菩提(=智、道、覚)である。 (無)意識についての解釈は、 六識 (意識 と前五識(眼・耳・鼻・舌・身の各識))と無意識 の、潜在 意識(未那(まな)識;熟睡中は意識は停止するが、未那(まな)識は 常に阿頼耶識に纏(まと)わり付いて悪を作り活動し自己に執著)と 阿頼耶識 (内蔵する種子から対象世界の諸現象を生じ、其れ等は又 、其の人の阿頼耶識に薫習(くんじゅう)与えて種子を形成し、刹那生 滅しつつ相続する)である。 フロイト(1856~1939)のリビドーは三毒の貪著から、 ユング(1875~1961)の集合的無意識は阿頼耶識から示唆を受け たものかと推測される。 三島由紀夫の最後作『豊饒の海』(四部作)は、唯識をモチーフの一つ に取り入れ、第四部最終回入稿日に三島事件で割腹自殺した。 それが彼のニルバーナ(涅槃)体現の実践であった様だ。 彼の目指したものは「覚天」の小説化に他ならない様な気がする。 彼は究極的に仏教の「涅槃」を、彼の手立て足る小説で実現しようとし た。謂わば極佛行を小説化したのである。 発想其のものが、元来、究竟し得ない事々に於いて、実現する事自体 、死を以って為すより、解決し得ない事なのである。 自衛隊の理想的在り様に思いを託して、世界を完結させ、彼の理想を 貫いたのである。 彼の試みは、自死以外には、坐禅行入りするしか残されていなかった のであり、其れ自体、彼にとっては死を意味するものである。 心の進化に唯識は全く不要であり、要するに坐禅する以上のものは無 いのである。 極論すれば、総ては、真理に至り得ないが故の方法論に過ぎない。 然るに、世界人類総てが新幹線では有り得ないのであり、 時間の問題である。 其処に仏道の存在価値が在り、「世界人類を生(活)かす」為の様々な 手立てが在り得るのである。 意識の定義は、ジョン・サール(1932~、米、哲学者)は、 「意識とは、私達が、夢を見ない眠りから覚めて、再び夢の無い眠りに 戻る迄の間、持っている心的な性質の事である。」 是が最も包括的、暫定的定義である。 シリアに三善根 (施・慈・慧)を ! 地上の最も地獄 《 涅槃呼吸 》 極言すれば、題目の「涅槃呼吸」為るものは、習得するには正法苦行 の初行と後行でなければ不可能である。 生涯後厳密千日涅槃行(=後行)を行じた者でなければ、絶対に涅槃 為る宇宙の真理には至り得ないと云う事である。 是には、初厳密千日解脱行(=初行)に基づいた呼吸法に則(のっと) って、托鉢自活による本格的生涯坐睡厳密行によりて初めて、如何為 る人類にも不可能為る、完成した身の進化を完全否定し、身を制し得 た心の進化に基づく涅槃呼吸システムが身に付くのである。 是は終生変わらない。 正に、真理とは死ぬ位の事では到底至り得ない。 故に真の正道とは、非常識的な、唯、菩提心によりて自(おの)ずから、 呼吸システムを三毒為る身から、菩提心為る心に基づか使む、正に 初行と後行の正法苦行によりて初めて可能為る真の正道である。 只管(しかん)、菩提心の為せる業(わざ)である。 鉄牛寺の伴鐵牛老師の昇龍の如き御遺影が、鉄牛寺の真髄を象徴し ている。 仮令(たとえ)世界人類が至り得なくても、涅槃為る宇宙の、永遠に不 滅為る恒常普遍の真理に変わり無い訳である。 是を軽んずるか、信奉するかは、其の人次第。 要するに、正道、正法、真理が在ると云う事。 諸道総て是に通ず。 《 踏み絵 》 世界で唯一の原爆被爆国家日本に於いて、捨て子として、寺に預けら れた吾師伴鐵牛老師が、思う処在りて、同じ境涯の、師として心酔して おられた著名な原田祖岳老師の下を去られ、在家で教化指導する道 を択(と)られた師の存在に、坐禅に唯一の生きる道を見出した鉄幹と 云う存在が出会った因縁で、其処に「悟り(身心脱落)」生まれ、正法苦 行為る千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)が生まれ、「解脱」、 「覚天(涅槃入り)」し、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰、涅槃為る 宇宙の、永遠に不滅為る恒常普遍の真理に至り得たのである。 斯(か)くして、此の『最後身心』が、此の因縁に縁りて不昧因果、核兵 器禁止条約締結に基づき、涅槃為る世界人類の幸福と平和と繁栄を 完遂せ使めるのである。 斯くして、世界人類は過去の極悪業(原爆投下、人種差別、ヒトラー独 裁等)に報い得るのである。 何の為の『最後身心』であるのか。 我々人類が辿った極悪業に報いんが為の『最後身心』なのである。 故に核兵器禁止条約締結を期し、世界人類、もっと言えば世界中の指 導者達の意識、否、厳密に言えば国連常任理事諸国家の指導者達の 意識の菩提心のレベルが如何程であるかの目安足るものが、核兵器 禁止条約締結なのである。 是によりて、世界人類の将来の見通しが明確と為る。 つまり、是程、世界平和の信憑(ぴょう)性に直結して居るものは無い のである。 言葉だけのものか、表面的なものか、或いは本物であり、今の世界の 指導者達が、自己の職業としてでなく、職業(任期)を超えた、一人間 として全生命を賭けた意識からのものとして、彼らが全身全霊で、将来 の世界人類の為に為さねばならない事、其れは自(おの)ずから、好( い)い加減な、其の場凌(しの)ぎの欺詐(ぎさ)と安泰と保身で、自己 をも含めて、総てを誤魔化して済ます事は出来ないのである。 真剣であれば必ず彼等の心の赴(おもむ)く処は、明らかに自(おの) ずから決定する筈である。 若し然(そ)うでないとしたら、其れは単なる強者の集団心理で好い加 減に済ましているに他ならない。 若しも自己に、世界を左右する全権が与えられたとしたら最善を尽くす 筈である。 中途半端に最重要事を済ます筈は無いのである。 要は世界の指導者間の信頼性の問題である。 此の信頼性が培(つちか)われているか、否かに尽きるのである。 其処で、小生『最後身心』の存在意義を顧みると、此処に至る迄の 信頼、此の永遠の信頼在ったればこその『最後身心』である事に疑い は全く無いのである。 此の信頼無き処に『最後身心』は完全に在り得ない。 其れ程、宇宙と云うものは好(い)い加減なものではないのである。 101%の1%の、刹那生滅の原理に基づく変異の自然淘汰によりて、 完全円満為る涅槃と云う宇宙の真理に収束振動(=進化)し往くので ある。 不昧因果、因果の道理が100%為るものでなければ、「覚天(涅槃入 り)」し『最後身心』足り得なかったのである。 此の100%の信頼性に基づく、世界人類の核兵器禁止条約締結と云 う、世界人類の指導者としての資質が問われているのである。 是は誤魔化す事が出来ない踏み絵である。 信頼団結の本質に基づく絶対為るものか、或いは力と量の脅威に基 づく相対的現象によるものか、二元相対世界の現実に於いては、信頼 関係も相対的為るものに過ぎない。 絶対信頼は相対世界に於いては不可能なのである。 絶対世界、つまり涅槃為る宇宙の真理に基づいて初めて、絶対信頼 が在り得る、可能と為るのである。 此処に於いて初めて、従来の常任理事諸国家支配の国連主導の力と 量の相対的支配から脱却して、信頼団結の世界連合 を構築しなけ れば為らない。 其の試金石としての、核兵器禁止条約締結である。 是、ミャンマーの軍独裁に象徴的為る弱肉強食志向から脱却し、本質 の信頼団結を図る真の踏み絵である。 世界警察足る本質には未だしである。 次項目以降、270項目程前の大項目 真遺教 をクリックして頂くと継続して公開されます。 《 意 識 》 「覚天」によりて意識の根を絶つと「涅槃入り」する。 是が涅槃回帰の実態である。 涅槃回帰した意識が絶対意識で、 もう既に意識され得ない分別以前の意識である。 未分化為る純粋意識で、是が意識回帰した涅槃世界である。 意識に基づく分別する働きは、釈尊によりて初めて悟られたが、 其の本源為る意識自体が、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰し得た 、「覚天(涅槃入り)」為る体験を奇跡的にも体現し得たのは、正に不昧 因果以外の何者でもない、毫釐(ごうり)も違(たが)わざる因果の道理 の善業報なのである。 古代ギリシャ、ソクラテス以前のクセノファネスの「神は宇宙、宇宙は神 」為る汎神論的、全一の萌芽足る観念論から、観念する根を放棄して 身心脱落し、意識の根が断たれて、根源為る純粋意識として涅槃回 帰し、宇宙の真理に至り得たのである。 是を言語化すれば、クセノファネスと成る。 分別では顕現され得ないが、体現によりて、真理顕現するのである。 宇宙の真理(=摂理)を動物的弱肉強食思考で制圧する事勿れ。 人類は動物状態から心の進化を遂げ、正道以外の外道では至り得な い心に至り得て、従来の力と量が支配する世界から脱却し、涅槃為る 宇宙の真理の世界を構築・完遂せ使める、全く新た為る新時代を迎え たのである。 二千五百年程前の釈尊やクセノファネスから、殆ど本質的な心の進化 を遂げていないのであり、寧ろ人類三毒(貪・瞋・癡)によりて質的に退 化したに過ぎない。 しかし其れによりて、「覚天(涅槃入り)」為る究極の心の進化を完遂し 得たのである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰し得た今日、世界人類の幸福と平 和と繁栄の構築・完遂の段階に入ったのである。 世界人類は従来の既成概念に捉われず、宇宙真理に基づく信頼団結 を醸成する段階に至ったのであり、其の勇断が不可欠と為る局面に至 っている。 世界の指導者達が率先垂範し、真理(実)を世界中に知ら使めねばな らない。 意識を究竟すと云うは、根源為る純粋意識其のものに成る事である。 其のものに成れば、意識の対象と為らずに、意識回帰し、究竟涅槃し 、涅槃妙心智慧を生むのである。 二元相対為る分別では永遠に及び得ないのである。 「仏道を習うと云うは自己を習う也 自己を習うと云うは自己を忘るる也」 自己を忘れると云うのは、意識に基づく二元相対的分別を離れると云 う事である。 此処が、諸学の限界為る処である。 宇宙摂理、つまり真理に至るには死んでも至り得ないのであり、 只管、正道、正法苦行、生涯托鉢自活後厳密千日涅槃行在りて初め て奇跡生ずる可能性が在り得る。 「覚天」によりて、意識の根を断つと、意識が意識回帰し、 対象を持たない意識其のものと為り、涅槃現成するのである。 そして、無分別の分別、謂わば動物習性の如く、無意識的、自(おの) ずから為る妙技で万事処理され往くのである。 分別せずに遣っているけれども、正鵠(こく)を射て居る。 是が涅槃妙心であり、其れによりて生ずる涅槃妙心智慧である。 分別するのは意識の働きであり、 意識回帰すれば、無分別の分別として、全く雑念無き、自(おの)ずか ら、「世界人類を生(活)かす」涅槃妙心智慧を生むのである。 三毒(貪・瞋・癡)に基づく分別を、三善根(施・慈・慧)に基づく分別に 転ずるのは、坐禅の功徳、「悟り(身心脱落)」によるものであるが、意 識回帰(=涅槃回帰)するのは、「覚天(涅槃入り)」によるものである。 《 「おしん」の橋田壽賀子氏 》 小生は彼女の作品に触れた事は無いのであるが、テレビで、家々の 窓から漏れる明かりに、人間の暖かい生きる営みについて思わずに いられないと語られていた。 小生は小学高高学年の頃、其の明かりを見て、何か一種自己とは異 質な世界で、自己の将来は一体如何(どう)遣って居るのだろうかと不 可思議なる想いで、其の未知なる世界に想いを馳(は)せた記憶があ る。 又、幼稚園生の頃、道を歩いている人に対して、一体此の人は、何処 から来て、何処へ帰って往くのだろうと、妙な不可思議な思いに駆られ 、知りたくなって、一度其の人の後を付いて行った事がある。 其の人は電車に乗って行ってしまった。 其の様に、其れ等の先に、根源為る本質的な方に導かれた。 生命への関心は共通であったけれども、其の現象面と本質面と云う 対照的な、関心の両方向性を顕示している様に思う。 人間の「生き様」への想いの視点が地上であったか、或いは宇宙であ ったかの相違である。 日本アルプスに降った雨が、日本海に注ぐか、或いは太平洋に注ぐか の違いである。 《 人間が人間らしく在る為には 》 人間が人間らしく生(活)きる為に不可欠な事が二つ在る。 一つは、規則性。後一つは、其の究極為る「涅槃」である。 共に宇宙由来である。 斯(か)るが故に、(厳密)坐禅(行)で自己を忘れ、 究竟、「涅槃入り」する体現を体験する。 「涅槃入り」は、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)回帰の消息である。 涅槃に回帰すると云うは、其の障害と為っている、ものを相対的に観る 分別、そして其の母体為る意識に及ぶ迄、総じて其れ等の根を断つ事 を言う。 分別を断つとは、坐禅の功徳や、「悟り(身心脱落)」で諸悪の根源為る 人類三毒(貪・瞋・癡)を三善根(施・慈・慧)に転ずるを言う。 意識を断つとは、「解脱」に基づく、限り無き上求菩提為る極佛行こそ、 正に「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しの結実であり、自(みずか )ら、其の「促し」の源泉其のものに成る。つまり涅槃回帰するのである 。「促す方」と「促される方」とが一つに成る事で、意識が純粋意識に成 ると、自己の極佛行が即刻「他者を生(活)かす」に転了するのである。 つまり極佛行為る介在が必要悪であった事を直観する体現為る「覚天 」である。 其処迄至り得た坐禅が、坐禅自体を撥無(はつむ;払い除けて顧みな い)するに至り、呼吸筋支配神経系不全による坐禅続行不可能を体現 せ使められて、直観的に、「極佛行でない、人だ!」と刹那に覚(さと)る のが、「覚天」足る体現である。 斯(こ)う云う負の坐禅 為るものは、一度も体験した事が無かった。 此の体現以来、既に一年七ヶ月に為るが、以後全く坐禅を組んでない 。坐禅を初めて組んで以来四十四年間程、坐禅を崩壊させる坐禅体 験、「覚天」為る体現によりて、最も普遍的、根本的真理に至り得たの である。 何時でも、何処でも、誰でも、其の心、つまり「極佛行でない、人だ!」 と云う「人を生(活)かす」涅槃妙心が、涅槃為る宇宙の真理である事 を悟るのである。 如何なる人間も、其処に基づかない限り、自己の三毒(貪・瞋・癡)の 奴隷に過ぎないと云う事を知るのである。 正に人間は、是を覚(さと)る為に生み出されているのであるが、 観念的でなく、〇(ゼロ)から是を体現する事によりて、「覚天(涅槃入り )」した人物は、人類史上、前にも後にも、小生『最後身心』一人である 。今や世界は、コロナ禍とミャンマー国軍暴走で、根本の教え『諸悪莫 作、修善奉行』が、世界は「諸善莫作、修悪奉行」と、善と悪とが逆転し ている。 《 坐 禅 》 釈尊は説かれた。 『自燈明 法燈明』と。 「自(みずか)らの心を依り処とせよ。(佛の)法を依り処とせよ。」と。 正に坐禅は、其の具現である。 道元禅師「正法眼蔵(現成公案)」に、 「仏道を習うと云うは自己を習う也 自己を習うと云うは自己を忘るる也 (自己を忘るると云うは万法に証せらるる也 万法に証せらるると云うは自己の身心 他己の身心をして脱落せ使むる也 (万法とは宇宙及び心))」と。 坐禅行の作法に頭陀(ずだ)行と云うものがある。 是、仏道(釈尊、摩訶迦葉の坐禅行)の究竟である。 坐禅は周囲に何も依る物の無い処(空き地)で、つまり部屋であれば、 身の回りに何も無い空間で、大気を感じながら行ずるのである。 何にも依るものが無い、唯、坐禅其のものに成る。 其処から、宇宙(の功徳)と一つに成るのである。 意識、潜在意識、無意識等、一切無いし、何にも拘(かかわ)らない。 只管(ひたすら)、行完遂の正念相続在るのみ。 斯(か)くして、宇宙に打ち任(まか)すのである。 すると、真冬でも、坐禅を組むと、寒さがパッと消える。 諸々の苦に於いて、滅苦の道の現成である。 《 善(好)循環 》 「解脱」を生(活)かすのは、「覚天(涅槃入り)」である。 「覚天(涅槃入り)」無き「解脱」は、現実世界には受容(うけい)れ難い。 現実世界で活溌溌地(かっぱつぱっち;活気が溢れている様)の働きを 為すには、「解脱」と云う特異な境界(境涯;境地)では現実世界に機能 し得ないのである。 人間の心進化の階梯(てい)には三段階ある。 第一段階は、「悟り(身心脱落)」である。 是は、其れ迄の自己の完全否定である。 根柢(てい)から自己が崩落する。 次は、宇宙の涅槃世界に自己の心が接触する体験による、現実世界 の根柢(てい)的否定の現成(げんじょう)である。 最後は、「解脱脱落 」による、「解脱」為る境涯の完全否定である。 斯(か)くして、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰し得るのである。 「解脱」の本源は其の儘(まま)にして、「解脱」は「覚天(涅槃入り)」を 体現しなければ為らない。 つまり、釈尊は、人間の病の症状に対処する処の対処療法に過ぎな い。自(みずか)ら「解脱」した、つまり「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に触 れ得たのでなく、対処療法の薬が切れれば、症状は治まらないのであ る。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰し得ない限り、宇宙の真理に基づ く、「解脱脱落 」した涅槃妙心(智慧)には及び得ないのである。 「病は気から」、器質的病態為らざる、心因性の症状と云うものは、「宇 宙(生命)の本質」(涅槃)に接触する事によりて、完快し得るのである 。其れが「解脱」に他ならない。 其処から、器質的にも及び得ると云う事である。 其れが、呼吸筋支配神経系不全による坐禅続行不可能を体現せ使め られた、涅槃回帰為る「覚天」である。 真理に基づいて居れば、正鵠を射て居る訳で、涅槃収束する事は、 時間の問題であり、既に善(好)循環が約束されて居るのである。 最善の策を講ずるべきである。 人類の悪循環と、格差を生む経済的好循環は一般的である。 人類が三毒(貪・瞋・癡)為る存在であるからだ。 然るに、是を「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に基づく善(好)循環に転ず るには、真理に基づく以外在り得ないのである。 悪循環は容易であるが、善(好)循環には、相応の労苦が不可欠なの であるが、此の労苦は真理に基づいて居るが故に、既に其れ等は労 苦ではなく、是こそ真の生き甲斐であり、唯一の、涅槃化エネルギー 由来の、生きる原動力なのである。 時間と空間と云う宇宙の、物質エネルギーは人類に永遠為る、測り知 れない、限り無き菩提心 を生む原動力なのである。 《 物質(エネルギー)の進化 》 時間と空間と云う宇宙、そして其の物質の存在が大前提である。 宇宙の物質(水素原子、粒子(陽子、電子等)、チリ、石ころ、彗星、ガ ス、星、ブラックホール等、そして暗黒物質(ダークマター;宇宙質量の 80%))、特に水素、ヘリウムのガスやチリが重力で凝縮し、核融合反 応し、水素からヘリウムを生じ、重い元素(炭素、酸素、ヘリウム、鉄) を生み出し、宇宙に様々な元素と共に、生命の諸要素を供給し続ける のである。 物質はエネルギーであり、大自然の母体為る宇宙の涅槃世界のエネ ルギーは自(おの)ずから、涅槃化エネルギーなのである。 宇宙とは常に刹那、刹那、涅槃化足る進化を遂げる永久機関である。 宇宙物質の輪転により、星や生命を生み、大地と海と空を生み、ウィル スや、細胞為る生命、又RNAやDNA(遺伝子)が生じ、原生動(植)物 から動(植)物が生まれ、魚、恐竜、鳥、人類から心生じ、餓鬼と為りて 菩提心生じ、そして仏と成りて、佛心が涅槃為る宇宙に回帰し得たの である。 是が、真実なる生態系の輪転で、永遠の、涅槃化エネルギーと云う菩 提心の原動力による心の、涅槃への収束振動し往く永久機関なので ある。 仏迄、心進化したものは、不可逆為る、不退転の一方通行(=収束振 動)である。 是は『最後身心』に至り得て、初めて、明らかと為る処の、永遠に不滅 為る恒常普遍の真理なのである。 『最後身心』生まれる迄は、「涅槃回帰」の体現無き故に、「宇宙(生命) の本質」(涅槃)を知らざるによりて、「解脱」では、此の確心に至り得な いが為也。 「覚天」体現と云う宇宙回帰在りて初めて、人類の心は、真理を知るの である。 是を『最後身心』と言う。 宇宙は宇宙自体を、人類の心に「促して」、そして「開示する」のである。 人類には、物質による身の存続(=心の退化) と心による心の教 化(=心の進化) と云う事がある。 身の三毒(貪・瞋・癡)を離脱して、三善根(施・慈・慧)志向の真理 為る宇宙の涅槃迄、帰一し往く のが、宇宙の涅槃への永久機関足 る真実なのである。 吾師に受け渡された、鐵漢より、習氏とバイデン氏には、特に 引導を渡し置くものである。 I give them the final word. コロナ禍の最善策は、宇宙の真理に基づく坐禅の精神である。 此の対極にあるものが社会通念為る通性なのである。 《 星の一生 》 星は自律性のガス球である。 殆どH(質量比3/4)とHe(1/4)と、其れ以外の重元素(2%)である。 星の光はHよりHe、更に巨星ではFe迄の核融合反応が中心部でエネ ルギーを生み出しているからである。 斯くして、星が発光し始めて誕生し、発エネルギーが止まって死ぬ。 星の誕生から死に至る迄は、生誕時の質量で決まる。 超新星爆発を起こす大質量の星の寿命は、1億年以下で、宇宙年齢( 138億年)に比して極端に短いが、是等によって、中心部で鉄(Fe)迄の 元素(炭素、酸素、ネオン、マグネシウム、ケイ素等)が合成され、爆 発時の膨大なエネルギーによって、微量の金、銀、ウラン等も合成さ れるのである。 ビッグ・バン直後はHとHeしか存在しなかったが、其れ等から星が生ま れ、超新星爆発によって重元素が徐々に増加し、50億年前には、重元 素の量が2%迄増加して、太陽系が誕生したのである。 殆どが重元素から出来ている地球や我々生命が存在出来たのは、 此の様な星の進化があったからである。 人類は星の子である。 小生が、新潟県糸魚川市で、「星の一生」の本を見て、超新星爆発の 様な一生を送りたいものだと、菩提(道)心を明確に発(おこ)し、決意 した時から四十年近くなるが、あれから様々な体験にも拘らず、恰(あ たか)も回転して居る独楽(こま)の芯が全くブレない様に、図らずも今 に至って、全く同じ位置に立っている。 まるで、地軸の様だ。 是が、宇宙由来の規則性か。 《 「花より団子」の真相 》 本来、人類は涅槃為る宇宙の本質上、動物本能の如く、生命維持の 為に少欲・知足であるのであるが、是が集落から社会構造化すると共 に、三毒(貪・瞋・癡)生じ、貪著し始めた。 よって、本来、花志向であるのだが、三毒(貪・瞋・癡)為る存在と為ら ざるを得ないのである。 そうして、飽く事を知らず、実らざる貪著、何処迄も空しき貪著と云う地 獄へ陥(おちい)らざるを得ない。 貪著為らざる、貪求(ぐ)せざる処に、総てが、「花より団子」の真相の 消息足る、福寿海無量為る事実がある。 是が、涅槃と云う真実(理)世界なのである。 人間は一度は生きながら死ぬ事が理想であるが、其の為にも初行が 不可欠である。 十取れば、十取られる。百施せば、百施される。 時空を超えて、必ず、然(そ)う成る様に為って居るのである。 「花より団子」は、種の存続の、動物本能に由来するものであり、 人間を止めない限り、団子志向は止まないが、其の中での、宇宙回帰 なのであり、「人を生(活)かさん」とする菩提心 なのである。 貪著の空虚感と貪求(どんぐ)せざる涅槃である。 《 本質的人間 (台湾) 作り 》 『最後身心』として、 真理の霊峰「日本」が、地球 人類の永遠の教導基軸足る べく、国境、人種、民族等 を超えて、涅槃為る宇宙の 真理に基づく、「世界人類が 生(活)かし合う」涅槃妙心の 本質的人間 (台湾) 作りを 構築し、完遂する最終段階 に入った。 《 李登輝氏 》 不思議なもので、或る時、テレビであったと思うが、李登輝氏が亡くな られる前に、何か一言、言い遺された事があった。 小生、彼が如何なる人物かも何も知らなかったが、台湾の然(しか)る べき人物の印象はあった。 其の一言の刹那だけれども、妙に小生の心の底に残って、其の意味で は、他の人では記憶に無い、特別な念を抱いた。 青天の霹靂とも云うべきものであったのだ。 内容は不明であったが、本質的に銘記されるべきものだ。 台湾の将来を、亡くなられる前に、何か託せられた様な印象であった のかも知れない。 是は不思議な事で、全くの他人の一刹那が、其れだけのものを小生に 遺した事は他に無い。 九ヶ月程前の事であるけれども、気に懸かっていたから、本日ネットで 調べてみた。 台湾の元総統であり、安部元首相が「日台関係の礎を築かれた方とし て多くの日本人は格別の親しみを持っている。」と語られている。 又、黄文謝氏の録画を見て、全てが明らかと為った。 小生の懸念に合点が行った。図星であった。 小生の直観と言うか、氏の冀願(ねがひ)の真実であった事に頷(うな づ)かれたのである。 氏の祖国(台湾)の、正道への智慧に基づく、将来への期待感や展望 を感ぜずには居れない。 本質の直観の先に在るものは、只、正法苦行のみである。 故に、正法苦行(初行)の菩提心を発(おこ)し、完遂する事が「解脱」( 行)道であり、世界人類の師足る道である。 老若男女を論ずる事勿れ。 其れによりて至り得た真理は正に真実の北極星其のものである。 世界人類を導く北極星は、我々人類にとって、宇宙の限り無き星々の 一つに過ぎないが、其れが宇宙の真理であると云う事は、宇宙は我々 人類に真理を語り尽くしているにも拘らず、我々人類が、其処迄及び 得ないが為に気付かないだけに過ぎない。 元台湾総統、李登輝氏の本質は、小生鐵漢の『最後身心』によって、 確(しか)と受け留められている。 《 健全と云う事 》 分別せず、意識せずに、自(おの)ずから、其の様に物事が整って居る のが本来の規則性である。 是は、其の人の、そして人々の信頼に基づく全体の自律性 が培(つ ちか)われた結果である。 此の様な本質的恒常、普遍性が人々の心の基盤と為る事が、世界平 和の基本である。 此れは、他律為る権力や、又名誉欲、金欲によって培われるものでは ない。 唯、宇宙の絶対真理に由来する涅槃妙心に基づいて初めて、世界人 類の平和が出来上がるのである。 『最後身心』が時間と空間と云う宇宙、そして其の物質の存在を大前 提として受容(うけい)れた様に、世界の指導者達が、人類史上、古代 以来、世界人類が為し遂げられなかった、宇宙の真理に至り得た真実 を大前提として受容(うけい)れる事無くして、宇宙の真理に基づく信 頼団結の礎は築き得ないのである。 小生は神仏を否定する者でなく、大前提の下に神仏を受容れる者であ る。 斯(か)くして、分別せず、意識せざれども、自(おの)ずから、恰(あた か)も、宇宙の調和と均衡と静謐の如くに整って、健全である事が基本 である。 健全さは、「涅槃」の証(あか)しである。 是が最も基本的であり、、そして其れが維持されて居る事が最も難(む つか)しいのである。 世界人類の幸福と平和と繁栄に不可欠なものが此の健全さである。 健全とは調和と均衡と静謐に基づく基本的な心の在り様である。 世界人類の健全さを確保為ら使めるのが政治家の使命である。 其れには、精神的、物質的基本的条件の確保が不可欠である。 当条件確保を何処迄も志向する事が政治家の基本でなければ為らな い。 《 宮本武蔵から山岡鐵舟へ 》 宮本武蔵(江戸時代の剣術家、二天一流の開祖、『五輪の書』) 生涯で六十四度の勝敗に無敗。「武蔵の剣捌(さば)きは、武蔵のみが 可能で、誰も出来ない」ものであった。 剣による世渡り(=二元相対)の域から出る事は出来なかった。 武蔵は現代、原爆支配に転化している。 そして、米中の覇権争奪であり、環境破壊であり、 今の暴力と殺戮の地獄と帰して居るのである。 山岡鐵舟(幕末~明治の幕臣、政治家、思想家。剣、禅、書の達人。) 江戸城の無血開城への道を開いた。 西郷隆盛は、「金も要らん、名も要らん、命も要らん人間は如何にも為 らん。其の様な人でなければ、天下の偉業は成し遂げられない。」と賞 讃。西郷の依頼により、十年の約束で、明治天皇に仕えた。 「鐵舟のいない世の中は、生きるに値しない。」と思わせる程の鐵舟の 死であった。数名の殉死者が出た。 鐵舟は九歳より剣術を学び、十七歳で禅の修行を始めた。 三十歳位迄、剣と禅の苦節を経て、滴水老師に「無字」の公案を授かり 、十二年間辛苦した後、 「両刃、鋒を交えて避くるを須(もち)いず、好手還りて火裏の蓮(はちす )に同じ。宛(えん)然自(おの)ずから衝天の気あり。」 為る公案によりて、三年後、四十四歳にして悟入。 然しながら、男女の習気(じっけ)の克服に五年間を要して、四十九歳 にして、色情得脱したらしい。 幕末動乱の直中に青春を燃焼させた鐵舟には、煩悩即菩提は然(さ) して遠い目標とは思えなかったが、五年要した訳である。 「無刀とは、心の外に、刀が無い事。的と相対する時、刀に拠る事無く 、心を以って心を打つ。是を無刀と云う。」 「自然は教師也。自然を眺めて学び、自然に即して考える。」 「晴れてよし 曇りてよし 富士の山 もとの姿は変わらざりけり」 鐵舟は老師に出家の意向を問うたが、老師は引き留(とど)めた。 小生も同感である。 在家で、悟後、在家での能力を生(活)かすべきである。 小生が老師ならば、 涅槃為る宇宙の真理を説いて、 在家にて、其の涅槃妙心によりて智慧を生み、 世界人類の幸福と平和と繁栄を構築し、完遂すべき、を説き、 或いは正法苦行(初行)によりて、「解脱」に至ら使める。 《 世界の涅槃化、そして「涅槃入り」へ 》 小生『最後身心』が最後に説くべき、 此の三毒(貪・瞋・癡)による二元相対世界から、全一為る絶対世界へ 移行する、涅槃化への関門は、 米国に対して、日本の健全化 (=核兵器禁止条約締結 )と、 中国に対して、台湾の健全化 で、 世界の信頼団結への障害と為っているもの、其れが今時、 米中の対立として露顕する、覇権争奪闘争であるが、 世界の涅槃化に進化を遂げるべきである。 地球の半分を爆破する程の核爆弾を造るよりも、地上の三毒(貪・瞋・ 癡)悪を破砕する(「解脱」と宇宙(涅槃)を一つにする)「涅槃入り」へ の変異 を生むべきである。 アメリカの人種差別はアメリカ原住 民を奴隷化して建国した処にある。 原住民の植民地化、そして世界を 原爆支配する為の日本の基地化の 後遺症である。 国内の反省が成っていない。 看過すべからざる国民の傲慢さで ある。 中国の一見自由主義為らざる側面 は、米国の此の実態の鏡である。 両指導者の率先垂範無くしては、 遂げ得ない。 空前絶後為る最後身心。 大前提為る、 時間と空間を越えた最後身心。 最後身心が宇宙であり、 宇宙が最後身心である。 時空を超越せる、此の最後身心は、 此の宇宙に空前絶後の一点である。 是宇宙の刹那の最高傑作であり、 宇宙が小生を生んだのか、 小生が宇宙を生んだのか、 宇宙の奇跡中の奇跡である。 つまり生命の最高傑作なのである。 身心の、心の最高傑作である。 宇宙が生んだ、空前絶後の最後身心 為る最高傑作である。 是「宇宙(生命)の本質」(涅槃)である。 神を超え、仏を超え、 真理の、叡智の最高傑作である。 然るに宇宙であり、地上であり、 人間世界なのである。 間違い無く、 人間世界の涅槃(化)であり、 涅槃の完遂期に入ったのである。 『最後身心』鐵漢が地獄から涅槃 化の歩みを遂げる段階に入った。 人類は勇断以って従わざるを得ない のであり、智者は間違い無く、此の 歩みを進めるであろう。 時空は従来の時空に非ず、 真理が人間世界を完遂する。 善悪も無く、究竟を完遂する。 二元相対(鐵舟の習気)を超越して、 唯、真理(実)を為し往くのみ。 是が本質回帰為る涅槃化である。 世界人類の幸福と平和と繁栄の完遂 に他ならない。 《 一枚の絵 》 東照寺(東京)に伴老師の描かれた一枚の墨絵が壁に掛かっていた。 遠くから見ると、雲丹(ウニ)の様に多数の棘で張り巡らされているの であるが、よくよく近付いて見ると、其れ等の刺(とげ)の先は総て丸い のである。 アレッと瞬間、不思議な気がした。 ヘェー、然(そ)うか、と思った。 何事も、微に入り、細に入って微細(みさい)を極むれば、 此の様に、全く刺(とげ)でなく、丸くなるのだと、得度する前に見た、 其の丸みを思い出す事がある。 人間が、何処迄、時空を刹那、極微に極め得たかによるのである。 見る人の心次第である。 其れが、宇宙の究極の、真理為る涅槃と云うものである。 「涅槃入り」とは、極め得た先の、偶然裡の必然的奇跡である。 《 「全会(満場)一致」が抱える課題 》 国連安保理事会と英米法の陪審制(十二名の市民から無作為選任 による有罪無罪の評決)(日本は参審制)の全会(満場)一致の原則 と、特に後者に於ける斉一性の原理※ が発生する点に強く懸念を抱 かざるを得ない。 人類の三毒(貪・瞋・癡)に基づいた、是等の悪習が現代を演出して居 るのであり、温存や保身でなく、原理、原則を超えて多数決制を執るべ きであるとも思うが、人類は是等の困難を乗り越えて、涅槃為る宇宙 の真理に基づいて最大限の効果を生むものと信じる。 〔※ある特定の集団が集団の内部に於いて異論や反論などの存在を 許容せずに(=多数決でなく)、或る特定の方向に進んで往く事。〕 是等の底流を為す人類三毒(貪・瞋・癡)の害悪が、世界人類に及ぼす 罪悪は測り知れない。 其の結果の原爆支配体制と選挙戦に於けるトランプ現象(=一連の 非常識の正当化)と、根深い白人至上の差別(特に黒人)意識、国民 を守護する職務である警察組織による、正当化された殺人行為等、 其の国民性の根幹への不信感は拭い去れない。 指導者に、率先垂範する者が不在している。 其の信頼性を、世界に回復すべきものが欠如している。 一体何を以って、其の大役を果たさんとするのか? 是こそ正に、飛躍的勇断、つまり米中間の沖縄等と台湾の解放 に 他為らない。 従来の延長線上には其の可能性処か、唯、負の退化しか存在しない。 唯真理に基づく、米中の信頼団結への真の意欲 在るのみ。 米国の抱えた、現代資本主義、否人間世界の行き詰まり 、露呈する 日常的、白人至上の傲慢さ、其れに対峙すべき強権体制、そしてコロ ナ禍に随伴する世界的失望感等々、其れ等の反省が、現バイデン氏 の半ば全面的日本依存傾向を生んでいる。 日本を信頼する事が、世界人類の信頼を培(つちか)う事と為る。 米中の環境破壊は、米中の根本的反省を彼らに促すものである。 其れ等の狭間に在る日本の存在は、世界の一大潮流足る必然性を 担うものである。 今、特に米国を代表とする国連常任理事会、及び米国の陪審制に於 ける全会一致の原則、黒人差別温存の実態を精察する必要性がある 。愈々(いよいよ)、米国の黒人差別に対してメスが入ったのである。 其れ等の、世界に与える罪悪について深く熟慮しなければ為らない。 歴史を遡(さかのぼ)って、根本的理解が不可欠と為っている。 米国が独立に至る迄の、人類に与えた禍根から見直さない限り、米国 国民の心の盲目は回復不可能であり、失われた信頼は築き得ないの である。 黒人差別に於ける原理、原則が、世界人類の根源的憤怒(いかり) を惹起した。 上に立つ事 と、信頼を得る事 と何れが不可欠であるか? 信頼が培(つちか)われれば、人間世界は真に生(活)きるのである。 是には力や能力でなくて、真理に基づく以外無い。 是が世界人類に浸透すべく、主導指導者達の率先垂範が不可欠で ある。 《 「悟り」とは? 》 人間は、涅槃為る宇宙の涅槃化エネルギーの産物、星から生まれて、 星へと回帰するのである。 其の真実を、自己の身心で体現するのが坐禅(行)であり、 厳密初千日 解脱行 と生涯厳密後千日涅槃行とある。 「功徳」と「悟り(身心脱落)」と「解脱」 と「涅槃入り」である。 要するに、諸悪の根源の三毒(貪・瞋・癡)を人類が、三善根(施・慈・ 慧)と転了し、涅槃為る宇宙に回帰する迄の事である。 回帰を体現する事によって、人類は初めて我々の母体の宇宙の働き( =涅槃妙心)に覚醒させられる(=覚天)のである。 人類の究極の目的は、此の永遠に不滅為る恒常普遍の真理 に至 り、涅槃妙心智慧によりて、世界人類の幸福と平和と繁栄を構築し、其 れを完遂する事である。 人間は最低限、自己の情欲を撥無(はつむ;払い除けて除外する)し得 る底の菩提心の人間でなければ、宇宙の真理には至り得ず、世の中 を真に生(活)かし得る人間にはなり得ない。 真理には宇宙(=自然)の功徳から入るのである。 其れが「坐禅による功徳」であり、「悟り」である。 是、世間の方向性(=三毒(貪・瞋・癡)由来)に反するものである。 小生が坐禅を始めた当初、其の功徳 を軽視、或いは蔑視する傾向を 感じたものだ。 《 教 育 》 教育とは、老若男女に拘らず、教導育成する事である。 洋の東西を問わず、古代より論じられ、又本格的にソクラテスの弟子 プラトンにより哲学されて来たが、現代に至る迄、教育について「導く」 と云う事が皆無である事は不思議である。 「導く」事の無い教育とは、一体如何為るものであるかと、疑問を抱か ざるを得ない。 真の「教育」であるならば、必ず人類をして教導する筈である。 不思議に、教育に「導く」が全く出て来ない。 世界人類の教育には「導く」事が欠落して居るのである。 是は、「真には導き得ない教育」に他ならないものであり、 真理には至り得ていない教育 を露呈する何ものでもないのである。 其れが従来の人間世界に過ぎない。 「導き得ない教育」。 教育の限界を物語っている。 真の「教育」とは、生活する為の単なる手段を教えるのでなく、「生きる 事其のもの」である。 「生きる」が単に生理(本能)的欲求を満たす事であれば動物と変わら ない。 「生きる手段を獲得する事」と、此の単なる動物的生存でなく、 「真に人間的に生きる事」を教導育成する事が正に教育である。 単なる人命の存続でなく、本質的に生き、そして是に基づいて現象的 に生きるのである。 本質的に「生きる」とは? 是が教育の最も肝心要で、最も困難なる事である。 教育の本質は真理を伝える事である。 つまり、「生きる」に最も肝心要は、涅槃為る宇宙の真理を知る事であ り、そして教育とは、其れを知ら使める事に他ならない。 直感的には古代ギリシャや、古代インドでは汎神論が原点にあるが、 二千五百年前の古代の大自然に抱かれて、人類は其の心と共に生き て来たのであり、高度文明化され、自然を排除した生活の中に於いて さえ、我々は宇宙を支配する生命体としてでなく、宇宙の中の生命とし て存在し、宇宙のエネルギー(涅槃妙心力)によりて、否応無く、此の 身に体現せ使められ、仮令(たとえ)、コンクリートの部屋の中に居ても 、正法苦行する事によって、其の真理に至り得ると云う事を知るので ある。 つまり、時処位に拘らず、何時でも、何処でも、誰でも正法苦行を行じ れば、涅槃為る宇宙の真理に至り得ると云う事を教導するのが教育 の目的でなければ為らない。 「真理」為るが故に、敢えて教導しなければ為らないのである。 教育とは、「大量破壊兵器で三毒為る人類を抑止せねばならない」と 云う事を暗黙裡に知ら使めるのではなくて、動物と神仏の狭間為る存 在として死なざるを得ない存在としてでなく、「真理」を「真理」として、教 導するのが、真の教育者の使命でなければ為らない。 我々人類は、「人を生(活)かす」べく生命を戴いているのだと云う事を 覚(さと)らなければ為らないのである。 「世界人類をして、生(活)かし合わ使める。」 是が教育、宗教、政治、諸道の本質であり、 此の本質為る光が、七色、及び無数の色相を呈し、現象する。 此の光が涅槃化エネルギー(涅槃妙心力)であり、「宇宙(生命)の本 質」(涅槃)であり、其の心を涅槃妙心と言うのである。 《 真理の効能 》 人類の宝中の至宝が真理である事を覚(さと)るべきである。 何故に真理が人類にとって、其れ程、貴重為るものか? 人類が諸悪の根源の三毒(貪・瞋・癡)を具有し、此の必要根源悪為る が故に、人間は其の母体為る「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰し得 て、涅槃為る宇宙の本質が何足るか、に至り得たからである。 真理為るが故に、只管(しかん;ひたすら)、涅槃一路門である。 真理の効能とは、涅槃妙心、及び涅槃妙心智慧にある。 何故に、其れが妙心なのか? 人類は三毒(貪・瞋・癡)によりて、必然的に「地獄入り」するのである。 何故に然(そ)うなのか? 其れは「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違(たが)えるからである。 人類が、其の母体に違えば、恰(あたか)も、臍の緒で生かされている 胎児が母体に逆らえば、結果は自ずから明らかである様に。 つまり妙心とは、宇宙の涅槃化エネルギーである、涅槃への永久機関 足ら使めている、宇宙の本質の働きが不可思議為るが故である。 謂わば、動物の習性の様な、例えば雲の巣作りとか、亀が孵化すると 、生き残る為に海へ急ぐ事とか、生物(人間も含めて)が生存(活)する 為の本能的機能であり、又欲と分別による三毒では遥かに及び得ない 、本能的に取り得る、分別を挟まない、反射的、又直観的とも云うべき 無心の優れ足る機能であり、是が人類の幸福と平和と繁栄への微妙 甚深為る機能を具備するからである。 《 淫快について 》 淫快は望むと望まざるとに拘らず、種の存続の為に不可欠為るもので あり、是無くんば、時処位に拘らず、人類は存在しないのである。 然るに、其処に至る迄は、正法苦行前後の菩提心裡の完璧なる無漏 (むろ)から、「涅槃入り」後、つまり行了後の、禅心でなく、坐禅を捨て て、日常生活(ネット(製本)と托鉢)に復帰し、以降は「泥水を飲んで 小便と為した」。 老師は嘗て、「泥水を飲んで小便にして出してやった。」と言われた。 是、人間と云う者は有機的構成系為る存在であるが故に、 科学で及ばぬ、不可思議為る処があるのが真実である。 円は如何にしても多角形には永遠に為らないのである。 直観であれば接近し得る。 悟って「覚天(涅槃入り)」すれば、涅槃為る宇宙に回帰する。 是が涅槃妙心を表す真の円相である。 『最後身心』為る者は、 欲や貪でなく、淫快は消滅しないと云う事である。 食欲は食べ、睡眠欲は寝る様に、『最後身心』に於いて、有機的構成 系内の一存在として、性欲は心的淫快足るのが真である。 涅槃とは、自(おの)ずからにして少欲・知足である。 初行、そして生涯後厳密千日涅槃行(=後行)によりて、人類に一点を も残さぬ、極佛行為る自己が、偶然裡の必然性為る奇跡、「覚天」に至 り得て、そして真理を教導する段階で淫快と云うものについて向かい つつ、必然的に今に至り得ているのである。 《 無常と恒常 》 「人間は、所詮死すべき運命にあるから」とか、 「地球も何れ消滅するから」と言った終末思想にこそ限界がある。 森羅万象は常に流転しているのである。 暫くも留まる事無く、刹那生滅しているのである。 険しい大自然の霊妙極まりなき息吹に目を遣れば明らかで疑う余地も 無い。 刹那生滅為る故に、「悟り」、宇宙に回帰する迄の心の進化を遂げ、 物質文明も心の世界も共に、涅槃世界への向上一路を遂げているの である。 無常なる物質の現象に、永遠に不滅為る恒常普遍の真理がある。 是が涅槃為る「宇宙(生命)の本質」である。 此の本質を見極めるのが坐禅(行)であり、 心の進化には、「坐禅の功徳」、「悟り」、「解脱」、「覚天(涅槃入り)」と云 う階梯がある。 夫々「宇宙(生命)の本質」を志向し、接近し、接触し、回帰するのであ る。 坐禅(行)こそ、人生の精髄である。 漸次、諸段階を経て、人間が宇宙と一つに為れば、誰でも永遠に不滅 為る恒常普遍の真理(=生命)に往き着くのである。 世の無常なる現象に囚(とら)われて、悲観したり、嘆くに及ばず。 人間と云う者は、此の無常が無ければ、未来永劫、涅槃回帰は不可 能なのである。 極めて(はかな)き命ならばこそ、悟るのである。 何事でも、然(そ)うである。 人間と云う生き物は、情無い位、鈍感、怠惰である。 100を決めれば、70仕上がる。 常に自己を120に維持すべく、心掛けて往く事によって、100近くなる 事は時間の問題である。 矢張り、切羽詰ったものが不可欠である。 其れこそ菩提心に他ならない。 力と量の二元相対世界に生きて来た人間達は、コロナ禍等の非常事 態の無常に見舞われると、自制心を喪失し、諸悪の根源為る三毒の 貪著は瞋恚に転じ、癡愚に至って他に其の矛先を向ける。 是が人種差別の実態である。 自己の貪欲に甘え、自己を見失ってしまうのである。 善く整えられた自己は、涅槃なる宇宙の真理、調和と均衡と静謐を忘 れず、諸現象を俯瞰的に、客観的に把握するから真理に違わず、涅 槃に帰一するのである。 自制の効かない自利制他の為の孤立や団結を排除し得る世界連合 の構築と、真理に基づく自利利他の信頼団結に基づく、其の完遂が人 類の真価である。 今後の世界人類は従来の延長線上の其れではなく、人類史上、真理 に到達し得てからの人間世界である。 涅槃為る宇宙原理に基づく、統一世界体制である世界連合の下に、 「世界人類が生(活)かし合う」信頼団結を構築しなければ為らない。 《 宗教以前の真理の坐禅とは 》 釈尊でなければ、小生が坐禅を遣る事は無かったし、 吾師がいなければ、千日行で解脱する事も無かったのである。 釈尊は、インダス文明のバラモン教の伝統の結実であり、 吾師は、捨て子として寺に預けられた自己を育(はぐく)んだ伝統から 躍り出た昇龍であったのだ。 小生は其の土と肥料を戴いた、『最後身心』為る野の花である。 小生が千日行(初(厳密千日解脱)行)に入る前、つまり寺を出て自己 独りの心の放浪の旅に出た時から解脱する迄の二十年間程は宗教 以前の純粋坐禅の期間であったと言える。 其れは飽く迄も、当然千日行を根幹とした前後の事である。 更に言えば、唯一坐禅に自己の生きる道を見出した後、放浪の旅の 途上に千日行が意識上に浮かび上がる迄の、独り生涯坐禅(行)で終 るつもりで居た頃、要するに坐禅さえして死ねば良かった頃の事であ る。 然(そ)う云う訳で、何を遣っても坐禅の為の生命に他ならなかったので ある。其の為の生きる手段は何でも遣った。 其の小生であったから、独り黙々と出来た訳である。 然(そ)う云う人間でないと、正法苦行は出来ない。 何求める無く、坐禅だけ遣って居れば、其処に一切の価値を確信する 。故に十二頭陀行の最後の威儀としての但坐不臥の千日行が成立す るのであり、唯一、摩訶迦葉の但坐不臥と釈尊の成道によって、 人類史上、涅槃回帰した『最後身心』の黎明を迎えたのである。 釈尊が厳格な十二頭陀行の摩訶迦葉尊者(仏教二祖)には一目置い たのも当然であった。 でなければ、恐らく千日行は誰も為し得ないであろう。 然(そ)う思った。 故に小生が悟れなかったら、悟れる者は居ないのであり、斯(か)るが 故に『最後身心』と成り得たのである。 只管坐禅以外何も無いのである。 宗教以前の純粋坐禅である。 食べる事は、其の為のもの。否、其の状態を極力維持する、其れに寄 与すべき労働、要するに坐禅状態を極力維持し得る労働である。 例えば直立不動の乞食の様な労働であった訳である。 昔を振り返って、小生の様な事は、小生の様な人間でなければ及ばな いと、然(そ)う思った。 まるで初行後の温暖化現象の様である。 最近は『真遺教』溜(た)まると、自動的に托鉢に出られない事を繰り 返している。 《 オリ・パラ 問答 》 現今の、日本のみならず、世界的な感染拡大期に於いて、東京オリ・ パラ開催か否かについて、 随伴する死者や重症者が出るならば中止すべきである。 然(さ)もなくんば、開催すべきである。 スポーツの祭典と云うものは、世界人類の平和の謳歌である。 人命を犠牲にする、しなければならない平和の謳歌は無意味であるば かりでなく、癡愚である。 犠牲に為った生命は、永遠に葬り去られるのである。 一体誰に其の様な権利が有るのか? 競技者か?其れとも主催者か?或いは双方か? 其の様な権利は「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違(たが)えるものであ る。 人命か、金か、其れとも強弱か? 力や金の量的問題でなく、平和的生命の本質に係わる問題である。 日本人に限定されない、世界人類の普遍的問題である。 既に、ノルマンディー上陸作戦は過去の時代のものであり、 今日、涅槃為る宇宙の真理に基づく新時代である。 世界人類の平等為る、掛け替えのない生命への深い配慮が、何よりも 不可欠である。 《 極 意 》 小生が古希の二ヶ月前に「覚天」した。 其処に於いて得られたものが、「人を生(活)かす」と云う真理であり、 此の極意、「人を生(活)かす」、此の当たり前の様な事、 人間と云う者は、当たり前の事が出来ないから問題なのである。 人間同士が平和裡に生きて往く。 是が当たり前の事なのである。 然るに是が出来ないから問題なのである。 喧嘩したり、殺し合ったりするのが日常茶飯事だから問題なのである。 人間だけでなく、自然までも害して人間が当たり前の生活が出来なく なっているから問題なのである。 もう其の地獄から出る事が出来なくなって、益々(ますます)事態が悪く なるから問題なのである。 人間が皆、自分が如何したら良いのか分からないから問題なのである 。 小生が、其の正解、真理を知ったから人間を教導して居るのである。 人間は真理を知れば、つまり「人を生(活)かす」を知れば、喧嘩したり、 殺し合ったり、人を貶(おとし)める事は決して出来ないのである。 其れが真理と云うものである。 其れが極意に他ならない。 真理とは宇宙の働きで、宇宙とは涅槃なる本質である。 本来、人間の本質も全く同様である。 だから、真理を知った人間は、「人を生(活)かす」事しかしない。 若しも、然(そ)うでなければ、自分が本当の事(真理)に違(たが)えて 居る事を既に知っているから、決して真理に違える事は出来ないので ある。間違った自分が決して出来ないのが真理を弁(わきま)えた人間 であり、世の中が善くなる様に常に其の事だけを心掛けて居るのであ る。 嘗て、幕末、明治の剣の達人、山岡鐵舟が出家の意向を師に問うた。 小生ならば問わない。 剣の達人は、剣を捨てるのである。 故に出家以外無いであろうが、悲しからず哉、正法苦行無し。 故に師は止まらせ、止まった。 江戸時代の剣術家、武蔵は剣を捨て切れなかった。 剣豪ではあるが、達人ではない。 地獄行きの世界である。 「生命の尊さ」を最も知る者が『最後身心』である。 此の光が、様々な色相を生むが故に、光足るのである。 《 信頼団結に基づく世界連合 》 中東、北朝鮮、ミャンマー等と共に平和な歩みを進めて往く為には、 地上の二大国である米国と中国とが、ロシアや他の西洋と東洋の諸 国家群と共に、宗教的、民族的な従来の不可避なる、生来的な対立 構造を解消すべく、平和裡に如何なる武装勢力の台頭をも許容せざる 信頼団結力を醸成し、世界人類が在るべき理想的な一世界連合体制 を構築せ使める、人類の心の進化に於いて、必然的な世界人類の現 実の営みは如何(いか)に在らねば為らないかを、一年七ヶ月余り前、 小生鐵漢が『最後身心』として、宇宙の真理を人類史上、空前絶後に して、生涯の正法苦行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)裡に吾身心 に体得したのである。 此の、宇宙の真理から真実を説く。 二元相対世界の相対的信、つまり従来の聖戦、対立志向の神仏への 信から、涅槃為る宇宙の真理に回帰し、絶対的信への可能性を生ん だのである。 真理在りて初めて、人間同士の絶対信頼が生まれ、是に基づく団結が 世界から、従来の一切の負の遺産に類する諸悪を醒覚せ使め、真の 世界警察が十分に機能し得る世界連合を可能為ら使めるのである。 人間同士の信頼の醸成が、世界平和の基礎である。 涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の真理 に基づいて、人間同士の信頼 団結を可能為ら使めるのである。 自己への信頼無き処に、人への信頼生ぜず。 自己への信頼の礎が生まれ、自己の信頼が確立して初めて、人への 絶対信頼が可能と為るのである。 自己への信頼とは菩提心の確かさである。 真理を求める心が菩提心である。 総ての絶対信頼団結の根本は、自己への絶対信頼の可不可に基 づく。 世界人類間の信頼の醸成は、自己への信頼であり、其の根源は自( みずか)ら行為すると云う事である。 信頼出来る自己の確立は、真理に基づくのである。 真理に基づいた自己が在りて初めて、人間同士の信頼団結が完結す る。 真理とは「人を生(活)かす」心である。 是が宇宙の心、涅槃化エネルギーである。 是、調和と均衡と繁栄為る、永遠に不滅為る恒常普遍の真理である。 是を人間世界の幸福と平和と繁栄に具現する。 此の心を涅槃妙心と云い、其の涅槃妙心智慧によりて世界平和を構 築、完遂するのである。 米国と中国には、其れ為(な)りの覚悟が最低限、絶対不可欠である。 其れは核兵器禁止条約締結以外、絶対在り得ない。 何と為れば、原爆投下は極悪中の極悪事為るが故である。 此の点に於いて初めて、全世界が同じ基盤に起(た)ちて、共に歩んで 往く。 総ては、事実上の本気度と、真実なる勇断によりて、 其処に自(おの)ずから世界連合が成立するのである。 小生『最後身心』が最後に説くべき、此の三毒(貪・瞋・癡)による二元 相対世界から、全一為る絶対世界へ移行する、涅槃化への関門は、 米国に対しては、日本の健全化 (=核兵器禁止条約締結 )と、 中国に対しては、台湾の健全化 である。 世界の信頼団結への障害と為っているもの、其れが今時、 米中の対立として露顕する、覇権争奪闘争であるが、 世界の涅槃化に進化を遂げねばならない。 地球の半分を爆破する程の核爆弾を造るよりも、地上の人類の三毒( 貪・瞋・癡)悪を砕破した「解脱」から、自由無碍(げ)為る「涅槃入り」 への変異 を生まねばならない。 小生が、若し生まれ変われたならば、必ずや、小生が為すべき事は、 此の事に他ならないのである。 只管、「世界人類を生(活)かし、生(活)かさ使め合わ使む」 る以 外には無いのである。 是は、宇宙が生んだ生命の究極の可能性であり、究竟宇宙(生命)で ある。 通戒偈 「諸悪莫作 修善奉行 自浄其意 是諸仏教」の心は、 究竟「世界人類を生(活)かし、生(活)かさ使め合わ使む」 である。 此処に、宗教以前の、「生命の本質」の真理がある。 是が、老若男女、時処位を問わぬ、永遠に不滅為る恒常普遍の真理 である。 是が宇宙の本質である。 故に、是を世界人類の一切の根本と為さなければ為らないのであ る。 《 いのち 》 本当のいのち とは、三毒(貪・瞋・癡)ではなく、三善根(施・慈・慧)の 心である。 つまり、貪求(どんぐ)するのでなく、施与(せよ)するのである。 前者のいのち は、未だ、地獄への一方通行であり、 後者は、既に涅槃への一方通行のいのち である。 自己の心を省みれば、自分のいのち の価値を容易に知る事が出来 る。 自分が世界人類を地獄へ陥(おとしい)れる人間か、其れとも平和へ 導く人間かの見極めが出来るのである。 自分を生むのは、自己の心である。 溺れ掛けている人を救うのは、其の人と共に岸へ辿り着く事である。 偏(ひとえ)に、涅槃への収束振動在るのみ。涅槃への一方通行。 個から世界に至る迄、人事総て、夫々が涅槃への永久機関である。 必ず、収束への一方通行なのである。時間の問題である。 人間の仕上がりは、何処(どこ)迄、菩提心で打込んで来たかによる。 故に、自己を忘れて、初行、後行を行ずるのが人生の精髄と言える。 世界人類間の信頼の醸成は、自己への信頼であり、其の根源は自( みずか)ら行為すると云う事である。 《 無限多角形から円へ 》 無限多角形は円に、何処(どこ)迄も漸進的に近似するものであるが 、円ではない。 一見、見分け難いが、明瞭に判別出来るのである。 次元、つまり生活空間のレベルが異なるのである。 前者は、信頼無き敵対関係を形成し、双方の、貪欲為る力と量の覇権 主義に因る歪(ひず)みや諸害悪、核武装等の膨大な軍事費、自然破 壊に起因する様々な異常事態等、其れ等に随伴した地獄の様相を呈 するのである。 多角形は三角形を基本に無限角形に進展する。 然るに、円と云うものは閉曲線であって、直線ではない。 直線は厳で離であり、円は柔で合である。 前者は永遠に真逆の排斥力であり、後者は引力によりて何(いず)れ 合体して閉じる。 極力、多様性以前の正三角形(=正法苦行)から円(=解脱)への飛 躍が理想的なのである。 宇宙は涅槃為る円相の現成(げんじょう)である。 故に、宇宙は集(凝)結して星を生む様に為っているが、其処から奇跡 的に生命、更に人類を生むのである。 前者は、孤立の在り様であり、後者は、全為る個、つまり全一としての 個である。つまり宇宙に調和した個の在り様である。 双方は総て異質かと云うと、然(そ)うではない。 宇宙同様、線志向から円への永久機関為る一方通行なのである。 分別によりて作為的に行動するのは宇宙に唯、人類のみである。 人類の諸悪の根源為る三毒(貪・瞋・癡)のみが、他を排斥して貪欲に 我欲を満たし、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違(たが)えるのである。 分別に基づく排他的、多角的営み、或いは地獄への直線的営みから 脱却する事が出来ないのが唯一、人類だけなのである。 総ては、高度に進化した人類特有の大脳新皮質の分別に基づく、諸 悪の根源為る三毒(貪・瞋・癡)に因るものである。 斯(か)るが故に、人類の意識自体が刹那に根絶せ使められて、宇宙 に回正せ使められ、涅槃為る宇宙の真理に回帰出来たのである。 然(そ)う云う次第で、人類は宇宙の本質からして、自(おの)ずから多 角的営み、つまり必然的に多様性を生む訳であるが、人類と云う者は 極力、三角形的営みの裡(うち)に、円への飛躍志向、つまり菩提心を 発(おこ)し、「世界人類を生(活)かす」べく、機能しなければ為らない 。 然(さ)もなくんば、偽為る多様性裡に埋没する以外無いのである。 然(しか)るに、何処迄も、無限多角形の究極に於いて、涅槃為る「宇 宙(生命)の本質」の現象の源泉である涅槃化エネルギーによりて、其 の極悪の頂点から、必然的に極善為る「涅槃入り」が生起した。 自今已(い)後、此の最大振幅より、宇宙の本質為る涅槃への収束振 動の段階に入り得た。 其の途上の在る刹那で、青天の霹靂(へきれき;急に雷が激しく鳴る 事。)の如く、吾身心に放電現象が生起し、是が、「覚天」の体現であり 、此の時、刹那に覚(さと)ったのである。 自己を運ぶでない、宇宙同様、「人を生(活)かす」のだと。 此の刹那は永遠の真理である。 此処に於いて、 真理を、世界人類の永遠に不滅為る恒常普遍の真理足ら使めねば為 らないのである。 此の放電現象は、其の人が刹那に至る迄、極め尽くし得て居ると云う 「証し」なのである。 菩提心の堅固さが、微細を極め得る。 宇宙からの、小生『最後身心』への放電現象は、今時、小生から世界 人類への放電現象と為るのである。 是、宇宙の真理であるが故に、時間の問題である。 身の存続に止まらず、『最後身心』による永遠為る真理の存続 でな ければならない。 生命の起源について、学説が出されたのは、紀元前4世紀にプラトン の弟子アリストテレスからであり、一時、「生命の誕生」に 放電現象が 引き金と為っていると云う説が生まれたが、実験は成功していない。 未だ生命の起源は依然として、学説として解明されてはいないが、 直観的に、疑う迄も無いのである。 《 世界平和の構築と其の完遂 》 嘗て、『最後身心』の起源は四千年前、インダス文明、バラモン教の前 身ヒンズー教の「結跏趺坐」にあるが、是以前は、農耕生活集落での 瞑想である。 我々人類は天上天下唯我独尊為る釈尊の手掌上の悟空にも及び得 ない存在にも為り兼ねないのであるが、小生『最後身心』からすれば、 其の釈尊すらも、鐵漢手掌上の釈尊、と言う以外無いのである。 「解脱」すれば、後は必然的に托鉢と「後行」と云う事に為るのである。 大学で専門分野で社会的に活かすか、更に大学で極めるかであるが、 小生は事情で、鉄牛寺を出ざるを得なくなって、其れと同時に後行入 り出来た訳である。 小生の場合、坐禅を覚えて以来、今にして思えば、万事が「覚天」迄の 超最短路であった。 何か一つでも在ったら、「覚天」に迄漕ぎ着く事は不可能であった。 奇跡と云うものは、生起して初めて、其の必然性を思い、其れ迄の自 分が、悉(ことごと)く正しかったのだと確心するに至るのである。 起り得る筈の無かった事、奇跡中の奇跡事が起こったのであるからで ある。 少なくも、万物の霊長足る者は宇宙に対峙し、空虚にして荒涼たる宇 宙に対しては、他者に対する如く、制すべきものとして捉えがちである。 其処にこそ幸福と平和が在ると短絡思考しがちである。特に西洋に於 いては、其れこそが西洋の特質足るべきものである。 晴天の霹靂(へきれき;急に雷が激しく鳴る事。)である。 時間と云うものは機械的なものではない。 刹那が永遠と成る。 機械的な時間経過は本質無き現象的時間経過に過ぎない。 一方、本質的時間と云うものは、刹那に「永遠入り」するものなのであ る。 本質は現象する。 本質とは時間と空間に限定される物質(マター)である。 物質(マター)はエネルギー其のものであり、星を生み、諸元素を生み、 生命を生み、人類を生み、身(欲動)から情動、心(大脳新皮質)を生じ たのである。 其れが故に、人類のみが本質に違(たが)える諸悪の根源為る三毒( 貪・瞋・癡)によりて、本質から乖離(かいり)し、地獄を生んだ。 一方、本質の涅槃化エネルギーによりて釈尊は四苦(生・老・病・死苦) を悟り、『最後身』として、涅槃への永久機関の扉を開いたのである。 斯(か)くして二千五百年後、小生鐵漢によりて、涅槃為る宇宙の真理 を吾身心に体現し得て、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰し、『最後 身心』として、従来の人類三毒(貪・瞋・癡)に基づいた世界体制から、 涅槃為る宇宙真理に基づいた世界連合を構築し、世界人類の幸福と 平和と繁栄を完遂為ら使めるのである。 生きる糧を、乞食(こつじき)によって、極めて自然なる人の好意、善意 、信心によりて得る。 真理と托鉢と教導とが一体と為って、其れ等の調和と均衡と静謐であ る。 「解脱」無くして、「涅槃」、つまり真理無し。 奇跡在って初めて、人に真理、真に生きる道を説く事が出来るのであ る。 人間に出来ない事を説いても無駄ではない。 人間は自己の能力だけではない。 信受して、行動する。其の心が菩提心である。 菩提心無き人間は、諸々の禽獣(きんじゅう)と相異なる事無し。 釈尊の正伝の佛法の正師と、身心脱落した(=悟った)純粋な坐禅と の空前絶後の化学反応が、原子爆弾の様に原子核分裂によって核子 の結合エネルギーを放出せ使めたと云うのでなく、四十年足らずの後 に、涅槃為る宇宙の真理に至ら使めたと云う事は、一方は本質回帰し て、其の現象を涅槃化した。そして一方は現象回帰して、其の本質を 地獄化したのである。 《 憲法改正 》 憲法為るものは、国民、或いは世界人類が幸福、平和に生きる為の、 物質的、精神的基本的条件確保を目的とする、最も有効な手段である 。 是に基づけば、世界人類が幸福・平和裡に生存し得ると云うものであ る。 国家のものと、国際的なものが必要である。 小生『最後身心』が宇宙原理に至り得た事によって、自(おの)ずから、 従来の三毒(貪・瞋・癡)を本有する人間原理に基づかない、涅槃為る 宇宙原理に基づき足る憲法に移行しなければ為らないのは当然であ る。 従来の憲法に基づいて、改正すべき処を細部に亘って、大胆に施さね ば為らない。 然(しか)るに、真に改正すべきは、憲法以前の世界の主要国家の指 導者達の意識である。 つまり、従来の負の世界遺産からの飛躍が不可欠なのである。 調和と均衡と静謐為る宇宙涅槃を、幸福・平和・繁栄として、世界人類 の生命に具現しなければ為らない。 《 自己の命の尊さ 》 バイデン氏と習氏とプーチン氏の核兵器禁止条約締結の及ばなさが 世界の及ばなさだ。 此の及ばなさは人類三毒(貪・瞋・癡)に起因するものである。 是は悪意に他ならない。 二元相対世界に於ける、勝(強)者至上主義、つまり世界人類を勝ちと 負けで二分断する、ヒトラー独裁の優生思想に基づく強(勝)者原理で ある。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)は然(そ)うではない。 身に於ける、ゴジラや恐竜の時代は既に滅亡したし、心に於ける強( 勝)者原理も、今時の地獄で明らかとなったのである。 宇宙は調和と均衡と静謐が真理であり、世界人類の幸福と平和と繁栄 が真理なのである。 是は悪意では決して成立しない。 つまり、人類三毒(貪・瞋・癡)由来では世界は成り立たないのである。 宇宙の涅槃化エネルギー由来の菩提心を発(おこ)し、善意で、つまり 三善根(施・慈・慧)で、人類三毒(貪・瞋・癡)を凌駕して積極・能動的 に、世界の指導者達が率先垂範しなければ為らないのであり、其れが 指導者足るべき者の使命なのである。 然(そ)う云う次第であるから、 万が一、核抑止と云う事が実在するとしても、諸悪莫作位では、世界 は改善しない。 もっと積極的、能動的為る行為の源泉足る、宇宙の限り無き涅槃化エ ネルギー、つまり菩提心によりて、修善奉行其のものである、核兵器 禁止条約締結から、宇宙の真理に基づく真時代の一歩を歩み始めね ばならないのである。 核兵器や人種差別やヒトラー独裁等の勝(強)者原理は、真の(自己 の)命の尊さ(価値)を知らない処から生まれるものである。 勝たなければ、生きている意味が分からない。 生きている気がしない。 敗(弱)者の犠牲に基づいてしか成立しない、儚(はかな)き命に於け る二元相対の敗壊不安の世界である。 生命の真価は、他を排除して、弱肉強食原理で相対的に優位に立つ 事ではないのである。 生命の真価は「世界人類を生(活)かす」事で、比較でなく、自(みずか )らが自得するものである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)から生まれる、真の人を思い遣る心であ る。 是が涅槃化エネルギーの本質であり、命の尊さ其のものに他ならない 。 人種差別の根本は、人命に対する意識の欠如である。 人種レベルの問題でなく、もっと本質的な自己の命に対する価値を見 出し得ないが為である。 自己の命の尊さを知らないから、ヤレ核武装だとか、人種差別が生ま れる。 生命の真価を知ったら、原爆支配しようとは思わない。 人を人種で差別しようとも思わない。 総て根本は、自己の生命の真価を知らない処に起因するのである。 生命の真価は誰にも侵されるものではない。 総て、世界人類に於いて共通にして、等価なのである。 人類の癡愚で人間世界が侵(おか)される様な事が在っては為らない。 其の為にも、指導者達が率先垂範して、実行に移さなければ為らない のである。 是には、核兵器禁止条約締結以外無いのである。 是を拒絶、無視する者は世界に信頼関係を築く事は出来ない。 原爆支配以外の何者でもないのである。 行動に基づく飛躍が不可欠である。 温存、保身、忖度では世界に改善は無い。 核兵器禁止条約締結 ↓ 核兵器(バイデン氏)――〃―→真理(最後身心) ↑ ↑ 禽獣(きんじゅう)(三毒為る民) 最近の地獄裡の弱(敗)者の真実からも、宇宙の涅槃為る真理の一路 門への道程も生まれつつある。 即刻締結して、次世代に託さなければならない。 其れが我々の使命である。 世界連合に基づいて、涅槃への一方通行為るべし。 今、躊躇(ためら)うべきでない。 其れだけの、覚悟の時である。 二度と来ない、永遠の不滅為る恒常普遍の真理 である。 最早、引き下がれないのだ。 《 真理:「真実の奇跡」 》 真理は宇宙に一つ。 宇宙由来の、唯一「大解脱人」が晴天の霹靂(へきれき;急に雷が激し く鳴る事。)の恩恵を蒙(こうむ)りて「大涅槃人」と成った瞬間である。 学問や虚構では駄目。唯一、托鉢自活の坐禅による生涯厳密後千日 涅槃行によってのみ宇宙真理に到達、回帰するのである。 其れでは、「真実の奇跡」の足跡を振り返る。 起きる筈の無かった事が、奇跡中の奇跡事として生起したのである。 人類史上、嘗て三十数年間の坐禅行体験に於いて、刹那の心身によ る体現によりて、反射的に坐より起ち上がり、小生は二階の坐禅の部 屋から即座に階下へ駆け下りて、「教導入り」した訳である。 其の体現と云うものは、晴天の霹靂の如く、分別に亘らない、「行」で ない「人」だ!と体現せ使められ、反射的に覚醒せ使められたのであ った。 故に、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰し、宇宙の真理に至り得た 『最後身心』からすれば、鐵漢手掌上の世界の四大聖人(釈尊、ソクラ テス、孔子、イエス)と言う他無いのである。 「真実の奇跡」を体現して、至り得た真理、人類の万事は、此の真理に 当然、基づかなければ為らない。 何と為れば、 宇宙(恒星)→石→植物→動物→人類→宇宙(恒星) と 人類は身も心も、宇宙から生じ、宇宙へ回帰するからである。 此の真実を最初に、そして最後に覚(さと)った人間を『最後身心』とす る。 故に人類の諸能力(宗教、政治、学問、芸術、スポーツ等)は総て、 此の真理に基づかねば為らないのである。 斯(か)くして初めて、世界人類は宇宙に違(たが)う事無く、幸福と平 和と繁栄に至り得るのである。 違(たが)えば、地獄へ向かう。 刹那生滅の原理に基づく、因果の道理であり、不昧因果 の真実であ る。 《 能力と真理 》 自己の能力を発揮する事と、宇宙の真理を説く事とは真逆の全く別問 題である。 立脚点が前者は自己に在り、後者は宇宙である。 然(しか)るに、両者が重なる場合がある。 其れは、前者の目的が真理を志向して居る場合である。 そして、其の真理自体にも、従来の真為らざる真理か、或いは一年半 余り前以来の唯一の、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の真理かによって 、真為らざる偽為るものは、自己の迷妄に由来するもので、飽く迄も自 己からのものに過ぎないのである。 其れと、「信じる」事の本気度(真剣さ)に係わるものであると云う事で ある。神仏への信心と云うものは、然(そ)う云う信仰の世界である。 正に、小生の極佛行(=生涯厳密後千日涅槃行)は「解脱」後の、 100%、信すらも自己に留めていない処に於いて、初めて宇宙の涅槃 化エネルギーに因る開示が、青天の霹靂の如く突如として、刹那に奇 跡が生起するのである。 是が不昧因果 と云う偶然裡の必然性である。 涅槃為る宇宙の本質に本具する涅槃化エネルギーによる、涅槃化の 永久機関足る宇宙の働きに他ならない。 此の「覚天」為る体現によりて、人類の意識の根を根絶して、真理に至 るのである。 此処に於いて初めて、世界人類をして、幸福と平和と繁栄へ教導し得 るのである。 真と偽との見極めは忘れては為らない。 《 人類(三毒)を教導する宇宙真理 》 世界人類を制する事が出来るのは、人類の分別ではなく、真理為る 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)である。 人間が諸悪の根源為る三毒(貪・瞋・癡)を本有する存在であるからだ 。 然(しか)るに、人間の本質は、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)であり、 「世界人類を生(活)かし、生(活)か使め合う」涅槃妙心 である。 人類三毒(貪・瞋・癡)を退治するに、人間三毒(貪・瞋・癡)を以ってし ても、其れは二元相対為る勝敗、強弱の域を出ない処の、敗壊不安の 相である。 人類三毒(貪・瞋・癡)の産物為る、負の世界遺産の原爆支配体制、 ヒトラー独裁体制で厳格に制圧しても、不昧因果 にして、明らかに地 獄しか生み得ない。 根底から地獄に至らざるを得ないのである。 唯一真正の本道は涅槃為る宇宙の真理、つまり「宇宙(生命)の本質」 (涅槃)に由来する涅槃妙心智慧 によりて、世界人類の物質的、精 神的基本的条件確保を施政の目的と為す事である。 此の本質に回帰し得た『最後身心』のみが為し得、且つ人類間の最難 問も打開し得て、涅槃一路の歩みを進める事が出来るのである。 人間と云う者は、其の根源に於いて、身の生理(本能)的欲求から情、 情から分別へと進化を遂げた。 故に、分別の根底に欲求獲得の本能があり、菩提心が発(おこ)らな い限り、全体的に分断し、地獄の様相を呈せざるを得ない。 人類は元来、涅槃為る宇宙から生じたものであり、至極必然的に、其 の涅槃為る宇宙に帰するのであるが、心は身が帰する以前に、涅槃 為る宇宙(の本質)に回帰出来るのである。 否、回帰せ使められるのである。 飽く迄も、何事も自我を運びて物事は打開し得るものではない。 其の究極に於いて、必ず無我為る宇宙に無条件に教導されるもので ある。 至極、必然裡の偶然性に於いて、超奇跡的に小生が回帰し得て、『最 後身心』足り得た。 欲の延長線上の、如何為る分別によりても、世界人類を教導する事は 不可能である。 貪著を悟り、而(しか)も、少欲・知足の四(=生老病死)苦を解脱し、 分別生ずる意識の根を断ちて初めて、無我為る宇宙の本質(=涅槃 化エネルギー)に回帰し得て、唯一、空前絶後に、世界人類を教導す る事が出来るのである。 三毒(貪・瞋・癡)に基づく分別を教導し得るのは、唯、是によりてのみ 可能と為る。 宇宙の調和と均衡と静謐為ら使め足る緊張と緩和、厳密と柔軟の、 涅槃為る宇宙に於ける規則性の絶対相続を知り足る処は、涅槃回帰 し得た極佛行によりて至り得た処のものである。 《 志向性と運命 》 人間の運命(地獄から涅槃迄)と志向性(=心の趣向)は極(きわ)め て密接、且つ表裏一体である。 人間の心は、獣性から神仏へと、時には両者が交錯しながら、常に進 化し往くものであり、又然(そ)うであるからこそ、宇宙の涅槃化エネル ギーに基づく菩提心 の働きで何処迄も涅槃世界へ収束振動し往くも のである。 斯(か)るが故に、此の心の進化と共に、其れだけの涅槃(妙心)に基 づく「世界人類を(、必然的に自己を)生(活)かさんとする」涅槃妙心智 慧が保障されているのである。 駿馬(しゅんめ;足の速い優れた馬)は、直観的に逸(いち)早く、其れ を察知して、心の志向性(趣向)が機能し、従来の人類の正の遺産に 於ける可能性を俯瞰(ふかん)し、鋭敏な嗅覚で正鵠(こく)を射る事が 出来るのである。 釈尊の坐禅であると云う事を。 是は半(なか)ば、無自覚に幼児が好みの玩具(おもちゃ)を手に択(と )る様に、恰(あたか)も磁性が働いているかの如くに的を射る。 果たしても、初めて坐禅を組んだ刹那が、此の人間の生涯を、且つ人 類の運命を決定(けつじょう)するのである。 小生は生来、人間の為す様な事に興味を持てなかったが故に、小生 が、嘗て人類が為さなかった事を為して、独り犀の角の如く、容易に解 脱し、宇宙の真理によりて「涅槃入り」し、宇宙の涅槃に回帰し得たの である。 若し、然(さ)もなくんば、絶対、不可能事である。 人類は、其の長所を活かしつつ、亨有する「宇宙(生命)の本質」(涅 槃)からの促し を享受せ使めて、涅槃と云う目標に向かって収束 振動すべく、共に心の進化の歩みを遂げねば為らないのである。 是が真の多様性 と云うものである。 然(しか)るに、是に絶対不可欠為る者が釈尊と吾師伴鐵牛老師であ った。 釈尊とは、バラモン教の伝統の花果であり、伴老師とは、禅宗の伝統 の殻を、蝉(せみ)が幼虫から脱皮し、羽(う)化して飛翔するが如く、 在野で御自身の道を歩まれた古佛でありました。 「閑(しずけ)さや 岩にしみ入る 蝉の声」 人間に在るものは、三毒(貪・瞋・癡)と執著と迷妄と四苦のみである。 是等の人間の持ち物に比して、如何に坐禅の功徳の秀逸為るかであ る。 此の本質的眼力が不可欠である。 一方は、永遠に地獄行きであり、 もう一方は、永遠に涅槃へ赴(おもむ)くのである。 《 涅 槃 》 涅槃とは物の問題ではない。 心の問題である。 心とは、如何為る状況下に為っても、「是(これ)で是(ぜ)」と云う本質 的達成感であり、現象以前の徹底した、其の本質を重視する立場であ ある。 現象と云うものは、其の人の時処位によりて様々に変化せざるを得な いものであり、恰(あたか)も無色透明な光が、状況に応じて限り無き 色相を呈するが如く、無限多角であり、真の多様性為る無限正多角形 が奇跡為る粒子的、段階的涅槃回帰への「覚(さと)り」の円相に基づ く、涅槃への波動的収束振動である。 アリストテレス以来の、「生命の起源」としての自然発生説が二千年間 、信じられて来たのであるが、十九世紀に生化学者パスツールにより て完全否定され、そしてダーウィンによる進化論が提唱されたのであ る。 其の後、小生が生まれた頃に、ミラーによる(雷の)放電現象によって 有機物が生じた事が実証されたが、其の後、生命の起源としての此の 仮説は認められず、其れ以来実証されていない。 是等の科学的把握(=仮説)と本質的達成感(=涅槃由来)に於いて 、科学的真理の最も長所足る処は、其れに因る、善き科学文明が生ま れる事であるが、其の真理を生むのは人類であり、真理(=仮説)其 れ自体に生命は無いのである。 一方、後者に於いては、人類を生むのは宇宙の真理であり、 此の涅槃為る宇宙の真理に立脚するものが、本質的達成感である。 涅槃とは、涅槃化エネルギーに因る宇宙の調和と均衡と静謐為る真 理であり、本質的達成感は其の涅槃の所産である。 「覚天」為る体現により、教導されて「涅槃入り」した自(みずか)らが涅 槃化エネルギーの体現者であると云う事であり、其処から真実が始ま り、「世界人類を生(活)かす」のである。 本来、淫快為るものも、此の涅槃を究極とするものであり、 肉欲に於いては、待っているものは四苦為る地獄に過ぎないが、 涅槃に於いては、「解脱」を経てからの、無量為る福寿である。 身は心に帰するのである。 元来、生命は涅槃化エネルギーの涅槃世界由来なのである。 涅槃世界は、解脱世界を超越して、涅槃妙心智慧によりて、人類の諸 能力を生(活)かす。 宇宙――――→身――――→心――――→宇宙 (=物質(マター)の (=物質) (=涅槃妙心) (=エネルギー) 涅槃化エネルギー) 《 原爆支配体制 》 人類が、其の全人類史を賭けて成り立たせようとする、今の原爆支配 体制であるが、其の状態の維持に価値が在るのではなく、又其の様に して居る状態に価値が在るのでもない。 真の価値は、止むを得ず「然(さ)在り」の殻(から)を脱却して、真正の 在り様を求める事に在る。 其の止むを得ぬ在り様が、「是が偽為らざる真正の在り様だ!」と云う ものを打ち出せる人間と成る心を、本来ならば、持たねば為らないの である。 小生の様に、古希に至る迄、ずっと、其れを維持して来たから、此処に 至ったけれども、常軌に則(のっと)って来た人達には、其の二元相対 世界から逸脱する事は容易ではないのである。 常軌必ずしも、真正とは限らない。 真の価値は、極悪から極善の涅槃への収束振動である。 小生で言えば、極佛行からの「涅槃入り」、そして涅槃に於ける極佛行 為らざる、其の菩提心の直接的な能動、積極的「人を生(活)かす」生( 活)き方なのである。 原爆支配体制の儘(まま)でなく、其処から直接的な能動、積極的「世 界人類を生(活)かし、生(活)かさ使める」生(活)き方である。 小生は、宇宙より体現せ使められ、真理を得たけれども、社会体制に 於いては、然(そ)う云う訳には行かないが故に、其の虚と実とが虚実 一如と為りて、涅槃収束振動し往かねば為らない。 此の正念を相続しなければ為らない。 此の信頼団結で世界が一致しなければ為らないのである。 「微に入り、細に入る」とは、微細に「人を生(活)かす」と云う事であり、 単に機械的に為ると云う事ではない。 《 自然と人類 》 世の中には自然に魅せられて、自然に自己を見失ってしまう人達がい るが、人類こそ自然が進化して生まれた、宇宙の花実である。 人類に有って、自然に無いものは自然を生(活)かし、世界人類を生( 活)かして、世界人類を幸福、平和、そして繁栄に至ら使める涅槃妙心 智慧である。 従って、人類が為すべきは環境に自己を見失う事ではなくて、 自己の本質を覚(さと)る事なのである。 故に釈尊も「自燈明」(自らの心を依り処とせよ)と説かれたのである。 自己の本質を覚るとは、「人を生(活)かす」べく、坐禅に親しみ、坐禅 によりて「悟り」、「解脱」して、「世界人類を生(活)かし、生(活)かさ使 め合わ使める」智慧を生み続け、其れ等を完遂し続ける事である。 故に、時処位に拘(かかわ)らず、コンクリートの中、仮令(たとえ)牢獄 の中に於いても、此の涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の真理に至る事 が出来るのである。 其の様に、常に宇宙(自然)は人類に、「宇宙(生命)の本質」(涅槃) からの促しを施している。 人類は自(みずか)らの心の中に、其の影を直感しなければ為らない。 《 「解脱」と「覚天」 》 「解脱」と「覚天」とは、夫々(それぞれ)「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に 回帰する最終段階と、其の前段階であるが、両者に共通するものがあ る。 其れは、両者に共通して、「人を生(活)かす」に満ちる事が無いと云う 事である。 仮令(たとえ)、100%、自己としては為し終えたとしても、其れは未だ 数%に過ぎないと云う事であり、又新たに、其れが継続し往かねば為 らないと云う事である。 如何なる場合も、「人を生(活)かす」に永遠に徹し切らねば為らないと 云う事である。 是だけは、両者の別が無い。 宇宙に果てが無い様なものである。 無量の涅槃化エネルギーに果てが無い如く、 自己の菩提心は無限に極まり往くのみである。 《 常 軌 》 敷かれたレールの上を走る事と、人生を生きる事は必ずしも一致しな い。将来、益々(ますます)其の傾向が強まるし、後者でのより本質的 な生き方は困難と為る。 人類の大脳新皮質が宇宙的十全さを以って機能するには、常軌を逸 するべき宇宙(多角)的考察、つまり人類三毒(貪・瞋・癡)に繋縛(けば く)されたものでない、世界人類の幸福と平和を忘れない、常に念頭に 置いた俯瞰的見地で考察しなければ為らない。 温存、保身、忖度では世界平和に至る処か、人心の本音は地獄行き に成り兼ねないのである。 《 『最後身心』の日常 》 小生、「覚天」して一年八ヵ月程。 小生の為すべき事は、後世に遺すべき事を教導する事である。 二十四時間三百六十五日は其の為にある。 其の為の正念相続が不可欠。 長年の極佛行で至り得た心の緊張感(=正念相続)が不可欠である。 此の日常の心の張りによりて、言語中枢が有効に機能する。 此の内在する宇宙的エネルギーと云うものは本質には絶対不可欠で ある。 其の為の最小限の規則性は敢えて設定するのである。 然(そ)うすべき必然性(=無限為る宇宙エネルギー)が在るのである。 規則性と柔軟なる大脳新皮質が結果的に相乗効果を生んでいる。 一進一退、自(おの)ずから、何処迄も向上し往か使むるのである、限 り無く。一退が二進を生み、二進が三退を招来し、三退が四進を生む、 と云う様に、菩提心は無限為る宇宙を現成する。 要は、自(みずか)らを恥じる心が不可欠である。 《 「覚天」後の規則性回帰 》 正法苦行為らざる宇宙規則性への回帰に於いては、回帰し得た小生 ですらも、〇(ゼロ)からの、『最後身心』の使命足る必然的規則性への 収束振動為らずしては必定し得ないのである。 《 宇宙真理(涅槃)規則性 》 3:00―――起床 2:00前後1時間 (ネット) (昼食) 5:30―――朝食準備 5:00―――帰宅 (ネット) (夕食準備) 8:30―――朝課 7:00―――晩課 (朝食) (夕食) 10:30―――托鉢準備 8:30―――片付け 11:00―――托鉢出発 11:00―――就寝 絶対規則性は 「世界人類を生(活)かす」 涅槃妙心と表裏一体で、 人類の貪を制する。 菩提心は宇宙を貫徹する。 《 『最後身心』 》 小生の死後、小生の主張を継げる人材は居ない。 其れでは、真理為る「教え」を如何するのか? 故に、即刻、世界の心進化せ使めねばならないのである。 世界列強の軍備は然(さ)る事ながら、世界人類が真に求める事は、 其の様な見当外れの事では無いのである。 如何して、真に殺し合う事を望む国民が在るであろうか? 其の様な人間は、世界の極々一部の現象至上主義者達である。 真に人類が求める事は、彼ら指導者達をも含めて、真実なる平和であ る事は言うまでも無いのである。 然るに、彼らに其れだけの真実なる心を持ち得ないが故に、止むを得 ず、時流に流されて、偽為る道に依存せざるを得ない孤独為る人材に 過ぎないのである。 人類は、是程に人類の真理(実)を知らざる、情け無き、癡愚なる人間 と為らざるを得ないのか? 人類の真価を、世界の両指導者達が率先垂範以って為し得ないのが 、実に情け無いのである。 一体、何処迄、其の様な癡愚を継続すれば気が済むのか? 《 相対と絶対 》 宇宙の現象界は万物が相関的関係にある世界であり、其れ等が涅槃 と云う、調和と均衡と静謐の絶対為る真理の世界を構成しているので ある。 是を具現するのが、人類のみならず、世界人類の幸福と平和を可能為 ら使める人間社会でなければ為らないのである。 世界各国が涅槃世界を構築すべく、絶対真理為る本質に基づいて、 信頼団結しなければ為らない。 其の為には、世界人類が、諸悪の根源為る三毒(貪・瞋・癡)の動物的 二元相対世界から脱却して、心の進化を遂げ、動物的為らざる人類と 進化し、絶対為る涅槃妙心智慧の世界に進化せ使めなければ為らな い。 日本に、其の人材が絶対不可欠である。 日本人の基本的な国民性は最も、其れに相応(ふさわ)しいが故に、 小生が日本で生起したのである。 《 人類史上初の世界の信頼団結 》 人類史上初めて、世界の諸国家が宇宙の真理(『最後身心』)に基 づく、米中を始めとする、露、中東、北朝、印、欧州、ミャンマー等々が 、自国のみならず、世界の平和への契機として、其の菩提心 により、 涅槃妙心(智慧)の信頼団結に基づいて、 小生『最後身心』が最後に説くべき、此の三毒(貪・瞋・癡)による二元 相対世界から全一為る絶対世界への、移行する涅槃化への関門の、 米国に対しては、日本の健全化 (=核兵器禁止条約締結 )と、 中国に対しては、台湾の健全化 とを完結し、 世界の涅槃化に進化を遂げ、世界平和への堅実なる歩みを進めねば ならないのである。 是が世界が初めての、彼等の善意に因る信頼団結の成果と為らん事 を。 《 自制と他制 》 他を制するは、敗壊不安の二元相対世界である。 自己を制するは、涅槃への一路門である。 自己を制する者は、自(おの)ずから、他をも制する。 他を制するは、有限にして、地上に臥し、 自己を制するは、無限にして、宇宙に帰する。 《 命の尊さ 》 小生が今遣って居る事は、時空を超えたものである。 時処位を超え、老若男女を問わない。 つまり人類の生命其のものに対するものである。 小生の生涯を賭(か)けて、 『最後身心』の立場で、語るべき事を書き残さんとするものである。 小生が語るべき事は何であるのか? 何が語れるのか? 抑(そもそも)、其の心の根底に何が在るのか? 儚(はかな)き生命に対する、此の上無き価値を思うからである。 刹那の命の尊さ以外無いであろう。 現象を伴わない、刹那の命の本質の価値、其の尊さ以外無いのであ る。 人類は其処(そこ)に立脚すべきである。 換言すれば、是は「悟り(身心脱落)」であり、「解脱」であり、「覚天」なの である。 其処(そこ)には、其の命を生(活)かさんと思う心しかない。 此の原点を忘れては、人類は動物同様に為ってしまうのである。 人類が動物と異なるのは、悟って涅槃為る宇宙に回帰する、 最終生命である、と云う事である。 何と為れば、宇宙に回帰し終えたが故である。 宇宙は「生命の価値」に至るのである。 宇宙の花実は「生命の価値」以外の何者でもない。 宇宙は語らずして、其れを語るに余りある。 其れとは、「普遍的命の尊さ」であり、 『最後身心』も必ず其処に至るのである。其れ其のものに他ならない。 此の莫然として、抗し難い、抗し得ない唯一の不動。 此の黎明と薄暮(=黄昏(たそがれ))を永遠に説き続ける。 説き続けなければ為らないのだ。 正に宇宙を生(活)かす光の如し。 何も無く、而(しか)も総てを内包し尽くし、生命を醸(かも)し出すので ある。 此の正に光に留まりて、語り尽くさねば為らないのである。 否、然(そ)う在るべきである。 若し、生まれ変わり、輪転(=輪廻転生)する身であるならば、 自(おの)ずから、然(しか)るべき道(=政界)に身を投ずる。 是は、過去からの刹那の必然性以外の何ものでもない。 普遍的いのち の尊さ。 総ては、其処から出発しなければ為らない。 其処からして、自(おの)ずから一切は整うのである。 世界人類の普遍的、自他以前の刹那のいのち の尊さを思うべきであ る。 一切は、是に尽きる。 『最後身心』とは、普遍的刹那のいのち の事である。 是は「悟り」や「解脱」や「覚天」では得られなかった、回帰後の落ち着き であり、尊さであり、喜びであり、温かさであり、優しさであり、希望であ り、快さ、静かさ、安心(じん)、仄(ほの)かな明るみ等々感覚的総て。 人間の能力と、能力を超越する向上(下)門(=菩提心)では生み出せ ないもの。 本来、人類の生命を支えているもの。 宇宙の調和と均衡と静謐為る真理である。 此の一点を表現するだけでも、生涯懸かっても、全てを説き尽す事は 出来ない。 何言っても尽くせないのである。 宇宙から施されたものだ。間違い無く。 影や興奮の無い、柔らかい、落ち着いた、嬉(うれ)しい様な安堵感、 労する事無き、施されたものである。 改めて、さあ一体何を語るか、と始めた時に、小生が、是迄如何なる ものからも体験されていないものである。 人類に不可欠為るものが、自己(の云った事)に対する、恥を忘れない 心である。 人類に恥(=慚恥(ざんち)の念)を抱かせる大いなる心。 是は自己の使命感であり、世界平和を思う心、人(の命)を思う心 で ある。 故に、世界人類が涅槃への収束振動し、宇宙に帰一出来るのである。 釈尊『御遺教』に、 『慚恥の服は諸(もろもろ)の荘厳に於いて、最も第一也とす。 慚は鉄鉤の如く、能く人の非法を制す。 是の故に比丘、常に慚恥すべし。 暫(しばら)くも替(す)つる事得る事勿れ。 若し慚恥を離すれば、則(すなわ)ち諸(もろもろ)の功徳を失う。 有愧(うぎ)の人は、則(すなわ)ち善法あり。 若し無愧(むぎ;恥じる心を知らない)の者は、諸の禽獣と 相異なる事無けん。』 只々、菩提心の堅固為る事を。 つまり規則性と涅槃と云う、現象面と本質面である。 小生が、五十五歳の頃、鉄牛寺に戻った時、 独参室の正面奥の経机の上に御老師の御遺骨が置かれていた。 そして境内の梵鐘に、「鐘の音を聞いて悟られん事を」と最後に彫刻さ れてあった。 小生が千日行(初行)を完了して、聞いた除夜の鐘の響きである。 宇宙全体がうねるが如く、ゴローン、ゴローンと、引っ繰り返らんばか りに、鳴り響き渡(わた)ったのを憶えている。 御老師が伝えてくれているのだなぁー、と其の時思った。 生涯で、其の除夜の鐘の響きを耳にしたのは、其の時だけである。 小生、四十歳の時であった。 如何(どう)にも、不可思議な事であった。 だから思うのである。 同じ鐘の音(ね)でも、其れを聞く者の心の在り様で、全く異なるものと 成ると云う事である。 是は実に恐ろしくもあり、又我々には、此の事を確(しか)と肝に銘じ、 魂に銘じなければ為らないのである。 此の事は二つの教訓を、我々に提示する。 一つは、「本質は常に一つである」と云う事。 そして、もう一つは、「常に物事は本質的主観性と現象的客観性の両 面性が在ると云う事であり、物事と云うものは、是等の両極で捉えなけ ればならない」と云う事である。 其れ等の把握が同時に出来ねばならない。 何と為れば、宇宙は其の本質が現象しているのであるから。 現象のみでは本質を弁(わきま)えないし、 本質だけでも現象が生(活)きない。 本質無き現象とは、弱肉強食の動物的世界に止(とど)まる。 本質為る涅槃に帰するのでなければ為らない。 怖(こわ)くもあり、是等の弁(わきま)えが必須である。 現象に執著して、本質を見失ったものとは、所謂(いわゆる)、敵(かた き)討ち等の悪の連鎖 、勘違い、早とちり、短絡思考、浅薄さ等々、 と云うものであり、そして、其れ等への固執、執著である。 何(いず)れも、其れ等によりて分断等の、世界は地獄に陥(おちい)ら ざるを得ないのである。 『最後身心』から告ぐ、 世界の真理は戦争や勝敗でなく、 つまり、虚空に杭(くい)を打つので なく、其の杭(くい)を凌駕(りょうが) する菩提心で、「人を生(活)かさん」 とする涅槃妙心である。 《 真の天才 》 真の天才と云う者は、普通の人が遣(や)れる事を自(みずか)ら遣って 、世界人類を教導出来る人間の事である。 尤(もっと)も、其処(そこ)に至る前段階が既に完了している人である。 自己とは、諸悪の根源為る三毒(貪・瞋・癡)を本有(う)し、是を温存、 増長する人類の有機的構成系内の一存在に過ぎず、彼らは「正しい事 は正しい事、為しては為らぬ事は為しては為らぬ事。」の能動、積極性 の「修善奉行」が生じ得ない人間であり、「諸悪莫作」すらも無い。 自己の三毒(貪・瞋・癡)を温存、増長、保身、忖度するのが、有機的 構成系内の、真理を眩(くら)ます、人類の真実の姿である。 是が、人類が本有する人間三毒(貪・瞋・癡)の貪(欲への執)著由来 の瞋恚(しんに;怒る事)であり、人類の最終的、癡愚なる人間、癡愚 なる自己の真実の姿なのである。 又、其処(そこ)迄、人間と云う者を見徹した人間を真の天才と言うの である。 此の天才に至るには、 其処(そこ)迄、人類から誤魔化されてみた、人間の菩提心でなければ 、及び得ないのである。 斯(か)くして初めて、諸悪の根源為る、人類の身心(=三毒(貪・瞋・ 癡))を教導出来るのである。 其れは、涅槃 と規則性 であり、規則性は、其の人の規則性で、 小生であれば、日課も含めた日常茶飯事であり、其れと、 午前中十一時迄には、何も無い時には托鉢に出て、 午後八時半迄には、夕食後の片づけを始め、 早朝三時から午後十一時迄は、寝ない事である。 此処迄に遣れる、と云うのは、奇跡中の奇跡が在っての事であると云 うのは言う迄も無い事ではある。 小生が遣れているのは、日本人の好意と善意と信心の賜物であるが、 其れでも、世界が地獄であると云うのは人類三毒(貪・瞋・癡)の為に 他ならない。 では日本人の特質は如何(どう)なのかと言えば、尊貴すべきものであ れども、三毒(貪・瞋・癡)が有るのである。 小生は日本人の此の特質が世界人類が最も尊貴しなければ為らない 処であり、是無くしては世界が地獄に堕ちざるを得ないと云うのが真実 であるが故に、日本人の此の特質は決して見失っては為らない。 是が小生であり、小生が是なのである。 是は真実、世界を教導しなければ、世界が此の日本足り得ない、換言 すれば、地獄為らざるを得ないのである。 日本であるからこそ、涅槃足り得ようとしている、最後の砦(とりで)な のである。 日本は世界に対し、垂範以って、世界を教導するのでなければ為らな い。 量や力でない。其の本質である。本質が現象する。 世界大戦は二次で終えた。 日本(人)が日本(人)足る事が、世界が世界足る事と為るのである。 日本人が『最後身心』を以って、世界人類をして観奮興起(かんぷんこ うき)せ使めねば為らないのである。 人類の心の進化と云うものは、此の二元相対世界をして、不退転に、 老若男女を問わず、「花(=三善根(施・慈・慧))より団子(=三毒(貪 ・瞋・癡))」に非ず、涅槃妙心足る「人を生(活)かす」に為れるかと云う 事である。 《 真理と人類 》 真理と人類とは、真理と身と心と云う事である。 真理 とは、涅槃為る「宇宙(生命)の本質 」の事である。 万法とは、森羅万象と心、つまり一切合切全てである。 道元禅師は、仏道は万法に証せられる事であり、其れは悟る(=身心 脱落する)事と言われた。 万法とは、現象する本質の事である。 是は真理に他ならない。 万法に於いて、真理より人類生ずる。 身も心も真理に基づくのである。 真理とは涅槃為る宇宙の事である。 身も心も涅槃に基づくのである。 要するに、世界人類は『最後身心』に基づかねば為らない と云う事 である。 世界人類の「教え」は『真遺教』であると云う事である。 人類史上、今が其の黎明である。 是迄には、全く在り得なかった事である。 従来の世界の在り様は、是迄とは一新しなければ為らない。 法に於いて然(しか)り。世界情勢に於いて然り。 世界の主要指導者、取分け、バイデン氏、習氏、プーチン氏は、 将来の人類の世界を明確に打ち出すべき責務を担っているのである。 其れだけ、偽らざる本音で臨まねば為らない。 三者の本音が、何処迄、涅槃に心の進化、帰一出来るかである。 小生が回帰した以上、 帰一すべきである。帰一しなければ為らないのである。 《 世界の平和 》 世界各国の国民は、当然自国の平和を希求する。 其の施政も自国民の幸福と平和と繁栄に基づくものである。 世界中の各国が夫々、同様であるのであるが、力と量の国家は自ず から、良質な布施を機能的に為すべきである。然(さ)もなくんば、真理 為る宇宙の調和と均衡と静謐を此の地上に具現出来ないであろうし、 因果の道理に基づいて、涅槃為る結果には至り得ないであろう。 斯く為る世界の主要国家の使命は、覇権闘争でなく、地獄様の、問題 を抱えた国家を機能的に生(活)かして往く、底辺からの支援、取り分 け、地獄国家は真理に基づく地球規模の信頼団結による真為る力と 量によりて、有無を言わせないだけの涅槃妙心力を内包し得る様に為 らなければ為らない。 地上が少欲・知足であれば、ゆとりを持って可能と為る筈である。 孔子滅後の紀元前の古典(歴史書)、『書経』と『史記』に夫々、 『地 平らかに天 成る』と『内 平らかに外 成る』と、 人の心と人類、国内と世界とについて語られている。 日本の年号「平成」の由来である。 此の根本を弁(わきま)えれば、自(おの)ずから、必然的に涅槃現成 (げんじょう)するのである。 是が世界人類の涅槃への心進化の正道である。 《 真理を得て智慧を生(活)かす 》 人間の生命は有限であるけれども、小生鐵漢、『最後身心』の真理は 永遠不滅にして恒常普遍である。 「覚天(=涅槃入り)」は人間世界と正法苦行の仏界との人行両極間 の心の往還(おうげん;往き帰り)の収束振動の究極に於いて、自(お の)ずから生起(せいき)せ使められた奇跡中の奇跡事であった。 斯(こ)うした解釈は、釈尊が成道後、仏道(法)(=悟り学)を解(げ)せ 使められた様に、小生は「覚天(=涅槃入り)」後、涅槃回帰学としての 解釈を、禅学であるならば、其の後編として説いて居るに過ぎない。 しかし実際は、説明が先行するのではなく、無意識的に感知して居る に過ぎないのである。 人間は峻厳な岩山を登るのに、迷ったら、無意識的に頂上に辿り着く べく、上りやすい坂道を駆け上って往く様なものである。 振り返って、其の行程の説明には余り意味は無いのであるが、釈尊が 坐禅の功徳を滅苦の道(=四聖諦の義)として説いたのと同様である。 坐禅の実際と禅学とは本質的には全く異次元のものである。 刹那生滅の原理に基づく、因果の道理である。 又、回帰後の真理の教導の段階に於いても、規則性と涅槃の間の、 つまり時間的規則性と「真遺教」作りの主客の関係に於いて、 如何に遣っても旨く作動しない。かと言って、回帰前は既に無いし、真 逆(=ネット主体)も不味(まず)いし、何故に此の様な事に為るのか、 と。不思議である。 では、大体で宜しいかと、是も当然駄目。 挙句の果てが、真っ先に日程を作った時に戻って、ポイントを絞り込ん だ。最終的にポイントは、托鉢出発時と夕食後の片付け時の二点と為 った。其れから、其のポイントの絞り込み、ジャストか大体か? ベストは、迄(まで)だ!此処(ここ)迄来ると、其処(そこ)への決着で 善い。確実な! 是は滑稽(こっけい)に思えるが、斯(か)くして初めて、人類三毒世界 の有機的構成系内の一存在為る自己が如何に在るべきかの、真実為 る教え(=真理)が、戦争にも、覇権対立にも、人種差別にも、ヒトラー 独裁にも陥(おちい)らずに、真理為る「教え」として、此の涅槃妙心智 慧を得る事が出来、地獄へ陥る事無く、平和裡に、涅槃為る宇宙の 調和と均衡と静謐を具現し足る世界人類の幸福と平和に至り得るの である。 《 淫快について 》 淫快は望むと望まざるとに拘らず、種の存続の為に不可欠為るもので あり、是無くんば、時処位に拘らず、人類は存在しないのである。 然るに、其れを認識したのは、正法苦行前後の菩提心によりて、完璧 為る無漏(むろ)から、「涅槃入り」後、つまり了行後の、坐禅を捨てて、 禅心でなく、日常生活(ネット(製本)と托鉢)に復帰してからである。 老師は嘗て、「泥水を飲んで小便にして出してやった。」と言われた。 是、人間と云う者は有機的構成系内の一存在であるが故に、科学で は及ばぬ、不可思議為る処があるのが真実である。 『最後身心』に於いても、 欲しも、貪求もせざれども、心的淫快は消滅しないと云う事である。 食欲は食べ、睡眠欲は寝る様に、有機的構成系内の一存在として、 『最後身心』為らばこそ、性欲は心的淫快足るのが真である。 以降は「泥水を飲んで小便と為した」。 悟って「覚天(涅槃入り)」すれば、涅槃為る宇宙に回帰する。 是が涅槃妙心を表す真の円相である。 円は如何にしても多角形には為らないのである。 直観は円に接近し得る。 人類の諸欲の志向する処は、人類三毒(貪・瞋・癡)である。 然(しか)るに、涅槃は、自(おの)ずからにして少欲・知足である。 初行、そして生涯後厳密千日涅槃行(=後行)によりて、人類に一点を も残さぬ、極佛行為る自己が、偶然裡の必然性為る奇跡、「覚天」に至 り得て、そして真理を教導する段階で、淫快と云うものについて向かい つつ、今に至り得ているのである。 要するに、人類の諸欲を凌駕する菩提心以って、「世界人類を生(活) かし、生(活)かさ使め合わ使むる」事に尽きるのであるが、世の中が 自(みずか)ら、そして隅々に至る迄、是が出来ないから、世界を地獄 に陥(おとしい)れざるを得ないのである。 《 令和の処世界梵 》 処世界梵(唄(ばい))は釈尊入滅二百余年後の中国魏の唄である。 日本では卑弥呼(242~248生誕)の弥生時代である。 『處世界如虚空 如蓮華不著水 心清浄超於彼 稽首禮無上尊 』 (しいしかいじきくん。 じれんかふじゃしい。 しんしんじんちょういひ。 きーしゅりんぶじょうそん。) 「世界に処する事虚空の如く 蓮華の水に著(つ)かざるが如し 心の清浄なる事は彼に超ゆる 稽首(頭を地に着く迄下げてする礼) して無上尊を礼し奉らん 」 更には、無上道(=正法苦行)を行じ奉るべし 。 初厳密行を了じた者は既に(水と油の如く)解脱域に達している。 更に、「覚天(=涅槃入り)」して「教導入り」すると、 地上は略(ほぼ)七十七億個を基(もと)とする三毒(貪・瞋・癡)の有機 的構成系内の様々な構成要素から成っているのである。 小生『最後身心』からすれば、処世界梵は、 「世界に処する事、其の儘に、心の清浄なる事は彼に超ゆる。 稽首(頭を地に着く迄下げてする礼)して、「(世界)人(類)を生(活)か し」奉らん。」と為る。 時間的、空間的、様々な環境下で人類の、極度に複雑化し往く人間世 界は、其れだけに、環境の変化に敏感に影響され易く為って居り、益 々本質に則(そく)した生き方が不可欠と為る。 薔薇(バラ)は花の女王と言われるが、野生のバラは既に三千万年前 にヒマラヤの麓や渓谷辺りが発祥地らしく、其の栽培史が古代中国、 孔子の時代に記録されている。 イタリアのルネッサンス期以降、フランスのナポレオン家で観賞用に栽 培され、二百年程前から新種が革命的に造り出され、モダンローズへ と進化を遂げた。 其れ等の観賞用の高級なバラは、病気にも罹り易く、維持するのは非 常に困難である。 世界は、其の現象面を極めると、其の本質から遠ざかり、根源的生命 力が消耗、拡散されてしまうのである。 現象的な豊かさ(=偽為る多様性)と本質的な豊かさ(=真の多様性を 維持する)とのバランス(調和)は、正に涅槃為る宇宙の本質であるの のだが、是は大脳新皮質のみで生み出されるのではなく、正に涅槃を 体現する、坐禅に基づく涅槃妙心智慧によりて、初めて可能と為る処 のものである。 人間は、覇権争奪の現象面のみに捉われるのではなく、涅槃為る宇 宙(生命)の本質に基づいて、人類間に「人を生(活)かす」の信頼団結 意識を醸成しなければ為らない。 其れ無くしては、涅槃(=調和と均衡と静謐)足り得ないのである。 《 『最後身心』の意味する処 》 身の進化から心への進化の移行は何を意味するのかと云うと、其れ は身の進化の終息である。 身は心へと其の進化を遂げた、と云う事である。 又、『最後身心』は一体何を意味するかと言えば、其れは心の進化の 完了である。 後は、宇宙から身から心から宇宙へと回帰して、其の涅槃化エネルギ ーによる涅槃回帰の永久機関であると云う事である。 涅槃妙心智慧による、涅槃への収束振動である。 宇宙が宇宙する事からは、宇宙自体も、其れから逸脱する事は不可能 なのである。 宇宙は宇宙から出る事は出来ないと云う事を見徹出来るのが、 宇宙の開示足る「覚天」なのである。 宇宙に回帰した『最後身心』は、地球上以上の生命の進化を遂げる事 は在り得ないと云う事の「証(あかし)」である。 回帰すれば、涅槃化エネルギー其のものであり、 涅槃化エネルギーが涅槃化エネルギー其のものを涅槃化(=進化)せ 使める事は在り得ない。 宇宙と『最後身心』との間に、如何為る介在すべき障碍(しょうげ)も無 いのである。 『最後身心』は宇宙を象徴する、永遠に不滅為る恒常普遍の真理足る ものである。 『最後身心』の他の、生命の進化の可能性は在り得ない。 実在とは、宇宙回帰の事に他ならない。 《 生死が無ければ ? 》 自己が置かれた時処位に於ける環境、つまり一切の後天的、外的諸 条件を排除して、自己の本源為る生命に立ち返った、自己の本質は、 世界人類(一部の精神疾患者を除いて)が、本具する処のものである。 是に接近し得た「悟り」体験で、釈尊は成道後、現実世界の諸現象に 対して、清浄為る心に基づいて、人類の根源的苦を生老病死の四苦 と為し、滅苦の道を苦集滅道の四聖諦の義として成道後、坐禅の道を 初めて説かれた(=初転法輪)のである。 涅槃為る宇宙への、実存からの探究心が、中学入学前後にも其の片 鱗が見られ、高校入学前後には其れが行動として表れ、大学入学して 医学部専門課程で、本気で其の関門を突破せざるを得なく為り、遂に 唯一為る坐禅に往き着いた(二十六歳の頃)と云う訳である。 そして、三年目位で身心脱落(二十九歳の頃)、愈々(いよいよ)本格 化して、それから四十年後、『最後身心』足り得たのである。 人間は自己一人で、全てが叶う訳ではない。 小生が坐禅に往き着くには、五千年前、古代インドのインダス文明の 農耕集落での瞑想が生じなければ不可能であったのだ。 現代では及ばざる、当時の多様為らざる心の原点に、其の因が在り、 其の因の究竟果が、小生の『最後身心』なのである。 因其のものは、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し に基づくもの に他ならないが、其の究竟果が「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰し て、其のものと為ったのである。 宇宙の涅槃化エネルギーによる宇宙回帰である。 要は、「悟り(身心脱落)」は坐禅の功徳の、安楽の裡(うち)に「悟れる 」。釈尊が断食苦行で中道 を得てこそ、成道されたのである。 一方、小生をして、涅槃回帰せ使めたバラモン教の伝統の究極の大 迦葉の十二頭陀行に於ける最後の「但坐不臥」は何故に生まれたの か? 其れは、釈尊をして、八大人覚の最後の修禅定、修智慧、不戯(け)論 に在る。 つまり、智慧を得る為の禅定に何処迄も徹する と云う事である。 釈尊、寂滅の楽の為の、徹底為るが故の「但坐不臥」であり、大迦葉 の頭陀行の行乞(こつ)の威儀としての「但坐不臥」なのである。 若し、是無ければ、物乞いの乞食(こじき)と大差無く為るのである。 乞食(こつじき)と乞食(こじき)との違いは、其の中に威儀を護持して いるか、否かの違いに過ぎないのである。 釈尊は二祖足る大迦葉には、唯一の十二頭陀行者として、一目置い ていた。 吾師の、仏界に於ける究極の一点の千日行(三時間坐睡二十四時間 仏作仏行)である。 人類に本質的に根本の四苦(=生きる苦(=実存)、老苦、病苦、死 苦)への志向性は、宇宙の涅槃化エネルギーによる、人類への「宇宙 (生命)の本質」(涅槃)からの促し への可能性無き実存苦為る自己 の心からの、其れへの探究から始まっている。 家出、放浪、就労、復学、医学生から真剣に、其の盲目為る最後の嗅 覚で嗅ぎ回る作業が、恰(あたか)も飢えた獣が餌を漁(あさ)る様に、 宗教、仏教、禅から坐禅と、獣(けもの)道を辿って、一冊の釈尊の坐 禅の小冊子を手に取ったのである。 そして坐禅を組んだ瞬間に、コレだ!と判(わか)った。 悟(=身心脱落す)れば、人間は「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に接近 し、不退転に求道する身と為る。 よって、是によりて四苦(=生きる苦(=実存))は絶対為らざるものと して直観され、菩提心に、更為る絶対的拍車が掛かるのである。 抑(そもそも)、小生、坐禅を覚えた当初(吾師に参禅して二年目頃だ ったと思う)に身心脱落した。 其の体現は9・11NYタワー崩壊の如き、自己の身心の崩落であり、 直後の、宇宙に生まれた、新鮮なる嬉々とした、根源的、吾為る意識 に立脚しているのは、小生でしか知り得ない処であり、其の確かさは 今に至りて、当時を思い出すのである。 正法苦行によりて、小生は了行後、十三~十四年間の就労坐禅行( =不臥三時間就寝)後であったが、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に触 れて「解脱」した。 此処に於いて、四苦(生きる苦(=実存)等)は解消された事に為る のである。 そして、十五年間程の後行によりて、更に「宇宙(生命)の本質」(涅槃 )其のものに回帰し得たのである。 若し、生きる苦(=実存)、死苦が無ければ、釈尊も絶対に生まれ得 なかったし、瞑想、ヨーガ迄で、苦行も生じ得なかったでありましょう。 生きる苦(=実存)、死苦が在らばこそ、「悟り(身心脱落)」生まれ、 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に導かれる身と為ったのである。 若者への良薬足るは、正に此の、生きる苦(=実存)に他ならないの である。 若い時からの楽な長寿位の耐えられないものは無いであろう。 本気で大志を抱くべきである。 坐禅の功徳と「悟り(身心脱落)」では、根深い迷妄迄は解消し得ない。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に接近し得ただけであるから。 而(しか)も、永遠為る三毒(貪・瞋・癡)世界には、人類は耐え得る訳 は無いのである。 世界人類の幸福と平和は埋没した儘(まま)、生き甲斐も、生きる喜び も消滅し、恐ろしい地獄を生み、動物的一生に甘んじざるを得なく為る のである。 道元禅師『正法眼蔵(生死)』に、 『生死の中に佛在れば、生死無し。生死の中に佛無ければ、生死 に惑わず。 唯生死即ち涅槃と心得て、生死として厭(いと)うべきも無く、 涅槃として願うべきも無し。此の時初めて、生死を離るる分在り。 此の生死は、即ち佛の御命也。是を厭い捨てんとすれば、即ち佛の御 命を失わんとする也。是に留まりて生死に著すれば、是も佛の御命を 失なう也。 唯吾身をも心をも、放ち忘れて、佛の家に投げ入れて、佛の方よ り行われて、是に従い以て往く時、力をも入れず。心をも費やさず して、生死を離れ、佛と為る。 佛と為るに、いと易き道在り。諸々の悪を作らず、生死に著する心無く 、一切衆生の為に憐(あわ)れみ深くして、上を敬い、下を憐れみ、万( よろず)を厭う心無く、願う心無くして、心に思う事無く、憂(うれ)うる事 無く、是を佛と名付く。』とある。 是は道元禅師晩年の作らしい。自力、他力を超えた境地である。 同年代の浄土真宗(=他力門)の親鸞聖人(1173~1262)に道元 禅師(1200~1253)が説法された事があったらしい。其の時のもの かと。 「悟り(身心脱落)」の「宇宙(生命)の本質」(涅槃)への接近だけでは、 未だ迷妄の域を出ないが故に、其れでは地球周回軌道を回り続ける 人工衛星足り得る迄である。 此処に於いて、正法苦行在りて初めて、真に生きる活力を得て、自(お の)ずから、やがて「解脱」に至り、其処迄至れば、更なる菩提心により て、人間世界には其れを受け入れるべき処のものが存在しないが故 に、犀の角の如くに唯独り歩む以外無いのである。 斯くして、必然的に「後行入り」して、其の延長線上の、世界平和を期 する生涯行に於いて初めて、其の偶然裡の必然性によりて、奇跡的 為る「覚天(涅槃入り)」を迎え得たのである。 若し、奇跡生じねば、同様に地球周回軌道を回り続ける人工衛星に留 まらざるを得なかった。 要するに極論すれば、迷妄為る永遠の闇か、其れとも覚了為る永遠 の光明かである。 迷妄の歓喜無き焦燥か、覚了の光明足る歓喜かであり、生命は其の 進化の過程に於いて明示(じ)されている如く、力と量の推度(すいたく )ではなく、其の真理為る本質の、涅槃に基づかねばならないと云う事 は、言う迄も無い事なのである。 人事は全て、此の根源から営まれるべきものである。 然(さ)もなくんば、世界人類は真理為る宇宙(生命)の涅槃には至り得 ないのである。 涅槃為る人類の真価を生きるのでなければ、地獄に陥らざるを得ない 三毒(貪・瞋・癡)為る人類からの心の進化を遂げ得ないのである。 其れでは、世界人類に対して、真に向き合う事は出来ないし、尊貴す べき生命を害(そこな)ってしまう。 他己の生命に対する心は、自己の生命に対しても同様なのである。 其れが本人に自覚されていないだけで、其の様な生涯を、自身が、送 らざるを得ないのである。 彼等は哀憐すべき人間達なのである。 真理を知った者が彼らを教導しなければ為らないし、其れだけの力量 を持たねば為らない。 力と量は、其の時に初めて、其れ等の真価を発揮する事と為るのであ る。 欺瞞に基づく力と量は世界を不調和と不均衡と騒乱為ら使め、地獄に 陥(おとしい)れるが、真理に基づく力と量は世界人類を、調和と均衡と 静謐為る涅槃へと導くのである。 そして佛を捨て、「世界人類を生(活)かし、生(活)かさ使め合わ使め」 、世界人類の幸福と平和を構築、完遂する。 其処に、鬼手佛心為る真の厳しさが要求されるのである。 人間と云う者は百遣ろうとすると、七十仕上がる。 百三十迄遣れば、百仕上がる。 七十位で良いと、四十位しか出来上がらない。 故に、然(しか)るべき信念を持つ者は、常に其れを確保する覚悟で、 其の正念を二十四時間忘れてはならない。 収束振動の涅槃回帰は不退転為る一路門である。 常に、其の志を忘れては為らない。 「花より団子」とは言うけれども、 人間世界と云うものは、花と団子との商量である。 団子為れぬ人間と、 団子為らんとする人間と、 花為らんとする人間と、 涅槃為る宇宙は常に涅槃への永久機関であり、其の様に進化し往く。 進化は、 「団子為れぬ」から、 「団子為らん」から、 「花為らん」と収束振動し往くものである。 動物から『最後身心』へと帰一し往くのである。 人間足る者は、斯(か)く在るべき存在なのである。 「人を生(活)かす」は、斯(か)く「生(活)きる」に基づくものである。 『為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは為さぬ心也けり』 「団子為れぬ」は指導者の責任である。 「団子為らん」とする三毒(貪・瞋・癡)から、「花為らん」とする三善根( 施・慈・慧)へ、「団子為らん」から、「花為らん」への進化は、身から心 への進化であり、既に其れは過去のものと為りつつあるが、未だ、道 遠し。 其処迄本気に為るには、「死ぬ」処のもので済む様な簡単なものでは ないが故に、神が生まれるのである。 人間の欲には生理(本能)的欲求と、攻撃欲や恭順欲も在るのである 。 自己に特化して (=絞り込んで)、 人に託す。 《 核兵器禁止条約締結と世界警察 》 世界警察を構築する為の試金石は、核兵器禁止条約の締結であ る。 そして日本足る事が涅槃為る宇宙に至る為の最短路であると云う事 である。 何と為れば、日本に於いて、空前絶後に宇宙の真理に至ったからであ る。 是等が、宇宙の最終産物である人類が至り得た最終結果なのである。 其れ故に、世界人類は、取分け日本の『最後身心』に倣(なら)うべきで ある。 文頭に述べた通り、核兵器禁止条約締結の積極的能動性が無けれ ば、世界警察の構築は不可能である。 世界警察が無いと云う事は、世界は未だ無秩序状態であると云う事で あり、此の高度物質文明化された世界は、未だ未完成極まり無いと云 う事である。 ミャンマー軍部の暴走然り。 不良中学生の殺人行為による、公然足る国家乗っ取りである。 是を罰するものを持てない。ミャンマー軍部と同類である事を認めざる を得ない事の証(あかし)に他ならないのである。 如何なる世界支配体制足る軍事力を軍備しても、其れは自国の富と 力を確保する為の物で、世界平和を構築する為には全く機能し得ない 物に過ぎないのである。 是では世界に恥を晒(さら)すだけでありながら、其の恥が無い。 『無慚(ざん;恥)の者は、諸々の禽獣と相異なる事無し。』 又、人種差別も然(しか)り。 米中露が心一つに為って、核兵器禁止条約締結の積極的能動性が 生まれ、英断が出来るか否かが、世界人類の将来を左右する。 今でなければ不可能である。 『最後身心』の今であるからだ。 小生の、托鉢の11:00迄と、夕食片付けの8:30迄に、24時間を絞 り込んだ様に、世界の指導者達は核兵器禁止条約締結に数年内に 確実に完遂する。 然(さ)すれば、他は自(おの)ずから、必ず整うものである。 是を、アレ遣ったり、コレ遣ったりしてみても、成らない。 其の間に、世界各国が生(活)きた、世界統一の信頼団結を醸成する。 《 東京オリ・パラ開催に寄せて 》 東京オリ・パラのマラソンは、都の思惑に反して、暑さによる選手の事 故に配慮したIOCの意向で、其の会場が東京から札幌へ移された。 然るに、IOCは日本での現コロナ禍の渦中に在りながら、東京開催断 行の一方的主張を強行すると云う態度に出た。 自己責任でもあるマラソン競技者に対する先の配慮にも拘らず、IOC の断行により惹起する処の、国内に於ける悪影響に関しては全く考慮 されていない。 其れによりて、確実に多くの被害者である、失業者、重傷者、死者等 の犠牲者が出るのは百%間違い無い処の事実なのである。 然(そ)うする事によりては、如何なる素晴らしきものも生まれ得ないの である。 多くの犠牲者の代償によりて得られた、一部の満足感であり、達成感 であり、名誉であるからだ。 是では、今後、将来のオリ・パラは世界平和の為ではなく、オリ・パラ 関係者、つまり政治家の為の施政、オリ・パラ事業関係者、メディア事 業者等々の営利、そして競技者達の達成感と誉(ほま)れ等の為のも のに他ならないと云う事に為ってしまうのである。 其の為に犠牲と為る、日本国民の健康と生命への懸念や、大多数の 国民の日常生活への悪影響や危機感への配慮を無視するものが、世 界平和の祭典と言えるであろうか? 人権侵害にも為り兼ねないものである。 世界平和の祭典とは、世界人類が心一つに行われるからこそ、平和 の祭典なのである。 其の様な身勝手な不条理な事は、日本国民一般には許容し得ないも のである。 世界の主要な指導者達は自国の事のみならず、東京への配慮、日本 国民への配慮が在るならば、絶対に其れは無視し得ないものであり、 是を強行すると為ると、是は国際的な暴力として、看過し得ない問題と 為る。 是こそ正に、力に因る強行手段として、第三次世界大戦への誘因と為 り兼ねないものである。 斯様(かよう)な状況下に於ける東京オリ・パラ開催は、確実為る、多く くの犠牲者を無視する、オリ・パラ(選手)至上主義以外の何物でも無 く為り、選手団自身にとっても、其の様な特権意識は許容し得ないもの であるだろう。 平和の為でなく、力と量による戦争の為のオリ・パラである。 オリ・パラを政治利用すべきでもないし、戦争志向の施政に為ってもな らないのである。 コロナ禍での、其の様な競技裡に、選手達の為のコンドームを配布す る等と云うのは、其れは戦時中の従軍慰安婦問題と同質の行為であ る。 其れも、コロナ禍での開催国に於いてである。 国家主導の人殺し家業で、殺し屋為ら使められた人達に性欲対象の 女を国家主導で世話すると云うものである。 世界平和を目標と為す国際的行事に、コンドームもあったものでない。 是等の不条理は、正に人類の諸悪の根源為る三毒(貪 ・瞋・癡)の典 型例である。 国家足るものが、国民をして、其の動物為ら使める行為は、為すべき 事ではないのである。 国家としての資格を根本的に喪失するものである。 是等は、只々、真剣さでなく、貪欲に基づくもの為るが故である。 恥を知らない。獣と同様である。 戦争は人間を獣にする行為である。 「剣の達人は剣を捨てる」。「競技の達人は競技を捨てる」。 人間と云う者は、其の「能力以前に人間である。」 と云う事である。 「涅槃為る宇宙の真理に基づくべきである。」 と云う事である。 他に採るべき手段が無ければ、仮令(たとえ)如何(どれ)程の犠牲者 が出ようとも致し方無いが、東京オリ・パラは中止しても、平時であれ ば、オリ・パラは永遠に続くべきものなのである。 然(しか)るに、確実に多くの犠牲者が出る事が明らかでありながら、 其の事を無視、或いは軽視して強行する事は、人命の無視である。 此の非常時の人命無視が、今後、将来に及ぼす悪影響は、世界人類 が今後、地獄に陥(おちい)らざるを得ないものと為る事は疑う余地も 無く、明らかである。 其れでも強行するならば、不昧因果 にして、因果応報、人類の将来 は人命無視の地獄しか待っていない のである。 中東の人命無視は、現時点では、避けられないが故のものである。 今後改善される可能性は十分に残されているであろう。 目下は避けられないが故に、地獄を続行せざるを得ないだけで、 東京オリ・パラは避け得るのである。 諸悪の根源、三毒(貪・瞋・癡)に起因するものであってはならない。 人命尊重より貪著によるものであっては為らないのである。 世界の流れが、然(そ)う為りつつある。 機械的な力と量との抑圧に因るものでなく、機に臨み、変に応じて、 其の時機、其の場に応じた適切為る行動で対処すると云う涅槃妙心 智慧の柔軟性を持って事に当らなければ為らない。 「人を生(活)かす」涅槃妙心を根本と為さねばならない。 是が宇宙の真理である。 《 涅槃回帰 》 人間の究竟(くっきょう)は、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」への回帰 である。 『般若心経』中の“究竟(くきょう)涅槃 <涅槃を究竟する>”の謂(い)わ んとする処は究竟(くうきょう;結局)、涅槃回帰 の事である。 人類の如何なる事であっても、是に究盡(ぐうじん;真理を徹見し尽くす 事)するのである。 此処に至り得れば、其れ迄の一切は肯定し得るのである。 逆を言えば、人類に本有する諸悪の根源の三毒(貪・瞋・癡)無ければ 、其処(そこ)迄の菩提心生ぜず、回帰し得ないのである。 生老病死の四苦によりて、人類は本質的に菩提心を発(おこ)し、 坐禅によりて、「悟り」、正法苦行(初行)によりて「解脱」する。 一方、人類は三毒(貪・(邪気)瞋恚・癡)を本有し、高度文明化と伴に 人類三毒は増長し往き貪著生ず。 三毒によりて、智者は是を三善根(施・慈・慧)に転じ、下化衆生すれど も、「人を生(活)かす」迄には、未だ至り得ず、三毒は極限に達して、 二度の原爆投下為ら使め、地上を制圧し、力支配した。そうして、其の 正に被爆国に於いて涅槃回帰し得て、究極の『最後身心』が人類史上 、空前絶後に当地に生まれ出たのである。 世界に唯一、正に日本が時代の終わりと始まりを体験する事と為った のである。 少欲・知足足る者に三毒(貪・(邪気)瞋恚・癡)無し。 然るに、生理(本能)的欲求(=性欲、食欲、睡眠欲)あり、金欲、名誉 欲、及び其の他の諸々の欲がある。 其処(そこ)に、執著、煩悩、迷妄が生まれるのであるが、 是が貪著から三毒(貪・(邪気)瞋恚・癡)害に迄至れば、地獄を生む のである。 然(しか)るに元来、人類と云う者は、清浄為る涅槃の宇宙から生まれ 、涅槃化エネルギーによる進化を遂げ、心身共に其の宇宙に回帰し 往くのである。 涅槃為る宇宙に原因し、涅槃為る宇宙に結果するのである。 又、三毒の程度によりて、人類は六道(趣)を経る。 地獄 餓鬼 畜生(三悪道)|修羅 人間 天人|(仏道) と。 人類の究極の頂点、『最後身心』は人間の意識で至り得るものではな い。 必ず下化衆生しながらの、托鉢自活による、生涯後厳密千日涅槃行( 三時間坐睡二十四時間仏作仏行)によりて初めて、奇跡中の奇跡が 生ずれば、「覚天(涅槃入り)」を体現出来るのである。 小生、其処(そこ)に至る迄に偶然裡の必然事で、十六年間掛かった。 涅槃化エネルギーによりて、霹靂(へきれき;落雷)が坐体幹の芯を貫 徹した瞬間、直後、空前絶後の呼吸の異変により、涅槃妙心を刹那に 覚(さと)ったのである。 「行」でない「人」だと。 小生が謂う処の「行」とは、人類の諸能力一切の事、自己を運ぶ事を 謂うのである。 是でなければ、世界人類を教導する事は不可能である。 故に、日本以外では為し得ないと云う事である。 さて、『最後身心』とは如何なる存在か? 究極の宗教者であり、且つ究極の施政者である。 僧に非ず、政治家に非ず。 僧をして、真の僧足ら使め、 政治家をして、真の政治家足ら使める。 宇宙に唯一無二為る存在である。 永遠の真理であり、涅槃為る宇宙である。 中東が何故に、日常的に破壊と虐殺を繰り返さざるを得ないのか? 其れは、微細に至る迄の 地上全体の在り様に、宇宙の調和と均衡 と静謐が現成(げんじょう)されていないからである。 資本主義の高度物質文明化による格差社会と、社会(共産)主義的独 裁体制による格差社会との覇権争奪に因る不調和と不均衡と騒乱で あり、不毛なる、極度の格差社会の、不毛なる貧民地域に生ずる極端 なる武(暴)力支配である。 是等を涅槃為ら使めるには、世界の支配者階級、つまり国連常任理 事国家が主導して、諸悪莫作なんかで済む処ではない現状に能動的 、積極的修善奉行無くして解決出来る事ではないのである。 其れが、核兵器禁止条約締結なのである。 其処(そこ)に、問題解決への菩提心が育(はぐく)まれ、其処に、信頼 団結への道が開かれるのである。 此処(ここ)に至りて、涅槃妙心智慧による、涅槃為る宇宙の調和と均 衡と静謐を現成(げんじょう)すべき、格差是正と非暴力と、新た為る、 多様性為らざる柔軟性への道が開かれるのである。 老若男女に拘らず、如何なる人間でも、其の心を射抜くのは真理であ る。 何と為れば、我々人類は涅槃為る宇宙の真理によりて、現存して居る からである。 人類の、善きも悪しきも皆、此の真理に帰滅するのである。 故に人事一切、真理に回帰した『最後身心』に基づくべきものなのであ る。 是が最短路である。 人類の如何なる能力を以ってしても、永遠に真理には至り得ない。 二度と、『最後身心』は生まれないであろう。 『最後身心』の真理は永遠に不滅為る恒常普遍為るものである。 厳密に言えば、涅槃回帰する迄は、自己は、必ずしも「真の自己に非 ず」と言わざるを得ない。 率直に言えば、「『最後身心』に基づくべきである」と云う事である。 又、逆に言えば、回帰する迄の自己とは、然(さ)為る自己に他ならな い処の、確証無き自己である。 『最後身心』にして初めて、「真の拠るべき自己」足り得るのである。 《 競売屋 》 小生は、其の立場からすれば、真理為る物件を競売に掛ける、売り手 としての競売屋の様である。 其の真理の価値は、涅槃為る宇宙であり、買い手のものである。 物件が真理であるだけに、真理を求める者にしか、是を観る目は持ち 得ないし、其の価値も解からないのである。 其処(そこ)に至り得た者のものである。 涅槃為る宇宙が人類を生み、涅槃回帰せ使めたのは、全て宇宙の涅 槃化エネルギーによる、涅槃への収束振動し往く進化によるものであ り、世界を牛耳るのは真理である。 又、令和新世紀は、空前絶後に、真理に至り得た黎明期である。 駿馬(しゅんめ)は、其れを瞬時に感知し、走り出すのである。 世界人類が一気に、心一つに為れる事を切に期待する。 隷属国から、厳として、或る現実が呼び起こす国民胸奥の声として、 真理無き社会通念の域から、微細を極めて、総ての人の胸奥(きょう おう)(=殺され行く者の正直な真実の叫び)に届く施政が、世界を虚 偽為る欺瞞から真実なる在り様に向かわせるのである。 不調和と不均衡と騒乱から、涅槃為る調和と均衡と静謐へ。 《 微細を極める 》 坐禅による正法苦行に於いては自己の生活圏は真の必要最小限で あり、其処に全身全霊を、生涯掛けるのである。 是は現象的には極度に限定された世界であるが、斯(か)るが故に、 本質的に宇宙と等覚の世界なのである。 自(おの)ずから、自己の心は既に「解脱」によりて無底に、刹那に及 ぶのであり、機熟して、宇宙の涅槃化エネルギーは、霹靂(へきれき; 落雷)によりて、地上の避雷針足り得て居る人物に放電する事によっ て「覚天」体現せ使めるのである。 真理に至るには、然(さ)も無ければ至り得ない。 「悟り」は其れ等の端緒であり、安楽の裡(うち)に済むが、以降は正法 苦行による三時間坐睡が必須である。 「悟り」、「解脱」、「覚天(涅槃入り)」は宇宙の涅槃化エネルギーが 刹那現成(げんじょう)する。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に接近する事無くして接触し得ないし、 接触する事無くして、涅槃為る本質其のものには為り得ないのである。 一般の人間では及び得ない処の、其の視力的分解能の如く、避雷針 足り得る処の、刹那に至る迄の時間的分解能が既に具(そな)わって いなければならない。 然(さ)も無ければ、宇宙の真理は手に入らない。 人間世界に、其の分解能が必要なのか? 其の様なものが無いから、トランプ現象の様な偽為る欺瞞が横行し、 アメリカ国民の半数を狂わせ、世界人類に対して、ヒトラー的差別意識 を惹起せ使めるのである。 世界を地獄にして、人の心情の見極めが効かない。 現象的見極めと本質的見極めとは皮肉にも、相反する方向性を持つ。 其の端緒としての「悟り」が如何に不可欠であるかが解かるのである。 「悟り」は坐禅の功徳 の副産物である。 故に人類が坐禅に親しむだけでも、世界平和への最短路足る真理へ の最上の伴侶足り得て、生(活)きる、最良の指針と為るのである。 《 涅槃の自他 》 人類は、三毒(貪・瞋・癡)を本有する生命である。 其れ故に、「殺す」の一歩手前に立ち留まっている。 然るに、「宇宙(生命)の本質」は「生(活)かす」の涅槃由来の三善根 なのである。 故に人類は、其の涅槃妙心に目覚めなければ為らない。 今に至って、依然として、「殺す」の狭小為る人間であっては為らない のである。 宇宙の涅槃化為る進化を共に遂げ往く、大人でなければ為らない。 此の真理に目覚めて、迷妄為る地獄を生んでは為らないのである。 其の為には、有限為る資に対しては、貪り合うのではなく、施し合って 、同等に負い目を負い合って、損得で対立すべきでない。 負い目を負い合う事無くして、世界平和を築く事は不可能なのである。 仏道には、菩薩の行願に「布施」、「愛語」、「利行」、「同事」とある。 「利行」とは、釈尊は『自利利人の法は皆具足す。』と涅槃妙心智慧を 般涅槃(はつねはん;御臨終)に臨んで、説かれた。 人に施した事は将来必ず自(みずか)らに施している事と為っている。 自己を益して居る事は総て、嘗て、無心に、人に施した事ばかりであ る。だから思うのである。「自利利人の法」だと。 人を生(活)かしてなければ、今の自分は在り得ないのだと。 道元禅師は『愚人謂(おも)はくは、利他を先とせば、自(みずか)らが 利省かれぬべしと、然(しか)には非ざる也、利行は一法也、普(あま ね)く自他を利する也。』と説かれた。 仏道は『最後身心』の確証を得て真理であり、佛恩は真恩なのである。 涅槃為る宇宙の本質は、涅槃化の永久機関であり、 其処に、機能として、自他の別は無い。 此の真理に目覚(ざ)めて、迷妄為る地獄を生んでは為らない。 負い目を双方が同等に負い合って、損得で対立すべきではない。 負い目を負い合う事無く、世界平和を築く事は不可能である。 資と云う物は、永遠不滅に恒常普遍為る物ではないからである。 涅槃妙心智慧を生(活)かさなければならない。 《 小生の体験からの結論 》 社会の「生めよ、生めよ」、つまり資本主義の人類三毒(貪・瞋・癡)に 基づく渇望からの発展は、高度文明化社会を生んだ。 其れが現代、資本主義と其れに対峙する社会主義的独裁体制として、 因果の道理に基づく、種々の人間生活への自然、人為の弊害を招来 するに至って、時代の終末的閉塞感と、新時代の幕開けとが同時進 行しているが、小生の体験から得られた事は、結論として、三毒(貪・ 瞋・癡)に基づくものは必然的に行き詰まると云う事である。 何と為れば、「宇宙(生命)の本質」は三毒(貪・瞋・癡)ではなく、三善 根(施・慈・慧)であるからだ。 必然的に、三善根世界としての新時代の到来に至るので、此処(ここ) に於いて初めて、時と共に人間社会の障礙(げ)(=煩悩障)無き進展 を遂げるに至ると云う事である。 是は三毒側からは、速効性無く、生む事に直結せざる様で、流れに反 する生き方の様に見えるが、俯瞰して見ると、帆船が風を得て進む様 に、次第に生きて来るのである。 其の為には、今の、「生めよ、生めよ」でなく、回りくどく、遠回りに見え るが、「急がば回れ」で、「脚下照顧」、「生(活)かせよ、生(活)かせよ」 で「人を生(活)かして往く」。 其れには、先ず宇宙の真理に基づかねば為らない。 涅槃為る宇宙真理を信じて、「人を生(活)かして往く」のである。 実益に直結しないと思うべきではない。 是こそ、真に「実益なのである」。 世界が一丸と為って、平和を志向する。 一丸となって、諸悪を制する世界警察組織を設置する。 是が、涅槃為る宇宙の真理為る調和と均衡と静謐を世界人類に具現 する正道である。 目先は捗(はかど)らなく見えても、核心から捗っているのである。 人類は主義主張等の理念や思想では万全足り得ない。 真理(実)に基づくものが、将来万全足るに直結するのである。 是は外的革命為らざる、個々の内的革命であり、其の菩提心を発( おこ)す 処から始めねばならない。 イソップ寓話に『兎(うさぎ)と亀』(文部省唱歌、童謡にも為っている)と 、旅人の上着を脱がさんとする、『北風と太陽』がある。 其れ等の教訓は夫々以下の如し。 前者に於いては、「過信(自信過剰)して思い上がり、油断すると、物 事を逃してしまう。又能力が弱く、歩みが遅くとも、脇道に逸(そ)れず に、着実に真っ直ぐ進む事で、最終的に大きな成果を得る事が出来る 。」と云う事。 又後者に於いては、「手っ取り早く乱暴に物事を片付けてしまおうとす るよりも、ゆっくり着実に行う方が、最終的に大きな成果を得る事が出 来る。冷たく厳しい態度で、人を動かそうとしても、却(かえ)って人は頑 (かたく)なに為るが、温かく優しい言葉を掛けたり、態度を示す事によ って初めて人は自分から行動してくれる。」と云う事である。 兎(うさぎ)でない、亀だ。兎は行き詰まる。 亀は正道で、最も遠回りであるけれども、一番鈍(のろ)く見える者が、 将来、一番先を歩む。 涅槃回帰し、他をして帰一せ使めるのである。 職場でも、目先は益に繋(つな)がらなくても、其れが真に世界を生(活 )かす人材足るのである。 つまり、現象的人間は三毒(貪・瞋・癡)に基づく傾向が強いが為に、 偽為る者で、行き詰まらざるを得ないが、 本質的人間は三善根(施・慈・慧)に基づく傾向が強いが為に、 真為る者で、涅槃に帰一し、世界人類に幸福と平和と繁栄を齎(もたら )し、世界人類を生(活)かすのである。 三毒人類が嫌(いや)がる事、三善根人類が好む事をしなければ、世 界は将来成らないのである。 如何(どう)して宇宙に拠(よ)りて、自己と世界を正す事が出来よ うか? 其の為には、確心無ければ出来ないのである。 其処(そこ)に於いて、世界が信頼団結しなければ為らない。 人間は短絡思考で、三毒に趣(おもむ)く傾向が一般的なのである。 故に、『最後身心』が、其の確心に至ったが故に、令和新世紀足り得た のである。 地上の不条理を正すのは、宇宙真理に基づく、世界の信頼団結以外 無い。 此処(ここ)にこそ、真に力と量が生(活)きるのである。 諸悪莫作でない。修善奉行足らねばならない。 主体的為る人と人との交わりから生まれる感応道交足る化学反応の 結果であり、此の化学反応自体に善悪は無い。 其れが善であったか、悪であったかは、所詮(詮ずる処)、『最後身心』 をして、是を善因、善果と為すものである。 小生は、原田祖岳老師と云う善因に因る善果である事は確かである。 是は伴鐵牛老師にしても同様であったと思う。 小生でも、『最後身心』に於いても、是と人との化学反応によりて、 涅槃化への最も有効為る化学反応を期待するものである。 世界人類の幸福と平和と繁栄の為に、一番確かなものは、自己の菩 提心 であった。 今から五千年前のインダス文明の農耕集落での収穫を齎(もたら)す、 汎神論的な自然との対話に於いて、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)か らの促し によりて、古代人の最も純朴な心に瞑想が生まれたが、 高度に文明化された現代に於いては、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)か らの促し(=光源)による、自心の三毒(貪・瞋・癡)の投影によって、自 己の心に影を生じ、其の影を自己が認識する事によって、自己実現の 菩提心 が生まれたのである。 此の菩提心 が、唯一宗教を志向せ使め、そして坐禅 (=釈尊)に往 き着いたのである。 其れから吾師の千日行 、そして托鉢 。 そして、其れ等を支えて戴いた一切である。 《 風 鈴 》 風鈴の音色(ねいろ)は、人をして静謐を味わわ使め、 そよぐ風に任せて 、快く、心和(なご)ませ使める。 欲は風鈴の如し。 そよぐ程であれば、風情もあるが、 強ければ、騒々しく、無粋である。 道元禅師の師、天童山の如浄禅師に「風鈴の偈」があり、 道元禅師『正法眼蔵(摩訶般若波羅密)』に語られている。 渾身似口掛虚空 (口に似て、虚空に掛かれり) 不問東西南北風 (東西南北の風を問わず) 一等為他談般若 (一等に、他が為に般若を談ず) 滴丁東丁滴丁東 (トツツェリティン、トツツェリティン) 「虚空に掛かっている風鈴は、全身が口其の物で、 東西南北を問う事無く、全ての風を一様に口全体で 真理(実)を語り尽くす。チリンチリンと。」 《 微 塵 》 一寸(ちょっと)した処に、物事の真理(実)を読み取る。 偶然の只、一寸(ちょっと)した瞬間である。 其の微塵(みじん)が、表面に浮上するは、 二十四時間の涅槃に基づいて、大脳新皮質の、其の志向性の為す果 である。 そして、其の微塵から真理が顕現するのである。 微塵が微塵でしかないか、 或いは、其の微塵に真理が、つまり微塵の真価が顕現するかは、 万物の霊長足る人類大脳新皮質の、新皮質足る処である。 本質の真理を見出すか、現象の法則を見出すか。 現象の法則は見出しても、其れを生(活)かすも殺すも、其の主体足る 人間其のものである。 然(しか)るに、本質の真理を見出す、否、見出使められるのは、 宇宙の真理其のものの働きである。 《 人間形成概説 》 『最後身心』からの、全人格育成に関する提言である。 人間形成は、他でもない、正に涅槃化エネルギーに基づく、涅槃への 収束振動に軌を一にするものである。 是が、個々の菩提心を覚醒せ使める事と為らねばならない。 是こそ正に人類が従来の身由来の本能以前の、涅槃為る宇宙の本質 由来の、本具する能力、つまり真の本能である。 教育の第一義は、此の身本能為らざる、真本能への自覚を促す 事。 是は、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し を人類に具現するも のである。 是に基づいて、人類の諸能力の多様化を図る。 是が本質的繁栄を齎(もたら)す。 以上によりて、基本的に、涅槃為る宇宙の調和と均衡と静謐に基づい た、世界人類の幸福と平和と繁栄に至ら使める事が出来るのである。 此処に於いて、小生が極佛行から、宇宙の真理によりて「覚天(涅槃 入り)」し、見事に生還し得た如く、 当て所(ど)も無く不毛為る、地獄へ至る人類の諸能力のゴジラ(恐竜 )化 に、調和と均衡為る全人類的恒常普遍性を有する、世界人類の 幸福と平和と繁栄を実現する事が出来るのである。 《 天の声 》 天の声と云う者は、全部出鱈目(でたらめ)である。 身の三毒(貪・瞋・癡)の地獄から出る事の出来無い処のものである。 『最後身心』からして、人類教導の多様性の道具にはなる事はある。 世界人類の(構成)要素為る個我の三毒(貪・瞋・癡)に負けて、地獄へ 至るものであるからだ。 《 三毒を凌駕(りょうが)する者 》 三毒(貪・瞋・癡)を凌駕(りょうが)するは、三善根(施・慈・慧)以外に は在り得ないのである。 然(しか)るに、本来三毒で三毒を凌駕し得ないのであるが、唯一、是 を可能為ら使める為には、涅槃への収束振動するだけの、不退転為る (ウサギとカメの)亀でなければ為らない。 小生も生きて往く為には、蟻(アリ)でなければ為らない。 蟻で居(い)る事が出来れば、遣って往けるのである。 蟻で居れるのは、真理為るが故である。 亀で遣れると云うのも、全く同様である。 何処迄も、是一徹で貫き通す。 是は小生をして、「涅槃入り」せ使めた最大の要因である。 三毒で三毒を凌駕せんと為(す)るは、果て無き、死に至る地獄志向の 二元相対世界である。 吾師、伴鐵牛老師も、其の為に、敢えて、自(みずか)ら亡くなられる迄 苦を舐(な)められた。 世界人類は修善奉行以外、世界平和は絶対に不可能なのである。 《 パレスチナ 》 パレスチナの内政は混迷を極める。 パレスチナは此処(ここ)に至りて、依然として、従来の轍(てつ)を踏む 事から脱却して、其の舵取りを、世界の新風足る潮流に切り替える勇 気を持たねば為らない。 今や、世界の潮流は高度文明化社会に於いて、初めての精神的、物 質的為る、人命の危機に遭遇し、生き方の根本的転換を図らざるを得 ない局面に至って居るのである。 是はパレスチナに於いても同様なのである。 パレスチナ国民全体の為に、今や、世界の新た為る潮流に便乗する 勇気を持たねば為らない。 《 宇宙の真理 》 日本が、小生『最後身心』を生んで置きながら、世界への其の真理の 発信元であるべき日本が明確為る見極めが効かないでは、世界人類 を教導する事は不可能である。 今後の世界人類の平和の為に、日本が世界に対して、其の真理とは 如何為るものであるかを説く事が喫緊の最重要事である。 其れは[世界人類を生(活)かす」 と云う事である。 「世界人類がより良く生(活)きる」とは、例えば、コロナ禍での東京オリ ・パラ開催に関して言えば、如何に在る事が「世界人類がより良く生( 活)きる」事なのか? 日本国民が、現コロナ禍中での東京オリ・パラ開催に於いて、今後生じ るであろう、少なからざる、生命を維持する事が出来無く為る事態を回 避する処迄は為し得ないと云う、日本の施政を国民が甘受して宜しい ものであるか? 国民と云う者は、決して是を甘受しては為らないのである。 世界に唯一『最後身心』を生んだ日本、そして主要国家が世界人類の 命を軽視したり、運に任せる様な、指導者の、人命及び生活に対する 感覚麻痺は、涅槃為る宇宙の真理に基づく世界人類の幸福と平和の 完遂には致命傷であり、日本の施政には疑問を抱かざるを得ない。 是は世界(人類)の否定に直結する。 人類を否定する事は、宇宙を否定する事であり、 真理為る日本が真理を否定する事である。 此処(ここ)迄、指導者の三毒が勝利すれば、「何をか言わんや」であ る。 修善奉行 とは、 オリ・パラ競技に磨きを掛ける事ではない。 世界人類の無意識的為る人命軽視の風潮が世界に横行する事に対 する厳密為る反省が不可欠である。 是が、「世界人類を生(活)かし、生(活)か使め合わ使める」事である。 「人を生(活)かす」 とは、 世界規模でスポーツを競う事ではない。 世界人類を平和裡に生(活)か使める事である。 世界の不幸や地獄を無くす事である。 スポーツで競い合う事は、生きる上で極めて局限されたものに過ぎな い。 「生きる」とは「スポーツ」ではないのである。 「スポーツ」は「生きる」一つでしかない。 「スポーツ」で平和を犠牲にすべきではない。 若し仮に、其の様な事が、仮令(たとえ)一人の生命にでも生じたとし たら、其れは規模の大小に拘らず、本質的問題であり、決して在って は為らないのである。 オリ・パラの在り様も、涅槃への世界人類の在り様の進化と共に、 進化しなければ為らない。 オリ・パラ開催については、 理路整然足るべきである と思うが、菅氏に一任。 米・中と日本との関係は 根源的問題である。 《 当り前 》 当り前 に普通で、自由であると云う事は、奇跡中の奇跡なのである。 安易の感を為す勿れ。 其の様な事は、厳密に言えば、無いと云う事である。 故に一般的には、何処(どこ)迄も宇宙の真理を解(げ)して、「人を生( 活)かす」と云う事である。 是に徹し切れば、十分である。 自(みずか)ら頭(こうべ)を撫(な)づべし。 夢、涅槃に弾(はじ)き出される事勿れ。 何事も、一足飛びに百%最善策を講じれるものではない。 一見愚者的な、涅槃への収束振動である。 《 ミャンマー軍部と中東 》 小生、推察するに、 体制の組織の中に入れば、没落しない為には勝ち抜く以外無く為る。 其処には世界人類も無ければ、「人を生(活)かす」も無い。 在るものは、保身の為の、「人を殺す」暴力と破壊の正当化である。 動機は単純。自(みずか)らが没落しない為。 たった是だけの動機が、体制の中ではヒトラー独裁足るのである。 弱肉強食の動物世界である。 中東は、過去を引き摺(ず)って行けば、収拾が付かなく為る。 是を平和裡に治めるには、絶対に過去を持ち出さない事。 其れが仮令(たとえ)、如何為る非合理な事であったとしても、将来の 祖先の為に、世界人類の幸福と平和と安定の為に、自己が、涅槃為る 宇宙に基づいて全てを取り計らう。 『最後身心』に基づけば、人類は過去の一切の負の遺産を〇(ゼロ)と 為し、以降、涅槃為る宇宙の真理に基づいて、信頼団結し、正の遺産 を築くのである。 《 小 生 》 小生 、鐵漢、『最後身心』には、 職業無し、任期も無し、組織も無い。 坐禅の如く、拠るべきものが一切無い。 独り自由である。 在るものは真理と、 「人を生(活)かす」自己と、 永遠為る涅槃。 日課、年忌、月忌。 托鉢。 教導。 全ては、此の永遠為る教導に懸かっている。 空前絶後為る、『最後身心』としての。 二十四時間、三百六十五日、生涯裏表が無い。 年中、窓を開放して坐禅を組んだ如し。 江戸後期の禅僧、書家、大愚良寛は、新潟に生まれ、岡山の円通寺 の国仙和尚を「生涯の師」と定め、十二年間の修業の後、三十四歳で 旅に出て、四年後、新潟山麓の草庵、五合庵に移り住み、二十年間を 其処で過ごす。 和歌、漢詩、俳句、俗謡に巧みで、書の達人であった。 無欲括淡にして、一般庶民に分かり易く仏法を説いた。 辞世の句が岡山円通寺の句碑にある。 「うらをみせ おもてを見せて ちるもみじ」 《 刹那と云うもの 》 「悟り(身心脱落)」、「解脱」、「覚天(涅槃入り)」の刹那は人間の能力 では及び得ない。 及び得るのは、唯、其れ等の体現に拠るものだけである。 であるから、人類は中々、覚(さと)れないのである。 只管(ひたすら)、小生、鐵漢『最後身心』の涅槃妙心のみが真理(実) を説くのである。 人類の肉眼の分解能に限界が在る様に、分別や直観でも不可能であ り、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの働きでなければ及ばない。 「剣の達人は剣を捨てる」様に、オリ・パラの達人ならば、オリ・パラを 捨てて、世界中の現今のコロナ禍の直撃を受けて、生き続ける事すら 困難と感じる、世界中の大部分の人々の生命に対して、可能な限りの 配慮を施す事こそ世界平和なのではないのか? 彼等を無視する事が世界平和なのか? 癡愚でない限り、子供でも判るのである。否、三毒(貪・瞋・癡)を知らな い子供であるからこそ、悪知恵が無いからこそ、其れが分かるのであ る。 世界を平和為ら使める。 真理為る涅槃を生(活)か使めるのである。 其れ程、真剣に為らねばならない。 三毒で短絡思考して、負の世界遺産為ら使めては為らないのである。 世界を涅槃へ進化せ使めるのは、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」であ る処の「世界人類を生(活)かす」涅槃妙心智慧に基づく時である。 真に、「世界人類を生(活)かしている」か、否か? 三毒(貪・瞋・癡)ではないのか? 微細に至る迄、能(よ)く能(よ)く其の都度、吟味しなければ為らない。 現コロナ禍でのオリ・パラ開催は人類三毒(貪・瞋・癡)の癡愚の極み である。 「人を生(活)かす」発祥の地、日本でありながら、好(い)い加減な短絡 思考で、微細を極め切れなかった。 三善根(施・慈・慧)が生(活)き切れなかった。 未だ、三毒(貪・瞋・癡)世界から脱却出来なかったのである。 未だ、「鐵漢手掌上の世界の指導者達」としか言い様が無い。 《 身心脱落 から 》 『身心脱落』 無くして、吾師、伴老師は、千日行で小生の心底を掌握 した上で、小生を野に放つ事は無かったであろう。 『身心脱落』 すれば、地上の何処(どこ)に居ても、宇宙の一点で、 同じであるからだ。 唯、無自覚の白紙が千日行を自己の手中にする迄である。 《 天 人 》 仏道に於いては、 三毒の程度によりて、人類は六道(趣)を経る。 地獄 餓鬼 畜生|修羅 人間 天人|(仏道) と。 (三悪道) (三善道) 「天人」とは、 古代インド、バラモン教のカーストの、最上位である バラモン(僧侶 階級)の下の、釈尊出生のクシャトリア(支配者階級)に属する人であ る。 四苦と迷妄の人間道の上位に在る、「天人」の住む天道では、 「天人」は、享楽の裡(うち)に生涯を過ごすが、死苦が在り、煩悩から は解放されず、最後は三毒(貪・瞋・癡)により、五つの変化と苦しみが 現れ(=「天人五衰」と称す。)、自分の在り様が喜べず、楽しめない。 地獄の十六倍の苦悩であり、平安時代には源信(恵心僧都)(天台宗) の『往生要集』では、「解脱」すべきと力説された。 又、「天人五衰」は三島由紀夫の『豊饒の海』の四巻(最終巻)の主題 でもあった。 無常を観ずる心、生きる苦や迷妄、そして菩提心が本質的生命には 不可欠であり、是が結果的に「悟り(身心脱落)」への誘因と為る。 物事と云うものは、其の現象面だけを追及して往っても、波立つ海面 の波だけを静める様なもので、其の波を生起せ使めている風水のエ ネルギーを消滅するのでなければ、波は収まらない。 物事の本質は現象するのである。 政治家の致命傷は現象面の操作に止(とど)まり、本質面に踏み入ら ない事である。 六道(趣)に於いて、涅槃為る宇宙の真理への端緒と為る「悟り」へ至 り得るのは四苦と迷妄の人間(修羅)道である。 小生には、「天道の天人が悟れない」と云う訳が明解ではなかった。 然(しか)るに、今回のG7サミットを見て、気が付いたのである。 政治家と云う者は、本質面には踏み込めないと云う事を、結局現象面 に特化し、保身、維持しなければ成立し得ないと云う事を。 従って、施政の進化には、自(おの)ずから、何事でも然(そ)うではあ るが、一通りでない、本物と為るには、人の越せない障礙(げ)(=煩 悩障)を砕破する菩提心が不可欠なのである。 然(さ)も無くんば、本質無き、地獄志向為らざるを得ないのである。 一つには、オリ・パラ同様の一定期間の全力投入と云う事もある。 裏表無き、生涯ものでは無い、一時的と為らざるを得ないものである。 真理と云うものは、人類の能力では至る事は出来ない。 人類の能力で、一体、如何許(いかばかり)の事が、此の地上で宇宙 に対して出来るであろうか? 涅槃為る宇宙に回帰する迄である。 本来ならば、世界人類の物質的、精神的基本的条件確保を其の使命 と為(す)る施政こそ、「世界人類を生(活)かす」と云う「覚(さと)り」と 為らなければ為らないのである。 現実は真逆である。真逆であるのが現実だ。 涅槃為る理想(=真理)に至る事は、最も困難であると云う事である。 然(しか)るに、政治の理想以前に、涅槃為る理想は既に至り得て、 真理である確証を得ているのである。 政治の「本質より現象」は、世間の「花より団子」に呼応する。 現実が真逆であっては為らない。 世界人類、否、世界の指導者達が其れ程に真剣に為らねば為らない と云う事である。 《 風鈴の真理 》 人間には、心情的淫快として、甘える欲がある。 是に対しては、『最後身心』為らばこそ、不可避である。 戦(そよ)ぐ風の来(きた)るに任せ、去るに任せ、其の儘(まま)に、 唯、風鈴の如し、トツツェリチン、トツツェリチン……。 風鈴足るには、「悟り」、「解脱」し、「覚天(涅槃入り)」しなければ、 清浄為る、此の真理には至らない。 「世界人類を生(活)かす」が、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違(たが )わざる生き方である。 虚空の全為る一塵。 今後、世界は自(おの)ずから涅槃への収束振動一路為(す)るのであ る。 《 オリ・パラ開催の基本 》 世界の「平和の祭典」足るオリ・パラが、仮令(たとえ)、間接的ではあ っても、其れによって、人命の犠牲者が出る事を前提とすれば、 其れは「平和の祭典」を標榜(ひょうぼう)する価値は無い。 其れは三毒(貪・瞋・癡)の饗宴(きょうえん)であり、 「百害在って一利無し」である。 被害者〇(ゼロ)である事が基本である。 被害者を出して迄も開催すべきか、其れとも、被害者を出す事は論外 である、では為らないのである。 人類は極力、駿馬(しゅんめ)の如く、痛い目に合う前に、涅槃妙心智 慧を生(活)かさなければ為らない。 平時であれば、「平和の祭典」足るオリ・パラで犠牲者が生ずるような 事は在り得ないのである。 無常為る此の人間世界で、コロナ禍等の異常事態下であれば、 其れは「地獄の祭典」とも成り兼ねない。 決して短絡思考しては為らない。 少なくとも、其れによりて生起する不幸は増加するからである。 誰も其れを否定出来ない。 其れも自己責任ならば止むを得ないが、被害者は避けられる不幸で ありながら、尚(なお)且つ、其れを強行すると云う手段は間接的殺人 行為に他ならない。 今後、異常事態時でのオリ・パラ開催に随伴する犠牲者の問題は、 何(いず)れ、在っては為らない事として、涅槃への一収束振動として 対処される課題と為るであろうが、其処(そこ)に至る迄、多くの犠牲 者を出す前に、俊敏に対応するのが涅槃妙心智慧である。 釈尊は断食苦行で中道を得、其の功成って、初めて成道されたのであ る。 そうして、常に「衆生を忘れない、衆生を捨てない」処の大乗禅を説か れ、南伝(=小乗)為るミャンマーに対し、北伝(=大乗)為る、極東、 日本で柔軟為る涅槃妙心を得たのである。 「世界人類を生(活)かす」涅槃妙心智慧を得るべく、心の進化を遂げ ねばならない。 コロナ禍のパンデミックに於ける、オリ・パラ開催は、正に釈尊の中道 以前の、「死に至る」断食苦行に類するものである。 《 不昧因果 》 世界人類が真理に違(たが)えた時は、其れが如何為る事であっても、 小生『最後身心』は真理を告げ置くものである。 涅槃為る宇宙の真理は、 人命を無視するオリ・パラ開催は間違っていると云う事である。 其の訳については、前項(=《 オリ・パラ開催の基本 》)で語った。 其の様なオリ・パラが開催されれば、涅槃為る宇宙の真理に違(たが) えるものであり、其の悪業報は必ず受ける事と為るのである。 真理と云うものは、誤魔化す事が出来ない、超科学的なものである。 我々の存在自体が、此の真理に基づくものであるが故に、不昧因果 為る因果の道理が存在するのである。 其の裏付けが、「覚天(涅槃入り)」であり、『最後身心』である。 《 「人を生(活)かす」 》 真理とは「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かす」である。 現コロナ禍中でのオリ・パラ開催は、「人を殺す」である。 三善根(施・慈・慧)を殺し、三毒(貪・瞋・癡)害為る金と権力の温存 である。 斯(か)るが故に、 人類は涅槃への収束振動せざるを得ないのである。 収束振動が悪いのではない。 其れが真実である。 世界人類が一足飛びに、『最後身心』に為れる訳ではない。 小生は、四十年余りの純粋為る、命懸けの求道の賜であって、 空前絶後にして、奇跡中の奇跡に他ならない。 真理は永遠不滅で恒常普遍為るものである。 現コロナ禍中でのオリ・パラ開催はクリアー出来なかったが、 真理為らばこそ、涅槃への収束振動 為(す)るのである。 現コロナ禍被害を極力、最大限に収束せ使めなければ為らない。 五年で了ずるものは 永遠に不退転にして 一年で了ずるのでな ければ了じ得ない 確実でも然りである 《 コロナ禍中のオリ・パラと米中の地平 》 『為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは為さぬ心也けり』 究極的には、G7と中露と云う、要するに米中が対立でなく、最も困難 である、涅槃為る宇宙の真理に基づく米国と中国の率先垂範が不可 欠である。 そして其れを教導すべき日本の立場である。 従来ならば、主義や理念、そして宗教であったが、 今日は、自由で柔軟なる資本主義と、今後進展し往くであろう、社会 主義的(共産)独裁体制との二元相対世界から脱却する可能性が米 中の地平である。 微妙(いみじ)くも、一年九ヶ月程前に我と宇宙との真相為る真理(実) を厳然と体現した。 是は従来の二元相対為らざる、唯一無二の絶対為るものであり、米中 の地平は、正に是に他ならない。 是が、「宇宙に生(活)かされる世界」 の真実の姿なのだ。 此処に国際警察の必然的不可欠性もある。 『最後身心』には涅槃為る宇宙の真理以外無いのであるが、 だからと言って、必ずしも世界人類に其れが解(げ)せる訳ではないし 、仮令(たとえ)、信じ得たとしても、皆が然(そ)うであると云う訳には いかない。 然(しか)るに、真理(=涅槃)に帰一する事は出来るのである。 是が涅槃への収束振動である。 其れこそが、真理(実)である。 宇宙は全一為る心の進化の、其の永久機関である。 釈尊は悟られ、生涯懸けて解脱されたが故に、一旦、「宇宙(生命)の 本質」(涅槃)へ接近したのであるが、涅槃回帰して其のものと為って ないが故に、正法から像法から末法へと、人心から正法(本質)は遠ざ かって行くと予言されたのである。 しかし、回帰して、『最後身心』足れば、回帰した事自体が「真理の証し 」であるから、既に、永遠に不滅為る恒常普遍の真理が明確に実証さ れて居る訳である。 人が 信じると、信じないとに拘(かかわ)らず、真理は真理であり、 真理為るが故に信ずべきものなのであり、 信ずる者が智者であり、信じない者が愚者なのだ。 涅槃妙心智慧為る涅槃世界を生むか、其れとも癡愚なる地獄世界を 生むか、つまり本質に違(たが)えず、帰一せ使むるのは「世界人類を 生(活)かす」『最後身心』の責務であり、使命である。 人間は、其の能力に拠(よ)りて価値判断するのでなく、智慧者か癡愚 者かに基づかねば為らない。 スポーツで競い合うべきか、其れによりて、飢えや病気に因る、死に至 る人為的不幸を回避すべきかは、子供ならば尚更の事、正しく答える 事が出来る。 大人に為ると、損得や立場上、其れが出来ない。 真理(実)を打ち出す事が出来ない。 指導者程出来なく為ってしまう。 真理を眩(くら)ます、立場の温存である。 「人を生(活)かす」か、「人を見殺す」かである。 前者は自己を忘れ、自己を捨てて、人を生(活)かす。 後者は人を忘れて、人を捨てて、自己を生(活)かそうとする。 人間の生き甲斐、生きる喜びと云うものは「人を生(活)かす」処に在る のであって、「自己を生(活)かす」事に基づく生き甲斐、喜びと云うもの は自己の生命と共に消滅する。 人を生(活)かしてこそ、自己の生命は永遠の生命と為り、其処(そこ) に自己の死を忘れ、自己の死を超える処があるのである。 コロナ禍中でのオリ・パラ開催が、其れによりて百%被害が生じる事は 、確実であるにも拘らず、其の事が真実、一体、人の為であるのか? 虚偽である。オリ・パラ関係者の為だ。 被害を蒙(こうむ)る犠牲者がでる事はオリ・パラ関係者の為に止むを 得ない事であるとする強行手段であり、国際的非合理に他ならない。 此の非合理に対して、犠牲者は其の人権侵害に対する正当性をオリ・ パラ関係者に対して主張しなければ為らないのである。 オリ・パラ関係者が勝者で、犠牲者は敗者であっては為らない。 政府には、菅首相の防波堤として、安部前首相の保身、忖度としての 影響力を持ち出そうとする作為があり、 斯(こ)う云う次第では、今後の米中の在り様を教導すべき日本の影響 力については無いか、マイナスである。 能動的、積極的為る『最後身心』の国家としての打ち出しが皆無であ る処か、逃げ腰である。 実に情け無い事極まり無い。 今後の日本の立ち位置が無い。 遣る気と云うか、出るものが無い。 是では米国の隷属国家でしかない。 肝心要の真理恐怖症であり、世界に勝(まさ)る真理の音痴だ。 是が日本の現状である。 真の国際感覚と云うものは、小手先では効かない。 暴力でも駄目。 真理の把握である。 何処迄、把握出来ているかである。 今後を期待する。 人間は、「人類の諸能力とは、其れが、真理に至るには無効であり、 涅槃為る宇宙の真理に至る為のものである」と云う事を極力速(すみ) やかに覚(さと)るべきである。 況(ま)してや、其れ等の能力に依りて、人類の生活と生命を侵害する 様な人権侵害は論外である。 涅槃為る宇宙の真理の調和と均衡と静謐は、『最後身心』が体現して いる。 涅槃世界は、其の様なものであり、是を世界人類の幸福と平和と繁栄 に具現すべく、其処(そこ)迄の収束振動一路為(す)るのである。 ゆめ安易の感を為す勿れ。 《 究竟究盡(真理と三毒) 》 宇宙に真理無く、混沌しか無いのであれば、少なくとも、現代は存在し ない。 現代其のものが、宇宙は混沌ではなく、真理の賜(たまもの)であると 云う事、つまり真理の「証し」に他ならないのである。 我々の存在其のものが、三毒ではなく、真理 を裏付けている。 然(しか)るに、人類は、『真理を探究し、そして其れが真理であると 云う事の「確証」を得る』 事が出来ない儘(まま)で、諸悪の根源、人 類三毒(貪・瞋・癡)の奴隷為らざるを得ないのである。 人間世界とは、其の歴史に他ならない。 善きも悪しきも、「人間らしさ」と云うものは、全て此の事に他ならない。 斯くして、地獄を露呈し、神仏を生んだのである。 此の企(くわだ)て を抱き、完遂する 事が人類の究極の至難事であ る。 然(そ)うして今時に至り、小生鐵漢が、空前絶後に、其の究竟を究盡 (くっきょうをぐうじん)し、世界人類に真理を教導して居るのである。 《 中国の能動、積極性 》 中国の一帯一路構想等の能動、積極性は真の本質的為る能動的積 極性ではない。 是は人類三毒(貪・瞋・癡)を転了し足る、三善根(施・慈・慧)に基づく ものではなく、三善根(施・慈・慧)以前の、本質的為らざる、作為的、 能動、積極性である。 其の判断の根拠は、若し其れが三善根(施・慈・慧)に基づくものであ るならば、ミャンマーの惨劇を、当然、平然と黙止しては居られない筈 であるからだ。一帯一路等の能動、積極性を以ってしてである。 今、世界を止めて、横行している、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違( たが)える現象が、中国のミャンマー放置である。 若しも、中国が、世界と一体と為って、是を打開する、真の本質的為る 能動的積極性を行使出来るのであれば、一帯一路構想等も戦略では なく、本物として、我々は受容、容認出来るのである。 《 オリ・パラ問題と核武装 》 世界的テニスプレイヤーの大阪なおみ選手が、一時、大会出場をボイ コットした。 又、北朝鮮が核武装から退かざるを得なく為った。 此の結果に至った要因は、一体何が然(そ)うせざるを得なく為ってい るのかである。 其の原因は共に一つ、人類の三毒(貪・瞋・癡)害である。 世界人類が三毒(貪・瞋・癡)を転了し、三善根(施・慈・慧)に基づき、 純粋に、スポーツを通して、世界が一丸と為って、世界平和の絆を築く 事と、二元相対の原爆支配体制世界と云う、『最後身心』以前の弱肉 強食の動物的支配体制から脱却して、『最後身心』以降の、涅槃為る 宇宙の真理に基づく、世界が一丸と為った信頼団結を築き、涅槃妙心 智慧を完遂し往かねばならないのである。 世界の指導者達の真の自覚が、今、喫緊の必須事である。 オリ・パラの感動よりも、中国の台湾、香港、新疆ウィグル、チベット等 の諸問題、そして米国の核武装等からの涅槃回帰の率先垂範が先決 問題なのである。 米中が、自(みずか)らの率先垂範しさえすれば、オリ・パラ開催による 平和の祭典為らぬ、直接為る平和の実践と為るのである。 其の障礙(げ)(=煩悩障)と為りたるのが、諸悪の根源為る人類三毒 (貪・瞋・癡)なのである。 平和の実践が無いが故に、三毒の増長足るスポーツの祭典なのであ る。 スポーツ選手による間接的祭典でなく、世界の指導者による直接の平 和の実践でなければ為らない。 オリ・パラ問題は、其れに随伴して惹起する人流の拡大が問題なので あり、オリ・パラ自体に問題が在るのでは無い。 此のコロナ禍中に於いて、国内の一般国民の生命、及び生きて行く事 の困難さの最中に、敢えて海外から大量の様々なスポーツ競技関係 者を、単にスポーツ競技の為に、海外からの大量の集団を長期に亘っ て受け入れ、対応すると云う非常事態を敢えて受容すると云う事が如 何に非条理為る事か、である。 本質的には、此の問題点は、生き延びると云う事 と、スポーツを競 うと云う事 の何(いず)れを重要視しなければ為らないかと云う常識 的判断に至るのである。 解かり易い様に、二人の人間が居て、一人は日々唯生き延びる事だ けが問題であり、他の一人は、スポーツを競う事を問題として居る。 其処(そこ)で、第三者は何れの生命を重視するであろうか? 否、重視しなければ為らないであろうか? 百%、命其のものを生かすと云う事が間違い無く、基本的重大事なの である。 是をスポーツ競技の方を優先する者は、本末転倒も甚(はなは)だし い。スポーツが在って、生命が存在しているのではなく、生命在って、 遊びとして、スポーツに至っているのである。 此の真理(実)に違(たが)えた、人類三毒(貪・瞋・癡)害が地獄世界 を生み出すのである。 仮令(たとえ)一人にでも、其の様な非条理が生起しては為らないので ある。 若し仮に、此の非条理が世界を支配すれば、其れが将来を地獄に陥( おとしい)れる種子と為るのである。 世界人類は断じて、此の種子を生んでは為らない。 『最後身心』の涅槃妙心智慧をして、涅槃への収束振動しなければ為 らないのである。 『為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは為さぬ心也けり』 《 涅槃妙心 》 人類の生命は身と、身が進化した心 から成っている。 身の生理的現象に自由は無い。 宇宙の涅槃化エネルギーは地上に動物以前の生命と為り、動物身体 の生理(本能)的生命現象から人類の身と心 に進化した。 心 は進化の過程で、人類特有の大脳新皮質に基づいて、地獄へ至ら 使める、諸悪の根源為る三毒(貪・瞋・癡) と、涅槃為る宇宙の真理 に回帰せ使める原動力足る菩提心 へと究竟進化したのである。 ≪ 心とは ≫ 心 は涅槃為る宇宙から発生し、涅槃為る宇宙に回帰する。 瞑想―三毒(貪・瞋・癡) →ヨーガ―菩提心 →禅定→釈尊→坐禅 →「悟り(身心脱落)」―三善根(施・慈・慧) →初行―「解脱」→後行 →【「覚天(涅槃入り)」―涅槃妙心→真理 】 ※ 最後の【 】無くんば、小生は釈尊同様、宗教として、世人 を迷い、悩ませる事で終わらざるを得なかったであろう。 然るに、真理 に至って、『最後身心』と成りて、超科学的に 涅槃妙心智慧完遂の道を世界人類に教導し得るのである。 要は、「自分の事」以上に、「人の事」を思うと云う事 に尽きる。 小生は、抑(そもそも)「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しから始 まっており、其の結果としての坐禅であり、坐禅の功徳 が、其の端緒 と為っているのである。 当時は、其れは「恥ずべき事と為(す)べき」の記憶が残っているが、 其れは、人間世界の三毒と三善根、即ち悪と善との化学変化に於ける 反応物質に過ぎない。 つまり、坐禅の功徳 が涅槃為る宇宙の真理への志向性の原動力と 為っているのであり、其れが「身心脱落(悟り)」を生起せ使め、以後が 在るのである。 小生が「悟る」迄の間、何処(いずこ)に自分の事が在ったかは、 在ったと言えば、試行錯誤と、最後の、宗教迄の絞(しぼり)の段階で あり、そして坐禅に往き着く迄である。 後は、全ては、坐禅が小生を導いてくれたのである。 此の事は普遍的為る事実であるが、 坐禅以前の道が無い訳ではない。 坐禅が最も安楽為る最上上の手段であると云うだけである。 普遍的為らずも、個々の体験からも、精進、信心等の生きる姿勢によ りて、同じ様な境遇にも至り得るのである。 《 世界平和への要件(涅槃妙心) 》 人間世界は、坐禅して悟らない限り、其の現象面には人類三毒(貪・ 瞋・癡)が付き纏(まと)うのである。 其の本質面は、既に『最後身心』によりて、涅槃為る宇宙の真理に至 っている。 世界人類の中で、本質志向の人達と、そして少なくとも坐禅する人間 は如何許(いかばか)りぞ? 況(ま)してや、其の功徳に恵まれた、又悟った人間は如何? 此の三毒裡の本質志向の人達が世界の指導者を教導しなければ為 らないのである。 是が逆転すると、世界は地獄志向為らざるを得ないのである。 此の五年間で、涅槃妙心体制が構築されて居なければ、人類の未来 に希望無し。 身の快感は、其の場、其れっ切りで空しいものであるが、 物事は、量や大小や、美醜の相対ではなく、質の絶対である。 心の価値は永遠不滅である。 身とは、セックスと金と権力と温存と保身と忖度。 然るに、 即刻、世界人口の10人に1人の飢餓と、4人に1人の中程度・深刻な 食糧不安を救済すべく、世界の指導者達が一丸と為りて、施政の改善 を施さねば為らないのである。 人間生命の価値観の甚だしき地域格差である。 此の現実を直視し、世界人類の幸福と平和と繁栄を完遂するには 、科学的最先端の追求でなく、心の根源的な本質への帰一でなけ れば、及び得ないのである。 平和の祭典為る欺瞞は、地上の弱者を締め出してしまう、人類三 毒(貪・瞋・癡)の饗宴に他ならない。 少なくとも、世界に地獄を増長させて、多くの不可避為る犠牲者達への 細心の配慮を忘れては為らない。 《 世界の地獄の涅槃化 》 世界の地獄中の地獄が、米国の核兵器なのである。 核抑止等の欺瞞(ぎまん)では解決の着かないものであり、 一旦火が着けば、人類の滅亡への一路である。 表面的には抑止効果で、正当化して誤魔化しているだけである。 其の次が、米国の、日本と韓国への軍事基地撤廃である。 是等は、日中韓にとっては、許容し得ざる脅威である。 其の様な威圧に基づいて、世界を手中に収(おさ)めようとする企(くわ だ)てで、世界の信頼と団結を獲得しようとする妄想は実現不可能事 である。 中国の覇権独裁国家とは言うけれども、米国の其の軍事体制の脅威 に対峙するには、中国にとっては相応(ふさわ)しき事なのである。 要するに、米国の核武装と日本と韓国への軍事基地を撤廃する事無 くして、世界に地獄は無く為らないと云う事である。 米国が如何に表面上、誤魔化しても、本質的には、世界は真の信頼 団結には及び得ないと云う事である。 以上の課題を解決した上で、初めて中国の覇権為るものも、自(おの) ずから解消されるに至るであろう。 ロシアは、其れを唯、願っているだけである。 以上の、根本的な基本的課題が解消された段階で、其れ等の涅槃妙 心に基づいて、世界の、アフリカ、中東、ミャンマー等の諸問題も自(お の)ずから解決に至るのである。 米中露核兵器 禁止条約締結 《 人類に絶対不可欠為るもの 》 人間が迷わず生きて往く為に、絶対不可欠為るものは、 『人間と云う者は、斯(か)く在らねば為らない 』と云う事である。 是は教育の根本でもある。 是さえ在れば、人間は如何なる場合でも、正しく生(活)きて往けるもの 、否、生(活)きて往けば宜しいのである。 是が、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の心(=真理) であり、 「人の事を思う事」 と云う涅槃妙心(から生まれた)智慧 である。 斯(か)くして、迷う事無く、何処迄も徹し(=解脱)、総ての障礙(げ)( =煩悩障)を砕破し、直(ただ)ちに、此の本心(=本質)に立ち返って、 是を世界人類に完遂せ使めなければ為らないのである。 是が、真に「自己の事を思う事」 と為る。 《 宇宙真理 (涅槃) 規則性 》 3:00―――起床 2:00 前後 1時間 (ネット) (昼食) 5:30―――朝食準備 5:00―――帰宅 (ネット) (夕食準備) 8:30―――朝課 7:00―――晩課 (朝食) (夕食) 10:30―――托鉢準備 9:00―――片付け 11:00―――托鉢出発 11:00~12:00に寝る 《 今、此処 (ここ) に至りて 》 世界を二分せ使めた、嘗てのヒトラー独裁体制の最大の悲劇、ホロコ ースト(絶滅政策・大量虐殺)と、其の終焉は、今や米国の核兵器支配 体制下の日本国内の軍事基地支配に転じ、第三次大戦の人類滅亡 への戦いへの入口に佇(たたず)んで居る。 終戦時とは違って、今時は、戦後のコロナ禍による、米英に最悪の感 染者数と死者数を出したのは皮肉であるが、戦勝国家、米英の実態 は、斯(か)く為る因果の道理が如何に超科学的為る真理(実)である かを如実に物語るものである。 其処(そこ)に一貫しているのは、指導者達が生んだ地獄の、無数の 犠牲者達であった。 つまり、人類三毒(貪・瞋・癡)の悪業に因る業報の結果の今であり、 今の現状なのである。 其処に於いて、従来のエネルギーの結果が、人類の叡智をして、宇宙 の真理に至ら使め、現代と云う袋小路は真理を得たのである。 涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の真理。 宇宙の働き。進化の真実。 涅槃への収束振動為る永久機関を人類に知ら使めたのである。 「人類は如何に在らねば為らないか?」 今後、人類は如何(どう)心為(せ)ねば為らないか? 宇宙真理の下に、 米、朝、中東、中、日の将来 が、如何(どう)在らねば為らないか? 如何(どう)英断を完遂し往かねば為らないか?の不可避為る現実に 直面して居るのである。 もう既に、人類は、此の根源的課題から日常性に逃避し得ない。 米、朝、中東、中、日 の、涅槃への五者一路の正道は如何(いか) 為る道であるのか?である。 其れは、科学力でも、AI(人工知能)でも、資でもない。 現象的物質世界の問題でなく、本質的心の問題なのである。 全ては其処(そこ)から生まれるものである。 米、朝、中東、中、日 此の五色の本源為る光は一体何であるのか? 是が、日本に於いて、『最後身心』の得た涅槃為る宇宙の真理 であ る。 此の超科学は人類の究極中の究極、つまり、 調和と均衡と静謐為る本源中の本源なのである。 『最後身心』以外至り得なかった真理である。 此処(ここ)に於いて、世界人類が持てるもの全てを吐き出し、 肚(はら)の底の底から一(いつ)と為らねば為らない。 最早、此処(ここ)から逃げるだけ、時間の浪費であり、事を拗(こじ)ら せる因としか為らないのである。 《 欲 と 心 》 宇宙に身は無い。仮の姿である。 唯、涅槃化エネルギーが在り、其の涅槃妙心 在るのみ。 涅槃妙心(宇宙) →身→心(三毒→三善根)→涅槃妙心(宇宙) 身(→生理(本能)的欲求→情動)→心 故に、性欲、食欲、睡眠欲等の生理(本能)的欲求は涅槃妙心 に基 づくものである。 つまり欲と云うものも、清浄為る涅槃と云う虚空の涅槃妙心に基 づくものである。 従って、健全足るには、又、心因性病変の根本的療治には、坐禅して 経過を経て、涅槃妙心 に帰一する事である。 「宇宙(生命)の本質」は涅槃妙心智慧の依拠(いきょ)為る三善根(施 ・慈・慧)であり、三毒(貪・瞋・癡)ではない。 故に本質に違(たが)える三毒(貪・瞋・癡)によりて、欲を満たし足り得 る者は居ない。 欲を知りて、知り足る者にして初めて、満足為(す)るのである。 少欲・知足が涅槃世界の実態である。 《 宇宙とは 》 小生が、『涅槃為る宇宙の真理』について屡(しばしば)言及するが、 抑(そもそも)、其の『宇宙』とは、一体何処(どこ)を指(さ)して言ってい るのか? 遥か遠い無限の彼方か?其れとも銀河系か、太陽系か、地上か? 其れ等は、総て何れの場合も、我々自身が想定する処のものに過ぎ ない。 然るに、地上に居る我々自身が、正に宇宙の一塵でありながら、此の 一塵は宇宙に対峙する、何か別物として、無意識に処理してしまう。 此の一塵こそが、正に宇宙其のものの出処なのである。 『最後身心』としての一塵は、正に『涅槃為る宇宙の真理』としての一 塵であり、此の一塵が宇宙であると同時に、宇宙は此の一塵である。 此の真理に基づいて、正に自己が時空を超越した、宇宙の現前 であ る。 つまり、宇宙を代表して自己が宇宙を生んでいるのである。 宇宙に生(活)かされて居りながら、自己が宇宙を生(活)かして居る。 主客一如、能受一如である。 換言すれば、自己の身心其のものに万法を体現して居るのである。 其処(そこ)で、以上より、涅槃為る宇宙とは『最後身心』の働き其の もの であるが故に、新た為る宇宙を生むのは、宇宙の調和と均衡と 静謐裡の、我々人類の平和裡の繁栄 に他ならないのである。 宇宙を造るのは、つまり創造主は我々自身に他ならない。 宇宙が我々を生(活)かさないのではなく、我々が宇宙其のものを生( 活)かさないのである。 『為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは為さぬ心也けり』 宇宙を生(活)かすも、殺すも、我々一人一人の責任である。 少なくも、地球の寿命迄は、我々の責任で、地上を生(活)かすと云う 事が、我々人類の使命であり、責務であるだろう。 我々の生みの親である宇宙に恥じないだけの責務が、我々には有る のである。 国家間の闘争や戦争は、正に愚の骨頂である。 智者であるならば、一致団結して、最善の万策、涅槃妙心智慧を生み 出し、其れ等を完遂し往くのである。 そして、其の事こそが宇宙其のものに他ならない のである。 《 見たら判(わか)る 》 言葉で、如何に説明や分別しても、一見しただけで、其の心を見抜く。 『百聞は一見に如(し)かず』 其の目付き、表情で、人間の心は判るものである。 言葉で誤魔化せるものではない。 本人も、知らず知らず、其の様に為って来ているのである。 人間、真理に違(たが)える事は出来ないものである。 職務と云うものは恐ろしい。 涅槃妙心智慧、「人を生(活)かす」に反する事を為して居れば、自(お の)ずから、其れを露呈するのである。 気の毒な、恐ろしい位に 。 是は 、世界に共通に見られる現象である。 温存と保身と忖度による支配である。 然(しか)るに、完全犯罪と云うものは在り得ないのである。 『最後身心』は誤魔化せない。 人心は誤魔化せないのである。 「体」に出る。 身は涅槃為る宇宙の真理に基づき、 生理(本能)的欲でさえ、真理に基づくものである。 従って、時間の問題である。 中国の強権主義の悪業は、必ず、其の悪業報を受ける事と為る。 其れが宇宙の真理である。 涅槃為る「宇宙(生命)の本質」は誤魔化せない。 涅槃化エネルギーに因る、涅槃への収束振動の永久機関為るが故に 。 又、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設計画に伴う名護市 辺野古の埋め立て工事を巡(めぐ)って、具志堅隆松氏(67)が遺骨 が埋没する本島南部からの土砂採取断念を求めて、二度目の六日間 のハンガーストライキを終了した。 最早、是は、広島と長崎の被爆者の黒焦げの死体で、他諸国家軍団 からの核兵器攻撃に備える軍事基地を沖縄に築く様な、非条理極まり 無き極癡愚為る悪業であり、是は北朝鮮の拉致問題以上の、本質的 に、ISの非条理為る残虐行為にも等しい悪業である。 小生も具志堅氏と一体である。 何(いず)れにしても、米中覇権争奪以前の問題である。 米国の中国に対する、及び中国の米国に対する、本質的問題である。 世界の二大強権立国の、他国(者)に対する本質的在り様の非条理性 が解消されない限り、非条理の永遠性が、涅槃為る「宇宙(生命)の本 質」の真理に違(たが)えている。 涅槃為る宇宙の真理が人類を育(はぐく)んでいるのである。 三毒(貪・瞋・癡)為る人類が宇宙を生んでいるのではない。 《 日本のオリ・パラ対応 》 日本のオリ・パラ開催に向けてのコロナ禍対応の不完全さには、驚嘆 と怒りを隠せない。 海外からの、関係する来日者達に対応すべき水際対策に関して、何 等の配慮も施されていないとは、重度の認知症にも等しいのである。 而(しか)も、其の儘、感染者を国内に受け容れてしまって居るとは、 指導者としての、日本国民の生命に対する配慮が為されていないの は、正に三毒(貪・瞋・癡)の貪から生ずる癡愚としか思えないもので ある。 一体、政府は日々、マス・メディアでも報道されてはいるが、是は何故 か。 施政者達の日常性に疑問を抱かざるを得ない。 全く癡愚の恐ろしさとしか言い様の無いものである。 初めての対応ではあるが、日常からの、真の心の緊張感が為ってな いのである。 寧ろ、国民レベルでの直観力に、大いに訴えるべきである。 日本の将来に関わる事である。一人位は、其処に気付く者が居るの が当然である。 自分の事として、本気で係わってない証拠である。 コロナ禍のオリ・パラで、政府関係者達の中味が透けて見えた。 一人位、日本が世界をリードして往く人材が欲しい。 自律的規則性無くんば、人間は人間に為れないのである。 つまり、正法苦行的本気度、菩提心の事である。 世界に普遍的な非条理性、是は人類三毒(貪・瞋・癡)の癡愚の結果 であるが、是を涅槃化する最善は、能動積極的菩提心以外無いので ある。 日本人は良心的ではあるが、是に最も相応(ふさわ)しき国民なので ある。 《 生命と感動 》 人間と云う者は、感動以前に人命の価値を知る者でなければ、 世の中は間違って来るのである。 如何為る感動でも、其れに酔う以前に、生命の真価を知る者でなけれ ば、本物ではない。未だ偽者に過ぎないのである。 中国、唐の臨済宗開祖、臨済禅師の『臨済録』に、 『仏に逢うては 仏を殺し、祖に逢うては 祖を殺す』とある。 是は、涅槃回帰の途上の言葉である。 殺すべき仏も、祖も無く、唯、其の恩のみが在る。 殺す主体、感動する主体の無い真理、つまり万法に正された自己、 此の『正される』体現が「覚天(涅槃入り)」である。 此処に於いて、涅槃妙心智慧為る「人を生(活)かす」真理(実)が手に 入るのである。 種々の感動の中で、最も進化し足る感動は、涅槃為る「宇宙(生命)の 本質」の真理、調和と均衡と静謐である。 皆で共感するものでもなく、唯独り、涅槃に「覚め切る」事である。 涅槃回帰が究竟感動なのである。 此の原点から、心共鳴し、「人を生(活)かす」のである。 是は現象的多様性からは生まれ得ないものである。 「目覚めた」若き心から発露(ほつろ)する。 本物と云うものは、勝った負けたで、一喜一憂する様な二元相対世界 ではなく、「真理」の絶対世界である。 《 中国の将来 》 中国国内の現強権独裁支配体制が、米国を凌(しの)ぐ、世界的な信 頼を獲得する事は想定し得ない。 途上国家群の経済的支援、 インフラ整備としての価値の域を出ない。 精神的基本的人権が確保された米英諸国家群に対峙する現中国の 在り様には限界が在る。 本質的な信頼を獲得し得ないからである。 此の点は、日本と欧米諸国との連携には及び得ないと思う。 量と力では及び得ない処の本質的信頼が欠如した国家に将来性は無 いのである。 若しも、世界平和に不可欠為る、世界に通用すべき本質的信頼迄を 獲得する為には、直ちに、然(しか)るべく、配慮しなければ為らないの である。 現中国の延長線上には、不殺ミャンマーしかない。 張子の虎か。 小生は、敢えて言うならば、一匹狼。 《 人間の完成 》 自己、及び他者の完成とは、 現代の高度文明化社会組織が争奪する根底には、金欲と名誉欲、 温存、保身等が大いに係わっている。 つまり、力、権力維持である。 此れが、世界人類の幸福と平和と繁栄に直結するものであるならば、 其れは我々人類が願望する処のものである。 然(しか)るに、往々にして、其れ等は地上で敵対するものであり、 在らぬ方向へと、人類を陥(おとしい)れるものに為らざるを得ないの が通性である。 是迄に、其れが世界人類の平和に相応(ふさわ)しきものとは為り得 なかったのである。 寧ろ、本質的には対立、戦争の火種と為るものである。 では、人間の完成とは、人間は一体如何に在らねばならないか? 小生『最後身心』の結論から言えば、 現コロナ禍中でのオリ・パラ開催で露呈する処の、人間完成への心根 の欠落である。 是等は取りも直さず、人類三毒(貪・瞋・癡)世界に由来する処の実態 に他ならないからである。 是が現米中の対峙に象徴されているのである。 此の人類存在の根本的な在り様に対する、正面からの根源的な取り 組みを回避して、解決出来るものではないのである。 日常性に埋没して、此の本質的取り組みに迄至り得ない。 然るに、此れ無くしては、世界平和は画餅に帰せざるを得ないのであ る。 現コロナ禍中でのオリ・パラ問題で、其れが浮き彫りと為った。 其れ程、人類と云う者は、現米中の対立の袋小路志向でしか在り得な いのである。 其の根本は、自己の三毒(貪・瞋・癡)に由来するのである。 其処(そこ)で、此の暗闇に射す光が『宇宙の真理』である。 是迄、人類未踏の、此の涅槃為る宇宙の本質、是が涅槃為る「生命の 本質」なのである。 是を知らずしては、人類は如何なる能力を極めても、唯、其れだけの 事、其れ以上の、世界人類の平和を実現するだけのものとは成り得な い。 其の為には、小生『最後身心』の辿(たど)った正道でなければ至り得 ないのであるが、此の偶発的必然性に基づいた処の真理から、小生 は語らねば為らないのである。其れが空前絶後であるからだ。 是が暗闇世界の、一点の光である。 一点の光ではあるけれども、此の一点の光源は世界中を照らす光な のである。 此の光源によりて、世界の闇は消滅し、隅々迄照らし出すのである。 人間の完成とは「人を生(活)かす」であり、 自己同様、世界の果ての、人から見捨てられ、忘れられた、 一塵の生命を我が生命と受け留め、そして、其の為に世界が動く。 此の様な世界が、宇宙の、涅槃と云う本質であると云う事を知って戴き たい。 TVで、最も命の危険の高い重度栄養不良の子供達を救う 「ユニセフ・マンスリーサポート・プログラム(毎日百円の寄付)」 が、日々放映されている。 前々から拝見はしていたが、見る毎に共に泣かずにはいられない。 小生も是に参加させて頂く事にした。 (郵貯)銀行で対応している。日本ユニセフ協会(0120-88-1052) 世界人類の一寸(チョッと)した気持ちで、世界人類の地獄は解決され るのである。 此の百円が、世界を生む。 地上は三毒世界ではあるが、 地上以外、万法は涅槃為る三善根(施・慈・慧)の真理世界であり、 此のエネルギーによる、涅槃への収束振動である。 小生『最後身心』が「証(あかし)」である。 《 真 理 》 真理とは、宗教の対象でも、学問の対象でもない、唯、体現して覚(さ と)る真実である。 是は、『最後身心』によってのみ至り得た事実である。 人類史上、神仏為らず、学問為らず真理に至り得た人物が存在した であろうか? 「覚天(涅槃入り)」に於いて、初めて宇宙の心(=本質) を体現した のである。 是は正に、科学を超越する超科学であり、宗教を超越する超宗教足る 、確証によりて裏付けられ足る真理なのである。 釈尊が断食苦行を中道 によって否定した様に、 小生鐵漢は極佛行(=生涯後厳密千日涅槃行)を真中道 によりて、 肯定せざるものである。 要は、中道と真中道 が、相対的に有害無益為る、道為らざる、真に 能動積極的修善奉行の道へ世界人類を向かわ使める処の北極星の 如き、闇夜を照らす唯一の燈火であると云う事である。 宇宙に全体として、偏(かたよ)りは無い。 何処(どこ)迄も果てしが無いのである。 唯、其の調和と均衡と静謐あるのみ。 万法、従って人事は一切、真理に基づくべきものなのである。 斯くして初めて、涅槃足る。 真理に基づく米国、中国、世界人類。 真理に基づけば、主義も主張も信仰も多様性の表現に他ならない。 何故に真理か。 真理為るが故に真理なのである。 是迄は、真理無きが故の主義、神仏であった。 自今已後(いご)、真理為るが故の主義、神仏の多様性なのである。 真理為るが故の三毒であり、三善根に基づく世界足るのである。 つまり必然的に涅槃為る真理への収束振動足らねば為らないのであ る。 歴然として、真理に至るべく、無我に基づく長年の正法苦行によりて、 宇宙が人類に開示した真実為る真理なのである。 宇宙誕生のビッグ・バン為る、科学的頭脳による、人類の実在為らざ るものでなく、「覚天(涅槃入り)」為る、真理に回帰した事による、宇宙 真理の誕生なのである。 科学的な宇宙の誕生には、誕生以前の世界が大前提であり、其の大 前提の解明が不可欠なのである。 つまり、何処迄(どこまで)行っても、確証無き仮説の域を出ない。 然るに、体現は、体現自体が確証に他ならない。 本質回帰の体現の階梯は確証が確証を確証して居るのである。 疑義の入る余地が無い。 疑を超越して居る真理(実)なのである。 故に従来の一切、神仏、主義主張、学問、マス・メディア等、 総ては真の多様性の一々であり、其れ等が宇宙の調和と均衡と静謐 足り得ているのである。 地上の地獄を地獄として、涅槃の三善根(施・慈・慧)から捉(とら)え、 三善根(施・慈・慧)が地獄の根源である三毒(貪・瞋・癡)を正すので ある。 要は、人類三毒(貪・瞋・癡)に惑わされる事無く、真理からの三善根( 施・慈・慧)に目覚めて、地上を整えて、調和と均衡と静謐為ら使めね ば為らないのである。 小さい悪の根源から見直す。 三毒(貪・瞋・癡)の元の個我である。 我欲への執著である。 つまり、身の欲求、性欲と金欲への我執、保身、温存。 是等に基づき、挙句の果てが、地上を二分せ使め、覇権争奪に至る。 もっと指導者は、国民と共に、「人を生(活)かす」べく、少欲・知足足り 得ねばならない。 身を温存する闘争から脱却する新風を、国民と共に、真理に基づいて 起こさねば為らない。 地獄の闇から涅槃への光明へ、国民レベルから、自(みずか)らの三 毒(貪・瞋・癡)に真理を吹き込み、真理を興さねばならない。 世界が一つに為って、同じ目標に向かって、心一つに為(す)る。 自己の立場に拘泥(こうでい)しない。 自己を捨てて、真実、真理を起こす。 家族為るものも、其の為の単位為るべきで、 保身、温存でない。 人種差別でない。軍備でない。 独裁支配体制も核武装も共に、其の核心は、真理(実)無き三毒(貪・ 瞋・癡)に由来するのである。 要するに、何をするにしても、不動絶対為る真理(実)が不可欠なので ある。 真理に基づけば、其の本質は現象し、涅槃為る宇宙の調和と均衡と 静謐に基づいて、真の多様性を現成(げんじょう)するのである。 要は、現実世界は現象の世界であり、現象為ら使めているものが本質 である。 本質無き世界に、「悟り」無く、「解脱」無く、「覚天(涅槃入り)」は無い。 本質為るが故に、「涅槃入り」まで帰一し、回帰したのである。 夫々の体現は、本質の涅槃回帰への永久機関の「証し」なのである。 然るに、是迄の世界は、「本質」を知らざる、もっと正確に言えば、体現 無き、現象のみの、従って二元相対為る現象世界であったのである。 小生『最後身心』によりて、絶対真理を弁(わきま)えてからの世界は、 自(おの)ずから、新世界なのである。 今や、新世界の黎明期である。 是が令和新世紀である。 真理(実)とは功名ではない。 江戸時代後期、上田秋成の『雨月物語』(1776)は中国文学の白話 小説の翻案による怪奇譚で、日本文学史上名作と評された。 中でも、「菊花の約(ちぎり)」は最も評価されている。是は、 「大丈夫は義(=信義)を重しとす。功名(こうめい)富貴は言うに足ら ず。」と、釈尊般涅槃百五十年程後の中国老荘思想の荘子(そうじ)の 『刻意』から引用して、信義か、其れとも軽薄かが問われ、最後は、「 軽薄な人と約束するべきではない。」で結ばれている。 新年号、令和の出典は万葉集であったが、又、『刻意』にも見られる。 『導引者、導気令和、引体令柔。』(荘子『刻意』) (導引とは、気を導いて和さ令(し)め、体を引いて柔軟にする。) 導引とは、古代中国に生まれた修練法である。 中国では、仏教は初めは、老荘思想で解説された。 又、「已(や)むを得ず」の源流も、荘子『刻意』に在る。 聖人を目指そうとする、様々な人に足りないのは、「恬(てん)淡寂莫、 虚無無為」の心境であり、 「福の先と為さず、禍の始と為さず。感じて而(しか)る後に応じ、迫ら れて而る後に動き、已(や)むを得ずして而る後に起ち、知と故とを去 りて、天の理に循(したが)う。」と。 (人々に福を恵んでやろうと考えず、又災いで懲らしめようとも思わな い。外からの働きかけを受けて初めて応じ、差し迫られて初めて動き 出し、やむを得ない状態に初めて立ち上がる。知恵や意志を捨てて、 ひたすら天の理に従うべきだ。)と説く。 「これがいい」と云う強い想いは捨て、「これでいい」と小さく諦める。 欲望を追求せずに、「やむをえず」選択した先に、真の豊かさが在る。 取り分け、天皇を象徴とする、日本国民の総意は尊重すべきである。 江戸中期、臨済宗中興の祖、白隠禅師は見性体験後、小悟を重ね、 禅修行の遣り過ぎで、禅病を患う。 生涯に三十六回の悟りを開いたと自称した禅師の闘病法である『夜船 閑話』(七十三歳)では、白幽子と云う仙人により、気海丹田式功法の 「内観の秘法」や「軟酥(そ)の法」を授かり回復した経緯(いきさつ)が 語られている。 「健全なる精神は、健康なる身体に宿る。」 此の身心一如は、飽く迄も、気海丹田に気力が充実して居る事が大 前提なのである。 気海丹田呼吸とは、意識的なものではなく、正法苦行(=千日行)によ りて、自(おの)ずから、気力が気海丹田に充実し、為る処のものであ る。 「気の滞(とどこお)り」は、『夜船閑話』の養生の法にても快癒する。 白幽子為る人物は実在するが、中国共産党や文化大革命によりて廃 止された古来の儒教、仏教、道教等の『教え』が日本で開花し、白幽子 に実践的に象徴されている。 白隠禅師は、宇宙生成以前の混沌としていたときの気を支那(中国) では大極と言っているが、禅師は是を大道と説いている。 宇宙の涅槃化エネルギーの事である。 昔の聖人達の養生法と言えば、必ず心気を気海丹田に収めている。 此の故に、荘子は「聖人の息は、踵(きびす)を以って息をして居るが、 凡人は喉で息をして居る。」と言った。 斯様(かよう)に、白隠禅師の儒佛老荘融合の処説が交錯するのが興 味深い。 小生は、初行完了後、「解脱」迄の一時期、得度する前に老師から頂 いた、医師高山峻著の白隠禅師『夜船閑話』の軟酥(そ)法を参考にし た事があった。 小生が宇宙を統一した法は、諸々の軍備の如く、他を制すべく、自己 を構築したのではない。 其の様な自己を忘れ、『最後身心』為るが故に、涅槃為る「宇宙(生命 )の本質」に回帰せんが為に、真理に基づき得たのである。 自己の生命が、宇宙の涅槃化エネルギーと一つに為った。 是が世界人類を生(活)かさないで、一体何者が世界を生(活)かす事 が出来よう? 二元相対世界は、他を制し置く、弱肉強食世界から脱却し得ないので ある。其の世界には常に戦争、闘争が絶えない。 在るものは、世界統一ではなく、世界対立である。 人類の新世紀の黎明は、此の五年間が勝負である。 世界人類を涅槃入りせ使める、「正法苦行(初行)入り」するだけの 「飛躍」の自覚を以って、諸悪莫作為らぬ、『修善奉行』 によりて、 涅槃への収束振動足るのである。 《 三毒の蜷局(とぐろ) 》 現代の世界人類に巣食う、最大、最悪の根源悪が原爆支配体制であ る。 又、人類の諸悪の根源が三毒(貪・瞋・癡)である事も自明の理である 。 此の三毒が生んだ最大、最悪の悪が原爆であり、二度に亘る、日本へ の原爆投下である。 つまり、日本は人類史上最悪の、世界唯一の最大、最悪の原爆被害 国家なのであり、是を主導したのが、現世界を主導する米国なのであ る。 而(しか)も今だに、日本は此の最大、最悪の暴力支配の影響下にあ り、是をして日本は其れを、他から守られていると思い為して居るので ある。 何処(どこ)を如何(どう)守られているのか、小生には全く見当も付か ない。まるでDVで実効支配されてしまった子供の如し。 現コロナ禍中のオリ・パラ開催も、其の自己無き忖度の癡愚ではない か。 終戦時のゼロ戦特攻隊員以下としか言わざるを得ない。 尤(もっと)も、空前絶後の極佛正法苦行の小生ですら、「覚天(涅槃入 り)」する以前は、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の真理 を知らざるが 故に、自(みずか)ら然(そ)うであったのである。 況(ま)してや、世界的に多くの生命存続の犠牲者と地獄を生む事が 明白でありながら、敢えて、其の方向に進まんとするのは、正に然(そ )うである。 嘗て米国は北朝鮮をして、「悪の枢軸」と断定したが、其の枢軸の芯 が米国である。 米国が其の芯と成る為には、どれだけの時間とエネルギーと物の資を 浪費したか、然(そ)うして持続的に、其の完璧を謀(はか)り、日本を 予定実行(効)支配し、世界の頂点として、地獄支配したのである。 米国が此処に至る迄には、北アメリカ原住民を宗教支配し、黒人の奴 隷支配による富の蓄積があったのである。 米英の黒人奴隷支配はヒトラー独裁支配体制と共に、原爆支配体制 に次ぐ、地上の地獄の最足るものである。 此の米英の国民性が世界人類の中でも、三毒(貪・瞋・癡)の産物の 最足るものである。 つまり、涅槃為る宇宙の真理に違(たが)えた、人類の悪業の最足る ものなのである。 此の悪業の業報が現今のコロナ禍の最大の被害者と死者を生んだの は、其れだけの真実為る根拠が在るのである。 因果の道理 と云うものは、人間の心の刹那に及ぶ刹那生滅の原理 に基づく不昧因果 である。 三毒(貪・瞋・癡)による刹那、刹那の心の働きの必然的、帰結として、 最悪のコロナ禍被害を生み、又、 三善根(施・慈・慧)による刹那、刹那の心の働きの結果として、最善 の涅槃回帰に至り得たのである。 因果の道理 による、人類の心の刹那、刹那の働きが生む必然的、帰 結は毫釐(ごうり;ほんの少し)も違(たが)わぬものである。 国連安保理諸国家群の全会一致制の核兵器支配体制と米英による 黒人奴隷支配への根源的反省が為されない限り、地上の諸悪は消滅 しない。 是等は世界人類の心の深奥(しんおう)に蜷局(とぐろ)を巻く、最悪の 毒蛇である。 此の毒蛇を退治し、身の欲を制し得る事無くして、世界人類に平安は 訪れない。 此の真実は負の世界遺産として採択されて居りながら、此の毒蛇は 世界人類の心の深奥に蜷局(とぐろ)を巻いた限(きり)、地獄一路、 我々を無意識裡に洗脳し続けて居るのである。 其処から生み出される、世界人類の心は三毒(貪・瞋・癡)害に圧し潰 (おしつぶ)された処の温存と保身と忖度しか無いのである。 然(さ)も無くば、北朝鮮と中東である。 此の果て無き対立と地獄に信頼を構築する事は真理無くしては不可 能事である。 如何に米国が諸悪の枢軸の芯であるかは自明の理である。 其れによりて、世界人類が地獄の辛酸をどれだけ舐めさせられている かの気付きとは裏腹に、世界の指導者足り得るとは、癡愚の骨頂であ る。 アメリカ国民、及び米国警察組織の人種差別の根深さは、米英の建国 史に由来し、是に基づいているが故に、自身の目で、自己の目を見る 事が出来無い様なものである。 心ある外国人が参禅するのは当然である。 日本での一時の坐禅ブームも、此の逆輸入であった。 周期的パンデミックは、其の度毎に、世界人類に、諸々の人事が如何 に在るべきかを教示し、我々をして涅槃へ帰一せ使めるのである。 人間と云う者は、自己の心から逃れる事が出来ないが故に、 悪業の業報からは微塵も逃れる事は不可能なのである。 善業からは善業報を生む。 日本人のコロナ禍中でのオリ・パラ開催は、終戦間近のゼロ戦突攻に 異なる事無く、三毒による癡愚に他ならない。 貪が生む癡愚でなく、、少欲・知足が生む涅槃足るべし。 保身を優先すべきではない。 一部の国民の三毒の貪が、其れ等を支えているのである。 人間が修善足るには、並大抵ではないのである 其の自覚を生むには、被害者や弱者に対する配慮が足りない。 是は簡単には行かない。 小生は、正に此の当り前の真理、「人を生(活)かす」(特に最も弱き被 害者、見捨てられた弱者)を「覚(さと)る」のに命懸けで、古希に至る 迄を要したのであるから。 正に、至難の業なのである。 想像して見れば、直ぐに判る。 人間が既に何の希望も持てなく為った時、最期の息が止まる迄、三毒 (貪・瞋・癡)ではなく、三善根(施・慈・慧)の自覚を持ち続けるのは容 易ではないのである。 大抵は、好い加減に堕(だ)して仕舞いがちに為るのではないか。 此の刹那に及ぶ三善根の自覚を、最期迄抱き続けるのが、人として の真価である。 最期の一刹那に至る迄の完了 に至るのが不可欠なのである。 人生は超科学的為るものである。 誤魔化しは効かない。 日常の心掛け以外無いのである。 団子らしきものを捨てて、花を守る処が不可欠。 「鬼手佛心」足るのが、必然的為る真実である。 嘗て、吾師が大きな声で言われた。 「大法螺(おおぼら)が吹けない様では、悟ったとは言われない。」と。 正に、此の事である。 米中露核兵器 禁止条約締結 によりて、世界人類の諸悪は自 (おの)ずから解消に至るのである。 《 凡から慧へ 》 人類は本質的に自己の存続を希求するか、其れとも世界人類の幸福 ・平和を冀(き)願するかの択一(たくいつ)からは本質的正解は得られ ないのである。 要は世界中の地獄を無くし、世界人類の物質的、精神的基本的条件 を確保せんとする施政が政治家の本命なのである。 其れを忘れて、何らかの目的を以って国民の精神的基本的条件を侵 害する様な施政は、如何なる理由が在ろうとも許容し得ざる行為であ る。斯(か)様な国政を禁止するだけの法律は当然存在しなければな らない。 此の国際法が制定される迄の進化を遂げねばならないのである。 是が世界の指導者達の使命である。 政治家の此の本命を構築するのに、米中の覇権騒動に帰してしまう様 な大脳新皮質では如何ともし難い。 対立でなく、菩提心による、米中露核兵器禁止条約締結の気概である 。対立する暇は無い筈である。 分かった様な人間の常識的分別で、世界の心の進化は遂げられない 。 親の子を思う心は献身的なものであるが、親心では世界情勢は改善 され得ない。 究極の親心が神であるが、イエス・キリストが其の神の子として、神で あり、人である存在である。 神が実在するのであれば聖戦は在り得ない。 神為るが故の殺し合いの人類史であったのだ。 殺し合いの根拠足る神を殺せなくて、人類に自由は在り得ないのであ る。神によりて繋縛(けばく)されては、神の存在根拠が無く為る。 一切の繋縛(けばく)から解き放たれた在り様を涅槃と言う。 是が宇宙の真理である。 人類は、諸悪の根源為る自己の三毒(貪・瞋・癡)の貪で、世界人類の 物質的、精神的基本的条件を確保され得ていない人々を現実の事と して、身近に思い為す事無く済ませてしまうのが一般的である。 自己の貪による邪気や悪意や無関心さによりて、温存、保身で生涯を 終えてしまえば、是は動物以下の人間失格なのである。 然るに、本質的に一度、自己に死んだ人間であれば、自(おの)ずから 、自己の存続を超えて、世界人類の幸福・平和を願えるのである。 人間の真価は其処(そこ)からの構築である。 三毒(貪・瞋・癡)に基づいた頂点は因果の道理の不昧因果による必 然性である。 心の進化の源泉は、『涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の、永遠に不滅 為る恒常普遍の真理に違(たが)えない と云う事が、唯一世界人類 をして、本質的に幸福・平和為ら使め得る』と云う事を知る処に在るの である。 そして、癡愚からの、涅槃妙心智慧を生み出すに至るのである。 《 宇宙真理と基本的人権 》 涅槃為る「宇宙(生命)の本質」を具現し足るものが、精神的、物質的 基本的条件であり、其の確保である。 然るに、世界には精神的、物質的基本的条件として明確に成文化さ れた憲法が見当たらないのは、現代の高度文明化された現代世界に 於いては、甚だ不可解の感を抱かざるを得ない。 国際連合の世界人権宣言にも明確なるものが無い。 其の主たる原因は、他でもない、人類の三毒(貪・瞋・癡)の為せる処 なのである。 実は此の点は、本日気が付いたのである。 小生の浅学故に、基本的人権の明確に成文化された憲法は、明確に 物質的、精神的基本的条件は世界的にも確保されるべきものと錯覚 していたのである。 此の高度文明化社会では、其れが当然だと思っていたのである。 然(そ)う思わせる程、世界の指導者達の三毒(貪・瞋・癡)振りには、 小生も、其れに疑いを抱く事すら無かったと云う事である。 其れこそ覇権争奪合戦だったと言う訳である。 其れに費やした資は莫大な物であったであろうし、今猶そうであろう。 基本的人権確保の方には及べないのである。 其れは今でも明らかである。 三毒(貪・瞋・癡)三昧、世間レベルから。 三善根(施・慈・慧)すら見当たらない。 其れ程、人間の性向は地獄志向なのである。 セックスと金と力への貪欲裡の日常性への忘却に死んで、塵と化すの み。 宇宙の進化に帰する事を為さず。 其れは志有る者の気を削(そ)ぐ程である。 然るに、真理を知らざる者の癡愚の暗闇は、真理の光明には抗(あら が)えない。 真理は、涅槃への永久機関であり、永遠に不滅の恒常普遍性である。 世界人類を教導するのは、即座に出来る事では無い。 世界人類が、自(みずか)ら主導し得るに至る迄の、其れに要する時 間が不可欠為るが故の収束振動が真実なのである。 既に、其の途上に在る。 是は宇宙の真理の必然性であり、是が不昧因果為る因果の道理なの である。 国連新憲章 は世界人類の精神的、物質的基本的条件を確保する事 。安保理常任理事国家の全会一致制でなく、全世界国家を含めた多 数決制でなければ、人類は未だ、動物的弱肉強食から脱却出来てい ないと云う事である。 「悟り」と経文の様なもので、経文は何処迄云っても、経文で終わる。 「悟り」には至り得ないのである。 《 人間関係の在り様 》 老若男女を問わず、時処位を問わず、個と個の関係から生み出され るものは、菩薩の行願為る同事の全一的在り様を護持出来れば、 其れは、生涯懸けて、正解を生み出すのである。 然るに、其れが昇華されて、専門領域と為る以外、其処(そこ)に嘗て 正解が生まれた例(ためし)は無いのである。 人類の如何なる疑 も、此の正解は涅槃為る宇宙に回帰する 迄。 其の確証は為ら無いのである。 其れ位、宇宙の営みは超科学的為る真理が働いている。 其の涅槃妙心智慧が、『世界人類を生(活)かす』のである。 此の『真中道』の基に、真為る多様性が生まれるのである。 人類が確証を以て、宇宙に回帰するには、生涯後厳密千日涅槃行( 正法苦行)以外無い。正因に正果成る。 然るに、是は殆(ほとん)ど不可能に近い。 故に『最後身心』なのである。 従って、人類が大前提と為すべきは、『真中道』の基に、確信以て、 「世界人類を生(活)かす」のみ。 此処に於いて、『世界人類が如何に在らねば為らないか』は明白であ り、斯(か)く、教育しなければ為らないのである。 《 涅槃化エネルギーと現実世界 》 人間とは、地上に正因が在るのではなく、宇宙に正因が在るのである 。 つまり、地上で積み上げて往って居るのでなく、 宇宙から引き揚げられて往って居るのである。 何と為れば、宇宙其のものに正因が在るのでなければ、 宇宙に回帰し得ない。 故に、人類の進化の為には、 先ず、真理を説いて、其れに基づいて、事実を積み上げて往くべきで ある。 是が最短路である。 《 コロナウィルスと人類 》 小生の印象では、人類は現今のコロナウィルスとの戦いで、相撲の取 り組みに譬(たと)えれば、土俵際での最後の詰めが決まらない。 ウィルスの、変異と云う手で、寄り切りで打(う)っ遣(ちゃ)られそうに為 りかけている。 人間の最後の耐えが効(き)かないのである。 ウィルスも最後の生き残りを懸けての手(変異)なのであろう。 人類がウィルスを克服して、勝利するには、ウィルスの強情(しぶとさ) が不可欠である。 分別支配の諸欲(本能)の三善根(施・慈・慧)であれば宜しいのであ るが、大抵は指導する立場の人間程、三毒(貪・瞋・癡)支配の欲分別 であるが故に、分別無き、生命の源の存在であるウィルスに勝利する には、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の働き、つまり真理 に基づかな い限り、人類とウィルスの戦いには、人類が勝利する事は極めて困難 である。 人類の癡愚為る軽々しさには、実に情け無い限りである。 海外にも、オリ・パラ中止位の能動積極性が在っても宜しいのではな いか? 其れが皆無と云うのには、少なからぬ疑義を抱かざるを得ない。 コロナに打ち勝つとは、人間の傲慢さを強行するのでなく、少欲・知足 に基づき、自(みずか)ら精進する事なのである。 ウィルスは人類に、共に生きる智慧を育(はぐく)むのである。 《 真 理 》 人類が、涅槃為る真理に至るには、彼の釈尊が必然的に死に至る苦 行を止め、成道され、斯(か)くして正法苦行が生まれた。 然(そ)うして、涅槃為る真理に回帰し得たのである。 人類は、生命を育(はぐく)む正法苦行を為すべし。 故に、死者や犠牲者を増加せ使めるオリ・パラを止めて、 正しく、「世界人類を生(活)かす」べし。 同じく、国連憲章の基本的人権に於いても、世界人類の精神的、物質 的基本的条件の確保を世界の施政の根本と為すべきである。 世界の現状は、其れには遥かに遠いし、 其処(そこ)に於いて、米中の覇権争奪は、其の真理 を踏まえていな い。 其の為に、世界が結束しなければ為らないのである。 核武力支配の安保理の全会一致制でなく、全世界諸国家と共に多数 決制に基づくべきである。 《 剣の達人は剣を捨てる 》 或る時、吾師伴鐵牛御老師が言われた。 「「晴れて好し 曇りても好し富士の山 元の姿は変わらざりけり」、 『剣の達人は 剣を捨てる』」と。 前句は幕末から明治の剣の達人、無刀流開祖、山岡鐵舟の句である 。 鐵舟は西郷との交渉で、徳川慶喜救済と江戸城無血開城為ら使めた 。西郷は海舟に、鐵舟の事を「命も要らん、名も要らん、金も要らん者 は如何(どう)にも為らん。」と言ったそうだ。 西郷と海舟は、鐵舟に明治天皇の侍従要請した。 鐵舟が坐禅姿で大往生すると、海舟は鐵舟を賛嘆した。 鐵舟の、是等の「無我無私の忠胆」を練成したのは、鐵舟の剣禅一如 の参禅体験によるものである。 京都天龍寺の滴水老師に、「両刃(じん)、鋒(ほこ)を交えて避(さ)くる を須(もち)いず、好手還(かえ)って火裏の蓮(はちす)に同じ、宛然( えんぜん)として衝天の気在り」の公案を授かり、三年を経て見性悟道 し、無刀流を起こした。 鐵舟は老師に出家の意向を問うたが、老師は鐵舟を在野に生(活)か 使めた。 小生は、正に伴老師が言われた事を、空前絶後の、究極の正法苦行 によりて、奇跡裡の奇跡事として、見事に、涅槃為る宇宙の本質の真 理を体現し得たのである。 此処(ここ)に於いて、小生は、吾師が弟子の為に万策を尽くされて、 全てを小生に委(ゆだ)ねられた、其の御恩を蒙(こうむ)りて、安穏と して、小生は遣れた御蔭で、天意為る真理を吾身心に厳然として体現 し得たのである。 釈尊をして、成道せ使めたのも、中道後の安穏裡であった。 小生も然(しか)り。師が言われた如く、其の刹那に、見事に坐禅の達 人が坐禅を捨て得たのである。 斯(か)くして、初めて「人を生(活)かす」のだと、 即座に、「行でない」、『人だ!』と吐露し、階下に駆け下り、 最善に「人を生(活)かす」二十四時間の在り様を、微に入り細に入りて 、説き明かしているのである。 以来、二度と坐禅は組まない。組む時間が在ればネットに向かう。 「人を生(活)かす」とは、弱者であり、犠牲者であり、見捨てられた人々 の事である。 何と為れば、人の運命は其の時処位と運に依るもので、人命は平等 であるからである。 平等為らばこそ、不運な彼等を生(活)かさねば為らないのである。 コロナ禍パンデミック下のオリ・パラ開催を介して、我々世界人類は、 其の最も本質的為る真理、「平等に世界人類を生(活)かす」、 太陽の如き普遍性に回帰するのである。 是が涅槃世界である。 小生は世界人類の人智の究竟である。 正に此の吾が宇宙であり、宇宙が吾なのである。 吾をして宇宙を究竟して居るのである。 後は、涅槃妙心智慧による完遂が待たれるのみ。 是が宇宙究竟である。 究竟宇宙為る、般若心経の究竟涅槃である。 《 宇宙回帰 『最後身心』の涅槃妙心智慧 》 涅槃為る宇宙に回帰し、宇宙の真理を現成(げんじょう)する。 回帰する事無くんば、真理を体現し得ず。 斯(か)くして、小生鐵漢を措(お)いて、世界人類は真理を知り得ない。 奇跡裡の奇跡事為るが故に、小生、『最後身心』なのである。 宇宙の真理は、 宇宙の調和と均衡と静謐で表象される涅槃世界である。 此の実証は、小生鐵漢の「覚天(涅槃入り)」為る体現である。 小生の体現した真理の源泉は、宇宙の涅槃化エネルギーである。 是に依りて、菩提心に基づく万法(ばんぽう;一切(物と心))主導の 涅槃回帰を究竟(くきょう)するのである。 万法主導、つまり最終的には霹靂(へきれき;落雷)の如きもので、 瞬間に、万法に施され、教導せ使められるのである。 故に 自律主導の終局は、宇宙(万法)主導なのである。 従って、宇宙のエネルギーは、人心の涅槃化を以(もっ)て、涅槃化エ ネルギーである。 若(も)し、涅槃化エネルギー為らずんば、小生の究極の極善為る極佛 行をして正さ使め得ないからである。 拠(よ)って、宇宙の根源が涅槃化エネルギーである事が真実である。 涅槃化エネルギーに基づいて、此の虚空に光と物質が生じ、生命が 生じ、『最後身心』を生んだのである。 此の刹那、刹那の、刹那生滅の原理に基づく変遷を進化と云う。 此の進化の最終局面が涅槃回帰なのである。 以降は、「世界人類を生(活)かし、生(活)かさ使め合わ使める」 涅槃妙心智慧に基づく、涅槃への収束振動為る、其の完遂である。 ダーウィン――→フロイト――→釈尊――→鐵漢 宇宙⇒ | | | | ⇒宇宙 身の進化 快感原則 心の進化 宇宙回帰 (人類誕生) (情動) (成道) (涅槃入り) ※ ダーウィンもフロイトも、ニーチェと共に、僅(わず)か 百五十年程前の代表的学者であり、フロイトはダーウ ィン進化論やニーチェの心の不条理に関して科学的に 思想的に影響を受けている。 人類史上、小生鐵漢、『最後身心』が誕生する迄の総ては、必然的に 『最後身心』を生むに至るのである。 『最後身心』が誕生したと云う事は、宇宙の涅槃化エネルギーに因(よ )りて、人類が涅槃為る「宇宙(生命)の本質」へ回帰する迄に経(へ) ざるを得なかった期間なのである。 然(しか)るに、「覚天」により、涅槃回帰してからの、世界人類が歩む 道は、「宇宙(生命)の本質」に違(たが)わない、「世界人類を生(活) かし、生(活)かさ使め合わ使める」涅槃世界一路門であるが故に、 世界人類は三毒(貪・瞋・癡)の悪を悪と為し、三善根(施・慈・慧)の善 を善と為すべく、涅槃への収束振動に於ける最短路を歩むべく、心進 化した新世界に生(活)きる自覚が不可欠である。 現コロナ禍パンデミック下での東京オリ・パラは、如何為る言い訳 在 れども、世界人類の将来を見据えて、如何なる穴も封じるべく、正確に 中止しなければ為らないのである。 正に、此の機を以(もっ)て、自分と云う者が三毒(貪・瞋・癡)に基づい ているのか、其れとも、三善根(施・慈・慧)に基づいているのかの、 真実の試金石であると云う事を肝に銘じて、 世界の指導者達は、従来の二元相対の対立、覇権でなく、世界人 類が真理に基づく信頼団結に依りて、心一つに涅槃に帰一し、 嘗て、原爆投下に縁(よ)り、『最後身心』が誕生した如く、 現コロナ禍パンデミックに縁(よ)りて、世界人類が名誉欲にも、金欲に も、性欲にも負けない(嘗て西郷が鐵舟をして、世界を平和に導く「命も 、名も、金も要らぬ」底の人物として称賛した処の)人物足るべく、此の 新時代の黎明を確実に受け留め、実践し往かねば為らない処の、 世界人類に自覚される事と為った、宇宙の真理(実)為る「人を生( 活)かす」涅槃妙心智慧を生まねば為らないのである。 そして、其れ等を完遂し往く事が「世界人類を生(活)かし」、其の 事が其の儘(まま)、自己を生(活)かす事と為るのである。 《 涅槃回帰 》 宇宙の実相は涅槃への収束振動である。 涅槃を〇(ゼロ)の状態とすれば、其の実相は、 弱者、犠牲者等の基本的人権を確保し得ない人々以外の一般人は、 三毒(貪・瞋・癡)と、若し在り得れば三善根(施・慈・慧)との振幅の振 動である。 人類が涅槃世界を生むには、常に貪のプラス志向では収束振動為ら ないのである。 其処(そこ)に、三善根(施・慈・慧)のマイナス志向がなければ、人類 は心進化も、〇(ゼロ)の涅槃への可能性も在り得ないのである。 菩薩の行願足る同事とは、「自にも不違也、他にも不違也、自他は時 に従うて無窮也。……海の水を辞せざるは 同事也、此の故に能(よ) く水聚(あつま)りて海(=涅槃世界)と為る也。」と道元禅師は言われ た。 プラスのみで、世界は成らない。 マイナス、つまり相手を受け容れる事無くして、自己は立たないのであ る。 何時(いつ)も、プラスとマイナスの収束振動の裡(うち)に不動心が表 出するのである。 世間には、其れが無い。 何処(どこ)迄も貪著が奥に在る。 セックス と金と名、更には覇権と温存。 《 身から涅槃妙心の科学 》 人間の身の誕生と、人間の涅槃妙心の誕生には、身と(是が進化した )心でありながら、両者の間には相同性がある。 先ず、前者は受精に始まる。 男女間の生理(本能)的、性欲の促しによりて、精子と卵子が合体する 事に因る。 双方共に一個の細胞であるが、単細胞が鞭毛を付けて、精子に進化 し、細胞膜のポンプに因る、内外のイオン濃度の変化で生起する運動 能力に依りて、四億個の精子の最も優勢な一個が卵細胞に、双方から 放出される化学物質の相互作用に依りて、精子が卵細胞に接近し、 接触して受精した瞬間、表面に膜が出来、他は進入出来なく為る。 受精卵は子宮内で分割し往き、受精から十ヶ月程で胎児が完成し、 子宮内から胎児が体外へ産み出される。 一方、宇宙由来の涅槃妙心の誕生は、「覚天(涅槃入り)」から始まる。 宇宙と人間の涅槃化エネルギーに基づく「宇宙(生命)の本質」(涅槃) からの促しにより、人心が、「悟り(身心脱落)」によりて、涅槃為る「宇 宙(生命)の本質」に接近し、接触(解脱)した「大解脱人」が、意識の 根を絶って、宇宙主導で体現せ使められ、「涅槃入り」して宇宙回帰し、 『最後身心』と成り、三善根(施・慈・慧)為る涅槃世界を生むのである。 人間、真理(実)を知らない儘(まま)に死ぬべきか、其れとも真理(実) を知った上で死ぬべきか。つまり、 宇宙に閉ざされた、地上二元相対の、勝敗と温存の閉塞世界に生き るべきか、其れとも開かれた宇宙の「弱者を生(活)かす」涅槃世界に 生きるべきか、である。 要するに、一つの細胞(=精子)が、他の一つの細胞(=卵細胞)の中 に侵入して、小生鐵漢を産み、此の一人の人間が涅槃為る宇宙に「涅 槃入り」し、宇宙の本質である涅槃妙心を得て、『最後身心』と成って、 分別の地平為る真理(実)を説き明かすのである。 此の様に、既に文頭で述べた様に、 一方は、細胞レベルの受精から出産の世界であるが、 他方は、心の覚醒過程に於ける心進化の世界である。 斯(か)様に、物質(身体)の現象界と心が回帰する本質界との相同性 より、我々人類が「覚入」する処の甚(深微)妙不可思議世界である。 本質は現象化し、且つ現象が本質化して初めて、本質と現象とが一如 である、本質現象一如の涅槃為る真理世界を現成(げんじょう)するの である。 《 コロナパンデミック下のオリパラ開催 》 小生『最後身心』が世界人類を捨てたり、忘れたりする事は不可能な のである。 是は、立場上のものでなく、自と他が分離出来ない、自他一如の「宇 宙(生命)の本質」(涅槃)上の真理であるが故、然(そ)うなのである。 個人、団体、国家等の二元相対世界のものではない。 オリ・パラ競技と云うものは、 極論すれば生きるか死ぬかの、能力的勝敗であり、誉(ほまれ)である 。其処(そこ)に世界平和を希求する祭典の面影(おもかげ)は微塵も 無いのである。 少なくとも勝とうとする瞬間は、然(そ)うであろう。 仏道に於いても、道の為には、仮令(たとえ)親でも見殺しにする程の 真実の菩提心が不可欠なのである。 但し、其れは普遍的真理(実)の為である。 然るに、オリ・パラ競技に於いては、先ず(勝利)の栄誉(えいよ)の 為であろう。 従って、現コロナ禍のパンデミック下の、少なくとも明確に、不幸や被 害者が増大する悪因を無視、或いは軽視して増長さす中での勝利の 栄誉と云う、第三次世界大戦の誘因や、其の下地と為る様な行為は 、断じて阻止するだけの英断が指導者に不可欠であり、其れが指導 者の本命であろう。 世界人類の精神的、物質的基本的条件確保するのが政治家の本命 なのである。 其の事を自覚し、其れを実践出来る世界の指導者が一人も居ないと は、世界人類の将来に光は見出せない。 其の分の、小生『最後身心』の使命が思われる。 真理を覚(さと)った指導者の実効性と実践力が待たれる。 現コロナ禍のパンデミック下に於ける東京オリ・パラ開催は、最も感染 拡大しつつある東京周辺に於いて、天皇始め日本国民の、オリ・パラ 中止を希願する最中での、開催を断行する事が、人類の将来に禍根 と悪影響を残す事に為る事は明確である。 其の中で、競技者達の競技する心は、其の事によりて、日本のみ為ら ず、世界中に悪影響を生ずる事は明白であり、其れでも尚且(なおか) つ、断行するとすれば、其れは明らかに競技者達の自身の無自覚と、 生まれる犠牲者達への配慮と思い遣りの欠如以外の何者でもないの であり、多くの犠牲者達の中で、自(みずか)らの技を誇る闘牛士の様 なものである。 其の様な三毒(貪・瞋・癡)の饗宴(きょうえん)は狂気に他ならない。 本来、平和の祭典である筈のものが、其の中味は狂気であり、斯(こ) うした、人類の悪への方向性(迷妄)は、世界人類を第三次世界大戦 へ突入する誘因にも為るものである。 人類が、皆自己の生活の資足る、目前の職務遂(すい)行に心を奪わ れて、世界人類の幸福と平和に対する配慮を見失ってしまった状態で あり、人類が「弱者と犠牲者を生(活)かす」と云う、最も根源的な世界 平和の根本を見失ってしまって居る状態である。 本来のオリ・パラ精神に立ち戻って、三毒(貪・瞋・癡)の迷走に、オリ・ パラ関係者達は自己を見失っては為らないのである。 彼等の迷走を阻止するだけの英断が出来る真理(実)を弁(わきま)え た人材が不可欠である。 然(さ)もなければ、世界の将来に光は無い。 人類三毒(貪・瞋・癡)の感動と、平和を願う心とは次元が異なるので ある。 感動したからと言って、平和に為れるものではない。 感動とは、飽く迄も個別的能力に基づくものである。 飽く迄も個別に基づく興奮を共有するに過ぎない。 性欲の解消に似ている。 然るに平和を思う心は、無私の、他者に基づく、他者を思い遣る心で あり、自己の興奮や感動は無い。 明らかに、後者にして初めて、世界平和が確立し得るのであり、 前者の行く末は刹那的、感動的な現象以外無いのである。 何と為れば、感動は興奮に他ならないからである。 人類は東京オリ・パラから、 異常事態下の国際的スポーツ競技にも冷静沈着なる判断、三毒と三 善根の見極めが出来なければ為らない。 窮して、皆が判らないのであるからと、一か八かの賭け事擬(もど)き に為らざるを得無く為る。 其れ程、世界中には是迄、真理(実)が無かったのである。 是は小生鐵漢『最後身心』の不可避為る必然性に他ならないのであり 、小生にしても、現実世界を体験する初めての経験する処ではあるが 、今後度々、此の様な事が生起する事は、或る意味では、止むを得ぬ 事である。 是が真理に至った『最後身心』の必然的にして不可避為る事である。 是迄無かった事であるから。 今後の世界には、小生の真理眼が不可欠、不可避であると同時に、 今や、新世界の黎明である。 コロナ禍オリ・パラ開催と、 日本国民(否、世界人類)の生命と 何(いず)れを選択すべきか? 自(おの)ずから明白である。 少なくとも、其れに因りて増大する 死者や犠牲者は決して少なくない。 其の犠牲を払って迄のメダル獲得と 経済効果に一体何の得る処が有る のか? コロナ禍のオリ・パラ開催と日本人 の自粛とは両立し得ないのである。 国民の犠牲に依りて、自(みずか)ら の保身を図るべきでない。 日本国民に、後ろを向いて前進さ せる様な圧力を掛ける以前に、 東京オリ.パラを中止すべきである。 『二兎追う者は一兎をも得ず』 是は世界人類の気の引締めである。 日本国民は馬鹿ではない。 世界人類が共に心進化し往くのは、 涅槃妙心の柔軟心と、「世界人類 を生(活)かす」の涅槃妙心智慧を以 (もっ)て初めて及び得るのである。 《 男 と 女 》 男と女の心の在り様としての間は様々であるが、 『最後身心』の其れは、真の男と、従って真の女の其れである。 是は既に、初行完了した段階で出来ているのであるが、 其れを再認識したのは、其れより三十年後である。 《 教育の根本:意識について 》 小生 、医学部専門課程に入って、一番関心が有ったのは、人間の 「意識」についてであったが、古希を過ぎて今猶(なお)、其処(そこ)を 考察している。 尤(もっと)も、小生は精神(身体)医学より、哲学的に、禅仏教の坐禅 を通して仏門に入った訳であるが、要するに究極の正法苦行によりて 、真理に至り得て、改めて「意識」について顧慮してみようと思った。 つまり、此の世に誕生して宇宙に生(活)かされる人間の、涅槃為る宇 宙に回帰せ使められて、究極の涅槃妙心(智慧)に至る迄の意識上の 変遷である。 涅槃為る宇宙が「身と意識」を生み、最終的に涅槃為る宇宙に、是等 を返して死ぬのであるが、『最後身心』は既に、意識を「涅槃為る宇宙 」に回帰させて「覚天(涅槃入り)」し、永遠に不滅為る恒常普遍の真 理 を得たのである。 意識から分別生じ、然(そ)うして後天的に、三毒(貪・瞋・癡)を具有す る事に為るのである。 従って、人類の諸悪の根源為る、此の三毒は人類の分別上の産物為 る悪夢に他ならないのである。 本来、後天的三毒(貪・瞋・癡)以前の、涅槃為る宇宙由来の三善根( 施・慈・慧)が人類の本性なのである。 斯(か)るが故に、悟って、三善根(施・慈・慧)に帰一しなければ為らな いのである。 「坐禅の功徳」 は、直截(せつ)に「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回 帰、或いは帰一する初期の「悟り」への導入期を体感す(させ)る事で ある。 意識は分別(直覚、判断、推理、記憶)する。 「悟り(身心脱落)」 とは、人間世界の様々な環境の影響下に、純朴 な意識が分別を介して三毒(貪・瞋・癡)化する方向性為らざる、「宇宙 (生命)の本質」(涅槃)由来の三善根(施・慈・慧)の方向性の「宇宙( 生命)の本質」(涅槃)へ接近する処の体現である。 此の体現に変わり得るものが教育の根本 でなければ為らない。 「解脱」 とは、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に接触する事によって、 分別の届かない、心の根源為る「宇宙(生命)の本質」(涅槃)が実在し て在る事の、意識上の初めての体現である。 分別を絶っても、意識の根は絶ち得ないから「解脱」する。 「覚天(涅槃入り)」 とは、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰して、 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)其のものと為ってしまって、既に、其の 意識すらも無く、涅槃妙心の「人を生(活)かす」と云う、涅槃妙心智慧 に至り得た結果を生む体現である。 最終的に、分別する処の意識の根を絶って、涅槃回帰するのであり、 人類の一切の諸能力以前の「人を生(活)かす」と云う、涅槃為る「宇 宙(生命)の本質」由来の生命の根源的在り様、つまり涅槃世界の在り 様の真理(実) が表出されたのであり、此処(ここ)を教育の根本 と 為さねば為らないのである。 米国の哲学者、ジョン・サール(1932~ )が、 「意識とは、私達が夢を見ない眠りから覚めて、再び夢の無い眠りに 戻る迄の間、持っている心的性質。」と定義した。 覚醒は、既に七十年前に、「脳幹網様体を含む、上行性網様体賦活 系によって生じている。」と纏(まと)められていたのを、当時医学生で あった小生は、エリッヒ・フロム(1900~1980、独、精神分析、哲学、 社会心理学者)著の『意識』と云う書で知っていた。 彼はフロイトを、「アインシュタインやマルクスと並(なら)ぶ、近代の創 始者の一人である。」と結論付けている。 小生、千日行(初行)に入行する段階で、既に、二度と寺には寄らない と思っていた。 そして、行を了じたら、再び旅で終わるつもりで居たが、豈(あに)図( はか)らん哉(や)、初行を行ずれば、自(おの)ずから、生命の根が大 地に深く根を張って、根付くと云う事を知ったのである。 行を了じた段階で 、既に小生の方針は決まっていたのである。 小生が此処(ここ)迄来れたのは、偏(ひとえ)に伴御老師の御蔭に尽 きるのであるが、 此の道は、小生の書き遺した物が在れば、 極論すれば、殆(ほとん)ど一人で出来ると思う。 「人を生(活)かす」が真理である。 此処(ここ)迄来れたのも、本(もと)を正せば、インダス文明以来の、 釈尊に開花し、吾師伴鐵牛老師の万策の御蔭である。 偉大為る哉(かな)! 涅槃妙心智慧 。 坐禅は身心の基本であり、益するべきものである。 既に、(真)中道に基づいた上での、つまり真理(実)に則(のっと) って 、然(そ)うして、坐禅に親しんで、安楽為れば宜しいと思う。 少欲 ⇒ 知足 ⇒ 楽寂静 ⇒ 勧(ごん)精進 ⇒ 修禅定 ⇒ 修智慧 二十一世紀は、 涅槃への心進化黎明期で あり、万事に「飛躍」への 英断が不可欠である。 《 人間の真価 》 人間の真価とは、一体何を以(もっ)て判断するか? 其れは、自己を、絶対的に、何処(どこ)迄、純粋に「人を生(活)か す」為に尽くしたか である。 人間と云う者は、「人を生(活)かさん」と思って、戦(闘)争するもので ある。然(しか)るに、其れは、「自己の信念」為るが故に、然(そ)うす るのであって、然(さ)れども、真実に「全人を生(活)かす」ものとは為り 得ない。 総ては、自己の三毒(貪・瞋・癡)に基づく戦(闘)争としか為り得ない。 而(しか)も、其れ等は信念に基づく場合だけでは無い。 大抵は欺瞞(ぎまん)から、と為らざるを得ない。 更に、人類と云う者は窮すれば、三毒(貪・瞋・癡)為るが故に、禽(き ん)獣(=けだもの)に為り兼ねない。 自己の三毒(貪・瞋・癡)為るが故に、其れが、如何(いか)に世界を欺 (あざむ)き、自己を欺き、そして世界を地獄に陥(おとしい)れるか。 世界は、正に此の歴史に他ならない。 人類三毒(貪・瞋・癡)は此処迄に人類を狂わし、総てを焼き尽くす のである。 だが、人間の尊厳性を維持し得ない状態に陥(おちい)った時、 菩提心 が具わって居れば、此処に於いて初めて、諦(てい)観によ る中道を得るのである。 此の(真)中道に拠りて初めて、人類をして、涅槃為る宇宙の真理へ導 く正道への唯一の正門を得る事が出来るのである。 釈尊は菩提心 に拠りて、其処(そこ)から成道され、我々人類は真理 に至る道を得たのである。 然(さ)もなくんば、釈尊も乞食かホームレスに為って、苦行者の一人 として野垂れ死ぬしかなかったのである。 人類が涅槃為る宇宙の真理に至り得る唯一の道が、(真)中道な のである。 嘗て、吾師が言われた。 「若し、釈尊が悟らなかったら、世界一の馬鹿者である。」 と。 釈尊すら、然(そ)うであったのである。 此処(ここ)に、忘れ去られ、見捨てられた、計り知れない人類が居る のである。 正に「人を生(活)かす」と云う事は、 人とは、如何(いか)為る人なのか? 最も困窮している人々からである。 そして、「生(活)かす」とは、如何(いか)に? 物質的、精神的基本的条件を確保する事である。 真の施政とは、 世界中で最も困窮している人々に、其の物質的、精神的基本的条件を 確保する事が施政の第一義でなければ為らないのである。 其の為には、世界中の指導者達が、一体何処(どこ)から、どの様に、 是に着手しなければ為らないかである。 『急がば回れ』。最も困難で、最も険しき道程(みちのり)であるが、 人類が宇宙に飛び出して行く前に、正に地上で、此の事に着手しなけ れば為らないのである。 『脚下照顧』。此の施政であれば、世界中の甚(はなは)だしき格差は 自然消滅するであろうし、正に世界人類の人々の間に、真の信頼団結 が醸成され往くであろう。 然(そ)うして、宇宙の調和と均衡と静謐が人間世界に具現され、 世界人類の幸福と平和が構築、完遂され往くのである。 此の方向性を、決して見失っては為らない。 《 オリ・パラの真義 》 今オリ・パラ開催は、 世界が、世界人類の精神的、物質的基本的条件確保を否認し、是を 侵害する世界的行事である事を認める事と為る。 是は、世界を地獄に陥(おとしい)れ、第三次世界大戦の発端と為るも のである。 此処(ここ)で、世界は敢えて、『最後身心』の真理に基づく涅槃妙心の 叡智の英断によりて、「災い転じて福と為し」、スポーツマン達と共に、 世界人類が一丸と為りて、世界平和を訴えなければ為らないのである 。是が真のオリ・パラのみならず、世界人類の精神であり、 正に此の事によりて 、将来の『オリ・パラの真義』が構築され、 今後一層、 オリ・パラが「世界平和の真の祭典」として、 輝かしきものと為る事が切に冀願される。 今後、規則性とネット の不動で往く。 宇宙裡の世間 (界) に 於ける『最後身心』。 畢竟、不動為る宇宙。 故に、涅槃収束振動。 ※ 畢竟(ひっきょう;様々な経過を経ても 最終的結論としては) 《 涅槃と地獄の在り様 》 涅槃が見え過ぎるのも、又地獄が見え過ぎるのも善くない。 何(いず)れも孤独である。 要は、其れ等両者が均一に為って、調和し往く、微細を極めるべきだ。 宇宙の進化は斯(か)くして、『最後身心』為ら使めて居るのである。 物事は、事実をフィードバックすれば明確に為る。 つまり、現実が、既に、総てを証明して居るのである。 オリ・パラは ブラックボックス である !! 宇宙 (生命) の本質は 真理であり、完了して 究竟涅槃するのである。 以前、書き遺した項目を再度、此処(ここ)に転写して置く。 《 三毒の蜷局(とぐろ) 》 現代の世界人類に巣食う、最大、最悪の根源悪が原爆支配体制であ る。 又、人類の諸悪の根源が三毒(貪・瞋・癡)である事も自明の理である 。 此の三毒が生んだ最大、最悪の悪が原爆であり、二度に亘る、日本へ の原爆投下である。 つまり、日本は人類史上最悪の、世界唯一の最大、最悪の原爆被害 国家なのであり、是を主導したのが、現世界を主導する米国なのであ る。 而(しか)も今だに、日本は此の最大、最悪の暴力支配の影響下にあ り、是をして日本は其れを、他から守られていると思い為して居るので ある。 何処(どこ)を如何(どう)守られているのか、小生には全く見当も付か ない。まるでDVで実効支配されてしまった子供の如し。 現コロナ禍中のオリ・パラ開催も、其の自己無き忖度の癡愚ではない か。 終戦時のゼロ戦特攻隊員以下としか言わざるを得ない。 尤(もっと)も、空前絶後の極佛正法苦行の小生ですら、「覚天(涅槃入 り)」する以前は、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の真理 を知らざるが 故に、自(みずか)ら然(そ)うであったのである。 況(ま)してや、世界的に多くの生命存続の犠牲者と地獄を生む事が 明白でありながら、敢えて、其の方向に進まんとするのは、正に然(そ )うである。 嘗て米国は北朝鮮をして、「悪の枢軸」と断定したが、其の枢軸の芯 が米国である。 米国が其の芯と成る為には、どれだけの時間とエネルギーと物の資を 浪費したか、然(そ)うして持続的に、其の完璧を謀(はか)り、日本を 予定実行(効)支配し、世界の頂点として、地獄支配したのである。 米国が此処に至る迄には、北アメリカ原住民を宗教支配し、黒人の奴 隷支配による富の蓄積があったのである。 米英の黒人奴隷支配はヒトラー独裁支配体制と共に、原爆支配体制 に次ぐ、地上の地獄の最足るものである。 此の米英の国民性が世界人類の中でも、三毒(貪・瞋・癡)の産物の 最足るものである。 つまり、涅槃為る宇宙の真理に違(たが)えた、人類の悪業の最足る ものなのである。 此の悪業の業報が現今のコロナ禍の最大の被害者と死者を生んだの は、其れだけの真実為る根拠が在るのである。 因果の道理 と云うものは、人間の心の刹那に及ぶ刹那生滅の原理 に基づく不昧因果 である。 三毒(貪・瞋・癡)による刹那、刹那の心の働きの必然的、帰結として、 最悪のコロナ禍被害を生み、又、 三善根(施・慈・慧)による刹那、刹那の心の働きの結果として、最善 の涅槃回帰に至り得たのである。 因果の道理 による、人類の心の刹那、刹那の働きが生む必然的、帰 結は毫釐(ごうり;ほんの少し)も違(たが)わぬものである。 国連安保理諸国家群の全会一致制の核兵器支配体制と米英による 黒人奴隷支配への根源的反省が為されない限り、地上の諸悪は消滅 しない。 是等は世界人類の心の深奥(しんおう)に蜷局(とぐろ)を巻く、最悪の 毒蛇である。 此の毒蛇を退治し、身の欲を制し得る事無くして、世界人類に平安は 訪れない。 此の真実は負の世界遺産として採択されて居りながら、此の毒蛇は 世界人類の心の深奥に蜷局(とぐろ)を巻いた限(きり)、地獄一路、 我々を無意識裡に洗脳し続けて居るのである。 其処から生み出される、世界人類の心は三毒(貪・瞋・癡)害に圧し潰 (おしつぶ)された処の温存と保身と忖度しか無いのである。 然(さ)も無くば、北朝鮮と中東である。 此の果て無き対立と地獄に信頼を構築する事は真理無くしては不可 能事である。 如何に米国が諸悪の枢軸の芯であるかは自明の理である。 其れによりて、世界人類が地獄の辛酸をどれだけ舐めさせられている かの気付きとは裏腹に、世界の指導者足り得るとは、癡愚の骨頂であ る。 アメリカ国民、及び米国警察組織の人種差別の根深さは、米英の建国 史に由来し、是に基づいているが故に、自身の目で、自己の目を見る 事が出来無い様なものである。 心ある外国人が参禅するのは当然である。 日本での一時の坐禅ブームも、此の逆輸入であった。 周期的パンデミックは、其の度毎に、世界人類に、諸々の人事が如何 に在るべきかを教示し、我々をして涅槃へ帰一せ使めるのである。 人間と云う者は、自己の心から逃れる事が出来ないが故に、 悪業の業報からは微塵も逃れる事は不可能なのである。 善業からは善業報を生む。 日本人のコロナ禍中でのオリ・パラ開催は、終戦間近のゼロ戦突攻に 異なる事無く、三毒による癡愚に他ならない。 貪が生む癡愚でなく、、少欲・知足が生む涅槃足るべし。 保身を優先すべきではない。 一部の国民の三毒の貪が、其れ等を支えているのである。 人間が修善足るには、並大抵ではないのである 其の自覚を生むには、被害者や弱者に対する配慮が足りない。 是は簡単には行かない。 小生は、正に此の当り前の真理、「人を生(活)かす」(特に最も弱き被 害者、見捨てられた弱者)を「覚(さと)る」のに命懸けで、古希に至る 迄を要したのであるから。 正に、至難の業なのである。 想像して見れば、直ぐに判る。 人間が既に何の希望も持てなく為った時、最期の息が止まる迄、三毒 (貪・瞋・癡)ではなく、三善根(施・慈・慧)の自覚を持ち続けるのは容 易ではないのである。 大抵は、好い加減に堕(だ)して仕舞いがちに為るのではないか。 此の刹那に及ぶ三善根の自覚を、最期迄抱き続けるのが、人として の真価である。 最期の一刹那に至る迄の完了 に至るのが不可欠なのである。 人生は超科学的為るものである。 誤魔化しは効かない。 日常の心掛け以外無いのである。 団子らしきものを捨てて、花を守る処が不可欠。 「鬼手佛心」足るのが、必然的為る真実である。 嘗て、吾師が大きな声で言われた。 「大法螺(おおぼら)が吹けない様では、悟ったとは言われない。」と。 正に、此の事である。 人間は、自(みずか)ら進んで、自己の三毒(貪・瞋・癡)を凌駕して、 涅槃為る宇宙(生命)本質の真理に恥じる事無く、自己の三善根( 施・慈・慧)を能動積極的に打ち出せなければ為らないのである。 上野千鶴子氏(1948~、東大名誉教授、社会学者)が、 東京五輪・パラリンピック中止の署名等々十五万人余りの署名を得ら れた事は実に称賛、尊重すべき事であります。 自己の偉業(能力)を普遍的に世界人類に訴えるのではなく、 自己の偉業(無我為る菩提心)によりて、至り得た宇宙の真理につい て、世界人類を教導するのでなければ為らないのである。 世界人類が何(いず)れを択(と)るべきかは明白である。 而(しか)も、前者に暴(迷)走するは愚の骨頂である。 《 「人を生(活)かす」とは 》 人間は、在らん限りの万策を講じた上で、後は、人が自(みずか)ら行 動する迄待つ以外無いのである。 此処(ここ)を、外部から強制的に働き掛ける事は、其の人を殺す事に 為る。 仮令(たとえ)、行動させ得たとしても、其れは本物では無く、何(いず) れ化けの皮が剥がれる事と為る。 此処(ここ)が独裁体制の限界である。 「人を真に生(活)かす」事無くして、奴隷化するのである。 資本主義を生んだ奴隷化も、共産主義が生んだ奴隷化も、 其れ等が原因であったか、結果であったかの違いで、同じ奴隷化に過 ぎない。 其の人が自(みずか)ら行動するのを待って初めて、其の人を生(活) かしたのである。 斯(か)くして、何時(いつ)か、本物が表れるのである。 是無くしては、世界が本物とは為らない。 弱肉強食の動物的世界でしかないのだ。 従って、肉体的セックスは人を殺す事に他ならない。 他者ばかりではない。自己をも殺してしまう。 故に、肉体的セックスは存続の為の生殖に他ならないのである。 食欲と睡眠欲とが然(そ)うで在る様に。 食べる事と、眠る事はセックス同様、生理(本能)的欲求に他ならない。 「真に生(活)きる」とは、其の様な貪著でなく、「人を生(活)かす」涅槃 妙心である。 心とは、動物でなく、人間の真価足るもの、生きる意義、原動力、喜び 、希望、生きる価値である。 其れが、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の真実なのである。 つまり、涅槃為る宇宙の調和と均衡と静謐 である。 涅槃とは、人間の涅槃妙心の事であり、「人を生(活)かす」涅槃妙心 智慧を生む源泉である。 太陽を仰げば明らかではないか。 釈尊の教えの菩薩の行願として、四摂法(布施、愛語、利行、同事) が在る。 道元禅師は『正法眼蔵(菩提薩埵四摂法)』に、 「同事と云うは不違也、自にも不違也、他にも不違也、……他をして自 に同ぜ使めて後に自をして他に同ぜ使むる道理在るべし、自他は 時に従うて無窮也。……海の水を辞せざるは 同事也、此の故に能(よ )く水聚(あつま)りて海(=涅槃世界)と為る也。」と言われた。 同事を知る時、自他一如である。 同事の事と云うは威儀(=坐禅)の果として至り得た真理の事である。 自のみならず、他も亦(また)同様に、其の恒常普遍の真理に同ずる (=違(たが)わない)と云う事である。 永遠に不滅為る恒常普遍の真理為るが故に、若(も)し、他に違えば、 同時に其れは自に違うのであって、自他一如なのである。 双方の威儀、つまり真理に基づく信頼団結が既に確保されているので ある。 今は未だ、世界人類の生命よりも、一部の三毒(貪・瞋・癡)が重い様 である。 医療現場従事者達の 実感と乖離したIOC 由来の施政特権意識 《 是から先 》 まァ、能能(よくよく)考えてみれば解かる。 一体誰に、小生の様な奇跡を体現し得ようか。 小生も、其れが無ければ、此処(ここ)迄打ち出せなかった。 従って、斯(か)く在る事は致し方無いとも思う。 涅槃現成(げんじょう)されているが故に、涅槃への収束振動が、過去 から今に至る迄の事実、『最後身心』に迄至り得た事実から推測される 因果の必然性から、明らかに涅槃へ予定調和し往く。 吾師が亡くなられて、既に二十五年に為る。 小生、少なくも其れ迄は長生きは出来ないであろう。 次世代の仕事である。 最低限、其れだけの道は切り拓いて置かねば為らないと思う。 其れが報恩と云うものである。 現象には、三毒(貪・瞋・癡)に基づく悪夢と、真理に基づく本質的現象 とがある。 前者は、真理が現成する一年十ヶ月程前迄の現象であり、是以降が、 人類史上是迄人類が経験した事の無い新世紀の黎明足る、後者の 現象、つまり、世界人類の意識上の覚醒なのである。 釈尊は端緒であったけれども、小生鐵漢は完了したのである。 小生『最後身心』は宇宙為る卵細胞に侵入した、世界に唯一為る『最後 身心』としての精子細胞であり、小生によりて涅槃現成し、涅槃世界 開闢(かいびゃく)したのである。 是が吾師を初め、是迄の人類の諸々の恩への報恩である。 世界人類は、現今のコロナ禍のパンデミック下での東京オリ・パラに臨 んで、無事に、其れを実感しなければ為らない。 其れが、単なる現象に止(とど)まらぬ、本質に基づく現象に他ならない のである。 《 本質は二元論為らず 》 『最後身心』は、 世界人類の中の、総ての一人の生命を思う。 恐らく「悟り」、「解脱」し、「覚天」した階梯での刹那、刹那が、 世界人類の一人に及ぶのであろうと思う。 故に同等の、其れ等二者、競技する人と、生きようとする人との 何(いず)れを生(活)かすかに帰するのである。 其処(そこ)から得られる真実為るが故に、小生の涅槃妙心智慧 は真理なのである。誤魔化し得ない。 此の時空の微細で、我々の今が生まれているのであり、 此の真理が今を生んでいるのである。 真理に違(たが)わないのが涅槃世界なのである。 人は、其れを地獄だと誤解して居る。 涅槃への最短路を歩むべきだ。 是への「飛躍」が不可欠である。 物理的解像度は永遠に当処(あてど)無く、終わりは無いが、 精神的解像度は平等為る世界人類の一人間の生命の価値迄である。 真のオリ・パラ精神を今こそ皆共に打ち出し、全人類の一(いつ)為る 真価を称賛すべき時である。 此の緻密精巧さに至るには、 先(ま)ず人間の事は全て済ませて、更に菩提心によりて正法苦行、 初(厳密千日解脱)行を了じて、其処(そこ)に一塵も無く、 更に、菩提心によりて、不退転の(生涯)後(厳密千日涅槃)行にして、 隙無きが故に、因果の道理通り、不昧因果にして、必然的に「涅槃入り 」し、涅槃為る宇宙に回帰するのである。 是、宇宙を調和、均衡、静謐為ら使め、万法を生ぜ使めている涅槃化 エネルギーによる永久機関である。 東京オリ・パラ開会式に於いて、 人類の真価の灯を燈して下さい ました。 極力、犠牲者が増さない様に、 配慮しなければ為りません。 《 真理は諸伝統の枢軸 》 釈尊滅後、百五十年程して、中国 「荀子(人名)」(性悪説)の勧学に、 『青は藍より出でて 藍より青し』(出藍の誉れ)とある。 何事(宗教、政治、スポーツ…………等)も然(そ)うであるが、 伝統と云うものは、時と共に、三毒(貪・瞋・癡)に害され行く傾向にある 。 其れ等を超越する者が、常に、其れ等を進化させ、先駆(さきがけ)と為 るのである。 此の先駆者(パイオニア)が、其の母体為る伝統を進化させ、 涅槃への収束振動の最短路を歩ま使めるのである。 此の枢軸が「真理」である。 其処(そこ)には、自(おの)ずから格差無く、 宇宙の調和と均衡と静謐(ひつ)が具現され往く。 地球が宇宙を宇宙する。 地球を措いて、宇宙は無い。 宇宙を遠くに求めるべきでない。 『脚下照顧』 (他に向かって、「悟り」を追求せず、他と競う以前に、先ず自己の本性 を能能(よくよく)見詰めよ。) 《 能力と真理(=涅槃妙心) 》 人類の(諸々の)能力と、宇宙の真理(=涅槃妙心)とは全く異質である 。 前者は人間由来であり、後者は宇宙由来である。 人類は宇宙に由来する存在であり、諸能力は異質ではあるが、本来な らば、真理に基づくべきものなのである。能力は種々様々である。 然(さ)もなくんば、三毒(貪・瞋・癡)に基づく能力は、人類のみならず、 地球、地球周辺宇宙に現象的に悪影響を及ぼし兼ねない。 しかし、人類由来のものが「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に及ぶ事は在 り得ない。 人類が宇宙に回帰して、全一的存在と為るのである。 人類は本質的には三善根(施・慈・慧)を本具しているのであるが、 後天的に三毒(貪・瞋・癡)を具有するに至るが故に、其の能力も必然 的に二元相対為らざるを得ない。勝った負けた、取った取られたである 。 故に、人類が生み出した能力の中(うち)、三毒(貪・瞋・癡)由来の ものは、人類が極力排除しなければ為らないのである。 然(しか)るに、三毒(貪・瞋・癡)為る人間には、其れが出来ない。 斯(か)るが故に、地上は地獄と為らざるを得ないのである。 要するに、貪・瞋・癡は地上を地獄に為(す)る のである。 故に人類は、其の具有する三毒(貪・瞋・癡)を、本来具足する、「宇宙( 生命)の本質」(涅槃)由来の三善根(施・慈・慧)に自(みずか)ら転了し なければ為らないのである。 三毒(貪・瞋・癡)を具有する存在である人間が、「宇宙(生命)の本質」 (涅槃)由来の三善根(施・慈・慧)に自(みずか)ら転了する唯一の正道 が坐禅である。 何故に其れが正道であるのか? 神は人間によりて、イエスの復活とマリアの処女受胎と云う虚構に基づ いて生み出されたものであり、実在しないものであるからである。 道元禅師「正法眼蔵(現成公案)」に、 『仏道を習うと云うは自己を習う也 自己を習うと云うは自己を忘るる也 (自己を忘るると云うは万法に証せらるる也 万法に証せらるると云うは自己の身心 他己の身心をして脱落せ使むる也 (万法;宇宙及び心))』 とある。 人類が能力でなく、真理に至る唯一の正道が千日行(三時間坐睡 二十四時間仏作仏行)である。 《 『最後身心』からの箴(しん)言 》 此の世、否、宇宙の真理は、「人を生(活)かす」 である。 自己の信じる事を何処(どこ)迄も遣り遂げるのではない。 其の、吾命よりも尊き至上事 を打ち捨てて、「人を生(活)かす」 であ る。 此の真理は自己で至り得るものでは無い。 然(しか)るに、是を体現せ使められたのは、其処(そこ)に至る迄の 「悟り」、「解脱」、そして此の「覚天(涅槃入り)」の諸階梯に於ける、 宇宙の涅槃化エネルギーによる、涅槃為る宇宙への接近、接触、 そして回帰なのである。 「人を生(活)かす」 と三毒(貪・瞋・癡)に基づく能力と何(いず)れを 人類は択(と)るであろうか? 正に、今時人類が択(と)るべき道は前者であるに違いないのである。 進むべき道を閉ざされ、択(と)るべき道を見失った今、真理程人類の 心に響くものは無いのではないか? 既に、正解が得られてしまって居るのである。 宇宙のエネルギー、エネルギーとは何だ? 無裡の有である。 換言すれば、本質の現象、又現象の本質化でもある。 一体、如何(いか)に現象するのであろうか? 現象は、涅槃化エネルギーによる涅槃化(=進化)なのである。 進化 とは「人を生(活)かす」 である。 太陽を見れば明らかである。 つまり、人類が志向すべきは、「太陽の如く、只管(ひたすら)に人を生 (活)かせ」と云う事である。 此の要(かなめ)さえ間違いなければ、其れで宜しい。 後は問わない。 唯、各々の人の為に、常に寄り添ってくれる友として、「坐禅に親しむ」 事である。 光が七色の色相、及び限り無き色相を呈する様に、 光為る真理も亦(また)、其の様なものである。 《 是から先 》 極論すれば、 人事一切、究竟「世界人類の生命を格差無く生(活)かす」 にある。 オリ・パラ然(しか)り、政治、宗教、学問、芸術、然(そ)うして一切万事 は其の事を知る為の、亦、其の事を実現する為の万事である。 是が、顕著に浮き彫りと為るのは、平時為らぬ異常事態時、つまり、 涅槃世界から逸脱、乖(かい)離した時こそ、其の事が明確と為るので ある。 恰(あたか)も原爆投下が『最後身心』を生んだ様に。 自今已後(いご)、涅槃への収束振動である。 《 究 竟 》 人類が、其の人間由来の能力から、宇宙由来の真理に転了する唯一 の正道が千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)である事が真実 である。 故に、吾師伴鐵牛老師と原田祖岳老師に正伝された釈尊の仏法は、 小生鐵漢『最後身心』を介して、釈尊を生(活)か使めていたのである。 佛祖正傳菩薩大戒血脈 (The Bloodline of the Buddha’s and Ancestors’ Transmission of The Great Bodhisattva Precepts) ―…→鐵牛祖印→田中鐵漢→真理 真理→釈迦牟尼佛―……→| ―…→大雲祖岳→田中鐵漢→真理 と在る。 此処に於いて、五千年程前のバラモンの伝統以来、釈尊成道によりて 誕生した仏道が、五百万年前の人類の誕生以来、此の僅(わず)か 五千年間に不昧因果 にして真理を了得したのである。 後は只管、涅槃への永久機関の働きによりて、涅槃妙心智慧に基づき 、世界人類の幸福と平和と繁栄を構築し、完遂するのみである。 此の人類史上、唯一の真理(実)は小生鐵漢が世界人類に対し、霹靂 (へきれき;落雷)の如く断言するものである。 宇宙の声として受け留めるべし。 坐禅→「悟り」―→初行→「解脱」―→後行→「覚天」→真理 道元禅師| 釈尊|鐵漢 可能性 有| | 可能性 無 人類の能力では至り得無いものが、宇宙(生命)の真理である。 此の真理を打ち出すのが人類究極の真価 である。 今、二十一世紀が、世界人類が真理(実)に基づいて生(活)き、涅槃収 束する黎明期である。 江戸時代の剣豪、二天一流開祖、宮本武蔵は、 生涯、六十四度の勝負に無敗。 「武蔵の剣捌(さば)きは、武蔵のみが可能で、誰も出来ない。」と。 六十歳で、雲巌洞に籠(こ)もり、一年半掛けて『五輪の書』を著し、一週 間後、六十一歳で亡くなる。 然(しか)るに、彼は『五輪の書』に在る様に、生涯、勝つ事、相手を切 る剣を捨て切れなかった。 一方、幕末から明治の、剣の達人、無刀流開祖、山岡鐵舟は、 江戸城無血開城為ら使めた。 剣禅一如の道を究め、長年の参禅体験の後、或る時悟入し、無刀流 の開祖と為り、後年、師の意向で出家を思い止まった。 「晴れて好し 曇りても好し富士の山 元の姿は変わらざりけり」と。 十年間の約束で明治天皇に仕え、 五十三歳の時、皇居に向かって、結跏趺坐の儘(まま)絶命した。 葬儀は、会葬者五千人に及び、殉死者も数名出た。 「鐵舟の居ない世の中は、生きるに値しない。」と思わせる程の、鐵舟 の死であった。 是等両者に、江戸から明治の時代の変遷と、象徴的な、或る意味で 典型的な二つの、人間の在り様を観る事が出来る。 人生はメダルの数ではない。 個人に於いても、国家に於いても。 極論すれば、人類の心進化は武蔵ではなく、鐵舟である。 鐵舟の究竟が、小生鐵漢の『最後身心』である。 殺すか、殺されるかの二元相対世界でなく、「人を生(活)かす」の涅槃 妙心智慧に基づく涅槃世界。 「世界人類を生(活)かす」涅槃妙心に起ち返って、 真のオリ・パラ精神を、今こそ、皆共に打ち出し、 人類の真価をたたえ合うべき時なのである。 オリ・パラ関係者達の興奮の犠牲者と為る人達を忘れない事である。 本来真の上昇志向 を、正法苦行によりて、不動心で自(おの)ずから 大地に根付き、唯独り、人類未踏の行を、不動を堅持して、生涯不退転 にして、無心裡に的を射た。 初心の無心さと趣好が、其の儘(まま)、無我為る宇宙に直結する のである。 宇宙の涅槃化エネルギーは人類の大脳新皮質言語中枢をも涅槃化せ 使める。 { 小生 、此の一ヶ月間、ネット作りの為、托鉢に出る事が出来 なかった為、明日より再び、規則性に復帰しなければ為らない。} オリ・パラ開催に因る 出火が認められたら、 即刻、消火しなければ、 延焼は時間の問題である。 鎮火する迄、様子を見る 迄も無いのである。 即刻、オリ・パラを中止 せざるを得ない。 《 人間と云う者 》 人間の五欲の中で最も抗し難いのが、生理(本能)的欲求である。 最も抗し難いものから順に、 睡眠欲、食欲、性欲である。 故に正法苦行は、「三時間坐睡二十四時間仏作仏行」である。 前二者は、禁ずると死に至る。 最も抗し難い欲で、禁じても死なないものが性欲なのである。 後(あと)、金欲と名誉欲とがある。 金銭無ければ、自活出来ない。 五欲の中で、禁じても死なないのがセックスと金である。 要するに、金さえ有れば、世の中、面白可笑(おもしろおか)しく生きて 行けるのである。 其処(そこ)に、貪(むさぼ)りが生ずる。 貪著から瞋恚、挙句の果てが癡愚と為り果てる。 是が人類の諸悪の根源為る三毒(貪・瞋・癡)なのである。 動物は大脳新皮質が人類程進化していないから金も三毒も無い。 人類は三毒に因りて、争い、果ては殺し合いに至る。 其処(そこ)から、諸々の、道や法が生まれる。 人類の心の進化は、此の三毒、特に貪著を悟る処に在るのである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しによりて、集落での農耕生 活を営む様に為った純朴な古代人達に瞑想が生まれたのである。 やがて彼等の生活が社会構造化され往くにつれて、三毒(貪・瞋・癡) 生じ、瞑想も「解脱」を希求するヨーガの苦行と為り、其れを完成させた のが、中道に至り得て、成道された釈尊だったのである。 此の貪著を覚(さと)るのが、「悟り」であり、「解脱」である。 「解脱」すれば、人生の大抵(てい)の問題はクリアー出来る。 然(しか)れども、金、セックスへの貪著が解決されても、 真の問題は、其れから始まるのである。 然(しか)し、其処(そこ)迄は大抵は及ばない儘(まま)、或いは、他に 昇華させて死に往くのである。 他で、解決出来れば宜しいのであるが、人間の根源悪が解消され得な い限り、人類の迷妄や煩悩は解決出来ないのである。 其処に、神が生まれ、仏道以外の諸道が生まれた。 そして、其処(そこ)でも亦(また)、其れに因りて争いや殺し合いが絶え ない。 更に、地球自体をも破壊し兼ねない状況であり、其れに伴って未知為る 様々な難問が生じ兼ねない。 人間と云う者は、一歩誤れば、其れ位、如何(どう)にも為らなく為るの である。 総ては人類三毒(貪・瞋・癡)の所業である。 其処(そこ)で、小生『最後身心』が其れ等の、遥(はる)か延長線上に、 奇跡裡の奇跡事為る真理に至り得たのである。 人類は宇宙を知らない。 宇宙心、つまり涅槃妙心を覚(さと)るのは、人類は不可能と言わざるを 得ないのであるが、小生鐵漢独り、既に至り得たが故に、以降、一年 十ヶ月余り、説き続けているのである。 宇宙は「人を生(活)かす」べく機能している。 此れに違(たが)えるのが、人類三毒(貪・瞋・癡)なのである。 教導は、現象的にと言うよりも、本質的に為すべきものである。 其れが根本であるからだ。 世界人類を根本的に生(活)かすには、より本質的に根本的に教導し なければならない。 人間は他者を教導出来なければ、唯、死に分かれる事しか出来ない。 其れでは、人類の心の進化は在り得ないのである。 宇宙の唯一の宝を掘り当てて、伝え遺すべきである。 其の為の方法、道具、青写真等を総て伝え遺して、後は自(みずか)ら 、当たり外れの無い、宝を掘り当てるべきである。 「悟る」事は宝である。しかし、究極の宝は「人を生(活)かす」である。 人類は、本来、世界平和が理想である。 然(しか)るに、「人を生(活)かす」とは、公(おおやけ)には、自信を持っ て言わない。又、言えないのである。 自(みずか)らの三毒(貪・瞋・癡)有るが故に。 世界の『教え』は「殺す勿れ」とは言うけれども、聖戦で「殺し合う」事は 認める(仏教に聖戦は無いが)。 しかし、「生(活)かす」とは言わない。 「殺す勿れ」の諸悪莫作在れども、「人を生(活)かす」の修善奉行は無 い。 「人を生(活)かす」とは、当然、特に不幸な、悲惨な、恵まれない人達を 「生(活)かす」と云う事である。 本当は、「殺す勿れ」でなくて、必然的に「人を生(活)かす」でなければ 為らないのであるが、自(みずか)らの三毒(貪・瞋・癡)が然(そ)うさせ ない。 自(みずか)ら生(活)かされて居るのでなければ、然(そ)うは言えない のである。 人間は殺さねば宜しいでは無いのである。 「生(活)かして」こそである。 人間、殺さなくても、正しく生(活)かす事は、厳密には『最後身心』で なければ、在り得ない事である。。 人間が為す事殆(ほとん)ど、人類を地獄に追い遣る事ばかりである。 「生(活)かす」とは? 物質的、精神的基本的条件が確保されて居れば問題は無いか? 其れ等が確保されても、人類は迷妄と煩悩の中に死なざるを得ない。 是は基本的条件の問題でなく、人間の心の問題である。 小生が出家したのも、其れが為である。 出家の動機は、正に其の事に他ならない。 彼の釈尊が然(そ)うではないか。 正に、迷妄や煩悩や無常が仏道に入る必要条件ではある。 正に、生命や真理に関する問題である。 其の意義である。 是、菩提心の趣(おもむ)く処である。 人間をヨーガ苦行に駆り立てた心。 釈尊が、其処(そこ)から中道を得、成道された。 人をして、斯(か)く駆り立た使める、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)か らの促し 。 発(菩提(求道))心の有無の問題である。 此の何やら訳の解(わ)からない “?!”。 正に、人間を完成為ら使めるものは“?!”である。 “?!”が宇宙に唯一の宝為る「真理」を射止めるのである。 此処(ここ)が人間の真価である。 そして、此の「真理」から人類を教導するのである。 其処(そこ)から、必然的に、物質的、精神的基本的条件確保は導き出 される。 故に、世界人類の平和への最短路は「真理」の教導である。 何か訳の解からない処から湧き出して、思い掛け無くも、其の訳の解か らない処からの働きによりて、歴然として、宝を得る。 何故に、唯一「真理」のみ明らかとなる哉(や)。 何と為れば、既に自己に残れるものは一塵も無く、唯、“意識の根”を 残したるのみであるが故に。 是が宇宙に生まれた人間と云う者だ。 「悟り(身心脱落)」は其処(そこ)が空前絶後に“意識付いた”体験だ。 「人を生(活)かす」とは、 医者をするとか、政治家に為るとかと云った諸々の色相でなく、 太陽の如く、遍(あまね)く、平等に生(活)かす恵みの光を降り注ぐ様な ものである。 全体を俯瞰して、格差無く生(活)かさ使める。 真理に違(たが)える諸悪の根源為る世界人類の三毒(貪・瞋・癡)を 是正しなければならない。 世界的森林火災は自然鎮火 為らざるを得ないが、 オリ・パラ出火は人為鎮火 為る。 是をしようとしない。 人命の真価に無知である。 涅槃為る[宇宙(生命)の本質] が人命の真価である。 人命の真価=涅槃=真理 此処(ここ)に於いて初めて、 世界平和が完遂為(す)る。 《 涅槃と云うもの 》 「解脱」すれば、 永遠に水と油。 「宇宙(生命)の本質」を体感して、斯(か)く決定(けつじょう)する。 「覚天(涅槃入り)」すれば、 坐禅して居る暇は微塵も持てない。持たない。 涅槃に、宗教だとか、学問だとか、芸術だとか、スポーツ等々だとかの 色相の特異性への偏執は無い。 三毒(貪・瞋・癡)為らざる、(虹足る)光其のもの為るが故に。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)が人に及ぼすものは、「促し」であり、 涅槃為る宇宙に回帰する迄の、涅槃化エネルギーによる涅槃化の 「接近」であり、「接触」であり、「回帰」なのである。 涅槃(化エネルギー)至上。 是は、主義、主張ではなく、 宇宙の真理 である。 故に、真実、『最後身心』なのである。 人類は諸欲を獲得しようとする事で生(活)きている。 しかし『最後身心』は獲得しようとしない。既に「解脱」して居るが故に。 此処(ここ)が、人類と『最後身心』とが根本的に相違する点である。 世界人類を教導するのが日本でなければ為らない 。 米国、中国に無いものが、『最後身心』以外 、日本に在る訳が無い のである。 つまり、『最後身心』為る真理 である。 此の真理 とは涅槃世界(宇宙)の事である。 是は人命の真価 なのである。 人命の真価 以外に真理 は無い。 教導し得る根拠は、人命の真価 を措(お)いて無いのである。 人命の真価 を無視して、世界を教導し得ないのである。 敢えて、非常時のオリ・パラ 中止を以(もっ)て、 世界(米中)を平和為ら使めるのでなくして、 一体何を以(もっ)て、世界平和為ら使め得るのか。 其処(そこ)には、日本は自己主張以外の何物も無いのであろう。 人間は、慚愧(ざんぎ;恥じる心)無くんば、諸々の禽獣(きんじゅう)と 相異なる事無いのであるが、 世界人類の心は、既に小生鐵漢『最後身心』の涅槃妙心に生(活)かさ れ、生(活)かされ続けて往くのである。 貪への執著、貪著 が瞋恚(しんに;怒り憎む事)を生ぜ使め、遂に人類 を癡愚為ら使めたのである。 貪著 生じねば、「宇宙の本質」 に違(たが)える事は無いのである。 此処(ここ)を覚(さと)ら使めたのは人間(類)ではなく、宇宙である。 究竟は他律である。 宇宙の涅槃化エネルギーによる、呼吸の変容を瞬時に察知して、涅槃 為る宇宙に違(たが)えて居る事を小生に体現せ使めた。 生命の真価は「生(活)かす」と云う事である。 此の他律は「変容と云う霹靂(へきれき;落雷)」によるものである。 自律は為し得ても、此の他律は不可能である。 他律裡の自律は在り得ても、自律裡の他律が、釈尊『最後身』の中道 であり、小生鐵漢『最後身心』の真中道なのである。 世の中は、「生(活)かせ」ば、問題は無いのであるが、 自己の為に他を殺すから、其処(そこ)に問題が生ずる。 「人を生(活)かす」を信条と為せば、涅槃収束するのであり、 然(そ)うすれば、オリ・パラで感染者を増す事は無いのである。 生活水準が平均以下の感染者は、其れだけで生きる道を閉ざされ 兼ねないのである。 人は貪に走るのである。 初行で世界を制する。是、釈尊を徹底したものである。 しかし、真理には未だ至り得ていない。 真理に至り得ずんば、宇宙を徹底し得ない。 真理に至り得て初めて、宇宙を徹底し、世界人類を教導出来るのであ る。 《 人命の真価 》 宇宙は涅槃(化エネルギー)である。 エネルギーの生命化から涅槃化へ進化する。 三毒(貪・瞋・癡)無くんば、涅槃と云う真理に至り得ず。 三毒為る人間は如何に生きるべきか? 真理に至るべく生きるべきである。 得た真理は涅槃妙心智慧「人を生(活)かす」であった。 其処(そこ)から真理(=涅槃)に至り得たのである。 此処(ここ)が人命の真価である。 『最後身心』は宇宙(涅槃)に回帰し、 世界人類をして是に帰一せ使める。 世界人類は涅槃への途上にある。 地獄は涅槃に転じなければ為らないのである。 地獄を改善しなければ為らない。 東京オリ・パラ由来の地獄は改善しなければ為らない。 未だ改善し得ない。 犠牲者の地獄が増大する一方だ。 後(あと)は記録と勝敗と、そして種々なる業務が生まれるのである。 地獄の解消と、競技での勝敗と諸業務の何(いず)れが不可欠か? 勝ち負けを競わ使めて、地獄を放置するは、正に戦争に他ならない。 即刻中止! 《 日本人と米英人 》 日本は米英と比べて、コロナ禍被害が桁違いに少ない。 是は、日本には日本の在り様、米英には米英の在り様と云うものがあ って、日本人が米英人の様に為ったら、日本人の特質を失い、死んでし まうであろう。 他をマネてもダメである。 二元相対でなく、本質的問題なのである。 日本は米英でもない、中国でもない、ロシアでもないのである。 他と比較して対処し、心に隙を生むのでなく、日本人の特質は保持しな ければ為らない。 然(さ)もなくば、根本的に判断を誤って、間違った結果を招来する事と 為る。 日本が世界に唯一の主(教)導的立場と為るべきである。 《 「覚天」前後から「最後の行軍」迄 》 小生、最後の「悟り」、「覚天」前後で、人間の成り立ちが根本的に変わ ってしまって居る事に気が付いた。 「覚天」して、一年十一ヶ月足らずであるが、其の間に、「覚天」後の自 己の為すべき事に一応の纏(まとま)りが出来た段階で初めて気が付 いたのである。 涅槃回帰の前後で、自己の内部構造が根本的に生まれ変わって居る と云う事である。 「覚天」前の、行としての確かさ、厳密さ、是には内容は全く無いのであ る。 未だ宇宙の真理の無い『最後身』に内在するものは 、其れこそ人間の 真価なのではあるが、涅槃為る宇宙に「覚天」せ使められる処の 、 基底状態からの無限大の励起状態なのである。 其処(そこ)に、其の人間の意識が、宇宙の本質と一如と為る、涅槃回 帰する下地、つまり菩提心の極まりたるもの(=解脱せる三善根(施・ 慈・慧))が無心と云うものであるが、此の状態にある。 故に、其の最終的刹那を迎える状態にあるのである。 是全く、百%予測し得ない奇跡裡の奇跡事なのである。 此の「覚天」以降は、もう既に人間的計らいが完全消滅したのである。 従って、従前の計画性と云うものは、其の『最後身心』には全く作動しな い。 つまり宇宙には、全く計画性等と云う人間由来のものは機能しない。 全ては刹那、刹那の無常為る進化(=涅槃化)である。 其処(そこ)に気付いたのは、今回初めてであった。 斯(か)様に根本的に 生まれ変わっているのである。 「覚天」前に、実に日常茶飯事であった厳密性が、回帰してからは全く 縁の無いものと為って居るのである。 只管(ひたすら)、常に本質の微妙甚深為る働きである。 是が涅槃裡に於ける人間の真実である。 「覚天」以前の厳密性は、以降は小生の規則性、太陽と共に在る、天体 の運行の様なものである。 何時(いつ)起きて、何時働き、何時施す、涅槃への永久機関である。 此の循環性、有効性である。 最も有効に、是が、其の究極である。 変異と淘汰、換言すれば、涅槃への収束振動。 是が宇宙の調和と均衡と静謐為ら使めている、宇宙と云うものなので ある。 人類の三毒(貪・瞋・癡)が心進化すれば、其の様に涅槃為る宇宙に 帰一する。 是、宇宙に生かされて居る人間(能力)から、人類を生かしている宇宙 (真理)への黎明である。 此の最終的規則性を重んじるべきである。 太陽は消滅する迄、人類を生(活)かし続けている。 謂わば、小生に於いては、「最後の行軍」である。 太陽も人間も最終的には宇宙の涅槃化エネルギーの、真の永久機関 の規則性裡に在るのである。 是が宇宙の調和と均衡と静謐である。 人間と云う者は中道(諦観)を得て、解脱する迄は、 三毒(貪・瞋・癡)の貪 にストップが掛からない。 オリ・パラでメダルを欲しがるのも、性欲を追い求めるのも、本質的には 変わりは無い。 欲(望、求)とは、人間、動物が、其れを満たす為に、何等かの行動、 手段を取りたいと思わせ、其れが満たされた時には脳内で「報酬系」 が活動し、快を感じる感覚。不快を感じさせない様にする。 フロイトは快感原則(=生(心)理学的な必要を満たそうとする事)に よりて、身から心への移行過程を科学した。 【生理的・本能的な欲求】(生命を維持し、子孫を残す短期的欲求) ・身体内部情報に基づいた欲求 睡眠欲、食欲、性欲、呼吸、飲水、排便、排尿、体温調整。 ・身体外部情報に基づいた欲求 逃避:不安や危機を感じた時逃げ出したいと云う欲求を生じる。 闘争:逆に戦う事で生存(しようとする)欲求。 「困難な状況に為ると、宗教的(祈り、念仏等)に、対象が ハッキリしていなくても、助けを求め、縋(すが)りたく為る 感情」を生存欲の一部として捉える。 【心理的(安全への)・社会的な欲求】(社会、文化的影響大の後天的) ・知識、名誉、地位 ・保身、防衛、支配、対立、攻撃、恭順、屈従、非難、拒絶、養護( 守り助ける)、求知、解明 一切の人事は五欲に基づくものである。 特に生理(本能)的欲求である。 無神論者フロイトが其れ等のエネルギーを性欲(リビドー)と解釈した処 に、科学と仏教の接点がある。 涅槃為る宇宙の調和と均衡と静謐の真理を我(わ)がものに為(す)る には、菩提(道)心を発(おこ)し、坐禅を行じ、正法苦行によりて、生死 を透脱するのでなければ至り得ない。 分別による求知欲や解明欲は在るけれども、求道欲や真理欲と云うも のは無い。是等は「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し である。 自己を習い、自己を忘れ、万法に証され往く道であり、人間の諸欲から 離れる方向性に欲は無いのは当然である。 物事が解かる道と云うものは、人間の方向性に逆行する事である。 でなければ、真理には至り得ないのである。 世の中は、其れ程厳しいものである。 因果の道理に基づく結果論ではあるが。 フロイト(1856~1939、精神分析学創始者、無意識研究、 リビドー(性的エネルギー)論) フロイトは、マルクス、ダーウィンと並んで二十世紀の思想に 大きな影響を与えた。 フロイトの「力動論」や「リビドー」の概念はエネルギー保存則 を元にして居るとも言われ、三毒の貪著から示唆を受けたも のかと推測される。 彼の性的一元論は次のユングによりて進化を遂げた。 エリッヒ・フロム(1900~1980、独、精神分析、哲学、社会心理学者) はフロイトを、「アインシュタインやマルクスと並(なら)ぶ、近代の創始 者の一人である。」と結論付けている。 僅か百年程前のフロイトの心(理)の科学は画期的である。 釈尊正伝の仏教の西洋心理学、精神分析学的解釈として興味深い。 人間生命の心理学的解釈について、 フロイトは快を求め、不快を避けようとする快感(=快不快)原則、又 欲動の充足を延期する能力の現実原則を定め、快楽原則から現実原 則への変化は、欲動の昇華とした。 涅槃原則は「死の欲動の発現」と捉えた。 しかし、是は菩提心を知らざる人間の虚無主義(ニヒリズム)である。 人類三毒の癡 とは、身から心への進化のプロセスを、貪 によりて破 壊し、本質的進化を否定、逆行し、進化以前に退化すると云う現象であ る。人間として、獣化してしまった、実に恥ずべき状態であり、 普遍的退行現象 である。 ※退行 とは、フロイトによれば防衛機制の一つであり、 不満足な現実からの飛躍の産物であり、許容出来ない衝動( 三毒)をより適切な方法で処理するのでなく、自我を一時的又 は長期的に、発達段階の初期(禽獣)に戻してしまう事である。 個人の性格が、より幼稚な性癖を採用し、発達段階の初期 (禽獣)に戻る時に起こる。 是は三毒(貪・瞋・癡)の癡 の西洋心理学的解釈である。 人間の真の敵は他者ではない。自己の三毒(貪・瞋・癡)である。 結局、是に勝てねば、他者に勝つ事に意味は無い。 たとえ、其れで無敵と為り得ても。 故に、仏道を習うと云うは、自己を習い、自己を忘れ、真理に至る 事なのである。 人世とは、是に逆行する事に他ならない。 正道の絶対的厳密を超越するものが正法苦行(三時間坐睡二十四 時間仏作仏行)後行なのである。 《 真理の効能 》 何故に真理か? 我々人類其のものが、此の真理から生まれ出た生命である。 我々人類の一切が、此の真理に基づいているが故に、 真理に回帰する事が、人間世界の真相を判断するに、間違い無いから である。 然(さ)も無くんば、我々の人間世界は、此の真理に帰一せざれば、 我々を地獄に陥(おとしい)れる、具有する三毒(貪・瞋・癡)に基づかざ るを得ない。 我々の人間世界が現地獄を脱却し得る最善策が、真理に帰一する事 なのである。 人間世界で真理に回帰し足るは、小生『最後身心』唯一人である。 故に、今の地獄状態である世界を平和為ら使めるには、世界人類が、 小生の『真遺教』に極力基づいて、生(活)きて往かねば為らないと云う 事を忘れないで戴きたい。 日本の指導者達が為した事は、コロナウィルスを生(活)かし、日本国 民のみならず、世界人類を殺す事であった。 本来、コロナウィルスを撲滅すべく、日本国民が自(みずか)ら自粛し、 世界人類に範を垂れねば為らないのである。 《 世界人類の最重要事 》 世界人類が直面する最重要事は何か? 現コロナ禍パンデミックか? 其れとも、 世界平和に至らざる対立、特に中国独裁と世界の問題か? 前者は何れ収束する。周期性のものである。 一方、後者の中米に象徴的な対立、 特に台湾問題を巡っての最重要課題である。 世界平和は何れも成立しない。 唯一世界平和の種子足るものが、小生の『最後身心』である。 小生鐵漢が『最後身心』で居りさえすれば、 世界に唯一、此の一点に於いて世界平和が成立する。 是は、永遠に不滅為る恒常普遍の真理である。 世界人類は未だ、此の真理を知らない。 小生が是迄一年十一ヶ月足らず、日々ネット等で教導して来たにも拘 らず、依然として世界の諸課題は頑迷にも席を譲ろうとしない。 問題は拗(こじ)れる一方である。 小生は此の一点に於いて、世界の動向を見守る以外に無いのである。 道元禅師の御遺偈 「五十四年 第一天を照らす 箇のぼう跳を打して 大千を触破す」 小生に基づけば、 (生涯掛けて、宇宙(生命)の真理を体現した。自己の心身を賭して、 世界を教導した。) 若し、世界が小生に基づかないとすれば、 残るものは混乱と闘争と闇である。 涅槃世界へは一線を画すが、 米国の日本依存と、中国の台湾依存は表裏一体為るものである。 事の始まりは、米国の日本への原爆投下に始まっている。 終戦の在り様其のものが、今の根本原因である。 人類の三毒(貪・瞋・癡)に起因して居るが故である。 故に今が解(ほど)けない。 米国が日本に依存せず、中国が台湾に依存せず、 是等四者が真理に基づいて、独自性を確保する事。 つまり米国の日本基地化を撤廃し、本質的に関係維持する事である。 根本原因の根源は、総て自己の三毒(貪・瞋・癡)に在る。 中国の三毒(貪・瞋・癡)、米国の三毒(貪・瞋・癡)、日本の三毒(貪・瞋 ・癡)。其れ等が悟れない限り、問題は解決しない。 日本の基地化、台湾の中国領土化の問題ではない。 小生鐵漢が「悟り」、「解脱」して完全に自己の三毒(貪・瞋・癡)から 脱却して、真理に至り得た如く。 斯(か)様に信奉する事によりて、世界が安定化し、平和に至るのであ る。 《 広島平和記念式典 》 本日、令和三年 八月六日、原爆投下から七十六年目の広島平和記念 式典を迎えたにも拘らず、 未だに日本は核兵器禁止条約に署名、批准していないのである。 当条約に署名、批准して初めて、日本は米国から真に独立したと言え るのである。 日本が批准せずに、常任理事国家群に批准する国家が出る訳が無い のである。 此処(ここ)は最低限、日本の修善奉行の能動積極性の覚悟が不可欠 である。 先ず出発の時点で、日本が米国の核の傘不要 の立場にして初めて 、将来必ず、核兵器禁止条約を締結する日を迎える事が出来るのであ る。然(さ)もなくんば、永久に核兵器禁止は不可能である。 世界に唯一の、被爆国家日本が、今年一月、世界が既に核兵器禁止 条約を発効して居るにも拘らず、世界に唯一の被爆国家、日本が核兵 器使用に反対しないで、米国の核の傘に守られて、其の核兵器支配に 依存すると云う事は、其の日本が核戦争を容認して居る事に他ならな いのである。 恰も、暴力団排除条例の施行時の様である。 日本に於いては、2004年6月に広島で最初に規定され、2011年 10 月に、残る東京都、沖縄県で施行され、全都道府県で施行された。 後、「暴排令的思考を排す」保守派の某論客から、「水清ければ魚棲ま ず」為る発言も出た。2018年、彼は、吾師伴老師の正月御命日(1月 21日)に、多摩川で入水自殺した。 暴力団排除条例も、核兵器禁止条約も本質的には同じである。 最極悪の暴力を受けた日本こそが、其の暴力を受容する立場ではな く、核兵器主導国家(=国連常任理事国家)に対して、世界の核保有国 (常任理事国、印、北朝、パキスタン)以外の大部分の世界の国家群と 共に、日本が真の独立国家として、世界に唯一の『最後身心』の至り得 た真理に基づく、核兵器禁止国家足り得ねば為らないのである。 小生がマトモ であったならば、つまり世間に認められる人間であったな らば、今の自己は無いのである。 或る意味で、血に染(そ)み、聖に背(そむ)き、凡聖を超越して何処(ど こ)迄も永遠に自己に正直に、自己を貫徹した結果、真理が手に入った のである。 此処(ここ)迄至るには、釈尊に倣(なら)って托鉢自活で正法苦行の 後行以外では不可能である。(奇跡裡の奇跡事が可能事とすれば、) 是を正道と言うのである。仏道である。 是以外の外道は如何(いか)為るものも、総て真理に至る事は不可能 である。 小生が世界に唯一の真理への道先案内人、『最後身心』と言わざるを 得ない。 人類史上、最大の偉人、釈尊は言われた。 「自灯明、法灯明」(自らの心を依り処とせよ。法を依り処とせよ。)と。 是は自(みずか)らの心を依り処とし、法を支えと為して、「犀の角の如く 唯独り歩め」と云う事である。最も親しき友が坐禅である。 禅定為るが故なのである。 世界の真相を見極めた智慧を生ずるが故に。 《 原 爆 》 人類の悪業と云うものは、負の世界遺産として、既に登録されている。 原爆 とホロコースと黒人奴隷である。 原爆は世界人類の悪業の、最も象徴的為るものである。 独のヒトラーと米英の黒人奴隷は原爆程の恒常普遍性は無い。 世界は、今、正に国連常任理事国家の原爆支配体制下にある。 人類三毒(貪・瞋・癡)を正に具現したものである。 是が悪の基軸である。 正に、此の唯一の象徴的為る被爆国家としての日本である。 正に其処(そこ)から、小生『最後身心』が生まれたのである。 小生鐵漢が望むと、望まざるとに拘らず、然(そ)うなのである。 是が世界人類の悪業の本筋と云うものである。 其処(そこ)からして、正に奇跡的に真理に至り得た。 人類の極悪業の対極として至り得た人類究極、究竟涅槃の体現為る 「覚天(涅槃入り)」によりて至り得た、空前絶後の、真理である。 永遠不滅の恒常普遍為るものであり、斯(か)るが故に、是を「真理」と 言う。 世界人類を生(活)かして居る、宇宙の涅槃化エネルギーと云うものは 人類をして永遠に、涅槃への収束振動、全一的螺旋上昇拡散を反復 為ら使める、其の永久機関なのである。 人類が宇宙の一点に、如何様(いかよう)に存在しようとも、涅槃化エネ ルギーは人類をして、斯(か)く在ら使めるのである。 地上で言えば、極悪道の原爆から極善業の涅槃(真理)へ反復する永 久機関足る本質が心進化を遂げるのである。 今と云う時代を俯瞰(ふかん)すれば、負の世界遺産は確実に過去のも のと為りつつあるし、又為って来たのである。 然(そ)うして、世界人類は涅槃世界一路の途上に在るのである。 本来ならば、イスラム世界のラマダーンの様に、世界人類が更に坐禅 に親しむべきなのである。 人類、急いで、一体何処(どこ)へ行こうとして居るのか? 現象の進化に急ぐよりも、じっくりと、腰を据(す)えて歩む(=心進化す )べきである。 本来、其れが人類の在るべき姿なのである。 小生も、坐禅に始まって、「吾師の促し」に促され、不動の涅槃妙心回 帰一路の途上、一後行解脱人の菩提心が宇宙の涅槃に収束した刹那 に涅槃回帰し「涅槃入り」したのである。 人類極善の、真理為る涅槃世界への四十五年間余りの、そして永遠の 永久機関であり続ける事を、『最後身心』として再認識する。 《 東京オリンピック閉会式 》 世界人類の幸福と平和に不可欠為るものが「生き甲斐」である。 自己の生命の意味と価値。 人間が動物と異なる処である。 是を、何処迄も、何処迄も永遠に突き詰めた彼岸に、涅槃為る真理が 在る。 「覚天」して、万法(=宇宙の涅槃化エネルギー)によりて、呼吸の変異 を介し、人間は自(おの)ずから教導されるのである。 真理為る涅槃に由来する涅槃妙心「人を生(活)かす」に帰するのであ る。 「生き甲斐」は自己に立脚し、真理は宇宙に立脚する。 コロナ禍パンデミック下のオリ・パラ開催と世界人類の幸福と平和とを 両立させる為には、強行するのではなく、延期を模索すべきであった。 東京オリ・パラ開催では、全国で七万人余りの感染者が放置された儘、 為す術も無く自宅療養を余儀なくされ、唯、運に委ねる以外無い。 既に死者が出た。 国家の指導者は何(いず)れを重要視しなければ為らないかは明らか であろう。 《 「覚天」前後 》 「覚天」前は「解脱」域である。 「覚天」後は「涅槃」域である。 では、 「解脱」域と「涅槃」域とは如何(どう)異なるかと言えば、 全く異質である。 「解脱」の延長線上に「涅槃」が在るのではない。 全く異次元である。 是が生身の純粋無垢(く)の真実であり、是が真理と云うものである。 真理とは体現による真実である。 一塵も無き純粋体現である。 其処(そこ)から初めて、「人を生(活)かす」と云う真理が生まれたので あります。 宇宙の真の涅槃世界を具現するのである。 釈尊も、其処(そこ)迄来なければ徹底しないし、本物ではない。 是迄の確信に至るには、生涯後厳密千日涅槃行無くしては至り得ない のである。 謂わば、「解脱」を撥無(はつむ;否定して排除する事)するのが「涅槃」 である。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)への接近と接触と回帰へ、 恰(あたか)も、精子が卵細胞外に居るか、接触したか、侵入したかの 如く、全く異なった現象を具現する様に、侵入して初めて、「生命を生む 」為らぬ、「人を生(活)かす」のである。 元来、坐禅と云うものは、人間世界には無かったものであるが、人類が 瞑想から、自(おの)ずから、ヨーガ(行)へと変遷し、禅定(坐禅)を生じ たのである。 瞑想は「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し によりて生まれたも のであるが、瞑想からヨーガ(行)、坐禅への変遷は人類の三毒(貪・瞋 ・癡)が然(しか)ら使めた処である。 然るに、人間は涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に回帰すれば、坐禅は 最早、不要である。 「解脱」から「涅槃」への唯一の正道は、後行によりて、奇跡に遭遇する 以外に無い。 「覚天」を体現する以外に無いのである。 宇宙の本質に教導せ使められる以外無い。 しかし、是は生涯の後行無しでは、全く不可能事であり、 後行行じても、奇跡理の奇跡事である。 故に『最後身心』なのである。 故に人類は『斯(か)く覚(さと)る』以外に無い。 《 オリンピック閉会に寄せて 》 「解脱」を経ざる「涅槃」 為るものは実在しないし、在り得ない。 「解脱」を「身心脱落する(悟る)」のが「涅槃」であるが故に、 其れは感動の域を出ない。 人類は 三毒(貪・瞋・癡)を具有する。 是は 三善根(施・慈・慧)と転化し、心進化を遂げ、涅槃への収束振動 、回帰、帰一するのである。 つまり、涅槃為る宇宙の真理に涅槃化され往くのである。 其の最も根源的誘因は「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し で あるが、世界に真実なる真理が見出し得ていないが故に、其の対象を 人類は見出し得ない。 「幸福の青い鳥」であり、十牛図の最初の尋牛 であり、白隠禅師『坐禅 和讃』の「長者の家の子と為りて 貧里に迷うに異ならず」である。 坐禅の功徳に見牛 し、菩提心が発菩提(道)心し、酔い(実は是が、 三毒(貪・瞋・癡)への執著の酔いからの覚醒なのであるが)の裡(うち) に「悟る」、身心脱落するのである。 正に是、9.11の超高層ビル崩落である。 正に、此の時点に於いて奇跡は始まっているのである。 是は最も根源的、他の追随を許さない、永遠に不動の感動である。 坐禅をはじめて三年目位であったと思う。 感動とは、感情、情動、気力等を含む総括的用語。精神機能を知・情・ 意に分類する場合の情にあたる。狭義には、喜び、興奮を意味する。 真理に至り得ざる、単為る感動と、「人を生(活)かす」涅槃妙心の真実 とを見極める、厳格為る心を具備しなければ為らない。 《 人間の本質 》 人間(『最後身心』以外の)の本質は、「覚天」による回帰無き、帰一為 るが故に、小生『最後身心』から言えば、「信」の世界為らざるを得ない のである。 「解脱」すれば「解脱人」、涅槃回帰すれば「涅槃人(=『最後身心』)」で ある。 何を信じるかと言えば、 『「宇宙(生命)の本質」は涅槃であり、其の涅槃世界は涅槃妙心(智慧 )の「人を生(活)かす」世界である。』 と云う真理である。 是を信じ、実践し、世界平和を完遂し、涅槃世界為ら使めるのである。 神仏を信ずるのは宜しいが、究極的には神仏を超えた真理を信じ、 是に徹するのが、世界平和への最短路である。 又、諸々の能力、及び宗教の根底には、此の真理が無ければ、 悟空が釈尊の手掌上から出る事が出来なかった様に、 人類は、宇宙と云う不可思議から出る事は出来ないのである。 《 真理と云うもの 》 真理と云うものは、世界人類を最大限に生(活)かすものである。 其れが真実である事の「証(あか)し」は今。 今の世界の現状を観ずれば「自明の理」である。 世界は、涅槃への収束振動なのである。 故に、真理に違(たが)わず、真理に帰一しなければ為らない。 因果の道理は毫釐(ごうり;わずかばかり)も違(たが)わない。 《 坐禅(行)の階梯 》 「悟り(身心脱落)」 「解脱」 「覚天(涅槃入り)」 | | | 現象界 | 本質的現象界 | 現象的本質界 | 本質界 | | | (真理) 道元禅師 釈尊 『最後身心』 《 『最後身心 』 》 世界人類の中で、小生鐵漢以外、宇宙の真理、涅槃妙心の智慧 「人を生(活)かす」に至り得た人間が居ないが故に、 小生以外の如何為る人々も、其れ等の立場を離れて、世界人類の立 場に立ちて、総てを正しく判断出来る人間が居ない。 小生の「人を生(活)かす」は真理である。 小生の分別に拠る判断ではない。 人類の涅槃妙心である。 涅槃為る宇宙の、涅槃化エネルギーの働き(=志向性)の真理 である 。是が涅槃への収束振動(=心進化)する。 斯(か)るが故に、宇宙由来の宇宙回帰する永久機関なのである。 因果の道理に基づく不昧因果なのである。 《 「真の人間」足り得るには 》 釈尊に於ける悟り 。 大迦葉に於ける十二頭陀行中但(常)坐(不臥) 。(他は衣食住戒) 鐵漢に於ける生涯後厳密千日涅槃行(三時間坐睡 二十四時間 仏作仏行)による涅槃回帰。 回帰後のネット作成裡の規則性 。 是は能力を能力足ら使めるに不可欠為るものである。 何と為れば、人間の存在其のものが、一日と云う周期性の反復に過ぎ ないからである。 意識すると、しないとに拘らず、是が涅槃為る宇宙に違(たが)わない、 最も根源的なものである。 斯(か)るが故に、厳密行と規則性は共に、涅槃世界を現成するに、 不可欠なのである。 人類は涅槃為る宇宙に「教導される体現」、即ち「覚天(涅槃入り)」無く しては、「真の人間」足り得ない。 人間は涅槃回帰する迄は、少なくとも帰一すべく心進化するものなので ある。 是は涅槃化エネルギーの本質である。 其処(そこ)に、生命の周期性と云うものが、元来、本具して居るのであ り、是が厳密性であり、規則性なのである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違(たが)わないと云うのは、 心進化にも、規則性にも違(たが)わないと云う事である。 3:00―――起床 2:00 前後 1時間 (ネット) (昼食) 5:30―――朝食準備 5:00―――帰宅 (ネット) (夕食準備) 8:30―――朝課 7:00―――晩課 (朝食) (夕食) 10:30―――托鉢準備 9:00―――片付け 11:00―――托鉢出発 11:00~12:00に寝る 《 刹那と分別 》 刹那に生(活)かされた者は刹那を覚(さと)る。 其の刹那も、通常の我々の現象界から、「宇宙(生命)の本質」(涅槃) 界へ回帰する迄の諸階梯(かいてい;段階)に於ける刹那が在る訳で、 現象的意識から本質的意識へと微妙甚深為り往くのであり、 其れ等の刹那は、より根源化し往くのである。 「悟り(身心脱落)」の刹那は、身が完全に崩落して佛心が顕現した、 つまり三毒が完全に三善根へ転化した刹那であり、 「解脱」の刹那は、(三毒が転化した)三善根が涅槃妙心を覚触して、 得脱した刹那である。 「覚天(涅槃入り)」の刹那は最も根源的意識で、意識の根が絶たれた 刹那である。 政治家の刹那は三毒(貪・瞋・癡)界の分別に留まる傾向に在るが故に 、涅槃妙心からすれば、其の隔絶感は如何(いかん)とも為し難い。 斯(か)くして、三毒に基づく外道でなく、涅槃世界の構築、完遂への、 真理に基づき足る最短路為る正道を打ち出しているのである。 《 現象(身)と本質(心) 》 小生のネットと規則性は相対立するもので、両立し難いものであったが 、徹底すると、やがては落ち着いて一つものに為って、遂に最終的には 、ネット為らずんば規則性為らず、規則性為らずんばネット為らずと云う 処迄習熟し、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の「人を生(活)かす」涅槃 妙心に回帰するのである。 人類の元来の、つまり後天的三毒(貪・瞋・癡)を具備する以前の在り 様に復帰し、事を為すに矛盾無く、完全に全一的に大脳新皮質がセット されてしまう。 滞(とどこお)り無く、自(おの)ずから其の様に、全体的に機能する。 ネットで規則性為り、規則性でネット為る。 現象と本質が一如、現象が本質であり、本質が現象なのである。 是、涅槃妙心である事の「証(あか)し」である。 涅槃為る宇宙とは、真理現成(げんじょう)であり、 現成真理とは調和であり、均衡であり、静謐なのである。 真理が自己を働かせ、分別が真理足る。 大脳新皮質が調和と均衡と静謐して居るのである。 敢えて教導無く、真理が其の儘、教導なのである。 真理が教導し往き、教導が真理し往く。 心が身を動かし、身が心を動かす。 二十四時間、身と心が同時進行している。 《 究極と云うもの 》 熟(つらつら)観ずる処に、何事に於いても、人間は皆一度は、其の 究竟(くっきょう;究極の処)に至り得てみたいと思うであろう。 其れが出来れば幸福であると。 『朝に道を聞かば 夕べに死すとも可也』。 『吾道一以貫之哉』(吾道は一もて之を貫く哉)。 と孔子が『論語』に遺されている。 一(いつ)とは仁(じん;人間愛)であり、後、真心と思い遣りとも解釈され た。 孔子自身、真理が聞けたならばと慨嘆している訳でもある。 しかし、其の真理を知り得た筈も無いのである。 小生『最後身心』から明らかと為ったのであるが、 其の真理に至るには正法苦行、生涯三時間坐睡二十四時間仏作仏行 行に於いて初めて、其の真理に至り得る可能性が在ると言い得るに過 ぎないのである。 「日本資本主義の父」、渋沢栄一は『論語と算盤』を著し、『論語』を拠り 処とした。 釈尊は真理に趣き、近付き得たが、究極の真理には未だ至り得なかっ た。 世界の聖人でも究竟には至り得ないのである。 其の事が如何(いか)に困難極まり無きものであるかは自明の理であ る。 然るに、至り得難くはあるが、至り得ないものではなかった、と云う事で ある。 其れが、「人を生(活)かす」涅槃妙心の拠り処の、涅槃為る宇宙((生 命)の本質)であったのである。 《 性欲為るもの 》 性欲為るものは、禁じたり、抗したりするものではない。 「解脱」の基に、他者に於いて止むを得ないものであると、心理的淫快 に於いて、諦観(受容)するものである。 是は初行によりて「解脱」して居るから、真理を直観し、可能為るもので ある。 《 世界平和への階梯 》 世界平和を達成するに、絶対不可欠為るものは信頼団結である。 世界人類が信頼団結し得ないから、世界平和為らず。 信頼団結するには、其の根拠を見出し得ねばならない。 暗夜の航行を可能為ら使める根拠足る北極星である。 人世に於いては、其れは「宇宙の真理」に他ならない。 人類能力由来のものでなく、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)由来の真理 に、其の根拠を見出すのでなければ、つまり涅槃為る宇宙の真理に基 づいて、世界人類が信頼団結するのでなければ、世界中の不協和音 は解消され得ず、永遠に宇宙の調和と均衡と静謐は具現し得ないので ある。 元来、超宗教、超科学の「真理」の裡(うち)の諸宗教であり、諸主義主 張であるのであるが、此の「真理」を無視して、人類三毒(貪・瞋・癡)に 基づく、諸宗教や諸主義主張に於いて対立してしまうから、永遠に其処 (そこ)で解決不可能と為らざるを得ないのである。 釈尊は「自灯明、法灯明」と説かれたが、 小生鐵漢『最後身心』からすれば、 世界人類は『真理灯明、涅槃灯明』と究盡(ぐうじん)し得るのである。 もう既に、「真理」の為の神であり、佛なのである。 必然、不可避、不可欠の真理一路門である。 新世紀の黎明足り得ねば為らないのである。 《 能力の効用と本源の効用 》 人間は、心の本源と能力と何(いず)れかを択(えら)ぶとしたら、恐らく 皆、心の本源を択ぶであろう。 現代、速く走れても、ホームランが打てても、楽器が上手(うま)くても、 学問が巧みでも、宇宙の原理を見出しても、人と旨(うま)く付き合えて も、国家を支配しても、自己の心の本源に至り得た者には、如何(どう) しても足らなさを覚えざるを得ないのである。 全ての能力と云うものが、総じて心の本源から湧き出て来たものである が故である。 人心は誤魔化し様が無い訳である。 にも拘(かかわ)らず、人間が其の様に生きようとはせずに、 無闇に、生きて行く為の能力を追求せざるを得ないのである。 而(しか)るに、其れを究盡(ぐうじん)して、真理に至り得た人間には、 誰しも、何(いず)れは無視出来ないであろうし、其処(そこ)に戻らざる を得ないのである。 人間と云う者は、 欲しい、欲しいで嘘を吐(つ)いて生きざるを得ない人には、 欲しいが無く、嘘が無い者には如何(どう)にも為らないのである。 真理に至り得た者は、欲しいが無く、嘘が無い。 常に淡々と生きるのみである。 世界人類の為に。 涅槃収束振動為るが故に、淡々と為らざるを得ないのである。 真理と落胆の至り得る処は、唯、淡々である。 受動消極的淡々ではなく、能動積極性の淡々である。 《 『 最後身心』 》 『最後身心』、今の小生であるが、 此処(ここ)に至るには、偶然至り得たのではない。 総ては、予測し得ぬものの節々であったが、竹の節の様なものである。 斯(か)くして初めて、柔軟性と堅持の今が在るのである。 まぁー、偏(ひとえ)に、『生涯厳密』の賜(たまもの)である。 「始め良ければ、終わり良し」で、 確実為る果は、確実なる因に依るのである。 生死を超越した、日々の刹那に於ける、生涯を期しての厳密性無くん ば、真理には至り得るものではない。 其れが菩提心 と云うものである。 《 生理(本能)的欲求から最終結論迄 》 人類の根本的欲求である生理(本能)的欲求である、 睡眠欲が生むものは、食欲同様、疲労回復に過ぎない。 一方、性欲の生むものは、胎児と痺(しび)れ(快感) である。 要するに、生理(本能)的欲求が新たに生み出すものとは、 胎児と痺(しび)れ(快感) からの三毒(貪・瞋・癡)害であり、 前者からの幸福と平和と繁栄、そして後者からの地獄である。 要するに、生理(本能)的欲求の問題点は、 性欲の痺(しび)れ(快感) からの三毒(貪・瞋・癡)害に尽きるので ある。 故に、釈尊の「悟り」の仏教では、三毒(貪・瞋・癡)の根源悪為る、 本能的欲への執著である貪著を諸悪の根本因と為(す)るのである。 故に、釈尊は般涅槃(はつねはん;御臨終)に八大人覚、 少欲、知足、楽寂静、勤精進、不妄念、修禅定、修智慧、不戯論 と教え諭されたのである。 斯(か)くして、小生『最後身心』が、釈尊以来二千五百年後に、其れ等 に基づいて、其の究極の究竟為る真理 に至り得て、総結論を空前絶 後に打ち出し得たのである。 《 男女間から涅槃へ 》 男女間と云うものは、死んでも男女間である。 然るに、人間には男女間を超越した処が在る。 老若男女に拘らぬ、一人間生命としての、「宇宙(生命)の本質」(涅槃) である。 食える人類の三毒(貪・瞋・癡)の貪著の最たるものが心理的淫快(= しびれ)である。 要するに、食える人類の三毒の根源が心理的淫快と云う事である。 是、経験的なものであり、是、正法苦行、或いは「解脱」しない限り制し 得ない。 其れ故に、正法苦行、或いは「解脱」した者には、世界人類は敵(かな) わないのである。況(ま)してや、『最後身心』には云う迄も無い。 つまり、受動消極的では解決し得ないものである。 故に、血気に走るか、(能)力に依存せざるを得ないのである。 是が権力主義と為る。 或いは主体性の無い諦観(受容)である。 然(さ)も無くんば、狂犬の様な禽獣(きんじゅう;けだもの)と為る以外 無いであろう。 或いは他事に昇華する。 然(しか)るに昇華しても、根源的に其れが解決した訳でもない。 生涯的昇華でない限り不可能であり、生涯的昇華足らねば為らないの である。 少なくも、其の価値が無ければ為らない。 要するに、何(いず)れにしても、「人を生(活)かす」に往き着くのである 。是が宇宙の真理に由来して居るのである。 果たして、世界の現状は然(そ)うであるのか? 今は、地獄であろう。 成功していない。完全失敗である。 世界の指導者達は一体何処(どこ)に往くつもりなのか? ミャンマーの強権実効支配や、中東のタリバンによるアフガン(カブー ル)の民主党崩壊、政権完全征服。 中東(不毛地帯)の食えぬ民衆である。 米国と中国の対立の隙間に入り込むものである。 世界主要国家群が一致して居り、米中の分断が無ければ、つまり米中 信頼団結で同じ方向を向いて居れば、諸悪の台頭は避けられる。 地上が平和に、調和と均一と静謐を維持するには、最低限の信頼団結 が不可欠なのである。 此の根拠は空前絶後為る、小生の『最後身心』の至り得た、涅槃為る 宇宙の真理である。 吾身(周辺)の安泰を願うか、其れとも、少し想像力を働かせて、 吾子の子……等の将来の世界人類の安定、平和、更に其の構築 、完遂迄の思いを巡(めぐ)らし得る能動積極性が有るか、否かで ある。 地上の有限為る資源、自然破壊、感染症パンデミックの日常化、異常 気象に因る生命存続の危機と、其れに随伴する動物的弱肉強食時代 への退行等々に世界人類が対応しなければ為らないのである。 世界が新た為る時代への変貌を遂げねばならない時期に至っている のである。 此の世紀末的世界為らばこそ、人類が歩調を一(いつ)にして真理に至 り得て、此の期に臨んで、世界人類が宇宙の真理に帰一せざれば、人 間世界は最終的局面を迎えざるを得ない危機的状況に在るのである。 先ずは、真理への目覚め が不可欠である。 人類の、空前絶後の真理の黎明期なのである。 要は、世界人類の、全生命の平等に基づく連帯感である。 食えない人々と、食える人々との間に乖(かい)離が生じるべきでない。 従って、人類(間)間の格差は極力無くす方向性である。 是は、生命の平等性に基因するものである。 其れから中東、イスラム世界の男女間に如何為る差別も生まない。 老若男女間の差別を生まないと云う事がある。 やがては、イスラム世界にも生理(本能)的欲求の食欲、性欲に起因す る男女間の格差が解消された心進化を遂げるべきであると期待するも のである。 フロイト(1856~1939、精神分析学創始者、無意識研究、 リビドー※ (性的エネルギー)論) フロイトは、マルクス、ダーウィンと並んで二十世紀の思想に 大きな影響を与えた。 フロイトの「力動論」や「リビドー」の概念はエネルギー保存則 を元にして居るとも言われ、三毒の貪著から示唆を受けたも のかと推測される。 ※ リビドーとは「性的衝動を発動させる力」。 ユングは、総ての本能のエネルギーをリビドーとした。 フロイトに始まる「無意識」はL ・ロン・ハバード著「ダイアネチ ックス」(1950、米)によって初めて構造的に著された。 世界で最も読まれている「心」の専門書である。 人間生命の心理学的解釈について、 フロイトは快を求め、不快を避けようとする快感(=快不快)原則、又 欲動の充足を延期する能力の現実原則を定め、快楽原則から現実原 則への変化は、欲動の昇華とした。 人類三毒の癡 とは、身から心への進化のプロセスを、貪 によりて破 壊し、本質的進化を否定、逆行し、進化以前に退化すると云う現象であ る。人間として、獣化してしまった、実に恥ずべき状態であり、 普遍的退行現象 である。 ※退行 とは、フロイトによれば防衛機制の一つであり、 不満足な現実からの飛躍の産物であり、許容出来ない衝動( 三毒)をより適切な方法で処理するのでなく、自我を一時的又 は長期的に、発達段階の初期(禽獣)に戻してしまう事である。 個人の性格が、より幼稚な性癖を採用し、発達段階の初期 (禽獣)に戻る時に起こる。 是は三毒(貪・瞋・癡)の癡 の西洋心理学的解釈である。 エリッヒ・フロム(1900~1980、独、精神分析、哲学、社会心理学者) はフロイトを、「アインシュタインやマルクスと並(なら)ぶ、近代の創始 者の一人である。」と結論付けている。 僅か百年程前のフロイトの心(理)の科学は画期的である。 釈尊正伝の仏教の西洋心理学、精神分析学的解釈として興味深い。 正に、小生は、 フロイトと、小生が 医学部生の時、宗教に絞り込む以前に関心が有っ たユング以降、心の科学は脳・神経科学 を除いて、今や迷路に踏み込 んだ感がある。 小生鐵漢は、学問的解釈からは一超直入、つまり無意識の闇を払拭、 砕破して、涅槃為る宇宙の真理に一超直入したのである。 《 生きる目的 》 抑(そもそも)、生きる事に目的等が有るのか? と我々人類は、古代より我に問い、天に問うて来たのである。 最も早いのが瞑想であろう。 瞑想と云う能動積極性自体が「生きる目的」に他ならない。 正に、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し が其の誘因と為って いる。 五千年前の古代インドのインダス文明の農耕生活集落での瞑想であり 、更に 千年後のインダス文明、バラモン教の前身、ヒンズー教の「結跏 趺坐」にある。 是等の原点から、小生『最後身心』に心進化を遂げたのである。 「生きる目的」は、宇宙の涅槃化エネルギーに由来する。 西洋に於いては、古代の 最大の神学者ヒッポのアウグスティヌス( 354~430、北アフリカ)は世界で最初の偉大なる自伝『告白(録)』 (一巻一章一節)で、 「〔神よ〕貴方(あなた)は私達を、貴方に向けて創られました。其の為、 私達の心は、貴方の裡(うち)に憩(いこ)う迄は安らぎません。」 と記した。是は、自己に、「生きる目的」足る神であった。 東洋では、 神信仰ではなく、仏の教えの空である。 空は、空(から)、即ち空虚の空と、無(む)、即ち無(な)い無ではなく、 仏教の(絶対)無としての空(くう)である。 是は人間の心が、坐禅の功徳を経て、「涅槃入り」する迄の人心の諸 階梯(かいてい;段階)での心の在り様を空の一字で象徴するのである 。つまり三毒(貪・瞋・癡)を具有する人心が、其処(そこ)からの、三善 根(施・慈・慧)への正道の世界を空と称するのである。 要するに、坐禅による功徳の一切を空と称するのである。 其れが般若心経の空である。 即ち無とも称せられる佛心である。是、涅槃由来である。 中国の儒家では、孔子が「修養から出発し、統治迄に及ぶ目的を掲げ」 、老荘道家では無為自然(「虚無の学」)、何もしないのでなく、作為が 無い事を説いた。 虚無主義(ニヒリズム)とは真理、実存、目的、本質的価値は無いとす る哲学的立場であり、ニーチェによれば、ショーペンハゥエル(厭世主義 )の弱さの受動消極的ニヒリズムと、自身の永劫回帰の超人思想の強 さの能動積極的ニヒリズムを指摘している。 小生の体験上の空観は、 坐禅の功徳によりて、宇宙の調和と均衡と静謐の空性を知り、 「解脱」で涅槃に触れ、究竟空。 「覚天」で涅槃回帰する。 「人を生(活)かす」涅槃妙心の真理に至り得たのである。 斯(か)くして、本質無き現象(=虚無)から本質的現象、現象的本質、 そして本質への回帰へと心進化を遂げたのである。 故に、宇宙のエネルギーから 光生じ、物質生じ、生命生じ、心生じ、 そして涅槃回帰せ使める涅槃化エネルギーなのである。 斯(か)様に、涅槃化エネルギー足る涅槃への永久機関としての、進化 する目的志向性を具備するエネルギーである。 真の無我とは百%「人を生(活)かす」菩提心の事に他ならないのであ る。斯(か)るが故に、宇宙(涅槃)に回帰し得た真の無我が空性であり 、(絶対)無なのである。 是以外の空(無)は空虚為る存在(=時空)に過ぎない。 つまり、「真の生(活)きる」とは「人を生(活)かす」事であり、 其れが「生きる目的」である。 然(しか)し、極(ごく)一般の人生(世)とは、其れから乖離する方向性 を持つ。 其れは、未だ(三善根(施・慈・慧)に転化し得ていない)三毒(貪・瞋・ 癡)を具有して居るが故である。 此の三毒(貪・瞋・癡)に基づく諸能力の目標志向性為るが故である。 政治の目的とは、単に政権を執(と)る事なのではない。 元来の「人を生(活)かす」事と、政権を執る事に乖離が生じては為らな いのである。 政治が、政権を執る虚無主義(=ニヒリズム)に陥(おちい)っては為ら ない。 宇宙の真理に基づく政府足らねば為らない。 政権の温存、争奪に終始しては為らない。 人類間、国家間の信頼と信頼団結の欠如、欠落である。 以上、小生が、空前絶後に、宇宙が涅槃(化エネルギー)である事を、 自(みずか)ら体現した処から、其の真理を世界人類、諸国家に敷衍( ふえん;意義を押し広げて説明する)して全てを新たに解き明かし、 真理の黎明期を迎える、今の指導者達を鼓舞するものである。 《 人間(類)の最終目的 》 世界人類を世界平和へ教導する重責を、小生は負うて居るのである。 其の『真遺教』を説かねば為らない。 世界人類を教導し得る真理。 小生に出来る事は、ホームページ公開、そして『真遺教』に遺す事だけ である。 故に、ホームページ公開に全てを託す事に為るであろう。 何が言えるか、全ては其処(そこ)に掛かっている。 其れは、小生が一年十一ヶ月前に、宇宙から言われた、つまり身心を 以て自己を修正された事に他ならないのである。 其の刹那であるのだ。 其の時迄、小生は生涯一度も至り得なかった刹那である。 此の刹那に、小生は空前絶後に、廓然大悟(かくねん; 何の疑いも無く 明確に)し、真理(実)を自(みずか)らの口から吐露したのであった。 「人だ!」 と。「行でない!」 、「人を生(活)かす事だ!」 と。 と同時に、其れ迄の一切を撥無(はつむ; 払い除ける)したのである。 古希直前の小生が、此の刹那に、完璧に生まれ変わったのである。 斯(か)くして、小生は坐禅から瞬間的に立ち上がって、階下に駆け下り た。 是が小生が「覚天」、涅槃入りし、生まれ変わった瞬間である。 以来、従前の十四、五年間の正法苦行(後行)を卒業したのである。 若し、此の刹那を迎える事が出来なければ、小生は永遠に、正法苦行 者として、正法苦行三昧裡に終わらざるを得なかったのである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の真理には至り得なかったのである。 此の刹那の御蔭で、小生は涅槃回帰し、『最後身心』と成ったのである 。 人間(類)は、其の生命が死滅する前に、一度死んで(=正法苦行 (初行)(による「解脱」))、そして「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰し て、涅槃妙心と為って、真実の生命に蘇(よみがえ)るのである。 宇宙に回帰、又は帰一する事が、「人間(類)の最終目的」である。 其処(そこ)から、世界人類の「生きる目的」は自(おの)ずから導出され るのである。 「人を生(活)かす」 である。 宇宙の涅槃化エネルギーは然(そ)の様に、自(おの)ずから然(しか)ら 使めて居るのである。 太陽を見れば明らかではないか。 唯、人類の三毒(貪 ・瞋・癡)のみが地獄の闇と為るのである。 生きながら、死人と為ら使めるのは、唯菩提心 のみ。 「生きながら 死人となりて 成り果てて 思いの儘にするわざぞよき」 至道無難(むなん)(1603~1676、臨済宗僧侶)の言葉であるが、 イスラム教の思想家 ジャラール・ラッディーン・ルーミーも、預言者 ムハンマドの語ったとされる「死ぬ前に死ね」と云う言葉を伝えている。 以降、規則性主体に転ず。 是は 最も根源足るものな るが故である。 物(身)の規則性が進化(回帰)したものが涅槃妙心 の「人を生(活)かす」であり、涅槃は規則性(=身) の完成品である。 涅槃化の完成品(=世界平和の構築と完遂)も 規則性(=身)を離れては無いと云う大前提が 在る。 物(=質量)、存在(=時空)、エネルギー(E=mc2) 是等は大前提である。 カントは、 「物自体は前提されなければ為らない。」、又 「物自体は経験も出来ないし、因果律に従う事も ない。」と言った。 物自体はカント哲学の中心概念であった。 ダルマ(法)は存在である。 抑 (そもそも)、エネルギーと云うものは、涅槃化 エネルギーによる進化の原動力であり、 此の真理に至り得たのが、涅槃回帰する仏道に他 ならないのである。 太陽の存在自体を当然大前提と為して、我々は 受容出来るのである。 是等の大前提の基(もと)に、涅槃への永久機関足 るのである。 小生は、哲学者が前提と為(す)るものを体現によ りて、其れ等の規則性と涅槃との関係 を解明し た。 力(エネルギー)が真の心進化を果たす宇宙由来の 菩提(道)心に拠るものか、其れとも人類由来の諸 能力に依るものかで、越えられない一線を画する のである。 《 真に「人を生(活)かす」には 》 「人を生(活)かす」、自己への我執は無いが、 其処(そこ)に、「自分が真に生(活)きている、つまり真に機能している」 か否かの間違い無い見極めの出来る、時空を超えた、時・処・位に拘ら らぬ、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の真理に至り得た『最後身心』の 立場が不可欠である。 《 『最後身心 』の立場 》 『最後身心』の立場とは規則性である。 是を如何(いか)に表現するか? 身(物)――――――→心(涅槃) 〔進化〕 身無くして心無し。 物無くして涅槃無し。 規則性無くして真理無し。 涅槃の根源には身(物)の規則性が根本と為っているのである。 此の根本さえ在れば、「根絶やし」に為らねば、花が咲く様に、 涅槃の『最後身心』為るのである。 地上の環境が如何に為れども、根が生きて居る事が前提であれば宜し い。 根さえ残って居れば、環境によって自(おの)ずから、花を咲かすのであ る。 花は咲くべき時に咲く。根さえ残って居ればである。 其れが規則性である。 根だけ残して、咲くべき花を待って居るのである。 《 吾師に鐵幹、小生に涅槃 》 吾師伴鐵牛老師には鐵幹が居た。 吾鐵幹には、鐵漢として涅槃が在るのである。 師には弟子であったが、吾には人が居る。 師は正法苦行を生んだが、吾は涅槃為る真理に至り得た。 明らかに、心進化を遂げたのである。 米国と中国では世界を蓋(おお)い切れない。 是から、米国、中国、中東と、アフガン等の独立を完全なものにするに は、中東の宗教性が世界人類に受け容れられる普遍性が絶対不可欠 である。 其の第一要件は、暴力の排除である。 第二要件は、高い宗教性に相応(ふさわ)しい、男女間の平等為る人間 性に堪(た)え得る普遍性(髭を生やすとか、顔を隠すとかの強制でな い)である。 小生が『最後身心』と為り得た要諦(鍵と為るポイント)は大乗禅の、 「佛祖の坐禅と謂うは、……坐禅の中に於いても、「衆生を忘れず」、 「衆生を捨てず」、……」と云う事である。 是は、絶対不可欠であり、心進化せ使める絶対要件である。 「涅槃入り」が可能と為る為の最低条件が「人を忘れない」、「人を捨 てない」事である。 是無ければ、宇宙の真理には至り得ないのである。 是、大乗仏教の根本義である。 其の延長線上に、「人を生(活)かす」真理が手に入るのである。 人間と云う者は自己を通す為には、他者が目に入らなく為るのが人情 の常である。 自己を通す為には、裏表無く他者を受け入れて往くのが、其れが 世界平和を完遂する本物である「証(あか)し」である。 是、菩薩の行願(布施、愛語、利行、同事)の同事である。 決して強権支配ではない。 涅槃為る真理に至る絶対要件が「人を忘れない」、「人を捨てない」と云 う、三毒(貪・瞋・癡)為る自己を引き戻す(=三善根へ導引する)要因と 為るものである。 「人を 忘れない」、「人を 捨てない」と云う事が、 人類の母体為る、 「自然を 忘れない」、「自然を 捨てない」と云う事であり、 今の危機的事態を招来するには至らないのである。 是が有るから、心進化するのであり、世界平和に至り得て、涅槃現成 (げんじょう)するのである。 決して、三毒(貪・瞋・癡)由来の便宜上、切り捨てたりするものではな い。 又、意図的に強権支配するものでもない。 況(ま)してや、暴力的に他者を強制支配するものでは決してないので ある。 ※ 真理(実)とは根本的に「人を生(活)かす」事なのである。 「自分を生(活)かすと云う事は、人を生(活)かす事」、 「人を生(活)かすと云う事は、自分を生(活)かす事」である。 《 『最後身心 』の虹の大輪 》 身――――→心――――→慈心――――→正法苦行 (安楽であれかし)| 坐禅の功徳 → 「悟り」| 「解脱」―→「覚天」 道元禅師 釈尊 鐵漢 三毒(貪 ・瞋・癡) ―→ 三善根(施・慈・慧) 欲を満たす事は、身を適(かな)える事であり、貪 は心進化しない。 貪著 を離脱する事が心進化への門である。 三毒(貪 ・瞋・癡)害が「解脱」によりて、三善根(施・慈・慧)に転了する のである。 坐禅をして居れば、無常、三毒害等の “修羅場” を観じて、慈悲心生じ 、正しく施、慧を生む。 是は坐禅の功徳によりて、「涅槃為る本質」に接近する処から、世人に 余裕と慈心を生むのである。 「生きている」と云う事は「死ぬ事」である。 真理に基づいて、人間は死ぬ事なのである。 死ぬとは、身の三毒(貪・瞋・癡)に死に切る。 人間と云う者は子を生む事が最善なのではないのである。 若し、然(そ)うであるとすれば、人間は単なる動物に過ぎない。 つまり、性欲が最善なのではなく、欲を超越した三善根(施・慈・慧)へ の菩提心が最善への正道なのである。 此の正道((三善根への)菩提心)が坐禅による「功徳入り」である。 坐禅をするのが、生まれ変わる最短路である。 他では、生まれ変わる(=本質に帰一する)事は不可能である。 「人を切る剣を捨て切れなかった」、江戸の「無敗の剣豪」武蔵と、 剣禅一如にして江戸城無血開城為ら使め、見性悟道して「剣を捨てた」 明治の「剣の達人」鐵舟に、我々は其の典型を察知する事が出来るの である。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の周辺を彷徨(さまよ)うか、本質に帰一 するかである。 人類を真に生(活)かす(=教導する)のは強権支配でなく、真理(実)に 基づく世界全国家の信頼団結である。 米国然(しか)り、中国然(しか)り、中東然(しか)りである。 小生は、涅槃為る真理に至る迄の規則性による必然的偶発裡に、 「覚天」した。 小生も世界人類と同様、若し此の「覚天」の刹那が無かったならば、 此の永遠為る『最後身心』の真理に、決して至り得る事は出来なかった のである。 [最後身心]は涅槃と規則性 の虹の大輪が海の彼方で 泰然として回って居るのを 確心するのである 《 政治家の必要十分条件 》 施政は張ったり でなく、真理 に基づいて為されなければ為らない。 尤(もっと)も、其の真理 に至り得たのは、つい一年十一ヶ月前である。 世界で、聖徳太子に由来する真理 (仏教)に基づく施政が始まったの は、正に世界に唯一の被爆国家の日本に於いてであった。 不昧因果 、因果の道理歴然として私無し。 毫釐(ごうり;わずかばかり)も違(たが)わないのである。 政治家足る者の必要十分条件は真理 為る「人を生(活)かす」菩提心 を発(おこ)す事である。 最も困難な事は、 最も安易な事である。 人世の能力の多様性は、 其れ程、多様性なのである。 《 七十一歳の安らぎ 》 人間と云う者は、年齢に相応(ふさわ)しき在り様と云うものがある。 無意識の裡(うち)に為される働き、因果の道理の様な、によりて出来 上がって往って居る様な気がするのである。 身が心を制して居るか、心、涅槃妙心が身を制して居るかである。 涅槃妙心とは宇宙の心である。 其れ故に、七十一歳の老いとは、好ましきものとは思わないが、 七十一歳であるが故に、其の本分に徹し、自己の為すべきを尽くし得て 、無意識の深い処で、一種の安らぎの様なものが在る事に気付いた。 此の安らぎは、為し遂げたと云う処からのものの様である。 其の様に、後、機械的であれば宜しい。 機械的と云うのは、宇宙の心、涅槃妙心智慧 に遵(したが)ってと云う 事である。 しかし、個人的涅槃ではないかとも思う。 実際は、今は、薄ら寒い無力感ではある。 「始め良ければ終り良し」。一事が万事である。 小生も、「覚天(涅槃入り)」したのは、師が亡くなられて二十三年後であ る。師が亡くなられた時には、未だ「解脱」体現以前であった。 正に涅槃への収束振動である。 《 一方通行 》 小生、医学生の時、「自己の本心を誤魔化して生きる事は出来ない。」 と自己の進路を自覚して以来、本日迄、無自覚ながらも、涅槃化エネル ギーに拠(よ)る涅槃妙心力に導かれるが如くに、現成(げんじょう)涅 槃への一方通行であった。 然(そ)う言えるのは、「覚天(涅槃入り)」した以上、其れは一方通行な のである。 又、「覚天」後、坐禅からネットに転化して以来、逆行した事は一度も無 い。 決して、然(そ)うには為らないのである。 何と為れば、「覚天(涅槃入り)」により、廓然(かくねん;心が晴れ渡り、 わだかまりの無い様)と「人だ!」 と体現されたからである。 「刹那生滅の原理」、「因果の道理」に基づく、貴重為る刹那の使い方 に過誤は無いのである。 釈尊は、正法 (千年)、像(=似)法(千年)、末法(万年)(尽未来際)と 予言されたが、「悟り」であるならば、「解脱」と異なって、「宇宙(生命)の 本質」(涅槃)に未だ接触し得ていないが故に、退行する事も在り得るが 、一旦「本質」に接触したら、其の記憶は永遠に消滅しないが故に、 小生に於いては心進化は学生時代以降、本日を経て一方通行なので ある。 既に真理に至り得て以来、宇宙の真理は人心に刻印が押され、永遠 不滅に、涅槃への収束振動し往くのである。 真理は「人を生(活)かす」 である。 是に違(たが)える者は地獄に堕(お)ち、同ずる者は涅槃に帰一する。 是が「因果の道理」であり、不昧因果なのである。 毫釐(ごうり;わずかばかり)も違(たが)わない。 《 真理と国政 》 政治家と云う者が、人間の達人であるならば、理想であるけれども、 世の中は、其の様には往かない。 政治家に為る人が、仮令(たとえ)菩提心からのものであったとしても、 政界に入ると、其の世界には、他の世界同様、夫々の世界に共通した 人間の三毒(貪・瞋・癡)由来の習性、慣習、そして其れ等の温存、存続 、忖度と云ったものが主体と為って居る受動、消極的体質と云うものの 悪癖は如何(いかん)とも為し難いものである。 然(しか)るに、其れ等は未だ真理 を知らざる、従来の悪習であったの だ。 令和の真理黎明期に至りては然(さ)に非ず。 世界の在り様も、当然異なって来るのである。 米国然(しか)り、中国然(しか)り、中東然(しか)りである。 世界人類が真理に基づいて、一致団結する事が、世界人類が涅槃収 束する為の、侵すべからざる最低限の必要十分為る条件と為らなけれ ば為らない。 当然、其の方向に移行しつつある、現、真理黎明期である。 世界は、従前の愚行は一掃されなければ為らないのである。 日本同様、世界も共に涅槃収束振動の永久機関として作動しなければ 為らない。 《 『最後身心 』と世界 》 『最後身心』と世界、米国、中国、中東の在り様は、真理黎明期の最重 大課題であると、率直、素直に享受すべし。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の真理 を享受せずして、世界人類は一 体何を以ってか、生命の拠り所と為す哉? 聡明為る指導者達の執るべき態度は自(おの)ずから明らかと為る。 能動、積極的に然(そ)う在らねば為らない。 此の地獄の如き、自然界と人間世界の激甚異常事態に於いて、 正に然(そ)うなのである。 何と為れば、地獄と真理 との、涅槃への収束振動の初動足る、最大 振幅期為るが故に。 唯、総て改善、復興すべく、最善を尽くすのみである。 心的淫快は避ける 「覚天(涅槃入り)」後、小生、此の結論に至る 迄、古希から二年近く掛かったと云う訳である。 医学部学生の時、吾師から、「人情を捨てる」 と言われた時の様に、結論に至り得た事に、 肩の荷を下ろしてホッとしたのである。 《 世界諸国家の独自性 》 自国(己)存続の絶対要件は汚職が蔓延する独裁政権や紛争でなく、 『最後身心』である。 涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の真理に基づくが故に。 此の絶対信頼団結で、世界中の諸国家(米、中、中東、アフリカ等…… )夫々の独自性を尊重しつつ、世界平和を構築、完遂しなければならな い。 中東の紛争の在り様の原型が、最貧国家群のアフリカの、汚職が蔓延 する独裁政権の在り様なのである。 地上の生態系の調和と均衡と静謐を確保する為には、世界人類が 如何に在らねば為らないかは自(おの)ずから明らかなのである。 原爆支配したり、覇権争奪競争したりする次元の話では治まり様は無 い。 其の結果は、因果の道理から、今で在るのは当然であり、必然性以外 の何者でも無いのである。 世界の指導者達は真理に基づく信頼団結によって、人類三毒(貪・瞋・ 癡)の根源悪に翻弄されないだけの、三善根(施・慈・慧)世界を根本的 に確立しなければ、永遠に世界平和を構築、完遂する事は出来ないの である。 人間由来の二元相対の神や(能)力でなく、絶対為る涅槃宇宙の真理 に基づかない限り、永遠に地獄は収束しない。 《 日 程 》 3:00―――起床 5:00―――帰宅 (ネット) (夕食準備) 5:30―――朝食準備 6:00―――晩課 (ネット) (夕食準備) 8:30―――朝課 7:00―――夕食 (朝食) 10:30―――托鉢準備 8:00―――片付け 11:00―――托鉢出発 9:00―――ネット 2:00 前後 1時間(昼食) 11:00―――就寝 《 人間(類)の心 》 人間(類)の心は、三毒(貪・瞋・癡)の癡愚から三善根(施・慈・慧)の慧 、つまり涅槃妙心智慧迄の振れ幅が在るのである。 人類は、米国の日本への原爆投下への拡散振動至極至ら使め、其処 (そこ)から七十六年後の、小生の「覚天」以降の涅槃への収束振動し 往くのである。 癡愚とは獣(けだもの)以下なのである。 動物の獣には分別は無く、生命存続の為の単純為る生命現象に他為 らないが、人類の獣は悪意為る分別に基づく、我欲を満たす為の地獄 を招来する悪業である。 そして三善根(施・慈・慧)の涅槃妙心は、其の地獄の悪業の究極によ りて初めて、人間が至り得た人心の究極の、涅槃為る宇宙への回帰、 つまり涅槃妙心を体現する事によりて至り得る宇宙の心なのである。 そして、此の心を体現するには、究極の正法苦行の、托鉢による生涯 後厳密千日涅槃行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)によりて、奇跡 裡の奇跡事として、偶然裡の必然事として、人類の意識が根絶した処 に於いて初めて、人間生命の根源為る、宇宙の心、涅槃妙心の「人を 生(活)かす」心が廓然(かくねん)として体現されるのである。 従って、人間世界の神仏や主義主張、諸々の学問、芸術、スポーツ等 々の総ての人類の諸能力は此の真理(実)に基づいて営まれなければ 為らないのである。 其れ等が人類の三毒(貪・瞋・癡)でなく、三善根(施・慈・慧)に基づく、 時・処・位や老若男女を超えた真正(しんせい)の多様性であり、且つ、 でなければ為らないのである。 人類の為すべき最大の課題は、此の涅槃妙心(智慧)によりて、人類の 癡愚為る地獄を涅槃世界へ教導し、心進化せ使める事である。 《 脳の進化と心の関係 》 進化 : 脳幹 → 大辺縁 → 大脳 欲 → 情 → 分別 三毒 ( 貪 ・ 瞋 ・ 癡 ) 解脱される心 : 迷い 煩悩 四苦 オーストリアの心理学者フロイトは快を求め、不快を避けようとする 快感(=快不快)原則 、又欲動の充足を延期する能力の現実原則 を 定め、快感原則 から現実原則 への変化は、欲動の昇華 とした。 「解脱」は欲求・情動(=脳幹、大脳辺縁系)からの解放である。 「悟り(身心脱落)」は大脳新皮質の根本的変容。 其の準備段階である「坐禅の功徳」は大脳新皮質に偏在する 異常(病的)緊張部位からの解放である。 生理(基本)的欲求の中枢前後について、 大脳の芯に大脳辺縁系が在り、更に其の芯に、脳幹が下方に脊髄、 末梢神経へと移行して居る。 大脳辺縁系は、価値判断、意思決定、共感、直観力、感情(形成)に よる記憶、情動(反応)・感情の処理(好悪、快不快、怒り、恐怖、意欲) 。 快情動による接近と、不快情動による攻撃・回避は生存に不可欠。 脳幹は、上部の視床下部で生命維持に重要な中枢、本能行動中枢( 食欲、性欲、睡眠欲)。最下部の延髄は体温、摂食、呼吸中枢。 又、情動行動中枢(自律 神経中枢)、自律機能(体温、ホルモン、浸 透圧等)。 例えば、「怒り」は大脳辺縁系で生じ、大脳前頭葉で抑える。 「恐怖」は 〃 で挑(いど)む。 人間の生命の大脳生理学的解釈について、 動物本能は脳幹の生命維持機能(本能)(反射、摂食、交尾)から、大 脳辺縁系の快不快の情動や共感 から、大脳へと進化したのである が、人類へ進化する段階で、大脳辺縁系の働きで脳幹の本能が欲と 情動行動(共感) に、更には分別と菩提心へと変容するに至ったので ある。 脳幹最上部の間脳視床下部(本能(食欲、性欲、睡眠欲)行動中枢、 情動行動中枢、自律神経中枢)から、上方に大脳辺縁系、及び大脳 (新)皮質への進化を遂げた。 上行性大脳賦活系網様体為る脳幹網様体は呼吸 ・循環中枢 の生 命維持の不可欠機能。 脳幹を延髄から視床を介して、大脳皮質迄上行し、意識レベルの制御 、覚醒・睡眠の調節をし、呼吸、心拍数、血圧の調節中枢であり、 脊髄を下降して随意運動、筋緊張・反射、姿勢保持、歩行に係わる。 「覚天(涅槃入り)」は脳幹網様体系に於ける変容かと推察される。 人間の意識の根を絶つには、上行性大脳(皮質)賦活系網様体の変容 以外には無い。 世間の声と云うものはフロイトの神経症からの精神病理によりて、快感 原則、現実原則との分析への根本的志向性足る、小生の避けるべき 心的淫快の最終結論、是等は恰(あたか)も地中のミミズが寄り添う如 くに、涅槃への収束振動為ら使め、生命の肥料とも成るべきものなので あり、解剖学的、生理学的に大脳辺縁系、視床下部支配領域である。 意識と云うものは、脊髄から上行する脳幹網様系で、快感原則、情動 の発現、共感、記憶等の、身から心への橋渡し的役割を司(つかさど) る脳幹、大脳辺縁系、視床下部領域を生(活)かすものである。 つまり意識在りて、快感原則が成立する。 「覚天」体現によりて、意識根絶すれば、人心の裏表が総て明らか と為るのである。 <フロイトとアインシュタインとの往復書簡について > 1932年、アインシュタイン(1879~1955)はノーベル賞受賞(1922 、43歳)から10年を経て、国際連盟から、「人間にとって最も大事だと 思われる問題を取り上げ、一番意見を交換したい相手と書簡を交わし て下さい。」と依頼され、其の相手にフロイト(76歳)を選んだ。 既に『精神分析入門』(62歳)で硯学(せきがく;学問が広く、深い事。又 其の人。)であった。 1933年、ナチ党が政権を掌握し、彼等は共にユダヤ人であり、後、共 に亡命した。 往復書簡について、 アインシュタインは、「人間を戦争と云う頸木(くびき;車の轅(ながえ) の先に付けて車を引かせる横木。自由を束縛する物のたとえ)から解 き放つ事は出来るのか?」と問うたのに対して、 フロイトは、「人間から攻撃的性質を取り除く事等、出来そうに無い!」 と明言した。 「人間の攻撃性を戦争と云う形で発揮させなければ良いのです。」、 「文化の発展 を促(うなが)せば、戦争の終焉(しゅうえん)へ向けて歩 み出す事が出来る!」と。 「“教養の無い人”よりも“知識人”の方が暗示 に罹(かか)り易い。」 「平和への努力に抗(あらが)うものがあります。其れは、」アインシュタ インによれば、「権力欲、そして其の権力欲を後押しするグループなの だ。」、 「金銭的な利益を追求し、其の活動を推し進める為に、権力に掏(す)り 寄るグループです。彼等は戦争を自分達に都合の良いチャンスとしか 見ません。個人的な利益を増大させ、自分の力を増大させる絶好の機 としか見ないのです。社会的配慮に欠け、どんなものを前にしても平然 と自分の利益を追求しようとします。」と。 ヒステリーの治療に於いて、 フロイトの「力動論」や「リビドー」の概念は、エネルギー保存の法則、 (アインシュタインのE=mc2(1907)) を元にして居るとも言われ、 「リビドー(性的エネルギー)保存の法則」から『文化への不満』を出版し た。「直接快感を齎(もたら)す本能的行動を放棄し、強制的に文明の目 的を追求せざるを得なく為っている文明人は不幸である。」と。 然るに、フロイトの過失は人間が本具するエネルギーを性的エネルギ ―に絞り込んだ処である。是は彼が神経症患者からの人間観察から得 た結論であって、ユングは更にリビドーを総ての行動の根底にある心的 エネルギーと拡大解釈したが、結果的に迷路に迷い込んでしまったの である。 是等は(西欧の)学者に共通した、発(ほつ)菩提(道)心の欠如 に由 来する、心進化の根源的志向性の岐路に起因するものである。 其れ等の帰結は現今が明らかに証明して居る処である。 発(ほつ)菩提(道)心 のエネルギーは人類をして促使める宇宙の涅 槃化エネルギーに由来するものである。 今、其れ等の両極が中東とアフリカ、そして日本なのである。 前者は米、中と共に全世界で改善し往かなければならないし、日本の 新政権が、其の事を明確に自覚して、米、中と共に、世界中を教導し往 かねば為らない責務があるのである。 人間と云う者は能動積極的に、無自覚為る自己の三毒(貪・瞋・癡)に 抗し、其れを否(いな)む事が極めて困難なのである。 其れが人類の通性であり、一般的な世間の声と云うものである。 斯(か)るが故に、現代、今の現状なのである。 現実を観ずれば、其の事を「証し」て余り有る。 是等を根本的に正使(ただし)めるのが、他でもない宇宙(涅槃化エネ ルギー)である。 涅槃為る宇宙の心、涅槃妙心と、其処(そこ)からの智慧なのである。 其の根底足るべきものが、「「宇宙(生命)の本質」からの促しに由来 する菩提心」 である。 《 三毒(貪・瞋・癡) が「人を捨てる」 》 バイデン氏のアフガン撤退と菅氏の職務の本質の放棄は共に、涅槃 妙心為る「人を生(活)かす」でなく、地獄志向の「人を捨てる」である。 地獄志向の「人を捨てる」米国の核の傘の下(もと)に、国家の威儀を 喪失して、地獄志向の「人を捨てる」日本政府の現状には、小生は失望 せざるを得ないのである。 今後の日本人に対する世界の評価も併(あわ)せて、小生は同じ日本 人として慙愧(ざんぎ;心に深く恥じ入る)の念に堪(た)えない。 日本国民沈没に帰する以外無い。 現状を建て直す気概のある人材が一人でも居るのか? 菅氏以下に陥(おちい)っては為らないのである。 我等の子孫達乃至(ないし)は世界人類に、地獄への片道切符を手渡 しては為らない。 其れが残された我々の使命である。 此の世に、真理無くして、一切無いのである。 武器を持たず、世界人類を教導出来る人材は『最後身心』以外には居 ないのである。 小生ならば、戦争で討(う)ちあって自滅するよりも、武器を放棄して 自滅する。 其れは自滅ではない。 宇宙真理の体現である。 《 『最後身心 』の一大事 》 小生鐵漢は『最後身心』であります。 是は、釈尊が自(みずか)らを『最後身』と称され処から、小生が自(み ずか)らを、『最後身心』と敢えて称したものであります。 其の真義は、 此の無限為る宇宙の或る一点に生み落された小生と云う生命の、 “自己”の自覚を得て、其の自覚、他者の無い新鮮為る、人類が希求す る真の自己を得ている感覚である。 是が初めて悟った、つまり「身心脱落」を体現した際の新鮮さであった 訳であります。 喜々(きき)として、物珍しく、宇宙を目(ま)の当たりにする感覚でありま した。 矢張り、『最後身心』について触れる時、如何(どう)しても「悟り(身心脱 落)」が出て来る訳でありますが、此れは、「初めて」と云う事、そして誰 も体験し得ない、否、明らかに、八百年近く前に道元禅師は身心脱落さ れたそうであります。 此の延長線上に「解脱」、そして「覚天(涅槃入り)」し、『最後身心』足る のでありますが、其の間、四十年近い、命懸けの行が在る訳であります 。 言葉で表現すれば、其の様な事に為るのでありますが、其の趣は至っ て安穏とでも言った方が宜しい様なもので、毎日同じ事の繰り返しであ り、偏(ひとえ)に坐禅の功徳裡に在るが故であります。 然(さ)て、其処(そこ)で本題に入れば、其の間、年を経(へ)る毎に、最 終的には愈々(いよいよ)ネットでのホームページを公開しながらの、自 己の生涯後厳密千日涅槃行三昧裡に、心理的には一歩一歩無意識裡 に、心の核心、つまり意識の根源に迫り往くと云う事に為る訳でありま すが、其の不退転の利自他行の究極に於いて、恰(あたか)も、雷が其 の着地点を得て、「青天の霹靂(へきれき;落雷)」の如くに、自(おの) ずから刹那に「覚天(涅槃入り)」を体現するに至るのであります。 つまり、真理を得て、宇宙の心、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に回帰 し、「人だ!」と涅槃妙心を得て、其れ迄の自己の在り様を撥無(はつむ ;全否定)して、一気に坐禅行から起ち上がり、階下に駆け降りたので あります。 百四十年程前の、ニーチェ(1844~1900、独、哲学者、実存主義)の 『ツァラトゥストラはかく語りき』では、紀元前十五世紀以来の、西欧(英 、仏、独)の精神的霊感の源泉足るギリシャ神話のディオニューソス(神 を意味する)概念に由来する真理※ に永劫回帰した超人ツァラトゥスト ラが「大いなる真理に於ける自己犠牲」を唱えながら高らかに山を下り たのであるが、是は或る意味では優れた経を思わせる。 フロイトやユングもニーチェから影響を受けている。 ※ インダス文明では、聖典ヴェーダは紀元前十世紀から釈尊前後迄 の宗教書で、インド哲学の源流と為るウパニシャッド(=近くに座す) (奥義書)で終える。最も古いものは「リグ・ヴェーダ」で紀元前十八 世紀頃である。紀元前十二世紀頃編纂された。神々の讃歌からの 梵我一如のウパニシャッド哲学の萌芽とも言うべき帰一思想を生ん だ。 然(しか)るに、如何に優れようとも、経は経に過ぎないのである。 如何に優れようとも、自己の能力から湧出したものに過ぎない。 経の存在は、万法に証せられて、体現する事に由来するものである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)によりて、無自覚に刹那に体現せ使めら れるのである。 前後裁断せる刹那に於ける、空前絶後の身心一如の体現である。 分別由来のものではない。 其処(そこ)から、世界人類を平和に導引する涅槃妙心(智慧)が生ま れるのであります。 『最後身心』の一大事は、此の真理、永遠に不滅為る恒常普遍の真理 を世界人類に説き、世界平和に教導する事が、何を為すよりも一大事 なのであります。 三毒(貪・瞋・癡)為る人間は、唯、貪著裡に地獄へ堕ち往くのみであり ますが、本質的な三善根(施・慈・慧)為る人間、少なくとも世界平和を 希求する人間にとりまして、不可避為るものが真理であります。 若し、真理が無ければ、 如何にすれば、世界平和に至り得るか? 戦争せずに、平和裡に世界人類が暮らして往けるか? 世界の地獄を解消(決)し、激甚、人為、自然災害を回避し得るか?と。 人類は対処療法的対応、且つ、其れ等に対する根本的解決法を見出 さんと必死ではありますが、其処(そこ)に至るには、真理(実)と云うも のが不可欠なのであります。 真理(実)無くして、世界人類は一致した見解を共有し得ない。 信頼団結し得る真理と云うものが、絶対不可欠なのであります。 何事も根本的に解決する為に、最も根源的に不可欠、不可避為るもの が真理であります。 是に至るには、 人類の如何為る能力を以てしても、至り得ない。 では、遣りたい放題に、皆遣る以外に無いか?と。 然(さ)に非ず。 其処(そこ)に真理が明確に、世界人類に求められるのであります。 何が世界人類に、永遠に、普遍的に真為るものが在るのか? 其れが真理なのであります。 世界人類が至り得なかった、真理(実)であります。 最も身近に在りながら、誰にでも共通、平等である、真実であります。 老若男女、時・処・位を問わず、世界人類にとって真理であるものが、 「人を生(活)かす」と云う一事であります。 是が涅槃妙心と云う宇宙の心であります。 是を世界人類が享有、享受して、是に基づいて、信頼団結する事が 世界平和への最短路であると云う事を、世界人類、特に世界の指導者 達が自覚する事が不可欠なのであります。 世の中は「諸悪莫作」では解決し得ないのであります。 9 .11自爆テロの報復行動の二十年間が地獄志向の何ものでもなか った様に。 如何(どう)しても、涅槃志向の「修善奉行」無くしては、及び得ない。 此の菩提心が不可欠である。 人類が此の菩提心を抱くには、社会通念では及び得ない。 三毒(貪・瞋・癡)から、三善根(施・慈・慧)への「飛躍」無くしては至り得 ないのであります。 其れには真理の裏付けが不可欠である。 《 身心脱落 》 僧堂での大衆(だいしゅ;多くの僧)の坐禅中、如浄禅師の「参禅は須( すべか)らく身心脱落為る(=身心脱落の為)べし。」の叱咤(しった;大 声を上げて叱って励ます)の声に、道元禅師は豁然大悟(かつぜんだい ご)されたのである。 如浄禅師は「心塵脱落とは坐禅也。只管に坐禅する時五欲煩悩は除 かれる。」と。 道元禅師は身心脱落を師に告げ、 「是は暫時の技量です。濫(みだ)りに私を印可しないで下さい。」と。 小生も、身心脱落の事を福岡での攝心会の独参の時に、其の儘(まま) 師に報告した。 師の意向を問わず、小生の見解(けんげ)に全く揺るぎは無かった。 師は直後の提唱で、小生の見解(けんげ)の言葉を其の儘、繰り返され たのである。 「無限の時間、無限の空間に放り出された。」と。 此の時点では、小生は「身心脱落」について何も知らなかったのである 。坐禅を覚えた当初で、其の功徳を楽しんでいただけの頃である。 従って、道元禅師の悟り「身心脱落」に対する認識は、小生、ずっと後 に為って認識した訳であります。 今から七年余り前に、ネットでホームページを公開し出してからである。 世界大百科事典内の「身心脱落」の言及にも如浄禅師に止まる。 如浄禅師は心塵脱落(=邪念を無くす)であり、道元禅師は身心脱落で あった。 心塵脱落から身心脱落への移行は、恐らく道元禅師の体現上の意向 に基づくものであったのであろう。 道元禅師の体現は、心塵脱落よりも身心脱落が相応(ふさわ)しい。 正に、9 .11自爆テロによる高層ビル崩壊の如く、其れ迄の自己構築 の崩壊なのである。 心の塵処(どころ)の話ではない。自己自体の完全崩落なのである。 残るものは、自己の方には無い。後、菩提心在るのみである。 然(しか)るに、菩提心は在りても、方(=遣り方、手段)無くんば、致し 方無いのである。 後は、修善奉行の究極為る正法苦行在るのみである。 此の延長線上にして、初めて真理が在り得るのである。 身心脱落でも、未だ其の本質に接近し得たに過ぎない。 本質回帰には、小生も其処(そこ)からは、涅槃為る「宇宙(生命)の本 質」に回帰せ使めた正法苦行(初と後の二十年間)に入行し、且つ其れ を撥無(はつむ; 払い除ける)するに至る迄の四十余年間無くしては、 其の可能性すらも生まれなかったのである。 人間とは、其処迄のものである。 涅槃為る宇宙の真理に至るには、宇宙由来の人類の生命の本質に基 づく正道、地上の世界一の穀倉地帯のインダス文明の瞑想由来のヨー ガに端を発する釈尊の断食苦行によりて初めて中道に至り得て、其の 善業報として成道されたのである。 真理に至るには、人類の、死に至る苦行では至り得ないのである。 「人を生(活)かす」厳密正法苦行以外無いのである。 生涯後厳密千日涅槃行には托鉢が不可欠である。 世界で唯一、日本と云う土壌は真理に至り得る最後の国家足るのであ る。 正に日本は真理の霊峰である。 世の聖人や偉人や学者でも至り得ないのである。 そして今や、当然の事ながら、世界人類に格差無く、平等に食える事が 基盤である。 食えぬ事が、世界人類の根本的最重大課題なのである。 斯(か)るが故に、世界が未だ殺し合う動物的次元から脱却し得ないの である。 令和新世紀以降の真理黎明期である。 涅槃妙心智慧の修善奉行に長長出為ら使めねば為らないのである。 《 愛 国 心 》 真理は涅槃妙心である。 世界平和を構築、完遂する涅槃妙心智慧を生む。 国に及べば、愛国心であり、人に及べば、人を思い遣る慈悲心足る。 「人を生(活)かす」心であり、自(みずか)らを施す心 である。 是は涅槃為る宇宙(生命)の本質であり、宇宙の心なのである。 然(しか)るに、唯、地域性に基づく、後天的為る人類三毒(貪・瞋・癡) のみが、其の本質に違(たが)えて世界人類を害するのである。 教育の根本は真理でなければ為らない。 生きる為の技術や手段に留まらず、生きる事其のものでなければ為ら ないのである。目的でなく、実践である。 「生(活)きる」とは「生(活)かす」事である。 「生(活)かす」とは「生(活)きる」事なのである。 自他一如為る、此の宇宙の心を伝えるのが真の教育であり、人を本質 的に教導するものである。 人は、其れによりて真に生(活)き、「人を生(活)かす」のである。 真に自律する。 今の世界の現状を根本的に変革しなければ、地獄の深みに陥(おちい )り往くばかりである。 《 心的淫快について 》 先般 、小生、 『心的淫快は避ける』と述べましたが、 是は、『規則性を確保している』大前提が不可欠なのであります。 其の上で、極力避けるのであります。 一時的規則性放棄も、小生の、涅槃世界への必然的為る収束振動な のであります。 《 コロナパンデミック下オリ・パラ開催 》 小生が菅氏の立場ならば、耐えられないであろう。 敢えて自(みずか)ら、其の道を選択したからだ。 斯(か)るが故に、菅氏は其の立場を辞退したのである。 小生ならば、最初にオリ・パラを中止した。 あの状況下で、オリ・パラを開催すれば、事態が悪化するのは明白であ ったからだ。 其れは、平等為る人命とスポーツ競技と何(いず)れが不可欠である かを知っているからである。 其れとも、其れ以外の何か選択肢でも在ったのか? 政権への貪に因る癡愚 が世界的に如何なるものかを、我々は知るの である。 人は只管(ひたすら)欲しい、欲しいである。 欲しい者同士の保身と安泰。 彼等にとっては、欲しいが叶(かな)えられる事が世界なのである。 欲しい、欲しいの地獄一路門である事を知らない。 人類の三毒(貪・瞋・癡 )とは、然(そ)う云うものである。 今後の世界人類が、同じ過失を犯す事が無い様に、是はパンデミック のみに限った事では無い。 彼等が世界の地獄の根源に他ならないのである。 此の日常茶飯事こそ、中東やアフリカの無間(むげん、阿鼻)地獄の 根源なのである。 此処(ここ)の真理(実)の教導無くして、何時(いつ)迄経(た)っても、 涅槃世界は完遂しないのである。 脚下照顧 。 世界平和への一歩は、自己の確立。 真の自律以外在り得ないのである。 中東、アフリカに自国の三毒(貪・瞋・癡)の集積為る主義主張を押し付 けて、世界平和等、在る筈は無いのである。 若しも、日本で 9 .11自爆テロが発生したら、 自国のリーダーは自己の職務を放棄して、 次の政権に、日本の将来を委ねようとするであろうか? 真のリーダーであれば、其処(そこ)から退く事は出来ないのである。 其れが真理に基づく菩提心 である。 人類とは、後天的為る三毒(貪・瞋・癡)の海である。 是が、小生が不可思議為る有機的構成系と称するものである。 人類が三善根(施・慈・慧) からの行為でない限り、つまり菩提心を発 (おこ)さない限り、地獄一路門に為ると云う事を、取分け、世界の指導 者達は肝に銘じておかなければ為らないのである。 人命に対する軽視程、世界人類の信頼団結への最大の障害は無 い と云う事を、特に指導者達が決して忘れてはならない。 医学上の進化に於いて、未だ医学的能力が及ばざる場合等には、 如何(どう)しても、人命を犠牲にせざるを得無く為る場合も生じ得るが 、其れは、其れ以外に人命を救う手立てが見出せないが故に、然(そ) うせざるを得ないのである。 其れは、不可避なる選択肢なのである。 地獄一路門は其れとは、全く真逆である 地獄一路門とは、(三毒(貪・瞋・癡)人類の心の隙に忍び入る、)三毒 由来の諸々の三毒害悪が集積した地獄なのである。 其れが中東を生み、更にアフリカの無間(むげん、阿鼻)地獄を生んだ のである。 故に、高(たか)がパンデミック下のオリ・パラ開催ではない。 其れ等の心の隙に巣食った三毒害が合流して、必然性を以って無間地 獄と云う三毒害の海を生んでしまったのである。 世界の二大国家の米中の真の在り様は、日本と共に、自(みずか)ら 率先垂範して、三善根(施・慈・慧)を世界中に実践し往かねば為らない のである。 《 イスラムの地獄 》 イスラムの根本的過誤が女性蔑視である。 是は中東新体制の在り様として、小生の抱く中東の理想像(実は真理 なのであるが)は男女平等である。 男女は元来、一体と為りて人類存続し往くものである。 両者に優劣が在る訳で無く、心進化の究竟為る「宇宙(生命)の本質」 の涅槃に回帰すべく、役割分担されているだけである。 平等為る人類の生命は全て、「人を生(活)かす」涅槃妙心が真理為る 心、宇宙の心である。 是が、人類の三毒(貪・瞋・癡)によりて、「男は髭を生やし、女は顔を隠 して、教育も不要である」と。 男女差別は、あらゆる人種差別の中でも最も根源的差別である。 此の根源的悪業は、今後、イスラム世界が心進化を遂げ往かねばなら ない、未だ人間的に成熟していない部分である。 世界平和の根本は、人間同士の信頼に基づく団結である。 信頼の根拠は、「宇宙(生命)の本質」が涅槃であると云う事である。 此の真理に基づく涅槃妙心智慧によりて、世界平和を構築し、完遂し 往くのである。 男女間の信頼は、此の基本足るべきものなのである。 此の根源には性欲が関わり得るが、涅槃為る真理に回帰する人間の 菩提心と云うものは、遥かに人類の諸欲を貫徹するものである。 此の信頼団結程、強固為るものは無いのである。 其れは確証された真理(実)である。 小生に於いて、「心的淫快は避ける」処に於いて、初めて明確に為るの であるが、是は根本的に本来避け得るものでは無いのである。 是は人類存続の根拠足るものでもあるのだ。 生理(本能)的欲求である性欲も、他の食欲、睡眠欲同様、生存の為、 消滅するものではない。 若し消滅すれば、其れは死滅を意味するのである。 故に、男女間は本質的には分別では、如何(いかん)とも為し得ないも のである。 つまり、本来、差別し得ないものに、差別すると云う分別をつける処に、 根本的過誤が在るのである。 更に男に髭を強制し、女に顔を隠させる。 根本的に食えない処に派生する男女差別である。 真の神ならば、男女平等でなければ為らない。 中東新体制の確立と安定への世界的志向性。 そして更には、アフリカの現状の基本的条件確保への能動積極的取り 組みが不可欠である。 小生が最終的に「覚天」し得たのも、 生涯厳密行の菩提心の覇気が有ったればこそである。 保身や温存程度では世界平和は不可能である。 混沌たる世界に真理を完遂しないではおかない処の気概無くしては及 び得ないのである。 覇気の湧出する菩提心有ったればこそ、人間が宇宙に回帰する体 現が奇跡裡の奇跡事として生起するのである。 人類の本質的為る性(欲)の真実に於いても、小生の「心的淫快は避け る」基軸無くしては避け得ない性(欲)の本質に気付くのである。 其処(そこ)が解(わ)かった上で避けるのである。 馴染(なじ)むのではない。 本質を知るが故に、真に避ける事が出来る。 是等の覇気や気概の源泉は、「悟り(身心脱落)」であり、「解脱」であり 、「覚天(涅槃入り)」である。 つまり、究竟涅槃為る「宇宙(生命)の本質」である。 物事と云うものは本気で遣って七割である。 後は絶対不退転の日常的為る機械的習慣化である。 是、身の心進化の真(現)実である。 動物の尻尾(しっぽ)が、人類の尾骶(びてい)骨と為った様なものであ る。 其れと若さの美しさ、可能性とは別物である。 真理(実)に違(たが)える地獄がいけないのである。 心進化を遂げようとする、身の進化の最足る米中の二大国と、其れ等 に準ずる中東、更にはアフリカと、心進化を遂げた日本の在り様に象徴 的為る現代世界の基軸としての構造である。 中国の積極性と、米国の酩酊(めいてい)と、中東の男女差別廃止、非 暴力化と、アフリカの無間地獄と、そして日本の真理である。 今後、日本人の気概と覇気が不可欠である。 保身と安泰で、真理為る涅槃世界は構築、完遂し得ない。 《 鬼手佛心 》 小生が、人間を判断するのに最も簡便な手段がある。 セックスと世界平和の二者択一を迫る。 「貴方(あなた)は、何(いず)れか一つを択(えら)ぶならば、どちらを選 びますか?」と。 其の人の本気度と、人格の踏み絵である。 是は世界人類、七十七億人が自己自身を知る明確な方法である。 自分は、本当は禽獣(きんじゅう;けだもの)ではないなと。 世界平和を択(えら)ぶ者が多ければ、 『最後身心』によりて、涅槃世界は間近と為る。 《 有機的構成系 》 小生が有機的構成系と称するものの本質は三毒(貪・瞋・癡)である。 是、保身、忖度、温存、安泰等の因為るものである。 従って、総ては我欲に基づく嘘なのである。 「宇宙(生命)の本質」は「人を生(活)かす」涅槃妙心為る真理であるが 故に。 世界人類の信頼団結の依拠(いきょ)する処は真理(実)であり、 「悟り(身心脱落)」、「解脱」、「覚天(涅槃入り)」なのである。 故に、世界を教導出来るのは、『最後身心』しか居ない。 如何なる人と言えども、総て、此の有機的構成系の一人に過ぎないの である。 《 究 竟 頂 》 「覚天 」後、丁度二年間で、小生、既に是以上は無い処迄来た。 後、何が出て来るのか、 今は、正に此の日を迎える為に、吾生涯が在ったのだと云う気がした。 自己自身にとって、是以上が無い。 究竟頂である。 自己の存在意義が其処(そこ)迄と云う事である。 後は、吾身を全(まっと)うすべく、日々をこなしておく事である。 百%真実為るが故に究竟頂なのである。 国家のリーダー程、謀(はかりごと)無く、其れが言えない。 斯(か)るが故に、七十一歳にして、余命、 世界人類の平和に直結すると思う事柄は、端的に当ホームページを通 して、『最後身心』として述べさせて頂く事にした。 先ず、世界の頂点が信頼団結 か、其れとも核兵器支配 かと云う事 である。 前者であれば、涅槃一路門であり、後者であれば、地獄一路門である。 『最後身心』の真理黎明期にして、仮(かり)に後者を選択すれば、地球 上は、永遠に地獄から脱却する事が不可能と為る。 前者を勇断すれば、「始め良ければ終り良し」、世界人類の将来は涅槃 世界に至る。 因果の道理より、小生は其れを断言出来るのである。 世界の指導者達が何(いず)れを選択すべきかは、癡愚者でない限り、 自明である。 世界人類は、二度と同じ過ちを犯しては為らない。 自(おの)ずから、核兵器禁止条約は批准され、国連が涅槃世界への 道先案内人足らねば為らないのである。 核兵器禁止条約締結程、真理に基づく、明確為る世界の信頼団結 の礎と為るものは無いのである。 次に、無間地獄のアフリカへの対応である。 アフリカの現状への配慮が無さ過ぎる。 従来の核兵器支配体制の国連に於ける、困窮者、弱者に対する其の 体制が未だ不備なのであろう。 国連、及び先進諸国家群とアフリカ乃至中東等の貧困、無政府諸国家 群との文明格差の不均衡を調和すべく、能動積極的に是正しなければ 為らない事態である。 つまり、前者の文明の爛熟で後者の困窮を解消すべく補填(ほてん)し て生(活)かす方向性が不可欠である。 斯くして観れば、東西両洋の長所と爛熟した部分で、アフリカ、中東に 於ける困窮者、弱者を根本的に救済すべきである。 何(いず)れ、我々は、二十年前の 9 .11の、世界に醸成された軋(き し)みの暴発の如く、是等の不均衡に起因する諸弊害を被(こうむ)る事 態に至るであろう。 此処(ここ)が人類の有機的構成系の不可思議為る、因果の道理と云う ものである。 アフリカの未来は、中東の今と為る。 《 国際連合軍(国連軍) 》 例えば、UFOが地球を侵略したら、世界人類は国家感無く、等しくUFO の脅威に向き合わざるを得ないであろう。世界が一丸と為って。 我々人類に対する侵略者である存在に対して、我々人類は一丸と為っ て、其れに対抗しなければ為らないのである。 諸悪の根源為る人類三毒(貪・瞋・癡)の権化(ごんげ)、自分(等)の為 に、人を思わない輩(やから)に対しては、究極的には、我々人類は 世界平和を希求する者同士の信頼団結によりて、其の善心、真理為る 涅槃妙心に基づいた世界警察為らぬ、世界軍隊が不可欠なのでありま す。 従来の国際連合軍(国連軍)は原爆支配体制完結の産物でありました 。其れが故に、原爆所有国家完全一致体制であります。 しかし是は、ヒトラーの優性思想に等しい、差別の、負の世界遺産の 末路に過ぎないものである。 其の結果が現今を現成(げんじょう)しているのであります。 其処(そこ)で、真理の黎明為る今、二元相対為らぬ、真理に基づいた 世界信頼団結によりて発足する世界軍隊 が絶対不可欠なのである。 是こそ正に、真の国際連合軍(国連軍) なのであります。 今こそ、涅槃妙心智慧によりて従来の知恵も活かすのである。 真理の抑止は絶対である。 世界人類、一人も是には逆らえないのである。 涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に違(たが)えば、其れは真の自己に違 (たが)えて、地獄に陥(おちい)る事は必至であるからである。 世の中は、経(言葉)の次元と生命の真理の次元、つまり表現世界 と、其の源泉の涅槃世界とは偽と真の一線を画する。 《 初(厳密千日解脱)行の意義 》 人間は初行(正法苦行)(三時間坐睡 二十四時間仏作仏行)無くんば 解脱(域)には入れない。 何と為れば、初行(三時間坐睡 二十四時間仏作仏行)によりて、自(お の)ずから、呼吸が解脱域呼吸(臍下丹田呼吸)に転じ、初めて人間は 三毒(貪・瞋・癡)に死に切るのである。 初行完了して、横臥すると、呼吸が出来ない。 怖くて寝れないのである。(但し、是は直(す)ぐ回復する。) 是は初行の坐睡 を始める時とは逆である。 三毒(貪・瞋・癡)に死に切ると云う事は、表面の鍍(メッキ)が溶解した 様に、自(おの)ずから、涅槃妙心由来の三善根(施・慈・慧)が顕現す ると云う事である。 《 仏力顕現 》 人類の諸能力への、三毒(貪・瞋・癡)の癡愚為る巧妙さは、分別で制し 得るものではない。 其れは現代と云う時代が明確に証明している。 斯(か)るが故に、「癡には癡を」ではない。 「癡には涅槃妙心(智慧)を」である。 涅槃妙心智慧は、其れ等を覆い尽くして余りある。 癡愚者には損としか判断し得ない事でも、 其れは、涅槃への収束振動の先の涅槃世界からすれば、真正なので ある。 人類の諸能力とは異次元にして、一線を画する涅槃妙心力とは、涅槃 妙心智慧力であり、仏力とは此の事である。 宇宙の心、つまり宇宙の涅槃化エネルギーの事である。 人類の諸能力は、元来、人類由来でなく、涅槃化エネルギー由来であ る時、人事に於いても、最大限の力、仏力が顕現するのである。 正に是が、奇跡裡の奇跡事、偶然裡の必然事為る「覚天」其のものに 他ならない。 《 世界唯一の真理の教導 》 小生が居ないと、世界人類は涅槃世界を構築、完遂出来ない。 逆に言えば、 小生が居ると、世界人類は涅槃世界を構築、完遂する事が出来る。 何故(なぜ)ならば、 「宇宙(生命)の本質」が涅槃であると云う真理を、空前絶後に小生が 体現したからである。 真理は、万法(ばんぽう;物質、精神的、全ての存在)其のものである 涅槃化エネルギーの働き(=機能)である。 世界平和を構築、完遂するには、小生『最後身心』が不可欠である。 世界人類は『最後身心』に基づいて、世界平和を実現出来るのである。 エベレスト山頂へのロッククライミング(岩登り)は、誰でも山頂に立てる のである。 是は、体力の問題ではない。心の問題である。 但(ただ)し、其れには絶対条件が在る。 「オレが、オレが」でなく、 皆と共に、世界人類と共に立つのだと云う意識さえあれば宜しいので ある。 是が絶対条件である。 其の為の試行錯誤である。 涅槃への収束振動なのである。 其の永久機関である。 人間と云う者は、地獄から涅槃迄、其の真実を微細に究明し得た 者の配慮(=教導)無くしては、世界人類が涅槃世界(=世界平和) へ到り得る事は在り得ないのである。 「迷える子羊」であった小生が、『最後身心』と為り得た様に。 地獄を脱却し、「涅槃入り」する正道である。 《 終 局 》 小生、「覚天」以降、二年間、一心不乱に遣って来たが、そろそろ教導、 従って規則性も、何(いず)れかと言えば、自由域に入って来た感が在 る。 「敢えて」でなく、「日常性の中で」、自(おの)ずから、自然に委(ゆだ) ねて、気の向く儘にである。 規則性と自由域の境界線は、恣意的でなく、自ずから出来上がる処の ものである。 開眼(=目は開けておく)は、日常の、身(=自己)の菩提心である。 小生は、今と云う時が涅槃への収束振動の途上である事を確信して居 る。 何と為れば、此れが、 後天的、人類三毒(貪・瞋・癡)に基づく虚偽、欺瞞でなく、 「宇宙(生命)の本質」の涅槃妙心に基づく真理(実)為るが故に。 動物は、其の進化の初めから、つまり単細胞生物(植物、動物)の段階 で、其れが特殊化した神経細胞の細胞内生体電位変化に基づく運動 の感覚器・効果器的効果の仕組みが見られ、 又、更に詳細に、分子レベルの遺伝子の発現の比較によって、多様な 動物神経系の進化に、共通のメカニズム(設計原理)が存在する。 無脊椎動物の究極為る昆虫と、脊椎動物の究極為る人類の脳形成の 遺伝子プログラムは、既に其れ等の進化の根元に位置する、最初の特 殊化した神経細胞(ニューロン)が現れた腔腸動物にも、既に萌芽的、 基本的な中枢神経系が、又無脊椎動物の祖先である扁形動物のプラ ナリアにも脳形成のプログラムが夫々揃(そろ)っていたのである。 さて此処(ここ)で、人類の神経から心への進化について考察してみる。 身、つまり神経から心へと進化を遂げたのである。 要するに、神経化とは身化であり、退化である。 セックス(淫快)は神経(身)化である。 坐禅(正法苦行)は身を生存の必要最小限に為して、心機能の極限を 護持して、究竟涅槃(妙心)、涅槃回帰するのである。 其処(そこ)に於いて、人類は人類としての究極的使命を果たす。 「悟り(身心脱落)」、「解脱」、「覚天(涅槃入り)」等の脱身化(=心化、 涅槃化)の諸階梯である。 三毒(貪・瞋・癡)は神経化であり、三善根(施・慈・慧)は涅槃(妙心)化 である。 つまり、進化とは、福壽(じゅ)海無量為る宇宙の心為る涅槃化エネル ギーに依る涅槃(妙心)化 に他ならない。 一方、人類の諸能力化は諸能力の進化(特殊化)であり、是は究竟身 (意識と無意識)である。 何と為れば、身に基づくものであるから。 意識は身の究極である。 |人間(諸能力)| | 仏 | 真理 (涅槃) 身(動物)―→心―→悟り(身心脱落)―→解脱・覚天―→涅槃妙心 反射 |⇒ 意識 |⇒ 涅槃識 果たして、人類は其の母体為る宇宙に帰一し、『最後身』 足り得、 二千五百年足らず後に回帰し、『最後身心』 足り得たのである。 予定人間、予定仏、予定回帰、予定涅槃なのである。 若し、然(さ)も無くんば、小生が『最後身心』足り得た奇跡は生じ得なか ったのである。 動物は、其の進化の最初から、人類の神経系の基本が本具していた。 其処(そこ)から心へと進化して来たのであり、心は究極的には、其れ 等の生みの親である宇宙へ回帰したのである。 身は死滅すれば、自(おの)ずから宇宙に回帰するのであるが、 小生、『最後身心』に至る、今から二年前迄は、人類の心が宇宙に回帰 した事は無かったし、其の様な事は夢にだに思えなかったのである。 斯(か)くして初めて、此の真実を体現したのであった。 涅槃化エネルギー以外には、吾身心に、吾呼吸神経系を介して、 小生を「覚天」せ使めた、此の働きを為し得るものは無い。 唯、『最後身心』一人、真理を世界人類に教導出来るのである。 「人類の諸能力其のものではなく、「人を生(活)かす」心に真理が在る 」と。 真理は諸能力の奥義(おうぎ)であり、人をして、其れ等諸能力の達人 足ら使めるものである。 「剣の達人は剣を捨てる」 其の心は、「人を生(活)かす」涅槃妙心である。 心的淫快は止める 《 最後の拠り所 》 総べての世界人類を信じる事は出来ない。 最後に出来る事は、「自己を信じる事」である。 是が最後の拠り所である。. 釈尊は言われた。 「自灯明(みょう)(自(みずか)らの心を拠り所とせよ)」と。 「信じる自己が在る。」 是は人間、誰にでも出来て、又、誰にでも出来ない事である。 信じる者と、信じられる者とが真理を現成(げんじょう)して居る。 自他一如為る宇宙真理(涅槃)現成 である。. 《 自己とは 》 人間は自と他を別者として、二元相対に思う。 然(しか)るに、宇宙も、地球も、人類も全ては、涅槃と云う「宇宙(生命) の本質」裡の宇宙、地球、人類なのである。 人間の意識は、一度、其の根を絶った刹那 、「覚天」し、自己の後行( =生涯後厳密千日涅槃行)三昧(ざんまい)の、其の在り様が霹靂(へ きれき;落雷)の如く、宇宙の涅槃化エネルギーによりて打ちのめされ、 続行不可能と為るのである。 反射的に(「行でない!」)「人だ!」 と吐露した。 此の刹那が「涅槃入り」為る涅槃回帰なのである。 従来の自己を一切撥無(はつむ;払い除ける)して階下へ駆け降りた。 以来、坐禅、つまり極佛行(=生涯後厳密千日涅槃行)の宿命的、解脱 域為る涅槃回帰以前の世界から脱却したのである。 意識は涅槃識 (=涅槃妙心)と転じた。 小生顧慮するに、 小生が医学部に入ったのは、生命の、特に心と体の相関関係に関心 があったのだ。 其れ故に、学部の書店で、エリッヒ・フロム(精神分析、哲学)の『意識』 と云う書籍を購入して、上行性大脳賦活系網様体の事は知っていた。 然(さ)りながら、古希直前に、「涅槃入り」時の意識の根絶によって、意 識は完全に根源の意識、涅槃識 (=涅槃妙心)に入替ったのである。 学生時代の宗教以前の自己に在ったものが、究極的に宇宙の真理為 る涅槃に直結するものであったとは、正に不昧因果 の真実以外の何 ものでもないのである。 「覚天」は長期に亘る、無我為る三時間坐睡二十四時間仏作仏行の賜 (たまもの)であって、此の空前絶後為る体現は、誰も否定出来ない。 不動にして、歴然足る真理の体現が、真理を証(あか)して余りある。 『最後身心』にして、此処(ここ)に涅槃現成(げんじょう)したのである。 地上は自己の一家族である。 不幸が在れば、吾事として思うのである。 人間力と云うものは、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に回帰せざれば、 つまり『最後身心』足らざれば、宇宙の涅槃化エネルギーと一如足り得 ないのである。 人間の諸々の分別から脱却した涅槃妙心力に由来する涅槃妙心智慧 で、世界中の歪曲は涅槃世界へと教導され往かねば為らない。 《 大い為る哉、光よ ! 》 科学的には、我々は自己自身から離れて、遂に素粒子へ、更にはダー クマター(暗黒物質)、ダークエネルギーへと踏み込まざるを得なく為っ たが、我々人類は光を思い、星を、太陽を、地球を、生命を、人類を思 い、自己を、自己の心を思い、此の源泉を思うべきだ。 自己から離れて、自己を見失って往く方向性でなく、自己の本源に回帰 する方向性である。 是が、宇宙の涅槃化エネルギーが進化して来た道程である。 宇宙は我々を生かし、菩提心を発(おこ)さ使め、其の涅槃を現成せ使 めたのである。 宜乎(むべなるかな)、大いなる光よ、星よ、太陽よ! 如何(どう)して、其処(そこ)に、人間同士の殺し合いが在り得ん哉。 只管(ひたすら)に、生(活)かし合うのみである。 分析でなく、統合しなければ為らない。 分析志向は、自己(意識)に立脚し、統合志向は、宇宙の調和と均一と 静謐に立脚する。 しかし、最終的には、統合に於いても、意識を離れる事は出来ないから 、「解脱」から脱却出来ないのである。 意識為る存在が、意識の刹那の一点に於いて、意識の根を絶った直後 、霹靂(へきれき;落雷)が吾体幹の芯を貫通した如く、吾呼吸器支配 神経系の異変を招来し、続行不能に陥り、反射的に覚(さと)った。 涅槃化エネルギーが小生に機能した「覚天」の刹那であったのだ。 是こそ正に、涅槃為る宇宙からの恩恵以外の何者でもないのである。 意識を離れた生とは、「意識しない生」とは、其れは死を意味するので ある。 分別も無ければ、表現し得ない。 意識無き生命は涅槃為る生命の根源、涅槃化エネルギーに生かされ ているのである。 生きた儘で、宇宙回帰し得たのは、小生『最後身心』独りである。 十六世紀、中国、明、『西遊記』の孫悟空が石から生まれたと云うのは 理に適(かな)っている。 若し、星から人類が生まれたのでなければ、人類が此の世に存在した 筈が無いのである。 科学的に、物質から細胞誕生への証明は未だ為されていないが、 科学的証明を待つ迄も無く、事実上間違い無いのである。 科学は事実を大前提とする。 悟空が石から生まれたと云う事実に基づく直観の裏付け足るものは、 何か? 我々人類が、宇宙の涅槃化エネルギーに由来する、「宇宙(生命)の本 質」(涅槃)からの促しに菩提心生じ、心進化の諸階梯を経て、「覚天( 涅槃入り)」して、涅槃回帰したからである。 我々人類の身心は宇宙由来であり、宇宙回帰するのである。 是は、空前絶後に、唯一『最後身心』が至り得た、科学的証明を待つ迄 もない真理(実)であり、正に我々の去来は直観以前の、正に宇宙由来 ・回帰の真理(実)其のものである。 故に、元来、宇宙の涅槃化エネルギーが我々なのであると云う事も事 実である。 斯(か)るが故に、我々人類が回帰し得たのである。 人の世への直観から、 若き日々の、長年の試行錯誤を経て、其れは自(おの)ずから、正法 苦行を生ま使め、其れは「解脱」を招来し、やがては、「人を生(活)かす 」に回帰、開花したし、且つ 帰一、開花するのである。 《 極佛行(=後行)と人類諸能力 》 生存困難な地獄 ⇒量か、質かの二元相対世界⇒真理の涅槃世界 (諸能力世界)=×⇒(涅槃妙心世界) ※ ×の真意は、涅槃為る真理に至るとは、 『最後身心』の真実(理)からの教導に基づいて、 「人を生(活)かす」の意である。 斯(か)るが故に、「剣の達人は剣を捨てる」。 此の究極が、「生きながら死ぬ」事であり、究極の坐禅行である、 正法苦行(初行)なのである。 癡愚者とは、貪と瞋と癡が混然として、三毒為る毒害苦で、真無き者の 事である。 極佛行(=後行)的側面は、人類の諸能力にも同様に在るのである。 然(しか)るに、極佛行と異なる処は、 前者は人情を捨てた菩提心に基づき、 後者は往き処の無いもの(好き嫌い、情)に基づく処である。 前者は涅槃為る宇宙の真理に回帰するが、 後者は諦観(ていかん)迄である。 其れ以上は酔えない。 釈尊中道為る諦観は、釈尊をして成道に至ら使め、更に宇宙真理に回 帰し、永遠に不滅為る恒常普遍の生命、涅槃妙心として宇宙を究盡(ぐ うじん)し尽くし、唯、「人を生(活)かす」涅槃妙心に帰一、回帰するので ある。 後者に其れは無い。 人情を捨てて、「世界人類を忘れない」、「世界人類を捨てない」 大乗禅の心、三善根(施・慈・慧)で至った「解脱」、そして究極的に 「覚天」して至り得た涅槃妙心智慧、「人を生(活)かす」 である。 菩提心を尊重するならば、必然的に、心的淫快は明確に止めるべきで ある。 人間は「花より団子」である。 花とは三善根(施・慈・慧)であり、団子とは三毒(貪・瞋・癡)、そして、 斯(か)るが故に嘘である。 其れ故に、保身と忖度と温存と安泰なのである。 菩提心、発(おこ)り難し。 好き、嫌いを超えた(捨てた)世界、而(しか)も酔い(情)でない、永遠に 不滅為る恒常普遍為る真理とは? 是は、分別によりても、最も優れたる分別であれば、其れは「人を生( 活)かす」 涅槃妙心に帰一するのである。 菩提心と云うものは、宇宙を貫徹して余りある。 正に、宇宙を構成する涅槃化エネルギーの当体である。 ※ 此処(ここ)で、『真遺教』を製本致します。 以降、『続真遺教』として、継続致します。 続真遺教 田 中 鐵 漢 090-8402-1303 aef172047@lib.bbiq.jp 4753kqry@jcom.zaq.ne.jp http://buddhatekkan.com/ 《 続 真 遺 教 》 敢えて、『真遺教』の製本に取り掛かろうと判断したのは、適宜に其処 (そこ)で節目を設定した方が有効であると判断したからに過ぎない。 規則性についても、「覚天」後の二年間で、略(ほぼ)心積もりの切り替 えが出来て、以降は規則性に則(のっと)って終えるつもりで、寧ろ効果 的であると判断した。 日・祝と急務以外は托鉢が欠かせない為に、 然(そ)うすれば、緩急無く、一定のペースで遣れるからであります。 《 貪から施へ 》 「欲しい、欲しい」の三毒(貪 ・瞋・癡)の貪 から、「人を生(活)かす」三 善根(施 ・慈・慧)の施 への心進化が教育、教導の基軸と為らねばな らない。 二元相対の量と質の世界から、「宇宙(生命)の本質」の世界へ、世界 人類を導入しなければ為らないのである。 其の人が「欲しい、欲しいの人」か、それとも「人を生(活)かす人」、「自 己を施す人」かである。 人の世と云うものは、基本的に「欲しい、欲しい」の世界である。 是が、「世界人類を生(活)かす」世界と為らねば為らない。 誰しも、自分(等)で往った方が楽であり、余分な労苦を負わずに済む のである。 しかし、永遠に、其れで宜しいのか? 否、其れで済む課題ではないのである。 今や、世界は何時(いつ)、何処(どこ)に居ても常に一体であり、同時 進行している。 一地球家族の様なものである。 将来、益々(ますます)、然(そ)うであり、其れは不可避である。 故に、特に我々先進諸国家群が此の課題に対しては、自(おの)ずから 真剣に取り組まざるを得ないのである。 此の施 と云う「人を生(活)かす」能動積極性無くして、世界平和は永 遠に成立し得ない。 《 教 示 》 身は心に進化した。 『最後身』釈尊は、二千五百年を隔てて、心進化し、遂に正鵠を射て、 極東、日本に於いて、小生鐵漢が、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」由 来、「人を生(活)かす」涅槃妙心に回帰し、『最後身心』と為ったのであ る。 小生が至り得た真理に及び得る者は、人類史上一人も居ない。 唯一個の精子が卵細胞に侵入して人間を生む様に、一人間が宇宙に 回帰(=涅槃入り)して、涅槃妙心顕現し、真理現成(げんじょう)したの である。 是は、釈尊中道 と共に、鐵漢真理 として、世界人類が世界平和の礎 (いしずえ)と為さねば為らない。 取り分け、日本の指導者が、世界平和の為の、絶対不可欠為る真理と して、世界人類の平和の構築を完遂しなければ為らないのである。 此の真理だけは、世界人類が肝に銘じ、魂に銘じなければ為らない。 唯一、大乗禅の托鉢自活、ネット教導、生涯後厳密千日涅槃行(三時 間坐睡二十四時間仏作仏行)に於いて初めて至り得たのである。 托鉢自活、ネット教導、生涯厳密後行無くんば及び得ないのである。 不昧因果にして、唯一日本に於いてのみ可能と為る処のものである。 犀の角の如く、唯独り歩める者のみが及び得るのである。 斯(か)るが故に、偶然裡の必然事、奇跡裡の奇跡事なのである。 此処(ここ)に於いて初めて、宇宙の涅槃化エネルギーが霹靂(へきれ き;落雷)の如く、小生の体芯を貫通し得たのである。 此の涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の真理(実)を、今、世界人類に教 示するのである。 人類史上、一人も此処(ここ)に及び得た者が居ない。 故に、是迄、宇宙に真理が不明であったのだ。 涅槃為る真理無き宇宙で、三毒(貪・瞋・癡)為る人類が如何(いか)に してか、世界平和を構築し得ん哉(や)。 世界平和の、歴然足る根拠が無い。 此の真理に基づいて初めて、世界平和構築の礎(いしずえ)足る信頼 団結 が可能と為るのである。 若し、然(そ)うでなければ、世界の指導者達は癡愚以外の何者でもな いのである。 一体何時(いつ)迄、真理(実)に向き合わないで居れるのか? 小生も、真理を体現する迄は、真理に至り得ていなかったのである。 小生自(みずか)らが、何処(どこ)迄も、正法苦行為る極佛行を生きて いる 以上の事は在り得なかったのである。 人間、出来て、其処(そこ)迄である。 此の状態を維持する事である。 維持以上の、能動積極性が出ないのである。 其の出所の持ち合わせを持たない。 有って闘争、覇権争奪である。 故に自爆テロが横行する。 世界の現状は、黙認し得ない地獄が散在して居るが、 日本の現状は、一応、平和である。 然(しか)るに、其の中で、刹那に奇跡生じて、真理を吾身心に体現して 以来、真理が人類に顕現したのである。 真理は人類の評価を超えて、受容しなければ為らないものである。 自(おの)ずから、小生が布石を打って置かねば為らない。 世界人類の将来の為に。 世界に、普遍的に、真理が根付く土壌が不可欠である。 人類が真理に至り得た以上、本来ならば、自(おの)ずから、此の真理 に基づいた憲法に改正されるべき必然性があるのである。 世界人類の根本的姿勢の問題である。 「欲しい、欲しい」でなく、「人の為に自己を施す」姿勢である。 此の姿勢が有れば、「人を見捨てて」、「欲しい、欲しい」に走る事も無 いであろう。 此の率先垂範である。 人は歩く時は、重心の動きは常に前方へ移動する。 是に随伴して、片足が一歩前に出る。 是等は無意識に為されているのである。 前進する為に、意識的に然(そ)うしているのではない。 涅槃化エネルギーの自(おの)ずから為る働きなのである。 是こそ、元来の涅槃化 以外の何物でもないのである。 真理の発現は、世界人類に波及、浸透しなければ為らない。 《 真理の受容 》 此の世に宇宙が在って、人類が居て、真理と云うものが在る。 万物の霊長足る吾等人類が最も尊重すべきものが、此の真理に他なら ない。 人類は思うのである。 「朝に道を聞かば 夕べに死すとも可也」と。 真理無くして、真の自覚成らず。 是迄、世界人類が、どれ程、此の真理(実)を思い、希求したであろう。 小生も正に、其れが為の生涯であったのだ。 人間と云う存在は、動物と異なる。 真理(実)を希求する唯一の存在である。 涅槃為る本質が、人類をして然(そ)うさせ、促すのである。 斯(か)るが故に、世界平和有り。 然(そ)う願うのである。 政治、学問、宗教、芸術、スポーツ等々、全ては、真理が然(そ)う為ら 使めるのである。 最善、つまり世界人類が幸福、平和為らんと。 其れは三善根(施・慈・慧)であり、涅槃妙心であり、其の智慧であり、 真理其のものに他ならない。 世界を地獄に陥(おとしい)れる人類三毒(貪・瞋・癡)害を回避するには 其の三毒害を凌駕するだけの、菩提心に基づく三善根(施・慈・慧)が不 可欠なのである。 是は、神の意思(啓示)に服従し、来世で其の報酬を受ける事を正義、 善と為すイスラム教の、主体性無き、神の預言者に依存した、聖戦を 認める善悪の判断ではない。 イスラム教では、神アッラーの預言者(神意を伝える者)ムハンマドであ り、キリスト教では、神キリストの救世主イエスである。 日本が米国の原爆投下による敗戦国家と為って、日本国民が其処(そ こ)から、人類の生理(本能)的欲求を其の原動力として、日本の経済的 復興を遂げ、更に高度文明国家としての地位を築き上げたのである。 然(しか)るに、中国に対する米国の原爆支配体制の基地として、 日本の世界に対する立場は、未だに米国の核の傘の呪縛から脱却し 得ていないのである。 此の点は中国からすれば、甚だ呪わしき事態である。 常に自国の外縁直近に、敵対配備が完結して居るのであるから。 日本は、而(しか)も、世界では核兵器禁止条約が既に締結されており ながら、世界に唯一の被爆国家日本が、世界の其の状況の中で、旧態 依然、此の事態を温存しているのである。 日本の対中政策は、経済的には良好であっても、本質的には中国には 、其の立ち位置が見出せない。 つまり真の自律国家足り得ていないのである。 「剣の達人は剣を捨てる」 是が究極的に、真に自律した人間である。 諸悪莫作でなく、更に能動積極的に修善奉行、 「世界人類を生(活)かす」のである。 今、日本が如何(どう)すれば、世界人類を生(活)かす事が出来るのか ? 真理の霊峰、日本である。 日本主導で、米中露をして、核兵器禁止条約締結に導入せ使めねば為 らないのである。 其処(そこ)に、世界が認める、日本の真価を確立する事が出来るので ある。 人間は坐禅によりて、生命の功徳を知り、やがて刹那に悟り(身心脱落 し)、日常性から覚醒する。 つまり、日常の自己と云う者は酔っているのだな、と気が付くのである。 坐禅をすると云う事は、生命が覚(さ)め往く事なのだと知る。 身心脱落(=悟り)は人智では不可解為る体現である。 坐禅を行ずる事によりて、自己と云う存在が根底から崩壊して、本来の 自己為らぬ、後天的為る自己が刹那に霧散するのである。 宇宙の学問的解釈以前に、「宇宙(生命)の本質」を体現する事によりて 、歴然(れきねん)として、真理に至り得るのである。 学問的把握は、其の人の大脳新皮質の中に存在する、何処(どこ)迄も 果て無き手段に過ぎない。 然(しか)るに、本質の体現は、究極的に宇宙に回帰するのである、 大脳新皮質の産物と、宇宙に回帰する事と、何(いず)れが、我々人類 が択(と)らねば為らない正道であるかは自明である。 《 一度死に切ると云う事 》 人間が心進化するに、不可欠為る事が在る。 其れは、生きている間に一度、死に切る事である。 本物に死に切った人間ならば、其の人は自己に死に切って、より深い 所で、既に真の生命が息吹(いぶ)いて居るのである。 此の真の生命が、他でもない、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」である。 故に必ず、菩提心によりて生まれ変わり、より「宇宙(生命)の本質」に 根付いた真生命に生まれ変わるのである。 「生きながら 死人(しびと)となりて なりはてて 思いのままに するわざぞよき」 是は江戸前期、臨済宗の禅僧、至道無難の歌である。 小生は、吾師に相見(しょうけん)して間も無く、一度死に切った。 其れ迄の自己の全て、将来を託(たく)せたのである。 師は、自(みずか)らと同じ捨て子であった、其の師、原田祖岳老師に 心酔して死に切った。 其処(そこ)から、やがて、自(みずか)らの菩提心によりて、 敢えて発菩提(ほつぼだい)され、在家で原田老師の廃寺を再興され、 教化指導されたのである。 小生は、其の師に心酔したのである。 敢えて困難な道を択(と)る自己から生まれるものこそ、真実を穿(うが) つものである。 三毒(貪・瞋・癡)に三善根(施・慈・慧)が解かる訳が無いのである。 動物に人間が分からないのと同様である。 心進化の一方通行である。 三善根(施・慈・慧)為るが故に、三毒(貪・瞋・癡)の事情が判る。 宇宙の涅槃化エネルギーは涅槃妙心力であり、三善根(施・慈・慧)とし て機能するのであるが、是が、世の常、三毒(貪・瞋・癡)に転ずるのは 、二元相対為る分別 に起因するのである。 《 涅槃妙心 》 < 十 界 > 地獄(瞋) 餓鬼(貪) 畜生(癡) 修羅(争) 人間 天上 声聞 縁覚 仏(菩薩) 三悪(=三途)道(趣) 三 善 趣 小 乗 身心脱落 六 道 (趣) 仏 道 個の成熟は全の成熟である。 何と為れば、『最後身心』の涅槃妙心は宇宙の真理為るが故に。 地上の一点が、宇宙を照破する。 一身心を打して、世界を触破した。 釈尊は成道後、苦行者達にサンガを生み、世界に修行を興起し、神信 仰に自律の修道を生んだ。 修道院 は、特に中世以来の修道院では自給自足で、農業から印刷、 医療、薬品、ワインビール等、そして原野・森林開拓、農業革命、メンデ ルの法則(遺伝子)、病院のルーツ、社会福祉、中世の産業革命、同業 組合(手工業ギルド)への精神の引継ぎ等の中世の文明に、そして ルネッサンス、(→建築学、天文学→羅針盤→)大航海時代と宗教改革 、産業革命と、釈尊、大迦葉に極まった修行、頭陀行、苦行等の人類史 上最も根源、高度な精神の営みが世界に及ぼした根本的な影響力と云 うものは、常に人類三毒(貪・瞋・癡)の洗礼裡に在りながらも、 二千五百年後には、果たして不昧因果にして、日本に於いて、人事を 完遂したのである。 宇宙の真理は人類によって冒瀆(ぼうとく)される事は在り得ないのであ る。 人類其の者が、自爆テロの如くに自滅する以外無い。 真理無くして、一体何を以ってか、此の二元相対世界を世界平和に至 ら使め得る哉。 《 常任理事諸国家 》 常任理事諸国家全会一致制の意味する処は、 核武装支配によりて、世界を制圧する在り様以外には在り得ないと判 断したからに他ならない。 国連組織の本質は、常任理事諸国家が自国を繁栄なら使める為の、 他諸国家制圧を堅持する為の存在であると云う事である。 此の在り様は根本的に、世界平和実現には違背するものであり、 国連が国際軍(警察)としての機能を果たし得る為には、 常任理事諸国家全会一致制を根本から建て直さなければ為らない。 《 女性蔑視 》 イスラム世界の女性蔑視の人種差別は、米国の黒人差別以上に根深 い。 人種差別は決して在っては為らないのである。 人類が心進化しなければ、世界平和は不可能である。 此の困難にこそ、我々人類が立ち向わなければ為らないのである。 人類平等と言うのは、何が平等なのか? 男と女、人種、優劣、強弱等々がでなく、生命が平等 なのである。 ※ 『真遺教』の製本は後日に致しました。 《 心的淫快 》 三毒(貪・瞋・癡)には、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の真理も無い。 涅槃妙心には、三毒(貪・瞋・癡)は無いが、有機的構成系為るが故の 心的淫快は消滅しない。 菩提心ならば、必ず避(さ)け、止(や)めるのである。 能動積極的に止めるのでなければ為らない。 然(しか)るに、心的淫快は止めるが、不可思議為る有機的構成系為る 所以(ゆえん)で、消滅はしない。 是は、雑草が無くならないのと同様である。 道元禅師は『正法眼蔵(現成公案)』で、 「仏道もとより… …といえども…草は棄嫌(きけん)に生(お)ふるの みなり」(……草は唯、徒(いたずら)に生い茂るだけである)と。 小生も『最後身心』に至り得て初めて、心的淫快を介して有機的構成系 と称せざるを得ない処のものを体験したのである。 「覚天」以前には経験した事はなかった。 人間の生理(本能)的欲求の睡眠欲、食欲、性欲が究極的には、夫々 眠気、空腹、心的淫快として残る。 前二者は生き残る為、性欲は種の存続に関するものであり、 是は風鈴が微(そよ)風にそよぐ様なものである。 涅槃為る欲界裡、涅槃妙心の心象風景である。 イスラムの宗教性は解(わか)るが、 男女同権を大前提とした上で、人間の心進化を努めなければ為らない 。 真理(実)は困難な道である。 然(しか)るに、此の弁(わきま)えさえ出来れば、涅槃為る世界平和 への基盤が確立する。 《 「人を生(活)かす」 》 『最後身心』にも未だ好奇心や関心事みたいなものが出たりする。 然(しか)し、肝心な事は矢張り、「人を生(活)かす」である。 是を基調と為す事である。 後は規則性である。 自(おの)ずから生じた効果と、そして規則性。 此の規則性が正解なのであって、此の落ち着きが正に本物である。 偶発的効果を、更に追うべきではないのである。 効果から復帰する規則性(落ち着き、ゆとり)こそ、真実なのである。 正道為る、中道である。 「其れで宜しいのだよ」と。 最後は自己印可。 「自灯明」は「自己印可」に帰結する。 「真の安らぎ」である。 身は心に進化し、真の涅槃に帰着する。 「生(活)かす」にも求むる処無く、 最後の不動の規則性と成る。 例えば、桜の開花日の様なものである。 「災難にあう時節には、災難にあうがよく候。 死ぬる時節には、死ぬがよく候。 是はこれ、災難をのがるる妙法にて候。」 (良寛) 《 犯罪の誘因は世界に在る 》 世の中に諸々の犯罪が横行するするのは、其の犯罪者だけの責任で はない。 其の犯罪者を生んでしまった環境、つまり其の家庭、社会、国家、及び 世界の責任でもあるのだ。 「宇宙(生命)の本質」は涅槃為る涅槃妙心であるからである。 世界人類は後天的に、環境の、諸悪の根源為る三毒(貪・瞋・癡)の害 悪に染汚(ぜんな)されて、嘗て五千年程前の古代インド、インダス文明 の集落での農耕生活で瞑想に親しんだ純朴な人々の生活が社会構造 化して往くと共に、人心に二元相対に由来する貪著が三毒(貪・瞋・癡 )と為って諸悪が生じ、更に其処(そこ)から善悪の判断が生まれた。 一方、其れ等の二元相対意識以前に、「宇宙(生命)の本質」(涅槃) からの促し から、古代であれば瞑想、現代であれば「坐禅入り」 すれ ば、小生であれば、十代後半からの十年間の試行錯誤をせずに済んだ のである。 坐禅 すれば、人心が三毒の邪悪に侵(おか)される事も無いのである 。 尤(もっと)も、是も、小生『最後身心』が涅槃為る「宇宙(生命)の本質」 に回帰して、真理 に至り得ていなければである。 然(しか)るに真理 、「人を生(活)かす」涅槃妙心 に至り得た今、 善悪も真理も無き欲求(性愛の淫欲等)への貪著から脱却しようとしな い者達、三善根(施・慈・慧)への志向性を持たない者達が世界を悪に 陥(おとしい)れるのである。 彼等が其処(=貪著への習癖)から脱却するには、其れ等の殻に閉篭( とじこも)るか、若し然(そ)うでなければ、其の習癖を凌駕(りょうが)す る真理 、「人を生(活)かす」涅槃妙心(智慧) を発(おこ)す以外には 在り得ないのである。 世界のリーダー達が其の状態であって、如何(どう)して、世界人類に 諸悪を犯さないだけの心が維持出来ようか? 状況によって、容易に犯罪が生起(せいき)してしまうのである。 要するに、後天的に、其れ等の犯罪者を生んでしまった環境の責任で ある。 彼らの諸悪を、決して許さないだけの歴然足る根拠が欠落して、言葉の 遣(や)り取りに過ぎなく為ってしまっているのである。 彼等は大いに恥じるべきである。 慚愧(ざんぎ)(自己の行いを恥じ入る)すべし。 涅槃為る宇宙(生命)の真理を説く事の出来る者が如何(いか)に不可 欠であるかは明白である。 衆生本来仏なり 水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし 衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ 例えば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり 長者の家の子となりて 貧裡に迷うに異ならず 其れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり 其品多き諸善行 皆この中に帰するなり 一座の功をなす人も 積みし無量の罪ほろぶ いはんや自ら回向して 直に自性を証すれば 因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し 当所即ち蓮華国 此身即ち仏なり 〔白隠禅師(江戸中期、臨済宗中興の祖)の『坐禅和讃(略)』〕 「人を生(活)かす」涅槃妙心(智慧) 為る宇宙(生命)の真理 を生きて、更に、余裕のある方は坐禅に親しまれん事を。 《 涅槃妙心智慧 》 真理と教導と托鉢は、何(いず)れも不可欠である。 世界平和の為に、托鉢自活によりて、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の 真理をネットで世界に公開して、世界人類を教導するのである。 此処(ここ)に、微細にして厳密なる緊張感が生まれるのである。 生まれるべき涅槃妙心智慧を生むには、生涯に亘る、二十四時間の 此の、最大限の真理の教導を生むべき正念相続 である。 不可欠為るものが、是等三者から生まれる緊張感である。 二十四時間の是等の緊張感から、刹那、刹那の機に智慧が生まれる。 「学道の者は貧為るべし」とは、此の二十四時間の緊張感 を生むに ある。 二十四時間の緊張感無くして 、智慧生まれず。 《 規則主体化 》 小生、製本着手を契機として、是迄の教導主体方針の自己を捨て、 半(なか)ば、規則主体化の自己に切り替えた。 機械化主導でのスタートである。 更に、製本は一応、最終的に済ます事とした。 時間的規則主導の理由は、唯、単純にだらしないだけ。 自己に対する慚愧(ざんぎ)(自己の行いを恥じ入る)の念だけだ。 何時(いつ)も、十二時頃寝るから、今後、計画通り十一時には、必ず寝 るようにした。 規則性を、真理を打ち出す立脚点と為した。 《 身の死 と 心の死 》 身の死に至る事と、心の死に至る事とは、何(いず)れが耐えられない か? 心の死である。 人間の肉体は、実に儚(はかな)き、無常為る命であるが、 心は、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の真理足る、永遠不滅、恒常普遍 の涅槃妙心 為るが故に。 死んだ心を支える身程、耐え切れない地獄は無い。 死んだ心の表面には、食える女の淫欲と云うものがある。 只管(ひたすら)、淫楽による酔いである。 食える女の淫欲とは、人類の諸欲への貪著の総称である。 身の死は医学の領域であるが、死んだ心の表層を覆う心の酔いと云う ものは、涅槃為るが故の、涅槃と地獄との化学反応によって生じた、 可逆的境界層である。 唯、其処(そこ)からの涅槃化エネルギーに欠けるのである。 嘗て、小生が吾師に全てを預(あず)けた様に、其処(そこ)に一塵も無 いのである。 其れは、やがて極佛行と為り、涅槃為る宇宙(生命)の真理に至るので ある。 初行では駄目で、未だ解脱域を残す。 後行で「涅槃入り」しない限り、其処(そこ)には至り得ないのである。 身が何故に、心に進化したかと言えば、儚(はかな)くも、無常為る身が 永遠真理に資する為、つまり真の身足る為 である。 真の身としての真価、是は他でもない、「宇宙(生命)の本質」の涅槃為 る真理への“橋渡し”足る為である。 心に至り得て、心が涅槃為る宇宙に回帰せんが為である。 身が身に留まれば、動物と変わりない。 身は人類に、人類も人間に留まれば、地獄を免れ得ない。 人類の三毒(貪・瞋・癡)は、其の限りを尽くしたのである。 其の極悪を凌駕する修善、神は実在しないし、他の如何(いか)為る手 段を講じても、世の中は治まらない。 旧態依然、二元相対世界の対立が深まるばかりである。 是は遣り方が間違っているからで、人類の諸能力では及び得ないので ある。 正道為る正法苦行以外では不可能事である事は既に証明済みである。 つまり生涯厳密後千日涅槃行によりてのみ、宇宙の真理に雷打されて 、奇跡事に喫驚(きっきょう;びっくりする事)する以外には在り得ないの である。 悪は国家間の戦争に留まらず、 世界を二分する世界大戦に迄極まり、遂に原爆支配体制の確立に帰着 したのである。 米中露が涅槃為る宇宙の調和と均衡と静謐を現成(げんじょう)し得ず、 如何(どう)しても、力関係の対立から脱却し得ない。 一方善は、東洋の修行、成道に留まらず、遂に永遠に恒常普遍の、涅 槃為る宇宙の真理に回帰したのである。 世界を一(いつ)にする最善策が、米中露核兵器禁止条約締結である事 は言う迄も無い。 是以上の、諸悪を封じ込める先駆けと為る、能動積極性は他に無いの である。 《 人類史上初の世界の信頼団結 》 人類史上初めて、世界の諸国家が宇宙の真理(『最後身心』)に基づ く、米中を始めとする、中東、アフガニスタン、露、北朝、ミャンマー、印、 欧州等々が、自国のみならず、世界の平和への契機として、其の菩提 心 により、涅槃妙心(智慧)の信頼団結に基づいて、 小生『最後身心』が最後に説くべき、此の三毒(貪・瞋・癡)による二元 相対世界から全一為る絶対世界への涅槃化の関門である、 米国に対しては、核兵器禁止条約批准 (=日本の健全化 )と、 中国に対しては、台湾の健全化 とを完結し、 世界の涅槃化に進化を遂げ、世界平和への堅実なる歩みを進めねば ならないのである。 是が、初めての、世界の信頼団結に基づいた成果と為さねばならない。 《 三回目のワクチン接種 》 先日、三回目の新型コロナウィルス感染症のワクチン接種に関するTV ニュースが報道されていた。 世界には、アフリカ等の未開、途上国のワクチン供給が遅れている地域 が多い中、限られたワクチンの配布について、COVAXのメンバーであ るユニセフ、CEPI、GAUI、WHOはCOVAXに於けるワクチンの第一 次配分リストを発表した。 142ヶ国のCOVAX参加国に供給予定であるそうだ。 「ビル&メリンダ・ゲイツ財団」は、ワクチンを富裕国が優先的に確保す ると、各国の人口に応じて均等に配布した場合に比べ、、死者数が数十 万人単位で多くなる可能性があるとする報告書を発表した。 是は、教育へのアクセス向上や飢餓撲滅、ジェンダー平等等を実現する 為に国連が掲げる持続可能な開発目標(SDGs)についてのもので、順 調に進んでいるとの評価である。 公平なワクチン配布は二倍近くの人の命を救う。 ビル・ゲイツ氏は「先ず最終目標を設定し、世界の為に前例の無い方法 で協力する様に、皆に呼び掛けるべきです。」と語った。 特にアフリカの様に、ワクチンが行き届かない国が残されている場合、 「変異株が発生する」可能性が存在し続け、より感染力が強かったり、 致死性が高い「攻撃的な新型コロナウィルス変異株」が生み出されてし まう懸念がある。 ワクチンの配布についての、其の平等性は、人命の平等性に他ならな い。 是は、世界人類が、涅槃為る世界平和に至る為の基本的精神であり、 教育の基本でなければ為らない。。 今、世界平和への其の可能性を放棄するべきではない。 此の労苦を世界人類が平等に負うべきであり、此の労苦に、自(おの) ずから惹起される緊張感が、寧ろ感染予防には最も望ましく、効果的で もある事を知らねばならない。 是こそ、正に、思い合って、共に生(活)きる為の智慧であり、世界人類 に及ぼす、此の基本的な心構えに共感して、世界人類が生(活)かし合 わなければ為らない。 人間の教育とは、誤魔化す事無く、本気で取り組むのでなければ、 為し得るものではない。 《 不可思議の有機的構成系 》 小生、規則性の維持に人意が効(き)かない事が二度あった。 能(よ)く能(よ)く、思案してしまった。 其の訳を。 そして、遂に往き着いたのである、其の訳に。 最も単純な、其の訳である。 つまり、「動けば宜しい」。 あッ、然(そ)うかと、スーッとしたのである。 世の中には、其処(そこ)迄、窮し切る事があるのだと。 其処(そこ)迄、二日間掛かったと云う訳である。 痴呆(ちほう)の如くに窮し切り、そして当たり前の事が分かった。 恐らく是も、有機的構成系の所産か。 此の人間由来の、不可思議為る有機的構成系を教導するのは、 宇宙由来の真理在るのみである。 若し、真理に至り得ねば、此の因果の道理の根拠足る、不可思議為 る有機的構成系 を受容し認める事は在り得なかったのである。 『真遺教』直前の『鐵漢』の末部以降の有機的構成系である。 学者は思索上の不可思議の求知、探究であるけれども、 小生は宇宙(生命)の本質に回帰した後の、体験上の不可思議を受容 せざるを得ない、厳密に言えば、其れを眠気や空腹感の様に其の儘(ま ま)、受容し認めるのである。 然(しか)るに、人間は其れに死んでしまう。 正確に言えば、自己の三毒(貪・瞋・癡)其のものに死んでしまうのであ る。 三毒(貪・瞋・癡)から三善根(施・慈・慧)に心進化出来ずに死んでしま うのが大半ではないか。 其の「証(あか)し」が、今や米中の覇権である。 覇権為らざる、望ましき若者が育つ筈も無い。 人間の価値が解からない儘、死んでしまうのである。 信心にも至り得ない儘、諸々の禽獣(きんじゅう)の如くに。 其れが人の世と言わざるを得ない。 《 有機的構成系と因果の道理 》 我々人類は、元来、個としての存在でなく、涅槃為る宇宙に在る地球と 云う惑星に生きる人類を頂点とする、生命の有機的構成系 の一人とし て、此の世に誕生したのである。 有機的構成系 は、全(すべ)ての生態系の頂点の、他者との合体に始 まっているのであり、此の個は明らかに宇宙を母体とする究極の個なの である。 従って、此の個と社会との関係も自(おの)ずから、抑(そもそも)乖離す べからざるものである。 此の絆を断つと云う事は、自己自体を其の有機的構成系 から離断し てしまうと云う事であり、生態系の有機的構成系 の一自己としての生 命を断つ事を意味し、其れは「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の調和と均衡 と静謐為る真理に違(たが)える事と為り、此の悪業報を受ける事は必 至である。 此の真実が因果の道理 である。 そして、涅槃為る宇宙の一点、表層の究竟生命の我々人類は有機的 構成系 の、後天的に三毒(貪・瞋・癡)為る存在である。 此の有機的構成系 が人類菩提心発現の起爆剤 であり、 菩提心 と有機的構成系 とは常に表裏一体である。 有機的構成系 の本質は涅槃為る宇宙由来であるが、其の身心は地 球表層の生命の進化の関係上、身から心への進化の段階で、動物的 弱肉強食のプロセスを経て、其の動物的本性から人心へと進化し、「宇 宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しによりて初めて身心脱落し(=悟り) 、此処(ここ)に於いて初めて、有機的構成系 の人類の迷夢から覚(さ) めたのである。 坐禅によりて、水晶の如き生命感は、更に澄み往き、「正法苦行入り」し 、やがて「解脱」、更に究極の後行によりて、遂に其の有機的構成系 から最終的に脱却する奇跡に遭遇し得て、「涅槃入り」し得たのである。 涅槃為る宇宙への回帰である。 其処(そこ)から、其の『極佛』を刹那に撥無(はつむ;払い除ける)し、『 最後身心』と為った。 医学生時代の「坐禅入り」時、吾師に相見して四十余年を経て、究竟、 心は涅槃為る宇宙の涅槃化エネルギーに拠(よ)りて宇宙に回帰し、此 の段階に至り得て、小生が坐禅の道を歩む以前の、三毒(貪・瞋・癡)為 る有機的構成系 の一人間として復帰後、二年程経て初めて、自己の 出所為る、此の不可思議為る有機的構成系 と云うものについて、 小生『最後身心』が言及する事と為ったのである。 真理為る宇宙への回帰無くんば、有機的構成系 を俯瞰する事は不可 能である。 宇宙と云う立脚点が在りて初めて、人類の有機的構成系 為るものに ついて語り得るのである。 更に此の立場に基づいて、一切の人事は対処されなければ為らない。 小生が世界人類を世界平和へ教導し続けて、変わらないのは、 宇宙の涅槃化エネルギーが枯渇しないのと同じで、 尽きる事が無いからである。福壽海無量 (ふくじゅかいむりょう) 涅槃への収束振動の永久機関である。 [涅槃為る宇宙の真理の言葉] 《 正法苦行の不臥坐睡呼吸 》 正法苦行の不臥坐睡呼吸は正法苦行(初行、後行)に付随するもので、 意識下の機能ではない。 意識下の行業による、身の、無上の生命現象として成って居る処のもの である。 不可逆の身心相関の具現である。 《 三毒界と三善根界 》 世の中の貪著、「唯、欲しい、欲しい」と、我欲を満たそうと追い求める 事は、人心を何処(どこ)迄も蝕(むしば)むものである。 三毒(貪・瞋・癡)に三善根(施・慈・慧)は無いし、解(わか)らないのであ る。闇のブラックボックスである。 涅槃為る宇宙(生命)現象が我々人類に教示する事は、涅槃とは強弱 や大小と云った相対的な事ではなく、心に基づく本質的なものであると 云う事である。 つまり閉塞する三毒(貪・瞋・癡)の相対世界を凌駕するものは、三善根 (施・慈・慧)の絶対世界であると云う事。 三毒で三毒は、何処(どこ)迄行っても制し得ないと云う事である。 矢張り宇宙に迄出なければ、つまり永遠不滅の恒常普遍為る涅槃由来 の三善根(施・慈・慧)無くしては及び得ないのである。 施・慈・慧、矢張り、慧、つまり涅槃妙心智慧に尽きるのである。 施・慈は坐禅の功徳でも及び得るが、涅槃妙心智慧は「覚天(涅槃入り )」しなければ及び得ない。 規則性である。極佛の厳密ではない。 涅槃の不可侵為る規則性である。 自然破壊以前の草木の開花日の様なものだ。 意志は無いが、涅槃化エネルギーの機能によるものである。 鑑賞するのではない。 自(みずか)らが、花と為り、星と為るのである。 智慧を生み出すには、日常の善悪、特に悪、毒害総てが其の契機と為 る。 換言すれば、毒、悪無くんば、智慧生まれずである。 三毒界の関心の対象は、我欲を満たす事であり、三善根の其れ は世界平和の手段。 刹那の生の方向性が真逆である。 一方は地獄へ、他方は涅槃へ。 《 規 則 性 》 小生が言った規則性と云うものは、正に涅槃為る宇宙の真理から生ま れた、世界平和を構築、完遂する、小生鐵漢『最後身心』由来の規則性 である。 是に違(たが)えると云う事は、 正に真理為る宇宙の調和と均衡と静謐を撹乱する事である。 従って、世界平和への世界人類教導の為に打ち出される事と為った 規則性は、自(おの)ずから宇宙の調和と均衡と静謐其のものであり、 是を乱す事は、世界平和の完遂に違(たが)える事である。 極力、是に違(たが)うべきでない。 小生から生まれた涅槃妙心智慧は可能な限り、遵守するのが真理に違 わない事である。 是に違(たが)うと云う事は、「自にも他にも」違(たが)うと云う事である。 真理と云うものは、其処(そこ)に自(おの)ずから世界人類平等を顕現 するものである。 女性差別、ミャンマー軍事政権、中東問題、チベット問題、新疆ウィグル 問題、強権支配体制、黒人差別等の如何(いか)為る人種差別も真理に 違(たが)えるものである。 男女一如、自他一如、貪施一如、表裏一如、前後一如の真理である。 此処(ここ)に於いて、小生「覚天」時の雷打による呼吸不全、小生をして 「涅槃入り」せ使めた本因は解消される事と為ったのである。 つまり、真理に徹し得たと云う事、絶対為る世界平和完遂の礎(いし ずえ)を築いた と云う事である。 世界に唯一の被爆国日本無くして、涅槃為る宇宙の真理手に入らず。 此処(ここ)に於いて、核兵器禁止条約締結すべし。 世界平和完遂為すべし。 《 有機的構成系 》 一精子が卵細胞からの誘引物質を感知する精子(化学的)走化性によ って卵細胞に侵入した瞬間に卵細胞表面が皮膜で覆(おお)われて、他 精子は侵入出来なくなり、一胎児が生まれるのである。 小生が「覚天」して、涅槃為る宇宙に「涅槃入り」して涅槃回帰して初め て、人類の、科学的には解明不可能な不可思議為る有機的構成系と云 う、世界人類の有機的構成系の皮膜の存在を知ら使められるのである 。 「覚天(涅槃入り)」の刹那に、小生が涅槃為る宇宙の涅槃化エネルギ ーの雷打の洗礼に打ちのめされて『最後身心』足り得て、 地球表面を覆う有機的構成系を認識したのである。 斯(か)るが故に、小生が至り得た真理、つまり「涅槃入り」した『最後身 心』のみが、此の有機的構成系をして、世界平和の涅槃世界を構築、完 遂せ使める事が出来るのである。 世の中は、強弱の二元相対世界ではない処の、真理為る本質に基づか ねばならないのである。 世の究竟駿馬(くきょうしゅんめ)は速(すみ)やかに坐禅を愛好し、速( すみ)やかに宇宙の真理に至るのである。 五百万年の 人類史を一蹴(いっしゅう)して、是迄の人類の遺産に基づ いて、其の極悪と極善から、七十年にして、世界を涅槃帰一せ使めるの である。 其の為には、オリンピックの雪達磨を始めない。雪達磨に為らない。 是はスポーツのみに係わらず、全ての世界に同様である。 人間と云う者は極力、雪達磨の芯を維持すべきである。 其の上での真の多様性でなければ為らない。 《 涅槃帰一 》 男女が合体するとは、現象的には受精に因って人間を生む事である。 本質的には、世界人類平等の基本為る男女一如、つまり男女平等を知 らねばならない。 そして、其れが涅槃為る宇宙の真理であると云う事を。 其の為には、「解脱」が不可欠なのである。 「解脱」して初めて、男女一如、及び世界人類平等為る宇宙の真理であ る涅槃世界へ回帰する為の準備が完了するのである。 涅槃世界は、最終的には世界人類の、涅槃への収束振動帰一によりて 齎(もたら)される。 是は、『最後身心』の涅槃妙心智慧によりて、自(おの)ずから、涅槃へ の収束振動帰一に至るのである。 《 受 容 》 他を受容すると云う事は、一般に至極困難な事である。 三毒(貪・瞋・癡)では受容出来ない。其の余裕が無いのである。 三善根(施・慈・慧)にして初めて、他を受容する部分(=余裕)が出来て 来る。 三善根(施・慈・慧)に至るには、世道、つまり六道(趣)では至り得ない のである。 仏道でなければ、極めて成り難し。 而(しか)も、全てが解(わ)かって居なければ、本当には受容し難いので ある。 他者の全てを、真に受容するには、真理(実)に至って居なければ、 要するに不可能なのである。 『因果の道理、歴然(れきねん;紛(まぎ)れも無くハッキリしている様)と して私無し。』である。 全てを把握し得て、初めて死刑制度も不可欠為るを知る。 人間と云う者は、「自己か、世界人類か?」と問われた時に、 小生『最後身心』からすれば、「世界人類だ!」と言える人間でなければ 、未だ往き着いては居ないのである。 「自分だ!」と言って、 世界人類を犠牲にして、生き残った自己とは? 《 「勝つ」と「生(活)かす」 》 「他者に勝つ」事ではない。 「世界人類を生(活)かす」事だ。 前者は世人であり、対立は往々にして地獄に至る。 一方、後者は涅槃為る宇宙の真理を体現した、『最後身心』、涅槃妙心 (智慧)である。 「他者に勝って」も、「世界人類を生(活)かさ」ないから、何も生まれない 。 其れは、何処迄(どこまで)往っても、二元相対世界で比べるだけ。 相手在っての、他に依存しての、何処迄(どこまで)往っても、絶対無き 、儚(はかな)き世界である。 武蔵が其の生涯の真剣勝負で無敗であったが、絶対為るものを知らな いから、生涯、人を打ち殺す剣を捨て切れなかった。 後の、剣を捨てた、剣の達人山岡鐵舟とは対象的であり、心進化の好 例である。 要は、「他者に勝つ」事ではなく、「世界人類を生(活)かす」事である。 其の為には、如何(どう)為(す)れば宜(よろ)しいか? 「人に勝つ事でなく、自己に勝つ事」である。 「自己に勝つ」とは如何(どう)云う事か? 「自己に勝つ」とは、自己の本来の心である、宇宙由来の涅槃妙心を 隠滅(いんめつ;埋(うず)もれて無く為る事)してしまって居る、人類三 毒(貪・瞋・癡)に打ち克(か)つと云う事である。 では、自己の三毒(貪・瞋・癡)に打ち克(か)つ正道は何か? 其れは、自己の本来の心である涅槃妙心に醒覚(せいかく;目覚(めざ) め(させ)る)する事である。 寺院では起床後、驚覚(起床)偈(げ)を唱える。 『生死事大 無常迅速 各々宜しく醒覚すべし 慎んで放逸為る事勿れ』 (しょうじじだい、むじょうじんそく、おのおのよろしくせいかくすべし、 つつしんでほういつなることなかれ)と。 其の最短路が坐禅である。坐禅に親しむ事である。 三毒(貪・瞋・癡)は三善根(施・慈・慧)へと心進化する。 貪著は施しへと、瞋恚は慈悲心へと、癡愚は智慧に心進化する。 斯(か)くして、造悪は修善(しゅぜん)へと心進化するのである。 悪を犯さないでなく、善を施す。 受動的消極性でなく、能動的積極性である。 世の中は飽く迄も後者でなければ、世界平和には至り得ないのである。 《 恩 恵 》 究竟恩恵とは、小生の「覚天」の事である。 宇宙から『最後身心』への終極の恩恵である。 生涯を懸けての、古希直前の恩恵であった。 「覚天 」後、二年を経て『真遺教』は開花期を迎えた様に「涅槃為る宇宙 の真理の言葉」を語るに至ったのである。 涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の真理は、「犀の角の様に唯独り歩む」 托鉢自活人にして初めて至り得るのである。 釈尊も、斯(か)くして成道されたのである。 釈尊の修行法がキリスト教信仰に(托鉢)修道を生んだのである。 釈尊の中道と、小生鐵漢の「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の「人を生(活) かす」涅槃妙心(智慧)の真中道は世界人類の大前提足る真理として 必然的、不可避に受容しなければ為らないものである。 又、因果の道理の根拠でもある。 此の大前提の上に世界平和を構築、完遂しなければ為らない。 是が世界平和への最短路である。 我々の命は百年程であるが、人の生命は、人類が滅亡しない限り、半 永久的に存続するのである。 是を隠滅してしまう人類三毒(貪・瞋・癡)に打ち克たねばならない。 我々が体験した、死に至る労苦を我々の子孫に繰り返させては為らな いのである。 正しき労苦で精進し、世界平和為ら使める事が出来る様に、真理を語り 継ぎ、「世界人類を生(活)かさん」と為(す)るのでなければならない。 《 日 程 》 3:00―――起床 5:00―――帰宅 (ネット) (夕食準備) 5:30―――朝食準備 6:00―――晩課 (ネット) (夕食準備) 8:30―――朝課 7:00―――夕食 (朝食) 10:10―――托鉢準備 8:30―――片付け 11:00―――托鉢出発 9:30―――ネット 1:30前後 1時間(昼食) 11:00―――就寝 《 ミャンマ-問題 》 アメリカの学生が、或る集会でバイデン大統領に問うた。 「中国が極超音速ミサイル発射実験を行ったそうですが、如何(どう)思 われますか?」と。 するとバイデン氏は、 「我々は、其の様な物に負けないだけ十分な武力が有る。」と、得々と 其の学生に答えた。 一国の指導者足る者、自国の学生に対して、他国に対する武力の優位 性を諭(さと)すべきものか? 一国のリーダーとは、然(そ)う云う存在なのか? 弱肉強食を諭(さと)すのがリーダー足る者の資質と言えるのか? 米国がである。 其れで居て、ミャンマー問題を其の武力でさえも解決出来ない。 アフガンから、のこのこと撤退したではないか。 未(いま)だに同じ事を繰り返すのか? 優れ足るリーダーとは、とても言い難い。 一体、、何時(いつ)に為ったら、辛うじて悪を犯さない境遇に依存する のでなく、核兵器禁止条約締結で、一気に宇宙の真理黎明期の人間ら しく、涅槃の真理に基づく信頼団結一路門足り得ないのだ。 ミャンマー市民の地獄ですら打開し得ないのに、アフガン問題に取り組 める訳が無いのである。 家庭内暴力・殺人を阻止・処罰する事が出来ない警察組織等は在り得 ない。 世界中に報道されて居りながらである。 世界警察(軍隊)為る組織が世界レベルでは存在しないと云う事は未だ 未熟な国連体制としか言い様が無い。 其の訳は? 国連が力に依る核兵器支配体制から脱却出来ないが故である。 是が改善されない限り、ミャンマー問題を解決する事は不可能である。 ミャンマー問題の本質と、国連支配体制構築発想の内容が同質である からである。 ミャンマー問題は世界人類の恥部である。 武装兵器発明競技を遣って居って、ミャンマーの地獄を改善出来る訳が 無いのである。 ミャンマーの非条理は米中の武装兵器競争に在る。 覇権争奪や武装競争でなく、世界の調和と均衡と静謐にして初めて、 ミャンマーの地獄に、涅槃為る宇宙の真理の鉄槌を下す事が出来 るのである。 日本に於いて暴力団を撲滅出来たのも警察と市民の正しさ であった。 《 能力と菩提心 (修正) 》 人類特有の諸能力を生(活)かすには、人間由来の道具を要する。 道具(言葉)無くんば、宗教、学問、芸術、スポーツ等々無しである。 然(しか)るに、瞑想 だけは道具(言葉)無くして、五千年程前に自然発 生的に、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し によりて、古代人の 最も純朴な心に瞑想 が生まれたのである。 古代インド、インダス文明のインダス川流域は世界一の穀倉地帯であり 、食生活の安定と静穏な豊かな自然環境裡の農耕集落での収穫を齎( もたら)す、汎神論的為る自然との対話に於いて、瞑想 に親しんだ純朴 な人々の生活が社会構造化して往くと共に、人心に二元相対思考に由 来する貪著が三毒(貪・瞋・癡)と為って諸悪生じ、「宇宙(生命)の本 質」(涅槃)からの促し と三毒(貪・瞋・癡)との化学反応によりて、人心 (=大脳新皮質)に菩提心 を発(おこ)す事と為ったのである。 心の進化の出発点は此の静慮、即ち瞑想 (サマーディ;三昧)である。 是が「涅槃」為る「宇宙(生命)の本質」への回帰に帰結したのである。 菩提心、中道、正法苦行は人間由来であり、瞑想、ヨーガ、禅定、 坐禅、悟り(身心脱落)、解脱、覚天が宇宙由来である。 人間由来で、宇宙真理を一気通貫するものが菩提心、中道である。 瞑想 (サマーディ)は禅定(ディヤーナ;禅那、靜慮)と訳される。 此の菩提心 が、唯一、宗教を志向せ使め、四千年前、インダス文明、 バラモン教の前身ヒンズー教の「結跏趺坐」に始まる禅定 (=釈尊)に 変遷したのである。 瞑想 ―三毒(貪・瞋・癡) →ヨーガ―菩提心 →禅定 →釈尊→坐禅 瞑想 は、理念上の「解脱」を希求するヨーガ(苦)行へと進展し、此れを 完成させたのが、中道に至り得て、成道された釈尊だった。 一方、其れ等の二元相対意識以前に、「宇宙(生命)の本質」(涅槃) からの促し から、古代であれば瞑想、現代であれば「坐禅入り」 すれ ば、小生であれば、十代後半からの十年間の試行錯誤はせずに済んだ のである。 宇宙由来とは、身心脱落された道元禅師の「正法眼蔵(現成公案)」、 『仏道を習うと云うは自己を習う也 自己を習うと云うは自己を忘るる也 自己を忘るると云うは万法に証せらるる也 万法に証せらるると云うは 自己の身心他己の身心をして脱落せ使むる也 (万法;宇宙及び心))』 とある、万法に証せらるると云う事である。 全ては宇宙由来なのであり、人間由来為らざるものなのであるが、 人類三毒(貪・瞋・癡)のみが人類特有の大脳新皮質の二元相対為る 分別に起因し、涅槃為る宇宙の真理に違背する、人類特有の諸悪の根 源為る人類三毒(貪・瞋・癡)なのである。 是を全て、宇宙に帰一せ使めねば為らないのであり、此の手段が仏道 に他ならない。 そして仏道の端緒為る瞑想 に由来するものに他ならないのである。 究竟宇宙と究竟世界人類とは方向性が真逆であるが、 前者了ずれば、必然、必至に後者成る。 世界人類が宇宙由来であるからである。 アインシュタインもベートーベンも、究極的には「悟ら(身心脱落し)なけ れば」為らないのであるが、其処(そこ)が多様性である。 真理を体現した人間に及び得る者は居ない。 何よりも「『最後身心』を生(活)かす」事を最優先事としなければ為らな いのである。 自己よりも貴重為る存在は無いのである。 何と為れば、真理を知る者は自己以外には、絶対に在り得ないからであ る。 其れが真理と云うものである。 涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に収束振動帰一するのみ。 世界の指導者達の心も天動説から地動説に改めて、自分(国)でない、 「世界人類を生(活)かす」施政に改めない限り、人類滅亡 は必至、不 可避である。 人類は要(かなめ)(=「覚天」)有らば、「世界人類を(活)生かす」の基( もと)に、後は一切問わない。 今の日本政府は、米中覇権裡の強権暴力支配集団 の世界体制に対 する宇宙真理の立ち位置 が無い。 日本政府が米中指導者を教導しなければ為らない立場にある自覚に 無関心を装う敗者と為るべきでない。 今こそ、能動積極果敢に世界を変革すべき時機である。 苟(いやし)くも、政治家足る者の使命感の真偽が真に問われる時に至 った。 《 瞑想の起源 》 抑(そもそも)、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し によりて、五 千年前のインダス文明古代人に、大自然と集落の農耕生活の中で、瞑 想 を自然発生的に具現し、釈尊が成道する事と為ったのであり、現代 に於いて、小生が「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し によりて、 其の先人達の遺産、そして十余年後に「釈尊の坐禅」に辿り着いて、「坐 禅入り」し、其の促し の本源である宇宙の涅槃世界に回帰し得たので ある。 其処(そこ)で、古代人が食糧安定為る〇(ゼロ)から瞑想 為る坐 を生 んだ理由、他文明と、インダス文明での瞑想 の起源について省察して みる。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し ↓ ↓ 狩猟―…→農耕―(身 から心への回帰)→瞑想 ―……→「覚天」 [心の原点] (宇宙回帰) 【 人間由来 】 | 【 宇宙由来 】 精神性の原点は五千年前の瞑想 に始まり、小生鐵漢の「覚天(涅槃入 り)」に了じた。 『最後身心』は【宇宙由来 】為るが故に、心の原点為る瞑想 も又、【宇 宙由来 】である。 旧石器時代(200万年前~1万年前)ー狩猟、採取。 中石器時代(1万年前~BC8000) 新石器時代(BC8000~BC5000)、 インダス文明の都市は、信仰・宗教世界を運営する人々の宗教的、政 治的中枢ではなかったのではないか、と云う程の精神的本源足り得た。 BC7000ーインダス文明以前に定住生活、集落で農耕を始める。 大集落化する、アニミズム的農耕生活で、有限為る存在が、純朴に無 限為る大自然に対峙して、畏怖の念と一体感に導入され、半永久的に 、長期に亘る、自(おの)ずから最小限の体力で、最大限の精神性為る 瞑想 に具現されたのである。 現代では「青い鳥」を求めて彷徨(さまよ)うが如くであるが、古代は古代 人と大自然以外は、当ても何も無いのである。 此処(ここ)で、瞑想 を生起する一根拠としての信仰について。 人類の信仰は自然崇拝から汎神論(梵我一如)、仏、法(ダルマ)、一神 教(神)である。 自然崇拝には普遍性のある、神話の原初形態為るアニミズム(汎霊説) とシャーマニズム(祈祷師の巫術)がある。 神話は自然現象、文化、文明を神やヒーローと結び付けた物語で、オリ ンピック、ルネッサンス、哲学、思想、宗教、芸術等の霊感の源泉であっ た。 BC5500~BC2600ーインダス文明領域形成期。 BC4000ー本格的灌漑、稲(インダス)(大麦、小麦(メソポタミア))。 大量貯蔵(1年中)。世界一の穀倉地帯と為り、生活余裕の 人増加、大集落→古代国家。 農耕が文明を興した。 インダス文明の稲作と大量貯蔵に因る精神的ゆとりが瞑想を生起 した一つの要因である。 五千年程前(BC3000頃)のインダス文明化以前の古代人は、自然崇 拝を基調とする、自然との農耕生活であった。 然(そ)うして、仏教の前身足るバラモン教(ヒンズー教)の源泉としての 瞑想 の存在根拠は明確である。 集落での大量貯蔵(一年分)の農耕生活の心の余裕から、瞑想 が生 起したのである。 特に古代人も然(そ)うなのであるが、本来の心 と云うものが趣向する ものは、自己の外部に在るものでは無いのである。 趣向する自己以外には在り得ない。 然(しか)るに、生理(本能)的欲求ではないし、欲求の対象と為るもので もない。 自己にしかないもので、心が趣向する対象とは? 心自体が自己に趣向するものとは? 心は趣向其のものなのである。 自己であって、心自体でないものは、身に他ならない。 心が身の何を趣向するのか? 欲求為らざる身とは、形に他ならない。 つまり、心が、自(おの)ずから、形を為(な)すのである。 永遠に、恒常普遍に心が形を為(な)すとは、 其れが、最小限の体力で、最大限の精神性為る瞑想 に他ならないの である。 そして、瞑想 から心進化を遂げた坐禅 は涅槃為る真理 の体現であ り、何時(いつ)でも、何処(どこ)でも、誰にでも出来る普遍的な真理 と 世界人類の平和との象徴なのである。 是等共に、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し に由来する処の 、五千年を隔てた、人類の心の〝始め〟と〝終り〟である。 BC2600~BC1800ー狭義のインダス文明の統合から原因不明の崩 壊迄。 BC1900~BC1300ー滅亡から、復興、地方化期。 BC1500~BC1000ー前期ヴェーダ(宗教文書)期。 近辺のインド・アーリア人が北西部に移住し、 インダス文明を復興し、ヴァルナ(カースト制度 )を作る。ヴェーダ生み、バラモン教を興した。 BC1000~BC500ー後期ヴェーダ期。本格的農耕社会。 ヴェーダの宗教。 ウパニシャッド哲学の萌芽と言うべき帰一思想。 釈尊成道(=仏教の誕生)に至る。 9・11テロ事件の中東のアーリア人 である。 ナチズムの人種差別、優生学に影響を与えた。 釈尊の源流、インド哲学(梵我一如のウパニシャッド哲学)、インド仏教 は、二次大戦前は独がリードしていた。 ヒトラーのアーリア人 に関する研究の必要性からであった。 現代は日本が世界をリードしている。 ブラヴァッキー(1831~1891、露)、 神智学(神と人間と世界の起源を探究。 宇宙の目的と起源。神的叡智への回帰。 「古代の智慧」の探究。ヴェーダを原型とする。 ブラヴァッキーは「アーリア人こそ霊的進化の頂点に立つ」と評価した。 小生医学生の時に、ユングに傾倒し、そしてルドルフ・シュタイナーを称 賛した友人がいた。 小生が医学部を中退する頃、シュタイナーの事を小生に告げた。 シュタイナーは後に、「神智学協会」を設立し、ユングやシュバイツァー 等に影響を与えた。 其の友人のアパートは六畳一間で、いつも本の上に寝ていた。 部屋一面、10㎝の高さに、本が乱暴に積まれて居たのである。 古代文明は、現、中東イラク周辺の最古のメソポタミア文明(BC9000 ~BC3000)と千年程遅れて、宇宙の真理の本源足るインダス文明で ある。 一方、欧米の源流は古代ギリシャ文明(BC800~)であり、キリスト教を 国教とするローマ帝国を建国し、地中海を取り巻く様に、欧州始め支配 し、やがては、11C東西教会分裂、16C、17Cの英国の宗教改革、ピュ ーリタン革命、メイフラワー号ピューリタンの新天地アメリカの建国へと。 《 坐禅の真価(修正) 》 瞑想 →ヨーガ(行)→断食苦行→中道→成道→坐禅 (行)→正法苦行 (禅定 ) (釈尊)(仏道誕生) (行智慧) 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し に由来する瞑想 (ヨーガ) に端を発する行智慧を生む禅定 も宇宙由来である。 元来、人類も宇宙由来ではある。 人類三毒(貪・瞋・癡)だけは、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違背 するが、是は人類をして、本質(涅槃)化せ使めんとする現象の機 能なのである。 世界に唯一、坐禅 其のものが「人を生(活)かす」、涅槃為る宇宙由来 にして、真理の現成である。 道元禅師『普勧坐禅儀』に、 「身心自然(じねん)に脱落して、本来の面目現前せん。 唯だ是、安楽の法門也。菩提を究尽(ぐうじん)するの修証也。 凡(およ)そ夫(そ)れ、自界他方、西天東地、等しく仏印(ぶっちん)を持 し、一(もっぱ)ら宗風を擅(ほしいまま)にす。」と。 《 坐禅の先に在るもの 》 釈尊が説かれたのは、「三慧在れば、三毒(貪・瞋・癡)滅し、解脱を得」 である。 三慧とは聞思修の慧で、教えを聞き、思惟し、実践修行する事から得ら れる智慧であり、禅定は其の為のものである、と。 道元禅師は『普勧坐禅儀』で、 「坐禅は、菩提を究盡するの修証也。安楽の法門也。 身心脱落して、本来の面目現前せん。 宝蔵自ずから開けて受用如意為らん。 (略)」と。 菩提を究盡するの修証とは、修証一如の立場である。 修即証、つまり坐禅其のものが証(=真理の悟り)の当体である、と。 然(しか)るに、宇宙の真理を体現すれば、 坐禅は、其のものが悟りでも、又真理でもなく、 涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に回帰して、涅槃妙心智慧を生み出し、 世界人類をして幸福、平和為ら使めんが為の唯一無二の手段である事 は明白である。 釈尊が中道(諦観)を経て初めて、悟られた(成道された)が、 涅槃為る宇宙の真理を了得するには、諦観ではなく、 托鉢自活に拠る極佛後行と下化衆生の、調和と均衡と静謐に於いて究 竟する処に、生じ得る奇跡の可能性が生まれるのである。 ネットでの教導を了じて、最早語り遺すべき事が消滅してしまって、後行 だけに為って、ホッと肩の荷を降ろした事が、五年間で十五回あった。 其の都度、自然に継続していたのであるが、十六回目に自(おの)ずか ら、然(そ)う思われた刹那、二元相対分別の根源足る意識の根が絶た れ、奇跡裡に、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」からの鉄槌が下され、有 無を言わさず、打ちのめされたのである。 霹靂(へきれき;落雷)が体幹の芯を通貫し、小生の呼吸筋支配神経系 に異変生じ、呼吸機能不全に陥(おちい)った。 即座に了得した。 「行じゃぁない!」、「人だ!」と。 世界人類の平和の為の涅槃妙心智慧を生む為には、学者に拠る開発 と、其れ以前の真に「人を生(活)かす」「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の 弁(わきま)えが不可欠である。 後者には、正法苦行(初行と後行)でなければ至り得ないが、其の真理 に基づく事が出来れば宜しいのである。 つまり、真理に基づいた学者に依る実践が必要なのであって、象徴的坐 禅を行ずれば宜しいのではない。 『最後身心』足る者は、最早、坐禅を組む時間は一刹那も持たない。 人間と云う者は何時(いつ)でも、何処(どこ)迄往っても、常に上り坂で 手押し車を押し続けて居る様なものだ。 心的淫快に対しては、微風(そよかぜ)に対するが如し。 嘗ては、極佛行に於いて、ネットが完了したら、肩の荷を降ろした様にホ ッとして居たが、「人だ!」と「覚天」して以来、「解脱」が、涅槃妙心智慧 の「人を生(活)かす」に「涅槃入り」した涅槃妙心は福寿海無量である。 「覚天」以前の宇宙の真理に至らざる自己とは別人と為っているのであ る。 遺伝子組み換え処の話ではない。 不思議なもので、宇宙の真理への諸階梯に於ける人間の根底とは然( そ)う云うものである。 学問では及び得ない「悟り」なのである。 其処迄悟り切らねば、人間と云う者は本物、「宇宙の真理」、足り得ない のである。 とても分別や理解の及び得るものではない。 涅槃為る宇宙の真理に回帰した『最後身心』である。 世界人類は宇宙真理に基づいて生(活)きるのが、世界平和への最短 路なのである。 《 真の自律とは 》 世の中で、最も貴重為るものは自己の心である。 自己の心の真理(実)に至り得て、其れから、是に基づいて、真の自律 の道を歩むのである。 此の自律とは、宇宙の調和と均衡と静謐為る真理の働きの事である。 正法苦行でも自己の心には及ばないのである。 機械的、厳密為る行では、自己の心を仮に誤魔化して居る、紐(ひも)に 繋(つな)がれた、自由の効かない人間に過ぎない。 自(おの)ずから為る規則性でなければ為らないのである。 規則性は、「世界人類を生(活)かす」ものである。 涅槃為る「宇宙(生命)の本質」である。 是を知る為に、機械的、厳密行が不可欠なのである。 行は機械的、厳密である事が目的である。 「宇宙(生命)の本質」は「人を生(活)かす」事である。 命と云うものは、水の様なもので、生命を生(活)かすものである。 元来、人間と云う者は、無上甚深微妙の有効性を以て、世界人類を生( 活)かす存在なのである。其れが涅槃である。 《 課 題 》 小生の課題は、規則性が崩(くず)れる事であります。 規則性が崩(くず)れる因があると云う事であります。 極力、其の因を因と為しては為らないのである。 因を因と為さないのが、小生の課題であります。 規則性とは、単に機械的なものでなく、涅槃回帰した、涅槃化エネルギ ーに基づく規則性であります。 小生独自の規範を設定し、其れも固定したものでなく、微妙に機に応じ て変化するものであります。 斯(か)くして恒常不変に、柔軟に緊張感を維持する。 唯、因を無自覚に放置しない。 因は除く。 《 本来の面目 》 自灯明(自(みずか)らの心を依り処とせよ)。 自(みずか)らの心とは? 人間皆、自覚して居れば、心だと言える。 其の自分を依り処にするとは? 何故に、何かに依存せざるを得ないのか? 生きる上で、何か足らない処が在るからだ。 釈尊も、欲しいものは何でも手に入る境遇に在りながら、敢えて一乞食 として出家して求道されたのである。 そして六年間の苦行の末、中道を経て成道されたのである。 道元禅師は身心脱落されて、 「身心自然(じねん)に脱落して、本来の面目 現前せん。 宝蔵自ずから開けて受用如意為らん。 」と。 つまり、自己の心には無量の宝があるのだと云う事である。 『本来の面目』 である。 自己の真の心、二元相対世界の話ではない。 知でも、情でも、意(こころ)でもない。 つまり、「悟り」の心、「解脱」した心、「覚天」した心なのである。 道元禅師の『普勧坐禅儀』に在る様に、「身心自然(じねん)に脱落して 、本来の面目 現前」すれば、小生も、其の歓喜に〝じっと〟して居れず 、アパートから飛び出して、周辺を歩き回ったものである。 当時は、道元禅師の身心脱落についての認識は無かった。 人間は、坐禅をすれば、静謐(せいひつ)の中に、水晶の如く清澄(ちょ う)に覚醒し往く。 小生が身心脱落したのは、坐禅を始めて三年目位であったかと思う。 「解脱」すれば、人間底が抜ける。 「覚天」すれば天(=極佛行)蓋(がい)が消滅する。 何者にも依存しない、真の強さだ。 太陽がエネルギーを放出して、全てを生(活)かして居る様なものである 。 《 涅槃妙心智慧 》 「覚天」前、上求菩提(=自己)と下化衆生(=他者)との連携に於いて、 五年間十五回の下化衆生完了時、生涯後厳密千日涅槃行から下化衆 生的側面が消え、其れが故の必然的安堵感と無上為る確信に基づい て、遂に十六回目の「覚天」によりて、上求菩提が刹那に、「人を生(活) かす」に転了したのである。 其処(そこ)で、宇宙の調和と均衡と静謐の完璧さを具現すべく、厳密行 は宇宙に由来する処の規則性へと転じた。 此の規則性は、托鉢と教導と真理の有機的構成態を為す、極佛行をし て『最後身心』足ら使めた、完璧為る涅槃宇宙に基づくものである。 其処に於いて、「人を生(活)かす」自己と、「自己を生(活)かす」自己と のバランスが出来上がるのである。 嘗ての、上求菩提と下化衆生との相乗効果の如くに。 斯(か)くして涅槃妙心智慧が生まれるのである。 特に托鉢と教導と真理に於ける規則性は、人類三毒(貪・瞋・癡)に対す る最終的認識でもある。 人類三毒の課題は、最初でありながら、小生に於いて最終的認識でも ある。 上求菩提と下化衆生が、「人を生(活)かす」と規則性に転じて居る自己 に対する認識である。 其れこそ、規則性裡の要と為すべき、托鉢と教導と真理との絶妙為る 有機的構成態を為すのである。 是、此処(ここ)に至りて及だ、涅槃への永久機関としての心進化に於け る、有機的構成系裡の人類三毒に対する最終的認識である。 《 COP 26 》 環境問題程、人類三毒(貪 ・瞋・癡)を露呈してしまうものは無いのであ る。 人間と云う者は実に愚かな者で、是も偏(ひとえ)に貪 為るが故である 。 禽獣(きんじゅう;けだもの)でない限り、人間は死を直前にして貪 では 居られないのである。 経済の権化(ごんげ)が、世界人類自然環境の破壊者の権化に為ろうと は。 弱者、敗者を顧(かえり)みる事の無い、弱肉強食、強者の原理である 。 世界の主導的国家の指導者達が、世界人類の生命に直接係わる喫緊 の最重大課題である環境問題世界会議に出席して、誠意の一つも示す 事が出来ないとは、主導的国家の指導者としての資格は無い。 世界人類を見捨てた行為であり、立派な大人のする事ではない。 少なくとも、世界人類に期待感を抱かせ得る人物でなければ為らないの である。 環境問題世界会議に出席すると云う協調性すら示せないと云う事は、 我々人類の将来に対する期待感すら抱けないと云う事を示唆するもの である。 我々の子孫に対して、世界の指導者達は如何(どう)でなければ為らな いのかは、大人であれば、最大限の誠意を表明すべき事は言う迄も無 いのである。 人類三毒(貪 ・瞋・癡)の権化以外の何者でもない。 世界の指導者であれば、三毒の権化と化しては為らないのである。 人の道を誤っては為らない。邪道だ。 日中に太陽を期待出来ない様なものだ。 最低限、出席しなければ為らない。 拒絶で済まされる問題では無い。 《 二元相対世界から涅槃帰一へ 》 分別は二元相対の世界である。 強弱、勝敗の世界。 科学に依存した破壊力に依る強さと勝ち。 其れと 、国の経済力、要するに、単純には、金と力である。 人間に於いても、単純に金と力が問題に為るかと言えば、然(そ)うでは ない。 我々人間は、基本的に金と力によって、金と力以外のものを志向するの である。 環境による影響下で、人間の諸能力が触発される。 或いは、自己の能力に拠って、自発的に行動する。 或いは、人間の様々な欲求から発動する場合。 是等全て、人間に由来するものである。 此処(ここ)で、上述のものとは一線を画する、斯(こ)うだ、とは明確には 言えない処の、何者かに促されている様な、何か、間近に仄(ほの)め かされている様な、そして、喉元迄出掛っているが、其れが何だか解か らない。 高校入学直後、中退した頃の小生の心境である。 ホームページに着手した段階で、小生は是を、「宇宙(生命)の本質 」からの促し と称した。 是は、高校入学直後の自己が、『最後身心』 足るに、経ねば為らなか った処の社会通念から離脱して、「正法苦行入り」する迄の精神的な通 過儀礼に他ならなかったのである。 善悪に係わらず、情に係わらず、能力に係わらず、唯独り犀の角の様に 、吾師の道、そして千日行を只管(ひたすら)に進んで来たのである。 令和新世紀は人類の二元相対世界が行き着いた、一つの到達点であ る。其の弊害と成果による、新たな時代を迎えた のである。 人類が、此の二元相対世界から脱却するには、其れを断ち切るだけの もの無くんば、人類の如何なる能力を以てしても、永遠の分断を回避す る事は出来無いのである。 是迄の人類の知恵の限りを尽くしても、人類の根源悪を制するだけのも のは無く、現今はパンデミック感染と環境破壊の拡大阻止と云う、喫緊 の、夥(おびただ)しい世界中の被害者の救済と、世界人類の生命確保 の諸施策、更為る人類三毒(貪・瞋・癡)の暴走等、正に人間世界は地 獄の門に入らんとして居るかの様である。 宇宙開闢(かいびゃく)以来の成果 足る『最後身心』 を了得して、 宇宙の本質の涅槃に回帰し得て初めて、人類は二元相対為らざる真理 を知ったのである。 現象的力での勝敗、強弱でなく、調和と均衡と静謐の本質的、真理為る 「世界人類が互いに生(活)かし合う」涅槃世界を知ったのである。 「宇宙(生命)の本質」が涅槃為るが故に。 三毒(貪・瞋・癡)為る人類は、是に帰一すると云う事が人類進化の、つ まり涅槃化エネルギーの本質なのである。 涅槃から出でて、地獄を知るが故に、涅槃回帰して、世界人類を涅槃へ 帰一せ使むるのである。 涅槃に始まり、涅槃に終る、涅槃への永久機関。 永遠にして不滅の恒常普遍の真理である。 真理を語れるのは、唯、『最後身心』在るのみである。 若し、仮に『最後身心』足り得ようと思うならば、小生と軌を一にして、 日本で托鉢自活し、正法苦行(初行と後行)を行じねば為らないであろう が、小生が真理に至り得たのは、未だ世界に真理が存在していなかっ たが故である。 既に、宇宙真理が手に入ってからは、仮令(たとえ)小生と軌を一にし得 たとしても、『最後身心』は、単一の卵細胞(卵子)に侵入し得る、無数の 中の一精細胞(精子)の如し。 斯(か)るが故に、『最後身心』なのである。 《 理想的人物を生む要件 》 理想的人物を生む為に必要な条件を三つ挙げると、 絶対条件が菩提(道)心 である。 是は従来の教育体制下では、先ず、其の指導者が育つ体制作りが必 要である。 抑(そもそも)菩提(道)心 とは、釈尊が断食苦行から中道 に至り得て、 必然的に、自(おの)ずから成道さ(悟ら)れて、仏道が生まれたのであり 、釈尊正伝の大乗禅 に於いて初めて、其の延長線上に涅槃為る宇宙 の本質に回帰する事が出来るのである。 「坐禅の中にも衆生を忘れない」、「衆生を捨てない」。 此の心の究極に、宇宙の真理為る涅槃に回帰、帰一する唯一の真正 道(奇跡)が示現(じげん)するのである。 宇宙の真理に回帰する端緒足るものは、仏教以前の「宇宙(生命)の 本質」からの促しである。 其れは、小生、高校入学直後から始まって居り、其の教育体制が小生 に浸透する事は在り得なかったのである。 其れで、小生の試行錯誤は始まって居る。 放浪もし、種々の出来事があって、結局復学して医学生と為ったが、其 の本質に変化が生じた訳ではなかったのである。 遂に本気で自己の進路を選定する段階で、宗教を絞り込んで、興味本 位に坐禅を組んだ瞬間に、「是だ!」と決定(けつじょう)した。 自己を裏切らずに正直に、坐禅に決めて、進んだのが菩提(道)心 であ る。 正確には「宇宙(生命)の本質」からの促しによりて、坐(禅)して菩提 (道)心 生ずだ。 次に、学校教育でも学び得る本質的大脳新皮質 である。 そして最後に、 後天的、三毒(貪・瞋・癡)生ずる以前の、瞑想が生まれたインダス文明 の、純朴為る、豊かな農耕集落生活的基盤、つまり内面生活のゆとり (=中道)である。 人間の原点に、大脳新皮質に依る直観的現実把握からの菩提(道)心 の発揚によりて、人間は「悟り」(坐禅)、「解脱」(正法苦行)し、「覚天」( 涅槃回帰)するのであるが、現実的に「解脱」するのは稀有(けう)であり 、「覚天」は『最後身心』のみである。 「悟り(身心脱落)」或いは「解脱」からの、大脳新皮質の活用が理想的 人物像であるが、「悟り(身心脱落)」は坐禅に親しむのでなければ、及 び得ないので、仮令(たとえ)「悟り(身心脱落)」は無くても、菩提(道)心 に依りて、十二分に世界の指導者足り得るのである。 其の様な指導者が世界人類を世界平和へ教導しなければ為らないので ある。 何(いず)れにしても、何事も成就しなければ為らない訳で、 何故に、然(そ)うなのか? 小生と云う生命に、是迄、掛け替えの無い人達によって、其の掛け替え の無いものを被(こうむ)って、其の御蔭で今が在る訳で、此の今は、嘗 ての先達たちの生命其のものであるからである。 如何(どう)して、此の自己が無数の彼等の恩恵を無駄にし得ようか。 理屈無しに、其の賜(たまもの)足る生命を今、負うて生きているのであ る。 自(おの)ずから、動物的正確さを以(もっ)て、釣り師が獲物を本能的に 手繰(たぐ)り寄せる様なものである。 無上甚深微妙法 (むじょうじんじんみみょうのほうは) 百千萬劫難遭遇 (ひゃくせんまんごうにもあいおうことかたし) 我今見聞得受持 (われいまけんもんしじゅじすることをえたり) 願解如来真実義 (ねがわくばにょらいしんじつのぎをげせん) 【 開経偈 】 《 新枢軸期;宇宙真理か核の傘か 》 核の傘か、宇宙の真理か? 日本が真の自律を為(す)るのは、外道為る米国の核の傘に依存する のではなく、 米国の原爆投下によりて至り得た宇宙の真理に基づいて、真の自律 を果たさなければ為らないのである。 此の根本課題を決定(けつじょう)しなければ為らない。 此の世に真理を確立するのは、日本の率先垂範在るのみ。 宇宙の真理を世界の枢軸と為さねば為らない。 「覚天」は宇宙真理からの印可証明である。 宇宙の真理は永遠不滅為にして恒常普遍である。 諸々の現象の根源足る本質であり、世界の諸現象の母体である。 本質回帰した『最後身心』が世界の諸現象の根源足らずして、 人間世界が、涅槃への収束振動する訳が無いのである。 此の自律心無くして、弱肉強食の二元相対世界からの脱却無し。 自律心の魔障は恐怖に過ぎない。 ゆめ此の魔障為る恐怖心の為に、自律心が弱まる事勿(なか)れ。 カール・ヤスパース(独、1883~1969、哲学者、精神科医)は、 小生が生まれた年に、自著『歴史の起原と目標』で、「第一部、世界史 の第一章、枢軸時代」に、「シナ、インド及び西洋に於いて、どれもが相 互に知り合う事も無く、略(ほぼ)同時的に此の数世紀の中に発生した。 」と。 BC800~BC200にギリシアを始め、インド、イラン、中国等の思想家 が次々と登場し、過去の神話時代から転換し、自己の自覚、人間として の存在を意識して、人としての自覚を持ち始めた。 諸子百家(孔子、老子等哲学)(中国)、ウパニシャッド哲学と仏教(仏陀 )(インド)、ツァラトストラ(古代アーリア人の宗教の神官)独自の世界観 (イラン)、イザヤやエレミアの預言者(パレスチナ)、ギリシャではホメロ ス、ソクラテス、プラトン、アリストテレス等々が輩出して後世の諸哲学、 諸宗教の源流と為った。 是により、ヤスパースは「歴史の軸が転換した」として、「枢軸時代」と名 付けたが、更に今日、令和新世紀は二元相対の対立世界から、真理 に基づく信頼団結の、絶対世界への黎明、「新枢軸時代」である。 《 真 理 》 宇宙の絶対真理について語り得た人間は『最後身心』以外居ないので ある。 核武装、中東問題、環境破壊、感染症パンデミック等々、是等全て宇宙 の真理に基づいて対応されなければ、其の本質的解決には至らない。 上述した諸課題全て、我々人類が其の限界状況に在る、喫緊の難題で ある。 然(しか)るに、小生の永遠の極佛行、生涯後厳密千日涅槃行(三時間 坐睡二十四時間仏作仏行)に於いてすら、人類は其処(そこ)に宇宙の 開示為る奇跡を生ぜ使める事が出来たのである。 人類の、諸悪の根源為る三毒(貪・瞋・癡)に基づく、諸業の究極である 正法苦行に於いてさえも、其処(そこ)に打開の突破口に他ならない真 理を手に入れる事が出来たのである。 如何(どう)して、人類の悪業の所産である上述の諸課題を解決する事 が出来ないであろうか。 諸業の究極である正法苦行は、人間が心進化して菩薩道を歩み、仏に 成る処の宇宙の涅槃化エネルギーの働き其のものなのである。 「剣の達人は剣を捨てる」。 人間の達人は人間を捨てて仏と為るのである。 「人間を捨てる」とは、 人間の、勝ち負け、強弱の二元相対の分別の母体為る意識の根を絶っ て得られた涅槃識に拠る絶対分別(涅槃妙心(智慧)) に生まれ変わ ると云う事である。 是、「覚天」体現の実際である。 動物の本能(欲)は分別の無い生理的行動であるから、善悪は生じない が、人類の諸悪の根源為る三毒(貪・瞋・癡)は、人類特有の大脳新皮 質に拠(よ)る分別が諸欲に基づく処に起因する毒害悪を生ずるのであ る。 唯、偏(ひとえ)に、人類の本気度、真剣さ、総べての諸悪を自己の問題 と受け取って、任期でない、人任(まか)せでない、、我々の子孫に其れ 等の責(せ)めを負わせる事をせずに次世代へ手渡す覚悟でなければ、 決して問題は解決しないのである。 「覚天」して真理を手に入れるには、「解脱」と云う前段階が前提である。 「解脱」は本質的には、生理(本能)的欲求の性欲からの自律が不可欠 である。と共に、其の自覚に等しい。 故に、求道は楽寂静(=独り居を好む)に限るのである。 此処(ここ)が、正法苦行と仕事との根本的に相違する処である。 正法苦行は仕事ではない。 独り、自己の全生命を一身心に背負っての根源的取り組みである。 複数で誤魔化すのではない。 永遠の欺瞞(ぎまん)と為っては、問題は解決しないのである。 涅槃と云う宇宙の真理が、奇跡的に宇宙から開示されるには、何事に 於いても、夫成(それなり)の、「諸道の達人」足る取り組みが無ければ、 宇宙の門戸は開かれないのである。 世界の指導者達の資質の問題である。 其の資質在りや否や。 世界平和の構築、完遂の資質である。 《 中道と云う事 》 悟る(=心進化)には中道である事が不可欠である。 釈尊は断食苦行で中道を得られた結果、成道された。 釈尊が中道を得られなかったならば、廃人か死に至ったのである。 死に至る苦行から諦観(ていかん)に至ったのが中道であり、斯(か)くし て初めて其処(そこ)に、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に帰一して成道 されたのである。 人間の生理(本能)的欲求の睡眠欲、食欲、性欲の中(うち)、最も禁じ 難いのが睡眠欲であり、厳しく制限すると死に至るのが食欲である。 よって、中道為る、地獄、死に至らざる究極の“生む”苦行、つまり正法 苦行が千日行(初と後)(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)である。 是によりて初めて、人類は奇跡裡の奇跡事、偶然裡の必然事として、宇 宙の真理、涅槃を手に入れる事が出来たのである。 吾師が言われた。 「若し釈尊が悟らなかったら、世界一の馬鹿者である。」と。 馬鹿者と為らずに、仏陀と成られた生き方、是が中道である。 「張り過ぎる糸は切れる。緩(ゆる)め過ぎても良い音は出ない。」と釈尊 は諭された。 釈尊が死に至る断食苦行に因りて、中道に至り得る事が出来なかった ならば、成道される事は無かったのである。 中道無き真理(=涅槃)は無い。 宇宙の、涅槃為る真理に回帰するのに、中道は絶対不可欠である。 心進化の要(かなめ)足る釈尊成道(悟り(身心脱落))無くんば、人間世 界は地獄から脱却する事は出来ない。 中道無ければ、世界は地獄、死に至る邪悪道と化す。 中道為らざるが故に、覇権争奪し、強権支配し、自然破壊し、感染症パ ンデミック蔓延し、人種差別し、ミャンマー 国軍暴走し、自爆テロ発生し 、中東紛争が治まらないのである。 中道に基づく、究竟涅槃(くきょうねはん)足る『最後身心』は絶対為る存 在である。 大脳新皮質から生まれたものではない。 十五年間の極佛行に拠りて、刹那に、霹靂(へきれき;落雷)の如く、奇 跡的に涅槃妙心 を体現し、大脳新皮質が、刹那に宇宙の涅槃化エネ ルギーに因る体現に拠りて極佛行が打ちのめされたが如くに、全身心 の異変を察知して、思わず「人だ!」 と言葉と為って吐露された、絶対為 る体現である。 故に絶対為る真理であり、絶対為る真理為るが故に、中道でなければ、 涅槃為る宇宙に回帰、帰一する事は出来ないのである。 小生を措(お)いて、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の真理を語れない。 三毒(貪・瞋・癡)為る人間世界を、涅槃世界へ教導する事は、『最後身 心』の絶対不動の真理に依拠(いきょ)する、徹底した柔軟心無くんば、 及び得るものではない。 正法苦行(初と後)の厳密さは、其の柔軟心をも包摂するものである。 真理とは涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の事であり、本質に回帰する事 が真理に至ると云う事である。 是は宇宙の調和と均一と静謐に具現されて居る。 そして是は世界人類の幸福と平和と繁栄の母体である。 宇宙の本質に回帰する事が、世界人類の究極の目的である。 宇宙に回帰した事に依りて、宇宙の真理を永遠不滅に了得し、依って世 界人類が、此の恒常普遍の真理に帰一して生(活)きる事が出来るので ある。 真理為るが故に『最後身心』であり、『最後身心』為るが故に、永遠に不 滅為る恒常普遍の真理なのである。 斯くして、世界人類は、此の真理に帰一して、世界人類の 幸福と平和 と繁栄を構築、完遂し往かねば為らないのである。 釈尊が断食苦行から中道を得て成道された如く、最早(断食)苦行でなく 、中道 であり、小生鐵漢が正法苦行(初行と後行)に因りて涅槃回帰し た如く、最早正法苦行でなく、真理 なのである。 是が世界平和への最短路である。 苦行でなく真理。 真理は生(活)きて、生(活)かす苦行を内包している。 世界人類の、真理への信に基づく信頼団結が絶対不可欠 である。 人類の覇権、強権志向は人類不可避為る、地獄に至る苦行の最足るも のである。 権力闘争から真理回帰へ。 《 究竟涅槃 》 人間の真の力、如何なる力よりも遥かに真に強い力とは、「人を生(活) かす」、つまり「人の事を真に思い遣る」心であります。 是が涅槃妙心であり、宇宙の姿、心なのであります。 是が「宇宙(生命)の本質」である。 此の本質は坐禅によって正道を得、究竟、宇宙真理に回帰し、涅槃妙 心に至るのである。 涅槃妙心を得て、『最後身心』足るには、坐禅行無くしては及び得ない。 日々、坐禅に親しんで、規則正しく生活する事である。 此の心を発菩提(道)心と言う。 発菩提(道)心こそが其の正道である。 人間、真理を語れなければ、一物ではない。 身心脱落でも、解脱でも、生涯後厳密千日涅槃行でも、人間の諸能力 を以てしても及ばない。 真理とは、「世界人類を生(活)かす」働き以外には無いのである。 然(しか)らば、「覚天(涅槃入り)」を体現せずとも、「世界人類を生(活) かせば」真理である。 「殺さない」ではない。「生(活)かす」である。 「忘れない」、「捨てない」でも及ばない。「生(活)かす」である。 世界各国の指導者達の不屈、不退転為る本気度と真剣さと熱意で以 (もっ)て取り組まねば為らない。 小生『最後身心』に出来る事は、「真理(実)を語る」事だけである。 小生に与えられた条件の中で、全身全霊で語る事以外には無いので ある。 其れも、小生に出来る事は限定されて来た。 其れだけに、真剣に為らざるを得ない。 《 女らしさと男らしさ 》 女(男)らしさ とは、真の女(男)性としての良さ を備えている女(男) 性を表現するものである。 真の女(男)性としての良さ とは性欲に因るものでもなく、自律した男 、女が家庭、社会、及び世界で果たす役割が世界平和の構築、完遂で あると云う観点から、其れは真の人間としての良さ に異ならない。 従って、完全に男女平等である。 男、女が同等の役割を担(にな)って、互いに尊重し合って生きて往くべ きものである。 是は男女に係わらず、経済的、精神的に、一人間として自律しているか か否かの問題である。 つまり、人類(間)の完成の問題。 人類(間)が完成するとは如何(どう)云う事か? 何を以て完成と為すかである。 人類(間)の完成とは、人によって十人十色であろう。 古代人は、東洋では生活の安定から、宇宙由来に基づいて、瞑想を生 み、小生に拠りて涅槃為る宇宙に回帰した。 一方、西洋では人類の諸能力由来に基づいて、原爆支配した。 人類の心進化は斯(か)様に、洋の東西で夫々(それぞれ)宇宙由来 と、人間由来 と云う、生命進化の究竟 と、其の途上 の状況を我々人 類に顕示したのである。 人類の心進化には、敢えて言えば、斯(か)くの如く、東洋性と西洋性と の際立った特質が在るのは否(いな)めない。 人種差別の最も根源的為る男女差別は人類の心進化上、現代、全く性 差無く、人類は進化しつつあるのである。 涅槃為る宇宙の真理に基づく涅槃への収束振動に、人種差別は此の 宇宙真理に違(たが)える。 今や、世界は真理枢軸時代 である。 然(しか)るに、人間として、自律した人間である事が理想的であるが、 是は極めて奥が深い。 単に経済的に自立する事。又、 能力的に自律するのは、飽く迄も人間由来であり、二元相対世界で、宇 宙の果てを見る為に旅立つ様なものである。諦観、つまり是は釈尊中 道に究竟す。又、 性欲から自律する事、是は「解脱」する事に等しい。 然(しか)るに「解脱」した人間は実に稀有である。 仮令(たとえ)「解脱」したとしても、其れで完全に自律し得ては居ないの である。 極佛(行)、是は人類の諸能力に敷衍(ふえん)されるのである。 つまり、一佛でも残れば、人類の能力さえ撥無(はつむ;払い除ける事) し得ない。極佛行が残るからである。 極佛行が死なない限り、(臨済禅師の様に「仏に逢わば仏を殺す」で はなく、「覚天」に因り、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に回帰して、一切 の人間由来が完璧に抹殺され、宇宙由来に置き換えられても、)人類 の、絶対為らざる諸能力の向上を超える事は出来ない のである。 では、宇宙とは二元相対世界なのか? 宇宙と云うものは、人類が涅槃世界を確立して、幸福、平和に繁栄すべ く在ら使められて居るのである。 従って 、地上は過去から今に至っているのである。 若し、然(そ)うでなければ、人類が宇宙の本質に回帰する事は在り得 ないのである。 我々人類は、此の涅槃化エネルギーの本質を能々(よくよく)自覚しな ければ為らない。 此の自覚 が出れば、行は不要である。 自覚とは、不覚為らずして、自(みずか)ら覚(さと)る(=気付く)のであ る。 後、坐禅の功徳に親しむのは自由。 此の自覚 の内容は、母体である処の、涅槃為る宇宙への回帰、帰一 である。 「解脱」から観た男らしさ、女らしさ。 そして、 「覚天」から観た男らしさ、女らしさ、とは。 前者は本質的為らざる“らしさ”、つまり虚である。 後者は本質の“らしさ”、つまり涅槃為る空から観た男らしさ、女らしさで あり、是が真の男らしさ、女らしさである。 是は、「覚天」して宇宙の真理が手に入っていなければ及び難い。 地獄でなく、涅槃為る真理の立場から、世界を把握し、対処すべく、人 類は心進化しなければ為らないのである。 「蜂の花を採るに、但(ただ)其の味(あぢわ)ひのみを取って、色香を損 (そん)せざるが如し。比丘も亦(また)然(しか)也。」 涅槃収束と同時に、本来男女平等収束である。 《 存在根拠 》 小生の独自の規則性厳守 と真遺教 とは、 相乗効果的、表裏一体為るものである。 何と為れば、其れが真遺教 の存在根拠為るが故に。 規則性厳守 と真遺教 とは、夫々(それぞれ)本質の表裏である。 本質回帰為らばこその表裏である。 本質足るには、不可欠表裏である。 涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の現象は、涅槃化エネルギーに因る 涅槃への収束振動為る規則性 である。 本質と現象は表裏一体にして、不可分である。 《 三基軸の規則性 》 3:00―――起床 5:00―――帰宅 (ネット) (夕食準備) 5:30―――朝食準備 6:00―――晩課 (ネット) (夕食準備) 8:30―――朝課 7:00―――夕食 (朝食) 10:20―――托鉢準備 8:30―――片付け 11:00―――托鉢出発 9:30―――ネット 1:30前後 1時間(昼食) 11:00―――就寝 《 死刑廃止とCOP 26 》 長年の 労苦に拠りて、釈尊中道を打ち出せる人間でなければ、死刑制 度の廃止を唱道する資格は無い。 軽率為る人情と倫理観からの短絡思考に依る判断は取り返しの付か ない結果を招来し兼ねない。 COP26での、最後のインド代表の一言は、環境被害の皺(しわ)寄せ が、平均寿命25歳と云う最悪の環境下に在るアフリカ原住民の現状を 招来していると云う事実を考慮した上での発言か。 環境対策の要もパンデミック下でのオリ・パラ開催同様、経済と権威の 維持以前に、世界規模での犠牲者(死者)を出さないと云う事である。 軽率為る人情と倫理観からの短絡思考で、過去を引き合いに出して、 現実と未来を破壊しては為らないのは明確なる常識である。 アフリカ原住民の、特に狩猟生活者と文明人との共存の課題、彼等の 救済策は彼等の生活圏への配慮を忘れては為らない、捨てては為らな い事である。 死刑制度も、若し是が無ければ、三毒(貪・瞋・癡)為る人類によって構 成されている世界に緊張感が消失する。 人間と云う者は100%である為には、150%でも不足するものである。 本当に判(わか)って、自(みずか)ら自覚出来るには、如何(どう)して も、自身の死に直面出来る事無くしては真理(実)には近付けないので ある。異常者でなく、正常な心理であれば。 神信仰の現実が如何(いか)為るものかが真実を物語っている。 人間性では物事は解決しない。 真理とは然(そ)う云うものである。 真理を語れる者は、『最後身心』在るのみ。 世界の感染症パンデミックに於ける現実が証明している。 《 米中オンライン首脳会談 》 11/16、バイデンアメリカ大統領と習近平国家主席がオンライン形式 で首脳会談を開催した。 地上は、ヒマラヤ山脈には、最高峰のエベレスト等の峻険な山々が、其 の峻厳さを競っているが、人間世界は、其の様な峻厳さでは、世界平和 には及び得ないのであります。 其れ等の峻厳さは、単為る妄想に過ぎない。 真理 とは世界人類が平和裡に生(活)きて往ける世界であります。 其の峻厳さを超えて、世界人類が夫々(それぞれ)の時処位で共存して 生活出来る処迄完遂するには、峻厳さを競い合うのではなく、世界人類 を生(活)かし合うのでなければ、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」足り得 ては居ない。 今は、此の「宇宙(生命)の本質」を生(活)きる真理黎明期 であります 。 バイデンアメリカ大統領、習近平国家主席と共に、日本の岸田首相は 、皆、此の最適任者であります。 今、世界の方向性を総括しなければ為らない時機に至っている。 量を競うのではなく、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に世界人類をして 帰一せ使めるのでなければ為りません。 彼等を措(お)いて、此の方向性を打ち出せる人材は居ない。 是が不動の涅槃妙心の永遠に不滅為る恒常普遍の強さであります。 《 人類三毒(貪・瞋・癡) 》 人類三毒(貪 ・瞋・癡)(とん・じん・ち)は弱肉強食である。 動物界の弱肉強食は食い殺されずに、生き残る為。 人間界の弱肉強食は生命の存続に留まらず、人類諸欲の追求と執著 で飽く事を知らない。 是は人類の諸欲が、人類特有の大脳新皮質に拠る分別に基づいて居 るが為である。 只管(ひたすら)、貪(むさぼ)り続ける 事しか無い。 理屈抜きに、唯、欲しい、欲しい。 潮騒の如く、限り無く貪り続けるのである。 恰(あたか)も山火事が、雨が降る迄燃え尽くす様なものだ。 手の施し様が無い。此の肉体が滅びる迄。 此の世界規模の貪著 の修羅場が惹起したものが、 世界の指導者達に拠る、世界人類の物質的、精神的基本的条件 の剥奪、無視 であり、富の偏在 であり、現代の原爆支配体制であり 、自然破壊であり、強権支配体制、感染症パンデミック、人種差別であ る。 更に 、是だけに留まらず、此の地上を忘れて、月面や火星に迄、是等 を拡散すると云う幻想を抱く。 斯(か)るが故に、 人類の肝要は、自己の三毒(貪 ・瞋・癡)に、自(みずか)ら堂々と正面 から取り組んで王道を歩む事である。 正面から取り組むとは、(三毒為る)自己を忘れる事である。 自己を忘れるとは、堅実に正道を歩むと云う事である。 正道とは坐禅。 自(みずか)ら、安楽に坐禅の功徳を享受して居るだけで、自然に悟る のである。 坐禅をすると、人間は其れだけで、ベクトル(=方向性)が定まるので嘘 を吐(つ)けなく為(な)る。 真面(まとも)でない事に対して敏感に為るから、悪い事が出来無く為る 。坐禅と悪事とは共存し得ない。不協和だ。 然(そ)う云う訳で、、極論すると人間は坐禅をすると悪い事は出来無く 為るし、悪い事をすると坐禅はしない。 坐禅が三毒為る人間世界の表面に出ないのは、其れが為である。 嘗て、原田祖岳老師が“国民皆(かい)禅”を唱えられた。 全く理想的である。身心脱落者も珍しく無く為る。 坐禅を行ずれば、人類の大脳新皮質は、涅槃為る「宇宙(生命)の 本質」体制への構成系足る階梯(段階)入りを果たすのである。 日本が世界の真理枢軸国と成る事は間違いない。 人類の弱肉強食が、動物の其れであったならば、人類は悟る事も無か ったのであるが、進化した、人類特有の大脳新皮質の分別に基づいた 弱肉強食であったが為に、其の本源為る「宇宙の本質」に回帰出来た のである。 人類が宇宙に回帰したと云う事実が人類に齎(もたら)すものが何であ るかを、世界人類が本気で真剣に内省して観(み)なければ為らないの である。 人類史上、空前絶後である。 其の方法論が、其処迄(そこまで)達し得て居なかった。 『最後身心』。盲目為る人類が闇に光を見た様なものである。 仮令(たとえ)盲目であっても、光の存在を知ったのと、知らないのとで は、其の光がたとえ一瞬であっても、刹那の光は永遠であり、恒常普遍 為る真理なのである。 現実に目にした以上、永遠の真理 なのである。 真理 と云うものは、如何なる者も、誰一人否定出来ないものである。 従って、此の宇宙の真理 に基づいて、今後、将来に生(活)かすのみ である。 最早、愚かしき覇権争奪も、此の信頼団結に涅槃収束しなければ為ら ないのである。 其処(そこ)で、現今の政界、政治家間での金回りの派手さは本質的に 、国民からの信頼感が喪失し、国民感情が政界から乖離(かいり)する 因と為る。 其れ等は、政界に於ける、極めて日常茶飯為るものであれば、政界と 云う世界が人類三毒(貪・瞋・癡)の温床である事は否めない。 世界中の、其れ等温床で世界人類の物質世界を豊かにする反面、 世界人類の精神世界を破壊して居る事に対しては無関心、無頓着を装 って、私腹を肥やし続けるのである。 是が人類三毒(貪・瞋・癡)が現象する実態である。 此の富の偏在から生まれるものは、人類三毒(貪・瞋・癡)に因る、人間 世界の悪習の蓄積に他ならない。 人類の三毒が政治家達の日常生活に露顕したのは、若き一政治家の 勇断に依るものであった。 是は、今や真理枢軸期 である事の「証(あか)し」である。 政治家が、国民からの本質的信頼を構築するには、特に、性欲、金欲、 名誉欲、つまり金とセックスと強権支配に起因する処の、政治家の日常 生活に於ける金銭感覚からの見直しが急務である。 是では、国民からの信頼を喪失するのは当然である。 真の、信頼するに足る政治家足るには、人間の基本的な処は、責(せ) めて一般国民並みである事が望まれるのである。 是は「世界人類普遍の原理」足るべきものである。 時処位に基づいて応変し、退行するのではない。 各人の三毒(貪・瞋・癡)に基づいて応変 、退行するものである。 自律した自己と云う者の在り様は、微塵も退行するものではない。 仮に、然(そ)う云う事が在ったとしても、其れは世界人類の為に然(そ) うするのであって、自己の都合で変ずる事は微塵も在り得ないと云うの が、真に自律した人間の日常生活である。 今の小生が遣(や)って居れるのは、此の本質の永遠に不滅為る恒常 普遍性(=真理 )の御蔭である。 真理に基づけない人類の貪著 (三毒(貪・瞋・癡))為る心について、 釈尊は般涅槃(=御臨終)の御遺教で、 『心の畏(おそ)るべき事、毒蛇悪獣怨賊よりも甚(はなは)だし。大火の 越逸(おついつ)為るも、未だ仮令(たとえ)とするに足らず。譬(たと)へ ば人有って手に密器を執って、動転軽躁(きょうそう)して但(ただ)密の みを見て、深坑(じんきょう)を見ざるが如し。又狂象(おうぞう)の鉤(か ぎ)無く、猿猴(えんこう)の樹を得て騰躍踔躑(とうやくちょうちゃく)して 、禁制(きんぜい)すべき事難きが如し。』と諭された。 人類の信頼性と云うものは、五欲に油断が無い事である。 五欲とは、生理(本能)的欲求(睡眠欲、食欲、性欲)と金欲と名誉欲。 隙無く、確(しっか)りして居る事、是が自律であり、世の中をより善くす る緊張感(=菩提心 )を生んで、人情に流されない、真の信頼団結を 克(か)ち得るのである。 本物とは然(そ)う云う者である。 一塵も認めない。一塵が万事である。 吾師の御子息は「自分は父から、消しゴム一つ買ってもらわなかった。 親と思っていない。」と言われたそうである。 然(そ)うして鉄牛寺の為にも、三人の息子さんを得度をさせたのである 。 「無言の教訓」であった。 先ず、此処から、政治家の信頼感の源泉を醸成しなければ為らない。 然(さ)も無くんば、世界人類を教導出来る訳が無い。 本質的信頼感が日本及び世界の信頼感足ら使めねばならない。 本質的信頼感とは、自己の五欲への自制心の確かさが、人々の心に 自然に涵養される処のものである。 特に、性欲、金欲、名誉欲、つまり金とセックスと強権支配。 小生の托鉢でも、何か一物でもあれば、もう歩けなかった。 常に、欲為らざる、自己の生命基盤の行である。 人の信頼感一つに依存する処のものである。 それ以外、何一つ、小生が信頼出来るものは持ち得無いのである。 百足(ムカデ)が進んでいる様なものだ。 分別でない、動物的涅槃妙心である。 百足(ムカデ)に何か一つでも、チラッと浮かんだら、百本の足はもう自 由に動けなく為るであろう。 人間が向上する時は常に上り坂を進む様なもので、平地での心の用い 方では及ばない。 油断すると、転(ころ)ぶ。 常に緊張感の継続である。 是、正念相続している証(あか)しである。 是は時処位に拘(かかわ)らない、恒常普遍足るべきものである。 向上心の根源は、絶対真理為る涅槃世界(=世界平和)である。 競合(争)心の根源は、二元相対世界に於ける相対的勝利である。 故に、世界での競合と云うものは、幻想に他ならない。 真実は、真理に基づく、「生(活)かし合い」でなければ為らないの である。 《 名外科医 》 嘗て、四十五年前に、小生は吾師を名外科医に譬(たと)えた。 今、世間を観ずるに、 世界を教導するのは、真理に基づいて、世の中の迷妄為る三毒害の患 部を涅槃為るエネルギーから切除する様な所為(しょい)であると観じた 。 《 アインシュタインも 『最後身心』迄 》 小生「覚天」して、二年二ヶ月程に為るが、其の間、小生の大脳新皮質 も、未だ人間由来の解脱脳から、宇宙涅槃由来の涅槃脳へ遷移した。 最早、涅槃世界に於いて、人類三毒(貪・瞋・癡)由来は生まない。 今後の子孫に望む事は?後進への遺言は? 正法苦行を期待するよりも、寧ろ、世の中の為の実学をして、其れを世 界人類の為に生(活)かして欲しい。 もう既に、人生の目的が涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に回帰する事で あったと判って居るのであるから。 答えの解(わ)かっている問いは、もう解く必要は無い。 従って、坐禅には親しむべきではあるが、正法苦行はもう不要である。 小生のホームページに基づいて、生(活)きるべきである。 学問は世界人類を生(活)かす実学のみ。求知しないが、教導の為には 止むを得ぬ。 アインシュタインも、往還にして、『最後身心』迄である。 芸術、スポーツは其れからであり、宗教は自(みずか)らは信じない。 真理に至る前段階としての宗教は在り得る。 小生は既に坐禅する時間は持てない。 では、後進の人達は如何(どう)か? 可能な限りは、坐禅に親しむべきである。 要は、「大解脱人」釈尊中道と、既知為る真理に基づいて、「世界人類を 生(活)かす」事である。 故に、禅仏教ではなく、超科学、超宗教的為る真理 である。 小生は坐禅から入り、坐禅から出て真理に至った『最後身心』である。 真理(実)については、釈尊時代に、古代ギリシャの哲学者プロタゴラス 、そしてプラトン、アリストテレス 、カント、マルクス、ニーチェ等々論じら れて来た。 元来、永遠に不滅為る恒常普遍の「宇宙の真理」は大脳新皮質で論じ られるべきものではなく、大脳新皮質を放捨(ほうしゃ)して、大地に根 付いた全身全霊で、宇宙の涅槃化エネルギーに因りて刹那に制せられ る「覚天」体現に拠りて覚(さと)る、宇宙エネルギーの涅槃化機能であ る。 此の他に真理は実在しない。 小生『最後身心』は真理を説く、空前絶後にして、唯一の人間である。 従来、政治にも真理は無かったが、本来聖徳太子以来、政治足るもの に真理無くして政治無しである。 「政治無くして真理無し」と云うのが理想なのである。 他に真理が生(活)きる道とは? 真理は生命、人生其のものである。 坐禅は真理其のものではないが、真理への唯一の手段である。 人間は真理を生(活)きて、生(活)かして、坐禅には親しむべきである。 政治家足る者が、対立、覇権争奪すべきではない。 其の真理とは、「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使め る」のである。 一時的、特殊な二元相対の栄誉でなく、永遠不滅の恒常普遍の絶対 の真理でなければ、宇宙の調和と均衡と静謐を世界人類の幸福と平和 に構築、完遂し得ないのである。 米国の国民大(たい)勢の総意の象徴であろうが、中国の強権的支配 であろうが、ロシアの刹那的世渡りに依るものであろうが、何(いず)れ も人類の三毒(貪・瞋・癡)に基づく諸能力の産物に過ぎない。 其処(そこ)に統一原理等は存在し得ないのである。 人類三毒の最悪の負の遺産為る最強原爆支配体制に基づいた、仮の 平衡状態に過ぎない。 其の主導者が国民であろうが、体制側であろうが、何(いず)れも三毒 為る人類である事には違いは無いのである。 三毒(貪・瞋・癡)の総意では、其の頂点の本質は二頭の闘牛と為らざ るを得ない処である。 故に、闘牛と為らない事である。 小生には、米中は闘牛にしか見えないのである。 何(いず)れか一方が生き残っても、悪い結果しか生まないのは明らか である。 自己(国)を立てるのでなく、痛手を共有して、「世界人類を生(活)かす」 施政を冀(き)願する。 日本には、他国に無い、「剣豪」武蔵為らざる、江戸城無血開城為ら使 めた「剣の達人」山岡鐵舟と云う模範足る先達が居たではないか。 唯一、日本為らばこそである。 《 坐禅と仏教と真理 》 世界は、小生の「覚天」以前と以後で、生まれ変わったのであります。 つまり、以前に真理は無かった。 真理については、古代ギリシャ以来、哲学、宗教、経済学、数学等の諸 分野に於いて論じられて来たが、学問である以上、真理其のものを生き る事ではなく、真理についての論議に他ならないのである。 其れは恰(あたか)も、御経が「悟り」を謳(うた)うが如く、又、 地上で月を仰観していたのと、月面着陸したのとの違いであります。 夢が現実のものとして、其れ迄の空想が、月面着陸した時点で消滅し た。 真理も、小生が「覚天」した刹那に、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に回 帰して、自(みずか)ら、「宇宙の本質」其のものと為ったのであります。 其れ迄の一切、坐禅、正法苦行、仏道が霧散し、「人だ!」の涅槃妙心 に、人類の意識と云うものが、奇跡裡の奇跡事、偶然裡の必然事として 、真理為る涅槃識 に転換したのである。 此の刹那の「覚天(涅槃入り)」体現に拠りて、自己と世界が同時成道し た。 人間世界の、涅槃為る真理以前と以後である。 正に真の宇宙開闢(びゃく)であった。 「覚天」無くして、宇宙は宇宙為らず。 「覚天」して初めて、宇宙が真の宇宙と為ったのである。 斯(か)くして初めて、人間世界の禅仏教為る宗教は、最早、宗教為らず して、超科学的、超学問的、超宗教的な真理着陸為らぬ、真理に回帰し て、真理其のものと為ったのであります。 従って、人間世界は此の機を境に、根本的に生まれ変わらねば為らな いし、又生まれ変わるのが当然なのであります。 小生が、「覚天」を境に、全(すべ)て生まれ変わった様に。 如何(どう)生まれ変わったかと言えば、 其れ迄の正法苦行為る諸現象、つまり万法(=宇宙と心一切)が本質 為る真理其のものと為ったのであります。 従って、世の中も、其の政治体制も法体制も、憲法改正は必然的である し、国家関係も自(おの)ずから、敵対関係から信頼関係に生まれ変わ らねばならないのである。 従前の解脱信仰から、涅槃為る宇宙に生まれ変わったのであるから。 《 福壽海無量足る起動力 》 小生の教導と規則性と托鉢の一日は、日毎に完了して往く。 果てし無く完了し往く、一歩一歩の歩みである。 此の起動力は、涅槃帰一への収束振動である。 定常 は無力である。 収束振動であって、此の振れ幅が起動力と為る。 調和と均衡と静謐の極大であり、極小であるが故の涅槃化エネルギー の起動力である。 是、福壽海無量の実態である。 其処(そこ)には、甘受と受容が絶対真実である。 釈尊も『御遺教』に、 「忍の徳足る事、持戒苦行も及ぶ事能(あた)はざる処也。能(よ)く忍を 行ずる者は、乃(すなわ)ち名付けて有力(うりき)の大人(だいにん)と 為すべし。若(も)し其(そ)れ悪罵(おめ)の毒を歓喜し忍受して、甘露 を飲むが如くする事能(あた)わざる者は、入道智慧の人と名付けず。 所以(ゆえ)は如何(いかん)と為れば、瞋恚(しんい)の害は、即ち、諸 々の善法を破り、好名聞を壊(え)す。今世(ぜ)後世(ぜ)の人、見んと 喜(ねが)わず。」と。 腹が立つ瞬間に当って、其の瞬間は判(わか)るが、其れが生(活)きな い。其の瞬間を生(活)かさない。 其の瞋恚(しんに;心に叶わない事に恨み、憤る事)の塊を全て、恰(あ たか)も甘露を飲むが如くに甘受、受容する。 其の瞋恚の理を解しているが故に、其の顛末(てんまつ)を了察するの である。 「宇宙の真理」と云うものは、然(そ)う云うものである。 是は中国強権支配の施政にも、同様の事が当て嵌(は)まる。 定常 を堅持しようとして、涅槃への収束振動を拒絶し、血肉の無い骨 格足ろうとする。 世界の指導者足るには、「帯に短し、襷(たすき)に長し」である。 血肉を受容する骨格足るには、大脳新皮質の産物でなく、大脳新皮質 を放捨して至り得る宇宙の真理に基づかない限り、地獄必至である。 正法苦行が唯一の、涅槃世界為る真理への一路門である。 新資本主義でもなく、新社会主義でもない。 《 『最後身心』 》 『最後身心』は永遠に不滅為る恒常普遍の真理である。 故に、『最後身心』の意志に拘(かかわ)らず、不滅にして生き続けるの である。 政治家に言うべき事は、 「世界人類を生(活)かす」である。 政治家の施策の要は、 其の施策が、「世界人類を生(活)かす」事に為っているか否かで判断し なければ為らない。 《 『最後身心』は真遺教 迄 》 小生が死ぬ迄に、如何(どう)しても遣って置かなければ為らない事、伝 えて置かねば為らない事、伝えねば為らない事を伝えている。 書き遺して居るのであります。 つまり真理、小生の集大成であります。 其れは行でも、坐禅でも、此の身でもない。 教え、真実であります。 永遠に不滅為る恒常普遍の真理(実)であります。 小生が永遠に生きたとしても、其の真理(実)に他ならない。 小生の命に、生滅に拘(かかわ)らざる真理であります。 釈尊は『八大人覚』で、「智慧を生む事」でありましたが、二千五百年を 経て小生は、「涅槃為る宇宙の真理」(=涅槃妙心 )と為ったのであり ます。 自己の安らぎに留まらず、要は「人を生(活)かす」、現実生活に於いて 、「世界人類を生(活)かし合わ使める事」であります。 《 経済戦略 》 第二次世界大戦以降の、世界を分断した連合国軍側と独、伊、日 の枢 軸国側との分断は、戦後七十余年を経て、今や不可避為る米中の覇権 争奪競争と為った。 取り分け、世界規模での経済の枠組みでの対応で顕著と為っている。 是は、日本の1970年代の高度経済成長期から安定成長期へ移行す る迄の中学生の集団就職の如きものである。 何故に就職に依る、仮の安定感を得ようとするのか? 其れが最も単純で、間違い無いからである。 「働いて居れば宜しい。」である。 戦後の日本だ。 然(しか)るに、其れで現今に至っている訳で、 世の中は、其の様に単純に、短絡思考で済むものではない。 経済戦略と世界平和の問題である。 世界平和を完遂するには、経済戦略だけで解決出来るものではない。 経済戦略、能動積極性は宜しいが、先進諸国家の其れだけで、世界平 和に為れるのではない。 世界平和に至るには、もっと根本的な世界規模での取り組みが絶対不 可欠である。 経済戦略で得られる富を、如何(いか)様に運営するか。 問題は其れ等の戦略に乗れない大多数の諸国家の平和は如何(どう) するのかである。 マスメディア、報道機関でも表層的でない、本質的為る、其れ等の取り 組みが不可欠である。 バイデン氏は、アフガニスタンの放置に因る後遺症は無視出来ない。 是は、間接的ホロコーストに異ならない。 精神的病弊と云うものは、人類三毒(貪・瞋・癡)に素直であれば、其れ こそ自然治癒力 で回復するものであるが、其処(そこ)から大脳新皮 質が逞(たくま)しく為る。 人類特有の三毒(貪・瞋・癡)力の害悪が台頭して来て、「地獄入り」と云 う事に為るのである。 健康的に労働し、健全に生(活)きている間は宜しいが、問題は其れか らの不可避為る本質的な生き方、不可避為る事が「宇宙(生命)の 本質」の涅槃への収束振動の必然性であり、つまり真理に基づく生 き方が不可欠と為る のである。 是が現今の事態である。 トランプ氏には、此の境界が不明である。 ブラジルのコロナ禍である。 『後悔先に立たず』。 しかし、其処(そこ)に良識有る人間(『最後身心』)は此の判断基準が 自己の原則でなく、公的な、或いは究極に於いて、宇宙的な判断に基 づく人間の基準、二元相対為らざる、其れを超越した基軸を有するが 故に、二元相対為るものを泰然として受容して居るのである。 悟空が釈尊から一歩も出る事が出来なかった理由である。 其処(そこ)に至るには、坐禅に拠る長年の、無限為る宇宙を絞り込ん だ全身全霊の布施行為る正法苦行(初行と後行)が在る訳で、其れ無く しては究竟には至り得なかったのである。 世の政治体制為るものも、悟空に異ならず、盲目と言わざるを得ない。 何処(どこ)迄、其の賭け事が続くのか。 果たして、真理に則(のっと)るのかである。 小生が地獄域から、涅槃回帰した様に、 次は軌を一(いつ)にして、涅槃帰一の道を踏み出さざるを得ない、 涅槃への収束振動と云う心進化の真実である。 《 赤木ファイル 》 量の問題ではない。 質の問題である。 而(しか)も、最も本質的為る、日本の本質の問題である。 小生の故国である日本の本質の問題を忘れ、捨てて済む問題では無い のである。 為すべきは、日本国内を正せなくて、世界を教導出来る訳が無い。 先ず、森友公文書改ざん問題を明らかにしなければ為らない。 其れから 、拉致問題も当然為すべきを為すのが真理(実)に基づくので ある。 真理(実)に基づかずして、為さざれば誤(あやま)つ。 真理(実)に違(たが)えば、因果の道理歴然として私無く、其の悪業報 は不可避である。 一塵が万事である。 日本に由来する宇宙の真理 を世界に教導しなければ為らない。 是が日本の本命である。 《 真 実 》 人間、如何(いか)為る者も、 究極的には、完璧自己否定が体験されて初めて、宇宙に回帰出来るの である。 涅槃為る真理に回帰するには、霹靂(へきれき;落雷)の如き自己完全 否定体験を通過しなければ、『最後身心』足り得ない。 如何為る人物であろうとも然(しか)り。 完璧為る自己否定を経て初めて、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に回 帰するのである。 此の体験は、釈尊が断食苦行を説かず、中道に拠る成道を説かれた 様に、小生鐵漢が正法苦行を説かず、涅槃為る宇宙の真理を説くので ある。 真理は、「世界人類を生(活)かす」涅槃妙心である。 真理に違(たが)えば、宇宙に違背する。 元来、永遠に不滅為る恒常普遍の宇宙の真理でありながら、自(みず か)ら是に違(たが)うは、因果の道理を知らざる癡愚者である。 《 二元相対 》 人類が宇宙の真理に回帰するには、つまり『最後身心』足るには、人類 の大脳皮質の意識の、是に派生する処の「分別する」という働きが、其 の動因と為るのである。 胎児の脳と脊髄は母体の胎内で、動物から人類誕生迄の脳の進化の 歴史を辿(たど)って、最も早く発生を始め、最も遅く成熟する。 脊髄・脳幹(爬虫類的反射)は反射的生命現象、大脳辺縁系(哺乳類的 本能)(旧・古皮質)は本能・情動、そして大脳の髄質から、大脳皮質は 脊椎動物以降、旧皮質、古皮質、新皮質へと進化した。 旧皮質は魚類では人類の大脳に相当し、 古皮質は両生類以上で、爬虫類的反射。 旧、古皮質は人類では本能情動中枢と為って居り、 新皮質は爬虫類以上で見られ、哺乳類では大脳の殆(ほとん)どを占め 、人類に至って言語中枢や分別や叡智を司(つかさど)る。 上行性大脳賦活系網様体為る脳幹網様体は脳幹を延髄から視床を 介して、大脳皮質迄上行し、意識レベルの制御 、覚醒・睡眠の調節を し、呼吸、心拍数、血圧の調節中枢であり、生命維持の不可欠機能で ある。又、脊髄を下降して随意運動、筋緊張・反射、姿勢保持、歩行 に係わる。 大脳皮質の上位には、是を包む様に、人類特有の大脳新皮質が其の 表層を覆(おお)い、是が二元相対為る分別の中枢とも為る。 よって、二元相対為る分別を根源的に純粋意識(=涅槃識 )に基づか 使めるには、意識の根を一度根絶して、完全に分別に因(よ)る繋縛(け ばく)から脱却した、宇宙由来の涅槃識 に回帰せ使める事によって可 能と為る。 人間の意識の根を絶つには、涅槃化エネルギーの働きに「覚天」せ 使められる上行性大脳(皮質)賦活系網様体為る脳幹網様体系の 変容を待つ以外には無いのである。 意識と云うものは、脊髄から上行する脳幹網様体系で、快感原則、情 動の発現、共感、記憶等の身から心への橋渡し的役割を司(つかさど) る脳幹、大脳辺縁系、視床下部領域を生(活)かすものである。 坐禅程の安楽は世の中には無いのであって、「解脱」して、刹那に宇宙 の調和と均衡と静謐為る心を初めて知るのである。 生理(本能)的欲求は生存其のもの為る、最も根源的生命であるから、 如何に正法苦行でも、、是は人類の大前提である。 よって、宇宙由来の心的機能と生理(本能)的機能が生命の進化の究 極である。 此処(ここ)にこそ、宇宙の真理為る調和と均一と静謐が、世界人類の 幸福と平和と繁栄として具現されるのである。 受動的消極性に心進化は無い。 抑(そもそも)、座位が瞑想に、更には坐禅へと転じたのである。 自己を自然界に投影する二元論的な汎神論的神話時代から、自然と一 体為る瞑想に転じた。 古代人の、能動受動に渉(わた)らない、農耕生活に於ける日常性での 身の座位から心進化した精神性の流露足る瞑想であった。 心進化するには、 此の能動的積極性でなければ及び得ない。 世界中の日々の地獄の惨状を他所(よそ)目に、テレビゲームで詰め将 棋に勤(いそ)しんでいる場合では無いのである。 核の傘然(しか)り、三毒(貪・瞋・癡)保身体制然(しか)りである。 能動的、積極的に是等の闇を破砕しなければ心進化しない。 二元論に拠(よ)る勝敗や貧富でなく、宇宙への回帰、帰一である。 両者間には、如何(どう)しても、「覚天」して得られる、「人を生(活)かす 」の涅槃為る宇宙由来の涅槃妙心 が不可欠である。 心は「宇宙(生命)の本質」(涅槃)為る真理から促され、身は地上由来 の三毒(貪・瞋・癡)に眩惑(げんわく)される。 人類の心進化は既に涅槃回帰を遂げた。 人類は現実に此の両極、地獄から涅槃で生(活)きて居るのである。 宇宙のエネルギーと云うものが如何為るものかを知るには、地表を観 ずれば、一目瞭然である。 野の花を観(み)れば、其の儘に解(わ)かる。 小生、嘗て寺を飛び出た頃には、「野の花に為ろう。」と思っていた。 是は正に宇宙の真理を謂(い)って居るのである。 生物は夫々(それぞれ)の本分を全(まっと)うして居るのであるが、心 進化した人類だけから三毒(貪・瞋・癡)が生じ、是が真理(実)為らざる 虚偽、誤謬(ごびゅう)為る妄想を生む。 其処(そこ)で、人間は菩提心に依りて人類の迷妄を脱して、人間の本 質的問題、つまり生老病死の四苦、更には言う迄も無く、涅槃為る「宇 宙(生命)の本質」に教導せられて、真理為る究竟涅槃回帰 して、 涅槃妙心 を得、宇宙の涅槃世界を現成(げんじょう)するのである。 万法(=宇宙と心の全て)は宇宙の涅槃化エネルギーが機能して居り、 涅槃へ帰一すべき心進化の唯一為る永久機関である。 涅槃妙心 とは、勝ったか、負けたかでなく、拘(こだわ)るか、拘らない か、つまり白、黒に拘泥(こうでい)せずに、二元論に執著せず、真理帰 一、只(ただ)「全ての人を生(活)かす」 一路為る真道在るのみであ る。 《 涅槃への収束振動 》 小生が「覚天」し、涅槃妙心を得た。 涅槃回帰したが故に、既に涅槃定常なのである。 涅槃への帰一は、何処(どこ)迄も涅槃への収束振動である。 『最後身心』は涅槃定常でありながら、規則性と教導の収束振動 し、 微妙(みみょう)に独自為る減衰振動を遂げたのである。 小生の規則性に於いても、微妙(みみょう)に独自為る規則性であって、 機械的為る死物から躍り出た、生命の本質を生(活)かすべき涅槃妙心 の働きである。 強権支配の如き、人を本質的に殺さ使める、義務教育的一律支配は、 真理 つまり涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に違(たが)うものであり、 世界人類を幸福、平和に至ら使め得るものではない。 世界の指導者足る者は、此の宇宙の真理 に基づいて、大局的に施政 すべきである。 《 坐 禅 》 人間は 坐禅で発明(はつみょう)しなければ、(人生の)答えは出ない。 世界大百科事典《史記》、《漢書》には発明(はつめい)は発見の意で用 いられ、其処(そこ)から日本では考え、悟る心の働きの目覚しい事の 意で用いた。小生は是を「はつみょう」として、坐禅に因る功徳とする。 生命其のものの温(あたた)かさ、落ち着き、安楽、充溢(じゅういつ)で ある。 更に正法苦行(初行)が在れば、其の身、其の場で、誰でも、何時(いつ )でも、何処(どこ)でも真理(実)一路は手てに入るのである。 何処に、其れを追い求める必要も無い。 外には無いのである。 自己とは、然(そ)う云う者である。 『最後身心』の真実である。 抑(そもそも)、有限にして無常為る人間の究竟は、永遠に不滅為る恒 常普遍の真理に回帰(帰一)する以外には無いのである。 事の始まりは、五千年程前からの瞑想にある。 地球に生命が誕生して、植物、動物、そして人類、狩猟から農耕生活。 インダス文明の、最も豊饒な農耕生活(年間の貯蔵)に依る生活のゆと りからの精神の安定、是に随伴して、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)か らの促し に依る精神性の発現に因りて、日常の農耕生活に於ける座 位から瞑想に遷移したのである。 自然との一体感、大いなる心、安楽である。 是がアーリア人に依るバラモン教を生み、其の修行法としてのヨーガ( 行)を生み、梵我一如のウパニシャッド哲学を生み、苦行者としての釈 尊を生んで、中道に因りて成道に至り得て、小生の、涅槃為る「宇宙(生 命)の本質」へ回帰する礎(いしずえ)と為ったのである。 物事と云うものは、完結した確実為る総論が在りて初めて、其の確実為 る各論が成立し得るのである。 完結した総論無くして、各論は在り得ないし、仮令(たとえ)在っても、其 れが人間由来でなく、宇宙由来にして初めて、人間の菩提心に拠りて各 論を生むのである。 其の間、全ては坐禅の功徳、そして其の徹底為る正法苦行の初行と後 行である。 此の延長線上に、『最後身心』としての「覚天」が在り、真理為る道、 涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に教導せられた、「全ての人を生 (活)かす」道、真道が在る。 是、宇宙由来の涅槃世界への一路門である。 真の仏道とは、此の道である。 責務でない。義務でない。使命でもない。 唯、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し に応じた(=感応道交し た)人間の菩提心の相続に他ならない。其の真実の相続である。 此の善業在らばこその今であり、其の報恩である。 不惜身命為る、真理への希求。人間の真実である。 此の宇宙を貫徹する菩提心無くんば、宇宙の真理、つまり其の本質に 回帰する刹那を迎える奇跡は生起(せいき)し得ないのである。 徹底した生涯行が永遠の真理には不可欠為る事は言う迄も無いし、 世の中の一切は、此の永遠の真理に基づかない限り、全ては地獄行き である事も言うに及ばないのである。 宇宙の本質に回帰した小生『最後身心』が其の真理の証(あかし)であ る。 奇跡とは然(そ)う云うものである。 故に真理なのである。 自己の命で済む問題でない、 宇宙の命、宇宙の根源為る涅槃化エネルギーと為らねば及び得ない。 如何(どう)して、涅槃為るエネルギーなのか。 其れは坐禅の功徳から明らかである。 坐禅の功徳の安楽は人間の迷妄の酔いからの覚醒に起因するもので あり、是は永遠に涅槃へ直結するものであり、是、宇宙の涅槃化エネル ギーの本質であり、現象である事は瞑想、ヨーガに於いても明らかであ る。何(いず)れも始めは苦痛であっても、親しめば親しむ程に、坐睡に 於いても安楽が増大する。故に托鉢の無い毎月初めの五日間の攝心 は、毎回敢えて忠実に、其の様に休憩を取ったのであった。 世間と真剣に四つに取り組むとは、結局然(そ)う云う事に為るのである 。世間の事は、其処(そこ)には、もう既に無い。 涅槃為る「宇宙(生命)の本質」との取り組みと為る。 其処(そこ)が究極の人生(=正法苦行)の限界である。 安楽の法門しかない。 然(しか)るに、明解に世界人類に教導すべき答えが無いから、其の立 場で、恰(あたか)も終戦の特攻隊員の様に終わる事を自己の使命と為 したのである。 抑(そもそも)是以外の立場は誰も知る由(よし)も無い。 小生、「覚天」したから実情を斯様(かよう)に正直に語るのであるが、「 覚天」前には、是以上のものは何処(どこ)にも在り得る筈も無かったの である。 若(も)し在るとすれば、其れは宇宙の力であるだろう。 其れは宇宙に散在するエネルギーに他ならないのである。 其の働きは、言う迄も無く涅槃化である。 果たして、奇跡裡の奇跡事、偶然裡の必然事として、「覚天」為る真中 道に拠りて、宇宙の一大事を了畢(りょうひつ)したのである。 是等は全て、釈尊の仏道と同様、成道後にフィードバック出来る処の 「覚天」後の真道である。 中道に因る成道無くして仏道無く、正法苦行に因る真中道無くして 真道無し。 刹那に打ちのめされる、宇宙本質の『人類への裁き』は霹靂閃電(へ きれきせんでん)の教導である。 是程の超名外科医は無い。『 求めよ、然(さ)らば与えられん』。 求道(ぐどう)に於ける因果の道理、不昧因果 を是程、明確に語り尽く して余り有るのは無いのである。 此処(ここ)迄の菩提心の力は、正に宇宙の涅槃化エネルギーの本質 であり、現象である。 長年の真実一路の賜(たまもの)に他ならない。 多様性の蓄積でなく、真理(実)の蓄積にして初めて、完遂成るのであ る。 常に緊張感の在る、正念相続在るのみ。 其の意味での向上、向下為る永遠の向上一路完遂である。 《 人間の生き方 》 人間の生き方と云うものは、人類の為に生きるか、其れとも自分が勝つ か、の何(いず)れかである。 世間と云うのは、大抵(たいてい)後者であり、前者の様な、より人間的 な生き方とは為らず、より動物的な生き方が大半である。 其処(そこ)迄の菩提心を発(おこ)して生きている人間は果たして幾許( いくばか)りぞ? 国会、政界を見れば明らかではないか。 保身、忖度、温存、安泰……、赤木ファイルである。 若(も)し、人類の為に生きるのであれば、決して然(そ)うは為(な)らな いのである。 事実を明らかに観れば、実は淋(さみ)しいものである。心寒い。 中中、発菩提(道)心しない。 世界人類の為と云う問題意識が発(おこ)らない。 菩提(道)心無ければ、保身、温存、忖度、安泰しか無いのである。 人類の価値とは、菩提心の有無である。 菩提心が無い処(どころ)か、三毒(貪・瞋・癡)に他ならないのが世間と 云うものの本質である。 《 婆(ばばあ) 》 世の中の有機的構成系の主役は婆(ばばあ)である。 是が、男女間の三毒(貪・瞋・癡)界からの地獄の諸相の源(みなもと)と 為っているのである。 つまり、貪・瞋・癡 の源(みなもと)である。 婆(ばばあ)自(みずか)らの貪・瞋・癡 を敷衍(ふえん)して、地獄根性 を逞(たくま)しくするのである。 嘗(かっ)て、吾師が、或る時、「婆(ばばあ)だ!」と大きな声で言った。 そして又、身体(からだ)を両腕で支えて、浮いた身体(からだ)をブラン コの様に前後に揺らせたのである。爪先を突き上げる様にして―。 然(しか)るに、此の実体は肩凝(こ)りの様なもので、実体無きものに過 ぎない。 飽(あ)く迄(まで)、貪により瞋であり、癡であるが故の貪著の骨の無さ である。 女性と云う者は、自(みずか)ら、其の分身を孕(はら)む。 其処(そこ)が、男と異なる、最足る処である。 しかし、分身が何処(どこ)から生まれるかは、精子と卵子との二個の性 細胞の合体に基づく一受精卵からであって、此処(ここ)に男女平等性 の根拠が在る。 社会的役割に於いても、雄性と雌性が合体する事に縁(よ)りて、つまり 往相(雄性)、回帰(合体)、還相(雌性)に拠りて初めて涅槃世界が現 成(げんじょう)するのであるが、環境的制約に依りて、中々然(そ)う、 即刻、理想通りには往かないが、其処(そこ)に於いて相互に切磋琢磨 (せっさたくま)するのが、人間の根本的な在り様であるし、又然(そ)う でなければ為らないのである。 世界人類の、平等足る一人間としてである。 男女互いに、性差に拘(かかわ)らず、性欲に感(かま)けては居れない のである。 人が人を思う、基本的な在り様が問われるのである。 吾事(わがごと)の様に。 互いに、互いの事を思い遣る。自分の為無く。 是が諸国家間に於いても全く異ならないのである。 此処(ここ)が過(あやま)たず、突っ走らない事である。 量的、強弱、大小の問題でなく、本質の問題である。 矢張り、法の流れと云うものは、真理の流れである。 是が真実であり、『最後身心』から世界中に行き渡るのである。 真理が世界を照らす。 一国のリーダーと云う訳には往かないのである。 世界が斯様(かよう)に制する。 「求めよ、然(さ)らば与えられん」とは、人間由来で求めるのではない。 求める、つまり真の菩提心に拠りて、正法苦行を行ずるのである。 然(さ)らばこそ、「覚天」したのであった。 斯(こ)うでなければ、真理無く、真理の流れは生じ得ないのである。 真理の流れは世界人類の幸福と平和と繁栄の完遂を顕現する。 「世界人類が世界人類を生(活)かす」のである。 自己を捨てて、「世界人類を生(活)かす」事の帰結である。 イスラム圏の男尊女卑は、不毛地帯(石油以外)の貧(ひん)と存続の ゆとり(=安定感)の無さに起因して居るのかと思うが、矢張り、貧(ひん )が根本にある。 貧(ひん)の厳しさは貪著処ではないのである。 然(しか)るに、然(さ)ればこそ、厳しく人が人を思い遣らねば為らない のであって、其の根本的在り様は不動である。 短絡的に男尊女卑に陥(おちい)るのは、人間の浅薄さ以外の何もので もない。 《 人間の本質 》 宇宙(のエネルギー)は、其の総ての諸要素をして、万物を生ま使め 、其の霊長として、我々人類を創出し、そして其の本因足る本源の諸要 素に迄、回帰せ使めたのである。又、 万物の霊長特有の大脳新皮質の分別の、総(すべ)てを分け隔てて、 其の詳細を極め使めると共に、時空の究極を究竟せ使め、自己の刹那 に至りて、無限為る大宇宙の本質に回帰せ使めたのである。 一方で、其の副産物として、人類には自己中心に他を差別しようとする 心(=我執)に、同じ人間で在りながら、是に著(じゃく)する心の未熟さ の、未だ心進化の途上に在るのである。 心進化の個人差、国家差、文明差がある。 此の心進化に特化する心が菩提心である。 菩提心に特化する者が求道者であり、此の究竟を究盡(ぐうじん)した のが『最後身心』である。 『最後身心』程の極大小を究盡し尽くした者は居ない。 心進化し尽くして、其処(そこ)に、如何為る差別も在り得ないのである。 総て平等為る本因として、受容して居る涅槃妙心である。 人類の如何為る差別も、自己を中心として、他を思い通りに我執(がし ゅう)に基づいて対処してしまう。 人間は、此の心に拠りて、世界を我執で制圧しないでは居れないので ある。 是等の未熟さは、心進化の途上の、人類の副産物であって、是は人類 の真実の姿ではないと云う事を、人類は教育し、自心の菩提心に依り て心進化し、自覚しなければ為らないのである。 遣(や)れ男だ、女だ、白だ、黒だ、異人種だ、異宗教だと、自己以外の 者を分別に拠りて排斥して、本源為る、太陽の如き「自利利人の法」を 見失って居るのである。 宇宙の自然の力で、凛として立つ植物の生(活)きた力、是が「自利利 人の法」である。 自然の力と云うものは、本来然(そ)の様なもので、生(活)かし合うのが 自然の在り様なのである。 人類三毒(貪・瞋・癡)から覚(さ)めて、本源回帰し、凛として立つ植物 の本源の力(=宇宙の涅槃化エネルギー)を大宇宙に至る迄、復元し なければ為らない。 其れを涅槃帰一と謂う。 宇宙は全てを取り込んで、其の涅槃化エネルギーに拠りて身心進化せ 使めているのである。 「世界人類を生(活)かし合わ使める」のでなければ、人類は未だ心進 化し切れて居ないのである。 宇宙は涅槃化の永久機関である。 涅槃化とは「世界人類を生(活)かす」と云う事である。 其の真実の姿が、宇宙の調和と均衡と静謐なのである。 是を真理と謂う。 「宇宙(生命)の本質」である。 是が人類の本質なのである。 此の本質に回帰、帰一する処(ところ)に、人間の真価が在るのである 。 真理(実)為る宇宙のエネルギーに基づき、人類三毒(貪・瞋・癡)に基 づく虚偽や誤謬(ごびゅう)為る妄想ではないからである。 《 自己とは 》 自己の中には、自己と他己とが在る。 要するに、吾(わが)心中の自分と人との事である。 托鉢と規則性が自己であり、教導(ネット)が他己である。 自他一如であり、是等両者には相乗効果が在る。 要するに、両者の調和と均衡と静謐が要(かなめ)であり、不可欠なの である。 小生の自己と他己とは、人間の意識上では二元相対の両極を為す。 例えば、取った取られた、勝った負けた、損得等である。 最も一般的なのが、諸々の禽獣(きんじゅう;けだもの)と相異なる事無 きセックスと金の問題である。是も、命を持続させる為の最低限の金の 事で無く、人類三毒(貪・瞋・癡)由来のものである。 彼等にとっては、其れが彼等の死活と為るのであろう。 小生にとっては、托鉢と規則性と教導とのバランスに過ぎない。 是は無色透明の光の三原色の様で、自己の中の自己と他己とが一如 為る時、宇宙の真理を現成(げんじょう)して居る状態である。 兎角(とかく)、人が金とセックスに貪著する様に、小生は他己に傾く傾 向がある。尤(もっと)も、もう其の年齢でもあるのだろう。 料理で言えば、塩加減である。 人の為に、最も宜しい塩梅(あんばい)に工夫するのである。 其れから、二元相対世界の人間と云う者は、 未だ心進化が未熟であるから、釈尊手掌上の悟空と為らざるを得ない のである。 是は、どの世界でも同様である。 要は、未だ二元相対世界の人間か、或いは自他一如で世界人類の平 和を願う人間かの違いである。 人類は心進化しない限り、其の住む世界は閉ざされてしまうのである。 強弱、大小、勝敗等の、量の二元相対世界の問題でなく、 「人を生(活)かす」人間としての、質の、真の人間の大きさの問題であ る。 どんなに人を誤魔化せても、自己を誤魔化す事は出来ないのである。 造悪の者は、其の悪業報は避けられないし、修善の者は、其の善果成 るのである。 《 コロナウィルスの弱点 》 コロナウィルスの最大の強敵は、世界人類の、真理に基づく、信頼団結 であり、其の最大の強みは、世界人類の、三毒(貪・瞋・癡)に基づく衝 動と分断に因って生起する人心の隙(すき)である。 無生物から生物への境界域為るウィルスは涅槃化エネルギーに派生し た原始生命(非細胞性生物、生物学的存在、仮説)である。 ウィルスでさえ、因果の道理に違(たが)えない事は事実が証明してい る。 抑(そもそも)『最後身心』に拠りて因果の道理は確証されたのである。 是は人類の意識では及び得ない処の涅槃識でなければ、不可思議為 る奇跡の「悟り(身心脱落)」、「解脱」、「覚天(涅槃入り)」を生起せ使む 涅槃化エネルギーの働きは解明し得ないのであるが、是も涅槃化エネ ルギーの刹那、刹那の涅槃化機能(=因果の道理)が生起せ使める突 然変異なのである。 何故に、自己の精神構造が崩落現象を起こしたのか? 何故に、「解脱」して涅槃世界に触れ得たのか? 何故に、「覚天」して涅槃入り、つまり涅槃回帰し得たのか? 全ては宇宙エネルギーの本質である涅槃化の働きに因るものである。 不昧因果為る善因善果、悪因悪果である。 斯(か)るが故に、宇宙由来の斯(こ)うした涅槃化機能のみならず、同 じく発菩提(ほつぼだい)の感奮興起(かんぷんこうき)が不可欠なので ある。 小生、東京オリ・パラ開催時を顧(かえり)みるに、 開催予定の一ヶ月前からコロナ渦被害者が増大する事が懸念されて、 何とか阻止すべきであると、托鉢に出る気が起(おこ)らず、結果、一ヶ 月間、一度も托鉢に出ずにネットに懸(か)かったのである。 「人を生(活)かす」為に生きている小生からすれば、世界人類が其の被 害によって死んで行くのを黙認出来なかったからである。 貯蓄が在る訳で無し、薄氷を踏む想いである。 日本の風土は四季の微妙な移ろいに生(活)かされて来て、日本人の 精神に其の自然の繊細さが反映されているのである。 鈴木大拙氏の『日本的霊性』にも、其の日本人の風土に培(つちか)わ れた精神性が反映されているのである。 斯(か)様な訳で、海外に「悟り」無く、神信仰である。 日本人は海外に流されるのではなく、世界に冠足る真理を教導するの でなければ、世界に真理無しと為る。 真理が現実のものと為らねば心進化の意味が無い。 是こそ、正に政治家の使命と為さねばならないのである。 人間と云う者は、究極は自己に戻るのである。 自身に生起する自心である。 心は必ず吾(わが)身に戻り、吾身を介して 宇宙へ回帰するのである。 神は吾身由来である。神信仰は人格者である。 学問は「積み木の館」で、其の本質は涅槃化エネルギーである。 世界人類は、最早、真理を見究めるべき時機に至り得ている。 《 出身の活路(真実の出口) 》 自己(=能力)でないもの(=宇宙の涅槃化エネルギー)によって処(し ょ)(=教導)せられた体験と、後(あと)一つは、 自力の限りを尽くして至り得た体験の違いは、 三途の川を隔てた此岸(しがん)と彼岸の違いである。 更に、現実は然(そ)の様に単純なものではない。 行ったきりでは、使い物に為らない。 此岸へ戻って来なければ為らないのである。 而(しか)も、彼岸の 最果(さいは)てから折り返した人間が戻って来ても 、此岸の人間には異質にしか受取る事が出来ないのである。 まぁー、其れ程、人間の三毒(貪・瞋・癡) と云うものが人血に溶け込 んで、純血には為り難い。 愛著、愛惜と謂われるもの、或いは(心的)淫快への執著である。 血の毒気が抜ける迄に不可欠為るものが菩提心 である。 是が真の能動積極性である。 其れが本物であれば、自(おの)ずから大乗禅に直結する。 三途の川は渡ろうとして渡れるものではない。 「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」 一方は二元相対世界のものであるが、他方は真理の涅槃世界である。 釈尊が自(みずか)らを『最後身』と自称した様に、小生の『最後身心』を 世界人類が各自で自(みずか)ら実践する以外無い。 是が世界平和への最短路である。 此の世に、「人世の控え室」等は無いのである。 常に命の限りを尽くして、自己を施す事だけである。 要は、真理の弁(わきま)え である。 若(も)し、是無ければ、人類は永遠に地獄を脱却し得ない。 人類は自己の諸能力に依存して居れば、生涯を送れるのであるが、 其処(そこ)に保身すべきではない。 受動消極的生活でなく、真に能動積極的生き方とは、皮肉にも自己を 忘れ、発菩提(ほつぼだい)する事である。 能力や自己満足や諦観(ていかん)や安泰や保身ではないのである。 又、其れ等以外の、ありふれた人間らしい生き方が最も一般的ではある が、其れ等は、諸能力に依存する生き方に準ずるものであり、何(いず) れも釈尊断食苦行での中道(諦観)迄である。 釈尊も成道する迄は釈尊手掌上の悟空に他ならなかったのである。 何(いず)れも迷路為る迷妄の域を出ない。 残念ながら、正直、小生も是以外の事は言えない。 どんなに人生が長かろうとも、此の一言に尽きる。 後は、各人が何処迄(どこまで)、是に対して能動積極的に此の道を歩 めるかである。 然(さ)も無くんば、恰(あたか)も二十日鼠(ハツカネズミ)が車輪内の底 で走り続ける様なものである。 然(しか)るに、真道の歩み を始めれば、人間は悟空から脱却出来る のである。 生きながら、彼岸に赴(おもむ)けるのである。 「真道の歩み」とは「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし、生(活 )かし合わ使める」事である。 身近(みぢか)から。其れ以外には無い。 是、「出身の活路」である。 是、永遠に不滅為る恒常普遍の真理 である。 世界の指導者達から、是を率先垂範しなければ為らない。 力(武力、権力)では勝っても、教導出来ない。 世界は勝ち負けの二元相対世界では治まるものではない。 相対的に制圧出来るだけであり、地獄しか生まないのである。 世界平和には近付けない。 「真理 無くして、平和無し」である。 《 独自為る規則性 》 独自為る規則性の独自とは、真理為る自己の事である。 真理為る自己とは、他の及び得ざる自己の事である。 自己裡の自己、刹那裡の刹那、即ち涅槃化エネルギーの刹那である。 是、真理に制せられ足る刹那の事である。 菩提心によりて初めて至り得る刹那、刹那為る真理である。 刹那の真理、真理の刹那。 刹那に刹那為ら使められるのである。 宇宙の進化とは、正に然(そ)う云うものであろう。 是が宇宙をして、調和と均衡と静謐為ら使めて居るのである。 宇宙の調和と均衡と静謐の刹那を体現して居る者が初めて、 世界人類の幸福と平和と繁栄を具現為ら使めるのである。 真 理 世界的指導者足る者の幻想は、釈尊中道に拠りて脱落し、 9・11自爆テロの如く崩壊して、人民に制せられて初めて、 真理道足る真道 を得るのである。 是、「覚天」(=真中道)せずに、涅槃帰一する唯一の難関である。 今 、『最後身心』足り得なければ、永遠に此の地獄の出口から出る事は 出来ない。 今、バイデン大統領と習国家主席の真価の 時である。 真理為る涅槃妙心智慧を生まねばならない。 核兵器禁止条約締結の基軸を率先垂範して、 涅槃収束振動為ら使めねばならないのである。 真理不動。 永遠に不滅為る恒常普遍の真理である。 《 人間(物)評価 》 小生は 総ての人間を、絶対為る真実の二元相対で、濁り水としての一 人間の上澄み液と、沈殿した汚濁とを分離出来る。 世界と云うものは、絶対に前者主導でなければ為らない。 前者とは、我執(しゅう)無く、「世界人類を生(活)かす」人物足る人間の 資質を謂う。是は宇宙の涅槃化エネルギーに基づく人材である。 一方、後者とは我執為る三毒(貪・瞋・癡)に基づいて居る人間で、彼等 のすむ世界は必ず地獄と為らざるを得ない。 禽獣(きんじゅう;けだもの)の棲む世界である。 光無き暗闇の世界であり、心の生(活)き得ない世界である。 心進化為らざる、心退化した身の閉塞世界であり、其れは、人間が住 める世界ではない処の地獄である。 人類の三毒(貪・瞋・癡)は、然(そ)の様なものを生んでしまうのである。 狂気しかない。 然(さ)て、以上の上澄みと汚濁、極論すれば、真理由来と三毒(貪・瞋 ・癡)由来の是等の真実は、古来人類の宗教、芸術、学問の重大為る 課題でもあったのだ。 全ての偉大為る作品の主題と為るべきものである。 然(しか)るに、是を作品としてでなく、現実に体現し、教導し、世界平和 完遂の要諦(ようてい)として、明確に開示出来るのは、唯、『最後身心』 のみである。 正に是が施政の根本足らねばならないのである。 盲目の施政でなく、真理発動の施政でなければ為らない。 コンピューターの独り歩きも、人類三毒(貪・瞋・癡)と為らざるを得ない のである。 何と為れば、人間由来のコンピューター為るが故に。 未知為る根本原理を教導出来る人物が居なければ、世の中は解決出 来ない。 人類は是迄、一人でも真理を人類に開示し得た人物が居たか? 四大聖人、釈尊、孔子、ソクラテス、イエス等、一体誰が真理(実)を語り 得たであろうか? 唯一人、釈尊のみが其の礎(いしずえ)と為りて、小生が宇宙真理に回 帰し得たのである。 釈尊は涅槃為る「宇宙(生命)の本質」からの促し としての涅槃化エ ネルギーの働きに依るものである。 後は唯、世界人類の本気度が至り得ていないだけである。 三毒(貪・瞋・癡)に自(みずか)ら翻弄されながら、正面から小生に向か い合おうとして居る人間は? 世界の指導者達は? 真理は解(わ)かっても、是を完遂するのは容易ではない。 世界規模の格差に因り、物質的、精神的基本的条件が確保されていな いが為である。 然(しか)るに、是を完遂為ら使めねば為らない事も自明の事実である。 其れ以外には、道は皆無であるが故に、此の一歩、一歩が不可欠為る 事は、真面(まとも)な人間為らば、其れは百も承知して居るのである。 否、承知せざるを得ないと云うのが真実である。 然(しか)るに、此の一歩が困難である。 此の一歩の重みは無限大である。 此の困難を各自が自己超克(ちょうこく)する事こそ、人間としての、そし て人類の真価中の真価なのである。 是以外の人類が向かうべき方向性と云うものは無い。 困難性と云う事と、真理の明確性との両極相は、或る意味で、坐禅とも 相同性がある。 坐禅を組む事程、人間にとって厄介で、面倒で、厭(いや)なものは無い であろう。 態々(わざわざ)世人の為すべきものでないと云うのが世間の通性であ る。 然(しか)るに、是も徹すれば、人間、三時間坐睡二十四時間仏作仏行 が最も、「生きるのに安楽也」と知るのである。 是は人間、実際、「生きる」事程、困難至極為る事は無い、と云う事を明 らかに証明している。 しかし、其処(そこ)迄苦労する者は、小生『最後身心』唯一人である。 其の仏果は、独楽(こま)が不動の如く回転して居る様なものである。 是、宇宙の調和と均衡と静謐を体現して居る。 独り楽しむには、独楽(こま)に限るのである。否、独楽以外には、世の 中には真理の教導は、為し得ないと言っても過言では無い。 然(そ)う云う次第で、困難性と明確性とは独楽(こま)に譬(たと)えれば 、独楽が何の働きも無く、放置されて居る状態と、最大限作動して居る 状態との両極相である。 同じ独楽でありながら、其の両極相に於ける、人類三毒(貪・瞋・癡)の 、真理への一歩なのである。 人間も放置された独楽でなく、同じ人間ならば、作動、つまり最も困難為 る一歩を踏み出す。 独楽であるならば回す。 回すとは発(ほつ)菩提すると云う事である。 菩提(道)心を発(おこ)すと云う事である。 其れも、フラフラ頼り無く回転するのではなく、独楽の特性は、見事に回 転すればする程、不動と為る。 是が独楽の独楽足る至高の姿なのである。 全ての抵抗無ければ、不動の永久機関と成る。 涅槃化エネルギー足るのである。 独楽が独楽足らずして何ぞ。 人間が人間足らずして何ぞ。 社会通念に起因する処の困難性から、正法苦行果の明確性への両極 相間の移行と変遷である。 三善根(施・慈・慧)の帰する処は、「人を生(活)かす」事であり、 三毒(貪・瞋・癡)の帰する処は、「人を殺す」事である。 宇宙由来は「人を生(活)かす」。 人間由来は「人を殺す」事に帰する。是を癡と謂う。 人間と云う者は無知にして、其れ程に、実に愚かしき者なのである。 斯(か)るが故に、今に至って居るのである。 此の時点の苦と言えば、未だ涅槃妙心為らぬ極佛心由来の苦である。 つまり、真理を知らない事が如何に人心を誤らせ、疲弊させるかは測り 知れないものが在る。 宇宙の涅槃化エネルギーは正に此の究極の苦を払拭してくれたのであ る。 人類の究極の苦は生老病死の四苦に在らずして、真理を知らざる処に 在る。 地獄は正に其処(そこ)に起因すると言っても過言ではないのである。 人間は「人を生(活)かす」為に生きて居るのだと云う真理、此の宇宙の 涅槃化エネルギーの本質を覚(さと)れば、人間は宇宙の一大事を了畢 (りょうひつ)したのである。 正に是を知る為の坐禅であり、正法苦行であったのだ。 世界の涅槃収束が切実に待ち遠しい。 物事と云うものは、始めが肝心である。 始め精粋(せいすい)為らば、結果も亦(また)精粋である。 《 平和収束への余命の見立て 》 小生の大脳新皮質に拠る教導も、是位にして、規則性基軸に復帰しよ うと判断した。自己の生活(=托鉢と規則性)の為である。 エネルギーの使い様、つまり教導と規則性(托鉢)への効果的なエネル ギー配分である。 規則性の制約でない、或る程度の自然体の有効性を小生は認める。 是、正法苦行とは真逆の、真理を得て初めて受容される処の、教導の 為に不可欠為る自由度である。 是が人心の真実である。 教導にも振幅と云うものがあって、規則性と教導との自然体への収束 振動が、世界の地獄と平和との涅槃世界への収束振動に対応するの である。 世界平和為ら使めんとする、小生の余命の真実であろう。 収束への見立てである。 小生が宇宙に回帰したと云う事は、生命のドラマは小生であると云う事 を示唆する以外の何者でも無いのである。つまり無限為る宇宙の帰す る所が小生であると云う事。 つまり小生の語る真理(実)は、宇宙を語り続けていると云う事に他なら ない。 従って、人間と云う者は、皆一人一人が宇宙を代表していると言う自覚 を持つべきである。 《 「覚天」の要因 》 小生が「覚天」する迄、継続して生涯厳密千日行攝心会(毎(隔)月始 五日間)を実行した。 其の間、記憶にあるのは、一度青年二人からの問い合わせを受けたが 、二度と掛かって来る事は無かった。 故に小生としては、為し得た挙句の、否、然(さ)らばこその「覚天」なの である。 攝心会と云う初発(ほつ)菩提(道)心を、「覚天」する迄継続して、今と 為っては、来る筈も無かった五日間の三時間坐睡二十四時間仏作仏行 を実践し続けたのは、二元相対の世界では考えられない行為である。 一体何処(どこ)に、然(そ)うする根拠が在り得るのか?と。 其れは、仮令(たとえ)其れが、小生独りの事であっても、然(そ)うでな ければ、成り立たないのだと云う堅固為る信念に基づくものなのである 。斯(か)るが故に、奇跡が生起し得たのであった。 若(も)し、小生が其れを止めていたならば、バランスが崩(くず)れて、 宇宙の調和と均衡と静謐から乖離し、「覚天」は生じ得なかったであろ う。 奇跡を起こすには、其の徹底した、真実為る信(頼)の能動積極性が不 可欠なのである。 信念無くして、信頼は生じ得ず、自己の信念とは真理へ直結する処の 信念である事は疑いの余地が無い。 真理の体現者『最後身心』が其れを証明して居るのである。 信頼とは、他者に対するものであるばかりでなく、其の根底には、然( そ)うでなければ為らないと云う自己の信(念)が堅固不動でなけれ ば、人への信頼と云うものは相対的なものに留(とど)まって終って いたであろう。 人を信頼するには、其の根底に自己の不動の信念が不可欠なのであ る。 是は意識には上らない、無意識の領域で為されるものであり、精粋為る 自己に起因する処の宇宙由来の真実なのである。 正因為る刹那の相続以外の何者でもない。 是が不昧因果為る因果の道理足るものである。 此の宇宙の真理に違(たが)えて、戦争が勃発したら、最早、取り返しの 付かない地獄に陥(おちい)らざるを得ないのである。 人類は幻想を抱くべきではない。 然(そ)う為る前に、人類の進化の究極為る涅槃妙心智慧である。 人類の勇気とは、他己に勝つ勇気でなく、自己に克って「人を生(活)か す」勇気が真の勇気である。 極論すれば、、人間、そして其の運命は、生理(本能)的欲求の奴隷で あるか、或いは其れを自由に制し得る人間かの違いで、其の運命は決 定するのである。 然(しか)れども、飲食が出来るか、出来ないかが、其の根底に在る。 是こそ、正に政治の最低限の使命である。 然(しか)るに、現実は、此の最低限を確保する処か、「人を殺す」のが 政治であったし、然(そ)うなのである。 人間は、人類が為すべき最低限為る物質的、精神的基本的条件すら 確保する事も出来ない。 二十一世紀は、「世界人類を生(活)かし、生(活)かし合わ使める」、真 理黎明(れいめい)期なのである。 先ず、此の自覚が確立されていない。 如何(いか)にして、既知為る明確な真理を、世界人類が自覚し得る方 策が在り得るのか? 真理教導法である。 今日に至る迄、世界人類に真理を教導した史実が在り得たであろうか。 神信仰に因る長期に亘る十字軍遠征か、科学的原爆投下位であり、分 断と破壊に因る、格差を生む資本主義台頭位であり、其れ等の末路為 る自然破壊と人間破壊の現代である。 今でこそ、空前絶後に、小生鐵漢に拠りて人類に真理が齎(もたら)され た。 斯(か)くして、世界人類が此の真実の道、真道 を模索し始めたのであ る。 其処(そこ)に新たに、米中の対立構造を露呈して来た。 是は二元相対為る物質文明の資本主義の末路に於ける強権支配体制 の台頭である。 然(しか)るに、是も二元相対である限りに於いて、前者の再現に他なら ないのであり、其処(そこ)に世界人類が、従来の覇権でなく、「世界人 類を生(活)かし、生(活)かし合わ使める」、既知為る真理に路線を切り 替えねばならないのである。 此の自覚が不可欠である。 其れを主導するのが日本の使命なのである。 此の日本の立場無くして、其れは不可能である。 従来の二元相対の対立思考形態では、ハツカネズミの地獄行きに他な らない。 日本人主導の世界の潮流の切り替えを、日本が先導しなければ為らな いと云う、堅固為る信念が今、最も不可欠なのである。 是無くして、涅槃への収束振動は無いのである。 此の、真理に基づく不退転の信念が新世紀の要である。 大い為る真理基軸黎明の時 である。 《 余生の可能性 》 今、将来を鑑みるに、我々人類の、生命に対する最も俯瞰的為る把握 が不可欠である。 其れは、涅槃為る宇宙の真理を理解する処から始まるのである。 抑(そもそも)1400余年前 、聖徳太子が十七条憲法を制定せられ、 其の第二条に曰く、 『篤(あつ)く三宝を敬え、三宝とは仏と法と僧也。即ち四生(=生物)の 終帰(=最終的に帰する)、万国の極宗(=究極の宗教)也。何(いず) れの世、何れの人か、此の法を貴(とうと)ばざる。人甚だ悪しきは鮮( すく)なし、能(よ)く教うれば之(これ)に従う。其れ三宝に帰せずんば、 何を以(も)ってか枉れる(=曲がった心)を直(なお)さん。』と。 是に拠りて、大乗仏教は日本の施政に廓然大公(かくぜんたいこう)の 心構えが根を下ろしたのである。 第一条の「和」の精神は、世界が今、最も必要としている思想である。 後(あと)は、通戒偈(諸悪莫作 修善奉行 自浄其意 是諸仏教)と 三毒(貪・瞋・癡)排除である。 聖徳太子が毎日夢殿で坐禅して国政を閲(えっ)せられ、日本及び世界 の平和の道は大聖釈尊の説かれた三宝帰依の他に道無しと確信して 、此の事を憲法に謳(うた)われたのであります。 以来、小生に至りて、宇宙の真理を見事に体現し、ネットを介して世界 人類に教導して居るのである。 最早、自己に可能為る最大限を為すだけで、其れ以上の事は出来まい と云う処が真実である。 自己にどれだけの事が出来るかは、其の人の対外的諸条件次第であ る。 後は、生活(=托鉢)の為に、規則性主導で行くだけである。 百言わなければ為らないとすると、既に九十三は言っていると思う。 只、生涯言い続ける事は変えないが、其れは一として置こう。 つまり、後六位は出てくるであろうと云う事である。 但し、肝心な事は、是は然様(さよう)な量的世界の問題では無い。 量的には仮令(たとえ)一であろうとも、質的には無限大である事も当然 ながら在るのである。 然(さ)て、世界人類に内在する最も普遍的為る対立要因は人類の生 理(本能)的欲求の食欲と性欲であり、是を総べての根源と仮定し得る 事は、人類の進化の過程、又学問的にも古来取り沙汰されて来て居る 処である。 小生は、総てを包括して、真理の立場から真実を述べるのである。 先ず、世界人類の迷妄の根本為る性欲について、 更に、有機的構成系での男女間の心的淫快については、動物間に於い て、本能的に正に有機的構成系の一機能として作用して居るのである が、心進化には「解脱」して、回帰して新たに、有機的構成系(=欲界中 )での其の不可避性を覚(さと)らざるを得ない処であるが、其処(そこ)( =涅槃)に於いては、慈父と子の立場、つまり「大解脱人」と人との在り 様でなければ、人間が最も覚(さと)り易い性欲に於いてすら、其の在り 様でなければ世の中は整わないのである。 慈父とは、菩提心で能動積極的に、真に「人を生(活)かす」人の事であ り、「人を生(活)かす」人とは、菩提心で能動積極的に、真に「世界人類 を生(活)かし、生(活)かし合わ使める」人の事である。 但し、是も規則性(10;20、8;30、11;00)の基(もと)での事である。 是が自己であり、更には其れ等を支える托鉢と為るのである。 況(ま)して、人類の生存に係わる食欲に於いては、有限為る地球上に 於いて、争奪する在り様では、戦争が始まるのも不思議では無い。 挙句の果ては、原爆支配体制下で強者が弱者を抑え込む以外には無 いのである。 釈尊が般涅槃(=入滅)に、御遺教、最後に、『我今滅を得る事悪病を除 くが如し。此れは是、当(まさ)に捨つべき罪悪の者也。仮に名付けて身 と為す、老病生死の大海に没在せり。何ぞ智者は之を除滅する事を得 る事、怨賊を殺すが如くにして、而(しか)も歓喜せざる事在らん哉。』と 諭された。 要するに、人間レベルで表現すれば、身由来であるか、其れとも涅槃妙 心由来の「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し、及び菩提心かと云う 事である。 人類は身から心進化したのであり、其の心の母体は身体である。 従って必然的に、元来、心で身を制し得る のである。 取り分け精神機能の最も高次為る菩提心等は人類特有の大脳新皮質 の前頭葉の前野で営まれる。 つまり進化の先が、其の元(もと)を制するのである。 進化は遺伝子の突然変異で系統樹の根元から末端へ、更には身から 心へと進化を遂げた。 人類の身から心進化を遂げる過程で、摂食と生殖、そして菩提心として の身、そして「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しに生起した坐禅、 それから宇宙に回帰せ使められた身心への心進化の過程を辿ってみ る。 坐禅は常に菩提心に拠る究竟涅槃心、つまり菩提を究盡する極佛行に 基づき、直立不動を維持する事によりて、人類の起源としての身の形 を維持する行に依りて、自己 を忘れ、そして何時(いつ)しか宇宙の真 理に回帰して涅槃を知る唯一の方法なのである。 此処(ここ)で、忘れるべき自己 について大脳生理学的に触れて置く。 上行性大脳賦活系網様体為る脳幹網様体は脳幹を延髄から視床を 介して、大脳皮質迄上行し、意識レベルの制御 、覚醒・睡眠の調節を し、呼吸、心拍数、血圧の調節中枢であり、生命維持の不可欠機能で ある。又、脊髄を下降して随意運動、筋緊張・反射、姿勢保持、歩行 に係わる。 忘れるべき自己(=身) とは、 ・脳幹始動の反射的生命現象の生理(本能)的欲求としての身と、 ・大脳辺縁系始動の哺乳類的本能の本能・情動のフロイトに拠る人間の 快感原則(無意識的生体恒常性)と現実原則(前意識的快感原則の変 形(=欲動の昇華))としての身と、 ・大脳新皮質の分別に拠る三毒(貪・瞋・癡)に基づく身である。 坐禅は、上記の自己(=身) も含めて、坐禅の功徳に身を任(まか)し 、「悟り(身心脱落し)」、やがては正法苦行に拠りて、涅槃識に回帰し、 涅槃妙心智慧を得るのである。 故に常に坐禅中に身心で 「悟り(身心脱落)」、「解脱」、「覚天(涅槃入 り)」を体現するのである。 身を生(活)かすのは心である。 人身で人心を制する事は涅槃化為る真理に違(たが)える事であり、 宇宙の諸現象を逆行する行為で、必ず其れは崩壊するのである。 常に進化の最先端が、世界人類を教導すべきである。 其れが進化の進化足るべき所以(ゆえん)であり、涅槃為る「宇宙(生命 )の本質」に回帰し得た『最後身心』としての究竟の使命なのである。 哺乳類の脳幹(生命保持)から人類の上行性大脳賦活系(意識レベル 制御・姿勢保持)への進化の原点に回帰する最足るものが正法苦行の 千日初行なのである。つまり三時間坐睡二十四時間仏作仏行である。 諸々の禽獣(きんじゅう;けだもの)から人類、そして『最後身心』へ と身心進化を了ずるには、宇宙を貫徹する菩提心に拠る、上行性 大脳賦活系に由来し、自己を忘れる坐禅が不可欠なのである。 正に是が、諸悪の根源為る人類三毒(貪・瞋・癡)を撲滅する鍵と 為るものであり、世界平和に不可欠為る事は歴然足り。 真の施政者足るには、坐禅、或いは正法苦行が不可欠である。 小生、医学生の時に関心事が生命から意識(=上行性賦活系)に移っ て、宗教、坐禅へと移行したのは、実に、今の『最後身心』を生む最短 路であったのである。 小生『最後身心』から世界を観すれば、紛(まぎ)れもなく金(=食う)と 淫快の両点を結ぶ底辺に対する、「世界人類を生(活)かす」を頂点とす る三角形として表象し得る。 其処(そこ)にある真剣さは、「食う」と「世界人類を生(活)かす」を両極 とする緊張感でありバランスである。そして其れは取りも直さず、涅槃 妙心の現実其のものに他ならない。 世界人類が斯(か)く在る事が理想であり、其の様に人類の意識と云う ものが整えば、其れだけで世界は涅槃なのである。 中国は米英国を追体験して居るに過ぎない。 進化を逆行する現象は一時的なものに過ぎない。 進化の流れは涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に回帰する方向である。 其れは事実が明らかに証明する処である。 此の真理を覚(さと)る事を安心決定(あんじんけつじょう)と謂うのであ る。 真理に逆行するものは正すべきである。 人を思うに、吾子を思う慈父でなければ為らない。 小生を介して、世界の実情が時と共に明らかと為る。 事実が明らかと為るにつれて、小生は托鉢処の話ではなくなるのであ る。まぁー、其れも止むを得ない処である。 『最後身心』足る真理為るが故に。 必然性であると共に、不可避為る真(事)実である。 是が真理(実)のフロンティアの使命に他ならない。 斯(か)く、宇宙の涅槃化エネルギー足るのである。 更に、世界の現状への「学び」が不可欠であり、世界が一丸と為るべき 時である。 今こそ、二十四時間無駄な時は全く無い。 托鉢が出来る時間が無い。おまけに、パソコンの調子も悪く、二倍の時 間が掛かる。 中国にはミャンマーを諭(さと)す態(てい)の立場が強く期待されるので ある。 米英の傲慢さに屈しない独自の正当性で、強く、ウィグル、チベット問題 は正すべきである。 中国の堅さは米英の傲慢さに対峙するものである。 是は大航海時代の米英の奴隷制度に端を発するものであろう。 其れに依存した富の蓄積によりて建国した両国家であり、其の傲慢さ が基盤にあるから、中国は其れに対しては心を開く訳には往かないの である。 是も止むを得ない処である。 其の毒気が取れない限り、中国の姿勢は変わらない。 米中の在り様の根本には、米英の其の奴隷制由来の傲慢さがある。 国民の血液から此の毒気が抜けるのは容易ではないのである。 米英に於ける対コロナ禍での被害者の多さが、其れを証(あか)して居 るのである。 一方、日本人は繊細である。米英人とは逆であるから、御蔭で感染拡 大を抑止出来ているのである 米英の血に染み込んでいるものを浄化するには、真理に学ぶ以外無い であろう。 相対的ではない、絶対為る宇宙の真理為るが故に、其れは可能なので ある。 諸悪莫作の「核戦争しない」予定で、受動的消極性で行くか、其れとも、 修善奉行の「核兵器禁止条約締結」で、能動的積極性で往くか、何(い ず)れが聡明であるか? 人類の如何(いか)為る能力を以てしても、涅槃化エネルギーを生む事 は出来ないのである。 制圧エネルギー。正確に言えば、破壊エネルギー。 更に正確に言えば、虚偽為るエネルギーである。 宇宙の涅槃化エネルギーは涅槃化足らねば、其れ等は必然的に悪業 報と為るのである。 是が因果の道理 と云う超科学的為る真理である。 世の中と云うものは、涅槃化エネルギー由来の菩提心に依る心進化な のである。心停滞ではない。 宇宙の涅槃化エネルギーの働きは唯一の涅槃への永久機関である。 心停滞は、何時(いつ)か勃発(ぼっぱつ)する以外無いのである。 修善奉行に切り替わる以外には、地獄行きは必定である。 信頼団結の礎(いしずえ)が、岩登りには絶対不可欠である。 《 何で小生だけ 》 小生だけ、何で、斯(こ)う為ったのだろうと、ホッと思った。 善く善く考えてみるに、其の動機足るものは、 高校入学と軌を一にして小生の持ち前の混迷は始まったのである。 小生の前途には、義務教育等と云うものは相容れなかった。 故に小生は外に出るしか無かったのである。 社会には何も無い。生きる為に働く事だけ。 精神は、欲求と云う本来の内的エネルギーで遣って居れば、問題無く落 ち着く。 其れで、精神身体医学を志して、当時世界精神身体医学会会長であっ た池身猶次郎九大教授を慕って医学部に入学した。 試行錯誤の結果ではあったが、生命と向き合うに相応しい道だと思った のである。 しかし其れは、生命と向き合う事が目的であったのである。 其の時、小生の抑(そもそも)の本質的な混迷、今にも掴(つか)めそう で居て、掴めないもの。 医学生に為った事が、其れと四つに取り組む始まりであったのだ。 模索して、無神論者の宗教以外には在り得なかった。 偶然、釈尊の坐禅の小冊子を図書館で見つけて、興味本位に組んで観 た瞬間に、是だと決定(けつじょう)したのである。 形骸を決める事で、本質的混迷が霧散した。 以来、真理を了畢(りょうひつ)したのである。 小生が坐禅を始めて一年程して、伴鐵牛老師に攝心会で初見した。 老師は、其の小生を最大限に生(活)かして下さったのである。 千日行、鉄牛寺、新道元宗と。 此の何(いず)れが欠けいても、今の小生は在り得ない。 得度前の「悟り(身心脱落)」で、伝統に生きていたであろう。 小生の決断と、御老師の御尽力の御影で今が在るのである。 小生の坐禅人生は単純であるが、御老師の御苦労には測り知れないも のがあった。 吾師無くして、小生無く、全ては師の御苦労の賜物である。 《 信 頼 》 人間、信ずるものが何も無い事程、孤独な事は無いのである。 心閉ざす。冷たく寒い。 人間を人間足ら使めざるものである。 心の依り処足る物事に頼らざるを得ないが、其れも見付からなければ、 社会通念に従わざるを得ないのである。 然(しか)るに、其れでも自己を誤魔化す事は出来無いのである。 其れからが本物である。吾道を往く以外には無い。 何も無い処から真実を見出す。 其の頃に為ると、坐禅以前の「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促 しに基づく探索が始まって居るのである。 是は十代の無自覚的な促し とは異なって、其れ以外無い処の不動心 である。 其の端緒(たんちょ)が、坐禅を初めて組んだ時であった。 其処(そこ)に空前絶後為る千日行を与えられたのであった。 真理を知れば、人間は初めて確信を得るのである。 信頼と云うものは真理に基づくのである。 由(よ)って、人類に必須な事は真理の追求である。 人類と云う事は国家であり、人間間であり、男女間でもある。 男女間こそ、言う迄も無く、性の対象としてでなく、真理の追求に他なら ない。親子関係も同様である。 全ては真理の追求に極まるのである。 総ての人間の根底に在るものは、「世界人類を忘れない」、「世界人 類を捨てない」真理の追求である。 本質的に真理の霊峰である日本を要(かなめ)とする、米中関係の在り 様と云うものが不可欠である。 世界を平和為ら使める要(かなめ)足る日本政府の本質的在り様と 云うものが不可欠である。 要(かなめ)とは、世界に冠足る日本政府の透明性であり、其れが 日本の国民主権の実態と為らなければ為らないのである。 米国が世界の指導国家としての立場を得る為には、日本の此の立場に 対する本質的在り様と云うものが不可欠である。 其れ無くして、米国独自の立場と云うものは無い。 日本も、国政に於ける不透明性は許されない。 赤木ファイル問題然(しか)り。 元政府の不透明性は、国民を犯罪者に貶(おとし)める、許すべからざ る悪行である。 《 新時代;真理の黎明 》 今、世界人類(小生も含めて)の新時代黎明の時である。 是迄、歩んだ事の無い新道である。 是、人類の菩提心の旅立ちである。修善奉行のフロンティア。 最初は皆、戸惑いを禁じ得ない。 空前絶後為るが故に。 然(しか)るに、人類の進化は、涅槃回帰への帰一に他為らないが故に 、至極当然の事なのである。 人類の真の生きる喜びは、正に其処(そこ)に在る。 生死を超える、永遠不滅の喜びである。 『正法眼蔵』 生死に、 「唯吾身をも、心をも放ち忘れて、佛(=真理)の家に投げ入れて、佛( =真理)の方より行われ以(も)て往く時、力をも入れず、心をも費やさ ずして、生死を離れ、佛(=真理)と為る。 佛(=真理)と為るに、いと易き道在り。諸々の悪を造らず、生死に著す る心無く、一切衆生の為に憐れみ深くして、上を敬い下を憐れみ、万( よろず)を厭(いと)う心無く、願う心無くて、心に思う事無く、憂(うれ)う る事無き、是を佛(=真理)と名付く。又他に尋ぬる事勿れ。」と。 《 勝ち負けと云うもの 》 勝ち負けと云う二元相対為る判断は本質ではなく、幻想に他ならない。 涅槃妙心に於いて、敢えて勝ち負けを言うとすれば、其れは 「人を生(活)かし得たか否か」に他ならないのである。 此の絶対判断基準が、本質に生きる人間の心の指標である。 物事の本質と現象の関係に於いて、小生は是を本質現象、本質的現象 、現象に分類する。 本質現象は涅槃妙心由来の回帰心に因る現象であり、 本質的現象は宇宙由来の帰一心に因る現象、 現象は人間(三毒(貪・瞋・癡))由来の二元相対的現象である。 涅槃妙心に二元相対為る勝ち負けは無い。 其れが幻想に他ならない事を知っているのである。 生理(本能)的欲求(性欲、食欲、睡眠欲)以外の諸欲も生理的欲求に 派生する幻想に他ならない。 要するに、単なる現象とは食ってセックスする事に過ぎないのである。 基本的に動物と大差無い。 決定的差異は、万物の霊長足る、宇宙の真理を知って居る処である。 二十世紀以降は心理学的に考察されて来た処である。 ウィリアム・ジェームズ(米、心理学者、『宗教的経験の諸相』(1902)) 以来、フロイト、ユングを経て、アブラハム・マズロー(米、心理学者、 自己実現理論)によりて、トランスパーソナル(心理学)学会が設立さ れた。是は「永遠の哲学」として、「宇宙的存在に触れる事で本当の自 分に目覚める」と云うモチーフを骨子とする、ユング心理学の体系と、 神智学的ヨーガ論とを融合させたものである。 自己実現理論(マズロー)とは「人間は自己実現に向かって絶えず成 長する」欲求ピラミッドの五段階説の、基盤の低次の欲求から夫々、 ・生理(本能)的欲求:通常の健康人は即座に次の安全欲求が出現。 ・安全の欲求:一般的大人が是を実際の動機付けにする事は余り無い。 ・社会的(所属と愛の)欲求:上二欲求が十分に満たされると、当欲求が 現れる。不適応や重度の病理、孤独感や社会的不安、鬱(うつ)状態に 為る原因の最たるものである。 ・承認(尊重)の欲求:低いレベルと、他人からの評価よりも、自分自身の 評価が重視される高いレベルのものとが在る。当欲求までの四欲求を 欠乏欲求 とも謂う。 ・自己実現の欲求:上四欲求が総て満たされたとしても、人は自分に適し ている事をしていない限り、総ての行動の動機が、此の欲求に帰結され る様に為る。存在欲求 とも謂う。 そして晩年に、「自己超越の欲求」 を補足した。 マズローによれば、人口の2%程らしい。 《 軍 事 費 》 米中間の在り様は、日本と台湾同様、双方の軍事費が増大し続けると 云う事は、全体の緊張感も増し続けるのである。 此のコロナ禍パンデミックの渦中に在りながら、其の対立を深め行く人 間の癡愚さは正に人類三毒(貪・瞋・癡)の所業である。 国際社会に不可欠の要(かなめ)は、二元相対世界の死に至る釈尊苦 行への一方通行為る、人類三毒(貪・瞋・癡)の貪著 に因る行動規範 でなく、宇宙の真理に基づく人類三善根(施・慈・慧)の布施 に因る行 動規範の姿勢を堅持する事である。 其れが「解脱」の正法 苦行為る極佛行の「涅槃回帰」への一方通行で ある。 其の先に在るものが、真理為る涅槃世界の「生(活)かす」である。 是が、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に回帰、帰一する真理一路門で ある。 風に靡(なび)く風鈴の如く、応ずるが、決して取らない処の大人の所業 である。 是が宇宙の真理の姿である。 世界人類は、此の涅槃への収束振動の途上なのである。 此の宇宙の真理に違(たが)える事は心退化であり、其の悪業報は必 至である。 小生の二十四時間が真理を顕現する。 是は二元相対為るものでなく、『最後身心』独自であり、永遠に不滅為 る恒常普遍の真理の顕現である。 《 世 界 一 》 世界一などと云うものには何にも無い。 其処(そこ)に在るものは空虚と孤独だけ。 其の自己を、世界人類の為に奉仕する事だけである。 抑(そもそも)、生きる意義は「人を生(活)かす」事に在る。 是が第一義為る要諦(ようてい)であって、世界で何番目等に全く拘(か かわ)らない。 然(そ)う云うものが心に残って居る間は、未だ本物では無いのである。 自己を捨てて、「世界人類を生(活)かす」為の自己と為りて初めて本物 であり、其の不昧因果 足るのである。 「人を生(活)かす」の淵源(えんげん)から、 小さな一つ、そして一つ、そして全てを。 規則性に合致する。 言葉の意義と云うものは、「人を生(活)かす」に在る。 菩薩の行願(布施、愛語、利行、同事)に愛語と在る。 言葉とは、元来、愛語に他ならないのである。 何処(どこ)迄も微妙に愛語するのである。 《 扉無き扉開く (1) 》 人間と云う者は、元来、道無き処に生きる意味を見出さんとする処が人 間足る所以(ゆえん)、最も本質的な、有限為る存在者の実存であると 思う。 有限ならばこそ、其処に何か在り得るのだと。 其れは即、宗教的なものに直結するのであるが、信仰心は無い。 宗教的な未知為る部分に共感するのだと思う。 又、其れは芸術的世界への溺酔(できすい)にも繋がる。 或いは 、学問的に本質的為る精神的生命現象への関心へと派生する のである。 或いは、自然に対する憧憬、元を正せば其れは社会に対するものであ ったし、幼児期の、人間の往来に対する純粋に根源的な疑問であった のだ。 其の実存の裏に正解が潜んで居るのだと。 小生の直観的洞察に拠りて、果たして、其れ等は宗教性以外には自己 の落ち着き処を見出し得なかったのである。 小生の嗅覚は、必然的に釈尊の坐禅に往き着いたのであった。 人類の遺産、其の一点以外には在り得なかったのである。 此の一点は、図らずも、小生の全存在を刹那に射止めたのであった。 其れ以外には、生きる事への真解は得られない。 斯(か)くして初めて、真解に至ると云う事を知るべきである。 既成のものに追従するのではなく、其れ等以前の、根源から生命に全 身全霊で四つに取り組むのである。 其処には既に、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し が働いてい るのである。 故に其処(そこ)には果たして、先達(せんだつ)達の辿った足跡が在っ たのである。 促し の恩恵、其れは坐禅の功徳に他ならない。 要するに、坐禅を組む時節である。 其の前後で、生き方は明らかに別物と為るのである。 其の以前に不可欠為るものは、其の時節への傾向と方向性である。 其の以後は、坐禅の功徳と菩提心一つ。 後は各人の真理への可能性如何(いかん)である。 要するに、坐禅を組む時機への志向性が其の人の生涯を決定付ける のである。 其れは人間の資質でもある。 小生が「扉無き処に扉開き」、自(みずか)ら宇宙の涅槃化永久機関(か らくり)を見事に体現し得た唯一の人間である。 小生は、吾(わが)辿(たど)りし道を真道(=真理への道)と称する。 仏道の延長線上の、仏道を完成させる処の真理への道である。 如何(どう)しても、既存の仏道では、道半(なか)ばにして完成していな いが故に、真理として実生活に生(活)きて居る処が寡(か)少である。 真理とは超科学、超宗教為るものであり、科学でも、宗教でもない真実 なのである。 仏道が真道と為る確証が「覚天(涅槃入り)」である。 此の因果の道理 の真証足る宇宙の涅槃化エネルギーに因る宇宙か らの制裁 を受けずして、真の人間(『最後身心』)足り得ないのである。 故に『最後身心』を生んだ日本は世界唯一の真理の霊峰足るのである 。 此の日本が世界を教導せずして、世界に真理は在り得ない。 其れが、世界の心進化への、つまり涅槃為る宇宙へ帰一する歩みの第 一歩と成るのである。 最近の英才教育から生まれるものに、一体如何程(いかほど)の意味 が在るかは誠に疑わしい処である。 現象ばかりに囚(とら)われて、本質を見失う。 物事の本質に至るには、正道在りきで、余道(=外道)、つまり人間の 諸能力では本質には至り得ないのである。 正道は「脚下照顧」也。 インダス文明、瞑想以来、既に五千余年間経て了畢(りょうひつ)して居 る処である。 真理に包まれし一点の地上。 《 不昧因果:無関心と云う忘却 》 世界は常に強権者達、究極的にはスポーツ競技者達に拠(よ)る自己 主張 と、健康で生きたいと云う普遍的感情 の、不可避為る二者択 一への無関心と云う忘却の中に居るのである。 米英は戦争には強かったが、其の分、コロナには弱かった。負の不昧 因果 であり、日本は世界の敗者と成り、其の分の正の不昧因果 なの である。 文頭、後者の女性的原理に基づく前者の男性的原理の確立と見做(な )し得る。 不確定性裡の、心進化の予定調和の一端としての確定性の確立であ る。 何(いず)れが何(いず)れと云うのではなく、予定調和を期す両者の係 (かか)わり様が心進化其のものに他ならないのである。 元来、女性原理は柔軟である処が其の特質であり、事実上の涅槃化エ ネルギーに因る予定調和足るもので、女性原理の不確定性に基づく男 性原理の厳密性の確立である。 其れは無関心と云う忘却裡に在るのでなく、飽く迄も、其の本質は「人 を生(活)かす」以外の何者でも無い訳で、「男女共に生(活)かす」処の 、涅槃化エネルギーに因る、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の、涅槃化 と云う心進化の働きに他為らないのである。 是は涅槃世界への心進化に於ける人類の諸能力の在り様一般の問題 でもある。 元来、本質現象 が理想的である。 本質現象一如である。 本質回帰すれば一如であり、其処(そこ)から教導して居るのである。 バイデン大統領の無関心と云う忘却同様、習国家主席も小生『最後身 心』からは一歩も出る事は出来ない。 「三人寄れば文殊の智慧」とは言うけれども、 「三人寄れば鐵漢の智慧」である。 涅槃を可能為ら使め得る、「智慧を生(活)かす」道である。 《「楽しく生きたい」と「人を生(活)かす」》 世法(憲法等)に真理が無いのは、唯『最後身心』一人、真理に至り得 たが故に、世人に真理無く、世法に真理が無いのである。 人間の透明性と云うものは、人間が此の世に生を享けて後に、三毒(貪 ・瞋・癡)として育つが故に透明性が欠落するのである。 故に、真理に回帰しない限り、人事全てに透明性を欠く。 其処(そこ)に様々な宗教生まれ、芸術が生まれる。 真理に回帰する事は『最後身心』唯一人であるが故に、個人の透明性 の実現は、今後、殆(ほとん)ど想定し得ないが故に、不可能である。 従って、不透明が不透明を生んで地獄を生んでしまうのである。 此の事実を鑑(かんが)みて、我々人類は、其の真理に帰一する途上 に在る存在としての認識を新たにしなければ、癡愚為る地獄を回避す る事は不可能である。 少なくとも三毒(貪・瞋・癡)為らざる、三善根(施・慈・慧)の人間足りて、 涅槃化エネルギーの体現者として、心進化の原動力である菩提心 に 拠りて透明性を実現すべく、回帰真理為る頂上への心進化を遂げるべ きである。 菩提心 は人類特有の大脳新皮質の進化の究竟であり、諸体現以前 にして、宇宙を貫徹する。 《 大脳新皮質 》 (学校)教育問題に踏み込む前に根本的な処、課題と為る、人類に特有 の大脳新皮質について触れて置く。 大脳新皮質の諸機能の中で、其の進化の究極は前頭葉前野の菩提 心である。 是に拠りて、大脳新皮質を始めとする生命全体をして、宇宙の真理に 至ら使め、真理に基づいて初めて可能為る世界平和と云うものを完遂 為ら使めるのである。 大脳新皮質は他を把捉(はそく)し、解し得ても、其れ自体には及び得な い。 「我思う、故に我在り」。思う主体を我と為す。 「我と為した主体」と云う者は何処(どこ)迄行っても入り込めない。 鏡で鏡を見る様なもので、無限の連鎖である。 永遠に不可知。 其の永遠と等価為る、我の把捉は大脳新皮質の働き、つまり学問であ り、宗教であり、芸術である処の人類の諸能力の果てし無き営みを放棄 して、是等を統括する、進化の最先端の菩提心に拠りて、真理回帰、 世界人類平和を完遂為ら使めるのである。 自己を忘れ、人を忘れず、捨てず、万法に証される他には、真の自己、 究極の自己を知る事は出来無い。 其の唯一の手段が坐禅である。 自己と云う人類の諸能力と相反する坐禅は「宇宙(生命)の本質」に至 る唯一の道、本質回帰、真理回帰なのである。 宇宙の制裁と云う回帰現象に因りて、初めて本心為る涅槃妙心を了畢 (りょうひつ)する。 涅槃化エネルギーの働き其のものに為ると云う事である。 宇宙エネルギーの本質を知るには、宇宙に回帰しなければならない。 人類の知情意と宇宙の本質との間の永遠の壁、是程、人類を盲目にす るものは無い。 其の根源に有るものが、生得為る人類三毒(貪・瞋・癡)であるが故に、 世界の闇は永遠に果てし無いのである。 《 真理に基づく心の進化 》 涅槃化とは世界平和であり、然(そ)うでないものは自己(自国、自集団) 化である。 真理を知らざる自己(自国、自己集団)で世界人類を統括すると云う事 は在り得ないからである。 小生は涅槃為る宇宙(生命)、つまり涅槃化エネルギーの本質の真理 に回帰し、宇宙(生命)の真理(実)を体得した、人類史上初めての人間 であり、是は生命誕生の初期段階で、一卵細胞に一精子が侵入すると 同時に、其の受精卵表面は細胞膜と精子との化学反応によりて、皮膜 で覆われて他の侵入を防ぎ、生命誕生から人類誕生の四十億年程の 進化の過程を一受精卵から胎児形成迄の僅(わず)か十ヵ月間程に再 現されるのであるが、其の様に胎児為らぬ、一『最後身心』の真理が地 上に浸透し、人類の意識改革を果たすべく、涅槃世界完遂に向けて、 世界人類が信頼団結しなければ為らないのである。 其の最大の弊害と為るものが、食える大前提で、自己の三毒(貪・瞋・ 癡)の、淫快への貪著に他ならない。 フロイトのリビドーである。 故に人類は淫快を凌駕する信念と云うものが絶対不可欠である。 酔いに流されない信念である。 是が「解脱」の本質であり、菩提心の菩提心足る処でもあり、心進化に 不可欠為る部分である。 三毒(貪・瞋・癡)の貪著が三善根(施・慈・慧)の施、「人を生(活)かす」 に転じる事がイロハのイである。 人は自心を振り返って、自分と云う者を再確認しなければ為らない。 果たして、然(そ)うであろうかと。 有機的構成系の迷妄に流されて、自心を見失って居はしないかと。 世界人類の平和の為に、自己の確認が不可欠である。 自己への真実なる見極め、つまり生命の本質域に接近(触)し得たか否 かである。 其処(そこ)から生まれる、衝動為らざる、心のゆとり 、是が「人を思い 遣(や)る」心へと繋(つな)がる。 真実から生じるゆとり である。 世の中を根本的に変革するものは 、是以外には在り得ないのである。 小生も、若し坐禅無くんば、回転する車輪の底で同じ所を走り続ける二 十日鼠(はつかねずみ)から脱却出来なかったであろう。 真理(実)を見出し得ないからである。 宇宙の真理は、其れ程、人間の心の根底に係わるものである。 生活に坐禅が不可欠為る事は斯(か)くの如し。 智慧為るものは其処(そこ)から時処位に応じて自(おの)ずから生まれ て来るものなのである。 坐禅無くして真理(実)無く、真理無くして涅槃妙心智慧生ぜず。 坐禅を世の中に興(おこ)すべし。 坐禅を寺の専門分野に為しては為らない。 坐禅を一般化、普遍化しなければ為らない。 諸教育機関、老人ホーム、刑務所等々。 戦争を遣るならば、坐禅を双方で為さねば為らない。 不可避為る有限裡に、無限を生む智慧が必ず生まれるのである。 其れが、人類が動物ではない証(あか)しである。 人類が動物以下為る事を恥じると云う、慚恥(ざんち)の念 が心進化 の発動源である。 人類に慚恥(ざんち)の念 が有れば、地獄は生じない。 坐禅は扉無き扉を開く、唯一無二の手段為る事を肝に銘じるべきであ る。 宇宙は地獄への永久機関ではなく、涅槃への永久機関である。 最善の涅槃妙心智慧で、世界を平和為ら使め得るのである。 修善奉行の根本足り。 どんなに人類の諸能力(宗教、学問、芸術等)を以てしても、世の中の 事は解決出来ない。 涅槃為る宇宙から真理を授かった者でなければ駄目(だめ)だ。 宇宙から正されて、真理への方向付けが為されて初めて、真の人間と 為るのである。 其れは、恰(あたか)も磁石の磁心がサッと北を向く様なものである。 渡り鳥の習性「渡り」は、磁界の磁力に因るものらしい。 渡り鳥の運命も涅槃化エネルギーに基づいて居る。 人類の涅槃回帰も同様に涅槃化エネルギーの働きに他ならない。 《 真道(真八大人覚) 》 真道とは真理に至る正道(しょうどう)である。 釈尊の大乗禅に基づく正法苦行(千日行(三時間坐睡二十四時間仏 作仏行))に拠りて、宇宙の真理に回帰せ使められる正道である。 釈尊大乗禅の根本は坐禅 。 釈尊のヨーガ断食苦行の方向性の過誤を覚(さと)り、中道を経て禅定 と為り、成道に至った。 禅定は(聞、思、修に依る)智慧を生む為であったけれども、坐禅 は「 悟り(身心脱落)」の為であり、更に正法苦行、千日初行の為であり、「解 脱」を経て、更に修(行)智慧の究竟である生涯千日後行に拠りて、宇宙 の真理に至り、涅槃妙心智慧を了得する為である。 涅槃妙心智慧とは「世界人類を生(活)かす」 と云う事である。 『最後身』釈尊、「八大人覚」は、 少欲、知足、楽寂静、勧精進、不妄念、修禅定、修智慧、不戯論 是は「解脱」への志向性である。 『最後身心』鐵漢、「真八大人覚」は、 少欲、知足、楽寂静、勧精進、不妄念、修禅定、修智慧、修真理 是は、釈尊の究極に於いて、涅槃為る真理に回帰し、心進化を完遂(か んすい)し、「世界人類を生(活)かす」 と云う涅槃妙心智慧に至り得て 、極論すれば、「世界人類を生(活)かす」 の真理が一切の時処位と 時空を超えた、世界人類究極の真実の一語と成るのである。 世界中の指導者達が宇宙(生命)真理に違(たが)わず、其の心進化を 遂げるべく、宇宙(生命)の要(かなめ)を得た今、世界人類の平和を完 遂して戴く様、冀願(きがん)されて為りません。 《 小生は真理也 》 人生は世界との出会い、つまり人が何処(どこ)から来たりて、何処へ戻 るのかの「原初的驚き」、未知為る社会への探究心、宗教への関心、大 自然への憧憬(しょうけい)等々の、要するに「宇宙(生命)の本質」( 涅槃)からの促し は解決されない限り、永遠に解消し得ないものであ る。 仏道に於いて、其処(そこ)の処を、牛(=仏性)に準(なぞら)えて十牛 図、第一段階の尋牛(じんぎゅう)としている。 又、白隠禅師『坐禅和讃』に、「長者の家の子と為りて、遠く求むる儚( はかな)さよ」と謳(うた)われて居る。 其れは、仏教の通戒偈「諸悪莫作、修善奉行、自浄其意、是諸仏教」の 善悪に係わらざる処の、未知為る促し である。 此の善悪に係わらざる白道が、何等かの手段を講じない限り、自己と 云う存在を侵(おか)して止まないのである。 斯(か)くして小生は、吾師の千日行に拠りて、遂に涅槃為る宇宙の真 理に回帰し得たのである。 小生の体験をして、言明する。 小生は真理也 。 小生を信じて戴く以外に無いのである。 小生を信じられないのであれば、坐禅をする以外に無い。 然(しか)し、悟る者は殆(ほとん)ど居ないし、真理に至るに到っては殆 ど不可能である。 故に「世界人類を生(活)かす」 。 此の涅槃妙心以外には無いのである。 悪を為さない、受動的消極性の世界に止(とど)まってしまったのでは、 永遠に世界は改善しないのである。 是が抑止であり、核拡散防止の世界である。 我々は善を為す、能動的積極性の世界に生きなければ為らない。 人類の諸能力に依る、勝ち負けの二元相対世界は、自分が人に勝つ か、負けるかの力量の相対的世界である。 ところが、自分が自分に勝つか、負けるかは絶対的世界である。 自分が自分に負けた世界が癡愚為る地獄に他ならない。 自分が自分に勝った世界こそ 、是が正に、三善根(施・慈・慧)の涅槃 世界である。 《 宇宙の真理の体現 》 宇宙の真理を体現すると言えば、其れが真実であると為(す)れば、人 の想像力では及ばない事であるが、一般の人であれば、少なくとも好奇 心を唆(そそ)られるであろう。 小生の苦行と体現について、恐らく如何(いか)為る疑いも抱き得ないも のと信ずるのである。 然(さ)て、此のユーフォーに対して世界人類は無関心を装う訳にもゆか ず、又受け容(い)れるにしても、如何(いかん)とも為し難い事為るが故 に、唯、戸惑いを覚えるのみかもしれない。 是位、永遠不滅にして恒常普遍為るものを知らないからである。 小生も始めから、此の事が解かって居たならば、小生の一生は其の出 だしから異なったものに為ったに違いない。 其処(そこ)で、世界の施政者達、及び識者達がどの様に、是に向き合 うか、其れとも無視せざるを得ないかである。 対峙すべき人間は、唯『最後身心』一人であるからである。 何(いず)れにしても、『最後身心』は其の眼前から消滅しても、真理は 恒常不変である。 涅槃と云う真理、そして信頼団結、そして世界平和は宇宙の涅槃化エ ネルギーの働きの在り様に他ならない。 真理から湧出する涅槃妙心智慧に拠りて、世界平和完遂への収束振 動足るべし。 然(しか)るべき人間でなければ、大抵は生得為る三毒(貪・瞋・癡)に 飲まれ、流され、地獄に陥落し兼ねないのである。 然(しか)るべき大人足るには、日々の切磋琢磨(せっさたくま)、微に入 り、細に入り足る確かさが不可欠為る事は、世界の現状を観ずれば一 目瞭然足るのである。 《 大晦日に 》 小生、今年の大晦日程、一種の安堵(あんど)感と、或る意味での裕( ゆと)り を持って、新年を迎える事は吾(わが)記憶に無い。 此れから先、規則性と教導を枠 の中に落とし込めたからである。 二年三ヶ月余り前の原点(=「覚天(涅槃入り)」)から始まった、小生の 収束振動であったが、其の振動も落ち着きを見せて来た。 令和四年を迎えるに当って、覚悟を新たにした。 此の自己の(在り様の)必然性は、生命其のものの必然性であると、染 (し)み染(じ)み痛感するのである。 当然、是は総(すべ)ての世界人類の必然性でもある。 生理(本能)的欲求(性欲、食欲、睡眠欲)は健在者の生の欲求であり 、是等を主因とする有機的構成系為るものを生んでしまうのである。 人類と云う者が後天的、三毒(貪・瞋・癡)為る存在であるが故に。 貪著 為るものが常に潮騒(しおさい)の如く、世界人類の欲界に息衝 (いきづ)いて居るのである。 是が迷妄の原点とすれば、人類大脳新皮質に依る(絵具の)色の三原 色が生む色相(しきそう)が多様化する程、三毒(貪・瞋・癡)界に地獄 の暗闇を生むが、光の三原色が生む色相は、涅槃妙心に移行した三 善根(施・慈・慧)に基づいて、人生を多様に彩(いろど)るのである。 宇宙真理の法の流れ の必然性であり、必然足る因果の道理 であり 、斯(か)くして、生命に真の繁栄を齎(もたら)すのである。 《 宇宙涅槃化E回帰者 》 小生は宇宙の涅槃化エネルギーに因りて、宇宙の真理を体現させられ た『最後身心』である。 小生が其の口を閉ざせば、其(そ)れは真理に違背する事と為り、悪い 結果しか生まない。 在らん限りの命を尽くして、只管(ひたすら)、語り続けるのみである。 真に『生きる』のは、能力ではない。 『生きる』糧(かて)でもない。 若(も)し、能力であるとすれば、世の中は様々な能力至上主義と為る。 又、人類は生きる糧だけで納(おさ)まる者では無いのである。 人類は三毒(貪・瞋・癡) を具有しており、争いが不可避と為る。 真理 だ! 真理とは小生である。 小生を措(お)いて真理無し。 真理を語れる者は、小生唯一人である。 謂(い)わば、小生は、神の意思を人民に伝えるイエスの様に、「宇宙の 本質」を世界人類に教導する使命があるのである。 真理は言葉ではない。体現されて初めて、自己為る存在が真理に生ま れ変わる、つまり磁針がパッと北を向く様に、速やかに解かるものであ る。 根底から生まれ変わるから、其の前後で生き方が一変する。 其れ程、宇宙の真理、即ち涅槃化エネルギーの働きと云うものは跡を 残さない。理解も納得も生まない処のものである。 其れだけに、此の『最後身心』からすれば、世の中の人の鈍(どん)には 敏感と為らざるを得ない。 真理は「世界人類を生(活)かす」 事である。 真理は語られなければ為らない。 語る事無くして真理顕現せず。 真理は完遂されなければ為らない。 涅槃への心進化の収束振動である。 宇宙の涅槃化エネルギーは涅槃への永久機関為るが故に。 諸能力のトップは自(おの)ずから生まれるが、 真理を語れる者は空前絶後に小生一人である。 真理は全(すべ)てを捨てて自己を忘れ、人を忘れず、人を捨てない生 涯後厳密千日涅槃行の途上で、宇宙の真理は其の人に自(おの)ずか ら開示されるのである。 是が不昧因果 。 決して、宇宙は其の子、人類を裏切らない。 是が因果の道理 である。 因果の道理は、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し に始まり、 「世界人類を生(活)かす」宇宙の涅槃化エネルギーに回帰した人間が 『最後身心』として顕現するのである。 能力を捨て、語られる真理を実践 し、其の持てる諸能力を世界人類に 只管(ひたすら)施すのみである。 《 身心脱落 》 小生からすれば、「身心脱落(悟り)」に、豊か為る自然は要因とは為ら ない。 釈尊は、「欲界にて坐禅弁道すべし」と大乗禅を唱えられた。 要は、坐禅に我(われ)を忘れて、没入出来るか否かである。 坐禅の功徳に依り(よ)りて、坐禅が深まり、其れに依りて功徳を増す。 其の功徳裡に我を忘れ、自(おの)ずから「身心脱落(悟り)」するのであ る。 何時(いつ)でも、何処(どこ)でも、誰でも、好んで坐禅を功徳して居る 裡(うち)に、安楽裡に、突如グラグラーッと来るのである。 天地も引っ繰り返らんばかりに、其れ迄の自己と云う者が突如完全崩 壊する。 仮令(たとえ)、刑務所の中であろうとも、コンクリートの中であろうとも、 要は坐禅を好んで、坐禅に親しんで居れば、自(おの)ずから然(しか) ら使むのである。 《 七十二歳の正月 》 小生、七十二歳の今正月、一日 、二日程、自由気儘な正月を過ごした 事は無かった。 物心付いて以来の気儘さではあったが、朝、昼、晩の日課と、食って、 寝る事は忘れなかった。 何も為さなかったのである。 是は、或る意味で、今後の自覚の裏付けである。 此の二日間は、と云う事であった。 自分の事を最後に覚悟したのだ。 一般人の生き方とは真逆である。 でも、小生にしては、誠に理想的であったと言わざるを得ない。 宇宙の真理を手に入れるには、振り返ると、余りに楽過ぎた。 是も我執(がしゅう)が無いからである。 我が無いから、宇宙の働きと一つに生きて往けるからである。 真理と違(たが)える処が無い。摩擦が無い。 抵抗が無いからこそ楽過ぎる記憶しか残らないのである。 其れは、小生が最短路以外、歩む事が無かったからである。 其れが正法苦行の正法苦行足る所以(ゆえん)である。 小生は是を、仏道の延長線上に位(くらい)する究竟仏道、真道 と称す る。 最早、二度と追体現無き真道 なのである。 小生は先入観が一切無かったが故に、奇跡足り得たのであって、若(も )し何等かの先入観が在ったならば、奇跡は生じ得なかったであろう。 其れ故に、『最後身心』なのである。 真理の顕現は人類の三毒(貪・瞋・癡)を穿(うが)つ。 世界平和の根源は真理を行じ、真理を体現し、真理を教導する事であ る。 嘗ては、BC4以来、アリストテレス、プトレマイオス、キリスト教教会と信 奉されて来た天動説の大勢(たいせい)からコペルニクス、ガリレオ、ケ プラー、ニュートン等に拠りて地動説に逆転するには、千年間程の命懸 けの地道な歩みがあったのである。 科学上の過信や教会の権威に因りて、コペルニクス(1473~1543、 ポーランド、天文学者)でさえ最晩年に地動説へ変わったのである。 14世紀以降、大航海に因りて天文学が盛んに為った事に因る。 17世紀、ガリレオの望遠鏡でコペルニクスの地動説が裏付けられたが 、教会の宗教裁判でガリレオは自説を曲げざるを得なかった。 リンゴが落ちるのを見て「万有引力の法則」を生んだニュートン(1642 ~1727)に至って初めて、其の科学的確証が得られたのである。 18世紀、哲学者カントは思想的大変革を『コペルニクス的転回』と言っ た。 現代は、人類三毒(貪・瞋・癡)を常識と為す癡鈍な無自覚の、真理由 来の三善根(施・慈・慧)への根本的、自覚の大転換の画期的な新時代 なのである。 真理は二元相対の三毒(貪・瞋・癡)を穿(うが)つ。 要は流されるか、喰(く)い止(とど)まるか、其の何(いず)れかである。 喰い止まった者だけ、「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ 使める」者と為り得るのである。 政界の忖度、保身、温存、安泰等は止まれる者が居なかったのである。 喰い止まる大粒が一人も出ないと云う事である。 世界的に如何(いかん)? 小生に準ずる者、果たして如何? 世界平和への準備が出来ていないのは、コロナ禍パンデミックの感染 者の急増と膨大である。 是は傲慢為る無自覚、自己の三毒(貪・瞋・癡)に支配され、「人を生( 活)かそう」と云う修善が生まれ得ない。 此の根本因が、米英国民の自覚に在る。 此処(ここ)が欠落している。 米英国民に、責(せ)めて日本人程の、世界を教導し得るだけの基本的 人格を身に付けて戴きたい。 現在国内七ヶ所の在日米軍基地に於けるコロナ感染症対策は、他国に 駐留する米国民の当然の配慮である。 日本国民の人命に関わる、忘るべからざる重大な基本的心構えであり 、世界を導く国家(民)として、世界平和に絶対不可欠為る弁(わきま)え であるからである。 世界を主導すべき国家としての資格が欠落して居る。 其の根本原因は、米英国民の傲慢為る無自覚である。 嘗て黒人奴隷に依りて為り上がった両国家の根源的反省が為されて居 ないからである。 因果の道理歴然として私無し。造悪の者は堕ち、修善の者は陞( のぼ)る。毫釐(ごうり;少し)も違(たが)わざる也。 自(みずか)らの首を自ら絞める、感染症パンデミックによる永遠の不可 避為る悪業報なのである。 是では、世界平和への契機が永遠に生まれ得ない。 世界人類は此の出発点にさえ立てない今である。 米英人の運命は宇宙の涅槃化エネルギーの科学が、時空裡極小の真 理(実)に至り得ざる処に関与して居る。 真理への信仰如何(いかん)に懸かって居るのである。 是はアフガンとミャンマーの現状にも係わる。 信仰と強権の上に真理が在る。 真理は信仰を受容し、世界を統一するのである。 《 最終段階 》 教導と規則性の、涅槃への収束振動で始まり、やがて、次第に教導主 体を偏重する傾向が顕著と為り、規則性極小を呈した。 そして一転して、択(と)るべき道は規則性に復帰し、遂に当初の規則 性を復活するに至ったのである。 最早、正法苦行の厳密さでは及び得ない。 規則性を忘れなければ、次の教導は生まれ得ないのである。 前の刹那滅せざれば、後の刹那生ぜず。 是が「刹那生滅の原理」である。 人に選ばれる事の困難さに先行するものが、先ず自己を打ち立てる事 である。是無くしては、人に流されざるを得ない。 表に立ち得ないのである。此処(ここ)で真理を打ち出す。 エベレストでは駄目。身近な山で真理を貫くのである。 全体で一致団結してである。 此の信頼団結 が全ての原動力である。 だからこそ、不可能が何時(いつ)か可能と為る。 可能に為らない筈が無いのである。 然(さ)も無くんば、真理に回帰出来た筈が無いのである。 是が因果の道理と云うものである。 物事と云うものは、理想的には先ず、真っ先に究極の真理に到達し、其 処(そこ)から万事を取り計らうべきであるのだが、大概(おおむね)東洋 に於いて、正に其の過程を辿って来たのである。 是が東洋人の本質的な資質である。 小生が宇宙の真理に回帰した処から、従来の人類史は全て見直されな ければ為らないのである。 西洋に於いては、其の点、現象面に偏重し、其の結果が西洋の現状な のである。 彼等の心には、唯一の心の拠り処であった神は、既に三毒(貪・瞋・癡) の暴徒と化し、一部で流浪の民の弱肉強食の口実と化してしまって居 る。 是等総てが、本質から乖離してしまった結果である。 人間の本質を究めるには、如何(いか)に、其の手法が在り得たかに注 目し、西洋の如くに、其の現象に流されて当惑し、混乱するのではなく、 裸で其の本質に回帰し続けて来た東洋の神髄に立ち戻るのでなけれ ば、世界人類に未来は無いのである。 痛みを分かち合う「退歩の脚」である。 有限為る資を貪り合うのではなく、一歩引き下がって、施し合う国政を 実現しなければ為らない。 此の困難至極を実現為ら使める第一歩が真理の教導である事は言う 迄もない。 其の為に絶対不可欠為るものは資力でも、武力でも、強権でもないので ある。 三毒(貪・瞋・癡)でなく、三善根(施・慈・慧)で共に 生き抜いて往く。 此の切磋琢磨(せっさたくま)の労苦の中にこそ、世界人類の心進化の 唯一の、秘められた可能性が内在して居るのである。 其処(そこ)に全エネルギーを費やさねば為らない。 「人に秀でる」のではない。「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし 合わ使める」のである。 是が大地に根付くと云う事である。 小生が「人(世界人類)を生(活)かす」様に、人は後天的に三毒(貪・瞋 ・癡)を具有し、自己、家族、仲間、政権、国家に生(活)きるのである。 然(しか)し、是等は他に対立する在り様であり、地獄と分断しか生まな い。 「世界人類を生(活)かす」処の、(他を受容した)全一為る『最後身心』 の在り様でなければ真理には至り得ない。 此の真実に違(たが)えば、人類は地獄一路、殺し合いが始まるのであ る。 其れが核兵器の存在根拠である。 然(しか)し、其れは世界人類の破滅を意味する。 是は、真理と、身主体為る人類との対立、そして乖離に他ならない。 世界人類は涅槃化でなければ、地獄化なのである。 容易の感を為す勿れ。 貪 でなく、何処(どこ)迄も施 の労苦の絡(から)み合いにこそ世界平 和の可能性が在る。 決して強権主導では永遠に至り得ない処のものである。 「盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)を顕(あらわ)す」と、其の 書き出しに世の無常を謳(うた)った『平家物語』(鎌倉時代、作者不明) には、経文からの「盛者必衰」が引用されている。 世界人類の平和を冀(き)願して、 小生七十代ではありますが、令和四年正月明け以降、 生涯三時間睡眠二十四時間仏作仏行を敢行致します。 《 三基軸の規則性 》 2:00―――起床 5:00―――帰宅 (ネット) (夕食準備) 5:00―――朝食準備 6:30―――晩課 (ネット) (夕食準備) 8:30―――朝課 7:30―――夕食 (朝食) 10:20―――托鉢準備 9:00―――片付け 11:00―――托鉢出発 10:00―――ネット 1:30前後 1時間(昼食) 11:00―――就寝 《 小生の可能性 》 小生と云う可能性。 つまり、『最後身心』の可能性の事である。 『最後身心』を生んだ吾師伴鐵牛老師の可能性は、 明らかに『最後身心』の可能性であります。 其れは、本師釈迦牟尼佛の可能性でありました。 其の三千年前の、バラモン教を生んだアーリア人(種)※に由来する のであります。 其の小生の可能性は、涅槃へ収束振動する、 心進化した涅槃妙心智慧の世界の可能性である。 小生の可能性を生んだのは小生に非ず。 其れは、宇宙の予定涅槃するエネルギー であり、是が涅槃為る宇宙の 、そして生命の本質の根本原理でありました。 是を知る事が、人類究極の目的である。 我々人類生命の本質の根本原理が、「人を生(活)かす」涅槃妙心であ ると云う事である。 吾師の「仏性」とは、小生『最後身心』に依りて、「人を生(活)かす」涅槃 妙心であったと云う確証が得られた と云う事である。 仏道の確証とは、吾(わが)「真道」 であり、其の「覚天(涅槃入り)」為 る体現に他ならない。 是は奇跡以外の何ものでもないのであり、 奇跡裡の奇跡事、偶然裡の必然事であった。 是に至るには、生涯後厳密千日涅槃行無くしては不可能でありました。 アーリア人(種)※; 三千五百年前(以降)、アフガニスタンから北インド に侵入(移住)し、仏教(釈尊)前身のバラモン教を 創出した。釈尊の源流である。 更に、ミャンマー、ロヒンギャ、新疆ウィグル、チベッ ト等に迄拡大した。 ナチズム(ヒトラー)はアーリア人至上主義であり、 人種差別、優生学に拠る、其れ以外のユダヤ人と の戦いであった。 中東のアーリア人が9・11テロ事件を主導した。 ブラヴァッキー(1831~1891、露)はバラモン教 の聖典ヴェーダを原型とする神智学を唱導し、「ア ーリア人こそ霊的進化の頂点に立つ」と評価した。 《 真道;真に「生きる」と云う事 》 「生きる」と云う事の真義に往き着くのに、今の今迄懸(か)かった。 兎角(とかく)人間は、現実的な日常性裡に、「生きる」と云う事について 、取り分け顧慮する事は無い。 「生きる」とは平凡に食って、働いて、寛(くつろ)いで、セックスして、寝る 事。もっと貪欲に其れ等に執著する三毒(貪・瞋・癡)生活から脱却して 、更に精神的に「生き甲斐」、或いは「価値」を求めて自己を追求する。 趣味、諸能力を生(活)かす世界。或いは、最も心進化した「価値」、是 が菩提(道)心である。 求道、自己の血肉と為った宗教的な世界である。 此処迄来ると、もう既に道具を用いない心進化の世界である。 斯(か)様に、人類には有史以来、坐禅と云うものが在るのである。 其の恩恵を蒙(こうむ)って、極佛行其のものを心塵(しんじん)脱落(= 崩壊)せ使めて、小生、宇宙の真理に辿り着き、「宇宙(生命)の本質」( 涅槃)に回帰し、涅槃妙心、「人だ!」、「人を生(活)かす」、「世界人類 を生(活)かし合わ使め」て二年余り、教導と規則性とを一如為ら使め 、世界人類の教導者としての在り様を、世界の指導者達に説き明かし て居るのである。 教導と規則性 は換言すれば、要するに他己と自己の事である。 小生の余生の可能為る日常の在り様についての「生きる」と云う事であ り、当然、其れは小生の「身の回り」の事と為る。 其れは生活の為の金を得る事では無い。 勿(もち)論、其れ無くしては生活が成り立たないのではあるが、 其れは日本では、働けば何とか成る。 是を確保する事が、正に政治家の本命でなければ為らない。 其れは「生きる」と云う事の根本なのである。 「生きる」と云う事には、絶対不可欠為るものが本具(ほんぐ;本来、具( そな)わっている)して居るのである(=本具仏性)。 例(たと)えば、日々食事の準備をするとか、 洗濯、入浴、日課、片付け、整理整頓、掃除、作業、裁縫、買物等々。 一般的な総ての人間の根本の根本には、是等の、何よりも、しないでは 済まされない事々がある。 でなければ、人間は犬、猫の様な動物の生き方、小生が「有機的構成 系」と称した処の、所謂(いわゆる)トランプ現象しか生まないのである。 人間として、本質的に不可欠為る、是等の作務(さむ)なのである。 作務(掃除等)は禅僧に特有のものでなく、人類の日常生活の根本中 の根本の「生きる」と云う事である。 此の余りに当たり前の事の真義について、 今の今迄、小生、真に往き着いていなかったのかもしれない。 然(しか)し、是は前々項で述べた、「刹那生滅の原理」に基づく、必然 不可避為る事なのである。 一般人ならば、日々、然(そ)う遣(や)って生きて居るのであるが、 小生も、つい最近迄、然(そ)う遣って居りながら、其の真義を今の今迄 、覚(さと)り得なかったと云う訳である。 真に「生きる」と云う事が如何(いか)為る事であるか、 「生きる」事の根本中の根本が、自(おの)ずから、先ず「身の回り」を整 えて生きて往く事、其の規則性の上に教導が在ると云う事である。 其の生きる真意、根本を人間は自覚し、弁(わきま)えなければ為らない のである。 是が『最後身心』の、そして世界人類の弁(わきま)えでなければ為らな い。 此処(ここ)に「生きる」事の、人間を誤(あやま)らせない処の、基本的 な弁(わきま)えと云うものが在るのである。 人類は作務に基づく正法苦行(初行)であり、「解脱」なのである。 従って、作務に基づく「覚天(涅槃入り)」であり、涅槃妙心なのである。 抑(そもそも)、作務から涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の真理である、 「人を生(活)かす」涅槃妙心に往き着いたのである。逆ではない。 其れは人間が宇宙に回帰するのであって、逆ではないからである。 其の日常性、つまり『最後身心』の日常性を離れて、人間は在り得ない のである。 「生き甲斐」が無いと言って、若者が自殺した。 日常性の真義を知らないからである。 日常性の無い人間は一人も居ない。 生きて居る事其のものが日常性である。 日常性、労働(作務)、涅槃妙心(真理)、そして日常性である。 然(しか)るに、是は真理無き日常性では無い。 飽く迄も真理に基づいた日常性なのである。 人間が宇宙に回帰し、そして人間世界に復帰し、世界人類を教導して 止まないのである。 涅槃への収束振動 とは、種々為る不退転の完全決断の集積 に他 為らない。 《 宇宙の真理の体現 》 「アメリカ 打倒!」を想起されたらしい。 千日行を掲げられた吾師が言われた。 「一体、如何(どう)遣(や)って眠るのか?」と。 其の師も、『最後身心』迄は想定出来なかったと思う。 地球上で、其れについて想定出来た人間は一人も居なかったであろう 事は、小生断言出来る。 小生も、自(みずか)らの体現に拠りて初めて、宇宙の機能と云うものを 否応(いやおう)無しに自覚出来たのである。 況(ま)して、体現無しには想像する事すら在り得ない。 其れ程の、空前絶後為る真理に対して、否定したり、無視したり、蔑(な いがし)ろにしたり、誤魔化したり出来ないのである。 軍事力?経済力?宇宙の真理を核破壊したり、経済制裁したり出来な い。 宇宙の真理に違(たが)える事を、若(も)し為せば、宇宙が許さないの である。 世界人類を生(活)かさんと為(す)る極佛行でさえ、宇宙の涅槃化エネ ルギーに因りて即座に制裁を受けたのである。 宇宙の真理に違える事が為されれば、速やかに、或いは何時(いつ)か 必ず天命が下されると云う事を忘れては為らない。 是が、因果の道理、不昧因果 と云うものである。 此の宇宙空間で、今後、如何(どう)遣(や)って地球人類が平和裡に生 きて往けるのかを、世界人類で根本的に、敢然と起ち帰って、心機一転 しなければ為らない時機が到来したのである。 従来の人類が犯してしまった過ちを、一切根本から修正しなければ為ら ない。 何と為れば、其れが世界人類を誤った方向に陥(おとしい)れる事に為 るからである。 世界人類の平和の為に、其れ等は即座に断行しなければ為らない。 従来の誤った屁理屈で、人類三毒(貪・瞋・癡)害を決して容認しては為 らないのである。其れが地獄を生む事は自明為るが故に。 米国と中国が日本と共に、今、新たに世界平和を構築、完遂し往かね ばならない時機である。 然(さ)もなくんば、何処(どこ)にも世界平和を構築出来る根拠が存在し ないのである。 何と為れば、心進化が、三毒(貪・瞋・癡)を未だ脱却し得て居ないから である。 宗教、科学力、経済力等、如何(いか)なる人類諸能力を以てしても、 米英の現状は正に、最早為す術を見失ってしまって、指導者達の自暴 自棄状態に陥(おちい)ってしまった感がある。 人類諸能力の敗北である。 吾師が嘗て唱えられた。『剣の達人は剣を捨てる』と。 正に小生は、師の滅後二十四年近くにして、見事に其れが真である事 を身を以て体現したのである。 今にして思えば、唯、師の不昧因果 以外の何者でもないのである。 「宇宙(生命)の本質」である真理 を自覚する処から、世界平和と云うも のが可能と為るのである。 奇跡的に日本はコロナ禍の感染を最小限に抑止し得ていたのは日本 だったからである。 今後世界が悲惨な状況に陥らざるを得ない事を一つの教訓として、我 々人類は腹を据えて、自暴自棄に陥らずに、今こそ本気で今後に備え なければ為らないのである。 世界は無条件に、日本由来の真理(=『最後身心』)を弁(わきま)えな ければ為らない時機に至った。 今後、「日本を生(活)かす」事が「世界を生(活)かす」事に為るのであ る。 「傲慢為る無自覚」では世界の現状は改善し得ない。 過去に拘泥して、真理を犠牲にして居ては、永遠に三毒(貪・瞋・癡)由 来の現地獄から脱却出来ない。 人類三毒(貪・瞋・癡)の所産である現状を脱却し、真理に基づいて、新 たに世界を構築する事無くして、涅槃への心進化は得られないのであ る。 《 日 本 》 若(も)し、小生が日本に生まれていなければ、今、自己は絶対に無い のである。 時代錯誤のエントロピー(乱雑さ)の極大と極小の狭間(はざま)で中道 を歩む日本の、其の在り様は両極を天秤に懸けた支柱の如し。 本当に、世界唯一の被爆国日本に生まれて良かったと思う。 小生は世界一の幸(しあわ)せ者である。 吾師に会えて、『最初・後身心』と成った。 世界唯一の被爆の悲劇が、空前絶後の「覚天(涅槃入り)」の奇跡を生 んだのである。 然(さ)も無ければ、世界人類に真理を教導出来なかったのである。 日本が真理を生んだ、何よりも最も誇り高き国家であると再認識した。 人間と云う者は国家権力の産物では無い。 其の届かぬ「宇宙(生命)の本質」には近付く事すら出来ないのである。 是に接近するには「悟り(身心脱落し)」、 接触するには「解脱」し、 回帰するには「覚天(涅槃入り)」しなければ為らないのである。 国家権力と云うものが、人間に及ばざるものである事は言う迄も無い。 世界人類(諸国民)を人種差別や力の強弱で殺すのが国家権力でなく 、世界人類を生(活)かすのが真の国家権力足るのである。 心進化(=精神的文化と、其の延長線上為る涅槃妙心智慧)と物進化 (=経済的・物質的文明)とは、其れ等の方向性が真逆である。 前者と後者の両者が一体と為りて、初めて文化足るのであるが、現代 資本主義文明国家米国の傲慢為る無自覚さ には憤(いきどう)りを禁 じ得ない。 物進化の、心進化為らざる米国国家と言わざるを得ない。 前者は涅槃に至り、後者は地獄に至る。 涅槃への収束振動為らざる今日此の頃である。 核武装が、宇宙の真理を支配すると云う野心は即刻捨てよ! 単なる幻想に過ぎない。 《 宇宙は涅槃化 》 人類を生んだ宇宙の働きは、人類をして、「人を生(活)かす」事である。 其の所以(ゆえん)は、図(はか)らずも奇跡裡に、小生を「覚天(涅槃入 り)」せ使めた事にある。 故に、宇宙の物質、つまりエネルギーは涅槃化エネルギーである。 小生は、空前絶後にして、『最初・後身心』と為ったのである。 今、世界の指導者達が世界人類を救済し、生(活)かすべく、真の勇気 を奮うべき時である。 宇宙の働きの本因足る涅槃化エネルギーに違(たが)えば、違えた分、 悪果を生む。是が因果の道理 である。 心に邪(よこしま)な思いを抱けば、其の分、宇宙の涅槃化エネルギー からの修正や制裁を受けるのである。 此の涅槃化エネルギーから生命が生まれ 、人類の心へと心進化した 以上、其れは必然不可避なのである。 人類の中には善為る部分と悪為る部分とが共存するが故に、 是に対して、小生は最終的に世界人類の心を涅槃妙心(智慧)化為ら 使める責務を一身に背負うて居るのである。 因果の道理 の根拠が涅槃化エネルギーであり、宇宙の此の真理に違 えれば、其の分、宇宙から修正や制裁を受けるのである。 善因善果、悪因悪果である。 小生も、他に、勝敗に拘(かかわ)らざる、心進化(=涅槃化)との何等 かの齟齬(そご;食い違い)が在れば、其処(そこ)に教導する分が生ま れる。 人類の本源の宇宙の涅槃世界からの教導為るが故に、其れは「世界 人類をして生(活)か使める」のである。 米国と中国とが、此の宇宙の真理に基づいて、一致団結して「世界人類 を生(活)かす」べく機能しなければ為らないのである。 小生は、米中が三年毎に交替して主導国家と為り、他の世界各国は平 等に、其れを支援する世界連合を構築すべきだと思う。 是に違(たが)える国家には修正や制裁を施す。 然(そ)うして、世界中の弱者を支援、救済して往くのである。 此の根本的大変革が重要課題である。 最早、二元対立の時ではない。 宇宙の真理に基づく、信頼団結により、世界が一丸と為りて、弱者を救 済する新時代の到来である。 分断の世界が世界平和を構築し得ない。 一丸団結でなければ、心進化しないのである。 是が涅槃への収束振動の初動と、其の一歩、一歩なのである。 人類は三毒(貪・瞋・癡)でなく、三善根(施・慈・慧)足らねば為らない。 「世界人類を生(活)かす」べく、自己を施すのである。 世界人類の平和の為に。 宇宙は人類に、其の涅槃化エネルギーを常に施しているのである。 其の事実にも拘らず、人類は三毒(貪・瞋・癡)で地獄から脱却出来ない で居る。 我欲に基づく三毒は、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に違(たが)えて、 金とセックスに唯、貪著する。 人類は真の恥を知るべきである。 正に、小生の七十年間は涅槃為る「宇宙(生命)の本質」を確証せんが 為の七十年間であったのだ。 人類は如何(どう)しても、「取った、取られた」に其の日々を送って居る のである。 宇宙に基づき、「人を生(活)かす」べく、自己を世界人類の為に施すと 云う自覚が生まれない。 教育とは、其の事を教導するものでなければ為らないのである。 英才教育で、人に優れる事に、日夜、奔走(ほんそう)して居る。 人に優れると云う二元相対的労苦ではなく、自己を究明すると云う、 真理への絶対的労苦でなければ永遠に涅槃と云う実り(=平和)が無 い。 前者は、捨てない限り 、永遠に二元相対世界から脱却出来ない。 後者は、真理に至る真道 である。 《 欲と貪著と真理 》 性欲の底には、生存する為の食欲が有る。 其れ等の生理(本能)的欲求は脳幹で生じ、快感原則で大脳辺縁系情 動中枢形成、そして現実原則で大脳新皮質の分別に依りて、諸悪の根 源為る三毒(貪・瞋・癡)を形成し、貪著する。 貪には男女の別は無い。唯、貪、貪……。 是が世界を狂わす。 貪は「解脱」しない限り、貪著なのである。 故に人類は「解脱」しない限り、貪著であり、是と世界人類の平和とは 両立し得ないが為に、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し に依 りて菩提心生じ、其れ等の対極として、坐禅に心進化したのである。 そして正法苦行(作務主体初行)に因りて、其の延長線上に「解脱」し、 更に正法苦行(坐禅主体後行)に因りて、其の延長線上に「覚天(涅槃 入り)」し、真理為る「宇宙(生命)の本質」に回帰し得たのである。 真理に貪無く、真理は此の三毒(貪・瞋・癡)を制するのである。 宇宙は涅槃為る真理である。 地上だけが真理では無いと云う事は在り得ない。 人類は誤魔化せても、真理を誤魔化す事は永遠に不可能である。 是が、 『因果の道理歴然として私無し。造悪の者は堕ち、修善の者は陞(のぼ )る。毫釐(ごうり;少し)も違わざる也。』 是迄の世界を観ずれば、是は明白である。 般若心経に、 「……遠離一切 顛倒夢想 究竟涅槃……」とある。 (おんりいっさい てんどうむそう くきょうねはん) 「総ての迷妄四苦と実相とを逆転した捉え方から脱却して、涅槃に趣く」 此の世の一切の幻想から離脱して、宇宙の涅槃世界(=真理)に回帰 し、世界人類を帰一せ使めるのである。 小生が涅槃入り(=回帰)した唯一の方法が、延べ三十五年間程の正 法苦行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)と其の正念相続であった。 正法苦行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)は顛倒夢想(てんどうむ そう;真理と真逆の物の見方)から涅槃為る宇宙の真理への真逆の志 向性に正法苦行裡に自(おの)ずから収束し、果たして遂に奇跡的に回 帰するに至ったのである。 斯(か)くして初めて、世人の顛倒夢想の常識から、宇宙の真理に基づ く、二元相対的為らざる絶対的信頼関係に裏打ちされた在り様へと、世 界人類が心進化すれば、世界平和が確立するのである。 是は、生涯後厳密千日涅槃行裡為らずんば、絶対に奇跡は生じ得ない のである。 其の菩提心有りや否や? 戦争は、其の末端と主導者から容易に生じ得るが、正法苦行で真理に 至るのは、小生『最初・後身心』唯一人である。 人間の分別では絶対に為し得ない。 分別と云うものは二元相対世界の、自己が他者に勝つか負けるかの世 界で、弱肉強食の禽獣(きんじゅう;ケダモノ)の世界である。 然(しか)るに、未だ人類は其のレベルから抜け出し得ないのである。 其の主因は、人類が嘗て宇宙の真理に至り得た事が無かったからで ある。 真理無くんば神以外には無い。 然(しか)るに、神に有ったものは聖戦であった。 故に人類の諸能力を駆使して、核爆弾と大量破壊兵器を生み出したの である。 つまり、殺し合って、強者が生き残る道しか見出せなかった。 今、其の波打ち際で、小生『最初・後身心』の天の声を耳にしながら、地 上の現状の成り行きに対応せざるを得ない事態である。 真理は決して殺し合わない、涅槃世界の涅槃妙心智慧に拠る、生(活) かし合う、如何(いか)為る犠牲を払ってでも殺し合わずに、必ず生(活) かし合う、動物為らざる、人類の真価の世界なのだ。 真理を求道する菩提心にして初めて可能と為る世界である。 此の真剣度、本気度の違いは、米英等に於けるコロナ禍感染者数の桁 違いの差異として明らかに露顕している。 今後の処世には、真理が絶対不可欠である事は自明である。 ロシアとEU諸国家とは、米中二大国の調和と均衡と静謐を具現する世 界平和に資するべく、機能すべきである。 此の立場から、自(おの)ずから取るべき道は得られるであろう。 人類は金とセックスから脱却し、調和と均衡と静謐為る現実の表世界に 立つ事が出来なければ、人類の真価足り得ない。 《 人類の真価 》 人間の真価は貪か施で明確簡便に判断出来る。 貪は悪を生み、施は善を生む。 諸悪の根源は貪であり、諸善の根源は施である。 貪は心より身へ退行し、世界人類への無関心で、敵対分断する。 施は身より心へ進化し、世界人類への思い遣(や)りで信頼団結する。 時処位に拘(かかわ)らず、透明性を以(もっ)て、能(よ)く能(よ)く、 自己と云う存在の評価を判断して観るべきである。 自己を客観的に覚(さと)る事が心進化の要(かなめ)である。 《 世界平和の為の基本的態度 》 食欲は生きる為のシグナルであるが、性欲は、世界平和の為には、放 置出来れば、最も効率的ではあるが、向下門に於いては一つの手立て には為り得る。 世界人類の平和の為に、身心性欲の性的エネルギーを極力避けて、エ ネルギーを温存する事が不可欠である。 是が世界平和の為の、人間としての基本的態度でなければ為らない。 「生む」事の無いエネルギー消費は極力避けるべきである。 「生む」とは、「人を生(活)かす」事である。 其れは心進化に他ならない。 『最初・後身心』でも常に涅槃妙心智慧に拠る、世界平和への収束振動 為る絶対不動心である。 世界平和為る山頂への岩登りの命綱を固定するハーケン(岩釘)無くし ては、涅槃収束為らず。 今にして振り返れば、涅槃回帰迄は唯一本、釈尊在世時、頭陀行「但 坐不臥」為るハーケンであった。 正法苦行(=千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行))として、仏道 、永遠の精髄(せいずい)である。 釈尊の延長線上が在りて初めて、釈尊として、釈尊足ら使め得るので ある。 釈尊の「解脱」志向の延長線上に、「宇宙の本質」回帰の後行在り。 「解脱」では「世界人類を生(活)かす」事は不可能事である。 此の実践は「大死一番(死ぬ覚悟で物事に当る事)」を意味する。 即ち、自己の生命が、初行に置き換わると云う事である。 「人を生(活)かす」のは、其れ等の正法苦行を根底から撥無(はつむ; 否定して排除する事)する、つまり極佛行の最終的仏果為る処の、極佛 行を霧散せ使める、宇宙からの真理の鉄槌 が下され、厳然と、瞬時 に起ち上がって、其れ迄の正法苦行を一蹴(いっしゅう;簡単に相手を 負かす)し、「人を生(活)かす」事に専念従事するのである。 此の涅槃化エネルギーの真実が無ければ、世界人類を教導する事は 出来ないのである。 是が信と真、信仰と真理との両者間の一線足る永遠の隔絶であった。 真理に対する学問や信(仰)の立場には一線を画する、永遠の隔絶が 是迄在ったのだ。 其れは生命が根源的に宇宙から証される処の、「宇宙(生命)の本質」 に接近、接触、回帰する体現である。 斯(か)るが故に、此の隔絶を超えるには、坐禅以外には為し得ないの である。 有史以来、人類は其の隔絶する溝を越えんと、信じ、行じ、学し、或い は様々に表現して来たのである。 其れ等の結実が、世界に唯一の被爆国、大乗禅の日本で正法苦行を 開花せ使め、真理回帰を遂げたのである。 解脱の延長線上為る永遠の極佛行の、人類への意義について、小生 は生涯、只管(ひたすら)無事に行じ切る事だけであった。 其れが無上道以外の何ものでもなかったのである。 如何(いか)為る言葉も、其処には存在しないのである。 其の調和と均衡と静謐に、身心に異変を生じたのは、正に霹靂(へきれ き;落雷)の如き宇宙涅槃化エネルギーの仕業に他ならない。 神に真理を委ねる事勿れ。 宇宙を神格化する事は神話の領域である。 宇宙は正法苦行によりて体現する以外無いのである。 然(そ)うして、奇跡裡に真理に至ったのである。 小生は、戦傷し、腐敗しかけている傷口を手当てする医師の如く、 自(みずか)らの貪著によりて癡愚者に為らんとする者を真理に教導す るのである。 是は米中の力関係と覇権の競合と競闘に於いても適応するのである。 『最初・後身心』の涅槃為る真理から、米中に象徴的為る対立世界の地 獄からの救済に他ならない。 つまり、地上の米中に象徴される、二元相対世界の対立、乃至(ないし )分断を埋め合わせる真理なのである。 涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の真理以外に、是を埋め合わせるもの は何も無い。 是は二元相対世界、男女間、人種間、国家間等のあらゆる差別を埋め 合わせるものである。 今や、其の真理黎明期 である。 《 真の自己とは ? 》 「宇宙(生命)の本質」は「人を生(活)かす」涅槃妙心であると云う事が 永遠に不滅為る恒常普遍の真理である。 極論すれば、宇宙は是以外は一切、如何(どう)でも宜(よろ)しいので ある。 何と為れば、全ては其の真理に至る過程に過ぎないのであるから。 古代の仏教は現代に至って、真理の仏果を得た。 人類は現代に至る迄、確実に心進化を遂げたのである。 更に、世界人類の平和完遂迄の今後が大いに期待される処である。 人類の真理の追体現は為すべき事では無い。 人類に真理さえ手に入れば、要するに小生が書き遺した物を利用して 戴ければ、自(おの)ずから、やがては涅槃世界が実現されるに至るの であります。 真理が世界に変革を齎(もたら)すのは時間の問題である。 人類は真理の大前提の基(もと)に世界人類に自己を施すのが、宇宙 の涅槃化エネルギーの働きなのである。 人間が真理に至ると云う事は、人間の生得(本来)的諸能力(=本能) 及び諸欲そして後天的諸能力への酔いから、涅槃為る「宇宙(生命)の 本質」に迄覚醒する、接近、接触、回帰と云う諸階梯を辿る事なのであ る。 人類の諸能力の根底には後天的、人類三毒(貪・瞋・癡)が塒(とぐろ) を巻いて居るのである。 其れ故に、人類は其れ等への酔いでは、自らの三毒(貪・瞋・癡)は解 消され得ないのである。 人間が「酔い」で地獄を生んで居るのが人間世界の現状であります。 世界平和を完遂するには、釈尊の御遺教に由来する托鉢自活正法苦 行の大乗(禅)精神、要するに涅槃妙心智慧 に究まるのであります。 原田祖岳老師は、嘗て『国民皆禅』を唱道された。 《 真理の教導 》 真理とは、率直に言って、「人を生(活)かす」と云う事である。 此の根拠は、宇宙のエネルギーが涅槃化エネルギーであり、生命を育( はぐく)み、是を涅槃化する。 即ち、身から心進化し、涅槃為る宇宙の如く、人類を涅槃化したのであ る。つまり、世界平和為ら使むべく、心進化せ使む。 従って「世界人類を生(活)かし合わ使める」べく、世界人類を教導する のである。 大脳新皮質を全身全霊で、全人的に駆使して、此の永遠に不滅為る恒 常普遍の真理を、「宇宙の本質」に回帰した人間が世界人類を教導しな ければ為らない。 其れは相対的立場に止(とど)まらざる、世界人類に普遍の真理なので ある。 『最初・後身心』でなければ、是は為し得ない。 故に、其の意味で、此の在り様は真理独裁世界足るのである。 決して、強権支配でも、個性を無視するものでもない。 自(おの)ずから其れは、世界規模で可能な限り、物質的、精神的基本 的条件を確保する政治体制構築の、格差無き、三毒(貪・瞋・癡)為らざ る三善根(施・慈・慧)支配体制なのである。 小生が「覚天(涅槃入り)」したのは、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)か らの促し に基づいた人類の菩提心と、宇宙の涅槃化エネルギーとが 合体、と言うよりも、「宇宙の本質」に人心が回帰したのである。 其の様は、然(さ)ながら石灰岩の鍾(しょう)乳洞内の石柱(=真理)の 如く、天井から、炭酸カルシュウムで飽和した水滴(=洞内に侵入した 雨)によりて、下方に成長した鍾乳石(つらら石)(=宇宙の涅槃化エネ ルギー)と、床から上昇する鍾乳石(石筍)(=人類の菩提心)とが、長 期間(100年で1㎝、1万年で1m)掛けて連結した様なものである。 500万年前に類人猿から人類が分かれて、15万年前、現代型ホモサ ピエンス(新人)に進化した。 石柱は、略(ほぼ)、新人が誕生した時期から成長して連結したもので ある。 《 疲労の一日 》 『最初・後身心』の疲労の一日が出たら、即、其の疲労の因を解除する 事。 他は総て完璧である。 釈尊苦行為るが故に。 『最初・後身心』の世界人類の平和完遂途上に於ける釈尊苦行に因る 中道である。 恒常普遍の真理で、世界の三毒(貪・瞋・癡)を共に、自(みずか)ら自覚 せ使め、自(みずか)ら修正すべく、涅槃為る真理への舵取りを確保す べし。 《 今と云う時 》 米中為らざる、米中露が二年毎に、三交替で世界の主導国家として、世 界連合を機能せ使めるべきである。 然(しか)るに、其れも敵(かな)わない。 無理である。 然(しか)るに、米国の内部は分断である。 真実無き分断。 嘗ての第二次世界大戦勃発の構造である。 是に世界をリード(先導)させれば、第三次世界大戦不可避である。 矢張り、日本主導が必至であり、若(も)し然(そ)うで無くんば、世界は 涅槃妙心無き、三毒(貪・瞋・癡)の混沌に陥(おちい)る。 日本主導に依りて初めて、世界は平和為る涅槃世界を構築、完遂し得 るのである。 《 真理の価値 》 世の中に、真理に代わるものは無い。 真理程尊きものは無いのである。 何と為れば、人類が有する如何(いか)為るものも、其れには及び得な いからである。 然(しか)るに、人類は此の世の如何(いか)為るものも手に入れる事が 出来ると思う。 其れならば、最も重要な世界人類の平和は手にし得たか? 世の中は地獄三昧である。 更なる地獄に陥る事を唯、恐れるばかりである。 一体何処(どこ)に安らぎが得られようか? 総ては、後天的人類三毒(貪・瞋・癡)の為した悪業である。 故に求道者は不三毒(不貪・不瞋・不癡)を説いた。 然(しか)るに、不三毒に生きる喜びが有るか? 生きる真正の喜びは一体何処(どこ)から生まれるのか? 其れは真理からである。 宇宙の真理、「宇宙(生命)の本質」の事である。 其の本質を知るには? 我々人類は生命の現象面ばかりに捉(とら)われて、其の本質を問う余 裕すら無い。 其れは自己究明に至るのである。 東洋に於いて然(しか)り。 西洋では(現象等の)分析に偏重し、三毒(貪・瞋・癡)に基づく現象的分 断を引き起こした。 自己の心の真実に覚醒された時に、初めて湧出する、真に静謐為る喜 びを体現(=身心脱落)するのである。 更に其の奥に「生命の本質」を知り、更に「宇宙の真理」に覚醒せ使めら れるのである。 悪を造らないばかりか、至善を修し、善悪を超えた万法(=宇宙と心一 切)の根源、つまり「宇宙(生命)の本質」、宇宙の心が何かを知るに至 るのである。 其れが涅槃妙心 であり、其の心は「人を生(活)かす」 、「世界人類を 生(活)かし合わ使める」心である。 善悪の領域ではない。 観念でなく、「涅槃為る宇宙」が人心に顕現したものである。 是は仏教に由来し、其の遥か延長線上に、涅槃回帰するものである。 《 語るべき事 》 小生が語る事を止めないのは、若(も)し真理が三毒(貪・瞋・癡)為る世 界人類に語る事を止めたら、三毒が三善根(施・慈・慧)に転じて心進化 するチャンスを活かし得ない。 小生の判断は、小生が「覚天(涅槃入り)」した刹那の厳然足る確心に 基づくものである。 小生は語る事が生(活)きる事である。 《 行動規範 》 人間の生き様には、無自覚に日暮しするのでなければ、各々の行動規 範為るものがあると思う。 其れには一刹那のブレも在り得ない。 総ては「刹那生滅の原理」に基づく一貫性である。 是が因果の道理であり、涅槃への心進化の必然性なのである。 負の刹那は、涅槃化エネルギーの必然性を以(もっ)て、「慚恥の念」に 基づく、正の刹那の正因である。 或る意味、負の刹那無くんば、正の刹那生ぜず。 斯(か)るが故に正為る動因が負為る動因を強制支配するのでなく、前 者が後者と共に在りて、何処(どこ)迄も正が負を正化し往くのである。 是が菩提(道)心(菩薩)の行願 の同事と云う事である。 「……他をして自に同ぜ使めて後(のち)に自をして他に同ぜ使むる道 理在るべし、自他は時に随(したが)うて無窮也……」 然(さ)も無くんば、正(=自)に拠る負(=他)の教導と云うものは為し得 ないのである。 正は正の動因が時と共に無窮に涅槃化し往き、 負は負の動因が時と共に無窮に地獄化し往く。 正が負に転ずるのは、偏(ひとえ)に菩提(道)心 の堅固為るか否かに 懸かって居るのである。 東洋に於ける、宇宙の涅槃化エネルギーの産物である菩提(道)心 と 、西洋に於ける、人類の大脳新皮質の産物である学問(倫理、理念等) に於いて、後者は神信仰に至るが、仏教の前身足るバラモン教の諸々 の神々から、釈尊の成道に拠りて初めて仏が誕生したのである。釈尊 以前の過去六仏は既に死んでいるという意味で仏に加えられた。 人間は人類由来の事から有限為る人間世界を脱却する事は出来ない のである。 人間が宇宙由来の、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し に基づ く菩提(道)心 に導かれてこそ、涅槃への飛躍である諸階梯を経て人 間を脱却して、宇宙の真理に回帰し、涅槃妙心 を得るのである。 宇宙由来の最足る事が、三毒の貪でも不貪でもなく、三善根の施 であ る。 自己の全てを施す 、是は格差是正と共に、三毒為らざる三善根への要 (かなめ)の一歩である。 此処(ここ)が東洋の東洋足る処である。 岩登りの命綱を固定するハーケン(岩釘)の一本一本である。 一刹那も疎(おろそ)かにしない。 斯(か)く在りて初めて、其処(そこ)に涅槃回帰するのである。 為すべきを為し往くのが涅槃世界である。 其れが世界を制する。 《 三基軸(自己)と教導(他己) 》 三基軸(自己)と教導(他己)は互いに自立して居り、前者に後者は無く 、後者に前者無し。 然(さ)らば、孰(いず)れか一方足るのであろうと思うが、然(さ)に非ず 。 前者の基(もと)に、刹那に後者に転ずるのである。 是、突然変異の如し。 斯(か)くして、涅槃への教導完遂心進化為る。 即ち、既に前者無く、後者である。 斯(か)くして、後者了ずる時、既に前者足ら使むべし。 是を刹那に転ず。 此処(ここ)が要(かなめ)である。 是が完全でなければ、尾を引き、完璧な涅槃への収束振動(=涅槃帰 一)為らず。 斯(か)くして初めて、前者が生(活)きるのである。 且つ、後者も否定しないで、十二分に生(活)かす事が出来る。 否定しないからこそ、変異に因りて、涅槃への完璧為る収束振動為るの である。 其処(そこ)に、涅槃への最短路為る。 是は世界人類の二元相対世界の二元(自と他等)の、涅槃帰一の実態 に他ならない。 つまり対立と云うものは、微細に刹那すれば、霧散し、双方生(活) かし合う真道が必ず拓(ひら)ける と云う事である。 人類が、真理に基づく、其処(そこ)迄の根気と労苦と気概に欠けるば かりである。 そして、真理の遥(はる)か手前で、禽獣(きんじゅう;ケダモノ)の如く殺 し合う。 是を人類三毒(貪・瞋・癡)の癡愚と言う。 三善根(施・慈・慧)為る涅槃妙心智慧 に拠りて、人類は心進化を遂げ ねば為らないのである。 毎日、夢殿で坐禅して国政を閲(えっ)せられた聖徳太子は、一度に八 人の言っている事に適確に答えられ、未来を予言されたらしい。 《 「解脱人」の生理(本能)的欲求 》 「解脱(涅槃)人」の生理(本能)的欲求(=睡眠欲、食欲、性欲)は、既 に諸欲から解脱して居るから、欲界に在って、欲界に染まらない、不染 汚(ふぜんな)である。 風鈴の風に戦(そよ)ぐが如し。 ・人類 : 生理(本能)的欲求 →意識→自覚(意識)→情動→分別 ・「解脱(涅槃)人」 : (涅槃)意識→自覚(意識)→生理(本能)的欲求 →情動→分別 《 意識の真義 》 小生、世界人類に問う。 此の宇宙は無生命で良いか? 生命足れ! 細菌、ウィルス等の原始生命で良いか? 海の植物で良いか? 陸の動物で良いか? 弱肉強食で良いか? 生命は万物の霊長、人類足るべきである。 精神の中枢である大脳新皮質は、身から心への進化の必然性である。 人類は動物的 狩猟、採取から生産的 農耕生活を営み、貯蔵に依り て、遂に安定して食える人間らしさを獲得したのである。 此処(ここ)で、精神の根源足る意識レベルでの現象的、更に本質的把 握に入る。 意識に依りて、大脳新皮質に自他の自覚、分別が生まれた。 小生が涅槃為る「宇宙の本質」に回帰し得たのも、宇宙の涅槃化エネ ルギーの「人を生(活)かす」べき本質的機能を、自己への偏(かたよ)り の分別との“揺れ”の地平から、進化の過程を遡行(そこう)して、其の意 識の根が絶たれると云う奇跡的契機を得た事実に起因して居るのであ る。 意識裡に在りながら、意識の根を絶つ、つまり其の本源の意識、小生は 是を観念的為らざる体験上の純粋意識、つまり二元相対為らざる涅槃 (意)識 と称した(但し、是には「解脱」が大前提である)。 以上は「覚天(涅槃入り)」の心的実態である。 宇宙の真理に基づく事実は、此の意識に基づかねば、真実為らざるも のと言わざるを得ない。 人類三毒(貪・瞋・癡)に拠りて、此の本質的意識為らざる、現象的意識 に因りて甚だしく真実が歪曲されるからである。 涅槃識表層の意識から自覚生じ、後天的に生理(本能)的(等の諸)欲 求を分別に拠りて三毒(貪・瞋・癡)化し、是が表層意識に組み込まれ、 其れが人類の習癖と為っている。 貯蔵に依る安定した農耕集落生活が社会構造化するに連れて、我欲 に基づく現象的二元相対意識に起因する人類三毒(貪・瞋・癡)が増大 する。 物質文明の発展と共に、其の三毒(貪・瞋・癡)と勝者の傲慢(ごうまん) さが人類に増大し、現代に至っているのである。 古代農耕集落が社会構造化されて以来、現代に至る迄、二元対立構 造が顕著に為ると共に、やがて地上は分断し、米国の日本への原爆投 下に因る日本の敗戦を以て、世界大戦が終結したのである。 敗戦後、「奇跡の復興」として世界的に賞賛された。 経済面のみならず、最強の米国に拠る、世界を牛耳る、人類史上極悪 の原爆破壊による、原爆支配体制の端緒(たんちょ)としての対象国と された、世界唯一の被爆国の日本人として、其の究極の代償として至り 得た「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の涅槃妙心と云う恒常普遍の真理の 立場から、我々日本人が為すべき事は諸悪の根源足る其の核兵器の 禁止条約の締結を了畢(りょうひつ)せ使め なければ為らないのである 。 何故に宇宙は人類をして、斯様(かよう)な分別に因る、人類の諸欲へ の貪著に因りて地獄を生む二元相対世界足ら使めたのか? 宇宙は涅槃化エネルギーなのである。 何と為れば、二元相対為る意識は、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)か らの促し に拠りて、小生鐵漢が「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰せ 使められたからである。 其の真理を覚(さと)る為には、つまり生命が宇宙回帰する為には 、意識に拠る二元相対世界が不可欠であった のだ。 意識とは自覚であり、元来、意識に基づく自と他の二元相対世界であ る。 意識は意識為るが故に、自我生じ、自我同士が生存の為の二元相対 世界を現前せ使め、自我欲は強弱、勝ち負け、損得等二元相対構造為 るが故に、平穏為る原始農耕集落が社会構造化すると共に三毒(貪・ 瞋・癡)生じ、古代文明が現代文明に移行すると共に、「宇宙(生命)の 本質」(涅槃)からの促し に拠りて、二元相対世界の有限性からの脱 却すべき、純朴為る原始農耕集落の瞑想からの、解脱を求めてのヨー ガ行、そして釈尊、中道を経て、成道へと、人類の有限性からの脱却が 果たされたのである。 宇宙→生命→意識→二元対立世界→「覚天(涅槃入り)」→宇宙 意識の根を絶って、涅槃識 を得、「覚天(涅槃入り)」して涅槃妙心、「 人を生(活)かす」を得たのである。 此のプロセスは、言うまでも無く、一貫して偏(ひとえ)に宇宙の涅槃化 エネルギーの働き(=涅槃妙心)に他ならない。 是が人類に菩提心として具現されるのである。 小生、高校入学時の「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し が、小 生の本質であった。 小生にとって、世の中の事は現象であり、小生には殆(ほとん)ど其れ には関心が無かったのである。 医学部専門の段階で、愈々(いよいよ)真の自己が本気で「何だろう? 」と探し、最も腑に落ちるものは“信心無き宗教”以外無かった。 偶然、図書館で釈尊の坐禅の本を見付けて、興味本位で遣って見た。 刹那に、意表を突いて「アッ、是だ!」と確心した。 能(よ)く能(よ)く考えて見るに、 小生の生涯は 、此処(ここ)に始まるのである。 今にして思えば、是が“扉無き扉”であった。 是が、小生が「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰せ使められる端緒で あったのだ。 尤(もっと)も此処(ここ)に至る必然性は、小生の生得的、本質的懐疑と 其の傾向に在る。 小生の菩提心は、其の自己に正直に生きようと決心した時からである 。 一年後、吾師、伴老師に初見し、二年後位に身心脱落した。 此の菩提心が只管(しかん)坐禅道を歩み、正法苦行に拠りて、意識の 有限性を超越せ使め、涅槃妙心為る無限為る涅槃世界に回帰したの である。 宇宙は涅槃化エネルギーに依る、涅槃為る宇宙から拡大振動し往き、 原爆投下為る超極悪と涅槃回帰為る超極善の超極大振幅か、涅槃為 る宇宙への収束振動し往く永久機関である。 人類の意識は上行性大脳賦活系網様体為る脳幹網様体が大脳皮質を 活性化しているのであるが、意識については学問的に生物全般で考察 されてはいるが、未だに明確為る学説は無い。 二元相対為る分断を生んだ意識とは、人類を地獄に陥(おとしい) れるものではなく、其の表層意識が自滅する事に因って、涅槃識が 顕現し、「世界人類を生(活)かす」、涅槃為る宇宙の真理為る涅槃 妙心に回帰せ使める為の、唯一の“不可欠為る道具”であったの だ。 小生、医学生の時、「意識」に興味と関心を寄せて以来、気が付いて見 れば、五十年近く隔てての、正に其の関心の業報に他ならない。 《 生涯三基軸真道行 》 3:00―――起床 5:00―――帰宅 (ネット) (夕食準備) 5:00―――朝食準備 6:30―――晩課 (ネット) (夕食準備) 8:30―――朝課 7:30―――夕食 (朝食) 10:20―――托鉢準備 9:00―――片付け 11:00―――托鉢出発 10:00―――ネット 1:30前後 1時間(昼食) 11:00―――就寝 ※ 人間は日常生活に於いても、時処位に拘らず、 「行としての自覚」 が不可欠である。 真 道 行 《 自己と宇宙 》 小生鐵漢、明日2022年(令和四年)2月1日より、吾(わが)行、生涯 真道行入り する。 小生が2年4ヶ月余り前の、2019年9月半ばに、「覚天(涅槃入り)」す る迄は、吾師の千日行であったが、明日2月1日より吾(わが)行入りす るのである。 人類史上初めての、「最初・後身心行入り」である。 誠に、空前絶後の真理の行である。 宇宙に「真理の行入り」するのは、唯我独り。 正に、『天上天下唯我独尊』を修証(しゅしょう)する、永遠不滅為る恒常 普遍の生涯行と為る。 是、世界人類平和の唯一の礎(いしずえ)と為る。 此の礎(いしずえ)によりて、必ずや、世界人類は世界平和を完遂する と、小生『最初・後身心』が確心する。 《 女性の真実 》 女性が、性愛(エロス)は「筋肉(=身)ではない、心だ。」と言った。 「花より団子」ではないのである。 真理は「団子より花」為る涅槃妙心である。 『モナリザの微笑』は東西両洋に普遍的為るものと、小生は吾(わが)母 親の、横たわった、死に顔を見て直感したのである。 是は性愛(エロス)の根源に通ずるものである。 其の片鱗(へんりん)を漂わす、理想の女性像を具現するものとして、『 モナリザの微笑』は描かれたものと推察する。 確かに、性愛(エロス)は、バラモン教ヨーガ行の目的の変遷過程に於 いて、「性愛の満足」が「解脱への希求」に置き換わっているのである。 モナリザの微笑の源泉を其の様に想定する事は至極当然な事である。 男性が、其の心を得るのは、是からである。 力ではない、心である。 涅槃為る宇宙の涅槃妙心の真理が世界人類の平和を構築し、完遂す るのである。 《 パソコンの不備 》 小生のパソコンが Internet Explorerの応答不能の為、検索出来なく 為った。ホームページの作成と公開だけは出来る。 是を好機と捉(とら)えて、可能な限りで済まそうと思った。 自然に対しては、人類の智慧に依りて、自由に繁茂させずに手入れが 不可欠である。 盆栽も同様。 余分な枝葉を落として、根幹に其の生命力を貯えて、見事に花芽を加 減し、理想的な生命力の観賞が可能と為るのである。 生命の真の巧妙さとは、人為的為る、大脳新皮質に拠る巧妙さではな く、無為自然(じねん)の涅槃妙心智慧である。 何処(どこ)迄も、福壽海無量である。 《 宇宙の調和と均衡と静謐の具現 》 米・中・露が、宇宙の真理に基づいて、世界平和を期して核兵器禁止条 約を締結し、世界連合として、三国のリーダーが二年毎に三交替で世 界の主導国家として世界平和の為に機能し、世界中の全国家が一世 界連合国家として、世界連合を生(活)かし往く在り様を構築、完遂し往 く。 世界中の餓飢者や困窮者は世界連合で支援し往く。 是に背(そむ)く勢力は、自(おの)ずから自滅せざるを得ないのである。 宇宙の真理に基づく世界連合の在り様を具現すべく、全世界各国が其 の世界人類の理想的在り様を体現し、心進化しなければ為らないので ある。 是が二元相対為る人間由来のものでなく、涅槃為る「宇宙(生命)の本 質」の真理の基づくものであるからである。 其処(そこ)に、世界人類が宇宙の調和と均衡と静謐を吾身に体現し、 世界人類の信頼団結足るのである。 《 「人を生(活)かす」とは ? 》 宇宙の真理である、「人を生(活)かす」とは ? つまり、「生(活)かす」の真義は ? 「生(活)かす」とは、宇宙の涅槃化エネルギー足ら使めると云う事であ る。 事実上、小生は涅槃化エネルギーに回帰せ使められたのである。 宇宙の涅槃化エネルギーの機能は生命を進化せ使めるものである。 生命は脊椎動物の身の進化が、個体為る本能から情動生じ、大脳へ、 そして心が生じたのである。 身が心へ進化し、人類と云う身が心の世界を生んだのである。 有限為る身は個としての生命であるが、心は宇宙に回帰し、時間的、 空間的に、永遠不滅、恒常普遍の真理として万物の霊長足る人類とし て身を介して涅槃化エネルギー足り、無限為る宇宙の涅槃世界の一身 に顕現する唯一の涅槃妙心である。 是が涅槃為る宇宙の身心の真価である。 宇宙の調和と均一と静謐(ひつ)を以(もっ)て形容される処のものであ り、人間世界に幸福と平和と繁栄を具現せ使める。 世界人類に此の自覚を教導せ使めるのが教育である。 学力を付けて、三毒(貪・瞋・癡)の虜(とりこ)と為ら使める事ではない。 取り分け、諸国家の指導者には、此の自覚が不可欠である。 故に施政者は、世界人類の幸福と平和と繁栄を構築、完遂すべく、宇 宙の真理に帰一すべき施政でなければ為らないのである。 是に違(たが)えれば、宇宙からの制裁は厳密に必然不可避為る事を 知るに至るのである。 是が「刹那生滅の原理」に基づく「因果の道理」であり、不昧因果 為る 事は、小生の証(あか)して居る処である。 最早、今後は其の最短路を歩むべく、勇猛心で、共に心進化を遂げね ば為らないのである。 斯様(かよう)に、「人を生(活)かす」とは人為的に強権支配する事でな く、人類をして「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し に依りて、自( おの)ずから、其の心、菩提(道)心 を生ぜ使めると云う、傲慢さの対 極足る、生涯托鉢自活厳密千日涅槃行の底抜けの忍 の心が絶対不 可欠なのである。 「人を生(活)かす」と云う事程困難な大仕事は無いのである。 其の根源は、「真の自己を生(活)かす」事に始まる。 つまり、「自己の本源の生命に覚醒する」事である。 是無くしては、真に「人を生(活)かす」事は為し得ない。 「本源の生命」とは、強権的に至り得るものではない。 其れは、世界人類に吾(わが)真道 (=真理に至る道)を教導する事に 他ならない。 世界人類の将来は、此処(ここ)から始めなければ、人類に将来は無い 。 輝かしき、永遠の世界人類の幸福と平和と繁栄の為には、施政者足る 者は、世界人類の物質的、精神的基本的条件を確保すると云う、世界 人類が世界人類をして平等に、其れ等の明と暗を共有すると云う基本 姿勢を人類に教導出来る人物でなければ為らないのである。 つまり人間世界には、宇宙の真理に回帰して、二元相対的人間為らぬ 、宇宙由来為る処から生まれる、天動説でも地動説でもない、宇宙が宇 宙とは言わない処の、「人類の本質」を弁(わきま)えた、底抜けの忍 が 要るのである。 其れは、恰(あたか)も、列車の中から、有機的構成系為る三毒(貪・瞋 ・癡)由来の、流れ行く窓外の風景を眺めて居る様なものである。 米中露のリーダー達には絶対不動為る、其の「宇宙(生命)の本質」の 真理 に基づいた大局観(たいきょくかん)が切に望まれるのである。 《 宇宙回帰『最初・後身心』 》 小生『最初・後身心』は佛陀であり、神である。 然(しか)し、小生は聖戦を否定するが故に、根本的に神とは異なる。 自身の神の為ならば、自身のみならず、他者の命、つまり自己の神以 外の神を信じる者を否定しなければ為らない様な、二元相対的神は、 其の時点で最早(もはや)神足り得ないのであり、人間由来の産物に他 為らないのは明らかである。 又、小生は他の如何(いか)為る偉人の遺産をも超越する、涅槃為る「 宇宙(生命)の本質」に回帰し、涅槃妙心 を体得した宇宙唯一の人間 為るが故に、今こそ世界人類が空前絶後為る此の機に、在らん限りの 菩提(道)心を発(おこ)して、人類史上初めての真理に基づく信頼団結 を醸成しなければ為らないのである。 世界の原爆支配後の、世界の涅槃団結足る真実が、人類の二元相対 的意識の背後の涅槃識 が、二年程前に初めて人類に開示されたので ある。 「解脱」すれば、人類の無意識為るものは消滅する。 小生『最初・後身心』の意識の背後に在るのは無意識では無い。 宇宙身心為る物質と涅槃識 (=涅槃妙心(能動積極的に「人を生( 活)かす」心 ))である。 人類の真実の真心と云うものは、太陽の如く、日夜絶えず能動積極的 に 「人を生(活)かさんとする」心なのである。 此の根源識に至るには、人間の一切の計らいが取れた、托鉢自活に依 る生涯厳密千日涅槃行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)の果ての、 奇跡裡の奇跡事、偶然裡の必然事として、空前絶後の体現が、宇宙由 来に霹靂(へきれき;落雷)の如く吾体幹を貫通し、刹那に涅槃回帰せ 使められたのである。 《 真 理 》 人類が知りたいのは、若し、掴(つか)めるのであれば、真理 である。 二千五百年前、印度で釈尊が成道され、直後中国で孔子が吐露した。 「朝(あした)に道を聞かば 夕(ゆう)べに死すとも可也」と。 吾師は、小生が師に相見(しょうけん)した頃、小生を「孔子の様な人だ 。」と言われた。 其の後、師は千日行と鉄牛寺と新道元宗を遺されて入滅されたのであ る。 小生、師に相見して、四十余年程経て、果たして宇宙の真理を体現し、 今「成程(なるほど)、確かに。」と孔子の道心に思いを馳(は)せた訳で ある。 空前絶後に、『涅槃世界への階梯』を世界人類に開示し得たのである。 西洋のソクラテス、イエス、ニュートン、ダーウィン、アインシュタイン等、 其れから東洋の釈尊、孔子、そして小生鐵漢へと。 世界人類の遺産の東西両洋の特質が端的である事を知るのである。 つまり、小生の本質回帰が、他の人類の諸所業の根源足る事を知ら使 めるのである。 釈尊『八大人覚』の修禅定、修智慧、不戯(け)論 の最後の戯(け)論と称される処のものは、涅槃為る真理の立場 からすれば、要(かなめ)為る真理の光の色相を世の中に様々に現出 して居るものであるが。 今や、分断と真理で世界は象徴的である。 正に、真理の為の原爆であった様に、真理へ至る為の分断である。 真理に拠りて、正に磁針が北を指す様に、人類の一切の疑問は解決す るに至るのである。 其れ程、人類に分からないものは無いし、斯(か)るが故に、真理の真 理足る所以(ゆえん)である。 日本は世界一の「本質国家」である。 世界一の「物質国家」が米国である。 心が物を治めるのが真理である。 世界の若者は、自(おの)ずから、日本を志向するであろうし、日本の若 者は世界に冠足らねばならないのである。 今後の世界をリードする日本の若者足れ。 一国では地獄の始まりであり、 二国では分断の始まり、 三国が調和の始まりである。 米国のバイデン氏と、中国の習氏と、露西亜のプーチン氏が「三人寄れ ば文殊の智慧(=涅槃妙心智慧 )」である。 《 「真理」為るが故の“平和” 》 規則性は規則性でなければ為らぬ。 教導は教導でなければ為らぬ。 然(しか)し、其れ等は何の為か? 宇宙由来為るが故か? 否。 世界人類が平和でなければ為らないからだ。 斯(か)るが故に、規則性であり、教導なのである。 斯(か)るが故に、不規則性であり、不教導なのである。 唯一、只管(ひたすら)世界人類平和在るのみ。 其の為の一切なのである。 涅槃か? 世界人類の平和か? 人類は平和なのである。 平和為るが故の涅槃である。 真理 為るが故の平和である。 《 「確心」と「確信」 》 人間の諸能力で至り得るのは、人間力為るが故の相対的確信迄で、 人間の体現(=「悟り(身心脱落)」、「解脱」と「覚天(涅槃入り)」)で至 り得るのは、宇宙力為るが故の絶対的確心である。 真理無きが故の、確心無く、真理在るが故の確心である。 “確心”が辞書にも無いのは、確心した者の根底に真理の存在が関与し ているのは明らかである。 真理在りて、確心無きは人類の怠慢に他為らないと言わざるを得ない のである。 確心無くして、確信では世界人類の三毒(貪・瞋・癡)を制する事は不可 能である。 信仰では、究極の体現(=真理 )でなければ、世界人類の迷妄を制し 得ない。 真理は、吾師が唯一、頭陀行を進化せ使めた千日行の延長線上に、真 理への入口が存在しているのである。 西洋は原爆と分断に因りて地獄を生んだが、東洋は涅槃為る「宇宙(生 命)の本質」に回帰して、宇宙の涅槃妙心を得た。 由って、「人間の本質」は必ず「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促 し に依りて菩提心生じ、千日初行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行) に拠りて「解脱」し、更に、千日後行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行) に拠りて、究竟、宇宙涅槃回帰するのである。 中道に基づく千日行(=正法苦行)為らばこそ、涅槃回帰して得られた 確心 なのである。 是が人類をして正しく多様化為ら使める東洋の神髄足る真理 である。 「人間の諸能力」は二元相対為るが故に、何処(どこ)迄も永遠に際限 が無いが、「人間の本質」には「宇宙の本質」と云う、一如為る「限り」に 至るのである。 斯(か)るが故に、相対的為る確信も、絶対不動為る確心に転ずるので ある。 《 米中露の現状 》 米中露が分裂したら、世界の調和が成立しない。 世界の根幹足る米中露が、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の真理に基づ いた、殺し合うのでなく、世界中の明暗を世界中で平等に共有し合い、 互いに生(活)かし合う涅槃妙心智慧 が無ければ、宇宙の真理に帰一 し得ず、事態は哀れ、無自覚為る癡愚者達の地獄の底無し沼に埋没せ ざるを得ないのは自明の理である。 因果の道理(因果応報) は人類の分別を遥かに超越する正確さであ る。 宇宙の真理為る「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」 涅槃妙心智慧 が絶対に不可欠である事を小生『最初・後身心』が断言 する。 ロシアが遣って居る事は、正に其の事に他ならないのである。 米中が露と共に、一致団結して、全世界各国が此の三国共同体を核と 為し、共に互いに支援し合って、世界平和を構築、完遂し往くのみであ る。 進化と云うものは、無生物から生物へ、更に人類へと、魚が鳥や人間に 成ると云う、其の変遷は我々人類の想像もつかないのものである。 進化とは奇跡裡の奇跡事である。 人類の分別を遥かに超越する。 身進化から心進化への、物の世界から心の世界への変遷は実にドラマ チックである。 更に、人間世界に於ける心の進化は、世界人類が涅槃へ帰一する迄 の進化であり、正に此処(ここ)が、我々現代人に不可避為る、個人レベ ルでの関門である。 正に、米中露核兵器禁止条約締結は世界平和への本気度の試金石で ある。 是が、世界人類の越えるべき最大の関である。 《 天を完成さす 》 宇宙は、植物が花果を実らせる様に、無限為る宇宙は、其処(そこ)に 極々一塵の生命を宿(やど)す。 正に其れ自体が奇跡であり、 涅槃識回帰の涅槃妙心化の完遂である。 此の一塵裡の一塵が、正に無限為る宇宙を包蔵して余り有る。 正に『天上天下唯我独尊』である。 斯(か)るが故に、我々人類に拠りて宇宙足るのである。 天我一如、我無くんば天無く、天無くんば我無し。 天を生かすも殺すも、我々の一意である。 「涅槃」は既に我々を生(活)かした。 我々は不昧因果 にして、天を完成させねば為らないのである。 《 ミャンマー問題 》 ミャンマーが現代社会に残存して居ると云う事は、未だ、高度文明化さ れた我々現代人の物質文明下の人類の本質的精神性の犠牲の基に、 人類の三毒(貪・瞋・癡)の傲慢さを共に他者に強要する暴走に他なら なかった事を露呈するもの以外の何ものでもなかったのである。 此の現代人、癡愚者達の恥部を現代社会に暴露して居るのである。 人類三毒(貪・瞋・癡)の溶岩流が、此の高度文明化社会を、何の躊躇( ためら)いも無く漏出し続け、人間社会を覆(おお)い尽くしてしまって居 るのである。 此の現実に、世界の施政者、及び知識人達は全く其の現実に為す術( すべ)を持ち得ない儘(まま)、唯、聾唖者が白昼夢でも見て居るかの様 である。 国連機能としての、其の存在価値が全く生(活)きていない。 是は人間と云う者が自己の三毒に対して如何(いか)に無力であるかを 物語っている。 寧ろ、其れを悪用して、自(みずか)らの繁栄を目論(もくろ)んで居る。 全く菩提心の欠片(かけら)も持ち得ないのである。 人間が生きると云う事が、如何(どう)在らねば為らないかを、我々現代 人は自(おの)ずから 自問せざるを得ない。 此の我々人類が置かれた地獄を少しでも改善する為に、宇宙の真理 に人類が立ち帰って、本気で真剣に我々の此の未熟為る精神性に対し て、根本的に反省しなければ為らないのである。 ミャンマー軍部のみならず、世界の指導者達の癡愚を、ミャンマー市民 だけの犠牲に委(ゆだ)ねてしまうと云う、恐るべき無関心さは自(みず か)らの保身と温存に由来する現代人の特質と言わざるを得ない。 此の世界人類の、心進化に於ける人間の精神性の退行現象程、我々 の人類に対する失望感と空しさを抱かざるを得なくさせるものは無いの である。 原爆とは何だったのか? 神とは何か? 是迄、我々人類は一体何を築いて来たのか? 唯々、我々の三毒(貪・瞋・癡)を募(つの)らせ、増長させて来たと言わ ざるを得ない。 人類の諸悪の根源悪為る三毒に抗する如何(いか)為る力をも持ち得 ないのであるから。 人間は「解脱」して、「自己を忘れ」、「人を忘れない」人間でなければ物 は言えない。 心が自分の事から離れないし、自己の三毒の温存と保身で、其の自覚 すら及ばないのである。 他者を吾(わが)事として受け止める事が出来ない。 「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」と云う真理為 る涅槃妙心 を知らない。 指導者とは一体何する者ぞ? 自国の経済と物を確保温存する事以外の精神性が何か在ったのか? 若し在るとすれば、其れは他者を犠牲にする事しか無いのである。 一国の指導者の為して居る事は、人類の本質的精神性の犠牲に基づく ものに他ならない。 現状が、其の事を如実に物語って居るのである。 ミャンマー軍事政権の強権支配に対する制裁は、正に米中露の世 界人類の平和への試金石である。 《 人類遺産の総括 》 人間が真理に至るには、是迄の人間史では及び得ないのである。 唯一、 仏道(=仏に至る道)の進化し足る、吾(わが)真道(=真理に 至る道) に於いてのみ、其の可能性が在り得ると云う事である。 是以外の一切の人類の諸所業(行)では不可能である。 斯(か)く為る次第で、世界人類の平和の為に、小生は結論為る「宇宙 の真理 」を教導しなければ為らないのである。 然(さ)も無くんば、世界人類が「宇宙の真理 」に帰一する事は出来な いからである。 真理 に違(たが)えば、地獄に堕ち、同(どう)ずれば、涅槃へ向かうの である(=因果の道理)。 人類は後天的に染汚(ぜんな)されて三毒(貪・瞋・癡)為る存在である。 斯(か)るが故に、人類は、涅槃為る宇宙の太陽の陽光によりて生ずる 吾心に投影された吾三毒の影に因りて、菩提(道)心 を生じ、涅槃へ趣 くのである。 是等は宇宙の涅槃化エネルギーに拠る、「宇宙(生命)の本質」(涅槃 )からの促し に始まる、宇宙の進化の原動力足る、宇宙の涅槃への 永久機関としての働きなのである。 小乗仏教の根本経典、増一阿含経(BC4~1)に、 「三毒(貪・瞋・癡)の三不善根を持つ比丘は三悪趣(=地獄、餓鬼、畜 生)に堕ち、(不貪、不瞋、不癡)の三善根を持つ比丘は人天の境涯に 生まれる。」とある。(人天とは、人間の上位の支配者階級の事。) 然(しか)し、釈尊は「(仏・法・僧)で功徳を積めば涅槃界に至る。」と(是 等)を三善根と為されていた。 佛学大辞典(丁福保)に、 仁王経(にんのうきょう;中国、400、般若経の結経(終結)): 「治貪・瞋・癡三不善根、起施・慈・慧三種善根」とある。 仁王((護国)般若波羅密)経は般若思想に拠って、菩薩の行願(施・慈 ・慧)の三善根として取り入れられ、社会、国家、平和の基礎条件が成 るものと為されたのである。 大乗菩薩の起源はBC2~1である。 「悟り(身心脱落)」無くしても、菩薩の行願の能動積極性の真価に思い 至ったのである。 是は釈尊の大乗禅に内在する、「人を忘れない」心に基づくものである。 仏教の心進化には現代文明が不可欠であったのである。 キリスト教もイスラム教も同様に、「教え」の母体為る宇宙も生命も、時と 共に進化を遂げ、身も心も涅槃為る宇宙に帰して居るのである。 是は神も仏も、宇宙の一切は一塵たりとも永遠不滅に恒常普遍為らざ ると云う、其の事が正に永遠に不滅為る恒常普遍為る「宇宙(生命)の 本質」の涅槃為る真理 なのである。 若(も)し、此の真理に違(たが)えて、其れに固執すれば、其の人は宇 宙と生命から、其の悪業の悪業報を受ける事は、仮令(たとえ)一塵足 りとも、刹那生滅の原理 に基づく、超科学、超宗教的真理に拠って、必 然不可避なのである。 菩提(道)心 無き者が、「宇宙(生命)の本質」に至り得る訳が無いのであ る。 宇宙(=涅槃化エネルギー)が許さない。 斯(か)るが故に、原爆支配と分断の末路なのである。 是が「因果の道理」で、正因正果、悪因悪果の理である事を知らない。 原因在る処に結果が生ずるのである。 「求めよ、然(さ)らば与えられん!」 菩提(道)心 無き処に、宇宙の真理 は顕現しないのである。 西洋と東洋の最も顕著為る相違点が、イソップ寓話の『兎と亀』に特徴 的である。 宇宙の真理 に由来する菩提(道)心 の有無である。 菩提(道)心 は人類の諸能力を凌駕(りょうが)して、宇宙を貫徹し、宇 宙の真理 に至ったのである。 《 鐵漢 此の40年間 》 小生、吾(わが)師に相見(しょうけん)出来て居なければ、 今の我、『最初・後身心』は百%、此の世に顕現し得なかった。 吾師は釈尊を土台として、吾師足り得て、 小生は、吾師を土台として、『最初・後身心』と為ったのである。 明らかに、 釈尊は、其の古来の伝統を超えられ、 明らかに、 吾師は、其の師を超え、そして釈尊を超え、 明らかに、 小生は、吾師を超えたのである。 斯(か)くして、世界人類が、 動物的、身(み)の状態から心の世界へ、 そして、既に、「涅槃入り」したのである。 《 ウクライナ 》 ウクライナ、ゼレンスキー大統領の純粋為る平和志向に、無条件で、小 生、強く共感を覚えずには居られない。 宇宙の真理 に基づく平和は絶対不動である。 ロシアの原点も、人類の本源為る、此の純粋為る平和なのである。 世界の指導者足る者の本命は、此の宇宙の調和と均一と静謐を世界 に具現する事である。 是を世界の三大国の指導者達が率先垂範する事が、米中露の真核足 り、全世界で、全世界の明と暗を国民レベルから共有し合い、共に貪 を 捨て、施 に同(どう)じ往く のが、涅槃化エネルギーの涅槃世界への心 進化の実態である。 三毒(貪・瞋・癡)害裡の人類に於ける真理 とは、 謂(い)わば、宇宙空間(=三毒世界)に浮遊する人間の宇宙服(=涅 槃世界)に繋(つな)がれた酸素ボンベのホースから吸入される酸素の 様な物である。 《 「人 (=国) を思う 」 》 「人を思う」事と、 「自己のものに為(す)る」事とは別ものである。 真に「人 を思う」とは、自己のものに為(な)さない。 唯、人 の平和を純粋に願うだけである。 人 が国の場合でも、本質的には変わり無い。 《 同(どう)ずる と言う事 》 人間の分別の働きとは、一(いつ)為る真理 を是と非等二つに、そして 三つ、四つ……と分けて、其の実体、及び本質を探知しようとする。 然(しか)るに、分別出来る物は人類大脳新皮質の副産物に他ならない。 其のものには成り得ないのである。 故に、東洋に於いて、人類が真理 に至る道、真道 が既に小生鐵漢に 由りて、仏道の延長線上に、超宗教・科学的真理 として世界人類に教 導して居るのである。 「仏道を習うと云うは自己を習う也、自己を習うと云うは自己を忘るる也 、自己を忘るるとは万法に証される也。」 (万法;宇宙と心の一切) つまり、坐禅に拠りて、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰するのであ る。 此の方法論は奇跡事為るが故に、要(かなめ)は真理 為る涅槃妙心 である。 是は宇宙の心足る、宇宙の涅槃化エネルギーの働きに他ならない。 全ては「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し に導かれて、 斯(か)くして初めて、人類は「宇宙の身心」を覚(さと)ら使められるので ある。 斯(か)様に、宇宙に生み出され、宇宙に回帰、帰一する人心其のもの (=涅槃妙心 )を知る、つまり「悟っ(身心脱落し)て」、「覚(さと)る(解 脱し、「覚天(涅槃入り)」する)」のである。 元来、 此の真理 は分別する事で至り得るものではない。 「覚天(涅槃入り)」しない限り、真理 には至り得ない。 故に涅槃回帰為らぬ、帰一、つまり涅槃化とは、永遠為る涅槃への収 束振動し往く心進化なのである。 振動とは定常為らぬ無常である。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)は、涅槃化エネルギーに拠る、「刹那生滅 の原理」に基づく心進化の永久機関として現象して居るのである。 大脳新皮質で及び得るものではないと云う事である。何処(どこ)迄も。 では、「人類は一体何を心の支えと為すべきか?」と言えば、 飽く迄も、涅槃妙心智慧 為る「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活) かし合わ使める」と云う事である。 宇宙とは実に旨(うま)く出来たもので、此の世の中に、是以上の喜び、 活力源(=エネルギー)、生(活)きる力と為り得るものは存在しないの である。 其処(そこ)に自と他の分別は立たない。 是が、世界人類の平和の為に、何処(どこ)迄も無窮に同(どう)ずる と 云う事である。 菩薩の行願(布施、愛語、利行、同事)の同事である。 《 真理の真義 》 「真理の意義」について語らねば為らぬ程、愚昧(ぐまい)な事は無い。 「真理為るが故に、真理なのである。」としか言い様が無い。 世界人類に孔子の心意気が具備して居れば、言う迄も無いのであるが 、責(せ)めて世界の指導者足るバイデン氏、習氏、プーチン氏に真理 に応(こた)え得るだけの、真為る政治家としての資質が具わって居る 事を前提としてであるが、単なる票集めに過ぎないのであれば、止むを 得ぬ処である。 人類に与える「真理の真義」が如何(いか)為るものかについての、小生 『最初・後身心』としての総括を書き遺して置く事は、世界人類にとって 意義在る事だと思う。 真理を知らない世界人類が、世の中に価値を見出せない事に因(よ)っ て、自己の在り様と云うものを見失ってしまい兼ね無いのである。 従って、「世界と自心の在り様」についての真実に触れて置かねば為ら ない。 其の真意は、世界の指導者達が余りに三毒(貪・瞋・癡)為る存在であ るが故に、三毒(貪・瞋・癡)為らざる善良為る人々の存在意義が甚だし く忘れ去られてしまうと云う、本末転倒した、世界の指導者達の三毒(貪 ・瞋・癡)の権威主義が横行していると云う事である。 果たして、小生の直観通り、米国の最大の遺産、核兵器支配の空疎な る率先垂範の根強さは米国人の黒人差別処の話ではない。 故に米国人の其の骨を折る、否、真に善良為る人間に為る要(かなめ) が米中露に依る核兵器禁止条約の締結なのである。 是が諸悪の根源中の根源であり、「是を抹殺する」 事が「涅槃世界へ の入口」である事を世界人類が知らねばならないのである。 「是を抹殺する」 の真意は、「従前の抑圧的迷妄為る」世界から、涅槃 妙心(智慧) 為る、「人を生(活)かす」 世界へ生まれ変わる事である 。 三毒為らざる人間が、三毒為る人間世界に因りて、自己の立ち位置に 誤解を生んでしまう事が、人世には往々にして在ると云う事である。 人類の(心)進化に逆行して、世界の潮流は殆(ほとん)ど三毒を志向し ている。 世の中の指導的立場の人間程、其の傾向が強いのである。 何と為れば、其の事によって、彼等は其の立場を得て居るからである。 なかなか真理を素直に受容するだけのゆとりを持ち得ないのである。 彼等の影響下に、世界人類が心理的弱者と為り兼ねないのである。 そうして、世界人類を誤った方向へ追い遣ってしまうのである。 だからこそ、真理を敢えて強く教導しなければ、三毒の癡愚為る人間の 影響力によりて、世界が歪曲されてしまうのである。 真理を真理として打ち出せないのは、権力者達の執著と保身と安泰に 他ならない。 バイデン氏と、習氏と、プーチン氏には、其の重大為る責務が在るので ある。 彼等が、何処(どこ)迄、其の真の人間力を果たし得るか、小生は其の 動向を見守って居るのである。 真理 は、宇宙の本質であり、地球人類の確心足る事を忘れては為らな い。 特に、日本政府の指導者程、今、一番情無い。 是は、日本が世界一の敗者と為り果てた時の情無さではない。 戦わずして、米国の傀儡(かいらい)としての情無さである。 今の日本の指導者程恥知らずは居ないのである。 どうして、今こそ、日本人が日本人を打ち出す事が出来なくなってしまっ て居るのか? 唯、其れが一番楽であるからに他ならない。 真実の声が出せる人物が一人も居ないとは。 日本人、否、世界人類に対する欺瞞(ぎまん)である。 職業足るものも、然(そ)う云うものであるべきでは無いのである。 人間と人材の底の浅さである。 心は人類の諸欲を制するが、諸欲は諸欲に制せられるのである。 「三人寄りても智慧生ぜず」には陥っては為らない。 要するに、 宇宙の真理に基づく、世界三大国の核兵器禁止条約締結が世界平和 への入口である。 此の一線が越せずして、世界に平和が訪れる事は在り得ないと云う事 を肝に銘ずべきである。 《 原爆支配肯定者 》 従来の原爆支配体制に依拠(いきょ)した経済活動では、世界人類の平 和を構築する事は不可能である。 米国のアフガニスタン撤退が、其の真実を如実に裏付けている。 何故か? 世界人類を生(活)かすものは、三毒(貪・瞋・癡)由来のものではなく、 三善根(施・慈・慧)由来のものであるからである。 原爆支配体制は人類を抑圧して、大量に殺す最良の方法に過ぎない。 従って、現状は、「宇宙の真理」に違(たが)えて居り、地獄往きは必定 なのである。 其の様な不安定な現状を肯定出来ないのが当然である。 為らば如何(どう)為(す)れば宜しいのか? 現状維持以外、打つ手が無いと云うのが本音である。 斯(か)るが故に、小生が宇宙の真理に回帰して、真理に至ったのであ る。 「人を (活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」と云う、唯一の 現状打開の真理である。 是が涅槃為る宇宙の「真理の言葉」として、肚(はら)に納めなければ為 らないのである。 世界に唯一の被爆国、日本でさえ、米国の傀儡(かいらい)として、核兵 器禁止条約締結に反対している。 此の愚かさは、日本が世界一の恥知らずである事を暴露する以外の何 ものでもないのである。 日本が「世界人類を生(活)かし合わ使めるべき」と、世界人類に主張せ ずして、世界人類の悪習癖に鉄鎚を下し得る訳が無いのである。 小生存命中に、プーチン氏と習氏の力を得て、日本政府が恥を知らね ばならない。 米中露核兵器禁止条約締結には、後(あと)、否、真っ先に日本政府の 、バイデン氏に対する毅(き)然とした態度が不可欠である。 ゆめ、日本が其の障害と為(な)っては為らない。 真の独立国家足らねば為らないのである。 日本人の将来に、永遠の汚点を残してしまう。 真の愛国心とは、如何(いか)為るものか? 日本国民の将来を真に思い遣る心である。 《 人間の能力 》 人間が生涯に遣れる事は、其の質と量で決まる。 何よりも不可欠為る質であるが、其のバロメーター(指標)は、「宇宙(生 命)の本質」の真理 によって決定付けられている。 「人を (生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」である。 是を質の頂点と為(す)れば、万法(=宇宙と心の一切)は量の世界で ある。 万法に証せられて「悟り(身心脱落し)」、万法に触れて「解脱」し、万法 は万法に回帰するを以て頂点と為す処の、量の世界である。 「人を忘れない」 釈尊大乗禅の遥(はる)か延長線上に「覚天(涅槃入 り)」し、「人を生(活)かす」 真理の世界(=涅槃世界)が開けるのであ る。 一概に量と言っても、一般的な人間世界の相対的な長さの事ではない。 「悟り」は刹那の出来事ではあるけれども、此の刹那は時空的に永遠性 を有するものである。 つまり量(時間的長さ)とは、結局、質の問題に帰着するのである。 徒(いたずら)に百歳生きても、其の中の一日を真に充実して生きれば、 其の一日は百歳の価値が在り得るのである。 小生『最初・後身心』でも、同様である。 然(しか)し、此処(ここ)に至るには、小生「覚天」後二年半程の規則性 と教 導の、必然的に教導偏重傾向の経過後の帰結である。 つまり、如何(いか)為る人間も、其の命が果てる迄、其の持てる能力を 生(活)かし切るには、限りが無いと云う事である。 命が切れる迄、人間は懸命でなければ為らないと云う事である。 量は質に心進化を遂げるのである。 国家の大小、強弱、優劣は全(すべ)て、其の質の問題に帰着する。 其れは米国に象徴的である。 米国も其の量に拘泥して居るのではなく、此処等(ここら)で、其の質に 移行しなければ為らない時機である。 是はロシア然(しか)り、中国然(しか)り、日本も当然然(しか)りである。 総(すべ)て、其れ等の持てる能力の半分、否三分の一位は使用してい るのかと思う。 其れ程、人間と云う者は、生涯本気に為れない、真剣に為れない、命懸 けで生き得ない、好い加減な処で、つまり其の三毒(貪・瞋・癡)で済ま せてしまって居ると云うのが真実なのである。 其れが人間の通性である。 徒(いたずら)に、其の悪習癖に堕(だ)してしまって居ると云う事である 。其処(そこ)に、人命に対する真剣な配慮も欠如し、其処(そこ)に人間 に最も不可欠為る信頼性を喪失してしまうのである。 信頼は、其の質に存するのである。 物質にしても、宇宙空間を凝縮する事に因って、物質は熱を有し、光を 放ち、生命を育(はぐく)むエネルギーとして生(活)きるのである。 宇宙空間が生命を育む迄には、其れだけの凝縮無ければ、生命は生じ 得ないのである。 弱肉強食の動物も進化し、人類の心進化を遂げて涅槃回帰し得て、更 に、小生の涅槃回帰迄、何処(どこ)迄も人類は宇宙の真理 に帰一し 往かねば、涅槃為る宇宙に同じ得ないのである。 世界人類が三毒(貪・瞋・癡)から三善根(施・慈・慧)、更には命果てる 迄、其の持てる能力を好い加減で済ます事無く、何処(どこ)迄も真剣に 懸命で、其の遊ばせて居る大半の能力を、本気で果たして往かねば為 らないのである。 未だ人類は弱肉強食の三毒(貪・瞋・癡)の域から脱却し得ていないの が現状である。 小生は「覚天」後、窮し切った時には、「最早、最期の命」と思い為して、 其の都度、自(おの)ずから為すべきを定めて、窮地を打開して来た。 《 刹 那 》 「覚天(涅槃入り)」の刹那は永遠の真理である。 是に及び得る、宇宙涅槃化エネルギーに通ずる、「刹那生滅の原理」に 基づく(是非に拘らない)無記為る、刹那は他(ほか)に無い。 世の中は保身と安泰でなく、「世界人類を生(活)かし合わ使める」涅槃 化エネルギーの涅槃化に違(たが)えない、涅槃への収束でなければ為 らないのである。 未(いま)だ世界には諸々の飢餓と貧困と難民等の地獄が散在して居 るのである。 世の中は常に、唯、「欲しい、欲しい」の貪 である。 《 ウクライナ問題 》 ロシア・ウクライナ問題は、被災害者を生まない処の、忍に基づく、自( おの)ずから為る、宇宙が太陽系を生み、地球上に生命を育(はぐく)み 、人類をして涅槃回帰せ使める、宇宙の調和と均衡と静謐(ひつ)を具 現する、自然(じねん)の対応でなければ為らない。 宇宙の「刹那生滅の原理」に亘る(わた)る態(てい)の忍に基づく、 「心の凝縮」が宇宙の真理を世界人類に具現する事と為るのである。 今後の人類、特に指導者には大いに期待する処である。 《 教導と規則性の真実 》 世界人類は、小生『最初・後身心』と共に、今世紀、人類史上初の『涅槃 妙心智慧の人類』の黎明期を迎えつつあるのである。 是は小生と共に、世界人類初の心進化に於ける最大の節目である。 世界人類平和の為に、世界人類が、『最初・後身心』の基(もと)に、涅 槃妙心力発動の勇気と気概を共有して、更に能動積極性を発揮しなけ れば為らない時機であり、従来の抑止体制から、真理に基づく新体制へ の輝かしき大転換を遂げねばならないのである。 小生は、当涅槃世界の根本規範、教導と規則性を確立している。 是等両者は、涅槃妙心(智慧)、「人を 生(活)かす」、「世界人類を生(活 )かし合わ使める」に派生する、絶対不可欠為る二大規範である。 是等を犯す事は、涅槃妙心(智慧)為らざるものである。 当規範は涅槃世界の実態であり、「宇宙の真理」を具現するものである 。規則性を犯せば地獄を呈する事と為る。 ロシア・ウクライナ問題の誤算は、涅槃妙心(智慧)為らざるものである。 「人を 生(活)かす」とは、一人足りとも、人を殺すのではないのである。 止むを得ずして、犠牲者が生じてしまった場合は致し方無い。 「人を生(活)かす」最先端医療と同様である。 勇断以て、能動積極的に、大いに知を施さねば為らないのである。 犠牲者が出る事を前提とした闘争は涅槃妙心(智慧)為らざる事である。 一人足りとも犠牲者を出さざる処の対立を前提としなければ為らない。 犠牲者が出ない処迄、課題の明暗を共有して、其処(そこ)迄共に心を凝 縮して、其の難を共に乗り越えて往かねば為らないのである。 其処(そこ)に、世界平和への道が開かれて在るのである。 何と為れば、斯(か)様に進化を遂げ、今我々人類が共に現存して居る のであるから。 此の涅槃妙心に依りて、其の智慧を生むのである。 此の宇宙の塵(ちり)が智慧となるには、物心共に四十五億年に亘る、 其の過程を経て、今の完結に至って居るのである。 宇宙の真理に回帰すれば、其れは明々白々である。 其の智慧が生まれる処迄、人類は労苦しなければ為らないのである。 其の労苦を怠(おこた)って、短絡思考で科学力に走る。 其処(そこ)で、永遠に平和は訪れないのである。 此の労苦を支えるものが宇宙の涅槃化エネルギーの働きなのである。 抑止に依る、人を殺す受動消極性でなく、真理に基づく、「人を生(活) かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」、能動積極性でなければ 為らない。 米露等の国連常任理事国家群は前者であり、斯(か)くしてロシアは、 後者を活(い)かして、後者足るべく、敢えて前者に先んじて、前者の範 を実践したのである。 従来の世界の在り様を超えるには、真理が絶対不可欠である。 又、真理を超える悪は存在しない。 能動積極的に「人を 生(活)かす」のが真理 であるからである。 今こそ、生む苦痛を世界中で共有し、人類の最大の正の遺産為る涅槃 世界を構築しなければ為らない。 《 人類史上初の宗教 》 此の世に、既に宗教と云うものが在る。 キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教……等。 そして、無宗教者と無関心者である。 其れ等、夫々の頂点は何か? 夫々、創造主キリスト、アッラー、神話的神々、釈尊…… 等である。 其処(そこ)で、小生鐵漢が、日本(北九州)の自宅で、二年半程前に、 人類史上初めて「宇宙の真理」に至った。 小生は是を、仏教(仏道)の進化した、(真理に至る)真教(真道)と称し た。 敢えて、是を宗教と為したのは、 小生にとっては、「宇宙の真理」であるけれども、 小生以外の77億人の世界人類にとっても、宇宙の地球上の人類として 真理なのであるが、回帰体現者以外は信者と為る。 信じようが、信じまいが、真理である以上、信者と為らざるを得ないので ある。 否定すれば、宇宙に向かって自(みずか)ら唾を吐く様なもので、其の悪 業報を受ける事と為るのである。自業自得と云うものである。 世の中と云うものは其の様にして、我々人類は其の生命を自(みずか) ら受けているからである。 自己に対して自己が反感を抱く事程の不幸は無いのである。 しかし信じる以上、其れに帰一する以上、信者に違いは無いのである。 是ぞ、正(まさ)しく、真に真正為る信者足るのである。 其処(そこ)に欺瞞(ぎまん)が滑(すべ)り込む余地は全く無い。 信、不信に拘らず、信である事が真なのである。 是は既存の宗教を超越した超宗教であり、超科学的為るものである。 更に、志(こころざし)有る者は、真道を歩めば宜しいのである。 真道は仏道の延長線上の、仏道の完成形為る無仏道為る真理への道 である。 故に「宇宙の真理」への信であり、釈尊大乗禅に由来する、「超宗教・科 学的真理道」とも言うべきものである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)を自(みずか)らに体現する事に拠りて生 まれた真理である。 釈尊の「涅槃」が心進化を遂げて、小生鐵漢に拠りて、「宇宙の本質」に 回帰した処に始まったものである。 此処(ここ)に至りて初めて宗教は完成されたのである。 完成宗教、真道が今後の世界人類の生きた道標(みちしるべ)として、 「世界人類の平和」へと、唯一、教導出来るものである。 其処(そこ)に、神も居なければ、仏も居ない。 唯々、「宇宙(生命)の本質」である処の、涅槃と云う真理 が在るのみで ある。 人類が心進化を完成させた世界を、宇宙(涅槃化エネルギー)由来の涅 槃と謂い、其の心を涅槃妙心と謂い、其処(そこ)から生まれる処の、世 界人類を平和へ教導する、涅槃妙心智慧なのである。 今後、世界人類は「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使 める」世界人類と為らねば為らないのである。 そして、是を基(もと)に、国際法を確立せ使めなければ為らない。 国連も、其の内容を然(しか)るべく一新しなければ為らないのである。 先ず第一に為すべきは、核支配大国為る常任理事諸国が核兵器禁止 条約締結に拠りて、米中露が三交替で、数年毎に、其の主導国家を交 替して、世界平和を構築、完遂させ往くのである。 全世界国家が是に参画し、其の国家足るべく、発展を遂げるのである 。宇宙は涅槃化エネルギーに因る、涅槃への収束振動為りて、米中露 体制が完成し、此の絶対為る体制の構築以降は涅槃世界を運営して 往くのである。 斯(か)く、宇宙は心進化を遂げるのである。 其れが「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の永遠不滅為る恒常普遍の真理 なのである。 絶対不動の真理であるが故に、世界人類の諸業も自(おの)ずから絶 対不動足るべく、個人レベルで確信を持って生きる事が出来るのである 。 当然、日本の如く、自衛力は不可欠である。 世界の警察である。 無駄な軍事力への投資は総て、直接に平和資金に充(あ)てる。 人類三毒(貪・瞋・癡)を三善根(施・慈・慧)と為して生きて往かねばなら ない。 最も不可欠為るものは、真理への確信在るのみである。 斯(か)くして、従来の如何(いか)為る宗教的束縛からも脱却して、宇宙 (生命)の真理に基づいて生きる。 是には、人間、個人レベルでの三毒(貪・瞋・癡)に対する自制心が不可 欠である。 「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」事に違背(い はい)する行動や思考は自(おの)ずから慎まねば為らないのは当然で あるし、教育も真理に基づいて為されなければ為らない。 常に「人を思い遣る」心の遣(つか)い方が不可欠である。 愈々(いよいよ)、是からが、真に本腰を入れた、「人を生(活)かす」、「 世界人類を生(活)かし合わ使める」生き方に大転換しなければ為らな いのである。 是は悪党以外の世界人類が求め続けて来た、究極の世界人類の生 活なのである。 個人レベルでの配慮に基づき、癡愚者を正さ使め、頂点へと及ば使め 往くべきものである。 真の自由は、真の自制、更に「人を生(活)かす」処から生まれるもので ある。 総ては、空前絶後為る、奇跡的、宇宙の真理の霹靂(へきれき;落雷) で、真理へ正されたものである。 何事も、最も単純過ぎて、受け取る事が出来無く為ってしまって居る哀 れさである。 其れが為に、自(おの)ずから地獄を生まざるを得ないのである。 此の単純さに回帰する事程の、長年の懸命裡の奇跡は無いのである。 磁針が地磁気で、サッと北へ向く様なものである。 覚(さと)った跡形も残さない。 其れ位の涅槃化エネルギーの妙技である。 人間と云う者は、より高度な処へ趣(おもむ)く者である。 《 生命の尊厳とは 》 生理(本能)的欲求、特に食欲と性欲を、考察上、生命足る要因と為せ ば、動物から人類への進化は、弱肉強食から平和裡の食欲と性欲足ら んが為である。 正に、欲求から情動の快感原則、記憶回路、大脳新皮質の現実原則と 、人類史は正に現実原則の心進化の歴史である。 古代文明での社会構造化と共に三毒生じ、近代、現代と一挙に原爆支 配体制が構築され、遂に真理回帰に及び得たのである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し に基づいて菩提心生じ、「宇 宙(生命)の本質」に接近(=身心脱落)すると共に、生命の真価を覚(さ と)ったのである。 生命の真価は現実原則に拠りて生命の尊厳足り、坐禅は坐禅行(正 法苦行)と転じ、其れは必然的に、社会的に一定の機能を持するに至る のである。 此の生命は、永遠に不滅為る恒常普遍の生命である。 是、生命の尊厳である。 自他の別無き、普遍的尊厳である。 故に、人類(自己)の三毒(貪・瞋・癡)で他(者)を害し得ない生命なので ある。 是が生命の尊厳である。 真に自(みずか)らの生命の真価に至れば、其の生命に対して自(みず か)ら危害を加える事は、其の生命の価値を否定する事であり、其れは 絶対に為され得ないのである。 生命自体に、自他の別は無い。 生命の尊厳性を自覚する事が菩提心の「証(あかし)」であり、 其れが最初であり、最後なのである。 国家の尊厳と云うものは、生命の尊厳に基づくものである。 従来の戦争は、総て生命の尊厳を犠牲にした、国家(指導者達)の尊厳 に他ならない。 ロシア・ウクライナ問題も、人類は究極的には、「宇宙の真理」に基づく 世界人類の生命の尊厳が要(かなめ) なのである。 当問題を、此の根源から俯瞰(ふかん)しなければ為らないのである。 世界人類の生命の尊厳性 が忘れられている。 ロシアとウクライナの関係以前に、当問題で生じた多くの犠牲者の問題 に、世界人類が是を最重要視しなければ為らないのである。 失われた多くの命を忘れて、ロシアとウクライナがどの様に為ろうとも、 もう其処(そこ)には、如何なる価値も存在しないのである。 双方、多くの死傷者、避難民等を生み、地獄に至ら使めた結果である。 両者の共犯と云う意味では、両者が平等に其の咎(とが)を負わねば為 らないのである。戦争犯罪である。 従って、何(いず)れも独立為らずして、中立の立場を取るべきである。 自己の生命の尊厳性は、他者の生命の尊厳性に基づくのである。 他者の生命の尊厳性を犠牲にして、自己の生命の尊厳性を保つのは、 生命の尊厳性を肯定する事には為らない。 未だ、弱肉強食の禽獣(きんじゅう;ケダモノ)に異ならないのである。 唯一、真理の立場からの判断以外は力関係と為らざるを得ないのであ る。 自己(自国)の生命よりも、世界人類の生命が先行する様に為って 初めて、「世界人類を生(活)かし合わ使める」判断が出来るのであ る。 其の為には、神ではない。 釈尊の大乗禅に由来する、究極の真理に至り得ない限り、其の普遍的 生命には及び難い。 施政は、参加する事、勝つ事優先のオリンピックとは異なるのである。 「人を 生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」事が目的で ある。 人類の諸能力は全(すべ)て、其処(そこ)に至る。 宇宙は、其の涅槃化エネルギーである。 施政も、勝つ事を其の目的と為せば、「世界人類の平和」には決して至 り得ない。 勝敗に拘(かか)わらず、「世界人類を生(活)かし合わ使める」事を其の 目的としなければ為らないのである。 米国に隙(すき)が在る。 今後の世界人類の主導国家足るには及ばない。 「三人寄れば文殊の智慧」体制を維持、運営する事が、世界人類の究 極の使命足るのである。 文殊菩薩とは頭陀第一の二祖大迦葉に替わるべき、智慧第一の「自由 為る大解脱人」である。 核兵器 を涅槃妙心(智慧) に入れ替えて、是を究極の智慧と為し、 日本の自衛力(世界警察)に拠(よ)りて、「世界人類の平和」を完遂し往 かねば為らないのである。 世界は今や、日本、そして米と露中の構造である。 日本と米中露の核兵器禁止条約批准、及び締結 が世界人類の平 和への試金石である事は厳然足り。 《 ロシアの一新 》 今、世界の状況は、然(さ)ながら、ヒトラーの最後を見ている様である。 プーチン氏の誤算に起因した暴走に因る現惨状は、国連常任理事国家 、全会一致制の原爆支配体制の最終産物である。 我々人類は、此の従来の世界政治体制の根本的反省と共に、現惨状 を惹起せ使めた、「人を殺す」抑圧政治体制を猛省し、是を一新して、 「人を生(活)かす」信頼団結体制にしなければ、心進化為らないので ある。 是はオリ・パラにも同様の、欺瞞(ぎまん)に依る強行手段が見られた。 真理回帰した日本枢軸の、米中露核兵器禁止条約締結に拠る、世界人 類の平和の構築でなければ、決して為し得ないのである。 是、心進化最後の関門であり、最大の節目である。 『最初・後身心』と共に、今心進化完了しなければ、永遠に為し得ない。 世界人類で、地獄から脱却し、涅槃世界を願わない人間は一人も居な いのである。 押し並べて、従来の相対的量的世界から、今後の絶対的質の世界への 変転である。 今、既に 『最初・後身心』が世界の枢軸足らねば、人類滅亡に等し いのである。 然(さ)も無くんば、宇宙が地球人類の存続を許さない。 地上が地獄以外の何物でもなく為る事は不可避である。 真の預言者とは、宇宙の真理を語る者の事である。 真理為るが故に真理である。 真理は世界人類が疑い得ない、信じる以外無いものである。 是が真理の言葉である。 真理は言葉として、永遠に人の心と為り、生(活)かし、生(活)きる。 真理の言葉は生(活)きている。 家庭内暴力で子を殺す親が増えている。 其の親を更生出来ないとは、不完全極まり無い社会である。 親に心が無いのは其の社会、国家、世界の体制に心が無いのである。 人類三毒(貪・瞋・癡)に由来する、米国主導の「人を殺す」力支配、核 兵器支配体制の国連常任理事国家群に依る統一組織に心が入り込む 隙は無いのである。 如何(どう)して、是で世界人類に、「人を生(活)かす」、「世界人類を生 (活)かし合わ使目る」心が醸成され得ようか。 人類三毒(貪・瞋・癡)に、其のゆとりは無いのである。 「心を生かす」のでなく、「心を殺す」方向性しか存在し得ないのである。 人間世界でなく、「宇宙(生命)の本質」は「人を生(活)かす」涅槃化であ る。 つまり「宇宙の真理」は、「刹那生滅の原理」に基づく涅槃化である。 故に真理への諸体現は、涅槃化に因る涅槃回帰なのである。 斯(か)くして、真理為る涅槃妙心(智慧)を得るのである。 此処(ここ)で初めて、「世界人類を生(活)かし合わ使める」信頼団結体 制の心が生まれるのである。 従って、心進化の、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に帰一する過程に於 ける、必然的な最大の節目として、核兵器禁止条約批准と締結が在る のである。 是は、涅槃世界への登竜門足る、人類智慧の最終的英(勇)断であり、 必然的帰結なのである。 《 扉無き扉を開く (2) 》 「扉無き扉を開く」、是が菩提心である。 何故に、其れに依拠(いきょ)し得るのか? 何一つ手掛かりも、依り処(よりどころ)も、保証も無いのである。 其れに、吾(われ)をして向かわ使め、其れに吾(わが)身心を委ねる。 何故に、自己をして、然(そ)う在ら使め得るのか? 此処(ここ)が、妙不可思議であって、不思議に、其れだけのものである から、「何か在る」と云うもの、其の「在るもの」に対して、斯(か)く「在ら 使めて居るもの」故に、然(そ)う在る事自体が、其の「証」なのである。 何か分からないけれども、其の様な、決して沈まない大海に委ねられて 居る様な心情とでも形容出来る、在り様なのであろう。 恐らく確信の様なものに裏付けられて居るのである。 つまり、「裏付けられて居る菩提心」を以(もっ)て、吾師に相見(しょうけ ん)し、師に一切を委ねた。 其の確信が、集中、成り切り、没入、「身心脱落」を生んだ。 疑義為らばこその、疑義の存在根拠足る、其の源、換言すれば、「宇宙 (生命)の本質」(涅槃)からの促し の熟果としての「悟り」である。 「扉が無い」と言わ使めるもの自体、つまり空性の開示なのである。 要は、三毒(貪・瞋・癡)が科学力の効果に短絡思考するのでなく、自己 の諸能力を忘れ、佛心を体得するのである。 此の「生きる」根源的趣向性、是が菩提(道)心である。 恵まれて、正法苦行、千日行を心底に据え置かれ、吾師の御計(はか) らい裡に、小生は某専門僧堂を飛び出し、水を得た魚の如く、無一物、 求道の、日本の海岸線自転車周回の行道の規則性裡、或る時突然に 千日行が意識に浮上し、正法苦行の、自己にとって何足るかを根本的 に自覚し、千日行一路を歩み始めたのである。 五千年前、東洋で瞑想、ヨーガと心進化した。 一方、西洋では国家権力への執著のピラミッドであった。 仏道苦行(釈尊や大迦葉)は、3C、エジプトのキリスト教徒達に修道を 生み、国民の半分が修道僧であったとも言う。 西洋の生んだものは、原爆投下と、其れに対峙するジャズと自爆テロで ある。 東洋では、真理回帰である。 要するに、人間世界は核兵器等、力支配から涅槃妙心(智慧)世界へ の遷移 である。 弱肉強食の禽獣(きんじゅう;獣(けだもの))から人間へ、更に人間から 真理へ。 地獄から世界平和、三善根(施・慈・慧)の涅槃世界へである。 常に、其の心進化の途上に在るのである。 此の真実を抑抑(よくよく)弁(わきま)えて、世界人類は道を決して誤っ ては為らないのである。 自(おの)ずから、択(と)るべき正道は導き出されるのである。 BC3、中インドで兄弟総べて殺して王位に就き、インド全土を制覇した 阿育大王は、即位後九年、戦争の悲惨さを見て、無常観生じ、心一変 して、篤く仏教を信奉し、仏陀の遺跡を参拝し、大塔を建て、第三回仏 典結集を行い、シリア、エジプト等に仏教使節を送り、仏教宣布に努め た。そして全インドに仏塔を建設し、仏教に未曾有の功績を遺したので ある。 「大きく為る」と云うのはエントロピー(混沌、乱雑さ)増大に過ぎない。 宇宙空間に点在する水素原子の様に、何処(どこ)迄も、何処(どこ)迄 も凝縮し行くと、遂には人類を生み、更に心進化は心の凝縮と為る。 心は凝縮して、「身心脱落」し、人類が決して及び得ない、「刹那生滅の 原理」に基づく刹那に至り、脳神経形成の身進化を遡行(そこう)して、 涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に回帰するのである。 人類は真理為る「宇宙(生命)の本質」に帰一、回帰すべく、心を凝縮( =心進化)し往かねば、エントロピー増大(=獣へ退行)する以外無い。 本質から乖離(かいり)すれば、世界人類は地獄に陥(おちい)らざる を得ないのである。 真実の弁(わきま)えが不可欠である。 涅槃妙心無き学問は死物である。 真理に基づく諸欲求(能力)に拠りて、後は自(おの)ずから、真の多 様性が生まれる。 西洋の「分析」と、東洋の「帰する」とは異なる。 前者は飽く迄も対象を探究するが、後者は対象が消滅し、自他一如為 り往く過程を経るのである。 二元相対為る、運命的対立の世界からの脱却である。 釈尊手掌上の悟空からの脱却なのである。 今時に至り、米中露主導全世界核兵器禁止条約批准、締結に拠る 信頼団結 が喫緊の最重要課題である。 プーチン氏の侵攻無き米中露核兵器禁止条約締結 は在り得ないの である。 今は、締結 を生む痛みである。 《 宇宙の大局観 》 今の混迷為る此の時、世界を制して居るのは小生『最初・後身心』であ る。 何と為れば、宇宙の真理に唯一、回帰し得たからである。 つまり、小生以外、世界に一人もいないと云う事である。 世の中に指導者足る者多けれど、世界を制してはいない。 他者の出方を見守って居るのである。 人間は、誰でも、何時(いつ)でも、何処(どこ)でも、其の身、其の儘(ま ま)で宇宙を制する事が出来るのである。 世界を制するに二通りある。 相対的に制する場合と、絶対的に制する場合である。 前者は、未だ「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に触れ得ていない(=解脱以 前)場合であり、後者は、「解脱」或いは「涅槃回帰」を意味する。 人間世界と云うものは、然(そ)う云うもので、自己の心一つである。 人間は、自己の心一つで宇宙を制するのである。 小生『最初・後身心』為ればこそ、世界人類に真理を語る事が出来るの である。 此の言葉に世界人類は従う事が、世界人類の平和に最も適(かな)う事 なのである。 つまり、世界人類の平和を「生かす」人か、其れとも、世界人類の平 和を「殺す」人かの大局的観点から物事は判断しなければ為らない。 目先の正義感や愛国心で解決出来る問題ではないのである。 世界人類の将来を人に託(たく)し得る人は『最初・後身心』為る小生以 外には居ないのである。 二元相対世界を後世に託すのは、二元相対世界でしかない。 託すべきは、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の真理である。 宇宙の真理に基づかない限り、涅槃、つまり世界人類の平和には至り 得ないのである。 而(しか)も、真理に回帰し得ても、是を教導する事は又別問題である。 真理に至れば、真理を実現出来るとは限らない。 其の為には、二元相対世界から絶対世界への軌道修正為らねば、少な くも、世界人類の将来を、人類に託す事とは為らないのである。 軌道修正出来て初めて、託す事に及び得る。 軌道修正とは、核兵器禁止条約締結 に他ならない。 一体、世界人類がどれだけの地獄を体験すれば、世界の指導者達は、 世界人類の平和への菩提(道)心を発(おこ)し、人類の心が自己の三 毒(貪・瞋・癡)から、人を思い遣(や)る三善根(施・慈・慧)へと転じ得る のであろうか。 《 心と能力 》 能力者は、其の能力為るが故に、其れに自(みずか)らを奪われる。 無能力者は、無能力為るが故に、心が能力に奪われる事は無い。 其の分、心は能力為らざる、其の「本源」に向かう。 能力無き者は、其れ故に幸いである。 能力為らざる「心の本源」の恩恵に与(あずか)るのである。 其れは、相対的為らざる、永遠不滅、恒常普遍の「宇宙の真理」に往き 交(か)うのである。 心は坐禅で、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に往き通(かよ)い、 能力は間接的に心へ向かう。 “涅槃妙心”に基づく能力が理想的である。 能力に基づく心は“偽心”であり、 能力を捨てた心こそ、達人の“真心”である。 “偽心”を判別出来るのは、小生『最初・後身心』が「覚天(涅槃回帰)」 したからに他ならない。 無限の時空為る宇宙に貫徹した、永遠の刹那である。 《 国連と国際法の涅槃化 》 世界人類の平和を恒常、普遍的に維持、保障すべき国際法も、国連機 能の実効性と相応しているのは当然である。 富士山山容の移行帯の存しない、植物限界域内での諸業に過ぎない。 人類三毒(貪・瞋・癡)を制すべき三善根(施・慈・慧)を機能させる能力 が欠落して居るのである。 矢張り、人間と云う生き物は、自己のレベルで為し得ない事は、国際レ ベルでも当然為し得ないのである。 複数で遣れば何とか為る、ではないのである。 人間は個人の段階で、自己完成して置かねば、全体主義は、ミャンマー 軍事政権や自爆テロや特攻隊の様なものを生んでしまうのである。 其れ等を制すべき、明確為る根拠を持ち得ない。 善悪論の帰結する処は、聖戦であり、原爆支配に過ぎない。 諸悪を制すべき心の普遍的正当性が欠落して居る。 故に非条理な抹殺行為を制すべきものの無い、動物的弱肉強食のレベ ルに堕してしまって居るのである。 万物の霊長として、唯、黙視して、忘れる事しか対応能力を持ち得ない で居る。 人間は、平安な日常生活すら、強権侵略者に対して、未だ是に抗( あらが)う普遍的正当性が確立されていないのである。 現代の高度物質文明社会に於ける、其の精神性の未熟さには、中東 無政府状態に於ける不合理性を感じないでは居れない 此の不合理性は核兵器支配の不合理性に由来するものである。 如何(いか)に人類が現象的生き方に追従し、本質的生き方から疎遠に 為ってしまって居るかを明示している。 経済、物質至上体制の末路である。 現今のロシア・ウクライナ問題が其の悪弊を如実に露呈せ使め、其の 事実を浮き彫りにした。 当問題、そしてミャンマー軍事政権に共通して、我々世界人類が直面せ ざるを得ない無力感、非合理性と非条理性を常任理事国家、全会一致 制の核兵器支配の呪縛と共に、我々人類に初めて炙(あぶ)り出された のである。 是も『最初・後身心』と誤算に誘発された結果かと推察されるが、要する に、世界人類の平和への飛躍的心進化 を遂げる事が人類の最終目 的なのである。 核兵器禁止条約締結、そして国際連合の体制と国際法の一新である。 国連、全会一致制の抑止力に依る原爆支配体制こそが毒蛇と為って、 世界人類の胸に「とぐろ」を巻き、其処(そこ)から一歩も出る事が出来 ない。 毒蛇が動き出した時が、人類が滅亡せざるを得ない時である事が明ら かであるからである。 毒蛇に拠る呪縛の三毒(貪・瞋・癡)者達の保身と安泰精神の暗闇が世 界人類を盲目にして居るのである。 此の見せ掛けの調和と均衡と静謐は、何時(いつ)壊れても不思議では ない。 感染症や自然破壊よりも差し迫った極悪の人災である。 是を、宇宙の真の調和と均衡と静謐為ら使めるには、他でもない、 米中露核兵器禁止条約締結を世界人類の信頼団結の魁(さきがけ)と して、其処(そこ)から、涅槃世界への構築と完遂に着手しなければ為ら ないのである。 又、原爆以前の恐ろしいものが、世界人類の自己の三毒(貪・瞋・癡)な のである。 原爆も自己の三毒(貪・瞋・癡)に由来するものに他ならない。 吾(わが)真道は「真理への正道」である。 「宇宙の真理」とは、宇宙の心とは「人を生(活)かす」涅槃妙心であると 云う事である。 原爆支配体制が「人を生(活)かす」体制か? 「人を大量虐殺して制圧する」体制である。 斯(か)るが故に、国連が有効に機能せず、国際法が成立し得ないので ある。 斯(か)く為る次第で、喫緊の課題は、即刻、世界人類を地獄へ誘引す る現常任理事国家体制を新体制に一新して、「世界人類を生(活)かし 合わ使める」国際法に改正しなければ為らないのである。 是を全世界が、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の真理に基づいて、 先ず、世界人類の平和の喫緊の、試金石為る核兵器禁止条約締結を 完結する事である。 是が、世界人類が平和への一歩を確実に歩み始めたと云う事の「証( あか)し」である事を知らねばならない。 《 世界人類の心進化 》 今、世界情勢は最も心進化を遂げねば為らない時機に至った。 心進化の起動力は真理に基づく涅槃妙心への菩提(道)心 である。 今こそ、心進化を遂げねば、将来、此の時機は二度と訪れないのであ る。 心進化と云うものは、三善根(施・慈・慧)同様、人類の自覚と気概と菩 提(道)心と心進化堅持の正念相続が不可欠である。 世界人類の心進化の為には、世界の優れた指導者達に依る世界人類 の信頼団結が不可欠である。 世界人類の心進化は、常に自己の心進化に基づくものである。 確心は確信と為りて、後世に託すのである。 《 完成された国際法の必然性 》 国際法の完成度は人類の心進化の尺度足り、其の未熟度は、人類の 精神の未熟度に他ならない。 現行の国際法では、ミャンマー軍事政権の暴挙に対してさえ、全く無力 である。 況(ま)してや、核戦争に至っては、何等の効力も無いのである。 義務教育であれば、完全に生徒に牛耳られた教育体制に他ならないの である。 一体何の為の長年に亘るエネルギーと金の浪費であったのか。 いざと為ると、人類破滅の道しか残されていないのである。 いずれにしても、被害を如何(いか)に最小限に止(とど)めるかである。 大戦の終結と共に始まった、此の禽獣(きんじゅう;けだもの)の弱肉強 食の人類版である。 然るに、力支配の頂点の恐竜時代は既に、人類の知恵の心進化に遷 移したのである。 更に人類の悪知恵の頂点が原爆投下後の終戦に始まって居るのであ る。 此の戦後七十年にして、果たして、宇宙の真理に回帰し、人類史上、空 前絶後に、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の涅槃妙心、「人を生(活)か す」と云う真実に至り得たのである。 宇宙は「人を殺して制圧支配する」のではない。 何処(どこ)迄も「世界人類を生(活)かし合わ使め」て、正と負の両面を 共有すべく生きるべきである。 此の魁(さきがけ)として、核兵器禁止条約締結があるのは言う迄も無 い事である。 是と併行して、世界人類の平和を人的判断に委ねる事無く、世界人類 に普遍的為る国際法と云うものを、「宇宙(生命)の本質」の真理に基づ く、宇宙法足る国際法を樹立しなければ為らない。 宇宙の調和と均衡と静謐は、正に此の究極の規則性裡に完成している ものであるが故に、此の宇宙の真理に基づくべく、「世界人類を生(活) かし合わ使める」べく、整備された法足ら使めるのが、我々人類の喫緊 の責務であり、使命なのである。 国連の、世界中の警察官から成る国際警察が国際法に則(のっと)って 核兵器無き、世界中の治安を守るのである。 核戦争すら禁じ得ない様な、世界人類の平和に対して全く何等の保障 も確保され得ない弱肉強食体制では、今の真理世界に於いては、在っ ては為らない事である。 其の永遠に不滅為る恒常普遍性が、真理に基づく今の世界に於いては 、必然不可欠なのである。 《 米中露の真骨頂 》 西洋由来の人類能力 に依って得た科学兵器に依る原爆支配体制 と 、東洋由来の菩提(道)心 に拠る、「宇宙(生命)の本質」に回帰して至 り得た真理 と、世界人類が信頼すべきものは、何(いず)れであるか? 両者は、互いに相反するものである。 前者は「大量殺戮(さつりく)に拠(よ)る制圧支配」であり、後者は「世界 人類を生(活)かし合わ使める宇宙の真理」である。 何(いず)れか択(えら)ぶとすれば、一様に後者を択(えら)ぶであろう。 是迄、世界の列強が全会一致制(=大国拒否権)で、此の武力支配を 堅持し続けて来たのである。 是が破綻(はたん)を来たすのは必然必至である。 何と為れば、宇宙の真理は涅槃化エネルギーに基づく、「人を生(活)か す」涅槃妙心であるからである。 真理に違(たが)う者は、因果の道理 に拠(よ)りて、其の悪業報を受 ける事は必然不可避である。 世界人類は、更に心進化を遂げねば為らないのである。 然(しか)るに、善悪は正しく判断出来ても、今日迄の国連の拒否権に 拠る武力支配体制を覆(くつがえ)すのは容易ではない。 世界の五大国が一致して、体制変革に臨まねば為らないからである。 現体制の未熟さは、ミャンマー問題、ロシア・ウクライナ問題でも明白で あるが、其の実践に踏み切ら使めるだけのものが不可欠なのである。 其れは、小生が『最初・後身心』足り得るのに、正に奇跡裡の奇跡事、 偶然裡の必然事として、宇宙の真理が小生に顕現した様に、此の空前 絶後の生起を、世界の現状に具現するのは、真理(実)への信頼に基 づく結束以外に無いのである。 今、正に其の絶対為る好機である。 真理は奇跡を生起せ使めるのである。 正に、米中露の真骨頂である。 《 結 び 》 小生、「結ぶ」つもりは無かった。 生涯、続けるつもりであったけれども、最早、総(す)べてを語り尽くして 、後(あと)、語るべきものを持たないし、又、持たない方が宜しい。 持てば宜しいと云うものでも無いのである。 持たない事で宜しいのである。 不完全性、未熟さの根本原因は、小生『最初・後身心』に有るのでなく、 当事者(間)に有るから。 小生は、既に総べてを語り尽くして居るのであるから、 今と為っては、最早、余った命である。正に余命である。 後は、人が及んで呉れるだけ。 其れを待つだけである。 教導が尽きた。 従って、其の規則性も消えた。 後は、全く自由である。 何遣って居っても宜しい。 ネットも製本段階に入る。 日課と托鉢だけである。 何にもしないと云う事を、唯、遣って居るだけである。 《 涅槃妙心と菩提心 》 人類の諸能力は然(さ)る事ながら、其れを生(活)かすか、殺すかは、 菩提(道)心、更には涅槃妙心に一任するものである。 拠(よ)って、人世の妙味は菩提(道)心と涅槃妙心にあるのである。 能力其のものは、人類の諸欲求に直結するもので、究極的には感動の 域を出ないものである。 「世界人類を生(活)かし合わ使める」ものは、菩提(道)心と涅槃妙心で ある。 刹那生滅の涅槃化エネルギーの意識の流れは、「宇宙(生命)の本質」 の「人を生(活)かす」涅槃妙心として、小生を絶えず働か使めるのであ る。 人間の意識と云うものは、是非、分別、判断以前の無記(善、悪でない) 為る涅槃識(=純粋意識)を涅槃妙心足ら使めた、刹那の体現、つまり 菩提(道)心の究竟の「覚天(涅槃入り)」により、「行」ではない、「人だ ! 」の真理(実)によりて、涅槃識(=純粋意識)は涅槃妙心智慧、「人 を生(活)かす」に涅槃回帰したのである。 菩提(道)心の究極の「自未得度先度他」の心は、「悟り」、「解脱」以前 の、つまり二元相対の分別意識での、仏道に拠る人類救済の道なので ある。 悟らない(=身心脱落しない)限り、人間が涅槃識(=純粋意識)には絶 対に入れないのである。 故に、悟れば、人間は絶対に人を殺せないのである。 ぶつけられる事は在っても、自(みずか)ら敢えて交通ルールを破らない 様なものである。 普遍的、「生命の本質」を知るが故に、其の絶対的価値を何よりも重視 するからである。 「殺せない」人間が力支配する訳が無いのである。 真理に基づく信頼結束である。 涅槃回帰すれば、世界が変わる。 小生が今の世界の核兵器支配体制と、ミャンマー軍事政権やロシア・ウ クライナ問題と共に、人命軽視の侵攻と戦争に対して、教導しなければ 為らないのが、“涅槃妙心”である。是が「宇宙の真理」である。 ロシアとウクライナが如何(いか)に殺人の正当性を主張しても、共に同 じく殺しあって居る。 正に聖戦の正当性に他ならないのである。 真理に裏付けられた、真の生命の不殺生戒にして初めて、佛性 を「殺 せない」のである。 『最初・後身心』が世界人類に説くべきは“涅槃妙心”である。 “涅槃妙心”について語れるのは、小生以外居ない。 何と為れば、「涅槃回帰」を体現したからである。 其処(そこ)で、世界人類に、常に何時(いつ)でも、何処(どこ)でも、誰 にでも説かねば為らないのである。 人類の諸能力、時処位と心進化とは一致しない。 唯、言える事は、世界人類の平和の為の全身全霊にして、純一無雑の 、歩んだ道程が心進化に他ならないのである。 涅槃妙心とは、「人を生(活)かす」心、「世界人類を生(活)かし合わ使 める」心である。 此の真理(実)を、世界の指導者達が率先垂範しなければ為らないので ある。 率先垂範して、「大量殺戮兵器支配体制」を構築、完遂するのではない 。 此の最初の第一歩が、米中露核兵器禁止条約締結に他ならない。 此の「造悪からの飛躍の修善」が世界人類の平和への試金石である。 涅槃妙心とは宇宙の心(=真理)であり、発(ほつ)菩提(道)心に拠りて 、至り得る心である。 菩提(道)心は宇宙を貫徹する、唯一の人間力であり、心進化の原動力 である。 是が古代インドのバラモン教に由来するものであり、東西両洋の特質 の頂点に位するものである。 西洋では、エジプトに其の影響が見られたが、是が殆(ほとん)ど三毒 (貪・瞋・癡)に流された。 西洋は能力を極め、東洋は能力を捨てて、此れを超えた。 菩提(道)心、「人を生(活)かす」心無き者は皆、人類三毒(貪・瞋・癡) に拠りて、地獄に陥らざるを得ないのである。 人を生(活)かした分、其の三善根(施・慈・慧)に拠りて、自(みずか)ら が生(活)かされるのである。 因果の道理、歴然足り。 故に、原爆支配すれば、「人を生(活)かす」事が無いから、地獄行きに 為らざるを得ないのである。 菩提心有れば、「人を力で制圧する」原爆支配しない。 「人を生(活)かす」事でなく、「人を殺す」事であるからである。 プーチン氏即刻阿育王足れ 米中露核兵器禁止条約締結 是が最後の真理への真道 斯くして涅槃世界へ至る 涅槃回帰[最初後身心]の真実 《 核兵器禁止条約締結 》 人類史上、極悪中の極悪が原爆投下と、是に追随した原爆支配体制で ある。 究極の大量殺戮(りく)兵器為る核兵器に具現された、動物的弱肉強食 本能支配体制の主導国家が米国である。 日本が唯一、其の被爆国家であり、米国の長年の原爆支配体制準備 期間を経て、今、其の極悪中の極悪為る支配体制下に在るのである。 是が現国連の本質である。 此の意味に於いて、米国とロシアの量的・質的非条理性は、ロシア・ウ クライナ問題に比すれば、正に米国は劫火と蛍光に喩(たと)えられる のである。 使用せざるを得ないからこそ製造したのである。 米国はロシアを非難する以前に、自らの在り様を深く反省しなければ、 人類が動物的弱肉強食世界から脱却する事は不可能なのである。 米国主導の、此の体制を捨てる事は、米国にとっては最大の損失に為 る。 だからこそ、米国主導の原爆への執著は、何者よりも強固なのである。 是こそ、正に世界を地獄に陥(おとしい)れる最大の根本原因なのであ る。 諸悪の根源は人類三毒(貪・瞋・癡)であり、其の最足るものが米国主 導の核兵器支配体制である。 正に諸悪の根源が、此の核兵器の所有である事は言う迄も無い処であ る。 斯(か)るが故に、世界人類の平和への試金石が、此の核兵器禁止条 約締結其のものであると云う事を、世界人類が深く認識し、今こそ、米 中露核兵器禁止条約締結を完遂しなければ為らないのである。 世界人類の原爆ボケが地獄への一丁目一番地である事を覚(さと)らね ば為らないのである。 自己の心進化の第一歩が、「悟り(身心脱落)」、「解脱」、「覚天(涅槃回 帰)」への端緒為る発(ほつ)菩提(道)心 であり、世界人類の平和への 第一歩が、「核兵器禁止条約締結」である。 米中露核兵器禁止条約締結 は、世界に唯一の被爆国であり、斯(か )るが故に、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の真理に回帰した、因果の道 理、不昧因果 の必然性を以(もっ)て、真理回帰の地、日本の、長崎と 共に唯一の被爆地、広島出身、岸田首相主導で、世界人類の平和の 為に完遂されなければ為らないのである。 今こそ、過去からの人類の負い目を全員で分かち合って、「宇宙の真理 」に基づいて信頼結束し、「世界人類の平和」の第一歩を歩み始める以 外に無いのである。 《 今後の世界の展望 》 ロシア・ウクライナ問題は、岸田氏主導、バイデン氏、習氏、プーチン氏 会談で、米中露英仏の国連常任理事国家の全会一致制(大国拒否権) に基づいて、核兵器禁止条約締結せ使めるべく、双方が世界人類の平 和の為に、然(しか)るべく、負を共有すべきである。 是が涅槃妙心智慧である。 今こそ、人類勝利の時である。 世界人類の平和への第一歩を進まねば為らないのである。 此の初発(ほつ)菩提(道)心が世界人類の勝利を確約するのである。 此処(ここ)に至れば、小生『最初後身心』が至り得た、一切の宗教の神 髄、「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」心を、自( みずか)ら体現する事に拠り、人類の過去の諸悪業は総て、罪根をして 消滅せ使めるのである。 人類の諸業は総べて、「宇宙(生命)の本質」の真理に至る為である。 世界人類が、「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」 涅槃妙心の真理に同ずる事が究極の目的である。 一切の宗教の究極の目的は、宇宙の真理に同じ、世界人類が必然的 に平和に至る事である。 世の中に、真理程強いものは無い。 宇宙の真実であるからである。 絶対不動で、宇宙と心の間に一塵の隙も在り得ないのである。 今こそ、世界人類が涅槃妙心を生きねば為らない。 《 人間の階梯(身心進化) 》 本能界→情動界――――――→精神(哲学、学問、宗教等)界→ ↑ 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し 道→「悟り」――→佛界―――――――→「覚天(涅槃回帰)」→ ↑ | 正法苦行 (「解脱」) 釈尊 ←|⇒ 『最初後身心』 真理(涅槃妙心)→地獄回帰(涅槃妙心智慧)→世界の真理黎明( 「動物的弱肉強食世界」→「価値世界」→「人(世界人類)(其のもの) 世界」) 《 「 人だ ! 」の気付き 》 「人だ!」の気付きとは? 是は、「人」に尽きる。 人間の諸能力(学問、宗教、主義主張等々)様々であるが、其れ等の究 極中の究極が、「人だ!」、「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし 合わ使める」と云う事である。 人間は、「人」に対するに、様々な自己の立場や色眼鏡に拠って対応す る。時に対立し、殺し合う。 自(みずか)らの在り様に拘わらずに、常に「人を生(活)かそう」と在る のが、真理(実)なのであり、然(そ)う在るべきなのである。 此の当たり前の事が、人間は出来なく為るし、分からなく為る。 自己の思い込んで居るもので、其れが如何(いか)為るものであろうとも 、此の「人だ!」とは為り難いし、決して歴然とは、然(そ)うは為らない のである。 「分かり切って居る」で、「解り切って居ないのである。」 是が理解でなく、全身全霊で、つまり身心で刹那に体現する。 是は奇跡裡の奇跡事、偶然裡の必然事であるが故に、『最初後身心』 足るのである。 其れは宇宙の根源的エネルギーに拠って気付かされる。 生きるとは、其の「一人一人の価値在る存在を生(活)かす」と云う事に 他ならないのであります。 是が涅槃識(純粋意識ではない)、涅槃妙心である。 此の心が宇宙の真理である。 人間が至り得れば、必然的に、宇宙のエネルギーが、人間をして斯(か )く為ら使めるのである。 是が「涅槃回帰」で、人間の心進化の最終段階である。 此処(ここ)から、世界の真理黎明が始まる。 今回のプーチン氏の侵攻を端緒とする、ロシア・ウクライナ問題は、世 界の心進化に因りて、第三次大戦を惹起するが如き分断を生まなかっ た反面、現代に於ける科学的軍備力と、是迄の体験からも、プーチン氏 の暴挙を沈静化せ使めるだけの、確足る根拠を持ち得ない儘の必然的 、運命の凋(ちょう)落を待つ事にしか依存し得ない。 是も、世界の体制の根底が、核兵器支配至上体制を採る事以外のもの を、是迄の人類が持ち得ないが為である事は自明なのである。 要するに、力支配の弱肉強食で、生き残る事しか残されていないが故 に、宇宙の調和と均衡と静謐を世界人類に具現する事が出来ないので ある。 其の為には、如何(どう)しても宇宙の真理に基づく以外不可能である。 涅槃妙心、「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」心 である。 「世界人類を生(活)かし合わ使める」心、是に基づく事が絶対不可欠な のである。 現国連常任理事国家、全会一致(大国拒否権)体制が、果たして、 「世界人類を生(活)かし合わ使める」心に基づいて居るのかである。 否、「人を殺して、原爆支配する 」体制である。 従って、即刻、現国連常任理事国家、全会一致(大国拒否権)体制で、 核兵器禁止条約締結せ使め、そして現プーチン氏の侵略を、即刻、全 会一致制で核兵器禁止条約締結せ使める事である。 然(さ)すれば、プーチン氏一人の侵略は生起し得ないのである。 現国連の体制の本質が、全会一致制の核兵器禁止条約締結しないか ら、ロシア・ウクライナ問題が生じるのである。 更には、宇宙(=涅槃化エネルギー)の真理に基づいて、世界全国家が 信頼結束し、国際法で大量殺人兵器禁止法を制定し、国連世界警察を 構築して、世界人類の安全保障を確保すれば、世界人類の平和は確定 するのである。 小生が涅槃回帰出来たのは、仮令(たとえ)如何(いか)為るものであっ ても、一切の傘を撥無(はつむ;払い除けて信じない)して、「犀(さい)の 角の如く、唯独り歩んで来た」からこそ、真理に至り得たのである。 結果論ではあるが、其の都度、其の都度、総べて自己を貫徹して来た。 世間的には、何処(どこ)かで折り合うものであるが、是は真に徹底しな ければ為らない。 非条理と思える程に100%厳格に自(みずか)らの心を拠り所として宜 しいのである。 チラッと一歩でも動くと、成らないのである。 宇宙の真理が手に入らない。 武力でない。涅槃妙心智慧に徹するのである。 日本の自衛力で十分である。 自衛力に徹するからこそ、遣(や)れたのである。 宇宙は涅槃一路門である。 《 人生(世)の時空的縮図 》 托鉢中、或る時一人の女が何か窺(うかが)う様に、フラフラと近付いて 来て、物欲しげな眼(まな)差しで小生に何か呟(つぶや)いた。 「コーヒーが飲みたい。」と。 明らかに、其の仕草から普通ではないと、異様な感じがした。 小生は其の場を離れ、暫(しばら)くして、或る一軒の旅館の様な玄関先 でチリンチリンと托鉢を始めると、奥の方で一人の女将(おかみ)の様な 女性が小生を見るなり、何か悲愴な面持ちで、急に落胆した様に、踵( きびす)を返して近付いて来た。そして何か訴える様に言葉を吐くので ある。 小生は何の事だか分からない儘に立ち去ろうとすると、女は後を着いて 来る。何かブツブツと小言を言いながら小生から離れないのである。 小生、仕方ないから、何時もの様に托鉢を続けて居ると、横から小生を 引っ張って、「何処(どこ)迄も着いて行く。」と言い出した。 ズーと着いて来るのである。 三~四十分位して、小生が取り合わないから、其のうち居なくなった。 其の一連の記憶が、今思うと、男女間の本質的な在り様の縮図に思え るのである。 男性らしい在り様と、子を孕(はら)むべき女性としての特質、其の意味 での女性らしい在り様の両者の縮図、男と女の或る姿である。 往々にして、人生、人間の日常生活での意識と云うものは、此の様な有 機的構成系裡に在るものであると思う。 分かり易く言えば、心進化の象徴的存在に対する人間の三毒(貪・瞋・ 癡)の姿である。 実に馬鹿げた気もするが、人世とは、此の様に馬鹿げて居るものだと 反省すべきものなのである。 是が有機的構成系と為って、人間世界を愚かしくしてしまうのである。 中々其の在り様を脱却出来ない。 此の在り様の本質は、「唯、(淫快が)欲しい、欲しい。」である。 フロイトの神経症患者の観察からの、性的エネルギー(リビドー)が快感 原則、現実原則で心進化し往くべきが、宇宙の真理に違(たが)え、退行 して造悪を為すのである。 其の意味では、百年程前のナチス政権下でのフロイトの精神分析は卓 越しているが、彼は心進化の最先端為る菩提(道)心を、生の本能(エロ ス)に対する、死の欲動(タナトス)と判断錯誤した。 此の錯誤が彼の、強いては西洋の限界である。 此の点はユングの集合的無意識への志向性には及ばなかった処であ る。 是等は、総じて西洋的限界の、「宇宙(生命)の本質」を体現した東洋へ の挑戦である。 然(そ)うして、皆死んで行かざるを得ないのである。 其れが、遂には戦争に迄及んでしまうのである。 小生は菩提(道)心で間違わないが、世界人類に菩提(道)心が有る訳 では無いのである。 無いのが世界の在り様である。 指導的立場と菩提(道)心とは両立し難いのである。 すると、如何(どう)為る? 出来て、原爆支配体制樹立迄である。 後は、出来て諸悪莫作、断崖絶壁に立ち竦(すく)む迄である。 後は「ノアの箱舟」しか残っていない。 人類の知恵とは此の様に浅薄で癡愚なのである。 人類、三毒(貪・瞋・癡)為るが故に。 然(しか)るに、遂に二年半程前、人類史上初めて、小生が「宇宙(生命 )の本質」の真理を手に入れたのである。 宇宙の真理を知り得た今と為りては、人類の迷妄は既に消滅した。 真理を超えるものは何一つ無い。 我々人類の母体為るが故に。 宇宙の真理が在りながら、子が親に為る程に癡愚に為り行かざるを得 ないのは実に腑甲斐無い。 真の教育が無い。釈尊、キリスト、孔子、ソクラテス、アインシュタイン等 々、人を掲げるだけで、後は御任せ。真理(実)を打ち出せる人が居な い。宇宙の真理(実)を! 地球沙汰では為らないのである。 正法苦行して、宇宙の真理に回帰しなければ、地球問題は解決しない のである。 宇宙の真理は空前絶後にして、『最初後身心』である。 今、打建てなければ、世界人類は永遠に、此の機会を失ってしまうので ある。 此の時を迎え得て、今は最早、世界の指導者達が真理に基づいて信頼 結束して負の連鎖を断ち、世界人類の平和への新時代を構築、完遂し なければ為らないのである。 《 性愛(エロス) 》 三毒(貪・瞋・癡)の貪は「悟り」、更には「解脱」しない限り、消滅しない。 従って、殆(ほとん)ど諦観で死んで行くのである。 諦観しなければ、唯、耐えないのである。 然(しか)るに、是を脱却するのが、唯一菩提(道)心であり、是に拠りて 「解脱」と等覚に脱却するのである。 故に、菩提(道)心と云うものが、心進化するには不可欠である。 禁欲は如何為る場合(正法苦行、心進化等)でも、採り得べき手段では ない。 欲を忘れ使める菩提(道)心に拠りて初めて、自(おの)ずから本源自性 天真仏為る駿馬足る正道なのである。 菩提(道)心無き三毒(貪・瞋・癡)は戦争を誘発する。 人類三毒(貪・瞋・癡)が消滅しない限り、戦争は何時(いつ)でも起こり 得るのである。 斯(か)るが故に、『最初後身心』が真理と、そして自然と人間を破壊す る三毒害を説かねば為らないのである。 性愛(エロス)を牛耳るものは涅槃回帰である。 是は真理回帰した必然性である。 「解脱」の無欲が其の儘、必然性を以(もっ)て、自(おの)ずから、貪欲を 制するのである。 其れは全く欲しがらないからである。 欲しがらなければ、必然的に自(おの)ずから、手に入るのである。 例えば托鉢でも、何か持って居ると、全く出来ないものである。 例えば百足(むかで)は無心であるからこそ、総べての足が完璧に巧( うま)く働くのである。 「悟り」、「解脱」では牛耳らない。 不染汚(ふぜんな)為る、水と油の真実である。 「涅槃回帰」して、「行」から「人」へ回帰体現して初めて、欲界為る有機 的構成系裡の不可避為る必然性を以(もっ)て、空前絶後に心的淫快を 無欲裡に自(おの)ずから、風鈴に風が戦(そよ)ぐが如く、牛耳るので ある。 《 生き返る 》 寺を出た。小生、(無意識裡に)坐禅が根底に在って、 真に大地に臥した。 然(しか)れども、坐禅が在るから、大地に坐した。 是は臥して居るのでもないし、生命存続活動しているのでもない。両者 以外の万物の霊長足る人類の人類足る所以(ゆえん)の但坐である。 是が無ければ、人間も動物と変わらなかったであろう。 此の但坐が、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しに依りて瞑想と為 ったのであるが、斯(か)くして、小生には坐禅が在ったので、大地に坐 し、大地に根を張り、大地から養分を得て、やがて、忘れた頃に霹靂(へ きれき;落雷)の如く、刹那に宇宙のエネルギーに拠りて真正に立た使 められ、涅槃為る宇宙の本質に回帰せ使められて、大地を正すのであ る。 小生、大地に坐した段階で、始めは何もしなかったが、何もしないから、 其の内、人の為に為りたいと思った。 坐禅して居る東京の大きな石神井(しゃくじい)公園の掃除から始めた。 其の内、同じ働くならば、金の入る方が宜しいと思って家庭教師や労働 をして居る内に、やがて菩提(道)心で本音が出て来て、百日行から放 浪の準備段階に入った。 規則性放浪行の途中、或る時、一体、何故に此の様な事を遣って居る のだろうと云う自問が生じた時、突如千日行が意識上に浮かび上がっ て来たのである。 其の時、初めて千日行と向かい合ったのである。 何(いず)れにしても、宇宙の真理に回帰する事無くしては、完璧為る真 の出身の活路と云うものは、実は見出し得ないのであります。 人類史上、是迄の如何(いか)為る存在に於いても、是が真実である。 今、自己を省察するに、如何為る境遇に在ろうとも、結局は求道、つまり 菩提(道)心が小生を導いたであろう。 そして必然的に、釈尊大乗禅に至ったであろう。 然(しか)し、吾師に会えたと云う事、其れ以上に、吾師と、弟子足る小 生とに生まれた様々な化学反応に因りて、宇宙の本質に回帰し得たの である。 宇宙を生む化学反応は、達人と達人に依る、空前絶後の反応である。 多くの星々を生み、後を留(とど)めない超新星の大爆発の如くして、此 の事実が「千日行入り」の契機とも為ったものであった。 斯様(かよう)に、宇宙の物質、つまりエネルギーは一方では核分裂に 因る破壊エネルギーとして、世界人類を死滅させ、又一方では、涅槃回 帰の涅槃化エネルギーとして、世界人類を生(活)かすのである。 宇宙の物質其の物に善悪が在る訳でなく、是を「生かす」か「殺す」かは 、人間の心に在るのだと云う事である。 恐らくは、小生思うに、独り坐禅を楽しんで居って、「身心脱落」したのが 、四十年後の今の小生を決定付けたのだと確信するのである。 是等全(すべ)ては、宇宙の(涅槃為る)本質の真理に基づくものであっ た。 常に、心(本質)が物質(現象)に先行しなければ為らないのである。 世界は常に、現象(物質)が本質(心)に先行している。 故に、世の中は常に諸悪の根源、人類三毒(貪・瞋・癡)が三善根(施・ 慈・慧)を制圧して居るのである。 《 戦争と真の指導者 》 世の中の辻褄(つじつま)と云うものは平面レベルの綱引きである。 つまり、二元相対で、「欲」と「在るべき」が同一平面上にある。 人間の生理(本能)的欲求(性欲、食欲、睡眠欲)は消滅しない。 其れと、悟らない限り消滅しないものに人類三毒(貪・瞋・癡) が有る 。是については特に金とセックス である。 プーチン氏について、小生も同様、却(かえ)って不可解な部分であった 。正に世界人類究極の、東洋由来の涅槃妙心(智慧) である。 皮肉にも、涅槃に於いて最も、心的淫快が純粋である。 ニーチェの説いたギリシャ神話のディオニュソス的なものに、其の片鱗 が見られる。 正に、涅槃に於いて、妙心(=微妙(みみょう)為る心)足るのである。 唯「欲しい、欲しい」で戦争し、心進化しないのが世の中である。 風が吹けば、風鈴が鳴るからと言って、風鈴と風とは全く別物である。 風鈴は風に鳴るのが風鈴なのである。 「涅槃人」は「解脱」して、地獄の底が抜けて、涅槃為る宇宙に回帰して 居る。 性欲に関しても、癡愚者は戦争(迷路)を含んだ性欲苦行から疲労困憊 (こんぱい)し、中道(諦観)を経て宇宙の静謐に同じ、菩提(道)心を生 ずる迄である。 「在るべき」は世界の理想的在り様であって、是に拠って、人間世界は 平面構造から立体構造を採(と)る。つまり人間は弱肉強食の禽獣から 、世界人類の平和の根拠足る、涅槃世界への心進化を遂げるのである が、中々立体化され難いのである。 生涯、平面構造しか採り得ない者が大半と言っても過言ではないと云う のが実情である。 然(しか)るに、「宇宙(生命)の本質」は涅槃為る真理であって、是を体 得するのが心進化である。 男女の仲と云うものは綱引きせずに、地獄の底へ沈み込んで行くもの である。 人類の根源に至り得た者のみが、人類を世界人類の平和への入口へ 教導出来るのである。 其処(そこ)で、本題の《 戦争と真の指導者 》に入る。 人類史上、殺人(戦争等)指導者は総べて極悪罪人である 。 人類は是迄、彼等の勝者を英雄視して来たが、彼等は総べて殺し屋で あり、人間を殺し屋に仕立てて、人間を抹殺せ使めるのである。 殺された者は永遠に戻らず、殺した者は生涯、戦争為る集団行為でなく 、自らの意思で人を殺す自分である真実から逃れる事が出来ない。 仕掛けようが、仕掛けられようが、応じて、殺し合えば同一である。 其の悪業から逃れる事は不可能であり、其の悪業報を受ける事は必然 不可避なのである。 殺人行為(稼業)は悪魔に心を売って、身(物)を獲得する禽獣への退行 現象に他ならない。 戦争勝利至上主義の結果が、今の国連の原爆支配体制であり、其の 「無機能の恥知らず」である。 真理は、人間と云う者が如何(いか)に在らねば為らないかを如実に物 語って余り在るのである。 死刑制度は法律に基づく制度である。 国際法に基づく死刑制度が制定されれば、世界人類の平和が法的に 守られ、国際警察に拠りて、一国の暴挙は阻止可能である。 世界人類の安全保障は此の様に守られなければ為らないのである。 其の上であれば、兵器の問題ではないのである。 今後の最重要課題は、其の体制作りである。 教育問題は其の体制作り無くしては、語れないのである。 其の体制が整備されて初めて、暴挙は消滅する。 斯(か)くして初めて地上の膨大な軍備費で、世界中の飢餓や貧困等の 救済が可能と為り、世界中の闇は自(おの)ずから消滅するのである。 今の経済制裁から派生する二次的な悪影響等も考慮して、即刻、現国 連体制を改変する事が喫緊の最重要課題である。 今後、西洋為る卵細胞と、東洋に由来する真理為る精子細胞との受精 卵は、やがて国連新体制為る胎児を出産するに至るのである。 二十一世紀は正に、西洋の限界から東洋の真理(実)への過渡期であ る。 何故に、斯(か)く在るか? 其れは虚偽為らざる真理(実)為るが故に。 世界人類の在り様は此の今から真理黎明の時代に移行するのである。 世界の動物的存在、人類三毒(貪・瞋・癡)の癡愚者達の精神を教導し 、覚醒させると云う事に他ならない。 世界の諸悪の根源が、其処(そこ)であるからである。 保身、安泰、忖度、温存で成り立っている。 「人を生(活)かす」、「施す」、「人を思い遣る」心が欠落して居る。 世界人類の平和裡の人の存在為るものは、自己犠牲の上にしか成立 し得ないのである。 有らん限りの自己犠牲であって、初めて人に及ぶものが有るのである。 100%の自力は、自(おの)ずから100%の他力である。 世界人類の平和の為には、有らん限りの自己犠牲以外在り得ないのが 真理(実)である。 世界人類を生(活)かす為の真の自己犠牲足るべきである。 義務教育下の不良生徒を、責めて正すだけの、真理に基づく信頼結束 が不可欠である。 身内で幸福であれば宜しいではない。 其れには、自己犠牲無くしては成立し得ないのである。 是は個人的にも、国家的にも変わりは無い。 宇宙のエネルギーの集積が我々を生み、我々を真理に導くのである。 個人レベルの自己犠牲が、国家レベルの自己犠牲の精神足り得て、是 が国連、国際法、国際警察、諸国家の本質足るのであり、足らねば為ら ないのである。 出来上がった世界に、ウクライナ侵攻、ミャンマー軍事攻略等は生じ得 ないのである。 然(そ)うではないから、然(そ)う為るのである。 今後、真の指導者とは如何(いか)に在らねば為らないかは明白である 。 国連常任理事国家が本質的に日本足らねば為らない。 世界中が本質的に、真理と『最初後身心』を生んだ、日本に為れれば、 世界人類に平和が訪れるのである。 人類の知恵の結晶足る国連は最終的には無機能為るが故に。 日本は、本質的に米国ではないし、中国でもない。又、ロシアでもないの である。 故に、真理が生まれ、究極的に、「涅槃人」為る『最初後身心』を生んだ のである。 本質的に日本足り得た国家は他に無い。 唯、生きて往くだけならば、動物でも遣って居るが、世界人類を教導出 来るのは、唯日本、『最初後身心』だけである。 日本が然(しか)るべく、世界に機能しなければ為らないのである。 日本『最初後身心』無ければ、つまり世界に真理が無ければ、涅槃無く 、世界人類は、やがて滅亡するであろう。 小生『最初後身心』を触媒として、バイデン氏とプーチン氏両者の化学 反応に因る、核兵器禁止条約締結を英断し、世界新体制を構築しなけ れば為らないのである。 其の為には、日本を枢軸として、世界が一丸と為って、米中露核兵器禁 止条約締結を機に、国連改革、国際法改変、国際警察体制構築と、一 連の体制改革に取り組まねば為らない。 真理は涅槃妙心であり、涅槃妙心智慧無しには、妙心足り得ないので ある。 其の智慧が核兵器禁止条約締結に他ならない。 此の布石が不可欠であり、是無くして、国連改革も無く、世界平和も無 いのである。 此の智慧は日本に始まり、日本に終って居るのである。 日本無しでは、世界無し。 刹那、刹那の智慧は、癡愚者達から『最初後身心』への登攀(とはん)の 一歩一歩を築く為に、微細(みさい)を極め、永遠に止(とど)まる事が無 いのである。 バイデン氏とプーチン氏の間には世界中に測り知れない犠牲者を生む のである。 大地に臥し、大地に根を張り、大地に興起して、そして地を這(は)うが 如くに菩提(道)心を極限に迄、極めるのでなければ、世界人類の平和 には至らない。 武器で殺し合って済ますでは、済まないのである。 武器では平和は訪れない。 平和は心なのである。 核兵器よりも恐ろしいものが、人類三毒(貪・瞋・癡)である。 是を根源から制するものは法律ではない。 仏法である。真実である。 是、宇宙の真理に至る。 自己の三毒(貪・瞋・癡)を知らずに、武器で殺し合い、地獄一路の負の 連鎖である。 勝っても、殺し屋しか居ない。 殺し屋で国民を永遠に平和に出来ると思って居る。 其の様な打算で、永遠に世界人類が平和に為れると思う、浅薄な癡愚 さなのである。 総べては、自己の三毒(貪・瞋・癡)故の、盲目為るが為である。 平和の為の人殺しは、死刑制度以外、在り得ないのである。 人殺しの悪業の業報は、如何(いか)為る場合でも必然不可避にして、 永遠に消えないのである。 「扉無き扉を開く」と、涅槃世界である事を知らずに、何時(いつ)まで人 殺しをすれば落ち着くと思って居るのか? 此の真理に至れるは、日本『最初後身心』。 世界は日本を如何(どう)するつもりか?である。 日本為らばこその真理である。 斯(か)くして、自(おの)ずと、道は明らかなのである。 《 心と妙心 》 妙心とは微妙(みみょう)為る心。 “微妙”とは心の解像度の問題である。 心から予感された妙心が絶妙為る本質的直観である。 「刹那生滅の原理」に拠りて、前の刹那滅せざれば、後の刹那生ぜず。 心は「悟り(身心脱落)」から涅槃回帰に至る迄、前後断裁せる諸体現を 経るのである。 此の「覚天(涅槃回帰)」の刹那が涅槃為る宇宙に回帰し得た「証(あか )し」である。宇宙を脱却する宇宙はあり得ない。 解像度も涅槃回帰迄である。 此の解像度を持つ心が涅槃妙心であり、此の智慧が涅槃妙心智慧で ある。 涅槃妙心は宇宙(涅槃化エネルギー)の心であり、涅槃妙心智慧は、世 界人類の平和の根拠足る涅槃化に基づく智慧である。 未だ涅槃回帰せざる心では、其処(そこ)迄の解像度、つまり円相の如 き見極めには及び得ないのである。短絡的に多角形的心なのである。 線分が曲線足り得ない処に地獄が生ずるのである。 元来、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」であるが故に、其の調和と均衡と 静謐を人間世界に具現し得て、世界人類の幸福と平和と繁栄を完遂す るのである。 此の智慧は、有機的構成系裡の欲界に在らばこそ、其れに対する、真 理からの智慧として、教導が生まれるのである。 涅槃世界現成(げんじょう)すれば、教導も生まれ得ない。 此の解像度を得る為の必要条件は坐禅三昧であるが、此の菩提心を 本来無心と言うのである。 菩提心無き無心とは空虚に他ならない。 坐禅三昧とは、坐禅に親しむ事、夢中に為る事、更には正法苦行であ る。 「雑念無く、一心に」人類の為に自(みずか)らの為すべき事に徹する事 である。 「雑念無く、一心に」とは、諸欲(生理(本能)的欲求(食欲、性欲、睡眠 欲)と金欲と名誉欲の五欲)と其れ等に派生する様々な欲無く、と云う 事である。 後天的為る、三毒(貪・瞋・癡)である。 特に五欲への貪著に由来する。 根源的迷妄は性欲に由来するのである。 要するに、特に性欲と食欲であり、指導的立場の人間は、食に窮する 事は少なく、性欲が迷妄の根源為るものであり、フロイトの性的エネル ギー(リビドー)論は、其の意味で卓越している。 従って、「雑念無く」とは、特に生理(本能)的欲求(性欲、食欲、睡眠欲) を忘れてと云う事であり、一心にとは菩提(道)心一路の事であり、是は 正法苦行の事に他ならない。 所が、世の中には、二祖大迦葉の頭陀行以外に正法苦行が無いので ある。 真理に至る、つまり涅槃回帰には千日行(初行と後行)以外無い。 所が、涅槃回帰すると、真理為る涅槃世界の「世界人類の平和」と「究 極の心的淫快」とは不即不離にして一体である。 是は唯、小生『最初後身心』のみぞ知る処である。 「覚天」以来、此処(ここ)迄、二年半掛かった。 風鈴は風に縁りて風鈴足り、風無くして風鈴足り得無いのであるが、 風鈴は風無くしても風鈴である。 風とは欲界であり、風鈴は涅槃妙心である。 風と風鈴が人を楽しま使むるのである。 真の涅槃とは、其の様に無欲、無著(むじゃく)にして、「人を生(活)か す」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」世界である。 大迦葉以降、 実践不能であった正法苦行を撥無(はつむ;払い除けて 信じない)出来るものは唯、真理以外無いのである。 フロイトの「死への欲動(タナトス)」とは「死への忘(滅)却」であって、是 は十九世紀末に、フランス中心にヨーロッパに現れた世紀末的、虚無的 、退廃的、耽美的、病的傾向、思潮為るデカダンスと言われる没落期の 一傾向であるが、是は西洋では及び得なかった不借身命(ふしゃくしん みょう)の菩提(道)心とは異なるものである。 人類の根本的諸欲、生理(本能)的欲求(性欲、食欲、睡眠欲)と金欲と 名誉欲中、耐えられないものから、 睡眠欲、食欲、性欲、金欲、名誉欲の代表的五欲である。 従って、千日行(正法苦行)は三時間坐睡二十四時間仏作仏行である。 此の睡眠欲と食欲だけは生命存続に絶対不可欠である。 大脳新皮質に拠り、生老病死の四苦生じ、五欲等の諸欲、特に性欲に 因り、迷妄生じて六趣(道)を生む。 地獄 餓鬼 畜生 (阿)修羅 人間 天上 〔六道〕 | 〔仏道〕 苦 欲 本能 三毒 迷 支配階級 六道の中で最も「悟り」に近いのが、迷妄為る人間と、仏法の守護神とし て絶えず闘争を好む(阿)修羅である。 金欲と名誉欲は人間が生み出したもので、生理(本能)的欲求に比べれ ば、二次的なものである。 此の二次的欲求と、性的エネルギー(リビドー)で、生命存続に不可欠 為る条件を犯すのが、指導的立場の人間の三毒(貪・瞋・癡)なのであ る。 是を非条理、非合理と言うのであり、此の物質的、精神的基本的条件を 確保するのが指導者の立場なのである。 自分は人殺しをしないし、殺されもしない。 然(そ)う云う世界を造る為に吾身命を捨てるべきである。 然(そ)う云う指導者でなければ為らない。 殺されない為に、殺す指導者ばかりだ。 世界が平和に為る筈が無いのである。 自(みずか)ら信じるものの為に争うのは雑念であり、心進化の障碍( がい)にしか為らず、世界人類の平和に違(たが)えるのである。 又、生命存続の為の殺し合いは動物以下である。 人類は動物と異なって、大脳新皮質に拠りて、諸悪の根源足る三毒(貪 ・瞋・癡)生じ、諸欲への貪著で他を害するのであるから、今こそ人類は 世界人類の平和と云う涅槃世界への歩みを始めなければ為らないので ある。 是は涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の真理に基づく、世界人類の信頼 結束に他ならない。 機械主体で、心を生むのではない。 飽く迄も心主体で 唯、機械を利用するだけである。 全(すべ)ては、宇宙の涅槃化エネルギーから正(ただ)される処が一切 の出発点である。 此処(ここ)に於いて、総(すべ)てが始まるのである。 正に心的宇宙開闢(うちゅうかいびゃく)である。 身は心と進化し、心は宇宙涅槃世界と心進化を遂げ、然(そ)うして、 世界人類の平和を構築、完遂し往くのである。 世の中は力ではなく、真理である。 力は二元相対世界であり、猜疑(さいぎ)、不安の相である。 真理は涅槃為る宇宙の絶対世界に基づく、信頼結束の世界である。 宇宙→地球→生命→人類→涅槃為る宇宙 (=涅槃回帰 ) 今は、人類誕生以来の極めて画期的時代なのである。 将来の世界人類の平和の為に今の心進化が人類にとって絶対不可欠 なのである。 今を措(お)いて先は無い。小生も其の覚悟である。 小生の脳髄(前頭葉菩提心)に人類の将来が約束されて居るのである 。心進化の最先端である。 世界人類は「諸悪莫(まく)作」(悪を為さず)で、「修(しゅ)善奉(ぶ)行」 (善を為すべし)。 指導的立場の人間は「諸悪莫作」すら、及び得無いのである。 人類の世界への対し方、指導者足る者の立場が如何(どう)でなければ 為らないかは明白である。 生理(本能)的欲求(性欲、食欲、睡眠欲)で心進化を留(とど)めては為 らない。 況(ま)してや、退行して、動物以下と為る時代ではないのである。 《 確心の一手 》 世界は確心無くしては始まらないのである。 故に確心なのである。 確心は涅槃化エネルギーに拠りて裏付けられて居る。 此の一手無くして、心進化は在り得ない。 米英は露中の真意を汲(く)み取らねば為らない段階に入ったのである 。是はロシアとウクライナも同一の地平である。 正に、世界人類の冀(き)願の原点である。 世界の震源は、大戦終結後、国連常任理事国家体制大国拒否権発動 に在るのである。 是は人類三毒(貪・瞋・癡)に拠る、弱肉強食の武力至上主義の産物に 他ならない。 此の体制の本質的基盤の終局は、正に恐竜の其れと同一である。 其れは現状に自明である。 是は人類の諸欲からは導出出来ないものであり、是に人類特有の大脳 新皮質由来の、諸悪の根源足る人類三毒(貪・瞋・癡)の、分別に因る 諸欲への貪著に起因しているのである。 是を、身心進化の最先端為る大脳新皮質前頭葉の菩提(道)心に依り て、貪著せ使める分別を制しなければ為らないのである。 菩提(道)心の頂点が『最初後身心』の涅槃回帰であり、三毒に基づく分 別の頂点が現国連常任理事国家の原爆支配体制の基盤である。 二十一世紀の真理黎明期に、従来の三毒(貪・瞋・癡)由来の極悪列強 原爆支配体制から、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に違(たが)えない、 涅槃化エネルギー由来の信頼結束体制への大転換を遂げねば為らな い。 此の最高峰エベレスト登攀(はん)の最初の一歩の岩釘の一打に始ま るのである。 是こそ、絶対不可欠為る常任理事国家核兵器禁止条約締結以外の何 ものでもないのである。 此の最初の岩釘の一打が、頂上への次の登攀を生む事は疑い無い。 最初の全人類の総意の一打が、其れを裏付けて居るのである。 此の最初の一打が涅槃帰一と云う登頂を約束する何ものでもないので ある。 何と為れば、宇宙の涅槃化エネルギーに裏付けられる、世界人類の総 意であるからである。 人類が史上初めて、世界人類の平和への、人類の心進化の『画期的 飛躍』を遂げる事と為るのである。 其の基本は、「家族」でなく、「世界人類」足るべきである。 是が当然でありながら、然(そ)うは為らないのが人情である。 皆が「家族」的と為るから、今の現状を生む。 「世界人類」的であれば、決して然(そ)うは為らない。 其れは、宇宙の涅槃回帰に基づくものである。 宇宙の真理に基づく真理効果、言い換えれば、「因果の道理」であるが 、最初の布石が多方面に、地獄や負の連鎖無き涅槃一路門を開くので ある。 《 後天的対立からの本源回帰 》 男女の特性上の役割理論から、女が性欲(淫快)、男が食欲等を夫々( それぞれ)貪(むさぼ)り合うと云う人間世界の最も根源的為る、本質的 、女性の特質と、現象的、男性の特質の、性欲と食欲夫々の傾向性で ある。 先ず、夫々が生きる原動力と為って居るのであり、是が闘(戦)争の根 本因と為るのである。 是は、自己と他者との関係のみならず、自己と他己(=自己の中の他 者)、つまり自己の分裂であり、自己の後天的為る三毒(貪・瞋・癡)、つ まり自己の貪著に起因する瞋恚、そして癡愚に至るのである。 是が世の中に、三悪趣(道)(=地獄、餓鬼、畜生)と、(阿)修羅の戦闘 的側面の不可避為る対立構造を生み出す。 是は食って、セックスする安泰、保身、忖度構造の延長線上為る在り様 の実態に他ならないのである。 二元相対、対立構造の平面構造的思考形態の動物的人間が、宇宙の 涅槃化エネルギーに立脚する立体構造的、菩提(道)心の人間に勝利 すると云うのは、心進化を遡(そ)行、又退行するものであり、是は永続 するものでは無い。 ミャンマー問題然(しか)り。ロシア・ウクライナ問題然(しか)りである。 今世紀の此の真理黎明期に、プーチン氏とバイデン氏で、此の止(とど )め処(どころ)の無い悪の連鎖を絶つべき英断の試金石足る、核兵器 禁止条約締結を以(もっ)て世界人類に、世界人類の平和を率先垂範し なければ為らないのである。 然(さ)すれば、其の真意に違背する者は、地獄と自己を満たす事しか 見えていない癡愚為る悪人に他ならないのである。 正に、真理に勝てる三毒(貪・瞋・癡)は絶無である。 是が人間世界の、正に実相である。 今や、人類の英(勇)断、菩提(道)心と「飛躍」、涅槃世界への登攀(と はん)の岩釘の一打が世界人類の生命の確保と為りて、其の一打に基 づく信頼結束が生まれるのである。 此の世界人類の信頼結束が、世界人類の平和への絶対不可欠為る、 不動の原動力と為るのである。 是無くして、世界に「人殺し」を絶無為ら使める術(すべ)は無いのである 。 「人命軽視」から「人命尊重」への大転換を! 「家族」的である事よりも、「世界人類」的である事が、真に「家族」的で あるのではないか? 是が菩提(道)心と云うものである。 極度の緊張に伴う油汗や震えは、正に其の「証(あかし)」であり、好まし き兆(きざし)である。 国家指導者足る者も、「国家」的である事よりも、「世界人類」的でなけれ ば為らない。 「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」のが究極の 宇宙の真理である。 真理に同ずるのが、涅槃化為る、世界人類の平和への最短路なのであ る。 《 真 理 》 唯一の『最後身』釈尊が仏道を興した。 其の完成者鐵漢『最初後身心』が真道を遺した。 小生に出来る事は、真理を人類に告げる事である。 人類の将来は人類が築くのである。 吾師が小生に、「涅槃回帰」への唯一の正法苦行千日初・後行を遺した 様に、 小生が、「世界人類の平和」への唯一の米中露核兵器禁止条約締結を バイデン氏、プーチン氏と習氏に遺した。 真理為る『最初後身心』裡のバイデン氏、プーチン氏と習氏が涅槃世界 を構築、完遂し往くのである。 《 涅槃妙心呼吸 》 小生、千日初行完了後の三時間睡眠時は仰向(あおむ)いて横臥し、 両手は叉(しゃ)手した儘(まま)胸に宛(あて)がい、両足も同様に揃(そ ろ)えて寝ている。 或る時、托鉢中、時計屋の主人が店の前で小生に、「何時(いつ)も、両 手を組んで、真上を向いて、斯(こ)う遣ってキチンとして寝ている。」と微 笑みながら小生に語った。 為る程と思いながら、小生も微笑み返した。 小生は寝る時、何時(いつ)も然(そ)う遣って寝ている。 就寝時、斯(こ)うして呼吸が静まると、直ぐに判るのであるが、小生は 是を涅槃妙心呼吸と称する。 臍(さい)下丹(たん)田呼吸は臍(へそ)の下に多少の(気)力を充実さ せる呼吸であるが、小生の呼吸は踵(きびす;かかと)の下方、つまり地 球の芯、重力の中心に向いているのである。 生涯後厳密千日涅槃行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)に因り、胸 式でも、腹式でも、臍下丹田でもなく、後に極上の安楽を齎(もたら)す、 正に昇竜の如き三時間坐睡の気迫と気概に因りて自(おの)ずから身 心に習得せ使められた、重力の中心に向かう涅槃妙心呼吸なのである 。 地球の中心に芯足ら使めたのは宇宙の涅槃化エネルギーである。 涅槃妙心呼吸は、正に涅槃化エネルギーに基づくものなのである。 呼吸は大気が、宇宙と身体間を物理・化学的に呼、吸するものである。 つまり、(涅槃妙心)呼吸は性欲、食欲の根本足るものである。 小生が「覚天(涅槃回帰)」したのも、呼吸の異変を介してであった。 人類の諸欲は呼吸に基づくものである。 動物の脳神経系の進化は其の出現当初から、特殊化した細胞がニュ ーロン(神経細胞)と為り、其の時点で既に脳形成の遺伝子プログラム が既に揃(そろ)っていたのである。 動力エネルギー源は細胞内外の電位変化に起因する動力である。 脊椎動物に至って、脊髄、延髄(呼吸中枢)、大脳辺縁系(本能的欲求 から情動と記憶の夫々の中枢へと)、そして大脳(最終的に前頭葉菩提 心)と順に進化を遂げたのである。 胎児は母体内で、其の壮大な進化のプロセスを、受精卵の分割に始ま る胎児の完成迄、再現して誕生するのである。 是が不昧因果と云う刹那レベルの微塵の狂いも生じ得ない「因果の道 理」に他ならないのである。 涅槃妙心呼吸は千日後行に拠り「覚天(涅槃回帰)」して、自(おの)ず から然(しか)ら使められた呼吸なのである。 つまり「涅槃人」、『最初後身心』の呼吸である。 是は「解脱人」時には既に其の途上に在るのであるが、「覚天(涅槃回 帰)」後に今、斯(か)様に教導し得るものである。 宇宙の涅槃化エネルギーは万有引力に因って、太陽(=星々)を形成し 、地球を生み、生命を生じ、諸々の生命力と云うものは重力に基づく事 無くしては在り得ないのである。 重力無き涅槃回帰は在り得ない。 涅槃妙心力と云うものは涅槃化エネルギー由来の重力に基づくものな のである。 宇宙の涅槃化エネルギーから、我々の菩提心に拠る涅槃回帰に至る 迄の、刹那、刹那の身心進化を含めての形成過程其のものが、微塵も 違(たが)わざる「因果の道理」に他ならないのである。 つまり小生の真道が「因果の道理」を説いて居るのである。 世の中は、人類三毒(貪・瞋・癡)に因りて殺し合いが絶えない。 未だ人類は禽獣(きんじゅう;けだもの)レベルである。 一刻も早く、此の負の連鎖から脱却しなければ為らない。 「殺し」に「殺し」で応じては根本的解決には為らない。 優生思想で「殺せば済む」ではないのである。 「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」である。 日本を見よ!自衛力である。警察力である。 殺し合わないし、怨念に因る負の連鎖にも陥らない。 宇宙の真理に基づく涅槃妙心智慧なのである。 (極)悪は死刑制度にして、人類を教導する。 涅槃為る、宇宙の調和と均衡と静謐を世界人類に具現して、世界人類 の幸福と平和と繁栄を完遂(つい)せ使めるのである。 何時(いつ)迄も、ヒトラーの優生思想的世界を構築しては為らない。 人類の真価は、能動積極的に「世界人類を生(活)かす」処にある。 真理為る、「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」に 違(たが)えば、其の悪業報は必然必至に不可避である。 世の中に、真理無ければ、善悪の基準には絶対的為るものが無く、国 家別の相対的為る規範法則に則(のっと)らざるを得なく為るのである。 宇宙の真理が明らかと為った段階で、宇宙由来の必然性足る真理に準 じた国際法が可能と為りて、日本の如くに、ゼロから始まる涅槃妙心足 るのであり、「人殺し」は如何(いか)なる場合でも罰せられる事と為るの である。 国際法を完成させなければ為らない。 死刑制度に基づく国際法、国際警察が有れば、ミャンマー、ロシア・ウク ライナも裁断が下せるのである。 自(みずか)ら原爆支配体制であり、其の本質が弱肉強食であるが故に 、其処(そこ)から、世界人類の平和への心進化が為らないのである。 是は、釈尊の中道(諦観)前の断食苦行に似て、釈尊は中道に拠りて、 果たして成道されたのであり、小生が此の正道に拠りて涅槃回帰出来 たのである。 釈尊が何時(いつ)迄も断食苦行に固執していれば、人類に平和は訪 れなかったのである。 国連原爆支配体制常任理事国大国拒否権発動の原爆支配体制下で 一体、如何(いか)様に国際法、国際警察を樹立し得るのか? 弱肉強食の国際法、国際警察は成立し得ないのである。 強い者には敵(かな)わないからである。 殺し合う以前に、原爆支配体制を大国拒否権で変革しなければ、地獄 は無く為らないのである。 涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の真理に基づいて、日本足れ。 国連列強が日本足らねば、此の地獄は永遠に解消出来ない。 現実に、ミャンマーとロシア・ウクライナが台頭して居るではないか。 是等は永遠に消滅し得ないのであり、真の指導者、教育者無き施政か ら脱却出来ないのである。 人類は、其の癡愚さから脱却して、真理から逃避しては為らないのであ る。 宇宙の真理と四つに取り組むのでなければ解決しない。 何時(いつ)迄も、間接的殺人で誤魔化して居れるものではない。 地獄が永遠に続く事では、何等解決に為らないのである。 真理が自明の理足る今に於いて、真理に直面する事無しに、真理から 逃れる事は出来ないのである。 永遠の、真理からの逃亡者で、地獄を何時(いつ)迄生み続けるのか? 米国バイデン氏に、其の力無くして、高齢を理由に片付けてしまっては 為らではないのである。 トランプ氏に為れば、米国の負の側面が表面化して、益々(ますます) 世界は不安定に乱れるであろう。 涅槃妙心力は原爆の破壊力位は問題に為らないのである。 宇宙の真理に勝利し得る人類は存在しない。 物事は根本的に解決するか、其れとも現象的解決で済ますかであるが 、インフルエンザと三毒(貪・瞋・癡)の治療薬を持たない様に、後者すら 及ばないでは、恥以外の何ものでもない。最悪であろう。 人間性と智慧力の人間力の問題である。 真理黎明為る英(勇)断である。 世界に唯一の被爆国日本で、真理に回帰し得たのは一体如何(どう)云 う事か、是を語り得る者が居るのか? キリスト教ならば、「其れは神が然(そ)うしたのである」と語るであろう。 正に日本が、宇宙の真理に至り得た『最初後国家』である。 小生も日本に生まれていなければ、人類は永遠に真理為る涅槃に回帰 し得なかったのである。 是は、不昧因果にして、小生が極佛行を正さ使められた如く、世界に原 爆支配体制を正(ただ)使めんが為である事は涅槃為る「宇宙(生命)の 本質」に基づいた涅槃化エネルギーの必然性である。 現米国主導の国連体制を改革する必然性があるのである。 其れが真理である。 原爆支配体制に疑惑を抱こうとする列強は無いのである。 疑義を一蹴(いっしゅう)する事と、無関心の装いでタブー視して、保身、 忖度、安泰、温存である。 抑(そもそも)、不思議な位に、「核兵器禁止条約」を耳にする事が皆無 である。 其れ程の、強者に対する暗黙の禁句と為ってしまって居るのである。 是こそ正に改正しなければ為らないのである。 対処療法でなく、抜本的改革を為さねば問題解決とは為らない。 バイデン氏が核(大量破壊)兵器禁止条約締結を率先垂範すれば、ウ クライナ・ロシア問題も落着するのである。 国連常任理事国大国拒否権で、是に違背する国家は無いからである。 国際法、国際警察然(しか)り。 所が、バイデン氏、是を捨て切れないのである。 世界の根源悪を捨て切れないのが最強国家米国の常道である。 プーチン氏を上回る根本悪である。 世界は正に宇宙統一世界として機能しなければ為らない。 人類の裏付けは涅槃妙心である。 つまり、宇宙に回帰して居るが故に、絶対不動忍なのである。 世界は宇宙に帰一し足る絶対不動忍足らねばならない。 バイデン氏の核支配と宇宙真理との対峙である。 菩提(道)心無きバイデン氏に核支配を手放す事は困難である。 抑(そもそも)、菩提(道)心と施政者とは相容れないのである。 列強施政者は核兵器支配者である。 其れが故に、六道(趣)の天人(=支配者)は悟れないのである。 抑、出発点其のものが、菩提(道)心とは相容れない。 列強施政者とは、世界人類の平和を目指して居るのではなく、其の不 可能為る抑止軌道を堅持せんとする癡愚者である。 是は、義務教育で学生が学力を維持する延長線上に過ぎない。 其れから逸脱する事はアウトローなのである。 核兵器禁止条約締結も其のアウトローに他ならない。 世界の施政の肝心要は、物質的、精神的基本的条件を確保し、且つ 「世界人類を生(活)かし合わ使める」 事である。 是を目標としなければ為らないのである。 其の為には、 国連常任理事国大国拒否権原爆支配体制では不可能であるし、然(し か)るべき国際法、国際警察が必須である。 格差、富の偏在是正。 世界人類の幸福と平和と繁栄は、 三毒(貪・瞋・癡)では不可能。三善根(施・慈・慧)が必須不可欠。 少欲 、知足足れ。 今はミャンマーとロシア・ウクライナであるが、 是等に対する抜本的改革が喫緊の最重大課題なのである。 無機能為る、造悪の国連大国拒否権から、真理に基づく米中露主導の 修善の国連大国拒否権への移行が待たれる。 世界は諸悪莫作(=不悪)の消極性でなく、修善奉行(=修善)の積極 性でなければ、心進化は及ばないのである。 真理黎明の新世紀を迎えん事を願わない人間は一人も居ない。 《 地獄から真理への遷移 》 自己三毒(貪・瞋・癡)⇔夫婦⇔家族⇔国家⇔真理(世界人類) 性愛 人情 国民 涅槃妙心(智慧) 世界の造悪は左方向に、修善は右方向に志(指)向し往く。 自己の菩提(道)心が自我の三毒(貪・瞋・癡)を凌駕するのである。 菩提(道)心無き世界は地獄である。 平和足るには、菩提(道)心の世界が不可欠。 菩提(道)心とは、必然的に、「人を生(活)かし」、「世界人類を生(活)か し合わ使め」、自己の三毒(貪・瞋・癡)から世界人類の平和へ遷移する 心足らねばならない。 此の心のゆとり が無いのが偽らざる一般的な心の実態である。 是は、地上を包む有機的構成系裡の一体感、是は坐禅する事に拠り、 雑念が除かれ、自(おの)ずから生まれる妙心であるが、是が欠落して 居る処からの個別的三毒世界の弊害である。 是等の集積の隙に原爆支配体制が牛耳るのである。 是が現代の地獄、ミャンマーとロシアを生む温床と為るのである。 原爆支配体制に拠る弱肉強食世界に真理(実)は無いからである。 三毒(貪・瞋・癡)由来の閉塞世界である。 人類の究極の思いは世界人類の平和なのである。 是を祈願する心が人から人へ、永遠に受け渡されて往くのである。 是が涅槃妙心の実態である。 真理は、「人を生(活)かす」涅槃妙心であり、「世界人類を生(活)かし合 わ使める」涅槃妙心智慧と為るのである。 現諸国家は相対的国家である。 絶対的国家とは、宇宙の真理に則(のっと)った諸国家であり、是等は 自(おの)ずから宇宙の真理を具現した、統一世界足るのである。 容れ物に統一性が在るからこそ、世界人類の平和が可能なのである。 宇宙の真理を世界人類が覚(さと)る事が世界平和への最短路である。 教育は自(おの)ずから生まれる。 真理に違(たが)えて生きる事の方が、実は困難なのである。 真理に基づいた信頼結束が、真の生きる智慧である。 国家の実体は国民である。 国家を生(活)かすべきか、国民を生(活)かすべきかは、国民を生(活) かすべきである。 ロシアのウクライナ侵攻は、優生思想のヒトラーに他ならない。 核兵器禁止条約締結を願う者に「人殺し」は出来ないのである。 ミャンマー軍事政権指導者も、ロシアのプーチン氏も最も癡愚為る三毒 (貪・瞋・癡)の権化に他ならない。 是が国連大国拒否権の一国家足るのは、国連最大の失策である。 世界が一丸と為りて、然(しか)るべく、最善策を講じざるを得ないので ある。 《 生きる鉄則 》 小生『最初後身心』が人類に遺せる最後の一言は、 「人を生(活)かす」と「世界人類を生(活)かし合わ使める」事である。 此の鉄則さえ違(たが)わねば、宇宙(生命)の真実に違えず、 其の人の生命は宇宙に開かれて居るのである。 然(しか)るに、是に違(たが)えば、 宇宙(生命)の真理に違え、 此の人の生命は地獄の閉塞世界に向かうのである。 是が、世界人類の永遠に不滅為る恒常普遍の真理である。 従って、「人を殺す(迫害する、貶(おとし)める)」人は後者である。 是は人の、世界人類の、そして言う迄も無く、施政の根本原理である。 此処(ここ)から人類の物質的、精神的基本的条件も確立し、 初めて世界人類は真の人間らしさ、と落ち着き、つまり、 宇宙の調和と均衡と静謐を世界人類に具現出来るのである。 真理が「在る」と「無い」とでは、 世界人類の生きる指針が「在る」と「無い」と云う事であり、 二十一世紀、真理黎明期の人類の行動は、 自(おの)ずから根本的に変革するのであり、 最早、従来の真理不在の生き方を踏襲するのは、 誠に、是、癡愚以外の何者でも無いのである。 貪著為らぬ涅槃世界到来し、最早、世界中が認めない。 其の中で、旧態依然として殺し合う当事者同士は、 人類最後の『恥さらし』と為るのである。 宇宙(生命)の真理とは、其れ程の実在せる真実為る存在なのである。 争闘する両者が自(おの)ずから施し合って、相手を認め合い、 世界人類の平和の為に、自(みずか)ら負い目を受容する処に、 将来必ず、生(活)きる道が在るのである。 人を真に思う真実為るが故に。 世界人類を生(活)かす為に、自(みずか)ら退く。 是が人間の真実の姿である。 世の実態は「貪るか、貪らないか」でなく、「殺すか、殺さないか」である。 「貪らない」では及び得ない。 「殺さない」で徹する以外無いのである。 此の試金石が「核兵器禁止条約締結」の具現である。 然(さ)も無くんば、核兵器は使用せざるを得ないのである。 結局、人類は核(大量破壊)兵器に殺されるか、核(大量破壊)兵器を殺 すか何(いず)れかの二者択一である。 世界人類が生きる為には核(大量破壊)兵器を殺す以外無いのである。 是は、取りも直さず、自己の三毒(貪・瞋・癡)を殺す事なのである。 釈尊が断食苦行から中道(諦観)を経て、成道された経緯(いきさつ)に 其の正道が開示されている。 斯(か)くして、涅槃為る真理に回帰、帰一する正道を得たのであった。 人類は、今や身から出た三毒(貪・瞋・癡)の収拾に引き摺り回された。 後(あと)は流され行きて、「ノアの箱舟」である。 今や、国連常任理事国原爆支配体制大国拒否権発動の始まりの終わ りであり、其の積極性(=実践)と消極性(=抑止)の狭間(はざま)であ る。 国連でさえ、無機能と云うよりも、当体制為るが故の分裂であり、此の 先の高度機械文明為るものは流され往くのみであり、今を本流と為して 、再び轍(てつ)を踏む事勿(なか)ら使むべく、是を機に、国連体制の一 新を図り、其の分離本流を、真理為る信頼結束の本流足ら使めねばな らないのである。 コロナ感染した国連の快復に、ロシア三毒(貪・瞋・癡)為るコロナウィル スが終息しない限り、病状は回復しない。 其の治療法は、先ずロシア侵略が終息した後、真理に則(のっと)って、 其の後、国連の体制を一新して、国連新体制の構築を完結しなければ 為らない。 其れが文頭からの謂(い)いである。 《 規則性と云う事の効能 》 宇宙とは涅槃化と規則性である。 涅槃化について、 宇宙の働きは涅槃化せ使めるエネルギーに因るものであると云う事で ある。 涅槃化の始まりから終りを通して一貫して、小生の称する「宇宙(生命) の本質」(涅槃)からの促し、そして釈尊説法「自灯明(=自らの心を依り 処とせよ)」、其れから小生の諸体現、並びに其の帰結としての、『最初 後身心』足る涅槃回帰は、正に其の「証し(あか)し」に他ならない。 規則性について、 太陽系は二十四時間三百六十五日の依拠(いきょ)する処であり、 銀河系、並びに広大為る宇宙と、「生命の本質」は永遠に不滅為る恒常 普遍の、唯一為る真理であり、是に回帰し、地上をして宇宙の涅槃世界 為ら使め得るのは、偏(ひとえ)に人類の菩提(道)心有るのみである。 動植物も共に、正に、其の規則性裡に営まれて居るのである。 人類だけは其の智慧に拠りて、如何(どう)にでも為るのではない。 仮令(たとえ)、其れが可能に為ったとしても、其れは一時的現象に過ぎ ないのである。 人類誕生の身進化を、人類特有の大脳新皮質で左右出来るものでは 無いのである。 一身上でさえ、健康と健全は規則性に在る。 規則性は涅槃化の必要条件である。 小生に執(と)りては、「涅槃」の教導と規則性と云う事に為る。 兎(と)角、教導に埋没しがちであり、集中すると、殆(ほとん)ど規則性 を忘れてしまうが、植物の開花期の如くに、自(おの)ずから宇宙の復元 力足るエネルギーに因りて、万物が浄化代謝されるが如くに純粋為る 規則性裡に、小生も復帰させられたのである。 つまり、規則性と云うものは宇宙の涅槃化エネルギーに基づいて居るも のである。 人類の都合や習癖に拠って、取り沙汰され得るものではない。 生命の基調としての規則性である事を忘れては為らない。 其処(そこ)で、人間世界に此の宇宙の涅槃化と規則性が果たして徹底 されているか? 是は余談ではなく、正に此の事が、世界人類に涅槃世界を具現するに 不可欠為る事なのである。 果たして、人類は涅槃化エネルギーと共に心進化を遂げて居るであろう か? 規則性を逸脱して居りはしないか? 小生の教導上の、規則性の埋没は「人を生(活)かす」、「世界人類を生 (活)かし合わ使める」為の結果であったのであり、一時的為るものであ る。 涅槃化と規則性に違(たが)える、最足るものが戦争である。 勝利する為には手段を選ばないのである。 此の勝利とは、宇宙からの逸脱に他ならない。 宇宙から逸脱する事に因りて得られるものは地獄以外にないのである。 人心を悪魔に売って、物資のみを略奪する行為に他ならない。 人類史の古代を経て、人類諸能力に拠りて、必然的に世界を二分する 二度の大戦を惹起し、極度に高度文明化した現代と 、其れに随伴した 環境破壊が招来した末期的社会現象下での、終戦後の日本に於ける 涅槃回帰に因る真理発現を機として、『最初後身心』の誕生で一気に世 界の潮流が、真理為る涅槃世界への信頼結束への厳然足る可能性を 見出さんとするのは極めて必然的な流れなのである。 高度文明化を果たした現代に於いては、癡愚者でなければ、戦争と云う 退行現象を生む事は在り得ないのである。 故に、非条(合)理な圧制が始まると、小生『最初後身心』は苦しく為る。 戦争は何時(いつ)、如何(いか)為る場合でも、心進化からの退行現象 に他ならないのである。 涅槃化は宇宙の真理であり、涅槃妙心、「人を生(活)かす」、「世界人 類を生(活)かし合わ使める」心は宇宙と云う涅槃化エネルギーの本質 である。 現国連機能の枢軸は、此の涅槃化でなければ為らない。 従来の真理不在期に於いては、菩提心無き弱肉強食世界為らざるを得 なかったのであるが、宇宙(生命)の真理に至り得て二年半が経過した 今に至りては、世界人類が従来の地獄への短絡思考に陥らずに、涅槃 妙心智慧に拠りて、『急がば回れ』の「退歩の脚」で「世界人類を生(活) かさん」が為に、必然不可避為る負を世界人類で平等に分ち合わねば ならないのである。 其れが、宇宙の真理を具現する処の調和と均衡と静謐である。 斯(か)くして初めて、世界人類の幸福と平和と繁栄が約束されるので ある。 故に、ロシア・ウクライナ問題に於ける、国連と世界の対応は、本来なら ば、ロシア軍の侵攻の段階で、国連国際警察が対処しなければ為らな いのである。 心進化の及ばざりしが故の、間接的参戦為る戦争の為の物資と態勢の 支援であっては為らないのである。 戦争を即時に停止せ使める力でなければ為らない。 宇宙の真理に拠りて、戦争は禁止され、国連は構築され、真の国際法 及び国際警察が樹立されるべく、新体制の国連の構築、完遂は必ず為 されなければ為らない。 世界人類が心進化を遂げるのは、二十一世紀、真理黎明期の今なの である。 世界人類の信頼結束は、今為されなければ為らないのである。 世界は涅槃への収束振動の一路の自覚を世界人類が共有しなければ 為らない。 世界人類が生まれ変われるのは、今を措いて無いのである。 涅槃化と規則性は、永遠に不滅為る恒常普遍の真理である。 社会的、及び自然的環境を破壊して、我々人類が生き残れる訳が無い のである。 其れは、恰(あたか)も我々の血を抜いて、尚(なお)且つ生き残ろうとす る様な癡愚である。 先(ま)ず環境を整えて、生きるのでなければ為らない。 其の試金石足る米中露核兵器禁止条約締結するには、従来の米国主 導原爆支配大国拒否権体制を変革しなければ為らない。 目先に捉われて、永遠を見失っては為らない。 産みの苦痛は最小限に止(とど)めなければ為らないのである。 心進化及ばずして、真理不在為るが故に必然不可避に米中に象徴的 為る、二元相対世界の実情なのである。 ロシア・ウクライナ問題が米国主導原爆支配体制と、心進化が拮抗した と云う事である。 将来、如何(いか)に在らねば為らないか。 宇宙真理に基づく、世界人類の信頼結束か、其れとも戦勝国家に拠る 核抑止原爆支配体制かと云う事である。 自明の理為るが故に、米中露核兵器禁止条約締結に懸かって居る。 世界を真に教導し得る者は人情無く(非情でなく、人情に亘らない)涅槃 世界以前の、「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」 世界正修行期 の、涅槃為る宇宙の真理の慈悲心の確かさなのである 。慈悲心為るものは 、心進化に於ける諸階梯(かいてい)への、夫々の 諸体現に拠りて裏付けられているものである。 『実る程 頭(こうべ)の垂るる稲穂哉』 《 ロシア・ウクライナ問題の本質 》 ロシア・ウクライナ問題は従来の戦争とは異質な総括的側面を内包して いる。つまり米国主導の世界構築に対する挑戦と革新的改革である。 米国のアフガニスタン撤退に露顕された、人類能力の無力さを痛烈に 露呈する以外、何者でもなかったのである。 改革の不可欠性が明らかと為った矢先の、ロシアによるウクライナへの 侵攻であった。 斯(か)く為る次第で、バイデン氏の能動積極的為る打ち出しが不可欠 なのである。 其れ無くして、頂点が「諸悪莫作(悪を為さない)」の消極的な態度でプ ーチン氏に対応しても、其の頂点からの新提案無くして、プーチン氏の 侵略を阻止せ使めるだけのものを持ち合わせては居ないのである。 謂わば触媒的役割の独裁プーチンと、全常任理事国大国拒否権、並び に全非常任理事国等の頂点為る、バイデン氏の化学反応によりて、世 界人類の平和に最も不可欠な反応生成物は一体何か? 其れは無上の核(大量殺人)兵器に非ず、全世界が信頼結束し得る事 物なのである。 其れは何であろうか? 例えば、米国のアフガニスタン問題は如何(いか)に在らねば為らなかっ たか? 如何(どう)すれば、ミャンマー軍事政権の独裁を正し、 ロシアの侵攻を 食い止める事が出来たか? 米国の在るべき立場が、自(おの)ずから浮かび出て来るのである。 其れは、「米国が極力、真理為る『最初後身心』足る事」に他ならない のである。 然(さ)も無くんば、 底無し沼へ埋没し行く事と為るだけである。 《 最後に残るもの 》 人類が殺し合いをしなければ為らないと云うのは、未だ至り得ていない 証拠である。 其の訳は、「宇宙(生命)の本質」が涅槃であると云う真理に至ったから である。 小生が涅槃回帰したのは、涅槃為る宇宙の涅槃化エネルギーに拠るも のであり、其れは「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使め る」涅槃妙心(智慧)である。 世界人類の平和を構築するものは、宇宙の真理である。 宇宙の真理に基づく、涅槃妙心の智慧に拠りて初めて、世界人類は平 和に至り得るのである。 故に、元来、他者を殺す前に自(みずか)らの命を絶つべきなのである。 此処(ここ)が、動物と人類とを明確に分かつ、進化の進化足る一線で ある。 故に仏道の第一の戒は、何時(いつ)、如何(いか)為る場合も「殺す勿 れ」である。 是は生命の本質に最も即したものである。 「戦争する勿れ」。 「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」。 然(しか)るべく、構築、完遂するのである。 安全保障理事会国家拒否権発動核(大量殺人)兵器禁止条約締結し、 国際法(警察)を新たに樹立して初めて、世界は一転するのである。 是等は正に小生の涅槃回帰に相応(ふさわ)しき、真正(しんせい)の 正の世界遺産足るのである。 涅槃化一路への通過儀礼である。 三毒(貪・瞋・癡)為る世界人類が、涅槃為る宇宙に拠りて教導される 局面であり、其の完遂は世界人類の智慧に委ねる以外無いのである。 小生『最初後身心』も其処(そこ)迄は及び得ない。 速(すみ)やかに収束振動足るばかりである。 《 『最初後身心』の在るべき様(よう) 》 『最初後身心』の在るべき様(よう)とは? 空前絶後為る『最初後身心』が施すべき手段は、涅槃妙心智慧の未だ 人類に浸透せざる現実世界の繋縛(けばく)を超越しなければ、世界の 進展足る心進化は遂げ得ないのである。 小生が想定し得る、世界人類の姿について語るのは自由である。 親が子の将来に思いを託(たく)す様に。 抑(そもそも)一体何処(どこ)に、突然降って湧いた様な侵攻の根本原 因が在るのかを思わずには居られないのである。 正にロシアの在り様、侵攻前のロシアを在ら使めていた精神に其の原 因が在るのである。 プーチン氏に拠るウクライナ侵攻は、先ずウクライナ制圧後の西側との 対立構造に、一応の目的が在ったであろうが、其処(そこ)から初動の 動機足る米中露迄の立場の確立を目指したのかもしれない。 つまり、ロシアの国威発揚である。 其の誤算はプーチン氏のみならず、我々世界人類にとっても意外な結 果を齎(もたら)したのであった。 プーチン氏の個人的な誤算が招来した、戦後最悪の打算的為る悲劇で あったのだ。 是は国連常任理事国原爆支配大国拒否権体制に対するプーチン氏の 挑戦であった。 アフガニスタンから撤退した米国と、ミャンマー軍事政権の独裁者の暴 挙に対する国連の夫々の機能不全に追随し、真理黎明に乗じて、必然 的に興起したのである。 国連機能の根本的不完全性を浮き彫りにした。 是を解決しなければ、同様の暴挙は何時(いつ)でも容易に起り得て、 機能不全に陥(おちい)るのである。 国連の本質的な改革が喫緊の最重要課題と為った。 プーチン氏の侵攻無くしては、此処(ここ)には至り得なかったと云う事に 為るであろう。 若し、プーチン氏が勝てねば、バイデン氏も勝てない。 プーチン氏が勝って世界大勝利か、其れともバイデン氏が負けて世界 が地獄一路と為るかである。 此の時点で初めて、常任理事国の真の勝利に至り得るのである。 若し完成すれば、是がロシアのウクライナ侵略の多くの犠牲者への懺 悔(ざんげ)と為るであろう。 プーチン氏にバイデン氏主導の国連体制の改革を託(たく)したい。 其れは米中露核兵器禁止条約締結に他ならないのである。 是は現代史に於ける必然性なのである。 真理回帰無くんば、プーチン氏の侵攻は在り得ない。 極めて不自然である。 偏(ひとえ)に国連常任理事国の体制が、本質的に新国際法と国際警 察の樹立迄の過渡的体制であると云う事である。 米国のアフガニスタン撤退と、ミャンマー軍事政権の暴挙と、戦勝国家 の原爆支配体制から真理黎明の信頼結束時代への過渡期の不昧因果 為る必然不可避性である。 《 妙価の規則性とは 》 宇宙は教導の涅槃妙心智慧の公開と規則性である。 前者は「他者を思う心」であり、後者は「自己を思う心」である。 後者は前者の為の必要条件である。 規則性には社会生活上のもの、修行上のもの、そして前二者の機械的 為らざる、涅槃由来の妙価足るものとが在る。 是 、宇宙の涅槃化エネルギー其のものの規則性であり、是が宇宙をし て調和と均衡と静謐為ら使める、謂わば世界人類をして幸福と平和と 繁栄為ら使める妙心足る規則性なのである。 涅槃妙心が規則性であり、規則性が涅槃妙心なのである。 存在と時間が同一の働きを有する両素因子である。 然(しか)るに、三毒(貪・瞋・癡)為る人間世界は逆で、国境を隔てて三 善根(施・慈・慧)足る事には、今だ世界を分断する隔絶を残して居る。 国家間の対立と云う規則性への志向性が、宇宙の真理足る涅槃妙心足 り得ない。 此処(ここ)は仏道に於いても、自未得度先度他の心、菩薩の行願(布施 、愛語、利行、同事)として説かれている信心でもあるが、宗教心に留ま らぬ、超宗教、超科学の宇宙の真理の確心為るが故に、世界人類の行 動規範として、世界組織の枢軸足ら使めねば為らないのである。 妙心を生む教導と妙心其のものとは異なる。 「宇宙(生命)の本質」に涅槃回帰すると、涅槃妙心智慧「“自”でない。 “人だ!”」に至り得て、涅槃化(=涅槃妙心)を教導するに至るのである 。 教導は妙心を教導せんとする心であり、心の言語化である。 言語の生成、運用に関与する諸中枢為る、大脳新皮質の言語中枢をし て、心進化の最先端為る大脳新皮質前頭葉の菩提(道)心に依りて、大 いに涅槃妙心智慧足ら使めねば為らないのである。 故に、心進化の最先端で涅槃回帰しない限り、涅槃真理を説く(=言語 化する)事は不可能なのである。 言語化と涅槃化とは、後者には規則性があるが、前者には無い。 妙心(智慧)が言語化されて、真理が語られ往くのである。 言語化されなければ、真理は真理として教導し得ない。 涅槃化エネルギーの機能足る妙(=涅槃)は、生涯の行動に方向性を 与えるのである。 其の最も的確為る表現は、「“自”でない。“人だ!”」である。 人の為(ため)為(な)る自であると云う事である。 刹那のレベルに於いて、徹底して然(そ)うなのである。 宇宙の涅槃化エネルギーとは、抑(そもそも)其の本質が仏性と云う涅 槃化なのである。 究極に於いて、規則性の本質は涅槃化と云う事である。 故に是は機械的に計れるものではない。 厳密為る機械的規則性の究極に於いて至り得たものであり、唯一、「覚 天(涅槃回帰)」の刹那をして、「人だ!」と吐露して以来、初めて其の規 則性足り得たのである。 極佛行への不動の信頼も、是を機に、刹那に一切の迷夢を了じ切って 一超直入、涅槃回帰に至り得たのである。 人間が宇宙に導かれるが如くに、人類の為の至極の価値に不退転にし て初めて、吾等が母体と感応道交し、宇宙の涅槃化エネルギーが吾体 幹を貫通したのである。 中枢は、宇宙進化の極頂点足る、人類大脳新皮質前頭前野の菩提(道) 心である。 母胎内胎児も、此の部位が最後に形成せられて、胎児が完成するので ある。 大脳新皮質は人類独自の諸能力の中枢であり、大脳表面を覆う六層構 造の、厚さ2mm前後の層で、知覚、知性を担っている。 謂わば、小生『最初後身心』が宇宙進化の頂点に起って居ると言っても 過言では無いのである。 此の地上の惨状を前に、人類は一体何を以て、進むべき道が他に在る と言うのか。 日本人は自然の音(虫や雨等)に対して、物理的でなく、意味を見出し て、理性的、感性的に左脳(言語脳)で聞く。 レオナルド・ダ・ビンチの様に自然に対峙しないで、自然を取り込む日本 の文化にも影響している。 是は日本語に起因するものである。韓国、中国は西洋的である。 禅門では「不立(りゅう)文字」、「以心伝心」、「教外(げ)別伝」として、 「悟り」は文字、言説を以て伝える事が出来ないと言われる如く、 「宇宙(生命)の本質」に接近、接触、回帰したりする事には、言語化は 邪魔者に過ぎない。 斯(か)るが故に、自己(学問等の能力)を捨てて取り組むのである。 従って教導上の規則性に於いても、規則性は教導の必要条件ではある が、規則裡の規則性為らぬ処に、教導(言語化)は生まれるのである。 此の規則性裡の規則性為らぬ部分が、規則性の妙価足るのである。 つまり、此処(ここ)に、独裁主義の誤算が在るのである。 規則性に徹すれば宜しいのか、と言えば、然(さ)に非ず。 徹すれども、究極に於いて、其の逆為る処にこそ、生まれるものが在る と云う事である。 飽く迄、徹し切るのは死を意味する。 進化とは、稀(まれ)に生ずる異常な、突然変異の集積に因るものであり 、其の機械的正確さから逸脱した自然界のミスが進化の種子であると云 う事である。 事、教導に於いても全く然(しか)りで、抑(そもそも)教導為るものは、修 行も共に欲界で為されるべきもので、特殊な環境で為されるべきもので はない。現場で行じ、教導してこそ成るものである。 一体と為って、共に歩むのでなければ教導ではない。 規則性裡の、妙にして非規則性足る処 、是が絶対不可欠なのである。 「悟り(身心脱落)」にしても、其の例に漏れない。 義務教育の延長線上の、然(さ)に非ざる、逆行する菩提(道)心に拠り て、心進化為るのである。 其れは、鉄道のレールとレールの間に数ミリの隙を設けるのに似ている 。是等の隙無ければ、列車は脱線するのである。絶対不可欠である。 刹那の隙も許さずして、初めて「覚天(涅槃回帰)」するが、宇宙に回帰す れば、涅槃妙心にして、正に是こそが世界人類を平和に至ら使めるもの なのである。 《 自己の為すべき事 》 小生『最初後身心』遂に、自己が為すべき事を為したと思った。 其れは、宇宙真理の三毒(貪・瞋・癡)人間世界の、在る意味での有限性 に対する見極めが出来たと云う事である。 此の有限性への見極めに拠りて、初めて、自他一如足る平等性の見地 を知るに至るのである。 人間と云う者は、真理に至るには、菩提(道)心に拠りて、極佛行(正法 苦行)に基づき、真理回帰して、菩提(道)心に拠りて、「人を生(活)かす 」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」教導に基づき、自他一如足る平 等性に至る迄である。 人類三毒(貪・瞋・癡)から宇宙真理に回帰し、「人だ!」の教導から、教 導に不可欠為る、本質に基づく現象面での平等性、つまり真実為る知見 足る平等性、真正為る教導上の立場に回帰し、「人を生(活)かす」、「世 界人類を生(活)かし合わ使める」迄である。 然(さ)も無くんば、宇宙真理は人間世界に成立し得ないのである。 因(よ)って、世界の施政も当然の事ながら、極力、「人を生(活)かす」、「 世界人類を生(活)かし合わ使める」施政足らねば為らないのである。 然(しか)るべく、世界人類が信頼結束の基(もと)に、一部の三毒為る施 政に対し、真理に基づいて正し往かねば為らない。 然(さ)もなくば、自己の落ち着き処に安(やす)らぐべきか、但し是は小 生独りのものでしかない。世界人類に普遍的為るものではない。 此処(ここ)に至りて、今こそ、教導に左右されない規則性に徹し得るの である。 然(さ)て、力で制圧した米国主導国連支配体制は、米中の覇権から、 米露へ、そして露と反露の対峙へと。 今回根本的に異なるのは、既に人類は宇宙の真理に至り得て居ると云 う処である。 是は人類の根底を覆(くつがえ)すべき真実なのである。 既に人類は基本的に国家間の対立構造に底流する人類の三毒(貪・瞋・ 癡)を見抜いて居るからである。 諸悪の根源足る人類三毒に因る世界組織を凌駕し得るだけの機能を有 するだけの世界組織を構築するには、小生『最初後身心』が安保理15ヶ 国と共に、バイデン氏主導で修善奉行を打ち出さない限り、煙の立ち込 めた、此の出火現場から脱出する事は不可能なのである。 宇宙の真理に至った、小生『最初後身心』が、安保理核兵器禁止条約締 結を、露と対露為るプーチン氏とバイデン氏に、人類保持存続の為の最 終提案として、提言する。 若(も)し人類に、今だ、獣(けだもの)根性が残っていたら、人類滅亡以 外の何ものも残っていないのである。 《 真 実 》 人類が小生の軌道を歩むには、100倍に希釈する事と為るであろう。 涅槃化する宇宙は、宇宙から出ないが、人類は人類から出ない。 『最初後身心』は世界人類に真理を語るが、占い師ではない。 仮令(たとえ)、占いは当らなくても、占い料は戻らないと云う事は忘れて は為らないのである。 『最初後身心』と人類とを分かつ一線が確足るものであると云う絶対性は 致し方無いものである。 現象化は多様為る色化で一般的であるが、本質化は回帰する光化で特 殊である。 真理は、(特殊と一般が本質と現象の如き)、(一と全との涅槃有機的) 全一為る存在であり、時間である。 其れが、「刹那生滅の原理」に基づく因果の道理に他ならない。 安保理は吾(わが)真道に基づき、安保理改革に拠りて、国連安保理機 構は新制国際法に基づいて、核兵器支配(抑止)為らぬ、安保理国際警 察が国境を越えて、常に機能的に、「人を生(活)かす」、「世界人類を生 (活)かし合わ使める」教導的立場で機能しなければ為らない。 其の為には、宇宙真理の真の枢軸足る日本が、最も本質的に機能し、 二大国の経済力に依りて、安保理国際警察の力に拠りて、世界人類の 平等性に基づき、世界人類の物質的、精神的基本的条件を確保すべく 、全一的に世界人類の平和を確保しなければ為らない。 人間は真に本当のものに苦しめば、真に本当のものが手に入る。 「因果の道理」に他ならない。 《 本質現象化からの心進化必然性の把握 》 宇宙の涅槃化エネルギーは、「宇宙(生命)の本質」の素因である。 本質は現象して具現(具象化)し、無限に多様に色化して、現象界を生 むのである。 此処で、本質の現象化に於ける心進化の階梯について、四段階に分類 する。 ・本質――涅槃妙心。「覚天(涅槃回帰)」以降の心進化。本質に回帰。 ・現象的本質――「解脱」前後。本質に接触。 ・本質的現象――「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し以降の、 「悟り(身心脱落)」前後。本質に接近。 ・現象――上三過程以前の現実世界。 是等には、母体為る涅槃迄の人類の善悪等の一切を包摂して居るので ある。 究極に於いて、原爆支配体制が、願わくば『最初後被爆国』日本の小生 『最初後身心』に拠りて初めて涅槃回帰し得た様に、極々悪の極みから 極極善の極み、「覚天(涅槃回帰)」に至り得て、宇宙の真理、涅槃妙心 (智慧)、「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」至極 の本質を小生、言語中枢をして謳(うた)わ使めたのである。 斯(か)くして、世界人類は、人類史上初めて、此の宇宙の真理に見(ま み)え、人類諸悪の根源為る人類三毒(貪・瞋・癡)を、宇宙の真理の涅 槃から俯瞰(俯瞰)する見地を持ち得たのである。 小生鐵漢『最初後身心』の涅槃回帰をして初めて、人類は真の万物の 霊長足り得て、涅槃への収束振動一路足り得たのである。 人類と云う者は宇宙を征服するのではなく、宇宙に回帰して初めて、世 界人類を教導する事が出来るのである。 人類は、真理歴然足る此の機に、努(ゆめ)癡愚為る過去の轍(てつ)を 踏む事は許しては為らない。 涅槃への心進化(=本質化)足ら使めねば為らないのである。 本質は現象するのが一般的であるが、又逆も真である。 つまり現象界の現実からの本質回帰である。 是は涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に自(みずか)ら教導せられ往くの である。 是を仏(=仏への)道、小生の真(=真理への)道と云うのである。 斯(か)くして初めて、生命は其の意義を貫徹するのである。 つまり、涅槃為る本質に同じ、帰一するのである。 是をして、幸福、平和足るのである。 生命の本領は正に此の氷山の一角為らぬ、海面下の大部分足る涅槃 妙心に在ると云う事である。 是が人生の真義であり、「人を生(活)かす」能動積極的為る三善根(施 ・慈・慧)の源なのである。 《 宇宙の真理 》 「人を殺す(捨てる、忘れる)」のでなく、能動積極的に「人を生(活)かす」 、「世界人類を生(活)かし合わ使める」処の涅槃妙心と、厳密行時の機 械的厳密さ為らぬ、時処位に拘らざる体内時計の如き、内的規則性とを 手に入れた人は、絶対的生、比べるものの無い独自にして、宇宙と一( いつ)為る生命である。 天上天下唯我独存、 釈尊は「独尊」であったが、小生『最初後身心』は「独存」である。 前者は人間由来の評価であり、後者は評価以前の存在である。 本質上、「解脱」後の「覚天(涅槃回帰)」為る、心進化完了の涅槃回帰 である。 是は、地上の如何(いか)為る長者も手の届かざる宝物なのである。 相対的長者は、其れ等を「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし 合わ使める」べく、最大限有効活用すべきである。 世界人類の物質的、精神的基本的条件を確保すべく施政するのが政 治家の使命である。 然(さ)もなければ、弱肉強食の相対世界為るが故に、分断は必至不可 避である。 世界の組織は宇宙の真理に基づかない限り、信頼結束は生まれない。 一つは柔軟心為る涅槃妙心であり、其の基礎は、自己の三毒(貪・瞋・ 癡)の三善根(施・慈・慧)への心進化である。 後(あと)一つは、厳密為る規則性である。 規則性は生命には、社会的為るものだけではない、時処位に拘(かか わ)らざる本質的為るものである。 宇宙は生命であり、生命は規則性に生(活)き、涅槃妙心に生(活)かす のである。 《 三毒(貪・瞋・癡)から三善根(施・慈・慧)へ 》 諸悪の根源、人類三毒(貪・瞋・癡)が、悟れば涅槃為る宇宙の真理に 由来する三善根(施・慈・慧)に生まれ変われるのである。 是が、「世界人類の平和」への要(かなめ)である。 此の心進化が一体何に因(よ)って為されるのか? 現代、敢えて坐禅を行ずるだけの菩提心の有る人ならば、言及する迄 も無いが、発(ほつ)菩提(道)心無き一般人には、毒の善化は普通生じ 難いのである。 現在構築されて居る世界組織其のものの頂点が、三善根為らぬ三毒界 から一歩も出る事が出来ないで居る。 頂点程、其れが露骨に露呈する。 何か其の妙薬でも在れば、人間世界は平和に治まるであろうに。 坐禅に向かわざる、殆(ほとん)どの一般人が問題なのである。 三毒(貪・瞋・癡)、つまり諸欲(性欲(淫欲)等)への貪著が根源悪なの である。 仏の教えの基本は、「諸悪莫作 修善奉行」である。 「悪を造らない。 善行を為せ。」である。 三毒為る人間為らばこそ、「悪を造らない」と云うのが仏道のイロハのイ である。 然(しか)し、三毒為る人間が次の「善を為す」と云うのは、 前者の受動消極的態度から一転して、後者の能動積極的態度へ転変 するのである。 三毒為る人間の、此の能動積極性は、一体何処(どこ)から生まれるの か? 此処(ここ)が要(かなめ)なのである。 貪著に保身、安泰、忖度、温存して居る処から一転して、其の均衡状態 を敢えて脱却して、能動積極的志向性を獲得せ使めるものは一体何な のか? 敢えて自(おの)ずから、然(しか)ら使むるもの。 世の中の趨勢(すうせい)と云うものが在って、然(そ)うは、人間は中々 出来ない。 相当の覚悟が要るし、其のエネルギー源が不可欠なのである。 其れは何か? 釈尊は断食苦行で自滅する迄に至ったのである。 ヒトラーであれば、自殺した地下壕の一室である。 釈尊は其処(そこ)から、人間の業と云うものを達観されて、中道(諦観) を得られ、「死に至る苦行」から初めて脱却され、宇宙に一切を委ねられ 、禅定に入られて自(おの)ずから成道に至り得たのである。 釈尊苦行でさえも、修善奉行には至り得ていなかったのである。 正法苦行為らざる、邪法苦行なのである。 「悪を為さない」で止(や)めるのでなく、修善為る禅定に一切を委ねられ た。 斯(か)くして初めて成道され、「生命の本質」に至り得たのであった。 此の転換、つまり「悪を為さない」のではなく、「善行を修める」。 此の修善奉行が心進化には絶対不可欠なのである。 核兵器を使用しないのではない。 核兵器を敢えて禁止して、国連の体制を宇宙の真理に基づいて改革し 、同じく、国際法、国際警察を新たに樹立しなければ為らないのである。 斯(か)くして初めて、「世界人類の平和」が確立するのである。 《 小生がプーチン氏為らば 》 現在のロシア・ウクライナ問題は末期的状態にある。 宇宙で今、喫緊の最重大課題はロシアとウクライナの中立化である。 此の両者間の調和と均衡と静謐が具現化されていない。 其れは中立化が完遂(すい)されていないと云う事である。 中立化と云うのは、「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使 める」涅槃妙心に基づいて、一方的自己主張しない。 世界人類の平和の為に、必然不可避為る負の側面を自(みずか)らに 受容する、三毒(貪・瞋・癡)為らぬ、三善根(施・慈・慧)の心である。 自己の貪著で主張し切るのでなく、「他者を生(活)かす」べく、且つ「世 界人類を生(活)かし合わ使める」べく、三善根(施・慈・慧)の心で、慈悲 心を以(もっ)て智慧を働かし、自(みずか)らを施す心である。 此の「退歩の脚」が、将来必ず、自(みずか)らを生(活)かす事に為るの である。 誠心誠意、其の心を施すのである。 其れが宇宙の真理に帰一し、世界人類の幸福と平和と繁栄を齎(もたら )すのである。 ウクライナを抹殺するのでなく、、「ウクライナを生(活)かす」べく、中立 化を図る。 つまり、南部の黒海への通路の港をウクライナに残し、共有する。 本来、国境さえなければ、ロシアとウクライナが一体であれば、其の問 題は生じ得なかったのである。 宇宙の真理に基づいて、能動積極的に黒海を共有するのである。 其の心が万端に及ばねば為らない。 自(みずか)らの分に甘んじて、他を生(活)かす事が大人(だいにん)の 為す事である。 其の心のゆとり は普遍的生命の平等為る価値(真理(涅槃)、佛心)を 知る処から、自(おの)ずから生まれるものである。 三毒(貪・瞋・癡)の貪著の「欲しい、欲しい」は男女に拘らず、負の遺産 ヒトラーを生んでしまうのである。 今でも猶(なお)、負の三大遺産が核兵器とヒトラーと人種差別であるが 、真理黎明の現代に於いては、其れ等は過去のものと為らねば、人類 に未来は無い。 今こそ、宇宙の真理に同じ、帰一して、ウクライナを生(活)かす機に世 界が生まれ変わるべき時である。 プーチン氏には、「世界人類救済の第一歩」を進めて欲しい。 今は、ロシア対ウクライナの視点から、総べての確執、二元相対世界必 至の過去の分断を超越して、ロシア対反ロシアの、将来の世界人類の 平和と繁栄を見据えた、大局的観点から一切を判断すべきである。 人類の二元相対世界は綱引きの如く、取った取られた、勝った負けたを 問題とするが、真理為る涅槃世界は涅槃呼吸同様、上から下方(=地 球重心方向)である。 森羅万象総べて、其の方向へ向かうものである。 斯(か)くして起(た)ち、斯(か)くして坐るのである。 意識の及ばざる涅槃識に於いてのみ、自(おの)ずから然(しか)ら使め られるのである。 涅槃回帰後、初めて、謂わば有機的構成系裡に覚(さと)ら使められる のである。 《 「人を真に生(活)かす」 》 人間は、「人の生命」と「自分の生命」が分離している。 「人の生命」が「吾(わが)生命」と受け取るからこそ、自(おの)ずから、 平和であるのだが、「人の生命」が観得(みえ)ない三毒(貪・瞋・癡)から 生まれるものは地獄しか無いのである。 是が国家でも全く同様である。 矢張り「人の生命」の事が基本なのである。 「人の生命」が最足る普遍的価値である。 生命を重んずる心、是が最も不可欠である。 嘗(かつ)て、吾師がソット言われた。 我々が畳の上へ目を落として坐禅を行じて居る処で、 「畳が自分だと思えますか?」と。 他でもない。畳とは「人の生命」の事である。 其れ位、能動積極的に自(おの)ずから、人を思うのである。 是が涅槃化為る宇宙(生命)の本質である。 故に、「殺す勿れ」。否、其の様な受動消極的態度では済まない。 是が完璧でなければ、偽(にせ)者である。 真実は「人を生(活)かす」である。 此の能動積極性は極めて自然な心なのであるが、貪著すると、三毒(貪 ・瞋・癡)害で世界が逆転するのである。 宇宙の心は涅槃化である。 宇宙からの制裁を受けて初めて、人類はマトモに為れるのである。 小生も此処(ここ)に至る迄、不惜身命の古希迄を要したのであった。 今こそ、世界は、涅槃世界への心進化を遂げなければ為らない時であ る。 宇宙(生命)の真理の具現、『最初後身心』が涅槃為る宇宙の天蓋為れ ば也。 自己主張し合う時でなく、「世界の総べての国家が互いに生(活)かし合 う」時である。 正に国家三毒(貪・瞋・癡)でなく、国家三善根(施・慈・慧)である。 地上の資源は有限である。 有限為る「自然の恵み」の中で、七十七億の人類が生き続けるには、 自(おの)ずから涅槃妙心智慧に基づく「施の心の実践」無くしては、平 和は成立し得ないのである。 世界人類は此の五年間が正に正念場である。 《 心進化の途上為る我 》 吾(わが)師から授(さず)かった極佛行でさえ、国家意識や愛人間関係 等も含めて如何(いか)為る場合も、自己(=我執)由来に他ならない。 人間と云う者は宇宙の涅槃化エネルギーに依る機械(=身体)的異変 に因り、修正されない限り涅槃に回帰し得ないのである。 「覚天(涅槃入り)」して初めて、有無を言わさず、宇宙由来(=涅槃化エ ネルギー)に完璧に覚醒させられる。 此の時、人間の心が空前絶後に真っ裸に為るのである。 然(さ)も無くんば、一切合切、無我にして純一無雑為る菩提心でさえ、 自己由来に他ならないのである。 我々の生命は我執(しゅう)為る、小我から、より大い為る生命、そして 宇宙の大我へと覚醒し往く心進化の途上に居る。 『最初後身心』にして初めて、宇宙の真理を語れるのである。 世界は今、従来の在り様から脱却して、生まれ変わらなければ、永遠に 其の機会を失うであろう。 全(すべ)ては明白でありながら、今、超せないからである。 宇宙由来為る米中露核兵器禁止条約締結である。 《 プーチン氏とバイデン氏 》 バイデン氏とプーチン氏の関係が世界人類の今後の運命を決定的に左 右すべきものである事を深く認識しなければ為らない。 両者の本質的対峙が世界情勢の現状を悪化させるか、維持するか、改 善するかに於いて、当然の事ながら、改善し往くと云うのが最善為る涅 槃妙心智慧である。 智者為らば、当然斯(か)く然(しか)ら使めるのである。 『最初後身心』に基づいて、バイデン氏とプーチン氏が腹を割り、腹の底 を合わせて、「人を生(活)かし」、「世界人類を生(活)かし合わ使めて」 率先垂範し、心進化を遂げねば為らないのである。 其の一打が欠落して居る。 バイデン氏とプーチン氏の一体化が、今、何よりも最重大課題であると 云う事が疑い様の無い真実なのである。 是は従来、世界中の運命的な意識の不可避為る有限性であった。 今日、吾(われ)『最初後身心』が涅槃回帰して二年八ヶ月程に為る。 「覚天(涅槃入り)」に於いて、霹靂(へきれき;落雷)の如く、刹那に宇宙 (=涅槃化エネルギー)からの制裁が下され、吾(わが)体幹の芯を貫い たのである。 刹那為る呼吸器系の異変に因り、小生は極佛行を本能的に撥無(はつ む;払い除けて信じない)し、究竟「人を生(活)かす」、「世界人類を生( 活)かし合わ使める」真実を覚(さと)ったのであった。 涅槃識に因りて、吾(わが)心は「宇宙(生命)の本質」(涅槃)為る涅槃 妙心に転じ、呼吸は宇宙の重力に則(そく)する涅槃呼吸と為ったので ある。 二元相対世界ではない。 つまり三毒(貪・瞋・癡)由来の二元相対的に対立する意識と呼吸では ない。 「生(活)かす」、一如(にょ)足る意識であり、涅槃宇宙に由来する呼吸 なのである。 此処(ここ)に於いて、今、地上の世界人類の運命を左右する喫緊の最 重大課題のバイデン氏とプーチン氏は、人類史上、世界人類の将来を 担(にな)う、不可避為る人類三毒(貪・瞋・癡)の妄執からの門扉(ぴ)へ の菩提(道)心に基づく(「諸悪莫作」、)能動積極的為る三善根(施・慈・ 慧)の実践が不可欠である。 両者が涅槃妙心足れば、自(おの)ずから然(しか)るべく世界は整うの である。 問題は、過去に在らず、国境に在らず、今後の世界人類の物質的、精 神的基本的条件を確保する可能性の問題である。 双方の関係が、是に最も相応(ふさわ)しき在り様か、否かの問題であ る。 其処(そこ)から、本末転倒せずに、一切を割り出して往かねば為らない のである。 否、自(おの)ずから、然(しか)ら使められ往かねば為らないものである 。 現代、最大の負の世界遺産が核兵器である事は言う迄も無い処である 。 今、安保理核(大量破壊)兵器禁止条約締結で世界の方向性を率先垂 範しなければ為らない時である。 最早、非難し合う時でなく、涅槃妙心智慧に拠りて、世界人類が直接的 に生(活)かし合わねば為らない時代である。 《 「生き、生かす」事と「死に、殺す」事 》 涅槃妙心(=真理)とは0か100かではなく、1か99である。 此の1に妙心がある。 進化が在り、回帰が在り、奇跡は在るのである。 然(しか)るに分別と云うものは、0か100かで短絡思考して、 真実を見失い、死物化して地獄を生んでしまうのである。 飽く迄も「生(活)き」、「生(活)かす」のである。 是が生命の妙である。 世の中と云うものは、死んで、地獄を生んでいるのが現実なのである。 人間は心が死ねば殺すし、殺せば心は死ぬのである。 心が死んでいるから殺せるのである。 如何(いか)なる場合でも、命在らん限り「生(活)かす」と云うのが妙心 の「証(あか)し」である。 「死ぬ事」、「殺す事」の如何(いか)に味気無い事か。 人間を本質的に、其の様な状態に陥(おとしい)れる国家の現象の異常 さへの無頓着、無関心、疑念の無さは癡愚以外の何ものでもないので ある。 人間には恭順欲、屈従欲、保身欲と云った欲求もある。 総(す)べては、指導者側の三毒(貪・瞋・癡)の為せる業(わざ)である。 「生(活)きる」と云う事は、其れ程困難な事なのである。 「生(活)きる事」、「生(活)かす事」程の困難な事は無い。 1億個の中の1個を0と為し、済ますのは、死んだ人間である。 1億個の中の1個を0としないのは生きた人間である。 本質とは、無量個の中のあらゆる一個に及ぶものである。 安保理核(大量破壊)兵器禁止条約締結裡信頼結束に於いてさえ、 世界人類の平和に及び得ない筈が無い。 唯、遣(や)る気が及ばないのと、本気に為れないだけである。 聖戦等の闘争 と云う生理的・本能的生存欲があるが、是は自衛隊等 の防衛 と云う後天的な心理的(安全への)・社会的欲求とは異なる。 本能(食欲、性欲等)だけであれば、三毒(貪・瞋・癡)は生じないのであ るが、本能為る闘争 欲求を人類特有の大脳新皮質の分別で後天的に 三毒の貪著で三毒(貪・瞋・癡)化するが故に地獄を生ずるのである。 従って、本能為る闘争 欲求を、真理である、涅槃為る「宇宙(生命)の 本質」に基づいて防衛 するのが人類足る本分であり、世界人類の平和 への要(かなめ)足る、真理為る涅槃世界への正道、真道である。 此の試金石が安保理核(大量破壊)兵器禁止条約締結である事は言う 迄もないのである。 バイデン氏に其の菩提(道)心無くんば、プーチン氏に発(ほつ)菩提(道 )心為らぬのは致し方無い。 或る意味で、ロシアと中国と北朝鮮は米国主導の国連核支配の副産物 である。 発(ほつ)菩提(道)心はバイデン氏主導であるべきであるのは自明の 理である。 其れが、核兵器支配主導国家、米国指導者の必然的責務である。 米国の対ロシアの間接的参戦は、中国の対米国の関係に似ている。 米国の主体性回避の消極的「諸悪莫作」は、一方的にロシアに委(ゆだ )ねるのでなく、積極的「修善奉行」足らねば為らないのである。 ロシアの、否全世界の衰退を待つのではなく、安保理核(大量破壊)兵 器禁止条約締結であるし、其れ以外には無いのである。 心眼と肉眼とは別物である。 人間は大いに心を耕し、養わねば為らない。 男女に拘らず、本物には敵(かな)わないのである。 《 終 局 》 江戸時代の剣豪、二天一流開祖、宮本武蔵は、 生涯、六十四度の勝負に無敗。 「武蔵の剣捌(さば)きは、武蔵のみが可能で、誰も出来ない。」と。 六十歳で、雲巌洞に籠(こ)もり、一年半掛けて『五輪の書』を著し、一週 間後、六十一歳で亡くなる。 然(しか)るに、彼は『五輪の書』に在る様に、生涯、勝つ事、相手を切 る剣を捨て切れなかった。 一方、幕末から明治の、剣の達人、無刀流開祖、山岡鐵舟は、 江戸城無血開城為ら使めた。 剣禅一如の道を究め、長年の参禅体験の後、或る時悟入し、無刀流 の開祖と為り、後年、京都天龍寺滴水老師の意向で出家を思い止まっ た。 「晴れて好し 曇りても好し富士の山 元の姿は変わらざりけり」(鐵舟) 十年間の約束で明治天皇に仕え、 五十三歳の時、皇居に向かって、結跏趺坐し、そして絶命した。 葬儀は、会葬者五千人に及び、殉死者も数名出た。 「鐵舟の居ない世の中は、生きるに値しない。」と思わせる程の、鐵舟 の死であった。 是等両者に、江戸から明治の時代の変遷と、象徴的な、或る意味で 典型的な二つの、人間の在り様を観る事が出来る。 嘗(かつ)て、吾師が言われた。 『剣の達人は、剣を捨てる。』と。 バイデン氏は核支配と米国施政を一如(にょ)足りて受け継ぎ、アフガン 問題で将来の保身、安泰に備えて、アフガニスタンを放棄し、自他を捨 て、覇権闘争に走ったが、プーチン氏のウクライナ戦争で間接的に対露 に参戦し、応じた。 バイデン氏とプーチン氏の対立は、謂わば現代の終極である。 つまり、米国主導の国連核支配常任理事大国拒否権体制が内包する 人類三毒(貪・瞋・癡)の運命的必然性であり、核武装力支配体制裡の 涅槃為る真理回帰が齎(もたら)した人類運命の人為に浮上した天為為 る宇宙の真理の顕現である。 最早、現代に於ける人類の欺瞞(ぎまん)は、其の終極を迎えざるを得 なく為った。 是が米国主導の運命の限界である。 宮本武蔵は山岡鐵舟足らねば世界の運命は切り開けないのである。 人類の知恵の限界である。 自(みずか)らを捨て、他者を捨て、三毒(貪・瞋・癡)為る癡愚道に入っ ては為らない。 是が無自覚の盲目為る、光無き、根源悪道の正体である。 「剣の達人が剣を捨てた」如く、 剣を捨てれば切り殺されるで、剣を振り翳(かざ)せば、地獄道に陥(お ちい)らざるを得ないのである。 『核支配体制の達人は核兵器を捨てる。』 世界は、米国か中国かではない。 正に戦争か涅槃(広義)世界か、全(=分断)か全一(=『最初後身心』) かである。 現代、戦争を好(す)く人間は居ないのである。 小生『最初後身心』が対峙するものは戦争である。 小生は世界を掌握して居る。 《 小生の夜十一時 》 宇宙の調和と均衡と静謐を具現するものが小生の十一時就寝である。 是に依りて、一日二十四時間、後は自(おの)ずから然(しか)るべく整う のである。 即ち、是が世界人類を幸福と平和、そして繁栄為ら使めるのである。 宇宙と世界人類と、小生『最初後身心』とが一つに為ったと云う事であ る。 小生の夜十一時がロシア・ウクライナ問題のプーチン氏に拠る、米中露 核兵器禁止条約締結である。 是に因りて、プーチン氏の立場は一転して、国連安保理拒否権平和体 制に国連改革が完了するのである。 プーチン氏の胸三寸である。 是は恐らくは、世界人類の総意に為ると、小生は確心する。 小生『最初後身心』為ればこその確心である。 宇宙の規則性に至るには、先ず、正法苦行の厳密さ(=規則性)に特 化しなければ為らない。 百分の一秒の厳密さ迄に及ぶ、必死為る独行である。 了行後も、二時間位の作業は、時計無しに一~二分の誤差で完了した 。正念相続である。 吾師は、修行時代、原田祖岳老師から、何月何日の新聞を持って来る 様に言われたら、束(たば)ねた中から、其れを抜き出せたそうである。 其の延長線上に於いて、宇宙の二面性為る涅槃と規則性に至り得るの である。 所で、人間世界の規則性は農耕集落から社会構造化すると共に生じた 、社会構造化に随伴する規則性である。 正法苦行の厳密なる時間的規則性は、正に自然(じねん)内発性の規 則性である。 規則性の原点は釈尊の石窟夏安居(雨期九十日間、四月十六日~七 月十五日)に在る。 当時は行其のものが真理の現成(じょう)とされ、仏々祖々が嫡(てき) 々正(しょう)伝して現代に至ったのである。 釈尊は弟子の阿難に、人が来たら、「一切法不生、一切法不滅と伝えよ 。」と言われて、石窟に閉じ篭(こも)られたのである。 是を不惜身命の「無言説法」の「証(あか)し」としている。 釈尊入滅後、第一年から年一回安居修行を続けて来た。 是が中国、そして日本へと伝えられた。 インドで、“清 浄大海衆の依って以て規 範とすべき”清規(しんぎ)が作 成されたのである。 中国で、「一日作(な)さざれば、一日食(くら)わず」の跡形(あとかた)を 遺(のこ)した百丈懐海禅師の「百丈清規」が作られ、日本に伝わり、道 元禅師が一切の宗教儀礼を廃除して、本質的求道足る「永平清規」を 撰示した。 是が禅門では、厳密に一月半前から安居(あんご)の準備段階に入り、 感嘆する迄の綿密さで以て執り行なわれるのである。 涅槃為る真理を求道すれば、其れは規則性に徹する事と為る。 是が究極為る宇宙の規則性(=涅槃化エネルギーの働き)に通じ、涅槃 に回帰するのである。 涅槃は教導と為り、規則性は、其れを支(ささ)える、不可欠為るもので ある。 前者は「人を生(活)かし」、後者は「自己を生(活)かす」。 「人を生(活)かす」為に、「自己を生(活)かして」遣るのである。 最終的に、後者が支えと為り、涅槃の調和を生むのである。 《 身と心の両極 》 世の中は金とセックスの安泰である。 世の中が安定すると、安泰位しかなくなると言うのが真実である。 身の貪著である。 是が歩む道は、混迷から地獄。 此の自覚と確信に至り得ていない。 癡愚と瞋恚と貪著、つまり人類三毒が其の正体である。 此処(ここ)から脱する気も無ければ、力も無い、盲目である。 世の中は世界人類の平和と幸福 でなければ為らないのである。 自己の安泰でなく、世界の安定 である。 如何(いか)に人類知能を振り翳(かざ)そうとも、 其の根は安泰とセックスと金である。 世界人類の平和と幸福への真実への菩提(道)心 に違背せざるを 得なく為った、忘却から脱却出来なく為った結果の態度に他ならない。 是等は、身と心の、夫々(それぞれ)の両極を為すものである。 小生の宇宙の真理 から、其の事は明白なのである。 《 世界人類の弱肉強食事態 》 戦争に勇敢は無い。 愚かさが有るばかりである。 勝っても、負けても殺し、殺された。 動物の弱肉強食ならば、自然の摂理である。 存続の為には食わねば為らない。 然(しか)るに人類は、現代では、動物的弱肉強食為らざるを得なく為る 前に、世界人類が平等に存続出来るべく、資力の偏在には智慧を生( 活)かすべきである。 仮に、間に合わなければ、平等に食糧を分かち合い、平等に死に行くの みである。 是が人類足る者の生き様でなければ為らないし、且つ摂理足らねばなら ないのである。 真理為るが故に。 人類は神を生み、そして神其のものと為ったのである。 是が宇宙(生命)の心進化である。 真理(為る涅槃妙心)は超宗教、超学問(科学、哲学等)為るものである 。 《 世界を一如為ら使める戦勝国家の在り様 》 人類史に於ける、戦争の大義と善悪については、 人種差別からヒトラー、そして原爆投下へと、是等は人類の悪業の三大 遺産であるが、出来上がったものが、原爆支配体制と云うものの不備、 不完全性、暴挙を裁く機能不全として露呈したのである。 人類能力の限界である。 未だに真理無き、戦争世界である。 スポーツであれば、ルールが裁くが、戦争は競技ではない。 神も聖戦を肯定して居る。 仏教のみ真の「殺す勿れ」である。 「悟って」、「解脱」して、本質に至れば、殺せなく為る。 本質為る生命(=涅槃)を害する事が出来なく為るのである。 殺されても、殺せなく為る。 此の本質が、世界人類の人間世界の要(かなめ)である。 本質に回帰すれば、「人を生(活)かす」だけである。 勝っても、負けても、人を害し合えば、「人を害する」事に於いて同一であ る。 自衛でない限り、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に違(たが)えた事を為 したのであって、如何(いか)為る事が在ろうとも、其の将来は、必ず真 理に拠る報いを受ける事と為るのである。 宇宙の真理に裏付けられた「因果の道理」である。 故に戦勝国家主導の国連は本質的に、イザと為れば、機能不全に陥ら ざるを得ないのである。 真理に基づく国連、国際法、国際警察が不可欠なのであり、是が喫緊 の最重大課題である。 現国連支配体制下に在っては、人類に真の喜びと云うものは無い。 スポーツは相対世界の喜びの域を出ない。 絶対為る喜びとは如何(どう)云うものか? 聖戦を肯定する神の愛は成立しない。 「人を殺す」事を否定出来る神でなければ為らない。 絶対的喜びと云うものは、 涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の真理に基づく喜びである。 其れが生命の根本原理であるからである。 宇宙の涅槃化エネルギーに基づく涅槃妙心の喜びである。 「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」心から生まれ る喜びである。 世界人類が永遠に不滅為る恒常普遍の真理に基づいて生きる処より 生まれる喜びであり、安らぎである。 涅槃妙心力とは涅槃妙心智慧の事である。 人類の勝敗等の悲喜交々(こもごも)は、諦(てい)観(=悟りへの前段 階)迄のものである。 後は「悟り(身心脱落)」、正法苦行(初行)への菩提(道)心の段階であ る。 然(そ)うして初行後、本質的に真に徹して、「解脱」へ至るのである。 それから、絶対必然性為る涅槃道(=後行)であり、 何時(いつ)か、涅槃(妙心)、本源へ回帰するのである。 要するに、『最初後身心』とバイデン氏と習氏とプーチン氏の調和と均衡 の問題である。 此の涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の真理の緊張感が、重力の如くに 、地上を一如(にょ)為る緊張感で信頼結束に導き、涅槃(真理)現成(じ ょう)して、世界人類の幸福と平和と繁栄に至ら使めるのである。 枝葉の分別は、其の天蓋(=涅槃現成せ使め得るだけの真理の緊張 感(=涅槃妙心力))から、自(おの)ずから然(しか)るべく整えられ往く のである。 世界人類に、真理が具現されねば為らない。 《 受容すべき生命の二面性 》 小生『最初後身心』の教導と規則性の、生命の二面性は、本質化(=教 導)に資する規則性(現象)である。 当然宇宙の涅槃化エネルギーに基づくものであり、世界人類の平和と 云う涅槃妙心化に随伴する、必然的生命現象なのである。 要は、其れ等の何(いず)れにも偏執(しゅう)しない事である。 常に、世界人類の平和を期する処の、「人を生(活)かす」、「世界人類を 生(活)かし合わ使める」涅槃妙心に基づく、必然的両面性の最善為る 調和と均衡と静謐なのである。 是は事実上、是等の両面性を両極と為す、涅槃妙心化への収束振動足 るのである。 此の『最初後身心』の生命現象の必然性は、人類史上の心進化にも適 応する。 つまり、地獄(=原爆投下)と涅槃(=涅槃回帰)を両極と為す最大振幅 からの、世界人類の平和為る涅槃妙心化への収束振動である。 又、更には、自由資本主義と社会主義的共産主義との対立構造にも、 自由と統制と云う、幸福と繁栄への可能な在り様の両面性が現代世界 の趨(すう)勢であったが、二年八ヶ月前に小生に拠りて真理が打ち出さ れて以来、従前の主義主張の二元相対世界の弊害が顕在化し、露呈す るに至ったのである。 其れ等の根源は明らかに、人類三毒(貪・瞋・癡)であり、貪著すれば分 断を生じる。 以上小生が述べて来た事が其の儘、適応出来るのである。 夫々(それぞれ)に長所と短所が併存し、且つ、夫々に、偏執した悪弊を 伴う心進化の両極である。 涅槃妙心智慧化に基づいて、夫々の善い両側面を生(活)かし、より善く してこそ、菩提(道)心は限り無く、世界人類の平和を完遂し往くのであ る。 其処(そこ)迄、心(こころ)労して、無上甚深微妙の妙心を養わなければ 、世界人類の平和には至り得ない。 斯(こ)うした、人類の二面性を分断して、覇権争奪したり、対立するのは 愚の骨頂である。 両者が涅槃妙心化の世界人類の平和を期して、常に生(活)かし合うの でなくして、世界人類が平和に為る訳が無いのである。 生(活)かし合ってこそ、心進化するのである。収束振動しながら。 世界人類が涅槃妙心化し往くと云う事である。 人間(類)は兎角、機械的に為り勝ちである。 しかし、宇宙の働き、無上甚深微妙の妙心には機械的為る事は無い。 人類が宇宙の涅槃化エネルギーの其の働きを体現するには、宇宙に回 帰するのみである。 回帰して教導する、つまり世界人類の平和(=涅槃妙心化)を完遂する 中で、其の働きを知るのである。 方針を物質的に現象的に、機械的に済ますのではない。 小生『最初後身心』の本質面から、常に収束振動しなければ為らない。 常に両者の、両面の最善の調和と均衡、宇宙の真理を具現するのであ る。 ギリギリの処で常に最善を尽くせば、自(おの)ずから然(そ)う為るので ある。 其の塩梅(あんばい)は、分別に拠らずに、自ずから知るべき行動と為る のである。 其れが最も、世界人類の平和為ら使めるのである。 分別で決めると、自然(じねん)を失う。 故に、正に拠り所は自己(=涅槃妙心)である。 「刹那生滅の原理」の如く、常に心も正念相続に最善を尽くして、涅槃妙 心化への収束振動しなければ為らない。 流動(波動)性と定常(粒子)性は生命の本質の二面性である。 物質の二面性が、生命の二面性を呈するのである。 此の両面性が涅槃妙心化への収束振動を生む。 宇宙(生命)は、其の永久機関である。 「解脱」から「回帰」する迄、つまり後行では「人を忘れない」であったが、 回帰すると、「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」 と為る。 究極は、世界人類の地獄の人々、困窮者達、恵まれない人々を捨てな いと云う事である。 其の弱者が見捨てられ、忘れ去られる事が悲劇なのである。 彼等をこそ生(活)かさなければ為らないのであり、是こそ正に為すべき 事である。 人類三毒(貪・瞋・癡)でなく、人類三善根(施・慈・慧)である。 《 消極性の極みから積極性の極みへ 》 男女に拘らず、淫快欲の貪著は裏返せば恭順欲、屈従欲と為るが、 是が裏目に出れば邪鬼と為る。 然(しか)るに、何(いず)れも淫欲の奴隷でしかないものである。 是等は受動消極性の最足るもので、 懈怠(けだい;精進の反意語)の裡(うち)に死を夢見るのである。 邪鬼は、時に魔女と為ったり、或いは強権独裁の残虐性と為る。 是等を凌駕(りょうが)するものは、身心進化からも明らかな様に、 動物本能から、快感原則により情動を生じ、大脳皮質に拠る現実原則 へと。 更に、大脳新皮質前頭葉に菩提(道)心が生まれ、「宇宙(生命)の本質 」である宇宙の涅槃化エネルギーの促しと呼応し、坐禅の功徳から「悟 り(身心脱落)」、「宇宙の本質」へ接近し、そして接触、回帰に因る涅槃 妙心を生むのである。 人類三毒(貪・瞋・癡)の貪著に抗するものが菩提(道)心であり、更に 「悟り(身心脱落)」によりて不退転足るのである。 《 快 感 》 快感には二種類ある。 一つは性的快感と、もう一つは真善美的快感である。 両者は全く異質であるが、是等が混在すると、19世紀末フランス(欧州) の世紀末的傾向の如き、デカダンス(退廃)に陥(おちい)る。 前者はエロス(性愛)であり、ギリシャ哲学者プラトンは後者への昇華を 説いた。 彼は「エロス(性愛)は肉欲から始まり、諸段階を経て、真善、そして美へ と到達しようとする哲学的衝動、憧れである。」とした。(フロイトの精神 分析ではエロスは「性の本能」である。) しかし是は、身から心への昇華では済まない。 フロイト的エロスが残るのである。 後者は昇華以前に、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しに呼応する 菩提(道)心に拠りて真実を志向し、東洋的涅槃へ至るのである。 其の間には、「解脱」が不可欠であり、憧れ、衝動では及び得ない。 両者のグレイゾーンは、「解脱」に因りて、恰(あたか)も水と油の如く、 混濁して居ても、明確に分離される。 涅槃回帰して初めて、宇宙の真理に至り、涅槃妙心を知るのである。 欲―――→真善美―――→坐禅功徳―――→涅槃妙心 地上 ギリシャ文明 インド 日本 人類 プラトン 釈尊 鐵漢 〔 快感の心進化 〕 《 世界人類信頼結束への潮流 》 今既に世界の潮流は定まった。 最早、此の潮流に逆(さか)らうべきではない。 小生『最初後身心』が空前絶後に回帰した、「宇宙の真理」に基づくもの であるからである. 世界が是に沿(そ)うべく行動すべきである。 其れが、最も「宇宙の真理」に適(かな)うのである。 世界人類の平和への入口である。 世界各国を制するものが国連核兵器支配体制であるが、 世界人類の身(=三毒(貪・瞋・癡))を制するものは、真理為る涅槃妙 心である。 世界人類の身(=三毒(貪・瞋・癡))を制し得る国家と云うものは無い。 《 人、そして国家の真実 》 人の世の、「人を生(活)かす」真実は時空を超えて消えない。 況(いわん)や、「世界人類を生(活)かし合わ使める」真理は永遠に不 滅為る恒常普遍の真実と為るのである。 故に、常に時空を隔てて、釈尊は吾師と為り、小生『最初後身心』を生む のである。 総(す)べて、唯、自己を拠(よ)り処と為す、孤独な存在である。 釈尊の真実は、『自灯明、法灯明』(自己を依り処とし、法を依り処とせよ )と説かれた。 つまり、『国を依り処とし、真理を依り処とせよ』と云う事である。 国家に於いても、此の孤独足る妙心に拠りて、独楽(こま)の如くに、宇 宙の涅槃化エネルギーの生む重力に因りて、独(ひと)り静謐(せいひつ )に回り続けなければ為らない。 斯(か)くして、世界各国が互いに対立する事無く、自国及び他国の調和 と均衡と静謐を地上に具現するのである。 世界各国が宇宙の真理に基づいて、自国に拠り、自国の幸福と平和と 繁栄を、世界の幸福と平和と繁栄に及ぼすのである。 其れが「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」心であ る。 自国が宇宙の真理に基づく事が、其の儘(まま)、他国を生(活)かす事 と為る。 其の心を涅槃妙心と言い、其れが永遠に不滅為る恒常普遍の真理なの である。 《 米中露印等全国家を教導すべき日本 》 反省段階の米と、途上の中露、そして中立の印。 是等から一歩離れた、真理の日本。 本質的には、日主導の、米中露印の相対的現象の調和である。 総(す)べて、真理志向でありながら、現在迄を引き摺(ず)って居る。 重き現在迄を払拭(ふっしょく)すべき真理(実)である。 願わくば、宇宙の調和と均衡と静謐へ。 一~二年中には、涅槃一路門を歩むのである。 是、回帰真理の「証(あかし)」である。 人類史上、嘗(かつ)て無かった。 心進化の一大転換期である。 此の回帰が世界に画期的反映が顕現されなければ為らないのである。 宇宙の涅槃化エネルギーに由来する重力に基づくもの為るが故に。 真理は涅槃為る宇宙に開かれて居る。 《 涅槃一路途上の我等三毒(貪・瞋・癡) 》 小生の極佛行為る、「解脱」由来の涅槃志向行に於いて、 涅槃為る宇宙は、見事に、小生を「涅槃入り」せ使めたのである。 本来、宇宙(大自然と生命)は涅槃化エネルギーに由来する涅槃世界な のである。 涅槃途上に在る人類三毒(貪・瞋・癡)が、其れを地獄にして居るに過ぎ ないのである。 《 欲と精進(行)と宇宙の真理について 》 動物本能由来の生理的欲求(食欲、性欲と睡眠欲)に、人類特有の大 脳新皮質の分別で、貪著する事が三毒(貪・瞋・癡)為る諸悪の根源で あり、是が宇宙の真理に違(たが)えて、世界人類を限り無く恐ろしき無 間(げん)地獄に陥(おとしい)れるのである。 生理的欲求を敢えて禁ずる事は、宇宙の真理に違背し、為すべきでな いが、釈尊は断食苦行が功を奏して、人間の限界を知り、中道(諦観)に 至り得て、正法為らざる、苦行(業)から初めて真理への道を開かれたの である。 動物から人類への進化は、動物が其の本能を満たす為の進化が、脳幹 (本能)から大脳辺縁系(情動)へと、そして大脳皮質の大脳新皮質(分 別)へと進化した。 共存すべく、自己の生理(本能)的欲求を満たす試行錯誤と学習、記憶 である。 性欲は、極力、控える方が心進化には好ましいのである。 動物的性欲へのエネルギーを有用に生(活)かすべきである。 其れが人類の向上である。 睡眠欲は、自由に満たす事は可能であるが、食欲と性欲は必ずしも然 (そ)うではない。 『共存の為の自己存在』である事が不可欠なのである。 此の自律的現実原則が普遍的心進化を励起する。 宇宙涅槃化エネルギー由来の涅槃妙心、「他者を生(活)かす」べき自己 でなければ為らないのである。 然(しか)るに、其の宇宙に具現された調和と均衡と静謐に違(たが)え て、自己が貪(むさぼ)ると、其処(そこ)に対立が生じ、瞋恚と癡愚から 争いや殺戮(りく)に至るのである。 貯蔵により、安定した、平穏な農耕集落生活から瞑想が生まれ、社会構 造化し行くと共に、貪りの悪業と、宇宙の真理への畏怖(いふ)が神々を 生み、ヨーガ(苦行)が生じ、やがて釈尊の断食苦行に拠り中道に至り得 たのである。 斯((か)くして、吾師が空前絶後に千日行(三時間坐睡二十四時間仏作 仏行)為る正法苦行を打出されたのである。 心進化とは覚醒への道程に他ならない。 涅槃為る宇宙への覚醒であり、其の完了が回帰なのである。 是は、夢だに見ない睡眠為らざる安眠の対極に在るものである。 覚醒し、正念相続すれば、睡眠は自(おの)ずから熟睡足るので、一般 的に四時間も寝れば十分なのである。 是は、「人を思う」心の問題である。 其の根底は、坐禅に依る、「生命の本質」に近付いた体験の裏付けに基 づくのである。 其処(そこ)に、人への慈悲の心が生まれる。 是、三善根(施・慈・慧)への萌(きざ)しであり、心のゆとりである。 人類の健全な進路には三通り在る。 義務教育と能力と求道。 求道が最も非社会的であると同時に、最も根本的なものであるが故に、 最も根源的、本質的に人間世界に機能するものなのである。 真理への正道、釈尊般(はつ)涅槃(=入滅)最期の御教戒『八大人覚』 少欲 知足 楽寂静 勤精進 不妄念 修禅定 修智慧 不戯論 要(かなめ)は、修禅定と修智慧である。 寝る間も惜(お)しんで、禅定を修める。 其れに因りて、智慧が生まれるのである。 真理の智慧である。 昇龍の如き三時間坐睡と云う三年間は、最も禁じ難き睡眠欲を極限迄 禁じる為でなく、一時間をも惜(お)しんで、厳密に坐禅に徹する為であ る。 修禅定は修智慧と為り、其れは真理回帰に近付くのである。 真理を知る事が、人類の究極である。 果たして小生、寧ろ日常厳密為る作務主体の初行に拠りて、了行後十 五年程して、「吾命坐禅也」と真徹した後、やがて「解脱」した。 其の後は必然的に後行以外無いのである。 吾師も当然、其処(そこ)迄見込んで居られた。 托鉢自活坐禅行の生涯厳密千日後涅槃行を始めて十五年後に、極佛 の極まり足る処に、吾為る意識が崩壊して、本源為る涅槃識が顕現し、 刹那に反射的に「人だ!」と吐露すると同時に立ち上がり、階下に駆け 下りたのであった。 以来、坐禅を撥無(はつむ;払い除けて信じない事)した。 つまり「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」涅槃妙 心を知ったのである。 坐禅を否定したのでなく、坐禅に拠りて、超坐禅の真理に回帰した と云う事である。 《 争いを無くす真実 》 争いを無くす真実は以下の如く、厳しき世界なのである。 『最初後身心』は語らないではおかないのである。 語らない事は死(=空虚)を意味する。 自と他の世界では、自(おの)ずから攻撃欲と恭順欲とが、表裏一体と 為りて、生まれるのである。 したがって、二元相対世界からは争いは絶対に消えないのである。 神信仰にも聖戦が在る様に、人類は殺し合いから脱却出来ない。 此処(ここ)から脱却するには、唯一、東洋の菩提(道)心有るのみであ る。 つまり、宇宙の真理、「宇宙(生命)の本質」からの促し に応ずる処の 、菩提(道)心を発(おこ)す事だけである。 是が人類三毒(貪・瞋・癡)を三善根(施・慈・慧)に転じせ使め、自他一 如足ら使めるのである。 此の宇宙の真理から、瞑想が生まれ、ヨーガ(行)と為りて、坐禅、そして 「悟り(身心脱落)」、「解脱」、「涅槃回帰」に至るのである。 然(しか)し、(二元相対意識が)死ぬ、つまり自己(の三毒)に死ぬには、 正法苦行(千日初行)への能動積極性(=発菩提心)が不可欠である。 斯(か)くして後行で真理回帰するのである。 一方、神は実在しないが故に、其の証明は不可能である。 そして、二元相対的対立は動物的次元であり、自己(=我執)に死ねな いのである。 我執が有ると、自我の主張に因りて、自他一如の涅槃世界は自己の負 けとしか映らないのである。 其処に悲劇の発端があるのである。 又、其れが無意識下で淫快欲への執著の誘因とも為るのである。 負を皆で共有し合うと云う、自然な発想が生まれない。 「世界人類を生(活)かし合わ使める」涅槃妙心に迄、未だ心進化を遂げ 得ていないのである。 諸悪の根源である人類三毒(貪・瞋・癡)に死に切るには、菩提心に拠る 千日初行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)が不可欠なのである。 人類は是を端緒として、更に仏道に身を投じて「解脱」に至るのであるが 、此の仏道は吾(わが)仏道に他為らない。 「解脱」無くして、涅槃為る真理に回帰する事は不可能である。 然(しか)るに、「解脱」だけでは宇宙の真理の普遍性には及ばない。 従前の仏道には、自未得度先度他の発菩提(道)心は在るが、極佛行と 、そして其の否定が無かったのである。 正法苦行(=千日初行)に依りて、自(おの)ずから自己を忘れ、自己に 死に、自他一如足るのである。. 大乗禅は「人を忘れ(捨て)ない」のである。 聖戦を認める神信仰は二元相対世界である。 我執(しゅう)を超え、正法苦行(=千日行)への菩提心を発(おこ)してこ そ、争いが世の中から消えるのである。 唯一の真理への道、真道である。 『最初後身心』の所以(ゆえん)である。 菩提(道)心の無い一般庶民(政治家等)には争いが絶えないのである。 指導的立場足るべき人には菩提(道)心が不可欠なのである。 《 生理(本能)的欲求の理想的在り様 》 人類の最も基本的な事は食って、寝る事である。 是等は動物と変わり無い食欲と睡眠欲である。 而(しか)も、最も心煩(わずら)わす事が食う事なのである。 此の食欲が我々動物界の生死に係わる、最も根源的為るものである。 睡眠欲は元来、食欲を満たす為の生命活動維持エネルギーの、本来受 動的補給状態である。 つまり大脳は本来、能動的に食って、自己、更に種の存続に不可欠為る 器官であった。 儚(はかな)くも、無常為る自己の命が、釈尊中道(諦観)と小生『最初後 身心』の、「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」涅 槃妙心に基づく限りに於いて自(おの)ずから、睡眠は必要最小限足る し、性欲(心的淫快)も涅槃に一如足りて風鈴の如く、少欲知足にて貪著 せず、三毒(貪・瞋・癡)為らず、三善根(施・慈・慧)足るのである。 人類の諸能力も、其の限りに於いて能力すべきものである。 人間の生命の大脳生理学的解釈について、 動物本能は脳幹の生命維持機能(本能)(反射、摂食、交尾)から、大 脳辺縁系の快不快の情動や共感 から、大脳へと進化したのである が、人類へ進化する段階で、大脳辺縁系の働きで脳幹の本能が欲と 情動行動(共感) に、更には分別と菩提心へと変容するに至ったので ある。 脳幹最上部の間脳視床下部(本能(食欲、性欲、睡眠欲)行動中枢、 情動行動中枢、自律神経中枢)から、上方に大脳辺縁系、及び大脳 (新)皮質への進化を遂げたのである。 語るべき事が尽きない。 「刹那生滅の原理」に基づく正念相続に依りて、人類三毒(貪・瞋・癡)が 小生に自(おの)ずから、三善根(施・慈・慧)の智慧を生ぜ使めるのであ る。 是、人の物質的、精神的基本的条件確保されざる苦を思うが故の菩提 (道)心の緊張感である。 極、有限為る時間ではあるが、世界人類の進むべき道を語る。 涅槃為る宇宙の真理と人類の地獄、悪、闇の真実について、世界人類 が正しく認識する事は世界人類の平和への礎石足るのである。 然(さ)も無くんば、人類は地獄に地獄され、悪に悪されて、闇に闇され 行くしか無いのである。 国連の機能不全が其れを証明して居る。 是が今日、我々が目の当たりにする人類心進化の限界に他ならない。 此の有限性を超越するのは、唯一、古来人類が及び得なかった真理在 るのみである。 神か仏か学問か? 身を離れて真理無し。 故に自(みずか)ら、坐禅に拠りて体現する以外、涅槃為る宇宙の真理 に回帰する事は不可能なのである。 是を語れる者は、涅槃回帰した、小生『最初後身心』在るのみである。 『最初後身心』は、真理を世界人類に伝える、唯一為る存在である。 永遠に不滅にして恒常普遍為るものである。 人類は「解脱」して初めて、「涅槃入り」出来るのである。 人類を真に生(活)かすものは真理である。 日米中は真理と反省と途上である。 一体何に対する反省か、何への途上かである。 他でもない。 真理に対する反省であり、且つ、真理への途上なのである。 我執(しゅう)に因りて人類三毒(貪・瞋・癡)が生じたが、大脳新皮質前 頭前野の菩提心に拠りて、涅槃為る宇宙真理に覚醒を遂げたのである 。 根本は弱肉強食 の二元相対世界である。 此の最終産物が現国連の枢軸足る、核兵器支配大国拒否権体制であ る。 是を真理に基づく絶対世界に一大改革しなければ為らないのである。 涅槃とは其の最終段階に於ける、最終的完成品、「宇宙(生命)の本質」 に回帰した世界の事である。 斯(か)様に、人類は涅槃妙心へ、宇宙の調和と均衡と静謐が現成(じょ う)するに至る迄、微妙に収束振動し往くのである。 此の端緒の要(かなめ)が安保理拒否権核兵器禁止条約締結 である 。 即時、実践しなければ為らない喫緊の重大課題である。 核兵器禁止は、大量破壊兵器、更には銃規制に至る迄敷衍(ふえん) され往かねばならない。 そして、自衛足る(国際)警察の必要最小限為る完全武装に迄凝縮され 往くべきである。 《 台 湾 》 真理志向への嗅覚は、犬の其れに等しい。 明確ではないが、一年余り前であったか、 元台湾総統の李登輝氏が最後に語り遺された遺志、小生は遺言と受け 留めて居る、がTVで放送されているのを、偶然目にしたのである。 其の時、小生がHPに公開したものが以下である。 《 李登輝総統 》 「或る時、テレビで、李登輝氏が亡くなられる前に、何か一言、言い遺さ れた事があった。 小生、彼が如何なる人物かも何も知らなかったが、台湾の然(しか)る べき人物の印象はあった。 其の一言の刹那だけれども、妙に小生の心の底に残って、其の意味で は、他の人では記憶に無い、特別な念を抱いた。 青天の霹靂とも云うべきものであったのだ。 内容は不明であったが、本質的に銘記されるべきものだ。 台湾の将来を、亡くなられる前に、何か託せられた様な印象であった のかも知れない。 是は不思議な事で、全くの他人の一刹那が、其れだけのものを小生に 遺した事は他に無い。 九ヶ月程前の事であるけれども、気に懸かっていたから、本日ネットで 調べてみた。 台湾の元総統であり、安部元首相が「日台関係の礎を築かれた方とし て多くの日本人は格別の親しみを持っている。」と語られている。 又、黄文謝氏の録画を見て、全てが明らかと為った。 小生の懸念に合点(がてん)が行ったのである。 図星であった。 小生の直観と言うか、氏の真実の冀願(ねがひ)であった事に頷(うなづ )かれたのである。 氏の祖国(台湾)の、正道への智慧に基づく、将来への期待感や展望 を感ぜずには居れない。 本質の直観の先に在るものは、只、正法苦行在るのみである。 故に、老若男女を問わず、正法苦行(初行)の菩提心を発(おこ)し、完 遂する事が「解脱」(行)道であり、世界人類の師足る道である。 其れによりて至り得た真実は正に北極星其のものである。 世界人類を導く北極星は、我々人類にとって、宇宙の限り無き星々の 一つに過ぎないが、其れが宇宙の真理への星であると云う事は、宇宙 は我々人類に真理を語り尽くしているにも拘らず、我々人類が、其処迄 及び得ないが為に気付かないだけに過ぎないのである。 元台湾総統、李登輝氏の本質は、小生鐵漢『最初後身心』に拠りて、確 (しか)と受け留められて居る。」と。 小生は彼について何も知らなかったが、妙に懐(なつ)かしい一体感を感 じたのである。 稀(まれ)な事であったので、其の時の一体感は絶対為る実在として永 遠である。 吾師も、嘗(かつ)て其の不可思議為る一体感を、 「(其の人だと、)直(す)ぐ判る。」と小生の事として仄(ほの)めかされた 事があった。 真理志向への嗅覚の事である。 是からは、「戦争には戦争で」の、「歯には歯を、目には目を」の現象的 国政から、「歯には真理を、目にも真理を」の本質的国政へ遷移する移 行期と為らねばならない。 二元相対為る対立世界から、宇宙の真理に基づく絶対世界への構築期 と為らねばならないのである。 是が人類心進化の要(かなめ)であり、教育の根本足らねばならない。 超宗教、超科学為る真理の時代である。 自(おの)ずから、涅槃妙心化への収束振動し往くのである。 正に台湾が日本と共に、米中と共に米中等の対立為らざる、真理発祥 の地足るべきである。 世界人類の運命を左右するには、現象を引き摺(ず)る事は然(さ)りな がら、其の本質に食い込まねば為らない。 既存のもの、心無き科学力至上主義では永遠に世界人類の平和には 至り得ない事態に至り得たのも、二年八ヵ月程前に小生が真理為る涅 槃回帰したからに他ならないのである。 「宇宙(生命)の本質」に食い込むには極佛独行以外無い。 其の奇跡の真理は宇宙真理の顕現であり、宇宙(涅槃化エネルギー) の、其の身心進化の究極に於ける、人類への最終的制裁(=因果の道 理)なのである。 真理為る涅槃回帰とは、人類をして宇宙の調和と均衡と静謐に迄覚醒 為ら使めるものである。 是が世界人類を覚醒せ使め、世界人類の幸福と平和と繁栄を具現せ使 むるのである。 人を害する事は、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の永遠に不滅為る恒常 普遍の真理の否定である。 「因果の道理」の、「刹那生滅の原理」の厳密さに基づく業報は不可避で ある。 自(おの)ずから、宇宙の真理を体現しない限り、真理を語る事は出来な いが、語られる真理は二度と語られる事の無い、肯諾(だく)する以外無 い絶対不動の現実である。 《 宇宙の真理への気付き 》 釈尊には成道の真実は在ったが、真理には至り得ていなかった。 成道(悟りと解脱域)為る信心である。 道元禅師は自身の「悟り(身心脱落)」を「万法に証せられる」と言われた 。万法とは宇宙と物と心の一切存在であり、証(あかし)とは悟りの事で ある。 小生が身心脱落した時は、釈尊の坐禅の仕方の本を見ただけで、唯々 坐禅の功徳裡に浸って居たのである。 正に天地が引っ繰り返らんばかりの脱落で、歓喜勇躍、表に飛び出した 。「解脱」は、迷妄為る油中から、清浄為る水中へ接触し得た、涅槃世界 の調和と均衡と静謐為る体感である。 涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に接近する事無く、接触する事は在り得 ないし、且つ接触する事無く涅槃入り(回帰)する事も在り得ないのであ る。 小生「覚天」に於いて、真理に回帰する事を「宇宙(涅槃化エネルギー) に修正される(制裁を受ける)」と表現して居る。 人類が宇宙からの制裁を受けずして、世界人類を平和為ら使むる事は 在り得ないのである。 何と為れば、制裁を受ける事に因りて、身(=呼吸器系)を介して、涅槃 妙心「人を生(活)かす」の真理を知る事が出来るからである。 正に「万法に証せられる」のである。 呼吸システムの異変を介して、刹那に極佛行と云うものの真為らざる在 り様を覚(さと)らされるのである。 核兵器支配から、「世界人類を生(活)かし合わ使める」涅槃真理主導世 界足らねば為らない。 自(おの)ずから、世界体制を様変わりせ使める菩提(道)心が不可欠で ある。 真理とは、宇宙の涅槃化エネルギーの働きの事である。 涅槃為る本質が、エネルギーとして現象するのである。 其れは世界人類をして、真理へ教導せ使め、二元相対の胸式呼吸でな く、重力に同ずる涅槃呼吸に基づくべく、人類の生理(本能)的欲求は三 毒(貪・瞋・癡)人類に制裁為る鉄鎚を下し、然(しか)るべく世界人類の 物質的、精神的基本的条件を確保すべく、自(おの)ずから整い往くので ある。 是を因果の道理と言う。 武力は国際警察に依る自衛力完全強化で宜しい。 物事は分別に拠る判断か、其れとも其れを含んだ万法に拠る判断かで ある。 前者に類する学問は物事の捉え方に過ぎず、其のものではない。 つまり後者の真理には及び得ないのである。 故に、小生『最初後身心』は総べての学者を包摂する立場に在る。 学問は分別に拠る、真理へのあらゆる志向性に過ぎないからである。 小生『最初後身心』のルーツは吾師である。 吾師のルーツは、師は寺に捨てられた身であり、僧として育てられ、其 の世界を知り尽くされて、敢えて在家の青少年を教化する道を進まれ、 師のルーツは人間であった。 小生も其の真実に導かれて今が在る。 物事は真実から真理に至るものである。 《 涅槃妙心の真実 》 若し、最後、自己独りに為った時には生(活)かすべき人も居ない。 唯、生きて居るから生きる。食って寝るだけ。 生きて居る間、生きるだけである。 其の他には何も無い。 生きる喜びも、悲しみも何も無い。 命が在るだけ生きるだけ。 在るものは朝と夜と自分だけ。 然(しか)し、是は抑(そもそも)最初の設定から空想上の世界である。 是が無為自然である。 実際は無為なる有為に他ならない。 現実は、七十七億の多くの人が居る。 暗中模索でない人は、一人も居ない。 宇宙の真理に回帰した小生『最初後身心』以外は。 恵まれた人は少ない。多くの悲惨な人々である。 人と共に生(活)きて居るのである。 地獄と、不遇な人々が居る。 正に自己の命は、其処(そこ)で生(活)きる意義と喜びが生まれる のである。 自己が置かれた状況を、其の儘(まま)、受け容れるのみ。 其の他に意味は無い。 自他、そして分別。 生きる意義とは、正に如何(いか)為る人間に於いても、結局は其処(そ こ)に生まれる。 是が宇宙の真理、涅槃妙心「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)か し合わ使める」心である。 黒が在るから、白が在る。 涅槃(=修善)への収束振動とは、黒(=悪を犯す)と白(=悪を犯さない )が収束振動し往き、全く異なる「生(活)かし合う」、涅槃(=修善)世界 に入るのである。 《 性欲を制する真理 》 性欲を制するものは真理であるが、是は種の存続ではない。 性欲の本質は、生理(本能)的欲求(=食欲、睡眠欲、性欲)の本質と共 に、涅槃為る真理に在る。 「宇宙(生命)の本質」は涅槃であり、其れは涅槃妙心に他ならない。 涅槃妙心智慧として、「人を生(活)かし」、「世界人類を生(活)かし合わ 使める」のである。 つまり、生命は存続する事が目的ではなくて、「世界人類を生(活)かし 合わ使める」涅槃妙心其のものが目的なのである。 人類の存続は、今が証明して居る。 目的以前に存続するものである。 雑草が徒(いたずら)に繁茂するが如くに。 其の人類生命の真の目的の為には、自(みずか)ら坐禅に親しむ事が 必要不可欠である。 人間らしさの端緒として、何処(どこ)からとも無く、古代バラモンに瞑想 が始まった様に、生きるとは涅槃妙心を知る事である。 性欲其のものの究極は身の交合ではなく、『最初後身心』の心的淫快に 尽きるのである。 其の究極は、「人を生(活)かす」事である。 風鈴に戦(そよ)ぐ風を生(活)かして音を発(おこ)すのである。 欲の究極に在るものが、風鈴の心の如くに、「人を生(活)かす」事であ る事を銘記しなければ為らない。 人類の生理(本能)的欲求(食欲、睡眠欲、性欲)とは其処(そこ)迄であ って、後は動物的弱肉強食か暴挙に過ぎない。 天を裂く者(『最初後身心』)は、地を裂くのである。 《 外因性人類闘争本能と『最初後身心』 》 心理学では、外発(環境)性生理(本能)的欲求の、闘争為る生(命)存( 続)欲求(競争)を説く。 然(しか)るに、人間は其の生涯で、心進化を完遂(すい)し、涅槃為る真 理に回帰すると、仏道の具足戒の最初「殺す勿れ」は、常に涅槃妙心の 「殺さない」し、「殺せない」、「人を害する事をしない」のである。 故に戦争は人類の未熟為る悪業である。 何故に人類は、心進化を完遂した『最初後身心』に違(たが)えて、宇宙 の真理に違背し、自(みずか)ら地獄に陥(おちい)る癡愚者と為るのか 。 心進化すれば人類は「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ 使める」涅槃妙心と為るのである。 国際法は涅槃妙心の宇宙(生命)の真理に基づいて制定されなければ 為らない。真理為るが故にである。 宇宙(生命)の真理が国境に拠りて分断される事も、又民族、肌の色、 洋の東西に拠っても分断される事は無いのである。 小生『最初後身心』にして初めて、世界人類に真の不戦争戒を具足せ 使めるのである。 自己の三毒(貪・瞋・癡)の都合で「人を害さない」、心進化を遂げた涅槃 妙心の元型の人類三善根(施・慈・慧)と、宇宙真理の涅槃妙心を世界 人類に教導するのである。 人間の生命を、自己の都合で犠牲にしては為らない。 自己を犠牲にしてでも、人類の生命を守るべきである。 是が真に成熟した「大人(だいにん)」の為す事である。 仮令(たとえ)自己の生命を犠牲にしてでも、世界人類の命を、平和を守 らねば為らないのである。 是が「宇宙(生命)の本質」であり、宇宙の涅槃為る世界である。 《 見究め 》 小生を楽にしてくれたものは、小生の、人類の「諸悪莫作、修善奉行」の 菩提(道)心に対する期待感の終焉(えん)である。 物事は其処(そこ)から始まる。 嘗(かつ)て吾師が最初に、小生に投げ出す様に吐露された、絶望的に 腹の底から搾(しぼ)り出すが如くに吐き出された言葉、 「ぜーんぶ、嘘だ!」と。 是は、人類が「其の心よりも身の方を好んで」、狭量に浮かれて分別を 逞(たくま)しくして居る、嘆かわしく実の無い様を言われたのかと、小生 には推察された。 人類の将来性への、最悪為る失望感である。 世の中と云うものは、小生の日々の托鉢の様な、人々の一寸(ちょっと) した志(こころざし)の集積が最終的に、最後の限られた人の大いなる決 断を生むのである。 明らかに、人間が、小生の道、総(す)べてを打ち払って、従来の伝統裡 の真実を「犀(さい)の角の如く独り、生涯歩み続ける」事は、限り無く10 0%に近く不可能でありながら、かと言って捨離すれば、其処(そこ)迄で ある。 矢張り其処(そこ)に、期待を抱きつつ、共に同(どう)じ往くのである。 然(しか)るに其処(そこ)には、見究めざるを得ない処迄至る事も、100 %在るのである。 此の見究めの一点が必然的に不可欠なのである。 水と油のエマルジョン(乳濁液)は現象的に明解に分離するからである。 其の上で、其処(そこ)から物事は真実に始まる。 否、始まらざるを得ないものである。 真理と欺瞞(ぎまん)との、涅槃妙心への収束振動である。 規則性の復元 《 現国連の本質的不完全性 》 地上に生(せい)起した、国家主導の暴力行為に対処し得る、然(しか) るべき(国際)法、及び(国際)機関が無い。 是が現国連原爆支配体制の盲点である。 当体制の機能不全の所以(ゆえん)である。 世界大戦、敗戦国家の日本に於いてすら、国内の暴力には警察組織で 、国家の安全は確保出来て居る。 にも拘らず、戦勝国家体制の国連の、国家規模での暴挙への対応能力 が、全くと言って良い程に、欠落して居るのは、敗戦国家日本と戦勝国 家組織国連の本質上の相違が在るのである。 其れは、日本の自衛体制と、国連の核支配体制との相違である。 前者は法律に基づく、国家自衛安全管理であり、後者は原爆(武力)支 配為る力関係に基づいて居る。 国連を、国家主導の暴力行為を規制出来る国際法に基づく国際警察足 ら使める事が不可欠である。 斯(か)様な、国連体制の本質的欠陥は、人間世界の未熟さを露呈する 以外の何者でもないのである。 是は、原爆支配体制に後続する、今の宇宙サイバーの情報網競争等の 如何(いか)為る科学的進歩も及び得ない処の、人心の本質的未熟さに 起因して居るのである。 是は義務教育レベルに於ける、最も根本的な世界的課題である。 人間(類)の本質から乖離(かいり)した、科学の先走りは、近年特に忌 々(ゆゆ)しき課題である。 人間生活の本質は、高度な科学力で及び得るものではないと云う根本 義を忘れた、現代の原爆支配体制以来の過失である。 人間生活を豊かにするものは、今の科学力ではない。 其れは現象世界の垢(あか)の様なものに過ぎない。 其れこそ、本質為る石鹸で洗い流すべきものである。 人類の幸福、平和は、科学の先走りではなく、人間の本質を知る処から 生まれるものであると云う事を忘れた世界は、既に人間の本質から乖離 (かいり)した虚無世界に等しい。 庶民的に言えば、「取るか、取られるか」、「勝つか、負けるか」、 一般的には、「人を生(活)かす」に立脚するか、其れとも「人を殺す」に 立脚するかの二者択一である。 是を知り得たのが、小生『最初後身心』である。 今、地上は、『最初後身心』の日本以外は総(す)べて後者である。 即刻、前者足らねばならない。 「人を生(活)かす」為に「人を殺す」は在り得ないのである。 間接的参戦に依る「殺人行為」は世界人類の衰退を招来する。 「人を生(活)かす」為の信頼結束以外には在り得ない。 是が宇宙の真理である。 《 (脱無機能) 涅槃世界 》 宇宙の真理、涅槃妙心(智慧)「世界人類を生(活)かし合わ使める」、 世界唯一の涅槃妙心国家日本主導安保理拒否権非暴力条約締結し、 真理国家日本に準拠する国際法、国際裁判、国際警察を構築、 世界人類の物質的、精神的基本的条件を確保すべく、 世界人類の幸福と平和、そして繁栄を完遂し往くのである。 宇宙の真理に基づいて、世界の三大国家、米中露の在り様は「世界人 類を生(活)かし合わ使める」べく融和し、今回の露の暴挙に因る、 多くの犠牲者の方々の犠牲を被(こうむ)って、涅槃世界を構築すると云 う真実を生かすべく、過去の罪過を将来の誉(ほまれ)へと、宇宙の真理 に基づく信頼結束に拠りて、世界人類の平和の実現に向けて、 人を 生(活)かして往かねば為らないのである。 「人を生(活)かす」、生(活)きる意味と喜びに基づく生命である。 《 世界は現象から本質へ 》 人間と云う存在は、宇宙広大為れども、其の生命体の極頂為る存在で ある。 何と為れば、涅槃為る宇宙の本質に回帰し得た心は涅槃妙心為る宇宙 の真理為るが故に。 地上の諸現象は、此の涅槃妙心に基づかずしては、涅槃には至り得な いのである。 涅槃妙心とは、涅槃に回帰し得る心である。 つまり、世界人類の平和に至り得る心の事である。 世界はロシア・ウクライナ戦争を機に、愈々(いよいよ)人間(類)の本性 を曝(さら)け出した。 戦争に望んで、人間(類)の生理(本能)的欲求である、聖戦の根本因為 る闘争本能が露顕したのである。 プーチン氏の侵攻を機に、今や米中の対立構造を浮き彫りにした。 暴挙に対して、国連が無機能である事に対する反省無く、当戦争で世界 が分断するに至り、ヒトラーの暴挙に対するチャーチルの勇戦に準(なぞ ら)える在り様は、人類の心進化が及んでいない証拠である。 戦後の教訓が国連に反映されたにも拘らず、全く機能不全であり、過去 を反芻(すう)して居るに過ぎない。 経済戦争と高度軍事体制に基づく、弱体化我慢比べの長期戦である。 是は、正に釈尊成道への中道(諦観)に至る前の断食苦行に似ている。 世界は東西の現象面から、小生『最初後身心』の本質の真理に基づか ざるを得ないのである。 国連は悪を生まない筈の、原爆支配体制の構築であったにも拘らず、 其れが仇(あだ)と為って、寧ろ悪を生んでしまったのである。 何の心進化も無いどころか、世界は混乱状態である。 猫の額の様な場の奪い合いで、世界の混乱が終息しない。 是は、現象世界に於ける、本質への食い込みが無いからである。 本質への転換が無い限り、勝敗の二元相対世界からは脱却し得ないの である。 ミャンマー軍事政権の強権支配に対する国連の無能さで、世界を安定さ せ得ると思う方が寧ろ癡愚である。 プーチン氏の侵攻は自業自得為る結果を招来する事に為ったが、或る 意味、必然性を持っている。 真理の涅槃回帰に、日本への原爆投下が先行していた様に。 国連原爆支配体制に、其の根本原因が潜んでいるのである。 力に拠る他の制圧に根本原因がある。 宇宙の真理に基づく信頼結束でなければ、世界人類の平和には決して 至り得ないのである。 斯(か)くして初めて、其処(そこ)に生きた科学力と経済力、そして国連 新体制が機能するのである。 《 国連の枢軸 》 今日に至る迄、世の中に真理は実在しなかったが故に、国連の枢軸は 原爆支配大国の結束であったが、 真理実在する今日に至りて、宇宙の真理 が国連の枢軸足らねばなら ないのである。 斯(か)くして初めて、完璧為る国連が機能する。 宇宙の真理は涅槃回帰に基づく涅槃妙心であり、 是以上の確心は宇宙には実在しない。 教育の要は是以外無いのである。 《 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 》 最も一般的な『般若心経』、 「……遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃……」 (おんりー いっさいてんどうむーそう くーぎょうねーはん) 「一切の顛倒夢想を遠離して、涅槃を究竟す。」 あらゆる顛(転)倒した思念(、真理に対する空想、観念)から解放されて 、静謐(ひつ)な境涯(悟り、解脱)に至り得て居ると云う事である。 世間的三毒(貪・瞋・癡)由来の思惑とは、取り分け『最初後身心』の其 れとは顛(転)倒(てんとう;逆さで引っ繰り返っている)して居る事である 。同じ大脳新皮質ではあるが、三毒(貪・瞋・癡)分別に基づくのでなく、 菩提(道)心由来の重心(涅槃)呼吸に基づくものである。 三時間坐睡二十四時間仏作仏行で生涯厳密千日行を行ずると、呼吸 は自(おの)ずから涅槃(重心)呼吸に転じ、ものの考え方が、地上での 二元相対(対立)の一般的呼吸法ではなく、宇宙の重力(万有引力)に 因る、地球中心への呼吸、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の真理、涅槃 妙心(智慧)の呼吸に転ずるのである。 従って、自(おの)ずから「遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃。」なのである。 偏(ひとえ)に、宇宙エネルギーの様に死ぬ厳密千日初解脱行、そして 昇龍の如く飛翔する生涯厳密千日後涅槃行(=極佛行)の賜(たまもの) である。 至り得られた真理(涅槃)は永遠に不滅為る恒常普遍である。 「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」涅槃妙心であ る。 宇宙の(身心)進化の極々頂。 《 小生の過去と今 》 高校入学した段階で、義務教育に於ける自己能力の方向性を完全に喪 失していた。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しに、何かを掴(つか)もうとしてい たのである。 精神身体疾患で一時入院したが、是は根源的生命力に拠り、自(おの) ずから霧散した。 青い鳥を探す様に放浪。ギターを抱えて東京へ、矢張りランボーの如く に放浪。 結局復学以外に無い。 道を見出せなかったのである。精神身体医学を志した。 人間生命の事だから間違い無いと思った。 然(しか)し、医学専門課程には其の解答が無い事が明白であった。 吾(わが)心の分野が何なのか、改めて総(す)べて当(あた)って見た。 是だと言えるものが何にも無かった。 然(しか)るに一つ択(えら)ばねば為らない。小生の生涯を注ぐものを。 敢えて言えば、小生には信心と云うものは無いが、宗教としか言い様が 無い。 嘗(かつ)て、高校入学時の完全為る盲目の状態から、命の東洋的甚深 微妙(じんじんみみょう)の温柔敦厚(おんじゅうとんこう)な処への内的 志向性から、次第に禅の世界に踏み込んだ訳である。 必然的に、運命的に坐禅と云うものが、唯一の可能性が、恰(あたか)も 神の意向であったかの如くに、小生の目の前に置かれていたのである。 釈尊の坐禅の本であるから、組んで見た瞬間に、「これだ!」と思った。 身体を決める事に因り、心の迷妄の様を客観的に観じられ、其の時初 めて、心は障碍(げ)無き永遠性を得たのである。 小生の心は其の時、決定(けつじょう)したのである。 此の瞬間が四十五年後に、果たして、宇宙の真理に小生をして回帰せ 使める。 《 世の中を導くもの 》 三毒(貪・瞋・癡)は表裏一体為る、攻撃と屈従の地獄道を生み、 三善根(施・慈・慧)は信頼結束に拠る涅槃妙心道を生む。 要は『最初後身心』に準ずる、『大人(だいにん)力』 に拠る 宇宙の真理に由来する三善根的決断力 が絶対不可欠なのである。 《 何故(なぜ)自衛 ? 》 自衛とは、自力で自分(国)を防衛する事である。 何故に自衛足り得たか? 其れは、法で裁かれる以前の人間を殺せないからである。 自衛の根拠は宇宙の真理である。 故に日本は自衛国家なのである。 是は涅槃為る「宇宙(生命)の本質」である。 「殺さない」。「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」 涅槃妙心為るが故に。 「戦争しない」、「殺し合わない」のである。 是、人類の心進化に於ける智慧である。 謂わば、「殺さない」為の、共存し往く為の智慧、不都合と為れば動物的 本能で殺し合うのではない。 又、勧善懲悪や正義感で、負の連鎖に陥(おちい)るのでもない。 惹起した負の側面は共に解決する智慧が生まれる迄、生むのである。 生まれねば、相応に其れを分かち合うのである。 其の規範は「世界人類を生(活)かす」べくである。 不平不満が生ずるが、 不足分は、涅槃妙心智慧に拠りて、極力補給し、施すべきである。 是が、宇宙の真理の、涅槃化エネルギーの姿である。 最も理に適(かな)った、最善為る姿なのである。 故に、人間が「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰出来たのである。 有限為る人間と自然のエネルギーを浪費しない。 無駄無く、最も有効利用するのである。 人類が涅槃に至る迄、心進化を完遂するのである。 其の為の、負うべき負の側面は、皆共に相応に受容しなければ為らな い。 此の在り様が自衛である。 決して、破壊武力で他を制圧する事は無い。 然(しか)るべき真の国際法で裁くべきである。 是迄、真理が欠落していたが故に、止むを得ずして、極悪の武力に訴え て来たのである。 今や、其の、武力から宇宙の真理への画期的為る過渡期である。 人類の能力の時代から、涅槃為る真理の時代への大転換期である。 改めて、生きると云う事の真の厳しさに思い至ら使められざるを得ない。 短絡的、物理的解決に至るのでなく、自他一如為る生命の真実に起ち 帰って、生命の本質に基づいた、真理為る妙心からの判断が絶対不可 欠なのである。 然(さ)も無くんば、我々人類は地獄から脱却出来ない。 国連核(大量破壊)兵器大国拒否権支配体制に至る迄の大惨事と、其 の帰結、そして今と云う、世界組織の情け無き無機能振りである。 為すべき正道、真道を見出せないし、又至り得ない。 教育と云うものが存在し得ない。 今は教育の無い現実である。 日本では在り得無き、相継ぐ教育現場での銃乱射事件や警察官に拠る 黒人差別、人命軽視の異常さである。 是が世界で最も指導的立場である筈の、世界をリードする国家の現実 なのである。 人類には、真理(実)を追求し、求道する菩提(道)心が不可欠である。 是無くして、人類に平和は無い。 是が人類が辿(たど)るべき、必然、不可避為る運命である。 日本の自衛力の本質には、世界の大国が学ぶべき本質的肝心要が在 るのである。 人類の悪業を象徴する釈尊断食苦行を回避した唯一の正道、中道(= 真実為る諦観)が、涅槃為る真理への真道、世界平和への最短路の第 一歩なのである。 日本為らばこそ、涅槃為る宇宙の真理に回帰出来たのである。 真理発祥の地、日本に世界は学ばねば為らない。 《 『最初後身心』の原点 》 パソコン不調の為、 小生の原点を、改めて回顧して見た。 大前提は、坐禅で身心脱落して悟って居る事。 出家して、僧堂で自(みずか)らの道を択(えら)んで、寺を出た。 放浪を始め、東京の或る大きな公園の一角で坐禅と行と雑役。. 日本列島を自転車で周回しながらの坐禅行に出た。 途上、何故に自分は斯(か)様な事を遣って居るのだろうと思い至った時 、初めて小生は千日行に移行すべき事に気付いたのである。 超新星爆発の如く、自(みずか)ら霧散霧消して生命の素(もと)に為る、 超新星の様な生涯を送りたいものだと決意した。 小生には、其れ以外の事は在り得なかったのである。 そして、其れが必然的に後行へ進展したのである。 最大の節目は千日行への決意である。 是が最終的に、涅槃回帰して、宇宙の真理に至り得たのである。 是が『最初後身心』の原点である。 要するに、根源が人類の為であり、全(すべ)ては其の我に他ならない。 故に物事の判断に自己は無く、総(す)べては人類の為であり、従って間 違いが無い。 如何(どう)転(ころ)んでも、人類の為であったのだ。 正に宇宙の涅槃化エネルギーに他ならないのである。 悟る(身心脱落する)迄は、条件さえ整えば、誰にでも可能である。 然(しか)るに、其処(そこ)から千日行の実践には、菩提(道)心が不可 欠である。 其処(そこ)迄の徹底した菩提(道)心が有れば、初行完了後の菩提(道 )心の坐禅真実一路の徹底に依りて、「解脱」に至るのである。 此処(ここ)迄来ると、千日後行への必然性しか残っていない。 菩提(道)心の必然性である。 生涯厳密千日後涅槃行の忘却の、上求と下化との収束振動裡に、刹那 に宇宙真理の鉄鎚が下され、宇宙の涅槃化エネルギーと一如足り得て 涅槃回帰し、其れ迄の自己を一切撥無(はつむ;払い除けて信じない)し て、「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」涅槃妙心 を得、斯(か)くして『最初後身心』と成る事が出来たのである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し、菩提(道)心、(涅槃回帰する 迄の)坐禅、そして回帰以降は、既に身も心も坐禅に成って居るのであ る。 最小限の動きで、最大限の涅槃妙心智慧を生(活)かす。 小生は強く世界に訴えるものである。 人間と云う者は、現象的、能力的に一歩を進めるか、或いは、直観的、 本質への洞察力から、坐禅に拠る『退歩の脚』を歩むかで、因果の道理 に基づいて、出口は地獄と涅槃の対極的な異質の両世界を現象するの である。 以下は、世相を根底から一変させる、真理に基づいた、真実為る、 核兵器禁止条約締結に継ぐべき、英断なのである。 世界人類の平和を構築、完遂為ら使める、世界各国指導者足るべき試 金石為る千日初行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)の三年間を課す べき世界機関、国連千日行実行組織を結成し、完了行者が世界、及び 世界各国家の施政を主導的に掌(つかさど)るのである。 其れだけの菩提(道)心に拠りて、世界に悪政は消滅するであろうし、 世界中の、弱者を害する者を除滅し、報道機関は胸を張って、真実を語 るであろう。 世界人類の平和が約束されるのである。 将来、必ず、是を実践しなければ為らないのである。 真理は、宗教や学問のみの専売特許ではない。 正に、国際(家)政治に於いてこそ、真理が不可欠なのである。 《 先導者 》 小生は、世界の先導者である。 嘗て、宇宙の真理に回帰出来た人間は、小生一人であり、従って、 『最初後身心』為るが故に、小生『最初後身心』が世界人類をして、涅槃 世界、つまり世界人類の平和へ先導するのである。 小生以外に、是が出来る人間は居ない。 世界人類は、小生の先導に依りて、人類史上初めて、世界人類の平和 を構築、完遂する事が可能と為るのである。 世界各国の指導者達は、心して、小生に則(のっと)って、然(しか)るべ く対応して戴きたい。 真理への道、真道為るが故に。 小生の余生は、正に是に懸かって居るのである。 従来の、世界の国家間の確執を極力解消すべく、今後に臨んで戴きた い。 其れが世界人類の平和への最短路為るが故に。 今後、極力、世界中の国家が小生『最初後身心』の下(もと)に信頼結束 して、一丸と為りて、世界人類の平和への真道を歩まねば為らないので ある。 宇宙と云うものは完全に無我為るが故に、鏡の様なものである。 人間が憎(にく)いと思えば宇宙も、其の人を憎いと思うし、 完全に他者を認許すれば、宇宙も完全に其の人を認許するのである。 其れだけの人間に為るのは、中々容易ではないが、其の為の吾(わが) 「真道」なのである。 《 人を「殺す」と「生(活)かす」 》 戦時は、「人を殺す」事は物理的で単純で、或る意味、簡単である。 国家規模では、是を阻止する事は出来ない。 此の「人を害する悪業」に規制を掛けるだけの本質的見極めが為ってな いのである。 教育に於いても、弱肉強食の域を出ない。 是が高度文明国家と言えるのか? 本質的に欠落した、極めて歪(いびつ)な世界である。 是が世界の体制である。 是では人類の将来は無い。 然(しか)るに此処(ここ)に於いて、人類は、遂に其の本質に回帰し、真 理に至り得たのである。 真理とは、宇宙のエネルギーに由来する人間の心、涅槃妙心である。 此の心に回帰するには、人間は生涯に亘る、全身全霊、不惜身命の無 私の正法苦行の奇跡裡の奇跡事に於いてのみ可能と為るのである。 是をして、『最初後身心』と成るのである。 『最初後身心』だけが世界人類に真理を語る事が出来るのである。 是が真実の超能力の世界である。 真理は超能力である。 是程の現実世界は無い。 現実とは、単為る現象界に留まらず、海面の波の下、肉眼では見 る事の出来ない、広大為る海に浮かぶ波である。 其の本質に対しては、自(みずか)ら是に接近し、接触し、そして回帰す る以外無いのである。 世の中に、自(みずか)ら是を実践する事位、困難な事は無い。 然(しか)るに然(さ)も無くんば、物事の本質には触れ得ないのである。 二元相対世界からは脱却出来ない。 斯(か)くして初めて、人間は真理に至り得て、心眼が開くのである。 二元相対世界の善悪の判断でなく、真の預言者としての絶対的、真為 る善悪の見極めの確心に及ぶ。 生命の本質への洞察と他者への思い遣り無しに、動物同等の現象的生 命として、単純な動機で、安易に他者を害する行為は、人類三毒(貪・瞋 ・癡)の為す悪業である。 是が世界には日常茶飯事に横行している。 而(しか)も、国家規模に為ると、世界には其れ等の暴挙を鎮圧する何 等の術(すべ)をも持ち得ていないのは、人類の癡愚を露呈する以外の 何ものでもないのである。 文明の驚異的進歩にも拘らず、人間の心の世界は実に恥ずべき次元に 止(とど)まっている。 人類は其処(そこ)から一歩も脱却出来ないで居るのである。 是は実に、人類の心進化に於ける怠慢以外の何ものでもないのである 。 戦略的、経済的同盟と、国連機関の機能とは本質的に異なる。 国連の機能不全が喫緊の最も本質的な最重要課題なのである。 是が諸同盟国間の相対的問題の関係性に変質し、世界を統一する最 高機関としての国連機能に対する責務回避と為っては為らない。 軍事力の備えは有れど、其れだけの実力を有する人材が無い。 本質的実力が欠落しておるから、短絡的に物理的武力に走る。 然(そ)うして弱肉強食世界を現出する。 本質的妙案で以(もっ)て、世界人類を極力、平等に「生(活)かし合う」 真道への不退転の信頼結束力の問題である。 《 時刻の連続性 》 時の流れと云うものが、若しも連続性のものであるならば、刹那の前後 に於ける、全く異質な不連続性は生じ得ないのである。 是は心進化のみならず、身進化に於いても染色体(遺伝子)の突然変異 と自然淘汰に因るものである。 [……念々従心起 念々不離心」(延命十句観音経) (刹那々が心に生じ滅する) 刹那為る粒子性の連繋(れんけい;繋(つな)がり連(つら)なる)である 「刹那生滅の原理」である。 斯(か)くして、恰(あたか)も階段を上るが如くに、不連続為る確心の下 に、涅槃回帰に至る迄心進化し往き、其の真理への確信に基づく信頼 結束の下に世界平和が構築、完遂され往くのである。 身は人間迄、心は宇宙真理の涅槃(=涅槃妙心)世界迄の進化を遂げ るのである。 宇宙と一如足りて、宇宙を超さないからである。 此処(ここ)に来る迄は、小生は従前の人間の如何(いか)為るものも撥 無(はつむ;払い除けて信じない)出来たが故に、従前に無かったもの、 宇宙の真理に回帰し得たのである。 全(すべ)ては、吾師の無私の涅槃妙心の御遂(すい)行の賜(たまもの )であって、師も御口出しに為られなかったものと推察される。 回帰した以上、宇宙と吾とは一如足りて、真の自他一如なのである。 此の『一如の傘』が、今後、世界人類をして平和に至ら使める事は間違 い無いのである。 最早、宇宙をも貫通した小生の菩提(道)心は過去のものであり、今後 の世界人類の信頼結束こそが、正に、其れに代わるものと為らねばなら ない。 小生も、未だに規則性と教導との涅槃世界への収束振動裡に在る。 是は世界人類の宿命なのである。 何処(どこ)迄も微振動為り得て、初めて涅槃収束、涅槃帰一足り得るの である。 《 世界人類平和の端緒 》 宇宙の真理に回帰した小生『最初後身心』を生み、そして吾をして世界 に教導せ使めたのは日本国民である。 若(も)し、此の極々善足る日本国民に、人類三毒(貪・瞋・癡)由来の極 々悪為る核兵器を使用すれば、世界が許さないのである。 若し、是を認許すれば、世界は終わりである。 人類滅亡は必然である。 我等が母体為る宇宙に違背するからである。 日本に『核の傘』は不要であり、其れ無くして起つのが日本である。 核無き世界を、日本が率先垂範しなければ為らない。 其処(そこ)からして、国連体制は根底から生まれ変われるのであり、 国連のみならず、世界人類が「宇宙の真理」に立脚して信頼結束し、従 来の施政と共に生まれ変わるのである。 世界の施政が「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使める 」三善根(施・慈・慧)の依拠(いきょ)足る涅槃妙心の施政に転換するの である。 世界人類が根底から生まれ変わる契機と為る、小生『最初後身心』の「 覚天(涅槃回帰)」であった。 米中露核(大量破壊)兵器禁止条約締結は、其の歩みへの試金石であ る。 是が世界の指導者達が率先垂範して、「宇宙の真理」に基づいて信頼 結束する礎(いしずえ)足るのである。 岸田氏(真理)を基軸とする、バイデン氏と習氏とプーチン氏の調和と均 衡と静謐の信頼結束に拠る国連新体制構築の黎明である。 此の世界人類の平和への端緒が世界平和の礎(いしずえ)と為るので ある。 超宗教、超科学、超哲学為る真理は涅槃妙心智慧の実践在るのみであ る。 人類史上初の正法苦行(=千日行)に拠りて、宇宙の真理に至り得る迄 の人類史に於ける「人殺し」の極悪化が生んだ、極々悪為るものが原爆 投下であり、唯一の被爆国が日本であった。 其の歴史的必然性を以(もっ)て、日本人が世界に唯一の人類究極の宝 である、涅槃為る宇宙の真理に回帰し得た、涅槃妙心を得たと云う事が 何を意味するかは、人類が如何に生きるべきかを如実に示唆して余りあ る。 宇宙の真理が人類に対して如何なるものかは、 古来、孔子も、 『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可也』と、其の菩提(道)心 の真情を吐露された。 真理に至っては、比較に為らぬのである。 其れは生活の本質的絶対性に対する信頼でもある。 人命を重視するからマスクも極力留意する。 宇宙の調和と静謐に由来する平和である。 涅槃に帰一する諸欲の在り様である。 本来、是は東洋の精神の神髄であるものである。 因果の道理に基づく、人類の悪の連鎖が生み出した、人類生命の本質 的復元力に拠る、涅槃為る宇宙の真理への人間生命の回帰であった。 斯(か)くして初めて、人類は宇宙の真理に人間生命が回帰出来た事の 意味する処は、従前の人類史に於いて、決定的に従来の先進国家指導 者に依る動物的弱肉強食世界から、涅槃世界への大転換を迫られざる を得ないと云う事なのである。 是は、世界の最高機関足る本質的無機能性を内包する国連の極々悪 原爆支配体制の大転換をも意味するのである。 其れは、「宇宙の真理」に拠りて、人類史の底流に在る「人殺し」の極悪 化の歴史の根底に、鉄鎚が下される事を意味する。 「人殺し」ではない、如何(いか)為る「人殺し」も世界人類を平和に導き 得るものではない。 勝てば良いのではない。「人殺し」がいけないのである。 負けても、「人を生(活)かせば、其れで良い」のである。 勝ち負けの相対的な問題ではなく、「生(活)かす」か「殺す」かの絶対的 、本質的問題なのである。 真理とは、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」である。 「人殺し」に因って生まれ得るものは本質的な負の連鎖でしかないと云う 事実を誤魔化す事は出来ないのである。 今回、最終的に米中露の三大国に依る画期的な、歴史的成果を生むべ く、過去の悪業の最大の反省を迫られざるを得ない局面に、遂に至り得 たのである。 此処(ここ)で人類が為し得る事は、小生『最初後身心』に拠る、人類究 極の境地である、涅槃為る宇宙の真理に基づく涅槃妙心智慧を生む事 なのである。 『三人寄れば文殊の智慧』の実践に他ならない。 三者の英断は、禁戦条約が大前提であり、 自(おの)ずから核(大量破壊)兵器は、既に其の意味を為さないのであ る。 随伴して、真の国際法、国際警察と云う、宇宙の真理に基づく、世界の 信頼結束に拠って生まれ得る、世界統一の国連新体制の構築である。 《 真理(実)を告げる 》 世界人類の中で真理(実)を語れる者は、小生『最初後身心』唯一人で ある。 何故語るのかと言えば、真の無我が宇宙の真理を教導するからである 。 若(も)し、語らないとすれば、其の方が「人を思わない」のである。 自(みずか)ら寝入って、其の三毒(貪・瞋・癡)を逞(たくま)しくするので なく、真の『山上の垂訓』として、肝に銘じ置かねば為らないものである。 「覚天(涅槃入り)」以来初めての、小生の称する処の「有機的構成系( 特に男女間は 心的淫快)」為るものは、『最初後身心』にして唯一の不 可思議為るもので、斯(か)るが故に唯、体感として止め措(お)くに過ぎ ないものではあるが、是が地上の世界人類を包み、何時(いつ)でも、何 処(どこ)でも、誰でも小生と根は 一如である。 古希直前、涅槃為る宇宙の真理に回帰して涅槃妙心を得て以来、世界 人類は小生の掌上の悟空である。 世界(人類)を狂わせるのが毒である。三毒(貪・瞋・癡)の事である。 基本的に人間には、普遍的に毒が有る。 毒とは、快を貪る(貪著する)心である。 是が心進化すると、三善根(施・慈・慧)と為り、 当然毒は人間世界を地獄にし、三善根は平和にするのである。 人類の貪著が慈悲の心に転ずる処が要(かなめ)である。 貪著為らずとも、自己の生理(本能)的欲求(特に性欲、食欲、そして生 存欲(闘争、逃避、すがる))が他者への慈悲の心に転ずる動因は、他 者に思いを馳(は)せる心のゆとりであるが、小生の場合は、坐禅の功 徳の深化が、生命に対する関心の深化と為って、是が遂に身心脱落に 迄至り得て、生命の本質、換言すれば涅槃に接近し得た事に起因する 心のゆとりが生まれたのである。 人間世界の精(せい)髄足る坐禅道に於いては、造悪に及べない。 生きる姿勢が菩提(道)心であるから、間違われないし、自(おの)ずから 能動性なのである。 何(いず)れにしても、此の坐禅道には及ばないのである。 国連戦勝国家と云うものは本質的に保身体制である。 今に至る迄、其の呪(のろい)に祟(たた)られて身動きもせず、心進化 の為らない、死に体である。 米国は国連に対しても、アフガニスタン同様の放棄状態で、覇権争奪に 走った。 国連に筋金を入れる事が出来るのは、唯、日本在るのみである。 プーチン氏は多くの犠牲者の上で、全体を弱体化させている。 習氏は、其のプーチン氏を盾に、覇権を争奪する。 其の中で、自(みずか)ら宇宙の真理を体現し、世界人類を教導して居 るのは、唯、我『最初後身心』一人である。 国家指導者で、「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使め る」人物は皆無である。 つまり今猶(なお)、世界人類の平和への舵(かじ)を切って居る人物は 皆無と云う事なのである。 唯、相対的に覇権争奪である。 此の世界の趨(すう)勢にメスを入れるのが、唯一、其の機軸の核兵器 支配体制に依る安泰主義に鉄鎚を下せるのが、唯一の真理国家足る 日本の岸田氏による核兵器禁止条約締結国会議での発言であった筈 である。 是が菩提(道)心なのである。 世界人類の平和の為に、自己を捨てて肝心要(かなめ)の修善を為す。 斯(か)くして初めて、何時(いつ)か、大地からの霹靂(へきれき;落雷) が虚空を裂くのである。 此処(ここ)に於いて初めて、国連体制をして、覚醒せ使めるのである。 《 「覚天(涅槃回帰)」後の実際 》 「覚天(涅槃回帰)」為る体現に於いて、宇宙の真理が、小生に其の鉄鎚 を下して覚(さと)ら使めたものは、「人を 生(活)かす」である。 終始一貫して、是に尽きる。 従って是は、自己に於いても際限無い。 極佛行では、「解脱」から「涅槃」へ移行する為の行で、普遍的真理 と は成り得ない。 他己(=自己の中の他者)を最大限に生(活)かすと云う事は、自己を最 大限に生(活)かすと云う事である。 機械的に決めない。楽を選定しない。 原爆投下為るものは、最も楽に機械的に、最大限の効果を上げる手段 である。 何処(どこ)迄も決めず、決まらず、「人を生(活)かす」に収束微振動し 往くのである。 従って、自(おの)ずから、此の自己と他己を振れ幅とする、何処迄も際 限無く「人を生(活)かす」と云う処迄の収束微振動足るのである。 職務、法律以前の涅槃妙心は、「人を生(活)かす」に機軸が在る。 「人を生(活)かす」に向けての、軌道の大転換である。 《 心の解明 》 脳神経系(抹消から大脳へと)の身進化に拠りて、心進化に移行した。 潜在意識と五感(眼、耳、鼻、舌、身)と意識。 そして、欲から情動と能力が生まれた。 【 生理的・本能的欲求 】 ・身体内部情報由来 : 食欲、性欲、睡眠欲等 ・身体外部情報由来 : 逃避、闘争(生存欲求(神信仰等も)) 【 (安全への)心理的、社会的欲求 】 ・知識、名誉、地位 ・保身、防衛、支配、対立、攻撃、恭順、屈従、養護(守り助ける)、 求知、解明 現実問題として、此の人類三毒(貪・瞋・癡)の欲界で、世界人類の平和 を構築しようとしても、世界の現状で明らかな様に、小生『最初後身心』 回帰の「宇宙の真理」に基づかない限り、地獄行きが不可避である事は 自明の理である。 諸欲の根源、食欲と性欲と睡眠欲への貪著が諸悪の根源であり、 是を「悟り(身心脱落し)」、「解脱」し、そして涅槃(宇宙の真理)回 帰する事が、世界人類の平和には不可欠なのである。 何と為れば、斯(か)くして、人類は諸欲の根源が、欲から生まれた 諸能力と共に、涅槃と一如(いちにょ)足る事を知るからである。 欲を離れて涅槃無く、涅槃離れて欲無し。 涅槃無き欲は動物的本能に過ぎない。 煎じ詰めれば、食う事無くして、諸欲は存在し得ないのは明らかなので ある。 人類は平等に食わす事が、指導者の根本の使命である。 宇宙の真理、涅槃現成(げんじょう)である。 《 東西問題の根源 》 小生は日本国民を信ずる者である。 是、真理の根拠である。 矢張り、米国の基軸は核兵器支配である。 是が人類諸悪の根源である。 西の東に対する最後の抵抗であろう。 宇宙の真理に違(たが)える米国、極悪の骨を折らねば為らない。 世界は涅槃世界に対する、核支配の執著(しゅうじゃく)である。 《 個人と宇宙 》 世界は一つである。 世界の現状は、一人の人間が二元相対意識から脱却出来ない様なもの である。 其の人は如何(どう)為る? 如何する? 回避する者、低迷する者、真理に帰一する者。 其の資質に拠りて、夫々(それぞれ)の人生を歩む。 大抵は、迷妄の暗闇裡に、或いは希望の輝かしき涅槃に。 つまり、閉塞世界の「暗闇入り」するか、或いは開かれた「涅槃入り」する かである。 前者を地獄と言い、永遠に輪廻転生し、後者は限り無く開かれ往き、涅 槃為る宇宙に回帰するのである。 閉じ込められて息を引き取るか、開かれ往きて息を引き取るかである。 死苦と云うものは物理的問題ではなく、精神の問題なのである。 是は時処位に拘らざる、永遠に不滅為る恒常普遍の真理である。 世界人類は永遠に閉塞裡に死なざるを得ないのである。 自己主導の執著(しゅうじゃく)でなく、 「自己を忘れ」、「他を捨てない」。 「世界人類を生(活)かす」、宇宙の真理に同じ、帰一する生き様の問題 である。 国家の指導者足りとも、何等変わる処は無い。 彼等こそ正に、率先垂範しなければ為らない。 《 「人に対して」如何(いかん) ? 》 世の中は、甘える事で自己主張するのでなく、又、 人の上に立つ事で自己主張するのでなく、 世界人類を立たせる為に自己主張すべく、心進化するのが、涅槃為る 「宇宙の真理」に同じ、違(たが)わない生命の在り様である。 『因果の道理』は、斯(か)く機能して居る。 《 世界を動かす者 》 世界を動かせる者は、小生『最初後身心』を措いて無い。 何と為れば、空前絶後の正法苦行者であり、 而(しか)も、宇宙の真理の体現者である。 自己と他己(自己の中の他者)を振れ幅とする、何処(どこ)迄も最大 限の「人を生(活)かす」に収束微振動する者であるからである。 若し、小生が世界を動かせなければ、世界人類の平和は実現しな い。 法律、職務以前の『涅槃妙心(智慧)』であるからである。 《 日本機軸の東西統一 》 世界人類に対する、真の「思い遣り」が人徳(じんとく)である。 プーチン氏に問いたい。 「ウクライナの人々が『最初後身心』だと思えますか?」と。 坐禅の功徳に拠りて、自(おの)ずから、万徳が具足円満する。 宇宙の真理に回帰したと云う事実が、世界人類に如何(いか)為る意味 を持とうとも、此の真実は現実であり、人類の如何(いか)為る想定をも 超越する、超能力であり、五大国をして平等に覚(さと)ら使めるもので ある。 最早、一国の暴挙の及び得る時ではない。 癡愚為る行為は最早、自(みずか)らを貶(おとし)める以外の何もので も無いのである。 天に向かって唾(つば)を吐く様な愚行である。 今こそ、大国指導者達が心一つに為り、万能の本源足る「宇宙の真理」 に基づいて、信頼結束し、胸襟(きん)を開いて、世界人類の平和へ収 束振動し往かねば為らない機が熟した。 不退転の信頼結束が世界人類の将来を生む。 《 宇宙開闢 (かいびゃく) 》 宇宙開闢(かいびゃく)とは、「世界の初め」であり、是は敢えて言えば、 「宇宙の真理」、涅槃に回帰した事を言うであろう。 是以外の、明確為る宇宙開闢は無いのである。 是は、世界に於ける、極めて根本的、画期的な変革を伴う。 「宇宙(生命)の本質」は涅槃化エネルギーの働きであり、「人を生(活) かす」涅槃妙心(智慧)として、人類には認識されるものである。 従って、開闢前後で、人類の在り様は、自(おの)ずから一新するのであ る。 此の世の、誰一人体験し得ない最高の宝を手に入れたよりも優れ足る 事であるからである。 力に拠る二元相対的暴挙から、真理に基づく信頼結束である。 人類史上、最初で最後の『最初後身心』である。 「人を生(活)かす」涅槃妙心が「宇宙の真理」である。 宇宙のエネルギーに因りて、奇跡裡の奇跡事として導かれた体現であっ たからである。 《 「負の世界遺産」と「宇宙の真理」 》 負の世界遺産の極々悪の核兵器と、極悪のヒトラーと、悪の人種差別を 滅尽するのは、「宇宙の真理」に他ならないのである。 人種差別(黒人)でさえ、警察官主導であり、ヒトラーは相対的兵力で克 服出来たが、核兵器を克服出来る能力は、未だ人類は持ち合わせては 居ないのである。 寧ろ、其れを力として、人類を支配して居る状態である。 然(しか)し、是は人類破滅への時間の問題である。 是等、負の世界遺産の悪の根源が、人類三毒(貪・瞋・癡)であり、其の 根本の根本が食欲と性欲への貪著である。 世界の指導者達が、自(みずか)ら、此処(ここ)に於いて、質実剛健為 るを率先垂範しなければ為らないのである。 身を以(もっ)て国民を導く。 従って、政治家の使命は、世界人類に極力、平等に、自(みずか)ら食を 繋ぐべき手段を講ずると云う事である。 「宇宙の真理」、涅槃に回帰した涅槃妙心(智慧)を得る事が、世界人類 の平和への唯一無二の正道である。 《 動物、人類、そして世界人類平和 》 生命は先天的、本能(食欲、性欲、睡眠欲)と後天的、生存欲(逃避、闘 争等)で語り尽くせるものではない。 我々人類の生命が動物より進化した処は心である。 心は三毒(貪・瞋・癡)から、三善根(施・慈・慧)、そして涅槃妙心(智慧) へと心進化する。 此の心進化には、菩提(道)心と「学ぶ」と云う事が不可欠なのである。 是等が停止して居って、「甘え」や「覇権争奪」に停留して居っては、世界 人類に心進化が無い。 世界人類の平和には、菩提(道)心と、真の「学び」が不可欠なのである 。 《 人類の誕生から死の実際 》 涅槃為る「宇宙(生命)の本質」は現象を生む。 人類の身進化に拠り、心は、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」が其の儘( まま)受け継がれて誕生して来る。 そして後天的に、分別に基づいて、諸悪の根源、三毒(貪・瞋・癡)が形 成され、地獄を露呈する。 太陽の本質でもある、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しに因る、 心中の三毒の影が菩提(道)心と為りて心に発(おこ)るのである。 斯(か)くして、偉大為る心の復元力に依りて、胎児に受け継がれた、涅 槃為る本質に、小生『最初後身心』として回帰し得たのである。 其の唯一の正道が坐禅である。 坐禅の功徳だけでも、三毒は三善根(施・慈・慧)足る、心の余裕を持つ に至るし、本質に同(どう)じ、帰一すれば、人心は涅槃を得るのである。 身の死と共に、心は本質(=涅槃化エネルギー)に帰するのであるが、 心が涅槃に、既に回帰して居れば、其の人の心は永遠に不滅為る恒常 普遍為るものであり、帰一して居れば、「宇宙の本質」に帰する。 然(しか)るに、違背(いはい)して居れば、身と共に心も死に、其の人は 涅槃為る大宇宙から消滅する。 本来、宇宙は涅槃であり、地獄は人類特有の大脳新皮質の産物に過ぎ ないのであるからである。 「(生死事大 無上迅速 )各々宜しく醒(せい)覚すべし 慎(つつし)ん で放逸為る事勿れ」と。 従って、心の閉塞世界の人は、身の死と共に消滅してしまうが、「人を生 (活)かす」涅槃妙心へ、永遠に収束微振動し往く人の心は、宇宙の涅 槃に帰する事が出来るのである。 「帰る場所が決まって居る」のか、其れとも、「自(みずか)ら消えてしまわ ざるを得ない」のかは、其の人の「世界人類を生(活)かす」のか、或いは 「殺す」のかの生き方次第の、「因果の道理」に基づくものである。 「因果の道理」は「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の涅槃化エネルギーの科 学的機能に基づくもの為るが故に、微塵(みじん)も違(たが)わないので ある。 「懺悔(さんげ)するが如きは、重きを転じて軽受(きょうじゅ)せ使む。 又、滅罪清浄(めつざいしょうじょう)為ら使むる也。」(修証義)と。 《 時代の流れ 》 小生の印象では、人類は西洋人の知恵が神信仰から人間復興、そして 大航海時代、産業革命へと進展し、米国建国後、主流を為して来た。 一方で、アーリア人のインド定住後、バラモン文化が東洋人の叡智とし て花開き、中国の儒教を下地として、仏教の流れが日本で、『最初後身 心』として初めて宇宙の真理に回帰したのである。 「悟り(身心脱落)」、「解脱」、「覚天(涅槃回帰)」に於ける刹那の不連続 性は前後裁断せる、必然的心進化で、二元相対世界では及び得ないも のである。 是は「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に接近し、接触し、回帰すると云う、従 前の本質が現象し行き、原爆投下なる極限に於いて生じた、心の復元 力(=「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し)に依りて得られた菩提( 道)心の方向性なのである。 是に依りて、従来の科学文明の有用性の乖離によって、人間能力の限 界から、其の超能力足る本質に回帰せ使められて、帰一、回帰前の人 生に解無き、二元相対の精神世界を現出して来たのである。 真理を得た今、前後裁断せる画期的、心進化を遂げようとして居るので ある。 世界秩序への真理日本に拠る教導が、其れを証明して居り、今後の世 界に必然不可欠である。 此の世界の趨勢は人類史上在り得なかった、真理黎明である。 宇宙(生命)は科学力も然(さ)る事ながら、本質力が其の生命である。 物以前の心、つまり涅槃化エネルギーに依る涅槃妙心の事である。 「人を生(活)かす」ものは涅槃妙心に基づく。 涅槃妙心に拠りて初めて物が生(活)きる。 従って、「……遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃……」と謂う。 故に宇宙の真理に基づいて、特に中国とインドの今後が期待されるの である。 即今、『最初後身心』に拠る、従前の二元相対世界からの不可避なる不 連続性への移行に対する、確足る歩みの一歩、一歩への心進化が問 われている。 当然、従前には在り得なかった、世界人類の進捗情況ではあるが、是 が人類の心進化の試練である。 謂わば、今こそ、中国の真価の底力を世界人類の平和の為に発揮しな ければ為らない局面に及んでいるのである。 中国が失墜したら、世界平和が成立し得ない。 試練の時代である。 其の意味では、中国は未(ま)だ唯一の、真の意味での途上国足り得る のである。 《 今後五年の不可欠事 》 人類心進化の正道、其れが『最初後身心』の真(理への)道である。 少欲・知足にして、宇宙の真理に基づいて、「世界人類を生(活)か使め る」事である。 「取った、取られた」、「(喧嘩に)勝った、負けた」等の平面的、二元相対 世界の貪著為らざる、「宇宙の真理」への縦軸に、根本的に規定された 多次元為る涅槃(妙心)世界への必然性が在るのである。 是が涅槃為る宇宙真理に回帰する人類足る所以(ゆえん)である。 資格、能力、学問等、何(いず)れにも亘(わた)らない、命其のものの究 明を志向する人間の歩む道は、自(おの)ずから菩提(道)心の雪達磨 の如く、其れはやがて天を裂き、霹靂(へきれき;落雷)を生起せ使むる のである。 今後五年間で、回帰し得た宇宙真理が世界各国指導者、及び世界人類 に浸透し、其の端緒(しょ)足る国連核(大量破壊)兵器禁止(安保理拒 否権体制)条約締結し、米中正常化為ら使めねば為らないのである。 世界人類の平和を希冀(きき)して、戦争すると云う止むを得ない事態も 過去には在り得たかも知れない。 「生(活)かし、生(活)きる」為に「殺し合う」のである。 然(しか)るに、是は明白に真実為らざる虚偽である事は誰にも自明で ある。 「生(活)かし、生(活)きる」為には「殺し合わない」のである。 若(も)し、是が出来ないとすれば、其れは諸々の禽(きん)獣と相異なら ないのである。 真理は明確に是を教導するものである。 真理を語り尽くすのである。 今、人類の為に為る事は、「恥を知らない諸々の禽獣と相異ならない」と 云う事である。 誰も其の事に然(しか)るべき疑念を抱く者が居ないとは、人類は未だ癡 愚に他ならない。 世界の指導者達が癡愚なのである。 癡愚為る指導者しか、此の世には存在しないと云う事である。 是で、世界人類の平和等(など)願える訳も無いのである。 嘗て、キリスト教会が天動説に頑昧(がんまい)に拘泥したが、後に、地 動説が真実であった事が科学的に立証された様に、自己の三毒(貪・瞋 ・癡)が如何(いか)に正当化されようとも、三善根(施・慈・慧)の依拠(い きょ)足る涅槃妙心が宇宙の真理であった。 国連核(大量破壊)兵器(常任理事国大国拒否権)支配が「人を生(活) かす」世界機関足り得ないのは、時間の問題に過ぎない。 斯(か)るが故に、今である。 若(も)し日本が仮に、被爆せずに勝ち続けていたならば、『最初後身心 』は生まれ得なかったであろう。 兎にも角にも、〇(ゼロ)の灰の中から復興し、安住し得たからこそ、虚 為る発(ほつ)菩提の基盤を得られたのである 小生は純粋で、敗戦後の、身のゼロ為る混沌から始められたが故に、 本質為る真理に回帰出来たのである。 釈尊滅後、完結するのに二千五百年程要したが、涅槃回帰以降、世界 人類の平和への唯一の依拠(いきょ)は、此の真理以外無いのである。 是に適(かな)う菩提(道)心が世界人類に醸成されるべく、小生『最初後 身心』は真遺教、真(理への)道を開示(じ)する。 世界人類の種々為る多様性を包摂し得る「宇宙の真理」、「人を生(活) かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」涅槃妙心が世界人類の社 会通念に迄浸透するには、米中を筆頭と為す安保理諸国家指導者、及 び其れ等の諸国民の菩提(道)心に依る以外無い。 正道に基づく、極端な束縛の延長線上に解放される、真の自由、涅槃と 異なって、米国と中国は、トランプ現象と新疆ウィグル問題に代表され得 る、極端な自由と束縛の対極的、両極悪を孕(はら)んでいる。 彼等の自力に、其の心進化を期すべく、 釈尊の完成に、吾師の御尽力が、其の種子を生むのに絶対不可欠であ った様に、小生『最初後身心』の完成には、岸田氏と習氏とバイデン氏 の結託が、其の種子を生むのに、絶対不可欠なのである。 今を措(お)いて、其の種子は育たない。 《 小生鐵漢とバイデン氏と習氏 》 宇宙の本質は、 唯、小生鐵漢の『最初後身心』在るのみ。 現象は、 バイデン氏と習氏に象徴される、二元相対世界である。 本質は永遠不滅為る恒常普遍の真理であり、現象は無常である。 本質無き現象は、涅槃無き無間地獄である。 宇宙は、小生鐵漢『最初後身心』を支点と為し、米中両氏が天秤(びん) 両端を為すのでなければ成立しない。 二元相対世界は、支点に支えられて初めて、宇宙の調和と均衡と静謐 を世界人類の平和に具現、保持され、証し以(も)て往かれるのである。 是が涅槃(平和)為る「宇宙(生命)の本質」の真実である。 《 真の“強さ”とは 》 涅槃回帰を超える、如何(いか)為る“堅持”も、中道(諦観)に至る釈尊 断食苦行に他ならない。三毒(貪・瞋・癡)の恐竜志向である。 諸々の禽(きん)獣と相異なる事無し。 人類は唯、涅槃妙心(智慧)の三善根(施・慈・慧)に拠る、限り無き柔( にゅう)軟心に同じ、帰一在るのみである。 《 真実の天秤 》 教導を支える規則性を支点と為す、世界人類を生(活)かす、米中の天 秤であり、是は国連をして、『最初後体制』為ら使め、『最初後身心』と一 如(いちにょ)足る、最初後の「世界が一(いつ)と為る」残された唯一の 可能性である。 宇宙の真理に回帰した人間の責務とは、真理其のものに他ならない。 宇宙の一塵にも宿るものである。 宇宙に回帰すると云う事は、真理に回帰すべき人間足り得て居る事の 「証し」、つまり羽を傷(いた)めて、飛べなかった鳥が完治(=解脱)し、 大空に飛立つ準備が出来て居る様なものであり、鳥の本性で自(おの) ずから自由に地上を舞うが如くに、「覚天(涅槃入り)」して、教導三昧に 入るのである。 取分け、人類分別の運命的二元相対意識の象徴為る米中指導者は率 先垂範して、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の真理に同(どう)じ、帰一し て、運命的に不可避為る人類三毒(貪・瞋・癡)由来の対立を、真理由来 の菩提(道)心で回避して、世界人類の平和を構築するのが、米中指導 者の使命である。 《 造悪の者 》 小生は神でも仏でもない。 唯、真理に戻った人間である。 禅門に『帰家穏座』と云う語句が在る。 坐禅に安住する境地を謂う。 然(しか)し、真の『帰家穏座』は、「涅槃入り」、つまり宇宙の真理に回帰 した事である。 小生『最初後身心』の役目は、世界人類が、涅槃為る宇宙の真理から 乖離(かいり)する事無く、三毒(貪・瞋・癡)の暴走を阻止する事である。 造悪の者は、宇宙の真理、涅槃に違(たが)えるが故に、宇宙エネルギ ーの本質の涅槃化が機能せず、地獄に陥(おちい)らざるを得ないので ある。 宇宙の真理に違背(はい)する造悪位、如何(どう)にも為らないものは 無い。致し方無いのである。 是には、『最初後身心』も如何(どう)仕様も無い。 修禅に拠る『帰家穏座』(=自己を忘れ)して「人を忘れない」釈尊正伝大 乗禅か、然(さ)もなければ真に“懺悔(ざんげ)”する以外無いのである。 貪著の辿(たど)る道は、諸悪を生じ、瞋恚(しんに;自心に逆らう者を怒 る事)生じ、癡愚者と為らざるを得ない。 三毒(貪・瞋・癡)の根源為る貪著の中味は狂気以外の何者でもないが 故に、是を制し得る人物は、明確には真理回帰した小生『最初後身心』 以外は、力支配の原爆執行するか、或いは経済制裁以外無いのである が、是等は何(いず)れも真の解決には至り得ないものなのである。 何(いず)れも弱肉強食世界に過ぎず、世界人類の平和にはとても及び 得るものではない。 依然として地獄から脱却し得ない処の、釈尊中道(諦観)以前の、二元 相対の釈尊断食苦行の域を出ない。 涅槃世界への端緒足り得た、釈尊中道(諦観)を得て初めて、釈尊は精 神の救済を得て、禅定に依りて、小生が坐禅の功徳裡に身心脱落した が如き、無心裡の人類史上初めての成道(苦行からの御悟り)であった のである。 此の延長線上に至り得た宇宙の真理であった。 無想為る地獄から覚醒した涅槃真理である。 人間世界が生み出して居る地獄は顛(転)倒無想世界である。 限り無く、不可避為る貪著に夢醒めるべし。 《 諸悪の根源 》 「世界は狂ってる」と思わざるを得ない。 其の原因は、個人レベルであろうが、世界レベルであろうが、其の規模 に拘らず、偏(ひとえ)に貪(むさぼ)りに在る。 金にせよ、セックスにせよ然(しか)り。 気に食わない。斯(こ)うでないと、斯(こ)うでないと……と。 不平不満の連続。 瞋恚(しんに;怒り)と為り、狂って来る。 狂い(貪著の連続)。是が癡愚者である。 最初のスタートで、少欲・知足で、自己が貪(むさぼ)るのでなく、 世界中の地獄の、悲惨な人々への思い遣り。 「人を生(活)かす」、「世界中の人々を生(活)かし合わ使める」 涅槃妙心で質直に生きて往けない処に、 「世界を狂わす」根本原因が潜(ひそ)んで居るのである。 「宇宙の真理」に乖離(かいり)して、我欲の世界を生んでしまう。 涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に同(どう)じ、帰一して生きる事が、 自己を、世界を保つ事である。 少しづつ、此の練習に努めるべきである。 自己を貪著(とんじゃく)に任せない。自制心を養うべきである。 真理を知らざるが故に、自制心を持てないのではない。 真理を知らざるが故に、自制心で自己を保つのである。 《 真理の執行 》 『最初後身心』が開示する宇宙の真理。 人類三毒(貪・瞋・癡)世界に必要不可欠為るものが真理である。 真理は人間世界に必要不可欠為る死刑制度の如く、人類三毒(貪・瞋・ 癡)を律する。 人間は涅槃回帰した「涅槃人」には及び得ない。 二元対立世界に由来する処の相対的緊張感でなく、諸悪の根源である 自己及び他己の三毒(貪・瞋・癡)を制御(ぎょ)する心の緊張感が不可 欠である。 死刑制度の廃止論者は人間と世界の実態を把握していないか、楽観論 者である。 人類三毒(貪・瞋・癡)が蔓(まん)延する以前に、人類の運命の真実、つ まり微妙甚深為る宇宙真理の真実は如実に具現しなければ為らないの である。 是は、世界人類の平和の為には、『最初後身心』に絶対不可欠為る使 命である。 国際的な三毒の暴挙にさえ、対応する術を持ち得ないのが現状である。 人類世界が生んだ相対的規制でなく、宇宙真理から生まれる絶対普遍 的規制、規範を執行する国際機関、国際法、国際警察等が絶対必要不 可欠と為る事は人類心進化の必然性である。 現世界情勢が地獄である事が現実なのである。 日本国民は米国の極悪に安んじて安泰であるし、更に、其の上に乗っ かって居るのが日本政治家である。 《 「他を生かす」とは「自を生かす」事 》 生(命)の二面性、自己と他己(=自己中の他者)、つまり規則性(自利) と教導(利他)に於いて、無機的為る規則性と有機的為る教導と云う一 見相矛盾し、両立し難き生(命)の両面性を両極と為す振れ幅の、二十 四時間三百六十五日の正念相続は、最大限「人を生(活)かす」に収束 振動し往くのであり、其れは相関関係裡に、最大限に自己も生(活)かし て居るのである。 人類は世界人類の為に腹を決めて、陰徳を積むべきである。 此の孤独な営みが、実は涅槃を現成(じょう)して居るのである。 相乗的にダイナミックな此の営みが宇宙の実相である。 此の調和と均衡と静謐が宇宙の涅槃化エネルギーの涅槃化足る機能 為る究極の緊張感の現成である。 然(しか)るべく、宇宙の涅槃化エネルギーは人類を生(活)かしておるに も拘らず、人類三毒(貪・瞋・癡)の暴走が、此の「宇宙(生命)の本質」に 違えて不条理を生むのである。 「愚人謂(おも)わくは、利他を先とせば、自(みずか)らが利省かれぬべ しと。然(しか)には非ざる也。利行(菩薩の行願の一つ)は一法也。普( あまね)く自他を利する也。」(修証義)と。 此の緊張感が人類をして、涅槃為る宇宙に回帰せ使めたのである。 涅槃為る世界人類の平和には、此の信頼結束が不可欠である。 身は有限為る、個々の存在であるが、心は自他一如足る永遠不滅、恒 常普遍の涅槃妙心(=宇宙心)に収束振動し往くのである。 《 阿部氏の失墜 》 安部・オバマ時代から、安部・トランプ時代を通じて、小生『最初後身心』 の出現は時代の一大転換点である。 菅氏を介して、岸田氏をして、小生『最初後身心』の在り様は、一層明確 なものと為ったのである。 要するに、安部時代の対米外交と、小生の「解脱域」から「涅槃期」への 変遷は、嘗(かつ)て無い、本質的施政への黎明と為った。 其の意味で、従前の「真理」無き時代の、現象的為らざるを得ないが故 の、施政上の限界からの必然的脱却であったのだ。 元安部総理の被弾は、其れを象徴的に物語るものである。 《 日本、及び世界人類の命運 》 吾師が其の命運を、小生に託(たく)された如くに、 小生鐵漢『最初後身心』は、其の命運を岸田総理に託す。 真理為る「宇宙の本質」は氏に依りて、 世界人類は永遠に涅槃妙心への収束振動足るのである。 《 世界の要(かなめ)としての『最初後身心』 》 世界人類の物質的、精神的基本的条件確保と、自然と国際関係上の世 界環境と、食糧とエネルギーの地球資源等を勘案して、ロシア問題の早 期解決を図る、日本を含む米中関係の処し方が最大の課題である。 是は必然的に、中露と米国間の対立解消の問題と為るのであるが、其 の鍵はロシアの安定である。 ロシアの安定とは、小生『最初後身心』には米中露核兵器禁止条約締 結に其の鍵が在る。 世界人類の平和への礎(いしずえ)としての鍵である。 此処(ここ)に落着すれば、 是を機に、世界人類は、涅槃妙心への収束振動し往く歩みを進める事 が出来るのではないか。 此処(ここ)迄の一~二年であると、小生は推察出来る。 《 安 心 》 二元相対的関係性における安心(あんしん)と、 自律性由来の安心(あんじん)と在る。 取分け、後者に於いては、其の究極が真理為る涅槃回帰である。 「宇宙の本質」に回帰し得た涅槃妙心為る安心(あんじん)を覆(くつがえ )し得る安心は存在しないのである。 是は教導と規則性に依りて成立する。 他者が教導に応じ得るか、否かは他者の超能力如何(いかん)に基づく もの、或いは其の大勢(たいせい)である。 然(しか)るに、微妙甚深(びみょうじんじん)為る涅槃妙心の収束(微) 振動裡に、究極的には規則性に限定され往くものである。 回帰由来の落差を補填(てん)する術(すべ)は宇宙エネルギーに依る 制裁以外無いからである。 是、『最初後身心』の最終的在り様である。 相対的安心(しん)も絶対的安心(じん)も共に、最終的には「宇宙の真 理」に基づくものである事は変わり無い。 《 最 短 路 》 吾(わが)教導の根拠は、生理、本能的我欲由来でなく、宇宙の真理で ある。 真理とは宇宙のエネルギーであり、涅槃化である。 故に小生の教導で以(もっ)て、世界人類は率先垂範しなければ為らな い。 是が出来れば、世界人類の平和への最短路であるが、様々なる不都合 が障害と為りて、迂回せざるを得ない。 故に人類は真理への信頼結束を以て、極力勇(英)断しなければ為らな いのである。 此の世に生を享(う)けて、他者と共に生きて、儚(はかな)き生を共に生 き、そして永遠に滅す。 其の儚き生に、人を殺して終わるのは、其の生命に一体何の意義が有 ったのかと思わざるを得ない。 「人を生(活)かして」こそ、自己の死を肯定的に受け容れ得るのである。 然(さ)も無くんば、自己の死を受け容れられないであろう。 他者が殺された死を、自(みずか)らも死んで行かざるを得ない。 否定されてしまった他者の命の死を、自(みずか)らも、受け容れられざ る孤立死を遂げざるを得ないのである。 人に対すると云う事は、其の儘(まま)自己に対して居るのだと云う事を 忘れては為らない。 因果の道理は超科学的に因果応報、不昧因果である事を知るに至る。 世界の主要国家の使命は自国のみに留(とど)まらず、世界人類の平和 を構築、完遂するものでなければ、保身と安泰であり、溜(たま)り水は 濁るのである。 常に「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」涅槃妙心 でなければ、世界人類の平和には至り得ない。 要は、「世界人類を生(活)かす」のである。 《 能力的身心進化から本質的心進化へ 》 頭脳は身進化すれば良いと云うものではない。 心は、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に回帰する迄心進化を遂げ、涅槃 為る「宇宙の真理」を世界人類に具現する。 身は人類の大脳新皮質(諸能力、特に科学)に迄身進化する。 心進化には、能力的に心進化する事と、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)か らの促しに依る菩提(道)心に基づいて、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に 接近、接触、回帰する不連続性の、本質に根差した本質的心進化とが 在る。 身進化の完成品である人類に於ける諸能力的進化には限りが無い。 能力的身心進化の依拠(いきょ)と、其の目的が問題なのである。 核兵器の様な、人類三毒(貪・瞋・癡)に基づく、人類の力支配の道具を 目的とするものは負の世界遺産の最足る物である。 一方、菩提(道)心に基づく本質的心進化の真理回帰に至りては、人類 の正の遺産の最足るものである。 是等は西洋と東洋の両特質を如実に物語るものである。 大脳生理学的にも両洋の特質、特に日本人の大脳の特質性としても言 及されている。 人類の身進化は心進化を目的と為し、心進化は「宇宙の本質」回帰を其 の目的とするものである。 要するに、宇宙の涅槃化エネルギーは、万法(森羅万象と心)を涅槃化 する事が其の指向性であり、目的なのである。 是に違(たが)えば、其の悪業報を超科学的正確さで受ける結果を招来 する事に為るし、是に同(どう)ずれば、善業報と為りて其の人に還(か え)って来るのである。 つまり、是が『因果の道理』の根拠である。 人間が菩提(道)心に拠りて、涅槃回帰したと云う事は大脳新皮質の機 能が完了して居る事を意味するものである。 従って、其の事実は、人類が既に能力的心進化から本質的心進化への 移行期に臨んで居ると云う事である。 人類の能力的心進化は本質的心進化に基づいて初めて、其の真価を 発揮するのである。 本質が諸能力として現象するからである。 是が逆転すれば、仇(あだ)と為る。 能力的成長為る心進化は、「学び」や教育も含めて、大脳新皮質の、諸 々の神経細胞(ニューロン)や多細胞とのシナプス(接合部)形成に因り て心は成長、又多様化するが、是等の連続的心進化では、世界人類の 平和を実現する事は不可能である事は歴史上、自明である。 其れは、此の二元相対世界の宿命的呪縛から脱却出来ないからである 。其の根本原因が後天性の人類三毒(貪・瞋・癡)の貪著に在る。 従って、特に根源的、性欲と食欲等の生理、本能的欲求への執著の後 天的悪習癖の顛倒夢想からの覚醒が不可欠なのである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)への心進化の階梯は、 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しに始まり、菩提(道)心を発(おこ )して、坐禅に拠りて、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)への接近、接触、回 帰である「悟り(身心脱落)」、「解脱」、「覚天(涅槃回帰)」の不連続性心 進化を経て、二元相対世界に於ける「覚醒」と、其れからの「脱却」を遂 げ続けて来たのである。 故に、連続的心進化の帰結足る国連機能の不完全性は、不連続性心 進化に拠る完璧為る涅槃回帰に基づかない限り、世界組織は完璧に機 能し得ないのである。 斯(か)くして初めて、涅槃現成(じょう)の要(かなめ)足る、国連涅槃真 理安保理拒否権体制と新制国際法、国際警察が確立するのである。 此処(ここ)に至るには、『宇宙真理からの鉄鎚』が絶対不可欠である。 生死を超えた、超能力の極佛行裡の奇跡裡の奇跡事として初めて、回 帰に至り、「宇宙の真理」に本質的に完璧に自己否定されて初めて、『最 初後身心』と成るのである。 能力的心進化の延長線上の発見や発明に依って生じる、現象的変化で はない。 真理為る「宇宙の本質」(=涅槃化エネルギー)は、「生命の本質」(=涅 槃妙心)として、幼児前期位迄の無分別意識(=涅槃識)に受け継がれ ているが、此処(ここ)迄、つまり涅槃識を得て涅槃回帰し、涅槃妙心を 得る迄には「覚天(涅槃回帰)」が不可欠である。 此の『最初後身心』 に拠る「世界人類の平和」である。 「体現」為る不連続性を、「教導」為る連続性で、回帰後に補填(てん)す るのである。 抑(そもそも)、不連続性の始原は菩提(道)心の依拠(いきょ)足る「宇宙 (生命)の本質」(涅槃)からの促しに呼応する動向である。 小生を振り返れば、小生の不連続性は高校入学直後に始まっている。 中国北宗の十牛図(禅の十段階の修道過程)の最初の尋牛である。 恰(あたか)も、青い鳥にでも惹(ひ)かれる様に放浪を始めた。 当然の事ながら、其の時に小生の見出し得たものは、「其処(そこ)には 、食う為に働くと云う事しか無い」と云う事である。 青い鳥の不連続性を見出し得なかったと云う、高校入学時の自身にして は当を得た結果であったのだ。 医学部専門課程で坐禅を組んだ刹那に初めて吾(わが)「不連続性」を 得たのである。 菩提(道)心に拠りて坐禅に往き着いた。 坐禅は『冷暖自知』為る功徳を知る処から始まるのであって、西洋流の 求知、解明ではない。 坐禅が社会通念(常識)からの「飛躍」を生むのである。 「不連続性」には菩提(道)心が絶対不可欠である。 此処(ここ)が、西洋能力連続性の帰結為る「原爆投下」と、東洋菩提( 道)心不連続性の成果足る「涅槃回帰」との一線を画する処である。 是等の極々悪と極々善の両極の分水嶺足るものが、偏(ひとえ)に釈尊 断食苦行に拠る、中道(諦観)に至り得た事である。 此の多様性の時代の終極としての必然的、「時代の要請」に辛(かろ)う じて答え得た真理回帰であった。 此の真理に基づけば、大部分の多様性は受け容れられ得るのである。 此の要(かなめ)無くんば、世界は多様化で分断し、収拾(しゅう)が付か なく為って、破綻(たん)してしまうのである。 世界が暴発、崩壊する直前の涅槃足る真理回帰であった。 世界が多様化し、分断する程に此の要(かなめ)は絶対不可欠と為る。 是は「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」涅槃妙心 である。 《 分別志向から涅槃化志向へ 》 核兵器の延長線上に在るのが宇宙兵器である。 世界人類の平和に必須なものは核兵器ではない。 宇宙真理の涅槃妙心(智慧)である。 核兵器から宇宙兵器への流れは皮膚の垢(あか)の様なものであり、 石鹸で洗い流すべきものである。 米中覇権争奪を主流と為す、世界の趨勢(すうせい)の至り得る世界に 欠如するものは、宇宙の真理為る調和と均衡と静謐を具現する処の、 世界人類全体を平等に生(活)かし往く涅槃妙心である。 世界に是無くんば、真理に基づく信頼結束が成立し得ず、 本質的為らざる、人類三毒(貪・瞋・癡)世界の延長線上の闇へ至る分 断世界の方向性しか無い。 今後は、此の闇志向でなく、本質回帰志向為る、世界中の弱者、途上国 以前の見捨てらて居る多くの人々と共に歩みを進める方向性が世界人 類の幸福と平和と繁栄への最短路なのである。 世界人類を平和に導くには、小生鐵漢『最初後身心』を支点と為す、 米中を両天秤として、宇宙の調和と均衡と静謐を具現する、世界全人類 平等の幸福と平和と繁栄を構築、完遂せ使めるべく、国連真理支配安 保理拒否権体制を実現しなければ、人類の暴走は収まらないのである 。 今こそ、人類は真理に同じ、帰一する道を辿らねば為らない。 人類を導くものは、「人類を殺す」現象的科学力でなく、「人類を生(活) かす」本質的信頼結束力である。 世界主要国家の現象的科学力の競奔(ほん)を監視出来るのは、小生 『最初後身心』の涅槃妙心力である。 敗戦国家日本が世界大国の趨勢(すうせい)に乗る方向性でなく、日本 の本分である、真理発祥国家としての、本質の真理に基づく施政を世界 に打ち出さねば為らない。 世界は涅槃妙心(智慧)で生(活)かさなければ、人類三毒(貪・瞋・癡) 世界に陥(おちい)らざるを得ないのである。 人類は菩提(道)心無ければ、三毒(貪・瞋・癡)的志向性であるからであ る。 小生が言える事は、 『生来、本質志向の小生は、十代半ば狼狽(うろた)え、二十代後半腹が 坐って狼狽(うろた)え、坐禅没入、「悟入」、四十年間の正法苦行と正念 相続、坐禅脱却と同時に真理回帰』 小正が教導するのでなければ、世界人類の平和は絶対に不可能である 。 真理無き世界に平和は決して訪れないからである。 世界の在り様と云うものは、本質的には、人類が決定し行くものでなく、 宇宙の真理に拠りて、自(おの)ずから定(さだ)まり往くものである。 万法(=森羅万象と心)の涅槃化エネルギーの本質は涅槃化であって、 遠い過去から地球が生まれ、人類を生み、そして其れをして、涅槃為る 宇宙に回帰せ使めたのである。 其れが今と云う時代である。 世界は今、信頼結束への途上に在るが、 小生鐵漢『最初後身心』に拠りて、宇宙の真理に回帰し、世界人類を教 導し尽くして居るのである。 決して、真理に回帰せざる人間が分別に拠りて、世界人類の運命を決 めてしまう様な事が在っては為らない。 人類が宇宙の真理に基づいて、涅槃妙心へ何処(どこ)迄も収束微々振 動し往く裡(うち)に、自(おの)ずから世界は決定し往くものなのである。 節度無き自由にも、強権支配にも偏(かたよ)らない、共に真理の基(も と)に、世界人類を平等に生(活)かし往く信頼結束力が、全世界人類を して平等に、偏り無く生(活)かし往きて初めて、真に最も、世界人類が 幸福、平和に繁栄し往くのである。 其処(そこ)迄腰を据えた、腰の低さが不可欠なのである。 斯(か)く世界人類を教導する、重力の如き人間力、富を局在、偏在しな い、三善根(施・慈・慧)が不可欠である。 宇宙の真理、涅槃妙心へ、自と他を両極と為す、何処(どこ)迄も収束微 振動し往こうとする、蟻(あり)の如き忍耐力に拠りて初めて、やがては 遂に出来上がる、必ず、不可思議に完成する処のものである。 詮(せん)ずる所、小生が真理に回帰した如くに、必ず完成させられ往く ものなのである。 分別で決めて出来上がって行くものではなく、涅槃化エネルギーに因っ て、現象が定着し往くのである。 人間が三毒(貪・瞋・癡)為る二元相対的分別で決めないから、宇宙真 理に涅槃化され往くのである。 真理は砂粒であろうが、地球であろうが、其れ等の本質である。 とても人類の我執(しゅう)の及ぶ処ではない。 人類は我執に拠りて「人を殺して」、自己に著し、自己を遊ばせて居る。 世界人類の為に本気に為れない。 率先垂範して、世界人類を負の連鎖のスパイラルから脱却せ使めよう としない。 真理に基づいて、「人を生(活)かして」、自己を施し、世界人類の平和の 為に自己を捨てるのである。 人間の諸能力は、総(す)べて、真理に基づく大局観、我執に著(ちゃく) さない大局観に基(もと)づいて能力する、此の心が涅槃妙心である。 《 「宇宙(生命)の本質」(涅槃) からの促し 》 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し から人心への、三毒(貪・瞋・ 癡)の投影が菩提(道)心と為るのであるが、 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し とは一体何か? 是は、「宇宙(生命)の本質」の現象実体為るエネルギーの涅槃化力の、 人心への作用である。 小生、十代半ばの、人間の現存在自体が、「本来は満たされて在るもの だ」と云う、外発的実存四苦に誘発されて生じる、内因性直観である。 其の自己の心の本来性(禅門で謂われる処の『本来の面目』)へ至る道 程は、十牛図の第一段階尋牛や「長者の家の子と為りて、貧里に迷うに 異ならず」(白隠禅師『坐禅和讃』)と比喩される、最初の狼狽(うろた)え から始まるのであるが、其の“四苦への疑念”に触発される、「本来満た されて在る筈の生命」為る、『本来の面目』への直観に始まって居るので ある。 十代半ばから十年足らずを隔てての、小生の「坐禅入り」は、嘗(かつ) ての其の直観の、正に体現に他ならない。 自己の真偽を評価するに、最善策がある。 リトマス試験紙の様に、簡便に自己の真偽を判別出来る。 自己が真人(しんじん;本物)であるか、其れとも偽者(にせもの)である かである。 真とは涅槃為る真理の事である。 偽とは人が為(な)すと書いて、「自然ではない。自己の為に人為的に作 る」、つまり二元相対世界に由来する処の偽(いつわ)りである。 人類三毒(貪・瞋・癡)は盲目的に自己をも偽ってしまうものである。 此の貪著(とんじゃく)が諸悪の根源なのである。 自己をも盲目にしてしまい、物事の正確な判断が及ばず、地獄を生む。 此の無自覚為る誤算が世界を狂わし、「原爆で世渡りさせる」のである。 一方、真理の世界は、水と油の如く、リトマス試験紙の様に明確である。 「解脱」では極佛行為る身体性が残るが、「覚天(涅槃回帰)」では「宇宙 (生命)の本質」である、永遠に恒常普遍の「宇宙の真理」に回帰して、 自己の身体を完全に離脱して居るが故に、物事の判断に狂いが生じな い。 自己の真偽の見極めは、リトマス紙を浸(つ)ける様に、常に、其れが「 世界人類の為」か、其れとも「自分の為」かと自心を窺(うかが)って見る のである。 若(も)し、真人であるならば、其の立脚点は「世界人類の為」であると自 明である。 施政は、「偽者集団」でなく、「真人集団」でなければ為らないのである。 是は施政以前の大前提でなければ為らない。 真っ先に斯(か)く、自己の立場を明確に、世界に向かって打ち出さなけ れば為らない。 其れだけの信念が不可欠である。 自己集団の為であるならば、将来性が無いが故に、世界人類の平和の 構築、完遂へ連携すべく、自己修正しなければ為らない。 真理由来ならば、必ず然(そ)う為るからである。 無知、無関心は罪悪である。 若(も)し、真人であるならば、其れは何(いず)れは、必ず人を動かす筈 である。真理に同じ、帰一して居るから。 抑(そもそも)、受験為る能力競争の延長線上の原爆投下である。 真人に為れる機会は、諸国民の自己(国)の為なる社会通念(常識)か ら逸脱して、「人間(類)の為」の菩提(道)心を発(おこ)さなければ為らな い。 つまり、個別的為らざる、普遍性を持たねば為らないのである。 インダス文明は、インダス川とヒマラヤ山脈の自然に恵まれ、日本は微 妙繊細な自然の島国と云う、其れに相応(ふさわ)しき、基本的条件に恵 まれた。 個から全の、普遍性を体得する唯一、無上の方法が坐禅である。 故に、坐禅は人生の精髄なのである。 全と一(いつ)とが一如(にょ)足る体験。 境界が消滅する、全一体験である。 「国民」から「世界人類」への国境を越えたグローバルな国家観が絶対 不可欠である。 義務教育に於いては、毎週一時間でも坐禅修道を併用すべきである。 其れが、生活全般に善い影響を齎(もたら)す。 学問と修禅は併行して修されるべきものである。 故に国連の支部として、日本に托鉢自活の千日初行道場を設置すべき である。 相対的世界と云うものは、相手が不可欠である。 つまり、相手に依存して居る。 相手に依存する者同志に不可欠為るものは自己である。 其れも、相手に依存する自己でなく、自己に依存する絶対自己である。 絶対自己とは、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に覚(さと)された自己の 事である。 『最初後身心』の在り様は、人の善意と信心に生(活)かされて在る自己 である。 理解して得られた知恵としての学問的真理は、頭で解(わか)ると消える 。是は単為る頭脳の産物に過ぎない。 生命其のものは頭脳の産物ではない。生命の産物が頭脳なのである。 生命現象自体を頭脳で置き換えられるものではない。 知は限り無く、無知を生み出して、完了する事が無い。 探究心為るものは然(そ)う云うものだ。 ソクラテスは「無知の自覚」を説いた。 信の世界は、何処(どこ)迄も信の世界であって、神仏の様に信ずべき 対象が在る。何処迄も、実在しない神仏に接近しようとする心。 其の信が本物と為るのは、信の対象が一如足りて消滅する時である。 つまり、信の対象其のものと成るのである。「即身成仏」である。 是は、涅槃為る「宇宙の真理」其のものに回帰する以外在り得ないので ある。 「悟り(身心脱落)」等も含めて、集中した心が対象を忘れ、意識が其の 本源為る涅槃識に生まれ変わって、涅槃妙心為る真理を体解(たいげ) するのである。 人を信ずる場合も、自他一如(にょ)足る以外在り得ないのである。 自と他との心の境界が消滅する。 嘗て、吾(わが)師が攝心会で、坐禅中に「畳が自分だと思えますか?」 と言われた。 坐禅は分別意識が消滅する。 師の言葉に違和感が無く為ると同時に、真に徹底するのは正に真理回 帰以外無いのである。 自他一如とは自己他己(=自己中の他者)一如と言うのが真実である。 自己他者一如は不可能。 自他一如は正確には、自他一如への限り無き信である。 故に、国家間も人間関係も、涅槃回帰した『最初後身心』に尽きるので ある。 涅槃妙心為る、宇宙の本源に回帰したからである。 人類諸能力は人類愛に昇華し、其れは信の世界へ、更に「悟り」、「解脱 」、「真理回帰」に帰結するのである。 人類は、人間為るが故の、宇宙涅槃化エネルギーに由来する、佛性と 共に、人間としての使命を本来具足して居るのである。 宇宙の真理、涅槃を吾(わが)涅槃妙心(智慧)と為し、是に違(たが)わ ず、同(どう)じ往きて、是に帰一し、此の信頼結束の下に、「世界人類の 平和を構築、完遂しなければならない」と云う自覚を持たねばならない。 真理無き世界は混沌である。 宇宙真理の自覚が涅槃世界を生む。 《 人類進化の階梯(てい) 》 人類の進化には、成長する身進化と、弱肉強食の能力的身進化と、芸 術、スポーツ等の能力的身心進化、政治、宗教、学問等の能力的心進 化、そして「悟り(身心脱落)」、「解脱」、「覚天(涅槃回帰)」の不連続性 の本質的心進化が在る。 世界人類の平和と云う、人間世界に於ける最終段階に入るには、先ず 「宇宙の真理」に基づいて、受動、消極的、「殺さない」。 そして能動、積極的、「生(活)かす」の段階的進展を遂げねばならない。 《 究極の淫快 》 究極の淫快とは、純粋為る心的淫快であり、生死を超えた、涅槃に基づ く、解脱した、風鈴(=水と油)の如き、後を一切留(とど)めない淫快酔 である。 性欲為るものでさえも、其の究極は「宇宙の真理」に回帰する事なので ある。 食(物)欲も、他(ほか)ではない。 斯(か)く、真理を認知する事が人類三毒(貪・瞋・癡)の貪著を客観視し 、自(みずか)らの人生を誤(あやま)らせずに、「世界人類を生(活)かす 」と云う点で、極めて重要なのである。 人類三毒(貪・瞋・癡)の無上の良薬は、真理為る涅槃妙心(智慧)であ る。 貪著する程に、地獄を味あわざるを得ないのである。 俊馬は鞭(むち)を見ただけで走り出し、鈍馬は打たれても動かない。 《 心進化最先端の一点の足跡 》 心進化の最先端の一点の足跡を、人類の為に遺すと云う作業を日々し て居るのである。 偏(ひとえ)に、其れが、何(いず)れ、「世界人類の平和」への糧(かて) と為る事を切に願うばかりである。 《 真理回帰の意味する事 》 世界人類は、人間が宇宙真理に回帰した日本と云う国家の本質的在り 様を、更には、小生鐵漢『最初後身心』を最も尊貴しなければ為らない。 宇宙開闢(びゃく)以来、今日に至る迄の人類史上、一点の時空為る日 本の『最初後身心』である。 是無くして、宇宙に真理無く、宇宙真理が顕現するには、人間世界の総 べての諸条件が宇宙真理に適合せざれば、至り得なかったのである。 唯一、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に貫通し得た「証(あか)し」なので ある。 涅槃回帰し得た『最初後身心』の諸環境の本質的在り様に則(のっと)っ て、世界人類の在り様を整えるべきである。 真理を生み出した人間の境遇の大局的観点の、本質的在り様と云うも のが、人類心進化への究極的在り様なのである。 即ち、如何(いか)為る境遇に在ろうとも、人間は飽く迄も本質的志向性 に徹して、生き抜くべきなのである。 《 「出来る事」と「出来ない事」 》 人間には結果的に、其の人にとって「出来る事」と「出来ない事」とが在 る。 然(しか)し、言える事は、其の人にとって最大限に「出来る事」迄、人に 尽くす事である。 仮令(たとえ)結果的に「出来ない事」であったとしても、其れは結果であ って、其の心を持ったと云う、基本的心が宝なのである。 《 安部元総理国葬について 》 今こそ、国政一新の時である。 旧体制の悪弊を含めて、 宇宙の真理に基づいて、世界を教導し、 日本主導の世界体制を構築すべく、 岸田総理主体の新体制を完遂しなければ為らないのである。 此の気概を、今日本の全議員が共有して生まれ変わり、真理国家日本 が、溺(おぼ)れ掛けている親を見捨ててでも、「世界人類を生かす」 の 菩提(道)心で、二元相対的対立の世界の現状に、宇宙の真理に基づく 信頼結束への正道を主導し、世界人類の平和へ直結せ使めなければ 為らないのである。 《 生 活 》 生活と云うものは、普遍性を持った、自律為るものである。 心には、常に世界人類の平和を願いつつ。 何時(いつ)かは、世界人類が「世界人類を生(活)かす」、 真に、人の身の上を、吾(わが)事の様に思い遣れる心を以(もっ)て、 施政出来る指導者であって欲しいと、心より願うものであります。 釈尊は、三毒(貪・瞋・癡)為る人間を、 「諸々の禽獣(きんじゅう)と相異なる事無し」と譬(たと)えられたが、 真理に回帰した小生『最初後身心』は、時空を超えて、 真理を知らざる三毒(貪・瞋・癡)為る人間は、 「檻(おり)に閉じ入れられた禽獣(きんじゅう)の如し」と形容する。 《 人間の本質 》 世界人類の平和に不可欠為るものが透明性である。 透明性とは、普遍性であり、永遠為る真理の事である。 是、人類の善心(=涅槃妙心)であり、「生命の本質」である。 是が世界人類、信頼結束の最大の要因である。 諸現象は其の本質に基づくものであり、不安定で、而(しか)も人間世界 では二元相対為る分別の域を脱却し難い人類の宿命である。 然(しか)し、東洋インドで唯一、其処(そこ)からの脱却する道が人間に 根付いたのが、五千年程前の、中東アフガニスタン由来のアーリア人の 北インド定着後の、原住民との共生の文明から生まれた瞑想に由来す る、古代バラモン文明(の原点)から生まれた釈尊苦行の成果足る中道 (諦観)に拠りて、人類史上初めて、成道(解脱)に因りて、心の本質に触 れたのである。 其の後二千五百年程経て、其の中道に基づく正法苦行(=千日行)に 拠りて、小生鐵漢が宇宙の本質に回帰したのである。 涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の真理に回帰し得て、涅槃妙心を知り得 たのである。 是が「世界人類の平和」の必須不可欠条件である。 「世界人類を生(活)かし合わ使める」涅槃妙心智慧が世界人類信頼結 束の要(かなめ)である。 是に違(たが)えば、世界は地獄に陥(おちい)るし、同(どう)ずれば、世 界は涅槃へ向かうのである。 此の本質の真理に至り得なければ、人類の二元相対世界の分断と対立 は不可避である。 此の人類の宿命を回避出来るのは、唯一、本質の真理に帰一する事で ある。 世界人類が、此の絶対性を認知するだけでも、世界は安定し、自(おの) ずから歓喜の世界へ趣くのである。 此処(ここ)には、涅槃真理為るが故に、諸悪の根源人類三毒(貪・瞋・ 癡)由来の疑心暗鬼為らぬ、信頼結束するからである。 宇宙の涅槃化エネルギーの透明性である。 人間世界に不可欠為るものが、此の透明性である。 如何(いか)為る闇も、是は人類不信に陥(おとしい)れ、分断、対立が 生起する根本悪である。 人類三毒(貪・瞋・癡)に由来する闇は、絶対に回避しなければ為らない のである。 涅槃化とは透明化である。 是が世界人類の平和への第一歩である。 最近、パソコン不調。 《 進化に於ける連続性と非連続性 》 人類諸能力は、連続的心進化を遂げるが、此の連続性に於ける非条理 、言語道断と、非連続性為る真理とを繋(つな)ぐものが、瞑想から真理 回帰の、真理体現への階梯(てい)である。 世界は時間的に、地殻変動に褶曲と断層が在る様に、光同様、連続為 る波動性だけでは成立し得ない。 非連続為る粒子性(=刹那)が絶対不可欠である。 社会通念(常識)は、其の本質足る『最初後身心』に包摂されるのである 。 二十一世紀は真理黎明期である。 人類史上、人間が初めて人間世界の根源に入り得た、即ち、宇宙の真 理(涅槃)に回帰した、最も画期的為る時代である。 此の十年間が世界人類の生活の質を全体的に向上せ使める、最初に して、最後の基盤構築期であり、将来の人類の真の繁栄を期成して、 今こそ、人類は菩提(道)心を奮起せねばならない。 今、遅疑逡巡(ちぎしゅんじゅん)して居る場合ではないのである。 世界の連続性を教導するものは、非連続為る「生命の本質」回帰である 。 進化其のものが形質的連続性為る突然変異と、学問的把握不可能為る 、心進化の最終段階である、宇宙の真理の依拠(いきょ)足る涅槃化エ ネルギー由来の涅槃(本質)回帰と云う本質的体現為る非連続性であり 、恐竜は『最初後身心』足り得たのである。 地上の地獄を、涅槃為ら使めるのが真理である事は疑う余地も無い、 超能力(宗教、科学)的真実である。 是からの世界は、涅槃妙心を措(お)いて、世界人類の平和を語る事は 不可能である。 世界人類が真理と向かい合わざるを得ないのは、世界人類が、表裏一 体にして、其れ無しでは成立し得ない不可避の運命なのである。 『最初後身心』の非連続性は、世界人類の非連続性であり、唯一の正道 からの真(理への)道である。 是以外、世界人類の平和への道は存在しない。 後(あと)、不可欠為るものは、世界の指導者達の菩提(道)心と、彼等 の勇(英)断有るのみである。 其れが彼等の使命である。 《 台 湾 》 「台湾を生(活)かす」のが、人類勝利の「証(あか)し」である。 真の「大人(だいにん)」の真(超能力)の能力である。 ウクライナに於いても然(しか)り。 「ウクライナを生(活)かす」のが、米露勝利の「証(あか)し」である。 米露は米中に倣(なら)わなければ為らない。 中東と共に、露の一層の努力に期するのである。 《 最初の微微足る執著を解(ほど)く 》 人類の諸悪と云うものは、一寸(チョッと)した我慢(=忍耐)が及ばず、 其処(そこ)を力(=我執)で押し通す事の集積、拡散に因って出来上が ってしまうものである。 「我慢」とは忍耐と我執(しゅう)との両意在る。 最初の一寸(チョッと)した、取るに足らないものに過ぎない処(ところ)迄 、糸の絡(から)まりが解(ほど)けるのに、人類は真の労苦を要するので ある。 是に本格的に特化するものが正法苦行である。 正法苦行で結果的に自我に死んで、真理回帰出来るのである。 其の涅槃妙心に同じ、帰一する事が世界人類の平和なのである。 風鈴為る心的淫快同様、本来の風鈴に止まらずに、力依存に執著 (じ ゃく)する処に、涅槃から地獄入りする端緒(しょ)が在るのである。 《 宇宙のエネルギー 》 物質無くんば、宇宙無し。 存在である。 物質(マター)とはエネルギーである。 故に存在とはエネルギーである。 アインシュタインは此のエネルギーで、史上最大の大量破壊兵器を生ん だ。 必然的に、其の直後一世代を経て、小生鐵漢が其のエネルギーで、 涅槃為る宇宙の本質に回帰したのである。 真理である。 是が、西洋と東洋の顕著為る両特質の両極である。 存在から一方は学識と殺人兵器を生み、他方は真理と涅槃への永久機 関を生んだ。 社会と云うものは、把握し易いものを取り上げ、把握し難いものは敬遠 する。 実用的でないからだ。 真に実用的為るものは何であるか? 生命とは何(いず)れが相応(ふさわ)しいか? 一方は分別であり、一方は心である。 分別から心は生まれぬ。 分別を離れて、心は生まれるのである。 其の心から真の分別(超分別)が生まれる。 《 小生の枢軸 》 小生の中枢は正法苦行である。 特に後行、即ち托鉢自活生涯厳密千日後涅槃行(三時間坐睡二十四時 間仏作仏行)である。 是も、生きると云う事が、其れ以外には在り得ない処の生涯行であった。 其処(そこ)から、初めて至り得た、奇跡裡の奇跡事である。 つまり二十四時間不臥、三時間坐睡。朝から夕方(午後)迄の托鉢自活 。其れ以外厳密坐禅行。祝、日は托鉢を作務に。 是に拠りて初めて、其れ以外には在り得ない処の、究極の極佛行から 超脱する奇跡に至り得たのである。 是を可能為ら使めたものは、宇宙のエネルギー以外には在り得ないの である。 宇宙の涅槃化エネルギーをして、小生の在り様、つまり宇宙の真理が小 生を涅槃化エネルギーに回帰せ使めたのである。 「否!人だ!」と。 究極の、真実足る極佛行ではない。 「人を生(活)かす」だ。 と、極佛行に於ける、五年間に十五回の他己(教導)の終結が先行した 裡(うち)の、十六回目の、他己から自己への、自(おの)ずから到来し得 た落着感に起因した、涅槃化エネルギーに因る制裁が霹靂(へきれき; 落雷)の如く、小生の身、刹那の呼吸不全(異変)を介して、小生に知ら 使めたのである。 身を以(もっ)て反射的に知り、坐より起ち上がって、即刻教導作業に入 った。 古希直前の、今から二年十ヵ月前である。 宇宙のエネルギーは常に生(活)か使めるべく機能して居ると云う事。 涅槃化が、其の本質である事を、全身全霊で知り得た。 其れ迄、小生は、此の「宇宙の真理」に至り得て、涅槃回帰する事等は 全く夢にだに思った事は皆無であったのである。 小生は此の体現を「覚天(涅槃入り)」、涅槃回帰と称して居る。 自己と他己との収束振動の“揺れ”に於いて、人間は自己に落ち着くも のなのであるが、其の刹那すらも、宇宙は認めないのである。 宇宙は無我。 其の本質が涅槃化(エネルギー)である。 故に、常に「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」の である。 人類は後天的に、諸悪の根源、三毒(貪・瞋・癡)為る存在なのである。 「宇宙の真理」を知れば、人類は自他を問わず、殺さないし、殺せないの である。 そして、常に「生(活)かす」のである。 「宇宙の真理(本質)」に基づいて、人類諸能力を生(活)かせば、諸能力 も生(活)きる。 真理の要(かなめ)が絶対不可欠である。 自(おの)ずから、人類三毒(貪・瞋・癡)が消え、信頼結束が醸成される のである。 人類は根本に起(た)ち返って、其処(そこ)から遣り直さなければ、解決 しないのである。 枝葉からでは解決には至らない。 《 日程表 》 3:00―――起床 5:00―――帰宅 (ネット) (夕食準備) 6:00―――朝食準備 7:00―――晩課 (ネット) (夕食準備) 8:50―――朝課 8:00―――夕食 (朝食) 10:20―――托鉢準備 9:00―――片付け 11:20―――托鉢出発 10:00―――ネット 1:30前後 1時間(昼食) 11:20―――就寝 ※ 食後は直ぐ後片付け 日曜日は18:00迄入浴準備、21:00入浴 《 人類が最も為すべき事 》 此の地上に生まれては消え、生まれては消え行く生命である。 其の仮初(かりそめ)の命が為すべきは、一体何であるのか? 其れは、如何(いか)為る障害(魔;儚(はかな)くも有限為る身の貪著に 因りて、心の盲者と為り、永遠の命(=涅槃妙心)を知らざる事)をも越 えて、無条件に「人を生(活)かす」事である。 物は既に、地球上で人類が三十億年程生き残る。 人間は心を遺(のこ)すべきである。 如何(いか)為る心か? 「宇宙の真理」為る涅槃妙心である。 此の心有れば、人間世界は然(しか)るべく整うのである。 人間は涅槃妙心智慧で、地上に涅槃世界を構築、完遂しなければ為ら ない。 《 涅槃妙心智慧 》 生理(本能)的欲求の目的は、性欲は種の存続、食欲は生命の存続、 睡眠欲はエネルギー温存の為であり、是等は生命現象の根本である。 日々、最も不可欠為るものは睡眠欲であり、其れから食欲であるが、 性欲は生涯に於いて、必ずしも生死に係わる絶対不可欠為るものでは ない。 故に食糧の供給が政治家の最も根本的使命なのである。 然(しか)るに、諸悪の根源人類三毒(貪・瞋・癡)に因りて、是が今、 政治家に由りて歪曲されている。 政治家の使命とは、人類の頂点に立つ事と、「世界人類を生(活)かす」 事と何(いず)れであろうか? 人の生存を脅(おびや)かす理由、誰の何処(どこ)が、然(そ)うも憎(に く)いのか? テリトリー(縄張り)への貪著は、人間は動物的である。 プーチン氏の憎悪は、自己憎悪に他ならない。 真に気の毒な人である。 他者への憎悪は、自己への憎悪なのである。 実に憐(あわ)れむべき、救いの無い人間である。 プーチン氏に拠るウクライナのロシア化。 是は、其の動機其のものが“地獄入り”である。 其れと、其の暴挙とを、ミャンマー軍事政権独裁支配体制に拠る暴挙同 様、制止出来ない現国連体制に問題が在る。 是は時代の趨勢(すうせい)の必然性である。 国連常任理事国家指導者達の、「宇宙の真理」から乖離した社会通念 (常識)の在り様の見直しが不可欠である。 時代の傀儡(かいらい)足るプーチン氏の動向を制御出来ない現国連体 制への猛省以外に解決策は無いのである。 其れ無くして、受動消極性の間接的参戦や小手先の対処療法や、カメ レオン的対応では解決には為らない。 根本的改革、つまり「宇宙の真理」無き、強権支配体制を制御し得る国 際警察、国際法に基づく、原爆支配体制からの、国連の新体制を構築、 完遂しなければ、対露制裁や、中露の拒否権発動では、世界は改善さ れ得ないのである。 米中がロシア・ウクライナ問題化しないと云う保障は無い。 何と為れば、現米中が、其処(そこ)から脱却し得ないのであるから。 経済対エネルギー戦に拠る、我慢比べの衰頽(たい)戦に陥(おちい)っ ているからである。 唯、核は使用されないと云う、核支配由来の核回避状態である。 真理黎明の核呪縛時代である。 核支配が問題なのか、其れとも大国拒否権が問題なのか、何(いず)れ にしても、真理に基づく信頼結束、安保理拒否権足るべきである。 今こそ、「宇宙の真理」に基づく、人類史上類を見ない、画期的為る真理 黎明期に入らねば為らないのである。 宇宙真理を世界人類に浸透せ使める段階に在る。 《 一 生 》 小生の様な、人生の大半を三時間坐睡二十四時間仏作仏行を基軸に 生きて来た人間ですら、自由な時間と云うものは殆(ほとん)ど持てない のである。 其れ程、人生は長い様で、時間は無い。 「人を生(活)かす」教導、自律の規則性、そして残された命。 人生は二十四時間仏作仏行なのである。 「自覚」の問題である。 人間は「世界人類を生(活)かし合わ使める」為に如何(どう)でなければ 為らないのか? 二十四時間、真剣に自分の在り様を点検して居らねば為らない。 『光陰矢よりも速(すみ)やか也』 《 人間生命の価値 》 人間生命の価値を判断する基準と為るものは涅槃妙心である。 是は宇宙のエネルギーの本質であり、涅槃化為る機能に因る、人心へ の具現である。 是に同(どう)じ、帰一せんとする心程、「因果の道理」に由(よ)りて、 世界人類の平和に直結するのである。 此の対極を為すものが、我執(がしゅう)に基づく、諸悪の根源為る人類 三毒(貪・瞋・癡)である。 是は人間が生後、二元相対世界の環境下に、自我として人心を構成し 、必然的に時空的、全一的心進化(=宇宙的自他一如)を遂げ往くもの である。 斯様(かよう)に、個我は宇宙の涅槃化エネルギーに拠りて、やがては 国境を越え、宇宙の一存在として全一為る生を生きるのである。 是が涅槃化エネルギーに回帰する処の、仏性としての、涅槃為る「宇宙 (生命)の本質」である。 万人の死と、一人の人間の死の重さは本質的に同等である。 其の一人の人間の死と、自己の死も亦同等である。 大量破壊兵器に依る大量殺戮(りく)は、其の真実を一挙に飛び越えて しまい、其の我執(しゅう)の貪著に起因した盲目の狂人は、人命其のも のの尊厳への一抹の配慮も無く、麻酔にでも掛けられたが如く、無感覚 に為りて、短絡思考で効率的に、「分別に依る機械的殺戮」を行使してし まうのである。 分別とは「自己の為に他者を処分してしまう」ものである。 生命は自己と他己と一如足るものであるにも拘らず、自己と他己を分別 してしまう。 「分別」とは「切り割(さ)く」であり、一如足り得ないのである。 心の微妙、深甚は本質志向である。 本質から乖離した現象を追う人間は表面的傾向にある。 「生命の本源」は本質である。 真実は、本質から現象するのであり、現象からは、其の本質には至り得 ない。 現象を離れて(=自己を忘れて)初めて、真に「本質回帰」するのである 。 現象を如何(いか)に引き摺(ず)っても、本質には至り得ない。 生涯無敗の剣豪武蔵でさえ、殺人剣を捨て切れなかった様に。 又、文豪漱石が坐禅入り出来ず、観念的「則天去私」に止まった様に。 自己を忘れて、万法(森羅万象と心)に証せられるのである。 万法に証せられるとは、「本源の命」に帰する事である。 是は坐禅に他ならない。 坐禅の側から生命の真価を戴(いただ)くのである。 坐禅は人生の神髄である。 《 教導と規則性 》 教導(他己(者))は我々人類が当然在るべき、より理想的な在り様を 説く。 其れが虚偽でなく、真実であれば、自(おの)ずから厳しいものである。 其れは、規則性(自己)に依りて、真に生(活)きるのである。 地上を覆(おお)う人類の有機的構成系と云うものは、此の教導と規則 性に拠りて、教導が其の真価を発揮出来る。 其れが真理(実)の表裏を為す。 言う迄も無く、其れが生活内容の透明性と云うもので、其の生き様に宇 宙の真理に裏付けされたものがなければならない。 釈尊(人類)の中道(諦観)前の苦行域為る、死に至る相対的厳格性と、 解脱域(中道後)の不惑為る、正道の厳密さと、涅槃域(真理)での調和 と均衡と静謐は人類心進化の過程上の必然性である。 是無くしては、人類は二元相対世界からの脱却は不可能であり、人類 三毒(貪・瞋・癡)からの世界人類の平和には至り得ないのである。 『最初後身心』の真理開示に拠りて初めて、世界人類が信頼結束して、 一丸と為りて心進化を遂げ、世界人類の平和を構築、完遂するに至る のである。 《 広島原爆の日 》 バイデン氏の核兵器禁止条約締結の勇断が世界の「涅槃帰一」への礎 石足る事を知る人間は、小生『最初後身心』一人ではない。 此の事実を世界人類が深く心に銘記しなければ為らないのである。 人間が前進する為には、一歩の踏み出しが不可欠なのである。 此の一歩の踏み出し無くしては、人類は前進出来ないのである。 踏み出すのは心の問題である。 諸現象を本質(=涅槃)化するのは心の問題である。 此の心が、指導者が率先垂範して、米国国民をして其の非本質的混迷 状態から覚醒せ使める契機と為るのである。 人類の負の世界遺産為るバイデン氏の脳髄に、世界人類の生命を託す 訳にはいかないのである。 《 世界人類の将来性の分水嶺 》 人間の本性を知・意性と、情性と、天性とに分類すると、 知・意性 情性 天性(=「宇宙(生命)の本質」からの促し ) ↓ ↓ ↓ 学問等 芸術等 ⇒ 菩提(道)心 ↓ ↓ 神性(信仰) 坐禅(禅定) ↓ 自己を神意に迄昇華 仏性(精進、体現) (人為) 自己を忘れ天意覚醒 原爆支配 (超人) 涅槃回帰 統一教会の米国中枢への関わりの深さは、日本とは比較に為らない程 大々的であった。 是は米国民の、自己に対する本質的な掘り下げが粗略であるが故に、 其の心の隙に実利的に介入したものである。 日本でも、其の影響を直接的に受けたが、阿部氏の被弾は正に其の結 果である。 自(みずか)ら招来した惨事と言わざるを得ない。 「因果の法則」は誤魔化せない。 米国内の混乱と分断は、今後世界を牽引する国家足り得ない。 其の点、中国の将来性には、インドと共に、今後大いに期待され得る。 米露と云う、二大核保有国家其のものの本質的必然性を内包して居る が故の、其の将来性への閉塞感は危機的である。 日本は諸外国の諸現象を教導し得る立場であるだけに、真理に基づく、 正眼の構えの立場を堅持しなければ為らない。 剣禅一如の長年の研鑽に拠て悟入した鐵舟に対して、其れ迄歯が立た なかった剣客荒井氏(?)は、構えの段階で其れを察知し、既に自(みず か)ら及ばざる事を認めた。 鐵舟は百四十年前、一刀正伝無刀流を創始したのである。 自己の外(ほか)に他者を見做(な)す、地獄の二元相対世界に留まる か、其れとも、自己と一如足る他者と共に、生(活)かし合って往く涅槃 世界に心進化を遂げるかは、分水嶺からの欧米流が、東洋的本質に遡 (そ)行するには、つまり自然に対峙する能力依存の西洋の国民性が、 東洋の自然に生(活)かされる民族性の、東洋に由来する「生命の本質 」に帰するには、其の能力帰着点からの更(こう)生が不可避である。 更生とは自己猛省である。 国家規模の根本的猛省に他ならない。 国民は国家の本質に敏感である。 小手先の一夜漬けでは、本物に出来上がらない。 今の混沌は、致命的であり、ペロシ氏の決断には、其れなりの必然性が 在ったのである。 日本政府にも、世界を教導するだけの、ペロシ氏並みの決断力が不可 欠である。 《 皇位継承問題について 》 今時の皇位継承問題は、換言すれば、日本人の男女差別為る人種差 別問題である。 伝統は破られる為のものであり、破られてこそ、伝統の真価が有るので ある。 既に心進化は、小生『最初後身心』に依りて、真理為る宇宙の涅槃回帰 迄と云う事が体現に拠りて、体験的に実証されて居るのである。 旧態依然の伝統から身動きが出来ない様では、人類に心進化は為らな いのである。 皇室にあっても、政界、宗教界、学界等、如何(いか)為る人間世界に於 いても、「世界人類を生(活)かし合わ使める」事が目的なのである。 人間の諸能力は総べて、其の目的の為のものである事を忘れては為ら ない。 此の目的以外の一切は、総べて夢幻(ゆめまぼろし)と化すのである。 此の世界が、宇宙の真理為る涅槃世界である。 世界人類の平和は、此の「宇宙(生命)の本質」足る涅槃に基づくもので ある。 従来の、真理無き時代の国連体制の見直し、国際警察、国際法の一新 等、真理黎明の今、当然、従来の釈尊中道以前の苦行時代然の、死に 至らざるを得ない地獄界を踏襲する在り様から心進化を遂げた今への、 諸般に亘る根本的改革の必然性は不可避なのである。 是を、古来の型に固定させるのは、涅槃世界を拒絶して、解脱界に止( とど)まる様なものである。 人類が悟って居なければ、宇宙の真理を拒絶するのは、本質無き混沌 に他ならない。 今後、男子尊重の立場は、如何(いか)なる場合に於いても、女性蔑視 に繋がるものであり、日本の悪弊為る人種差別である。 正に、時処位に拘らず常に男女平等でなければ為らない。 然(しか)るべく、永遠に涅槃化され往く処の宇宙の必然性である。 男女平等足り得ない処に、人類が超さねばならない課題が未だに残って 居ると云う事であり、是を克服する労苦と努力を能動積極的に惜しまぬ 事が人類心進化の実際である。 唯、男女問題で言える事は、男女間と云うものは、本来「慎(つつし)み 深く」あるべきだと云う事である。 其れが男女間に於ける涅槃妙心(智慧)である。 動物的為らざる男女間らしさ、つまり男らしさ、女らしさである。 此の「慎み深さ」は世界人類の平和にも不可欠為る人間の素養である。 一歩誤れば、自由の誤った解釈に繋(つな)がる。 此の微妙甚深為る涅槃妙心から語られる真実である。 人間生命の奥深さは、宇宙の涅槃化エネルギーに直結し、其の依拠( いきょ)を知る事と為る。 本来、性欲為るものは、「解脱」すれば、水と油を知るのである。 決して混濁しない処のものである。 何処(どこ)迄も混ざり合うが、本質的に混濁しない。 科学的にも真である。 其処を知る体験が「解脱」であり、其の刹那が永遠である。 「解脱」に基づいて始めて、涅槃回帰為る「覚天」の奇跡が生(せい)起 するのである。 人類の迷妄は、是を知らざるが故である。 《 出発点 》 小生、メモ百枚、可能な限りの今。 小生の認識と、是からの日本、及び世界の蓄積。 ロシア・ウクライナ問題の鎮火後の余熱に因る自然発火が消滅する迄、 完全消火しなければ為らない。 此の火は正に諸悪の根源為る人類三毒(貪・瞋・癡)の火に他ならない。 人類を焼き尽くさんとする地獄の火である。 現時点で、未だロシアの暴挙が鎮火しない処にこそ、正に鎮火せ使め ねば為らないのである。 其れには矢張り、「宇宙真理の促し」由来の菩提(道)心と、是に随伴す る「悟り(身心脱落)」と、決定的為る「解脱」体験に始まる、水と油に基 づく解明為る、潜在的為る、ものの判断力。 更に、「覚天(涅槃回帰)」に拠る完全了畢(ひつ)。 是に因りて、其の潜在的為る判断力の、宇宙の真理に裏付けられた涅 槃妙心が顕現する事と為るのである。 是は「宇宙の本質」からの判断力である。 「世界人類を生(活)かし合わ使める」判断力。 つまり、無上の機能を有するコンピューターである。 後は、是に世界の情報を入力しなければ為らない。 其れと共に、世界の、国家レベル、及び世界レベルの新体制の構築が 不可欠である。 其れも、人類史上、最新の能動積極的為る、涅槃真理への可能性への 信頼に基づく至行である。 分別以前の正眼の構えに基づいて居る。 《 人生の概略 》 神の世界では、屡(しばしば)自己の信奉する神の為に、身命を賭(と)し て聖戦する事を神意として尊き事と為す。 自己為らざる者を否定して、聖戦に赴(おもむ)くのでなく、彼等を可能性 として受容すべきである。 此処(ここ)で熟慮すべきは、 神と世界人類の平和と何(いず)れが尊きものであるのかである。 世界人類の平和を犠牲にする神は邪神に他ならない。 自己の三毒(貪・瞋・癡)、或いは自己為らぬ神の為に自他の命を犠牲 にするのでなく、世界人類の平和の為に自己の命を施すのである。 世の中、是だけの事であるのだが、是が出来ない。 大抵は自己の三毒(貪・瞋・癡)の為に他者を犠牲にする傾向がある。 そして自己の三毒、又自己為らぬ神の為に自他の命を犠牲にするので ある。 国家の指導者程、此の傾向が強い。 世の中は、斯様(かよう)に妄想顛倒(てんどう)して居るのである。 斯(か)るが故に、核抑止で世界を破滅に導く。 では、如何(いか)に為(す)れば宜しいのか? 「世界人類を生(活)かす」のである。 全一(いつ)の 心の融(と)け容(い)る 蝉(せみ)の声 「人だ!」 人類の諸能力が究極的に往き着く先は、「人だ!」 である。 是迄(これまで)、一心不乱に身心を尽くして来て、結局は、 人と人の関係性から愛へ、 そして行から「悟り」を得て、宇宙の涅槃為 る真理へ究竟するのである。 《 愛と涅槃真理 》 愛は「神への愛」と「人類愛」がある。 前者は聖戦のある信仰であり、後者は国境や職業を超越した普遍的な ものである。 一方、涅槃は「宇宙(生命)の本質」であり、斯(か)るが故に真理為る、 宇宙の涅槃化エネルギーの働きである。 是は坐禅の功徳として冷暖自知され、更に真徹して究竟涅槃足り得る が、厳密には、是は涅槃妙心でなく、涅槃足る本質的様相に過ぎない。 涅槃妙心足るには、涅槃化エネルギー機能の、自(みずか)らの体現が 絶対不可欠である。 「覚天(涅槃回帰)」無くんば及び得ないのである。 極佛行は一蹴(しゅう)されて、涅槃妙心が具現されるのである。 臨済禅師の如く、「仏を殺す」のでなく、極佛行が刹那に人 に取って替 わるのである。 当然の事ながら、極佛行無くんば、「人しか無い」のである。 此の真理(実)を了得するには、先ず自力を究竟して居りながら、他力に 究竟され得なければ、真理には到達し得ないのである。 通常、人は人と合って居りながら、実際は真には合っては居ないのであ る。 唯、現象的に共存して居るだけで、本質的に生命が一如(いちにょ)足 り得ていない。 人と真に出合うには、自己と真に出合って居らねば、人とも真に出合う 事は出来ない。 自分が自分に真に出合うとは、自己の生命の本質を体験すると云う事 である。 つまり、其の本質に回帰するには、坐禅以外には不可能なのである。 「悟る」とは、其の「生命の本質」を知る事である。 つまり既成概念から脱却して、後天的な現象的生命から本質的生命に 生まれ変わるのである。 其れが「身心脱落(悟り)」である。 現象は分別からでなく、真理から現象されなければ、涅槃為らざる幻(夢 )想を輪廻する事と為る。 人類の極悪産物の核兵器問題も、涅槃為る「宇宙の真理」から取り組ま れなければ、解決には至らない。 現象的に、相対的に勝つのではなく、本質的に解消する、つまり涅槃に 帰するのである。 安部元総理は過酷な神経症(神経性大腸炎(?))との戦いに於いて、二 度政権を放棄した。 最初は、小生フェリーで下関への托鉢の途上、其れが心因性である事を 知った。二度目も同様の障害に因りて、放棄せざるを得なく為った。 総理を退任後、再度復権を図る途上、被弾した。 真理の透明性からすれば、其れは、統一教会の教団側の無謀な献金催 促の強要に対する信者側の「畏怖の念」を悪用する布教集団を利用して 、自(みずか)らの政権を維持して来た安部元総理の施政の本質の必然 的末路と言っても過言ではない。 《 中東問題 》 中東イスラムの狭量為る自殺行為の悪循環の根本原因は、不毛為る 格差社会に於ける貧困と、余裕無きが故の女性差別と、貧者の先進国 家に対する不信感である。 其の最善の解決は、宗教の進化(=涅槃為る宇宙の真理を忘れない事 )と、「世界人類を生(活)かす」涅槃妙心に基づく信頼結束である。 此の涅槃妙心の三善根(布施・慈悲・智慧)で、相互に「生(活)かし合 う」姿勢である。 《 神を生む者 》 若し、神が居るのであれば、既に世の中は成って居る筈である。 成って居ないのであれば、自(みずか)ら神と為って、世界を生まなけれ ば為らない。世界は生まねば、生まれないのである。 小生『最初後身心』が世界を生む存在である。 真理に至った人物が世界を生むのである。 是以外に、世界人類は平和には至り得ない。 米国に其の力量が有るか? ロシアに? 中国に? 斯(か)くすれば宜しいと云う、小生の「真(理へ至る)道」が語れない。 是を語る為には、其の道を歩いた人間が、現実に其れを実践し、世界人 類を教導する以外には無いのである。 つまり、『最初後身心』以外には存在しないと云う事と為るのである。 真理へ至る、正しき道を弁(わきま)えた人間であるからだ。 是が世界を教導しなければ、一体誰に其れが可能と為るであろうか? 原爆支配者達の中の生き残り以外、在り得ないのである。 憐(あわ)れ為る生き残りに、一体何が可能と為るであろうか? 『転(ころ)ばぬ先の杖』で、事前に然(しか)るべく、配慮しなければ為ら ないのである。 「殺さない」の大前提で、不可避為る負の側面を平等に共有する人格が 不可欠である。 是無くんば、「殺人」が止まらない。 もう一つの大前提は、「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ 使める」のである。 是が「宇宙の本質」である。 自(みずか)らの欲を制する人物でなければ、世界が整わない。 世界の指導者達の、宇宙の真理に基づいた信頼結束が不可欠である。 《 真 理(一) 》 人間に語れないものが、 唯一在る。 其れが真理だ! 真理だけは、人間が語れない。 学者の如何(いか)なる原理も、真理として語り尽くす事は出来ない。 苦行者は苦行を行じただけで、真理を語れない。 真理を語る者は、小生『最初後身心』唯一人である。 自(みずか)らを『最初後身心』と称する者は、真理を語る者である。 真理は、夜空の星々を見るが如く明々白々にして、総(すべ)てを如実に 見て取り、語り尽くす恒常普遍のシステム足る。 真理は人を、全(すべ)てを語る為の、唯一の出所(しゅっしょ)である。 真理に基づいて、人類は生きねば為らぬ。 其れが世界人類の平和への、今に残された唯一の道である。 《 真 理(二) 》 小生鐵漢『最初後身心』の、真理に基づく涅槃妙心に拠りて、中道に基 づく正法苦行を脱却したのである。 涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に回帰して得られた真理、「世界人類を 生(活)かす」涅槃妙心を説き、涅槃妙心智慧で真理を説くのである。 真理は超宗教、超学問の、超能力にして、万法(森羅万象と心)を超絶 している。 真理は人類の如何(いか)為る業をも超越した、宇宙の力、宇宙の心で ある。 斯(か)るが故に、三毒(貪・瞋・癡)為る人類は、涅槃為る宇宙に拠りて 、「因果の道理」然に正されるのである。 其れは、宇宙其のものであり、全人類の生命其のものである処の、涅槃 の微妙甚深為る心、涅槃妙心である。 《 男女回帰 》 涅槃回帰は取りも直さず、男女回帰であります。 是、男女平等の極原点である。 涅槃化エネルギーの、分別以前の男女機能の原点。 淫快の原点であります。 是は心的淫快に他ならない。 此処(ここ)に至るには、涅槃回帰しなければ、つまり「解脱」して、奇跡 裡の奇跡事の、更に其の究極に於いて初めて至り得る処のものであり ます。 何事も、ブラックホールの如く、幽深足りて、諸現象は、全(すべ)て其の 本質に至り、「宇宙の涅槃」回帰に尽きるのであります。 是、宇宙の涅槃化エネルギーに基づく、現象の涅槃化作用である。 現象は無常にして、実に脆弱(ぜいじゃく)に帰すに由りて、永遠為る生 命足る、本質化する事こそ、実に超宗教、超科学為る真実なのである。 裏返せば、其れが菩提(道)心に他ならない。 此の正道が坐禅である。 是が人類の必然性(=中道(諦観))である。 斯(か)くして、本質回帰への階梯(かいてい)を辿(たど)る事に為り、 世界は、自(おの)ずから宇宙の調和と均衡と静謐(ひつ)を顕現するに 至るのである。 人間は現象的に槍状の人間と、本質的に輪(わっか)状の人間と在る。 前者は地獄志向の二元相対世界の人間であり、後者は涅槃志向の、自 己の心を依り処と為す本質的人間である。 人類心進化は前者から、後者を経て、永遠の宇宙回帰に至るのである 。 《 終戦の日に 》 戦後七十七年、今回、ロシアとウクライナの余戦と共に、小生の本格的 教導期は二年十一ヶ月を迎え、愈々(いよいよ)教導其のものが、自己 の身的内奥(おう)の核心に迫って来た感がある。 此処(ここ)に至り得て感じ入る事は、小生が教導し得ない事は、以降、 永遠に誰にも不可能であると云う事である。 小生『最初後身心』の存在意義が無上であると云う事である。 此の事実は自覚すると、しないとで、涅槃と地獄との懸隔を現ずる。 小生にとって、当然である事も、人類にとっては其の必然性が無いので ある。 斯(か)るが故の、ロシアとウクライナとの、延(ひ)いては世界の、釈尊 の死に至る断食苦行に象徴される、永遠に終わりの無い戦いなのであ る。 断食苦行は、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しに基づく菩提(道) 心由来であるが故に、東洋の叡智足る中道(諦観)で、真理の導きによ りて成道に至り得て、更には二千五百年を経て宇宙の涅槃に回帰し得 たのであるが、諸悪の根源為る人類三毒(貪・瞋・癡)と、人類諸能力に 基づく確執(しつ)に由来する「殺し合い」が生むものは地獄しか無いの である。 真理を知らざるが故に、涅槃に至り得ず、人類の自他為る宿命的、二元 相対の分別意識を具現する、ロシア・ウクライナ戦争に於ける、世界を 分断するが如き、不可避為る世界規模の混迷を終結に導くのは、個人 レベルでの「生命の本質」への深き洞察力と知見と体現に拠りて、涅槃 妙心智慧に同ずる以外に無いのである。 然(さ)も無くんば、二元相対の対立世界を地球規模で、永遠に引き摺( ず)る以外無い。 是に終止符を打た使めるのが、小生『最初後身心』の、正に其の為の存 在意義である。 本質を知らざる両者には、其の機を得る機縁は無いのである。 何と為れば、人間は現象を如何(いか)に引き摺(ず)っても、其の本質 には至り得ないからである。 諸現象の依拠(いきょ)足る物事の本質を知るには、現象を引き摺る前 に、本質に至り得る為の正道に導かれて、本質を知るのである。 然(しか)しながら、今日、其の手段を経ずとも、又、仮令(たとえ)其の正 道を知らずとも、正解(=真理)を護持すれば、人類は心進化を遂げる 事が出来る。 故に、世界の指導者達が正解足る「真理」を知る事に依りて、世界人類 の平和が可能と為る事を深く認識しなければ為らないのである。 プーチン氏とゼレンスキー氏は以後、相互に「生(活)かし合う」関係性を 保持しつつ、現状を維持する事で安定化を図るべきである。 双方が双方の立場を認め合う姿勢が全世界の姿勢と為るのである。 根本に「生(活)かし合う」涅槃妙心有らば、「殺さない」し、「害さない」。 此の宇宙の真理為る涅槃妙心、「世界人類を生(活)かす」心が絶対条 件である。 是に違(たが)えると、人類は混迷状態に入り、負のスパイラルに陥(お ちい)ってしまうのである。 世界の指導者足る者が、「殺し合い」を阻止する為の根拠を持たない。 従って、可能な限り、人命を犠牲にして本意を尽くさんと、「殺し合い」が 自然消滅する迄待つ以外無いのである。 「修善奉行」は言う迄も無く、「諸悪莫作」すら及び得ないのでは、国家に 信頼と云うものが育たない。 信頼無き世界に平安と繁栄は無い。 是が現代の、世界の指導者達の総意に他ならない。 是が、国連現体制の、世界の教育の基盤なのである。 受験戦争同様、人類の知恵が如何(いか)に進化しても、心進化が及ば ねば、本質的観点から生まれる、人類にとって真に必要なものを見失っ てしまい、人類は「殺し合い」を阻止するだけの根拠を、未だに持ち得な いのである。 何の為の知恵か?知恵の拠り処を持たない。 是は恥の問題である。 人を害する事に恥を持たない。 「取った取られた」、「勝った負けた」に、負的志向性裡に、拘泥し過ぎる と、人間は「恥も外聞も無くなる」と云う状態に陥(おちい)るのである。 然(しか)るに、人類の「慚恥(ざんち)の念」と云うものは、自己の在り様 に対するものであり、恥の根拠は「当然在るべき様」に対するものである 。「当然在るべき様」の根源は一体何なのか? 一体、何処(どこ)に根差して居るのかである。 此の「当然在るべき様」は、回顧するに、小生十代の放浪の出発点に於 いて、吾心の根底の潜在的なものであった様に思われる。 「慚恥の念」は人類の本質に抵(てい)触する、宇宙を貫徹する菩提(道) 心の根源的原動力足るものである。 是は宇宙の涅槃化エネルギーの機能に根差して居るのである。 つまり、「涅槃化」である。 是が「宇宙(生命)の本質」である。 「宇宙(生命)の本質」は、涅槃化の為の、最も効率的為る規則性と教導 の在り様に他ならない。 其れは「世界人類の平和」である。 つまり、取りも直さず、「世界人類の平和」の為の、理想的な規則性と教 導状況に随伴する恥なのである。 能力由来の相対的恥と本質的な絶対的恥の、レベルの相違は在れども 、其の生(せい)起する由来に深浅がある。 涅槃化機能から派生する恥は宇宙を貫徹する。 斯(か)るが故に、人類は涅槃為る宇宙に回帰せ使められ、人類心進化 が、涅槃への収束振動の永久機関足るのである。 菩提(道)心が人類の宇宙回帰の要(かなめ)である。 『慚恥(ざんち)の服は諸(もろもろ)の荘(しょう)厳に於いて最も第一なり とす。慚(=恥)は鐵鈎(こう)の如く、能(よ)く人の非法を制す。 若(も)し無愧(ぎ;恥)の者は諸の禽獣(きんじゅう)と相異なる事無し。』 (釈尊『御遺教』) 此の「慚恥の念」と対極を為すものが諸悪の根源、三毒(貪・瞋・癡)の 根(ね)為る欲の貪著である。 貪著は、人心をして、男女の別無く、共に天才的に様々に修飾し、暴力 的に正当化し、闇から闇に葬(ほうむ)り去る。 然(しか)しながら、其れは本能(生理)的欲求への貪著に他ならないの である。 《 世界人類の信、そして勝者の力 》 世界の指導者達の、小生『最初後身心』涅槃化真理への傾倒は人類心 進化の必然である。 人類諸能力の宇宙真理に対する、無謀為る挑戦であるからだ。 「因果の道理」は超科学的である。 人類の業と云うものが、大自然の働きに抗して、一体何(どれ)程の神業 (わざ)を生み得るかを裁量する事は、実に愚かしき試みである。 此の宇宙真理の涅槃化為る真実に対して、人類の我欲の三毒(貪・瞋・ 癡)が如何(どう)でなければ為らないかが涅槃妙心智慧と為りて、世界 を生むのである。 人間は力ではない。 信・鈍・根の、涅槃への収束振動である。 力は二元相対世界にして、無常為る、盛(じょう)者必衰の理(ことわり) を現す。 信・鈍・根は必然的に成(じょう)じ往き、涅槃必至である。 世の中は、相対的力でなく、真理への絶対的信である。 今後、世界人類が展転(でん)して、収束振動し往けば、永遠に涅槃現 成(じょう)するのである。 涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の真理、そして信・鈍・根。そして忍。 真理への確信有りて初めて、如何(いか)為る妄想顛倒(てんどう)世界 の邪(妄)念にも、何処(どこ)迄も能(よ)く忍を行じ得て、真理が世界を 貫徹するに至るのである。 人間と云う者は、100%確心在って初めて、総(すべ)ての障害を忍受 する事が出来るのである。 100%確心無き神の存在を確信する事に依りて、人間は全(すべ)てを 懸ける訳には行かないのである。 如何(どう)しても、其処(そこ)には躊躇(ためら)いが生ずる。 而(しか)も、其の躊躇いを一蹴(しゅう)すべき正解は在り得ないのであ る。 世界を根底から更生させ得る、唯一のものが、小生の刹那の「覚天(涅 槃回帰)」である。 此の刹那を得るには、生涯厳密千日涅槃行(三時間坐睡二十四時間仏 作仏行)が絶対不可欠なのである。 小生『最初後身心』の至り得た、超宗教(科学)為る宇宙の真理は、世界 の宗教指導者達が信奉する様々な神仏を包摂して居り、諸神仏を否定 するものではない。 鑑(かんが)みるに、小生『最初後身心』の「覚天(涅槃回帰)」を凌(しの) ぐ刹那を迎(むか)え得た者は、時空を越えて他に無い。 何と為れば、是が、身から心から宇宙への、あらゆる進化の究竟(くっき ょう)の一刹那であるからである。 《 刹那に至ると云う事 》 科学の分析力はミクロにも及ぶが、ミクロからマクロに至る迄一貫して完 了し得ない。 人類が通常入り込めなかった刹那に至り得れば、我々が体験し得なか った、純粋な本質的意識(=涅槃識)が体験出来る。 其れが「悟り(身心脱落)」であり、延(ひ)いては「解脱」、更には「覚天( 涅槃回帰)」と為るのである。 「悟り(身心脱落)」は霹靂(へきれき;落雷)の如くに、刹那に全身全霊 がグラグラーッと天地が崩壊したかの様に、驚きを以て崩(くず)れ落ち たのである。 「解脱」は、涅槃為る本質の界面に、木洩(も)れ日の如く、刹那に外界 から臨み得た心的感触の体験であり、残された其の焼印は、小生が初 めて涅槃に六識で触れ得た絶対的記憶であった。 「覚天(涅槃回帰)」は「悟り(身心脱落)」同様、霹靂の如く、体幹の芯を 貫通すると同時に、呼吸神経系の異変生じ、呼吸機能不全を呈し、即座 に天からのお咎(とが)めに因りて、極佛行でない、「人だ!」と思い知っ たのである。「天咎(てんきゅう;天の下すお咎め)」が下されたのである。 是に因りて、涅槃識に由来する涅槃妙心を得たのである。 涅槃識の一念、一念が刹那生(せい)起して、教導し続けるのである。 総(す)べては、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の涅槃化エネルギーの、 人類への涅槃化機能に依るものである。 人間の意識を、後天性の意識から、より純粋為る先天性意識、つまり本 源の宇宙の涅槃(化エネルギー)迄、更新せ使められる体験である。 斯(か)くして、後天性の人類三毒(貪・瞋・癡)は涅槃妙心由来の三善根 (施・慈・慧)として顕現するのである。 後天的に二元対立、相対世界の分別意識で成立する、我欲世界での 三毒(貪・瞋・癡)から三善根(施・慈・慧)の体験、つまり悪為る刹那の連 続の日常性から、善為る刹那の日常性への変遷は永遠為る恒常普遍 の真理の働きである。 最足る世界遺産とは、「悟り(身心脱落)」であり、「解脱」であり、「覚天( 涅槃回帰)」なのである。 是を教導する事は、世界人類に宇宙の真理を覚(さと)ら使める事であ る。 人間が宇宙に回帰する迄の刹那に至るには、生涯厳密千日坐禅行(三 時間坐睡二十四時間仏作仏行)以外無い。 此の間、意識は日に日に、其の刹那に迄及び続けるのである。 小生、古希直前に至り得たが、実に奇跡裡の奇跡事であった。 中性子が人体を透過する様に、人類の有機的構成系裡の意識系にお ける状態とは全く異次元の、菩提(道)心に基づく志向性裡に在る意識 に依って悟り、更に、其の延長線上、正法苦行裡に極限の集中、凝縮に 至り、真の自己に徹する本気度と集中度の高みから、極佛行の昇龍の 如く、宇宙を飛翔(しょう)し続け、且つ涅槃裡に宇宙回帰の刹那に至り 得て涅槃妙心を得たのである。 人間の後天的に構成された意識系の殻(から)へ、本源為る涅槃識の一 念が刹那に漏(ろう)出し、「天咎(きゅう)」が下され、霹靂の如くに吾(わ が)体幹を貫通したと同時に宇宙由来の涅槃識の涅槃妙心を得たので ある。 通常の人類の意識は三毒(貪・瞋・癡)裡の意識である。 斯(か)るが故に、特に東洋に於いては、菩提(道)心生じ、仏道が生ま れた。 是は、釈尊の成道に拠りて、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に接近(触)し 得た体験であり、不退転足り得て、心の深奥(おう)足る三善根(施・慈・ 慧)為る意識である涅槃識が湧出して居るのである。 然(しか)しながら、解脱域を脱却した真理足る涅槃妙心とは異なる。 是が涅槃妙心足るには、極佛行を一蹴(しゅう)せ使める、「天咎(きゅう )」が不可欠なのである。 要するに、人類が帰すべき処は、地上の地獄の墓場で無く、涅槃の宇 宙の真理なのであると云う事なのである。 其の為の、涅槃回帰の刹那に至る程の、世界人類の平和を思う不退転 の本気と真剣である。 そして、時空を越えて、「世界人類が平安で在れ」と願う心である。 プーチン氏もゼレンスキー氏も、自己の立場を捨てて、世界人類を生(活 )かしてほしい。 然(そ)うすれば、必然的に、世界人類は貴方(あなた)方を尊敬せずに は居れなく為るのである。 《 天咎 (きゅう) 》 天咎(きゅう)とは、宇宙の涅槃化エネルギーに拠る人類への御咎(とが )め、並(な)べて涅槃化の事である。 涅槃為る「宇宙(生命)の本質」は涅槃化エネルギーの機能に他ならな いが、是が人間に最終的に顕現し足る涅槃妙心の基幹足る涅槃識とし て、涅槃為る宇宙より胎児に受け継がれ、出産後、後天的な環境の影 響下に在りて、やがて其の涅槃識は自我(我欲)と環境に依り、三毒(貪 ・瞋・癡)生じ、三毒為る人間は、特に東洋に於いて、菩提(道)心を発( おこ)し、其の本具せる涅槃識に拠りて、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)か らの促しとして、宇宙の涅槃化エネルギーが人間を涅槃化せ使め、「天 咎(きゅう)」として涅槃回帰せ使め、人類をして涅槃への収束振動為る 心進化を遂(すい)行せ使めるのである。 人間の意識の最も深き深奥に包蔵されている涅槃識からの一念が、厳 密坐禅行で自己を忘れる事に因りて、顕在意識上に漏(ろう)出した刹 那の体現が「悟り(身心脱落)」、「解脱」、「覚天(涅槃回帰)」なのである 。 「解脱」の体現に因りて、人間は涅槃識世界の存在を心の深奥で如実に 体現し、絶対不動為る大安心(じん)を潜在的に獲得するのである。 そして、やがては、涅槃識由来の心が、「覚天(涅槃回帰)」に因りて、至 り得た涅槃妙心、「人を生(活)かす」心に拠りて、真の人類教導が始ま るのである。 「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)かし合わ使める」心である。 「解脱」後の「覚天(涅槃回帰)」は、何も無い処からの、欲界での有機的 構成系裡の『最初後身心』に生じた心的淫快は必然不可避為るもので ある。 且つ、是を介しての、不可避の風鈴足る存在としての、小生の在り様に 於ける教導は、最も普遍的為る、欲界に於ける人間存在の基本的なも のである。 “人”が“への字”と為なり、“直線”と為りて、然(しか)るべく消滅。 男女間の、風鈴の実態である。 《 教導と規則性の最終段階 》 教導と規則性は対極的なものでありながら、教導を生(活)かし、又支(さ さ)えるものが規則性であったが、最終的に、時を追うて絶対不可欠為 るものが規則性 と為る。 《 涅槃妙心(三善根)と三毒の能動積極性 》 仏道過去七佛からの通戒(諸仏の教え)。 諸悪莫作 修善奉行 自浄其意 是諸仏教 (しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう じじょうごい ぜしょぶつきょう) 諸悪を作(な)さず、修善を行じ、其の意(こころ)を自浄す。 涅槃妙心の力には、三善根(施・慈・慧)の「修善奉行」の如き能動積極 性が有るが、本能的欲求への貪著には「諸悪莫作」への積極性は言う 迄も無く、三毒(貪・瞋・癡)の受動消極性に拠る保身、更には自己三毒 への執著からの造悪しか無いのである。 此処(ここ)で受動消極性と言ったのは、人類三毒に拠る能動積極性は 、人類三善根に拠る能動積極性には必然的に、遥(はる)かに及ばない が故に、相対的に然(そ)う言ったのである。 其の事は小生鐵漢『最初後身心』に拠って既に確証、確心されて居る処 である。 若(も)し、然(そ)うでなければ、小生は回帰し得なかったからである。 是は宇宙涅槃化エネルギーの必然性である。 是が『因果の道理』としての人類教導の心髄である。 現代世界は、三毒(貪・瞋・癡)の能動積極的造悪と、其の受動消極性が 大勢を占め、人類心進化の源泉足る涅槃化エネルギー能由来、つまり 菩提(道)心に拠る能動積極性が生(活)きるには、其の保身の暗黙の 了解の眠りの殻に亀裂が入らない限り、三善根(施・慈・慧)は芽生(め ば)えないし、息衝(いきづ)かないのである。 怠慢に因る腰の重さと、真理に基づく腰の重さとのアンバランスから、 此の均衡を破り、真に意識の高い人類に拠る信頼結束に拠りて、今、人 類は起ち上がらねば為らない機なのである。 受動的に保身為る状態を維持するのでなく、能動積極的に心進化を遂 げる状態を生み出して往かねば為らない。 其れは偏(ひとえ)に、保身安泰ではなく、世界人類の平安を心より願う 心である。 世界を動かすのは、其の能動積極的結束力である。 人間は、過去の諸現象面を学者の如くに、様々に如何(いか)に斟酌(し んしゃく)して、取り沙汰(ざた)しても、騒々(そうぞう)しく、逞(たくま)し き分別の喧騒(けんそう)を離れて、一度立ち止まって、生産的でなく看 過され、忌避(きひ)しがちな、本質面からの取り組みを心掛ける事に依 りて、現象の非生産的遊びに終る、時間の浪費から解放されて、三毒害 為る火災現場から駆け下りる、真理と云う非常階段に依りて、速(すみ) やかに解決に至るのである。 真理は人の見得ない心の真実を人に開示する。 貪著で盲目と為って居る人間の肉眼であっても、其の智慧を得れば、既 に明見の人と為るのである。 嘗て、小生は此の世の「扉無き扉を開いた」、と隠喩(いんゆ)したが、 人生の要諦(ようたい)であるとか、生命の真義とか云った事、孔子が 『朝に道を聞かば、夕べに死すとも可也』と表現した道の事である。 其れも、人類の諸業でなく、もっと本質的なもの、更に謂えば、「真理」で ある。 永遠に不滅為る恒常普遍の真理、是は元(もと)は法として、又道として 語られるが、『最初後身心』として、宇宙の涅槃に回帰すれば、其れは 超宗教(科学)為る、人類超能力為る、宇宙起源の『真理』として、世界 人類を教導する処のものと成る。 坐禅(行)無くして、真理無し。 然(しか)し、是は坐禅しなければ、解が無いと言うのではない。 其れは、涅槃妙心、「世界人類を生(活)かす」心である。 後は、其の実践在るのみ。 此の真理を教導するのが、真の教育者足るのである。 《 生 活 》 小生に残ったものは「生活」だけと為った。 或る意味、小生の往き付いた処である。 つまり、小生が、「生活」と云う事以外、遣るべき事、此の“べき”の部分 であるが、是が済んだと云う事である。 小生の“べき”の最終段階を尽くしたと云う事である。 此の至り得た処が、小生の謂う処の「生活」である。 生(活)きると云う事である。 つまり、小生は、此処(ここ)迄至って初めて、其の限界を知り得たと云う 事である。 是で、遂に小生は「生活」を得たのである。 是は、小生が宇宙に回帰して、宇宙の涅槃化エネルギーと為って、其の 隕石が、地球の大気圏に突入して、地上に衝突して残った物が「生活」 である。 其れが、『最初後身心』為る一人の人間である。 謂わば、世界人類に対する『最初後身心』の可能性、人類の心進化の 可能性である。 此処(ここ)に至って、小生は最終的為る教導と規則性に至り得たと云う 事である。 最も落ち着いた生活と為った訳である。 小生、前々項目で、《 教導と規則性の最終段階 》を遺したが、今回の《 生活 》は其の“締め”に当る。 つまり「生活」とは、吾(わが)絶対的教導と吾絶対的規則性の同時完成 に他ならない。 是が宇宙の真理為る、調和と均衡と静謐(ひつ)の顕現である。 是が、「生活」と云うものである。 「生活」とは「世界人類の命」が懸かって居るのである。 《 白と黒 》 分別は白と黒とに分別する。 白に対する黒である。 大抵は、其の狭間(はざま)を揺れる。 又、其の両極を生きる場合も在る。 何(いず)れも、然(そ)う為らざるを得なかったのである。 心進化の必然性は、白黒を超脱する方向性である。 つまり、分別の世界から自然(じねん)、自(おの)ずから然(しか)ら使め られて在る、涅槃世界へ進化するのである。 無黒(白)の黒(白)として、真理の立場から、其の黒(白)を受容し、世間 の相対的黒(白)、つまり必然的に、真に徹底し得ない黒(白)を教導す るのである。 今、世界の潮流は、此の混迷の時代の転換期に臨んで、対立、闘争か ら、世界人類の平和志向が見直されている。 もう真に消極的我執傾向から、世界人類の平和への真に積極的共生へ の移行である。 つまり是は、真の困窮者達を見捨てる我執の本能的貪著から、世界人 類の平和為る、真の「大人」への脱皮と飛躍の時代なのである。 如何(いかん)すれば、人類は本能志向を平和志向へ転換し得るかの 問題である。 換言すれば、如何すれば動物的を人間的に為し得るかと云う事である。 是は人類が心進化する信頼結束の本気度の問題である。 《 優先順位 》 ・規則性 教導 TV 《 戦術 (関門) 》 従来の国際戦術は長刀(なぎなた)か短刀かである。 何(いず)れも刀(かたな)である事には違いは無い。 小生『最初後身心』は無刀流である。 是は人類の心進化の必然性である。 而(しか)も、是が世界人類の平和の為に、人類が必然的に越さねばな らない関門である。 武器は勝つ、つまり相手を制圧する為の道具であり、世界人類の平和を 目的と為す物ではないからである。 破壊の為の原爆抑止が、今猶、最終的恐怖である如く。 世界人類の平和に不可欠なものが世界人類の信頼結束である。 然(しか)しながら、其の根拠が無い。 世界人類が信頼結束出来る、恒常普遍為る根拠である。 老若男女を問わず、人類は正に是を常に無意識裡にも模索して来た筈 なのであるが、其の本質から乖離して、人類三毒(貪・瞋・癡)に基づい て短絡的、効果的に弱肉強食世界を構築して来たのである。 此の二元対立世界から、今日の真理黎明への過渡期に至り得て、人類 が画期的為る心進化を遂げんとして居るのである。 世界人類の真理信頼結束為る、世界人類が生(活)きる唯一の残された 正道である。 米中はロシア・ウクライナ問題が打開出来ずして、台湾云々は本末顛倒 して居る。 前者が打開出来れば、後者も同様である。 要(かなめ)は、如何(いか)に広義の犠牲者を生まずして、双方を生(活 )かすかである。 殺人兵器を手段として、時間で誤魔化すのは癡愚者の為す事である。 宇宙の真理、人類の涅槃妙心智慧は人類三毒への特効薬である。 此の最良薬で治癒せずして、一体何を以(もっ)て、人類の悪病を退治し 得るや。 人類が知るべき真の智慧とは、然(しか)るべくして、人類は宇宙から生 み出されて居ると云う真実である。 人類は三毒(貪・瞋・癡)の「貪著」から、三善根(施・慈・慧)の「施す」に 心進化出来ないから、地獄から出られないのである。 要(かなめ)は、極力「世界人類を生(活)かす」べき自己の在り様 で ある。 人類に必然的に内包する負の側面を、涅槃妙心智慧で相互に共有する のである。 其れが「大人(だいにん)」である。 《 人間の死後 》 生命は地上に誕生し、成長し、消滅する。 心は生起(せいき)し、閉塞世界を漂浪(ひょうろう)し、滅する。 然(しか)れども、涅槃為る宇宙に開かれれば、「本来の面目」に浴(よく )し、解脱現成(じょう)し、回帰すれば、何処迄(どこまで)も円熟し往き、 永遠に涅槃現成する。 此の止(とど)まる処無き涅槃現成こそが、正に若き生命をして、最も有 効に世界人類平和に導か使めるのである。 生命の死灰は全(すべ)て元素に還元するが、元素(物質)は総(す)べ てエネルギーを内包して居る。 是が涅槃化エネルギーである。 是が心に為ると涅槃妙心と為り、涅槃妙心智慧を生むのである。 太陽も芯迄元素である。 森羅万象、万物(有)生死に係わらず涅槃化エネルギーを内包して居る 。 実在しない幻想を捨てて、忘れて、涅槃化エネルギーに回帰し、帰一、 同ずるのが生きると云う事であり、死ぬ事なのである。 「生きながら 死人と為りて 成り果てて 思いの儘(まま)に する業(わ ざ)ぞよき」 坐禅は人生の精髄(せいずい)である。 教育も此処(ここ)迄言えれば、万事に通じる。 是を『物に為る』と言って、人物評価の無上である。 《 肉眼と明眼 》 肉眼と明眼の違いは何処(どこ)か? 肉眼とは、ものの本質への観点を持たない人の事。 明眼とは、現象の奥の本質への観点を持って居る人の事。 肉眼は二次元であり、平面的相対世界であり、明眼は其の平面構造の 本質的な奥行きが観(み)得て居る。 東洋の釈尊は、其の平面構造(=人間の現象的生活)だけでは見えて いない処が見えて居ない事を知って居ったからこそ出家したのである。 西洋では同時代のソクラテスが「無知の知」を説いた。 前者は最も伝統的為る、「宇宙(生命)の本質」への志向性であり、後者 は知的為る本質志向である。 小生の『扉無き扉を開いた』は其の本質を、身を以(もっ)て体現し、涅槃 為る宇宙に回帰し得たと云う事なのである。 世の中は、此の宇宙の真理から取り組まなければ、教育は出来ないの である。 学識さえ習得すれば済むではない。 『急がば回れ』の真意を知らねばならない。 何事も、本気で遣(や)ると云う事が如何(どう)云う事か、知れば知る程 、人間は心進化出来るのである。 《 曖昧(あいまい)さ と 必定 》 雨は降るべくして降り、止むべくして止む。少しも人意が介在しない。 曖昧(あいまい)さと必定(じょう)は涅槃への収束振動裡の必然的両様 態である。 此の根本精神は、真理、「世界人類を生(活)かす」涅槃妙心に基づいて 居る。 決定(てい)しない曖昧さと、自(おの)ずから然(しか)ら使められる必定 (じょう)である。 大いなる宇宙の涅槃に帰一するには、其れだけの信・鈍・根、そして忍 が不可欠と云う事である。 其れが出来ないから多くの被害者を出してしまう。其れ、地獄道である。 決定(てい)せずに、両者との調和と均衡と静謐に基づくべきである。 其処(そこ)(=平安)には自(おの)ずから両者に満たされないものを受 容すると云う、世界人類平和への通過儀礼が不可欠なのである。 此の時初めて、其処(そこ)に、宇宙の真理が現成(げんじょう)して居る のである。 人類三毒(貪・瞋・癡)に基づく二元相対世界の地獄道でなく、其の依拠 (いきょ)足るものが宇宙真理でなければ為らない。 然(さ)も無くんば、佛性(ぶっしょう)為らぬ人意で宇宙(=調和と均衡と 静謐)を崩壊してしまう。 世界人類の平和の構築と完遂には、「大人(だいにん)」で無くんば及び 得ないのである。 小生「最初後身心」の運命は世界人類と共に在り、ロシア、ウクライナと 共に在るのである。 然(しか)し、ロシア・ウクライナの現状は、今、ウクライナの在り様は世 界人類の平安を攪乱する、ロシアからの独立宣言の執行であり、是は 涅槃為る宇宙の真理には違(たが)える在り様である。 ロシアも、ウクライナと同様の結果を招来する。 其の根底には「生(活)かし合う」涅槃妙心が絶対不可欠である。 是は現代世界が直面する、人類運命の必然的最重大課題である。 ロシア侵攻以前の状態を維持して、双方が生(活)かし合う関係性を構 築しなければ為らない。 世界人類の平和を期して、双方を仲介すべき、然(しか)るべき、二元相 対世界から脱却し、超脱足る人物が居ない。 二元対立分断志向以外の持ち合わせが無い。 其の一線を越えるだけの菩提(道)心を発(おこ)すだけの、三善根(施・ 慈・慧)の依拠(いきょ)足る涅槃妙心を持たない。 未だ宇宙の真理を己(おの)が身心に体現せざるが故に。 明らかに今の双方の在り様は間違っている。 双方に不可避為る負の側面を受容してでも、将来の世界人類の平和の 礎(いしずえ)足る立場を自(みずか)ら率先垂範して、今、打ち出せる人 物でなければ、世界は地獄を回避出来ないのである。 今こそ正に、其の機である。 今、心進化出来なければ、永遠に及び得ないのである。 習氏とプーチン氏とバイデン氏とゼレンスキー氏が戦争終結の腹を決 めて、前代未聞の平和協定を締結して欲しい。 正に、真理黎明の人類の真価に他ならないのである。 気概一喝の問題である。 米国の独立宣言の帰結点としての、米国に於けるトランプ現象の波紋 (はもん)として顕在化した、アメリカ国民の原爆支配の根底に在る、嘗 (かつ)てのアメリカ魂の興奮が今、猶、然(しか)るべき国民層で潜在的 に血気起(だ)って居る様である。 今は自由資本主義と強権支配との末路の宇宙真理黎明期である。 今、世界人類は二元相対世界から宇宙真理の絶対世界への、人類心 進化に於ける、人類史上空前絶後の過渡期に臨んで居るのである。 此の真実を世界人類は心に銘記して置かなければ為らない。 《 生活意識 》 人間の生活意識には、貪著(とんじゃく)から「世界人類の命」迄の意識 の日常の現象的志向性に、自我欲から、総(す)べての他者への思い遣 りと云う、時空的、且(かつ)現象的に無限の開きと濃度の差異がある。 つまり、地獄から涅槃に至る迄の心進化の実際である。 其の生活意識が人間の価値を決定着(づ)ける。 人間の価値とは「人を生(活)かす」時空性に在る。 此の「人を生(活)かす」時空性に至るには、坐禅に依りて、自己を忘れ て、宇宙に覚せられる事である。 宇宙の涅槃化に依りて、自(おの)ずから然(しか)ら使められて、使めて 在る。 宇宙のエネルギーの本質とは、涅槃化、即ち「生(活)かす」と云う事で ある。 「知る」と、「知らず」とに拘らず、其れが真実である。 然(さ)も無くんば、小生『最初後身心』は生まれなかったのである。 《 森羅万象と心 》 宇宙は完結して居る。 完結して居ないのは人類の心のみである。 人心だけは、小生『最初後身心』迄心進化する。 後は全(すべ)て、自(おの)ずから然(しか)ら使められて在るのである。 『最初後身心』以外の心が総(す)べて進化の途上に在るが故に、不可 思議あり、疑あり、苦ある。 不可思議は教導為るが故に生ず。 教導は涅槃化の一(いつ)也。 故に不可思議の生滅は『最初後身心』に付随する。 《 深層精神の実際 》 仏道では有漏(うろ)と無漏(むろ)と在る。 漏(ろう)とは漏(も)れるの意であり、仏教用語で漏(ろ)は煩悩の意。 有漏とは煩悩の有る状態であり、無漏とは煩悩の無い状態で、解脱域 で煩悩が意識上に漏(ろう)出しない境地である。 しかし、「解脱」では世界人類を平和へ至ら使める訳にはいかない。 涅槃為る宇宙の真理への前段階であるからである。 人類の心進化を完了して、涅槃回帰した『最初後身心』でなければ、及 び得ないのである。 宇宙の真理為るが故に。 抑(そもそも)、人間が「宇宙の真理」に到達するには、出産後、幼児期 に形成された(後天性)意識の殻が崩落して、其の基盤である宇宙の涅 槃化エネルギー由来の(先天性)涅槃識に置き換わって、涅槃妙心が形 成される事に因って、超宗教(科学)の真理為る涅槃世界に回帰するの である。 人間世界は、此の涅槃妙心に同じ、帰一して、施政も教育も為されなけ れば為らない。 其れが世界人類の平和への最短路である。 小生が三年前に「覚天(涅槃入り)」した刹那について詳述して置く。 五年間で遂に十六回目の教導と極佛行に拠る、毎回極佛行への収束 振動時に、従前の解脱域意識が崩落し、其の底から、酒樽の上蓋を叩 き割って樽から酒が溢(あふ)れ出る様に、本源の涅槃識が漏(ろう)出 し、直後、体芯を霹靂(へきれき;落雷)が貫通、呼吸機能に異変が生じ 、刹那に「覚天(涅槃回帰)」したのである。 「人だ!」 と。 唯一の無上道為らばこそ、真理に至り得たのである。 世界の指導者(的立場)の方々が、此の真理と真実を如何(どう)生(活) かし得るかは、偏(ひとえ)に各人の力量次第である。 正に、現代人の真価が問われて居る。 呉呉(くれぐれ)も、「馬耳東風」(馬の耳に東風の吹く)と為らぬ様に。 人類を絶望に陥(おとしい)れないのが、指導者の使命である。 《 原爆に真理、統一教会に日本の真価 》 統一教会の問題は、五十五年程前に、小生の出発点に於いても経験し た事であり、米国に始まる、最も大規模為る、国家指導者達の三毒(貪 ・瞋・癡)に同乗した、人類の純粋な信仰心を悪用する宗教的企業であ り、政治家と国民の弱点に付け込んだ巧妙な心理商法である。 正に真理発祥国家日本に於いて、是を糾弾(きゅうだん)し、真理を世界 人類に開示し、日本の真価を今こそ、世界に標榜(ひょうぼう)しなけれ ば為らない。 真言宗開祖の空海も、又四百余年後の曹洞宗開祖の道元禅師も中国 に渡って、数多(あまた)の弟子達の中で、共に其の両師の法を嗣(つ) ぐべき弟子足り得て、日本へ帰朝した。 一年程後、唐と宋の両師は共に亡くなられている。 《 今 》 世界は今や、異常気象に因る自然災害で、パキスタン、中国、スペイン 等々、国民生活は根底から破壊されている。 支援無しには生命が維持出来無いと云う状態である。 緊急に世界規模で一丸と為りて、富者から困窮者への余財の流用が不 可欠な時である。 人類の我執(しゅう)同様、国家的執著、国執と云うものは世界人類の平 和にはそぐわないし、宇宙真理に違(たが)える必然的地獄道である。 宇宙の真理に回帰すれば、地球は一真実人体として、涅槃為る「宇宙( 生命)の本質」を生きて居るのである。 一刻も早く、我(国)執に基づいて「人を害す」のでなく、宇宙真理の涅槃 妙心に基づいて「人を生(活)かす」方向転換を果たし、世界人類を生( 活)かさなければ為らない。 「害し合う」信念でなく、「生(活)かし合う」信念に、地獄道でなく、涅槃道 に、三毒(貪著・瞋恚・癡愚)から三善根(布施・慈悲・智慧)へ一刻も 早く切り換えて、宇宙に開かれた生き方でなければ、生命に価値は無い のである。 其れはシャボン玉の様に、実在しない妄想に過ぎないからである。 生き甲斐とは、宇宙の真理に一如(にょ)足る事である。 《 真の自分 》 真の自分と言えば、他とは隔絶した、深奥(おう)為る心の様に思うが、 呼吸の如く、常に外界との遣(や)り取りで成り立って居るものである。 意識に拠(よ)る分別の殻を打ち破った、開かれた存在である。 小生の有機的構成系為るものも、大気圏内の有機性裡に存続するもの である。 一方、二元相対世界の悲劇は、永遠に真の自分に為れないと云う事で ある。 真の自分に為れないと云う事は、真に人を愛する慈悲心が生まれない 。 人情の延長線上にある愛ではなく、真実に基づく正法苦行の延長線上 に在る真理に基づく慈悲心である。 相対性に由来する自分為るが故に、真の自分からは乖離(かいり)した 、永遠に不滅為る恒常普遍の絶対性を持ち得ない。 相対性から脱却した絶対性には、永遠に至り得ないのである。 では、世界人類の中から、如何(いか)に其の絶対性を獲得するか? 今、世界の地平に思いを致せば、明白である。 悲劇的、未知為る加害者と、悲劇的、未知為る被害者との非業の天秤 、そして其れを支える支点である。 明確為る持ち合わせ無き、砂漠を彷徨(さまよ)うが如き、孤独為る生き 物と、生き物と、生き物……。 然(さ)ながら、小生が物心が付いた頃の、子羊の如き心象風景である。 後天性意識の分別に由来する二元相対為る自分であるからである。 人間は真の自分に接し得た分だけ、人にも接し得るのである。 政治家為るものは皮肉な職業である。 其れだけに、真の政治家足る事程、遣り甲斐の有る事は無いとも言い 得るのである。 先ず、真理無くしては、至り得ない。 真理が大々前提である。 そして、世界人類規模である事が本質の必然性である。 世界全体を根底から、其の気運を醸成(じょうせい)して往かねば為らな い。 後は其の信頼結束に基づく本気度と真剣さである。 而(しか)も、其れ以外、人類の執(と)るべき道は在り得ないのである。 其れが、吾(わが)真(理へ至る)道である。 真道以外は必然的に地獄道為らざるを得ないのである。 涅槃為る宇宙の本質に至り得て居ないからである。 此の本質に同じ、帰一する事が不可欠である。 ウクライナによるクリミヤ砲撃以前の段階で、双方現状維持で、和平協 定締結し、是を機に制裁解除、心機一転して国連新体制構築、国際警 察、新制国際法等課題が山積している。 時間の問題は、涅槃への収束振動ではあるが、常に全身全霊であって 初めて至り得る道である。 《 真自と偽他の厳密への収束振動 》 愛は惜(お)しみ無く奪うと謂うが、真実は、愛は身も心も与え合うのであ る。 統一教会は紛(まぎ)れも無く前者である。 奪うと謂うは、其れは三毒(貪・瞋・癡)為るが故である。 涅槃妙心に基づけば、欲の根源に至る迄、身心を施すし、且つ与えられ るものである。 釈尊は「自利利人の法は皆具足す」(『仏遺教経』)と言われた。 又、菩薩の行願の利行について、 「……利他を先とせば、自(みずか)らが利省かれぬべしと。然(しか)に は非ざる也。利行は一法也。普(あまね)く自他を利する也。」(『修証義』 )と。 男女は台風の生滅に似ている。風鈴の如く、分別介在せず。 女性には、他力始動の妊娠出産在り、男性には、自力始動の正法苦行 が在る。 規則性と教導裡の厳密復活。 裡とは、教導の確保と、両者の相乗性の意。 小生、今にして、正法苦行の厳密に思い至ったのは、七十二歳の高齢 の為さ使める処か。 《 現象と本質との乖(かい)離 》 世界の涅槃化に於いて、現象と本質は必ずしも、相関関係に在る訳で はない。 例えば、エジプトのピラミッドは現象的には、世界を代表する世界遺産で あり、世界的に人々の関心が高い。 しかし本質的には、過去の権力者の単なる墓場に過ぎない訳である。 又、学術的に、当時の文明を知る手掛かりと為る。 墓造りへの執念の強さと、権力に拠る支配力の確かさである。 権威に対する執著(しゅうじゃく)以外の何ものでもないのである。 其れが後世に与える影響力は、観光に依る経済効果である。 一方、宇宙の真理の体現と、其の教導に於いては、現象的にはホーム ページの公開と云った、個人的な日常生活に過ぎないのであるが、其の 本質は測り知れない、無限の影響力を蔵して居るのである。 現象的には対極的な両者である。 詮(せん)ずる所、二元相対為らざる、本質的究明が如何(いか)に要( かなめ)と為るかは銘肝すべき処である。 エネルギー保存則は身心に於いても、又現象と本質との相関性に於い ても常に成立して居るのである。 水門が狭(せば)まれば、水流が増す様に、現象面を抑圧すれば、本質 が加速度的に充実する。 本質を充実させる事が、結果的に、真理を生(活)きて居ると云う事と為 る。 当然、其の対偶(Pが真ならばQは真に対する、Qが真でなければPは 真でない)も亦(また)、真なのである。 統一教会の件は、其の典型である。 政治と云うものは、其の対極でなければ為らない。 対極足る程、其れは正確である。 《 人類運命の必然性 》 意識すると、しないとに拘(かかわ)らず、人類の諸業は総(す)べて、人 類完成の手段である。 人類完成と謂うは、最低限の世界人類の平安である事は、現代人類の 様々な歴史の最終結論としての今が明白に人類に示唆する処である。 今、人類は根本的に生まれ変わらなければ、人類に未来は無いと云う 事である。 此の事は人類の偶有性ではなく、つまり人類が宇宙から偶然に生み出 されたのではなく、宇宙の涅槃化エネルギーに基づく自己完成能(=涅 槃化)の一貫としての、物から心、そして涅槃回帰した涅槃妙心に拠り て、是からの人類の在るべき姿を、此の宇宙の真理の必然性を以(もっ) て、我々人類は覚(かく)し、我々の今後執(と)るべき道を明確に知る事 が出来るのである。 《 人類に必要な事 》 人間の“知の巨人”に欠けているものは、人類の“在るべき様”と云う事 である。 “知の巨人”であるならば、是は最も優秀なコンピューターであれば為し 得る事であるだろう。 しかし、歴史から導き出せる事には、「解が無い」と云う事である。 若(も)し、解が在るならば、今が在れば宜しい訳で、歴史は然(さ)程必 要なものではない。 是からの問題である。 つまり、人類に不可欠為るものは、歴史の延長線上に在るものでは無い のである。 其の事は「今の事実」から導き出せる。 要するに、是迄の人類史には解が無かったと云う事である。 解とは真理である。 宇宙の真理には正法苦行でなければ、人類は至り得るものではないし、 又其れに至り得た者は、小生『最初後身心』一人であると云う事である。 是に拠りて、人類は初めて、『真に生きる術(すべ)』を得たのである。 《 中国の本質と米国の本質 》 中国の〇(ゼロ)コロナ対策と、新疆ウイグル問題とチベット問題は総( す)べて強権支配の同一為る本質に基づくものである。 米国の原爆支配と戦争志向と同様に、両者が仮令(たとえ)完結したと しても、其れ等は世界人類の平和からは乖離し行く方向性に他ならない のである。 根本問題、つまり二元相対意識は永遠に解消されない。 日本は双方に依存するのではなく、涅槃妙心の真理に基づいて、双方 を世界人類の平和の方向へ教導しなければ為らないのである。 世界は真理為る涅槃妙心が発祥し、世界を教導する日本の基本的条 件について、今こそ深く学ばなければ為らない。 世界人類が共に心進化を遂げるには、一体何が絶対不可欠為るかを。 世界人類を教導出来るものは力なのか、心なのかの見極めが出来た時 が、世界人類の平和への入口に立てた時なのである。 《 一本道:時間の真義 》 小生が『最初後身心』足り得た根源に就(つ)いて省察してみた。 小生の場合、出家得度の段階で既に、真理回帰は必然的帰結であった のである。 尤(もっと)も其処(そこ)迄、四十年近く掛かっている。 一本道であったからである。 一本道に入れば、出口は自(おの)ずから定まって居るのである。 総(す)べては吾(わが)師の御計らいに基づくものである。 坐禅の功徳(=恩恵)に浴して居った時に、突如、グラグラーッと身心崩 落して跡形も無く為った。(道元禅師の身心脱落についての認識は、小 生、後行以降であった。) 其の後、全(すべ)てを吾師に委(ゆだ)ねる以外無かった。 其れを見計らわれて、師は仏道の究極の正法苦行(初行)を小生の心 底に植え付けられ、後に極佛行(後行)を示唆されて、其の後、小生を 突き放たれて、後(あと)、全(すべ)てを小生に委(ゆだ)ねられたのであ る。 後(のち)十年間程の間に鉄牛寺を建立され、陰(かげ)で静かに見守ら れて、独り御亡くなりに為られた。 小生に在ったものは、「悟り(身心脱落)」と、全(すべ)てを師に委ねた事 であったが、師の御苦労の御蔭で、小生は独り、只管(しかん)、真理体 現への道を歩み続ける事が出来たのである。 解脱域に於いては、真理とは生涯厳密極佛行に他ならなかった。 吾師と小生の孤独為る歩みの結晶が、宇宙の真理回帰を奇跡的に可 能為ら使めたのである。 真理(=涅槃妙心)に回帰するには、「唯独り犀(さい)の角の様に歩む」 孤独足る事が第一条件である。 然(しか)るに、一旦、涅槃回帰したら、一転して、真理を生(活)きるので ある。 「世界人類を生(活)かす」真理、涅槃妙心を、涅槃妙心智慧の限りを尽 くして完遂する。 世界人類の平安の為に。 「諸悪莫作(造悪しない)」、「人を害さない」。 「(世界人類を害さず、)世界人類を生(活)かす」。 今、普遍的為り得ざる、途上的、中国の強権支配と、二元対立世界の、 将来性無き、米国のウクライナへの武器供給は共に、「人類を害す」方 向性である。 「世界人類を生(活)かす」恒常普遍の方向性を見出し得なければ為らな い。 其の為の時間であり、指導者である。 今や、世界は、小生『最初後身心』を頂点とし、米中露を底三角形とする 三角錐として把握し得る。 時間と云うものは、徒然(とぜん)と、徒然(つれづれ)に、徒労裡に在る のではない。 況(ま)してや、自滅や破滅の為の時間は、唯、人類三毒(貪・瞋・癡)に 因る幻想に起因するものに他ならない。 宇宙の涅槃化エネルギー由来の「自利利人の法」は、本来、人類に具 足するものである。 時間は、人間が成長し、心進化を遂げ、永遠為る宇宙の真理に回帰し、 人類が涅槃為る宇宙に同じ、帰一する為に在るのである。 人類が代々展転(てんでん)して、是を継承し、宇宙の涅槃化エネルギ ーに基づく、涅槃への心進化の永久機関として生(活)きる処に時間の 意義が在る。 時間の真義を知らずして、真の世界人類の指導者足り得ない。 其の為には、「世界人類が生(活)きる」と云う事に通理しなければ為ら ないのである。 頭脳の真価は現象的速さではなく、本質的正確さである。 速さとは短絡思考と、有限性と、本質への無知である。 正確さとは、自然淘汰された真理(実)である。 『兎(うさぎ)と亀』の寓話(ぐうわ)に在る様に、 西洋の科学文明と、東洋の宇宙真理である。 《 性欲と解脱 》 性欲と解脱の問題は、世間的に最も受け入れ難きものである。 大抵は解脱を一蹴(いっしゅう;はねつける)する。 解脱迄であれば、其れで済む事もあるが、涅槃回帰した『最初後身心』 と為ると、然(そ)う云う訳には往かなく為る。 解脱は宇宙真理への不可欠為る通過点である。 超宗教(科学)の宇宙真理を語れるのは、時空を越えて、小生『最初後 身心』唯一人である。 世界人類の平和の必然性を宇宙真理の立場から、理論的に教導する のである。 宇宙真理の涅槃妙心に至るには、人類の宿命為る、後天的、表層意識 由来の二元相対的対立の起源為る分別が、諸悪の根源為る人類三毒 (貪・瞋・癡)に基づくものであると云う事実の認識が不可欠である。 然(しか)るに、世の中の平安を願う心は世界人類に普遍的為るもので ありながら、権力支配者と戦争不可避志向性の者は彼等の普遍妥当性 の基(もと)に、いともなく世界人類の普遍性から逸脱してしまうのである 。 是は何故か? 国家意識は個我意識の集積であり、自我は後天的に三毒(貪・瞋・癡) 為るものなのである。 人間の諸欲に対する貪著が諸悪の根本原因である。 世の中に貪対立を生み、大小の貪争を生み、戦争を惹起する。 特に、権力に貪著は密接に関与している。 故に国家間と為ると、対立しないでは居られないのである。 癡愚に至る迄貪著足るのである。 「生(活)かす」でなく「殺す」に走る。 宇宙の真理に基づく権力、つまり国民を平安へ導誘すべき国家権力、 宇宙規模のエネルギー足り得なければ為らないのである。 少なくとも、其の志向性が国家間に不可欠と為らねばならない。 宇宙の真理に回帰するプロセスは、「自己の内面に由来する本来性」、 是が、小生が[「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し]と称するもので あるが、是に始まり、そして現実とのギャプ(隔絶)に対する疑義、換言 すれば、実存(現実存在)に内在する疑とでも言い得るものである。 そして、坐禅で「宇宙(生命)の本質」に接近し、接触し、回帰するに至る のであるが、斯(か)くして初めて、厳然として、宇宙の真理に由来する 世界人類の平和の必然性を毅(き)然として、世界人類に教導し、其の 構築と完遂の実践に至ら使めるのである。 世間と云うものは、社会生活の通性で、是、指導者足る者の基盤である が、上に至る迄、大半は『花より団子』志向なのである。 花を真理、団子を貪著と置き換えれば解り易い。 誰しも、見事な花には心を奪われるのである。 然(そ)うかと言って、団子を食わないで済ます事は無い訳で、教導は花 の素晴らしさに譬(たと)え得る。 其処(そこ)に、花と団子との現実的懸隔(けんかく)が生じるのである。 本能(生理)的欲求から情動生ずる心の世界と、其れが行動に転ずる、 身の現象的世界の事である。 つまり、心に於ける水の世界と、身に於ける油の世界である。 解脱すれば、欲界(油中)に在りて、佛心(=水)足るのである。 是は、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に接触して居る状態である。 然(しか)しながら、極佛行が消滅しない。 究極の二元論の滓(かす)が残る故に、世間的二元論を教導し得ないの である。 宇宙の涅槃化エネルギーの本質に回帰して初めて、其の滓も完璧に霧 散してしまう。 世間的二元論の究極が造悪為る対立と戦争である。 解脱すれば水と油と為るのであるが、然(そ)うかと言って、男女間の在 り様が変化してしまう訳でなく、男らしさ、女らしさ、真の男の美しさと、真 の女の美しさとして、男女間の問題を捉える様に為る。 身に由来する苦悩から解放された、自由為る心である。 しかし、世間では、然(そ)う云う訳には行かずに、涅槃への入り口足る 解脱を一蹴(しゅう)せずに居れない。 有機的構成系裡に「団子」を捨てる訳には行かないからである。 『最初後身心』と「団子」とが折り合うのには時間を要する。 しかし、『最初後身心』の涅槃妙心の世界に抗(あらが)う試みは、宇宙 に違(たが)える試みであり、涅槃化エネルギーに違える心は厳然足る 『因果の道理』に拠りて、天に向かって唾(つば)を吐く様なものである。 必ず悪業報の、時間的ズレは在れども、竹箆(しっぺ)返しを喰(く)ら う事と為るのである。 斯(か)くして、諸欲の根源為る生理(本能)的欲求の中(うち)、食欲に 於いては、最小限必要不可欠為る物の確保が施政の要(かなめ)であ る。 「世界人類を生(活)かす」涅槃妙心は、「殺さない」事は大前提であり、 「人を害さない」のみならず、要は「人を生(活)かす」事なのである。 善を施せば、悪は自(おの)ずから生まれない。 政治家の使命は「世界人類を生(活)かす」為に、万全の手段を地球規 模で講ずる事である。 睡眠は最も耐え難きものであるが、是を必要最小限にし、可能な限りの 、本質的な心を生(活)かす事に心掛ける事である。 人間の生き方は二大別出来る。 求心的、現象的、能力的方向性と、遠心的、本質的、「人を生(活)かす」 方向性である。 施政者は前者であり、其の対極足る者は後者である。 生き方の神髄は求心的にして、遠心的に開く。 此の究極が、三時間坐睡二十四時間仏作仏行である。 人間は眠っている間も、後天的人類三毒(貪・瞋・癡)の睡蛇(すいじゃ) が心にとぐろを巻いて居るのである。 心と云うものは、本質的に機能すればする程、眠る間も惜しむが如く、 涅槃回帰迄、心進化を遂げるものである。 身は使用する程に極点に達し、年齢と共に、皆死滅してしまうものであ るが、心は永遠に不滅為る恒常普遍の真理として生き続けるのである。 其れが、宇宙の涅槃化エネルギーに由来する涅槃妙心である。 其れを支えるものが菩提(道)心である。 発(ほつ)菩提(道)心するのである。 是が人生の、涅槃への分岐点である。 既成概念や社会通念を超えて、人間の自然な心の志向性を生(活)かす べきである。 小生、涅槃真理が、五十余年前の、嘗(かつ)ての迷える子羊に語って 遣(や)れる事は、「世界人類を生(活)かす」涅槃妙心の、一滴の涙(な みだ)であるだろう。 《 伝 統 》 伝統の、心進化への直接的影響力と云うものは、或る時点迄。 自己の方針が定(さだ)まって居れば、飽く迄も、宇宙を貫徹して自己に 徹する事。自己の心を護持する事である。 伝統一般を通して、何にも染まって居ない自己を永遠に貫徹する事であ る。 釈尊も言われた。『自己の心を依り処とせよ』と。 坐禅から入り、坐禅で万法(=森羅万象と心)を貫き、坐禅で宇宙に回 帰した。 重きは自己の心 である。 宇宙の涅槃化エネルギーが自己の心に本具せる涅槃識に放電し、呼吸 機能の異変を介して、涅槃妙心を覚(さと)ら使めたのである。 涅槃回帰は自心の菩提(道)心に起因する。 宇宙の真理とは、然(そ)う云うものである。 純粋為る自己の真(理へ至る)道在るのみである。 自己を出ないから、回帰が在り得るのである。 チラッとでも他心(たしん)在らば、回帰生ぜず。 其の様(さま)は、雲海に聳(そび)え立つ富士山に譬(たと)え得る。 《 制 裁 》 釈尊断食苦行は生命を涸渇(こかつ)させる苦行であり、其の帰結する 処は死に至るか、然(さ)も無くんば、中道(諦観)に至るかの何(いず) れかである。 釈尊は中道に拠りて、正道を歩み得て、人類史上初めて成道に至り得 て、人類救済の道を確立し得たのである。 此の正道に基づいて、其の、当時の究極の二祖大迦葉の頭陀行より、 吾師は心進化の究極の正法苦行(初行)を提起せられたのである。 今、世界の現状は、生命を涸渇せ使める世界規模の、制裁に依る我慢 比べと間接関与の戦争状態である。 現代に於いては、二千五百年前の釈尊程の真剣さには及び得ず、中道 (諦観)に至り得ないが故の、永遠の覚(さとり)無き、涸渇志向の二元対 立状態である。 今、人類は中道(諦観)に心進化を遂げ、、正法苦行為らぬ、宇宙の真 理に基づく信頼結束を果たし、癡愚為る道を回避し得て、涅槃妙心智慧 を実現しなければ為らないのである。 今、其れが出来ねば、人類は永遠に癡愚道から脱却出来ないのである 。 《 東西 凡聖…… 》 東西 凡聖…… 、為らざる真理。 真理から為(す)れば、東西も、凡聖も無くして、正道在り。 真(理へ至る)道の事である。 真道は真理の具現。 宇宙の働きは、「世界人類を生(活)かす」涅槃妙心と為りて、世界人類 に顕現する。 人類の涅槃妙心智慧の要(かなめ)が、 米中露核兵器禁止条約締結である。 是が、永遠に生命の混迷、涸渇(こかつ)、そして死に至ら使める、世界 を分断する制裁戦争と云った釈尊断食苦行に象徴される本能的欲求の 極限苦行から、生命の開花と世界人類の繁栄を齎(もたら)す(釈尊)中 道(諦観)、成道(=開悟)、そして涅槃回帰、帰一への絶対不可欠為る 要(かなめ)であり、是が、真理に基づく世界人類信頼結束の試金石で ある。 《 善因善果、悪因悪果 》 世の中と云うものは、宇宙の真理に基づいて居れば不可思議に、『因果 の道理』の依拠(いきょ)足る涅槃化エネルギーに拠りて、心進化の究極 為る涅槃妙心で、現在、未来の時間的ズレは在れど、超正確為る働き で、時空を越えて、調和を現成(げんじょう)するのである。 人類三毒(貪・瞋・癡)に基づく幻想は測り知れない負荷を負う事と為る。 智者は直観的認識で、其れを本能的に弁知出来るのである。 其れが、地球を取り巻く有機的構成系裡に、世界人類を平和へと導引 する。 世の中は「諸悪莫作(悪を造らず)」だけでは、世界人類の平和には及び 得ない。 「修善奉行」が、私無く、世界人類を根底から生(活)かすのに絶対不可 欠である。 大地に根付いた生命と云うものは、やがて芽を出し、成長し、花を咲か すのである。 根付くとは、種子足り得る事であり、更に初行遂行する事である。 花を咲かすとは、佛心の事であり、其れが奇跡的に涅槃妙心を得る事 である。 此の一~二年間に、地球人類は涅槃への方向性を決定(けつじょう)し なければ為らない。 世界人類が宇宙真理の具現足る、『最初後身心』に基づく信頼結束を図 り、『因果の道理』に基づいて、地上を平安に保持し得る様に、然(しか) るべく、世界体制を構築、完遂し往くのである。 終わり無き、「衰退への我慢比べ」や「殺し合い」でなく、「生(活)かし合 う」。「生(活)かし合う」べく、取り計らうのである。 然(さ)も無くんば、人類は地獄の閉回路から脱却し得ないのである。 発(ほつ)菩提(心)しなければ為らないのである。 岸田総理が最終的に世界統一で締め括(くく)り、世界を指導する立場 に立つ。 日本が今、世界を教導しなければ、世界人類を教導し得る国家は無い 。 日本で、宇宙の真理に至り得たからである。 国内事情も、「諸悪莫作」も然(さ)る事ながら、「修善奉行」に力点を切り 換え、「今為さねば、永遠に為し得ない」自覚を忘れる事無く、世界事情 の基本的方向付けを、此の一~二年間で決定(けつじょう)する事が不 可欠である。 「世界人類を生(活)かす」涅槃妙心智慧である。 今殊更(ことさら)に、是に基づく大局観を国民に根付かせる方向性、三 毒(貪・瞋・癡)為らぬ、三善根(施・慈・慧)の方向性が求められる。 今、為し遂げなけば、永遠に為し得ないからである。 《 日程表 》 3:00―――起床 5:00―――帰宅 (ネット) (夕食準備) 6:00―――朝食準備 7:00―――晩課 (ネット) (夕食準備) 8:50―――朝課 8:00―――夕食 (朝食) 10:20―――托鉢準備 9:00―――片付け 11:00―――托鉢出発 10:00―――ネット 1:30前後 1時間(昼食) 11:30―――就寝 ※ 食後は直ぐ後片付け 日曜日は18:00迄入浴準備、21:00入浴 涅槃化エネルギーは規則性と教導として涅槃に帰一、回帰する。 《 人類の将来 》 我々人類の、将来の永遠の平安と平和が、人類究極の目的である事が 人類の最終結論なのである、と人類は知るに至るのである。 是に及び得ない、是を忘れた人間が世界を地獄にするのである。 更に、厳密に言えば、斯(か)く、思い知れども、世界に信頼結束が生ま れず、様々な経済的集団で、其の方向性を模索しつつあるが、信頼結 束の核は相対的為る物質的国益ではなく、不動為る本質的宇宙真理と 為らねば為らないのであるが、其処(そこ)が、今後一~二年の世界規 模での課題である。 世界人類が此の道、真(理へ至る)道を歩む必然性は、世界人類の永 遠に不滅の恒常普遍の真理為るが故である。 此の必然性に至るには、人類が自己の心を拠り処として、本源の自性 に至る以外無いのである。 人類精神性の萌芽為る、五千年前のバラモンの瞑想に端を発する坐禅 と人類の平和とが密接にして、不可分為る必然性が其処(そこ)に在る。 然(さ)りながら、人類は其の現象面に拘泥して、一般的に、中々本質志 向する事が稀である。 人間の諸能力が本質に先行する。 小生は想定通り、内面志向し、五十余年を経て結果的に正鵠(こく)を射 た訳である。 故に、小生は世界一、最も有効な生き方をした人間である。 生きると云う事は、死すべき運命の自己の自覚の世界である。 抑(そもそも)真理以前、小生は、本質其のもの為らざる、極佛行に至る 迄の明解無き、超二元論的世界に住して居た訳である。 「本質為らざる本質」としてでなく、「現象に対峙する本質」としての、明 確為らざる解として、涅槃回帰為らざる、超二元論的立場しか採り得な かったのである。 然(しか)るに、宇宙に限定されている人類の一人として、明確為る解( =真理)を得て以来、其れは根本的に他者とは異なるのである。 人類史上、真理に至り得た事は無かったが、実は是が人類究極の問題 であるにも拘らず、人類が負い切れる課題ではなかっただけなのである 。 然(さ)りながら、斯(か)くして今日、奇跡的に其処(そこ)に至り得て、世 界人類の立ち位置が、ソクラテスの「未知の知」ではく、「既知の真理」と 転じ得た事実に拠りて、根本的に従来とは一線を画して、真理以前と、 以後では、世界が一変するのが当然なのである。 然(さ)も無くんば、人類の癡愚以外の何者でもないのである。 諸々の禽獣(きんじゅう)と相異為る事無きが故也。 宇宙の涅槃化エネルギーの働きが、正に涅槃への永久機関足る真理 に他ならないのである。 人類は皆夫々、其れを生きて居り、其の途上に在るのである。 一、一が涅槃を現成(げんじょう)して居るのである。 是が自己であり、我々の将来である。 斯(か)くして、人類は動物的癡愚を脱却して、涅槃を現成し往くのであ る。 菩提(道)心と云うものに限りが無い。 宇宙の如く、無限である。 人心の様々な障壁を取り除いてしまえば、福壽海無量為る涅槃世界が 現成する。 《 智慧とは 》 人類の智慧と云うものは、回避すべき、回避し得る危難を回避する正道 の事である。 是は宇宙の真理に回帰した『最初後身心』為らばこそ語る正道である。 是を智慧と言う。 若(も)し、是が在れば、人類は平和である筈なのである。 未(いま)だに、為す術(すべ)も無く、常任理事国家の指導者達が宇宙 の真理に対して、是を回避し、蒙昧(もうまい)主義を貫き、唯、害し合い 、殺し合う以外、為す術を知らないのは、人類に智慧が無い証拠である 。 実は是程の恥は無いのである。 《 小生『最初後身心』鐵漢の意味 》 宇宙の頂点に起つべき地球上人類、小生鐵漢、其の運命的確心を痛感 せざるを得ない。 涅槃為る宇宙の本質の真理に回帰した『最初後身心』の宿命である。 地球上人類が従来の覆轍(ふくてつ)を繰り返し踏む事を勿(なか)ら使 めるのが人類心進化した証(あかし)なのである。 親為らば、自(みずか)ら犠牲と為りても、子を生(活)かすのが親である 。職業柄、親らしさを演じて居るだけで、親も親為らば、子も子である。 親子関係と云うものは、「世界人類を生(活)かす」関係にして初めて、思 い遣る、真の人と人との関係足るのである。 米中も同様で、「世界人類を生(活)かす」べき、米中の関係性を構築し なければ為らない。 其の為の、個人の存在意義なのである。 此処(ここ)が逆転するのが、世界の通性である。 又、其れが職業為るものの限界であるのかもしれない。 仮の生業(なりわい)である。 本質的為らざる、現象的為る次元のものである。 大地に根を張り、大地に生(活)かされて居る命としての自己足る存在で なければ、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」には至り得ない。 浅薄な科学文明で短絡的に人類の生命を仕切ろうとする、自己の為の 結果を狙(ねら)う現象人間では、世界人類の平安は望めない。 世界は今、真理に至り得ない儘(まま)、二元対立で、然(しか)るべき方 向性を持ち得ない、力の乱立状態であり、其れを象徴する国連核兵器 支配体制である。 米国の核兵器支配に、小生『最初後身心』が随伴し、ロシア侵攻が惹起 した。 現象的、諸悪の根源が国連核兵器支配に在る。 此の極々悪に対して、採り得る米中露指導者の英断一つに、世界人類 の運命が懸かって居るのである。 宇宙の真理に核兵器禁止条約締結が然(しか)るべく、最も相応(ふさ わ)しいのである。 是に拠りて、世界人類の涅槃への方向性が、先ず決定(けつじょう)する 。 以降、自(おの)ずから、真理に基づく世界人類の信頼結束が醸成され るのである。 矢張り、涅槃回帰への入口は、地獄脱離への出口なのである。 《 智 慧 》 動きと云うものが随意である様に、智慧も随意である。 其処(そこ)に意志が働かない限り、共に生じ得ないものなのである。 然(しか)るに、衝動は意志以前のものであり、欲情、情動に因りて行動 する動物的為るものである。 是等の中(うち)、進化の最先端為るものが、随意為る智慧である。 物理的力でなく、智慧力である。 生命と云うものは、「動き」から「生(活)かす」へと進化を遂げた。 つまり能力から智慧である。 人類を真に生(活)かすものが、此の智慧力なのである。 是、涅槃識から、真に「人を思う」涅槃妙心智慧と為りて出(い)づる慧眼 力である。 人類は、涅槃妙心智慧を生むのが、最も進化した人間である。 此処(ここ)迄の、不惜身命(ふせきしんみょう)のあらゆる真の労苦、其 れへの発想と想像力、つまり菩提(道)心が絶対不可欠である。 涅槃への心進化の方向性に則(のっと)って、宇宙の涅槃化エネルギー の、『因果の道理』足る涅槃化を期すべく、我々は進化して居り、且つ進 化を遂げるべきなのである。 人間、死ぬ時に人類愛で死ぬのか、交合で死ぬのかと為ると明瞭であ る。 世の中、『花より団子』とは謂うが、矢張り、花でありたいと思うのが人間 ではないか? 我々は日常、如何(どう)在らねば為らないか、と思われて為らない。 「より身を生(活)かす」か、「より心を生(活)かす」か。 是が心と身、人間と動物、生と死、喜と苦との一線である。 《 今 》 今、世界人類の頂点、米国、中国、露西亜の指導者、 バイデン氏と、習氏と、プーチン氏の 民主資本主義と社会共産支配主義と第三勢力として特徴付けられる、 世界人類の運命の舵取り役足る立場の三者であるが、 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰して、宇宙の真理を覚(さと)った『最 初後身心』足る鐵漢の、世界人類の『生命の本質』足る立場の小生が、 彼等三者の枢軸として生(活)きて居るのである。 是が、“今”と云う、世界の実情である。 今こそ、世界人類の平安(和)の為に、真に腹を割って、不惜(せき)身 命の覚悟で、宇宙の真理に基づいた、今後の世界人類の腹蔵無き空前 絶後の方向性を決定して戴きたい。 今以外に、人類の真価を発揮出来る時は二度と訪れないのである。 《 核兵器禁止条約締結の必然性 》 国連核兵器支配体制は、小生からすれば極佛行に他ならない。 宇宙の真理を「覚天(涅槃回帰)」していない。 人間に遣(や)れる事は、其処(そこ)迄であると云う事である。 しかし、小生の教導する処は真理である。 「解脱」域迄は極佛行(=核兵器支配体制)を残す。 真理に回帰し得た小生からすれば、「解脱」も二元相対世界に他ならな い。 絶対世界は「宇宙の真理」其のものに回帰し得た世界であり、是が涅槃 妙心である。 核兵器禁止条約締結が涅槃妙心智慧である。 小生『最初後身心』が既に顕在して居りながら、真理を否定する人類の 在り様は明確な悪業為るが故に、地獄道に他ならない。 小生は真の預言者である。 「解脱人」には、核兵器禁止条約締結せ使める迄の力は無い。 しかし、「涅槃人」為る『最初後身心』にして初めて、核兵器禁止条約締 結の必然性を宇宙の涅槃化エネルギーに基づいて教導し、「涅槃」の何 足るかを世界人類に確信せ使める事が出来るのである。 此の人類の確信は、小生鐵漢の、真理無き弱肉強食世界に於ける「覚 天(涅槃回帰)」に拠る確心に基づくものである。 今の国連核兵器支配体制の帰結がロシア・ウクライナ戦争であり、ミャ ンマー軍事政権の暴挙なのである。 終り無き、ロシア・ウクライナ戦争と、其れが生んだ世界の分断、間接的 参戦に依る、釈尊断食苦行に相当する、倒れる迄の終り無き経済制裁 の「我慢比べ」、中道(諦観)無き、死に至る苦行である。 是等に終止符を打てるのが、唯一の核兵器禁止条約締結である。 唯一、人類が核兵器支配から打ち出し得る「修善奉行」である。 是以上に、世界人類が信頼結束し得る道は無い。 核兵器支配体制は死に至る苦行に他ならないのである。 結論を言えば、 人間は千日初行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)を為せば、100% 核兵器支配には至らないと云う事である。 要するに、人類の選択肢は、核兵器支配に至るか、其れとも初行を実 践するかなのである。 初行は、小生三十年以上も前、半年間の準備期間を経て三年間、四十 歳で完了した。 早い話が、 初行は菩提(道)心の問題である。 其の気に為れば、誰でも遣れる。 遣る気が有るか、無いかだけの違いであると言っても過言ではない。 要するに、人類と云う者は、遣る気が無いから、核兵器支配で脅(おど) せば、世界は意の儘(まま)に為ると高を括(くく)って、世界人類を欺(あ ざむ)き、誑(たぶら)かしたのである。 自己と云う「人間の本質」を知らざる、現象人間の短絡思考であるが故 に、日本への原爆投下を皮切りに、其の脅(おど)しで世界を制圧せんと する、世界人類の平和にとって不可欠為る信頼性無き、最足る弱肉強 食世界が如何(いか)為るものであるかの察知能力欠如の無神経な心 進化の及ばなさには情け無く為る。 諸悪の根源、人類三毒(貪・瞋・癡)の貪著の結果の力支配に依りて、人 類の三善根(施・慈・慧)に目覚(ざ)めなかったのである。 『転(ころ)ばぬ先の杖』である。 気が付いた時はもう既に、人類滅亡への一歩を踏み出して居るのであ る。 世界人類の平和の為の勇猛(ゆうみょう)心は初行だけで完結するので ある。 是以上の気概は、「殺(害)し」、「殺(害)される」心に他ならない。 其れは必要悪である。 勝っても、負けても、地獄の人間でしかないのである。 ウクライナの正義か? 其れは、永遠に世界を分断に陥(おとしい)れるものである。 「殺(害)し」、「殺(害)される」運命に変わりは無い。 小生も、此の真実を語れるのは、「覚天(涅槃回帰)」の裏付け、宇宙の 真理が在らばこそである。 初行完了の段階では、及び得ないものである。 其れでも、正(せい)道の内容は既に出来上がって居る。 故に、小生が教導して居る様に、国連核兵器支配体制と初行とは、宇 宙の涅槃化エネルギーが衰滅し行く地獄への方向性と、限り無く湧出し 往く涅槃への方向性の分水嶺なのである。 国連の改革には初行を置けば済むのである。 人間とは、其の位好い加減な生き方しか出来て居ないと云う事なのであ る。 好い加減な人生には、好い加減な結果しか生まない。 初行さえ起こせば、自(おの)ずから済むものである。 世界人類の平和への正門である。 其処(そこ)迄の本気度と真剣さに及ばないだけである。 此の真実が解った上で、核抑止を大義と為して、欺誑(ぎきょう)する、其 の癡愚道、核兵器支配体制を歩むのは、ナチスがユダヤ人をガス室に 閉じ込めるが如き極悪道である。 《 涅槃人:真理とロシア・ウクライナの在り様 》 小生は、学問に最も成り難き事柄を学問する者である。 敢えて謂えば禅学、否、真理為るが故に真理学である。 真(まこと)の真理は、真(まこと)の真理学足るのである。 真理に関しては、ソクラテスは「無知の知」として説き、 古代インドでは梵語の「在り」からの「在るべきもの」の意で、現実として の存在を、其の儘に見て、在りの儘に実相と覚る(さと)る事、其れを真 理と謂った。 大乗では真如(法性、諸法実相)と謂う。 真理とは、 涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の涅槃妙心の事である。 今日に至りて、小生を超える真理学は永遠に現れないのである。 小生自身、此処(ここ)に迄至り得るとは、想像だにしなかった。 日々、宇宙の進化の最先端為る大脳新皮質に刻み込まれ往く真理(実) である。 大脳新皮質の進化は地上有機的構成系を介して、菩提(道)心と人類 三毒(貪・瞋・癡)との、涅槃への収束振動に依る世界人類の心進化を 遂げ往くのである。 人類、暗闇(くらやみ)が在れば、其の先に必ず光明が在るのである。 光り無き闇は無い。 「宇宙(生命)の本質」は涅槃であり、人類に涅槃妙心として体現され、 涅槃妙心智慧として顕現するのである。 人類は暗闇と光明を両極とする収束振動し往き、涅槃に同じ、帰一する のである。 暗闇は光明の前兆として、能動積極的に『修善奉行』を行じ往くべきで ある。 『修善奉行』と正義とは異なる。 前者は宇宙真理為る涅槃妙心に基づいて、「世界人類を生(活)かす」 のであるが、地上で正義感に基づいて、歴史を繰り返してきた結果が国 連現体制下の、今と云う、二元対立する世界の現状なのである。 人類の大脳新皮質に由来する理念に拠りて、世界人類が信頼結束し得 た例(ためし)は無い。 其れは世界に分断を招来する事にしか為らない。 ロシアの侵攻を端緒とする、世界を地獄と疲弊に陥(おとしい)れる、現 ロシア・ウクライナ戦争を如何(どの)様に終結に至ら使め得るか? 西側の戦争支援と、世界の分断と、制裁戦争等と引き換えに、世界の 主流がウクライナの領土と主権の奪還に事態を転じ得せ使めようとしつ つある現況である。 ウクライナの正義が世界に与えた代償(だいしょう)は、ウクライナ以外 の世界に様々な根本的為る課題を投げ掛けている。 今日の真理黎明の時代に、是から世界が戦争(核兵器)と云う地獄に対 して、如何(どの)様に是を、人類の涅槃妙心智慧に拠りて回避し得るか が、今試されているのである。 今こそ、人類の真理の叡智に拠りて、世界人類の勝利へと導かねば為 らないのである。 此処(ここ)に至りて、嘗て原爆投下が宇宙の真理を生み、そしてロシア の侵攻が世界人類の涅槃帰一に至ら使めるのである。 資源、物資等の制裁戦争が環境破壊を招来し兼ねない事態に至れば、 世界人類は、既に取り返しの着かない事態に陥(おちい)るであろう。 ロシアの侵攻に因りて、最初の被害者為るウクライナ国民は然(さ)る事 ながら、ロシア自国のみならず世界に終り無き分断と衰頽(たい)を惹起 せ使めたのである。 世界は、今の処は原爆投下以外の、超科学文明力を駆使する能力戦 に依る地獄の泥沼状態である。 世界は今は、「修善奉行」処(どころ)か、「諸悪莫作」すら無い状態であ るが、人類三毒の貪著に由来する二元相対為る対立世界の癡愚さは 測り知れない。 「闇路に闇路を踏み添える」のではない、唯一の解決(=智慧)は「修善 奉行」である。 人類三毒(貪・瞋・癡)が転じた三善根(施・慈・慧)が無い。 ロシアにも、ウクライナにも、世界にも。 「施す」と云うのは、「世界人類を生(活)かす」為である。 世界の現状の根本原因は、「世界人類を生(活)かす」涅槃妙心の欠落 である。 空前絶後に「覚天(涅槃回帰)」し得た小生『最初後身心』の在り様は有 機的構成系裡の風鈴である。 「涅槃人」とは、潮騒の如く、そよそよと音を立てて戦(そよ)ぐ風鈴であ る。 「解脱」域の厳然とした立場ではない。 是は、「頭陀第一」の二祖大迦葉の厳格さと、諸仏の師足る「智慧第一」 の文殊菩薩の自由さとの両者の立場に象徴される。 小生が「覚天(涅槃回帰)」後、初めて有機的構成系と称した、「涅槃人」 にして初めて知る心的淫快を生起せ使める非科学的、「解脱」を大前提 とする「覚天(涅槃回帰)」後の風鈴としての在り様は、人間生命の運命 的必然不可避性を小生に知ら使めたのである。 小生が若(も)し、宇宙の真理に回帰し得ねば、永遠に至り得なかった世 界である。 此の有機的構成系の主体は人類三毒(貪・瞋・癡)の貪著に由来するも のである。 是が世界人類の生活圏を覆(おお)って居るのである。 人類の五欲(性欲、食欲、睡眠欲、金欲、名誉欲)を五蓋(がい)と謂う。 そして此の五欲の根本を六蓋(蓋;ふた)と謂い、是を無明蓋と称する。 身心脱落(悟り)に依りて、三毒五欲為る五蓋を除き、離れるのである。 無明蓋の究極が極佛行である事は言う迄も無い。 (無明とは真理に暗い事であり、一切の迷妄・煩悩の根源を謂う。) 小生『最初後身心』でなくんば、非科学的にして不可思議為る無明蓋為 る、小生称する処の有機的構成系の実体に対応する事は不可能である 。 真理無くして及び得るものではない。 教育は真理に基づかない限り、水を掴(つか)む様なものである。 嘗て吾師が弟子に、「其れで何処(どこ)迄届くかな?」と、 人間の及ぼし得る感応(のう)道交について言及された事があった。 ( 感応道交 ; 衆生の機感と仏の応化とが相通じて融合する事。) 神通力や念力等は有限性のものであるが、人類在って初めて至り得る 真理は、宇宙に永遠不滅の恒常普遍為るものである。 涅槃妙心の、人類三毒(貪・瞋・癡)を主体と為す有機的構成系裡に於 ける在り様、非科学的にして不可思議、不可避為る化学変化を然(そ) の様に称して居るのである。 是を回避するのは、「解脱」域迄は正法苦行の途上に在る関係上、自( おの)ずから回避し足り得て居たのであるが、正法苦行から教導へ移行 すると、心は坐禅以前に復帰し、人類三毒(貪・瞋・癡)に対して回避す るでもなく、回避しようとするのは不自然である。 風鈴足るのである。つまり水と油とが乳濁している状態である。 決して混(ま)じり合わないのである。 其の有機的構成系裡、即ち心的淫快が性欲の根源に在り、是が心の迷 妄と謂われるものの根源なのである。 睡眠欲は眠くなれば寝るだけで、食欲も基本的には然(さ)程変わらな い。共に禁ずれば、直に衰亡する。 然(しか)るに、性欲だけは動物と人類とは根本的に相違している。 人類に特有為る大脳新皮質の分別に拠りて、其れは善くも悪しくも、限 り無く修飾される。 是が涅槃回帰後、有機的構成系裡の心的淫快として小生に生起したの である。 是は、勝った負けた、取った取られた等の二元論的分別以前のもので あり、其の意味では、100年~130年程前、フロイトが神経症患者の精 神病理からリビドー(性的エネルギー)保存に基づく、本能(生理)的欲求 からの情動由来の快感原則、現実原則を打ち立てた、其の功績は大き い。 人間には後天性の本能的欲求(攻撃と逃避と宗教的御縋(すが)り等) と云うものもある。 其のリビドーが、小生『最初後身心』には有機的構成系裡の男性機能と しての心的淫快として、涅槃回帰後の小生に残ったのである。 従って、斯様(かよう)なリビドーが世界人類をして醸成せ使める有機的 構成系の、世界に及ぼす影響力は看過出来ないものが在る。 『最初後身心』の宇宙規模の涅槃識からは、二元論為らざる涅槃妙心で あり、後天性本能的欲求からも脱却して居るが故に、風鈴としての男性 機能として残ったのである。 風は潮騒(しおさい)同様に止む事は無いのである。 斯(か)るが故に、『最初後身心』は、風吹かば風鈴足る風鈴なのである 。 世の中は「自己の安泰」である。 「世界人類を生(活)かす」でない。 是が、戦争が終結せず、世界人類が分断して居る原因である。 喧嘩を止(と)めても、原爆は止(や)まない。 喧嘩は絶えないのである。 原爆を止(と)めれば、後(あと)は自(おの)ずから喧嘩は無くなるのであ る。 其れを、止(と)めずして、大国拒否権を発動するのは、弱肉強食の諸( もろもろ)の禽獣(きんじゅう)と相異ならざるが故である。 原爆を止(と)めるのは、先(ま)ず米中露が一致する事。 米中露核兵器禁止条約締結以外無いのである。 性欲も、人間の生老病死の四苦、特に生苦としての最も人間らしい煩悩 と迷妄の根源足り、取った取られた、勝った負けた等の二元論的、動物 的次元のものでなく、人(じん)心を成長させ、豊かにし、心進化為ら使 めるもの足らねば、欲としての真価足り得ない。 食欲も、食糧の絶対量が無くなれば、争奪戦争でなく、共に死に往くだ けの覚悟が人類には不可欠である。 人類の奴隷としての存在ではなく、人類を教導する存在足らねばならな い。 生きるのも、共に「世界人類を生(活)かし合う」涅槃妙心(智慧)が不可 欠である。 是等は長年、正法苦行で培(つちか)われて来た「真実の心」の証(あか し)である。 大空を舞う天女の如き、自由為る調和と均衡と静謐(ひつ)為るが故の 歓喜に至るには、結果論ではありますが、吾師に対しても、結果的に自 心を依拠(いきょ)として、吾師に由来する、自己の本性(しょう)に徹し得 たからこそ、「宇宙の真理」に至り得たのである。 チラッとでも他(た)心を差し挟んでいたならば、涅槃為る宇宙の真理に 回帰出来なかった。 要するに、坐禅は何処(どこ)でも出来ると云う事。 坐禅程のものを、寺であるとか、山中であるとかと云った、人里離れて行 ずるべきものではない。 欲界の街中で、但(ただ)し、静かな場所で厳格に、正法苦行(初行)で も行ずべきものである。 機軸は坐禅(行)と自己と欲界である。 極々無量為る妙心は、涅槃への相乗的に対峙する、自己と他者の両極 の、そして今や規則性と教導の極々微細為る収束振動に基づくのであ る。 両極の振り返し毎の「雨降って地固まる」。 何処(どこ)迄も堅実に為り往き、不動の涅槃へ至り往くのである。 貪著(甘え)と忖度の癡の闇は、保身と安泰、従って地獄しかない。 《 真理と「殺す」 》 小生、真理為る涅槃妙心に回帰した『最初後身心』には人が「殺せない」 。 涅槃妙心は「世界人類を生(活)かす」心である。 専門僧堂を出て、放浪中(初行以前)には既に「生命を害する」事に「自 戒の念」を覚えた。 「生命を害しては為らない」の心である。 其れは裏返せば、慈悲心と為る。 真理の涅槃妙心に回帰して、涅槃妙心智慧は「世界人類を生(活)かす 」である。 「殺さない」が「生(活)かす」と為ったのである。 「不殺戒」の受動消極性が三十五年程を経て、能動積極的に「世界人類 を生(活)かす」涅槃妙心智慧として確心したのである。 然(しか)るに、世界を支配して居る支配力は「殺す」である。 国連原爆支配体制は大国拒否権で、更に其れを強化した。 而(しか)も、其れを凌(しの)ぐ「殺す」がミャンマー軍事政権強権支配で あり、ロシア・ウクライナ戦争である。 世界は国連の「殺す」体制に支配されており、其れが、国家暴力の「殺 す」で機能不全状態なのである。 更に世界は抹殺しない程度に「殺す」。 何の為か? 折り合いを付ける為だ。 どの様に? 「折り合いが付くべく、折り合いを付ける」のである。 旨(うま)く往くか? 然(さ)に非ず。 折り合いが付く以前に崩壊寸前である。 旨く往かない。 其処(そこ)で、原点に戻って、矢張り諸悪の根源、国連現体制を根本か ら修正しなければ落着しない。 米中露核兵器禁止条約締結の信頼結束の最終結論に至るのである。 其れは涅槃化エネルギーの必然性である。 其処(そこ)から事態は全(すべ)てが落着すべく、改善され往くのである 。 世界人類は人間由来の「殺す」よりも、宇宙真理の涅槃由来の「生(活) かす」に心進化する必然性が在るからである。 是が世界人類の真の在り様であり、男女間も其処(そこ)迄の、つまり「 閉塞的に生(活)きる」でなく「世界人類を生(活)かす」迄の心進化を遂 げねば為らないのである。 是を涅槃に同じ、涅槃に帰一すると謂う。 小生が存在する事自体が、世の中が改善する可能性である。 小生が存在せずんば、光無し。 光と闇は、深き自覚の問題である。 世の中の三毒(貪・瞋・癡)為る有機的構成系から自覚した人物の存在 が光であり、小生の存在が是を喚起する。 小生無くんば光無し。 小生の「覚天(涅槃回帰)」が心のビッグバンであった。 涅槃為る真理の黎明であったのだ。 是を機に、世界人類が興起して、宇宙の開闢から人間世界の開闢に迄 心進化せ使め得る迄に、夫々が発(ほつ)菩提(道)心しなければ、小生 亡(な)き後(あと)、心の光を見失っては、人類は永遠に宇宙の恩恵に 応(こた)える事は出来ないであろう。 今後の数年が、其の礎(いしずえ)をしく重大為る時機である。 人類史上、最も各人の自覚を要する時機に、人類は遂に至り得たので ある。 今後の各人の自覚と覚悟の始まりである。 人間が生(活)きると云う事は然(そ)う云う事であり、其れが、動物が進 化した人類の心進化なのである。 人間の真価とは、自然法爾(じねんほうに)ではない。 人間は、無から自然が、更に人間に進化したものであり、自然を土台と した心の太陽なのである。 太陽に基づいた心の太陽。 宇宙は物から心へと進化を遂げたのである。 心の太陽を生(活)かすも殺すも、人間次第であると云う事を知らねばな らない。 死んだ太陽では、動物に止(とど)まる。 有機的構成系の真価も全く同様である。 今後、小生『最初後身心』と共に改善し、心進化し往くのが人類の真価 である。 《 規則性 》 有機的構成系に対処する規則性と教導は既に完結して居る。 《 人間世界の三原色の絵具と光 》 人間は本能(生理)的欲求(性欲、食欲、睡眠欲)が其の根源に在り、 人間世界は総(す)べて、其れに拠りて構成されて居る。 つまり、人類の諸欲は総べて其れからの、情動と記憶と共感と大脳新皮 質の複合産物であり、人間世界は其の複合産物に基づく構成体である 。 根本の本能(生理)的欲求(性欲、食欲、睡眠欲)を三原色に譬(たと)え れば、此の三原色から総べての色相が生まれるのである。 三原色には絵具と光の二種類在る。 人間由来の三原色の絵具は混ざる程に黒く為り、宇宙由来の三原色の 光は混ざる程に透明に為る。 人間も同様に、人間由来の諸欲が募(つの)る程に闇を生み、宇宙由来 の菩提(道)心が有る程に光を生み出す。 忘れては為らないのが、此の宇宙由来の菩提(道)心である。 宇宙の最終産物である人類。 是は物から生命、そして人類へと進化を遂げ、人類は身の進化から心 進化を遂げた。 宇宙(=涅槃化エネルギー)の最終産物が人類であり、人類の最終産物 が宇宙回帰に依る涅槃妙心である。 涅槃化エネルギー→人類[悟り、解脱、覚天(涅槃回帰)]→涅槃妙心 (物) ⇔ 真理 ⇔ (心) 物心間は往還して居る。 物から心への往相と、心から物への還相である。 真理と云うものは涅槃為る宇宙(物)が醸(かも)し出す調和と均衡と静 謐であり、是が顕現したものが、世界人類の平和の依拠(いきょ)足る人 間の涅槃妙心(智慧)である。 バイデン氏、習氏、プーチン氏、ゼレンスキー氏等に告ぐ。 自今已(い)後、「率先垂範以(もっ)て、世界人類 を生(活)かすべく生 きるべし。」と。 《 終行入り 》 世界人類が平和に為る事を期して、小生に出来る事は、初行、後行か らの終行である。 本日より終行に入る。 《 総(す)べての道は真理に通ずる 》 総べての道は真理に通ずる。 我々人類は真理に生み出されて居るからである。 真理とは宇宙の涅槃化エネルギーの働きである。 故に、真理は人類の諸能力を生(活)かすものである。 如何様(どのよう)に生(活)かすのか? 「世界人類を生(活)かす」べく生(活)かすのである。 其の為には、人間は何を遣(や)って居っても宜しい。 生(活)きるとは、然(そ)う云う事である。 然(さ)もなくんば、其れは邪道に陥(おちい)る。 国家指導者然(しか)り。国連体制然り。オリンピック組織然り。 総(す)べては人類三毒(貪・瞋・癡)が台(たい)頭するからである。 其の分岐点は初動の自己の見極め。 其の自己が世界人類の平和に立脚して居るか、其れとも自己かである 。 菩提(道)心為らば、必ず前者と為って、後者ではない。 閉回路は如何(いか)為る場合でも至らない。 宇宙に開けてこそ、世界人類が生(活)きるのである。 《 真 行 》 無行の真(自覚)行 無行とは涅槃識の最も深き自覚の事 真とは涅槃妙心の自覚の事 家同士の自覚も斯(か)く在らねば為らない 《 快感原則から涅槃原則へ 》 人間は“快”に基づけば、動物に止(とど)まる。 フロイト曰(いわ)く、快感原則であると。 脳幹の本能(生理)的欲求から大脳辺縁系の情動行動への身心進化の 動因としての、リビドー(性的エネルギー)に因る快感原則である。 更に、全体が善く為るべく、自己実現する術(すべ)としての現実原則と 、其の延長線上にある涅槃原則に心進化を遂げるのである。 然(しか)るに、精神は然(そ)うは単純ではない。 脳幹の、脊髄側からも、大脳新皮質に分別を生起する意識を賦(ふ)活 する機能も関与しており、此の分別は生来、何処(どこ)迄も二元論なの である。 自己と他者(絶対者)。 此の意識(思考)原則を超越する事は、例えば、目で目を見る様な事で あり、是は目が目に為ってしまう以外無いのである。 つまり、涅槃為る宇宙の本質に自己が回帰する事である。 此の涅槃回帰は理論上のものではなく、飽く迄も結果論である。 或る刹那に自心が回帰したから、其処で初めて奇跡的に真理、宇宙の 心、涅槃妙心を知り得たのである。 世間と云うものは基本的には快感原則である。 現実原則は立場上、採り得る可能性に過ぎない。 人間と云う者は基本的に『花より団子』である。 此の団子志向からは、世界が如何(どう)為ろうとも快感原則からは脱却 出来ない。 菩提(道)心堅固為らずんば、世界の趨勢(すうせい)に変化は生じない のである。 農耕集落の社会構造化に随伴した人類三毒(貪・瞋・癡)故に、権力者 の「団子志向」が世界を二分する程の米中の覇権対立を生み、双方の 信頼結束への移行が困難と為って居る。 現実原則の象徴足る、国連核兵器支配大国拒否権体制が国家の暴挙 に対して、機能不全である。 今、涅槃原則への変革無くして、人類心進化無し。 《 涅槃妙心 》 世界に唯一、宇宙の心を体現せ使められた小生、空前絶後に『最初後 身心』足り得て、涅槃妙心を語るのである。 小生からすれば、諸(苦)行も戦争も自(みずか)ら死ぬ事である。 尤(もっと)も正法苦行は涅槃妙心への唯一の正(しょう)行であるが、「 覚天(涅槃回帰)」すれば諸行は既に完了して居る。 従って、最早戦争、つまり如何(いか)為る害し合う喧嘩(けんか)も終了 して、其の方向性を即座に修正し、何処(どこ)迄も忍を貫き、死に至る 迄、「生(活)かし合う」心を貫徹する覚悟が不可欠である。 然(さ)も無くんば、人類は諸(もろもろ)の禽獣(きんじゅう)に為り果てる のである。 人類の真価は「大人(だいにん)」足る事であり、其の為の涅槃妙心智慧 を生む事である。 此の涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に至るには、坐禅に拠りて現象を最 小限に留(とど)め、本質に接近、更に接触、最終的に回帰するのであ る。 人間は現象に拘泥すると、其の根源である本質を見失ってしまう。 「勝った負けた」、「取った取られた」等で害し合う事は言う迄も無く、行で さえも正に自己に死に切る事であり、本質志向ではあるが、本質に接触 、回帰する為のものである。 本質に接近する「悟り(身心脱落)」は行以前の坐禅の功徳裡に、及び 得る処であり、世界人類に益する事限り無い。 後(あと)は真理、「世界人類を生(活)かす」涅槃妙心を生きる事である 。 人類の諸能力の往き着く処は涅槃妙心である。 是に回帰、帰一、同じ得て諸現象の迷路に踏み込まない事である。 『脚下照顧(こ)』、頭燃(ずねん)、妄想でなく、脚下に回帰する事である 。 最早、二元対立で妄想する方向性でなく、即刻、真理に基づいて信頼結 束し、相互に「生(活)かし合う」べき真の労苦の道を歩まねば為らない。 此の道こそ、世界人類に普遍為る「自覚の道」である。 是は常に、何時(いつ)でも、何処(どこ)でも、誰でも、何処迄(どこまで) も「世界人類を生(活)かす」本質の道である。 従来の人類史は現象の歴史である。 此の真理黎明の新時代以降、本質回帰の新世紀に遷移するのである。 涅槃妙心を見失えば、人(じん)心は本質から乖(かい)離してしまう。 宇宙の働きは涅槃化エネルギーであり、此処(ここ)に『因果の道理』の 必然性が在るのである。 《 今時と過去との根源的相違 》 今時と過去との根源的相違点は、真理為る「宇宙(生命)の本質」(涅槃 )が明白と為った事である。 過去に於ける真理は「悟り(身心脱落)」、「解脱」までの経典、或いは学 問的形而上的問題として、明確為る確証無き、極佛行にも及ばざる宗教 心として把握されるに止(とど)まって居たのであるが、小生の「覚天(涅 槃回帰)」以降、真理とは涅槃為る「宇宙(生命)の本質」である、「人を 生(活)かす」涅槃妙心の事であると、大脳新皮質言語中枢を介して、明 確に言語化される、小生『最初後身心』に拠りて体現された真実である。 過去に於いては、明確為る真理無き時代であったが、小生が三年前、 宇宙由来の涅槃妙心に回帰したのである。 人類の大脳新皮質に、学問でも、確信でもない、厳然足る確心為る「宇 宙の真理」の刻印を押されたのである。 坐禅に拠る、宇宙涅槃化エネルギーの機能足る超奇跡的体現であった 。 此の人為を超脱した心進化の究極と、身進化の究極は次元が異なる。 永遠不滅為る恒常普遍の世界と、有限為る死滅する世界である。 人類表現能からは隔絶したものを言語化する試み自体が無効為る試み である。 意図すればする程、本質からは乖(かい)離したものと為ってしまう。 従って、人類が現象の本質に対応するは、器の水を器に移すが如く、極 (ごく)無作為に、自然に為されるのである。 本質から自然に流れ出て居る言葉を言語中枢の文法的次元のもので 修正しようとする行為には限界がある。 其れも部分的に補正し、其の本来性を生(活)かす事であり、本来性を 害(そこな)って迄為すべきものではない。 若(も)し其れを為せば、其の本来性が消滅し、別物に為ってしまう。 其の補(修)正の加減は本来性(=本質)に基づいて為されなければ為 し得るものではない。 何(いず)れにしても、永遠不滅為る恒常普遍の真理として、世界人類に 具足して居る本来性(=本質)であって、自己の本来性を発掘(くつ)する 事無くして為し得ない事なのである。 是は文法為らざる、覇権世界や核兵器支配でも同様の事が適応する。 手段を誤った、本質為る人間性の破壊である。 『兎(うさぎ)と亀』の寓(ぐう)話に在る様に、『急がば回れ』の信・鈍・根・ 忍である。 本来、強権支配には強権足るべき何者も、人類には持ち合わせは無い のである。 従って、其れは、世界人類の頂点に起(た)つには力不足である。 一方、本来、自由主義も自由足るべき何者も、人類には持ち合わせは 無いのである。 是も、世界人類の頂点に起つには力不足である。 本質に基づいて、現象的に派生(せい)する強権、或いは自由であるな らば、其れは涅槃世界の様態である。 東も西も、『最初後身心』以外、世界人類をして平和為ら使むるべき力の 持ち合わせは無い。 此の東西の在り様の矛盾を突いたのが、ロシアに拠る侵攻であった。 是が世界人類の今後の糧(かて)足るには、つまり米中が真の意味で生 (活)きるには、是迄の人類史に欠落する、小生『最初後身心』の宇宙の 真理に基づかない限り、米中露の従来の試みでは、何(いず)れも打開 策には至り得ないのである。 つまり、人間由来に、「人間の本質」の依拠(いきょ)足る、「宇宙の本質」 に基づかない限り、永遠に、世界人類の閉塞する運命を打開する術(す べ)は存在しないのである。 真理は人類の諸能力を本物にするのである。 人類は何処(どこ)かで、分別に拠る応酬(おうしゅう)を止めなければ、 地獄必定である。 分別に拠る応酬を超脱して、即刻、本質世界に起ち返り、其処(そこ)か ら涅槃妙心智慧を建て直すのである。 ゼレンスキー氏の正義は、世界に終り無き分断と疲弊(へい)を生み、一 方、ロシアでは多くの不幸な、戦争意志の無い一般市民が徴兵に駆り 出され様として居る。 正義も、二元相対為る分別の人間由来の正義でなく、涅槃為る宇宙の 真理の、普遍為る本質に由来するものでなければ、世界人類を不幸に 陥(おとしい)れるのである。 世界人類の平和は、プーチン氏に拠りて、小生『最初後身心』と習氏と バイデン氏で可能と為る。 人類は「涅槃への収束振動」なのである。 『雨降って地固まる』のである。 雨降って地が乱れるのでなく、本質回帰して心進化を遂げてこそ、収束 振動足り得て、世界人類の将来に光射(さ)し、涅槃帰一出来るのであ る。 是が真の能動積極的人間力、菩提(道)心である。 制裁戦争は二元対立志向の産物であり、「世界人類を生(活)かす」涅 槃妙心智慧足り得ない。 世界人類を混乱と疲弊と衰滅に至ら使める愚策である。 真の能動積極性に拠る信頼結束は国家我の執著(しゅうじゃく)を離れ た処、更に言えば、世界平和の要(かなめ)為る真理、「世界人類を生( 活)かす」涅槃妙心の確心に基づくものである。 確心と確信は異なる。 確信は信ずる世界であるが、確心は涅槃妙心を歴然(ぜん)と体現した 真実である。 今、此の人間力無くんば、人間は、永遠に「人類の平和」には値(あたい )しない禽(きん)獣なのである。 《 『最初後身心』 》 宇宙の涅槃化エネルギーは先(ま)ず星と為り、大地を形成し、海を生み 、其処(そこ)に植物、動物、そして我々人類と云う生命を育(はぐく)み、 物は身と為り、心へと変遷したのである。 身から心への生命現象、身進化から欲、情動を経て心進化を遂げたの である。 人類の誕生以来、地上は今や人類の分別に拠る二元相対為る対立の 心の世界と為り、其れ故の地獄を呈して居るのである。 是、人類特有の大脳新皮質の働きに拠る後天性人類三毒(貪・瞋・癡) の副産物である。 人間は、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しに拠って、尋繹(じんえ き;事の道理を尋ね調べる)(=十牛図最初の尋牛)するものである。 人類は五千年程前の瞑想、そしてヨーガ以来、釈尊に拠って禅定(坐禅 )が仏道を生んだ。 人間は坐禅を為(す)れば、真実の生命(=生命の真価)を知る。 是が坐禅の功徳であり、其の儘(まま)、坐禅を始めて三年程で小生「身 心脱落」したのである。 心進化を完了して初めて言えるのであるが、人間が涅槃為る「宇宙(生 命)の本質」に接近、接触、回帰して、宇宙の涅槃化エネルギーに回帰 するのである。 人間は本質に近付く程、諸悪の根源為る人類三毒(貪・瞋・癡)を除滅し て一転、三善根(施・慈・慧)足り得て居るのである。 世界人類の平和への一本道は人情でも信念でもなく、真理為る涅槃妙 心である。 真理、つまり本質は現象するが、三毒化された現象である。 従って真理を知らざる、 現象の本質化は不可能である。 其処(そこ)には唯一の正道が在る。 坐禅に拠りて自己を忘れ、宇宙涅槃化エネルギーに回帰するのである。 然(さ)もなくんば、真理に基づき、真理に同じ、帰一して生(活)き、そし て生(活)かすのである。 国家であれば、国民と共に極力、国家我を離れ、「世界人類を生(活)か す」べく世界と結束するのである。 是が、世界人類が平和に至り得る、間違い無き唯一の真実の道である 。 此処(ここ)に教育の基本を据(す)えるべきである。 選挙に於いても、其処(そこ)が解(わか)り合える選挙でなければ為らな い。 「宇宙(生命)の本質」は涅槃(妙心)である。 涅槃妙心は「人を生(活)かす」心であり、世界人類をして、「世界人類を 生(活)かし合わ使める」涅槃妙心智慧で、涅槃への収束微振動為ら使 めねば為らないのである。 真理を体現した小生、『最初後身心』は真に空前絶後為る唯一の存在で ある。 其処(そこ)に些(いささ)かの疑いも無い。 是迄に出現しなかったし、是からも出現しない。 人間世界の諸々の法律、特に国際法等は、小生『最初後身心』に基づ いて絶対的に制定されるべきである。 世界中の植民地化や基地化も、某国の完全為る自律(独立)を促すべく 進化を遂げるべきである。 其れが「世界人類を生(活)かす」と云う事である。 子が親に優(すぐ)れるべく、人間同様、国家も其の本質に同じ、帰一す べく成長しなければ為らないのである。 其れが我執(しゅう)無き涅槃化エネルギーの必然性である。 世界各国が小生『最初後身心』を生(活)かす事が、必ず自国を生(活) かす事と為って居るのである。 涅槃化エネルギー、つまり『因果の道理』の必然性である。 小生、真理は光であり、希望であり、喜びである。 世界の諸課題は、現象操作で解決を図るよりも、涅槃為る本質に起(た )ち返って、現象改善を図らねばならない。 人間世界は二元相対の対立する相対的現象であり、本質からの根本的 解決には至り得ないからである。 生命現象は、自然現象から生まれ、自然現象は宇宙のエネルギー、是 が涅槃化エネルギーであるが、是に基づくものである。 宇宙の涅槃化エネルギーに基づく、我々の生命現象は涅槃化なのであ る。 斯(か)るが故に、小生が「覚天(涅槃回帰)」したのである。 故に世界人類は涅槃への収束振動の心進化を遂げるのである。 此の自覚が人類生命の必然性である。 《 人間の自律と国家の自律 》 真理は人類諸能力以前の「宇宙(生命)の本質」(涅槃)であり、能力は 本質の現象である。 宇宙から人類は出る事が出来ない様に、真理からは人類は誰一人、逃 れる事は出来ないのである。 小生『最初後身心』の滅後、世界人類は「宇宙の真理」に対して如何(ど の)様に対応するのか? 即刻、解(わか)ろうが解るまいが、真理に基づいて生きる事が最上なの である。 現象を改めても、本質は改められない。 現象を忘れて、本質に回帰するのである。 故に法律上で解決しても、本質に帰一した訳ではないので、本質的解 決には至らないのである。 先ず、米国の日本基地を撤廃し、日本が法律的にも、日本に自律の法 律足るべく憲法改正する事から着手しなければ為らない。 中国にしても、米国始動の日本には本質的に真面(まとも)に付き合う事 は出来ないであろう。 日本の自律への道を確立しなければ為らない。 日本人には其の覚悟が先決問題である。 米国の傀儡(かいらい)と為ってはならない。 日本は米国を教導する立場を堅持しなければならない。 唯一、日本に於いて、「宇宙の真理」に開眼して居るのであるから。 米国も日本に依存する事無く、本質的に中国に向き合うべきである。 今の米国の世界への処し方は、破壊力(原爆)に依存した在り様だと言 わざるを得ない。 米国の地上の核兵器支配の国連体制の一環としての、対ユーラシアの 日本の基地化である。 核兵器禁止条約締結が、米国の日本基地の在り様にも変化が生ずる であろう。 基地は対中露戦略であるから。 世界に唯一の真理国家日本が米国に対して、隣国、中露に対する戦略 価値を容認する事自体が日本の対中露の在り様の根本が、在るべき在 り様ではないのである。 日本は飽く迄も戦争しないし、させては為らないのである。 従って基地も必然的に容認しては為らない。 戦略基地の容認は戦争を認める在り様であるからである。 我執の闇昧(あんまい;道理にくらく愚かな事))為る閉じた無機心から 、涅槃の不昧(ふまい;くらくない)為る開(ひら)ける有機心へ心進化を 遂げねば為らないのである。 此の間には、人間には「悟り」が在り、国家には自律がある。 国家も人間も異ならず、其の本質は涅槃妙心である。 身心進化には不断の能動積極性が不可欠である様に、小生の教導も 同様の労苦が不可欠である。 根本的に異なる処は、教導は常に「世界人類を生(活)かす」涅槃妙心 に基づいて居る処である。 是は宇宙の涅槃化エネルギーの必然性である。 《 性欲と闘争の見極め 》 先天性本能(生理)的欲求(性欲、食欲、睡眠欲)、性欲と、 後天性本能(生理)的欲求(闘争、逃避、宗教的縋(すが)り等)、闘争と の見極めが出来なく為って居るのが社会の通性であるかもしれない。 統一教会は、人類の煩悩と迷妄の本源為る性欲と、其れから後天的に 派生した闘争や縋(すが)りとの混迷の見極めが出来なく為って居る人 類の弱点為る本能的欲求を邪教的に統率し、米日の政権中枢に食い 込んで迄、財力を肥やしたのである。 信者の迷妄からの縋る心を、教主の三毒(貪・瞋・癡)で自(みずか)らの 財源と為した。 人類の煩悩が悪と為るとは限らないのである。 安部元総理は教主の三毒を利用して、更に自(みずか)らの政権を獲得 した。 其れ等の根本原因が、大脳新皮質の分別に拠り、後天的に世界人類が 具有する人類三毒(貪・瞋・癡)の貪著(とんじゃく)である。 政治家の政権(獲得)欲には制御(せいぎょ)が効かない。 恥を知らない。 貪著の根源が無明である処から、是を除滅、砕破(さいは)するのが、夫 々(それぞれ)「解脱」であり、「覚天(涅槃回帰)」である。 政治家も然(そ)うでありますが、五欲(性欲、食欲、睡眠欲、金欲、名誉 欲)、つまり五蓋(がい)の根源を六蓋、或いは無明蓋と謂い、五蓋を除 滅し、此の六蓋を砕破出来なくして施政するには如何(どう)しても、其の 依拠(いきょ)足る処が不可欠なのである。 是が、正に真理であって、小生『最初後身心』なのである。 人間世界を間違い無く、世界人類の平和へ教導出来るのは、一連の「 悟り(身心脱落)」、「解脱」、「覚天(涅槃回帰)」である。 是が車を運転する為の運転免許証である。 無免許運転する事は、此の世では如何(いか)為る者でも為し得ない事 なのである。 真の資格者に基づいて、運転しなければ為らない。 飲酒運転は、貪著に負けて、自己を見失い、「当然、然(そ)う在るべき」 が無い状態での運転である。 五蓋に閉じた施政でなく、五蓋を除滅した施政が望ましい施政である。 更には、六蓋迄も砕破し、宇宙の真理に至った『最初後身心』の施政が 理想的施政である事は間違い無いのである。 今時は其の出発点に立った時機である。 ただ、人類に要求される処は、宇宙の涅槃化エネルギーに匹敵(ひって き)するだけの真の人間的強さである。 五蓋(=五欲)に負けずに、「悟り(身心脱落)」を開くだけの基本的菩提 (道)心、或いは其の菩提(道)心に匹敵するだけの不三毒(不貪・不瞋・ 不癡)為る心、更には三善根(施・慈・慧)の能動積極性が強く望まれる 処である。 自己に閉じない、男女間に閉じない、男女間に開いて、最終的に、否、 初動から自己を開くべきなのである。 自己を開くとは我執を離れる事である。国家に於いても同様である。 方法論は坐禅、つまり坐禅の功徳より、「生命の本質」の恩恵に与(あず か)る体験から、現象に引き摺(ず)り回されない真実の自己を知る事で ある。 此の自己こそ、夢(幻)想為らざる、真実実在への正道なのである。 此の事実は、小生『最初後身心』の確証する処である。 つまり「悟り(身心脱落)」、「解脱」、「覚天(涅槃回帰)」へ直結する心の 在り様である。 ヨーガから坐禅へ段階を踏むべきものでなく、小生『最初後身心』に拠り て、涅槃妙心智慧の手段として、坐禅が既に確定して居るのである。 『最初後身心』の風鈴と、世間の風見鶏は心の在り様の究極の、夫々智 慧と、癡愚の典型である。 釈尊が生涯岩窟夏安居(げあんご)される時、来訪時には、“不生不滅” と告げる様に阿難に言って入窟された。 “不生不滅”とは正に宇宙涅槃化エネルギーの事である。 宇宙に開いて、世界人類を教導し、世界平和、世界人類の平和に至ら 使めるのである。 然(さ)も無くんば、個に閉じ、国家に閉じ、弱者を餓死に至ら使め、弱者 を殺(害)し、権力者が覇権を握り、ソマリア等の気候変動為る虐待に加 えて、更に世界中の弱者を虐待に至ら使めて居るのが実態なのである 。 其の根源悪が根源欲、食ってセックスする事への貪著である。 従って現実的には、初行入りの菩提(道)心だけでも、既に人情には受 け入れ難き、個人的革命に等しい。 統一教会ではないが、後天性本能(生理)的欲求である闘争、逃避、「 宗教的御縋(すが)り」等。 後天性本能(生理)的欲求に対する救済、つまり世界主要国家指導者 達の在り様であるが、是は先天性から派生するものであり、根本を断つ 以外無いのである。 是こそ、世界人類が縋(すが)るべき唯一の正道である。 是を逃がして、永遠に救済は無い。 原爆投下と同様で、両者真逆の真実である。 択(と)るべきは何(いず)れの道かである。 真理か原爆か? 是は「溺れる者藁(わら)をも掴(つか)む」心境である。 「藁(わら)」は岩山を登攀(とうはん)する岩釘である。 権力であったり、信心の対象であり、二元論の支点足るべきものである 。 芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の地獄から這(は)い上がる為の糸である。 是が後天性本能(生理)的欲求、溺れる者に対する“藁”である。 本能的に掴(つか)むのである。 世界人類が究極的に真理を“掴(つか)む”のは必然である。 地獄の住人が、涅槃の糸を掴(つか)むのである。 是が偽(いつわ)らざる心底(しんてい)の本音である。 真理を超越する個人も、人間関係も無い。 吾師は師である原田祖岳老師の裏を知って、在野で小生『最初後身心』 を生ま使め、風鈴としての在り様に至ら使めたのである。 一寸(ちょっと)した個々の貪著が集積し、党派と為り、国家規模と為り、 世界の“うねり”と為って、世界を分断せ使めるのである。 《 動物から人類への宇宙の働きの真意 》 情動とは怒り、恐れ、喜び、悲しみ等の様に比較的急速に惹(ひ)き起こ された、一時的で急激な感情の動きである。身体、生理的変化を伴う。 食って、セックスして寝ると云う動物生命活動の根本の性欲は情動から 心への心進化の要(かなめ)である。 特に食ってセックスすると云う先天性本能的欲求から後天性本能的欲 求(闘争、逃避、宗教的縋り)、つまり生存(生命維持と存続)欲が派生 するのである。 食ってセックスする――→貪著―→瞋恚―→癡愚―→闘争 (先天性本能的欲求)↓ (後天性 〃 ) 「悟り」→不貪→布施[三善根(施・慈・慧)] 人類史は三毒(貪・瞋・癡)の歴史であった。 其処(そこ)に教導に拠る「悟り(身心脱落)」の歴史が併行し、真理の時 代に入ったのである。 動物には分別が無いから不貪であるが、人類には人類特有の大脳新 皮質に拠る分別で貪著であるが、其の代償として、「宇宙(生命)の本質 」(涅槃)からの促しに依る菩提(道)心に依りて、「悟り(身心脱落)」を体 現し、其れ故に真理に至り得たのである。 つまり、人類特有の大脳新皮質の分別為るが故の二元相対世界に由 来する三毒(貪・瞋・癡)害悪を生み、地獄を生み、其の人類滅亡の閾値 (=限界値)に至りて初めて、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の現象とし ての、極悪と極善為る振れ幅からの涅槃為る此の本質への収束振動に 入ら使めたのである。 是は宇宙の涅槃化エネルギーに由来する、人類為る究極の生命現象に 於ける涅槃化エネルギー機能の究極的必然性である。 従って、我々人類は今や、其の極悪の極点から涅槃への収束振動への 移行段階に在るのであり、やがては収束微振動に拠りて、涅槃に同じ、 帰一するのである。 其の要(かなめ)は、涅槃化エネルギー涅槃妙心の「世界人類を生(活) かす」涅槃妙心智慧である。 二元相対世界為るが故に三毒(貪・瞋・癡)を生み、原爆を生み、悟り、 涅槃回帰した。 分別無くんば此処(ここ)迄至り得なかったのであり、有限為る身である が故に、永遠不滅、恒常普遍為る涅槃(妙心)に至り得たのである。 若し、有限為らざれば、菩提(道)心発(おこ)らなかったであろうし、涅槃 回帰出来なかったのである。 唯、徒(いたずら)に時間のみが流れ行くのみであったに違いないので ある。 《 風鈴と風見鶏 》 如何(いか)為る人間関係上の情も真理に向かうには、其の障害と為る ものである。 涅槃回帰して真理を得て、教導の段階に入っても、其れは同様である。 何事であろうとも、道(専門職)を究(きわ)めようという人間は極力独り で居る事である。 釈尊八大人覚でも少欲、知足、楽寂静(遠離)、勧(ごん)精進と説かれ ている。 道元禅師正法眼蔵随聞記では「人情を捨てる」とある。 吾師は当初、小生に言われた。 「人情を捨てる」と。 不思議に肩の荷を降ろした様な気持ちに為った。 小生、今に至りて改めて、其の情が人間の志(こころざし)の励(はげ)み に為ると同時に、其れを削(そ)ぐものであると痛感する処である。 「自然が宜しい」ではない。 雑草を除いて極力手入れをしてこそ、立派な木々がそだつのである。 今、世界的に人材の危機的状況である。 少子化対策で片付く問題では無いのである。 量と力の問題ではなく、質と智慧の問題である。 政治に於いてこそ、其処(そこ)が強く求められる。 又、然(そ)うかと言って、情に抗するのでもない。 最初は情を捨てて掛(か)かって、最終的に飽く迄も風鈴で居る事である 。 風(=情)に向かうのでもなく、風に任(まか)せるのである。 任せて音(ね)を生ずるのみ。 是は一切の人情に対して斯(か)く在るべきである。 「風鈴で在れ」と。 世間(=人間世界)は、取った取られた、勝った負けたの二元相対世界 である。 風鈴足る在り様は在り難く、在り得ないかもしれない。 斯(か)るが故に、然(しか)るべく厳しい在り様の世界である。 其の厳しさへの弁(わきま)えを知ると同時に体現しなければ為らないの である。 人間関係に於ける情と慈悲心とは異なる。 真に「世界人類を生(活)かす」には人情を捨てて掛かり、情から、世界 人類の平和に直結する慈悲心に心進化を遂げなければ為らないのであ る。 風鈴足るのも、情に非ずして、慈悲心為るがこそ在り得る在り様である。 情は後を残すが、慈悲心は後を残さない。正に油と水である。水は常に 淡々として居る。 情は脳幹の欲に由来するが、慈悲心は大脳新皮質前頭前野の菩提(道 )心に由来する。 愛情と慈悲心との違いである。 神への愛と真理為る佛心との違いである。 前者は自己の神に対する信の可能性の世界であり、後者は本質回帰し た自己の涅槃妙心の廓然(かくぜん)足る真理の、何処(どこ)迄も菩提 (道)心と三善根(施・慈・慧)の世界である。 人類は真理に基づく、其の信頼結束の下に、其れに同じ、帰一するので ある。 是が世界人類の平和への唯一の無上道である。 《 世界の現状 》 現代は、「核兵器の完成」から始まり、是に依る国連世界統一支配から 77年経て、国家規模の暴挙に対する国連機能不全が露呈し、矢張り同 様に其の破壊力最強の間接的、他者の抑え込みの体制である。 是、破壊力と経済力に依る支配体制で、他を黙らせる在り様であるが、 今や露に対して核を使用しない間接的抑え込みで、世界に分断と困窮 を招来する我慢比べである。 中露印等との東西の分断が浮き彫りと為りつつある。 喧嘩志向への改善の無さと、世界中の弱者への配慮の及ばなさである 。 真理に基づく信頼結束への英断が及ばない。 競合ならば繁栄もあるが、戦争は宇宙真理に違(たが)え、『因果の道理 』に因り、弱者の餓死は増加する一方である。 人類に涅槃妙心智慧が生まれない。 依然として、愚痴蒙昧(もうまい)である。 此処(ここ)に於いて、絶対的為らざる核抑止政策に絶対的信頼は在り 得ないのである。 而(しか)も、絶対的核抑止為る核武装ならば、其れは田畑の案山子(か かし)に過ぎぬ物で無意味である。 従って、核抑止の抑止効果足るべきものは在って、無い様なものである 。 然(しか)るに、此の時点で如何(いか)為る核戦争も一旦惹起すれば、 もう、斜面を転がり落ちるが如くに、永遠に歯止めは掛からない。 万が一、歯止めが掛かる事が在ったとしても、其の時には、今の環境破 壊の結末でさえ如何(どう)にも為らなく為って居る様に、自然破壊とは 比較に為らない人間破壊の時代に入るのである。 人類三毒(貪・瞋・癡)の最終段階を回避せ使める力は世界人類には無 い。 其の力は、唯一宇宙の涅槃化エネルギーに有るのみである。 此の「宇宙の本質」に回帰し得た人間は小生『最初後身心』在るのみで ある。 宇宙の涅槃化エネルギーの必然性、人類史上初の原爆支配体制確立 後七十余年を経ての空前絶後為る涅槃回帰であったのである。 今や、「大量破壊兵器志向」から「宇宙の真理志向」へと人間的心進化 を遂げるべき反省と英断の時である。 根本に涅槃妙心智慧無くんば、人類は動物の次元から脱却出来ないの である。 「破壊すれば済む」ではない。 「生(活)かし合う」心への転換である。 力と金は斯(か)く使うべきである。 其の姿勢に臨んで在りながら、力支配が方向転換出来ない。 肝心な局面に臨んで、二元相対為る動物志向しか無い。 勝った負けた、取った取られたの二元相対でない。 一(いつ)為る、「世界人類を生(活)かす」である。 愛の究極は、自(みずか)ら神仏に為る事であり、所詮(しょせん)、男女 間や家族等の情は、人間が「宇宙の本質」に回帰し、且つ世界人類を是 に帰一せ使める菩提(道)心には遥(はる)かに及びもしないのである。 弱肉強食から妙心への転換である。 地獄への閉回路でなく、涅槃への開回路への勇断である。 |