新道元宗大雲山鉄牛寺
国際参禅道場
大分県由布市狭間町来鉢773番地の1
宗祖 田中 鐵幹
電話090-8402-1303
aef172047@lib.bbiq.jp 4753kqry@jcom.zaq.ne.jp
http://buddhatekkan.com/
一.鉄牛寺新道元宗開創の由来 |
原田老師が亡くなられる前年(S35/10/20)、伴老師一人を呼ばれて |
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1871/10/13 | 福井県小浜市にて出生 |
1883/4/8 | 同市仏国寺の原田祖道老師について得度 |
1895/3/4 | 祖道老師に伝法相続 |
1901/7 | 駒澤大学卒業 |
その間、曹洞宗の秋野孝道老師、臨済宗伊深正眼寺の雲霧軒大義老師 京都南禅寺の高源室毒湛老師等に師事。 |
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1911~1921 | 曹洞宗大学林教授、その間、岩手県盛岡・報恩寺等に歴任 |
1921/1 | 小浜市発心寺に晋住 東京東照寺開山 |
1961/12/12 | 発心寺赫照軒にて遷化 |
曹洞宗の戒律継承者である原田祖道赫照(1844-1931)は永平道元 (1200-1253)から31代目の曹洞宗の老師であり、毒湛(1840-1917)は白隠慧鶴(1686-1769)から8代目の臨済宗の老師である。 原田・安谷の禅仏教宗教法人(三宝教団又は“三宝”で良く知られている)は、原田老師と彼の弟子であり最も側近の協力者である安谷白雲 により日本で設立され、日本の戦後で最も活動的で、偶像崇拝しない仏教宗教法人のひとつであり、曹洞宗(特に永平道元と彼から四代目の弟子の螢山紹瑾の教え)、臨済宗(特に白隠慧鶴の教え)の、伝承による夫々の要点を結合させた。一方その嗣法者は、ドイツ、スイス、オーストラリアで活動している。 |
一) 釈尊の正法苦行〔=千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行) 〕の実践を眼目とする。 二) 正法苦行を自己に体得し、更に、他を体得せしめる。 三) 体得した正法苦行を、世界人類の幸福・平和の礎と為す。 |
新道元宗大雲山鉄牛寺国際参禅道場は、世界唯一の(生涯)千日 正法復活行実践寺。 毎奇数月、一日~五日、参加者の有無に拘ら ず、必ず、千日行(後継者打出し)摂心会 (三時間 坐睡、十八 ? 坐禅と一息半趺、三時間 日課と食事等) を行います。 今こそ日本 (の正法復活・興隆)が、全世界に対して、心の指導的立場を打出さ なければなりません。 正法復活行なる千日行を展転して行じ興さ れる方々からの御連絡を心より御待ち致して居ります。 |
※は、 世の中の貪等(邪気・邪心)を一掃し、 世の中に解脱・涅槃の花を咲かせ、 世界を平和に導く為の戒であり、 世界人類が真に幸福・平和に至る為の、 自己を確立する、実践の教えであります。 |
(後記) 釈尊は、般涅槃に当たり、最後の御教戒を説かれました。 心不乱にして、智慧を生み、守る為の修禅定。 そして、(サーリプッタ、モッガラーナ等の)聞思の智慧を起こし、更に 、(摩訶迦葉(注、下記)、アヌルダ等の)難・苦行及び「証(さとり)」の 実践的智慧を生む所の修智慧。 更に、何処までも、それに真実、徹すべく、不戯論と。 此の様に、最期に、大乗の御教誨を説かれた様に、人生は究竟 千日行(3時間坐睡24時間仏作仏行(坐禅主体))を志向し、常に、 それを心掛け、何処までも其れに徹底して行くべきものであると思 います。 |
(注) ・世尊最初に迦葉の来りて帰依するを見たまひて、即ち佛法并びに 金襴の袈裟を以って、摩訶迦葉に附嘱して、第一祖と為したまひし なり。 (宝慶記) ・仏陀は迦葉の修行の厳しく、正しい事と、十二頭陀体得の事を以って 、会下の第一座と讃えられ正法を迦葉に正伝せられ、「吾が滅後に 於て諸の大衆の師となれ」と勅命された。 (「雑一阿舎」四) ・世尊は常に、摩訶迦葉の来るを見たまひては、便ち半座を分かちて 、座せしめたまひしなり。大衆は始めて迦葉の高徳なるを再認識し た。 (「雑阿舎経」四十一) ・凡そ神通智慧あり、一切の仏法、仏の附嘱を受けて欠減する所無 し。然れば即ち、迦葉、見佛の最初に、仏衣仏法を得しなり。 ・仏陀、成道三年後、王舎成近郊で仏陀に相見し、仏弟子となり、阿羅 漢を証すると言われた。 (雑阿舎経) ・釈尊、在る日、霊鷲山の説法の時、一言も話されず、金波羅華を拈 じて瞬目せられた。其の時、迦葉のみ、破顔微笑した。其の時、世 尊は迦葉に、「仏法を汝に付嘱する。」と宣言せられた。 ・サンガ生活のサーリプッタ・モッガラーナ(二大弟子、成道四年後に 仏弟子となる。)、アーナンダ、アヌルダ等とは相違して、マハー・カ ッパサ(摩訶迦葉)(成道三年後、仏弟子となる。)は例外的存在で あり、釈尊から一目置かれた存在であったが、その故に、比丘から は、敬して遠ざけられ、煙たがられていた。 |
かくして、 原田祖岳老師は、 「極むれば、極むる程険しいのが、いつも真の道であります。」 と集約され、 安谷白雲老師は、 原田老師の、その伝統を、三宝教団として、残され、 伴鐵牛老師は、 原田老師から出られて、正法復活実践行(宗、寺)を残された、 真の実力者でありました。 この御老師方の結晶(仏果)が 新道元宗、鉄牛寺、千日行であると、強く信じて疑いません。 世界の青少年が、当新道元宗大雲山鉄牛寺国際参禅道場で、 其の後継者として育ち、世界中に当宗を広げて戴く事を、切に、 祈願して止みません。 |
釈尊より大迦葉、如浄禅師、道元禅師を経て、新道元宗大雲山鉄牛 寺に齎された正法が、滅尽する前に、その後継者を打ち出さねばなり ません。 命というものは、本来、真実自己(仏性)からの叫びによって、この迷 苦の現実世界の自己に、常に働き掛けられて居るのでありますが、現 実力によって、消されてしまって居る。 此の叫びを、正しく導けるものが何も無い、という事は、実に、残念で あります。恐らく、此の叫びが、真実なる宗教心ではないでしょうか。 宗教心には、二通りあると思います。(無・潜在)意識からのものと、それらを払ってしまった仏性(無心・無我)からのものとです。 ですから、特に禅僧が正しく、そこを導いてあげる事が、非常に重要であり、不可欠であると思います。 東洋印度は、こころのふるさとでありました。 古代、インダス文明(BC2300頃)以来、ヨーガ、諸宗教、哲学、医学、バラモン(教)の梵(浄)行と頭陀行(下記)等の、歴史的にも、最も深く、強い、生命の働きの伝統の中に釈尊は誕生されました。 釈尊は始めは、その伝統の中で、誰よりも峻厳に、求道されて居られましたが、それらの一切は命の涸渇しか齎さない苦行であると知るに到りました。 釈尊が他の宗教者と異なるのは、釈尊が有史以来の悟りを開かれたという事実であります。この釈尊の悟りは、釈尊個人のもので無く、全人類、否、全宇宙の悟りであります。 大宇宙が、生命を生み、人類を生み、諸能力を生み、その究極に於て、悟りを生むに至りました。それが生命の必然性であります。 大宇宙は、輪廻を繰り返す無常でありますが、悟りは、普遍的・恒常的永遠なる真理であります。釈尊は、その悟りに至る方法論を体系化され、人として歩むべき道(彼岸に至る道)、所謂、仏道を説かれました。 そして、恵まれたバラモン(教)の伝統の中で、中道の、命を育む苦行、つまり生涯に渉る継続的、必要最小限の肉体的負荷と、最大限の覚醒を維持し得る苦行を行じられました。是こそ正法苦行であり、解脱・涅槃に至る苦行であり、安楽の法門であります。 ここで、頭陀行とは、托鉢自活により、少欲・知足にして、五欲(性 欲最易・睡眠欲最難)、衣・食・住に関して貪著せず、それ等を必要最小限に止め、そうする事によりて、三毒(貪・瞋・痴)、煩悩の塵垢から離脱し、解脱・涅槃の為に全生命を、二十四時間、真剣に、坐禅と一息半趺(注、下記)に注いで、但坐不臥行を行ずる。是が正法苦行でありますが、こうする事によりて、解脱・涅槃への智慧を生じ、且つ、無窮なる解脱・涅槃へ至り得る訳であります。 この釈尊の悟りによる仏道は、西洋文明に根本的に影響を与えました。キリスト教に修道生活が生まれたのも、その影響の一つでありました。文明も高度に成れば成る程、その真価を認めざるを得ない物と成るでしょう。文明は、(無)意識や、我(欲)から離脱した悟りの生命から把握されなければ、人間がその採るべき真の正しさと厳しさから逸脱してしまい、人類を悪(地獄)へと導くものとなってしまいます。 由に2500年前以来の釈尊の正法の復活が、現代世界に果す役割の重大さを実感せずには居れません。 (注)一息半趺(経行、緩歩) 道俗多く経行(徐行)為す。 「歩を移す事、半趺の量に過ぎず、足を移すには、必ず一息の間を経(ふ)るなり」(宝慶記)。つまり一呼吸する時間を掛けて(息を観じて、息に応じ(従っ)て、観ずべきは息の出入(歩に非ず)。)半趺(以内で)足を移す。自然に息が入ってくる時、半歩足を移し、自然に止まるまで息を吐き出し切ってしまう時、移した足に体重を掛けていく。 10分間で5m程を直往来。常に右足より出、直立不動。右回り。 効用は、倦怠を医し、食を銷(消)し、身を養い、病を療ず。坐禅と一息半趺により、命を育む苦行を可能ならしめる。 釈尊の聖跡皆、その経行処有り。 |
釈尊以来、如浄禅師は、「僧家の僧堂に寓する功夫の最要は、直に須らく緩歩すべし。息を以て限りと為して足を運ぶ也。」(宝慶記)と説かれた如く、その伝統中に於ては言うまでも無く、文明が高度に発達すればする程、尚更の事、文明人にとりましては、坐禅は元より、緩歩(一息半趺)の効用は忘れてはならない物と成ります。 数息観は、呼吸という無意識なる、自然のリズムに心を集中させますが、緩歩は、更に、身体(随意筋)の意識的な、緩やかな動きまでもそれに従属させる事により、こころのみならず、身体に惹起した、不知なる、頭脳に起因する諸悪(病)弊の解消に益します。 |
2012年、京都大学の山中教授が、ノーベル生理学・医学賞を授与されました。分化した成熟人体の体細胞に数種類の遺伝子を導入して、未分化万能幹細胞(ips細胞)にまで逆戻りさせる事が出来る様に成ったそうです。又、人体皮膚細胞を種々の組織に再生する事も可能だそうです。しかし、再生医療に関しましては、まだこれからだそうです。 一方、こころの世界に於きましては、すでに2500年前に釈尊が、当時の医学に基づいて、悟りに至った過程を、体系化され、四苦にまで分化したこころを、父母未生已然の面目である仏心(本質)にまで逆戻りさせる滅苦の法を説かれました。つまり、仏心(本質)を悟り、何処までも、解脱・涅槃に至るという事であります。 吾師、伴鐵牛御老師は、「自分の記憶では、1日21時間働いた。」と言われておられました。 山中教授は、ほとんど睡眠を取らず、人の3倍努力され、42,195kmの2回の京都(大阪)マラソン完走による、研究資金募金活動を達成されたそうです。我々も医学の分野に劣る事無く、本分を尽くすべきだと思いました。 無限回数の命の再生も、一度の悟りには遠く及ばない物であります。身は100年、こころ 1000年、悟り 永遠。 命の本質は、皆、無我無心なる仏性であります。 人は皆、このこころを耕す可きであります。 坐禅(一息半趺)の千日行後継者が生まれる事を、切に祈願致します。 |
新道元宗、鉄牛寺、千日行、千日行(後継者打出し)摂心会等・・・。是等は総て一つ物であり、不可分なる物であります。 小生は、普段、北九州市内の道場で、厳密 ◎生涯千日行 (3時間坐睡24時間仏作仏行(坐禅主体)) [3時間坐睡、14? 坐禅と一息半趺、日課と食事、3時間托鉢、作務( 日・祝のみ)等] と ◎千日行(後継者打出し)摂心会 (毎奇数月、1日~5日、参加者の有無に拘らない。) [3時間坐睡、18? 坐禅と一息半趺、3時間 日課と食事 等] を行じて 居ります。 坐禅中は、毎正時の坐禅終了5分前に、坐より起ち、心中、鉄牛寺殿鐘の在る処まで行き、毎正時の時報と共に、経行鐘を打つ。10分間で5m程を直往来。抽解鐘。毎15分からの坐禅開始、時計チャイムと同時に小鐘三声を打つ。是は、伴鉄牛御老師への報恩の行として始めました。又、千日行後継者が現れる事を期しての行でもあります。 生涯、何時でも、何処でも、続けるつもりで居ります。 道元禅師の崇敬私淑せられた、達磨大師以来の大禅匠の米つき慧能禅師。白隠禅師は「動中の工夫は静中の工夫に優る事、百千万倍」と説かれ、原田祖岳御老師は、正念標語を掲げられ、吾師、伴鐵牛御老師は、「坐禅しなくても悟る。」、「弓の達人は弓を捨てる。馬の達人は馬を捨てる。」と語られました。つまり菩提心を起こし、禅定のこころ(禅心、正念)を以て、万事に当たる。 仕事、労働等総てそうであります。 此の24時間の正念相続が、聞思修の智慧を生み、解脱・涅槃の悟りに至らしめる所の、想像を絶する定力(集中力)を育むという事だと思います。 嘗って、懐弉禅師が、道元禅師御存命中に、恩師の背中を流されておられた。御入滅後も、そうして先師の杖に湯を掛けられたそうです。 そうして、自ずからの方丈に恩師の頂相を掲げ、朝夕に礼拝して、先師の御遺徳を偲びつつ、報恩の行とされておられたそうです。成る程と、頷かされた次第です。 師の残されたものを生かすという事が、総てを生かす事に繋がるのだと、強く信じて疑いません。 御老師が、新道元宗大雲山鉄牛寺国際参禅道場を残された以上、それを守り興さねばならないのは当然であります。 鉄牛寺で、生涯千日行を行じ続け、何時でも、千日行(後継者打出し)摂心会、千日行の対応が出来る状態にして、師の残されたものを、真に生かす覚悟で居ります。 悟り(解脱・涅槃)は無窮、故に、釈尊は史上初めて得悟せられ、大欲を持たれて、生涯、苦行を止められなかった。 生涯千日行 日々是摂心会 何時でも、何処でも、誰でも、十分でもいい、一時間でもいい、一日でもいい、千日行摂心会を展転して行じ続けなければなりません。 坐禅により、身心脱落し、柔軟心を得、自分だけでなく、総ての人が、そうあればと自然に願われる。これが、慈悲心だと思いますが、悟った吾心が全世界であります。全世界(の人達)がそうあってほしい、そうあれば、と思うこころ(菩提心)を根底に、定力(集中力)を養う事により、修智慧を生み、究竟千日行に至る。故に、厳密千日行は、人を思うこころの結晶であります。此のこころが、つまり仏性(本質)を思うこころが恐怖心を凌駕し、正法苦行復活ならしめ、無窮の解脱・涅槃に至らしめるものであります。世界人類の幸福・平和を、何時でも、何処でも、誰でも、自ずからの事として、為し得る。その方法が、此の千日行の実践であります。そして、それを基本として、可能な限り、是を世に興すべきであります。仏道が、正しく把握される事が、世界人類が最も幸福・平和に至り得る近道であります。 |
人間の知・情・意や諸能力等総て、性(本質)に基づいている。又、それを知るのも、人間だけであります。 無限の時間・空間に於て、この仏心(本質)が、悟られて来たであろうし、且つ、悟られてゆくに違いない。人間の諸事は総て、是に帰する。 故に、何時でも、何処でも、誰でも、普遍的、恒常的永遠なる真理として仏道があります。仏道の目的は解脱・涅槃に在ります。それには、正法の苦行が必須です。釈尊・大迦葉の頭陀行及び御遺教の正法が、如浄禅師より道元禅師(宝慶記等)によって日本に齎されました。 しかし、その実践面に於て、苦行(3時間坐睡24時間仏作仏行(坐禅主体))が顧みられていないのではないか・・・。 正法復活は、一旦、伝統から出て、俗中托鉢により、自活する以外に無い。 新道元宗大雲山鉄牛寺国際参禅道場では、5月 1日~5日、千日行(後継者打出し)摂心会を行います。 将来の仏道を興隆に至らしめるには、是以外に無い。 御参加を御待ち致しております。 (詳細はネットで) |
※坐蒲上に腰掛けて、両膝を並立し、その両膝上に、両手掌を伏せて重ね合わせ、その上に頬を乗せて坐睡する千日行を完了すれば、坐禅したまま坐睡する千日行も出来ますので、いずれでも可。 |
人事は、万事に於いて、先が無い。 人間生命は、必然的、不可避なる四苦であります。 是が、ヨーガ(BC2300頃以降)-バラモンの梵我一如の苦行(BC 1300頃)ー釈尊の断食苦行ー中道ー悟り(BC500頃)を生んだ。 自分は一体、何を為したらいいのか? 是に対する無上の解答は、釈尊であります。 故に、万人は、常に、仏道(正法苦行)を心掛けるべきであります。 宗教とは坐禅の事だと気付いて、そうして、坐禅だけに成って居る人。 後は、具体的に、新道元宗が詳説致して居ります。 次の如くであります。 釈尊滅後、約100年で、北伝の大乗仏教と、南伝の上座部(小乗)仏教とに根本分裂し、更に、南伝は100年から300年で20部派に枝末分裂致しました。一方、大乗仏教は、紀元前後100年頃インドに興起し、アジア極東の日本に於て、結実致しました。 しかし、戦後、特に近年、愈々、正法に対する意識が、消え失せているのではないでしょうか。しかし、下化衆生(菩薩道)的側面の強い大乗仏教国である日本に於てこそ、釈尊の原始仏教である、上求菩提(阿羅漢)的側面の強い上座部(小乗)仏教の長所を生かす事によって、正法を復活する事が出来る。 大乗も上座部も、その根本精神は一つであります。 釈尊の御本懐そのものであります。上求菩提厳しければ下化衆生も自ずと厳しい。此の葛藤が激しい程、仏道壮んであります。互いに、二律背反の矛盾するものではなく、相乗的作用が生まれる所のものであります。仏道には下化衆生(菩薩道)的側面と上求菩提(阿羅漢)的側面が有りますが、正法苦行には、それらは、不可分のものとして、自ずから兼備しておる訳であります。 頂、高峻なれば、その広がりは、自ずと豊かであります。 孰れに致しましても、恵まれた風土と、インダス文明のヨーガの伝統と、バラモン(教)の伝統(梵(浄)行)と、厳しい身分制度の中で、望まれるべくして、至り得た、釈尊(・大迦葉)の正法苦行(頭陀行)、断食苦行、中道、成道、梵天勧請、初転法輪、僧伽の形成(具足戒(梵行)と最低限の三帰戒)、大迦葉(頭陀第一)への嗣法、生涯石窟夏安居、般涅槃、の此の釈尊の事実に他なりません。これが正法苦行としての根本精神であり、一切の戯論(仏道も含めて)を超え、悟り、解脱・涅槃に至らしめるものであります。此処から一切が湧出しておる訳であります。 此処まで辿れば、大も小も、自も他も、有も無も、迷も悟もありません。この正法苦行の根本精神を基盤として、千日行(厳密3時間坐睡24時間仏作仏行)を実践し、正法復活・興隆を果してゆけば宜しい訳であります。正涯千日行は、(御遺教を含めて)正法苦行を、安楽行に転じ往く、無窮の、解脱・涅槃への一筋道であります。 正法苦行の無い、日本禅宗の伝統では、欲界中での坐禅弁道を永続することは出来ないでしょう。孰れは、伝統も世間に迎合したものと 成り、是に歯止めを掛けない限り、衰退の一途を辿る他無い。 仏道を復興するには、今、一個半個が、正法苦行を欲界中で行ずる以外にありません。 日本に於いてこそ、出家、在家を問わず、誰でも、働きながらでも、正法苦行(但坐不臥)により、正法復活・興隆を果し、峻厳なる、無窮の解脱・涅槃へ至る事が出来ます。 人に対しては、何処までも、大きく受け入れて、極むれば極むる程、自己に対しては、何処までも厳密に成っていかねばなりません。 そういう訳で、究竟厳密 生涯千日行 (3時間坐睡24時間仏作仏行(坐禅主体)) [3時間坐睡、14?坐禅と一息半趺、日課、3時間托鉢、作務(日・祝 のみ)等]と 千日行(後継者打出し)摂心会 (毎奇数月、1日~5日、(参加者の有無に拘らない)) [3時間坐睡、18?坐禅と一息半趺、日課等]を 実践致しております。 此ぞ、不戯論の極まりたる所であります。 普段は、北九州市内の道場で行じて居りますが、機会有り次第、鉄牛寺で実践する予定で居ります。 此こそ、吾師、伴鐵牛御老師の御本懐でありました。 恩師の遺されたものを、展転して行じ興す事が、正に佛恩を報ずる事であると強く信じます。 |
仏道とは、生命の本質を生きる事、その教え、その為の方法であります。最善が、仏道を生んだ当体、即ち釈尊・大迦葉の正法苦行であります。 そもそも、愁苦無ければ、菩提心発せず。欲界中でなくんば、仏祖(=正法)生ぜず。仏祖は常に欲界に在って、坐禅?道致しました。 現今、世界的に、禅仏教が開花致しております。今こそ、日本禅宗は、僧堂を離れ、正法復活・興隆を果さねばなりません。 日本という恵まれた仏教国に於きましては、街中托鉢(場合によっては、働きながら)自活して、正法苦行を実践する。 此の世(日本)にとりまして、是程の重大問題はありません。 人類の正に一大事であります。 悟り(解脱・涅槃)は世界人類の幸福・平和の核であります。解脱・涅槃(悟り)には、正法苦行が必須であります。 新道元宗大雲山鉄牛寺国際参禅道場は、唯一の、正法苦行実践寺。毎奇数月、一日~五日、参加者の有無に拘らず、必ず、千日行(後継者打出し)摂心会 (三時間坐睡, 十八? 坐禅と一息半趺, 三時間 日課と食事等)を行っております。 どうか、此の道に確実に一歩を踏み出す一個半個の同志の御参加を祈願いたします。 御連絡を御待ち致しております。 (詳しくはネットで) |
補 遺 真の慈父なる者は、人類の空気や光に如く、大宇宙の此の地上に存在し、在って無きが如し。只、正法苦行在るのみ。慈父の自覚を持って、生涯、愛著せず、憎悪せず、迷わず、唯独り、犀の角の如く、厳密に、千日行を行ずるのみ。 釈尊とは、 摩訶迦葉であり、 阿那律陀であり、 文殊菩薩であり、 そして、何よりも、御生涯、常に、衆生を教化し、度し続けられ、最後 まで、命在る限り、説き続けられた処が、釈尊の釈尊為る所以であり ます。我々は、何処までも、釈尊に成って往かねばならないと思いま す。 釈尊の悟りは、即ち、生命の本質は、不生不滅にして、此の大宇宙 を貫く、永遠の、恒常普遍なる真理である。 五(十)分の止静(経行)も、一日、一(二)時間程あります。是等を、 有効利用すれば、大体の日常生活は片付きます。 正法苦行(仏遺教経を含めて)を人に活かして往け。というのが、仏 道の根本精神でありました。少なくとも、釈尊の教えは、そうでありま す。 釈尊御自身、悟りを捨てられて、地を這う様に、此の地上を教化し続 けられました。問題は釈尊に在るのでなくて、我々僧侶の側に在るの であります。仏弟子たる我々は、其れを復活・興隆しようという気概の 点で、反省すべき部分が在ると思います。 生命というものは、必然的に悟り(正法苦行)を産み、更に、解脱・ 涅槃は、他も、そうであればと自然に願われるが故に、必然的に説く に至るのであります。 三時間坐睡二十四時間仏作仏行 (坐睡時以外、目はハッキリと開けておく。) 只、是在るのみであります。 釈尊無くんば、鉄牛寺無し。 鉄牛寺無くんば、釈尊無し。 結 語 一、人は皆、自己の坐禅から、一歩も出るこ出来ない。 人間が、無限の宇宙から、一歩も出られないのと同様だ。 二、坐禅は、人をして、正しく導き、正しく育て、正しく終わらせる、唯一 の正師であります。 三、天上天下唯我独尊、人は皆、釈尊であります。唯、その事を自覚 しないばかりであります。 四、出家・在家に拘らず、老若男女を問わず、只是、信吾坐禅、行吾 坐禅、徹吾坐禅に尽きます。 五、一切万物の極みは、此の坐禅の極みにして、是空。 苦の極みも 又、同じく、徹坐は、苦をぶち抜いて空。 六、(僧俗の別無く、)自己の坐禅→修智慧→正法苦行[生涯厳密千 日行(3時間坐睡24時間仏作仏行)・千日行摂心会]→涅槃 自制(イスラム)と自由(アメリカ)の正しき在り方。 何者にも捉われない、根源的生命の自覚(坐禅)と、その永遠なる打 ち建て(悟り)。 地球規模での打出し。(如何に教え、導くか。) 不調和中の一無我(=宇宙的調和)は、個我に基づいた調和(=表面 的上辺の調和)に比類せず。 斯く生きる事には、既に、教える事が具足している。 (犀の角の様に、唯一人歩め。) 斯く生きる事以外に、教える事は在り得ない。 斯く生きる事に徹する事が、徹底的に教える事である。 是ぞ、不戯論の極まりたる処である。つまり、(消極的意味合いで)凡 夫の慮知、分別智を離脱して、仏智見を開く事である。 一切は、斯く生きる事である。 個人的生き死にを、超えた、生きるという事(真に生きるという事)、そ れ以外に、真なる歓びは無い。 是、釈尊の御遺教の最終部に、 「何ぞ智者は是(=身)を除滅する事を得る事、怨賊を殺すが如くにし て、而も歓喜せざる事あらんや。」と説かれている通りであります。 教えるには、解るが無ければならない。 十成(=完璧)には、解るが無い。それが当たり前で、何にも無い。 故に、教えるが無い。教えるが無ければ、消滅する。 教える(導く為)には、解らねばならない。解る為には、不完全(=八 九成)である事が必須であります。 八九成こそ、指導力の源であります。 十成と、八九成との様は、親鳥が、雛の為に、終日、餌を運ぶが如き ものである。 必ず、生涯、二十四時間三百六十五日の(菩薩の誓)願力でなければなりません。 仏道成就には、悟りより、仏道復興への願力を人に伝える事の方が 力が有る。此処に、自未得度先度他の心を興すべし、と謂われる所以 がある。是、菩提心である。 悟りでは、修行成就出来ない。仏道を思う心である。是は、自己を思 う心であり、世界人類の幸福・平和を願う心である。 生涯厳密千日行(摂心会)
るに最も適した、温暖で、世界的に肥沃な地帯といった風土的条件が 、其の根底に在ったが故に、苦行者の伝統が育ち、人間の理想的生 命を具現化した象徴として釈尊が生まれ、悟り、智慧、正法苦行、解 脱、涅槃と至った訳である。 故に心の完成は、当所の釈尊でなければならないのである。 確かに、南閻部(印・中・日)の人身に起こりたる事であった。 是は偶然ではなく、全く必然的なるものである。 是が今や、印度ならぬ、東洋の一部に残って居る訳であるが、其の 有史以来の、人類の最も貴重なるものに対して、最大の誇りと、責務と を自覚して、此の宝を次の世代に、確実に託さねばならない。 人間(六道、有漏智)が仏(悟った人間、仏道、無漏智)と成るには、 悟り(体験)がなければならない。 悟らぬ間は、永遠に、絶えず、潮騒と共に(三毒が漏れ流れて)波が 打ち寄せるが如し。 悟れば、明鏡の如く、寂静(=解脱)である。 中国仏道の筋金である、六祖大鑑慧能禅師の偈にもある。 「菩提本無樹、明鏡亦非台、本来無一物何処惹塵埃」 悟らぬ間は、何言っても解らない。 体験しない限り、手の打ち様が無い。 唯、感応道交するのみである。 釈尊も、御臨終に、「汝等、且く止みね、復た語いうこと得る事勿れ… ………是れ我が最後の教誨する所なり。」と遺され、これより後は、何 のお言葉も無く、般涅槃された。 人類の三毒(貪・瞋・痴)が消滅しない限り、修行に終りは無い。 其れ等を焼き尽くすだけの厳密なる正法苦行が要る訳である。 少なくとも、釈尊まで至り得たと言う事で、此の先、何処まで悟らねば 成らないか、限りが在る訳で無い。釈尊は此処までしか出来なかったで なく、此処まで出来ただ。然れども、何か、そういう一線が在る訳ではな い。 此の一線は、釈尊が為し得た所の者である。 是は釈尊の場合に限らず、皆、同様である。 人に対しては、何処までも大きく受け入れて、自身に対しては、何処 までも厳密に、無限に行じ続け、悟り抜いて行くべきものだ。 そうして、唯、我々が体験した仏道を知り得るのみである。 宇宙の広大さ同様、仏道の深遠さを思い測る事は出来ない。 正に仏道の奥深さには、限りが無い。 従って、不屈の勇猛心無くんば為し得ない。 坐禅・悟り・智慧によりて、正法苦行を厳密に行ずる事により、自他 の三毒(貪・瞋・痴)を生命の本質(仏性)に帰し往く道である。 悟りだけで及べる道でも無いし、人類の諸能力や現代文明も駆使して 為すべきものである。 自(釈尊)他(現代文明)は時に隋うて無窮なり。 海(釈尊)の水(現代文明)を辞せざるは同事(逆らわない)なり。 此の故に能く水聚りて海となるなり。 釈尊が、最後の一息までも説く事を止められず、行と布教活動を続 けられた。 吾師は、其の意を継がれて、師の御信念を完徹された。 法(行)と情を別々に思うは、一応の段階で、本来、其れ等に別が 在る訳ではない。一つものである。 行、完成すれば、今度は、法も情も、、何でも、自由に、思いの儘に、 宜しき様に、為すが、一番宜しい。 是こそ禅の目指す所でありましょう。 真なる世界人類の幸福・平和は、此の個の幸福・平和無くしては、 在り得ない。 故に、世界人類の幸福・平和は、此の個の幸福・平和を、根本とすべ きであります。 坐禅を始めて、二年半位経った頃であったか、独り、自室で、夢中で 坐禅に没頭していた時、突然、其れまでの自己が、グラグラと木っ端 微塵に砕け散り、崩壊して、まるで唖者が白昼夢でも見ているかの様 に、此の大宇宙に生み(投げ)出されて、只、吾独り、の意識であった。 身心脱落、脱落身心というのか、嬉しくって、外に飛び出したのを覚え ている。 智慧・悟りにより、慈悲心生じ、施し、生まれる。 一方、貪欲なるが故に、瞋り生じ、痴と化す。 貪欲が智慧・悟りに転ずるには、正法苦行ならずんばならない。 是によりて、貪欲、滅するによりて、 いつしか、ハーッと、気付かされる時節が訪れる。 一旦、気付けば、未来永遠に、水と油の如くにして、不変である。 仏道は禁欲ではない、中道である。 五欲(名誉欲、金欲、性欲、食欲、睡眠欲)中、前三者は、根本的に 人間を狂わす。しかし、五欲中、最も悟り易いし、制し得る。 又、根本的に悟る。 しかし、食欲は、禁ずれば必ず死に至る。中道によりて、少欲・知足 であるべきだ。 睡眠欲は禁ずる事によって死に至る事は、恐らく不可能であろう。 何故ならば、死に至る前に、自動的に、極々瞬時に、滴水の間にで も、回復し得るからである。しかし、それも、食欲同様、求めて禁じ行ず れば、荒廃を招来するのみである。 涅槃へ至る道ではない。 大迦葉に継ぐべき、最も峻厳なる仏弟子アヌルダは、不眠不臥行に よりて、失明に至った。 釈尊はアヌルダに、「張りすぎる糸は切れる。目にも保養が必要だ。 」と正法苦行の中道の精神を諭された。 不眠となる行ならば、望ましくもあるが、不眠をねらう行は、為すべき ではない。 仏道(坐禅)は仏道(坐禅)の為に在る。 坐禅(仏道)は坐禅(仏道)を産む。 静は動に転じ、動を生む。 動(身)の基本は静(心)であり、静を離れない。 此の動は、静より生じたもので無我無心なる働きである。 何故に、身(動)の基本が心(静)であるべきなのか? 身は唯、滅するのみであるが、心は、永遠にして恒常不変なる真理 としての悟りを得るからである。 是、一大事である。 故に、人間の諸事万端、此の坐禅を根本と為すべきである。 自分は、一体何を為すべきか? 逆に、更に、一体人間に何が出来るのか? 此の有限が無限に至るには、坐禅以外に無い。 坐禅と言うものは、有限なる存在が、坐を組むと同時に、直ちに、無 限に転ずる唯一のものである。 何故に、無限に転ずるのか。 それは、坐禅を組む事によって、分別が止まるからである。 直ちに、分別を超えて、存在そのものに転ずるからである。 やがて、坐禅は、必然的に、正法苦行に至らざるを得ないであろう。 更に、其れを実践し、完成さすには、偏に是、唯、世界人類の真なる 幸福・平和を願う心(菩提心)あるのみである。 世の中(境遇)の安定と、人間の生き方の真剣さとは、両立しない。 世の中(境遇)が不安定であれば、概して、人は、真剣に生きようと する。 国家の繁栄が、必ずしも、仏道の繁栄に繋がる訳ではない。 やはり、仏道の繁栄は、世界情勢が如何にあっても、唯、仏道の為 に仏道を修するのみである。 生涯厳密千日行(摂心会)録 [平日] (一日、十五日は祝?諷経) 午後六時~午前八時 坐禅 (午後十一時~午前二時 坐睡) 毎正時十五分~五十五分 坐禅 毎正時 経行鐘(心中、鉄牛寺殿鐘打ち) 十分間 経行(一息半趺) 五分間 止静 午前八時~午前八時半 朝課諷経 午前八時半~九時 朝食 午前九時~午後二時十五分 托鉢 午後二時十五分~午後五時 坐禅 〔食事準備等総て経行・止静(十五分間)(全三時間半位)で済ます。〕 [祝・日] 午前九時~十二時 内・外作務(洗濯、その他) 正午 日中諷経 昼食 午後一時~四時四十五分 作務 午後四時四十五分~午後七時十五分 晩課諷経 夕食 入浴(洗濯) ※以外は平日と同じ。 [摂心会] 毎偶数月末日、 午後九時~翌月五日午前九時 平日の托鉢を坐禅(四?) 昼食に。 五日目は、祝・日の日程で。 《日課》 <朝課諷経> (自帰依三寶禮~四句請願文) ・一・十五日 祝?諷経 (般若心経・参同契・壽量品偈) ・四・九日 略朝諷経 (般若心経・大悲呪・舎利礼文) ・奇数日 (観音経・参同契・壽量品偈) ・偶数日 (大悲呪・消災呪・宝鏡三昧・壽量品偈) ・祝・日 略朝諷経 (般若心経・大悲呪・舎利礼文) <日中諷経> (仏頂尊勝陀羅尼) <晩課諷経> (大悲呪・甘露門・四句請願文) 《月忌》 ・七日 父、月忌 (修証義・仏遺教経) ・二十一日 開山諷経(伴鉄牛御老師、月忌)(大悲呪) 《年忌》 ・一月二十一日 開山諷経(伴鉄牛御老師、年忌)(大悲呪) ・二月十五日 釈尊涅槃会(大仏頂万行首楞厳陀羅尼) ・四月八日 釈尊降誕会(大仏頂万行首楞厳陀羅尼) ・九月二十九日 両祖忌(大悲呪) ・十月五日 達磨忌(大仏頂万行首楞厳陀羅尼) ・十二月八日 釈尊成道会(大仏頂万行首楞厳陀羅尼) 平成二十七年五月二十一日(木) ・朝課諷経 (自帰依三寶禮・観音経・参同契・壽量品偈・四句請願文) 伴鉄牛御老師 月忌(大悲心陀羅尼) ・托鉢休んでネット作り 昼食 ・日中諷経 (仏頂尊勝陀羅尼) ・晩課諷経 (大悲呪・甘露門・四句請願文) ・ネットを始めた訳は、 雑誌“禅”で御老師の摂心会の案内を見た事が切っ掛けで、今の自 分がいる、と言う事であります。 ・日課等について、 釈尊も、当地の風土によって、醸し出された、人類の深遠なる精神 活動の熟成の過程に於ける、必然的なる賜である。其の伝統無く して、釈尊が悟る事は在り得なかったでありましょうし、現代に至る まで、四千年余りにも亘って、綿々と存続する此の伝統無くしては, 正法苦行を復興する事は不可能であります。それ故に、日課、月( 年)忌等は、欠かす事の出来ないものであります。 ・特異的正法苦行によりて、(普遍的)仏道が生まれた。 特異的正法苦行無くんば、(普遍的)仏道生ぜず。 (普遍的)仏道によりて、特異的正法苦行存続し得る。 (普遍的)仏道無くんば、特異的正法苦行存続し得ず。 平成二十七年五月二十二日(金) ・朝課諷経 (自帰依三寶禮・大悲呪・消災呪・宝鏡三昧・壽量品偈・四 句誓願文) ・晩課諷経 (大悲呪・甘露門・四句請願文) 平成二十七年五月二十三日(土) ・五分前 アヌルダ 定印 直首腰 不動 不戯論 ・釈尊を知るには、師から釈尊(文殊菩薩・摩訶迦葉・アヌルダ)を、受 け継ぐ以外に無い。 ・今から三十年前、小生が東京の東照寺に居た時に、伴鉄牛御老師 が、小生に、「鐵幹さんは、生涯、独参する。」と言われました。 御老師の御気持ちを思えば、鉄牛寺で、独参せねばならないので はないか。 平成二十七年五月二十四日(日) ・略朝課諷経 (自帰依三寶禮・般若心経・大悲呪・舎利禮文三返・四 句請願文) ・日中諷経 (仏頂尊勝陀羅尼) ・托鉢 休 ・作務 ・晩課諷経 (大悲呪・甘露門・四句請願文) 平成二十七年五月二十九日(金) ・略 ・托鉢 休 (ネット作り) ・人を活かす事と、自己を活かす事は、其の本質は同じで、一つもので あります。唯、見る立場が違うだけで、見方が逆であるだけです。 人を活かせば、其の分、自己を活かす事になる。 人を活かそうと思う事は、真に自己を活かす事になる。 利他行は、自利行であります。 「利行は一法なり、普く自他を利するなり。」 (修証義) 人の利益を思わぬ人は、自己を殺しておる。 実に恐ろしい事であります。 文明の利器も、使い方一つです。 使い方が善なれば、自他を活かすけれども、悪なれば、自他共に殺 す事になる。文明の利器そのものに善悪や価値が在る訳ではありま せん。如何に使うかと言う、使い方に善悪や価値が在る。 金銭についても同様であり、 托鉢において、金銭を受けなければ、仏道は、極々限られた、南伝( 小乗)の一部の人間だけのものとなってしまったでしょう。 ネットについても、最初はネットくらいと思っておりましたが、生きる と言う事は、其の位のものであります。他に何か有り難いものが在る 訳ではありません。要は、其の使うこころの問題であります。 ・小生、三十年前に、東京の東照寺で、御老師について、得度致しまし た。当時、坐禅を好む事以外何も無い。唯、御老師に心酔していた ばかりでありました。何をしていいのか、全く、坐禅をする以外何もあ りませんでした。結局、数年後には、独り、旅に出ておりました。 こころは、御老師の道を歩むのだと、其ればかりでありました。でも、 一体何をすればいいのか、全く何一つ知識も無く、白紙でありました が、何を為せばいいのか暗中模索で、百日行をやったり、坐禅を止 めたり、ヒマラヤ山中の苦行者の様に、唯、歩き回る事だけをやって みたり、又、自転車で、日本一周、野宿しながら、坐禅行脚をしたり、 或いは、働きながら、木立ちよりも高く積もった雪に覆われた山中の 便所の中で、毎日、夜を徹して、坐禅を続けたり………。 結局、行き着いた所が故郷で、千日行を行ずる事でありました。 それ以外に、答えは在り得なかった。 ・小生(六十五歳)、二十五年前、最初の三年間の千日行の終了を告 げる除夜の鐘を聞いた時、其の響きは、ガランゴローン、ガランゴロ ーンと、天地一杯の、まるで天地がひっくり返らんばかりに、鳴り響き ました。 ハァー、是は、御老師が近くのお寺の鐘を借りて、其の心を伝えて居 るのだなぁー、と思いました。 其の翌年、同じ様に、除夜の鐘を聞いたのでありますが、全く響かな い、淋しいものでありました。アレーッ、止めたのかなぁーと、そう思い ました。でも其の翌年も、又、其の翌年も同じく響かない。 それ以来、二度とあの響きは聞く事が出来ませんでした。 二十五年後の今、未だに二度と聞かない。 未だに信じられない、解らない事であります。 ・耳と言うものは、其の受け取るこころひとつで、凄まじい響きにもなれ ば、淋しいものにしか響かなかったりする。 是は、目についても同様で、目を開けていようが、閉じていようが、其 のこころ一つ、確かであれば同じであります。 でも、やはり目は、必ず開けておいてこそ、そのこころも、確かであり ます。 ・最初の千日行が終えて、十五年間程、労働に携わっておりました。そ れも行の為で、その間一日、一刻として千日行時のこころを失った記 憶が全くありません。行から一刻として、一歩も出なかった。行のここ ろで、十五年間、働き続けました。行の為に働いた。愈々労働の為に 坐禅すらも出来なくなって、寺に、坐禅する為に戻りました。 鉄牛寺はもぬけの殻で、何にも無くなっていた。唯、御老師の御遺影 と御遺骨が置かれてあった。 誰も、何にもやっていなかった。 それ以来、私がやらなければならないのだ、と思いました。 それが、今から十年余り前の事でありました。 其れから鉄牛寺を出なければならない羽目になりまして、帰宅したの が、偶々、大晦日でありました。翌日から為す事は、更に、本格的に 、千日行を行ずる事以外には何にもありませんでした。 以来十年間余り、ずっと行じ続けております。 ・結局、学生時代に、坐禅に行き着いて、禅門に入り、御師の御計らい により、真実の釈尊に行き着いた。と言う事であろうかと思います。 坐禅無くんば、迷える子羊であり、吾師無くんば、禅定まででありまし た。 ・庭のアジサイが花をつけない。其の土は、長年、肥やし続けており、 潅水もしているのに、私の庭のアジサイだけ、一つも花をつけない。 周辺の、他所のアジサイには溢れんばかりに、花が付いている。 思い切って、幹だけ残して、大部分、刈り取ってしまった。 すると始めて花が一つ付いた。 翌年は、もう少し多く、 毎年、同様に深く刈り込むと、四年目に二十個の花を付けた。 不思議な事が在るもんだと思った。 人間にも、同じ様な事が在るかもしれないと思った。 思い切って、生まれ変わった気で、釈尊の教えに習って、 本当に、命の花を咲かして頂きたいものだと思います。 平成二十七年五月三十日(土) ・五分前(鉄牛寺千日行摂心会)は、釈尊を興し、真なる世界人類の 幸福・平和を実現する心の結晶である。 ・伴鉄牛御老師は、鉄牛寺境内の鐘楼の世界人類の平和の鐘(梵鐘) に、新道元宗開創の曰く因縁を告げられ、最後に、「聞鐘悟道されん ことを。」と、結び、認められた。 ・伴鉄牛御老師は、御存命中に、大雲山鉄牛寺は元来、 釈尊が大迦葉尊者に、菩提達磨が慧可禅師に、如浄禅師が道元禅 師に夫々嗣法した、霊鷲山、天童山景徳禅寺、崇山少林寺とも言う べき寺だ。と言われた。 ・新道元宗鉄牛寺千日行後継者は、未だに一人も現れない。 伴鉄牛御老師の二十三回忌(平成三十一年一月二十一日)までに は、残る所あと四年足らず有りますが、其れまでには亡き師への恩 に報いたいと思います。当方へ御一報くださる事を切願致します。 平成二十七年五月三十一日(日) ・日中諷経 ・托鉢 休 ・丁度、古代エジプト、ギザのクフ王が、最大ピラミッドを造営した様に 、吾師の遺された大ピラミッドは、新道元宗大雲山鉄牛寺国際参禅 道場でありました。 小生は、吾師の遺された新道元宗鉄牛寺千日行(摂心会)を構築し た。 丁度、ピラミッド造営に、多くの人手と、長期の歳月を要した様に、 当宗当行には、不屈の骨折りと、長期の根気とを要した。 ・釈尊たるべきものは、何処にも、何にも無い。 ・午後九時より、千日行摂心会 平成二十七年六月一日(月) ・祝?諷経 ・千日行摂心会 一日目 ・托鉢 休 平成二十七年六月二日(火) ・千日行摂心会 二日目 ・托鉢 休 平成二十七年六月三日(水) ・千日行摂心会 三日目 ・托鉢 休 平成二十七年六月四日(木) ・千日行摂心会 四日目 ・托鉢 休 平成二十七年六月五日(金) ・千日行摂心会 五日目(午前九時迄) ・托鉢 平成二十七年六月十日(水) ・托鉢 休 (ホームページ作成の為) ・午後三時~五時 外作務(草刈) 平成二十七年六月十二日(金) ・釈尊は成道後(三十五歳)、入般涅槃(八十歳)なされるまで、毎年、 九十日間、夏安居されたが、入般涅槃後も、第一年から毎年一回、 安居修行が続けられて、それが、中国に伝えられ、A.D.六百年頃 まで続けて行じられた。 小生も、参加者の有無に拘らず、毎奇数月初め、五日間の摂心会 を生涯、行じ続けるつもりで居ります。 ・山中での行と異なり、塵中での行は、菩提心生ずるが故に、釈尊は 、塵中に在って行ずべきを強調された。是、大乗の根本精神である。 如浄禅師は、「若し四、五十年来坐禅に慣習して、渾て低頭?睡す る事不会なる者は、眼目を閉ぢて坐禅するも妨げ無し。初学にして 未だ慣れざる者は、目を開きて坐すべきなり。」と、道元禅師に示し て云われた。 (宝慶記) しかし、(塵中での)正法苦行の実践無し。 塵中での(本格的)正法苦行に於いては、人の三毒の中で行ずる 行であり、(特に)、必ず、目はハッキリと開けておく。 これから益々、托鉢による塵中での正法苦行を為すべきである。 平成二十七年六月十四日(日) ・原田老師が亡くなられる前年(S35/10/20)、伴老師一人を呼ばれて 、かつて、天童山で如浄禅師が道元禅師に告げられた如く、伴老師 に次の如き遺誡を垂れられた。 「宗祖道元禅師の蹤跡の通り、鳥獣すら猶住まぬ深山幽谷に、 只管打坐の道場を造り、私の後継者として、新道元宗を開創して、 世界の青少年を摂心会に参加せしめ、一人でも多く、転迷開悟せ しめて、世界平和を将来せしむべし」と。 (大雲祖岳老師はS36/12/12に遷化される。) 伴老師は、原田老師のこの遺嘱を、原田老師23回忌にあたって、遂 に完徹されたのである。 S62/4/1 大分県狭間にて大雲山鉄牛寺新建立開単法要。 同4/1~4/5 新道元宗開単大摂心会。 同6/3~6/6 新道元宗鉄牛寺国際参禅道場完成記念摂心会。 伴鉄牛御老師の二十三回忌(平成三十一年一月二十一日)までに、 釈尊が大迦葉尊者に嗣法した霊鷲山、菩提達磨が慧可禅師に嗣法 した崇山少林寺、如浄禅師が道元禅師に嗣法した天童山景徳禅寺 とも謂うべき新道元宗大雲山鉄牛寺国際参禅道場で、新道元宗千 日行後継者を打出すまでに後四年足らずある。 世界が、一丸となって、新道元宗後継者を転展して育成してゆけば、 如来の法身、常に在して而も滅せざるなり。 かくして初めて、釈尊正法は、確立されるに至るのである。 有志者からの御一報を御待ち致しております。 平成二十七年六月十五日(月) ・仏道は悟る為にある。坐禅をすれば悟る。 生命の本質を悟れば、是は自ずから自他一如、他を悟らせるに至る 。 坐禅中に於いて、衆生無辺誓願度の心を忘れず、自未得度先度他 の菩提心を守護し、何処までも、度し続け、悟り抜いて往かざるを得 ない。是、大乗禅である。やがて、涅槃に至る。 悟る為には、戒(行)が必要。 他を悟らせるは、他に戒(行)を教える。 釈尊は、入般涅槃に御遺教を説かれた。 従って、此の戒(行)は、本物でなければならない。 本物なる戒(行)でなければ、人を真に涅槃へ導く事は出来ない。 何時、如何なる場合でも、此の戒(行)を疎かにするような事があっ てはならない。 戒(行)の確かさで、真に本物か、偽者かわかる。 何処までも、涅槃への向上一路門である。 全人類の為に、自ずから、常に、御遺教(戒(行))を忘れてはなら ない。 今や、此の複雑なる全世界と、仏道の至らんとしている先は一つ。 世界人類の幸福・平和。更に涅槃である。 人間の世界は、勝ち負けの二元相対の世界である。 仏の世界は、勝ち負けでなく、悟りという永遠なる恒常不変の真理に 基づいた世界だ。 此の真理こそ、真に強い勝利の世界である。 相対的、勝ち負けの、危脆なる敗壊不安の相ではない。 真なる安楽の、涅槃へ至る道である。 人類の目標と為すべき人間の基本は、御遺教の戒(行)であり、其れ を生んだのは、インダス文明(B.C.2300年頃)からのヨーガの伝 統であり、更には、バラモンの禅定であり、其れを完成させた釈尊の の悟りである。 悟り以前に戒(行)在れども、人間の直観通り、而して、戒(行)は 真戒(行)(御遺教)となり、梵我一如は、不生不滅に至った。 こころ以前に名称在らず、こころから名称生まれる。 悟りの体験以前に「悟り」在らず。 其の体験をして、「悟り」という言葉を置いた。 仏道も然り。 人類の絶対者への直観をして、伝統を生ましめ、それらの一切の人 間の計らいの限界を知らしめ、一切の計らいから解放されて後、分 別以前の不測なる悟りを体験するに至った。其れが釈尊である。 以降は、総て、此の悟りからのものである。 其れまでの(自己の)命に対する解決が、悟る、即ち、生命の本質( 仏性)を悟る為の最善なる道を伝え、遺すという事を志向するに及ん だ。 医学的思考法を用いて、其の方法論を打ち立てられ、出来上がっ た体系が御遺教であり、「仏道」なる教えである。 其れは、人間が真に生きる教えであり、まず何よりも、必要最小限、 悟る為の近道である。 一般に見性とは、その最短なる近道を歩まんとする心構え(覚悟) が決定した段階をその様に謂っておる様である。 現代世界の真なる幸福・平和の為には此の悟りは、常に、其の根 本に据えられていなければならないのである。 其れが、最善、最上なる、最短の近道である。 仏道(釈尊)とは、大雑把に、悟るまでの戒(大迦葉)と、悟った後の 菩薩道(文殊菩薩)として捉えられる。 御遺教は、向上門の真戒(悟りに至る為の基本)であり、 仏陀釈尊の御生涯は、成道後より、入般涅槃に至るまで、毎年、夏 安居と教化の連続であられた。 平成二十七年六月十七日(水) ・善に基づいた(善の根拠は、悟りによる教えである。)国政と、 悪なる力関係に基づいて為される国政と、 邪悪勢力による暴力との、 今の此の世界の混迷状態を打開する為に最も必要な事は、 新道元宗鉄牛寺千日行後継者を打出す事である。 是は一笑に付される事かと思いますが、 悟りなんかで、飯が食えるか、と。 しかし、是は、釈尊正法であり、永遠なる恒常不変の真理である。 何の資格も無い、唯、釈尊の出家僧としての行法以外、何の持ち 合わせも無い、此の私が、托鉢の在ることを教わって、其れ以来、 今まで何不自由無く、生きている。 今を突き詰めてみれば、それ以外に無い訳であります。 願わくば、其れが、特に中国国内の僧侶にも浸透してくれれば、と 思います。 平成二十七年六月十八日(木) ・国政とは 国民を生かす為に在る。 国民を生かす政治とは、国民の、 物質的・精神(宗教・思想)的基本的人権を保障する事である。 国力を強化する事ではない。 平成二十七年六月十九日(金) ・正法苦行、行ずれば、人天の師としての資格を得る。 何故に、是を行じようとしないのか。 正に、闇黒を破る大光明である。 人の三毒・五欲を制して、無明黒暗を摧破する以外、世の闇を摧破 する事は不可能である。 ・来週より鉄牛寺の殿鐘を打ちます。 平成二十七年六月二十一日(日) ・開山諷経(伴鉄牛御老師、月忌) (大悲呪) ・六月三十日(火)午後九時から七月五日(日)午前九時まで 鉄牛寺に於いて、参加者の有無に拘らず、千日行摂心会を行じます 。 平成二十七年六月二十二日(月) 100% 五分前 アヌルダ 平成二十七年六月二十四日(水) ・正法苦行に於きましては、坐中視線は、達磨図の如く、水平真直ぐ が最も、精神を活かすに好ましい。 ・坐睡というものは、其の坐相に於きましても、坐禅時の気迫、三昧力 によるものであります。 ・伴鉄牛老師は、原田祖岳老師の遺嘱通り、原田老師の二十三回忌 にあたって、その遺嘱を完徹された。 是は、其の頃には、原田老師に如何なる悪評が立とうとも、佛教 界に悪影響が及ぶ事は無いであろうとの、原田老師の御配慮であ りました。その具体的内容につきましては、言及するには及ばない でありましょう。 何れに致しましても、原田老師が亡くなられる前年に、伴鉄牛老師に 垂れられた遺誡でありました。 この事は、鉄牛寺の(梵)鐘に彫られてある通りであります。 ・〔正法の流れ〕 釈尊→摩訶迦葉→ →菩提達磨→慧可禅師→ →如浄禅師→ → 道元禅師→ →原田祖岳老師→伴鐵牛老師→新道元宗大雲山 鉄牛寺国際参禅道場 田中鐵幹 ・新道元宗千日行後継者打ち出しの為に、世界の逸材を掘り起こし、 伝える為に、一年間程、海外遠征する必要が在るのではないかと 思います。 ・鉄牛寺は山中にありますので、NTTの電話とネットを新規に、早急 に、設置する予定でおります。 平成二十七年七月三日(金) ・昨日、正法復活・興隆の為には、北九州道場の方が、行じ易いと 判断した為に、急遽、北九州道場へ戻って参りました。 皆様方の心に、正法を語り続け、皆様方の善心によりて、正法苦行 と共に、歩んで戴いて、向上一路門、いつかは、新道元宗 鉄牛寺 が真に生きることが出来ればと祈願致します。 平成二十七年七月五日(日) ・人間は、人間の頭脳が生み出した、機械への信頼よりも、人間の こころへの信頼に基づいて、生きるべきである。 機械よりも、こころの方が、確かであるからだ。 平成二十七年七月六日(月) 〔在るもの(最後に残るもの)〕 吾 [(生涯厳密千日)行 (=三時間坐睡二十四時間仏作仏行)] それから、 釈尊 [伴鉄牛御老師 (千日行 ・ 新道元宗 ・ 鉄牛寺)] それから、 人 [ネット] 是は、不動なる、大前提。 世の中、どんなになっても、 吾在りて、釈尊在り、そして人在り。 天上天下唯我独尊。 人は無くならない。故に、ネットは継続。 世の中どんなになっても、 生涯千日行。それから、釈尊。それから、ネット。と、 初めに、三時間坐睡二十四時間仏作仏行(正法苦行)在り。 是は、教えであり、行であり、証である。つまり仏道そのものである。 是が、吾であり、釈尊であり、師である。 吾とは、釈尊であり、師であり、人である。 此の吾には、一切が入っている。 吾、無くならない限り、一切、無くならない。 吾とは、命であり、生命の本質(仏性)そのものである。 此の吾は、時・所・位に拘らず、 永遠にして、恒常不変なる真理である。 平成二十七年七月七日(火) ・人間、如何なる立場にあろうとも、人間というものが、如何に生きる べきかに対する正答は、何等変わらないもので、其れ正答なるが 故に、其れ以外無きが故に、真実なるが故に、何とかして、其れを 、つまり本物の佛陀に成らんと、発心した菩薩の真実なる生きる道を 説き、伝えずんばおかんと思う訳であります。 立場ではない。 人間の真実なるこころである。 是、釈尊より、伴鉄牛御老師に正伝し、吾に正伝した仏法のこころで あります。 時 ・ 所 ・ 位 によって、仏法は、其の姿を種々に変えるが、釈尊正伝 の仏法、つまり正法のこころは、永遠にして、恒常不変なる真理で あります。 其の為の正法苦行であります。 安楽の法門、解脱・涅槃への道であります。 此の私は何等特別な人間ではない。極、ありふれた心の一般的な 人間の一個人であります。 普通の心なるが故に、真実に触れ得た者として、為し得る唯一の 手段をとおして、遺さんとするものであります。 是、吾師、更には、其の師からの切々なる、為さずに居れぬ御遺嘱 であります。 釈尊以来の、真実なるが故の、止むに止まれぬ御遺経でありました 。 平成二十七年七月八日(水) ・伴鉄牛御老師は、新道元宗大雲山鉄牛寺国際参禅道場を興さん とする一心で、その御子息の三人の男子を皆、得度させ、住職資格 を得させておられました。 現在、皆、在家にて修行されておられます。 其の御一人には、小生、今から三十年余り前、東京の東照寺にて 得度し、修行させて頂いて居りました時に、母親の膝の上に抱かれ た、生後間も無い其の乳児を前にされて、御老師が小生に向かって 、畳に額を叩頭く様に、じっと不動のままでおられたのを忘れられま せん。 其の御姿は、以来、小生の脳裏に焼付いて、決して消える事は御 座居ません。 其の時は、其れが何を意味するのかわかりませんでしたが、三十 年余り後の今にして、初めて、其の意味するところが、自然に頷か れた訳であります。 鉄牛寺での伴鉄牛御老師の十七回忌には、立派に成長された、 其の御孫さんも参加しておられました。 平成二十七年七月九日(木) ・人間とは、五欲に翻弄され、其れ等を貪り、しかも、不可避なる、生 老病死という四苦を背負わされた、極めて有限なる生である。 而も、其れ等を意識し、自覚し得る生命である。 其の深い自覚から、人間は、如何に生きるべきか、という事を知る に至る。 其の問いに対して、人類に、唯一生まれたものが仏道である。 仏道と、葬式、法事、諸供養等とは全く何の関係も無い。 何故に、是等が結び付いたかと言えば、唯、誦経の持つ雰囲気が 、それらに相応しいという単純な発想に他ならない。 結果的に、それらが僧を生かす事に繋がった訳である。 極論すれば、仏道とは、三時間坐睡二十四時間仏作仏行である。 そこから、多様なる仏道が生まれた。 平成二十七年七月十日(金) ・人間の諸能力と仏力との相違は、前者は、特殊な才能に恵まれた者 が、人をして感動させるが、後者は、総ての人間が本来具有する 生命の本質(仏心といわれる宝)を悟り、人に教え、伝えて、人を正 しく導くものである。 明らかに、後者は、根源的にして、無比なるものである。 平成二十七年七月十五日(水) ・人間というものは、本来皆、其の心の源に生命の本質である、宝 の蔵が在る(=本具仏性)。しかし其れは、三毒(貪・瞋・痴)に障害 されて開かれていない。 故に、釈尊は、生涯、衆生を捨てず、度し続けられた。 宝を捨てる事は在り得ない訳であります。 佛祖は、坐禅中でも、衆生を捨てず、忘れず、誓って済度せん事を 願われて、常に欲界に在って坐禅?道された。 ・釈尊は御自身の悟り・涅槃を、自己のみ、特別な人間であるからで なく、生命の真理として捉えられたと思います。 だからこそ、其の為の戒を、御臨終の最期まで説き続けられた。 真実なる教えであります。 ・処世界如虚空。如蓮華不著水。心清浄超於彼。稽首禮無上尊。 (世界に処する事、虚空の如く、蓮華の水に著かざるが如し。 心の清浄なる事は彼に超ゆる、稽首して無上尊を礼し奉らん。) 是は、吾師、伴鉄牛御老師が最も好まれた梵唄でありました。 此の処世界梵は、比叡山で台蜜に長じ、宋から臨済禅を受け、福岡 (博多)に聖福寺(妙心寺派)を建立せられた、日本臨済宗の祖であ り、又、茶の栽培でも知られた、栄西禅師以来のものであります。 小生、学生時代、福岡聖福寺の坐禅会に参加致しておりました時 の師家でありましたが、今から十年程前に、小生が、長野県小布施 近郊で托鉢しておりました時に、某店主が小生に、同級生であった、 其の師家に「長野で托鉢して、修行できる場所を探してほしい。」と頼 まれたそうで、小布施の駅前で、福岡聖福寺を捨てて、独りで、托鉢 しながら、修行をしている、という話を聞きました。 マァ、偶然にも、其の気迫に驚かされました。 専門僧堂の師家でありながら、更に、其処まで、一人で道を極めよ うとされておるのだと識慮致した次第であります。 ところで、処世界梵の“稽首禮無上尊”は、つい最近まで、小生、“稽 首行無上道”(稽首して、無上道を行じ奉らん。)と記憶間違いして おりましたが、其の方が、寧ろ、宜しいかと思います。 平成二十七年七月十六日(木) 原田老師が亡くなられる前年(S35/10/20)、伴老師一人を呼ばれて 、かつて、天童山で如浄禅師が道元禅師に告げられた如く、伴老師 に次の如き遺誡を垂れられた。 「宗祖道元禅師の蹤跡の通り、鳥獣すら猶住まぬ深山幽谷に、 只管打坐の道場を造り、私の後継者として、新道元宗を開創して、 世界の青少年を摂心会に参加せしめ、一人でも多く、転迷開悟せ しめて、世界平和を将来せしむべし」と。 (大雲祖岳老師はS36/12/12に遷化される。) 伴老師は、原田老師のこの遺嘱を、原田老師23回忌にあたって、遂 に完徹されたのである。 S62/4/1 大分県狭間にて大雲山鉄牛寺新建立開単法要。 同4/1~4/5 新道元宗開単大摂心会。 同6/3~6/6 新道元宗鉄牛寺国際参禅道場完成記念摂心会。 H26/1/21 伴老師18回忌に、私はこれを国内外に発信。 伴老師の23回忌までは5年間ある。 この間に、準備期間と、その後の、3年間の千日行を終了し、新道元 宗後継者として、一個半個を打出す事が出来れば、原田祖岳 御老師、伴鐵牛御老師への、ふさわしい報恩の行となる。と強く信じ 、斯くの如く、決意した訳であります。 一人でも多くの世界中の有志がこの志を起し、但坐不臥を実践する 契機になればと、祈願いたします。 ・新道元宗大雲山鉄牛寺国際参禅道場の新道元宗の宗旨の要は、 正法苦行〔=千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)〕である。 此の正法苦行の無いものは新道元宗に非ず。 是こそ、恩師への報恩行である。 此の事は、単に、鉄牛寺だけの問題ではない。 正法復活・興隆という、全仏教界の問題であり、延いては、将来の 人間を生かすか、殺すかの一大事であり、世界人類の真なる幸福・ 平和への大問題である。 新道元宗を誹謗したり、いい加減に思い為す者は、将来の仏道(者) に対して、根本的悪影響を及ぼす魔に他ならない。此の魔害により て、決して菩提心を鈍らせる事が有ってはならない。 彼等は、唯、真実を知らないばかりである。 知らないと言う事は、どんな悪をも簡単に造ってしまう。 無知(=無恥、愚)は痴であり、三毒(貪・瞋・痴)であり、悪である。 無知程、怖いものは無い。 仏道とは、無知に対する教えである。 無知によりて、仏道(者)の将来を、曇らせ、見失って仕舞う様な事 は断じて許されない。 平成二十七年七月十七日(金) ・世界の現実の悲惨さを知れば知る程、自己の求道生活との係わりを 考えずには居られない。 釈尊在世時は、其の周辺だけの実存的現実に直面するだけであり ましたが、現代は、地球上全体の、高度文明下の、人為的・自然的 惨事に直面せざるを得ない訳であります。 目を伏せて、御遺教に従って、他を捨てる事は出来るが、其れでは 他への働きが無い。 そうかといって、世界の現実と向かい合えば合う程、自ずからも、世 界の悲惨さが、どうにもならなく成る。 衆生を捨てず、悟りを生きざるを得ない訳であります。 釈尊の悟り・涅槃と、現代世界の現状とを如何に受け止めればよい か。 目的は、諸事に於いて、究(極)める事でも、勝つ事でもない。 世界人類の、真なる幸福・平和の為である。 国家我の要素を、個我と受け止めれば、 国家間、及び、国家内部に生ずる諸問題の解決も、矢張り、個我を 悟る事が基本と成る。 其れから打ち出して行く。何処までも、其れ以外に、根本的解決は 在り得無い。 日本は仏教国であり、特に、政治家に仏道を根本に据えて頂く以外 に無い。 特に、東洋諸国が、経済だけでなく、まず、東洋の宝である、世界人 類の真なる幸福・平和を目的とする仏道によりて、一致団結する事を 大前提として、其の上で、其れを西洋諸国に及ぼして、世界を安定に 導く事が出来れば、と思います。 平成二十七年七月十八日(土) ・原動力は、厳密行。 厳密行によりて、一切を生ず。 生涯、正念相続。 釈尊・大迦葉の厳密頭陀行が人間に及ぼす働きは、 生涯厳密千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)の 其れと本質的に、同じである。 つまり、少欲・知足にして、五欲、衣・食・住に関して、貪著せず、 但坐不臥(極力、只管打坐。)の正念相続である。 ・修禅定(正法苦行の核)→修智慧→(中道)→頭陀行(千日行)→涅 槃 ・坐禅だけでは、如何に長くやっても、ボケル。 それは、人類の目指す方向性ではない。 坐禅を、托鉢自活により、厳密行として厳格に行じ続けてこそ、人類 の目指す方向性に適う。又、そうなればこそ、将来の仏道たり得る。 仏法は世法を破るものではない。取り込むものである。 本来、仏法は世法の上に立つべきものである。是はバラモンの伝統 以来である。 平成二十七年七月二十日(月) ・真実を語れば、 仏道を在らしめるのは、吾のみ。 吾、為さざれば、仏道なし。 吾、為し得ただけの仏道あり。 貴方も同じ。 仏道を在らしめるのは、貴方御自身。 貴方、為さざれば、仏道なし。 貴方、為し得ただけの仏道あり。 釈尊も同じ。 釈尊、如何に説かれども、釈尊在れども、仏道在れども、他山の石。 仏道を仏道ならしめるのは、貴方御自身以外に無い。 仏道を興すは、貴方御自身。 ・仏道も、時・所・位に応じて、明暗各々、前後の歩みの如く、相乗的に 共に、歩調を合わせてこそ、将来、大いに栄え得る。 ・世界人類の真なる幸福・平和には、 高度なる、科学技術力ではなくて、 世界人類が、其の心を一つにして歩んでいるという事が 必要不可欠なのではないでしょうか。 平成二十七年七月二十一日(火) ・人間、「自分が終わる」等と言う事は、誰しも嫌がる。 でも、終わらなきゃあ、宝は手に入らない。 終わってこそ、真の歓びが手に入る。 世界人類の真の幸福・平和は、非常に長い道のりであるだろうが、 でも、其れへの真実なる一歩である。 其れに背く方向ではない。 此の一歩一歩こそ、仏道である。 是は実に、人が好まざる一歩でありましょうか。 此の原動力は仏性(生命の本質)から得るもので、 是は、坐禅に依りて、自ずから、人から溢れ出ずるものであります。 理屈や頭ではない。 真実なる体験であります。 坐禅(の功徳)は、人間の日常生活に、即、反映するばかりでなく、 人間の生き方への根源的転換を誘起する。 是、人間の知らない仏力からの力でありまして、 此の力こそ、世の中を変え得る力である。 世界人類の真なる幸福・平和は人間の理性や情によるものでなく、 それらを一掃し、又、更に三毒(貪・瞋・痴)による人間の殻が消え、 三毒が、施・慈・慧と転じて、悟った、仏性(生命の本質)からの無我 の働きによるものでなければ、真なる幸福・平和とは成り得ないで しょう。 坐禅をするというのは、一般的な事ではない。 仏道は、禅定から生じたものであるにも拘らず、仏道と坐禅は、 一般的に結びつかない。 坐禅から派生した仏道を信じて、其の源である坐禅そのものには、 無頓着である。 明治二十年頃(百二十五年程前)に、日本禅宗は、在家の教化策と して、修証義を編纂した。坐禅の教科書たる、道元禅師の正法眼蔵 を典拠としておりながら、坐禅の坐の字も書かれていない。 坐禅が、懺悔や受戒に転化してしまっている。 時代的要請により、在家に受け入れられ易い様に、本源を隠して、 枝葉を説いている。 其の後、諸学者の研究により(禅)仏教や道元禅師(正法眼蔵)につ いて世に知られる様になった。 今でこそ、書店には、それらの本は、溢れんばかりである。 現代に於いては、仏道とは坐禅也と、修証儀にも強く打出すべきで はないでしょうか。 そうして、坐禅会が、欧米の教会の様に、日常的に取り入れらる様に なればと思います。 ・一息半趺(十分間)と止静(五分間)で計十五分間。一日、十四?の 坐禅・三時間の坐睡で約三時間余りになります。 是だけ有れば、厳密三時間坐睡二十四時間仏作仏行が可能です。 止むを得ぬ時は、托鉢、作務、それから食事等を使います。 坐禅作法だけは、厳守せねばなりません。 平成二十七年七月二十二日(水) ・自燈明、法燈明。 釈尊も、斯、説かれておられるが如く、 人間は皆、本来、その様に在るべきであります。 法燈明のみであれば、何れは、像法、末法、滅尽と成りかねない。 自燈明にして、始めて正法為り得る。 そして又、是以上に、厳しい事は無い訳であります。 正法というものも、釈尊周囲の状況、つまり、其の、時・所・位に依り て、出来上がったものであり、時・所・位 に応じて、自ずから其の在り 様も、順応性を持ったものでなければなりません。 法燈明は自ずからして、自燈明である訳であります。 そして、其の中核は、時・所・位 に拘らない、確かなる、悟り、涅槃で あります。 平成二十七年七月二十三日(木) ・我欲に執著する所から出る強さと、無我なる働きによるものと、 一見、違いがわかりにくい場合があるが、両者には、雲泥の違いが ある。 それは、 諸悪莫作 修善奉行 自浄其意 是諸仏教 (通戒偈) にも在る様に、 前者からすれば、是は、第一句目から、至極、困難な事である。 後者からすれば、意識に上らない程、至極当然であるが、 是は、修善奉行一つで宜しい。後は総て忘れてしまう。否、忘れる 程に。 十成では、役に立てないし、常に九成であるべきだ。 此の無我為る働きから出る、常識では解らない強さ、是、坐禅行によ って培われる力(働き)である。 平成二十七年七月二十四日(金) ・世界各国指導者が、自国民のみならず、「世界人類の真なる幸福・ 平和の為に」の精神で、一切事を処理できる、正しい判断力を身に 付け、其の精神を各国指導者達が、平等に共有し、其の一体感( 団結力)に基づいた政策を、各国毎に、打出し得たらと思います。 其の為には、真実なる教えである、釈尊の悟りによる、無我に基づ いた精神で、少なくとも、東洋諸国において、精神的に指導的立場 を打ち立て、更に、欧米と共に、全世界の精神の指導的国家として、 世界を導いて往けたらと、切に思います。 事、環境問題におきましては、日本が中心的役割を果たして、大し た問題も生ずる事無く、少なくとも全世界が心一つにして、其の問 題に取り組み得ておる訳であります。 世界各国が、世界の存亡に係わる事となれば、難無く、一体と成れ るものを、一旦、自国の繁栄が望める立場に立つと、どういう訳か 他国を圧して、其の目的を果す方向に突っ走ってしまう。 是は、世界人類の真なる幸福・平和の精神に反するもので、如何に 自国民の為とは言えども、其れは、自我欲の、単なる延長線上の 事にすぎない。 是では、世界人類の真なる幸福・平和を成し遂げ得るだけの指導者 とは、決して言えないし、又、其の資格を、全く、持ち合わせていな い訳であります。 日本は、原爆投下と東日本大震災による原発事故と言う二大被災 国でありますが、日本禅宗こそ、これからの、こころの世界の指導 国としての立場を採らねばならないと思います。 政治家は、自国繁栄の為の技術的対応は然る事ながら、本質的 な対応を心掛けるべきである。 本質的対応とは、世界人類の真なる幸福・平和を踏まえての対応 であります。 小生のやっておる事には、全く、間違いが無いと自負するものであ る。 ・神というものは、遥かなる富士の山頂を、仰ぎ見ている様なもので ある。 仏というものは、其の麓まで、まず出かけて行き、登山口より一歩 一歩上へ向かって、登って行き、或いは、険しい岩登りにより登頂し 、遥か雲間に現れる下界を望んで居る様なものであります。 平成二十七年七月二十五日(土) ・伴鉄牛御老師は、三十年程前、東照寺において、「日本国中の僧を 殺せ。」と威喝され、小生を欲界に放たれた。 全く、白紙為る小生は、未だ無知なる千日行と共に、菩薩の真慈の 下に、暗中模索の旅に出た。 やがて、千日行の実践を覚了し、行一色。 二十年後に鉄牛寺に戻るまで、正念相続。 戻った時に、一切が明らかになった。 其れまでの総てが無くなっていた。 其の責は、釈尊在世時の、サンガの状況にあったと言わざるを得な いでしょう。 しかし、其の中核は、三時間坐睡二十四時間仏作仏行でありまして 、何時でも、何処でも、誰でも、其の時・所・位に応じて、厳格に行ず れば宜しいのであります。 故に、釈尊の復活は、何時、何処でも可能であります。 敢えて申せば、吾師が千日行を掲げられたは、将来の仏道にとりま して、掲げざるを得ないと、前途を予測された結果であろうと思われ ます。 二千五百年後位までに、又一人、生れてくれれば、と思う次第であ ります。 しかし是は、量ではなく、飽く迄も、真偽に係わる事であります。 平成二十七年七月二十六日(日) ・極論すれば、 善は、新道元宗(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)。 悪は、三毒(貪・瞋・痴)。 新道元宗に於いては、 悟りも、文明も、分別も、無分別も無い。 在るとすれば、菩提心在るのみ。 平成二十七年七月二十七日(月) 夢 生きるには、人は誰しも皆、何か心の拠り所(生きる糧)となるものを 求めているものであります。 其れも、二元相対的な、現実的なものであれば、生死を超えた、真実 なる、心の支えとは為り得ないでしょう。 永遠なる、絶対的なものでなければ、人に、不動なる安心を与える事 は不可能であります。 其れが夢だと思います。 真夢とはそういうものであります。 是こそ、涅槃以外には、絶対に在り得ない事であります。 是が真理(実)であります。 人が抱く此の夢は、釈尊の悟りが、其の本源であります。 是が、因縁に依りて、今の私の命まで到達した。 此の夢(なる真理)は、一切衆生の命を貫く、永遠なる、恒常不変の 真理であります。 釈尊正法は、頭陀行からのものでありまして、 「少欲、知足にして、五欲、衣・食・住に貪著せず、昼夜、但坐不臥, 只管に、坐禅を行ずる。」と言うものであります。 是が、道元禅師に至りまして、凡そ、有り難そうなものは一切無く、 朝起きれば、顔を洗い、食事をし、昼夜、只管に坐禅を行ずる。 バラモン以降の伝統と致しまして、行の最終期は、布教活動でありま したが、当時は、現在と異なって、足で行ずるものでありました。 遊行期と申しまして、只々何処までも歩いて、教えを広めてゆく。 仏陀釈尊は、八十歳にして、其の道中で、病死なされました。 是、菩薩道であります。 自未得度先度他の心であります。 真理なる夢を、只管に説き続ける旅であります。 道元禅師、九十余巻の御説法でありました。 ・ネットは、何時でも、速やかに為し終える。但し、行は厳密に、完璧 に行ずるを宗とする。 是に依りて、明暗夫々が、障礙する事無く、互いに活かし合える。 明は明を保持して暗を活かし、暗は暗を保持して明を活かす。 明暗夫々が、竜巻の如く、螺旋様に、何処までも、仏道を興隆し続け 得る。 平成二十七年七月二十八日(火) ・学生時代、福岡での、伴鉄牛御老師の摂心会に参加していた時、 御老師は、小生に、御自分の事を、「私じゃない!原田祖岳だ!」と 吐き出される様に言われた。 其の後、「托鉢と坐禅だけの寺(=鉄牛寺)を建てる。」とも、仄めか された。 其の後、東照寺に於いて、「東照寺は、ぶっこわす。」と、洩らされた。 小生、托鉢を覚えたのは、今から十二年程前、五十三歳の時であっ た。 大分鉄牛寺では、朝食後、自転車で一時間半ほど掛けて、JR久大 本線の向之原駅迄往き、それから、自転車で駅周辺を回る、或いは 、列車で(南)大分、別府まで出て、駅周辺を回る、四時間程回って、 列車で向之原駅迄戻り、途中、買い物をして、自転車で寺まで戻り、 夕食、六時十分より坐禅開始。 浄財は毎日一万円足らず頂きました。 一月間続けて、其の後、長野へ参りました。二年間程、毎日、朝から 暗くなるまで、托鉢をし、寺に戻って、坐禅開始。 県内の十余りの諸都市を回り、毎月四十万円程の浄財を戴いた。 此の勢いは、四十歳までの三年間の千日行を終えた者としての自覚 が有ったからだと思います。 其の後、北九州市道場に移り、五十五歳から十年間余り、福岡県内 の諸都市を、矢張り、朝から夕方まで、日・祝以外は毎日、托鉢して 千日行を行じ続けました。浄財は以前の半分位。 後半は、北九州市のみ、同じく、午後一時五十分頃迄に帰宅し、二 時十分より坐禅開始。浄財は、更に其の半分位です。 新道元宗大雲山鉄牛寺国際参禅道場は、新道元宗(千日行)後継 者を打ち出し、正法復興する為の寺であります。 有志の方々からの連絡を御待ち致しております。 日本国内の諸都会におきましては、托鉢しながら千日行(三時間坐 睡二十四時間仏作仏行)を実践出来る。 誰でも、何時でも、何処でも、三年間の千日行を行じ終えれば、皆、 鉄牛寺別院・新道元宗後継者であります。 又、御自身で、新たに正法復活・興隆する者として、興されても宜し い。 世界中に、其の(新道元宗の)組織網が出来ればと、切に、祈願する ばかりであります。 是こそ、吾師、伴鉄牛御老師への報恩と為るであろう事は、確信し て疑いません。 〔長野県、福岡県、大分県 托鉢現地 航空写真〕 (是迄の托鉢を地図上に記しておきます。参考にして戴ければ幸いで す。) 平成二十七年七月二十九日(水) ・マス・メディアの情報網は、富士山頂の遥か下方の雲海にすぎない。 真実は小説よりも奇也。伝えられるのは三分の一だ。 御老師も言われておりました。 「テレビなんかに出る僧は、大した僧ではない。」と。 本当のところは、伝えられない。 皆、独自に、切り拓く以外に無い。 平成二十七年七月三十一日(金) ・人間は、地獄を生む三つの毒(貪・瞋・痴)を、必ず、生来持っている。 (人間を向上させる)正しい価値観が備わっていなければ、総ては、 三毒に犯されてしまう。 其の価値観が、正しく育てば、やがては必然的に、悟りに近づき、 得悟するに至るであろう。 一旦、悟れば、其れは永遠に消えないし、人類を導く燈火と為る。 更に、自未得度先度他の利他行に徹底しなければならない。 其の為には、人間を狂わす、三毒の業火中に、自ずから、実際に入 って往き、御遺教経に遵う事である。 悟りは、三毒に対する最も有効なる良薬であり、 生涯厳密千日行(摂心会)こそ、人類の三毒を取り除く、最も効果的 外科療法である。 もし、釈尊が悟らなかったならば、世界一の大馬鹿者である。 しかし、釈尊には、悟りが訪れた。 悟りが、釈尊を、真なる人類の指導者として生まれ変わらせた。 然れども、其の悟りの体験だけであったならば、其れは、個人に止ま り、自然消滅するしかなかった。 人類の指導者足るには、如何にすれば、人を悟らせ得るか、に徹底 しなければならない。 菩提心とは其の心に他ならない。 釈尊当時は、生涯、遊行と夏安居でありましたが、 現代では、生涯、托鉢(ネット)と千日行(摂心会)であります。 降り積もった雪を井の中に捨て続ける様な無駄骨(馬鹿)にしか思え ない様な、当たり前の事(=通戒偈)を為す事が、人にとって最も価 値有る事である。という事を学び知るべきである。 更には、業火中で、生涯厳密千日行(摂心会)を行ずる事は、菩薩道 (利他行)の極みである。 平成二十七年八月三日(月) ・わが師と鉄牛寺新道元宗後継者を思うならば、必ず、(五分前による )殿鐘でなければならない。 ・不慳法財戒 法は惜しみなく出すべきだ。否、説き続けなければならない。 釈尊は、最期の最後まで説き続けられ、説き終わって、入般涅槃さ れた。 法は説かねばならない。 説く事と、行ずる事と、何れにも遜色があってはならない。 説くは説くで円満し、行は行で円満すべきである。 二十四時間、隙無く、向上一路門。 ・何物にも汚されない仏性(生命の本質)を知れば、性欲は瞬時に了 ず。一旦、覚了すれば、永遠にして不変である。 性欲了ずれば、鼻の下、共に済む。 同性婚が、現代欧米人を風靡している。 是は、人間的未熟さに因るものである。 男は男らしく、女は女らしく在るべきだ。 東洋には、其の風は吹かない。東洋の叡智の然らしむる所か。 性欲というものは、種の保存故のものである。 世界人類の真の幸福・平和とは結び付かない。 自己を捨ててこそ、其の働きが出来る。 人間は、性欲を源として生きるべきか、悟りを源として生きるべきか。 前者では、堕落しか生まないけれども、後者は向上一路門、世界人 類の真なる幸福・平和へ導く。 人間が生きるのに、結婚が不可欠なのか。 性欲を超えて、人は付き合えないのか。 性欲を超えた無我の時、初めて、人間同士、最も親密に成る。 平成二十七年八月六日(木) ・新道元宗は、出家・在家に拘らず、誰でも、何時でも、何処でも千日 行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)を為せば、世界人類の幸福・ 平和確立の礎としての人材の資格が備わる。 一日為せば、一日仏。 百日為せば、百日仏。 千日(三年間)為せば、新道元宗大雲山鉄牛寺国際参禅道場の後 継者足る資格が備わる。 そして、其の道場(行場)は、如何なる所であろうとも、新道元宗大雲 山鉄牛寺国際参禅道場別院足る。 千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)とは、釈尊正法の実体で ある。 具体的に、三時間坐睡は、釈尊・大迦葉の十二頭陀行中、衣・食・住 以外の、唯一、要の威儀である、但坐不臥(極力、只管打坐)の実践 である。 二十四時間仏作仏行は、少欲・知足にして、五欲、衣・食・住に関し て貪著せず、但坐不臥(極力、只管打坐)の正念相続である。 千日行は、無明黒闇なる世界に於ける、世界人類を迷わす事無く、 正しく、涅槃まで導き得る唯一無比の燈火である。 世界人類は、此の教えに依って此の地上に、真なる幸福・平和を築く 事が出来るのである。 小生のホームページは、たとえ一日でも、誰でも、世界人類の幸福・ 平和を確立する種子を植える事が出来る。 やれば出来るという事を、伝える一手段であります。 近い将来、此の組織網が世界中に樹立し、世界の動きを正し、守る 、最善の力に成れば、と切願する次第で有ります。 人間というものは、其の心、有りながら、どうすればいいのかわから ない。判明し得ない。 日常生活に追われて、其の事から遠ざかって、気付けば、虚しく、終 わってしまう。 燈火が無い。 本当の歓喜、安らぎを知らない。 永遠に、迷える子羊であり、 然らずば、狐の心を持ったゴジラにしか為り得ないのであります。 平成二十七年八月八日(土) ・釈尊無くんば、人類に、教え無し。 教え無くんば、救い無し。 救いが無ければ、世の中は、迷える子羊か、狐の心を持つゴジラか である。 何れは、人類は、噴水の頂が、崩れ落ちて元の水に戻る様に、自滅 する以外には無いであろう。 故に、人類の将来は、釈尊に依って、開かれたと言い得るのである。 人類に、開かれた将来を約束するのは、涅槃に因る以外に無いの である。 現代文明でもなければ、国家の繁栄でもない。 是は何故かと言うに、其れ等、何れによりても、人間の本質は変わ らないからである。 人類の確かなる教えは、釈尊から始まったのである。 「菩提心を守護する菩薩は、其れに拠って、無上の悟りの智慧を得、 常楽我浄を具足する。」 入般涅槃に臨まれた、釈尊の御言葉通り、 仏陀釈尊は、夏安居を生涯、毎年、欠かされなかった。 無常を観ずる心も、菩提心ではあるが、 更に、業火中で、生涯厳密千日行(摂心会)を行ずる事は、菩薩道( 利他行)の極みであり、仏陀に等しいものである。 もう、釈尊として、採るべきものは、何一つ無い。 尽く、了ず。 平成二十七年八月九日(日) ・遺教よりも、正法苦行(=悟り)の方が、重要である。 何となれば、行じてこそ、教え遺す事があるからだ。 遺教があるから、正法苦行は無くてもよい、となれば、殺さねばなら ない。 平成二十七年八月十二日(水) 捨 情 取 法(行) 生涯厳密千日行(摂心会) 目だけは、確実に開けておく。 平成二十七年八月十五日(土) ・国家の信頼というものは、何処から生ずるか。 其れは、国家を構成している国民、一人一人、つまり、人間そのもの への信頼である。 吾への信頼無くして、如何して、国政、世界への信頼が築けよう。 吾への信頼とは、我欲を離脱した処から得られる、悟り(=無我)か ら生れるものである。 世界人類の真なる幸福・平和を築く事は、其れ無くしては不可能であ る。 つまり、国家の信頼というものは、無我なる悟りから下される判断で なければ、真なる信頼は生れない。 果たして、世界中の指導者達に、其の判断が下せるか、否か。 然うで無い限り、下された判断というものは、思い掛けぬ所から、容 易に覆されてしまうだろう。 其れだけで済めば宜しいが、後は、混迷なる地獄しか残らないので ある。 核(武)力に信頼を置かざるを得ないよりも、人間そのものに、信頼 の置ける地球上に成らなければならない。 核力に信頼を置くという事は、自国の繁栄と権力の為であり、 人間そのものに信頼を置くという事は、世界人類の真為る幸福・平 和の為である。 人間の本源は、釈尊(悟り)である。 死んだ人間が、復活して生き返る事は有り得ない。 復活とは、真実の反復である。 人類の帰すべき処は、二千五百年前に明らかと為った。 其れは、二千五百年後、極東日本、新道元宗に於いて、仏果を為し た。 本源程、生命は、無我為る本来の働きを為す。 枝葉程、生命は迷路に迷い込む。 人類は、釈尊に立ち返るべきである。 現代に生み出された核と、釈尊と、何れを拠り所とすべきか。 もし、釈尊を捨てて、核を拠り所とすれば、生命は枯れて、人類が破 滅する事は、明らかである。 元を捨てて、枝葉に依存する生命が、繁栄する訳が無い。 極力、元を守護して、枝葉は、慎むべきである。 是が、真に積極的なる生き方であり、生きる極意である。 唯一の、被爆国、日本を足蹴にして、世界を核力によりて、制圧する という事は、真なる、世界の指導者の為すべき行為ではない。 是を為せば、真の指導者としての資格を喪失する。 何れ、其の報いを受ける事は必至である。 人間は、核(武)力による、上下関係ではなく、 教え(生命の本質)による、団結でなければならない。 是は、スポーツ界においても同様である。 力に拠る勝敗ではなく、スポーツ根本精神に基づいた参加である。 平成二十七年九月四日(金) 二十一時間、厳格打鐘 中国国内の仏教者が守護され、 やがては、 米・中による、非核和平協定により、 世界が統一される事を切願致します。 平成二十七年九月五日(土) ・世事に参預し、使命を通知し… …皆作に応ぜず。 (世間の政治に参画し、敵味方の間に立って調停し… …それらは何も、相応しい事ではない。) (仏遺教経) 了 《此処までは本に致しました。》 続 編 平成二十七年九月十七日(木) ・仏道は国家、国境を超越する。 故に、不戯論が成り立つ。 人類の為の、人類の教えである。 しかし、風土に影響(制約)される事も事実である。 故に、世界に様々な仏教が存在する。 夫々が、独自性を持つ。 仏教の独自性は、悟りである。 悟りは、国境(家)の別無く、其れを超えている。 仏道は国家的条件を超えて、地球仏教者として、多様性を受容して、 一つに団結すべきである。 国家的制約を越えて、何時でも、何処でも、誰でも、制約に左右され ない人類共通の、心の宝を享受し得てこそ、仏道の本領である。 其の仏道の、自由闊達さを、皆様と分かち合えたらと、ネットは、釈尊 の遊行に倣って、死ぬまで続けて行こうと思います。 国家というものは集合体であり、悟れないから、如何しても個人の様 にはいかない。 釈尊は、バラモン教(BC1300年以来)の聖典の一つであり、釈尊前 後のウパニシャッド哲学の梵我一如の帰一思想の萌芽とも謂うべき 『リグ・ヴェーダ(BC1800年~BC1200年以来)』に起源を持ち、バ ラモン(←ブラフマン(宇宙根本原理))という司祭(宗教者)階級を、政 治(武)力をもつ戦士・王族階級(クシャトリア)の上に置く、カースト 制度の伝統の中で、望まれるべくして生れたのである。 釈尊は其の伝統を否定されたのである。 しかし、其の伝統無ければ、釈尊は生れなかったであろう。 其の厳しい、政治支配者の上位に宗教者を置く、伝統在らばこそ、 釈尊は生れた。 現代日本曹洞宗での月分行持(一日、十五日)の祝?諷経の回向文 文末、 正法興隆、国家昌平… …ならん事を。とあったものが、. 今や、 国家昌平、聖壽無窮… …ならん事を。と変わった。 正法興隆を祈願するどころか、口にする事さえしなくなった。 聖壽とは、天皇、君主の寿命の事である。 正法復活の気運が、全く消え失せてしまった。 悟るという事が、人生第一の目的である。 事の始まりは、そうではなかった。 苦行者であったが、結果的に、悟りを体験するに至った。 人生において、悟り無ければ、永遠に、四苦なる凡人である。 悟りによって仏子に生まれ変わる。 人生は、悟る為に在ると言っても過言ではない。 国会討論は、二の次である。 故に、不戯論は人生の本質をついている。 恰も、無限の宇宙の如く、何処までも、際限が無い。 不戯論は、釈尊、最期の最後の御説法である。 不戯論に真徹すべきを説かれた。 仏陀釈尊は、御生涯、御修行を怠る事無く、常に、衆生と共に、菩薩 道を歩まれた。 生命の本質(仏性)は、永遠なる、恒常不変の真理である。 命在らん限り、常に衆生と共に。 平成二十七年九月十九日(土) ・世法が正しく安定すれば、仏法に適合する。 仏法と世法とは、親と子の関係である。 親は子の成長を期待しつつ、健全である事を願う。 立派な親であれば、子は其の背を見て育つ。 立派な親とは、自らの正しく、厳しい信念を貫き通す姿勢である。 世法は二元論であるから、何処までも仏法に基づいた世法であるべ きだし、又、そうでなければならない。 二元論が一つになるには、悟りが要る。 一つからは、正しい二元論が生ずる。 ・修証一如は一つものである。故に、インダス文明滅亡(~BC1800年 頃)後、バラモン教の聖典である『リグ・ヴェーダ』(BC1800年~BC 1200年以来)に起源を持ち、BC1200年頃迄に、其の枠組みが作 られた、バラモン教のカースト制度が生れたのも必然的である。 世の惨状を知れども、仏道が採る道は、二元論に渉らず、修証一如 なる悟り、涅槃への道である。此処に、仏道者の他とは異なる特異 性が在る。そうして、此の特異性から出れば、仏道は真なる仏道で はなくなる。此の特異性(=正さと、厳しさ)が顕著な程、其れは正法 たり得る。 釈尊は、行の厳格さと慈悲心を以て、法を伝える事を、生涯、行じら れました。 平成二十七年九月二十日(日) ・男も女も、人間、欲捨てたら、残るは、金と命だ。 金と命も捨てたら、其の頃には、自他一如であるから、残るは、 菩提心と涅槃と世界人類の真なる幸福・平和だ。 人間の最終産物。 否、是は、人間一人残らず、本来具わっておるもので、 本具仏性(生命の本質)。 命の上澄み液だ。 大多数は、欲は捨てられん。 だから、言う事、為す事、全部本当が無い。 全部、嘘だ。 ・何処でも、誰でも、何時でも、 二十一時間厳格打鐘(打鐘悟道)は、 鉄牛寺のこころである。 平成二十七年九月二十三日(水) ・男にも男女間の事が在り、女にも男女間の事が在る。 男は男として確りし、女は女として確りするのでなければならない。 ・世の中、「喧嘩しか無いのであれば、喧嘩しか無い。」では無い。 正しさしか無いだ。 此の正しさの根拠が、悟りを生んだ釈尊の中道の教えである。 釈尊が最後の拠り所の、断食苦行を捨てて、若し中道に至らなかっ たならば、釈尊は永遠に悟れなかったでありましょう。 ・坐禅の時、心を左の掌の上に安くは乃ち仏祖正伝の法なり。 (是が、上半身の力みを抜く。) (宝慶記) ・若しも、原爆投下が、戦争犯罪に対する処罰(制裁)でなく、暴力であ ったとすれば、原爆投下は原爆投下によって、制裁を受けねばならな いであろう。 過去の深い反省によって、平和な未来が在り得る。 ・9、11以来、アラブの春、I・Sの台頭、難民問題と、これ等の中東問 題勃発の根本原因は何であるのか。 此れに対して、世界はどうすればいいのか。 ・9、11を、中東不毛地帯からの、自由最先進国家への警鐘と、つまり 、陽の当たる部分と、陽に見捨てられた部分との、此の両者が併存 している事に対する、人類の無関心さと、最も持てる国の、果てし無 い五欲への猛進への警鐘と受け取り、一地球家族として、世界各国 、特に先進(途上)諸国が、其の大黒柱としての立場を採り得るなら ば、地上は、より、心の通う世界と成り得るでありましょう。 ・人類の精神的・物質的基本的条件を保証出来ない場合、又、其れ以 下の環境に在る場合には、生きる為に、動物的に成らざるを得なくな る場合も在る。その結果としての、中東の悪の台頭で在り得る。 が、若し、そうであるならば、世界が彼等の基本的条件を満たしてあ げねばならない。 生起した悪を根絶するよりも、より積極的に、基本的条件を満たして あげねばならないだろう。 ・小生程、真実なる自己を悟った人間はいない。 修証一如、其の証は、厳密千日行である。 千日行は、体力でも、能力でもない。 悟り(菩提心)である。悟って居るから出来る。 悟りが届かないと、千日行は出来ない。 厳密千日行は、真実なる命を悟っている証である。 真実なる命を悟れば、 自ずから、厳密千日行を行ずるに至るであろう。 此の地球上、人間が行けない所は無いが、 人の心というものは、ほとんど、人は、自己の真実なる命(仏性)を 知らない。悟れば悟ったところまで知る。 心が、其処まで開けないのである。 つまり、自己でありながら、真実なる自己を知らないままである。 生まれるという事は、 命を受け持たされる事である。 しかし、 命は受け持たされたが、 唯、受け持たされただけで、 三毒(貪・瞋・痴)に犯されて、五欲に動かされているだけで、 心は閉ざされてしまっている。 人間以下の生き物にしか成れない。 大抵は、届かないか、凍り付いたまま、苦と不安の中で、 死んでしまう。 自己の生命の本質(仏性)を知らない。 自己の心程、前人未到の宝蔵は無い。 生 涯 厳 密 千 日 行(摂 心 会) 天眼第一のアヌルダなら ざれば、正法苦行なし。 厳密千日行は、 吾師伴鉄牛御老師が掲げられ、 単なる思い付きや、試みでなく、 釈尊正法の中核であり、 解脱・涅槃へ至る門である。 了 続 々 編 平成二十七年十月十六日(金) ・了不了自知 了即無了也 了上に了在り、常に了でありながら、何処までも無了であります。 ・小生、坐禅を知った当初、『禅関策進』、『摩訶止観 七章(魔(事の)境 )』は参考になりました。 ・若しも、人間に死が無ければ、人間という者は、永遠にダメ人間だ。 終わりが在ればこそ、人間は向上するし、いいものが生れる。 死が無ければ、永遠に、いいものは生れ得ない。 我々が、いいものを遺し得るのは、自己が、死という極めて有限な存 在であるからだ。 寧ろ、人間は死を有難く、受け入れなければならない。 ・物事の本質とは、目に映る、大きさや物ではない。 其のこころである。 こころ(内容)、造悪ならば、其のものも造悪であり、修善ならば、其の ものも修善である。 目に映るものと、こころとは別物である。 目に映るもの、如何に立派であっても、其のこころ必ずしも立派なら ず。 要は、諸悪莫作 修善奉行である。 ・釈尊、般涅槃に臨まれて、アヌルダ(盲比丘)を始として、僧侶達に、 最後の、大乗の御教誨を遺された。 禅定(修禅定)によりて、行智慧(修智慧)を生み、其れに、真実 、徹底すべき事(不戯論)を説かれた。最後に、 「我、今滅を得る事、悪病を除くが如し。此れは是、應に捨つべき罪 悪の者なり。假に名づけて身と為す。老病生死の大海に没在せり。 何ぞ智者は之(=身)を除滅する事を得る事、怨賊を殺すが如く にして、而も歓喜せざる事あらんや。 汝等比丘(=お前等僧侶達よ)、常に當に、一心に出道を勤求す べし。」 此れこそ、正に、釈尊、最後の極唱であり、正法苦行(=千日行)の 実践以外の何物でもない。 死在りて、人生きる。死無くば、人生きず。 生命の本質(仏性)である、解脱・涅槃は、生死を離れた、永遠なる 恒常不変の真理である。 釈尊の真意は、 病に苦しむ、我が身から解放される歓びにあるのではなくて、 生きた身が、解脱・涅槃に至る処に在るのである。 仏道の真意は、 死に方に在るのではなく、 飽く迄も、生きた人間が知る、解脱・涅槃であり、 其処に、生きる、そして、自ずから生かす、歓び、希望、そして、生死 を離れた力、が在る。 更に続けて、 「一切世間の動不動の法は皆是れ、敗壊不安の相なり。 汝等(=諸々の比丘達よ)、且く止みね、復た語いふこと得る事勿れ 。 …… …… 是れ我が最後の教誨する処なり。」 「……諸々の比丘達よ、少しの間、物言う事を止めて静かにしなさい 。 …… ……。」 静まり返った夜半、今にも絶え入ろうとして居る釈尊の耳(心)にも、 世の身の騒めきが、絶えず忍び入って居られたのでありましょう。 是より後は、何の御言葉も無く、入般涅槃された。 平成二十七年十月十七日(土) ・日々の鉄則は、 如何しても、遺すべき事が生じた時だけ、 作務、或いは、托鉢を費やして遺す。 そうで無い限り、厳格に、即、日々の厳密千日行に戻る。 常に、迷いは全く無い。 平成二十七年十月十八日(日) 生 涯 日 々 是 摂 心 会 平成二十七年十月二十日(火) ・伴鉄牛御老師が鉄牛寺建立以前に建立された、岩手県の観音寺に は、仏舎利塔があり、釈尊舎利が奉納されている。 現在、住職が寺を兼務され、常住して居ず、伴鉄牛御老師の信者さ んが、御一人で寺を守って居られます。 仏舎利供養におきましては、新道元宗で供養するのが、最も相応し いのではないかと思われます。 平成二十七年十月二十一日(水) ・普段、如何しても時間が足らない時には、坐睡から 一~二時間、或 いは、托鉢 三~四時間を使います。 ・嘗って、御老師が、其れまでの愚禿鐵牛としての御自分の御生活を、 一日中、子供達と、無心に、かくれんぼをして遊ぶ、良寛和尚に準え られて、「まだかよぉー、 まだかよぉー、と、子供達と、一日中、そう やって遊んで居った。子供達が、美味しそうに、おにぎりを食べてい るのを、涎を垂らしながら見て居った。」と、話された事がありました。 小生も、そろそろ、そんな気がして参りました。 丁度、幼子が未だ目にした事の無い世界を知らない様に……… 。 ・正法復興する者の心は、全?必ず100% 5分前そのものである。 是は、頑張る(=身)と言うよりも、感応道交したこころであります。 事存すれば函蓋合し、理応ずれば箭鋒さそう。 (差別相の現象に無差別相の真理が共存すれば、あたかも函(はこ) と蓋(ふた)とが隙間無くぴったりと合う様なものである。又、真理が 現象に応現すれば、二人の弓の名手が互いに狙い合って射た両の 矢じりが空中で支え合ったまま落下した様に見事そのものである。 ・釈尊によれば、 要するに、 修禅定→行智慧→不戯論 禅定により正法苦行(=千日行 (三時間坐睡二十四時間仏作仏行) ) を生み、何処までも厳密に、そして生涯、である。 小生、坐禅と言うものは、正法苦行に至る(或いは、於ける)禅定を 坐禅と称しているのかと思う。 坐禅至上主義は、坐禅(禅定)止まりでなく、正法苦行を掲げるべき である。つまり千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)である。 日々是厳密千日行 厳密である為には、小生流に謂えば、100%5分前、つまり、一日、 十四?の坐禅中、時計の長針が11を通る、十四回のチェックさえ出 来れば宜しいのである。 坐禅ではない、此のチェックだ。 是さえ出来れば、厳密もクリアーする。 一日中、坐禅だけしていてもボケル。是で坐禅ボケは解消する。 後は、生涯、そうして行じ続ける。 是が、解脱・涅槃となる。 そうして、後継者を育てれば「自今已後、我が諸の弟子展轉して之を 行ぜば、即ち是れ如来の法身常に在まして而も滅せざるなり。」であ る。 ・「剣の達人は剣を捨てる。弓の達人は弓を捨てる。」 千日行(後継者打出し)摂心会の御案内 (平成27年12月) 了 (「新道元宗 改訂版」に製本致しました。) 【 神と悟りについて 】 ・宗教というカテゴリーを越えて、真実なる教えとして遺す。 判り易く、神と悟りについて、 人類に悟りを生んだのは、釈尊以来である。其れ迄は、今から4500 年程前のインダス文明(モヘンジェダロ等)の瞑想から、バラモン教 (BC1300~)の自然法(神意)と人間法(財産と性愛)を両立させる ヨーガの行、更に、梵我一如のウパニシャッド哲学(BC800~BC20 0)の、解脱を希求してのヨーガの行、更に、其れ等の苦行の終極と して、釈尊によりて初めて中道に至り、此の真なる無我に於いて、有 史以来の悟りに至り得たのである。 人類宇宙の開闢である。 悟りは瞬間であり、後は、其の記憶が残るだけである。 釈尊の生んだ正法苦行により、坐禅と悟りは智慧を生み、其れ等が 渾然一体となって、更に真実なる智慧を生み出す。 此の悟りは、生命の真実であり、自己そのものであり、他己そのもの であり、自他一如、宇宙そのものである。 人類宇宙の本源である。 神というものは、死者の復活という、在り得ない事実を拠り所とする以 上、真実とは成り得ないし、神への信は成立し得ない。 人事の範囲を超えるものではない。総じて、人事には先が無いので ある。 又、神への信仰は、「への」であって、自己の生命そのものではない。 何処までも、二元論であり、前述の一(いつ)とは成り得ない。 神が残る。是は、自己(我)の一点が残ると言う事であり、此の最後 の一点が最後まで消えない。此の一点から、人類のあらゆる諸難問 が湧出してくるのである。 人類の最も貴重なる宗教心に於いてさえ、否、寧ろ、其れが為に、永 遠に、雑草が絶え間なく、繁茂するが如くである。 人類の有する三(つの害)毒、つまり、五欲への貪り「貪」、そして、其 れから生ずる「瞋」、そして愚かなる「痴」を招来する。そして絶え間無 く、是等に起因する、対立、闘争、殺戮が世を覆い、地獄を生み、世 界人類をして混乱に陥れるのである。 地球は元は火の玉であった。 其の表層が冷えて、固まってゆき、地殻を生み、人類を産む。 地殻の軟らかい所は、周りからの力を受けて隆起する。 固い部分は、自ずからの重みで沈んでゆく。 最も軟らかく、周りからの力が大きい程、高く聳え立つ。 一方、個我、又、その延長線上にある、団体我が強い程、其の重み によって下落する。 是を真実人体という。 是は、人間の頭脳では、計り知る事は出来ない。 体験によってのみ、初めて、知り得るものである。 其れが故に釈尊は、 欲界中に在って、坐禅弁道、正法苦行せよと諭 された。 つまり、生命というものは宇宙大一体のものである、と言う事である。 是が生命の本質、仏性といわれるものである。 故に、仏道は正法苦行しなければ解らない。 解れば出来る。解らない間は出来ない。 其れでは永遠に為し得ないから、此の真実なる正しい教えを信ずる 所から、つまり、正信から正道が生れるのである。 是は、超宗教的、超科学的なる、生命の真実である。 全人類に其の本質が具わっている。 故に、釈尊は、「自燈明、法燈明」(自己の心を拠り所とせよ。教えを 拠り所とせよ)と諭され、御自身も、生涯、毎年、夏安居され、石窟夏 安居には、人が来たら、「一切法不生、一切法不滅」と代説せしめら れた。 即ち、生命の本質というものは、何時生じ、何時滅するものでもない。 常に、不生不滅なる、仏性の働き其のものである。と言う事である。 尽十方界、一切衆生、正法苦行、諸悪莫作、修善奉行、生死去来、 真実人体也。 一方、神への信仰も、自己(我欲)を捨てて、全人類の幸福・平和の 為に生きるという、優れた、人類の教えである。 理想(神)的人間像を求めて生きるのではなくて、在り得ない奇跡に 基づいて、自己以外に、自己に対する絶対者(力)を拠り所とするが 故に、永遠に、真なる無我には成れない。此の心が、人間の限界で、 人事の範囲を出ることは不可能である。此の心は、死に至る病であ る。 釈尊は、此の人事の限界を見究められて、中道に至り、無我(心 )と成って、悟りが訪れたのである。 生命の本質(仏性)は、自ずからして慈悲心を生ぜしめ、柔軟であり、 安楽であり、微妙不可思議である。 世界人類が、宗教、民族間の対立を超えて、共通に、学び知らねば ならない真理である。 釈尊の悟りに基づいた教えによって、初めて体解されるのである。 真実人体を知れば、一切の境界が消える。 上求菩提と下化衆生の葛藤も気にならなくなる。 気になるのは、未だ、至り得ていないからであり、文殊菩薩の如く、 自由無碍なる働きが出来るのである。 真実人体を知れば、自己の命は、自己独り、孤立したものではなく、 一(いつ)の、生命というものを活かし合う存在である事が解るので ある。 其処には、神も無ければ、仏として、掲げるものも無い。 在るのは、不生不滅なる命の働きが在るばかりである。 ・道元禅師の正法眼蔵「発菩提心」に、 感応道交により、発菩提心する(自未得度先度他の心を起す)也。 之、多くは南州の人身に発心すべき也。八難処等にも、少しは在り、 多からず。 菩提心を起して後、 一、無限時間、仏道を参究し、修証す。 二、 〃 、修行し、仏になる。 三、 〃 、自未得度先度他の菩薩道を行ず。 (是等は、厳格に区別し得るものではない。) 釈尊は、大迦葉が、正しく、厳格なる十二頭陀行を体得しているが 故に、彼に嗣法された。 智慧第一の舎利子でも、頭陀第一の大迦葉には及ばなかった。 ・釈尊、般涅槃に臨まれて、 八大人覚を説かれた後、アヌルダ衆に向かって、「……已に苦海を 渡る者は、但、是の念を作すべし。『世尊の滅度一へに何ぞ疾やか なる哉。』と。」と説いた。 ・高王(延命)十句観音経の、最後の第九句目と第十句目。 ………念々従心起 念々不離心 常に、念々(刹那々々)、心(無我なる命)からの湧出あるのみであり 、故に、非自己、非他己、非生、非死である。 吾が我が生きるに非ず、只、生命の本質(仏性)の働きが在るばかり である。 本来、命というものは、我の出る隙は無い。 是が、生命(自然、宇宙)の本質である。 心は、自ずから、総ての生命を活かし合い、自利利人の働きを具足 し、孤立した命ではない。 仏性とは、安楽であり、柔軟であり、微妙不可思議である。 故に、他に対しても同様に、自ずから、他を慈しむ心を生ずる。 我を出さず、常に一心に、展転して之を行ずれば、如来の法身常在 する也。 本来、此の仏性あるのみであるが、 之が我によって、仏性を押し込めてしまい、遂には、我の世界のみと 成り、仏性を見失って、地獄を生んでいるのが現実である。 発心、得道皆、此の刹那々々の生命の本質(仏性)からの一念によ る。 もし、刹那消滅せずば、前刹那の悪去るべからず。前刹那の悪未だ 去らざれば、後刹那の善、今現生すべからず。 一刹那心、能起一語、一刹那語、能説一字。 一刹那生滅、是が無常の実体である。 暫くも停る事無く、瞬時に生じては、瞬時に滅しゆく、生命の消滅の 疾さは、譬えば、四人の弓の射手が互いに背を向け合って、同時に 射た矢が落下する前に、総ての矢を採ってしまう、其の疾さよりも疾 い。 自己というものは、瞬時、瞬時に生まれ変わり、死に変わりしている 存在であるが故に、早く自未得度先度他の心を起すべし。然らば、 久遠の寿量(永遠の命)たちまちに現在前する也。 仏法を知らず、信ぜざる者は、刹那消滅の道理を信ぜざる也。 もし、如来の正法眼蔵涅槃妙心を明きらむるが如きは、必ず此の刹 那消滅の道理を信ずる也。 不眠行などというものは、敢えて為すべきものではないが、 坐睡時以外目を閉じない、不眠不臥行をしておると、瞬きをするかし ないかの瞬時に、まるで水滴が滴る様に、スッと意識が落ち(消え)て 、安まるのが解る。 命が改まると言うか、新生するというか、瞬時の休憩が為され、それ で、スーーッと安まる。 自然が瞬時の滞りも無く、移り変わっておるが如くである。 因みに、江戸時代中期の臨済宗、五百年に一人の傑物、白隠慧鶴 禅師は、此の経により、御自分の禅病を治し、延命十句観音経とし、 其の霊験を人に説かれた。 【こころの指導的立場から、政策的指導的立場への 提言(教え) 〔悟りと人類の智慧と将来について〕】 極、当たり前の、語る程も無い事なのであるが、否、当たり前の事と 言うのは語るに愚かしい事であるかの様に人は、当たり前の事を語 らない。然るに、ニュートンは、“リンゴが木から落ちる”という当たり 前の事から、『万有引力の法則』を生んだのである。 寧ろ、当たり前の事にこそ真理が潜んでいる。 此の当たり前の事を、愚にも、此れをこそ、真剣に採り上げ、正直に 極め尽くしてゆく処にこそ、真に生きる為の極意が潜んでいる。 要は、此の当たり前の事を、どれだけ真剣に極め尽し得るかに掛か っている。 今、世界が直面する最大難問が、人類極悪の最たる、ISと欧米先進 諸国の衝突。 此のISも、其処に、適当な生きる手立てが在れば、是程迄には成ら なかったであろうが、他に生きる手立てが無い。 在るのは、其の、極限的条件と環境(宗教)在るのみである。 彼等にとって、生きるとは、周囲の先達に倣う他無いであろう。 其の悪循環が、今のISを生んでいるのであろう。 周辺諸国も、其の絶対条件に対して、如何する事も出来ない。 出来る事は、其れ等から離れて生きる事だ。 残された人間は、愈々孤立して、其処で生き続けざるを得ない。 生きる手段、智慧が無くて、生きる為に、聖戦が生れ、在る悪条件の 下にISに転化する。 其の命の流れは、総ての文明諸国に於いても、其の中で、つまり、人 間能力をうまく活かし得た人間と、其れ等に見捨てられた人間との間 にも共鳴する処が在り、更に、世界に真実なる教えが無いが故に、 智慧(善)に依り、悪を正していくというのでなく、(暴)力に依り、(暴) 力を制圧しようとする、果てしの無い悪循環の中で、ISという悪の象 徴に吸収されてゆく。 根本原因は不毛地帯であると言う事であろう。 故に、地球人類が、世界人類の精神・物質的基本的条件の確保を、 何よりも最優先事として、施政を為すべきである。 更に、此れ等の不毛地帯で、其の庶民が生き得る手立てを、人類の 有りっ丈の智慧に依って、生み出さねばならない。 此れが、禅門で謂う処の、退歩の脚というものである。 進歩よりも退歩の方が一層困難であり、更に、其処から、より積極的 に種々なる智慧を生み出す事が最も困難である。 其れは、悟り、無我(心)なる処から初めて、自然に生ずる、施・慈・慧 のこころに基づくものであるからだ。 進歩が最も容易であるが、其れでは、やがては、其の容易さ為るが 故の報いを受ける事と為るであろう。 世界人類の平和の為に、もっともっと真剣に、より積極的に、其の問 題と取り組む事に拠る以外、真実なる、根本的解決とは為り得ない のである。 退く事と、政権掌握とは相反する事であるかも知れない。 今は、国連を主体とした統率力が、其れを可能ならしめる唯一のもの であろう。 心を一つにした地球規模の団結力に依って初めて、脚下照顧、 自ら退いて、他を活かすという働きが生れ得る。 小生は敢えて、此の子供じみた様な、当たり前の事を、わざわざ、糞 真面目に、語らねばならないのも、真実、其れ以外には無いと思うか らであり、悟りから生ずる、人間の智慧の働きが人類の将来にとって 、如何に重大であるか、其の重要さは、どの様に語っても、語り尽くせ ないものである。 誰一人、其処に言及する者がいない。 自らに於いて、為し得ない事を、世界をして、其の様に導き得ないの は、当然である。 総ては、種々なる分析、説明、言い分が在るだけで、其の難問解決 に対する現実的打出しが無い。 究明して、根本的、具体的解決策を得る迄には至り得ないのである。 此の釈尊悟りからの人類の教えに基づき、是を実践してゆく事が、世 界人類の幸福・平和への実際的、且つ、最短距離である。 ・人間には一人残らず、生来、三毒(貪・瞋・痴)と仏心とが具わってい る。三毒が、此の仏心を曇らせてしまって居るが故に、人間が自然に 生きると言う事は此の三毒に依るものである。此の人類の根本的罪 悪をよくよく自覚し、滅尽して仏性に目覚め、そうして無明を払拭して 、仏心からの生活を始めなければならない。 此の仏道の真実なる教えに帰依しなければならない。 世界の指導者たる者は、取り分け、此の事を弁えた人材である事が 切望される。 さもなければ、世界というものは何処までも三毒に基づいた、どんぐ りの背比べの域を出ないのである。人に物が言えない。言える事は、 唯、説明と解説が無限に流れるばかりで、真の改善の糸口、 契機が 出ない。何となれば、皆、其の道の人であり、仏道以外の六道の人た るを出ないからである。だから、皆の言っている事が、六道に於いて、 皆、夫々の言い分が在るばかりで、真なる解決への糸口、契 機が見 出せない。此れでは、事体が改善する余地は無い。 永遠に、地獄道の繰り返しだ。 世の中、釈尊の道に依り、仏性に目覚めた、真理を悟った者が、そう した世界を導かない限り、そうして、其れに従って、改善され始めない 限り、永遠に光明(歓喜)への道が無い。 人間が当たり前に、極自然に生きている事が、如何に甚大な地獄を 生んでいるかは、驚嘆するばかである。 其れが、此れ迄、人類が経てきた過去である。 其れ故に、釈尊の悟りからの教えが、地上の唯一無二の、人類を導 く教えであるという事を、世界人類に、先ず、自覚して頂かなければ ならない。其処から始めて、初めて真実なる真道を人類は歩み得る。 釈尊の悟りは、神も無ければ、仏も無い。罪も無い。 在るのは仏性そのものである。 中国の自国の繁栄の為に、世界を脅かす許されざる脅威を、半ば認 めるが如きやり方は、中国が、少なくとも世界人類の幸福・平和の安 定を標榜する国連、常任理事国為る資格に値しない国家であるとい う事を、唯、露呈する以外の何物でもない。 常任理事国として、日本が中国に取って代わるべきである。 ・仏道には、 正しさと厳格さに基づく、上求菩提なる厳密行的側面と、慈悲心、施 のこころに基づく、下化衆生なる、釈尊の教えを遺し、世界人類を幸 福・平和に導く側面とが在る。 厳密行を基本として、自由自在に、教えを遺すべきである。 一方壮んなれば、他方は、愈々壮んで、相乗的に、何処までも無窮 に、より強大に、振幅し続けて往く。 宇宙が何処までも限りが無いのと同様に、何処までも際限がない。 何れも、偏に、菩提心に拠るものである。 生命の本質(仏性)が自には上求菩提となり、他には下化衆生となる 。自他一如で、何れも同じものである。捉え方の違いである。 ・神の宗教に比べて、釈尊悟りの宗教が、其の信者数に於いては、一 割にも満たないのであるが、仏教が世界三大宗教の一つであるのは 、偏に、正法苦行在ったればこそである。 嘗て、釈尊・大迦葉がそうであった様に、此の厳密行を支えているの は、是が、自分に最も相応しく、自然であり、此れ以外には、絶対に、 在り得ないからである。 ・厳密行と托鉢とは、車の両輪の如く、静と動、自と他、何れも、正法 苦行には欠かせないものであり、心身の維持にも丁度都合が良い。 今の日本は、此れに最も相応しい、最適国である。 貪、潮騒の騒めきの如し。慚恥、鐵鉤の如く、 行持、生涯、尚更に、潮騒の騒めきの如し。 厳密行成るには、自ら事事に戒を持する事。 吾を活かせる吾は120、否200でなければならな い。 ・自己から悟り、自他一如。 やがて、一塵の、他事なるもの無し。 ・仏法は世法を含む。 地獄・極楽、善・悪、生・死 ……等々、一切を含み、 一切に優れたるものであるが故に、 仏道が施政を根本的に導かねばならないのである。 而も、施政も、仏法から一歩も出る事は出来ない。 北朝鮮は、世界を破滅に陥れる事を為すべきでは無い。 若し、其れを続けるとしたら、其れは、世界を巻き添えにする、愚かな る自爆テロ以外の何物でもない。 ・中東の自爆テロに対しては最強の対応で臨むと言明した中国が、極 東自爆テロに対し、抗力ならぬ、応力で臨まざるを得なかったとは、 国連常任理事国としての資格、喪失である。 ・千日行実践への決意は、釈尊の出家に相当するものであると思う。 バラモンの伝統の中での、一城の太子としての釈尊の原体験無け れば、求道への発心は起こらなかったのである。 (初)発(菩提)心 (=自未得度先度他の心)と解脱・涅槃とは、二つ ながら、別無し。 大迦葉、偈をもて釈尊を誉め奉るに、 『……、初めの発心は、起す事が困難である。自未得度先度他の心 であるからだ。是の如くの発心、最無上と名ける事を得たり。』と、 前者と後者を比べると、螢火と劫火の如くなるべしといへども、自未 得度先度他のこころを起せば、二無別なり。 人間は、欲界に在って、三毒(貪・瞋・痴)、四苦(生老病死)を目の当 たりにして、菩提心を生じ、発心し、悟って、四苦を滅する事が出来た 。しかるに、人は依然として、苦海に浮き沈みしているのである。 釈尊は、菩提心生ずるが故に、欲界中に在って、坐禅?道(=正法 苦行)すべきを説かれた。 小生、千日行を始める契機と為ったのは、 寺を出て、放浪中、一体何故に今の自分は一人、こんな事をやって 居るのだろうかと、ホッと思った時に、初めて千日行の恐さが浮き上 がって来た。 と同時に、千日行を意識した。 其れ(=其の恐さ)から逃げている自分の姿が解ったのである。 不思議にも、其れ迄は全く、微塵も千日行を意識する事すら無かった のである。 其処に気付けば、後は火縄銃の火種の様なもので、時間の問題であ る。 無意識の内に、其れへ向けての、無意識の準備が為されて往くので ある。 其の過程に於いて、小生は、塾の個人指導の為に、星の一生につい て学習していた時、『巨大な星というものは、百年か二百年に一度、 超新星爆発をする。此の星は、他の星の様に最期に、其の中心核が 白い塊りの残骸として残らずに、完全に自ら粉砕して、周囲に飛散し 、それ等が核となって、多くの星が生れる。』という某学者の著書を読 んだ時に、 よーしっ、自分も、此の超新星の様な、つまり、千日行をして、多くの 人を生む様な、そういう生き方をしたいものだ。と此の時、千日行開 始の決意をした。 ・不戯論(=凡夫の慮知、分別智を離脱し、戯論害を除滅して、仏智見 を開く事。更には、真理を体験する(悟る)事。)とは、煎じ詰めれば、 正法苦行の事で、是が釈尊の本音である。 釈尊滅後2500年にして、其の本音を復興している訳であります。 ・今から四十年余り前、アメリカが最初に批准して設置された、世界 遺産委員会の遺産登録基準六項目中、例外的なケースとして、 奴隷貿易(米、英等)、原爆ドーム(広島)、強制収容所(ヒトラー)等 が掲げられたが、これ等こそ、人類が犯した悲劇を二度と起さない 為の戒めと成る、別名、負の(世界)遺産として、世界人類が最も 心に留めて置かなければならないものであります。 人類は、生命の本質である仏性を悟って、負の(世界)遺産である、 悪業を抹消するだけの善業を為さねばならないのである。 是迄、人類の貪の高じた、最たる悪業である、此れ等、負の世界遺 産を打ち消すだけの善業を為すには、少なくとも、是迄の伝統を出る だけのものが無ければ為し得ないのであります。 伝統の中で、納まっているだけでは、一切衆生の心には届かない。 僧は俗より出でて、俗よりも俗し、とならないまでも、俗より浄く、欲界 中での行に基づいて、犀の角の如く歩むのでなければ、真に徹底す る事は出来ないでしょう。 〔世界遺産関係の年譜〕 1945年 国際連合成立(8月第 2次大戦終結後、10月発足) 1946年 国連専門機関ユネスコ(国連総合教育科学文化機関) 設 1972年 ユネスコ総会で世界遺産条約が採択された。世界遺産と は、世界遺産条約に基づいた、人類が共有すべき「顕著 な普遍的価値」を持つ物件をいう。 1973年 アメリカが最初に当条約を批准。 1975年 世界遺産委員会会議発効。 1978年 (会議第2回目) 「ゴレ島」 (奴隷貿易);ヒトラーのユダ ヤ人種差別に劣らない西アフリカ黒人奴隷差別により、英 、産業革命の財源確保。 米、黒人奴隷差別の元となる。 1979年 (会議第3回目) 「アメリカ独立記念館」 「アウシュビッツ強制収容所」;以降、類 似案件(戦争遺跡?)は二度と登録しない事になった。 1983年 (会議第7回目) 「リラ修道院」(ブルガリア);修道院(注 下)が12C~14Cのブルガリア国民の意識の中で文化的・ 精神的中心の頂点を極めた。 1996年 (会議第20回目)「原爆ドーム」(広島) アメリカは戦争遺跡には否定的。 2010年 (会議第34回目)「ビキニ環礁」 1945年、米、ニューメキシコでの人類初の核実験に因 り、核の時代の幕開けと成る。続いて、広島、長崎に原 暴投下。大戦終結。翌年、当地で核実験。 1954年、当地での水爆実験は、広島原暴の1000個分 の爆発力の水素爆弾が炸裂し、多大な被害を与えた。 当日が原水禁運動の記念日と成った。 以降、冷戦期に、米・ソ中心に、2000回の核実験が行 われている。 〔是等何れも、「世界遺産年報」に、負の(世界)遺産としている。〕 (注)修道院―原始キリスト教(処女懐胎、降誕、30年イエス十字架刑 後の復活から150 年位迄。)は、新約聖書(「福音書」、「使徒行法」等 )成立後迄をいい、エーゲ海・地中海周辺(エルサレムから、トルコ、ギ リシャ 、イタリア等西欧、エジプト、エチオピア等々)へ伝わり、ローマ 帝国のエルサレムに最初の教会が成立し、42年にエジプトのアレク サンドリア教会、そして、60年頃には首都ローマにまで達した。 ほとんどのキリスト教を自称する宗教団体が此の原始キリスト教と同 じ信仰である事を強調している。否定する立場はあまり見られない。 要するに原始キリスト教と同じ信仰である事を主張する事で、自らが 正統的である事を宣言している訳である。 キリスト教に修道の精神が生れたのは、仏道(釈尊)が西方諸国へも 伝わり、キリスト教信仰に影響を及ぼしたからである。 つまり、仏道苦行は、キリスト教に修道という行を生んだ。 ローマ帝国(BC27~東西分裂(395年)~1453年)ローマでキリスト教 公認(313年)。同年コンスタンティノープル(現、トルコのイスタンブー ル)へ首都が移り、380年キリスト教国教となる。395年帝国分裂し、 東 ローマ帝国(首都コンスタンティノープル)成立。 古代には、砂漠、洞窟、断崖絶壁の頂で、或いは柱の頂で一人で修 行し、隠者のような修道生活を送るキリスト教徒達(4Cエジプトの聖 大アントニウスや、5Cシリアの聖シメオン(登塔者)等)がいた。 是が修道士の原型となった。 この様な聖者の多くが、キリスト教の聖人として記憶されている。 彼等は独居し、他人と最低限の接触しか持たなかったが、完全に一 人で生きていく事には多くの困難が伴った為、この様な人々が集団 で求道生活を共にする動きが始まり、4C頃のローマ帝国による迫害 の終焉に伴い、より徹底したキリスト教徒の生活を求める修道士達 の生活スタイルが東ローマ全域に広がり、集団で暮らす制度が生れ た。是が修道制度の起源である。 聖アントニウス(3C、エジプト)は、砂漠(洞窟)等で40年間の苦行し、 其の周辺に人が集まり、修道院が建ち並び、砂漠は修道僧で一杯に なった。当時のエジプトで全人口の半分が修道僧であったともいう。 「砂漠での苦行者」「修道生活の父」「修道院の創始者」。 聖マカリオス(4C、アントニウスの弟子)は、アントニウスの死後、聖ア ントニウス修道院(師の修道の洞窟が在る)を建てた。「隠遁修道」。 砂漠のみならず、都市にも、修道士がイエス・キリストの精神に倣っ て、祈りと労働の内に共同生活(修道生活)をする為に修道院が建 設されていき、東ヨーロッパにも広がった。 大部分のキリスト教会には、修道会の制度が在る。 プロテスタントには、極めて僅かな例外を除いて修道院はない。 西方に於いても、アイルランドに伝わった。 アイルランドの修道者達が、イギリスやヨーロッパ本土に於いて、人 里離れた土地を用いて、修道院を建て、神と共に在る生活を営む修 道院のスタイルを広めた。 聖カタリナ修道院は6Cに建てられたエジプト正教会最古の修道院で あり、世界遺産である。 聖ベネディクトゥス修道院は6C、ベネディクトゥスがイタリアで3年間 の隠遁生活の後に建設された。此の年をベネディクト会創立の年と 見做す。ベネディクト会の戒律は、「服従」「清貧」「童貞(純潔)」であり 、会士が黒い修道服を着ていた事から、「黒い修道士」とも呼ばれた。 聖ベネディクトゥスは、「西方教会修道制度の創始者」「西欧修道士の 父」「総て労働は祈りに繋がる」。 ベネディクトゥス修道院は 古代から中世を通じて、ヨーロッパの学芸 の中心 を担った。 中世以来の修道院では、自給自足の生活を行い、農業、印刷、医療 (薬品)、大工仕事、ワイン(ミサ用)造りにまで及んだ。 10C~11Cに、 クリュニュー修道院 (仏)が、「聖ベネディクト会則」に則 り、教会・修道院の堕落に対して、本来の信仰主体の回復を目指す 修道院改革運動を興した。是に因りて、ローマ教皇及び教会は権威 を回復し、全盛期を向かえ、其の管轄下に、修道院1200、修道士2万 を数えた。更に、シトー派修道会は、人里離れた地で苦行と瞑想の共 同生活を送り信仰の純化を求め、修道士達が王権の保護の下に、鉄 製農具の開発に拠りて、自力で開墾を進め、大開墾時代を齎した。 やがて彼等は、経済力の有る地主と成り、経営、金融業等、アグリビ ジネスへと変貌していき凋落した。聖ベネディクト会も、羊毛、家畜 などの生産物を売って、莫大な富を有する様になり堕落した。 11C後半以降、貨幣経済の浸透に因り、クリュニュー修道院をはじめ とするベネディクト会修道院は財政悪化した。 現在、カトリック教会の修道者は、「清貧」「貞潔」「服従」の三つの誓い を掲げ、正教会の修道士はハリマトス(キリストのギリシャ語読み)へ の忠誠を誓い、独身にして流離い、極貧に生き、断食をし、祈りに明 け暮れたハリマトスの生活に倣う事を目的とし、俗世の外に在りなが ら、庵の静寂の中で、全世界に為に祈り、積極的性や、激しい社会活 動に拠って世界を改良するのではなく、世界が内面的に変容する様 に自分自身を変容させようと務める。 13Cの修道院運動は、フランチェスコ会(伊)等であった。彼等は徹底 した清貧を説き、労働と托鉢を重視する托鉢修道会であった。 次第に修道士の活動は、修道院を離れて、街頭での布教が重視され る様になり、修道院そのものは次第に衰退した。 歴史を学ぶのは、過去からの、頭脳が経て来た長い歴史の跡を辿る 事で、丁度、列車に乗って、窓から流れ去る外の景色を眺めて居る 様なものだ。 乗って居る本人には、何の関係も無い。 どんなに眺めても限が無い。 結局、色々な景色を眺めた本人に、最後に、戻るだけだ。 今の世界というのは、長い歴史の中で、頭脳が取り得た可能性の中 に幽閉されている状態で、総ては、其れから出る事は出来ない。 悟らない限り、今というのは、可能なる頭脳の採り得る、一在り様であ る。 何処まで往っても、欲に基づいた人間の三毒(貪・瞋・痴)の働きに拠 るものに過ぎない。閉ざされた世界だ。悟らない限り。 小生も、随分、眺めたけれども、そろそろ列車から降りる事にします。 ・キリスト教もイスラム教も、「死者の復活」か「処女懐胎」に基づくもの で、何れも、現実にはあり得ない事に基づいた教えであるが故に、 其処から、無漏なる悟りは得られない。 従って、対立、衝突が生ずる。 ・神の宗教には、神聖なる、正義の戦いとして、「聖戦」がある。 新約聖書には、「隣人を愛せよ。敵を憎め。」 旧約聖書には、異教徒を殲滅する戦いを鼓舞する神の言葉がある。 是が、政教一致してイスラム教を撃破する十字軍(約200年間)を生 み、キリスト教が世界に広がる原動力と成った。 ・神信仰に則った諸(所)行は、意識するとしないとに係わらず、釈尊の 影響がありながら、其れを否定する過程に他ならない。 ・宗教者の貪著が其の真価を喪失させてしまう。 施政(建国)は絶対力(神、支配者等)を建て前(大義)として為されてき たが、其の絶対力とは神である。嘘に基づいても、貪著のもとである 欲に翻弄されるだけで、闇路へ入り込むだけだ。 世界人類の幸福・平和を実現するには、対立の無い、自他一如の釈 尊悟りの真実に基づかない限り永遠に不可能だ。 ・此処まで、神への信が為してきた事は、貪以外の何物でもない。 其の貪が、時と共に更なる貪を生み、世界に貪の怪物を生む。 現在に至るまでの人類の足跡を見れば明らかである。 世界の悲惨なる現状は、其の証である。 何よりも、一刻も早く此の貪を滅すべし。 全世界が釈尊に倣うべきである。 詳細に知れば知るほど、此の事は明白である。 ・求道心が世俗の中に凋落せざるを得なくなるのは、神というものに確 たるものが無いからである。 一体誰が信仰の核心である神を証明し得るか。 誰も出来ない。其処に我欲の衝突が在る。 神が無くなるまで、其れは消滅しない。 神同士の衝突は、貪同士の衝突である。 無神論も同じ。無神論という神であり、科学は科学という神である。 人間の一切合切を超えた悟りでなければ、此れ等の衝突を超える事 は出来ない。 神も、無神論も、科学、学問も一切合切、貪に因るものである。 ・仏道でも同じ。何故に、あれ程、中国に於いて開花した仏教が、衰退 の一途を辿らざるを得なかったか。 是も、神の宗教の場合と同様である。 欧州では、ローマ帝国に於けるキリスト教衰退後の、人種差別の代 名詞とも言うべき大航海時代(西欧諸国による米の植民地化)の巨 大な富と力の獲得と、其れに伴う米の独立(250年前)。 中世西欧の教会・修道院の富と力への執著は、やがてアメリカ大陸 の植民地化へと向かい、是がアメリカの独立宣言に迄至るのである。 これ等がやがて、国連の指導国家(最大の核軍備国家)となる。 これ等一連の、貪による悪業の結果である。 其処に、それらの犠牲と成って来た中東諸国の台頭。 其の原因として、具体的には信奉する神間の不可避なる対立。 これ等は、人類の貪に因るものである。 貪が解決出来なければ、何言っても解決出来ない。 貪さえ解決出来れば、何言っても的を射ている。 ・矢張り、世の中、ヒトラーと原爆と奴隷問題(人種差別)をどの様に 言ってのける事が出来るかが重要な点である。 正に、これ等の「負の世界遺産」こそ人間が採り上げねばならない問 題である。 これ等が解決出来れば、現代の難問も、解決への糸口が見出せるだ ろう。 人種差別と(暴)力に拠る(暴)力の制圧。 力とは経済力(金)と武力(科学力)。 これ等は、精神・物質的基本的条件に帰着せしむるべきである。 政治の究極的問題である、(暴)力に拠る(暴)力の制圧、つまり、 経済力(金)と武力(科学力)。 これ等を云々する以前に、精神・物質的基本的条件の確保に帰着せ しむるべきである。 政治問題を、根本的に、つまり、発想の根本的転換を図るべきである 。 ・肉体の死なんてのは、仕様も無い、取るに足らないものだ。 是は一人残らず、既に保証されているからだ。 真実の死とは、生前の己が命(心)の死である。 是に拠りて、我欲に死んで、生命の本質(仏性)に生まれ変わる事で ある。 米・中・露(軍事)非核和平協定により、 真に、国連機能を活かし、世界人類を 幸福・平和に導かねばなりません。 ・釈尊は、悟りの先駆者でありました。 人類史上初の、命の開花であります。 命とは釈尊であり、釈尊とは命であります。 釈尊(仏道)の偉大さは、其れが悟り(命の開花)の象徴的存在であ るからであります。 其の存在意義は、不可解ながらも、我々に、未知なる世界への可能 性を示唆するという事であります。 宇宙に限りが無い様に、 解脱・涅槃にも上限はありません。 我々の知る限り、釈尊以外にはいない。 しかし、釈尊で終わる訳ではありません。 世界人類の幸福平和の為に、時・所・位に応じて、種々なる釈尊が生 れて来なければならない。 人類は之迄に、膨大な、種々なる諸難問に直面してきたにも拘らず、 今日の世界は、国連を主体として、一応、世界が人類の共通の目的 に向かって進むべき方向性を共有して、其の方向に向かうべきであ るという、倫理的な思いの下に、成立しているものであります。 然しながら、釈尊の教えに耳を傾けない限り、我々は依然として、多 かれ少なかれ、現存する、ヒマラヤ山中の、苦行者たるに過ぎない のであります。 印度のヒンズー教化、中国の儒教化、そして、世界から、人類史上最 悪の悲劇の始まりとなる、原爆制裁という受難の中にも、正に其の日 本に於いて、釈尊が復活したのであります。 此の事は、取りも直さず、釈尊が、永遠にして恒常不変の真理である という事を、証明する以外の何物でもありません。 〔ラッセル&原爆実験関係の年譜〕 1939 8/2 アインシュタイン等、ルーズベルト大統領に書簡を 送り、米が原子爆弾の研究を開始するよう進言。 9/1 第二次世界大戦勃発。 1940 9/27 日・独・伊三国同盟。 1941 12/8 ハワイ真珠湾攻撃。 米・英、対日宣戦布告。 1942 1/18 日・独・伊 軍事協定調印。 12/2 米、核分裂連鎖反応に成功。 1944 6/6 連合軍、ノルマンディー上陸開始。 1945 4/1 米軍、沖縄本島に上陸。 7/17 米・英・ソ、ポツダム会談開催、国際連合成立。 8/6 広島に原爆投下。 8/9 長崎に原爆投下。 8/15 日本は無条件降伏。 (第二次大戦終結) 11/28 ラッセル、英国上院で演説:水爆の実用化を予言。 1948 ラッセル、核兵器の拡散を阻止する為に、ソ連を原爆 で脅かす事を示唆。 1949 7 ソ連原爆実験。 1954 3/1 米、ビキニ水爆実験。 1955 7/9 ラッセル、ラッセル=アインシュタイン宣言を発表。 11/22 ソ、水爆実験。 1957 5/15 英、水爆実験。 11/27 ラッセル、フルシチョフとアイゼンハワーに公開書簡を 送り、米・ ソ巨頭会談を呼び掛ける。 (米、ソ、英の水爆実験の中、東西の緊張緩和の為。) ≪★1945年から約半世紀の間に米・ソ中心 に2379回の核実験が各国で行われた。≫ ・終戦から10年程後、1954年3月の米のビキニ水爆実験後の12月 に、イギリスの哲学者ラッセル(1950年ノーベル文学賞受賞)が「人 類の危機」と題するラジオ放送の反響を知り、資本・共産主義に拘ら ず、国家間の協力の必要性を感じて、数多くの非常に有名で尊敬さ れている科学者達がこぞって進んで署名し、より一層彼等と進んで更 なる共同行動推進の為の声明(文)(注下;ラッセル=アインシュタ イン宣言)を作成する事も可能であるかもしれない、との考えが浮か び、まず原爆を世に齎した責任者とも云うべきアインシュタイン自身 に手紙で、此の計画について打診した。彼の熱心な返事には、健康 が勝れないから共鳴しそうな科学者達の名前を挙げる事位しか出来 ないが、計画を至急実行に移す事、私(=ラッセル)自身が声明書の 草案を書いてほしいと書かれてあった。 世界連邦国会委員会国際会議(ローマ)へ向かう飛行機の中で、アイ ンシュタインの訃報をパイロットの機内アナウンスで知り、ラッセルは 生きた心地がしなかったが、世界連邦世界協会世界大会(パリ)の宿 泊ホテルに着くと、声明書に署名する旨のアインシュタインからの手 紙が届いていたのでホッとした。 是が彼の生涯での公的な最後の仕事の一つとなった。 アインシュタインは、原爆という人類最悪の脅威を此の世に齎したけ れども、自らの死に臨んで、亡くなる一週間前に声明(文)に署名して 、其れ迄の自己の在り様を反省したという事を証明している。 湯川博士は、アインシュタインが来日した時、自分の前で激しく泣き 出し、何度も御辞儀を繰り返す彼の姿を見て、「……、世界平和無くし て学問は無い。」という考えに至ったそうである。 此の事は、科学の根底に真実なる教えが無ければならないという事 を裏付けている。 科学を科学たらしめるものは仏道である。 政治を政治たらしめるものは仏道である。 (注下:ラッセル=アインシュタイン宣言概略;1955/7/9 世界 科学者会議(ロンドン)にて、米・ソ水爆実験競争という世 界情勢に対して提示された核兵器廃絶・科学技術平和 利用を訴えた宣言文で、アインシュタインはじめ、10名 余りのノーベル賞受賞者の署名入。) 私達にはどんな手段を採れば双方に悲惨な結末を齎すに違いない 軍事的な争いを防止出来るかという問題を自らに問い掛けると言う 新たな思考法が必要である。 今や私たちは、特にビキニの実験以来、核爆弾は之までの推測より も遥かに広範囲に亘って徐々に破壊力を広げるであろう事を知って いる。 現在では広島を破壊した爆弾の2500倍も強力な爆弾を製造できる 事が述べられている。 水爆に拠る戦争は実際に人類に終末を齎す可能性が十分に在るこ とを指摘している。若し多数の水爆が使用されるならば、全面的な死 滅が起こる恐れが在る。――瞬間的に死ぬのはほんの僅かだが、 多数の者はじりじりと病気の苦しみをなめ、肉体は崩壊してゆく。 一番良く知っている人が一番暗い見通しを持っている事が解った。 人類に絶滅を齎すか、それとも人類が戦争を放棄するか? 戦争の廃絶は国家主権に不快な制限を要求する。 たとえ水爆を使用しないと言うどんな協定が平時に結ばれていたとし ても、戦時にはそんな協定はもはや拘束とは考えられず、戦争が起 こるや否や双方とも水爆の製造に取り掛かるであろう。なぜなら、若 し一方が其れを製造して他方が製造しないとすれば、其れを製造し た側は必ず勝利するに違いないからである。 軍備の全面的削減の一環としての核兵器を放棄する協定は、最終 的な解決に結びつく訳では無いけれども、一定の重要な役割を果た す。大部分の人間は感情的に中立ではない。 出来うる限りの満足を得られなくてはならないとすれば、此れ等の問 題は戦争によって解決されてはならない。 人間性を心に留め、そしてその他のことを忘れよ、と。若し其れが 出来るならば、道は新しい楽園に向かって開けている。若し出来ない ならば、あなた方の前には全面的な死の危険が横たわっている。 あらゆる紛争問題の解決の為の平和的な手段を見出すよう勧告す る。 ・果たして人間は、こうでなければいけないと思って、今の施政を為して いるのか。 それとも、他に方法が無いからなのか。致し方無くやっているのか。 若し、そうであるならば、立ち止まって、何処までも、人類総力を挙げ て、生み出して行くべきだ。何処までも、そうして。 たとえ如何なる事が在っても、吾命を捨ててでも、絶対にこうでなけれ ばならないという真なる打出しを以て臨まねばならない。 つまり、他に方法が無いからではなくて、仮令、如何なる事情あろうと も、此の方法こそ、真に為さねばならないのだと言う真実を以て、進 まなければならない。 今の政治家に、果たして、此処までの信念を持って、施政している者 が何人居られるだろうか。 他に方法が無いから、斯うせざるを得ないのだという打算的な思いで 、其れも、つい最近の科学者の科学力至上主義に基づいてではない のか。今の人類の歩みを退歩せねば如何にもならなくなった文明品 生産至上主義が、人類に及ぼした自然破壊と、強弱の分裂。 強者達の台頭、弱者の暴走である。 これ等は総て、人類三毒(貪・瞋・痴)が招いた害毒である。 人類は、無我の立場から導き出された生き方に従うべきである。 其処から、初めて、世界人類の真の幸福・平和が可能と成るのであ る。 容れ物在れども中身無し。 何を以て、其の中身と為すか。 例えば、スポーツ界であれば、強弱、優劣を其の指標とするのは当 然であろう。 何の為に。 明確なるもの無し。人をして感動させる。 世界人類の幸福・平和に繋がる力には成り得ない。 政界では、 自国の繁栄の為に。 繁栄とは、一応、全国民の精神・物質的基本的条件の確保を其の指 標とした時に、国民の場合と人類の場合とが在る。何れも、政治家の 仕事である。又、世界人類の幸福・平和は宗教家の役目である。 精神・物質的基本的条件の確保の為に政治は如何に施政を為すべ きかを根本的に把握するは宗教家の役目でもある。 其れも地球レベルに立って考慮すべきである。 米、ソは此れ迄、夫々、1000回程にも亘る原爆実験に使った費用を 地球不毛地帯での生きる手立ての確保に使うべきである。 政治家が政治を施すに、最も憂慮すべき点は、国民の精神・物質的 基本的条件の確保を其の要と為すべきである、という事である。 アメリカは、敗戦直前の日本を、其の最先端の科学力を保有する国 家として、其の原爆行使を正当化する、絶好の対象を得たのである。 原爆投下直後のアメリカ国民は、恰も、其れに因って、世界を其の手 中にしたかの様に、歓喜に酔い痴れた。 其れが、人類が決定的に、其の道を踏み誤って、地獄への迷路に踏 み込んでしまった始まりであった。 其れ以来、アメリカは、世界を掌握する為の原爆行使の完成が国家 の暗黙の目標と成ってしまった。 つまり、他を幸福・平和にするのではなく、制圧する事を目指して来た のである。 其れ以来、原爆実験1000回にも及ぶ。 其れが、英国、仏、露、中へ及び、此れ等5カ国が世界を導く、国連 の常任理事国と成っている。 更に、釈尊、ガンジーを標榜する印度さえも其れに倣っている。 是迄の人類の貪に因る、戦争の終結に、原爆を生んでしまった。 何故に、神でなく、原爆なのか。 一度死んだ人間が生き返る訳が無い。虚偽であるから原爆以外無い のである。 原爆が神に取って代わってしまって居る。 神に宣誓するのでなく、原爆力に宣誓するのである。 若しも、日本に原爆という暴力を振るわずに居る事が出来ておれば。 否、其処で止める事は出来なかったであろう。 何となれば、原爆信仰以外、他に、信じられるものが無かったからで ある。 誰一人、其処で、こうだと、打出せる者が居なかった。 皆、アメリカの、原爆信仰の、虜に過ぎなかったのである。 今を見れば、其れは明らかである。 其の時に、真道を打ち出して、導く事の出来る者が一人でも居たなら ば。 原爆の一体何処に、世界人類の幸福・平和の為に生む処が在るの か。 原爆信仰ではなくて、釈尊信仰が、世界人類の信仰と成らねばなら ないのは、至極、当然の事である。 原爆は信じられても、釈尊の真実を信じようとしない。 是は、人類の浅薄さであり、又、宗教家の無力さである。 ・人間は種々なる能力を有し、其れを追求する。 其れ等は、人を感動させ、人を活かす。 能力其の物に善悪が在る訳ではない。 善悪の弁え無しに、能力を追い求めるという大義の下に 能力は種々なるものを生む。是等に依り国家が形成されている。 其の最たる物が原爆である。 少欲・知足は、世界人類の幸福・平和の基と成るが、 人類の三毒(貪等)に基づけば悪業と成る。 貪から対立が生じ、瞋が生じ、痴を招来する。 貪害は地獄を生む。 仏道は、能力を獲得して往くのでなく、其れを捨てて往く。 一切の能力を捨てて、五欲、我欲を坐に拠って封じ込め、大死一番 した処から、やがて、解脱・涅槃へと生まれ変わって往くものである。 能力獲得の二元論の、人間世界からは、悟りの世界は解らない。 悟った世界からは、其れ等の世界を見究める事が出来る。 悟りの世界(仏法)は、世法を包んで、能力を超える。 二元論の人間世界は、敗壊不安の相である。 堅牢なるもの一切無し。 スポーツ界の様に、ルール在ればこそ、能力を互いに競い合える。 反則は生ずるが、審判員の罰則に依って罰せられる。 しかし、現実世界は、ルール在っても、違反が生ずれば、一触即発、 世界人類の破滅に直結する。 今は、審判員其の者が、違反しており、根本的にスポーツ其の物が、 貪害に犯されてしまっている。 此の正しい審判員に当たるのが釈尊であり、 諸悪莫作 修善奉行 が無心の内に為されて往く。 唯一、釈尊のみが、 世界の地獄への迷路を、涅槃へと導き得る、唯一の真道である。 ・悟れば、生命の一切の問題は、其の瞬間に解決が付くし、且つ、付い ているのである。 如何なる諸難問であろうとも、恰も、冬の凍結した大地の、荒涼とした 様も、春の生き生きとした、歓喜なる生命を謳歌する様に、それらが 瞬時に、人間の心の内奥で、果たされてしまっているのである。 自身は、其の事を知識(恵)として意識しなくても、人間の慮知や分別 知には上らなくても、其の瞬間に、それらが完了しているのである。 要するに、生命の根源を悟れば、現在に至る迄の、人類が辿った過 去を超越した存在と成って居るのである。 故に、総ての人類は、時 空を超えて、釈尊の教えを、其の依り処とせねばならない。 悟りを凌駕出来るものは、此の世に何一つ存在しない。 悟れば、個個の事象に入っていく以前に、もう既に、其れ等を了解し 、解決しているのである。 又、其の事を認識するのも、菩薩道を歩めばこそのものである。 菩薩道とは、施・慈・慧のこころ、そのものであり、三毒(貪・瞋・痴)の 対極である。 上求菩提極まる時、下化衆生極まる。 上求菩提極まりて初めて、究極の下化衆生あり得る。 釈尊の、中道を生んだ苦行を説かず、中道から得た正法苦行無けれ ば、真に下化衆生為り得ない。 我々は、正法苦行を展転して厳蜜に行じ続けなければならないので ある。 そうして初めて、確かなる下化衆生が在り得る。 ・人類の人類足る由縁は、「悟り」に在り。 悟る為には、「為し得る限りの坐禅行」が必須である。 是に依りて、生命の本質(仏性)である、永遠にして、恒常普遍なる 真理がわかる。 是は、世界一の穀倉地帯であり、最適条件地域であった、印度ヒマラ ヤ山中に於いて、歴史的にも、最も深く強い、生命の働きの伝統の中 で、奇跡的に生起したものであった。 普通、人類が人類の営みを超脱して、悟るという事は、奇跡でない限 り在り得ない事でありますが、地球誕生以来、人類出現して今日に至 るまで、気の遠くなる程の長い間の、生命の変遷が、其れを可能なら しめたものであります。 釈尊の悟りによって、人類は生命の真実を知り得たのであります。 釈尊が奇跡中の奇跡事として悟られたのも、人類の為し得る一切の 営みが苦であり、死に至る病であるという事を悟られた、其の結果、 「中道」に至られた事に基因するものであります。 中道は世界人類を幸福・平和にする元となる悟り、更には、解脱、涅 槃に至るに、不可欠なる、人類真実の道であります。 中道無くして、世界人類の幸福・平和無し。 無為なる宇宙の為せる業に因って、偶然、地球上に生まれた、生命 の最終的遺産(=悟り)が、人為的に、地上人類の教えとして、当然 全人類に浸透しなければならないのであります。 そして、此の事は、世界人類の幸福・平和にとって、欠かすべからざ る事であります。 吾等、無限なる大宇宙の最終産物である仏果を、正に今、有難くも、 享受し得ている。 然るに、世界は、其れから、懸け離れて、未だに、哀れにも悲惨なる 地獄の道を歩んで居る。 此の死に至る悪病の真なる病根に、正に良薬を投与するが如く、 釈尊悟りの道を浸透させねばならない。 此の真実は、一切全人類の真実と成らねばならないのであります。 先ずは、全ての人間の根底に置くべき、否、置かねばならないもので あります。 そうする事に拠って、地上の苦や悪は自ずから消滅して行くでありま しょう。 原爆に拠って、世界を統制し、支配する力を得る、という発想(狙い) に基づいて、為されてきた、数千回に亘る試行錯誤。 果たして、原爆無くして世界を統制する事が不可能であったか。 「原爆力」という虚妄の奴隷に成り果てず、原爆無くしてこそ初めて、 真なる団結力が可能であると思う。 此の死に至る病を即刻捨て去るべきである。 そして、中道の心に基づいて、世界人類の幸福・平和を築いて往か ねばならない。 釈尊の中道を知らざる者は、皆、ヒマラヤ山中の苦行者の、死に至る 病である。 核肯定者は、未だ真理を知らざる苦行者である。 釈尊 中道ー悟りー解脱ー涅槃 への道 ・有史以来、釈尊が最初で最後であった。 此の道、2500年後に、新道元宗として、小生、田中鐵幹が最後身、 釈尊(&大迦葉)を受け継いだ。 其の釈尊も、御生涯、毎年欠かさず夏安居(正法苦行)された。 たとえ釈尊に於かれても、宇宙の広大さに限りが無い様に、涅槃へ の道に於いても限りが在る訳で無い。 あくまでも、釈尊の時・所・位に於いて、釈尊の及び得た処迄である。 現代の地球規模の時・所・位におきましても、釈尊同様、何処までも 限り無く及んでいかねばならないものであります。 釈尊在世当時においては、足の届く範囲内の遊行迄でありましたが 、現代におきましては、時・所・位の問題でなく、為し得る限りの坐禅 苦行を、為すか為さぬかの問題であり、そして此の事が教えでありま す。 ・生命の本質は、本具仏性であり、且つ其の向上一路門であります。 だからこそ、生命というものは有難い。 此の生命の本質(仏性)を知らざる者は、本当の生命の有難さを知ら ない。 此処に、自他の生命を軽んずる根本原因が在る。 此の事を、教えとして、世界に知らしめねばならない。 人間の本質は仏でありますが、貪が、其れを曇らせている。 此の曇りを晴らさねばならない。 此の教えを信じさえすれば、頭は済む。 しかし、24時間、365日、生涯に亘って、其れで済ますには、信ずる だけでは、三毒(貪・瞋・痴)や、五欲(食欲・性欲・睡眠欲・金欲・名誉 欲)、衣・食・住への執著から離脱する事は不可能であり、真に徹底 するには、此処に行(正法苦行、千日行)が必須と成る。 此の厳密行無くして、解脱、涅槃へは至り得ない。 厳密なる正法苦行が、是からの世界には不可欠である。 如何しても苦行が要る。 此の事は真に正しい。 釈尊以来、否定する事は出来ない。 我々は、2500年前の釈尊を超えて、更に、文明を超えて、これから の仏道を生み出してゆかねばならない。 ・釈尊は、成道後、僧伽内に於いて、正しく厳格なる正法苦行(頭陀行 )を説かれ、仏弟子をして、得悟・解脱・涅槃に導かれて居られたが、 やがて僧伽内の僧の疲労、困憊ぶりを御覧になられて、具足戒、波 羅提木叉(別解脱)(仏遺教経)、三聚浄戒、更に三帰戒を付授された のである。 かるが故に、仏道を志す者は、本来ならば、当然、正法苦行(千日行 (三時間坐睡二十四時間仏作仏))を志向しなければならないのであ ります。 【世界人類の為の無上の教えと実践】 世界には、永遠にして恒常普遍なる教えが無い。 世界人類の真なる幸福・平和を実現出来る、無上の教え。 何時でも、何処でも、誰でも、時・所・位を超えて、時計と畳一枚分の 空間さえ有れば、其の人の真実を、思う分だけ、即座に、其の場で 為し得る全ての人間の為の教え。 たとえ、一日でも実行すれば、人間が真実に生きる事の、正しさと厳 格さを全身全霊で体感し、又、誰でも、此の無上道に親しみ、歩み得 て、実践出来る歓喜を知り、体験出来るのである。 是に優れたる歓喜は他には無い。 自己の為の貪に因る、虚しき満足感を満たすのでなく、 世界人類の為に、自己を施す事の歓喜を知るべきである。 如何なる道に於いても、自己を見失ったり、迷路に踏み込んで居る者 は、是を実行しさえすれば、其れだけで即、迷を悟に転じ、邪を正に 転じ、悪を善に転じ、貪・瞋・痴を施・慈・慧に転じ、此の世の地獄を真 なる幸福・平和に転ずる事が出来るのである。 是ぞ正に、世界平和への最短距離。 たとえ其の時、是を信じられなくとも、そうなのだと信じさえすれば、 間違いない。 是、一切病者の良薬であり、無明黒暗の大明燈であるが故也。 是が、釈尊をして、中道、悟り、解脱、涅槃に至らしめた、但坐不臥で あり、是に由来する処の、千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行 (可能な限りの坐禅行))である。 是に依りて、最初に、自然に呼吸が、胸式から、腹式に転ずる間を過 ぎれば、後は、行ずる程に、気が丹田に落ち着いて、命を本質的に、 最大限に活かし得、好ましきもの(施・慈・慧)と成る。 全ての僧足る者は、少なくも、此の心掛けを持つべきであるし、禅僧 ならば、基本的に、皆、行ずべきものである。 是は、出家、在家(働きながら)に拘らず、万人が、何時でも、何処で も、誰でも行ずる事が出来るものである。 是に依りて、人類は、迷妄を払拭、脱却して確実なる無上道を、誰で も歩む事が出来るのであります。 一日行ずれば一日仏、一月行ずれば一月仏、信じて行じさえすれば 、誰でも其の場で仏に成れる。 展転して此れを行ぜば、如来の法身常在す。 要は、其の発心をするか否か、人間の宝蔵が手に入るか否かの分 かれ目で、此処こそ其の人の真価でありましょう。 此の無我為る菩提心は、無窮にして、万事に通じ、諸道も最大限に 活かし得る。 是を世界中に定着させ、 自然破壊を抑止する為の国際的団結力も然る事ながら、 人間破壊を抑止する為の国際的団結力を強固にし、即刻、米・中・露 非核和平で締結し、勝(強)者の繁栄を目的とするのでなく、世界人 類の物質的・精神的基本的条件確保を一切の最優先事とした国連 施政を主眼目と為さねばならない。 特に、貪・瞋・痴に因りて、哀れむべき、悲惨な地獄を生む、力関係の 二元相対的世界ではなく、施・慈・慧を生む、生命の本質(悟り)に基 づいた絶対的施政政治を為し得る人材を打ち出し、世界人類の真な る幸福・平和を実現、確立しなければならない。 負の世界遺産の代表が「原爆ドーム(広島)」と「ヒトラー」と「人種差別 」であり、此れ等は全て、二度と復活させてはならないものである。 正の世界遺産の代表は「新道元宗(鉄牛寺)」と成らねばならない。 ・仏道者以外の進み得る道は、唯一、釈尊の教えを辿る道である。 仏教者の進む、唯一の道は、何処までも、只、完白なる唯一の一筋 道在るのみである。 生命の辿る道は、唯一、此の厳密なる、吾が道以外に絶対に在り得 ない。 何故か、生命の真実が、是以外には絶対に在り得ないからである。 釈尊の真実は、確かに、永遠なる恒常普遍の真実であった。 現代の釈尊が知り得た、此の生命の真実を、ゆめ、疑う事勿れ。 了 《全て、製本し、全禅門指導者、及び関係者(三宝教団 、人間禅道場等)へ、八十冊程、送らせて頂きました。》 世界人類の真なる幸福・平和は、其の一人一人の正しき自覚に基づ いて居るが故に、此の教えが、一刻も早く、世界中の指導者、及び全 ての国民一人一人の胸に届き、邪悪道に堕ちず、正道を歩まれる事 を、殊に切願せずには居れません。 〔僧の原点でありました、正法苦行(但坐不臥、千日行)と托鉢(或 は就労)自活とは表裏一体、一枚の紙の表と裏の様なもので、車 の両輪の如く、孰れに採りましても不可欠なるものであります。 幸い日本は、現代、国中何処でも、仏道修行者にとりましては、 最も、正法復活可能なる国家であろうと思われます。 小生の托鉢例(マーカー点示)(p.51)は、其の、ほんの一例であ ります。〕 ・経済力を表看板に、悪を造ってしまう。 嘗て、ヒトラーがそうであった。 是だけは、絶対に許しては駄目だ。 認めたり、認めさせる事が在ってはならない。 是を認めると、世界は地獄に堕ちるだろう。 悪を認めたり、人類の基本条件を侵犯してまで、文明を開化させるべ きではない。 是は恥ずべきである。 ・悪を為さない、無くして往く事も然る事ながら、 善い事を躊躇わず、勇気を持って、積極的に為して往く事が、世の中 を変え、世界人類を幸福・平和に導くには重大である。 人類が悟って向上して往けば、自ずから、為す事は全てが修善であ る。 此の無意識の積極性が、世界人類を幸福・平和に導く原動力と成る べきである。 人類は根本的に、小欲・知足をわきまえ、特に、指導者たるべき者は 、人類の模範として、そうであり、その上に人類を慈しみ、人類に施す べきである。 国連の在り様は、仏道を根本に据えるべきである。 国連のシステム以前に、米・中・露が一丸と成って、世界の指導力と 成り、是が国連を動かして往くのでなければならない。 嘗て、釈尊が宇宙の中心であったが、 今也、田中鐵幹が宇宙の中心である。 因果の道理歴然として私なし、増悪の者は 堕ち、修善の者は陞る、毫釐も違わざるなり。 諸悪莫作 修善奉行 自浄其意 是諸仏教 ・我々個々の生命は、明らかに儚い刹那(瞬時)の命ではあるけれども 、地球は生命の存在する、暗黒なる宇宙のオアシス(楽園)である。 しかも、宇宙からすれば、特定の一点ではなく、任意の一点であり、 無限の宇宙空間には、これらの無限の恵みが在ると思い為すのが、 超科学的な考え方であると思う。 生命そのものが、此の無常なる宇宙の必然的恩恵であり、目的であ る。 此の生命の目的は、世界人類の幸福・平和に他ならない。 然るに、人間には、個体保存(存続)の為の我欲が在り、我欲そのも のに善悪が在る訳ではないが、此の我欲(団体我の基)が、分別と結 び付くと、三毒(貪・瞋・痴)となる。是が、生命(宇宙)の目的から遊離 すると、悪と成り、自滅に至る。 然れども、生命には、其の目的達成の為の働きというものが具わって いる。是を本具仏性と言い、是が生命の本質である。 人間の生命というものは、四苦なる存在であり、嘗てのバラモン族の 最も高度な精神活動と、其の風土条件(肥沃、温暖等)さえ整えば、 必然的に、ヨーガを行ずるバラモンの苦行者達を生むであろう。 又、いずれにしても、その中に、悟りを体験する者が現れる筈である 。 是は、生命の永遠なる恒常普遍の真理である。 此の事は、坐禅する事に依りて、冷暖自知し、身心脱落という体験に 依りて、更に明らかと成る。 そして、正法苦行に依りて、人類の三毒(貪・瞋・痴)から生じた悪を、 三善根(施・慈・慧)に転じ、最終的に、生命を完成させ、世界人類に 幸福・平和を招来するのである。 故に人間は、坐禅をして、生命の本質(仏性)を悟らねばならない。 釈尊の如く、ヨーガ→苦行・中道・正法苦行(頭陀行)→悟りに至る。 此処に於いて初めて、苦なる生命に、悟りによる滅苦の法と、安楽・ 解脱・涅槃のある事を、知り得た訳であります。 然し乍ら、自己以外は、未だ苦なる世界であり、其処に、釈尊に因る 仏道が生まれ、以来、永遠の上求菩提と、下化衆生が始まった訳で あります。 此の人類生命の大転換を果たし往く心が、菩提心であります。 「菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆 生をわたさんと発願し、いとなむなり。」 自己が悟るに先立って、生きとし生ける者を悟らせようという誓願を 起し、其の実践に移る事である。 正に、千日行こそ此の心の結晶である。 小生、師の元を離れ、自己の進路を決定した際に、如何なる事があ ろうとも、師の道を歩むのだと、決心していた。しかし、其れが何だか 全く判らなかった。 其れを生きる、果ての無い旅でありました。 しかし、吾師の心は、決まっておられた。 旅の途中に、千日行が意識に浮かび出た。 師から受けたものは、感応道交する処に発する、此の菩提心であっ たと思います。 超新星爆発の様に、自らは、完全に粉砕して、其の周辺に、多くの星 を生む元と成る様な、そういう生き方がしたいという、此の心こそ、菩 提心である。 世界人類の人の命を、吾命と同じに思い、世界人類の幸福・平和の 為に、如何なる方法をも採り得るものであり、全ての原動力とも言う べき心であります。 世間では、たとえ(菩提心が)生ずれども熟せざる(=退き失われる) ものとして、発心した菩薩が在る。故に、「(菩提心を持って、上求菩 提と下化衆生を行ずる)菩薩は、あたかも、残りたる一眼を、世人が 子を、又荒野の案内人を大切にする様に、菩薩道(菩提心)を守護す る。故に、無上の悟りの智慧を得、常住・安楽・無我・解脱を具足する 。」と、是は釈尊御入滅直前の御遺教であります。 釈尊の、出家から槃涅槃に至るまでの御生涯に端を発し、吾師へと 受け継がれてきた、此の心であります。 世界人類の幸福・平和の為に、或る時は上求菩提として、或る時は 下化衆生として微妙不可思議に、有機的に働き出る。 上求菩提の最たるものは、正法苦行(千日行)であるし、 下化衆生の最たるものは、世界人類の幸福・平和の完成であります。 一方、壮んなれば、他方も、其の分、壮ん。 丁度、振り子の振幅の様なものであります。 何処までも、力のあらん限り、永遠にして、無限の振れ幅でなければ なりません。 これまでの善悪ならぬ、強弱の力関係(科学力、経済力等)による人 間支配でなく、自己の立場の先に、世界人類の幸福・平和を優先し、 其れを基として、自己の立場を設定する。其の上で、自己の立場の先 に、全自国国民の幸福・平和を優先する。 及ばない場合に、最終的に、国連組織で、全国家の総力を挙げて、 智慧を出し、不足する力を補い、助け合って往く。 自国の繁栄を優先する前に、他国の精神的・物質的基本的条件の確 保を優先すべきであります。 ましてや、悪を造ってまで、国家を構築し、繁栄を願うべきではない。 其れは恥ずべきであり、正されなければならない。 是こそ、釈尊も説かれている、菩薩の守護する一つの道、菩提心に 依る菩薩道とでも言うべき態度であります。 此の態度で往けば、科学力の弊害等に因る、環境破壊も、人間破壊 も起こらなかったでありましょう。 此の菩提心に基づく施政を、国連精神の核と為し、国連が、加盟各国 平等に、上述の立場に基づいて機能する機関と成らねばならない。 釈尊は、常に、欲界中で坐禅弁道する事を説かれた。 人間の生命というものは、瞬時に生まれ変わり、死に変わりしている 。矛盾とも思われる、此の両極の振れも、瞬時に為されるものであり ます。 瞬時の静止も、必ず次の移動が内包されている。 そして、「細には無限に入り、大には方所を絶す。」であります。 常に、展転して、正法苦行が行じ続けられなければ、真の下化衆生も 為され得ない訳であります。 涅槃とは、悟り、解脱し、何処までも菩薩(仏)道を歩む菩薩(仏)の生 き様の事で、架空の、死後のものではない。 ・もし、悟り無ければ、我々は、永遠に、当ても無く、さ迷う子羊でありま す。 其れが、一切処に主人公足る犀の角と成る。 此の人間生命の大転換を果たす釈尊を生んだバラモンの伝統。 是は、インダス文明(BC2300~)のヨーガから、1000年程して、バ ラモン教が形成され、其の経典の一つ、「リグ・ヴェーダ」に、「神々が 祭祀を行うにあたって、原人プルシャを切り分けた時、口の部分がバ ラモンと成り、両腕がクシャトリアと成り、………」という、神話的起源 に在る様に、宗教的身分(四姓)制度の、クシャトリア(王族、武士階 級)の上に、バラモン(祭祀、僧侶)(=仏教の前身)を置くバラモン主 体の民族であったからこそ、自然法(神意)と人間法(財産と性愛)両 立のヨーガ行から、やがては梵我一如のウパニシャッド哲学の宇宙 原理(ブラーフマン)を生み、解脱希求のヨーガ行が生まれ、これから 釈尊・悟りと智慧が生起した訳であります。 僧は常に禅定を忘れず、是を基に、聞・思と行の智慧を生み、是に依 りて、正法苦行を生み、現代では更に、最終的に、世界人類の幸福・ 平和の為の智慧へと進展して往かねばならないのであります。 でなければ、仏道と世界とが分離し、仏道が、世界の中の極、限られ た、限定したものと成ってしまい、嘗ての本来の在り様ではなくなって しまう。 何の為の悟り・智慧か、 極言すれば、当然の事ながら、 世界人類の幸福・平和、並びに、物質的・精神的基本的条件確保を 実現ならしめる智慧を生む為の、悟り・智慧である。 仏道は、世界人類の幸福・平和の最も実践的なる教えである。 我々人類が為さねばならない事は、 先ず第一に、小欲・知足にして、 世界人類が、生きるに必要な、 物質的・精神的基本的条件を 確保する事。 第二に、厳密千日行者(正法苦行 者)が常在する事。 是が、世界人類の幸福・平和に とって、不可欠なる条件である。 何故ならば、世界中の偉大なる 政治家達の為の釈尊が、此の中 から生まれたからである。 《全て、製本し、全禅門指導者、及び関係者(三宝教団 、人間禅道場等)へ、八十冊程、送らせて頂きました。》 此の昏迷する地球上に、世界人類の幸福・平和の完成を期して、 釈尊誕生から約2500年後の今、釈尊再来として、 田中鐵漢が、生まれ変わった気持ちで、 初厳密千日行(37才~40才)から丁度30年後、 2017年(平成29年).1月1日(隔月千日行摂心会)より 2019年(平成31年).12月31日迄3年間、 後厳密千日行(67才~70才)を厳行する。 (伴鐵牛御老師23回忌は、2019年1月21日) (2016年12月22日) 将来の仏教は、宗教というカテゴリーを超えて、宗教なるものを生む 生命自体の、超科学的なる真実として捉えるべきである。 仏道とは、正しき生命(生活)其の物の事であり、生命が完成に至る 最短路なる方法である。 悟りとは、表情・呼吸(筋肉)運動・線分泌の変化等と同様に、生命に 具足する本質的力の表出である。 仏道とは、宗教を宗教足らしめている生命の真実であり、宗教間の対 立等を生む生命自体の教えであって、互いに殺し合う、三毒(貪・瞋・ 痴)に基づいた生き方でなく、悟って、互いに活かし合う三善根(施・ 慈・慧)に基づいた、一(いつ)なる生き方である。 故に、特に、世界の難所にこそ、是が、教えとして、浸透して行かね ばならないのである。 是に依りて、世界の難所は、自然消滅し、一掃されるであろう。 仏道は、世界人類の、超科学的、真実の教えであるから、宗教という 枠組みを超えて、生命の超科学として、全人類が共に学んで往かね ばならないものである。 取り分け、政治以前に此の教えを基底に、施政して行かねばならな い。 今や、国家・宗教間の境界を超えて、根源的生命からの施政が為さ れねばならない。 勿論、国連のシステムも、其れを大前提として、機能しなければなら ない。 従来の、国連が、強力なる、勝者達の保護・安全機関としてでなく、 生命が、最大限に花を咲かし得る機能を発揮し得る機関として、万国 が少なくとも平等に、参画し得るものでなければならない。 生来、生命に備わっている三毒(貪・瞋・痴)に基づく、無償の自己犠 牲は、テロ・殺戮に至るが、 本源を悟って(本具仏性)、三毒(貪・瞋・痴)を、生命の本質(仏性)に 因り、三善根(施・慈・慧)に転じた、無償の自己犠牲は、世界人類の 幸福・平和を導く。 是、永遠なる恒常普遍の真理である。 【自己が確立されずに、真なる世界人類の幸福・平 和が在る筈はない。】 大学で医学を学んだが、本当に、人間に出来る、為すべき事が、坐禅 であると気付いた。 (是は、偶然に見付けた古い釈尊の坐禅のやり方の小冊子通り、単 なる好奇心程度で、唯組んでみた瞬間、アッ、コレダ!と思い知った のです。其れ以来、活字を追ったり、自己以外を探し回る事を止め、 一年間、自室で坐った。) ↓ 坐禅の功徳(恩恵) ↓ 伴老師に参禅する。(専門僧堂開単摂心会) ↓ 身心脱落 ↓ 出家 ↓ 寺を出て放浪 ↓ 人類の為に、の菩提心確立(注) ↓ 初千日行 ↓ 坐禅する為に、寺へ戻ろう ↓ 解脱 ↓ 鉄牛寺に行く。 ↓ 托鉢、始める。 ↓ 世界人類の幸福・平和の為に 自分がやらねばならないのだと気づく。 ↓ 実家に戻る。 ↓ 千日行 ↓ 涅槃 ↓ ネット ↓ 後千日行 (注) 本当に人間が、為すべき、為し得る事は、坐禅である。 是に尽きるのであるが、 其れを徹底し尽くしたものが、正法苦行である。 一切の戒は、其の為のものであった。 其の究極が千日行である。 此処まで徹するには、唯、菩提心に依るのみである。 上掲、五項目は、恐らく、未だ、身心脱落から、正法苦行(千日行)の 決意までの間の菩提心の確立の無い人(僧俗の別無く)は、その真 偽を疑うかと思いますが、正法苦行(千日行)の決意までに至れば、 当然の事であります。 然るに世は未だ、正法苦行が無いから、其れが当たり前に成ってい る。 しかし、悟りを生んだ、此のこころの進化の過程で、ホモ・サピエンス 同様、今後、世界完成迄には、人類、自らが、菩提心を鈍らせる事無 く、果たして往かねばならないものである。 故に、此の五項目を、これから人類が踏まねばならない、荊(いばら) の道である、との自覚を持たねばならない。 少なくとも、此の事を信ずる処から、世界の確立(完成)は為されなけ ればならないし、又、其処からして初めて、為し得るのである。 是を避けては、問題解決に至らないのであります。 人類の是迄の、自然破壊と人間破壊(核武力・多岐なる人種差別・ヒ トラー等)に終止符を打つには、人間の(三)毒害に因り生じた諸悪で あるから、人間の三毒を悟り、三善根(施・慈・慧)に転じた、こころに 依る施政が為されなければならない。 そうすれば、因果の道理歴然として私なし、造悪の者は堕ち、修善 の者は陞る。毫釐も違わざるなり。超科学的なる法則に因りて、必ず 、今の為される善悪の業の夫々の業報を生ずる訳であります。 是、不昧因果也。 是を為し得る、最も優れたる指導者達の英断に俟(ま)たざるを得な いのであります。 世界人類の(幸福・平和への)真実の 教えは、悟り(人間生命の覚証)無く しては存在し得ない。 悟りに因りて、初めて、仏性(生命の 本質)と、三毒(貪・瞋・痴)とが明 らかに認識され得たのである。 仏性から行の厳密さが生じ、其のあら ゆる妨害因子(魔界・魔事等)は三毒 から生ずるものである。 仏性は幸福・平和に至り、三毒は地獄 と成る。 行とは、教えの実践の事であり、人類 の万事(政治・生活……等)である。 二千五百年前は釈尊であったが、 此の近代世界では、田中鐵漢が、其の 代弁者である。 此の世の如何なる制約をも受けない、永遠なる恒常普遍の真理なる が故に、何か伝えるべき事が在れば、機会在る毎に、如何なる事で も、教え遺しておかなければならない。 《 太 陽 の 恩 恵 》 太陽(自然)は、生命の本質(仏性)と共に、永遠なる恒常普遍の恩 恵そのものであります。 坐禅も、(三毒に基づかない)分別も、欲(小欲・知足)も、それから人 間の諸能力(科学等の諸学問、宗教、思想、スポーツ……等)も同様 であります。 然るに、恩恵ならざる分別(欲)が在る。 恩恵ならざる欲(=貪)は、恩恵ならざる分別(=瞋・痴)と成る。 正に、是が、(我)欲による、三毒(貪・瞋・痴)によって、世界を(弱肉 強食の)地獄に転ずる。 一方、地上の恩恵の絶対量には限りが在るから、貪や弱肉強食によ って、世界は地獄と成る。 恩恵の絶対量が限定されておりながら、これ等を強者が弱者から ?奪し、強者の富にしてしまい、弱者を地獄に陥れてしまうというの は、世界の指導者の為すべき事ではない。 何処まで往っても、弱肉強食の獣の世界である。 こういうやり方を、世界が黙認すべきではない。逆に、世界中の智慧 を持ち寄って、即座に、これ等の恩恵ならざる分別(欲)を追放すべき である。 是が、諸悪莫作、修善奉行である。 アメリカは、極端なる人種差別により、富と力を得て、其れを基盤に、 今から僅か250年程前に独立国家を形成し、世界を制覇した。 其の、驕慢、驕りが、依然として、アメリカ国民間に残って居る。 従って其の国民性は、安定性を欠き、未だ、時に危険な国民である。 優れた指導者が現れても、上述の事に対する十分なる反省が全く為 されていないので、国民や其の指導者達の間に、恩恵ならざる分別 や欲が抬頭する。 其の最悪なる惨禍を蒙りながら、且つ、世界の叡智が結実し、過去に 於ける徹底した反省が為された日本であるからこそ、我々日本人が、 其のこころに於いて、世界の指導的立場をとらねばならない。 アメリカは、核と人種差別に対する反省が未だ為されていない。 仮令、為されても、其の国民間には、其の事を単なる弱さとしか受け 取れない程度の、粗雑なる浅薄さしか無く、其の後に続くものは、短 絡的な、其の反動としての、更に、甚だしい動物的ともいえる人種差 別であり、ヒトラーである。 此の事は、人間的未熟さ以外の何物でもなく、アメリカ発の、負の世 界遺産そのものである。 単なる、金と力の生むものは、確たる基盤が無い限り、貪であり、三 毒である。 人間性に不可欠なるものは、小欲・知足である。 恩恵の絶対量が不足する場合には、 其れ等を何とかして、強者の物にしてしまうのでなく、飽く迄も、平等 に、そして、何よりも、是迄人類が築いた如何なる価値あるものであっ ても、其れ等を犠牲にしてでも、其の絶対量を確保するという方法を 採るべきである。 世界人類が平等に分配するという前提の下に於いて、如何なる状況 下に在っても、平等に、物質的・精神的基本的条件の確保による生命 の存続を、此れ迄、築き上げた人類の他の如何なる価値(思想、宗 教、政治、学問……等)以前に、最優先にすべきである。 是が、太陽の恩恵である。 人類が、是迄築き上げた如何なる価値からも退歩し、世界人類の 平等なる、其れ等の物質的・精神的基本的条件確保による生命の存 続を最優先にして居れば、人類が如何に高度文明化されても、人類 の歩むべき、正道を見失う事無く、平等に在り得べき、最善の状態を 見失う事はないであろう。 国連は、其の恩恵ならざる分別・欲の見張り番でなければならない。 強者存続のシステムと成るべきでない。 吾師が、嘗て言われた事が在る。 「人間さえ居なけりゃー、世の中、平和そのものである。」と。 人間とは正に此の、恩恵ならざる分別・欲(=貪)の事でありましょう。 世界一の最強、最富裕国家が、自国第一主義で、最弱、最貧の人々 や異教徒を、自国の損失になるからと言う理由で、国外へ追放する のは、是程の愚かしい指導者や、又、其れを黙認する国民はいない。 是は、自由民主主義、資本主義の行き詰まりである。 I S も第一主義も同様に、貪の副産物である。 是を、人間に置き換えても解る様に、自分第一主義で世界が成立す る訳が無い。 他を活かす事は、其の儘、自を活かす事である。 他を活かさず、自分第一なる生き方は、自も活かし得ず、必ず行き詰 まる。是は、I S にも通じる。 其処には、何の歓びも無く、生きる意味が無い。 何と成れば、本来一(いつ)なる命でありながら、其れを、敢えて分離 してしまうからである。 是は、国家に於いても全く同様である。 最強、最富裕国こそ、世界の指導者として、身を以て、本当の在り様 を世界に示して往かねばならない。 一体、何が欠けているのか? 否、何が欠けていたのか? 単純に、近視眼的に、目先の雇用を生み出しさえすればいい位で片 付く問題ではない。 たとえ生み出しても、其れは、一時的なものである。 生命とは、そんな単純なものではない。 世界人類の幸福・平和は、小手先の技術でなく、もっと、生命の本質 的な処から取り組まなければ解決出来ない。 時間が掛かりそうであるが、実は是が最短路である。 世界の指導者たる者は、其れだけの人材でなければならない。 真に世界人類の幸福・平和を願う、無我なる人である。 小生の様な事は、人々が考えると、闇の闇の、人間の届かない、訳 の解らない、何の役にも立てない、愚行であると思い為すかも知れな い。 人間生命は、正に宇宙の如く、細から大に無限である。 又、世界人類の滅亡から、幸福・平和に至るまで、更には、最後の一 人に至るまでそうである様に無限である。 故に、仏も際限がない。 何処まで行っても、止まる処を知らない。 心というものは、その様に進化し往くもので、其れが生命の本質であ る。 生死を超えて、不昧因果なのである。 世界人類が出来得る限り、幸福・平和な状態である為に、何処までも 誠実に、政治家は、其の物質的・精神的基本的条件を確保し、僧侶 は生命の本質(仏性)を伝えて往かねばならない。 世の中、勝てば良いだ。 是は、我欲なる三毒(貪・瞋・痴)から出るもので、弱肉強食の二元相 対の世界である。是では何処まで行っても、世界人類の幸福・平和に は至り得ない。 生物は、人類にまで進化した。そして、その精神も悟りにまで至った。 人間は、悟りに因りて、初めて生命の本質(仏性)、自他一如の施・慈 ・慧の世界を知る。 其処に於いて、“勝てば良い”ではなく、“他を活かす”に変革する。 此処に、真の生き甲斐、生きる意味、生きる歓喜がある。 是こそ、真に自己を活かす事に他ならない。 米・英が、其の基礎造りと成った、十七~十八世紀、黒人奴隷に依る 三角貿易以来、今日に至るまで、猶且つ、何の反省も無く、世界の 最指導国家として、君臨している。 しかし、心の進化の過程上、其れに対する真実の反省が無いから、 其の国内外の混乱は、今に至って極まったのである。 たとえ、一時的なる権力保持は可能であっても、将来、米が、世界の 主導国家として、世界を統一するという、其の大役を荷うには、先ず、 其の真実の反省から為されなければ、根本的解決には至り得ない。 その反省の深さに於いて、期待されるべき将来が在り得る。 其の真なる反省が為されれば、国内の分裂は自然消滅し、是が基礎 と成って、世界に広がって往くのである。 国内が分裂したままでは、決して、世界を幸福・平和に至らしめ得る 訳が無い。 世界人類の幸福・平和の先ず第一歩は、米の建国に至るまでの真な る深き反省である。 其の反省無くして、世界指導国家と成る事は不可能である。 是は、対黒人のみならず、男女間、人種・民族間も同様に、自他の関 係に於いて、悟りに因る、自他一如の世界、他を吾命と思う心、無我 為る処から出る、施・慈・慧の善根を根本とすべきである。 米が独立して、まだ二百五十年にしかならない。 独立宣言に依りて、人種差別が解決した訳ではない。 真の人種差別の解決は、まだ、これからで、 人種差別とは、男女間、強弱間、勝者・敗者間、人種・民族間等々 種々の差別が在り得る。其れ等一切の差別を超えた自他一如の 無差別の世界を真に知るには、悟り以外にはない。 悟りから得た智慧は、無分別の分別である。 米が、これから世界を統一する、スタートを切るには、其の人種差別 への反省(懺悔)から為されなければならない。 其れ以外には、真の統一者と成る事は不可能である。 此処が、米の正念場である。 男女を含めて、人間を引き上げる、世の中を向上させるべき人物が いない。 引きずり落とすか、又、自ずから落ちて往く人間達だ。 核力も駄目、第一主義も駄目。 是等は、皆が、しようとする事、誰にでもやれる事だ。 闇路に闇路を踏み添える、光の途絶えた、人類下落の道だ。 世の中を改善、向上させる道ではない。 それどころか、地上を破滅に至らしめるものである。 最善の最短路は、正法苦行である。 これこそ、正しく、厳しく、最も困難である。 だから、そうする者が出ない。 皆、誰でもやれる事で、勝つ事だけを考えている。 どうして、此の困難に打ち勝って、自己と世界を改善、向上させようと しないのか。 一旦、了ずると、是程、安楽で、幸福・平和なものはないのである。 誰でもやれる事を為して、勝って、世の中と自己を引きずり落としてい る。 世の中を改善、向上させるには、正法苦行ならずとも、困難に打ち勝 って、正しさ、真実で、自ずからを捨てて、将来の世界人類の為に、 世の中を改善、向上させようとするのでなければならない。 天上天下唯厳密行独尊である。 是が、真実中の真実である。 楽をして、世の中を引きずり落とし、又、自らも、下落して往くのが人 間だ。 苦労をして、世の中を改善、向上させる人物が出る事を祈願する。 人間世界の理想像は、先ず、人間が悟って、悟った人間(仏)が、世 界を統括(施政)する事である。 是が最理想像であるに違いない。 是以上の世界人類の幸福・平和は無いであろう。 いずれにしても、バラモン起源である処の、仏が施政する事が最高 である。 其の為には、正法苦行(厳密千日行)が最善である。 是こそ、生命の本質の根源である。 普通、人がやらない事を、勇気を持って、将来の人類の幸福・平和の 為に、為す処に、世の中の改善、向上がある。 つまり、自らを捨てて、全体が団結して、一(いつ)に成るという事であ る。 世界の指導者達は、此の真実を、よくよく、弁(わきま)えねばならな い。 もしも、宇宙・人類に答えというもの が在るとするならば吾である。 生涯日々是厳密行(三時間坐睡 二十四時間仏作仏行)に於いて、 機械的時刻護持さえあれば、 後は、何でも自由に。 人類は、永遠に、此の吾答え(真 実)から一歩も出る事は出来ない。 生命というものが在りながら、是が無視されている。 生命を活かすべく、生命の、生命に対する報恩として、 嘗て、湯川博士が、来日したアインシュタインが激しく 泣きながら、何度も謝罪の御辞儀を繰り返す姿を見て、 「世界平和無くして、学問(科学力)無し。」と語られた如く、 科学力でなく、学問(科学)の根底に在る、こころの力 に依りて、未踏なる、こころの月面着陸の第一歩を踏み 出さねばならないのである。 あらゆる人々が、個人、国境を超えて、生命の為であるな らば、其れは、自ずからにして、一(いつ)なる団結力を生 み、世界人類の幸福・平和の完成に至らしめ得るのである。 人類は、生命至上(第一)主義であるのが原則である。 アメリカでも、科学でもない。 他に何か在るとしたら、是は、在り得べからざるものであり、 撤廃しなければならない。 中でも対極に在るのが、核威力と人間差別とヒトラー(悪道への権力 )だ。 生命の立場からすれば、万人平等である。 生命平等の立場からすれば、アメリカ第一主義は恥辱である。 畜生は、欲を満たしてやるだけで、満たしたら、其れで御終い。 其れ以上のものが無い。 しかし、人間は三毒(貪・瞋・痴)なる生命であるから、限り無く、貪と いう事が在る。 生命の価値とは、欲を離れた、欲に唆されない、万人共通なる、 生命至上主義でなければならない。 一切の分別以前に、生命の価値の平等なる認識を享有しなければ ならない。 生命は、平等で至上の価値を有する。 是を犯すあらゆる分別が、現代には、地下や上空に捨てられた大量 のゴミの如く、自然破壊と、人間破壊が限界を超えて、両者共に権力 と結び付いて、真実が眩惑されて、ストップがかからなくなった。 今や、正に、人間らしさを無くした、三毒(貪・瞋・痴)汚染時代である。 如何やら、人間らしさを取り戻す事が精一杯で、是は世界的にも同様 である。 悪を悪としない、権力という鎧を着た、真実を知らない人間達が、手 の施し様の無い状況の中で、徒、馬車馬の如く、突っ走るだけである 。 精々、其れが出来るのみに止まる。 地上にも、地下にも、自然破壊が限界を超えて、是が、人間破壊にま で直結して居るかの様だ。 在るのは、権力の暴走のみ。 唯一の救いとして、北極星の如く、悟りの世界を呈示して、世界を導 かんとしているのである。 諸悪に追い詰められて、二進も三進も往かなく成って、停滞する世界 の現状を打開する唯一の方法は、此の人間である事の限界は、其の 延長線上である人間の諸能力を超えて、微かなる、悟りの世界への 予感に導かれて、 米・中・露が一丸と成りて、全世界を率いて、核を放棄し、是が、 最後の核威力至上主義国家である、北朝鮮に対して、 地獄で孤立する、三毒(貪・瞋・痴)世界から、平和団結する、施・慈・ 慧の世界への一大転換を実現すべく、一致協力を求める。 そうして、核放棄に依りて、世界中の、悪条件下の不幸なる人々の 物質的・精神的基本的条件の確保を実現する。 是を始めとして、人間差別と、悪道への権力を撤廃して往く。 かくして、釈尊の悟りに基づいて、世界中の悪を悪として誤魔化す事 無く、改善して往かねばならない。 最近は、坐睡時間も半分である。 厳密行に於いて、然う成らざるを得ないが、又、其れでも十分だと思 っている。 生涯日々是厳密千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)さえ行 じておけば、此の中に、仏道は、全て含まれている。 故に、之を実践して居りさえすれば、仏道無しであります。 道元禅師は、「只、仏道の為に、仏道を行ぜよ。」と説かれた。 其の限りに於いて、適度な張りは在るべきでありますが、 「張りすぎる糸は切れる。」の比喩の如く、中道に則って、 正法ならざる、張り過ぎる一点のみを取り、仏道の臭味を取って、後 は、一般人の様で宜しい。 此処が修まらないと、仏道も地獄の如く成り兼ねない。 行ずれば行ずる程に、其の労苦の分だけ、其の有難さが判る。(宝 を得る。) 限り無く、何処までも、行じた苦の量だけであります。 故に、何処までも、生涯は勿論、不退転なる厳行の完徹と極楽が在 るのみであります。 是、涅槃である。 そうして、世の中も、其の様にと、自然に世界人類の幸福・平和が願 われる。 是が、世界人類の真の幸福・平和の由縁である。 世界人類の幸福・平和は、人間間の 諸問題からは、導き出し得ないもの である。 唯一、新道元宗(釈尊の教え)への信 と其の実践からのみ可能となる。 インド・中国・朝鮮半島・日本に於ける、仏道修行上、 托鉢自活して、欲界中で其れを行ずるのは、至極、困難であります。 近代日本に於いてこそ、初めて釈尊の其れ(理想、本音)が可能と 成った訳であります。 日本に於いて初めて、釈尊正法苦行が確立した。 つまり、或る意味で、仏道の原点の精髄の完成であります。 此の人間の教えが、これから、世界人類の教えとして確立されて往 かねばならない。 人物を判断するに、 先ずは、如何なる理由在れども、性欲に負ける人間は、其の資格が 無い。 必要最低限度、性欲を自由に、意のままに出来る人間でなければな らない。 戦争(殺戮)に於いて、己が我を満たす為に、殺人、暴力を為す事は 、是、畜生に劣る。 人間が犬、猫以下に成って居る証拠である。 世界を幸福・平和に導ける人物足る者は、世間並では不可能である 。 自分(の欲)を超えた、世間を超えた視点を持つ人間でなければ、真 実に根本的解決には至り得ない。 かくして、人間は互いに最も親密であり得る。 其の上で、永遠に、斯うでなければいけないというものを持っている か否か。 持って居れば、其れが、(団体)我に基づくものか、或は、無我に基づ くものか、という事である。 少なくとも、無我に基づいて、永遠に斯うでなければならない、という 信念の下に働ける人、或は永遠に然うでなければならないという事 の為に、最善の行動(策)が執(採)れる人。 是が、指導者としての基本的資格である。 然うでない限り、世界の混乱は増すばかりで、永遠なる幸福・平和を 実現する事は不可能である。 世界が永遠に、幸福・平和である為には、一強国だけの威力に依り て、出来上がるものではない。 世界の主導国家が主体的に、地球上の全ての国家を引率して、団結 して、自然破壊と人間破壊を最小限に止めるべく、 最大多数の人間の幸福・平和と、最小限の人間の不幸・殺戮が実現 出来る最善策を講ずるのが、国連の真の使命である。 今の国連は、世界の平和を希求する諸国家の中で、恰も、世界の暴 力団が、其れを妨害するが如くである。 有史以来、人類が生んだ唯一無比なる最高(善)の宝は、悟りである 。にも拘らず、是は、此れまで、殆ど取り上げられる事が無かったし、 今後も、益々、其の傾向は強くなるであろう。 是は、人々が、悟りの基と成る、宇宙や生命に対する疑団(念)という ものを抱かなくなって、世の習性に習い、大小、多少、強弱、勝敗、 損得といった二元相対的なものの捉え方しかしなくなってきたからで あろう。 故に、人類は、皆、永遠に、自己最高のものを見失って、世の習性の 裡に、生死を繰り返すにすぎなくなってしまった。 かるが故に、人類は、此の悟りについて語る者の真実に、耳を傾け、 其れを信じ、実践する以外、人類が、其の迷妄から脱却する事は、 永遠に不可能と成る。 此の宝は、そうした二元相対的なものではなく、人類の諸能力の及 ばない、永遠なる恒常普遍の真理を生む処の体験であり、本具仏性 として、人間に、本来具わっているのである。 故に、人類史上、初めて、其れを体験した釈尊が、嘗て、其処に至る までの、人間の心のプロセス、つまり、其の心を育んだ、肥沃、温暖 なる、恵まれた環境(風土)と伝統、そして、釈尊出家から苦行、中道 、成道、説法、特に、苦行、中道、成道のプロセスについて、改めて、 真剣に熟慮しなければならない。 人類習性の迷妄以外知らない、此れまでの人類の、悲しいかな、科 学力に依る、種々なる威圧的大量破壊軍備といった終局的苦行から 脱却するには、其の原点なる、釈尊にまで遡って、人類をして、死に 至る病から、平和と安定へと向かわしめた中道に習わなければなら ないのである。 中道を知らざる、死に至る苦行から生まれるものは、不毛なる、果て しない地獄しかない。 而も、正法苦行在りて、初めて、中道というものが在り得るのである。 従って、正法苦行の無い処に中道は在り得ない。 神への信仰には、仏教の如き、(断食)苦行に依り、死に至る病から 中道に至り、其れまでのあらゆる人間的計らいから解放されて、空に 成って、無我状態で、結果的に、或る時、悟りを体験するに至った。 此の人間生命の真実なる生命の本質(仏性)を知る者には、神(吾に 対峙する絶対者)にすがる、神の子として、其の神に反するものには 、何処までも、聖戦に因りて、勝利を得るべきであるとか、又、神の絵 を踏む者は、神への謀反者として、処刑されるといった、人間の迷い から生じた種々なる愚かなる行為等、相対的勝利を得る必要も無け れば、虚偽なる偶像に依りて、迷う事も無いのである。 人類が仏国土を築くに至るまでのプロセスに於いて、釈尊が、人類 生命が悟りに至る断食苦行を極め、人類の計らい事は一切、死に至 る病であると知るに至って、其処から、必然的帰着点(結果的正解答 )としての、「張りすぎる糸は切れる。」の仮令に在る如く、生命を活か す究極的なる正道である中道を生んだ。 死に至る病に因る、瀕死の状態から、人類の真の理想的生命に至っ た心のプロセスを釈尊御自身が、深く省察され、フィードバックして得 られた結論でありました。 其の結果、空の心にして、生命の本質(仏性)が浮かび上がり、蘇っ た。つまり、悟った訳であります。 今の世界情勢は、多くの苦行者達の中で、卓越した釈尊が、中道に 至る前の断食苦行である、死に至る病を続けていた時点を思い起こ させる。 特に、最富・強大国家が、反体制自爆テロ国家を含む世界を平和・ 安定に導くには、其の超大国家第一主義等は机上の空論で、最悪 中の最悪なるやり方で、混乱以外の何物も生まない。 認めると認めざるとに拘らず、自他一如、世界は一(いつ)なる存在 である。 超大国家ならばこそ、特に、世界の強大国家(特に、中・露)の指導 者達を引率して、力でなく、こころで統一せしめなければならない。 今、トランプ氏が真っ先に為さねばならないのは、世界最大指導者た るトランプ氏御自身が、世界人類の最高責任者として、御自身の核 心(最終目的)其の物に、真正面から取り組み、其の為に、プーチン 、習近平両氏との合意を得るべく、其の真実の対話を始めない限り 、如何に動き回ろうが、働き掛けようが、迷走状態から脱する事は出 来ないであろう。 もし、此の三者が、否、世界最高指導者足るべき者が他と一つと成っ て世界人類の平和・安定への確実なる一歩を取れば、――此処が 正念場であるが――、其の心に、真の北極星足る指針が在れば、其 の決意一つ、やがては、全ては、其の流れに合流するであろう。 死に至る病である断食苦行に相当する現段階から、科学力でなく、 其の根源たる、こころの月面着陸とも言うべき、世界人類に幸福・平 和と安定を齎す根源と成る中道たるべき、米・中・露核・化学兵器禁 止和平協定締結を、三者が、真っ先に決断・決行する。 或は、種々なる障害を乗り越えて、其れに向かって、一歩、一歩着実 に歩みを進める。 そうして、世界人類の物質的・精神的基本的条件確保を達成して往 かねばならないのである。 「為せば成る、為さねば成らぬ何事 も。成らぬは、為さぬ心也けり。」 小生が、もし、是を、活かし切れな かったら、私は、世界一の馬鹿者だ。 地 上 の 最 後 の 一 人 ま で 人間には、皆、二つのものが要る。 一つは、釈尊悟りの教え(正法)。 あと一つは、其の為の他者である。 教えを生き得る手立て、つまり、 他者無ければ在り得ない。 此れ等、在れば、万事済む。 宇宙が手に入る。是だけで十分だ。 故に、悟りと人間の命が、 如何に大切か。 此れ等、無ければ、私は無い。 有史以来、人類が今程、下落した時は無かった。 其れは、人間の三毒(貪・瞋・痴)に大脳(知力)が極度に進化したか らであろう。 人類を打ち負かすコンピューターを生み出す程、大脳が進化した。 其の知力を以って、人類を制圧してしまう武力を生み出すのは容易 に為し得るものと思う。 其の、人類を容易に破滅させ得る種々の武力の中で、生来、(消えな い)貪・瞋・痴なる人類の三毒の齎す毒害に対して、人類が如何に、 其れ等を、思いのままに、自由に制し得るか。 是が出来ないから、有史以来、現在に至るまで、人類破滅への危険 性が、或る意味で、極限にまで高じてしまったのである。 嘗て、元米大統領のオバマ氏が、退任前に、述べられた。 「ちょっと、考えてみて下さい。人類は、今ほど、良い時代は無い。」と 。文明的には、確かに、現在程、一見、富で高度文明化された時代 は無い。 しかし、人類は今程、破滅に至る危険性を孕んだ時代も無い。 是は、政治・経済の問題というよりも、もっと、其れ等の根源と成る、 人間生命の心の持ち様の問題である。 政治・経済の問題であれば、自ずと、自国の富と繁栄が中心と成り、 自国偏重主義と成り、世界人類の立場からは相反するものと成る。 しかし是では、何処まで往っても、二元相対的で世界平和は達成出 来ない。 人類が此処まで、其の真価を疑わざるを得なく成った時代も無いの である。 人間が人間であり続ける事が出来なく成りつつある此の時に、人類 を、幸福・平和・安定に導かねばならない立場の、地球上の支配階級 である指導者達が、人間以下に成り下がって居る。 地獄・餓鬼・畜生・(阿)修羅・ 人間 ・天上 〔六道〕 | 仏 〔仏道〕 (苦) (欲) (本能) (三毒) (迷) (支配階級) 此の時代に、大多数の国民は、無力に、唯々、?然として、其の修羅 場を目の当たりにしなければならないのである。 今程、地球上の人間が、ぎりぎり人間であり得なく成りつつある時代 は、有史以来無かったと思う。そうして、今程、文明の、物と精神性が 溢れ、乱れている時代も無いであろう。 此処に至って、人類は、今後、ぎりぎり人間であり続け、且つ、全人類 が向上して往ける為には、生命其の物に、根本的に、生まれ変わら ねばならないのである。 其れを、有史以来、初めて体現されたのが釈尊であった。 人類は、地球規模で、全人類が此の釈尊を学び、追体験しなければ ならないのである。 今の人間は人間以下で、向上し往く人間ではない。 世界が今後、向上して往けるには、一人一人の人間の心が向上して 往かねばならない。 しかし、其の手立て(術)が無い。確たる教えが無い。 確かなる唯一の教えは、仏性なる生命の本質であり、永遠なる恒常 普遍の真理である。 悟り(目覚め)に基づいた、確かなる心の持ち様以外に無いのである 。其れ以外は、三毒(貪・瞋・痴)害に因りて、地獄へ落ちる。 世間的善悪→知恵→悟り(中道)→本質的善悪→智慧(行智慧→ 世界人類の幸福・平和と安定の為の智慧。) 国政とは世間的善悪以下のものである。 是に依りて、世界を本質的に変革しなければならない。 世界人類の平和と安定には、世界の三大指導者である、トランプ氏、 習近平氏、プーチン氏が、世界を代表して、非核・化学兵器和平協定 を締結し、世界人類の物質的・精神的基本的条件確保を、他の如何 なる諸価値よりも、最優先にする事により、世界人類の平和と安定が 可能と成る。 日本が、史上初めての(願わくは、最後の)世界唯一の、二度に亘る 被爆体験国家である。 其れ以来70年余り、場合に拠っては再び核を使用するという暗黙の 了解裡に、アメリカを主体とする安保理諸国家に依りて、2300回余 りの、そして米では、つい三年前まで、核実験が行われ続けて来た のである。 北朝鮮が核実験を始めたのは10年程前からである。 絶対に二度と使用しない物であるならば、其れ等の実験は決して在 り得なかった筈だ。 核戦争がいつ勃発するかは、時間の問題である。 二度目の核戦争が起これば、其れ以降、地球破滅までの地獄は必 至である。 今、世界指導国家に、其の歯止めが掛からない限り、人類救済は不 可能である。 核を廃止しない限り、人類救済は、時を追う程に困難と成り、永遠に 在り得ない事と成るのは自明の理である。 核・化学兵器(威力)至上主義は、 釈尊中道に依りて、 非核・化学兵器和平協定締結に至り、 世界人類の物質的・精神的基本的条件確保至上主義と成らねばな らない。 如何なる人種(国民・宗教・民族)差別や、神(自爆テロ、聖戦)至上 主義も生命(の本質)至上主義の立場でなければならない。 世界人類の幸福・平和と安定には、人類の教えである釈尊中道に依 りて、其の迷妄を打開し、常に、世界人類の幸福・平和・安定至上主 義でなければならない。 然ういう生き方が、真に自己を活かし、周りを活かし、国を活かし、 世界を活かす。 全ての人が、其の心を持てば、世界は忽ちに、一(いつ)と成りて、 悟りたる施・慈・慧の世界を体現するものと為るであろう。 米が想定・主導する核威力支配の世界が形成されたのは、唯、米の 責任であり、日本が最初の被爆国と成ってから70年余りに成ります が、更に多大な核破壊力を生む事に依って、容易に世界を制圧出来 るという、確固不動なる信念の下に、現在に至って、米中心の核支配 世界に対する、最後の砦たる北朝鮮に対して、何と言う、為す術も無 く、世界最大の戦闘力を伴って、引き上げた米に対して、不屈の北朝 鮮であるが、両者共に、悪であり、負けである。 というのは、核を手放さない限り、何時か必ず、第二、第三の被爆国 が生ずる事は必至であるからである。 というのは、絶対に使用しない物であるならば、其れに執著する必要 は無いのである。 最終的打開突破口は、唯一、米が主体と成って、核の完全放棄 を敢行するのみ。 其れ以外は、唯、人類破滅への地獄の一本道を辿る以外に無い。 此処が、嘗て、断食苦行に因りて、瀕死の苦行者、釈尊が辿られて、 中道へ至られた経緯である。 人間が、棄てるに棄てられない、最も、拠り所とするものが、棄てられ るかどうかだ。 嘗て、吾師が言われた、「剣の達人は剣を捨てる。弓の達人は弓を捨 てる。」と。 人間にとって、真実、棄てられない物は、何度棄てても、必ず、身に付 いて、身から離れるものではない。 阿育王―BC.3C頃、中インド、マカダ地方で、兄弟全部を殺して王位 に就き、インド全土を制覇した大王。即位後九年、戦争の 悲惨さを見て、無常観を生じ、心一変して、篤く仏教を信奉 して、仏陀の遺跡を参拝し、大塔を建て、第三回仏典結集 を行い、シリア、エジプト等に仏教使節を送り、仏教宣布に 努めた。そして、全インドに仏塔を建設し、仏教に未曽有の 功績を遺した。 晩年は、政治に関与せず、聖者の暮らしを続けた。 如何なる諸価値以前の世界人類の物 質的・精神的基本的条件確保に依る 世界人類の幸福・平和と安定 確立 千日行(三時間坐睡二十四時間厳密 仏作仏行)を2017年(平成29年)6月 1日~2020年(平成32年)5月31日迄 3年間 及び生涯 行じ、 仮令、如何なる事在れども許す べからざる世界三大悪 ◎核・化学兵器 ◎ヒトラー ◎人種(民族・宗教・国民)差別 に神が在る訳が無い。人類の 三毒(貪・瞋・痴)が在るのみだ。 是等、三毒害を除滅、完全撤廃し、 根絶ならしめ、 唯、米・中・露 非核・化学兵器 和平協定締結 に至るのみ。 無限なる宇宙の如く、 始まりも無ければ、終わりも無い。 只、全く、ずれない事だ。 【 製本 (完結編) し、同様に贈らせて戴きます。】 何時でも、何処でも、何方にも、国立国会図書館から、最寄りの図書 館を通して、自由に、閲覧、複写(郵送)して戴けます様、国立国会 図書館へ納本致します。 (〒100-8924 国立国会図書館 東京都千代田区永田町1-10-1 ? 03-3581-2331) 全ての申込者が、国立国会図書館に於いて、同館所蔵の、 「 新道元宗 -釈尊と現代文明- 」の全部の複写物を入手 する事を許諾します。 H29年 5月 19日 田中鐵幹 (印環) 心の進化には終わりは無い。 終わりの無いものを了るという事は在り得ない。 もし在るとすれば、其れは、新たなる始まりの為である。 生涯日々是厳密千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)に於い て、可能な限りの、時刻護持さえ在れば、何時でも、何処でも、何方 でも、其の分に応じて為し得るものである。 ――― 正に願わくは衆生と共に ――― 政治の根本に、宗教(=悟りの教え)がなければならない。 宗教も、人間を神に縋(すが)る存在と為し、其の絶対性なるが故の 聖戦を肯定するものではなく、生命の本質(=悟り)からのものでなけ ればならない。 宇宙は生命を生み、其の哲学的把握通り、悟りの体験にまで進化し た。 悟りには限りが無い。 人間の心は、無限の宇宙の如く、何処までも進化し往くものである。 悟りを生んだ処の母体は、そうした宗教心の下に支配階級を生んだ。 そうして、現代に至るまで、其れは変わらない。 政治(現実)と宗教(理想)とが時代と共に、分離したり、互いに利用さ れたりして往くのは、互いに、消極的で、逃げの姿勢である。 政治と悟りの宗教が、本来、政教一致である処のものである以上、互 いに、緊張感を以って、一つ物と成って往くのが、積極的、向上の、 世界人類の幸福・平和への方向性である。 今、人材が無い。当たり前(=常識)の処に、人材が生まれる訳が無 い。 政治はこうで、宗教はこう。で、互いに、離れて往ってしまう処に、人 材が生まれる訳が無い。 政治と悟りの宗教との間に、互いに緊張感、矛盾、葛藤が在りながら 、一つ物と成って往く処にこそ、相乗効果としての、生きる難しさ、険し さ、厳しさ、本当の歓喜、生き甲斐、生きる意味というものが生まれ、 其れが、心の進化、宇宙の進化である。 斯ういう処こそが、人材というものを育てる土壌と成り得る。 吾師が言われた。 「大法螺(ぼら)が吹けない様では、悟ったとは言われない。」と。 政治と正法は本来、一つ物でなければならない。 是を別物に為してしまう処に、人材が生まれない原因が在る。 本来一つ物から生まれたものだ。 両者とも、行き着く処は一つだ。 人間の分別で、別物に成ってしまっている処を、最終的に一つ物と成 るべく、為して往く処にこそ、両者の働きがある。 日本には、核武力も、ヒトラーも、人種差別も無い。 我が国は、これ等、世界三大悪を免れた、世界唯一の先進国家であ る。 我が国に於いてこそ、古代、聖徳太子以来の、政治の根本に、仏教 (=悟り)を据えた施政を為し、是を世界に打ち出し、最大の恵みと被 災という善悪の両極端を体験した日本ならばこそ、我国が、世界唯 一の指導国家と成るべきであり、否、成らねばならないのである。 【 正法苦行の要点 】 釈尊当時は、時計も灯りも無い荒野であった。 唯一の手掛かりである、釈尊正法の厳しく、険しい点は、但坐不臥と (無意識の)一息の間の半趺(一息半趺)。 其れと、時刻ではなく、無限の時間と闇に抗して、目をハッキリと開け ておくというアヌルダの不臥不眠行の峻険さであった。 是に依りて、最小限の身の働きに依る、最大限の心の働き(=覚醒) が可能と成り、最も悟りに至り得る。 今から、4500年程前のインダス文明(モヘンジェダロ等)の瞑想から、 バラモン教(BC1300~)の自然法(神意)と人間法(財産と性愛)を両 立させるヨーガの行、更に、梵我一如のウパニシャッド哲学(BC800~ BC200)の、解脱を希求してのヨーガの行、更に、其れ等の苦行の終 局として、釈尊に依り、始めて中道に至った、これ等のヨーガの伝統 の中で、民衆は苦行者達を支え、そして、彼等は全てを苦行に投じて いた。そして、其処から釈尊も生まれたのであるが―――。 世界人類の物質的・精神的基本的条件確保の為の智慧を生む処の 行への智慧を生む、威儀としての但坐不臥に専念する頭陀行(10余 りの衣・食・住に関して、執著しない為の諸戒)が生まれた。 長期に亘る、24時間365日の正法苦行である但坐不臥行に於いては 、最小限の肉体的負荷と、最大限の精神的覚醒が要求される。 必要最小限の移動や、坐中、睡魔に襲われた時等には、最小限の身 の負担である事が望まれる。 由って、如浄禅師も言われた如く、緩歩(一息半趺)が最要なのであ る。 何故、常に目をハッキリと開けておき、緩歩(一息半趺)なのか。 其れは、終日の正法苦行(但坐不臥行)なるが故である。 無限の闇の中で、アヌルダは、常に睡魔に襲われながら、目を見開き 、不眠不臥行に明け暮れて、遂に、失明にまで至ったのであります。 アヌルダの峻厳さは、我々の想像を絶するものである。 其れに対して、釈尊は、「目にも保養が必要だ。」と、 「目を休めてあげる時間が必要だ。」という一言でありました。 釈尊自らの断食苦行に拠って至り得た、真実なる中道の教えを説か れた。そして、アヌルダは、中道を得、“天眼第一”と成った。 「世界の青少年を、一人でも多く参加させ、只管打坐の新道元宗 後 継者を育て、世界平和を将来せしめよ。」というのが、 原田、伴両御老師の御遺誡でありました。 今、全ての条件が整っているにも拘らず、其の人材が出ない。 釈尊以来、2500年を隔てて、行智慧の結実である、千日行(三時間 坐睡二十四時間仏作仏行)、欲界中に於いて、托鉢自活に依り、可 能な限りの坐禅行(坐睡時以外、目は開けておく)を行ずる新道元宗 、千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)後継者が待たれる訳で あります。 不眠行は釈尊の断食苦行同様、 生命を枯渇させる、死に至る病である。為すべきではない。 しかし、結果的に、為さざるを得ない様な場合には宜しい。 厳密行は、目はアヌルダであり、時間は、機械的時刻護持の、馬鹿 でやれなければ、不可能事である。 そして、何よりも中心と成るのは、 常に、永遠に、世界を指導しているの自覚、意識(=菩提心)を以って 、行じ続ける正念相続がなければならない。 釈尊も、悟られた後、バラモン梵天勧請に依りて、“他を度する”の菩 提心、生じなければ、初転法輪は在り得なかったと思います。 宇宙の(万)物は、常に流動、変遷して、生滅を繰り返す処の無常で あるが、人間(身)なる、有限な最終産物を生んだ。 一方、こころ(生命の本質)は、無限なる宇宙の如く、何処までも際限 の無い、常に新鮮なる、進化の一途である。 此の世に生み出された我が身の儚(はかな)さ、苦を嘆くべきではな い。 其れは飽く迄、身の上に関してであり、其のこころは、不生、不老、 不病、不死の、常に新鮮にして、無限なる宇宙同様、何処までも限り 無く、自由に進化し続ける。 故に、釈尊最期の御遺教(八大人覚)(=小欲、知足、楽寂静、勧精 進、不忘念、修禅定、修智慧、不戯論)を自ずから実践する事が、事 の始まりであり、終わりである。本気か、否か。 故に、真の介護は、高齢者に、其のこころを伝え教え、実践して頂く 事で、世の指針と成って、戴く事であります。 高齢者の方々の役割も無限なるものと思います。 初心(無一物)を貫いて、 生涯厳密千日行に徹するのみ。 托鉢自活と3時間閉眼坐禅(睡)24 時間仏作仏行(坐禅主体) (閉眼時 以外、絶対開眼)は、解脱・涅槃 の為の正法苦行の根本であり、 生涯日々是厳密行である。 釈尊正法骨格(文殊菩薩・大迦葉 ・アヌルダ)を滅後2500年にして、 田中鐵漢が継承している。 唯一、日本のみが、正法復興可能 国家である。 新道元宗大雲山鉄牛寺 国際参禅道場 機械的時刻護持さえやっておれ ば、後は自由だ。 今、最悪なのが、中国(露)が 世界に向かって、非核和平を唱え ない事だ。 アメリカ Last(ラスト) 坐禅の達人というものは、坐禅に徹する事に依り、坐禅行に移り、 坐禅行は坐禅を忘れて行に移り、行は、中道に依りて、生命を枯渇さ せるのでなくて、生命の本質(仏性)を悟らせる正法苦行に徹し、自己 を忘れ、三毒(貪・瞋・痴)は自ずから三善根(施・慈・慧)に転じ、他を 活かす事に至る。 諸道、皆、究極は仏道に至る。 核武装に依る世界支配、政治も又、然也。 唯、違いは、其の為に吾身を捨てて、悟りに基づいて、釈尊の如く、 大欲を持って、永遠に宝輪を転じ続け、真実なる世界人類の幸福・ 平和を完成させ得るという事である。 「剣の達人は、剣を捨てる。弓の達人は弓を捨てる。」 要するに、本(元)に戻れという事である。そうすれば、諸道に著する 自己を捨てて、他を活かすという其のこころに通じる事が出来る。 其の行く末に過ちが無いという事である。 神が生み出される500年前に、人類は、悟り、其の生命の本質に至 った。 悟りに因りて、人は初めて、生命の本質(仏性)に立ち帰って、其れ 迄、自己が抱いていた全てが、妄想であったと自覚した。 悟れば、核戦力も要らねば、人種差別にも成らねば、ヒトラーにも成 らない。 斯く在りて、人は初めて、我欲に因る三毒(貪・瞋・痴)が無いから、 三毒は自ずから、貪は施として表現され、瞋は慈しみとして、痴は智 慧と成って、無限に生み出され、人をして、世界人類の真なる幸福・ 平和に至ら使む。 人間は、先が見えて来れば見えて来る程、今の自己が採るべき在り 様も、明確に成る。 つまり、人の真の在り様について、説き得て、誤まり様が無い。 悪が悪を呼んで、何処までも地獄に下落し往くのとは逆に、 善が善を呼んで、何処までも限り無く、進化し往く。 自己の在り様について、人間には、上求菩提と下化衆生との二面性 がある。 人生に於いて、人は、こうだという生き方というものが在る。 自己の一生を、この様に生きたいというものだ。 是は、何度生まれ変わり、死に変わりしても同じ答えと成るであろう。 つまり、其れは、程度の差こそ在れ、今生一度の此の生き方に他な らない。 故に、此の一生の中に、無限の過去も未来も総て含まれている訳で ある。 其処に、人の在るべき在り様が凝縮されなければならない。 後は、其の繰り返しである。 然るに、此の二面性を、如何に為し得るのか。 人間の一生は僅か、100年である。 其の人が為し得る限りの、両面性を、厳密なる戒の下に、只、為すだ けである。 要するに、一旦、然う決めたら、其の機械に成れるか否かの違いで ある。 小生、初千日行時には、100分の1秒の厳密さで、24時間仏作仏行を 行じた記憶が在る。 其の機械ならばこその、真なる自由が在り得る。 涅槃と言うも、其れに他ならない。 そうすれば、孤独なる自殺行為に至る事も無ければ、自己を虚しくし て、虚像なる絶対者に縋(すが)る必要も無いのである。 是が、生命の本質(仏性)、つまり悟りの在り様である。 つまり、二元的な、孤立したものでなく、自他一如である。 此の時、人は最も親密に成れる。 さて、自己について語れば、 三宝〔=真実なる真理(釈尊→伴鐵牛御老師→正法(苦行))〕 と 三宝ならばこその、自他の命の尊さである。 三宝の無い生命は、平和を願わない学問の如く、世界をして、地獄 へ向かわ使めるものである。 厳密行と他の一切の自由事は、同等のものである。 更に言えば、然うである為に、自己に死んで、自己を忘れ、自ずから は機械である事が、不可欠である。 自己でなく、機械に生まれ変わる事を、即、始める可し。 三宝の根源としての千日行(正法苦行)であり、且つ、千日行(正法苦 行)の為の坐禅(禅定)である。 千日行(正法苦行)在らばこその生命(人類)の尊さである。 人類が生み出した、他の如何なる諸事を為しても、其れは解らない。 (ヨーガの完成者)釈尊在りて、人類在り。 釈尊とは、正法苦行(=千日行)の事であり、 人類とは、人間の真の存在価値である。 千日行在りて、人の真価が判る。 故に、千日行は世界人類の真の幸福・平和には不可欠である。 アインシュタインをして、湯川博士に、『平和無くして、学問無し。』と 言わしめた。 更に、『千日行(正法苦行)無くして、人類無し。』 人間というものは、悟る以外に無い生命なのである。 本来、政治家というものは、少なくとも人間以上でなければならない。 地獄・餓鬼・畜生・(阿)修羅・ 人間 ・天上 〔六道〕 | 仏 〔仏道〕 (苦) (欲) (本能) (三毒) (迷) (支配階級) が、現実は、人間以下である。 人間以下である政治を人間以上にするには、仏道でなければ為し得 ない。 故に「悟り」である。 仏道の働きは、六道を仏道に転ずる処にある。 諸悪莫作 修善奉行に基づいて、世界人類の物質的・精神的基本 的条件確保の為の智慧を生み出す政党作り、及び、此の方針に基づ いて、世界連合を構築する事。 子は親の背中を見て育つ。 大人が、消極的諸悪莫作よりも、積極的修善奉行であれば、 子は、自ずから、其の様に育つ。 青少年の自殺者が、其の交通事故の死者の3倍も居るという事は、 命というものが、全く生きる意味の無いもの、と受け止められている という事を意味している。 又、障害者無差別殺傷事件も同様で、是も偶々、障害者に向けられ ただけで、そもそも、世界三大悪(核兵器、人種差別、ヒトラー)なるも のも、頭脳での、又、感覚的なる命の受け止め方しか出来ない処に 其の原因が在る。 生命は本来、自他一如なるものにも拘らず、自己の命を中心として、 他の命を差別してしまう。 自他の命を分別で切り離してしまう。 是は、自殺も、又、無差別殺人も同様で、 自ずからの命を粗末にする者は、他者の命に対しても同様で、又、 他者の命を粗末にする者は、自己の命に対しても同様なのである。 他者の命を大切に思えば、其の事が、自らの命を大切にしている事 なのである。 命というものは、自他一如なるものであるからだ。 其処に、自ずから、生きる意味が在る。 命の本源なる、生命の本質から、生命というものが体験されなけれ ば、世の諸悪は後を絶たない。 子の教育以前に、大人の世界に対する救いの無さ、失望感である。 此れを打開するには、「悟り」以外に無い。 本来、世の苦行者達を救い、統一したのは、唯、釈尊の「悟り」であっ た。 其れまでは、在り得たものは『苦行のみ』である。 悟りは、坐禅をすれば、間も無く、体験し得る。 道元禅師の“身心脱落”であるが、 是は、其れまでに一人格を形成し、在らしめていたものが、其の根底 から崩壊(落)する体験である。 恰も、ニューヨークの 9.11、の高層ビルの其れの如く、そうして、 宇宙に生み出された直後の、原初的、“唯一なる私”の意識(自覚) である。 是に依りて、生命の本質(仏性)に立ち帰ったのである。 是は中道に因る世界である。 釈尊の釈尊たる由縁は、此の中道の弁(わきま)えである。 此の弁えに依りて、世界は忽ちに、即効的に改善され、矛盾は消え、 人心は一つと成り、結果的に無駄が無くなり、平等に恩恵を受ける。 頭脳、慣習に依る施政でなく、生命の本質から施政され、 三毒害(貪・瞋・痴)を三善根(施・慈・慧)に転じる政党でなければなら ない。 唯一無二にして、最も貴重なる人類の遺産「新道元宗」を正の世界 遺産に遺さなければならない。 悟り(身心脱落)は、坐禅をすれば、直に悟り(身心脱落し)、 生命の本質(仏性)に目醒めるが、 解脱するには、正法苦行(=現代頭陀行(但坐不臥))なる千日行(三 時間坐睡二十四時間仏作仏行)を行じなければならない。 是に依りて、呼吸が、従来の胸式呼吸でなく、不臥行(腰掛坐睡) に拠る呼吸法(腹式呼吸)に落ち着く。 此の瀬を過ぎるのに、一か月位は掛かると思うが、是は単なる呼吸 習慣の相違に伴った、全身体的変化(心臓血管系、脳神経系等)な る適応反応に過ぎない。 三年間行ずる事に依りて、解脱(正しい智慧に因り、繋縛から離脱し、 生命の働きが理想的に自由に成る事。)に至る。 此処まで来ると、本格的坐睡も手に入ったと同様である。 其れに依りて、気海丹田と言われる如く、丹田(肚)に落ち着く。 是は意識上でなくて、物理的に直立する事に依り、血圧、重力等の 関係上、肚に落ち着くのである。 故に不臥行に依りて、呼吸器系(呼吸)、循環器系(血圧)にも、身体 の適応順応性に依りて、一般人の其れとは、かなり違ったものに落ち 着く様だ。 つまり、人間が、地獄から仏へと向上して往く働きが十分に発揮出来 る有効な状態(睡眠、疲労回復、心の柔軟性等)に進化する訳である 。 地獄・餓鬼・畜生・(阿)修羅・ 人間 ・天上 〔六道〕 | 仏 〔仏道〕 (苦) (欲) (本能) (三毒) (迷) (支配階級) 頭脳の進化(特に科学技術(核兵器、宇宙開発、I T、コンピューター、 ロボット等)、多様性等の)でなくて、地獄から仏への、身心の進化で ある。 我々人類の究極的目標は、世界人類の真の幸福・平和である事は、 皆、共通する処であるが、其の為には、医療関係の技術等を除いて、 頭脳の進化でなく、身心の進化が最重要事であり、且つ、是を根本と しなければならない。 善果を齎す頭脳の進化を正の頭脳の進化(=智慧)、悪用されるもの を負の頭脳の進化とする。 頭脳の進化は、必ずしも、善果を齎すとは限らず、逆に、人類にとっ て悪用され、不可避なる最悪悲惨事を招来する。 負の頭脳の進化は三毒に基づいた頭脳の仕業である。 是が、身心の進化は容易ならざるものであるが故に、身心の進化を 忘れて、負の頭脳の進化に拍車を掛ける。 皆、容易なる負(正)の頭脳の進化の方に赴く。 身心の進化の方には、殆んど誰も振り向きもしない。 其れ故に、身心の進化が、常に頭脳の進化を凌駕しておかねばなら ない。 諸悪の根源は、人類の三毒(貪・瞋・痴)害である。 諸欲を貪る事が因と成り、果として瞋(いか)り、更に、痴を招来する。 無自覚なる貪・瞋・痴と、負の頭脳の進化に依りて、世の中は、在ら ぬ方向へと邁進してしまう。 かるが故に、世界人類の真の幸福・平和の為に、為し難き小欲・知 足と身心の進化に依りて、初めて、其の進路を正す事が出来るので ある。 無知は罪悪である。 世界人類の真の幸福・平和の為に、人は深く、正しく配慮しなければ ならない。 一年間、但坐不臥行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)を行じ得れ ば、新道元宗を説く資格は具わる。 何時でも、何処でも、誰でも日常生活に当行を取り入れ、実践する事 に依り、身心の進化には不可欠なる、精進する心、世の中を改善して 往く智慧を生み出す。 是を実践する程の人ならば、自ら、思い起って、然う決め、其の功徳 を自得すれば宜しいのであって、人からの認可を要しない。 是が釈尊でありました。 願わくば、生涯続けられるべきものであります。 本来、生命なるものは片時も停まる事無く、流動し続けるものであり、 絶えず変化し、何処までも進化し往く。 我々は、絶え間無い、無目的なる自然現象の営みから、固定した観 念は何一つ無く、絶えず流動する中に在るという、刹那、刹那生滅す る心の在り様を学ぶ。 正法眼蔵 「発菩提心」に在る様に、 在る僧が、「生き物の寿命は、何故にこの様に、速やかに消滅するの でありましょうか。」と問うた処、 釈尊は、「四人の弓の上手な射手が同時に、四方に射た弓が、落地 する前に、全て、手に採る程、生命の生滅の疾さは、これ等よりも疾 く、瞬間に移り変わって、暫くも停まらない。」と説かれた。 此の刹那生滅の道理に在る様に、絶えず流動している、一切万物が 、片時も停まる事が無い様に、此の世には、何一つ固定したものは 無い。 人が、こうだと一旦決めても、次の瞬間には、流れてしまう。 要は、物事を絞って、切り詰めて、棄てて往く方向性ではなくて、何処 までも可能な限り、努めて、努力して取り組んで、解決して済ませて 往く方向性でなければならない。 楽な為に、固定観念で以って、視野(世界)を狭くして、楽に成って往く という方向性でなくて、苦難に遭遇して、神技で全てを片付けて往く。 悟りの智慧に依りて、釈尊の如く、刹那生滅し、絶えず流動する宇宙 と、共に、驚異的に万事を片付けて往く方向性でなければならない。 「いざと成れば、爆弾で片付けてしまえば片付く。」でなくて、正しい智 慧に依りて、何処までも、万物流動する柔軟性で以って、万事が纏ま って、和解する処まで、飽く迄も、流動し続けなければならない。 固定観念で片付けてしまおうとするのでなく、纏まるまで、何処までも 苦労して骨を折って往く事だ。 世の中、やる! やろう! という人材が出ない。 人材が出ない限り、如何なる事為せども、如何とも為し難し。 消極的核威力に依存するよりも、世界レベルで、積極的に、是に取り 組む事に依りて、其の試みは、世界が限り無く改善されて往く契機と 為さねばならない。 人材が出ない限り、文明の利器も十分に善用しつつ、其の愚かしく思 える、機械的時刻護持を守護し続けるが如くに、信・鈍・根で何処まで も取り組んで往く以外には、絶対に在り得ないのである。 貪・瞋・痴でなく、何処までも、施・慈・慧。更に、愚かしい程、大愚で 在り続けなければならない。 【 世界人類の正道 】 一)核兵器を棄てられないのは、米国 のみである。米が放棄すれば、核 兵器は、此の地球上から一掃され る。 二)国連の最悪の汚点が、核兵器であ る。 三)国連が核兵器を廃絶し、国境を超 えて、物質的・精神的基本的条件 確保されていない、世界の見捨て られた人々、北朝鮮国民、難民等 の、物質的・精神的基本的条件確 保を最優先とする。 四)智慧(菩提心)が世界連合(=理想 的国際連合)に拠り実践される。 五)日本、及び世界中に、其の人材育 成塾(道場)を設置する。 六)日本僧侶が釈尊正法苦行(千日行 )を実践する。 ※是等は、即刻、人類が実行しなけ ればならない事である。 本来は、逆順である。 鐵漢の自覚(千日行(67才~70才)に於ける)は、 ・no miss 五分前(アヌルダ) ・坐睡は眠ったら倒れる。 である。 是が、中道を得た、釈尊正法苦行の根源(実体、核心)であると共に 、其の進化であり、 人をして、最も安楽へと至らしめる、解脱・涅槃への安楽の法門であ る。 老若男女を問わず、誰もが、その様に信じて、坐禅に親しむ事に依 って、坐禅が、人間生活に、生きる意味、生き甲斐、歓喜び、張りと、 潤い等を与えるのである。 特に、教育者は自ずから、是を実践し、学校教育の現場で、少なくと も、週に一時間程度は、坐禅の時間を設定する事に依って、却って、 其れが、其れ以外の時間にも、厳正なる意味をも持たせ得るのであ る。 今の此の時代に、半ば、忘れ去られようとしている坐禅が、釈尊の、 人類生命の底無しの生命力の宝蔵源であるという事を再認識、再 確認しなければならない。 坐禅をすれば悟るし、悟れば、宝蔵自ずから開ける。 嘗ては、原田祖岳御老師等も、国民皆禅を提唱されたが、 今後は、田中鐵漢が、解脱した立場から世界人類皆禅を強く訴える。 (注)一息半趺(経行、緩歩) (7ページ 下方) 道俗多く経行(徐行)為す。 「歩を移す事、半趺の量に過ぎず、足を移すには、必ず一息の間を経 (ふ)るなり」(宝慶記)。つまり一呼吸する時間を掛けて(息を観じて、息 に応じ(従っ)て、観ずべきは息の出入(歩に非ず)。)半趺(以内で)足 を移す。自然に息が入ってくる時、半歩足を移し、自然に止まるまで息 を吐き出し切ってしまう時、移した足に体重を掛けていく。 つまり、呼は、静かに、何処までも、意識的に、吐き続けるのみ、瞬 間止まり、折り返し、吸気が、臍下丹田を支点として、足底下方側か ら、(反射的に)横隔膜の方へ外気が体内に自然に入り込んで来る。 是は、恐らく、欲界中での正法苦行の実践に於いて、初めて、体験 され得るものではないかと思う。 10分間で5m程を直往来。常に右足より出、直立不動。右回り。 効用は、倦怠を医し、食を銷(消)し、身を養い、病を療ず。坐禅と一 息半趺により、命を育む苦行を可能ならしめる。 釈尊の聖跡皆、その経行処有り。 釈尊以来、如浄禅師は、「僧家の僧堂に寓する功夫の最要は、直に須 らく緩歩すべし。息を以って限りと為して足を運ぶ也。」 (宝慶記)と説 かれた如く、其の伝統中に於いては言うまでも無く、文明が高度に発達 すればする程、尚更の事、文明人にとりましては、坐禅は元より、緩歩 (一息半趺)の効用は忘れてはならないものと成ります。 数息観は、呼吸という無意識なる、自然のリズムに心を集中させます が、緩歩は、更に、身体(随意筋)の意識的な、緩やかな動きまでも、其 れに従属させる事により、こころのみならず、身体に惹起した、不知な る、頭脳に起因する諸悪(病)弊の解消に益します。 初厳密千日行(3時間坐睡24時間仏作仏行) (P.26~P.27) (1986.6(準備期間)~1987.1.1(37才)~1989.12.31(40才)) 12:00 | 昼食 散歩(駆足) 1:00 | 作務 5:00 | 夕食 6:00 | 塾 9:00 | 坐禅 (2?) 11:00 | 坐睡 (腰掛) 2:00 | 坐禅 (6?) 8:00 | 朝食 散歩(駆足) 9:00 | 作務 12:00 (各?(50分間)、毎正時10分~毎正時) 40才 塾 43才 諸労働に従事。 53才 鉄牛寺に戻る。 托鉢始める。 55才 実家へ戻る (2003年12月30日) 千日行(本格的)始める。(2004年1月1日) 生涯日々是厳密行 (2004.1.1~2017.9.30) 67才 後厳密千日行(2時間閉眼坐禅24時間仏作仏行) | 2017年10月1日~2020年9月30日 70才 千日行摂心会(二時間閉眼坐禅(三時間坐睡)二十四時間仏作仏行) (毎偶数月末日21時~翌奇数月5日9時) 9:00 | 坐禅 (3?) 11:00 (12:00) | 3時間坐睡(2時間閉眼坐禅) 2:00 | 坐禅 (6?) 8:00 | 朝課 朝食 9:00 | 坐禅 (3?) 12:00 | 日中諷経 昼食 1:00 | 坐禅 (4?) 5:00 | 晩課 夕食 6:00 | 坐禅 (6(5)?) 12:00 (11:00) (各?(40分間) 毎正時15分~毎正時5分前) 坐禅中は、毎正時の坐禅終了5分前に、坐より起ち、心中、鉄牛寺 殿鐘の在る処まで行き、毎正時の時報と共に、経行鐘を打つ。10分 間で5m程を直往来。抽解鐘。毎15分からの坐禅開始、時計チャイム と同時に小鐘三声を打つ。是は、伴鉄牛御老師への報恩の行として 始めました。又、千日行後継者が現れる事を期しての行でもあります 。生涯、何時でも、何処でも、続けるつもりで居ります。 後厳密千日行(3時間坐睡24時間仏作仏行) (2017.11月1日(67才)~2020.10月31日(70才)) ・no miss 5分前 ・開眼、定印、直首腰 2:00 | 坐禅 (3?) 5:00 | 晩課 夕食 6:00 | 坐禅 (5?) 11:00 | 3時間坐睡 2:00 | 坐禅 (6?) 8:00 | 朝課 朝食 9:00 | 準備 托鉢 (昼食) 2:00 (各?(40分間) 毎正時15分~毎正時5分前) 〔日・祝日〕 8:00 | 朝課 朝食 9:00 | 作務 12:00 | 日中諷経 昼食 1:00 | 作務 5:00 | 晩課 夕食 入浴 7:00 | 坐禅 (4?) 11:00 | 3時間坐睡 2:00 | 坐禅 (6?) 8:00 (各?(40分間) 毎正時15分~毎正時5分前) 【日常茶飯事(料理関係、掃除、雑用、片付け、作務等)は、全 ての坐禅時以外の時間(全3時間半未満)等を使って済ます。】 人類の大過去に於いて、生命に悟りを体験させ、更には、解脱・涅槃 に至ら使めた心が、他ならぬ菩提心であります。 人間が人間らしさを取り戻した処から、菩提心は生じた。 一般には、其の事を聞いても、『昔の夢物語』を聞いて居る位にしか、 感じられないものであるが、是が世界人類を幸福・平和に導き得る、 真なる人間らしさの指標である。 故に、凡夫の思慮・分別智ではなく、真に人間らしい、求道する慮知 心によって、生起するものであり、感応道交する事により、人から人 へ伝えられるものである。 菩提心というものは、宇宙の一点の大爆発が、何処までも、際限無く 膨張して往く、ビッグバンの如く、根源的には、「自己」という有限なる 存在が、宇宙という無限なる絶対的存在に対峙する処に生ずる。 吾等が嘗ては、絶対者と仰ぎ見た存在、つまり、宇宙が生み出し得る 、現実の、絶対者足る存在に成り得たのである。 3時間坐睡24時間仏作仏行という、凡夫の慮知・分別智を離脱して、 仏智見を得た存在としての吾身(=如来の法身)と為し得た我意とは 、正に宇宙に対峙する吾でなく、吾に対峙する宇宙と為し得たのであ る。 是に依りて、初めて、我欲を制するのみならず、宇宙を制する吾であ り、吾の完成、即ち成道である。 菩提心を起こすという事は、然ういう道心に感応道交して、発(菩提) 心し、吾を制する宇宙に同一成らんとして、ヨーガを生じ、修行し、遂 には、宇宙を制する吾と成る。 正に、「天上天下唯我独尊」である。 凡夫は、我欲に分別が作用して、三毒(貪・瞋・痴)と成るが、然う成 らない様に、其処に菩提心が働いて人間は悟り仏へと近づいて往く。 故に悟りを生む元と成る、菩提心を知らざる者は、人類の身の三毒( 貪・瞋・痴)に侵された分別に依って、自己の源泉なる宇宙から孤立し てしまった我の生命に拠りて、世界を地獄に陥れるのである。 世界は無常である。宇宙は刹那生滅である。此の刹那生滅なるが故 に、人類は悟る。正に無常なるが故に悟るのである。 無常、其の物に憂悩を懐くべきではない。 懐くべきは、世の危脆さ、牢強なる者無きを憂うるべきである。 常在せる如来の法身は正に宇宙の主也。 是以上の歓喜は在り得ないのである。 もしも、北朝鮮以外の世界全諸国家が、核を放棄して、唯、北朝鮮 のみが、放棄出来無い、という事は、成り立たない。 万が一、其の様な事が在れば、鐵漢の首をやる。 「為せば成る、為さねば成らぬ何事も。成らぬは、為さぬ心也けり。」 今、アメリカ (大統領)が、人類の三毒(貪・瞋・痴)害を代表している。 アメリカ 孤立主義である。 日本を含めて、北朝鮮 (中国、ロシア)を初めとする、善くも悪くも、 他全諸国家群は、総て、其れに応じる以外無いのである。 一番悪の責めを負うべきは、北朝鮮に非ず、トランプ氏其の人である 。此のトランプ氏の心が改まれば、忽ちに、全世界情勢は一変するで あろう。 人類の三毒(貪・瞋・痴)に因って、此の地球上に、核(威力)信仰と、 異常気象とを齎した。 此の両者を解消し得れば、後は、一事が万事である。 人類にとって、重要なものは、科学力に依る威しなのか。 人間には其れ以上のものの、持ち合わせが無いのか。 是位、人類が深く反省しなければならないものは無いのである。 其処に誰一人、気が付く者が居ない。たとえ、気が付いても、其の儘 、諦めざるを得ないのである。何故に然うなのか。 人間とは、其れ程のくだらない、馬鹿者の、無価値な、誇りの持ち合 わせが無い者達なのか。 人間の信仰心というものは、核信仰以上のものは不可能なのか。 だから、北朝鮮が存在する。 人間は核信仰以上の教えを持つべきである。でなければ、実に情け 無い。 誰が、核の為に、生まれて来る者が在る訳は無い。 核以上に確かなものは無いのか。 答えは、「今の処、其れ以上は無い。」だ。 だから皆、止むを得ない。 小生、田中鐵漢が、そんな脅し以上の、正しい、確かな真実を説こう。 一体、核信仰とは何だ。 核とは何だ。 核とは、自分の思い道理に成らない他者を、無効にしてしまえるもの だ。 自分の思い通りとは、「如何いう思い」か。 自己の核信仰が他者を圧倒し得る事だ。 此の信仰というものは、最早、其処には、正しい信というものは無く、 単に、威し以外の何者でもない。 今の世の中は、威しに依る世界か。 我々は脅されているだけしか無いのか。 人と人との間は、威ししか有り得無いのか。 二人、人が居たら、互いに、認め合い、助け合って、互いに、相手の 事を思って、生きなければならないし、生きるものである。 威し何ぞは、絶対に如何なる場合でも、方便でない限り、在るべき ではない。 方便というものは、飽く迄も、正道を弁えて居る者にして初めて、為し 得るものである。 其れでは、其の正道とは一体何か。 正道は在るが、一旦、威しで済まし、何れ、其の正道に導くというもの である。 では、実際に、其の正道とは? 何も無い。 其の正道が無いから、結果、威さざるを得ないのである。 だからこそ、田中鐵漢が、正に正道其のものを、此処に、解き証かし て居るのである。 だから、小生が世界人類を真なる幸福・平和に至ら使め得る正答を、 是迄、説いて来たのである。 後は、其の世界人類の教えに耳を傾け、其れを実践するという、 こころの月面着陸を果たさねばならない。 ≪ 現 代 へ の 警 鐘 ≫ 人間には、二通りの生き方が在る。 一つは、外向きの生き方。 他は内向きの生き方である。 前者は、(能)力に依るもので、永遠に二元相対的で、正道無く、争い が絶えない。 後者は、菩提心を其の原動力とし、悟りに至る生き方で、自他一如、 人を吾事の様に思える生き方である。 世界は此れまで、釈尊(古代インダス文明由来)以外は、前者に依る ものであった。 しかし、今に至って、其れ等の諸悪害による、不可避なる閉塞状況を 来した。 そこで、我々は、其の残された、此の菩提心に依る後者の生き方を、 此れから、切り拓いて往かねばならないのである。 学校教育というものは、全て、前者の、技術を教えるものであり、後者 とは全く、何の関係も無く、生命の本質(真実、真理)を教えるものは 後者である。 此の生き方は、坐禅と正法苦行に依りて、初めて、達成せられるもの である。 正に、坐禅の、生命に占める真価が如何に無量であるかは、人間で は、測り知れない。 人に秘められた、底知れぬ、無限なる原動力は、人を思う心である。 五分前とは、正に、人を思う心である。 更に、仏法を出でず、世法に応ずるべきである。 老若男女を問わず、世界人類皆禅を達成しなければならない。 後厳密千日行(3時間坐睡24時間仏作仏行) (2018.1月1日(68才)~2020.12月31日(71才)) 丁度、一年前に思い立ちまして、何度か試みましたが、三十年前の 初厳密千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)時同様、 平成28年1月1日より3年間、後厳密千日行( 〃 ) を行じます。 ・ 坐睡時以外絶対開眼。(目は常に確実に開けておく。) (正念相続) ・ 打鐘は不要により、時計の毎正時音により経行。 (聞鐘悟道) 邪悪(見)に対して、不瞋恚戒により、悪言を出さず、甘露を飲むが如 くする者は、是に依りて余裕、ゆとりを生む。 此れ、有力の大人也。 悟り・解脱は、あらゆる人間の諸能力以前の生命の本質であるので、 其れ等の諸能力を超えた世界である。 釈尊の手掌の上で、悟空が一歩も、それから出る事が出来なかった 様に、其れ等の諸能力は、一歩も、悟り・解脱の世界から出る事は出 来ない。 其れ程、悟るという事は人間にとって一大事である。 「世界人類の教え」たるものは、其処から出る言葉でなければならな い。 人類の向上(=正の進化)とは、力(勝、強)を志向するものでなく、 斯うした、三善根(施・慈・慧)による世界人類の幸福・平和を志向す るものである。 政治というものは、世界人類の幸福・平和を大前提とした上で、其の 前段階として、自国民の幸福・平和を、其の目的としなければならな い。 此処で、幸福・平和というものは、具体的には物質的・精神的基本的 条件確保という事である。飽く迄も、基本的条件である。 政治の可能性を、此の基本的事項に、其の照準を合わせたものであ るべきである。 此処を世界的に確保する事が、政治家の使命であろう。 其の政治の働きの上に、正法苦行するのに最も恵まれた大乗仏教 国家、日本を活かして、坐禅行に依り、人格向上し、悟り・解脱し、世 界人類の幸福・平和を実現する。 日本は、此の最悪なる、唯一の被爆国家であると同時に、最善なる 唯一の正法復興国家であるが故に、世界中で唯一、日本だけが、其 の両極たる体験から生まれた智慧を世界に打ち出すべき責務が在る 。 世界人類の幸福・平和には正法苦行が不可欠。 正法苦行無くんば、世界人類の幸福・平和無し。 然も無くんば、総て、どん栗の背比べで、勝ち負け、強弱を頭脳から 打ち出し、悪を正す事も止まる。 生命の本質(悟り・解脱)からの正しい判断が打ち出せない。 仏教(正法)とは、悟り、解脱、涅槃である。 悟る為には坐禅である。 解脱・涅槃の為には、正法苦行(千日行(三時間坐睡二十四時間仏 作仏行))である。 解脱・涅槃の要は坐睡である。 煎じ詰めれば、正法とは徹底した坐禅の正念相続である。 仏道の厳しさは、アヌルダの失明に尽きる。 苟も、仏道を遣っているという者であるならば、此の厳しさを忘れては ならない。 釈尊、御説法中にアヌルダが舟を漕いでいたのを、師から注意され、 不臥不眠行を決意。其の結果、失明に至った。 摩訶迦葉の十二頭陀行も然る事ながら、其の俊厳さは、此処に窮ま る。 釈尊は、失明したアヌルダに、「目にも保養が必要だ。」と中道を諭さ れて、悟り、「天眼第一」と称された。 此のアヌルダの気概は、我々のものでなければならない。 千日行のみならず坐禅修行に於いて、(正法苦行中、最も峻厳なる 天眼第一の)アヌルダの絶対開眼は、四六時中、片時も疎かにすべ からざる正念相続として不可欠である。 正法苦行が厳しく成れば成る程、其の重要性は、益々絶対的なもの と成る。 行は為せば為す程、楽に成る。是、安楽の法門である。 其れを可能ならしめるものが、此の絶対開眼である。 人類救済に繋がらず、住む事さえ出来ない宇宙探査と、人間(自然) 破壊に因る地球上の無数の被害者(として)の生存権さえ見捨てられ 、確保され得ていない、餓死し虐殺され往く、虐げられた人々の対策 と、世界中の政治家達は何れを採り上げるべきかは、人間であるな らば、明白である。 もし、その様な宇宙開発を、足元の人類救済よりも優先すると言うの ならば、是は、明らかに、世界三大悪である科学力至上主義とヒトラ ーと人種差別以外の何物でもなく、間接的なる犯罪である。 少なくとも、世界三大悪の被害者集団に対しては、世界の指導者達 が一丸と成って、其れ等の被害者に対する加害者意識を共有し、彼 らの物質的・精神的基本的条件確保を施さねばならない。 是が為されていないという事は、世界三大悪の害毒の根源である 人類の三毒(貪・瞋・痴)を未だ浄化し、悟っていないが故に、国家( 人類)間の一帯(体)感が成立していない為である。 此の一帯(体)感があれば、是等は自ずから正される筈である。 一帯(体)感が無く、自国(己)の三毒(貪・瞋・痴)なるが故に、他への 配慮を無くし、全く忘れてしまっている。 此の様な生命の本質から外れた、他を思わない、不自然な在り様は 必ず修正されねばならない。 是は、法律や権(武)力の問題でなく、善悪の問題である。 更に言えば、生命の本質(悟り・解脱)から打ち出される、真なる善悪 からの問題である。 後厳密千日行(3時間坐睡24時間仏作仏行) (2018.1月1日(68才)~2020.12月31日(71才)) 丁度、一年前に思い立ちまして、何度か試みましたが、三十年前の 初厳密千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)時同様、 平成28年1月1日より3年間、後厳密千日行( 〃 ) を行じます。 ・ 聞鐘悟道(毎正時の時計チャイムにより経行)は、打鐘悟道 (打鐘の為、毎正時五分前に経行)に及ばず、五分前に経行。 ・ 坐睡時以外絶対開眼。(目は常に確実に開けておく。) (正念相続) (141ページ 下段は、上述に訂正致します。) ≪ 生涯日々是厳密千日行 ≫ ・初厳密千日行 (最初) (1986.6(準備期間)~1987.1.1(37才)~1989.12.31(40才)) 直首腰抜力 開眼不臥即 千日行厳密 ・千日行攝心会 毎奇数月 五日間 (単独) 毎日二十一時間 厳密坐禅作法 ・後厳密千日行 (最後) (2018.1月1日(68才)~2020.12月31日(71才)) ・五分前 100 % ・定 印 左掌上に心を置くは、仏祖正伝の法。 左掌上に大円を描き、両の大拇指面(むか)いて 相?(さそ)い、世界中の三毒(貪・瞋・痴)害を 此処に封じ込める。 是に依りて、全身心の力みを抜く。 ・アヌルダ 坐睡時以外、目は常に開けておく。 ・直首腰 下化衆生 終われば 上求菩提 終わる 何れとして 上求菩提とするもの無く 又、下化衆生とするもの無し 魚の海を往くが如く 鳥の空を往くが如し 時空を超えて 自由なる命 未だ、解脱していない人は、其れが本音、建前であり、且つ、然ういう もの、として居るので、欲界中の解脱人には、其の解脱人ならではの 自覚というものが自ずから認識され、其の認識に至れば(=確信す れば)こそ、其の解脱人としての、世界を改善し往く説化力として、自 ずから表出され往くのである。 悟りが無ければ、世界平和というものは在り得ない。 何と成れば、人間の欲の方向性(=三毒)は、地獄に決まって居るか らである。 其れに、真正なる方向修正可能な、二元相対でない力というものは、 解脱・涅槃(或は、其の元と成る菩提心、悟り)からのもの以外には 在り得ない。 厳密千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)以外には不可能だ という事である。 人生というものは、其れ程、簡単、単純なものではない。 かるが故に、行の難易に拘らず、仏道の為に仏道を修すべきである。 人の為ではない。 厳密千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行) 〔=正法苦行〕の為 であるという事を忘れてはならない。 是が、釈尊の進化した、真の総府足る世界最高の智慧を生む、 鐵漢の真実である。 ・後厳密千日行 (最後) (2018.2月1日(68才)~2020.1月31日(71才)) ・定 印 左掌上に心を置くは、仏祖正伝の法。 左掌上に大円を描き、水平に両大拇指 面(むか)いて相?(さそ)う。 是に依りて、全(上半)身心の力みを抜く。 坐中の正念相続。 ・五分前 100 % ・アヌルダ 坐睡時以外、目は常に開けておく。 (守らねばならない、基本的絶対条件。) 目線正面真直ぐ。 ・直首腰 ・不動 世界というものは、米国という親会社の下に、多くの子会社が共存す るが如きである。 人間の所望を満たすべく選ばれた人間達が会社の行く末を適えるべ く働く。 内容は自他の別無く、五欲の追求に在る。 願わくば、世界人類の物質的、精神的基本的条件確保が彼等の 本分と成らん事を。 物質的、精神的基本的条件確保の上の往き付く処は、世界人類の 幸福・平和である。 是は自他の五欲を超えた処で、且つ人類の五欲を根源的に左右す るものである。 故に、真に偉大なるものは、此の五欲の確保から進む道ではない、 是等を捨てた処から歩む道である。 此の道は、然るべき民族が、進化する道を辿って、産んだ仏道なる 道である。 釈尊等の過去七仏の第一仏の言葉とされる、 天上天下唯我独尊の我は小我ならぬ大我(=無我)である。 しかし是等両者の間に一線が在る訳ではない。 小我では悟り成らず、悟らねば千日行(=正法苦行)は出来ない。 悟りでも千日行は出来ない。悟りが無いのが千日行だ。 千日行に依りて人類は解脱する。 釈尊は成道(=大悟)後、御生涯、正法苦行(生涯岩窟夏安居)を欠 かされず行じ続けられ、法輪を転じ続けられた。 しかし、釈尊の悟りも、千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)を 超えるものではない。 如何なる悟りも千日行を為す事は出来ない。 千日行在らば、悟りは一気に飲み干してしまう。 天上天下唯我独尊は天上天下唯千日行独尊である。 釈尊の釈尊足るべき処は、不可避なる人類(間)苦を初めて、悟りに 因り融滅し、至り得た安楽、解脱した心境を、人類の教えとして御生 涯説き続けられた処だ。 此の世の如何なる人間も、小生以外誰一人、此の千日行(=正法苦 行)を為す事は、今現在、不可能である。 小生の所説が真実に解る者は、小生以外、此の世に一人もいない。 吾師は、其の事を小生に伝えられ、其の可能性を確信された。 後は、唯独り、静かに、大人しく、誠実にやっておく事だけだ。 人間、ピンからキリまで、どんなに欲が張っても、小生までだ。 人生というものは、全く掛値無し。 造悪の者は堕(落)ち、修善の者は陞(のぼ)る、毫釐も違はざる なり。 2500年前の、釈尊の悟りが、小生に迄、進化したという事は、 生きる事に、如何に世界を覆い尽くす程、こころ(悟り)の光明が、 万人の共通に希求する夢であるかは実に不可思議である。 近年、其の事が如実に再認識され始めている。 真に、其の実践(証)なる千日行である。 千日行とは、人間存在(の在り様)の唯一の最極上なるものである。 是を以って、ホームページの増訂を終え、以後、世界人類が平等に 幸福・平和と成る事を衷心より誓願し入行致します。 生 涯 厳 密 日 々 是 千 日 行 三時間坐睡二十四時間仏作仏行 厳密(千日)行を、衆生を離れず、衆生と共に行ずるは、 釈尊大乗最上乗禅である。 地球と、其れ以外の天体(自と他、或いは上求菩提と下化衆生)は、 頭脳の及ばぬ、絶妙にして妙不可思議なる究極の調和(釣り合い) として在る。 是、生命の本質(仏性)であり、永遠にして恒常普遍なる真理である。 地球が地球其の物に、月が月其の物に、太陽が太陽其の物に 成り往く事が悟りであり、解脱・涅槃である。 つまり、無我なる生命、生命の本質(仏性)である。 自他一如なるが故に、地球は既に太陽でありながら、 地球が太陽に成って往こうとすると、其れは破局を迎える。 地球が地球其の物である処に我は無い。 地球が、其れ以外の物と、釣り合いを保ちながら、地球其の物である 処が、地球の真の在り様であり、無我なる真実である。 是は、遥かに頭脳(分別)を超えたものであり、 其の在り様は寂静、平和、温柔である。 仏教とは、(各)個我(間)が、此の無我なる大宇宙の様に、不可思議 なる調和其の物(=無我の実体)に成って往く教えであり、 仏道とは其の方法である。 人類の最終目的は勝つ事か? 否、その様な、相対的価値基準に留まるものではない。 では、絶対的最終目的とは何か? 他を制圧してしまう事か? 否、制圧に依りては価値を生まない。 此等、二元的なるものは部分的、一時的であり、全体的、永遠にし て恒常普遍的なる完成を期する事は、理論上、当然不可能である。 それは、『他(=人)を生(活)かす事』に他ならない。 『生(活)かす』とは、『他(=人)を生(活)かすべく、自ずから尽くす』とい う事である。 それでは、現実問題として具体的なる、其の“教え”たるべきものがあ るか? 生命の本質は時空を超えた大宇宙を貫く仏性であり、自他一如であ る。 故に、他無くして、自無し。 人類の生存可能(=物質的、精神的基本的条件確保)な幸福・平和 を、全ての人間が享有し得る状態を、此の地上に実現すべく、可能な 限り、此れを国連機関の最優先事と為すべきである。 自己の心の安らぎ・満足への欲求は、ヨーガを生み、やがて釈尊(悟 り)を生むべく、カースト制度(司祭階級(僧侶)を支配階級(政治家、王 族、武人)等の最上位に)を置き、生命の本質(=仏性)を自覚せしむ るに至ったのである。 しかし、此れ等の人種差別は、釈尊(悟り)を生む為の「必要悪」であ り、今や、成道後、釈尊が強く打ち出された、「人間の平等」を確立し、 此の人種差別は、抜本的に改善されなければならないのである。 同様に、世界人類の幸福・平和を達成する為には、人間関係が二元 的対立意識でなく、三毒(貪・瞋・痴)が仏性に因りて転ぜられた三善 根(施・慈・慧)に基づく、最も親密なる人間関係に於いて、でなけれ ば為し難い。 斯くして、核武力という「必要極悪」は、即刻、「非核和平協定締結」 へと転じられねばならないのである。 人類が、「必要極悪」なれども、即刻、「非核和平協定締結」への決断 力を持てば、他(種々なる人種差別と中東問題等)も万事、同様に、 我々は即身菩提し、代々、其れを展転して継承し往く事に依って、地 上を宇宙の楽園へと転ずる事も可能である。 生命の進化に因る、500万年程前の人類の出現以来、精神(大脳 (新)皮質)の進化は、釈尊(悟り)を生み、更には、現代に到る迄、釈 尊も進化を遂げ続けている。 此の事実は、明らかに生命(精神)というものは、その恩恵(=果実) に与かるべく進化するものであるという事の証しと成る。 欲そのものに善悪がある訳ではない。 其れが三毒(貪・瞋・痴)に基づけば悪(地獄)を生ずるが、小欲・知足 、菩提心に基づけば善(世界人類の幸福・平和)を生む。 人類が三毒を根底とする負の進化に渉らない限り、人類の未来は、 積極的なる正しさに依りて、正の進化を遂げ続けるのである。 特に、4500年程前、古代インダス文明に於いて、世界一肥沃な穀倉 地帯原住民の生活安定から、大脳(新)皮質の働きに因る慮知心なる 心(精神)に因りて、ヨーガが発生し、やがて菩提心が芽生え、求道、 悟りへの道が開かれた。 生命(精神)の、史上最も本質的なる発露である。 今や、悟り、解脱・涅槃に因り、三毒(貪・瞋・痴)を脱却し、三善根( 施・慈・慧)に転じ得た自由なるこころ(悟り)に因りて、地球規模で世 界人類の幸福・平和実現の為の智慧を生み出し、只々、是を只管 実践する事が、生命完成であるという事を新たに全人類が深く認識 し、享受しなければならないのである。 善悪を分かつ、斯うした人類の二つの生き方、 一方は、勝ち負け、強弱、貧富等、二元的なるものに執著した、三毒 (貪・瞋・痴)に因る生き方と、他方は、小欲・知足にして、菩提心で以 って悟り、解脱・涅槃に基づき、三毒を転じ得た三善根(施・慈・慧)に 因る生き方とがあるが、世界中の如何なる人事も、又、他者を制圧し てしまおうとする事も、後者以外は、総て前者の域を出ないのである。 此処に到れば、現実問題として、世界人類の幸福・平和の為には、 我々人類は後者の生き方に依る以外には在り得ないという事が 明白である。 此の様に、正なる進化を遂げた大脳(新)皮質の無上なる価値が未 だ諸分野に於いて、十分に認識され、発揮され得ず、未開の、成道 以前の苦行者達の精神世界から脱却し得ていない。更には、「生命 の本質」から離れ、遠ざかって、唯、無闇矢鱈に、多様化するばかり で、人間精神は恥を忘れ、無智蒙昧に極まり無く悪質化してしまって いる様に思えてならない。 せめて、人類は、現代の精神から原点に立ち帰り、過去の人間らしさ を取り戻すべきである。 人間というものは、生命の本質を自覚(=悟り)すれば、二元的な事 柄(勝ち負け、強弱や貧富等)は、本質的な問題ではなく、二元的な ものに執著し、人類の三毒に毒せられた、不幸な状態・地獄を、更に は、より積極的に人為的自然破壊迄含めて、飽く迄も、信・鈍・根気で 只一筋、厳密に正して往く事が最優先事であり、此れが世界人類の 幸福・平和への最短路と成る。 神なる存在は実在せず、人間の理想像としての神的人間であり、仏 も、人類の生存可能なる世界は、菩薩道であって、此れを離れた仏な るものは在り得ないし、凡聖を超えて、どんなに極めても、往き着く処 は、人の住めない世界である。 此れ等は、あたかも、人類が地上を置いて、大気圏外に住もうとする が如きもので、人類の破局に他ならない。 「剣の達人は、剣を捨てる。」、「弓の達人は、弓を捨てる。」。 仏道の達人は仏道を捨てて、真理(=生命の本質(=仏性))に因り、 「他(=全ての人)を生(活)かす」。是が真なる仏道である。 政治の達人は政治を捨て、真理(=生命の本質(=仏性))を根本とし 、「全ての人を生(活)かす」。是が真なる政治である。 人事、諸道、総て、往き着く処は、「全ての人を生(活)かす」という処に 、自己の生死を離れ、永遠の生命を生きるという、生きる意味・意義 があり、生きる歓喜がある。 私は、是といって、何も専門が無い。 只、「生きてきただけ」で何もやっていない。 生涯日々是厳密行。 唯、世の中が、「斯う成ればいい。」と、そればかり。 全て、人任せで、自分は何もしていない。 どうも、それで終わってしまいそう。 飽く迄も、人に「斯うあってほしい。」と願うばかり。 『如何なる道も、本物でなければ、 人を真に動かす事は出来ない。 その人のものです。 では宜しく御願い致します。』 好い加減な、取り組み方からは、好い加減な結果しか得られない。 「為せば成る。為さねば成らぬ何事も。成らぬは為さぬ心なりけり。」 『本物とは、如何なる事か?』。 中途半端、好い加減でなく、 常識的、世間的価値判断を超えて、真に徹底した本気度で、 宇宙の楽園、世界人類の幸福・平和を築く為、 自(みずか)らのみならず、他全てを同様に導く為、 自(みずか)ら尽くして、真っ先に、其の手本たるべき軌範として、 完全非核化を誓い、実践する。 其れによりて、世界が一致団結する契機と成らねばならない。 其れに対する反論は起こり得ない。 「自(みずか)ら、完全非核化を誓い、実践。 正に願わくは、世界と共に。 世界人類の平等なる幸福・平和を体現し、世界繁栄を達成せん。」 仏教と梵天勧請とは不可分のもので、 後者、即ち下化衆生の由縁無くんば前者は在り得ない。 後者は仏性からの(真なる)生命の声である。 成道後、悟りの境地の中で、釈尊に、人伝に聞いた嘗ての苦行者仲 間の居るという所迄の、徒歩による10日間の野宿を強いらせたもの は、仏性(=生命の本質)の働きに他ならなかったでありましょう。 無窮なる仏道は、梵天勧請に始まり、無窮なる下化衆生と成り、無窮 なる上求菩提と進化するのである。 要するに、振り子の如く、両者が共に最大限の働きを保持し得て、且 つ双方間に24時間常に隙が無いと言う事である。 下化衆生のみが上求菩提(行(坐禅作法)の厳密さ)と等価であり得る 。そして、決して、一方に偏らない処に仏道が生きた教えで在り得る。 そういう訳で、仏道(=悟りの当体)は常に活発発地としていなければ ならない。 自分の事で如何斯うは無い。 在るとすれば、唯、安楽を貪る位の事。 ところが、一切衆生悉有仏性(=本具仏性)。 地上に仏性が行き渡っている処から、物事を見究めるから、 人の事で、 如何せないかん。斯うせないかん。 折に触れて、喜怒哀楽が働く、興る。 要するに、生命(=人)に係わって初めて、人の為にと言う、 此処に、生きて居る意味が在り、意義が在り、歓喜(よろこび)が在り、 吾命を超えた永遠の生命を生きる、即ち生死を透脱する風情が在る 。 これ等の根本は何かというと、 其の種子は、 坐禅(=自己の生命(いのち))から判る(得られる)功徳、恩恵、即ち、 生命の静寂、満溢、温柔、つまり、生命の本質から溢れ漏れるもので あります。 其れが、貪欲を離れ、悟りを開く基礎作りが自然に出来上がって往く 訳であります。 又、正法苦行(千日行)を行ずる事により、精進という事が生死を超え ている事も解り、行ずるとか、又、一般的に布施に他ならない働くとい う事が生命其の者の働きであるという事が解っている。 自我が無心であれば、ふっとした折に、五欲を離れた生命の本質(仏 性)を悟る、解脱する訳であります。 生老病死の四苦に於いて、生苦とは、生きる苦しみである。 何故に生きる事、其の事が苦であるのか? 生活(食う事)が出来れば、生きるというのは、如何生きたらよいのか 解らない。解らない処から生ずる苦である。 一般に、自然に遣っておれば良いのであるが、 如何に進めば良いのか解らないという苦は、其れが解るまでは永遠 に解決出来ないのである。 如何生きれば良いのか? 又、生きるべきなのか? 又、何を為せ ば良いのか? 太古に其れがヨーガと成った。そして其の結果、釈尊が悟りを開いた 。此処で初めて人類は其の正答を得たのである。 其れから2500年経った今でも、其の正答を得ておりながら、 生老病死の四苦の老病死によって人間は、ほとんど皆、此の生苦か ら脱する事無く、死んで往くのである。 又、だからこそ人間は、種々の事を為す、為して来た。 学問、スポーツ、芸術等々………。 それでは、これ等多分野に於いて、其の答えが得られたかというと、 スポーツは競って勝つ事。 宗教は釈尊悟りに因るもの以外は実在しないものであり、 学問は解釈であって、参考、ヒントには成り得ても答え其の者には成 り得ない。 芸術は個性を表現するということが其の答えであり、或いは、表現さ れたものへの酔いや感動の域を出ない。つまり人間を超えられない。 酔いや感動が如何に生きるべきかの根本的答えと成り得るか? 酔いは飽く迄も酔いであって、覚醒すれば、仮のものに過ぎない。 感動は其の場限りもので瞬発的なるものである。 一時的な精神の高揚に過ぎない。 酔生夢死に止まる。 人間、如何に生きるべきかが解らなくて富楽に生きる事が出来るの か? 「現代は、物質的豊富さと、其の闘争の精神的酔夢の中に」 日夜、明け暮れし、終始している。 是は飽く迄も我欲の延長線上に在り、仮の欺瞞にすぎない。 「如何に生きるべきか?」に本質的に直面し、真摯に其れと取り組む 事をしない。 現代という、此の「如何に生きるべきか?」の全面的に袋小路に入り 込んで、行き詰まりに到った此の時を迎えて、何故に、其の正答であ る坐禅(禅定)によりて、多様性ならぬ智慧を生もうとしないのか? 是が幸福と繁栄への最短路である。 少なくとも、理想世界に於ける義務教育であるならば、其の教育内容 に少なくも週一時間の坐禅を組み込まねばならない。 そうして願わくば、世界中の介護施設においても同様に為すべきであ る。 人生の最初と最後に、その様にけじめを付ける事によりて、其の中身 を如何に真に充実したものに為し得るかは測り知れないものが在る。 更に、人生の壮年期においてこそ、坐禅を行じつつ、世の中で働く事 は言うまでも無く、更に、睡眠時間の1~2時間を減らしてでも、熱心 に坐禅を行ずれば、睡眠の深さに依る代償作用によって身体は十二 分なる順応性があり、其れによって得る仕事への功徳には想像を超 えるものが在る。 宇宙の本質はエネルギーであり、是は、 時間と共に存在し、完成させる(する)力を具足する。(=本具仏性) 因って、生命(更に人)を生み、24時間365日、此の一刻一刻に、同 様に、未完成を、隙無く完成させる力が具足している。(=本具仏性) 行の厳密さは、斯くたる我意の通らない宇宙の真理に由来するもの なるが故である。 人間は、此の宇宙の真理に逆らえば、必ず、逆らっただけの報いを 宇宙から受ける。 又、適えば、適っただけの善い結果を招来する。 「因果の道理歴然として私なし、造悪の者は堕ち、修善の者は陞(の ぼ)る、 毫釐(ごうり)も違(たが)わざるなり。」 宇宙真理の微妙なる働きなるが故である。 是が、因果の法則であり、不昧因果(いんがをくらまさず)である。 宇宙の真理を能く弁(わきま)えた人、つまり悟った人の教えに従うべ きであり、其れが可能な限り、此の最短路を歩むべきである。 又、根本を決定出来たとしても、其の後の、細部(各事象毎)の詰め が、本腰を要れる処である。 此処が、本物に成れるか否かの分かれ目となる。 そして、少なくとも、自己として採り上げるべき物が何一つ無くなるま で了するべきではない。 是は、二元相対的な物でなく、自己一人の自覚の問題である。 (悟り、解脱) 涅槃とは、実に24時間365日、生涯、否永遠に変わる 事の無い、了する事の無い、細部に亘る厳密なる反省と自覚の孤独 なる連繋(携)作業である。 是れが、「雨降って、地固まる。」である。 後 厳 密 千 日 行 (2018年7月1日~2021年6月30日) 釈迦牟尼仏 ― 生涯石窟夏安居 摩訶迦葉尊者 ― 鶏足山 三岳 即 身 心 即 佛 スポーツの起源は、身体の遊び(気晴らし、楽しみ)、競争、優劣、勝 負である。老若男女を問わず、此の遊び心は、世界を制覇するかの 様な爆発的熱狂を伴うが、一方、世界をリードする精神面への関心は 一般には、殆ど表面化しない様だ。 ヨーガの起源は、精神的なるもので、人間と云う、無常の有限なる存 在が、恒常為る無限の絶対者(力)への憧憬からのものである。 其の結果は、西洋で神を生み、東洋で悟りと為った。 そうして、神は、しばしば、不可避なる惨劇の大義として正当化され、 悟りは超科学的為る心の世界人類の幸福・平和への智慧を育んだ。 人間が人間であり続けるには、 太陽が太陽であり続けなければならない。 もし、太陽が、地球(=地上の人類)の為に等と憶測したりすれば、 太陽自体の働きを失ってしまうだろう。 太陽は、地球(=人類)の母体であって、それからは、超脱とした太陽 独自の働きである筈だ。 此れは、正法苦行(=千日行)と、人類との関係に於いて、正に其の 儘、真である。 此れは、宇宙の恒星が生命の根源であるのと同様にである。 宇宙には無限の恒星が在り、生命の素でありながら、 正法苦行(=千日行)者が現れないという事は何故か? 人類は其れを改めて再認識しなければならないのである。 小生、千日行の直接的契機は超新星爆発を基として、恒星は生ま れると云う事を知った時である。 「星も生命体同様、其の一生と云うものが在る。 特に、超新星(太陽の8倍位)では、宇宙間の全ての元素のうち、 水素、ヘリウム以外の、其れより重い、総ての元素が、其の内部で産 み出され、100年~200年に一度位の爆発に因りて、自らは完全粉 砕して、其の周囲に飛散し、其れ等を核として、星は生まれる。」 自分も、そう云う一生を送りたいものだ、と発起した。 自転車で、東京から日本の海岸線を時計回りに、時刻厳密に野宿し ながらの修行の途中、最も霊感を得た新潟県糸魚川市の山の手の某 公園で千日行の準備に取り掛かった。 路傍で拾った木綿のジャンパーを着て、木立や屋根よりも高く積もっ た豪雪の中に埋もれた公衆便所の入口付近の僅かな隙間から、 滑り込んで、其の中で、夜を徹して朝まで坐禅を組み、、眠くなったら、 雪上に這い上がり経行。 朝、帰りにパンの耳を分けてもらいアパートに帰って三時間眠り、昼食 後、列車で種々の肉体労働や塾、家庭教師等をして、夜、列車帰宅、 それから、直接輪?(かんじき)に履き替えて一時間半程、行場まで 登り、直ぐ坐禅に掛かった。 週に一度、蛇口の水で身体を清めた。 アパートには、キャンプ用のガスバーナーしかなかった。 若い頃と云うものは、有り難いもので、其れ以外には無い、当たり前 の事で在ればこそ、何とも思わなかった。 そうして、此の偉大な太陽の働きを思って、正法苦行(=千日行者)の 人類に対する在り様と云うものも、即自に判明するのである。 そうして、是が人類を導く、神仏を超えた無常の働きと為る。 人間(類)の常識を太陽に適用すべきではない。 逆に、人類は太陽の恩恵を最大限に活用しなければならない。 太陽は独自に太陽であり続ける。 其れが真理である。 そうして、此の真理に逆らうべきでない。 太陽が、人間の世界だから人間を信じて、其れに委ねる以外には無 い等と、もし、そう思ったとしたら、其れは太陽が其の立場を見失った 事に他ならない。 信じられるのは、其れが宇宙の真理に合致する場合のみである。 功利主義的な、表面的な、浅薄なものを決して信ずるべきではない。 太陽であるからこそ、其の立場を何処までも保持し、、人類を育て生 (活)かして往かねばならない。 「為せば成る。為さねば成らぬ何事も。 成らぬは為さぬ心也けり。」 是は、 「為せば成る。」一句で宜しい。 もっと言えば、 「為す。」のみで十分だ。 此処が解れば、もう既に、間違い無く、「宇宙一」である。 世界の非核化!然り。 人為的自然破壊の復元!然り。 是等は人類の「貪り」が、其の母体である自然に及ぼした悪影響が 如何に驚異的であったかを示唆する、我々人類が今に至って情け容 赦無く体験させられる、自然の、人類に対する正直な自然の驚異(悪 業報)に他ならないのである。 今後、世界は特に米・中・露が主体と為りて、夫々の指導者達が 完全に一致した認識の下に、共感し、地球上の将来を構築する立場 に立ち、実践して往かねばならない。 此の三者が、相互に反目し合ったり、狭小なる利害関係に基づいて、 自国を打ち出すが如き態度では、此れからの世界は一歩も其の歩み を進める事は不可能と為るであろう。 此の無限なる宇宙間の一点に生じた奇跡的生命為る我等が地球上 の将来の在り得べき最善の状態を構築すべく、同一の認識と共感を 持って、真理に基づいた方法論を実践して往くだけである。 此れ迄、人類は前進し続けて、地上を極限に破壊してしまう程迄に 至った。 此れからは、多様性の時代に入っている。 此れ迄、西洋文明に見られた、人類の物心両面に於いて、 物を産むための世界構築に於いて、其の能力が限界に至り、其処 から、寡って東洋に於いて為された、取分け、其の精神世界に於ける 人類の可能性を追求する世界が、既に人類の可能性の突破口を見 出したのである。 其れが、極東の日本の吾新道元宗に於いて結実し、世界を凌駕す る勢いで、此の機に臨んで、生命の本質を説いているのである。 此れに拠りて、初めて、今後の世界の可能性に光が見え始めて来た のである。 現代に於いて、西洋の前進は容易であるが、、嘗ての東洋の如く、 後退する事は、為すに最も困難である。 進歩に対する「退歩の脚」は、人類に残された唯一の、我々が採り得 るべき可能性である。 此処で脚と云うのは身の置き処、立場と云う意味であり、 是は消極的な態度を云っているのではなく、 世の中、進歩ばかりが真(真)ではないと云う事である。 時と場合に依りては、「退歩こそ真(ま)」である。 是は他でもない、釈尊が既に正解答を出している。 我々は、其の「教え」に殉ずるのみである。 欲其のものに善悪が在る訳ではなく、 貪る処に悪が生ずる。 解脱とは五欲から離脱し、執著しない事で、 最も容易で、解り易い例として、性欲が在る。 そもそも、求道に吾身を投じた小生にとっては、性欲なんぞは、 念頭に上らない。 生涯厳密千日行を掲げる小生からすれば、世界人類の幸福と平和 の為の平等なる物質的、精神的基本的条件確保の為に、生涯一人 で尽くそうと云う菩提心を起こして、働ける政治家が世界に3~4人も いれば世界の流れは変わるであろう。 そういう人物が政界に現れないのが、寧ろ不思議な位である。 釈尊正法の要と為る、修禅定、修智慧を援ける楽寂静(=遠離)(一 人居を楽しむ)と御遺教に在る様に、自分は生涯一人で居ようと、永 遠にそう思う人にして始めて地上の諸難問を無我の立場から、最も 適正なる答えを打ち出す事が出来る。 又、最も困難なる例として、睡眠欲であるが、是には千日行(三時間 坐睡二十四時間仏作仏行)が在る。 しかし、多くは現実的には相矛盾する事が常である。 両者とも、其の立場上、真であろう。しかしながら、 一生命体として、一(いつ)に為る事が此れから将来の生命の進化の 辿るべき、否、辿らねば為らない道程である。 我々は坐禅し、滅苦の道を辿らねば為らないのである。 是こそ、真の人間の採るべき正道である。 人種差別為るものは、皆平等の人間でありながら、其れにカテゴリー を設定して、其の枠組みに従って人間其の者を判別してしまう。 此れ等は強者、弱者の一方的なる我欲の為す技である。 今、学校教育其の物が悪の温床である。 教育の現場が悪党製造所である。 分かった人間を生み出す。 (本当は、真実には解らない人間だ。) 要するに、人類は此れまでの如何なる立場に於いても、 結局は、釈尊出家から、其の生涯の道を辿らねばならないのである。 学校教育為るものは、其の過程に於いて、殆ど無意味なるものに過 ぎない。 大学の図書館で偶然、釈尊の坐禅の薄い小冊子を見つけて、 其の教本の通りに、アパートの自室で、一人、坐禅を組んでみた。 其の時、此れまでの自己が体験した事の無い、不動為る確かさを得 て、コレだ!と思った。 其れ以来、今日迄、坐禅一筋に四十年余に為る訳ですが、 其の後、伴鐵牛老師御指導の安国寺専門僧堂開単攝心会で師に 相見し、一から二年目位の頃、一人で自室で坐禅をしていた時、突 然に9・11ニューヨーク高層ビル崩落の如く、其れ迄の自己が完全 崩壊した。正に身心脱落した。 其の様に、本気で坐禅をすれば、数年で悟る。 生涯の中で最も明確なる最初の悟りの体験である。 出家したのは、其の数年後で、其の後、初千日行(三時間坐睡二十 四時間仏作仏行)(坐蒲上腰掛坐睡)を終了し、其の後、十年間、塾 や種々な労働をしながら、睡眠で行を続け、五十五歳の時に坐禅時 間も取れない程に労働条件が悪く為った為に鉄牛寺(古庄氏住職予 定)へ行った。 此の時、鉄牛寺へ往く準備期間中に「生命の本質「」(仏性)を悟った (解脱した)。 其の後、鉄牛寺から出ざるを得なく為って、 十二月三十一日に自実家に帰って、翌日(=正月)から、福岡県内 を托鉢しながらの千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)を本格 的に始めた。 今から振り返れば、初千日行は心身共に一つの健康法として、非常 に望ましいものであり、呼吸法の、胸式から腹式への変化を過ぎれば 何等問題は無い。 是が人間世界に光明を射す真の突破口である。 極めずは、 初厳密千日行(37歳~40歳)(三時間坐睡二十四時間仏作仏行) 時の、30年足らず前の初心の尖(とが)りを再び繰り返すのを止め、 ゆとりを持った確かさ(厳密さ)で行ずると云う事。 継続するは、 ・初厳密千日行(55歳~68歳)(三時間坐睡(本格的)二十四j間仏 作仏行) ・後厳密千日行(68歳~71歳)( 〃 ) 小生68歳であるが、四年程前、四十年間余り前の自ずからの出会い 体験を考慮して、ネット(ホームページ)を始めた。 それから一年半後製本、其れから二年間程して其の完結本を製本。 そして1年程に為ります。 アヌルダ(盲比丘)が、釈尊の御説法中に舟を漕いでいたのを叱責さ れ、不臥不眠行の誓いを立て、遂に盲目と為り、中道を弁(わきま)え られて天命開悟された釈尊に依りて、「生命の本質は三善根(施・慈・ 慧)を具足する向上一路門であり、目にも保養が必要である。」と諭さ れて悟り、「天眼第一」と称せられた。 正しく厳格なる摩訶迦葉尊者の頭陀行は言うに及ばず、其処に、 小生、十年程前から、釈尊及び、其のサンガ内の正法の原点の峻厳 さの極みを感じ、三時間坐睡二十四時間仏作仏行の可能性を思って 居た。 今、後厳密千日行を行事つつ、 夜坐終了後(PM11時~)、翌日の準備に一時間程掛かるので、自ず から0:00~2:00の二時間閉眼坐禅に為っている。 正法苦行に於ける、其の普遍妥当性を自得する。 後厳密千日行(2018年8月1日~2021年7月31日) (2時間閉眼坐禅24時間仏作仏行) ・5分前 100% ・アヌルダ 閉眼坐禅時以外、目は開けておく。 ・定印 ・直首腰 ・不動 今から5500年程前から古代インダス文明が3000年間程の人間生 活確立の準備段階を経て、人間精神生活の完成に至る迄に、信仰、 哲学、社会的諸規範等をうみながら、其れ等の結実した釈尊悟りを 可能なら使めた中道に基づいた正法から、時代の変化と共に種々 様々なる教えが派生して来たのであるが、其れ等の生活様式(風土、 環境)と文明の甚だしい隔たりと著しい進展等を許容して、しかも釈尊 正法の、永遠なる恒常普遍の真理に至る、真正為る厳格さの核心を 見失う事が無ければ、宗教界のみならず、人間生活の全ての分野( 政界、スポーツ界、学界、芸術界………等)に亘る生命の働きの基本 (根本)に生命の本質(仏性)に基づいた、測り知れない、想像を絶す る生命力(活動)を生み出すのである。そうして初めて、生きた生命の 教えが地上に確立するのである。 つまり、(瞑想、ヨーガ、精神の集中からの)禅定、坐禅が生命を悟ら 使め、更に三毒(貪・瞋・癡)を三善根(施・慈・慧)に転じ、其処から生 み出される智慧を得る事が出来る。 此れこそ釈尊が目指す処のものである。 人類が地球上で初めて遭遇した、此れ迄の西洋的なるものと東洋的 なるもの、即ち換言すれば進歩と退歩、つまり人類の生命能力と、 其の根源に存する生命力との関係、及び其れ等の有機的調和と均衡 。 物質から無生物から生物、つまり宇宙から地表から動植物。 そして、人類。 身体の進化は、略(ほぼ)限界であり、 其の物質の個別性から遊離、離脱する(悟る)精神の進化は、 自覚に始まり、悟り、解脱し涅槃に至り、 無限なる物質と際限無い精神(心)。 相対的特殊(個別)性の多様性に終始する物的進化と普遍的な多様 性ならざる、謂わば釈尊手掌上の悟空と釈尊との関係に似ている。 あらゆる物質の素は元素(水素)であり、此れを素に一切の物質が生 ずる。水素原子無くして万物無し。 等価に、個無くして多無し。一国民無くして国家無しである。 国家意識と云うものは、其の一国民の自覚の上に存在するものであ り、国民の自覚無くして、真の国家は在り得ない。 個人の人間としての自覚は、万物の中の一個としての自覚であり、 万物に証せられる個の体験に基づいている。 此処が、心的進化の出発点である。 物的進化は、自由奔放に赴くが、 心的進化には、是が其の真実なる教えたる入口が在る。 つまり、退歩の入口である。 現代と云う時代、は多様性為る世界の物質的進化の行き詰まりの 渦中での、心的進化への気付きの時代である。 余りに是迄、洋の東西間と云うよりも、物心間のアンバランスであっ た。要するに、我欲に基づくか「人を生(活)かす」に基づくかの認識 と自覚に帰着する。 今と云う此の時代には、人類が此の地球上で始めて遭遇した、自覚 の無い我欲が奔走した悪業報に因って、人類が地上での如何なる 営みも及ばない程の、人為的悪業報に因る報復を受けざるを得ない 、不可避の時代であり、是から脱却するには、人類死滅に至る前に、 狭小なる個的利害関係を超えて、世界が唯一つの目標に向かって、 一丸と為って、退歩の脚と云う人類救済への初めての英断を下すべ き時代に遭遇し、其れに直面せざるを得ない時代である。 是までの人類の貪著に因る、大脳(新)皮質の負の進化によって為さ れた自然破壊に因りて、地表、動植物の異常、死滅からの自然の復 元を可能なら使めるには、是までの人類の犯した悪業を深く反省する と共に、其れ等を払拭するだけの善業を実践するのでなければ、最 早、人類の将来を望む事は出来ない。 其れには、此れ迄、微妙不可思議にして、絶妙なる大宇宙の調和と 均衡により営まれて居た我等が生命の母体為る自然を破壊から回復 させるには、自今已後、人類の退歩の脚(脚;立場、身の置き処)が 不可欠、不可逆にして必須である。 身体に異常を来たした病人が、其の生命力(自然治癒力)が発揮さ れ得る様に、休(保)養が不可欠であるのと同様に、人類のみならず 地表自体も同様に、中道を弁(わきま)えねばならない。 さもなくば、其れは、苦行者達の「死に至る病」に他ならない。 自他一如は素より、万法一如であり、人間のみならず、其の母体為る 自然(宇宙)も別ではない。 人類が其の生命を正の進化に導き、繁栄する為には、自然(地表)も 、其の調和と均衡が乱れ不可逆状態に陥らない様に中道が不可欠 である。 本来、進歩と退歩とは、「急がば回れ」の諺にも在る様に、振り子の 如く、相乗的に何処までも無窮の進化を遂げ往くのが理想的なので あろう。 核抑止力と云うものは欺瞞である。 絶対に使用しない物を確保、保有する訳が無い。 必要極悪こそ、速やかに排除されねばならない。 人間世界は其れよりも最早、 人為的人間破壊以前に、人為的自然破壊に因る弊害が絶望的驚異 である。 今現在、我々人類が日々直面している(無)生物の異常現象と云うも のは、早晩、人間世界に其の儘、直接的現象と為るのである。 吾々現代人は、益々高度文明化されて、自然の営みから遊離して、 日常生活を送っているが為に、今現在はマス・メディアの情報網を通 してしか直接的には身を以って、其れ等を体験する機会が無いので あるが、人類の是非に拘わらず、次には吾々が踏まざるを得ない運 命に他ならないのである。 核破壊も自然破壊も共に人類の貪著に起因し、其れに惹起された、 生命の破滅に陥落しかねない、人類最悪、最大の恥辱であり、即刻、 決死の人類の覚悟で臨まねば、永遠に悪化するばかりで改善する 可能性の在り得ない、既に人為を超えた最重要課題である。 大宇宙(自然)は、無我其の物の姿である。 本来、生命の本質(仏性)も、無我其の物である。 本質は無我であるにも拘らず、人間と云う者は我欲の生き物である。 従って、仏道為る教えが生まれたのである。 何故、人間に為ると、我欲が生ずるのか? 無我為る生命の本質から進化して、人間と云う取分け高度なる自立 機能を有する生命体が現れた。 其処を掌(つかさど)っているのが大脳(新)皮質である。 従って、人類の未来は、此の進化に他ならない。 高度なる自立機能の基(もと)と為るものが我欲であり、五欲が其の 基本的なるものである。 是等五欲が少欲・知足であれば自立機能に弊害が無いのであるが、 貪著すると、利害、損得、勝敗が生じ、闘争・戦争が起こる、 諸悪の根源は「我欲の貪著」である。 「心(五欲)を縦(ほしいまま)にすれば、人の善事を喪(うしな)う。 此れを一所に制すれば、事として弁(=処理する)ぜずと云う事無し。 直ちに精進して心を折伏すべし。」 生命の本質は仏性であるが、生命の進化に依り、自立の為の、欲を 形成、自重すべきが、制圧に為ってしまわない為に精進が在り、更に 坐禅が在る。 坐禅に拠りて、智慧を生み、生命は其の本質に至り、悟る。 「智慧在らば貪著無し。」 智慧を生む最善のものが坐禅である。 由って諸悪の根源を打開する最善は坐禅である。 坐禅に拠りて智慧を生み、行智慧の最たるものが正法苦行(千日行) であり、正法苦行に拠りて、解脱に至る。 本来、自他一如であり、自利利人の法は一法であるり、自利即利他 で皆具足し、普(あまね)く自他を利するものである。 ・初厳密千日行……初心の行(初心独自の生涯を左右する厳格さ) 千日行は利他行の結晶とも云うべき極み であるが、利自的側面が強い。 ・後厳密千日行……初厳密千日行が、より進化したもの。 利他行的側面が強い。 生涯厳密千日行攝心会 攝心会としての厳格さを生み、 攝心会として展開して往く。 攝心会に依りて、人材育成し、此の人材を核として、理想的世界を構 築すして往くのである。 人類のあらゆる分野に於いても、 人間が生きると云う事は、此れ迄の生命の進化の過程を経て、 必然的に、前述の経過を踏むのであろう。 此れが「生命の本質」に基づく生命の進化である。 古代からの人類の生き方には、あらゆる事柄を考慮に入れても、 要略すると、 一つは、神への信仰も含めて、自己の持つ能力を開発して往く母体 為る大自然に帰一する方法であるヨーガを完成させたのが釈尊あっ た。 神と云う虚像を置かず、誰よりも自己を忘れ、万法に証せられて、本 来の生命を体験した(悟った)のが釈尊であった。 故に、若し釈尊が悟らなかったらば、釈尊は世界一の大馬鹿者であ ったに違いない。 能力でない、神的存在でない、虚像でない処から生ずる、 何か分からないけれども、万物の霊長足る人類を生んだ生命為るが 故の、此れ迄の必然性を信じる、可能なる道が求道で、菩提心に 因るものである。 予測不可為る、あり得ない体験、つまり「悟り」を生む。 絶対者を含めて、如何なる事(物)も、此の悟りの体験には遥かに及 ばない。 其の瞬間為る悟りは、生命の本質(仏性)の開示で、永遠の真理と 為る。 人類の延長線上に在る能力の次元ではない。 後厳密千日行(2018年9月1日~2021年8月31日) (2時間閉眼坐禅24時間仏作仏行) 生涯厳密千日行攝心会(托鉢) ・5分前 100% ・アヌルダ 閉眼坐禅時以外、目は常に開けておく。 ・定印 上半身(心)の力みを抜く。釈尊正伝の仏法。 ・直首腰 ・不動 不眠行は釈尊の断食苦行同様、敢えて為すべきものではない。 生命を枯渇させる、死に至る病である。 結果的に、そうである場合には止むを得ない。 敢えて欲を断てば禁欲であり、望ましきものでない。 欲は人類にとって必要ならばこそ具有するものである。 中道を経た釈尊は禁欲主義者ではない。 凡夫が悟ろうとしないのと同様、 大解脱人釈尊の、其の為せる業( わざ)である。 少欲・知足を本と為すべし。 生命の本質は仏性であり、本質から離れた生命には実りが無い。 千日行は本質に触れ、本質そのものと為る為の道具である。 二時間坐睡二十四時間仏作仏行 鐵漢 最後身也 後厳密千日行で(真為る)聞鐘悟道に至るには、打鐘悟道為らねば 為らなかったが、要するに、必要最小限為る体力に拠りて、聞鐘悟 道する事に帰する。 因って、5分前無く、只、聞鐘護持するのみ。 世界の複雑さは、必然的に至極の単純さ(=真為る幸福・平和)に 至る為に必要な道具(手順、過程)である。 是が真為る生命の正の進化である。 如何に生きるべきかは、 一寸(チョッと)、工夫して 如何に精進するかと為り、更に、 一寸(チョッと)、工夫して 如何に行ずるかと為るに至る。 世間には、如何に生きるべきかの確たる指針無く、 仏界に於いても、正法苦行無し。 然るに、煎じ詰めれば、生きるは行ずると為る。 一息半趺は言う迄も無く、 至極の単純さ、安楽で、二時間坐睡二十四時間仏作仏行である。 此れが、人間、如何に生きるべきかに対する答えの精髄である。 人間には善の源泉為る仏性が具足し(=本具仏性)、且つ悪の源泉 為る三毒を具有している。 (我)欲、其のものに善悪が在る訳では無い。 人類には脳の欲中枢を包み込んだ、最表層部に人類特有の大脳( 新)皮質が進化し、分別が為される。 分別が欲に貪著して三毒に基づけば悪(地獄、戦争)を生み、負の 進化を遂げ、三毒を仏性によって転じた三善根に基づけば善(極楽) を生み、正の進化を遂げ、此れが世界人類の幸福と平和を実現する 正道と為る。 此れが、畜生にも及ばぬ不可思議な悪を持つ愚かな者達為らぬ、 霊妙不可思議為る力を持つ者としての万物のに相応しき人類の辿る べき(正の)進化であり、正に万物の霊長を生んだし、生む由縁であ る。 自己の中の、延(ひ)いては人類の(三)毒(貪・瞋・癡)を制し、三善根 (施・慈・慧)と転じ得た(=悟った)人間でなければ、人を真に導く事 は出来ない。 悟りの契機は大脳(新)皮質の慮知心に基づいており、是によって 菩提心(道心)を生ずる事に拠る。 然れども、 「自利利人の法は皆具足(=本具仏性)している。」(御遺経)から、 人間の三毒(貪・瞋・癡)を、悟って三善根(施・慈・慧)に転ずる前(さ き)に一切衆生を渡(わた)さんと発願し営み、人を導くべきなの である。 アヌルダの誓い、「不臥不眠行」に因る失明は、 2500年程前、人類史上唯一の「悟り」を生んだ原点のサンガの本志 の厳しさを窺わせる。 釈尊が般涅槃に八大人覚(四聖諦に拠る滅苦の道)を説かれた後、 アヌルダは大衆に向かって、但(ただ)「世尊の滅度一(ひと)へに何 ぞ疾(すみ)やかなる哉」との念を為さ使めた。 嘗て、盲比丘アヌルダが、既に中道により開悟された釈尊に「悟りに よる、生命の本質は三善根(施・慈・慧)を具足する向上一路門であ る。目にも保養が大切だ。」と諭された時、利他行の原動力為る自利 利人の法を悟り、釈尊に「天眼第一」と称賛されたのである。 其の時、世尊は「(世の無常を)悲しむな。人は皆滅す。自利利人の 法は皆具足する。既に全てを度し、又其の因縁も作(な)した。 自今已後、、弟子達が皆、展転して之を作(な)せば、如来の法身は 不滅である。」と説かれ般涅槃された。 人間、悟れば生命の本質が解る。 即ち、仏性であり、自他一如、自利即利人(他)である。 人類の為す一切事、万事に於いて、其の基である自己と云う人間が そうでない限り、万事に於いて、人類が目標とすべき対象とは為り得 ない。それは、世界人類を幸福・平和に導くには相応しからざる者で あるからだ。 世界人類の幸福・平和に真に寄与するには、無我の働きが出来ね ばならない。 無我である為には、我欲を離れねばならない。 我欲を離れるには自己を忘れなければならない。 自己を忘れて、悟って、解脱して初めて、自由な無我為る働きが出来 、世界人類の幸福・平和を謳(うた)う事が出来る。 正負の両進化の分かれ目は、此の我欲への執著を離れ、自己を忘 れた働きか、否か、に在る。 此の試金石と為るものが坐禅であり、坐禅に徹する事に拠りて、人 は初めて悟る事が出来るのである。 虚像為る神は別として、「世界人類の教え」の最たるものである、 釈尊悟りの正法苦行中、最も峻厳なるものである、五欲中、最も制し 難き睡眠欲を制し得た千日行(二時間坐睡二十四時間仏作仏行)が 宇宙の至極である。 此れを大宇宙の一切事の根源に据えて、其処に地上の万事に対す る正しき判断を求め、且つ世界人類の幸福・平和に向かって努力、 精進すべきである。 此れ迄、世界は平穏であったが、近年の人類に拠る自然破壊によっ て世界は気象が乱れ、しばしば地獄の様相を呈する。 自然現象のみならず、人間社会に於いても、此の世を地獄にするの は、此れ等の人類の三毒に基づいた分別に因るものである。 此れさえ無ければ世界は平和其の物である。 後厳密千日行(2018年9月13日~2021年9月12日) (2時間坐睡24時間仏作仏行(托鉢)) ・アヌルダ 坐睡時以外、目は常に開けておく。 ・定印 左掌上に心を置くは釈尊正伝の仏法である。 左掌上に卵を置くが如く自然に半円。 両拇指面いて水平に相?(さそ)う。 是に拠りて、上半身(心)の力みを抜く。 ・直首腰 視線、水平及び、やや下方。 厳密とは、機械的(時刻護持)ではなく、其処に、細心 の配慮(無我為る仏性)に基づいて為される 時刻厳守でなければならない。 「念々 従心(=仏心)起 念々 不離心(=仏心)」 二十四時間、三百六十五日、生涯…… ……一刻、一刻 総て、常に自己のもの。 完 釈尊は、一切を捨て果てた挙句の果てであったからこそ、其処に 本具仏性の門が開け、智慧が生まれ中道(=完全に無駄が無い)に 至り得た。中道は行智慧の最大不可欠要件である。 中道に至り得たからこそ、無心を得、其れに拠りて得悟したのである。 中道こそが完全無欠為る宇宙の姿其のもの(=生命の本質=円相) である。 生 涯 千 日 行 (三時間坐睡二十四時間仏作仏行) 三時間坐睡時以外絶対開眼 極めず 只継続するを以て全うす 何事も、捨てる事だ。 何事も捨てれば生きる。 捨てれば活きる。 著せば死ぬ。 そして、 捨てる事も、又、此れ迄 捨てて来た事も、捨てる。 三時間坐睡、 以外絶対開眼。 さえ遣って居れば 後は、何を遣って居っても 善い訳であります。 生 涯 千 日 行 (アヌルダ、定印、直首腰、不動) [本具仏性]為るが故に、5000年程前に 瞑想、ヨーガが生じ、釈尊が悟って坐禅と為し、 又、正法苦行(=千日行)は其の必然的所産であり、 3時間坐睡24時間仏作仏行、坐睡時以外絶対開眼 (仏作仏行は可能な限りの下化衆生(絶対開眼)と 後は上求菩提(厳密))が 釈尊(行智慧)の完成である。 自活(托鉢)[御遺経]――三輪車の前輪(=千日行)欠ければ、 後輪(=道場と托鉢)為らず、後輪片方欠ければ、前輪為らず。 新道元宗の「教え」の根源は、何であるのか? 其れは他でもない、ズバリ、生命の本質である。 人を生かす「活」の源泉の正体は、此の生命の本質である。 此の自覚を超えるものは、世の中には存在しない。 何と為れば、其れは人間の一切を在らしめている本源であり、世界 平和に真に直結するものは、此の他には在り得ないからである。 是を自覚するに至るには、坐禅以外には無い。 只、真摯に実践在るのみである。 其の功徳は、自然(自ずから然ら使むる)で、時に従うて無窮に其の ものに為り往くのみである。 坐禅は何の為に為すのか? 坐禅の為ではない。 又、仏道の為に仏道を修するのでもない。 (正法苦)行を生んだ行智慧も含めて、智慧を生む為である。 (行)ちえは、自己及び世界人類の真の幸福・平和の為である。 更には、世界人類の平等為る物質的、精神的基本的条件確保の 為である。 そもそも、今から5000年程前の農耕に依る、安定した食糧確保後 に瞑想、ヨーガが営まれているからである。 坐禅其のものは、仏道(教)等も含めて、神的存在でもなく、 禅定を修する処より生み出された智慧の産物に他ならないのである。 坐禅(仏道)至上主義に陥っては、単に仇花に為るだけだ。 其れ等の至上主義は、人間の住める世界ではない。 如何なる至上主義も、そうした処からの自覚に拠りて復活した、中道 を弁(わきま)えた、智慧の生(活)きた、生(活)かせるものでなければ ならない。 禅定から生み出される智慧を欠いた禅定至上主義も又、今日の小乗 仏教の陥りがちな処である。 タイ国に於けるロヒンギャ難民問題も、軍事至上主義とそうした仏教 至上主義の生み出した、タイ国全国民(人間)の三毒害の為す仕業 である。 智慧(の産物)は、智慧のままであっては何の役にも立たない。 其れ等を生(活)かし、生(活)かされてこそ、智慧(の産物)が生(活) きるのである。 生(活)きる、生(活)かす本体は、其の智慧を生む当の本人なので ある。 従って、此の世の如何なる(記録、勝負、強弱、大小、貧富等々の) 至上主義も、其れを生み出す人間本人の具有する三毒(貪・瞋・癡) に因る害が、其れ等のもの為るが故に、此の世を地獄にするので ある。 世界は、是等の毒に翻弄され続け、彼等以外の世界の大部分の人 間の代え難き、貴重なる命を不条理にも、無意味にしてしまっている のである。 世界人類を幸福・平和にするのは、是等の記録、勝負、強弱、大小 、貧富等々のものではなく、世界人類の幸福・平和を真に願う、其の 心以外には無い。 自他一如為る其れ等の心が其れ等の二元相対、世界を掌握し、一致 団結し、世界を導く世界連合と為らねばならない。 初千日行さえ修すれば、意識せずとも、自ずから世界人類を生(活) かす呼吸に為るのである。又、其れに近づく為に百日行でも真剣に 行ずれば、十分に、其の呼吸は身に付くものである。 其の遣り方は、其の人の菩提心次第で、行智慧に拠りて可能である。 睡眠中の、横臥した、或いは直立の身体への物理的負荷、或いは 影響力の相違は、釈尊、大迦葉以来の十二頭陀行(衣食住に関して 貪著しない)中、唯一の、威儀たる但坐不臥以来の坐睡呼吸(腹式) への、胸式呼吸からの非意図的、物理的、自然的変化に対応、順応 する迄の数日間が初千日行のこえるべき処であり、一旦超えれば其 れが自然だ。 要するに、自然が一番宜しい。 多少なら、意図的に遣っても宜しい。 人類史上、明らかな様に、 先ず、身に食糧。そして心に悟り(仏性)。 食糧と悟りと何れが重要か? 食糧無くんば悟り無し。 故に、世界人類の物質的、精神的基本的条件確保、 是が政治の機能である。 然れども、如何に施し得ても、 物質的、精神的基本的条件確保し得たとしても、 身に食糧。と共に、心に本具仏性(生命の本質は仏性也)。 を忘れるべきでない。 是が命を真に「活かす」ものである。 「人類(間)の為でなく、但(ただ)仏法(道)の為に仏法(道)を修すべ し。」 [道元禅師、学道用心集] (人類(間)為るが故に生まれた仏法(道)にも拘らず、人間を遥かに 超越した何か特別な真理が在るから、そうあるべきだ。)との意か? 然しながら、解脱(五欲を)した人間と云えども、其の生活の場は、 其の人が生まれ育った其の有機的世界を措いて、住む世界は無い のである。 是が真実である。 其の有機体の中で唯一、嘗て、悟りと解脱の瞬間が在り、其の都度、 其れ等が永遠にして、恒常普遍の真理と為って居る訳であります。 仏道は無限の宇宙の如く際限ない。 と言うのは、何処までも解脱し尽くして往く、涅槃の境地を究めると 云うのでなくて、其の真意は地獄の果て迄も仏道(生命の本質)を際 限無く浸透せて往くという事である。 又、其れ以外には人間である以上、人間の住める世界も在り得ない。 人間(自己も含めて)の為でなく、但(ただ)仏道の為に、仏道を修し 尽せば、明らかに、其の生きる場は人間の中に浸透して往く以外に は在り得ない。 人の中に、其の真実の花を咲かし往く、其の在り様を涅槃と云うの である。 其れは、人間を離れた特別なものではない。 〈釈尊〉|〈道元禅師〉 北朝鮮の在り様は 米・中・露 の在り様に在る 釈尊(御遺経)では、最終的には行智慧であるけれども、生命の本質 上、悟り、解脱、涅槃に止まらず、現代では釈尊当時の行(を生む) 智慧と、一方其れ等を見失った、混沌とした現代世界の延長線上に は、世界人類平和(を生む)智慧が必要不可欠である。 此の智慧は、此れ迄の人間の限界を超えた、世界全人類に具足して いる自他一如の根源の世界からの、立場の違いに拘わらぬ、世界人類が享有する信頼性に基づく、無限の可能性を蔵するものである。 可能な限りの下化衆生と後の上求菩提とは、 下化衆生と厳密行とが分別の及ばない処迄、何処までも一部の隙も 無く、自己を依り処としながら、自他一如の如く、厳密行を依り処とし ながら厳密行下化衆生一如である。 枠組みとしての行智慧に依る生涯後厳密千日行(3時間坐睡24時 間仏作仏行)に於ける、3時間坐睡以外の21時間仏作仏行は人類 本来具足する自利利人の法に拠りて、行智慧には本来下化衆生( 世界人類平和)智慧が伴って具わって居るので、21時間以内の可 能な限りの生命(能)力を尽して行じられる下化衆生を主体として、 済み次第、後は厳密行である。 有限なる儚(はかな)き命に於ける、最上乗為る大乗禅の、意識を超 えた無分別(=無心)為る働きである。 ・無心――こころ、空、仏性、自他一如、生命の本質、 三善根(施・慈・慧)を具足する。 ・虚無――虚(うつ)ろ、空っぽ、大脳(新)皮質が仏性を眩ませるて居 る状態。三毒(貪・瞋・癡)を具有する。 釈尊の行智慧は、生涯石窟夏安居(=枠)と遊行であった。 発心、発菩提心、得悟、解脱等皆、刹那生滅 する(一瞬の覚心の生起)に因るものである。 一刹那心(語) 能起(説)一語(字) 「一瞬間の長さの間に起こる心(言葉)は、 一つの言葉(文字)を生む。」 如来の正法眼蔵涅槃妙心を行じ明きらむるが如きは、 必ず此の刹那生滅の道理を信ずる也。 (正しい法と完成した智慧とを明らかに悟る者は、必ず 此の瞬間に生じ、且つ滅する道理を信ずるものである。) 某僧が問うた。 「生き物の命は、何故、此の様に速やかに生滅するのでしょうか?」 釈尊が言われた。 「例えば、四人の弓の上手な射手がいて、四人が弓矢を取り、互いに 背を向け合って、四方を射ようとする処へ、一人の足の速い男が来て 言うには、『あなた方は、同時に矢を射てみよ。私は其の矢を地に落 ちる前に総て手に取って見せる。』と言ったとしたらば如何であろうか ?是は甚だ早いのでなければ出来ないと思うが如何か?」と、更に、 「生命の生滅の速さは、此れ等に比較に為らない程速く、瞬間に移り 変わって暫くも止まる事は無い。」と。 宇宙>生命>悟り(生命の本質(仏性)の自覚) ―→(我)→(無我)―→必然的進化 必然的進化に拠りて、宇宙から生命は生じ、生命が悟りに至った。 釈尊の行智慧に拠りて生涯厳密初千日行を行じて解脱すると、 宇宙(生命(=世界人類))は是から一歩も出る事は出来ない。 悟空が釈尊の手掌から一歩も出られなかった様に。 生命の本質は森羅万象の本質でもある。其れ故に禅定(ヨーガ)に 依り釈尊は悟った。 生命の本質(仏性)を自覚出来るのは、唯一人間だけだ。 其れ故に、解脱人からは森羅万象、心(こころ)全て出る事は出来な い。釈尊と云えども、吾命からは一歩も出る事は出来ない。 自己のみならず、他己の命と云うものは、其れ程の貴重なる価値の 存するものである。 是が真理であり、誰も侵す事の出来ない真実だ。 其の貴重為る命を授かっている我々は、其の自覚在らば、無自覚は 言う迄も無く、尚更に、好い加減に無自覚に終える事は出来ない。 儚(はかな)き、仮初なる吾命。 嘘、偽り無く、真剣に為らざるを得ない。 其の貴重なる命から受けた恩を返さないでは居れない。 在るものは恩だけであるからだ。 生きるとは、報恩に他ならない。 純粋なる正(=仏)道以外の如何なる労苦からも、其の至り得る知恵 と云うものは、純粋なる正(=仏)道の労苦から至り得る智慧には遥 かに及ばないものである。 是は釈尊の悟りから得られた正法が如何に永遠なる恒常普遍の真 理であり、人間の遥かに及ばない不可思議為るものであるか、と云 う事である。 今、世界各国は、三毒(貪・瞋・癡)により、アメリカ至上主義以来、 各国が夫々自国に自国第一(至上)主義を掲げているが、 是は実に子供じみた、大人気無い話である。 此れでは、永遠に三毒(貪・瞋・癡)を三善根(施・慈・慧)と為し、 瞋・癡で貪るのでなくて、慈・慧で施すこころで、 生命至上(第一)主義の平等で、同じ立場に立って、総ての各国が 相互に尊重し、活かし合って、可能な限りの最善の智慧を生み出す 迄、自国を国民レベで施し、譲り合って往く以外には無い。 若し、そうでなければ、永遠に全体が分裂した儘、闘争を増長し、 生命至上(第一)主義に戻らない限り、死に至る病であり、地獄への 一筋道を辿らざるを得ないのである。 地球レベルで、此の生命至上(第一)主義に徹する以外には無い。 若し此れに徹し得るならば、諸難問も自ずからにして、打開し得る筈 である。 何と為れば、人類は皆一人残らず、平等に同じく生命至上(第一)主 義者であるからだ。 生命が第一であるならば生命の本質(仏性)は無上なるものである。 人類は此の本質(仏性)に基づいて生きるべきである。 小生(来年古希)、書き遺す事は、もう無いので、 後は、只、行じ了るのみ。 人は、遣っておれば、最終的に出発点に戻る。 全体で、向上した一つの纏(まとま)りが出来 て居るのではないかと思います。 後厳密千日行(2018年11月1日(68才)~2021年10月31日(71才)) (3時間坐睡24時間仏作仏行(托鉢)) 生涯在らん限りの力 を尽くし厳密行を行ず 完 【 難民問題について 】 難民問題が跡を絶たない根本原因は、 加害者、受け入れ側を問わず、 自国(分)に難民を受け入れると、自国(分)が損をするという、其の 自国(分)至上(第一)主義に起因している。 世界三大悪(核武装、ヒトラー、人種差別)の根本原因は此れ等の 自国(分)中心(至上(第一))主義である。 斯うした誤った考え方で、是迄の世の中、世界中が形成されて来た から「世界三大悪」を生むに至ったのである。 しかし、其の様な短絡的、二元的為るものの見方ではなく、人間が 本来具足する自利利人(他)の法、自他一如の施・慈・慧のこころで 受け入れ、世界人類生命平等の立場で、「急がば回れ」の諺にも在 る様に、要らぬ軍事費(核武装等)、最先端科学技術費用等を、競争 (勝つ)、儲かるでなく、もっと基本的な、生命を生かす費用として、 其の様に諸事万端をもっと大きな立場から取り計らって往けば、今世 紀の此の難民問題が「世界四大悪」と為る事無く、世界全体がより 幸福・平和に為って行くのである。 難民を引き起こす国家に世界中で、斯うした「生命の本質」からの生 きる為の智慧を、本気で、最大限に生み出し、施す事によって、難民 問題の根本原因が解消されて往けば、全世界中で難民は出なく為 る。 其の為の、明快な世界レベルでの指導力が特に望まれる。 任期でなく、本気で、世界レベルでの抜本的取り組み・解決が為され なければならない。 抜本塞源は自己の心中の事である。 釈尊は入滅後も永遠に修行されていると云うのは、 釈尊御存命中の真実でありまして、般涅槃されるまで続けておられた のであり、入滅後には釈尊同時代に至り得た真実(理)が其の儘、永 続されて居ると言う事であります。 生命(物質(身)と精神)は夫々、物質は闇と素粒子から太陽、地球、 生物、人類に迄進化し、精神は約500万年程前の動物的なものが 人類に迄進化し、人間的自覚に至っているのでありますが、 5000年程前から、其れは宇宙(他)と自己の二元的自覚から2500 年程前には自他一如の悟り世界に覚醒した訳であります。 物質世界(生物を含めての)の進化の行き先は多様性であり、単なる 利便性以外の何等の方向性も無く、恰(あたか)も、太陽が其の限界 に迄膨張し、50億年後には大爆発をし矮星と共に死滅する運命に 在るのが如くであります。 其れに、生命の正の進化を可能なら使めるのが、唯悟りと解脱であり ます。 其れ故に、生命と云うものは悟り・解脱無ければ、唯無闇矢鱈に何の 方向性も持ち得ない儘、大爆発する迄増大し続ける以外に無いので あります。 精神は正法苦行する事に拠りて、至り得る真理にまで進化し続ける のであります。 人間世界(物質世界)を生(活)かし、生命に最も困難なる正の進化 を遂げさせるのは正法苦行であります。 高度文明化された現代社会では、釈尊時代の悟り・解脱の在り様で は別次元の全く異質なものとしか受け取れないものであり、 現代社会に於きましては、其れに適応した新たなるもの、つまり現代 社会に生(活)きる永遠なる恒常普遍の真理を新生しなければなら ない。 悟り・解脱に基づいて、人間の物質(身)世界に最短路で、其の真為 る幸福・平和へと導く方向性を与える事によりて初めて、人間世界は 地球上一丸と為りて、釈尊世界から、より進化した生命の正の進化の 正道を辿る事が出来るのであります。 釈尊は飽く迄、釈尊迄の悟りであり、時と共に永遠に無窮なる正の 進化を遂げるには、夫々の時代に即した最後身と云う者が必須、 不可欠である。 人間世界(物質世界)を生(活)かすものは生命の本質上、本来具わ って居る自利利他の施・慈・慧のこころであります。 師即自己 自己即師 自己程厳密なる師は居ない。 命の最有効活用為る自他の 一線を設けるのも自己である。 坐禅は托鉢在ってのものであり、 坐禅作法と下化衆生の グレイゾーンは 15:00~17:00、23:00~0:30に限る。 3時間坐睡も半分位迄可。 是等の自戒は必然的、 必要不可欠なるものである。 毎月一回、禅門、国会図書館へ送付。 人間は主体性を以って、可能な限り、何処までも安楽、易行よりも、 俊敏、峻厳であるべきだ。 前者の内容は甘えから傲慢さへと、であり、 後者は、油断無き、細心の配慮である。 文明の利器(テレビ、パソコン等は何人と言えども最大限、有効に 利用すべきだ。 だが、其れに使われては逆効果と為る。 飽く迄も主体的に駆使して往かねばならない。 是が正道である。 人間は根が三毒(貪・瞋・癡)であるから、何言っても信用出来ない。 じゃあ、突き放すか? 其れでは向上しない。 目的は万人が共に向上し、幸福・平和と為り往く事である。 其の為には、三毒(貪・瞋・癡)でなくて、三善根(施・慈・慧)でなけれ ばならない。 其れには、二法在って、 一法は真実の教えを信ずる処から始まる。 他方は、其の信を実践に移し、悟り(精進)への道を歩む事。 虚像(神等)への信は為し得ない。 但し、真実の具現化である仏、菩薩等は信仰の対象と為り得る。 易行なる信を信の儘で進むべきか? 信の対象が真実であれば、其れは自己でも他己でも宜しいが、 願わくば、釈尊も「自燈明、法燈明」(自己を、法を依り処とせよ。) と諭された如く、 信の対象は自己(生命)の本質であるべきだ。 其れが真理であるから。 其れは実践(精進、(坐禅)行等)へと移行する。 人間が最も一般的な、陥り易い弱(欠)点は、性欲への貪著である。 其れを(男女と云う最小単位で)確保、維持する事に、24時間365日 浪費する事である。 其れから一歩も出る事が出来なくなった状態だ。 性欲の奴隷である。 此の状態から開放されるのは至難の業である。 しかし、是は、心の持ち様一つの問題である。 心の向け様を坐禅に置き換えれば即決する。 人類史500万年の長い歴史を要して必然的に全身全霊で見出し得 た真理を看過すべきではない。 性欲のみならず、他の一切の苦、悩み等も全く同様である。 人間は最低限、そうした自己(国)の貪の追求よりも万人の平和を 優先し、少なくとも其の様に願える迄、成長しなければならない。 自己の厳密行堅持よりも、他を有効に教化する(種々な可能な手段 で以って)方を優先すべきである。 僧侶に出来る事は、 先ず、「悟りに因る生まれ変わり。」と、 「解脱に因る下化衆生。」と、 そうでなければ、 「自未得度先度他」に縁りて具足戒を伝える事である。 下化衆生とは、 苦海を渡らんとして、溺れ掛けている衆生を救うが如きものでありま す。 救わんとして夢中に為り過ぎても、共に溺れてしまい兼ねないし、 そうかと云って、見捨てて上求菩提すれば、下化衆生出来ないし、 的確に救うには、恰も機械の如くに正確(=厳密)でなければならない 。 共に無事に苦海を渡るには、 厳密千日行でなければ為らない。 上求菩提、下化衆生、何れにも傾き過ぎず、 唯一可能なる、残りし一奇跡を、 自戒の基に機械的に行じて初めて、何れも遣れるのである。 そうでなければ、何れも遣れなくなる。 正法苦行と云うものは、根源的、絶対的、永遠なる恒常普遍の真理 其のものである。 人が居ようが居まいが、只、自己一人行ずるものであり、 他の一切の人間事とは比べられないものである。 是は、悟り(見性)、解脱、涅槃のものであるからだ。 人類に悟り無ければ真の自覚無し。 在る者は動物以下の生き物か、動物的無自覚か或いは真為る自覚 を持ち得ない闘争的、又迷妄為る自己しかいないのだ。 斯うした者達の為に(、影響されて)(人類の三毒(貪・瞋・癡)を断つ) 悟り(見性)への道(=菩提心)を決して緩める事が在っては為らない。 【 貪為る存在(癌細胞)と坐禅(威儀) 】 自己を貪(性欲、金欲等)の領域でしか自覚出来ない存在は癌細胞 の様なもので、増殖し、其の害毒を正常細胞に及ぼし、生命を死滅 さる最大原因であります。 しかし、坐禅(悟りの当体)為る存在に対しては、坐禅と云うものは、 少欲・知足にして威儀を保つもので、其れに対しては其の毒害の影 響を及ぼし得ず、癌細胞つまり前述の貪為る存在は自滅し往く以外 無い訳であります。 癌細胞は自然発生で未だ其れを阻止する事は不可能であります。 威儀とは、悟りの(舌、上のあぎと(顎)に掛けて、唇歯相着け、 水平なる視線を保ち、不要なる上半身の力みの抜けた、自然に下腹 に気力の籠(こも)る)、安楽、柔軟為る坐禅であります。 要は、坐禅に拠りて威儀を保つと云う事であります。 世の中には此の坐禅が必要不可欠であります。 師の仏の菩薩行が、其れに感応道交する事に依りて、弟子の仏の 菩薩行を生む。 是に拠りて古代の釈尊は現代の釈尊を生み、将来を構築して往くの である。 感応道交は瞬間的であり、真理である。 既に、其の将来の青写真は完了している。 吾師、伴鐵牛老師は、其の師の原田祖岳老師と同じく、生い立ちは 捨て子であったそうです。 しかし、其の後、師は自ら、原田老師の下を去り、独り在野でご苦労 された。其れが、師を本物にした。 其の師をして、小生の今が在るのでありましょう。 今後、日本が釈尊の最後身として人間世界の最も重要なる生命の 悟り、解脱を根本とする精神を核とした、物質世界を統制する世界 体制を構築して往く中心国家としての機能を担うべきである。 是までの物質世界は未だ生命の本質の自覚の生(活)きていない世 界であったが、今や、無我為る悟り、解脱に基づく、現実の社会生活 に生(活)きた教えとして、世法や社会通念の新たなる見直しを計り、 世界人類の幸福・平和の為に今後の将来像と云うものを、我々地球 人類が一丸と成って共に其の智慧を働かせ、世界レベルの組織に 於いて積極的に、内外に亘って機能させ、活かして実現させて往か ねばならない。 此れからの世界は、新たなる立脚点、本質的人類平等の立場に立 って、一国民レベルで施・慈・慧の心を世界各国レベルでの心に育て、 世界中の闇を光明に転じ往かねばならない。 欲(性、金、名誉、食、睡眠欲等)を満たす事に於いて、貪著する事は 確たる価値を有しない。 実在しない夢、幻の様なもので、諸悪の根源である。 故に、智者は少欲、知足に徹する。 人間力学に於いても同様に、人間に永遠なる恒常普遍的価値を与え 得る方法は、長期間、最大限に精神を覚醒させ、其の肉体的負荷を 最小限にする状態である。 人間の最も有効なる力学は、坐禅に於いて下腹に気力が漲(みなぎ )る事である。 此の最上為るものが生涯厳密千日行である。 釈尊は人間向上の唯一の道を、人類史上最初に見出し得た求道者 であった。 悟り、解脱は一体何の為に在るのか? 何の意味を有するのか? 若し、其れが当人だけのものであったならば、殆ど其の意味は無い。 唯、極限られた特異な人間のみが自得するに過ぎないものだ。 そして、悟り、解脱を拡散したとしても殆ど限られたもので大した違い は無い。一般人とは隔絶した其の特異な人間だけのものに過ぎない 。 其の真の目的は、全ての生命が幸福・平和に至る為の智慧を 生み出す事だ。 人類が有史以来、自然発生的に生み出して来た、人類が必要とする 、人類の為の、明らかに此の理に適った、最も有効なものを、人類が 人類の為に最大限に生(活)かさないと云うのは、余りにも愚かであ る。 表層的利便性、有用性追求に止まらず、本質的有効性に復(回)帰 すべきだ。 義務教育、及び高齢期に於きましても、積極的に是を用いるべきだ。 完 生涯厳密聞鐘千日行 世界・人は変わる以外には在り得ない 後厳密聞鐘千日行 (3時間坐睡24時間仏作仏行) 2019年 (H.31) 1月1日~2021年 (H.33) 12月31日 (2018年12月1日より1ヶ月間の準備期間) 人類の為に 真に存在するものは仏一つ 後は全部、嘘・偽りである。 行無き仏への信は、虚像為る神への信と同一である。 行とは厳密である事。 厳密である限り、後は自由である。 仏とは、三毒(貪・瞋・癡)の消えた、其の害の絶対に 及ばない、少欲・知足の生きた人間の事である。 坐禅に拠りて自他一如為るを悟った。 従って、仏は本質的に菩薩である。 自他一如為る生命の本質(仏性)は便宜上、上求菩提と下化衆生の 両側面に分けられる。 正法苦行、三時間坐睡二十四時間仏作仏行は、坐禅を基本にした、 自由為る下化衆生である。 心酔されて居られた師、原田祖岳老師に対する理想像が崩壊し、 裏切られた処が、自発的なる伴老師の在野修行での出発点であった 様だ。 小生も、伴老師の遺された正法苦行、新道元宗千日行の在り様と 現実との懸隔が最後の小生を型作った。 是等は総て、伴老師の上求菩提、下化衆生の忠実なる厳格さの 御蔭であり、小生の厳密さの賜物であります。 元曹洞宗管長、板橋興宗老師が平成21年、坐禅と托鉢の為の寺と して御誕生寺専門僧堂を建立され、認可された。 当初に於いて、約30余命の僧侶が坐禅と托鉢の平和な日々を送っ て居られると板橋老師が語っておられました。 願わくば、貴所に於かれまして、正法苦行(=千日行)に拠りて、 托鉢自活に拠る正法苦行(=初厳密千日解脱行)を為すだけの人材 を生まん事を。本気度無くして、仏道の核心とも云うべき解脱には及 び得ないのである。 世界は逸早く、、世界人類を犠牲にして自国(己)を立てる、悪の根源 為る、一番に為る為の経済戦争を止めて、世界人類が、より格差無 く、平等に、物質的、精神的基本的条件確保に向けた、大きな立場に 立って、世界のリーダーである程、其の方向性を持って、施政すべき である。 彼等が経済戦争を遣っておって、国連の強者至上主義を未だに堅持 し続けるのは、世界をリードし往く指導者としては、其の資質を全く欠 くものである。 一番に為る事でなく、人に慈愛の心を持って施す智慧を、団結して 磨いて往かねばならない。 要は、受験戦争に勝つ事でなく、老若男女を問わず、「信実の教え」 を生きる事である。 孔子の論語にも、『朝に道を聞かば、夕べに死すとも可也。』である。 『Death and also becomes variable in the evening if hear the road to tomorrow.』 貪著でなく、無我に基づくべきである。 ≪ 正法苦行の意義(坐禅(睡)と腹式呼吸) ≫ 坐禅と云うものは、ややもすれば静寂(的)な、消極的、非活動(生産) 的為るものの様に誤認される傾向にあるが、実際は、此れ程、真剣 で充実した、真為る働きを生むものは無い。 一切が、消(霧)散してしまう程の、誤魔化しの無い、一糸纏わぬ ものである。 是に拠りて、精神集中に拠る最も効果的為る真実の智慧を生むので ある。 又、此れ程、直立不動にして重労働は無い位のものである。 即ち、肉体的には最小限の負荷である以上、精神的に一切が消(霧 )する程の最大限為る覚醒の持続である。 従って、慣れる迄は此れ位、苦痛なるものは無い。 そして、常に其れ位の気で為すべきものである。 又、此れ位、直立不動にして重労働は無い位のものである。 即ち、肉体的には最小限の負荷である以上、精神的に一切が消(霧 )散する程の最大限なる覚醒の持続である。 従って、慣れる迄は此れ位、苦痛為るものは無い。 そして、常に其れ位の気で為すべきものである。 又、此れ程、精神的高度にして、真空状態の為れるものも無い。 一切の人事の精髄である。 此れに拠りて初めて生命の本質を悟り、其の性能で、真剣なる坐禅 をすれば睡眠は要らない程の功徳なる、身心の浄化作用に因り、 二時間坐睡でも十分である。 そして、常に極力、窓を開けた空間で大気に触れて坐すべきである。 [仏、[頭陀第一]の摩訶迦葉に十二頭陀行を説かれた。 一、在阿蘭若処(一人、空寂為る所に住す。) 二、常行乞食 三~十、衣・食・住に於ける少欲・知足。 十一、露地坐(何も無い空地に坐す。) 十二、但坐不臥] 又、坐禅は身体の何処にも力みを持つものではなく、寧ろ、意識的に 力みを抜くべき、自然なるものである。 上半身(特に、両肩に架けて)に力みが入りがちであるが、力みの無 い自然な法界定印と共に両上腕に架けての力みを意識的に抜く。 敢えて、力みが入るとすれば、其れは、何か臍下丹田と云う特別な 処が在る訳で無く、腹式呼吸の最下腹筋にだけ自然に引き下げる 様な力(=腹圧)が入る。(但し、是は意識的に為すものではなく、 飽く迄も、直立(下顎を引く)と腹式呼吸の為の筋の関係で、自然に 然う為っているものである。) 以上は、正法苦行(千日行))の結果、自ずから身に就くものである。 要するに、三毒(貪・瞋・癡)を悟る坐禅には、(直立(下顎を引く)と( 下腹に気力の漲る)腹式呼吸と抜力、不臥、アヌルダ(視線水平)等 の)正法苦行の原点である不臥と坐睡行(正法苦行(五日行、百日 行でも))が欠かせない。 是が、勝つ事でない。一番に為る事でない。欲に貪著するのでもな い。此れ等の頭脳の計らいから離脱して、解脱し、施・慈・慧の生命 の真理を体得する事に拠る、人類が幸福・平和に至る為の正道であ る。斯うして、経験的に正法ならざる、死に至る病為る、身心の不要 で余分、有害なる三毒からの力みを抜く事が、恰も川原の粗石が川 の流れで角が取れて丸く為り往く如く、正法苦行に拠りて、経験的に 身に具わり、不動為る安楽の法門に至るのである。 此の中道に拠る、自己の為すべきを徹底、見究めた楽寂静(一人居 を楽しむ)で生涯に亘る、常に、より一層の、不退転にして不断なる 向上一路門である。 (釈尊般涅槃に於ける八大人覚;少欲、知足、楽寂静(静処で遠離)、 勤精進、不忘念、修禅定、修智慧、不戯論) 最終的に、修智慧の行智慧に拠りて、仏と為り往き、下化衆生も 完成するのである。 願わくば、世法に於きましても、不退転為る向上一路門為らん事を。 「究むれば究むる程険しいのが、いつも真の道であります。」 是は、吾師、伴老師の師、原田祖岳老師の御言葉であります。 つまり、道が開け往けば往く程、精神には其の分の峻厳さが要求さ れ、又其の覚悟が不可欠な訳であります。 何処までも限り無く、何故かと云うに、此の世には、唯、死を迎える人 達、或いは、溺れ掛けて藁をも掴もうとする人達、又悟っていない二 元相対(勝った負けた、取った取られた……等)に終始する70数億 の種々なる人類が生きているからであります。 《 六(ろく)趣 (道、趣向) 》 衆生の行動の因縁に拠り、其の果報として生を受けて趣向する世界 の六種。 仏道に対して、自己中心の迷中を流転する世界。 一) 地獄道―八寒八熱の苦患境。 二) 餓鬼道―諸々の欲望を充たさんと欲して、飽く事の無い餓鬼 の世界。 三) 畜生道―禽獣と同じく本能の儘に行動する世界。 四) (阿)修羅道―三毒(貪・瞋・癡)に毒されて闘争する世界。 五) 人間道―煩悩、生死に使われる迷いの世界。 一番、仏に近い。 六) 天上道―極めて一部の支配階級の人間。 欲を離れ、苦は無いが、煩悩から開放されて居らず 、何時かは深い苦の世界に堕ち込んで往く。 人間よりも少し多くの善を行じて天人と為る。 一)~三) 三悪道。苦中に埋没して仏道を聞かない。 四)~六) 三善道。(善を行ずる力が残っている。) 五)(四)) 仏道に最も近い。 六) 楽中に埋没して仏道を聞こうとしない。 苦(楽)に埋没して、仏道を聞こうとしない人間為るが故に、世界人 類の幸福と平和を実現するには、苦患境であれば在る程、如何して も、生涯、より(俊)厳(密)為る正法苦行(=千日行)が不可欠と為 り、そうして初めて、隙の無い、不断なる修行が出来る訳であります。 今の世は悟りが無い。 更に、正法苦行が無いから解脱が無い。 従って、たとえ悟りは得ても、解脱が無いから 世界の現状に対しての真理を弁(わきま)えた説得力を欠く。 今から2500年程前の古代人に於いて、 釈尊の人間生命への透徹した洞察力に依る人間観察によってとか れ他「六道輪廻」は実に驚異的為る人間把握であります。 しかし、現代に於いて、悟り、解脱無くして、如何に其れ等を考察して みても、如何とも為し難きものであります。 貪欲への執著に因る「害悪」への対応は、正法苦行による解脱から 洞察、把握される人間生命の本質に対する深い分析力によるもので なければ、真実なる解答には為り得ない。 現代に於いては、其れ等に対して、学問(法律、法医学、社会科学、 精神分析学………等)的把握と情報伝達方法、或いは相対的力関 係による判断に過ぎないものであり、是等は、個人レベルでの本質 的関わりには至らない、何処迄言っても際限無い、時・処・位によって 如何にでも為るものであります。 此処が、現代社会の限界であって、釈尊手掌上の悟空の域を出ない ものであります。 しかし、是では世界人類の幸福・平和を実現するには、甚だ不完全 極まり無いものである。 世界人類の幸福・平和と云う崇高な為る理想像を実現するには、飽く 迄も釈尊悟りによる、永遠なる恒常普遍の真理からの打ち出しでな ければならない。 学問的把握は、生命の本質に迄は至り得ないのである。 少なくも、西洋科学文明に対して、東洋的、釈尊の、本源からの人間 把握が無ければ、現代世界の諸難問を打開する突破口とは為り得 ないのであります。 向上一路門とは、楽に為り往くのではなく、何処迄も限り無く多様性 と頭脳の正負の進化に峻厳に対応して往かねばならない。 其れが出来ねば、世界は其処までのものに過ぎない。 仏とは、そういうものであります。 大脳(新)皮質による産物である高度最先端科学技術、物と、人類を 是迄育て生(活)かして来た母体為る地球環境、つまり自然と生命の 本質、心、 人類は前者を離れても、後者に基づいて生きて往けるが、 両者のバランスが崩れて、前者に依存すればする程、人類は本質 から懸け離れた、枝葉の功利的為る生き方と為る。 其れは正の進化とは言い難い負の進化である。 今の、環境破壊や、異常なる自然現象時の電力供給源確保の問題 等の様に、想定外の、生死に係わる弊害を蒙る事と為る。 目先の経済効果至上主義による、盲目なる科学万能主義に陥らず に、世界人類の幸福・平和を目指して、得た利潤は環境破壊に歯止 めを掛け、人類の不幸、悲惨を無くし、改善すべく、生(活)かすべき である。 厳密なる自戒の堅持(特に下化衆生 から上求菩提への復帰)が要である ホームページ作成は、生涯、 毎正時から十五分間の経行時、及び午後十一時~午前十二時半。 更に午後二時~午後五時、及び托鉢時間帯。 完了する迄、上記を利用して往く。 《 気付き、真の自覚 》 我々は自己(の生命)為るものが如何なるものであるかを、 自然の中の木々や花を見る事によって、 其れ等が同じ命、友(同胞)として、自己を自覚する。 アッ! そう云うものなのだ!と知る。 是、自己と云う者の発見(気付き、驚き)であり、自覚であります。 生命とは如何なるものぞや? 何ぞや? だとか、 人間は一体何処から生まれ来たり、何処へ去り往くのか? だとか…………。 何でも無い。 其の辺の花や木と同じ。 其れ等と共に在り、共に滅し往くだけの者に過ぎないのだと。 何の不可思議も無い。 余りに、歴然としている訳であります。 唯、我々人間の思いだけが、驕り高ぶって居るだけだと。 然う、解るのであります。 《 引導を渡す 》 今、科学文明は一体何処へ向かって進んでいるのか? 人間(個人)の意識が利便的に、「斯く在れば良いなぁー。」と云う事を 実現する事と、もう一つ、軍事的に無敵なる物を確立する事の二つ 在ると思う。 後者に関しては、今は非核化問題に象徴されて居る通りであり、 更に其の上に、より効果的なる物を目指しているのである。 其れ等は他でもなく、ボタン一つで自己以外の他の者を制圧してし ま得るものであり、是こそ人間が如何に愚かしき者であるかを、更に 露呈するものである。 前者に関しては、生きる為の利便性の追求と云うものが、如何なる 結果を招来するかと言えば、先ず第一に、其の利便性為るが故に 派生して来る、是迄人間が生きる事の中枢を為して来た人間の本質 的なる、生きると云う事を機械が代用する事によって、人間の為す事 は一体、如何為る内容であるのか? 是迄、人間が携わって来た基本的事柄が無くなれば、一般の人達の 生きる手段が減少し、彼等は結果的に社会から葬り去られ、此れ迄 何とか維持してきた人間格差が、愈々甚だしきものと為り、其れに因 って生ずる弊害は、人と自然の調和が破壊される事によって引き起 こされる自然破壊を上回る事と為りかねない。 人間が直接的に蒙る事と為るであろう、是こそ今度は人間同士の調 和が破壊される事によって生ずる、其の結果は、今の自然破壊に因 る弊害を更に増長するものと為り、世の中は更なる混乱、それこそ 収拾の付かないものと為るであろう。 斯くの如く、人間特有の大脳(新)皮質による暴走は、薬物に因る 一時的効果を狙ったオリンピック競技者達の様に、一見人類を驚か すが、結果的に元も子もなくしてしまう事に成り兼ねない。 人間が生きると云う事は、其の様に表層的な単純なものではなく、 本質的問題で、小手先の安易な事では片付かない。 本質的な、逃げの無い取り組みが不可欠である。 是が常に中途半端で、短絡的に金と速やかさと最先端科学技術で 一般人誤魔化し、政権の安泰を図ると云う欺瞞に他ならない。 今の非核化問題に象徴されるが如く、ボタンでなく、更なる一層の人 類の便宜的なる要求から出たものでない、本質的理想像から打ち出 される人類の将来像を見越しての結論に迄至り得たものでなければ 為らない。 人類指導者方が、自我ならぬ国家我(否、是こそ自我に他ならないの であるが)に因りて、二元的(勝った負けた、取った取られた……… 等の)領域を抜け出せない。 将来、此の延長線上に在れば、 事態は改善する処か、悪化の一路を辿るであろう。 闇路に闇路を踏み添える事無く、彼等は、各国民レベルに依る正しき 認識の下に、其れ等の代表者として、自ら率先して共に腹を割って、 事を進めて往かねばならないのである。 大脳(新)皮質と云うものは、本質に基づいた、其の機能であるので あって、其れ独自の進化の産物ではないのである。 恰も大脳(新)皮質人間の暴走、つまり負の進化に陥らない様にしな ければならない。 さもなくば、是迄の、人と自然との不調和に因る自然破壊の弊害を上 回る、人間間の不調和に因る直接的人間破壊と為り兼ねない。 此れは、人間が超えられない三毒(貪・瞋・癡)に行き詰まっての、 消極的、打算的、逃げの現象である。 此れ等が、最も本質的人間同士の、世界人類の将来を見据える事に 拠る、施・慈・慧の心に基づいた智慧の実践とならねばならない。 斯くして、今の世界の指導者方には、生命の本質を悟った僧侶の立 場と云う者が不可欠であるし、其れこそ僧侶の働きで無ければ為ら ない。 政治と真の宗教とは政教一致が原則である事が道理であるけれども 、此れは最も困難なる事であるかもしれないが、政教分離とは、双 方が偽者である事を証しているに過ぎないものである。 人間の在るべき様(=理想)に向かって歩む事こそ、生きる歓喜であ り、生きる意義である。 現代に於いて、釈尊ならざるものは、今の世界を牛耳ようとする指導 者の如くに、何処迄も金第一(一番)主義と為る。 彼等の往く末は、闇か、さもなくば金を捨てる事だ。 此れ迄、金できたものを、其れを捨てる事は困難至極である。 其れに依存せざるを得ないからである。 要は、釈尊前の、金第一主義が何処迄、下落の悪循環を辿るか である。 釈尊の道に倣う以外無いのである。 早い程宜しい。 早い話が、今回は、 釈尊の前での、ベトナム戦争、嘗ての南北ベトナム、つまり終わりの 無い米ソの戦争為らぬ、米中の対立と為るであろう。 釈尊に基づいて、早急に和解し、 米中が率先垂範以って、 基本的に世界人類の幸福と平和を祈願する立場に立って、 自国の繁栄でなく、 相互協力の下に、全世界一丸と為りて、多くの智慧を生み、 今こそ・、人類が闇路に闇路を踏み添えると云う悪循還を繰り返す事 無く、一大事業を完遂せねばならないのである。 “初めにこころ在りき” こころ在りての、原点からの 自己(=国家、更に世界)確立。 「是、真為る力也。」 米の北朝鮮に対する一方的非核化は、今や、中国に対する一方的 為る最先端科学技術への抑圧へと変貌を遂げんとしている。 しかし、是等は、両立し得ない問題である。 若し、両立するとすれば、其れは、米が今や、ヒトラー的独裁主義に 陥らんとしていることを明示するものに過ぎない。 否、両立する所か、仮令、一方だけでも成立しないものであり、 若し例え一方だけでも成立するとすれば、其れは、明らかに米の ヒトラー的独裁主義への変貌を裏付ける、一方的主張に過ぎないも のであり、唯未だ、第三次核戦争が勃発するに至っていないだけの ものである。 是は、一強の東洋に対する一方的主張で、断じて容認し得ないもの である。 《 人間(悪)と、仏性(善) (=真理) 》 「人間の達人(=仏)は人間を捨てる。」 人間と云う者は、捨てられなければ自ずから精進するには及ばず、 「生命の本質」にも至り得ない。 僧侶に於いても、無一物為る自己を拠り処とする、本気の修行は出 来ないが故に、たとえ、生命の本質(仏性)を悟り得ても、解脱するに は至り得ない。 性欲の交わりと云うものは相手を採る事であって、 仏為る者、最低限、禁欲には非ざれども、夢にも性欲の交わりを為す べきでなく、性欲に亘らない、人類の慈父として在るべきである。 人間を捨てるという事は、「(人に教えを)施す」事、つまり菩薩道(= 菩提心)の行願(布施、愛語、利行、同事)の一つである布施行をも 捨てると云う事であり、其れが仏の為す行である。 よって、ネット等での布教活動を断ってでも、厳正なる正法苦行(= 千日行)を行ずるのが菩薩為らぬ仏である証しである。 如何なる人間も、、遥かに仏には及ばない。 仏には菩薩道的側面も在るが、 本格厳密千日行は真為る仏の証しである。 正法苦行中、初厳密千日行(=但坐不臥)は仏(菩薩)行である。 如何なる最先端科学技術を以ってしても、人間の永遠なる恒常普遍 の真理には、遥かに及ばない。 生命の本質(仏性)は、人類の枝葉的、大脳(新)皮質では及び得な いものである。 たとえ、其の機能は菩提心、見性、悟り、解脱、涅槃への契機とは為 り得ても、生命の本質其のものを悟るには坐禅以外には不可能であ る。 少なくも、釈尊、般涅槃に仏遺教経(=八大人覚)を説かれた如く、 人間の欲求の延長線上に在る、安易な道を選ばず、人足る者は、 生きる歓喜・意義為る、其処(そこ)迄の労苦、骨折りを惜しむべき ではない。 『因果の道理、歴然(れきぜん)(=あきらか)として私無し、造悪の者 は堕ち、修善の者は陞(のぼ)る、毫釐(ごうり、毛髪一本)も違(たが) わざる也。』 〔 道元禅師 『修証義』 〕 世の中、流した真涙と真汗だけの真歓喜(よろこ)びである。 恰も、釈尊の手掌からは一歩も出る事が出来なかった悟空の如き、 現代の動きである。 不 昧 因 果 (いんがをくらまさず) 完 結 《 中国、台湾 と 米国との関係について 》 母と子と父の関係に置き換えてみると、 父母は子の人間的成長と真の人間的自立を願う。 皆、同様に其の願いが在る訳であって、唯立場の違いが在るのみで ある。 立場の違いを超えた一人の人間としての根本的なる、其の願いが 生ずる真為る根拠は、世界人類の真為る幸福と平和を願う無我の 立場にして初めて、人は真の父であり、真の母であり、真の子足り得 る。 無我と云うものは、自我を虚しくすれば善いと云うものではない。 若し、然うであるならば自殺は無我為るが為と云う事に為る。 行き詰まったり、自暴自棄に陥って為すべきものではない。 真に人類に打ち出すべき事は、命在ってのものである。 結果的に失命する事は止むを得ない場合もあるが不惜身命である。 無我と云うものは、生命の本質に触れる事による、自他一如、自利 利人の法を自覚した処に基づくものである。 父、母、此の関係も生命の本質(仏性)に基づいて初めて、人間とし ての夫々の立場を超えた、夫々の在り様と云うものを打ち出せるので ある。 父母は子の成長と自立を願い、見守って往く。 決して自分の利に基づくものでない。 《 中東不毛地帯諸国民が生(活)きる為に 》 中東不毛地帯の諸国民を生(活)かせる環境を施す。 例えば、乾燥不毛地帯に水路を確保し、何らかの生産性の高い事 業を興す等、種々の分野の智慧を寄せ集めれば可能だと思う。 現代は、月に第二の地球を造らんとしている時代である。 脚下照顧、「急がば回れ」、退歩の脚である。 そうして、中東諸難問n根本原因を打開すべきである。 カルロス・ゴ-ンさんの協力を、是非とも得たいものである。 金、其の物に善悪が在る訳では無い。 要は、金を使う人間の使い方である。 我欲の為に使うのか? それとも世界人類の幸福と平和の為に使うのか? 仕事も同様である。 最終的に、自分達だけの為に使っているのか? 指導的立場の人であれば在る程、 其れは地球上の将来を決定する、不可避なる重大事である。 《 釈尊 (=本質為る生命) の究極 》 仏であれば在る程、つまり上求菩提極むれば極むる程、「根源的教 え」が生まれ出で、是が菩薩、つまり下化衆生として働き出る。 常に、刹那生滅する、時々刻々の生命の流れである。 何処までも釈尊の如く、微細を極めた人は一定時間内に、通常の人 間が及ばない働きが出来る訳である。 仏道と云うものは、斯くの如き超科学的なる真実である。 刹那生滅を生き得る人は、何処までも隙無く、刹那に及ぶ迄、時を 無駄無く、間断無く正念相続し得る。 何処までも無限の極微の世界は、何処までも無限の極大の世界に 同一である。 そういう意味で仏道なるものは、人間の常識的なる意識を超えて、 何処までも際限無い。 仏道とは、その様に、単なる機械的、量的なる範囲に留まらずない、 超科学的にして、微妙(即)甚深極無上なる法である。 生命の本質とは、斯くの如く、不可思議為る無限の可能性を有するも のである。 相矛盾する様に思える上求菩提(=自)と下化衆生(=他)とは刹那生 滅の世界に生きる人間にとりては矛盾、葛藤ではなく、自他一如為 るが故に、双方が互いに連繋して、無限に加速し、拡散し往く、相乗 効果的働きを為すものである。 斯うした、こころ(悟り)の世界は現代の科学(アインシュタインの相 対性理論や加速的宇宙膨張等)を連想させる。 斯様に生命の可能性為るものは、単に延命等の人間の寿命内に留 まらず、数千年、又永遠に及ぶものである。 (言葉等で)書き表すもの(学問等)、或いは道具に依存するもの(芸 術等)、或いは身体能力によるもの(スポーツ等)等の、斯うした人間 の諸能力の根源を為し、一切を生(活)かすこころ、即ち生命の本質 (仏性)を自覚する(悟る)事による、時空を超えた宇宙(生命)を貫く 真理である。 釈尊在世当時には在り得なかった、行智慧の進化した現代正法苦行 において、可能なる悟り、解脱に拠る柔軟心の上に、鋼鐵の自戒の 護持と極最小限度のテレビからの情報とネットのホームページ公開 に依りて、此の二年間で十数回試みたが判然とは至らなかった処の 、世界人類の心の源に通達する影響力を持つ、現代正法苦行の可 能なる理想的な在り様に至り得たのである。 是に拠りて初めて、世界を生(活)かし得る生涯厳密千日行が在り得 るのである。 さもなくんば、全く為し得ないものと為ってしまうであろう。 釈尊の神髄の結実である般涅槃御遺教の結晶とも云うべき千日行 (三時間坐睡二十四時間仏作仏行)は人類の永遠の行であり、 特に釈尊を初めとし、吾師伴鐵牛老師への報恩として、 小生、田中鐵漢が御遺(教)行(=後厳密千日行)と、そして 『新道元宗(完結編)』を遺す。 願わくば、御誕生寺専門僧堂(元曹洞宗管長板橋興宗老師堂長)で、 唯一仏、最後身を展転、継承し続けて戴きたい、 《 究極の釈尊と現代世界 》 上述した様に、釈尊の究極は、無我為る生命の本質(仏性)である処 の三善根(施・慈・慧)のこころに拠りて、上求菩提(仮に自己(国))と 下化衆生(仮に他己(国))とを刹那に至る迄、隙無く必要に応じ、且 つ厳密(誠実)に為し得る事に尽きる。 然もなくんば、為し得ない。 世界の情勢に於いても、如何とも為し難き問題は、必ず其の唯一の 突破口と打開策を見出し得る事を信じ、世界人類の幸福と平和の為 に、自ずからを捨てて、或いは一歩引き下がって、何処迄も其の問 題に取り組む事によって、時空を超えた不退転の取り組みに拠りて 、何事をも為し得るであろう。 さもなくんば、人類は地獄の闇の中へ踏み込まざるを得ないのである 。 是迄の「力の原理」ではなく、世界人類の幸福と平和を約束する処の 、釈尊が其の究極に迄進化した「生命の本質の原理」に基づいて、破 壊力の強さの順、上位5~6ヵ国主導主義で統一に至った組織を超 え、生命の本質から生み出される、生命の正の進化を約束する智慧 によりて、諸国家内・外に於ける夫々の格差を是正し、物質的・精神 的基本的条件確保に至り得ていない不幸なる人々を救うと云う方針 に基づかねばならない。 《 釈尊正法苦行 (但坐不臥)―仏道の神髄 》 ・大迦葉 上求行 (厳密) ・文殊菩薩 下化娑婆世界 (托鉢自活、就業可) ・アヌルダ 坐睡時以外開眼 三者一如の正体は、 刹那生滅の原理に基づく、二十四時間仏作仏行 以上、其の気に為れば、老若男女誰でも可能。 小生は、五千五百年程前以降の東洋の菩提心 の集積の上に初めて可能と為ったものであります 。 小生、田中鐵漢が御遺(教)行として、 御厳密千日行(二時間坐睡二十四時間仏作仏行) を行ず。 稲作等による食生活の安定に随伴して生じたヨーガの習慣は 大自然の恵みと共に在る自己(の命)が、大自然(宇宙)を在ら使めて 居るものと一つに為ろうとする心が菩提心の起源ではないかと思う。 吾と云う小我が宇宙と云う大我に対する時、ヨーガを生み、是が(釈 尊を通して)悟りによって逆転する。つまり自己の命(自覚)、最も原 初的為る自己の自覚によりて、物の見方が逆転する。 吾命に基づいた世界の把握に転ずる訳であります。 是は、縁起為るものの中で、最も原初自発的なるものであると思う。 ヨーガの起源がそもそも、悟りの当体為る「生命の本質」(仏性)から の促がし(前兆、兆候)に拠るものではなかったのか。) 《 アメリカの根本的過誤 》 西洋の遺産の最たるものは、負の、物の核武装であり、其の唯一の 被爆国は東洋の正の遺産を生んだ、他でもない日本であります。 東洋の遺産の最たるものは、死者の復活による神の存在を否定する 正の、心の、悟り、正法苦行、解脱であります。 米は他を排除するのでなく、極力、他を受容して、智慧に拠りて慈し み、施すべきだと思う。 政治とは、損得でなく、目先の得による安泰でなく、本質による、将 来の興隆でなければ為らない。 無上の破壊力を持つ核武装を生み、日本を其の対象国家と選定して 実行したのである、 戦勝国家、米国は敗戦国家日本を、其れを理由に軍事植民地化し、 其処を拠点として、其の周辺敵対諸国家を睥睨(へいげい)し、日本 を足蹴にしたのである。 其の後、当の米国は、自国に追従する一連の核武装諸国家と共に、 自らを温存して其の能力を完成させながら、他者へはあらゆる手段を 使って、一方的に非核化を強制して来たのである。 斯うしたヒトラー的独裁強制執行は、現代に於いては通用するもので はない。 過去の最大に誤算であった負の遺産の末路としての、負の遺産に 過ぎない。 神為る存在の虚構なる最高権威の帰結として、必然的に至り得た最 高権威としての核爆弾であった。 神為る最高権威の根拠を失った西洋は、唯一為る真実である「生命 の本質」足る根拠を、釈尊以後、現代に於いて世界的に決定的に再 確認したのである。 今や、常識的と為っている米国による是までの過去からの大誤算を 一掃し、是から真に決して人類史上に犯すべからざる核破壊という 大過誤に随伴して執られた世界制覇の中心地としての、被爆地の 軍事植民地化、及び其処から派生して出る、核戦争を大前提とする 力による一方的自国主張等を深く反省しなければならない。 非核化を強制するのであれば、嘗て核破壊を実行に移した世界に唯 一の核戦争体験国家が、先ず被爆国家に過去の反省と謝罪をした 上で始めるべきである。 これ等全てが、一強、米国が唯一為る被爆国日本を未だ、其の隷従 国家としていると云う事実は、人類史上、此れから永遠なる恒常普 遍の真理為る「生命の本質」に基づいて、世界人類の幸福と平和を構 築せんとする中心的役割を担う日本人として、決して忍受出来ない 世界的大過誤である事は明々白々である。 今や、将来の地球上の為に、世界の歴史の大転換点として、是迄の 日本の隷従国家的在り様を一新しなければならない時である。 日米の関係が一新されない限り、将来の世界人類の幸福と平和の 根底を失う事と為るであろう。 何と為れば、残された唯一の生命の真実に離反する事に為るから である。 真に深く反省すれば、過去の過誤は、これからの将来の障害とは為 らない。 《 涅 槃 の 夢 》 無 上 甚 深 微 妙 の 法 善きを育て悪しきを無くす 《 悟り、解脱 と 人生 》 仏道以前に悟り、解脱在り。 悟り、解脱無くんば仏教教義無し。 五千五百年程前のインダス文明に於ける食生活安定後の瞑想の出 現は本具仏性の端緒としての必然的なる仏性の人類の大脳新皮質 を通しての具現化であった。 其の延長線上に在る、人間に具足する、坐禅の功徳、見性、悟り、 解脱に拠りて明らかと為り、無我であれば在る程、其の働きが自然 に出る処の「生命の本質」(仏性)は、人間生命が有する一切の(魅) 力を遥かに超越し、洋の東西を問わず、此の世に悟り、解脱を凌ぐ ものが一切無い処のものであるが故に、釈尊は苦行の果ての成道後 其の御体験に拠りて、人類の為に、悟り、解脱に至る為の道程〔= 仏道(=四苦、六道、滅苦の法、三悪(善根)等の教義)〕を此の世に 率直に、明快に、大胆に打ち出し得たのである。 仏道の意表を突く、斯うした人生や、、人間生命への深い観察眼、 直観力、透徹した洞察力等は悟り、解脱の確かさ為るが故に説き得 たものであった。 釈尊手掌上の悟空の喩えに在る様に、 神仏への信心による無我は自己に具足する「生命の本質」によって 生かされて居るものと違って、他者への帰依に依りてであり、真為る 空ではなく、虚しき空である。 人間生命の有する如何なる能力も、其の「生命の本質」の三善根(施 ・慈・慧)を超える事は不可能である。 其れは、、例えば、若さや能力等が他者へ及ぼす力と云うものは、 飽く迄も他者に依存する間接的効果であり、一方「生命の本質」其の である三善根(施・慈・慧)の力は、他者に依存しない自己完結の絶 対的働きであり、客観的、直接的に他者への力と為り得る処の、比 べられない、無量なる、本質の、永遠なる恒常普遍の真理として、何 処迄も他者が微塵も介在しない、独自の、向上し往く世界である。 嘗て、天体物理学者ホーキング博士は、療養裡に学問を究められた 。 小生は、時間的に止むを得ない場合には坐禅裡に下化衆生を為すも 一石二鳥の可能事である。 《 仏 性 》 仏性は「生命の本質」として、 宇宙を貫き永遠なる恒常普遍の真理である。 釈尊も御遺教に於いて、 「皆、自利利人の法を具足す。」と 説かれた如く、 人類は自利裡人の法を具足する、 本具仏性為る、自他一如である。 《 大脳(新)皮質、菩提心 》 世界人類の幸福・平和を確立せんとする心は、人類特有の大脳(新 )皮質の慮知心に依りて生ずる菩提心である。 此の菩提心(道心)が生命に本有する悪の根源為る三毒(貪、瞋、癡) の毒害から離脱せ使め、坐禅の功徳、悟り、解脱に向かわ使め、 「生命の本質」(仏性)を悟ら使めるに至った心である。 そもそも、愁苦無ければ菩提心生ぜず。 欲界中でなくんば、仏祖(=正法)生ぜず。 仏祖は常に欲界に在って坐禅修行されたのである。 此の菩提心は、生命に、正の進化を遂げさ使むる当体であり、 人類をして生命の究極為る悟り、解脱に至ら使むる唯一なる心であ る。此の菩提心が人類をして、人類の誕生以来、食を安定させ、瞑 想を生み、悟りに至ら使めたのである。 三毒(貪・瞋・癡)害と、「生命の本質」(仏性)からの「促(うな)がし、 前兆、兆候」と慮知心の働きと菩提心の確かさ、更には悟り、解脱等、 そして最終的なる大脳(新)皮質の働き如何に依りて、個人、集団、 国家、世界の運命は形成されて往くのである。 其処に、種々の関係に於ける諸段階に於いて、種々なる影響が及ぶ のである。 (身心相関の)現代病、或いは其れ等の境界領域にも亘る。 しかし、斯うした「生命の本質」(仏性)からの「促(うな)がし、前兆、 兆候」と云うものは、仏道に触れる契機とは為り得るが、相応しき正 法への導きが無ければ、向上する機会を見失うばかりか、場合によ っては、邪道に踏み込む因とも為り兼ねない。 然るに、悲しからずや世の中、此れ等に対応すべき「世界の教え」足 るものが無い故に、少なくとも僧侶足る者ならば、多くの斯うした悩 める人々に向かって、積極的に真実を伝えてゆかねばならな。 真実を知らないが為に、自ら恥を恥とせず、無知にして無自覚に生 きざるを得なかったが、真実を知る事により、来し方に生まれ変わり、 真実を自覚した、意義深い将来を築く事が出来るのである。 此の様に、仏道以前の六道に於ける、人間の(無)意識を超えた永 遠為る恒常普遍の真理としての超意識為る「生命の本質」(仏性)か らの人類大脳(新)皮質への働き掛けは、人類にとって不可避なる最 も根本的であり、一切に係わる最も複雑にして、且つ単純なる、地球 と云う小宇宙に生きる一人間としての不可避の運命的、根源的最重 要課題である。 斯様な訳で、現実の種々の分野に於いて、其の根源に係わらざるを 得ない課題であり、少なくとも僧侶なる者は其の自覚を忘れてはなら ない。 世界的には、 闇路に闇路を踏み添える西洋に対して、 世界を生(活)かす智慧を生む起爆剤としての菩提心の東洋である。 菩提心を生(活)かし、世界に対応し得る智慧を生むべく、正法苦行 が必要不可欠である。 小生 田中鐵漢が報恩行足る 御遺(教)行として 後厳密千日行を行ず (二時間坐睡二十四時間仏作仏行) 目 的 は 世界人類の幸福と平和の完成 其れは真実の完成である 〃 永遠なる恒常普 遍の真理の完成 〃 〃 「生命の本質」 〃 〃 (仏性)の完成 〃 〃 仏道の完成 〃 〃 釈尊の完成 〃 〃 摩訶迦葉尊者 とアヌルダと 文殊菩薩の完成 〃 〃 後厳密千日行と 物質・精神的基本 的条件確保の完成 〃 是が其の結果である 逆に此の結果の完成は 其の目的の完成である 不 昧 因 果 上求菩提(向上門)と下化衆生(向下門)とが、盤石為る持戒の 堅持によりて初めて一如である処に真実(理)が在る。 要は、盤石為る持戒の堅持が刹那に至る迄、行じ得るか否かであ る。 至り得れば両立するし、至り得なければ双方共に成立し得ないと云う 事に為る。 何と為れば、一つものである処の一部を除外して、其れ以外を選択 すると云う作為は不自然であり、本来的為るものではないが故に不 完全であるからである。 初行(40歳以前、易行)と後行(70歳以前、難行)とを全く同様には 行じ得ない点を考慮すれば、極力同等に行ずれども、止むを得ぬ場 合には、多少は中道に拠りて、行じ得る正法戒は、自然に行じ得る 正法戒に正して行ずる事である。 此れを完璧という。 《 釈尊進化の究極為る後厳密千日行 》 ・高王(延命)十句観音経の、最後の第九句目と第十句目。 ………念々従心起 念々不離心 常に、念々(刹那々々)、心(無我為る命)からの湧出あるのみであり 、故に、非自己、非他己、非生、非死である。 吾我が生きるに非ず、只、「生命の本質」(仏性)の働きの在るばかり である。 本来、命というものは我の出る隙は無い。 是が生命(=自然、宇宙)の本質である。 心は自ずから、総ての生命を活かし合い、自利利人の働きを具足し 、孤立した命ではない。 仏性とは安楽であり、柔軟であり、微妙不可思議である。 故に、他に対しても同様に、自ずから他を慈しむ心を生ずる。 我を出さず、常に一心に展転して之を行ずれば、如来の法身常在す る也。 本来、此の仏性在るのみであるが、 之が我によって、仏性を押し込めてしまい、遂には我の世界のみと 為り、仏性を見失って、地獄を生んでいるのが現実である。 発心、発菩提心、得悟、解脱等、皆刹那生滅する生命の本質(=仏 性)からの一念の生起によるものである。 若し、刹那生滅せずば、前刹那の悪去るべからず。前刹那の悪未だ 去らざれば、後刹那の善、今現生すべからず。 一刹那心(語) 能起(説)一語(字)。 「一瞬間の長さの間に起こる心(言葉) は、一つの言葉(文字)を生む。」 一刹那生滅、是が無常の実体である。 暫くも停る事無く、瞬時に生じては、瞬時に滅し往く、生命の生滅の 疾さは、譬えば、四人の弓の射手が互いに背を向け合って、同時に 射た矢が落下する前に、総ての矢を採ってしまう、其の疾さよりも疾 い。 「生命の本質」(仏性)と云うものは、瞬時、瞬時に生まれ変わり、 死に変わりしている存在であり、本具仏性なるが故に、早く自未得度 先度他の心を起すべし。 然らば、久遠の寿量(永遠の命)たちまちに現在前する也。 仏法を知らず、信ぜざる者は、刹那生滅の道理を信ぜざる也。 若し、如来の正法眼蔵涅槃妙心を明きらむるが如きは、必ず此の刹 那生滅の道理を信ずる也。 某僧が問うた。 「生き物の命は何故、此の様に速やかに生滅するのでしょうか?」 釈尊が問われた。 「例えば、四人の弓の上手な射手が居て、四人が弓矢を取り、互いに 背を向け合って、四方を射ようとする処へ、一人の足の速い男が来て 言うには、『あなた方は、同時に矢を射て見よ。私は其の矢を地に落 ちる前に総て手に取って見せる。』と言ったとしたらば如何であろうか ?是は甚だ早いのでなければ出来ないと思うが如何か?」と、更に、 『「生命の本質」(仏性)の生滅の速さは、是等に比較に為らない 程速く、瞬間に移り変わって暫くも止まる事は無い。』と。 自他一如為る「生命の本質」上、等価なる生命(行と説)の一方を捨て て、他方を採るという作為は施すべきではない。 此の事は、既に明確に実証済みである。 等価なるが故に、両立しなければならないのである。 唯、未だ其処迄の正法戒に正して、、厳密なる連係を実践する事で ある。 人事、万事に於いて、対立せずに、両立すべき智慧を捻出して、此の 労苦を惜しむ事無ければ、同様に全ては解消されるに至るのである。 究極の目的は、どれだけの人を此の真理に導き 、どれだけ世の中を改善したかに在る。 其の為には、吾も師も釈尊も無い訳であります。 其れが吾に始まり、師によって軌道に乗り、其の 種子が大地に根を張り、自ずから其の花を咲 かたのであります。 全ては、「生命の本質」(仏性)の然らしむる能力 に拠るものであります。 刹那の自戒の下に正戒護持 する時、文殊の自由極まる {小乗の持戒の兎としての「頭陀第一」の大迦 葉、アヌルダに対して、一切の「捉われ」を 脱落して、自由無碍の大解脱人、諸仏の師 為る大乗の大象、「智慧第一」の文殊菩薩の 風光である。} 《 後厳密千日行の日程表 》 [平日] (一日、十五日は祝?諷経) 0:00 ~ 2:00 坐睡 2:00 ~ 8:00 毎15分~毎正時の坐禅(全6?) 6回の毎15分間は日常茶飯事に 8:00 ~10:00 朝課、朝食、托鉢の支度 10:00 ~ 2:00 托鉢、昼食 2:00 ~ 5:00 毎15分~毎正時の坐禅(全3?) 6回の毎15分間は日常茶飯事に 11:00 ~ 0:00 翌日の準備 〔食事準備等総て経行・止静(15分間)(全3時間30分位)で済ます。〕 [祝・日] 9:50 ~ 1:00 内・外作務 1:00 ~ 2:00 日中諷経 昼食 2:00 ~ 5:00 内・外作務 5:00 ~ 8:00 晩課 夕食 入浴 洗濯 8:00 ~11:00 毎15分~毎正時の坐禅(全3?) 3回の毎15分間は日常茶飯事に 11:00 ~ 0:00 翌日の準備 ※以外は平日と同じ。 【坐禅とホームページ作成とは、夫々等価なるものとして、何等の支 障も来たさないき様、全く自由に緊密に連係して即応すべきである。】 《日課》 <朝課諷経> (自帰依三寶禮~四句請願文) ・一・十五日 祝?諷経 (般若心経・参同契・壽量品偈) ・四・九日 略朝諷経 (般若心経・大悲呪・舎利礼文) ・奇数日 (観音経・参同契・壽量品偈) ・偶数日 (大悲呪・消災呪・宝鏡三昧・壽量品偈) ・祝・日 略朝諷経 (般若心経・大悲呪・舎利礼文) <日中諷経> (仏頂尊勝陀羅尼) <晩課諷経> (大悲呪・甘露門・四句請願文) 《月忌》 ・三日 母、月忌 (修証義・仏遺教経) ・七日 父、月忌 (修証義・仏遺教経) ・二十一日 開山諷経(伴鉄牛御老師、月忌)(大悲呪) 《年忌》 ・一月二十一日 開山諷経(伴鉄牛御老師、年忌)(大悲呪) ・二月十五日 釈尊涅槃会(大仏頂万行首楞厳陀羅尼) ・四月八日 釈尊降誕会(大仏頂万行首楞厳陀羅尼) ・九月二十九日 両祖忌(大悲呪) ・十月五日 達磨忌(大仏頂万行首楞厳陀羅尼) ・十二月八日 釈尊成道会(大仏頂万行首楞厳陀羅尼) 《 宇宙とは・人間とは・花とは何か? 》 我々人類に与えられた課題は、取った、取られた、勝った、負けた等 の二元相対的なるものに非ず。 絶対的なる、真理を得る(自覚する)事である。 「一体、此の宇宙に於ける花とはなにか? 人間とは何か?」 花に、美しいとか、素晴らしいとか、価値を付与するのは人間であって 花其のものに其れ等が在る訳では無い。 人間も同様に、人間其の者を真正に評価し得るのは、人間を超えた 生き者、神仏的人間以外には、釈尊手掌上の悟空の如く、二元相対 の域を出る事は出来ないのである。 勝った、負けた、取った、取られた等で何一つ解らないままに終える のであれば、いっそ、死んだ方が益しである。 然るに、其れが現実である。 是は、如何なる人物も、平等に全く同様である。 人類は本質的に平等に出来ている。 我々人類は、二元論(勝敗、損得等)でなく、花に価値を付与する。 花と命を享有する様に、宇宙、生命、人間と心を享有し得なければ 為らない。 其処に生きる意味(義)、価値、歓喜び等の、有限ならざる、永遠なる 生命力(身を真に生(活)かす源)が在るのである。 花其の物に、何らかの意味も価値も在る訳では無い様に、 宇宙、生命、人間も全く同様である。 人間を超越した(悟った)神仏的人間、其れは、人間の三毒(貪・瞋・ 癡)を超越した、三善根(施・慈・慧)のこころ足る真為る生命力の源泉 にして初めて、宇宙、生命、人間に真正為る意義、価値を与え得る。 我々は花を観る事に拠って、世界人類の幸福・平和を築き上げて往 かねばならないのだと云う勇気と命の意味とを知るのである。 其れ故に、如何に宇宙、生命、人間等を学問的に探求しても、頭脳上 の二元相対の世界を出る事は出来ない。 此の世に生命を授かって、徒(いたずら)に、一生を過ごす事程、恐 ろしい地獄は無いであろう。 人類が二元相対の域を超えない限りは、如何なる能力も、釈尊手掌 上の悟空の如く、人類を超える事は出来ないのである。 悟って、解脱して初めて、(根源的実在は、自他一如なる施・慈・慧の こころなる「生命の本質」(仏性)在るのみであり、)宇宙、生命、人間 の真正なる意味、価値が解るのである。 刹那生滅の原理に基づく自戒の元に、 正戒護持する時、文殊の自由極まる。 正戒護持とは、初行に於ける、 直首腰 抜力 開眼 不臥 即 千日行厳密 の 百分の一秒の厳密さの即に他ならない。 御生前、伴老師は「東照寺はぶっ壊す。」と言っておられた。 其の東照寺本堂の、壮絶にして命あらん限りの開眼の証しとしての 御写真に対し、釈尊の霊鷲山、達磨の崇山少林寺、如浄禅寺の天童 山景徳寺とも云うべき千日行新道元宗大雲山鉄牛寺の本堂右上に は、原田老師の肖像画が在り、左上には、既に開眼の面影は無く、 天に舞い上がるが如き昇竜然足る形相、坐相の御写真でありました。 行の厳密さと開眼とは、必ずしも一致するものではない。 と云うのは、開眼戒が心中生きて居れば、形態としての目の開閉は 問題では無いのであります。 心中、開眼戒の正念相続確かであれば、厳密行には全く影響無い。 開眼筋為るものは、然程(さほど)拘(こだわ)る事は無い。 所詮、一時的な数年~数十年に限定されるものに過ぎない。 要するに、生涯に亘る開眼心戒の正念相続の確かさの問題である。 開眼は正法苦行と共に自ずから進(深、真)化し往く心(質)的なもの 厳密行は百%から始まり、自ずから老化し往く身(量)てきなもの。 頂点に在るべき者は、教え伝え、完成に向けて何処迄も尽し続ける だけである。 そうして、其の出来上がった正道を、後世に遺し続けなければならな い。 『教え(教訓)』と云うものは、泥中の蓮の如く、 マイナス∞(無限大)が不退転に、プラス∞(無限大)に為り往く為の ものであるが故に、 中道をして、マイナス∞から始めるべきもの、否、欲界中での正法苦 行に拠りて、必ず其の様に為るものである。 泥こそ全てが肥やしと為りて、見事な蓮華を咲かすのである。 であるから、失敗こそが肥やしであり、 十成には教訓も在り得ない。 八、九成にして初めて、中道としての最も有効なる生命力の営みが 可能と為る。 ・軍備は許容されるが、核武装は認許し得ない。 ・人間の尊厳性(=「生命の本質」(仏性))は科学 的(遺伝子)操作等で如何とも為し得ないものだ。 ・ロシアが、日本がでない。 取った、取られたでない。 国益を超えて、人間(=住民等)が、 問題の四島の自然の恩恵を平等に享受する と云う大前提で何処迄も智慧を絞って往く。 斯く徹底する処に、 今後将来の人類に、無限の可能性が存する。 国益を生かすか? 人類(=住民等)の心を 生かすか? 利害を生かすか? 生命の本質を生かすか? 利害は戦争に至る。 生命の本質は平和に至る。 此処に自ずから今後将来の人類が 何れを選ぶべきかは明白である。 ・二兎追う者は一兎をも得ず。 求道に於いても然り。 況(いわん)や、地上非核化完璧為れば為る程、 実り多き将来が、地上に約束されて居る。 ゆめ、中途半端為るべからず。 《 宇宙の一塵為る自己の心は世界の心也 》 人類史上最極悪なる原爆破壊。 並びにヒトラー、そして15,16世紀以降の奴隷制度(人種差別)等々 の総決算として、 人類は是等に、現実の人間の三毒害の典型を見なければ為らない。 其の中でも、人類の悪徳を極めた原爆から、人類更正の、つまり三毒 除滅の最善策、つまり世界人類の幸福と平和への最短路を獲得する 事は誰にも疑い様の無い処である。 もう既に、勧善懲悪学、是迄、飽く迄、教説して来たが、学の至れる 処はは実践在るのみである。 原爆に因る人類の完全破壊同様、地上完全非核化に拠る人類の完 全統一以外には成立し得ないのである。 是に依りて、人類史上最不可能事とした、此の最極悪産物をして、 人類に具足する「生命の本質」(仏性)の真理による真力と云うものが 如何なるものかを今に至って世界人類は目の当たりにするのである。 是に卓(すぐる)「説法」は在り得ない。 止(已)む無くでなく、 世界の指導者が積極的に率先垂範以って教示し得た、 人類史上、画期的なる、此の一点が自今以後の地球上の世界人類 の幸福と平和を保障する、最大にして最善なる一歩である事は、此の 世の誰一人疑い様の無い事実である。 万物の霊長足る人類の、宇宙の恩恵に対する報恩を果たし得るので ある。 然るに、一方、宇宙からすれば、人類は全く無力なる、一塵にも及ば ない者であるけれども、正に此の一塵に全宇宙を飲み込む、宇宙の 奇跡的結実としての存在である。 此の一塵が宇宙に対して為し得る事は、其の恩恵を享有(受)し得 ると云う事だけである。 人類が、其の正に生存根拠である因果律に逆らう事を為せば、因果 の法則歴然として、違(たが)い様の無い真理と為りて、人類の悪業 に対する業報の理による報復を感得しないでは済まない。 唯、現代に於ける自然破壊に歯止めを掛け、改善する事以外には、 無事に生き延び得る方法は在り得ない。 此の人類史上の最下為る過去と、是等の後遺症をして、人類に其れ 等を完治し得ると言う事実が在れば、其の人類に世界人類の幸福と 平和を実現し得ない訳が無い。 いずれにしても、必ずや、我々の子孫が完成させないでは置かない であろう。否、置けない筈だ。 世界人類一人残らず、万人が斯うした最困難事を可能なら使める 「生命の本質」(仏性)の生命能力を具足していると云う真実を否定し 得るものではない。 若しも、そうならざる場合には、必ず何処かにそう為ら使めざる悪因と 云うものが存在するのである。 世界(特に日本)の指導者方は、「唯、悪戯(いたず)に生きて来た。 」とか「神仏任せに生かされて居る。」とか、「自ら生きるだけで精一杯 である。」とか、斯うした多くの衆生の最適なる代表者として、今後、 世界中の難問と言われるものに対しても、同様に、積極的なる此処 迄の労苦を惜しむべきではない。 物事は、さながらの負の進化、多様性ではなくて、難問解決の糸口は 、もう既に為されているのであり、個人レベルの心中と云う最も身近 なる部分の課題である。 日々の事件(故)等の原因は、必ず其の様に許認する誘因性が世 の中の環境の人心中に、潜んでいるからである。 自発的、病的なる原因というものは稀である。 世の中全員が悪を悪と為し、善を善と無し得る微細な勧善懲悪の見 極めが付けば、其の心の隙から生ずる処を一つづつ、無くして往くと いう緊張感を日々の生活の中で、正念相続して往けば、悪が生ずる 隙が無くなり、悪は撲滅するに至るのである。 指導的立場にある人程、日々、此の自覚、実践の向上一路でなけ ればならない。 そうすれば、全体から自ずからにして必ず改善され往くのである。 真の強さとは、身でもない、二元的勝ち負けでもない、損得のもので もない。唯、自身の何処迄も限り無く、微細を尽くす、悪を無くすし、 善を施す心の確かさである。 最近、死に至った十才の少女への夫婦による家庭内暴力事件が発 覚した。 夫の瞋りと、其の愚行の原因が分からなかった。 此の事件の根源が分からない。 最も本質的なる部分である。 恐らくは、其れについての言及は為されないであろう。 何故ならば、其れについての明らかなる言及は、小生も是迄、聞いた 例(ためし)が無い。 唯、吾師が前代未聞為る正法苦行への無上道と道場(宗派)とを授 けて下さったのである。 最初は、只、言われたままに、無知無心に行じて居ったが、三十年 近くに及んで、本質としての世界の心の一つである事が疑い無きもの と為ったのである。 しかし、本来其処が語られなければ、問題解決の糸口を掴む事が 出来ない。 往々にして、斯うした日常の報道は、そうした肝心な処には触れられ ない儘であるが、其れが報道機関の宿命でもあるだろう。 要は、其れ等の報道の底に流れているもの、即ち其の本質を洞察 する事が不可欠と為る。 夫の三毒(貪・瞋・癡)の貪欲(自己の我欲への執著、貪り)に因る瞋 (いか)りと其の愚行に拠る事件でなかったかと思う。 諸悪の根源たる「貪」としか言い様の無いものである。 是を認める体質が社会に在るから、斯うした事件が浮上する。 社会の此の様な体質、つまり我欲への執著、「貪り」を認める、少なく も其処から解脱した処迄明確に自覚し得ると云うものが無い以上、 其れ等に対処する最適なる方法で積極的に対応し得るだけの自信 と明確さを持ち得ないのか? そう云う事で仕事への情熱を持ち得ないで居るのか? そう云う事が社会の底流に流れているのではないか? 此の事は、社会全般に於いて同様の共通した認識が得られるもの である。 其れ故に、其れ等の無明から離脱、超越する事が出来ないで居る。 恰も、釈尊手掌上から一歩も出る事が出来ない悟空の如く、 真実を明確に打ち出す事が出来ない。 全てが曖昧模糊とした儘である。 生きる(生活の)意味、意義、生き甲斐、歓喜び、働きと云うものは、 「生命の本質」(仏性)から生起し、其れを離れない処で、自ずか明 確為るものである。 社会の斯うした体質を改める事が、そうしたものを認許しない事と為 り、種々の事件(故)の発覚を食い止める事に繋がるのである。 特に、介護、福祉施設等、そして不毛、貧民諸国家に於ける、概して、 強(勝)者側(=個人、親、集団、組織、国家から国連常任理事国家 に至る迄)の三毒(貪・瞋・癡)が弱(敗)者側(=子、女、高齢者、集 団、組織、国家から国連加盟諸国家に至る迄)へ与える諸々の害悪 として情報網へ浮上する処の毒害である。 特に、指導的立場に在る者は、垂範以って、自ら斯うした毒害悪を 抑止すべく、真実、是正して往かねばならない。 其の最たるものが地上非核化なのである。 自利利人の法(=自他一如)より、完璧なる「厳密行(托鉢自活)」と 「説く」のである。 《 現代を生かす「教え」 (=悟りの真価) 》 生命の進化が何故に大脳に迄及んだか? 大脳とは自我を構成し、豊かなる精神世界を生み、文明世界を築く。 確かに進化の必然性を認め得る。 しかし、大脳為るが故に、人類特有の諸悪を生んだ。 人類さえ居なければ、体験せずに済んだ諸々の悲劇だ。 何故に、進化は態々(わざわざ)負に至らざるを得ないのか理解出 来ない。 でも、チョッと振り返ると、 嘗て、明らかに釈尊が悟ったのだ。 無我為る生命の本質。 人類は、此の悟りの世界、即ち仏道に基づいて、一切を捉え直さな ければればならない。 生命の進化は少なくも、明らかに仏道に入りて、悟りに至る迄のもの として捉えられなければならないのだ。 そうして初めて、大脳(新)皮質の存在意義が明らかと為るのだ。 悟りに迄至って初めて、過去の三毒を過去のものとして受け入れる 事が出来るのである。 人類に三毒が受け入れられなければ、進化は人類以前で止まるべき なのであるが、そうではない。 其れは悟りに拠りて、三毒は転じて三善根と為し得るからである。 因って、人類の視点は、本来「生命の本質」になければならないもので ある。 でなければ、人類が三毒を具有する筈が無いのである。 人間以前に進化が止まる筈である。 さすれば、三毒は悟りを前提とした三毒である。 核破壊は非核を前提とした核破壊であったのだ。 是迄、人類が遺した負の遺産は、其れ等を転じた正の遺産を生む為 のものであったのだ。 つまり、(仏道に入りて)悟り在りてこそ、是迄の一切を生かし得るの である。 斯うして、何処までも、約束された向上一路為る人類の正の進化で ある。 三毒(貪・瞋・癡)。 生命は自立の為に我欲を生んだ。 我欲無くんば、人類は存続し得ない。 しかし、其れが為に、個体間に対立生じ、悲劇が生じた。 又、其れと共に一方では悟りを生み、自他一如なる無我に至った。 生命は無我にして、物心両面に於いて高度なる文明世界に及んだ。 此処に至りて、豊かなる生命の進化の可能性である。 三毒(貪・瞋・癡)として捉えられた、人間の根源悪は我欲が大脳(新) 皮質(=分別)と結び付く事に依りて、何処迄も際限無く巧妙なる悪を 生むのである。 三毒為るものは、悟り無くんば、無明を生む源である。 唯、訳無く貪り、訳無く瞋り、訳無く何処迄も愚かなのである。 然るに、一旦悟りに拠りて、其れ等無明為る存在は、瞬時にして明と 転ずるのである。 是に拠りて三毒は三善根(施・慈・慧)と一転する。 生命の本質を、初めて自覚し、光明を得たからである。 他に施し、慈しみ、他を生(活)かす智慧を生む。 此処に至りて、初めて生命の進化の過程で三毒の生じた事を認め 得るのである。 何故に、貪りて、瞋恚理て、愚かにして、悲劇を生むのか? 未悟にして無明なるが故である。 悟れば、 少女を死に至ら使めた父親の家庭内暴力と、其れに同調した母の 心も、ユダヤを死に至ら使めたヒトラーの暴力と、其れに同調した ドイツ国民の心も全く同様である。 確たる根拠が在った訳では無い。 唯、我欲の三毒(貪・瞋・癡)為るが故である。 悟れば、其れ等は一時の悪夢に過ぎない。 人類は一人残らず、一切の人事の中で最もシンプル為る坐禅に拠り て悟るべし。 坐禅すれば悟る。 人間とは其処迄のものである。 ※悟りて初めて我は本質として生(活)きる。 新道元宗 後厳密千日行裡の仏道でな ければ現代を生かす「教え」足り得ない 《 奇跡的なる宇宙の進化 》 宇宙は刹那から永遠に及ぶ迄の、生滅を繰り返す無常であるが、 其の目的は人類の繁栄に在り。 自己の外に宇宙が在るのではない。 自己の一点を中心に、無始無終の時空が存するのである。 奇跡的なる宇宙の進化は無我から、明らかに生命の繁栄を期して、 自我を生み(キリスト教では原罪と言っているが)、三毒に因る自我 の迷路から、釈尊成道開悟に拠りて無我に復帰し(=悟って)、人類 の「生命の本質」(仏性)の永遠なる恒常普遍の真理に基づく真為る 繁栄に至るものである。 風土的に、インダス文明に於いて、菩提(道)心を生じ、インド釈迦仏 御説法の霊鷲山に開花した。 一方、エジプト文明の古代キリスト教信仰にも修道と云う行として一旦 根付いたが、敢え無くも三毒裡に埋没してしまった。 (キリスト教信仰に於いては、悟りに至る修行は、同様に殆ど埋没して しまい、現在に至る迄修道院として極めて閉鎖的ではあるが、其の名 残りを留めている。) そうして、是が現代に於ける進化を遂げて、極東、日本に鉄牛寺 新道元宗として結実したのである。 《 中 道 》 上求菩提(向上門)と下化衆生(向下門)とが、盤石為る持戒の堅 持に拠りて初めて一如である処に真実(理)が在る。 要は、盤石為る持戒の堅持が刹那に至る迄行持得るか否かである。 止むを得ぬ場合には、中道に拠りて、行じ得る正法戒に正すべきで ある。 そうして、不自然なる刹那に及ぶ正法戒は、自然に行じ得る正法戒 に正して行ずる事である。是を完璧と云う。 此処が中道であり、正法苦行の正法苦行足る所以である。 頭(=意志)でなく、身体(血肉と為っている)が及ぼす動き。 吾師は一信者さんの浄財に依りて、心臓ペースメーカーに支えられて 居られ、晩期には電池切れの状態で二年間過ごされたそうです。 脳溢血に因る病床生活でも、四時に為ったら大部屋の床上で衣を纏 い坐禅を行じ、御一人、岩手県観音寺の其の信者さんの介護の下に 「若ければなぁー。」と身辺での複雑な御心境を吐露されたそうです。 小生、今に至りまして、矢張り、其の事を思います。 若し、未(ま)だ若さ(生命力)が残って居れば、限り無き道(=仏道) 中、もっと頑張れるのでありますが、 本能的に、中道堅実に終るべきだと思いました。 此の行が初(心)行と相違する処。 ・百分の一秒の厳密さが無くなった。 ・帰家穏座。(本来の姿に戻った。) ・ゆとりが出来た。 ・終わりが無くなった。 ・形式的から、より本質的に為った。 ・新道元宗、宗旨(骨格)の確証。 何故にそう為るのかと言えば、 老・病・死の枠内での事であり、 有限為る「行」から、無限為る「教え」を生まざるを得ない為である。 ※ 坐禅行は森羅万象一切のエッセンス(精髄)也 【 結 び 】 宇宙(=生命の本質)は人類をして仏性(=生命の本質)を悟ら使め、 仏を生み、やがて仏は仏性からの促がしに拠りて菩薩行を行じ、更に 是に埋没せず、完璧に更なる自力に依りて、より進化した仏へと為り 往く。 丁度、今から二千五百年程前の古代人類が現代人類に至る迄の進 化を遂げ、現代の一切合切を新生せ使めた如く、宇宙(=生命の本 質)為るものは人類史上五百万年を経て、原始仏から現代仏を生ま 使めたのである。 やがて、此の現代仏は新たなる菩薩として世界を導く。 ・後厳密千日行(二時間坐睡二十四時間仏作仏行) (2019(H31)年3月1日~2022(H34)年2月28日) 2019(H31)年2月28日迄準備期間 初心(初行)―直首腰、抜力、開眼、不臥、即、千日行厳密 後行―アヌルダ(=坐睡時以外絶対開眼)、定印、直首腰 <後厳密千日行が初厳密千日行と相違する点。> ・30年前(30代)の100分の1秒の厳密さが無くなった。 ・托鉢 <後厳密千日行が初厳密千日行と類似する点。> ・初心、厳密、即 ≪ 後厳密千日行 日程表 ≫ [平日] (一日、十五日は祝?諷経) 0:00 ~ 2:00 坐睡 2:00 ~ 8:00 毎15分~毎正時の坐禅(全6?) 6回の毎15分間は日常茶飯事に 8:00 ~10:00 朝課、朝食、托鉢の支度 10:00 ~ 2:00 托鉢、昼食 2:00 ~ 5:00 毎15分~毎正時の坐禅(全3?) 6回の毎15分間は日常茶飯事に 5:00 ~ 6:00 晩課、夕食 6:00 ~11:00 毎15分間~毎正時の坐禅(全3?) 6回の毎15分間は日常茶飯事に 11:00 ~ 0:00 翌日の準備 〔食事準備等総て経行・止静(十五分間)(全三時間半位)で済ます。〕 [祝・日] 10:00 ~ 1:00 内・外作務 1:00 ~ 2:00 日中諷経 昼食 2:00 ~ 5:30 内・外作務 5:30 ~ 8:00 晩課 夕食 入浴 洗濯 8:00 ~11:00 毎15分~毎正時の坐禅(全3?) 3回の毎15分間は日常茶飯事に 11:00 ~ 0:00 翌日の準備 ※以外は平日と同じ。 《日課》 <朝課諷経> (自帰依三寶禮~四句請願文) ・一・十五日 祝?諷経 (般若心経・参同契・壽量品偈) ・四・九日 略朝諷経 (般若心経・大悲呪・舎利礼文) ・奇数日 (観音経・参同契・壽量品偈) ・偶数日 (大悲呪・消災呪・宝鏡三昧・壽量品偈) ・祝・日 略朝諷経 (般若心経・大悲呪・舎利礼文) <日中諷経> (仏頂尊勝陀羅尼) <晩課諷経> (大悲呪・甘露門・四句請願文) 《月忌》 ・三日 母、月忌 (修証義・仏遺教経) ・七日 父、月忌 (修証義・仏遺教経) ・二十一日 開山諷経(伴鉄牛御老師、月忌)(大悲呪) 《年忌》 ・一月二十一日 開山諷経(伴鉄牛御老師、年忌)(大悲呪) ・二月十五日 釈尊涅槃会(大仏頂万行首楞厳陀羅尼) ・四月八日 釈尊降誕会(大仏頂万行首楞厳陀羅尼) ・九月二十九日 両祖忌(大悲呪) ・十月五日 達磨忌(大仏頂万行首楞厳陀羅尼) ・十二月八日 釈尊成道会(大仏頂万行首楞厳陀羅尼) 苟(いやし)くも求道者足る者、 永遠なる刹那生滅の、恒常普遍の真理を吾身に体現するのである。 仮令(たとえ)一時の思いで以って、決断しても、次の瞬間には、もう 既に消滅しているのである。 其の気に為りさえすれば、其処に無限の智慧が存する。 其の様に瞬時瞬時に正の進化を遂げて往くのである。 決断の方が及ばない。 福岡安国寺での攝心会の独参で、伴老師が、学生の小生に突然「私 じゃない、原田祖岳だ!」と吐き出す様に叫ばれた。 原田老師ではない、御自分の真情をを吐露されたのである。 其の後、「坐禅と托鉢の寺」の事を言われ、其れから八年程後に鉄牛 寺が建立されたのである。 当時は何も考えなかったのでありますが、今に至って懐かしく思い出 される。 そう云う次第で、托鉢は吾師が語られた如く、千日行と鉄牛寺(新道 元宗)との一つものであり、如何なる場合でも、常に師から守られて いると云う信念が一貫しているのである。托鉢で東照寺を再建された 師ならではの御信念である。そう云う訳で、托鉢は不可欠。 ネットは托鉢帰宅後、十四時~十七時迄の三?の坐禅を使って、 若しくは、全十四?(平日)の坐禅中、半分(=七?)を使い、 一息半趺の歩調で済ます。 宇宙から授かった命、と托鉢と行とがギリギリの正三角形を為し、 静穏なる宇宙のエネルギーの平和なる均衡、つり合い、緊張感であ り、是が吾命と物とこころの一点と為りて、吾の自覚を限定する。 人類は無我為る宇宙から生じ、無我為る宇宙へ帰って往く。 信は証への予約である。 自(みずか)ら赴(おもむ)けば、自ずから悟る。 何と為れば、修(行)証(悟)一如為るが故である。 神の世界に、つまり神への信に、自(みずか)らのこころを信じ、 原始キリスト教の修道(めいそう)を坐禅に置き換えれば神仏一如と 為る。 〔 新道元宗 新宗旨 〕 一)世界中の総ての老若男女の教え。 二)人生の目的は 「悟り」 に在る。 三)「悟る」目的は、世界人類の平等為る 物質的、精神的基本的条件確保。 四)正法苦行 (托鉢、就業で自活し坐禅(睡)行) の実践。自戒の下に、(数日間、百日間、 或いは1年(月)間~三年間) 行じただけ の仏の自得。 ※最早、地球人類は進化の過程で此の域に達 している。 無我為る宇宙は生命を育み、生命は進化を遂げて複雑化、高度化、 特殊化して身へと進化。 進化した身は大脳を形成し、精神を育んだ。精神は其の母体である 大自然を偶像化し崇拝し、やがてこころを生んだ。 更にこころは進化して六道(趣)(地獄→餓鬼→畜生→修羅→人間→ 天人)を生じ、最終的に「悟り」に至り仏を生んだ。 正に人類史に於ける人類の正の進化其のものである。 今から四十六億年前の地球誕生後、八億年して生命が誕生し、進化 を遂げて五百万年前の人類出現に至る迄の三十八億年弱に亘る 生命の進化の足跡が一個の受精卵中に刻み込まれているのである。 宇宙(無我)→地獄→動物的世界→三毒の世界→三善根の世界→ 仏→宇宙(無我) 「地獄の底」と云うものは無い。 其れは所謂(いわゆる)無我為る悟りの世界であり、 地獄の底とは、闇(迷)路の事に他ならない。 「地獄は底知れぬ」と言うけれども、底知れば無我の悟りの世界と為 る。 大脳は際限の無い悪事と共に、際限無く善事を生む。 此の大宇宙は生成に於ける進化の一端として、其のオアシス足る此 の地球上に生命の花を咲かせ、人類を誕生させ、物心の大脳新皮質 世界、精神・物質世界を構築せ使めた。 そうして分別(=大脳新皮質)に拠りて生命(人類)はに地上に宇宙( =自然)のオアシスの恩恵を享受してきたのであるが、 是n迄、人類の歩みは根本的に三毒(貪・瞋・癡)の為せる世界であ ったし、其れから一歩も出る事の出来ない世界であったから二元的 強(勝)者の世界であった。 其れから抜け出すには人類全体が少欲・知足で負の負い目を平等に 受け入れ、三毒(貪・瞋・癡)に基づく、稼いだ者が其れだけの利を得 るのが当然であると云う考え方から脱却して、三善根(施・慈・慧)に 基づいて、利を獲得した者は其のこころで以って自ずから率先して、 垂範以って他を利して往くべきである。 全体が平等に自ら(身内)の為だけでなく、全体の為に遣って居るの だと云う立場を共有すべきである。 世界人類の幸福と平和 ≒無償の自己犠牲 ≒菩提心 ≒無我為る生命の本質=自利利人の法=自他一如 自己が多少の負い目を受けても、平等に、常に弱(敗)者への三善根 (施・慈・慧)のこころを忘れない。 是が基本でなければ為らない。 世界人類の幸福と平和とは、世界の弱(敗)者への三善根(施・慈・ 慧)こころを基本とする、物質的、精神的基本的条件確保である。 強(勝)者の三毒(貪・瞋・癡)を基本とする、自分が、身内が、自国が でない。 他と共に平等に、の智慧を生かして往かねばならない。 其の為には自利至上主義でない。 自利利人の法が人類具足する信実の在り様であり、在るべき姿であ る。 先ず、人為的な人間破壊、自然破壊に歯止めを掛ける事だ。 其の為には、我々人類は一体、如何しなければ為らないか? 正解答は自ずから生まれて来る。 人類に無駄は無くなるであろう。 過剰軍備費、知的好奇心(探究心)よりも脚下照顧。利潤の一極集中 (=極度格差)の是正等。 長足る者は垂範以って利を弱(敗)者へ施すべきだ。 中東石油産出国家(=不毛地帯)の在り様と、極東、釈尊の究極とし ての新道元宗の立場とは対蹠的である。 新道元宗に於いては、「生命の本質」(仏性)と云う天然資源(=空)、 使えば使う程、湧出する、無量の天然資源であり、枯渇しない無限の エネルギー源を悲しくも占有している。 此の宝を体現しようと云う者在らば、吾身に代えて其の某人を活かす べきであるが。 一方、中東の産油国家(不毛地帯)の指導者達は、其の富を独占して いる。石油は数十年、数百年の有限為るものであり、枯渇した時の 国民レベルでの国家の底力を養っておかねばならない。 ある意味で、斯く在るが故に気の毒である。 人類の真価を生む機会を剥奪されている。 人間として、悲運な境涯である。 真の人間成長の及ばない対極的境遇であり、 三毒(貪・瞋・癡)を助長、増長する環境であるからだ。 小生ならば、其れ等の天然資源は世界人類の物質的、精神的基本 的条件確保と将来の人類の幸福と平和と繁栄の為に極力活かす。 愚かなる事はしない。 若しも、イスラム教の神がイスラム国家諸国民の物質的、精神的基 本的条件確保の為の、世界と連係した、不毛地帯の活性化と女性 差別の一掃を説かないとしたなら、其の神為るものは単なる産油国 王の我欲追究の為の権力支配の道具に過ぎない。 中東産油国家指導者達のみならず、世の資産家達、及び長足る者は 、率先して自(みずか)ら垂範以って、人類の真価を発揮し得るべく、 更に、とことん、其の智慧を絞り生み出して頂きたい。 世界中に此の流れを施すべきだ。 日本は世界唯一為る最悪の被爆国家であり、 世界唯一為る最善の正法国家である。 是等両極を体験した世界唯一の自立国家 日本こそが自今已後の世界を正道に導き得る 世界唯一の国家である。 此の日本にとって核の傘は全く不要。 地上の完全非核化を大前提とし、 沖縄基地の完全返還とは表裏一体である。 宇宙(生命)の正の進化に拠りて、欲と人類特有の大脳(新)皮質に 拠る分別を生じた。 是等人類特有の(我)意識や分別其のものに善悪が在る訳ではない。 世界人類の幸福と平和への正の進化の産物である。 嘗て、フロイドは「自我其れ自体、意識されない。」と言ったが、 是は悟りに拠る、釈尊「天上天下唯我独存尊」としての、宇宙に唯我 為る自覚の悟りである。 単なる我意識とは異なる。 要は、我欲への分別に因る執著と貪りに起因する三毒(貪・瞋・癡)が 悪の根源である。(韓国の現状は、是等三毒の、特に瞋・癡に因る ものである。) 此処に至る迄は無我為る無限宇宙とブッ続きである。 印度釈尊と殆ど同時代の中国孔子の儒教、論語に『朝に道を聞かば 、夕べに死すとも可也。』とある。 是は正に菩提心であるが、悲しくも悟道が未だ及んでいなかったので ある。 是に縁りて、坐禅を行じ、「生命の本質」(仏性)を覚証する事が極要で ある。 其処から世の中を根本的に改善する真力と為る解脱(=正法苦行)に 至り、涅槃(=無我為る宇宙)に至るのである。 論語にあった様に、「如何に生きる(べき)か?」と問う事、是は積極的 為る真剣さであり、本気度である。 是こそ、空虚(空っぽ)、虚無でない「生命の本質」(仏性)、空(=無) からの促がし、兆候、前兆であり、真の積極性である。 以上が本(真)道であり、其の途上にある人は極志幸也。 無能力ならばこそ、此の真道に至り得るのである。 然もなくんば、回り道する事必至である。 悟り、解脱、涅槃の世界は絶対的世界であるが、 幸福・平和の世界(不幸・戦争に対する二元相対的なる世界)とは異 なる。 (不幸・戦争に対する世界でなく)真の幸福・平和は絶対的幸福・平和 以外には在り得ない。 よって、少なくも、幸福・平和になる為には悟り、解脱、涅槃に導かれ るもの以外には在り得ないのである。 我と欲、其のものは真為る幸福・平和・繁栄には不可欠なるもので あるが、是等が我欲と為りて、是に執著したり、貪ると悪が生ずるの である。 此処に悟りに拠る自動制御が働いて、我欲の執著、貪り以前に立ち 戻らせるのである。 此の様に生命は正の進化を遂げ続け得て居るのである。 其れ故に人類は悟って三毒(我欲の執著と貪り)を生ずる以前の三 善根の世界に立ち戻らなければならないのである。 アメリカは日本への原爆投下に拠りて、日本を占領し、其処に、原爆 による世界掌握の為の根拠地を沖縄に置いたのである。 原爆に依る破壊以前と云うのは、破壊してしまったものは復元し得 ないが、今猶、其の原爆破壊支配能力為るものが世界に対して機 能ている以上、可能な限りの世界の完全非核化と共に、復元し得る ものは、即座に復元させなければ為らない事は自明の裡である。 此れが沖縄完全返還の正当なる理由である。 悟りと云うものが、宇宙が生んだ生命に本具する自動制御システム の働きである必然性からも確証される。 人類の真為る繁栄の為に不可欠なる悟りも、原田祖岳老師の見性 程度のものから、伴老師の悟りから解脱、そして無我為る宇宙に至る 迄際限無い。 人類は無我に為れば為る程、「生命の本質」に至り、無我為る宇宙に 復帰するのである。 孔子の儒教も日本神道も、釈尊の悟り迄のものである。 悟りに拠りて人事は一切尽くされて居る。 謂わば、地表の断層の様なもので、 同じ地平線上に無い。 褶曲ならば、連続面上であるが、 断裂(=悟る)(言語道断)しなければ、つまり体験しなければ、人間 側からは至り得ないものである。 狙って出来るものでもないし、 狙う気が無くして、初めて至り得るものである。 よって、悟りの前段階である、坐禅の功徳、つまり『好きこそものの上 手為れ。』で欲得無く、好み楽しむ事が最も望ましい。 要するに、「好んで坐禅をする。」と云う事が、一切のスタートと為るの である。 早い話が、其れ迄は一切問わない。 坐禅と云うものは、物(=生命)を捨てて、こころ(=永遠なる真理)を 得る作業の様なものである。 物は其れ相応に身に付いて来るものである。 大脳(新)皮質によりて分別が生ずる。 欲、分別自体に善悪が在るのではない。 其れ等は生命の多様性、繁栄の為に不可欠為るものである。 是が三毒(貪・瞋・癡)に基づいて機能する処に悪弊(=三毒害)が生 ずるのである。 是は人間に本有為るものであるが故に不可避である。 是等を改善する為に悟りが在るのである。 若し、三毒無くんば悟り無し。 三毒無くんば、世界は平和其のものである。 何と為れば、世の中は本来「自利利人の法」に基づくもの為るが故で ある。 此の諸悪の根源為る三毒の解毒足る悟り(=自他一如)である。 諸悪の根源を制するには悟りが不可欠である。 悟り無くしては制し得ず。 極論すれば、坐禅無くして世の諸悪は何を以ってしても根本的に制し 得ない。 だからこそ坐禅は存するのである。 本来ならばスポーツ(体育)一色は、坐禅一色と為る事が望ましい。 中道に依る正法苦行と、其れ以外の(枯渇す る)死に至る苦行との見究めは、(前者の心に 従って)身が動かなく為る事。是が三度続い たので、ネット作成しない前者(上述の後厳 密千日行)を護持する事に落ち着いた。 人類の一切の毒を制する、 世界人類の為の「教え」。 千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行) 坐睡時以外常にハッキリ目を開けておく 不臥行は現代に於ける、釈尊以来の 人類至極の無上道である。 《 宇宙の本質と人類 》 宇宙と云うものは、科学的には加速度的に膨張し続けているそうだ が、其の宇宙(のエネルギー)は、無限に進化を遂げて、無始無終に して、刹那生滅しつつ、其のエネルギーは宇宙空間にオアシスを形成 し、地球と云うオアシスに生命を育むに至ったのである。 エネルギーの本質は生む事(=繁栄)に在り、「宇宙の本質」は「生命 の本質」と転化した。 生命は更に進化を遂げ、地球に人類(の大脳(新)皮質)を開花せ使 めた。 人類の特質は、動物には具わっていない、動物の繁栄には不可欠 なる欲(生理(本能)的、心理(社会)的なもの)と共に(不)快感に分 別を具有している事だ。 例えば、人類の欲中、代表的なる五欲の中で、人類が最も無難に制 御し得る性欲について述べる。 動物の如く、分別が無ければ本能程度で悪は生じないのであるが、 人類では分別に縁りて、地獄から天人の六道(趣)と仏道を生ずる。 三毒(貪・瞋・癡)は人類に本来具有するものであるが故に、少欲・知 足でない限り、欲への執著、貪りを生起するのが人類の常であり、 三毒(貪・瞋・癡)害の為に世界人類は平安では居られなくなる。 しかし、「生命の本質」(仏性)を悟っても、猶多少の習気(じっけ)(= 煩悩の体が断ぜられても、習慣と為って残る煩悩の働き)が残るが、 解脱から明らかな様に、「宇宙の本質」(仏性)を悟れば、三毒に不染 汚(ふぜんな)と為る。 悟り(身心脱落)に拠りて、「生命の本質」(仏性)を知り、更に解脱に 拠りて三毒に不染汚為る「宇宙の本質」(仏性)に迄至るのである。 悟りに拠りて性欲を離脱する事(契機)と為り、 解脱に拠りて性欲のみならず、其の(不)快感にも染汚(せんな)され ない「宇宙の本質」(仏性)を知るのである。 人類の習気(じっけ)は分別に誘引せらるるもので、是等は正念相続 (例えば、釈尊正伝の法界定印、取分け現代ではアヌルダの開眼) に拠りて即座に簡単に一掃されるものである。 つまり、宇宙が動物的本能から、更なる繁栄への進化として、人類に 欲が生じ、大脳の分別、大脳新皮質のより高次なる分別(菩提心等) が構成されるに至って、悟り、解脱、涅槃に拠りて、非人間的、動物 的、人間的、更には三毒形成以前の「宇宙の本質」の立場(立脚点) から、六趣(道)に亘る人類を掌握し、世界人類の幸福と平和を構築 し得るのである。 此処に進化の進化足る所以が在る。 身に方向性を与えるのが精神であり、心であり、「こころ」である。 小生、初厳密千日行時、 半年位、経った頃、坐禅中、目が閉じている事に気付いた。 開眼しているつもりで居たのに、目は閉じていたのである。 眼の開閉筋が麻痺していたのである。 こころ(=行)には全く影響は無かった。 然るに、開眼の正念相続は生涯に亘る、常時不断の絶対不可欠 なるものである。 増阿含経に「四馬の喩え」がある。 四種の馬が居て、 第一は、鞭の影を見て、直ちに御者の意に従う。 第二は、鞭が毛に触れた時、驚き恐れて御者の意に従う。 第三は、 〃 肉に 〃 。 第四は、 〃 骨に迄徹した時、漸(ようや)く目を覚ますもの。 とあるが、 第一は村里の無常を聞いて此の世の無常を厭う心を発す様なもの。 第二は村里の病苦を 〃 。 第三は村里の人の死を見聞きして 〃 。 第四は自分自身が病に苦しんで初めて 〃 。 とある。 大涅槃経に「四種調御の法」がある。 第一は鞭で毛を打つ 第二は鞭を皮に打つ 第三は鞭を肉に打つ 第四は鞭を骨に打つ 様に、仏の教化は、 第一は、衆生の為に「生」を説く。 第二は、 〃 「生」と「老」を説く。 第三は、 〃 「生」と「老」と「病」を説く。 第四は、 〃 「生」と「老」と「病」と「死」を説き仏道に入ら使む。 とある。 此の様に、仏は、 「為に、生老病死を説く。」で、 生老病死を為説する事に拠りて仏道(正道)に入ら使むる為である。 諸悪莫作 修善奉行 自浄其意 是諸仏教 悪を莫(な)くすでなく善を修める。善を修めれば悪は莫(な)くなる。 善を修めるこころ(=自利利人の法、自他一如)は本来具足する。 是、「生命の本質」(仏性)也。 「生命の本質」は悟後、明確なる三善根(施・慈・慧)のこころである。 つまり、悪を莫くすでなく、善を生む積極性である。 諸悪莫作の消極性から、修善奉行の積極性を生むには悟りがなけ れば困難である。 何と為れば、人類は本来、貪・瞋・癡為る三毒を具有しているからで ある。 正法の確証は無隙厳密、無始無終、自今已後為る常時不断の絶対 不可欠為る開眼の生涯正念相続也。 存在は刹那生滅、即ち無限に亘る時間に依りて限定され、無限に 連係する刹那の当体、是が正なる進化の当体であり、存在の本質で ある。 是は宇宙の本質であり、生命の本質でもある。 是が、人類に「悟り」として自覚される。 存在自体、刹那生滅に基づくものであり、其の実体は無い。 森羅万象、一切刹那生滅(の原理)に基づく仮の像(すがた)である。 少欲・知足にして、三毒を三善根に転じ得、其れ等に基づいて初めて 世界人類の幸福と平和が可能に為る。 そうでなければ、取った取られた、勝った負けたからは一歩も出る事 は不可能である。 どんなに悪を莫(な)くしても、所詮三毒の世界を出る事は出来ない。 要するに悟り、解脱無くして、(完全)非核化は在り得ない。 人類は其れ程、優秀には出来ていない。 人類に光を見出すには人類に悟り・解脱を信認するか、自(みずか) ら悟り、解脱を体現するかの何れかである。 信認する事無くして、非核化は在り得ないし、 信認すれば完全非核化のみならず、世界人類の幸福と平和への最 も確実なる源泉と為る。 もう人類は従来の様に、他を殺して自らが栄えると云う誤った考えか ら脱却して、人類の叡智に拠りて正道を歩み始めねばならない。 神でさえ、人類の生み出したものであるから、場合に依りては人殺し を認め、賞賛さえしている。 仮令、勝利を得ても、其れは人を殺したと云う事実の上にしか成立し 得ない繁栄であって、其れは繁栄でも獲得でも何でも無い。 唯、人間性の放棄、喪失に過ぎない。 自己の精神性の犠牲の上に、初めて成立する欺瞞に過ぎないので ある。 人類は未だに、其の欺瞞を永遠に護持し続けて往こうとしているの だ。 人間位、愚かな生きものは居ない。 宇宙(自然)より「生命の本質」を具足されて居りながらである。 如何なる国家元首も、如何なる理由在ろうとも、国民をして、殺し屋に 仕立てる権利を持てる訳は無い。 如何なる国民も、自(みずか)、ら殺し屋に為りて得をしようと云う国民 は居ない筈である。 若し居るとすれば、其れは癡愚なるが故である。 国家昌平の為には、国民サイドの舵取りが不可欠である。 兎角、指導者為る者は、安泰と名声と富を愛するからである。 戦争犯罪人やオーム真理教麻原彰晃の悪事等は言うまでも無いが 、悟り、解脱して生死を透脱した人間には、人を殺すと言う発想は生 じない。 其れが、分別に亘らない、「生命の本質」の世界から逸脱していない 涅槃の証(あかし)である。 是は人間に限らず、生命一般に対して然りである。 そうして、殺す事に限らず、他に加える危害総てに及ぶ。 何故に然(そ)うなのであろう、と思った。 然るべき僧侶は、戦場では役に立たない。 伴老師もシベリア抑留中は酷く殴られて、一週間程目が見えなかっ たそうです。 若し此処で、動不動の法に依りて殺すとしたら、其れで僧侶生命は 終わりである。 真の僧侶ならば、戦場に於いても、殺される事は在っても、殺す事は 無いと思う。 そもそも、釈尊直伝の十重禁戒に、先ず不殺生戒、そして不偸盗戒、 不淫戒である。 「生命の本質」の最初が「殺す勿れ」である。 此処に、人類に本来具有す三毒(貪・瞋・癡)を転じ得た三善根(施・ 慈・慧)、つまり施し、慈しみ、平等に生きる智慧に拠りて生(活)かし 合う自利利人の法が説かれている。 動物が食い合いをするのは、殺すと云うのではなくて、自の生命を 維持する為に「食す」、或いは自衛の本能である。 人類に在る様な「殺す」とか侵略とか危害を加えるとか云う事は動物 では無いと思う。 西洋の神に於いては、其の崇敬する神の為為る聖戦を肯定してい る。 人間の二元論(=動不動の法)より生み出されたものであるからだ。 人類は釈尊と略(ほぼ)同時代の古代ギリシャの哲学者プラトン以来 の、生殖管理に依る人種改良と云う発想に始まり、160年程前のダ ーウィン(英)の進化論の基(もと)と為った『種の起源』から其の従兄 弟のゴルトン(英)により、遺伝構造の改良に依る人類の進歩を促が す、彼の優生学に基づいて提案された人種改良に影響されたナチ ス政権のホロコーストであり、太平洋戦争後半期の日本のハンセン 病患者に対する強制隔離政策であったのだ。 ホロコーストは、因果の法則から、キリスト教とイスラム教の母体であ るユダヤ教の選民思想に起因するものであったのかもしれない。 西洋では人類の諸能力を究め、知恵を究めた結果が世界三大悪と 神の不在である。 一方、東洋では分別の方向性ではなく、無分別に拠る把握に向かっ た。 例えば、道元禅師『正法眼蔵』(現状公案)に、 「仏道を習うと言うは、自己を習う也。 自己を習うと言うは、自己を忘るる也。 自己を忘るると言うは、万法に証せらるる也。 万法に証せらるると言うは、 自己の身心および他己の身心をして脱落せしむる也。 悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。」と。 此の様に、「宇宙の本質」を悟って往くのである。 斯様な東西両洋の関係は、釈尊手掌上の悟空に譬えられる。 宇宙は、宇宙間のオアシス、地球を生み、更に釈尊(悟り)を生むべく 進化する。此の宇宙の蔵する積極性は、無から存在への積極性であ り、吾の無自覚から自覚への積極性でもある。 無我為る宇宙→「宇宙の本質」(仏性)(=宇宙心)→「生命の本質」(仏 性)(=仏心)→悟り→解脱→涅槃→無我為る宇宙 涅槃とは解脱した状態を云い、其の在り様は無我為る宇宙に至る迄 の無量の涅槃の状態が在り得る。 「宇宙(生命)の本質」は宇宙(生命)を貫く仏性であり(=本具仏性)、 人類特有の大脳新皮質の進化以来、「宇宙(生命)の本質」からの促 がし(前兆、兆候)、更には人類に本来具足する、菩提(=道)心を生 ぜ使める。(=本具菩提心)。 開悟する迄は明確なる菩提心の自覚は無いが、悟後、涅槃に至る迄 、此の菩提心が時空を超えた、宇宙を貫く永遠なる恒常普遍の真理 からの促がしである事を体験からも、明らかに確認するに至るので ある。 地球上の不可避なる三毒(貪・瞋・癡)害悪を解消するには此の菩提 (=道)心が必要不可欠であり、是無くんば其れは不可能事である。 此の世に悟りを体験せ使め、此の混迷為る世界に唯一の突破口を 与え得るのも此の菩提(=道)心で、是無くんば為し得ない。 改善する為の素材に埋もれて在りながら、其れ等を生(活)かす心を 生み得ないで居る。 人間一個人に於いても、全く同様で、是を最大限に活かすのが菩提( =道)心である。 初めから終わり迄、無始無終なる此の宇宙を貫いて、菩提(=道)心 は宇宙心即ち仏性の節目である。 自未得度先度他の心(=菩提心)は、感応道交する処に生じ、悟りで はあらねども老若男女を問わず一切衆生の慈父足り得る。 是仏道極妙の法則である。 感応道交の道とは道心、つまり此の菩提心の事である。 菩提心在りて、初めて、世の極至難事を為し得るのである。 世界人類に幸福と平和を願う、無償の自己犠牲が菩提心である。 此の無償の自己犠牲が、世界の三毒(貪・瞋・癡)に打ち勝ち、抹消し 、世界を何処迄も幸福・平和に向かって牽引して往くのである。 此の無償の自己犠牲の事を釈尊は御遺教、最後の件(くだり)に、 『我今滅を得る事悪病を除くが如し。此れは是、当(まさ)に捨つべき 罪悪の者也。仮に名付けて身と為す。老病生死の大海に没在せり。 何ぞ智者は之を除滅する事を得る事、怨賊を殺すが如くにして、而( しか)も歓喜せざる事あらんや。汝等比丘、常に当に一心に出道を 勤求(ごんぐ)すべし。一切世間の動不動の法は、皆是れ敗壊(はい え)不安の相也。汝等、且(しばら)く止みね。復(馬)た語(もの)言 う事得る事勿れ。時将(まさ)に過ぎなんと欲す。我滅度せんと欲す。 是れ我が最後の教誨(きょうげ)する処也。』と結ばれ、已後口を開 かれる事も無く、般涅槃されたのである。 世間と云うものは、此の身の事に他ならない。 身を除滅する事を得る事が最も深き、真為る不動の歓喜(よろこび) なのである。 世間と云うものは、此の逆を趣向する事であり、其れをして、「生(活) きる」のだとする。 そう云う身、即ち生命有機体(組織)中に機能し、 此処から一歩も出ないのが世間と云うものである。 故に釈尊は『………汝等、且(しばら)く止みね。復た語(もの)言う事 を得る事が在っては為らない。………』と最期に説かれ般涅槃された のである。 無始無終の進化し往く宇宙を、深き、底知れぬ三毒(貪・瞋・癡)の闇 路から、坐禅により開悟して、際限無き三善根(施・慈・慧)の高みに 至る迄、僅(わずか)な、儚(はかな)き人間の生涯の一途上に於いて 体現し得るのである。 要は、三毒世間(開)の諸々の癡闇に、三善根(施・慈・慧)の智慧 の明を以って、積極的に道を拓くと云う事に尽きるのである。 小生、後厳密千日行入り前一週間の準備期間に入りますので、是を 以ちまして、『新道元宗(完成編)』を打ち切らせて戴きます。 無我為る宇宙に立脚した、二十四時間三百六十五日生涯、機械の 如き、其の日暮らしの「托鉢」と、何にも身に付けていない「孤独」と「 寒さ」でありますが、其れこそ其れが出来る事が唯、歓喜(よろこ)び であります。 剣の達人は剣を捨てる 人間の達人は人間を捨てる [新道元宗 宗祖 田中鐵漢 ] 釈尊は『 (出家) 僧の資格は尽形寿 (=命の在ら ん限り)衣(=大気)を着 托鉢(=水)し坐禅(=太陽) を行ずる事。』と言われた。但坐不臥(=常坐) (衣・托鉢) が人間の夜明け(黎明)である。 後行は(宇宙(生命)の)進化の究極で鐵漢独り。 後厳密千日行 (三時間坐睡二十四時間仏作仏行) 2019(R1)年7月1日~2022(R4)年6月30日 完璧第一 上半身~定印の抜力 聞鐘悟道 開眼 以降 永遠なる 涅槃行 釈尊をして、釈尊足ら使めた伝統。 森羅万象の根源としての梵(=清浄)天と、 釈尊の悟りを自利利人の法足ら使めた処の梵天勧請。 「宇宙(生命)の本質」からの促がしである。 是、正にヨーガ、禅定の由来であり、根源である。 是等の本質が感応し合う事無くして、菩提心生じ得ない。 《 処世界梵( 唄(ばい) ) 》 〔釈尊入滅後200余年後の中国魏の唄。 (日本は卑弥呼( 242~248生誕)の弥生時代)〕 『處世界如虚空。如蓮華不著水。心清浄超於彼。稽首禮無上尊。』 (しいしかいじきくん。 じれんかふじゃしい。 しんしんじんちょういひ。 きーしゅりんぶじょうそん。) 「世界に処する事虚空の如く、蓮華の水に著(つ)かざるが如し。 心の清浄なる事は彼に超ゆる。稽首して無上尊を礼し奉らん。」 吾師は此の唄が一番、御好きであった。 更には、無上道(=正法苦行)を行じ奉るべし。 是は果て無き宇宙の如く、際限無い。 初心の峻厳さと熟練からは一歩も出るべきではない。 地上は略(ほぼ)七十七億個を基とする無数の毒の有機的構成体系 から出来上がっているのである。 初厳密行を了じた者は既に(水と油の如く)解脱域に達している。 因みに不淫戒とは心中より一掃するを謂う。 釈尊無しくんば仏法無し。吾も無し。 釈尊を生んだは、バラモンの伝統在らばこそである。 バラモン教は古代インダス文明の滅亡(~BC1800年頃)後に生じ た。 今から五千五百年程前、世界一肥沃な穀倉地帯であったインダス川 流域の農耕に依る人間の食生活の安定確保後、古代インダス文明 に於いて瞑想が生まれ、其の後バラモン教(BC1300~)のヨーガの 行が生じ、更に梵我一如のウパニシャッド哲学(BC800~BC200) の解脱を希求してのヨーガの行、バラモン(教)の梵(浄)行と頭陀行 (但坐不臥)が行じられ、更には其れ等の苦行の終局として釈尊の 断食苦行、中道、そして生命の開花の約束された悟りへの、歴史的 にも最も深く、強い生命の働きの最も盛んなる伝統であったのだ。 謂わば、釈尊とは吾等が命、人間の心の結晶であった。 要するに、新道元宗とは人類の可能性の最大限を説示する正の遺 産の最たるものと言える。 身が心を制御するのでなく、心が身を制御するのである。 生命の進化に拠りて身を生み、此の有限なる時空を、無限為る時空、 つまり永遠なる命(=永遠なる恒常普遍の真理)に至る心を生んだ。 進化である以上、正為る進化であり、負為る進化は退化である。 現代の多様性と進化とは相異なる。 多様性には正負の両面がある。進化とは正なる進化である。 今の人間世界は、斯うした多様性の世界に過ぎない。 富士山頂から、脚下の雲海を垣間見るが如く、 正為る進化の極みから、可能な限り、其の原点に回帰して、其の対 極たる多様性と云うものを、根本的に、もう一度真剣に熟慮、反省し 、世界人類の幸福と平和の最大可能なる実現の為の必要十分条件 が把握出来ねばならない。 是迄の人類の智慧の粋(すい)を集結して、全身全霊で以って臨ま ねばならない。 森羅万象一切は無我なる宇宙から生じ、無我為る宇宙に帰する、 刹那生滅の原理に基づき、無常にして実体の無い、「宇宙(生命)の 本質」(仏性)と謂う、永遠なる恒常普遍の真理として実在し、生命を 育み、人間から、更には仏に至る迄の、因果律に基づく(正の)進化 を遂げ、人類の向上一路門に集約するのである。 [寺を出て以来35年程、唯独り為すべきを只管(ひたすら)為して来た。 今、古希を迎えるに当って、再起不能に陥る迄、為すべきを為した安 堵感が一番嬉しかった。従来通り、生涯、後厳密千日行を行ずる事 にした。此の安堵感が釈尊中道の本体であり、全身全霊を捧げて、 もう死に至る以外に無い存在であると自ずから覚る究極の自覚だ。] 故に自ずから、今の地上世界は人間(の最小限の文明生活(日常底 ))を捨てず、共に無我為る宇宙に一(いつ)為る開放的方向の積極 的三善根(施・慈・慧)で団結せる全体の、保護的我執権力の閉塞的 方向への孤立的三毒(貪・瞋・癡)集団を打倒・改善し、共に全一と 為り往く、向上一路門である。 聞鐘悟道=聞鐘行=滅悪行=開眼(本質)行=完璧行 完璧即宇宙(本質) 『新道元宗(完結編)』 (1ページ~121ページ) 製本済 『新道元宗(完璧編)』 (122ページ~242ページ) 製本予定 ≪ 付 録 ≫ アメリカは地上 (自然) 破壊の犠牲 の元に未だ唯一最強最大規模の核 武装の脅威で以って、他の非核化 と、一方的利潤追求に基づく核主 導の支配体制を構築し、世界中を 制す可きと為す。 三次戦は人類破滅(の入口)。 地上非核化の法戒に基づいて初めて 世界人類の信頼と団結に依りて国境を越え三 次戦は在り得ないものと 為り、世界人類の幸福と平 和の礎と為る。 「宇宙 (生命) の本質」 (仏性) は 森羅万象の恩恵の当体であり、 何時でも 何処でも 誰でも必至の 永遠なる恒常普遍の真理である。 是を以って 永遠なる涅槃行に入行す。 「空、無」 (仏性) は三善根 (施・慈・慧) の当体 三毒 (貪・瞋・癡) は我執、空 (虚・無) の当体 【新道元宗後半部である『新道元宗 (完璧編) (付 録)』の前三分の一程を残して、後三分の二程 が消失し操作不能の為、末尾の付録中、未完 の最終三枚の作成に止め、三年後『新道元宗 (完璧編)(付録)』を製本し、専門僧堂、国立国 会図書館等へ送本致します。 猶、地方図書館でも自由にコピー出来ます。】 (完)了は節目に過ぎず前後不違也 釈尊断食苦行⇒中道⇒正法苦行(初千日行)⇒ 正法唯一具(体)現化の上半身~定印の抜力 (= 解脱同様 人間が絶対に入らない正(伝の仏)法 ) = 釈尊成道(=悟り) 人間には世界人類をして和なら令む責務が在る し 完 璧 三 昧 生命のエッセンス (精髄) が坐禅であり、坐禅 の結晶が正法苦行 (初・後厳密千日行) である。 是は無我為る生命の結晶 (実) であり、 「宇宙 (生命) の本質」(仏性) である処の 三善根 (施・慈・慧)の叫び である。 托鉢自活に依る生涯厳密千日行は本質的生命の 唯一為る根源的必然性 (=正の進化の究極) に他な らず、厳密は自ずから然ら使むる処のものである。 後厳密千日行 (三時間坐睡二十四時間仏作仏行) 2019(R1)年8月1日(69)~2022(R4)年7月31日(72) 完璧三昧 上半身~定印の抜力 聞鐘悟道 開眼 以降 永遠なる 涅槃行 善悪以前に、無我なる宇宙(生命)は刹那、刹那の、限り無き正為る 進化其のものである。 善悪は大脳新皮質に拠る一時的在り様に過ぎない。 上述の宇宙(生命)を人類の生(老病死)に即せば、 其れ故に、人類以前に、人間一個人(の生涯)に於いても、不違全一 である可きである。 是が真実である。 真理は真実にして初めて生(活)きる。 斯るが故に、斯様に生涯に於いて、無我なる真理に即して、真実を 生きる可きなのである。 此れが正の進化為る正道に他ならない。 人間は真実其のものに為(な)り、無我為る、永遠なる恒常普遍の真 理其のものに為る可きである。 是が「悟り」の体験に他ならない。 斯くして、是が 一毫も違わない、真理に即した生である。 是が、因果の法則の、歴然為る宇宙の姿であり、 宇宙(生命)の在り様其のものが不昧因果(因果をくらまさない)と 表現される科学的なる、謂わば超科学の真理(実)である。 『「因果の法則、歴然として私無し。造悪の者は堕ち、修善の者は 陞(のぼ)る。毫釐(ごうり、細い毛、ほんのわずか)も違わざる也。』 一毫も違わぬ無我為る 宇宙の正の進化と為る 剣の達人は剣を捨てる 人間の達人は人間を捨てる 後厳密千日行 生命の史上二大達人の永遠なる真実 (御遺行) 釈迦牟尼仏―生涯石窟夏安居 摩訶迦葉尊者―鶏足山 三岳 極論すれば、人間は其の欲に基づいて生きるか、然(さ)もなくば、 釈尊を出家、苦行に志向せ使めたり、或いは現代の不登校の如き、 既往の生活に疑義を抱かせるが如きものに至る迄、所謂「宇宙(生 命)の本質」からの促がし為る菩提心(=道心)に基づいて「悟る」生 き方かの何れかである。 其れ等両者の間には、人類の諸能力に依る生き方が在る。 然るに此れ等も所詮、前者に帰一する。 今や、地球上は人類を生んで悟り、解脱、涅槃に至り、そして最早、 多様性の時代である。 生命の進化も、遂げるべきは略(ほぼ)完了している。 地球の将来にも科学的に略50億年と云う限界が在る如く、進化も人 間の生涯同様、無限なる生滅の営みの中の儚き命である事は、進化 の及ばぬ処であり、寧ろこころの退化に過ぎない。 何処まで多様性が望まれるべきものであるのか? 人類に於いては、釈尊の出家、悟り(解脱)が核心であり、今の多様 性は生命の質の低下に他ならない。今後、時代と共に次第に其の事 は明白と為る。 斯様な訳で、特に日本に於ける禅門の、悟り、初厳密千日行、解脱 が喫緊の最重要課題である。 釈尊には摩訶迦葉尊者が居られた。 そして小生鐵漢が2500年後、釈尊正法を復活せ使めたのである。 釈尊御遺教に、 『自今已後、我が諸々の弟子展転して之を行ぜば、即ち是如来の法 身常に在まして而も滅せざる也。』 と。 航行には北極星が不可欠であるが、此の闇夜に灯台の灯火無けれ ば着岸不可能である。 北極星では現実的事実とは為り得ない。 此処で上述の、欲か悟かについて、何故に然うなのか? について言及して置かねばならない。 是無くして、欲を悟に転ずる、実践的転じ導く力とは成り得ないから である。 ◎欲に依る酔(=心を失う)→癡(個我)→地獄道、餓鬼道→不幸、 戦争、衰退 ◎悟に拠る醒(=心を得る)→慧(全一)→仏道→幸福、平和、繁栄 両者共、是等は人類特有の大脳新皮質の産物である。 (五)欲は人類の繁栄にとって不可欠であるが、是等が大脳新皮質の 働き如何に縁りて、つまり癡(個我)に機能するか、慧(全一)と機能 するかに縁りて、酔を醒に(=三毒(貪・瞋・癡)を三善根(施・慈・慧)に) 転じ導く力(=「宇宙(生命)の本質力」(仏性力)を得るのである。 菩提心に拠りて正為る進化の究極に至るのも、科学的には此の大脳 新皮質の最為る機能と言える。 此れ等は総て、坐禅の実践に拠りて自ずから覚知するものである。 地上非核化の実現に至り得無いものが在るとすれば、其れは一日一 時間の坐禅を実行し得ないからである。 坐禅力と云うものが如何なるものであるかは、知る人ぞ知る。 坐禅とは宇宙(生命) の本質、つまり佛心である。 万人の基盤は坐禅である。 吾師の師、原田祖岳老師は国民皆禅を唱えられた。 小生は、世界中の総ての教育機関に於いて学問する以上、其れ等 の基盤として週一時間の坐禅を規則付ける事によって、生涯の一日 二十四時間の生きる真意を学んだ上で生活する事によって、生きる 其の意味、つまり総ての人達の生命の本源の働き(=力)に拠りて 生きてほしいと思わずにはいられない。 後厳密千日行 二十四時間三百六十五日 生涯の完璧 (聞鐘等) (=千日行者打ち出し攝心会時の打鐘悟道の 五分前の菩提心) 定印 アヌルダ 直首腰 真実を語らずして語り、世界に唯一為る人間 鐵漢の遺偈 (此れ迄、語る術無く、そして語る事無く 息を引き取られた多くの人々の為に。) 世の中に真実は無いから、自分(国)だ!自分(国)だ!と。 もっとも、此の自分(国)とは? 自分(国)とは身(五欲の三毒(の集合体))か、或いは こころ(本質為る三善根(の集合体))か? 身(=毒為る害悪)は地獄に、糞尿の如く言葉が流れ去り、 こころ(=本質為る仏性)は涅槃に、刹那刹那に真(=完璧)を発す。 人間とは三毒でなければ三善根だ。 三善根で無ければ三毒だ。 其の中間なんてのは嘘、無い。 何と為れば三毒(貪・瞋・癡)だからこそ、悟りに拠りて 、本質為る三善根(施・慈・慧)に転ずるのである。 人類が核武装と自然破壊 で完璧を打砕している [以降三年後『新道元宗(完璧編)(付録)』製本予定] 日本国内に於ける、暴力団撲滅に関する経緯については、小生は 定かでは無いが、暴力団の、市民生活上の保安と利便を保証すると 云う名目に拠る団員の組織維持の方針を容認する従前の市民生活 の在り様は現在の暴力団撤廃運動に拠る市民と政府機関との団結 力に拠りて一変した。 日本の敗戦後の日米安全保障条約以降、日本の現況は正に過去の 暴力団に依る一般市民生活への、所謂制裁に他ならない。 国連規模の、力に依る、つまり核武装力に依る、アメリカを筆頭と する力支配の世界は正に此の暴力団支配の延長線上に在るに過ぎ ない。 国民全体が幸福、平和に繁栄する為に人類は全身全霊で、其の目的 達成に一丸と為って建国達成して来たのである。 しかし、其の裡(うち)、他を排除して、踏み台として自を打ち立てると 云う、人間の三善根 (施・慈・慧) ならぬ三毒(貪・瞋・癡) に基づいた 、誤った悪の台頭に対する対抗策として、最強最大の脅威為る核兵 器が科学者に依りて生み出されたのである。 是に拠りて世界の強大諸国家は世界を我が物とする悪夢を抱いた。 世界の三毒は富める国の、其の確実なる脅威に依りて支配されるに 至ったのである。 其の名残が現在の国連組織である。 是があれば他の三毒を黙らせる事が出来る。 しかし、是も「歯には歯を、目には目を」の力支配の域を出ない。 三毒を制するに二法在り。 一つは「悟り」に拠る三善根に立脚するもの。 他の一つは、従前の力に依るものである。 力とは国家権力(武力と経済力)である。 是、暴力団の本質である。 又今の国連の本質でもある。 今の日本が暴力団を略(ほぼ)制圧し得たと同様に、 国連の暴力的本質に至る迄、世界が一丸と為りて、国内のみならず、 世界に向けて、肚を決めて、勇断する以外に無い。 日本が国内の暴力団絶滅に至った経緯、勇気と積極性を深く省察す べきである。 世界が「宇宙(生命)の本質」(仏性)に基づいて、一丸と為って、前代 未聞のこころに拠る精神的月面着陸を果たさねばならないのである。 是こそ真に偉大なる人類の価値である。 経済、武力、科学以前の「生命の本質」為る三善根(施・慈・慧)に基 づくこころの勝利である。 ものの進化は、こころを離れて、徒(いたずら)に、星の数程の多様性 に拡散するが、こころの進化は、既に古代の釈尊悟りを契機として、 不昧因果なる仏性と云う完璧なる「宇宙(生命)の本質」(仏性)に 成り往く処の真理なのである。 三毒でなければ三善根以外に人間の在り様は無い。 三善根でなければ三毒以外に人間の在り様は無いのである。 其れ故に、人類は永遠なる向上一路門が其の真の在り様である。 我が国、日本が五月一日より令和の新時代に入って、僅か三ヶ月半 であるが、最早在る意味でアメリカの傘下に在る日本が「世界の平和 と安定」を目標として、採り得る道は皆無である事が明らかと為った。 如何なる道も総ては閉ざされて、拓(ひら)かれたる出口の無い袋小 路である事を自ずから知るに至るばかりである。 人類は斯く迄も愚か為る存在であったのかと、今更ながら絶望する以 外に無い。 正に嘗て、釈尊が苦行に及び、人類は死に至る病を本来的に負わさ れた存在である、の自覚に至りて絶望の底から、中道という唯一為る 、人類が採り得る道に拠りて、自己の持てる一切を捨てきった無我の 状態に於いて初めて「宇宙(生命)の本質」(仏性)が、此の釈尊に開 示され証悟された様に、人間釈尊をして初めて、人類が如何なる壁も 砕破し、身を制し得て共存し得る精神世界を体現したのである。 是は「宇宙(生命)の本質」(仏性)の、人間に依りて初めて、至るべくし て至り得た必然的進化の辿るべき唯一為る到達点であった。 是が我が国、日本の「新道元宗」に於いて、釈尊滅後二千五百年にし て唯一明らかに実証し尽くして居るのである。 此の真理(実)をして、世界一の、力世界の指導的立場にある処の アメリカのみならず、国境の壁を越えて、世界人類が、此の人類が至 り得た真理(実)を享受、享有しなければならないのである。 本質的に平等なる世界人類の立場に於いて、其の本質の三善根(施 ・慈・慧)為る立場に立脚して、其処に於いて、世界人類の心が一丸と 成りて、直面する諸難問を打開して往く事が在り得べき唯一の最善( 良)である事を、人類は自知するに至るのである。 世界人類に生ずる諸難問は総て斯くの如く、人間個人の問題である のだ。 真理を弁(わきま)えたならば、自他一如、個全一如の「全一」為る 二元論を超えた悟りの世界が実現するのである。 有史以来の事実として、人間は坐禅をすれば、人類が経験した従来 の人類(間)史は必然的「悟り」に因りて、即座に手にする事が出来る のである。 地獄・戦争・不幸無く世界人類完成の 後厳密千日行 (R1/8/17~R4/8/16) 完 璧 人生の精髄は坐禅に在る。 坐禅は中道、そして悟りをを生んだ。 是に拠りて釈尊の正(伝の仏)法成り、御遺教遺る。 修禅定→修智慧→不戯論 つまり、禅定により行智慧を何処までも徹底して究めよ、と結ばれた。 そして、二千五百年を隔てて三十年程前に鉄牛寺に新道元宗として 托鉢と千日行の寺が建立されたのである。 斯くして、釈尊の御遺教は鐵漢の御遺行(=初・後厳密千日行)として 完結しているのである。 嘗て、攝心会で坐中に、師が突然言われた。 「畳が自分だと思えますか?」と。 是は坐の習熟度(境涯)を問われたもので、違和感無く人を自分の( 事の)様に思えますか?と云う事であります。 兎角、自分と畳の間に種々なる理屈が在る。 人の場合でも同様で、素直に其れが、其の儘、無分別に受け取れな い。 しかし、坐禅に慣れ親しんで来ると、自然にそう云う風に為って来るし 、為って居る。 糞分別が取れているのである。 「宇宙(生命)の本質」(仏性)がものに為っているのである。 〔 因果の道理 〕 順現報受―現世に於いて報いがある。 善悪の報 順次生受―来世(彼の世) 〃 。 順後次受―次世 〃 。 ・帰依三宝戒(仏・宝・僧) ・三聚浄戒―摂律儀(=止悪)戒 摂善法(=行善)戒 摂衆生戒(=利他行(布施・愛語・利行・同事)) ・十重禁戒 不殺生戒、不愉盗戒、不邪淫戒、不妄語戒 不?酒戒、不説過戒、不自讃毀他戒 不慳法財戒、不瞋恚戒、不謗三宝戒 人間は死に切る迄、全部嘘である。 淫(快)に男女無し。男(女)らしさに淫関せず。 真に為すべきを為すのが人間の真価である。 人類の進化の最先端は究極なるこころの進化であり、こころの進化 は斯くの如きものである。 刹那生滅の刹那為る生生は常に新しく、刹那為る滅滅も又常に新た 也。 悟為る刹那がこころの進化の源泉である。 物事は深まれば善いと云うものではない。 何事も深みを追求するのであれば、直に「正法」に入るべし。 是、最短路である。 正法に於ける深みとは三毒(貪・瞋・癡)の転じた「宇宙(生命)の本質 」(仏性)為る無上甚深微妙の三善根(施・慈・慧)に他ならない。 欲界中の解脱人の事である。 此処に於いて、深みは真実(理)と為りて証しもて往き、何処迄も 無我にして進化せる、恵みの宝蔵を孕(はら)む処の宇宙と為り往く のである。 『新道元宗……』として、もう既に遺すべき事が無くなったら、其の後 は敢えて言語道断、言葉を捨て、只管に後厳密千日行に徹し切るべ きであると思い至り、完璧に言語道断に至る迄に五年足らずの間に 十数回の、其の必然性を体験するに至った。 後厳密行に於きましては、有史以来、既に比肩する者も皆無で、自己 の菩提心一つの世界でありましたが、其れでも、もう既に他に為すべ きも無く、為すべきは独り其れに打ち込むべきであると云う信念の元 に現在に至った訳でありますが、今回ばかりは不思議に完璧ならず、 果たして、此の恣意的判断は道を誤っていると知るに至った訳であり ます。 其の所以は以下に図示致します。 其の世界は吾独りの世界であります。 其れでも小生に於きましては、一心に向上一路門、為すべきであると 云う思いでありました。 釈尊時代は、『犀の角の様に唯独り歩め』と、楽寂静(=独り居を楽し む)と説かれて居る。 又一方、「坐中にも衆生を忘れず」と大乗禅の精神が説かれている。 菩提心、悟り ↓ 地獄、戦(闘)争←人間(三毒)→→→三善根→世界人類の幸福・平 ∥ 和と繁栄 「宇宙(生命)の本質」(仏性)=空=三善根(施・慈・慧)=無我 在り得べからざる 大脳新皮質の生み 出した虚構世界 (地獄、闘争、不幸) 無 ↓ 我 →→→菩提心、悟り→正法苦行→→→| ( 為 〔 向上一路門〕(楽寂静) | 解 る | 脱→→→→→→ 宇 ←←〔向下門(常に衆生と共に)〕←←←| 宙 (坐中にも衆生を捨てず) 欲界中で解脱後、下化衆生を捨ててはならない。 ※上述の虚構世界の最たるものが神仏であり、人類の 思い込みである。 「悟り」「解脱」「涅槃」の他に仏無し、在るとすれば人類 の思い込みである。 菩提(道)心とは吾我為る吾が、我為る存在でありながら、無我為る 「宇宙(生命)の本質」(仏性)の働きを取り戻す「悟り」「解脱」「涅槃」に 至ら使め、本来具足する本質為る三善根(施・慈・慧)のこころに転ぜ 使める心であります。 宇宙は無限なる必然性を以ちて、人類を育み、其の必然性を以ちて 世界人類の幸福・平和に至ら使むるのである。 此の必然性こそ、即ち進化に他ならない。 神仏は魔である。 悪の根源は人類の三毒(貪・瞋・癡)であるが、 歴史上明らかであるが、此れ迄、神仏為るが故の戦(闘)争や対立で あったが、此れ等は特に三毒(貪・瞋・癡)に因る最たるものである。 最も恐ろしいのは、 人間を超えた絶対的なる事物(力)、神仏等を思い込む事である。 これ等は一切妄想、錯覚にすぎない。 もし、そうした思い込みが在るならば、直接衆生の為に向けなければ ならない。 そうした神仏に奉仕するのならば、不幸な人達に直接に奉仕しなけ ればならない。 其れが正に神であり、仏である。 其れ以外の神仏は存在しない。 神仏とは自らが神の様に、仏の様に成る為のものとしなければなら ない。 人類の愚かなる処は聖戦を肯定するが如く、自己の思い込みで他者 を除外、排除してしまう処だ。 限り無く困難な道ではあるけれども、かといって自己の為に他を生( 活)かさないのでなく、逆に他を生(活)かす道に徹するべきである。 欲界中で解脱後、下化衆生を捨ててはならない。 要は人間を離れたり、捨てたりしない事である。 是が「宇宙(生命)の本質」(仏性)の因果律なる正の進化である。 西洋は力(能力)の獲得の方向であり、全の中に個を投影する、つま り分析して行く。 一方東洋は力(能力)を捨てて、個の中に全を見、統合して行く直感 的洞察を重視する。 宇宙其の物が無我であり、善も悪も無い進化の当体、つまり「宇宙( 生命)の本質」(仏性)であるが、人類をして我と善悪、つまり悪為る 三毒(貪・瞋・癡)と善為る三善根(施・慈・慧)を生ぜ使めたのである。 後完璧千日行 (令和元年9月1日~令和4年8月31日) 是 仏道の結晶也 大愚 鐵漢 我無くして、無我無し。 完璧なる無我とは空虚。 「無我為ら使める我」為る我が究極為る我であり、 此の究極為る我にして初めて空虚ならざる真為る無我、即ち 三善根(施・慈・慧)の当体為る「宇宙(生命)の本質」(仏性)である。 斯く為る我に至るのが正(法苦)行 (=初・後行) 也。 此の要が後行以降、常に衆生と共に、衆生を捨てない事である。 是こそ「現存せる神仏」為る欲界中の解脱人の生き様(=涅槃行)で ある。 有(限)無くして、無(限)無し。 無(限)を無(限)為ら使めているものは有(限)、即ち個である。 個の確立無くして無(限)無し。 個の確立(完璧なる個)とは正法苦行(初・後行)の至極也。 此処に於いて、究極は自他一如、自利利人の法で、国境を越えた 世界人類の平等為る物質的・精神的基本的条件確保への一路門で ある。 大脳新皮質の究極は三毒(貪・瞋・癡)でなく三善根(施・慈・慧)に立 脚すると云う世界レベルでの全一為る信頼性の確保である。 「宇宙(生命)の本質」(仏性)に至れば、其れ自体が神であり、無限で ある。 有限なる個無くして、無限無し。 完璧なる個在りて初めて「宇宙(生命)の本質」に至り、無限と為り、 神と為る。 「無限為ら使める個」為る個が究極なる個であり、 是こそ「現存せる神仏」為る欲界中の解脱人の生き様(=涅槃行)で ある。 斯く為る個に至るのが正(法苦)行 (=初・後行) の至極也。 此の要は、後行以降、常に衆生と共に、衆生を捨てない事である。 「宇宙(生命)の本質」に至り、本質其のものに為れば、即ち三善根( 施・慈・慧)を悟れば、無限だとか神だとかは実在せるものに非ず、 個(人)の実在に付随するものであり、個(人)其のものが仮為る存在 であり、実在せるものは永遠なる恒常普遍の真理そのものである。 神も無限も自己無くしては在り得ない。 自己在らばこそ、其れに対峙する絶対者を設定 し、有限なる儚き存在為るが故に無限を想定す る。 自己が「宇宙 (生命) の本質」 (仏性) に至れば、 自己即神であり、無限である。 即ち永遠なる恒常普遍の真理である。 永遠なる恒常普遍の真理とは、 「宇宙 (生命) の本質」 (仏性) であり、無我為る 三善根 (施・慈・慧) が人類を生(活)かす。 つまり自他一如、自利利人の法である。 坐中に於いては常に衆生を忘れず、捨てず、 世界人類の平等為る物質的・精神的基本的条件 の確保に他ならない。 坐でない『人(の為)』 「坐の達人は坐を捨てる」 是真也。 坐が其の儘『人(の為)』に移行。 坐に於いてすら斯うである。 まして況や政治に於いてをや。 坐は坐為る殻を脱ぎ捨てて、坐の 核心から躍り出て来る。 「諸仏の師」為る文殊菩薩は自由無 碍に其の智慧に依りて世界を導くの である。 正法苦行には集中と「宇宙(生命)の本質」(仏性)から智慧が湧出す ると云う功徳は在るが、 下化衆生の無い後厳密千日行は丁度空気の出入りの無い呼吸筋の みの運動であって、意味が無いし、上手く往かない。 仏道の最終目的は世界人類の平等為る物質的・精神的基本的条件 の確保である。 「悟り」「解脱」が個人的なものに止まるべきではない。 三毒(貪・瞋・癡)転じて三善根(施・慈・慧)と為りて、世界人類の平等 為る幸福・平和・繁栄の源泉と為りてこそのものである。 此処が人類の他の諸能力と異なる処である。 人類の諸能力は仏道を基盤とすべきである。 「剣の達人は剣を捨てる」の所以が此処に在る。 道元禅師『修証義』に、 「因果の道理、歴然として私無し。造悪の者は堕(お)ち、修善の者は 陞(のぼ)る。毫釐(ごうり)も?(たが)わざる也。」(修証義)と在る。 正法苦行の究極為る後厳密千日行を行じ居りても、其れが衆生を離 れ、衆生を捨てた、下化衆生の無いものであれば、其れは、 大気の出入の無い呼吸筋のみの動きに過ぎない訳であります。 釈尊、般(はつ)涅槃に臨まれて終わりに説かれた如く、 「應(まさ)に度すべき者は、若しは天上、人間皆悉(ことごと)く已(す で)に度す。其の未だ度せざる者には、皆亦(また)已(すで)に得度 の因縁を作(な)す。」(御遺教)でなければ、 仮令(たとえ)、其れで如何に究極の坐禅行(=後厳密千日行)の功 徳を積んだとしても、直に衰滅するのであります。 是が、ほんの僅かでも違(たが)わない不昧(まい)因果の消息であり 、宇宙(生命)の進化の消息であります。 此れこそ、進化と共に三善根(施・慈・慧)を生んだ「宇宙(生命)の本 質」(仏性)であります。 小生も此の五年間近く、必然的に十五回程試みた訳でありますが、 成らない。 為せば為す程、其れが顕著でありました。 仮令(たとえ)、如何に全身全霊の信念を抱きて為しても、 (因果の)道理に適(かな)わない事は、成らないのであります。 故に、如何に、「真実なる教え」が絶対不可欠なものであり、そして (其の)教育の重要性は人間の生涯、人類の将来を決定付ける、測 り知れないものであります。 何事も全身全霊であれば善いと云うのでなくて、 常に衆生と共に、更には下化衆生が無ければ、 そうした、人類の諸能力の存在根拠が無い訳であります。 此処に至るには、「信・鈍・根」が不可欠。 信とは、釈尊、正(伝の仏)法への信。 鈍とは、愚直である事。つまり大愚な誠実さ、正直さ。 根とは、根気。極論すれば、正に四十六億年の地球年齢。 三毒以前の、自立の為の欲と大脳新皮質の在り様、つまり三善根( 施・慈・慧)が「生命の本質」である。 「宇宙の本質」は空虚(我無)から進化し生命を生み、力支配の動物 から人類を生み、「悟り、解脱」によりて智慧を生み、無我に至ら使め た。 力支配は進化の必然性によりて「悟り、解脱、涅槃」と三善根(施・慈 ・慧)に迄至り得たのである。 釈尊以来の「行智慧」によりて至り得た現在は、「行智慧」のみならず、 更に「聞思の智慧」によりて、今後、輝かしき将来を構築して往かねば ならない。 此れは「宇宙(生命)の本質」(仏性)に基づく自利利人の法(自他一 如)に拠りて自己を施す利他行の世界であり、既存の慣習を出る積極 性と勇気の、時間的・空間的蓄積の賜物である。 仏菩薩の日常為る、 初厳密千日行は向下門への入口と為る初厳密千日解脱行(解脱に 至る行)であり、 後厳密千日行は解脱後の向上一路門為る後厳密千日解脱行と 向下門為る後厳密千日涅槃行である。 下化衆生の無い後厳密千日涅槃行は大気の出入の無い呼吸筋のみ の動きの如きもので、直に衰滅する。 向下門為る後厳密千日涅槃行は向上一路門為る初厳密千日解脱行 及び後厳密千日解脱行とはネットのホームページ作成、公開の為、 修行内容が多少異なる。 つまり後厳密千日涅槃行は上求菩提と下化衆生の両面から為り、 上求菩提は日課・食事等も含めて、常に基底に在りながら、 下化衆生は日課・食事等以外の日常茶飯事を含めて下化衆生主体 に自由に行ずる。 つまり、坐禅作法と、場合に依りては托鉢が下化衆生に移行し、 下化衆生を上求菩提に、飽く迄も厳密に入れ替える訳である。 以上は、体験上の行智慧であります。 来月九月一日より三年間、後完璧千日行為る後厳密千日涅槃行に 入ります。 最早既に遺すべき事が無くなれば、後は 究極の正法苦行為る後厳密千日解脱行の功徳を施すだけであると、 此の五年間足らずに十五回程試みたが、其の都度遺すべきものが 刹那生滅、必ず生まれた。然るに、愈々遂に語り遺すべき言葉が出 なくなって、其の儘、上求菩提に専念するのみであると、いざ始める と、大気の出入りの無い呼吸筋のみの動きの如くで、正に衰滅した。 自己の心とは裏腹に、ぼやけて旨くいかない。寧ろ一層、放棄した方 が宜しい。 言語道断は向上一路門に限る。否、寧ろ其れを悟る為に向上一路門 は在る。 向上一路門も極め尽くせば、其れを基底とした向下門が自由為る主 体と転ずるのである。仏は菩薩と為りて返り咲くのである。 斯様に転ずる以外に人類を幸福・平和・繁栄へと生(活)かす以外に 採るべき道は無いのである。 斯くして、三毒由来の言葉は、三善根由来の言葉と為りて、世界人類 を幸福・平和・繁栄へと生(活)かすのである。 釈尊が必然的に、人間為るが故に、死に至る苦行から中道に至り得 た如く、小生も体験を経て、必然的に向上一路門から向下門に至り 得たのである。 体験から即、明確に知るに至ったのである。 何事も愚直で在り続ける以外無い。そうすれば、 予測だにしない思智慧を知るに至るのである。 此れは行智慧が途切れた先に生ずる思智慧である。 此れ等行智慧、思智慧は何の為であるのか? 究極は世界人類をして、平等に、幸福・平和・繁栄に至らしめる為の 最上(善)の智慧を生む為である。 世界人類の平等為る幸福・平和・繁栄(=物質的・精神的基本的条件 確保)の為の智慧(言葉)を生む事が目的であり、主体である。 其の為の坐禅行は坐禅行其のものが目的ではなく、其れ等の智慧を 生む為の最上(善)の手段である。 其れ故に、坐禅至上主義は正法に非ず、未だ本来の目的に至り得て いないものである。 此れは摩訶迦葉尊者と文殊菩薩に象徴的である。 小乗の持戒の兎としての「頭陀第一」の大迦葉、アヌルダに対して、 一切の「捉われ」を脱落して、自由無礙の大解脱人、諸仏の師為る 大乗の大象、「智慧第一」の文殊菩薩の風光である。 「諸仏の師」為るが故に釈尊の嫡嗣とはしなかった。 人間と云うのは、是からは従来の様に、 取る、取る…………でなく、 施す、施す…………で往かねば、出口は無い。袋小路となる。 後者に依りて初めて、余裕、ゆとりが生まれる。 特に上層階級が、上層である程、其の認識を改めるべきである。 実状は、其の逆である。上層程、保護主義である。 量の大小ではない。其のこころの確かさの問題である。 従って、世界的リーダーの保護主義について最も考慮すべきである。 此処が是正されれば、以下倣えである。 此処が保護主義ならば、以下是正される筈が無い。 リーダー程、其の重責を果たして戴きたい。 是が最大の課題である。 其の核中の核が地上非核化である。 率先垂範して、自ら、心の月面着陸を果たすべきだ。 地上非核化 =今後の世界人類の平等為る 幸福と平和と繁栄為る統一 為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは為さぬ心也 人類を統率するには、 人類を超えた神仏的力が不可欠である。 それも、言葉(の壁)を超えた、永遠にして恒常普遍なる真理でなけ ればならない。 其の力を獲得するのが、正に釈尊の正法に他ならない。 つまり、「悟り」、「解脱」、「涅槃」である。 それらの基軸と為るのが「解脱」(参照;下)である。 此れに拠りて、人類が如何とも為し難い諸欲からの影響力を正当に、 自由に処理出来る。 斯様に水と油の如く、其れ等から覚醒せ使むるのである。 『世界に処する事虚空の如く、蓮華の水に著(つ)かざるが如し。 心の清浄為る事彼に超ゆる、稽首して無上尊を礼し奉らん。』 一旦、其処を悟る、つまり解脱すれば、永遠に、意の儘に為し得る。 此の「こころの本質」からの働き(言葉、行為)は如何なる人間も及ば ない。 欲界中に於ける諸欲への執著から自由である無我為る解脱人の働 きは、世界人類を幸福・平和・繁栄に導く最上(善)為るものである。 〈参照〉 「解脱」には初千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)が不可欠。 釈尊に嗣法せられた摩訶迦葉尊者の「但坐不臥」である。 「坐蒲上に腰掛けて、両膝頭上に重ねて伏した両手掌上に下顎を乗 せた坐睡。」 脳内血圧と心臓血圧の、そして胸式呼吸から腹式呼吸への物理的 変化の精神状態に与える根本的影響と三年間の正念相続に因る緊 張感は大である。 人間は横臥するよりも坐睡した方が、為せば為す程、人間としての 性能が上がって来る。 此れで往けば、人間社会は絶対間違いが無い。 精神の生み出す処の物質文明は、最早既に物と心の適度な釣り合 いを喪失し、其の心の生み出した物に由りて、心其のものを見失って しまって居る。心のみならず、身心の母体である自然さえも、最早取 り返しが着かなく為りつつある。 人間の心程恐ろしいものは無い。 大量殺人、否人類を破滅に至ら使める自然破壊。 最早既に時間の問題である。 主要指導者の責任在る勇断以外に其れ等を回避する事は在り得な いのである。 転ばぬ先の杖。転んだ時はもう手遅れである。 此の大宇宙の奇跡に等しい花、人類の何と愚か為る事か! 実に情け無いばかりである。 大宇宙の恩恵に報いてこその人類の人類為る処である。 世の中と云うものは 癡と為ってしまうか 完璧に徹するかのどちらかだ 癡には慧の付かない悪知恵だ 世界人類の平等為る幸福・平和・繁栄 (=物質的・精神的基本的人権確保) ↑ ネットホームページ公開 (言葉) ↑ 後完璧千日行 ↑ 積極的完璧心不淫快戒 (少なくとも後厳密千日涅槃行には必要不可欠) 吾にとって完璧が吾師である 師を超えてこその報恩行と為る 完 璧 聞 鐘 悟 道 ( 鉄牛寺梵鐘には「聞鐘悟道されん事を」 と最後に彫り遺されている。) 人間は誰でも完璧なんだ。誰でも必ず死ぬ。 然れども、此れ迄、自ら失命した人々は星の数程も居るけれども、 生きながらにして死んだ人(=大解脱人)の如何に皆無であるかは 驚嘆に値する。 ≪ 死 ぬ と い う 事 ≫ 「宇宙(生命)の本質」(仏性)は無我である。 是を体験したのが「解脱」である。 『世界に処する事虚空の如く、蓮華の水に著(つ)かざるが如し。 心の清浄為る事彼(か)に超ゆる、稽首して無上尊を礼し奉らん。』 是が生きながらにして知る、我欲の死滅(滅却)した「宇宙(生命)の 本質」である。 是は生きる姿勢(=求道)が決定して、初厳密千日解脱行後に、無我 の状態で、思わず突如として刹那に、雲の切れた青空が意識上に露 呈されたが如く、ハーッと気付かされるものである。 一旦解脱すれば、其の刹那が永遠である。 水と油の如く、二度と混濁しない。 是は、「生きながらにして死んで居った」からであります。 正に、是が「言葉ならぬ体験に拠る啓示(=悟り)」であります。 自己の肉体の死の延長線上にある、自己を超えた「絶対的価値」の 存在を認めるが如き、例えば、小乗の無余涅槃(=肉体的死滅後の 涅槃)だとか、「絶対的価値」為るが故に不可避的に生ずる「聖戦」と 云ったものでありますが、涅槃と云うものは肉体が死滅すれば「涅槃」 其のものも存立し得ないものであります。 「涅槃」とは現実的には飽く迄も、生きた解脱人が欲界中で下化衆生 、上求菩提)し往く心(境地)を云うものであります。(参照:下) 無余涅槃とは形而上学的な、死後の生命(霊魂)の存在を認めるが 如きもので、意味を為さない。 「聖戦」に於いては、相対的二元論の域を出ない人間の延長線上に 過ぎないものであるが故に、不可避と為らざるを得ないのであります。 自己を超えた「絶対的価値」は、悟って人間の延長線上ではない、 「解脱」「涅槃」以外には在り得ないのであります。 <参照> 釈尊は大迦葉と共に石窟夏安居(毎年一回、九十日間の大攝心会) の最終日に文殊菩薩が安居に来場した。 大迦葉、文殊に問うた。 「今夏、何処で安居していたのか?」と。 文殊、答えた。 「今夏は、一ヶ月は王宮の後宮で、又一ヶ月は童子の学舎で、又一ヶ 月は諸々の淫女の舎で安居した。」と答えた。 大迦葉は文珠を追い払おうとしたが、釈尊は大迦葉を窘(たしな)め られた。 小乗の持戒の兎としての「頭陀第一」の大迦葉に対して、 一切の「捉われ」を脱落して、自由無礙の大解脱人、諸仏の師為る 大乗の大象、「智慧第一」の文殊菩薩の風光である。 「諸仏の師」為るが故に釈尊の嫡嗣とはしなかった。 釈尊の生涯石窟夏安宕、大迦葉の鶏足山三岳は、今に至って鐵漢 の御遺行、生涯後厳密千日涅槃行と為りて、未来永劫に不昧因果 為る訳であります。 韓国では、裏工作に因りて、自己が利を得ようとする事が日常化して いる様だ。 是は韓国のみならず、人間社会では寧ろ常態化しているのではない か? しかしながら、是が人類の三毒(貪・瞋・癡)の「貪り」であります。 人の道を犯して迄も、自己(自分達、自国等)が利を得ようとしても、 一時的に、其の時は其れで利を得たとしても、其の悪業報は必ず受 ける事に成っている訳で、是が因果の法則であります。 無我為る働きの生命の無上甚深微妙の法は人類の思議の及ばない 処であります。其れが不昧因果であります。 此の因果からは一歩も出る事は出来ない訳であります。 此の善悪判断の根拠(の自立)が為されなければならない。 人間は其処に至る迄には、「貪り」の時を経なければならないのであ ろう。 其れを経て初めて、人間が成長して、人に左右されない、如何に他 がそうでなくても、自己独りでも他に惑わされない、無我の立場からの 、真の心の自律が果たされなければ為らないのである。 吾師は僧堂での修行時代、在家の居士から煎餅を戴いた。 一枚の煎餅を全員七人で等しく分け合って、皆で食べたそうです。 其れが当然なのである。 是が釈尊の「宇宙(生命)の本質」(仏性)に基づく、自他一如為る 自利利人の法であり、世界人類の平等為る物質的、精神的基本的 条件確保の根拠である。 国家間の覇権競争でなく、人間の、そうした基本的な在り様に立ち戻 って、可能な限り、人類の基本的なる痛みを分かち合う積極的受容 力が至上主義以前に不可欠である。 平等為る物質的、精神的基本的条件確保の方向へ極力、平等に一 丸と為りて歩むべきだ。 そうした、地球レベルでの信頼性によりて物質的、精神的基本的条件 確保を目標に、痛みを平等に分かち合う事が不可欠である。 国は一番だ、一番だで進み、 国民は物質的、精神的基本的条件の保障を願う。 国家と云うものは、国民に基本的条件を確保する為に存在するもの である。 しかし、国民の基本的条件以前に国家権力が先走りしている。 国家は、もう少し、一歩退いて、宇宙レベルの武装体制確立等よりも 脚下照顧、足元の国民を慈しみ、施す智慧を生んで欲しい。 国民を捨てて、離れて、国家覇権(権力)為る力を確立しようとするの は国家のエゴイズムである。 純粋な心には敵わない。 痛みを分かち合うだけの余裕が求められる。 これからの人類の究極は、其の方向に万難を排して如何に能動的、 積極的に共に一丸と為りて、成熟し、完成されて往き得るかである。 是が取りも直さず、宇宙(生命)の本質の、無限の過去から無限の未 来へ向かう働きに他ならない。 世の中は、兎角、物で心をコントロールし がちである、否其れが常道と為って居るが、 心で物を支配するのでなければならない。 利の独占でない、損を分かち合って往く べきだ。 坐禅中の視線は、 千日行中は水平真正面でありましたが、 今(こん)後厳密千日涅槃行(=御遺行)に於きましては、 従前の千日行における、水平真正面の状態で、 只視線のみを下げて、坐前方、畳一枚分(=1.8 m)先、畳上に 視点を置いている。 先ず、結論を述べ、其れ等から敷衍して説明致します。 地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天人、菩薩、仏を問わず、 其れ等の命が生み出す如何なる尊きものより、尊き、貴重なるものが 自己の生命である。 そして是は其れ等の何れの命にも同様に真である。 釈尊の過去は地獄であった。小生に於いても其の例に漏れない。 しかし、バラモンの伝統に縁りて人類救済の慈父となったのである。 其れ等の発端には瞑想、ヨーガの自然発生が在るが、取りも直さず、 此れ等の根底は現代に於いても例外なく、「宇宙(生命)の本質」から の促がし(=本具する菩提心)とでも云う以外に無いものに縁るもの である。 上求菩提の究極も、菩提心に縁りて、人類生命の限界を見究め得て こそ、中道に至り、下化衆生為さ使むるのである。 菩提心及ばずんば中道には至り得ず。 宇宙(≒生命)の存在根拠(=本質)は人を生む事である。 是に基づいて、「進化」、「因果の法則」、「自利利人の法則」が成立し ているのである。 人を生む(=他を生(活)かす=他に利する)が故に価値(=宇宙(生命 )の本質=三善根)が在る。 人が主であり、宇宙が従である。 つまり、人を生む(=生かす)以外には、如何なる価値も存しない。 以上は「悟り」、「解脱」、「涅槃」に拠り、至り得た真理である。 価値― 宇宙 < 生命 < 人 (親) (子) 従…………………………主 (天上天下唯我独存) ※ 一切の上下関係には根拠が無い。唯、仏道のみに拠りて上下生ず。 (譬(たと)い七歳の女流なりとも即ち四衆の導師也、衆生の 慈父也、男女を論ずる事勿れ、此れ佛道極妙の法則也。) 世界人類の、一切の如何なる自己も 宇宙の象徴(=釈尊原点の「天上天下 唯我独尊」)為る存在である。 故に政治は世界人類の平等為る物質 的、精神的基本的条件確保を究竟の 目的とする。 毎朝課の第一声が下述の自帰依三寶禮に始まる 佛 自ら 法 に 帰依し奉る。 正に願わくは衆生と共に 僧 大道を体解して、 無上心を発(おこ)さん。 深く経蔵に入りて、 智慧海の如くならん。 大衆を統理して、 一切無礙ならん。 ・ 自ら ―自己が直接に。 ・ 佛(法、僧)に帰依し奉る ―「教え」を伝える。 ・ 正に願わくは衆生と共に ―坐中でも衆生を忘れず、除かず。 如何なる価値ある物事も、衆生を忘 れたり、除いたりすれば真理に違え、 価値を害(そこな)う。(⇒不昧因果) ・ 一切無礙ならん ―以上を了ずるが故に自由無礙也。 (=文殊菩薩) 高度文明化された現代社会下に古代の「諸仏の師」 文殊菩薩が生 存したとしたら、上求菩提を極力基底にしつつ、に究竟(くっきょう)下 化衆生為し得たかもしれない。 要は、世界人類が将来、如何に平等為る幸福と 平和と繁栄を獲得し、大宇宙の恩恵に報い得る か? に在る。 ≪初行前後から後行入行迄の正法苦行空白時間 ≫ 安国寺専門僧堂を独り刹那に抜け出して、故郷で初行入りする迄は、 未だ全く何をするか具体的には白紙の状態で其の模索が始まる時期 でありました。 何もしない、坐禅だけはするホームレスから始まり、是が東京でビラを 貼って、家庭教師を始め、アルバイトを始めた。 二度と何れの寺にも戻らないと言う決心でありましたから、 正法苦行前身と為る旅を始めた訳であります。 全財産、自転車一台に乗せ、海岸沿いの日本一周と為った訳であり ます。 尤(もっと)も、旅とは云いましても、内容は定時迄には必ず水の入手 出来る所にテントを張り、毎朝必ず其の水で身を清める坐禅を主体と する厳密な行でありました。 テント生活で少しづつ海岸線を移動しながらの坐禅行であり、二ヵ月 後位には、行は定住して遣るものだと思い至り、定住する為に、四ヶ 月後には日本一霊感を得た新潟県糸魚川の丘上の広い公園に戻っ て千日行を始める準備に取り掛かかった訳であります。 行を堅持し得る適当な仕事も色々と探してみましたが、結局見付から なかったので、結果的に、「地獄に通う茶柄杓(ひしゃく)も、心無けれ ば熱くも無し。」と、千日行の為だと、欲界為る実家に戻る決意を固め た次第です。 列車に乗車直後、矢張り糸魚川で遣って行こうと改心し、一旦下車し ましたが、矢張り思い直し、実家へ戻る事にしました。 初行終了後は直ちに実家を出て、二度と寺へは戻らないつもりで入 行致しました。 しかし、種子が大地に其の根を張るが如く、土に根付くと云う事があ るのだと覚知致しました。 初行(=初厳密千日解脱行)は半年間の準備期間を経て、四十歳の 時に終え、以降十五年間足らず、世間で労働していたが、其の間、 初行と異なるのは、坐睡と作務が夫々横臥と労働に移行しただけ。 移行が在ったのみで、其れ以外は初行の継続でありました。 一日(時間)として、疎かにした時は全く記憶に無い。 後行は五十四歳の頃。 仕事の労働時間の関係で坐禅する時間が一時間も取れるか取れな い程になり、遂に坐禅する為に初めて鉄牛寺へ行ったのであります。 しかし数ヵ月後、折り返し、とんぼ返りで実家へ戻らざるを得なくなっ た。 大晦日に戻って、翌元旦から後行入りした訳であります。 千日行から離れて、十五年間足らずの労働期間でありましたが、 正念相続の御蔭で、初日から後行が遣れた。 初行適(かな)えば、後行も遣る気次第であります。 一度攝心会の知らせの葉書が届き、行こうと思いましたが、否矢張り 自分を続行すべきだと思い改めました。 結果論ではありますが、其の御蔭で、其れ以後の正法苦行究極の 後厳密千日解脱・涅槃行を行じ得たのであります。 でなければ恐らく、鉄牛寺を維持して往くに止まって居ったかもしれな い。 吾師に及ぶ者は皆無ではありましたが、長い目で見て、何事も自由に 真実なる結論を示し得たと云う点に於いて、「宇宙(生命)の本質」(仏 性)と云うものは「促がし」から始まり、進化の究極を示し往き続けるも のであると云う思いを禁じ得ません。 願わくば、御誕生寺専門僧堂にて三~四名の初行志望者を生まん事 を! ≪ 行 と 人 ≫ 仏教に於ける行と人の捉え方で、世界を捉え直して見ます。 文明社会と云うものは高度化すればする程、人の前に行を置く。 行とは自己であり、一般に政治、経済、国家、スポーツ、仕事、学問 等、人間の一切の諸能力、仏教では上求菩提(=自力)的側面であ ります。 一方、人とは仏教では下化衆生(=他力)的側面であります。 此処で問題と為るのは諸能力が三毒(貪・瞋・癡)に基づいた場合で ある。 上求菩提の場合でも、釈尊弟子の一人、ダイバダッタは釈尊の教団 を自分のものにしようとして大迦葉の「頭陀行」様の厳しい持戒行を 立てて釈尊に迫ったが、認められず、やがて滅んだ。 厳格行でも大迦葉の様に純粋な菩提心に拠るものでなく、三毒(貪・ 瞋・癡)に基づいたものであるが故に滅ばざるを得なかったのである。 或いは諸能力が三毒(貪・瞋・癡)に基づいていなくとも、其れが感動 、興奮、酔いに過ぎない、存在根拠の無い、個人的なるもの等の場合 には、其れ等は世界人類の幸福・平和・繁栄、更に世界人類の物質 的、精神的基本的条件確保には直結しない。 又、釈尊もそうであった如く、唯悟っただけでは、其の直後は人に及 ぼさない。「宇宙(生命)の本質」(仏性)からの促(うな)がしとも云える 梵天勧請に縁りて下化衆生を始められたのである。 小生も、上求菩提に、然るべく、けじめが付いた段階で自ずから下化 衆生は為されたのであるが、以降は自己の為し得る最大限を尽くし、 自ずから、時・所・位に応じた結果を生むばかりである。 最終的には、世界人類の平等為る幸福・平和・繁栄、具体的には、 世界人類の平等為る物質的、精神的基本的条件確保、及び、其れに 止まらず、「真実の教え」を伝える事であります。 上求菩提と下化衆生で何処迄も自律相乗効果を図りつつ、最大限に 最終目標を掲げて行を完成させ往くのである。 行と共に総てが向上して往く、限りの無い向上一路門と為り得る。 厳密行と共に、やがて、究めて置くべきであると云う自己の効果的価 値判断に因りて、人の事が自ずから疎かに為りつつも、為すべきを為 すと云う意識に拠りて自ずからにして上求菩提が下化衆生を一歩上 回る。すると、人を除き、忘れて上求菩提に徹しようとする。 本来両面在るものを恣意的に一面だけに徹しようと云う「宇宙(生命) の本質」(仏性)に違(たが)うと云う悪業を作る事により、因果の道理 により悪業報を受けざるを得ないのである。 すると、本来の呼吸は、大気の出入りの無い、唯、呼吸筋のみの動き に過ぎないが如く、其の行は意識混濁し、ぼやけて、全く上手く往か ない。寧ろ、いっそ、何もしないが良い。 刹那に気付いた。 行でなく人だと。 逆に、其れを気付かせる為に此れ迄の向上一路門は在ったのだと。 「宇宙(生命)の本質」(仏性)の働きが向上一路門から向下門へ移行 せ使めたのである。 向上一路門は限りの無いものでなく、究極の行智慧に依りて、時至 れば、劇的為る必然性を以って、自ずから向下門へと移行すると云う 思智慧を生んだのである。 是が真中道のプロセス(経過)である。 向上一路門(解脱行)は真中道を経て向下門(涅槃行)へと移行する のである。 千日行を生んだ処の此の行智慧は此の思智慧に至って、世界人類 の平等為る幸福・平和、具体的には、世界人類の平等為る物質的、 精神的基本的条件確保の為の智慧を生むに不可欠、不可避 なる ものであったのだ。 そして、此の思智慧の拠り処と為る三善根(施・慈・慧)の当体こそ 「宇宙(生命)の本質」(仏性)そのものである。 「宇宙(生命)の本質」(仏性)は自他一如為る自利利人の法、及び 三毒(貪・瞋・癡)を悟り転じた三善根(施・慈・慧)の当体であり、 瞑想、ヨーガ、菩提心等は「宇宙(生命)の本質」(仏性)に拠る人類 への促がしに拠るものである。 釈尊により苦行が中道によりて「悟り」を生み、「悟り」によりて、修禅定 →修智慧→不戯論(=何処迄も徹すると言う事(八大人覚(御遺経)) と為る進化を遂げ、更に 吾鐵漢によりて、向上一路門が極まれば、必然的に中道に縁りて向 下一路門(=涅槃行)を生み、正法苦行は、初厳密千日解脱行→解 脱→後厳密千日解脱行→真中道→後厳密千日涅槃行の進化を遂 げる訳であります。 解脱は涅槃の為に在る。解脱無ければ涅槃無し。 解脱は向上一路門の途上に在り、其の究極は、人類の在るべき限界 を超えて初めて、つまり「宇宙(生命)の本質」(仏性)に違(たが)えて、 因果の法則に拠る悪業報に因り真中道に至って、向下一路門へと移 行し、行が人(の為、=教化)に移行するのである。 此れ無ければ、未だに続く古代ヒマラヤ山中の、嘗ての釈尊の様な 苦行者達の域を出ないのである。 此の真中道とは、人類が「宇宙(生命)の本質」(仏性)に違える事に 拠る因果の法則の悪業報に拠り、「宇宙(生命)の本質」(仏性)に復 帰するを云う。 解脱の究極に於ける必然性に縁りて、因果の法則に拠る悪業報の結 果としての真中道に基づく処の完璧涅槃行である。 かるが故に、解脱での積極性が真中道を生み、自利利人の法為る 完璧涅槃行に至り得るのである。 此の事は人類の諸能力の根源を為すべきもので、人類の一切の諸 能力は、在るべき自由為る向下一路門、つまり人(の為、=教化)に あるという、従って世界人類の平等為る幸福・平和・繁栄、具体的に 究竟世界人類の物質的、精神的基本的条件確保が最優先事である と云う真実に至のである。 其れ以外、人類の一切の諸能力は、其の存在根拠を有しない。 「剣の達人は剣を捨てる。」と在る様に、 人生の精髄為る坐禅の究極によって至り得る結論は、他の人を自分 と同じに生(活)かす事であると云う事である。 例えばピアノの達人の究極は其のピアノを捨てて吾命の全身全霊で 以って、他の命の為に生きる事である。 つまり、他の命の為に生きる事が主で、ピアノは従と為るべきもので ある。此れが「剣の達人は剣を捨てる。」の真意である。 向上一路門(=解脱行)の途上に於いては、未だ達人為り難く、真中 道を経て向下一路門(=涅槃行)に於いて初めて「宇宙(生命)の本質 」(仏性)の無我為る達人の働きが出来るのである。 宇宙の進化為るものは無我にして始めて進化為り得る。 我執在らば(正為る)進化は為り得ず、消滅した筈である。 然るに、無我為る、大いなる宇宙の恩恵に縁りて、人類含めて、人類 が破滅に至らない限り、其の精神世界は何処迄も進化し往くものであ る。 「因果の法則」は此の「宇宙(生命)の本質」(仏性)の、進化為る無我 の働きに拠るもので、『因果の道理歴然として私無し。造悪の者は堕 ち修善の者は上る。毫釐も違わざる也。』(道元禅師修証義)である。 諸仏の出世、祖師の西来も此の因果の道理其のものに他ならない。 即ち「宇宙(生命)の本質」(仏性)の虚無から、無我、更に我に至り得 、物質から精神へ至る、刹那為る無限の超科学的可能性為る進化 の働きに他ならないのである。 釈尊正法は「宇宙(生命)の本質」(仏性)、及び無我から吐き出され た永遠なる恒常普遍の真理の言葉である。 現代に於ける多様性は斯うした真実を弁(わきま)えた上での多様性 でなければならない。 然るに現状は、核武装に基づいた経済戦争に終始している。 行に於ける、限界を知る迄には至り得ない。 従って、(新)中道は夢物語と為り、何処迄も此の真実(理)に至り得 ず、何等の確信も持てない儘、相対的、迷夢中の、唯為し得る所の、 威嚇に拠る経済戦争と云う宙吊り状態で、行為るものが無いから人 が出ないのである。 向上一路門――…… 真 ……―→向下一路門 初、後厳密千日解脱行 後厳密千日涅槃行 (三時間坐睡 (三時間睡眠 二十四時間仏作仏行) 中 二十四時間下化衆生) アヌルダ 坐禅が教(=活字)化 に移行 道 アヌルダ 宇 人 三 貪 宙 → 自 菩 → → = 瞋→→ 地獄・戦争 ・ 利 間 毒悟 癡 ↓ 生 利 提 ↓ り ↓智 ↓ 命 人 三解 ↓慧 ↓ の の 心 脱施 ↓ 本 → 法 ――――→ 善=慈⇔少欲・知足、精進、坐禅、智慧 質―――――――→ 慧 ↓ ↑ 根 解脱→ 菩提心→涅槃 \ ↓ ↓ ↓ \→世界人類の幸福、平和、繁栄 (物質的、精神的基本的条件確保) 嘗て、人類は二千五百年程前に、ヨーガの伝統に拠る苦行の究極に 於いて、釈尊が中道に至り得、「宇宙(生命)の本質」(仏性)からの恩 恵為る「悟り」を得(成道し)た。 釈尊に於いて、出家から成道迄の六年間の上求菩提的側面と、成道 後の梵天勧請に依る初転法輪から般涅槃迄四十年足らずの下化衆 生的側面と、般涅槃に御遺教を遺された。 今日吾鐵漢が、其れ等を土台として四十年来の上求菩提の究極に 於いて、其の研鑽の賜物為る体験に拠る真中道即向下一路門、 必然的且つ積極的下化衆生に移行し得たのである。 釈尊の非正法から正法に至る断食苦行から「悟り」に至ら使めた中道 に対応すべき、鐵漢正法(体験に於ける究竟上求菩提即下化衆生の 必然性)の真中道に拠りて、四十年来の上求菩提主体とする研鑽の 賜物と云うべき真中道に拠りて仏道涅槃を究竟し得たのである。 此処に至りて、上求菩提を主体とする小乗的側面の強調される釈尊 が鐵漢に縁りて下化衆生を主体とする、真為る大乗の本領、他力な らざる自力の究極に於いて初めて至り得た、釈尊の梵天勧請もそう であった如く、五千五百年前からの「宇宙(生命)の本質」(仏性)の促 がしに因る瞑想、ヨーガの出現に始まる人類精神の完成が為された 訳である。 (宇宙)| (動物)| (人間 (大脳新皮質)) |(仏道) | | ↓ | 虚無→生命―→本能―→|―→欲―――→三毒――→三善根 (貪・瞋・癡)↑(施・慈・慧) 悟り 三毒(貪・瞋・癡)を悟りて、やがて、正法苦行(=初行)→解脱(=無我 (著))→向上一路の究極→新中道→積極的なる向下一路門 斯様に、向上一路門は向下一路門に帰着するのである。 其れは恰も上昇した噴水が後は滴り落ちる以外に無いが如くである。 悟って、正法苦行に拠りて解脱すれば、自ずから他も、其の様であれ ば善いと云う思いが出て来る。 是が自他一如、釈尊の説かれた自利利人の法であります。 坐禅に因りて智慧を生み、貪を悟りて施に趣き、瞋を悟りて慈に趣く。 趣くとは、背(そむ)くに対する、面(おもむ)くの積極性であり、宇宙(生 命)の本質(=無(我)、空)は自利利人の法として働いている。 三善根(無貪・無瞋・無癡)→三善根(施・慈・慧) →の積極性は慧に拠るものであるが、是が釈尊般涅槃直後の金品 に依る托鉢可や他力門の派生等を生んだ。 そもそも三善根為るものは三毒を悟り、慧を生んだ処から生まれたも のである。 更に本質的に言えば、 太陽の人類に及ぼされる恩恵(=積極性)は何物にも代(か)えられ ない、測り知れないものである。 是は「宇宙(生命)の本質」(仏性)であって、世界人類間にも全く同じ である。 是が、永遠なる恒常普遍の真理であって、 進化の根本原理である。否、そう為るべく、向上一路で舵取りをして 往くのが、我々人類の、進化為る恩恵への報恩でなければならない。 禅定が智慧の為であると云うのは、其れ迄の解脱行が究竟涅槃行で あると云う処の認識を得る、つまり其れ迄の行証が人(=教化)に移 行すると云う真中道を体験して初めて徹底するのである。 釈尊(鐵漢)がそうであった様に、人間世界は(真)中道に則らねば 道は開けない。 道が開けるのは(真)中道に則った時だけであり、人類と云うものは 滅亡しない限り、其の一路門ならざるを得ないのである。 其の智慧(=真理)に徹しない限り、何処迄往っても成果は得られない 。 総ての煩悩が既に尽き去ってしまって、更に一抹の煩悩も無く、何も のにも囚われず煩わされぬ「証悟(さとり)」を体験して、身心共、自由 解脱の境地(=涅槃)(涅槃妙心)を自らのものとしている者。 是を大(佛)阿羅漢と云う。 大乗の阿羅漢は小乗の阿羅漢とは異なり、真の阿羅漢は、本来の自 己に為り切る事の出来る者。 本来の自己の働きを自由に振舞い得る者でなければ、真の大阿羅漢 ではない。佛阿羅漢ではない。 本来の面目を究めて行けば、自ら貪染を超越する。 是に縁りて、 如何なる道の達人も、達人為る所以のものを主体として、其の持ち物 を従とし、「剣の達人は主体を得悟し、其の剣を従属させる。」 此処迄来なければ本物ではない。 「剣の達人は剣を捨てる。」では不十分、未完成である。 そうして初めて、最も大事な事は、「全人類が真に全人類の為に生き る。」と云う事を如何なる事よりも主体としなければならない。 此の時初めて、地上が平等に最大限の幸福、平和に至り得るのであ る。 是が取りも直さず、無我為る太陽の恩恵であり、 今、此処の奇跡に他ならない。 自(みずか)ら、「宇宙(生命)の本質」(仏性)に帰依し奉る。 正に願わくは全人類と共に。 向下一路門に拠りて自由無礙ならん。 嘗て吾師が言われた。 「大法螺が吹けない様では悟ったとは言われない。」と。 正に真実(理)は大法螺の如くして空気の如し。 今に為って初めて、 嘗て、小生が寺を飛び出した時、 心に決めていたものは、「師の道を歩む」と云う事。 然るに、一体、具体的に如何したら良いのか? 全く分からない。 全く分からないから、挙句の果ては、坐禅を捨てて、唯、歩き回る事だ とかしてみたりもした。 三十数年間の向上一路、究竟向下一路。 究竟、二十四時間、「人(の為)=教(活字)化」しかない。 四十数年後、真中道を経て初めて、「師の道」、伝統を出て三善根( 施・慈・慧)の権化とも云うべき、欲界での向下一路門、伴鐵牛老師 の大慈悲心と為った訳であります。 往き付く迄に四十年余りを要した。 全く見当も付かない処のものが、三十五年間程の向上一路の究竟 に於いて、思わぬ処で、ポロリと、其の仏果を得た。 是からが本腰でなければ為らない。 自然の善き処は嘘を就かない処だ。 唯、其の儘。 人間の悪しき処は嘘である処だ 本当が無い。 自然は常に真実を吐き出し伝える。 真実しかない。 真実が露わだ。 釈尊の過去が地獄であったからこそ、釈尊は究極の苦行者と為り得 て、究極の悟りに至り得たのである。 其の釈尊を土台として、 小生は、より深き地獄の淵から、より大為る上求菩提と下化衆生の、 より大なる振幅を経て、完璧なる上求菩提から完璧為る下化衆生へ の移行の必然性と完璧さに至り、此の必然性に於いて、初めて真の 下化衆生に徹底し得たのである。 初厳密行に於いて、最大の課題が、従来の横臥から本行の坐睡への 移行時、つまり胸式呼吸から腹式呼吸への変異に伴う呼吸システム (呼吸筋の相違に伴う)の微妙な相違に伴う心理的苦痛を越える事位 である。 つまり、一晩の実践に縁りて、肚(はら)の坐りと覚悟が出来ているか 否か?である。 後は自活の問題。 世の中を根本的に変革する種子がこんな事なのかと、正直、社会通 念には半ば儚(はかな)くも奇異にも覚える。 然るに、人間の作りなんて、是位単純であるが、此の単純性を絶対 に越えられないのが人類の常である。 慣れれば是位の優れものは無い位な日常的なものである。 生きる事に如何に精神が要であるか。 是が、「生きながらにして死ぬ。」のエキスである。 何時でも、何処でも、誰でも志一つの問題である。 此処で、重力為るものが人間の身心に及ぼす影響力と云うものには、 太陽、大気、水等と同く、測り知れないものが在ると思う。 少なくも四十六億年の地球年齢を要して地上に出現した生命を、其 れ等と全く異質なる生命の存在し得ない環境下で、人為的に条件を 整えて其の下で人類に日常生活を強いるというのは望ましき事では ない。しかも、そうせざるを得ない不可避なる理由が在るのなら兎も 角も、此の地上に於いて、今こそ為すべき事が在りながら、其れを捨 てて在らぬ方向へと向かって往く、しかも其れを競ってだ! 実に子供じみている。真為る大人に為って、飽く迄も真に向かうべき 方向に、共に歩み寄るべきである。 其れこそ、万物の霊長としての人類の真価である。 前述の地球環境を敢えて作り出さねばならないのである。 此の地上で、日々悲惨にも見棄てられ往く多数の人間が餓死せざる を得ない状況下に在りながら、そうした、人命を無視して、馬鹿げた、 無駄な金を投ずる世界の指導者達の認識の浅薄さ、三毒の癡を我々 は、思い知らされるのである。是位の傲慢さを我々は知らない。 人類の叡智で以って、共に痛みを分かち合って打開し往くのが我々 の採るべき道である。 国際政治の根本は何かと、改めて猛省すべきである。 「宇宙(生命)の本質」(仏性)由来の菩提心の結晶である禅定は、自 ら智慧を生む事により、行と為った。 釈尊に於いては断食苦行に拠りて、遂に自滅するに至った。 自らの菩提心の結果が自滅に終わったのだ。 其れ迄の方針を変え、自らの保身を図った上での中道に基づいた禅 定に専念した。 「宇宙(生命)の本質」(仏性)の進化の産物である人間の欲が禁(貪) 欲と為らば「宇宙(生命)の本質」(仏性)に違うが故に非正法である が、正法とは貪・禁欲ならず、少(或いは無)欲を基と為す。 菩提(道)心に於いては、自ずから、楽寂静(=独り居を楽しむ。)が 最善であり、本道である。 性欲については言うに及ばずであるが初行に於いて解脱すれば、 欲界中に衆生と共に居ながら、二度と、水と油の如く混濁しないから 宜しい。 貪欲なるが故の世界の不幸、戦争、地獄である。 又、禁欲為るは中道に反する。 弦は締め過ぎても、緩め過ぎても、好い音は出ない。 程好く締められてこそ、好い音が出る。 釈尊の過ちは禁食欲苦行を為した事だ。 然るに、其の結果、中道に至り得たからこそ、「生命(宇宙)の本質」 が其の儘釈尊に開示され、成道に及んだのである。 正法苦行に於いては釈尊も御遺教経に説かれて居るが如く、最も制 し難き睡眠欲に於いて、三時間坐睡二十四時間仏作仏行為る(千日) 行が最善である。 唯、本能だけで生かされている動物から、大脳新皮質の働きの下の 欲として、生きて居るという自覚の基(もと)に生存している人間へと 宇宙(生命)の完成へ向けての進化を遂げた訳であります。 此の最初の自覚為るものは確かに、「天上天下唯我独尊」であったろ うと思われます。 何と為れば、動物的無自覚から最初の自覚を得た訳でありますから。 小生が坐禅を始めて一年半程した時、自室で突然、其れ迄の自己と 云う者が崩壊し崩れ落ちた。正に道元禅師の言われた「身心脱落」で ある。 其の時、宇宙空間の無限の時間と無限の空間の只中に放り出されて 居るが如き吾独りの純粋意識の体験が忘れられない。 正に天上天下唯我独存である。 小生の最初の悟りである。 斯くして、究竟、完璧なる行証から完璧なる人(=教化)へと移行し往 くのである。 是が世界と共に完成へ向かって進化の辿る道である。 小生が中高生(十五才~十六歳)の頃、「何か在る。其れが何か分か らない。首下(もと)迄出掛かっているのだけれど、分からない。」と云 う思いで、不登校と為り、放浪したり、アルバイトして働いたりした事 が在る。 大学の医学部専門課程の時に、自分の真に為すべき処に矢張り、未 だに往き付いていない。 根源的なるものは、矢張り社会通念で誤魔化す事は出来ない。 来る時が来れば、根源的に為る以外に無いものである。 此の時、初めて本気で探した。そして宗教に往き付いた。 唯、漠然と宗教が一番シックリ来た。 図書館で探している内に、偶然釈尊の小冊子が目に留まり、部屋で 其の通りに組んでみた。 其の時、「アッ、是だ!」であった。 今にして思えば、昔の問いと、此の答えが正に阿吽の呼吸だ。 小生が坐禅を組んだのが、一切への生きる事への端緒と為ったのは 、菩提(道)心は五千五百年程前にインダス文明に於いて、瞑想、ヨ ーガに始まったのと軌を一(いつ)にしている 。 つまり、形から入って往くものである。 何にも無い処に、確かに在った。 何が? 「菩提心、悟り、仏性、解脱、涅槃…………宇宙、真理」 全てが明らかと為ったのだ。正に宝の山。 捨てた処に、手に入る宇宙の宝蔵。 全人類総て、国、民族、宗教、言葉等は異なれども、此の永遠なる恒 常普遍の真理で一(いつ)為れば、後は如何違っていても宜しい。 世界と云うものは、此の要(かなめ)で一(いつ)と為り往く以外には無 いものである。 向上一路門に於ける積極性は、真中道に至るに不可欠為るものであ り、単なる向下門に留まらず、向下一路門に徹する処の積極性に直 結する。 従って、真為る向上一路門とは向下一路門へ転生すると云う真実に 至るのである。 釈尊の断食苦行に拠る中道の延長線上為る真中道に拠りて仏道を 究盡する。 釈尊がサンガで為し得なかった、吾鐵漢の後厳密千日解脱行の究極 に於ける、後厳密千日涅槃行に移行する際の真中道に於いて初めて 釈尊の中道同様、「張りすぎる糸は切れる。」の譬にも在る所の体験 に於いて初めて知る人類の限界である。 〔釈尊〕 |⇒下化衆生 非正法(断食苦行)―――→悟り(=解脱)――→正法 ↑ 中道 (=張り過ぎず、締め過ぎず。) 〔鐵漢〕 悟り(身心脱落)→解脱→上求菩提の究極→向下一路門(=涅槃行) |⇒下化衆生 ↑ 真中道 (「宇宙(生命)の本質」(仏性)に拠る不昧因果) (=上求菩提の究極に於いて衆生を忘れ ると、即、真中道のストップがかかる。) 向上一路門(解脱行)の究極、即 向下一路門(涅槃行)也 此の即を真中道と称す。 是、「宇宙(生命)の本質」(仏性)は、 自他一如。 自利利人の法也。 不昧因果也。 悪根により、悪業報としての新中道也。 此の悪業報によりて初めて涅槃(最善果)行に至り得た。 坐でない『人(の為)』 「坐の達人は坐を捨てる」 是、真也。 坐が其の儘『人(の為)』に移行。 坐に於いてすら斯うである。 まして況や政治に於いてをや。 坐は坐為る殻を脱ぎ捨てて、坐の 核心から躍り出て来る。 「諸仏の師」足る文殊菩薩は自由無 碍に其の智慧に依りて世界を導くの である。 後厳密千日涅槃行 坐→人(の為) 坐禅を教(活字)化に 坐睡を睡眠に移行 三時間睡眠時以外絶対開眼 釈尊の進化せる究極の鐵漢 人生の精髄は鐵漢に於いて究儘す 今後、此れ迄誰も為し得ていない、 永遠なる恒常普遍の真理に基づく 「世界大改革」を完結する。 人類の諸道(能力)と云うものは、 極力平等に、全人類の為に在る。 進化せる宇宙(生命)の本質為るものは、 斯くの如く構成せられている。 然も無くば、不昧因果。業報を蒙(こうむ)る。 毫釐も違(たが)わない。 是は、釈尊般涅槃後二千五百年間に進化した 最後身吾鐵漢の真中道を経た完璧涅槃行により 永遠に証明されている。 自今已後、 是、永遠なる恒常普遍の真理也。 純粋が人を動かす。 新道元宗は最も純粋なる香港、北朝鮮、イランからスタートし、 中国へ及ぼし、全世界へ及ぼして、此の基に世界統一すべきだ。 アメリカがボルトンを解任し、中国が香港を認めるのが 世界平和への第一歩である。 此の一歩、一歩で悪を無くし、善を施して往くべきである。 ≪ 阿部内閣新閣僚方への請願文 ≫ 小泉新大臣に期待する。 日本の心は世界に冠為るものでありながら、 身とは金に非ず人也と言えども、其れに相応しからぬ。 名実共に値するには、従来の伝統では及ばない。 是に新風を吹き込み、自今已後の世界を統率すべき人材を育成する には坐禅が不可欠である。 世界とは人であり、全即一、一即全為る「全一(ぜんいつ)」為るもの である。 其処で、三権の中枢に坐禅の定期的為る実践が求められる。 週に一時間でも結構。 是で一丸と為して世界に及ぼさん事を。 人生は、先ず形から入り、そして何処までも心に深(進)化し往く。 現実と云うものを振り返り見て下さい。 先ず、形(=動物)として産み落とされ、一歩、一歩其れが心(=深=進 )化され往き、最期は完璧に心化される。 地球史のレベルに於いても、森羅万象総て、今や、畜生、人間、悟り、 解脱、涅槃、こころ………… 、と昇華され往く。 愛為るものも、全く同様である。 吾日本に於いても、敢えて、令和為る、今、正に、其の時代である。 斯様に「宇宙(生命)の本質」は無常裡に刹那進化を遂げ往くのであ る。 真中道に至る直前の、究極の上求菩提、即ち衆生を忘れた行と云う ものは、「大気の出入りの無い呼吸筋の動きだけ。」と先般、小生が 形容したのでありますが、今、振り返って見るに、其の状態と云うもの は医学的にも、其の時の精神状態が「宇宙(生命)の本質」(仏性)の 自利利人の法にそぐうものでなければ、自ずから先程形容した呼吸 状態に陥ってしまうが故に続行不能と為るのである。 つまり心の持ち様が自他一如ならざる場合には、其れが身体的に及 ぼす影響力と云うものは、排他的なる悪業報として自身に帰って来る のである。 是は小生の中高生時代以来、今に至る長年の体験から明らかに確 証された真理である。 「宇宙(生命)の本質」(仏性)は自他一如であり、 「薩?(=菩薩)の行願」は「布施、愛語、利行、同事」である。 釈尊が成道(悟る)し、其れ迄の虚無為る苦行から開放されて得た 自他一如の心に由来する処の慈悲の心、愛語、そして伝統以来の 布施の心、自利利人の法為る利行であり、更に自他一如の当体為る 「宇宙(生命)の本質」(仏性)に自他共に違(たが)わないと云う同事 である。 違わないからこそ、水多く集りて海と為り、土多く集りて山と為る。 斯様に「宇宙(生命)の本質」は無常裡に、智慧に拠る刹那進化を遂 げ往くのである。 上求菩提(=坐禅(行))を究竟し、 下化衆生(=教化)に生きる時、必ず自己が救われて居る。 総て、其の連続で、今が在る。 小生の、究極に於いて体験した真中道為るものは斯様なもので、 釈尊同様、必然的に何等の疑念を残す余地も無く、そう為る処のもの である。 其れをして、敢えて、宇宙(生命)の摂理としての新中道と呼んだので ある。 真理(実)為るものは、言葉で整合性を図ったり、一貫性を持たせたり する事によって伝えられるものではない。 言葉で出来る事は「教え」(=真理(実))を「斯うしなさい。」、「ああしなさ い。」と言って、説く事である。 飽く迄も、本人に委ねられている。 自殺や聖戦の如きものに至るものでもなく、 何処までも正法苦行に徹底して、真実(理)を説くべきである。 世界の諸道は正法苦行(初行→後行)→涅槃→世界人類の平等為 る幸福・平和(或いは物質的、精神的基本的条件確保)。 此の真理(実)に一切が至るべきである。 そうすれば、一切の宝蔵である。 頭で構成された今ではなく、いまの今でなければ駄目だ。 何と為れば、分別が混ざる。純粋ではない。 不思議なもので、日常生活に要する金、 自分の主体的活動に必要な分だけ身に付いている。 初めから終わり迄、自主性を支える様に、自ずから具わっておる。 気負うでもなく、諂(へつら)うでもなく、諦めるでもなく。 小生が中高生時代(15才~16才)から現在(69歳)に至る迄、歴然 として得た結論。 釈尊に於ける中道は100%の必然性の、当然の理の結果である。 その様な、当然なる、分かりきった事を何故に釈尊は敢えて為したか ? 死に至る極限状態に於いて、一体釈尊は如何なる体験を得ようと したのか? 当然、力尽き果てるのみである。 そして、其の無益さを悟り、唯空っぽに為って坐って居ったのである。 無心で坐って居た時に、ハッと気が付いて明けの明星をご覧に為ら れた時、「明星出現の時、我大地有情と共に同時成道す。」と獅子吼 されたのである。 我と天地と同根、自他一如を体験されたのである。 如何なる世法も正法には遥かに及ばぬ。 それも、正法苦行には及ばぬ。 初、後厳密解脱行、そして後厳密涅槃行。 宇宙の究極は究竟涅槃。 涅槃とは究竟解脱、即、涅槃に転ず。 自由に人助け(=人の為)に徹するを涅槃行と云う。 宇宙の進化、即ち世界は斯くの如し。 斯く一定也。 斯くの事に至り、実証せしは鐵漢独り。 人類の悪の根源である三毒(貪・瞋・癡)の貪(欲)に対して最た るものが瞑想(ヨーガ)であった。今から5500年程前である。 古代インドの釈尊を生んだ伝統であるバラモン民族のバラモン教 は其れを布施して支えた。 此の伝統が今日に生きて世界の中核を為そうとしているのであ る。 「不貪為れ。」と云った消極的なものでなく、積極的に善き者を善 しとして布施して支える。 是を現代世界の中核に据えるべきである。 此の心の原点を忘れて如何に取り沙汰しても埒は明かない。 打開策は生まれないのである。 然るに、日本は最も其れに相応しい国家であった。 世界で最も優れた此の国民性は他には無い、世界に誇るべきも のである。 宇宙(生命)進化の最先端為る人類の精神世界の二大霊峰は、 一つは、釈尊が説法された霊鷲山。 他の一つは、前者を究極迄進化せ使めた新道元宗大分県大雲 山鉄牛寺国際参禅道場である。 此の日本の土壌をして、新道元宗を確立し得たのであり、 日本は人類精神世界に於いて他に類を見ない、永遠なる恒常普 遍の真理を説く一霊峰として未来永劫不滅である。 現代の総ての世界は挙(こぞ)って、此の日本を以って範と為す べし。 ≪ 現代世界の異常気候変動 ≫ 世の政治家足る者は、戦争、闘争以前に、何よりも先ず第一に、 自然破壊の根を除去しなければならないのである。 何と為れば、 現実問題として、 地上が直面している問題は、戦争、闘争以上に、 地上の自然破壊に因る被害が、近年の人口増加に匹敵する位 甚だしく、桁違いに深刻であるからだ。 自然破壊位、人類の諸悪の根源たる三毒(貪・瞋・癡)の産物は 無いのである。 是は戦争、暴力以上に、無慈悲に、無抵抗に、不可抗力的に人 類を襲う人為的間接的暴力である。 是を無視している政治家は、根本的に政治家の資格を持てない 人間である。 他を省みず、自分第一主義の、唯単に、人類の諸悪の根源たる 三毒(貪・瞋・癡)の権化たる存在である事は疑い無い。 最も政治家としての資質に欠ける人間である。 ≪ 自然と自由 ≫ 人間は自然に倣うべきである。 自然は自由其の物であるかの様に思い為している。 しかし、自然とは刹那、微妙なるものである。 自然の摂理として、無常裡に進化と云う刹那、微妙為る働きに拠る 必然性に支配されているのである。 自由とは、少なくも、遣りたい放題でなく、刹那、微妙為る自制に基 づいた必然性を持ったものでなければならない。 人類は三毒(貪・瞋・癡)に支配され、自らを見失ってしまってはならな いのである。 是が進化の究極為る、究竟涅槃の日々である。 釈尊在世に正法以前の苦行の甚だしきに、 釈尊の断食苦行とアヌルダの不眠不臥行がある。 前者は中道(禁欲と貪欲の両極に亘らない)を生み、後者は失明に 至った。 一方、正法として頭陀行が在る。 根幹とも云うべき但坐不臥の威儀。是は常坐とも言われるものであっ たので、小生の後厳密解脱(涅槃)行の本来の坐禅での睡眠ではな かった様だ。 此れ等の中で最も峻厳なるものは最も制し難き、睡眠欲を禁じた 不眠不臥行である。 小生は後厳密行を始めて二ヶ月目頃、此れに至った。 其れも、朝九時頃から夕方五時頃迄の福岡市一帯での托鉢をしなが らである。 平日のみ半年かけて一巡出来た。 二度程、列車の中で座席からつんのめり、転げた事が在る。 瞬時の隙で、そう為ったのである。 三~四ヶ月位で止めざるを得なくなった。 斯う云う事を二~三度遣った。 然るに、アヌルダは失明に至ったのである。 此の峻厳さが際立っている。 是が仏道の原点の最も厳しいものである。 仏道を生きる我にとって、三時間睡眠以外絶対開眼である。 小生の母は三年半程前に亡くなった。 五十歳から絵画を始め、北九州市の画家として七十五歳からの十五 年間に三~四年毎に五回、市立美術館で個展を開き、此の間には 禅味を感じさせる抽象絵画を描いた様だ。美術館に絵が残っている。 介護入院中には、小生、行の傍(かたわ)ら毎週一回托鉢帰りに寄っ た。 最期は、カッと、其の目を見開いた儘、亡くなった。九十五歳でした。 其の死に顔はモナ・リザの微笑みの様でした。 母の、最期の思いを振り絞ったのだと思いました。 小生にとって、吾命以上に大切なものと思えども、そうした思いとは 裏腹に、「宇宙(生命)の本質」(仏性)は真実(理)を証し明かすので ある。 人間には、皆、多少はそうしたものが在る。 人間の意識に残る我欲的なものから形而上学的価値観の様なもの が残る。完璧な空にはなれない。 其れ等は全て、人間が究極に於いて最も陥り易い、蜃気楼、錯覚で あると。 総ての人事に於いてそうである。 坐脱為るものも然り。 坐脱は向上一路の産物である。 唯一の真実は『人(の為)』という事である。 空を認識しているのではないが、『人(の為)』だと云う其の事自体が、 無我為る空であると云う事を証(あか)しているのである。 「行」為りと言えども、其れに至る為に経るべき通過点に過ぎない。 釈尊般涅槃の御遺教も行智慧の真徹であった。 其の延長線上に、真中道に拠る此の認識が在るのである。 しかし此れは飽く迄も、上求菩提の究竟に於ける大移行である。 其の儘にして内容のみ、「行」から「人」への大移行である。 自今已後、其れ迄の体験を生かして、『人(の為)』の余生である。 つまり、「三時間坐睡二十四時間仏作仏行」から「三時間睡眠二十四 時間『人(の為)』」の、解脱行から涅槃行への大移行である。 自然環境破壊と地上の非核化が喫緊の二大問題である。 人選に拠る票集めの問題ではない。 国民と云うものは然程馬鹿ではないのである。 国民を軽んじるべきではない。 其の報いは必ず受けざるを得ないのである。 此れ等の二大問題は総て地上の最権力者が惹起したものである。 然るに、当事者は依然として、其の力で以って逃げの一手である。 と云うよりも、一方的に、其の自己の力の行使あるのみである。 ドローンも経済戦争も此の副産物に他ならない。 現在の地上に於ける喫緊の課題は此の三毒悪を改善する事である。 此の最大悪を封じ込めるには、其れに対峙する処の、当事国以外 の全諸国家が斯うした象徴的二大悪に対して一致団結して世界人類 の幸福と平和達成を期して一丸と為る事に拠りて、地上を改善する 事は然程困難な事では無いであろう。 此の志、不退転為れば、遠からぬ、時間の問題である。 障害者の心と求道者の心には相通ずる処が少なからず在る。 健常者には無い、欠けた処を持つ心である。 欠けた処と云うのは、飽く迄も、三毒(貪・瞋・癡)からは欠けた如く見 えるが、三善根(施・慈・慧)からは癡愚にしか見えないの意である。 三毒に欠けて、三善根にあるものは慚恥(ざんち、恥じる心)と瞋恚 を忍受する事と驕慢を滅する事である。 (慚恥の服は諸々の荘厳に於いて最も第一也 とす。慚は鉄鉤の如く、能く人の非法を制す。 有愧(うぎ、恥じる心)の人は即ち善法あり。 若し無愧の者は諸々の禽獣と相異なる事無し。) 人間は一体何を為すべきか?で 坐禅に至った。 吾独り、師の薫陶を得て、坐禅一筋40余年、 究竟の真理に至り得た。 是をして、世界に如何にして浸透させ得る哉? 世界とは、自己の投影である。 故に、世界の大前提としての自己が在る。 自己の時、処、位に於ける壁を取る事である。 何時でも、何処でも、誰でも、意の儘に、 先ず、為すべきは、最も浸透させ難き吾に於いては、 世界人類が、其の痛みを平等に分かち合って、最も不遇 なる人々の物質的、精神的基本的条件確保を達成する事。 其の為に、核が必要ならば、大いに核を利用すべきだ。 其れ等以前に自然環境を改善する事が最も喫緊の課題である。 人類が真に為すべき事は、そうした地道な、目立たない、見栄え のしない事である。 斯うした退歩の脚に拠る労苦の積み重ねが進化の本質である。 是こそ政治家の本領と為すべきである。 然るに現実は、此の真逆である。 指導的立場にある者程、目先のセンセーショナルな事をする。 今の此処の損得勘定でなく、次、或いは次次世代の為の今と云う 視点で物事は判断しなければならない。 前者は身の為の生き方であり、後者は心の為の生き方である。 身とは我欲に他ならない。我欲の政治でなく、我欲を離れた、我欲へ の執著を捨てた政治。 此の為には政治の根底に坐禅が不可欠である。 坐禅の道在りて初めて、善き政治が在る。 諸道の根底に坐禅が不可欠。 我々人間(類)は宇宙の粒子の如き物である。 宇宙間の粒子か、粒子の宇宙か、粒子と宇宙間に何の壁も無い。 粒子即宇宙、宇宙即粒子で即も無い。 唯、人間の分別(表現)上のものにすぎない。 本質と云えば、人間も粒子も宇宙も同一である。 其の本質は決して虚無ではなくして、花を咲かせ、人類を生み、精神 世界を構成し、悟り、更に解脱、更に涅槃と為りて宇宙の本質其の 物に帰着せ使める。 本質とは太陽(自然)の恩恵であり、大気、水、生命等の森羅万象の 一切を生み、育て生(活)かし、究極の進化為る人類の幸福、平和、 繁栄に至らしめる。 是が人間に於いて、三毒(貪・瞋・癡)ならざる、悟りに依る三善根( 施・慈・慧)として表現されるのである。 果たして、宗教に真理が在るや、否や? 真理である以上、真実でなければならない。 真実なる宗教とは、最早宗教を超えた「真実なる教え」である。 是はあらゆるジャンルを超えた、森羅万象一切の根底を為す、絶対 的存在つまり、永遠にして恒常普遍なる真理である。 世の中と云うものは、 ALL or NOTHING ではないのである。 人間と云う存在は、一人残らず地獄と涅槃の間の如き者である。 完璧と云う事は在り得ない。無常である。 唯、言える事は、常に吾は衆生と共に涅槃を志向する者であると云う 事だけである。 其の意味で完璧である。 ≪ トランプ氏の苦悩 ≫ トランプ氏の苦悩は人類が誰一人避けて通れない苦悩である。 又、トランプ氏でなければ及び得なかった苦悩である。 若し自分がトランプ氏の立場であったならば、どの様に、此の窮地を 打開する事が出来るでありましょう? 是は人類の果たさなければならない最終段階であるとも言えるでしょ う。 一体誰が此の局面を見事に打開し、切り抜ける事が出来るでしょう? 最良の打開策を講じるには、此の人類史上の最も優れたる一人でな ければ為し得ないでありましょう。 つまり、是が最後身であります。 是は有史以来の智慧の第一人者であります。 彼を打ち出し得る土壌は釈尊前後以外には在り得ない。 此処で如何にして釈尊は釈尊足り得たか? 是は如何にして人間が其の第一人者と為り得るのかと云う問いに対 する正解(道)であります。 そもそも其の端緒と為るものは、五千五百年程前のインダス文明で の瞑想であります。是がヨーガと言う形式を経て、宇宙と自己の思索 から梵我一如なる哲学的考察を生み進化を遂げて、是が苦行に至り 究竟悟りを得た訳であります。 此処で、釈尊は何故に死に至るべき断食苦行に及んだのか? 是は大宇宙の下に儚(はかな)き人類の宿命為る生老病死の四苦と 云う大疑(団)への菩提心であります。 是を解決せんが為の断食苦行為る必要悪であった訳であります。 釈尊の周辺に其の苦行者達がヒマラヤ山中で苦行を行じて居た。 其の極限に於いて、最も峻厳なる釈尊は其の無益さを悟り、此処で 重要な事であるが、此処に至って初めて得た此の認識がなければ、 中道には至り得なかった。是が、不及にして至り得ないと云う諦めで あったならば中道には至り得なかったでありましょう。 其の無益さを悟らない限り中道は生まれなかったのであります。 此処に於いて、其れ迄とは異なった無我無心で坐し得たのである。 其処に解脱為る成道に至り得たのであります。 無我の「証し」としての「宇宙(生命)の本質」(仏性)からの恩恵為る 成道(=解脱)であった。 現代世界の核武装は、嘗ての釈尊時代の断食苦行を彷彿とさせる。 人類と云う者が其の極限状態に於いて、其の様に為らざるを得ない 処の必要悪である。 死に至る、断食苦行即ち核武装ならざるを得なかったのである。 「宇宙(生命)の本質」(仏性)は悟り、解脱、涅槃を生み、人類の三毒 (貪・瞋・癡)をして三善根(施・慈・慧)に転じせ使むるのであるが、 核武装為らざるを得なかったのである。 其の無益さを悟らない限り中道は生まれなかったのである。 鐵漢は既に坐禅によりて悟りを得、解脱し涅槃に至り得た。 宇宙進化の最終段階である人類の究極為る涅槃に至り得た経緯は、 自他一如、つまり自利利人の法の核心為る「人(の為)」と云う最終 結論が得られた処に完結しているのである。 是も、釈尊同様、極限状態に於ける、最も貴重なる体験であった。 そうして初めて得られた、悟りであり、解脱であり、涅槃である。 少なくも「無我」である事は大前提でなければ為らない。 「人(の為)」であれば、総て間違い無く「是」である。 自他一如、「人(の為)」であると云う事は、最も「自(の為)」である 事が真であり、鉄則として法(カルマ)なのである。 上求菩提ならぬ下化衆生、つまり得られた結論に徹底すればこその、 至り得る事実である。 是も徹底しなければ、在り得ないし、説くと云う事も為し得ないのであ る。 頭(分別)で構成された今(いま)でなく、今(いま)の今(いま)でなけ ればならない。 つまり、分別に亘らない、分別を超えた極限状態の正念相続を継続、 維持し続けなければ為らないのである。 頭(分別)に亘らず、常に純粋、此の純粋体験相続、是を正念相続と 云う。 だから是は自然と一体為る、常に新鮮な感覚である。 刹那生滅の原理、常に無常、刹那刹那に生と滅を繰り返している。 人間の我執、三毒に捉われた分別意識でない、常に純粋なる、常に 湧出する処の刹那刹那である。 固定したものが全く無く、常に流動し去り往くものである。 生涯厳密千日解脱、涅槃行とは、其の実践である。 其の極限に於いて得るべき最終結論の、「行」ではない「人(の為)」が 真であると云う事である。 此処に至れば、常に「行証」でなく「人(=教化)」であるべきだ。 是が至り得る真である。 身近で云えば、 軍事(力)でなく施である。 是が軍事の進化した、至るべき処である。 三毒(貪・瞋・癡)悟りて三善根(施・慈・慧)と為る。 軍事悟りて施と為る。 消費する金額からも、余りにも愚かしく明確である。 何れが生命を維持する金と為り得ますか? ≪ 坐禅(睡)と行と生活 ≫ 坐禅に拠る行智慧に拠りて、初・後厳密千日解脱行と涅槃行の三段 階の行(生活)体系が生まれた。 最終的生活体系である後厳密千日涅槃行に於いては、「坐」は全て 「人」に移行した訳で、此処で注意すべきは、最早、坐禅(睡)は小生 の生活から完璧に消滅したけれども、行為る生活体系は従来通り完 璧に保持されていると言う事である。 行とは生活の事であり、生活とは行の事である。 「坐禅(睡)」が「人」へ完璧移行したが、従前の四十余年間の命懸け の完璧なる坐禅一筋であったが、是が刹那に、漠然とした「人」為る ものに完璧移行した。 小生にとって、命よりも大切な「坐」、ではない「人だ!」為る新中道と は? 完璧厳密なる、殆ど二十四時間に亘る坐禅作法が、最も漠然たる「 人」に完璧移行した処。 「人」とは何だ? 「人の為」とは自今已後の世界人類の平等為る幸福と平和、更に言 えば、世界人類の平等為る物質的、精神的基本的条件確保を基本 とした世界人類の心の開放と歓喜(よろこ)びである。 是は自今已後の世界人類に「坐というもの」を布施する事である。 是が小生の「活字化」である。 生命の精髄為る「坐禅(睡)」とは、恰(あたか)も其の短い命を唯、只 管(ひたすら)鳴き続ける蝉の、脱皮して取り残された、抜け殻の様な もので、短時に脱皮(=羽化)して飛び立つ成虫は後厳密千日涅槃 行、羽は、小生に於いては「活字化」である。 真中道に拠りて、 人類の如何なるものも、 「人(の為)」を措(お)いては、 一切其の存在根拠は在り得ない。 正法苦行(=釈尊、大迦葉と文殊菩薩の但坐不臥 の頭陀行と千日行)無くして解脱には至り得ない。 幸いにして原点の誉れ在りて、此れ等の解脱人 は涅槃人で在り得た。 釈尊は、欲界中に於いて、常に衆生を忘れず、坐禅行に拠りて解脱 する事を説かれた。 今日にして、釈尊以来、初めて吾師伴鐵牛老師が千日行(三時間坐 睡二十四時間仏作仏行)を提起せられたのであった。 頭陀行以来の此の正法苦行(=小生の特に初厳密千日解脱行、更 には後厳密千日解脱(涅槃)行)が解脱に至る為に不可欠為るもので ある。 此処で解脱行から涅槃行に至る真中道為る体験は小生に縁りて明 確に実証された事に拠りて、此れ迄至り得なかった処が明らかと為 ったのである。 唯、噴水の如く向上一路、頂上迄噴き上がれば、後は自ずから自由 無礙に下落(向下一路)するのみ。 仏を殺すでもなければ、解脱の跡形すらも無い。 小生、寺では飛び出る迄、延べ二年間程、経・作法等一つも覚えな かった。 唯、鐵牛老師の一人格在るのみであった。 今にして思えば、中高生時代から今に至る迄、人生に於ける既成の ものからは、総て飛び出して、自己の思うが儘に行動した様だ。 紆余曲折は色々と在れど、正に其れによりて必然的に、今が在る。 自今已後、極力世界人類の為に為るのみである。 小生には国境為るものは皆無である。 人在るのみ。 其の為の人類の真実なる教えを伝え、遺す事と、 世界人類の幸福、平和の為、更には 世界人類の平等為る物質的、精神的基本的条件確保の為、 だからこそ、恵まれない人々、争い、戦争に拠る犠牲者、人為的災害 の被災者等の救済在るのみである。 人の為にはどんなに尽しても尽し切れるものではない。 尽した種子は因果の法則に拠りて、寸分の違い無く結実する。 不昧因果位、眩(くら)ます事の出来ない超科学的真理(実)は無い のである。 世の中に真理(実)位強いものは無い。 物事と云うものは刹那である程、分別を交えず、「宇宙(生命)の本質 」(仏性)に近い。 心も大自然(宇宙)の刹那生滅である程、分別を交えず、真理に近づ く。 是、禅定無くして為し得ず。 つまり最上(善)である。 此の究竟が悟りである。 是を可能なら使めたものが、事の発端である五千五百年程前の瞑想 (静慮)であり、ヨーガと進化して成道(解脱)を生んだ禅定である。 禅定に拠る三昧(精神集中)が心迄も大自然の刹那生滅の理に適( かな)うものである。 「宇宙(生命)の本質」(仏性)に至るには、此の禅定以外には無いの である。 釈尊は此の超達人であったのだ。 「宇宙(生命)の本質」(仏性)は身心一如、共に無常裡に刹那生滅の 原理に基づく進化を遂げ往くのである。 宇宙(生命)は形からから入り、心に進化(昇華)し往き、禅定に、更に 「智慧」に、「智慧」は「宇宙(生命)の本質」に至る迄、何処迄も進化し 往くのである。 釈尊が言われた。 「例えば、四人の弓の上手な射手がいて、四人が弓矢を取り、互いに 背を向け合って、四方を射ようとする処へ、一人の足の速い男が来て 言うには、『あなた方は、同時に矢を射てみよ。私は其の矢を地に落 ちる前に総て手に取って見せる。』と言ったとしたらば如何であろうか ?是は甚だ早いのでなければ出来ないと思うが如何か?」と。更に『「 宇宙(生命)の本質」(仏性)の生滅の速さは、これ等に比較に為 らない程速く、瞬間に移り変わって暫くも止まる事は無い。』と。 智慧の刹那生滅が「宇宙(生命)の本質」(仏性)の刹那生滅に至る迄 近づく、是は禅定なくして為し得ず。 心身共に無常裡の刹那生滅に生きる事の為には坐禅不可欠。 坐禅に拠る高度なる緊張感の正念相続が要る訳であります。 吾師も何事も、パッ、パッと間髪を容れず為された。 是が的中裡に為されるのである。 気が付いた時には、もう既に施為せられている。 此の、恰も浜辺に産み落とされた海亀の卵が孵化すると、夜、海の 水平線の光に向かって急ぐが如きものである。 斯うした「宇宙(生命)の本質」(仏性)に由来する自然の摂理、無為 自然為る無我無心の働きである訳であります。 悟り、更には解脱、そして涅槃に基づいた無心為る無分別の分別に 拠るものであります。 我等人類特有の大脳新皮質は斯うした無(心為る)分別に迄、研ぎ 澄まされなければならないのである。 此の無心為る働きの心的刹那であるが、是が何処迄も「悟り」に究竟 するものである。 是を日常事にするには、命懸けの坐禅を行じて、二十四時間の張り 詰めた正念相続無くんば為し得ないのである。 是こそ「宇宙(生命)の本質」(仏性)に帰一する、進化の進化為る処 である。 そして是が善悪業報に寸分の違いも生じない因果律の根拠である。 本来、是が人類の能力なのである。 阿部首相も総理の再就任時には坐禅に励まれた様だ。 此の精神が世界の施政の本質と為らなばならない。 坐禅は、嘗ての踏み絵であり、心の明確なリトマス紙である。 少なくとも、国政に与る者は、基本的に先ず此の心の制裁を受けね ばならないのである。 坐禅と悪意とは完璧に不協和音であり、悪意を抱ける者は決して 坐禅に親しむ事は出来ない。 もしも、人間と云うものが悪意を抱かずしては遣って往けないもので あるならば、是を正す事こそ政治家の使命とならねばならないのであ る。 坐禅を世界人類の根本と為すべきである。 世界人類の幸福と平和の為に最も必要なものは、力ではなく智慧で ある。 智慧と云うものは、全身全霊で無我無心で底の底から世界人類の幸 福と平和の為に真剣である時に生まれるものである。 釈尊も最期の最後に説かれている。 『智慧の水の為の故に能く禅定を修して心散ぜず。 智慧あれば則(すなは)ち貪著無し。 実智慧の者は則(すなは)ち是老病死海を渡る堅牢の船也。亦是無 明黒暗の大明燈也。一切病者の良薬也。煩悩の木を伐(き)るの利 斧(ふ)也。』と。 故に、持戒→禅定行→智慧が仏法の本質を為す。 諸力に拠る勝ち負けと云う迂回路を経ない、心に拠る超新幹線に拠 る正道を踏むべきである。 人生の真実は、死に際に正直である。無駄が無い。 此の無駄が無い処が人間の優れ者である。 然るに、人生は此の無駄(迂回路)(=貪の慣習)で出来ている。 因果律により後日必ず其の悪業報を受けざるを得ないのである。 人生を牽引するには、此の最短路、新幹線でなければ為し得ない。 人生は惰性や因習でなく共存者の為の積極性でなければならない。 是が将来の明暗の分かれ目である。 明に至るには、障礙を砕破せねばならない。 只管、宇宙の刹那生滅に帰一する事だ。 大脳新皮質の役割は自ずからをして自ずからを否定する為に在る。 無分別の分別為るものである。 此の分別こそ無心なる働きに他ならない。 所謂、神業で、超本能的為る働きである。 分別を交えない直観的、無心なる働き。 是が政界の対極として、是に進化し往かねばならない。 是が人類の未来である。 子供じみたSF小説の如き「宇宙(生命)の本質」(仏性)から逸脱した、 現代の自然環境破壊同様、枯れる運命に在る、三毒(貪・瞋・癡)の 延長線上の知(=癡)の産物ではないので ある。 人類は人(=共存者)無くして生きる術は与えられない。 人(=共存者)在りて初めて人を生(活)かす。 人(=共存者)無くんば人も無し。 生命と云うものは自他一如が真理(実)である。 ゆめ疑う事勿れ。 是を疑うは自己を疑う事に過ぎない。 坐禅とは宇宙(生命)の刹那生滅の原理(真理)に合致する為に無上 なるものである。 坐禅に依る三昧が無上の智慧に至るには不可欠である。 此の真実と実践である。 物の刹那生滅が心の刹那生滅に進化し、是が「悟り」として体験され た。 世の中、世慣れした恥を知らない人 は夥(おびただ)しいけれども、 稀に、そうでない人が居る。 今後の世界人類の幸福と平和の為 、力でなく智慧に拠りて世界を牽引 する世界唯一の霊峰として、日本を 範と為すべきである。 都知事の小池氏と官房長官の菅氏 に大いに期待する。 願わくば、 人類史上空前絶後為る 米中非核和平協定にて、 人類に範を垂れ給いて、 地上を完結せん事を! 一切の存在(宇宙(生命))に対する否定体験の深化の段階に夫々、 「悟り」と「解脱」と「涅槃」とあって、残ったものを永遠なる恒常普遍の 真理として、是を「宇宙(生命)の本質」(仏性)と称する。 是以外は実在しない。 「解脱」から「涅槃」に至るに体験した真中道為るものに拠りて否定さ れたものが、最後の我執、法執為る執著である。 是は、道元禅師『正法眼蔵』(発菩提心)に、 『……菩提心を起こして後、三阿僧祇劫、一百大劫修行す。或いは 無量劫行いて、仏に為る。……』とある。又、 千二百年程前、唐の臨済宗宗祖臨済禅師『臨済録』中の名句に、 『仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢 を殺し、父母に逢うては父母仏を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、 初めて解脱を得ん。物と拘(かか)わらず、透脱する事自在ならん。』 とある。 前者に於いては真中道を生むだけの正法苦行が無い。 後者に於いては、釈尊の如く、欲界中にて常に衆生を忘れず、正法 苦行(=千日行)を行じ、涅槃行に至れば、敢えて殺す必要も無く、 自ずからにして、文殊菩薩の様に自由無礙と為る。 前者と同様である。 人間と云うものは、そうせずにはおかない、完全な空(無我)に為れ ない我(法)執と云うものが残る。是をして正法苦行ならぬ(新)中道 以前の苦行を人間に強いるのである。 其れに拠りて人間は己の至らなさに粉砕されて初めて其れまでの 過ちから退歩した原点に戻るのである。 斯うして、吾鐵漢が釈尊中道の上に、進化した新中道を経て仏果を 得た訳である。 最終的生活体系である後厳密千日涅槃行に於いては、「坐」は全て 「人」に移行した訳で、此処で注意すべきは、最早、坐禅(睡)は小生 の生活から完璧に消滅したけれども、行為る生活体系は従来通り完 璧に保持されていると言う事である。 行とは生活の事であり、生活とは行の事である。 「坐」は「人」であるけれども 「行」為る「枠」は其の儘、 最終的生活体系である現後厳密千日涅槃行 は従来通り厳密である。 太陽系の地球と云う「枠」内に於いて最大限可能なる「人」(=自由)。 人が人足るには吾が吾足らねばならない。 吾が吾足り得る為には……。 地球の自転は地軸在りて初めて成立する。 独楽が自由に回転し続けられるのは其の軸芯在ればこそである。 軸芯は三度の日課、又坐禅、又行等。此の軸芯在りて初めて自由が 生まれる。 此れ等の軸芯がふら付いていた段には、独楽は見事な回転は為し 得ない。 此の積極性が人を生(活)かすのである。 三百年程前、江戸中期、臨済宗中興の祖、白隠慧鶴禅師の 『遠羅天釜(おらてかま)』中の一句。 『動中の工夫は静中に勝る事百千億倍す。』 小生、初行完了後、労働に従事した十五年間に亘る、初行の枠の中 での動中の工夫を経て、其れ以外無い立場に置かれて、偶然、其の 翌日の元旦より、自発的に後行を為す事と為った。 何の準備も無く入行し得たのは、其の十五年間の初行の正念相続 の賜物でありました。 十五年間中、最初の三年間は初行からの塾経営であり、其の後の 十年間程は坐睡と平日作務が無いだけで、何等初行と変わらないも のでありました。 日常の動中の工夫とは、十五年間を通して、坐禅に拠りて出来上が った正念相続の事に他ならない。 つまり坐禅から動かない動静の事であります。 後行(五十五才~)以降は托鉢でありますから、確か1ヶ月程前の 新中道以来、坐が無くなりましたから、只管「活字化」あるのみ。 何れも此れ等、托鉢に拠る正法苦行(=生涯厳密千日行)が無い処 から生まれる諸問題に過ぎない。 其れを可能にする日本こそ世界に唯一為る霊峰と云って過言ではな い。 嘗ての釈尊が説法された荒野の霊峰、霊鷲山のあるインドの仏教 人口は一%にも満たない。 世に最後身と為るべき菩提心を持てる人ならば、此の日本で世界に 発信して戴きたい。 釈尊のヨーガが断食苦行を生み、是が中道を生み成道(=解脱)し、 修禅定と修智慧と不戯(け)論を生んだ。 そして其れに基づいて、四十余年の確足る坐禅(睡)行が世の中に 「悟り」を生み、「正法苦行」を生み、「解脱」を生み、新中道に拠りて 「涅槃行」を生んだ。 確足る「坐」が「人」を生み、「教えと御遺(=涅槃)行」を生んだ。 坐禅(睡)無ければ「人」無し。 「坐」が「人」を生む。 「坐」(=坐禅道)無ければ、世間馴れ(諂(へつら)いと驕慢)した恥知 らずと、(智慧力ならぬ)体(武)力(=禽獣)しか生まない。 此れ等は正に人類の悪の根源為る三毒(貪・瞋・癡)を列挙したが如 くである。 諂(へつら)うとは忖度の事であり、唯欺(あざむ)きと偽(いつわ)り を為す。 忖度の本来の意は斟酌、配慮であってイエスマンの意ではない。 此れ等は端心質直(少欲・知足)にして、忍徳為る坐禅道とは相反 するものである。 机上仕事には結跏趺坐が最適である。 今でも猶、結跏趺坐は欠かさない。 宇宙に於ける物質から精神へと進化した生命は、 海に宿り、泳いで、這って、飛んで、樹上生活から地上生活を始め、 坐した。 是からは、100%物質と化する肉体を如何こうするのでなく、 吾が自(みずか)ら、三毒(貪・瞋・癡)を三善根(施・慈・慧)に悟り転じ て、万人が格差無く、平等に生きる時代である。 世界中の万人に100%喫緊の課題である。 此の生命の本質は、国境、主義主張を超えた、世界人類に共通なる、 最も本質(=基本)的生活態度である。 天上(=支配者階級)にもあれ、人間にもあれ、苦にありと云うとも、 楽にありと云うとも、老若男女を問わず、畳一枚の時空さえあれば 生涯、誰でも出来る。 此れ進化の最先端の本源である。 結跏趺坐為るものは、 万物の霊長足る者の最終の落ち着き処である。 最善為るものである。 捨てて、捨て得なかったものである。 捨てて捨てられないものが本物である。 結跏趺坐は最も、生きる姿勢及び精神を定め、大脳新皮質を生(活) かし三毒(貪・瞋・癡)を三善根(施・慈・慧)為ら使む智慧を生む。 人間は身と心で出来ている。 身は盛りを過ぎれば、一方的に朽ち果てるばかりである。 其れとは真逆に、此れ迄身が進化してきた様に、是からは心が 世界人類の幸福と平和へ向かって、只管、其の智慧に拠りて進化を 遂げるばかりである。 今、喫緊の課題は、 地上自然破壊と地上非核化である。 此れ等両者の根本原因は、 他でもない人類の貪(欲)著である。 是に焦点を合わせて、 解決するだけの意欲を持てない。 トランプ氏と習氏の此の東西の対立 に底流する貪(欲)著に対する智慧を 生む為には結跏趺坐が最上である。 阿部氏が率先して積極的に本気で 此れに取り組めば、 解決の糸口は生まれると思う。 是が之からの進化の本流と為る。 畜生道と人間道の違いは無自覚な本能が大脳新皮質に拠りて欲とし て自覚された処である。 人間の諸問題には此の欲抜きでは問題にはならないのである。 人間(欲)が執著すれば貪を生じ諸悪の根源たる三毒を生む。 怒りを生じ癡に至るのである。餓鬼道、地獄道と為る。 天道と云うのは貴族、帝王、富豪等の支配階級の事で苦が少ない から悟り、解脱に至り得ない。 人間(修羅)道にして悟り、解脱して仏に為り得る。 人類を考慮した時に、先ず何を為すべきか? 何よりも先ず、永遠なる恒常普遍の真理に拠りて世界人類(癡) を導く事である。 是は解脱した神の様な人でなければ真に為し得る事ではない。 慈父(=大解脱(涅槃)(=神)人)である。 そして、其れから不幸(遇)な人々を救済する事である。 是は政治家等の支配者階級である。 今から三千五百年程前にインドに於けるカースト制度の原点に於い てバラモン(司祭者階級)がクシャトリア(支配者階級)の上位に在った 処が他に無い、東洋の特質であった。 是に関しては神話的起源為るものも在るが、「宇宙(生命)の本質」( 仏性)からの促がしに因る必然的なるものである。 菩提心同様、人と環境の諸要素が整って初めて可能と為るものであ る。 吾師が仏舎利塔建立に当って言及された。 「1400年の昔、我が国の聖徳太子が十七条憲法を制定せられ、其 の第二条に曰く、 『篤く三宝を敬え、三宝とは仏と宝と僧也。即ち四生の終帰、万国の 極宗也。何れの世、何れの人か、此の法を貴ばざる。 人甚だ悪しきは鮮し、能く教うれば之に従う、其れ三宝に帰せずん ば、何を以ってか枉(まが)れるを直(なお)せん。』 聖徳太子が毎日夢殿で坐禅して国政を閲せられてましたが、日本及 び世界の平和の道は大聖釈尊の説かれた三宝帰依の外に道無しと 確信して、此の事を憲法に謳われたのであります。」と。 世界人類の精神の成り立ちは、此処に至りて鐵漢に集約され、 自今以後の宇宙進化の究極に至ろうとしているのである。 人間と云うものは皆、有機的人類構成系為る肉体的影響下にある 存在である。 此の身と云う物に関して、釈尊も入滅せられる最後に次の御言葉を 遺された。 『…………當(まさ)に勤めて精進して早く解脱を求め、智慧の明を以 って諸々の癡闇を滅すべし。世は実に危脆(きぜい)也、牢強(ろうご う)為る者無し。我今滅を得る事悪病を除くが如し。此れは是應(まさ) に捨つべき罪悪の者也。假(かり)に名付けて身と為す、老病生死の 大海に没在せり。何ぞ智者は之を除滅する事を得る事、怨賊を殺す が如くにして、而も歓喜せざる事あらんや。汝等比丘、常に當(まさ) に一心に出道を勤求(ごんぐ)すべし。…………』 此の身と云う、罪悪為る有機的人類構成系の邪悪影響力から只管 一心に身を其の拠り所とする六道から仏道へと出道する事を、真に 世界人類の為に勤求(ごんぐ)すべきである。 是が最後の真に人類の為の菩提心である。 此の身為る悪影響力から脱するには、人間と云うものは機械と為りて 生きる行動力を持つ以外には不可能である。 つまり厳密行を行ずるだけの捨て身の精神力がなければならない。 此処が人間の究極の真価である。 是、大解脱人のみの自知し得る処で、他人の知れる処に非ず。 何れの世界にも云える事であるが、 要は何事も其の根底が善、或いは悪の何れに立脚しているかに拠 る。 スポーツの世界では勝つ事を其の目的とする。 然るに、是が(勝ち)貪欲一路門と為れば、其れは瞋から癡と為り、 人類悪の根源為る三毒と為りて地獄しか生まない。 「剣の達人は剣を捨てる。」 何事も徹底する事だ。 中途半端は嘘しか生まない。 西洋の物力と東洋の仏力について、 前者には生命の深さが無く浅い。 一方、後者には生命の深さが無く、底無しである。 富士山頂の眼下に横たわる雲海から生ずる知恵でなく、 底の抜けた宇宙に立脚する智慧に拠りて、 根本的に対応しなければならない。 吾鐵漢をして、恰も噴水の如く、宇宙の進化の頂点に達し得た 吾等人類の辿(たど)り得る先は、 一人残さぬ、世界人類の幸福と平和である。 無限の過去から至り得た吾等が現今、 此の今と云う真理(実)程、確固不動為るものは無い。 如何なる人類の計らいも、如何とも為し得ないものである。 此の宇宙の働きと一体に為る時、是が進化の本道に他ならない。 仏道随一の峻厳さ極まる不臥不眠行に拠り、 失明した盲比丘アヌルダ。 そして、其れを自らのものとして、在家で、師の原田祖岳老師の廃寺 を托鉢により再興された吾師伴鐵牛老師。 (極東の寺から釈尊の印度へ向けて、仏道を照り返すと云う意で 東照寺と名付けられたそうです。) そして九十四歳で施設で寝たきりと為り、九十五歳で炯眼煌煌と、 カッと目を見開いた儘亡くなった吾母。 是もアヌルダの峻厳さではあるが、 此の眼力に応えてこその鐵漢であると誓った。 「宇宙(生命)の本質」(仏性)の促がしの恩恵は、 人と其の環境の夫々の条件が整わねば成立しない。 前者は人間を評価する上で最も根源的なるもので、最上の評価基 準足るものである。 是は感応道交する事に拠りて、人から人へと無意識なる最も深き根 源に交う不可思議なる菩提心である。 後者は肥沃なる古代文明発祥地域であり、インダス文明は元より、 エジプト文明に於いてはAD3世紀頃には釈尊の影響下にエジプト のみならずシリア、西欧等迄に於いてもキリスト教に苦行や瞑想 に拠る修道生活、聖人を生み、古代、中世の欧州の学芸の中心を 担う。 エジプトに於いては人口の半数が修道僧であった。 しかし、富と力への貪著裡に堕落し、或いは衰退してしまった。 斯うした宗教者の貪著が、アメリカ大陸への植民地化へと向かわ使 めたのである。 一方中国に開花した仏教も不老長生を目的とする現世利益的宗教 として、同様に富と力の貪著裡に堕落してしまった。 真 中 道 ↓ 三毒(貪・瞋・癡)⇒三善根(施・慈・慧) ( 神への信仰は、未だ「貪」の領域であるが、 三善根の結晶である後厳密千日涅槃行は 進化の究極として、枠内の「世界唯一の教え」の記録である。) 「坐」をして「人」に転じ得れば、新中道に拠りて、坐禅は既に要らな い。 病気が治れば薬は要らないと同様である。 之迄の静中の工夫で養ったものを、之から動中の工夫に於いて、此 の人間世界で大いに生(活)かして往かねばならない。 「動中の工夫は静中の工夫に優る事百千億倍」と白隠禅師も語って いる。小生も之は明らかに実証済みである。 「剣の達人は剣を捨てる。」 「坐の達人は坐を捨てる。」 解脱しない限り、人類と云うものは仏道ならぬ六道の地獄から天人 に至る迄、総病人である。 解脱した人間でなければ真実を語れない。 総て我欲の追求に他ならない。総て嘘である。 でなければ、今の地上自然破壊と地上核武装と為る訳は無い。 其の根本原因は、総じて『貪』である。 『貪一路門』が結跏趺坐により『施一路門』と転じ得れば即決打開す る。 「宇宙(生命)の本質」(仏性)由来、三善根(施・慈・慧)の重みは 真中道を生む迄も確固不動為るものである事をゆめ忘る勿れ。 千日行(=初厳密解脱行)に拠りて解脱に至る。 やる気有りや、否や?の問題である。 「坐」とは? 「人」とは? 「坐」とは、政策や主義主張の事であり、 「人」とは、人を(の為)生(活)かすと云う事である。 核武装ではない、生(活)かせば宜しい。 生(活)かすとは? 具体的に、先ず皆、同時に生(活)かそう! 軍事費皆同時に生(活)かす事に投資する。 小生今でも猶、結跏趺坐は欠かさない。 向上一路門に男女の別は無いし、男も女もLGBT(性的少数者)も 同様に共に、平等に只、向上一路為るのみである。 小生、愈々の時は、自己を信じる。 泰然自若。 斯くして、自分で自分を何処迄も引き締めて往く。 香港の若者の主張は正しい。 最も純粋な正しさだ。 是を支持するのが 正しい大人の行為である。 是を否認するは既に時代錯誤だ。 宇宙(生命)の進化に違(たが)う。 必ず悪業報を受けざるを得ない。 地上自然破壊に因る、現代人口増加率を思わせる程、激増する 異常気象程、正に人類三毒(貪・瞋・癡)の、貪が瞋と為り癡と成り果 てる人類の我欲の愚かさを嫌と言う程、思い知らされるものは無い。 毎年繰り返し不可避に襲い来る、生命や家(財)喪失への不安と恐怖 である。 是は、世界各国指導者達の至らなさであるにも拘らず、其への的確 なる反省すらも無い。 是位の無知、無関心、及び自暴自棄は無い。 其れに因りて人類の母体為る自然を破壊するは致命的過失である。 是は非核化以前の根本課題である。 自由為る資本主義の利潤偏重に随伴する、無知、無関心、無責任、 及び自暴自棄なる汚染と云う間接的暴力に因り惹起する自然破壊 の激発である。 是は生命を犠牲にした、国家指導者達の立場確保の為の、国民及び 生産者の利潤追求と云う人類の貪欲に起因する。 人類の悪の根源為る三毒の貪に対する根本的対応以外には善処 する方法は在り得ない。 悟り、解脱から生まれた「教え」以外には無いのである。 貪に惹起する自暴自棄に因るもの為るが故に、長期的には、結局は 急がば回れ、世界が一丸と為って、本腰で取り組まねば、核戦争に 劣らぬ大惨事を招きかねない大喪失に帰するのである。 此処で「教え」を未来の地平線(=無我)からの、今の在り様を的確に 打ち出さねばならない。 然るに現実は其の真逆である。 是が真に世界人類の幸福と平和に他ならない。 其処で、釈尊御遺経(=八大人覚)の教えの基本は、 第一に少欲・知足である。 少欲を行ずる者は、心則(すなわ)ち坦然として憂畏する処無し。 事に触れて余り在り。常に足らざる事無し。 知足の法は即ち是れ富楽安穏の処也。 知足の人は地上に臥すと雖も、猶安楽なりとす。 不知足の者は天堂に処すと雖も、亦意(こころ)に適(かな)わず。 不知足の者は富めりと雖も、而も貧しし。 知足の人は貧しと雖も、而も富めり。 世界の指導者に、是が出来れば、今に至らなかった。 結跏趺坐には拘(こだわ)るべきでない、自由。 目的至上主義、要するに真中道に拠る「人」也。 宇宙(森羅万象)の本質は、無常裡に、 永遠なる恒常普遍の真理(実)として、 仏性を具足し、物としての威儀を為し 、「施」為る恩恵に拠りて、人類に 自ずからにして三善根(施・慈・慧) の促がしを生ぜ使め、 三毒(貪・瞋・癡)を正さ使め、 何処迄もこころの進化を遂げ使むる。 人間の価値とは、 世界人類の幸福と平和への功績在るのみであります。 つまり、善悪業の事であります。 是が因果律を規定する。 他は総て消滅するものであります。 其の真価は善業であります 。 是こそ、「宇宙(生命)の本質」(仏性)由来の三善根(施・慈・慧)の具 現化したる、宇宙の心為る「布施」、慈悲から生ずる「愛語」、自利利 人の法為る「利行」、下化衆生の究極為る「同事」と云う菩提薩?四 摂法(=薩?の行願)であります。 此れ等四摂法は一(いつ)為るものであります。 釈尊般涅槃に臨まれて、 『汝等比丘、常に當(まさ)に一新に出道を勤求すべし。 一切世間の動不動の法は、皆是敗壊不安の相也。 汝等且(しばら)く止みね。復(ま)た語(もの)言う事勿れ。 時将(まさ)に過ぎなんと欲す。我滅度せんと欲す。 是れ我が最後の教誨(げ)する処也。』 人類の六道より仏道への出道を冀願(きがん)されて、以後、口を閉 ざされ、般涅槃されたのである。 初行(=初厳密千日解脱行)のみで既に世界を掌握するに十分であ る。 解脱及び後厳密千日涅槃行も既に約束されているからだ。 要は初行の菩提心が核心である。 菩提心の強大さ為るが故に、排斥すると云うは、貪為るが故である。 中国の、こころの進化せるチベット仏教者達への対し方は根本的に 誤っている。 世界一足る基本的資質と云うものを備え、自今已後の世界人類の 幸福と平和の為に、宇宙と一(いつ)に為りて戴く事を冀願するばか りである。 世の中の悪の根源は、 欲(性欲、金欲、睡眠欲、食欲、名誉欲)に牽(ひ)かれた、或いは 負けた自分を押し通そうとする計らいである。 少なくとも、欲を自由に制する事が出来ねば、菩提心は生じ得ないし 、向上出来ない。 挙句が地獄を生んでしまう。 欲を貪る為に総て(=自他)を欺き、我欲を貪り、瞋恚を抱き、癡と為 り果てる。 欲を制し得て初めて真実を語れるのである。 宇宙(生命)の真理を説こう。 未だ、真理を悟っていない、解脱していない、仏道為らざる六道に於 ける真理は真実としておく。 先ず最初に、宇宙為るものは、無常裡に施(=生(活)か)すと云う事。 若し、そうでなければ、此の空虚なる宇宙間に小生(人類)が存在す る筈が無い。 大自然は施(=恩恵)の産物である。 太陽は地上を、そして大地は植物を育てる。 雑草はどんなに踏みにじられても、直に自ずからにして、一部の隙も 無くピンと天を突く。 此の勢いは我々の目を驚かす。 此の勢いこそ、無分別為る定(坐禅)力である。 此の集中力に拠りて、人類の糞分別を打(ぶ)ち抜いて、「宇宙(生命) の本質」に至ら使め、悟り、解脱に至ら使むるのである。 悟る事に拠りて、人は確信を得る。 是に拠りて、歓喜と柔軟心と落ち着きを生む。 更に、解脱に拠りて、向上一路の積極性が徹底し、ゆとりを生じ、 自ずからにして、人を慈しみ、斯く在ればと慈悲の念を生ず。 これ等は悟り、解脱に拠る処の功であって結果論である。 決して求めるものではない。 此処に於いて、永遠なる恒常普遍の真理が明らかと為るのである。 そうして、涅槃に至りて、無上甚深微妙の法として、真実を明らかに 解くのである。 真理とは斯様に単純明快にして、露堂々としたもので、 吾師伴鐵牛老師が人類史上初めて確立された正法苦行為る千日行 (三時間坐睡二十四時間仏作仏行)に至るまでの様々なる行智慧と 現代世界を完成為ら使める処の智慧を生み、進化させ往くのである。 人類史上、古代釈尊中道に基づいた現代鐵漢真中道に拠りて、 唯一の真理為る「人類の教え」は悉(ことごと)く尽くされた。 宇宙に在るものは、「身」か「人類の為」か何れかである。 「身」でなければ「人類の為」であり、 「人類の為」でなければ「身」に過ぎない。 答えは明らかである。 宇宙に在るものは「人類の為」以外には在り得ない。 生涯後厳密千日涅槃行(三時間睡眠二十四時間「人類の為」) 今に至りて初めて真の自己が打ち出された。 自己と云う者は、捨てれば捨てるだけ自己と為る。 「人類の為」と云うのは、如何に魅力的か。 次は「生命の為」、そして「宇宙の為」、否矢張り「人類の為」だ。 真に「人類の為」に為って居れば、二十四時間厳密な筈である。 森羅万象一切人類の為に在る。 然れども、其れに背くものも、他ならぬ人類其の者だ。 人類は宇宙を自己の外に想定する。 然には非ず、宇宙為るものは自己及び内部に存するものである。 宇宙の大部分は難解なる闇である様に、 自己なるものの明らかなるは、氷山の一角なる海面上の極一部に過 ぎない。 海中及び、海を貫いて、正に其の一部分以外なるものである処のも のに気が付かない。 正にブラックホールは言語道断、総てを、光さえも吸収し尽くす。 謎の存在であるが、そうした外部からの学問的(=記述上の)探求 を超えた、悟り、解脱、涅槃為る心的ブラックホールこそ「宇宙(生命) の本質」そのものである。 正に探求すべきは、退歩為る自己の心である。 是以外は総て闇路、、迷路である。 釈尊成道が人類の真実なる黎明である。 急がば回れ、脚下照顧、退歩の脚等々東洋の叡智に目覚めるべし。 宇宙とは自己也。 外に追い求める限り、道は開けない。 自己に覚して初めて、宇宙は自らを委ね、開示するのである。 そもそも、悟り、解脱、涅槃の言語道断なる不連続を学問で解明し得 る訳が無い。 宇宙とは、体験から打ち出されたる真理在るのみである。 学問の及び得る処ではない。 宇宙とは学問では把握し得ない。体験に拠る真理以外の宇宙は 虚構である。 然るに、現実は、此の虚構に基づくが故に、二元相対の対立世界 から脱し得ないのである。 「坐」をして「人」に転じ得れば、真中道に拠りて、坐禅は既に要らな い。 病気が治れば薬は要らないと同様である。 之迄の静中の工夫で養ったものを、之から動中の工夫に於いて、此 の人間世界で大いに生(活)かして往かねばならない。 「動中の工夫は静中の工夫に優る事百千億倍」と白隠禅師も語って いる。小生も之は明らかに実証済みである。 「剣の達人は剣を捨てる。」 「坐の達人は坐を捨てる。」 解脱しない限り、人類と云うものは仏道ならぬ六道の地獄から天人 に至る迄、総病人である。 解脱した人間でなければ真実を語れない。 総て我欲の追求に他ならない。総て嘘である。 でなければ、今の地上自然破壊と地上核武装と為る訳は無い。 其の根本原因は、総じて『貪』である。 『貪一路門』が結跏趺坐により『施一路門』と転じ得れば即決打開す る。 「宇宙(生命)の本質」(仏性)由来、三善根(施・慈・慧)の重みは 真中道を生む迄も確固不動為るものである事をゆめ忘る勿れ。 千日行(=初厳密解脱行)に拠りて解脱に至る。 やる気有りや、否や?の問題である。 小生、「坐」が「人」と為りて初めて判った事であるけれども、 人間、坐すれば、明らかに本来の人間としての性能が向上する。 つまり、人の為に如何すべきかを端的に為す事が出来る。 否、正に其の為に坐が在るのだと。 病気を治すばかりでなく、人間としての真価を回復して、最も為すべき を為し得るのである。 坐禅が静中のみならず動中の坐に為り得てこそのものである。 つまり、「坐」が「人」と為ったという事は坐をしなくなったのでなくて、 静中の坐をして動中の坐為ら使めたと云う事に他ならないという事で ある。 動中の坐の優れたるは、静中の坐の百千億倍であると、臨済宗中 興の祖、白隠禅師も言われている。 此処で、優ると云うのは、如何なる点に於いてか? 是は定力を養うと云う点に於いてであるが、何の為に定力を養うの か? 其れは、行智慧、更には世界人類の幸福と平和の為の智慧を生む 為である。 つまり、白隠禅師の優れたるは、行智慧を生み、更には世界人類を 幸福、平和に至ら使める智慧を生む為である事を忘れてはならない。 人の為と云うのも様々である。 自分の為よりも、人の為が優れたる人格に違い無い。 少なくも無我でなければ出来ない。 「人(の為)」の人が如何云う人か? 愛する人、人の為に為れる人、不遇な人、妻子、夫、子、家族、師、 老人、若者等々……。 要するに「人の為に為る人」と云う事であろう。 其れも、最も有効に、つまり「より多くの真に人の為に為る人」と云う 事である。 此の「より多くの真に人の為に為る人」を生む事を目標とする。 其れには少なくも、坐禅して悟り、解脱して永遠なる恒常普遍の真理 、「宇宙(生命)の本質」(仏性)を体解した人でなければ為し得ない。 つまり、此の人を生む事が最上であり、其の為の活字化である。 何を伝え遺すかである。 小生、之迄の流れを省察してみるに、 新中道前後で、大いに、其の内容が、 新中道前の上求菩提的側面に対する、後の下化衆生的側面に特長 付けられる処の相違、つまり前は正に後を生む為のものであったと 云う事である。 今を生む事を目的とした、是迄の機械的行とは大いに異なって、 是からは本質的に直接的救済行為であると云う事だ。 これからは、行的側面から愈々正に本質的段階に入らねばならない。 つまり、是迄の仏果が人を生(活)かす迄に完熟なら使めねばならな い。 此の完熟した仏果を食すか食せざるか、については、 釈尊は、 『良医の病を知って薬を説くが如し、服と不服とは医の咎(とが)に非 ず。』と説かれた。 然るに、此の混迷せる現代世界に於いて、必ずや然るべく進化せる ものである事を信じ、疑わざるものであります。 亦、其の為に飽く迄も命在らん限り、最期の一滴迄伝え遺す事を 諦め、捨てるべきではない。 何事に於いても、釈尊もそうであった如く、此の永遠なる最期の一滴 を落とさん。 是は、中道、真中道に於いて明らかに実証された真実であるからだ。 疑問が無いと出るものが無い。 唯、役立てる事を、と云う志のみでは何にも出ない。 故に満月では無益である。 翳(かげ)り在りて初めて成り立つ。 そう云う意味で、飽く程失敗して初めて出来上がるのである。 恰も、雑巾を最後の一滴まで搾り出すが如く、為すべきものである。 小生がホームページを公開したのは、大学近隣での専門僧堂の開 単攝心会の知らせを雑誌で知ったのが契機と為ったからであります。 葉書一枚分の内容を書いてビジネススクールの先生に御願した処、 是だけではネットに上がらないと云う事でありましたが、其れ以上は 何にも出ないので、暫(しばら)くは諦めておりましたが、再び思い立 って更に一枚分を御願いしたのが始まりでありました。 何にも無いと言う事も話題に為るものであります。 其れはそうでしょう。死ねば無いも無いが、まだ生きているのだから。 死ぬ迄は無いが在るものだ。 否、寧ろそちらの方が無尽蔵なのかもしれない。 無分別の分別は宇宙の本質である。 限り無く続く。 小生の試みの正当性は証明されている訳だ。 何無くとも、チョッと絞る事に拠りて無尽蔵と為る。 矢張り、考えられない場合でも、 身であれば、坐禅するには必要最小限の張りが要る訳だ。 是が絞りである。 常識でなく、絞りである。 宇宙間もエントロピー増大則(=三毒(貪・瞋・癡))に抗する相互間作 用力が自ずから働いているからこそ、因果の法則為らしめる、正為る 進化を遂げさ使め得たのである。 心にも必要最小限為る努力(=絞り)は人生、不可欠なのである。 小生、人の為には然る事ながら、 此れからは、(出来れば是迄通りの)製本代と鉄牛寺新道元宗宗祖 田中鐵漢の墓石費用を貯えねばならない。 今の処、其の日暮らしで、貯えが無い。 来月、七十歳であるから、 托鉢は、此れ迄の二倍近くにせねば不足である。 必要最小限は貯える必要が在る。 これからは、こちらの方を優先させねばならない。 従って、托鉢を二時間延長して、 四時迄にしました。 其れ以外は同様(三時間睡眠以外絶対開眼完璧)。 此の大枠で、涅槃行と致します。 小生、永遠に 坐禅 (結跏趺坐) は崩さない。 どんな事遣って居っても、 此れ以上は(以下も)絶対に在り得ないと云う処に 絶対的安らぎと落ち着きとゆとりが在る。 只、そう遣って居るだけだ。 「悟り」は「解脱」を招来せ使め、「解脱」は人間を超える。 言葉は人間を超える事は出来ないが、人間を導く事は出来る。 中道により成道(=解脱)された釈尊の断食苦行時の峻厳さは、 アヌルダの不臥不眠行の峻厳さと為り、失明に至ら使め、盲比丘 アヌルダに、「目にも休養が必要だ。」と諭されて、中道に至ら使め、 「天眼第一」と称ぜ使めた。 此の峻厳さが吾師伴鐵牛老師の懸命の開眼力と結実したのである。 此の峻厳さは小生に受け継がれ、吾母をしてアヌルダの峻厳さ、臨終 に弁慶の立ち往生の仁王眼為ら使めた。 伴老師の行智慧為る千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)は 真中道により、千日行(三時間睡眠二十一時間開眼(失命(明)時以 外))と転じたのである。 千 日 行 (三時間睡眠二十一時間開眼行) (令和1年11月1日~令和4年10月31日) 世界人類の根底に、 宇宙(生命)の進化の究極(=涅槃) に直結する、 「宇宙(生命)の本質」(仏性) たる基本的態度が成立する。 如何なる理由在ろうとも、子の真の幸福、平和を切望せぬ親に未来 は在り得ない。 双方に自立する力が具われば、後は相思相愛、御互いが御互いの 幸福、平和を思うべきではないか。 是は二者間の基本的在り様だと思う。 それとも、世界は、飽く迄も取った、取られたの二元相対世界から、 世界を導くべき大国と為りても、今だ抜け切れないものなのか? 劣悪なる点を放任して、文明の高度化を図るというのは本末転倒で あり、何の為の高度文明化か疑念を抱かざるを得ない。 是では、飽く迄も「貪」の所業と疑われざるを得ない。 世の中の活字には真理を具現化する活字と貪著から生じた活字と 在る。 一見全く同質に思える此れ等の活字でも、其の内容に於いては、 実と虚の開きが在る。 真か偽か? 其れは量(スカラー)に拠るものでなく、純粋なる心を感応せ使むる質 (ベクトル)に拠るものでなければ為らない。 「生(活)かす」でない「飼う」である。 双方の対象は同一でありながら、此の相違が生じるのは、 「生(活)かす」事の出来る人格と、「飼う」事しか出来ない人格との違 いである。 他を「生(活)かし」得るのは生(活)きる事を知れる人で、 「飼う」事しか出来ない人は、「生(活)きる」事を知らない人である。 是では世界を導く事は不可能である。 何処迄往っても限界が在る。質的限界だ。 かるが故に、進歩はすれども、進化し得ず、其の限界歴然たり。 中国も自由資本主義を志向すれども、其の遣り方は今の香港に象徴 的である。チベット問題に於いても然り。 此処が中国に招来する不可避なる限界である。 今こそ中国の正念場である。 心の月面着陸を完遂して戴きたい。 喫緊の世界の三大課題がある。 先ず第一に、自然破壊に拠る風水害、及び火災の異常事態 を世界一丸と為りて積極的に改善する事。 次に地上非核化である。 もしもアメリカが核を捨てたら、北朝鮮も捨てるだろう。 でなければ世界が黙っていない。 世界から完全制裁を受けるであろう。 要はアメリカに此の決心が付くか否かである。 核武装もタバコの喫煙同様、やがては消滅する運命にある。 そして香港の異常事態である。 これも中国が香港を捨てる決心が付くか否かの問題である。 核と香港と夫々に対する執著、確執がある。 両者とも捨てる事によって、其の先には信頼に基づいた、一丸と為っ た輝かしき未来が控えている。 是こそ、真の心の月面着陸である。 未来は宝蔵自ずから開けて受容如意ならん。 不 昧 因 果 真為る労苦は真為る成果を生む 東京から札幌への移転問題での、 此の段階に於きましては、最終的には矢張り、 競技者(側)の意見に基づくべきものだと 思われますが如何でしょうか? 小生、此の歳に為って初めて、自分の外の世界に関心が最も向い た。托鉢以外は、テレビ、ネットからのものではあるけれども。 世界人類の幸福と平和を願うからだ。 残りし命は総て、其の為である。 其れ以外の時間は無い。 朝課、朝食、夕方迄托鉢、作務、晩課、夕食、ネット、テレビ、結跏趺 坐、坐禅である。 何故に結跏趺坐かと言えば、最も最適であるからだ。 真理(実)とは正しさであり、永遠なる恒常普遍のものである。 一方、世の中の二元論とは優劣、強弱、大小、高低、貧富等の思い 様で、相対的為るものである。時・処・位に拠り、一定したものではな い。 世の中は二元論で真理が無いが故に、救いも、安らぎも、落ち着きも 無いし、幸福・平和ですらも相対的為るものである。 然るに、真理(実)を信ずる事すら無いが故に、二元論為らざるを得な いのである。 スポーツに髭と云うのは不自然であり、スポーツ精神に相応しくない。 プロのショー的精神ならば髭も在り得るかも知れない。 純一無雑為るスポーツ精神の質を下げる。 多様性の時代だ。 量増えれば質は下がる。 少子化対策然り。道(剣道、柔道等)の世界然り。 少欲・知足を基とするに如(し)かず。 五欲に牽(ひ)かれず、富楽安穏、涅槃の功徳を生ずる。 本来多様性為るものは、人体に於ける抹消組織の毛細血管の如き もので、組織には不可欠為るものである。 其れ無くんば、組織は死滅する以外に無い訳である。 斯様に本来の多様性は、其れ無くしては、本来の機能を為し得ない が故の多様性として、必然的に不可欠為るものである。 多様性を認めないが故に、過去に於いて優生学を生み、ヒトラーや 人種差別を生んだのである。 世界には、正しき多様性に対する認識を新たにしなければならない。 此の地上に人類が誕生したのも、宇宙(生命)の本質は人類を誕生 せ使めた進化と云う多様性であり、人類は種々なる生命の多様性の 過程の産物である。 多様性とは生命から人類を誕生せ使め、完璧為ら使むるに不可欠 為る全ての可能性の在り様の事である。 完壁とは完熟から、自ずからにして自然発生するもので、其処に至ら 使むる迄の忍耐と受容能力無くしては為し得ないものである。 此れからの中国に大いに期待する処である。 仏教は少欲・知足の消極的なものと捉えられがちであるが、悟り、 解脱、涅槃の体験に基づく、大欲の真に積極的生き方である。 坐禅をすれば悟る。 解脱に至るには正法苦行(=千日行(三時間坐睡二十四時間仏作 仏行))が必須。 小生、初行終了後、動中の工夫(正念相続)の十四年間の後、鉄牛 寺へ行く直前の準備期間中に、スーッと『此の儘で善いんだ、全ては 足りて居るんだ。』と云う充溢感を得た。 本具仏性に拠る解脱であった。 生存其のものに仏性が具わっており(=本具仏性)、其れだけで、もう 既に不足する処が無い。完結して居る。其れだけで善いんだと云う 根源からの体験で、生涯を律して居る。 斯う云った体験は、釈尊が中道に至り得た後の成道直前の心、空( から)の時の如く、行中でなく、所謂「心が空の時に、不意に」起こり 得るものである。 斯様な訳で、解脱人は自ずからなる少欲・知足を説く。 「宇宙(生命)の本質」(仏性)は解脱、涅槃の少欲・知足が本来の姿 であります。 そう云う訳で、少欲・知足とは消極的生き方とは異なって、 世界を地獄に陥れる三毒(貪・瞋・癡)を転じ三善根(施・慈・慧)為る 大欲の真に世界人類を幸福・平和に導く最短路である積極的生 き方である。 此の真に積極的生き方が全ての根底に具わっておれば、 現代世界に於ける、自然破壊に因る諸激甚弊害、世界三大悪(核 武装、ヒトラー、人種差別)は生じ得ていないのである。 イスラム教の聖戦(ジハード)の魔力は、往き場を失った若者達を 吸収してしまう。 先ず、キリスト教の聖戦否定が不可欠である。 更には先ず最低限、自己を超えた神仏領域での聖戦完全否定を可 能なら使める精神的、進化が根本的に不可欠なのである。 「聖戦(ジハード)が在る間は世界は平和には為り得ない。」 神は唯一なる絶対者でありながら、二元論為る聖戦を主張するは、 神為るものが欺瞞である事を裏付ける以外の何ものでもない。 此の虚偽に拠りて、是迄、どれだけの人類が洗脳され地上を地獄に 陥れたか判らない。 斯く為る現象は、自己の心中に聖戦を否定し得ないものが在るか らである。 つまり、二元相対に陥らざるを得ないもの…………。 善悪、勝敗、貧富、優劣、強弱、高低、大小、上下……等。 又、我執や形而上的為る、斯うした習気(じっけ)を払うのは容易では ない。 此れ等に因りて、いざと為ると、殺し合いが始まるのである。 然しながら、大脳新皮質の生み出す如何なる究竟も、予測不可能の 究極為る体験(=新中道)の前には全く無力であり、瞬時に霧散する のである。 二元相対世界を超えたもの、是が言語道断、悟り、解脱、涅槃であ る。 究極的には、後厳密千日解脱行によりて真中道を経て涅槃行に至る 、「坐行」―→「人」を体験しない限り不可能である。 此の正信が無ければ、世界は闘争と迷いと欲と地獄である。 「信為る者は幸い也。」 世間に不可欠なるものは、素直と信ずる心である。 此れ無くして(正為る)進化は在り得ないのである。 張り(緩め)過ぎず最高の音色を出す 弦の張りで、 究極の仏道とは 中道に拠る 正法で、 人の為に 演奏する。 真中道により人を生(活)かす。 千 日 行 (三時間睡眠二十一時間開眼行) (令和1年11月1日~令和4年10月31日) 開眼 人 結跏 〔 人類生命の辿る道 〕 恰も、噴水の如く、 噴上する水は (坐の向上一路) 頂上を反転し (=真中道) 落下する (人の向下一路) 釈尊の断食苦行を初めとして、アヌルダの不臥不眠行や、坐脱立亡 そして弁慶の立ち往生仁王眼等は正法ならざるものではあるが、 五千五百年程前のインダス文明での瞑想に端を発し、ヨーガとして バラモン伝統を生み、やがて釈尊を悟ら使め、究竟、釈尊をはじめ、 サンガ等の峻厳にして厳密なる正法が、吾師に受け継がれた。 そして、十一月一日からの千日行(三時間睡眠二十一時間開眼行) の正念相続として小生に受け継がれている。 自己に、既に師と吾と弟子の三者具わっている。 此の三者は自己を三分した、同一にして一体である。 吾無く(在ら)ば、他二者も無し(在り)。 此の吾は、器から器へ代々、受け渡され往く水(=こころ)の如きもの である。此の水(=こころ)は時・所・位を超えて、永遠にして恒常普遍 の天眼である。 三十五年前のロサンゼルスオリンピックの柔道・無差別の決勝で、 エジプトのラシュワン選手が、怪我をしていた山下泰裕選手の右足を 攻めず、彼のフェアプレーが賞賛され、旭日単光賞を受賞された。 「青(=スポーツ)は藍(=スポーツ)より出でて、藍より青し。」 スポーツ精神の原点を見た。 地上自然破壊に起因する異常気象激甚災害復興資金は、此れ迄 世界的に核武装に費やされた資金を、今後遥かに上回るものに為り 往くのではないか。 此れまでの自然破壊に因りて生ずる被害(生命及び物心両面の)は 此れまでの世界的核武装対策に投じた物を遥かに上回るものに為 らんとしている。 現時点でも、もう既に世界的に手の施し様が無い程に破綻を来たし つつある。 然りながら、自暴自棄に為れば既に人類は、其の愚かさに敗北せざ るを得ないのである。 此の儘では、世界レベルの自爆テロと為りかねないのである。 退歩の脚、急がば回れ、此処は小生の真中道に倣って、噴水の如く 反転し、地上一丸と為りて、総信頼に基づきて、立場を越えて、平等 為る人間の立場で浮つかず、政治も、彼のスポーツ精神に倣って、 真に世界人類の為の精神に拠りて、一つ一つ真摯に偽る事無く対応 して往く以外には無いのである。 十一月一日からの拘(こだわ)りが 前日、刹那に破砕した。 小生、もう何にも為すべきが無くな ってしまった。 何にも無い正直な心を吐露するのも 何か出来るかもしれない。 只、スイスイと鳥が飛ぶが如し。 活字化だけ残った故に、 チリでも埃(ほこり)でも出れば書き 留めてみよう。 其れしか無い。 破れ枠だけ残る。 結跏趺坐してネット、テレビの前に 一つと為って居る様だ。 周囲(まわり)は地獄であるのに 小生は何にも無い。 不連続だ。 こんな事が在って善いものか。 為せば為すだけ何にも無い。 不連続性が増す。 そんな馬鹿な! 何か活動と云うよりも、 後、小生の在り様だけが問題だ。 其の在り様を刻み込んでおく事だ。 何もせんで善い。 唯、其の在り様(姿勢)だけで善い。 存在と云う事。 人間は、兎角、何か遣って置かね ばならないものと云う思い込みが 在る。 存在だけで善いと云う事も在るの だ。 富士山の如し。 富士山は何もせんけれども、 其れだけでも十二分だ。 そう云う事が人間世界にも在り得る のだ。 此れは未だ嘗て一度も無かった。 初めての体験である。 小生の如きには、此の世の心理的落ち着き処と云うものが無い。 何とも、形容の仕様が無い。 存在と言えば、其れで落ち着く。所謂、「もの」である。 何にもしないけれども、其れで一切済んでいる。 自由で、在り様とすれば無上である。 富士山だ。 今日程熟した時は無い。 此れ迄、善く何事も無く、無事に七〇年間生きて来れたものだと、 幸運に感謝するのみである。 仏の功徳である事は疑い無し。 敢えて言えば、恰も極楽に居るが如し。 全く自由である。 極楽を得たいと思うならば、釈尊般涅槃の御遺経(八大人覚) (少欲、知足、楽寂静、勤精進、不妄念、修禅定、修智慧、不戯論) 中の楽寂静(=遠離)、即ち静かな所で一人居を楽しむ事が不可欠で である。 極楽と云うのは、安楽を極める。 つまり、安楽を極め得るから楽しい。 是が極楽であります。 「坐禅は習禅には非ず、唯是安楽の法門なり、菩提を究盡するの修 証なり。」と道元禅師の普勧坐禅義にもある。 本物と云うものは、学問や外的な関係に拠りて、相対的に為される 事でなく、永遠なる恒常普遍の真理に基づいて、自己の内より為さ れる体験(=仏の功徳、悟り、解脱や涅槃)でなければ為らない。 「宇宙(生命)の本質」(仏性)からの促がしに縁りても、存在とは哲学 的根本課題であり、又芸術的にも同様な、必然的に向かい合わざる を得ないものである。 其れ故に、釈尊が成道(=解脱、悟り)に至った前段階にはウパニシ ャッド哲学がヨーガにより先行しているのである。 学問と仏性に基づいた体験とは、言語道断、次元を異にするが、 大脳新皮質の分別に拠るものが、全く次元の異なる体験に先行して いるのは興味深い処である。 釈尊の中道に拠りて仏教の「正法」が生まれたのである。 断食苦行の追体験の必要無く、只、「正法」を信奉し、行ずるのみで ある。 更に、鐵漢の真中道に拠りて、同様に千日行を行ずるのみである。 釈尊は、坐禅中、常に衆生を忘れず、衆生を捨てず、蛆(うじ)虫にも 常に慈念を給して、誓って済度せん事を願われた。 此の故に、常に欲界に在って坐禅辧道された。 2020年東京オリンピック、マラソン・競歩会場の東京から札幌への 競技場移転は、現代スポーツ界のスポーツ精神に於いて、未だ、甚 だ未熟にして、オリンピック選手をして堕落せしめるものである。 要は、選手自身の意志に委ねるべきものであり、権威至上と為りては 、現今、スポーツ界に於いて報道機関に問題視される諸問題の、正 に頂点に及んだものである。 此のスポーツ界に共通する権威主義は正に当初のアメリカファース トに他ならない。 これ等の至上主義には何等の根拠も無い。 唯、人類三毒(貪・瞋・癡)の傲慢さに他ならない。 釈尊も、永遠なる、世界人類をして幸福・平和に至らしめ得る中道に 至り得るには、其の伝統に基づいた、死滅の直前の体験が要ったの であり、そうして初めて、貪瞋癡ならぬ大自在を得られたのである。 其の智慧無ければ、嘗ての、否今も猶、依然としてヒマラヤ山中に現 存する苦行者達に他ならない。 此の苦行者達はヒマラヤ山中だけの話ではない。 現代の世界中に蔓延する事実である。 其の見究めは、権威によって為されるものではない。 当事者(=選手(側))本人の一存に委ねられるべきである。 是が真の教育である。 何事も体験して初めて真理に至り得るのである。 是には、権威は、其の本質を左右し得るものではない。 是が権威足るものの在り様でなければ為らない。 本質に拘われるのは本人以外には無い。 ≪ 人間世界の取り組み ≫ 一、物質的基本的条件確保。 (生存の為) 二、精神的 〃 。 (生存可能) 三、性欲の為、欺瞞、我欲に根ざさず、世界人類の幸福と平和の為 に根ざす生き方に真に生まれ変われる事。 是、解脱に至らない限り困難なのである。 理屈で判っても、真に生き方として徹し得ているか? 犬や蛆虫に恥を教えるよりは、人間が解脱して世界を改善すべ きである。 此処に初行の所以が在り、 薩?(=菩薩)の行願(布施、愛語、利行、 同事)が在るのである。 以上が人類が基本的に解決しなければならない事である。 是が解決し得ないから戦争になる。 三、だけでも個人レベルの問題であるが、是で大半は解決する。 一と二は少なくも世界(国連)的に臨まねば解決し得ない。 此の真剣で、本気の取り組みが不可欠である。 是位、人類と云う者は情けなく、不完全なる生き物である。 高度文明化以前に、此の三つを解決すれば、世界は完成するので ある。 アメリカもイギリスも自国第一主義、自国の保護、存続と繁栄の為に、 人を忘れて、離れて、捨てて往く方向、孤立する保護主義へ流れて いるような気がする。 是は、キリスト教、イスラム教、IS等の神至上主義に基づいた聖戦( ジハード)を正当化するのと同質の根拠に基づくものである。 今日の米・英は、共に十六世紀の大航海時代からの植民地化、 奴隷化と云う人種差別により生まれた新生国家である。 其の建国は奴隷制度為る極悪の人種差別によりて得た富に拠るも のである。 其の過去に於ける悪業報が現在に至って居る様だ。 如何に弱者であろうとも、自国の為に他を奴隷化すると云う行為は、 在っては為らない事である。 如何なる場合でも、常に彼等と共に繁栄して往くのでなければ 為らないのが智慧ある人間の為すべき事である。 彼等の基本的条件を略奪する事に拠る、一方的な自国の利潤追求 に拠りて得た立場を深く反省し、懺悔する事無き存続である故に、 やがて、何時かは衰亡するのは、因果の法則に因りて必然、不可避 である。 此の儘、旨く遣って往ける訳が無い。 何時かは衰亡するのである。 是は恰も、噴き上がった噴水が、やがて崩落する以外に無いのと同 一である。 そうして自(みずか)ら、其れを体験して初めて、其処で、悪業に拠る 盛者必衰の理を思い知らされるのである。 此の立場に在りながら、世界の警察などとんでもない事である。 世界の警察為るものは、真に他の為の無我為る働きである。 自国の利の為の行為ではない。 自国第一主義に出来る行為ではないのである。 如何に弱者であろうとも、其の心は常に世界の警察足るべきである。 此の心を忘れる事が在っては為らない。 是が総ての人間の在り様、正しき真理の為には、自らの命を擲(な げう)って働くのが人間の在り様でなければ為らない。 未だ、世界は、神為る虚像でさえも、此の真実に至り得ていないので ある。 同じ、抱く虚像にしても、完成された神であるべきだ。 場合によっては、人殺しも正当化する様な神しか抱き得ないのが 現代人である。 況(ま)してや、悟り、解脱、涅槃には、及ぶべくも無い。 真理には、遥かに遠く、及び得ないのである。 仏教とは、自ら坐禅をし、悟り、正法苦行に拠りて解脱し、真中道に 拠りて終日、常に、真に人を生(活)かす教えである。 小生に於いては、下記の基本的態度に基づいて涅槃行を行ず。 ・三時間睡眠(以外絶対開眼不臥行) ・十時半~十六時 托鉢 ・日課と食事 ・日、祝日は掃除、片付け、入浴、洗濯等 釈尊は、御遺経を遺され、「若し我れ世に住するとも、此れに異なる 事無けん。」と語られた。 「真に人を生(活)かす」とは、 小生の為すべきは、人類の諸業の根底に拘わる、本質的な事であ る。 人間を物質的に支え、精神的に保守する事は政治家の本命である が、其れ等を可能為ら使めて、政治家の根源に関わる総ての、此れ 等に対する根源的教えを説くのが小生の使命である。 真に生(活)かすとは? 新道元宗として其の「教え」を遺す。 小生が是迄、吾命に代えて行じて来た坐禅(行)は、純粋に此の「教 え」を生む為のものである。 小生が、自今已後為すべきは、此の「教え」を遺す事であり、 坐禅(行)の手段は、其の仏果「真に人を生(活)かす」事が手に入れ ば捨て、換言すれば、是迄の坐禅(行)の究竟為る「人を生(活)かす 」、「坐」を「人」に転じた向下門為る、完成を期しての、永遠為る「向上 一路」である。 三毒(貪・瞋・癡)の地獄は永遠に低迷衰滅し往き、剣の達人は剣を 捨て、坐の達人は「坐」を「人」に転じ、究竟する永遠為る向上一路で ある。 結跏趺坐、開眼は説 く真剣さに転了すべく、 正念相続すべし。 現代は既に如何なる人種差別 も許されるものではない。 平等にして受容の時代である。 是が真の人類の強さであり、 真に人類をして進化せ使むる。 世界人類の幸福と平和を完遂す るに不可欠為る最低条件である。 釈尊は、「断食(禁欲)苦行で坐禅行を究竟するは不可能である。」と 中道に至り得て、成道された。 「坐禅の中にも、衆生を忘れず、衆生を捨てず、蛆(うじ)虫にも常に 慈念を給して、誓って済度せん事を願い、常に欲界に在って坐禅?道 された。」(道元禅師、宝慶記) 更に、吾鐵漢は真中道に至り、「人を忘れ、捨てて坐禅行を究竟する は不可能である。」と云う事を上述の釈尊の大乗禅の精神を実証し、 真為る涅槃に至り得たのである。 此の後厳密千日涅槃行は日本富士山為る存在(=もの)であり、 完成された文殊菩薩であり、自由無碍である。 如何に自由であろうとも、矢張り、日課、食事、托鉢、下化衆生等 自ずからにして、大枠は定まっているものである。 宇宙の調和である。 嘗ての自由アメリカの生んだヒッピーとは根本的に異なる。 世界人類をして真為る幸福・平和に至ら使め、人類究極の進化を可 能為ら使める、東洋釈尊に基づいた東洋の叡智の結晶である。 斯様にして、釈尊は新道元宗鐵漢に依りて完成に至ったのである。 「坐禅」は「人を生(活)かす」に転じる。 坐禅は目的に非ず、瞑想由来の智慧を生む為の手段である。 目的は「人を生(活)かす」。 釈尊が「自利利人の法は皆具足す。若し我れ久しく住するとも、更に 所益無けむ。應(まさ)に度すべき者は、若しは天上(人)、人間皆悉く 已(すで)に度す。其の未だ度せざる者には皆亦已に得度の因縁を 為す。」と般涅槃された如く、坐禅は人を生(活)かす為の智慧を生 む為の手段に過ぎない。 そもそも人と仏道、或いは神と何れが貴重か? 真理(実)は人であります。 此処を誤ると根源的に狂ってしまう。 生涯を誤ってしまうのである。 人間無くして仏道無し。悟り、解脱、涅槃無しである。 況(ま)してや、虚像為る神に於いては言うまでも無い。 「人」無くして「悟り、解脱、涅槃」無しである。 解脱を究竟じて人に転じ在るを涅槃と云う。 其れ故に、 四弘誓願文 衆生無辺誓願度 煩悩無尽誓願断 法門無量誓願学 仏道無上誓願成 の要は第一句の衆生無辺誓願度であります。 此の「度す」について、 此の地上の物質的、精神的基本的条件を確保し得ない甚大な人々 を救済するは、喫緊に対処すべき政治(策)の問題であるが故に、支 配階級に、相対的保護主義でなく絶対的慈悲に基づく統括的智慧に 拠りて、根源的為る配慮を希求するものである。 嘗て、吾師が、 「葉に宿りし一滴の露、此の身に残りし命を継ぐ。 大きな男で一人だ。」と小生に言い遺された言葉がある。 又、思い出すのであるが、 師が、在家の弟子の父親の葬儀で大導師を務められた時、 本来ならば、威儀(=姿勢)を正して為されるべき処であるが、 其の時、師は態々(わざわざ)、敢えて腰折れに、うつ伏せに屈(か が)み込むが如く為された。 意表をつく、唖然とする此の態度に、師は、威儀を捨て、超えた世界 を示されたものと拝察された。 人間と云うものが、「最期の一滴の命」を如何にするか? 無自覚に済ましてしまうか?或いは、自暴自棄と為るか、或いは、 此の最期の一滴に威儀を正すか?或いは、威儀を捨てて只管「人を 生(活)かす」か?何れかであろう。 仮令(たとえ)、威儀を正し終えたとしても、 正道(=正法)に於いては、威儀の先に在るもの、新中道「人の為に 、人を生(活)かす」に明らかな様に、只管、「人を生(活)かす」に徹す べきである。 吾身を顧(かえり)みず、無償の慈悲心を、他に施すべきである。 此の事を、師は諭されたのであると、三十五年後の今にして、 明確に思い到るのである。 釈尊の「物質的苦行では人間は悟る事は出来ない。」と云う中道を 得た。 又、小生の「精神的苦行に於いても、不可能である。」と云う新中道に 至り得たのである。 総じて、人類の諸業は、正法苦行為る「人の為」にして初めて、為し 得ると云う事が明確に為るのである。 さもなくば、人類は、迷中、又(う)迷為らざるを得ないのである。 故に、「人の為」で在りて初めて、自己と云う者は、生き得る。 以上より、人類には積極的に「人を生(活)かす」事が最要にして不可 欠なのである。 太陽を生み、人類を生み、釈尊に基づきて真中道に至ら使めた 「宇宙(生命)の本質」(仏性)に思い至れば、是は自明の理である。 資本主義も共産主義等もデジタルである。 生命の機能為るものは、何れで在るべきだ等と、デジタル化為し得 るものではない。 遣れ資本主義である、だとか、遣れ共産主義で在るべきだ等と、 生き様を規定すると同時に、生命は枯渇する。 仮令(たとえ)、法律に於いても、丁度仏教の御経が、如何に尽しても 生命の本質には至り得ないのと同様に、法律も如何に尽しても、限り 無く生命には至り得ないものである。 要するに、法律から生命を規定するのでなく、生命の本質から、つまり 仏法から世法を導き出すべきものである。 生命には如何しても悟り、解脱、涅槃が無ければ生き得ないのであり 、其れによりて、世の中を導くのが世界人類の幸福と平和への最短 路なのである。 生命の本質には如何なるコンピューターも及び得ないのである。 ロシアのオリンピック・パラリンピック選手のメダル獲得競争と 日本の政治家の票集め等の貪欲に拠る悪業は共に無慚(恥を知ら ない)である。 寧ろ、恥をかかない方が損であるかの如くである。 こうなると、生活全般にそうである。 在るものは唯三毒だけ。 三毒が生む世界と云うものには将来の無い、閉塞保護(身)空間で ある。 迷える子羊か、或いは三毒のゴジラしか生み得ない。 (真)中道の働き在りて初めて、素晴らしき将来が在り得るのである。 是は、其の道への動機が不純なるが故の結果である。 こうなると、両者共に人間を進化させるものでなく、堕落させるものと 化す。 何れの世界も優れたる指導者が居ないからである。 真に優れたる指導者が居れば、三毒が純粋さを育て、三善根に転 ぜ使め、世の中を変革せしめる。 優れた指導者が居なければ善いものは出来ない。 優れた指導者は優れた指導者から生まれる。 自らを捨てて、捨て身で将来の為に働ける人である。 実力者が「剣の達人が剣を捨てて」、将来の世界の為に、無償の働 きを為す事以外には世界人類の幸福と平和は成立し得ないのである 。 保護(身)主義では善いものは出来ない。 三善根(施・慈・慧)の心が不可欠である。 此の世界は迷える子羊か三毒のゴジラの何れかでなくて、 (新)中道を弁(わきま)えた優れたる人材が、何時の時代でも、如何 しても不可欠なのである。 是無くんば世界に光無く、歓喜び無く、希望無く、安らぎ無し。 此の人材が、どの様に、何処で生まれ得るのか? 小生も全く同様に、吾師に会えた事によりて正道を得た。 若し、師に会わねば、迷える子羊の域を出る事は出来なかったであろ う。 是等両者の何れでもない処に真理(実)を確立するのでなければな らない。 是を打開するのが、 「慚恥(ざんち;恥ずる心)の服は諸々の荘厳に於いて最も第一也と す。慚は鐵鉤の如く、能く人の非法を制す。」 地上一丸と為りて、此の誓願を以って、 衆生無辺誓願度、正道無上誓願成を此の地上に確立する事である。 此処に光在り、歓喜び在り、希望在り、安らぎが在るのであり、 何処までも心の進化を遂げ往くのである。 世の中には、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可也」底の人材と 真理(実)が不可欠である。 吾師が其処迄至り得たのは、全幅の信頼を寄せていた原田老師を 師の資質が超えた処が契機と為って、一家の長と迄登り詰められた 身でありながら、敢えて在野に留まられて、特に青少年の育成に生 涯を捧げられた御苦労に拠るものであると思う。 「艱難汝を玉にす」、此の孤独なる労苦が人を育てるのである。 「晴れて良し、曇りても良し富士の山、元の姿は変わらざりけり」と詠 んだ幕末の官僚であり剣の達人であった山岡鉄舟も一時期、出家 の意向を語ったが、老師が留められたと云う経緯が在る。 仮令(たとえ)出家したとしても、彼は、其れ以上でも、又以下でも為 り得なかったであろう。 生涯 no missで終る。 涅槃行とは 生涯nomiss行である。 地上非核化が完結すれば、 地上の如何なる悪業も根絶し得る のである。 地上、三善根 (施・慈・慧)と云う 信頼に基づいて一丸と為り、 善意が悪意を駆逐するのである。 地上の極悪なる最難関を克服し得 るのが人類の智慧である。 是が最終段階の究竟為る心の進化 である。 ≪ 真為る宗教 ≫ 信ずるは吾心即宇宙(=太陽)、他無し。不動。 宗教とは只管に吾心を信ずる事。 宗教即只管信吾心也。 是無くんば一切無し。 神の存在なんて信じられる訳が無い。 自己の心が宇宙(太陽)の本質であると信ずるからこそ受容如意、意 の儘に自己は働く。 是以外の宗教は在り得ないのが真実である。 是で一先ず(=自己は)安心(あんじん)である。 侮(あなど)る事勿れ。 自他一如、他己も同様である。 是が真為る宗教の積極性で、人任せにしない。 自心一つの問題だ。 自心一つが世界を造り、又壊す。 学問的には、永久運動を可能為ら使める永久機関は存在し得ない が、是、学問為るが故である。 此処が学問の限界である。 しかし、真理(実)が我等を取り囲んで居るではないか! 無限なる宇宙の如く無尽蔵である。 人類の頭脳の中でしか生きていない人間は、自己の悪魔性に因りて 、自滅するばかりか、世界を破壊してしまう。 焼け糞と真為る寛容さとは似て非為るものである。 頭脳を脱却して、異次元の世界に生まれ変わらねば為らないのであ る。 是が、悟り、解脱、涅槃の仏界である。 ≪ 三毒(貪・瞋・癡)に基づく知恵為らぬ 三善根(施・慈・慧)に基づく智慧 ≫ 中東不毛地帯の国民を生(活)かす為の智慧を、世界中の学者や知識 人の総力を結集して、あらゆる方面から生み出すべきだ。 今や、覇権を争って、大気圏外の宇宙空間で種々の活動を可能なら 使める時代である。 地上の砂漠を生(活)かす位の事は可能な筈だ。 本気度と真剣さが未だ至っていないだけだ。 其の智慧が生まれたら、其れを実践に移して往く。 資金は中東の石油から生まれる財を投入する。 此の支配者階級も、民衆を確実に生(活)かせる資金であるならば、 喜んで投資するであろう。 否寧ろ、そう云った確かなる試みを待っているのではないか? 是を本気で臨むならば、ISも生まれる訳が無いのである。 人々の間に、此の信頼性が生まれれば、ISも自然消滅するであろう。 中東不毛地帯の国民と石油に依る支配者階級との甚だしい格差を 是正する智慧を生むのは、我々人類の為すべき事ではないか。 国民を生(活)かす為の智慧を生むのが、高度文明化した我々人類 の果たすべき責務でないか。 彼等の在り様を捨てて、忘れてしまうのでなく、完治すべく、本気で 真剣に、此の病巣に取り組む。 智慧に拠りて、石油から生まれる巨額の資財を生(活)かし、双方を 生(活)かす為に。 「我物に非ざれども、布施を障(さ)へざる道理あり。」 (修証義) (自分の物では無いけれども、布施に為らない事は無い、と云う実際 の筋道がある。)と云うではないか。 恐らく、此の不毛地帯の民衆を生(活)かす自他一如に基づいた 地球レベルの取り組みが為される事に依りて、中東地域の根本問題 にメスをいれ、双方を生(活)かして、全体を幸福・平和に導けるであ ろう。 何事も本気と真剣さが未だ至らないだけだ。 ≪ 結 論 ≫ 真中道に拠りて刹那に得られた真理、「坐」でない「人」だ、でもう既に 済んだのであるが、つまり其の刹那が以降を規定せ使めたのである が、長期間に亘る坐の習性と云うものが残って居って、遣れ結跏趺 坐だと云う風に為りがちであるが、四十年以上も前に正座から坐禅 に転じたのを、逆に、更に正座に復帰するものである。 つまり、元の木阿弥に戻るのが正しい。 もう既に坐力は目的に相応しないからである。 以前と異なるのは、以前には無かった、「人を生(活)かす」事が目的 である事だ。 此処で誤っては為らないのは、「人が生(活)きる」ではなく、 「人を生(活)かす」である。 此処に既に、如何なる理由在ろうとも、万人の慈父たる所以が在る。 生涯涅槃行 開眼不臥nomiss 人を生(活)かす 「剣の達人は剣を捨てる。」 坐禅の達人は坐禅を捨てて、「人を生(活)かす」事に専念する。 小生ならば、ホームページで進化したる正法を伝え遺す事であり、 従来の大枠の中で書き、公開する。 「坐」を転了して、終日只管、「人を生(活)かす」である。 是を厳密に行ずるに不可欠為るが、三時間睡眠時以外の開眼不臥 行であり、完璧にして、生涯正念相続の、仏道究極の峻厳為る 盲比丘アヌルダの「天眼」を正伝した吾師伴鐵牛老師より受け継ぎ たる正伝の心であり、吾母の最期にカッと見開いた儘、往生した、 臨終の弁慶立往生仁王眼であった。 神の究極が鐵漢である。 神は仏性に迄進化しなければならない。 よって世界の究竟(極)は鐵漢に極まれる。 人間の一切の諸業は悟り、解脱、涅槃と進化するのである。 故に人類は、此の悟り、解脱、涅槃へ至る道を学ぶべきである。 其れが究極の進化への最短路である。 世の真為る優れ者は、此の最短路を歩む。 然るに世界は調和である故に、其の在り様は調和せる多様性であ る。 其れは透明な光が無限の色相を呈するが如きである。 此処に東洋の特質である、宇宙を直感的洞察力で以って把握する 性向と、西洋の統合的分析力に拠りて宇宙を克服して往く方向性が ある。 此れ等両者は相補的関係にある。 両者共に相補し合って完成され往くのである。 然るに、東洋の自己に習って、自己を忘れ、宇宙から諭され、悟る 微妙にして甚だ深き世界と、西洋の我の諸能力に拠りて分析、統合 し、世界を構成し往く生き方は、前者に於いては万法に証せられた 悟りに基づき、後者に於いては飽く迄も人間能力に基づくものである に、自ずから其の根源的深さ故の相違がある。 此の東洋の特質は、極東日本の微妙に移ろい往く自然の深みが、 其の土台と為る気質を生み、其れが日本人の人事万事に深く影響 している。 ≪ 新 道 元 宗 ≫ 釈尊正法が現代文明と共に、最も進化した宗派であり、 老若男女、何時でも、何処でも、誰にでも、遣る気一つで、即、新道 元宗の道人に為れる。 仮令、刑務所の中、或いは病院の患者であろうとも、仮令、僧侶であ ろうとも構わない。 [宗旨] 一、先ず自己の睡眠時間を設定する。 三時間~八時間迄。 何事に於いても、立派に為りたい人であれば、恐らく此処から 入り、規則正しく始めていると思う。 何故為れば、睡眠欲と云うものが人類の欲の中で最も制し難き ものであるからだ。 二、次に、 設定した睡眠時間以外は、開眼不臥である事。 三、最後に日々、一?(=二十分~六十分間)(、或いは其れ以上) の坐禅を行ずる事。 (坐禅の遣り方は、禅寺、道場、書物等で 簡単に誰にでも遣れます。) 以上に拠りて、 万人の生きる、根源為る弁(わきま)えが為る。 つまり正法が身に付くのであります。 如何なる境遇に在ろうとも、 最低限、是だけ遣っておれば、後は何遣って居っても宜しい訳であり ます。 つまり外力に左右されない、真為る自己を確保、維持し得るのであり ます。 是は仮令(たとえ)何を遣って居っても、そうであるのであります。 最低限、其れさえ正念相続し得ておれば、であります。 此処に迷苦の寄り付けない、環境に左右されない人間が出来上が るのであります。 環境が厳しければ厳しい程、仮令戦場であろうとも、環境に自己を 見失って振り回されない、強固なる正念相続は、其の環境の厳しさを 寄せ付けない処の最強の自己確立が出来るのであります。 是が、やがては世界を変革し往く原動力と為るのであります。 是が悟り、解脱を先取った生き方、超新幹線の最短路であります。 是は例えば、 性欲を初めとする金欲や名誉欲に対して、真為る自己、つまり「人を 生(活)かす」事の出来る、優れた人材に為り得るのである。 世の中と云うものは、兎角、此れ等諸欲を貪る三毒(貪・瞋・癡)に基 づく生き方、世界と為って居る。 極めて、世界人類の幸福と平和を構築し難い世界であります。 然るに、此れを間違い無く、積極的に可能為ら使める、優れたる人材 と為るのであります。 新道元宗は、世界人類を真に幸福・平和に導く、観念的でない実践の 、世界に唯一の真実を提唱する。 ≪ 呼 吸 ≫ 呼吸法と云うものは特に意識的に為されるべきものではない。 生きる心の在り様にて、意識せずに、自ずから身に付いて来るもの である。 心が宇宙(生命)の本質に同調しておれば、自ずから呼吸は穏やか に為り、其れが自ずからにして心を整える。 違(たが)えば、自ずから呼吸は乱れ、其れが自ずからにして心を乱 す。 心整えば身が整い、心乱れれば身を害(そこな)う。 釈尊正法相続者が中国を経て日本に受け継がれて往くに従って、 其の修行内容は、食事は日に一食から二食と為り、其の厳しさも緩 んでいるにも拘らず、その相続年数は逆に著しく減少している処にも 其の求道心の徹し様に違いが生じている事を裏付けるものであると 思う。 要するに、坐睡に拠りて、呼吸は腹式に転ずる。 つまり千日行に拠りて、呼吸は解脱人の呼吸が確立して居るのであ る。 意識とは全く関係無い。 自ずから呼吸は変革されて居るのである。 呼吸は生きるに最も不可分のものであるだけに、 解脱と、変革された呼吸と、生きる事とは一つもので不可分である。 此れは世間と一線を画するものであり、 世間の人の入れる世界ではなく、真似出来ぬ世界である。 其の事が、変革された呼吸に具現して居る。 恰も、後ろを向いて前進する様なもの。 驚嘆すべき、底無しに湧出する力は、次元を超えた菩提心に基づく ものである。 ≪ 世界の矛盾の解消 ≫ 如何なる場合でも、常に個人が三毒(貪・瞋・癡)と三善根(施・ 慈・慧)の何れに基づいて居るかが問題なのである。 三毒為る人類が如何に正義を翳(かざ)して反目しても、 地獄を掘り返して居るだけで、何等の進化も無い、退化に過ぎない。 個人の在り様と云うものは、総て世界人類の幸福と平和に直結する 、人を生(活)かす行為を積極的に為すべきである。 人類が本来具足せる本質、三善根(施・慈・慧)を、個人レベルで、 世界人類が享受しなければならないのである。 即刻、世界が唯一の真理(実)に立ち返って、世界一丸と為るべし。 坐禅に拠りて、人類生命の根源に立ち返り、宇宙と一体為る、 正鵠を射た判断に拠りて、世界人類をして正に、真に、最短路にして 最善最上の幸福・平和に至ら使め得るのである。 坐禅無くしては、人類大脳新皮質の一切の諸機能は正の進化を遂 げ得ないのである。 是までの激甚とも云える程の高度文明化は吾等の母体為る自然に 無配慮為る貪の追及に終始した悪業報を、果たして、人類が破滅せ ざるを得ない激甚弊害に迄至って初めて此処で蒙むらざるを得ない のである。 釈尊が宇宙(生命)の本質に違(たが)う 禁欲によりて中道に至りて正法を得、 吾鐵漢が其れを進化せ使め、宇宙( 生命)の本質に違(たが)う「衆生を忘れ 捨て」て、真中道に至りて、解脱は 真為る涅槃「人を生(活)かす」に転了 し得たのである。 朝課・朝食――8:00~10:00 托鉢――11:00~4:30 晩課・夕食――6:00~8:00 睡眠――11:00~2:00 ≪ 人 類 の 真 価 (=進 化) ≫ 人類の真価(=進化)とは、体液でない、尿でもない、糞でもない、 身でない。 真の精神性であり、心であり、こころ(仏性、本質)である。 是は生命と云うものが水分から生じた処に由来するものであろう。 こころには身と心の沙汰は無い。 物質、精神以前の「宇宙(生命)の本質」(仏性)である。 勝ち負けや、取った取られたや、損得の二元相対的なものでなく、 本質の真理為る絶対的為るものである。 つまり人類の三善根(施・慈・慧)に基づいて、「人を生(活)かす」と云 う事である。 恰も、太陽が人を生み、育み、生(活)かす恩恵の様なものである。 人類に特有の大脳新皮質の主要な機能は意識を生ずる処であり、 大脳新皮質の進化に拠りて動物の本能は欲として意識上に自覚さ れ、自覚された本能(=欲)を意識的にコントロールし得る。 性欲は情動として神的愛に迄昇華され、或いは解脱に拠りて慈悲に 転ぜられるものである。 宇宙は無限為る超極小と超極大に及ぶ集合と離散に因る生、生(= 滅、滅)の総体として太陽が生じ、太陽が生命を育み、 植物の摂取は、動物の本能に進化し、更に本能は人間の少欲・知足 として進化し、格差無き平等への限り無き智慧を生ま使めるものであ るが、一方、意識の働きに拠りて三毒(貪・瞋・癡)に拠る争いと独占 の地獄へと退化する。 此の進化の産物である処の意識の箍(たが)が外(はず)れる体験が 悟り(=身心脱落)であり、生命の本質に触れる体験が解脱である。 是に拠りて三毒は本質である三善根(施・慈・慧)に転了せられるの である。 悟りとは超意識なる自覚であり、解脱とは超悟りで、悟りの完徹した ものが解脱であり、涅槃とは超解脱であり、解脱の習気(じっけ)を 撥無(はつむ)して涅槃行為る。 神は本質(仏性)に進化する。 超分別が神であり、無分別の分別が仏性である。 六道(趣)は必ずしも進化のプロセスでなく、人間の趣向する六段階 の様態である。 ≪ 威 儀 の 先 に 在 る も の ≫ 世の中の在り様と云うものには、 無関心(自覚)か、三毒(貪・瞋・癡)に亘るか、威儀を正すか、 人を生(活)かすかの何れかであろう。 落語、金メダル、学問、施政等は威儀の前に並ぶ。 特に、施政も三毒でなく、威儀、そして其の先を実践せねばならない のである。 「剣の達人は剣を捨てる」如く、 威儀を捨て、超越して、「人を生(活)かす」に為る。 此処に至れば坐禅どころの話ではない。 只管「人を生(活)かす」在るのみである。 「人を生(活)かす」でないものには何にも無いのが真実である。 宇宙に太陽が無い様なものだ。在り得ないからだ。 敢えて、「人を生(活)かす」に徹する為に解脱の習気(じっけ)を撥無( はつむ)すべく不惜身命の坐禅(結跏趺坐)を捨てるのである。 ≪ 人 間 の 本 質 ≫ 人間の本質は 「宇宙(生命)の本質」(仏性)である。 即ち、少欲・知足(=不貪の安楽)、楽寂静(=独りを楽しみ瞑想を 生む)、勤精進(=三善根に向けて三毒を穿つが如く精進すべし)、 不妄念(=本道の為の前段階として徹する)、 修禅定(=現実生活を生(活)かす智慧を生む)、 修智慧(=坐禅行で解脱を得て実践に移す)、 不戯論(=戯論の咎(とが)を滅し何処までも徹し往く)(『八大人覚』) 本質である事を証すべく、 以上でなければならないと云う使命感(=MUST)でなく、 そうあるべきだと云う義務感(=SHOULD)でもなく、 そういう存在であると云う必然性である。 此の必然性が進化を生み、究竟す。 是は「宇宙(本質)の本質」(仏性)からの促がし に拠る菩提心に基づくものである。 是が人間の真実為る姿(整)である。 此処に人間の真価がある。 本具仏性に於いて、人間は平等である。 此処に真為る人間らしさ、つまり男らしさ、女らしさの、真為る、人間 としての男女平等の所以がある。 此の時、人間は最も美しい。 真善美を具現する存在である。 人類は、此の本質には及ばない。 此の本質を悟ったのが、其の伝統が生んだ釈尊である。 此の釈尊、及び其の進化した吾鐵漢の新道元宗に及ぶ者はない。 何と為れば、現代に於ける、進化せる本質を証して居るからである。 此処を根拠として、人類の来し方を変革し、行く末に確実に備えなけ ればならない。 極論すれば、世の中、 三毒(貪・瞋・癡)で健康と幸福・平和を勝ち取ろうとするか、或いは 三善根(施・慈・慧)で健康と幸福・平和で居ようとするかの何れかで ある。 前者の結論が今である。 今此の時、後者に基づいて地球が一丸と為るべし。 此の要に基づいて、来し方の負を平等に共有すべし。 是が無我為る本質の最も理に適(かな)った働きである。 ≪ 人 を 生 (活) か す ≫ 宇宙が「人を生(活)かす」の結論に至り得たのは、 如何なる理由在れども、 是が「永遠なる恒常普遍の真理(実)」である事に疑い無い。 是が宇宙が至り得た、宇宙唯一為る真理である。 何時でも、何処でも、誰でも、常に人を生(活)かすである。 一体、今、地上に於いて、世界の指導者為る者は、人を生(活)かし て居るか? アメリカ――人類史上始めて、是までの核武装を解除し、地上非核 化を果たさんとしている。 中国―――地上一丸化に向けて、着実に実践している。 ロシア ――アメリカ、中国に歩調を合わす。 中東―――アメリカの方針に期待している。 日本―――以上の舵取り役に立たんとしている。 北朝鮮――アリメカと共に、心を一(いつ)にしている。 韓国―――北朝鮮と共に歩みを進める。 以上の世界の指導者達は、 何時でも、何処でも、誰でも、常に人を生(活)かす出発点に一丸と 為りて、同時出発に臨む時を心待ちにしているのである。 今程、世界の心が一丸に為らんとしている瞬間は無いのである。 此の世界に唯一の真理「人を生(活)かす」の前には、 斯く、本気に為らざるを得ないのであり、 其の瞬間を心待ちに待つ以外無いのである。 今こそ、人類の真価を果たすべき時に至り得たのである。 後は、百尺竿頭、進一歩を進めるだけだ。 乗り越えるべき一歩の前に人類はたじろぐべきで無い。 正道の真の積極性の実践在るのみ。 宇宙の進化は大脳新皮 質(善の入口の菩提心と 悪の入口の貪)に拠る真 為る繁栄(=涅槃に拠る 幸福と平和)を究竟する 斯くして人類は本質に 基づく信頼に拠りて世界 泰然自若たるべし 自他一如は真であるが、身心一如は偽である。 心は悟ってこころ、つまり「宇宙(生命)の本質」(仏性)と為り往く。 是は心に本来具わっている仏性為る性能であり、 三善根(施・慈・慧)に基づき「人を生(活)かす」働きを為す。 是は永遠なる恒常普遍の真理である。 身は有限なる枯渇する存在であり、此の身(物)が進化して心と為っ た。 斯様に身と心とは非常な相関関係に在る。 其の意の一如である。 ≪ 宇 宙 の 目 的 ≫ 宇宙の究極の進化(=目的)は「人を生(活)かす」である。 万法(=精神と物質、一切の存在)は「人を生(活)かす」べく存する ものでありながら実際は然には非ず。 人間同士、他を犠牲にしつつ、自を可能な限り生(活)かす。 釈尊以来、小生に至りて「人を生(活)かす」と云う事が真理と為った。 「宇宙(生命)の本質」(仏性)は、「人を生(活)かす」事(=世界人類 の幸福と平和)を目的と為す進化を遂げるのである。 宇宙→無生物→生命→生命の完成→悟り→解脱→涅槃 宇宙在りて人間が在り、悟りが在る。 此処で誤っては為らない事は悟り無くして人間無しとは為らない。 つまり、「悟らなければ人間足り得ない」とはならないと云う事である。 此処を誤ると根本的に狂って来る。 「悟らなければ人間の価値が無い」ではなくて、「如何なる人間にも悟 る価値が在る」と云う事である。 「涅槃無くして宇宙無し」ではない。 宇宙には進化して涅槃に至ら使む目的が本具しているという事であ る。 「本具仏性」は人間及び宇宙についてである。 是が「宇宙(生命)の本質」(仏性)である。 「天上天下唯我独尊」は我在りて森羅万象が在るのでなく、 真実は天(=宇宙)在りて我在りである。 本質在りて涅槃在りで、涅槃在りて本質在りではない。 そう云う意味で、全て伝統在りて進化が在り得るのであります。 宇宙の進化の目的は涅槃に拠る世界人類の幸福と平和である。 「宇宙(生命)の本質」は鐵漢の涅槃に究竟する。 本質とは森羅万象、及び解脱した万法の事である。 現今、洋の東西を問わず、日本が世界の指導的立場を執る事が 施政の根本と為らねばならない。 吾鐵漢が宇宙に冠たるが故也。 生涯涅槃行は 世の中の淫快地獄の恥を忘れた 保身を打破する、世界を変革する 青少年を導く、日々坐禅を凌駕する 絶対智慧造行である。 淫快と云うのは我と我の張り合いに 過ぎない。 其れが世間と云うものだ。 進化と云うのは、 刹那、刹那の更新の継続である。 正法に基づけば、(正の)進化であり、 正法に基づかねば負の進化(=退化)である。 身は心に進化し、心は仏菩薩に進化し、 世界人類の幸福・平和を構築しつつある訳である。 是を導くものが、北極星たる正法である。 ≪ 勝ち負けと云う事 ≫ 人間は一人残らず、「勝たねば」 と思う。 是は動物が生存する為の生存競争に根差すものである。 此処に、人間為るが故に、神を置かざるを得ない根拠がある。 然しながら、置いた神為るが故の聖戦に拠りて世の混乱は絶えない。 核武装然り。ヒトラー然り。種々なる(人種)差別然りである。 此れ等、人間の欲以前の、無生物ならざる生命為るが故の「生命力」 に根差すものである。 然るに、人間には、此の生命力に根差す、勝ち負けの二元相対意識 を脱却する源力が在る。 此の源力は、釈尊以来の、解脱に拠りて悟った「宇宙(生命)の本質」 (仏性)である。 此の源泉に辿り着くには、其処からの促がしに感応し、菩提心を発し 、坐禅に親しみ、坐禅を好み行ずる事である。 無心に少しずつでも遣っておれば、必ず「悟り」が訪れる。 其れは、やがては解脱に至る。 しかし、此処に留まって居っても、釈尊も「梵天勧請」在りて初めて、 其れを「人に生(活)かす」と云う事に移行し得たのであった。 だからこそ、十日間を掛けて、人に向かって、野宿を重ねたのである。 御生涯、其の一事であった。 「生(活)かす」に勝ち負けの沙汰は無い。 勝ち負けを捨てて、勝ち負けを超越しているのである。 此れには、生命力に根差す「勝とう」と云う本能ですら歯が立たない。 勝ち負けを超越した、宇宙の本質に根差した人間には、「勝とう」は 「負ける」。 此れも宿命である。 勝負を捨てて「人を生(活)かす」、つまり向上一路から真中道を体験 し、向下一路為る向上一路に至り得た人間に勝てる人間はいない。 必然的に負けざるを得ない宿命にある。 剣の達人が剣を捨てて、「宇宙(生命)の本質」に到達したのである。 主義主張に亘らない。 主義主張を生ずる根源から、 世界人類の幸福と平和の為の正解(最短路)を吐露するのみである。 人間は其処迄、自ずから三善根(施・慈・慧)を尽す以外には、 宇宙の調和(涅槃)には至り得ないのである。 此の令和の新時代を迎えた日本が世界の唯一為る霊峰として、 世界を導かん事を。 不 昧 因 果 人を生(活)かす処に、吾、生(活)き、開かれた世界と為り往く。 事在る毎に証し往く。 是、因果の法則と自他一如(=自利利人の法)に基づく処の、 心(精神)の大法則である。 人を生(活)かし得ない者は、自己を生(活)かし得ない。 閉塞空間である。 人類が動物と異なる処は礼節と恥を知る処である。 現代社会は、そうであろうとする人が居ないのが現状である。 人間と云う者は、悟り済ますのでなく、同じく体験しながら、他にも同 じて共に在りながら、導いて往くのでなければ不可能である。 ≪ 真為る人間復活 ≫ 人間の復活は、嘗て西洋に於いて、神の復活の下に、其の暗黒時 代を脱却すべく、十四世紀にイタリアで、古代古典(ギリシャ、ローマ) の復興が西欧にルネサンスとして始まったのである。 特に、商業、経済、思想、芸術、建築、医学、哲学等、文化史、精神 史に多大な影響を及ぼした。 一方、東洋に於いては、西洋に先行して、釈尊が悟り、解脱して仏教 がシルクロードを経て、西洋の文化と共に東洋に齎されたのである。 西洋では其の後、大航海時代を経て、アメリカを中心とする資本主 義体制の下に高度文明化の結果、得たものが激甚自然災害と核武 装の完成である。 目標は建国でありながら、破滅寸前に帰結しているのである。 此処に於いて、此の根本原因を打開すべく、最も原初為る、釈尊「悟 り」、「解脱」を基に鐵漢が正法苦行に拠り、是迄の人類の苦行とも言 うべき悪業に終止符を打つ処の宇宙の究極の結論(=正解)、 永遠なる恒常普遍の真理に到達し得たのである。 来し方に無かったし、行く末の北極星為る唯一無二の真理、 「人を生(活)かす」と云う宇宙の本質に至り得たのである。 人類は、是さえ遣って居れば宇宙に帰一し、絶対に間違い無い。 是以外に無い、真理である。 「人を生(活)かす」精神在らば、核武装生じない。種々なる人種差別 生じる訳が無い。ヒトラー在り得ない。聖戦生ずる根本、偽神を打破 する。 何処迄も、労苦を共にして、決して富を独占しない、人を生(活)かす 為の資金と為る。斯様に共存共栄して築き往くのみである。 来し方の人類の諸業績を、此の立場から振り返って反省し、 真の人間復活を果たさねばならないのである。 人間は三毒(貪・瞋・癡)を本有し、三善根(施・慈・慧)を本具してい る。 然るに、此の三毒を三善根に転ずるには、先ず菩提心無くんば 不可能である。 人間は動物中唯一、三毒の生き者である事を忘れるべきでない。 此の三毒(貪・瞋・癡)から脱却するには、 菩提心に拠る精進が不可欠。 学問自体に其の力は無い。 不意にグラグラーッと自己が崩壊(身心脱落)すると、 無限の時間、無限の空間の只中に、命を受けた吾の自覚在るのみ。 「宇宙に我独り」。 此の絶対独行である。 共産主義は、優生学に基づくヒトラーに象徴される独裁と云う三毒( 貪・瞋・癡)の権化であり、其れ故に、其の特徴は人を抹殺する事へ の厳格為る固守である。 是が世に台頭すれば第二のヒトラーである。 「人を生(活)かす」に基づく真の現代共産的体制に即刻改善すべき である。 果たして中国共産党は、真に人を生(活)かし得るか? 香港市民に代表される国民の本心。 如何見ても、世界に冠たる覇権(=物質)を追及せんが為に国民の 精神を犠牲にしている。 今の時代に此の地上に公然と国民の精神を犠牲にして、此の地上 の覇権を我が物にしようと云う独裁は、既にヒトラーによりて深く反 省せられているのである。 米の核支配体制と中国の覇権獲得独裁体制との二匹のゴジラが 今や地上を支配している。 何れも「人を生(活)かす」に非ず。 両者共に人間の三毒(貪・瞋・癡)の権化である。 双方共に核と独裁、、有史以来の人類の三大悪為る核戦争とヒトラ ーが今に至って悪の限りを為さんとしているのである。 今や其れ等を放棄し、其れ等から世界七十億の人類を解放して、 「宇宙(生命)の本質」の「人を生(活)かす」正道に従うべきである。 ≪ 解脱と云う事 ≫ 解脱するには、(釈尊と摩訶迦葉の)頭陀行(但坐不臥)由来の正法 苦行(=初厳密千日解脱行)が不可欠。 其の正法苦行(初解脱行と後解脱行、そして涅槃行)について。 吾師が小生には、千日行に拠る改革と云う道以外には無いと決断さ れ、日本国中の僧侶を殺せと言い遺されたのである。 坐禅で三毒を悟る―→初行―→解―→後行―三――真→涅槃行 脱 善 中 (人を生( 根 道 活)かす) (坐→人) 小生は悟り(身心脱落)後、初行を終了し、十五年後に解脱し、只管 向上一路、後厳密千日解脱行を行じ、究竟必然的に真中道に至り得 て「人を生(活)かす」に転了し、涅槃に至り得たのである。 釈尊の、原初の悟りはバラモンの伝統に根差した解脱に等しいもの であった。 解脱とは、諸欲中五欲、特に性欲からの脱却、つまり貪欲、執著を 離れるを云う。 後厳密千日解脱行無くんば三善根無し。 大解脱人が、後行に拠りて三毒為る人間に対するに、三善根(施・ 慈・慧)を生じ、上求菩提(=坐)と下化衆生(=人)の智慧究竟して 真中道に拠り涅槃に入る。 涅槃に入りて初めて、「人を生(活)かす」。 是以外には宇宙に帰一する人間は在り得ない。 花は花である事を知らない。 人間の花も同様である。 解脱すれば、本質を決して出ないから、人間の花、自然の花同様に 受け取れる。 だからこそ三毒、貪→瞋→癡とならず、大解脱人は、三毒為る人間に 対して自己の身命を擲(なげう)って施し、何処までも慈悲以て智慧を 尽くす。 故に悟りに、菩提心を強固にし、必然的、不可避に、バラモン伝統に 基づく正法苦行、特に初行無くして解脱には至り得ないのである。 人が小生に未知なる溝、開きを感じ思うのは、是等の四十五年間、 自己を顧(かえり)みない坐禅一筋のプロセスが然ら使むるのである。 之等は人類諸業の根源の体験であるから、世間には及び得ないのは 当然であるけれども、人類は一人残らず皆、自ら信じ、行じ、至り得る 本質(=仏性)が生まれながらに具わっているのである。 世界人類の幸福と平和を完成させるには、 「宇宙(生命)の本質」(仏性)が「人を生(活)かす」事であると知る事 である。 ≪ 無 為 と 精 進 ≫ 「何もしない」と云うのは畜生に相異なる事無し。 又、老子の「無為自然」は「宇宙(生命)の本質」(仏性)の 促がしである菩提心に拠る精進(行)(=坐禅)に拠って体験される 「悟り」、「解脱」、「涅槃」に拠る真理に対する認識が無い。 人類は、何時でも、何処でも、誰でも、 生涯、常に行(精進)の人間でなければ為らないのである。 小生ならば、生涯涅槃行(開眼不臥、「人を生(活)かす」)を 常に正念相続堅持しなければならない。 ≪ 死刑制度の廃止に関して ≫ 何の罪も無いにも拘らず、物質的基本的条件が確保出来ない為に 死に往く人々が、此の世には無数に居るにも拘らず、 何人人殺しをしても、生涯其の殺人犯の物質的基本的条件を、 国民の税金で確保して遣ると云う事は在るべき事ではない。 人間の為す事は真逆である。 死刑囚を生かす金で餓死者を一人でも生かすべきだ。 未だ、世界が一丸と為っていない、分裂している証拠である。 今後、世界は如何にあらねばならないかと云う事である。 自ずから、正解(=正道)は明らかである。 ≪ 生 ま れ 甲 斐 ≫ 釈尊も中道に拠りて悟ら(=解脱し)なかったら、世界一の馬鹿者だ。 小生も、真中道に拠りて、涅槃に至らねば、実りは得られなかったで ありましょう。 生まれ甲斐を感じるのは、共に初体験の齎(もたら)す恵みでありま しょう。 人生に其れだけの力を持つものが坐禅であります。 後は、総ての人間が具足する本質。 そして、此の道へ踏み出す第一歩。 日々、一時間でも自(みずか)らの楽しみを。 ≪ 真 の 積 極 性 ≫ 政界は皇室を範と為すべきである。 真の恥を知るべきである。 通戒偈(=仏道の本筋) 諸悪莫作―消極性、覇権奪還の手段。今の野党である。 修善奉行―積極性、是に徹すれば、自ずから諸悪は莫作為る。 自浄其意 是諸仏教 「国民を生(活)かす」は修善奉行である。今の与党に他ならない。 機が熟す程に仏道は、諸悪莫作は修善奉行一色と為り往く。 修善奉行無き諸悪莫作は二元相対にして建国的なものに非ず。 今、日本が世界の霊峰に為らんとする機を逸して、迷妄為る闇路に 没入せんとしている。 今こそ、「世界人類を生(活)かす」礎為る、真の「国民を生(活)かす」 積極性で日本は一丸と為るべし。 宇宙は人類と為り、 人類は「人を生(活)かす」と為る。 人類の諸業は全て是に究竟する。 古代の釈尊は現代の鐵漢として 最後身也。 ≪ 自今已後の要 ≫ トランプ氏を取り巻く我等は、皆、トランプ氏の一存を、 只待つのみに非ず。 トランプ氏と共に、地上非核化条約締結を期して、 只一心と成りて、同時達成に臨むのみである。 機熟せば自ずから成る。 『為せば成る。為さねば成らぬ何事も。 成らぬは為さぬ心也けり。』 此の期に臨んで、此の勇断以外には無い。 是が今後の将来を規定する。 ≪ 盲比丘アヌルダ ≫ 不臥不眠行のアヌルダ程、菩提心強固なる人間はいなかった。 菩提心第一である。 然るに、正法ならざるに因りて失明した。 果たして、盲比丘アヌルダが、釈尊の般涅槃に臨んで、摩訶迦葉尊 者不在のサンガ(僧団)を先導した。 ≪ 自然破壊への鈍感さ ≫ 環境破壊に因る激甚自然災害に対しては、坐禅をするに限る。 人にも、自分にも、自然にも最も親しく為り、自然の声を最も聞 き得るからである。 観世音菩薩の世とは、人間のみならず自然のと云う意である。 小生にとっては、環境破壊に対する人間の鈍感さは驚嘆に値する。 因果の法則歴然として、更なる悪業報を受ける事必須である。 三毒の権化為る、 核武装至上主義のトランプ氏に対する、 トランプ氏以外の七十余億人の世界諸国民の地上非核化の構造は、 覇権獲得独裁体制主導の習体制に対する、 習体制以外の七十余億人の世界諸国民の自由為る精神的基本的 条件確保至上主義に、三毒為る人類の二大長として酷似せざるを 得ないのは不可避である。 然るに、双方共に人類の二大悪為る核と差別の負の遺産の最たる ものであり、即刻、改善されなければならない喫緊の課題である。 生涯厳密涅槃行 開眼不臥nomiss 人(含自)を生(活)かす 厳密開眼不臥製本行 厳密とは 朝課・朝食――8:00~9:30 托鉢――10:30~4:30 晩課・夕食――6:00~7:30 睡眠――11:00~2:00 日曜日の作務等 ※当たり前の事を当たり前に遣る事程困難な事は無い。 何と為れば、当たり前であるからだ。 「人を生(活)かす」。 人とは、自分も在る。自他同様にと云う事。 自分とは厳密である事。 二十四時間、規則正しい生活に於けるホームページ作りである。 小生、消失したホームページ(155pの即身心即佛以降から242p の完璧即宇宙(本質)迄の88p)を今年中には復元致します。 「宇宙(生命)の本質」(仏性)が核である。 「悟り」は本質に近づき、「解脱」は本質に触れ、「涅槃」は本質其のも のである。 解脱の究極に於いて真中道に至り、涅槃に入る。 真中道は「坐」でない「人」だに気付き、「涅槃」は「坐」を「人」に転じ、 そして解脱の習気(じっけ)を撥無(はつむ)して転了する。 「悟り」、「解脱」、「涅槃」が目的ではない。 そもそも「宇宙(生命)の本質」(仏性)からの促がし(=菩提心)により、 坐禅に往き着き、坐禅の功徳の裡(うち)に、やがて悟り、そこで師に 釈尊原点の正法苦行((初)千日(厳密解脱)行)を受け、了じ、正念 相続十五年弱、鉄牛寺へ行く直前、解脱し、鉄牛寺から戻って、 後厳密千日解脱行(五十五歳~)、六十九歳で解脱行の究極に於 いて真中道、涅槃に入る。 「解脱」は世界人類の幸福と平和を希求して道を興し、六十五歳位 からホームページを始めた。 「宇宙(生命)の本質」(仏性)からの促がしは五十余年後にして、 太陽の恩恵の如く、「人を生(活)かす」に転じ、今や、世界との接点 に於いて、何時でも、何処でも、誰でも自己の本質を生(活)かす道を 、世に遺すべく、残りし命を継いで居る訳であります。 人間と云う者は如何なる者であろうと も、皆一人残らず、永遠に其の真心 (=本質)から逃れて自己を欺く事は出 ないのである。 是が「宇宙(生命)の本質」(仏性)である 。 身の進化の最終段階の大脳新皮質で 如何にも為らないのが「宇宙(生命)の 質」(仏性)である。 禅学為るものは鈴木大拙氏以来のものである。 本質的禅学は小生以来である。 世の中、捨てた分だけ手に入る。 何と為れば、捨てられない、獲得する、の貪の張り合いだからだ。 捨てて(=生きながら死んで)施す者の貴(尊)さよ。 「生きながら死人と為りて成り果てて、思いの儘にする業(わざ)ぞ善 き。」 人類の我執は環境破壊に対する 意識に最も顕著に現れる。 ≪ 「宇宙の本質」の目的 ≫ 宇宙の本質の機能為る進化の究極の目的は涅槃であり、其の具現 である。 宇宙の目的は空無から生命を生み、やがて地獄から極楽へと進化、 完成するのである。 身は食欲と睡眠欲に拠る個の保存から、性欲に拠る種の保存へと 拡大し、其れ等の存続の為の限りを尽して、直に心にバトンを渡した のである。 つまり金欲や名誉欲等への貪り、更には、宇宙開発だとか、AIであ るとか………。 そうした超高度科学文明等は未だ身の進化の最終段階に過ぎない。 此れ等から脱却して、悟り、解脱、涅槃へと生命の身の目的は心へと 移行する。 生命の目的は、貪を統御し、本質と為り得た大脳新皮質の心である。 斯くして、宇宙の進化の目的は「人を生(活)かす」と云う涅槃であり、 此の地上の完成された生命体であり、是を極楽と云うのである。 人類の究極の責務は極楽に到達する事である。 此の令和の時代に於いて、喫緊の課題は自然破壊の減少ではなく、 自然の復元であり、そして地上非核化である。 自然破壊の減少すらも無視する様な地上非核化等は、精神分裂病 者のする事である。 世界の霊峰たる日本こそ、此の分裂病者への無上の良薬である。 世界各国の指導者達は此の究極的責務を果し、次世代の未来へと、 確実にバトンを手渡さねば為らないのである。 世界に見棄てられたアフガン国民の救済に滅私の活人行を実践さ れていた最中に襲撃され亡くなられた、『武器でない。信頼だ。』を説 かれた医師中村哲氏の後を継ぐ施政が不可欠である。 政治家の責任である。 是を此の儘、放置する事はあってはならない。 中村氏の偉業こそ、正に施政の本分でなければ為らない。 世界レベルの勇断が待たれる。 頭脳の判断は大自然の営みには及ばない。 宇宙の進化とは究竟大脳新皮質の進化である。 又、人類は吾地球上に限定されるものに非ず、無限なる宇宙に無限 に在り得るものであり、宇宙に種々なる進化の様相を露呈する。 是は奇跡的に好運なる惑星のみならず、個々の人間についても同様 である。 進化の究極とは一心である。 如何なる惑星に於いても、全ては多様中の一(いつ)である。 一(いつ)為る多様、無分別の分別である。 此の一(いつ)、無分別を得る為に坐禅がある。 坐禅以外には在り得ない。 夜空に唯一為る北極星である。 究極に於いて、坐を捨て、一(いつ)其のものの働きに遊ぶ、遊行で ある。 ≪ 正 道 ≫ そもそも、「正法」を「正法」足ら使める大前提に絶対開眼不臥(睡眠 時以外)行在り。 是、釈尊より吾師を通して吾鐵漢に継承され、完璧、涅槃行に転了し 得た正法戒である。 人間の人間足る処は、「生きる」でなく「活きる」である。 「生きる」は生物であれば総て「生きる」であるが、是が、最も進化した 人間は動物的「生きる」上に、「活きる」である。 此処が身が心に進化を遂げた「証し」である。 「活きる」無き「生きる」は動物に異ならない。 「活きる」とは、悟り、解脱する事である。 此処に「金」でない「心」だの所以が在る。 「心」足るに「正法」在り。 其の、万人が行ずべき「正法戒」が在るのである。 是、正なる遺産の究竟である。 真為る遺産とは、人事上の遺産を超える。 奉仕(=神)の道と、(正法)苦行の道。 前者は、二元相対の域を出ず、虚像為る神(=聖戦)に至る。 後者は、解脱(悟り)に至り、仏菩薩(=涅槃、極楽)に至る。 有史以来、東西の両雄も吾に仰がざるを得ないのである。 ≪ 不可避の喫緊の課題 ≫ 『四馬の譬え』に、 駿馬は鞭の影を見ただけで御者の意に従う。 凡馬は鞭が骨に迄徹した時、漸く目を覚ます。 人も同様で、其の香りだけで全てを掌握する。 存在と存在が呼応し合う。人が人を映し出す。 鏡と鏡を向かい合わせた如く。 擦り合い絡む程に、ではない。 釈尊の中道、更に小生の真中道に拠りて、張り過ぎず、緩め過ぎず、 最上の音色で「人を生(活)かす」。 人間が如何に生きるべきかを、 恰も無明黒暗の老病死海を渉る舟を導く北極星の如く教示している 訳であります。 世の中と云うものは、 極貧者の下落裡為る極富者の上昇、及び人の無関心に拠る間接的 暴力(人種差別)であります。 生まれながらにして食べる物も、教育も絶たれざるを得ない境遇と 云うものは、此の超高度文明化時代にあっては在り得べからざる事 である。 特に、中東等の不毛地帯に於いては甚だしい。 無関心とは「人を見棄てる」である。 此れ等の不毛地帯を改良(善)する事が「人を生(活)かす」事である。 此れ等は地球レベルで取り組まれなければ及ばない。 其れを個人の奉仕に放任し、其処から生じた利害関係者の凶弾に 葬り去られるのは現代に於ける施政の不条理さに因るものである。 核武装至上主義の国連主導故の止むを得なさである。 致し方無いで済まされる問題ではない。 地上非核にして初めて為し得る喫緊の最重要課題であるにも拘らず 、正念場に、其の飛躍を為し得ないで居る。 負け犬の遠吠、『ロケットマン』である。 恥を知らない。 是等は主義主張に拠るものでない。 権力に拠る趨勢の為す処である。 何れも人間の良心を麻痺させる権力の働きである。 主義主張以前の権力為るものを、本質的に機能させるには、米、中 の枠を超えて、「宇宙(生命)の本質」(仏性)からの働きでなければ、 権力は動じようとしない。 良心為るものは世間の動不動のニ元相対の敗壊不安の世界のもの であり、聖戦に至る神由来のものである。 良心的行為では及ばない。 一方、「宇宙(生命)の本質」(仏性)は人類以前の宇宙由来であり、 人類が放置、放任したり、無視し得ざるものである。 人類、聖戦に帰する神に基づくか、「宇宙(生命)の本質」(仏性)為る 真理に基づくかである。 人類が及び得ない処である。 此処に於いて、真理を虚空に打ち込むのである。 人事を究竟された医師中村哲氏である。 是、施政の極みと為るべきである。 是に対して、核武装が一体、如何なる働きを為し得るであろうか? 全く、結び付かない。 其れに対する何等の建設的為るものが無い。 在るのは破壊のみだ。 不毛地帯に対するに核爆弾は無縁である。 不毛地帯に要るものは、最低限の水と教育である。 三善根(施・慈・慧)の智慧は一体何処に往ったのか? 在るものは破壊のみだ。 「人を生(活)かす」。 「不毛地帯を生(活)かす」。 少なくも、是が国連の本分足るべし。 IS等が絶えないのは、此の超高度文明化世界に於いては不可避で ある。 寧ろ、ISが生じない方が不思議な位だ。 人間は皆、そんな癡愚でも立派でもないのだ。 根本的対応が不可欠と為る。 そもそも、政治家足る者は、国民の得票と任期と云う外的条件に 規定されている。 自心一つの世界でない。 然るに、後者は前者から至り得た究極的結論(結果)、否、真理であ る。 為らば如何して、前者は後者を範と為して、人を生(活)かすべく、 米、中が夫々、我(国家)執を離れて世界一心と為らないのか? 即刻一心と為らねばならない。 あらゆる物質の素は元素(水素)であり、此れを素に一切の物質が生 ずる。水素原子無くして万物無し。 等価に、個無くして多無し。一国民無くして国家無しである。 国家意識と云うものは、其の一国民の自覚の上に存在するものであ り、国民の自覚無くして、真の国家は在り得ない。 個人の人間としての自覚は、万物の中の一個としての自覚であり、 万物に証せられた此の体験に基づいている。 此処が、心的進化の出発点である。 物的進化は、自由奔放に赴くが、 心的進化には、是が其の真実なる教えたる入口が在る。 つまり、退歩の入口である。 生 涯 涅 槃 開眼不臥nomiss 人を生(活)かす 開眼不臥製本 朝課・朝食――8:00~9:30 托鉢――11:00~5:00 晩課・夕食――6:00~7:30 睡眠――11:00~2:00 三十五年間の(坐禅)行の正念相続。 「人を生(活)かす」に行為る。 制約は無い。 此処で、明らかに厳密行は、小生が三十五歳位から三十五年間、 正念相続したものに、最早、自信無い事に因りて、厳密涅槃行は、 自ずから涅槃とする事に至りました。 然るに、是は宇宙(生命)の進化の究極に於いて生み出された処の 厳密行(坐禅)為るものは其の途上に於ける必然的為るものである。 此処に於いて究竟するに真中道に至り得て、是が刹那に突如として 「人」だ!と云う気付きを得たのである。 嘗て、小生が始めての悟り、身心脱落して其れ迄の自己が完全崩壊 した如く、三十年後に「厳密行(坐禅)」が「人」に転じたのである。 嘗ての習気(じっけ)も転了すれば、自ずから厳密涅槃行は涅槃へと 移行するのは、寧ろ必然的である。 「坐」無くして「厳密行」無し。「坐」が「人」に転じた段階で、既に 厳密行は「人」に転了し得ているのである。 (因(ちな)みに、釈尊に比肩する、涅槃の仏菩薩として「智慧第一」の 文殊菩薩は、獅子の背に結跏趺坐して、右手に智慧の宝剣を、左手 に経典を持って坐禅(僧)堂を守っておられる。) 是は正に、真の人間復活以外の何ものでもない。 厳密行(坐禅)為るものは、正に真中道と云う人類史上、起死回生の 一大転換点を了悟し得たと云う事である。 イエス・キリストの復活でもない、 西欧の人間復活(ルネサンス)でもない、 真の世界人類のこころの復活であります。 嘗て、小生が精神身体医学会の世界的権威の九大医学部の池見 猶次郎教授を慕って、九医に入学して中退し、僧と為った。 精神と身体の相関関係が、体内と体外との気の出入りに直接的なる 影響を及ぼす事に起因する。 心の持ち様が「宇宙(生命)の本質」(仏性)に不違為れば正常である が、違(たが)えば異常を来たし、時を移さずして、存続不可為る状 態に変じ、種々なる心因性の異常を来たす、と云う結論に至り得た 訳であります。 健全である為には、坐禅に親しみ、自己にも、人にも、自然にも、 其の本質に最も親しく、不違為る事が不可欠と為るのである。 是は菩薩の行願の一つ、同事でもあります。 最早、苦行するには及ばない。 正信に基づく信頼で、世界人類が結束して、一丸と為りて三善根(施 ・慈・慧)の積極的活用に入るべし。 ≪ 相対現象と絶対真理 ≫ 人間、世界一で喜んだり泣いたりするのは実に愚かしい事である。 そんなものは何でも無い。 其の何でも無い処から真実、本気が始まるのである。 真の歓喜びなんてのは、落ち着きであり、安心(あんじん)であり、安 楽であり、静寂である。 何と為れば、世界一は二元相対為る在り様であるからである。 テレビで遣ってる様なものは大抵其れである。 ではテレビを見ないかと言えば、其の御蔭で外の世界を知る事が出 来る。 比べられない、要するに絶対的なるものとは、 丁度、米を良く噛んで食べると甘みが出る様な、 静かにジワーッと感じ入るものである。 釈尊無くんば仏道無し。 釈尊とは解脱である。 釈尊の解脱は、初めての悟りと一体と為ったもの、即ち成道である。 道元禅師の身心脱落は、御自身も認めておられる如く、初めての悟 りであり、其れを以って仏道全体を規定するには及ばないものである 。其の先には解脱在り、涅槃が在る。 解脱にして初めて、恰も、大気圏外に出たロケットの如く、音の無い、 無重力空間を慣性(=本質)に拠りて自力で向上一路して居るが如き である。 何処迄も宇宙空間を一路して往く。 比べるものが無い。 エネルギーが0に為る迄一路して往くのみである。 是が後厳密千日解脱行である。 然るに、自己一人で生きている訳でない。 常に人の為が、其の裏に在る訳で、其の菩提心に拠りて至り得てい る状態に過ぎない。 そう信じてそう遣る意外に無いのである。 是が仏為るものである。 然るに此の状態に至り得ているのも、未だ上求菩提と下化衆生の 葛藤裡にあり、つまり前述の仏の状態に完璧に100%為り得ている に非ず。 そう為り得た瞬間に、つまり心の中に衆生が消えた瞬間に、「宇宙( 生命)の本質」、是は悟りの延長線上にある解脱の在り様であるが、 此の本質(解脱)には未だ上記の両者が無意識に混在しているので あるが、是が意識上に下化衆生が自ずから消え、上求菩提のみと 為りし刹那に本質を違(たが)えた故に、身の呼吸系に異常を来たし、 恰も、人体内外の気の出入りの無い呼吸系の動きのみの状態に陥っ たが如く不可。 即座に、こんな事ならば、寧ろ何もしない方が善いと云う状態に至っ たのである。 即刻「坐」でない「人」だ!と。「坐」は其の事を諭す為に在るものだ。 必要悪とまでは云わない。何と為れば、其の御蔭で解脱(=仏)に迄 至り得たからだ。 何故に、仏が尊いか?仏は人類の幸福と平和の根源であるからだ。 其の延長線上に於いて、 衆生が消えた刹那に異常を来たし、しない方が良い処迄至り得た。 其の限界を知り得たのである。 釈尊の、解脱に至る為の断食苦行に拠る中道と、 小生の涅槃に至る為の後厳密千日解脱行(=解脱一路)に拠る 真中道である。 限界は寧ろ、何もしない方が良い。 其の「行」は「人」に移行(転了)すべきである、の判断が付く迄のもの。 此処に至れば、恰も、噴水が噴き上げて、頂点に達し、後は落下する のみであるが如く、向上でなく向下一路、 「行」でなく「人を生(活)かす」為だけに転ずるのである。 釈尊の中道に拠る解脱、正法(道)と、小生の真中道に拠る、正法苦 行からの「人を生(活)かす」の、(小生は是をして涅槃と称しているが )涅槃。 解脱は涅槃に至る為に在る。 是迄の習気(じっけ)を撥無し終えて、自由為る涅槃に至り得るので ある。 釈尊の成道は天地同根(=自他一如)の人類史上初めての体験で あっただけに、其の歓喜びは深かったと思うが、其れをして解脱と言 い得るかは、つまり、我欲への執著と貪を離れるには、其の初めて の悟り(=成道)をして解脱(=悟りに拠る気付き)と必ずしも同一視 は出来ない。 天地同根を悟る事と、貪と欲への執著からも離れる事とは一致する ものでないが故に、 釈尊成道(=天地同根の悟り)は必ずしも解脱とは異なる。 解脱は、其の後の智慧に拠りて完全に至り得たものであろうと推測さ れる。 小生に於いては、本質に触れ、自ずから悟された、明確なる体験で あるが、そうして仏と為り得て、恰も宇宙空間を慣性の働きの如く、 釈尊の大乗精神(=坐禅の中に於いて、衆生を忘れず、衆生を捨て ず)は、成道後の梵天勧請からの智慧に拠りて至り得たものである。 小生は釈尊の至りえた結論を、 26歳位で坐禅を始め、28歳位で悟り(=身心脱落)、其の後24年間 位後に解脱し、16年間程の正念相続の向上一路に拠りて真中道に 至り得て初めて、釈尊の大乗精神を現代に迄進化し得たのである。 釈尊が二度と断食苦行為る禁欲を行じなかった様に、 頂上に達した噴水は下り落ちるばかりで、二度と上らないのである。 少欲・知足にして、「人を生(活)かす」と云う事は、 人類の永遠為る恒常普遍の真理として、鉄則である。 世界人類の幸福と平和には、此の鉄則が不可欠である。 此処からして、世界人類が如何にあるべきか? 格差無き正道が自ずから導き出されるのである。 是を基盤とした信頼に基づいた世界の団結に拠りて、 世界人類の幸福と平和は達成されるのである。 人類史上最悪の負の遺産が今日の 自然破壊である。 世界の主要な指導者程、グレタに 及ばない。 恥を知らない。 人類は核問題以前に自然破壊問題 を優先すべきだ。 少なくも即刻、世界人類と共に対処 して往く姿勢が最低限、不可欠であ る。 厳密千日涅槃行 (令和2年1月1日~令和4年12月31日) 生涯三時間睡眠絶対 開眼不臥不淫快戒行 朝課・朝食――8:00~10:00 托鉢――11:00~4:30 晩課・夕食――6:00~ 8:00 睡眠――11:00~2:00 欲界と涅槃とは互いに隔絶している。 此の隔絶を解消する為にホームページ為る下化衆生が不可欠であ る。 此の隔絶を埋める為に嘘と詳細なる記録が在るのである。 互いに逆方向ではあるが。 此れ無くして、こころの進化為し得ず。 此の隔絶を埋めるべき記録を軽視、無視する事勿れ。 其れ程の迷妄為るが故也。 国(=心)内が整わなくて、 世界を整える事は出来ない。 『若し、人能く浄戒を持すれば、是則ち能く善法在り。 若し、浄戒無ければ、諸善の功徳皆生ずる事を得ず。 是を以って當に知るべし。 戒は第一安穏功徳の所住処為る事を。 故に當に勤めて精進して汝が心を折伏すべし。 恥を知らざる者は諸々の禽獣と相異なる事無し。 応(まさ)に端心にして質直を以って本と為すべし。』 (御遺経) 永遠なる恒常普遍の真理「人を生(活 )かす」宇宙の本質に基づく、日本の 令和為る新時代を迎えるに当り、 米・中間の信頼に基づく両大国に依る 自然復活と地上非核化と人種差別撤廃 (特にウィグル・チベットと香港問題) に拠りて、世界人類の幸福と平和達成 に相応しき両大国が、世界一体と為 りて、垂範以って世界を先導しなけれ ばならないのである。 ≪ 真理に至る迄 ≫ 小生が宇宙から導き出した唯一究極の真理は、 小生、中学から高校へ進学する頃から、生命、自然、社会等に対して 漠然とした、闇に閉ざされた様な不透明感と云うか、軌道のレール では全く収まり切れないものが在って、高校入学直後から不登校、 心身症、退院、放浪、17歳の頃、ギタリスト目指して東京へ、更に放 浪、4年間程遅れて、心機一転、外の世界には何も無い事を覚り、 身心相関の医学目指して、九大の精神身体医学の世界的権威、 池見猶次郎教授を慕って九医へ入学した。 しかし、嘗て心機一転したものの、本当は全くそうではなかった。 専門課程で即刻明らかと為り、其れからが本気で嘗ての大疑に新た に直面した訳である。 生命、意識に対してであった。 そもそも、池見教授御自身も心身症を体験されて、セルフコントロー ル(自己催眠)は白隠禅師の『夜船閑話』をヒントにされたらしい。 其れとは全く別に、進路を選定するに、如何に其れと向かい合い得 るのかと、種々なる方面から探り得たものが宗教に他ならなかった。 真っ先に、聖フランチェスコの原始キリスト教、そして親鸞聖人、それ から釈尊の禅定に至り、それから禅の世界へ入って往ったのである。 疑を抱き始めて50年、小生が宇宙から導き出し得た唯一為る究極 の真理は、宇宙が人間を生んだ処には、宇宙其のものに、例えば、 花、一粒の種子が宇宙の恵みを受けて、見事な花を咲かし、其れが 生命(=身心)を育てる。 一粒の種子の中には、微妙深甚不可思議為る働き(=恩恵)が具わ っている。 此の力は宇宙其のものである。宇宙の本質である。 是を如何に考慮しても解るものではない。掴み得るものでない。 生命が生命其のものを把握し得ない様に、科学的には、つまり進化 の最先端為る大脳新皮質では為し得ないものである。 仮令、為し得たとしても、其れは頭脳の産物に他ならず、生命への 客観的接近法(アプローチ)に他ならない。生命其のものではない。 生命を知るとは生命其のものに為る処にしか為し得ないものである。 其れには、人間が自己(為る生命)を忘れて、自己を生んだ宇宙から 自己を把握する以外無いのである。其れが仏法の根本義である。 『仏道を習うと云うは、自己を習う也。自己を習うと云うは、自己を忘 るる也。自己を忘るると云うは、万法に証せらるる也。万法に証せ らるると云うは、自己の身心および他己の身心をして脱落せ使む る也。』である。 (道元禅師「現成公案」) 其処から導き出し得た究極の真理が悟りから入り、解脱で触れ、 涅槃で其のものと為り得て、其れを「教え」として説く。 真の勝ち負けとは解脱である。 解脱人には如何なる人物も、如何なる理由在りても及ぶ事は出来な い。 人類は解脱には、絶対に入れないのである。 解脱から始まり、万死一生を得て涅槃に至り、元の木阿弥に為りて 説くに徹する。 ≪ 真理為る本質 ≫ 将来は斯うである、は無い。 将来は今の裡(うち)に在る。 今駄目ならば将来も駄目。 今斯く在るならば、将来も斯く在る。 今即永遠為る恒常普遍である。 永遠に不動為る今。 (今為る)刹那には時空の沙汰は無い。 つまり、本質其のものである。 「宇宙(生命)の本質」(仏性)には時間と空間の沙汰が無い。 過去も、未来も、今以外には無いのである。 今為る刹那である。 刹那、刹那、刹那…………である。 常に、一刹那が次々と生滅し往く。 悟りは此の一刹那である。 其の都度、生命を更新し往く。是心的進化である。 此の一刹那が無限の時間、無限の空間を支配するのである。 今無くして過去も未来も無い。 「悟り」体験から得られた刹那生滅の道理。 前の生、滅せずんば、前刹那の悪去るべからず。 前刹那の悪未だ去らざれば、後刹那の善今現生すべからず。 道元禅師「正法眼蔵(発菩提心)」に、 「おほよそ発心得道、皆刹那生滅するに因るもの也。 一刹那心、能起一語。一刹那語、能説一字。 此の刹那は、唯釈迦牟尼仏独り明らかにしておられる」と。 又、同(有時)に、 有時とは存在即時間、時間即存在の意である。 つまり、一刹那は一刹那為る万法であり、一有であり、一時である。 刹那に時間、空間の沙汰は無い。 此の発心、悟り為る体験を生ぜ使める一刹那に時間も無ければ、 空間も無い(無)意識以前の「宇宙(生命)の本質」である。 生涯厳密涅槃行が世界人類を牽引す る永久運動と為るべく、世界の主要指 導者方を始めとする、今の国連組織が 三毒(貪・瞋・癡)主導ではなく、 三善根(施・慈・慧)主導の組織として 機能する、正の世界遺産の象徴として 君臨しなければならない。 今は、負の世界遺産の象徴に過ぎな い。 科学的にも、且つ現実的にも確実に不可避に、人類を滅亡に至ら使 む世界規模の人為的激甚自然災害に対して、其れへの対応を他に 委ね自らは、遣りたい放題に為す。 是が、他の非核化を訴え、自らは最強核武装を固持する、依然禽獣 の弱肉強食世界を脱し得ない、成り上がりのゴジラ達である。 彼等の遣り方は人類を思わない、未熟なる力志向の、政治家として の資質に欠ける人間に他ならない。 彼等に求められるものは、人類の涙の一滴である。 小生は、自己が疎かにされている時は、自己を信じる。 すると、即刻解消する。 他が疎かにされている時は、自己を思う様に他を生(活)かす。 本質から自他を眺める時、自他を自由自在に生(活)かし、 常に一(いつ)と為る。 釈尊般涅槃の御遺経(八大人覚)は釈尊の解脱一路の側面であるが 、是が解脱を転了し得た、諸仏の師為る文殊菩薩の究極に至り得た 自由自在為る涅槃へ至るのである。 千日行は本質に触れ、本質其のものと為る処の道具であるに過ぎ ない。 小生、延べ33年間(内14年間は正念相続)の厳密千日行に拠りて 至り得た、釈尊の大乗精神の「証し」為る、小生の真中道に拠り、其 の必然性が明らかに証された、此の、年明け元旦より三年間に亘る 生涯厳密千日涅槃行に拠りて世界人類を牽引す。 我は、良医の病を知って薬を説くが如し、服と不服とは医の咎(とが) に非ず。 又、善く導く者の、人を善道に導くが如し、之を聞いて往かざるは、 導く者の過(とが)に非ず。 ≪ 人 類 破 滅 ≫ 近年の環境破壊に因る地球規模の自然災害の確実為る加速度的 激化は、近年の加速度的人口増加を相殺する必然的結果であるの か、人類の貪為る三毒が惹起した悪業報である。 何れにしても、宇宙のオアシスすらも破砕する程、「宇宙(生命) の本質」(仏性)に違(そむ)いて居る証拠である。 貪為る三毒に対する「悟り」、更に「解脱」、更に「涅槃」。 最早、「涅槃」以外には、生命の母体為る宇宙に対する良薬は無い のである。 小生以外に其れを食い止めるものが無い。 つまり、「人を生(活)かす」生涯厳密千日涅槃行在るのみである。 世界人類の貪為る三毒が、其の母体を忘れ、捨てた事に由る真中道 は? 吾「涅槃」が起つ以外に無い。 若し小生起たずんば、人類破滅である。 小生が起つとは、 生涯厳密千日涅槃行である。 生涯厳密千日涅槃行が世界人類を牽引する。 人類破滅を食い止めねばならない。 ≪ 人類を導くもの ≫ 人類を導くものは(権)力(支配)でなくて、知恵である。 更に、特に坐禅に拠りて、知恵は智慧と為り、 此の智慧は坐禅に拠りて至り得た「悟り」以降(、更に「解脱」、更に「 涅槃」以降)に生み出され往くものであり、之に拠りて、心(人類、強 いては宇宙)の進化を辿るのである。 世界人類の幸福と平和とは三善根(施・慈・慧)に拠って「人を生(活 )かす」である。 「悟り」に拠る智慧を生むのが5500年前の瞑想に端を発する坐禅 である。 坐禅を生むものが大疑であり信である。 ≪ 世界を動かすもの ≫ 人間は「悟り」よりも金と保身である。 身に埋没し往くのでなく、 心に進化し往くのでなければ、 世界人類の幸福と平和は不可能である。 地球表面が絶滅の危機に瀕しておりながら、 未だ其処から出離出来ない。 飽く迄も保身、覇権を図る。 其れで自由が利かない。身動き取れない儘だ。 世界を破滅に陥れるヒトラー的、身の袋小路。 世界を動かす者は若者である。 若者の純粋なる大疑と信である。 是が自由為る若者の特権である。 答えが解っているのだ。 其れが自今已後の令和の新時代である。 ≪ 睡眠(食)欲と性欲の在り様 ≫ 性欲は必然的に淫快に直結する。 一方、睡眠(食)欲に於ける禁欲は死に直結する。 淫快に渉らない性欲、是が真の男らしさであり、女らしさである。 此処が(尼)僧の美しさであり、素晴らしさである。 此処に於いて、男女間も、又最近のLGBT間も共に人間間同様 無窮である。 淫欲は貪(三毒)、執著生じ、三毒害為る悪を生ずる。 故に少欲・知足にして、夢中にも不淫快戒為るが求道者の必須要件 である。 解脱(涅槃)人ならば不淫戒為れども、欲界に在れば、淫快全く生じ ない訳ではない。 故に、解脱(涅槃)行に於いては、敢えて不淫快戒は不可欠である。 ≪ 究極の絶対真理 ≫ 世界の指導者達に問いたい。 自分は真に世界人類の幸福と平和の為に遣っているという人が、果 たして何人居るであろうか? 仮令、居たとしても、やがては組織に飲み込まれてしまわざるを得な いであろう。 最初は、自分の問題からだ。 自分とは、命とは、生きるとは?と云ったものである。 問いを生じ得ない時・所・位の諸境遇以外は、そうしたありとあらゆ る問いから始まる。 然るに是が、根源的問い、大疑から出発している人間は、必ず「悟り」 、「解脱」、徹すれば「涅槃」へと必然的に至るのである。 我を超えた永遠の恒常普遍の真理に立脚して居るから、何処までも 絶対不動である。 然るに、世界の指導者は相対的なる世間に立脚せざるを得ない。 其の中から、如何にして絶対的なるものに至り得るか。 本物か偽者か、資質の問題である。 若し、本物が居るならば解決するであろうが、 然も無くんば、世界は破滅に至る以外無いのである。 即刻、原点に帰って、信じ、実行する以外には無い。 保身を捨て、覚悟無くしては為し得ない。 世界人類の為に我を捨てる。 釈尊は、坐中にも人を忘れるな、捨てるなと大乗精神を説かれた。 自己も捨てた坐に人を興せる訳が無い。 是は、正確には「人を興す事を止めるな。」の意である。 其れを止めない限りは生きている。 しかし、それすら止めた途端に、もっと正確に言えば、 それすら消えたと同時に、其れは実りの無い、虚無に陥るのである。 「宇宙(生命)の本質」(仏性)に違(そむ)くと、即刻、身(呼吸系等)に 異常を来たす。 坐禅から得られるものは「人を生(活)かす」事である。 此の時点で、坐禅は「人を生(活)かす」に転了し得る態(てい)の 進化が望まれる。 其の施政を為す。 自然復元、地上非核、あらゆる人種差別撤廃、 無関心、無視、偏見、差別によりて見捨てられた人々を生(活)かす 。 屁理屈を言っている暇は無い。 即刻、誤魔化さず、逃げず。 ≪ 常識(人情)の怖さと真理(実) ≫ 先日の、某高級官僚の一家四人の息子の家庭内暴力が原因で妹が 自殺し、母親は自殺未遂、うつ病を患い、父親は常に「殺すぞ、殺す ぞ」と脅され続け、遂に激しく脅され、殺されると息子を刺し殺してし まったと言う事件であるが、其の裁判員裁判で求刑6年の判決を受 けた。 同情的な言葉も聴かれ、若し自分が其の立場に置かれたならば、果 たして如何するであろうかと、人夫々に考えさせられる事件であった。 法律は神の如く総てを裁き得るであろうか? 若し其れが出来るのであれば、法律為るものは神である。 十人十色で皆同じ答えが出る訳ではない。 其の人の機根に応じて種々であろう。 判例も無ければ、人が人を裁くという事は、相対的なもので、絶対的 なものが在るとすれば宇宙(生命)の地平線の彼方から、つまり解脱( 涅槃)人以外からは在り得ない。 其の根本は、解脱(悟り)に基づいて受戒、つまり仏法僧に帰依し、 不善を為さず、善行に励み、世の為に尽す。 殺さず、盗まず、邪淫を犯さず、瞋(いから)ず。 特に、先ず不殺生戒である。殺さないという事が大前提である。 (他教には聖戦があり、自教の為には殺す事も辞さないのである。) 世界は其の真理から、唯遠ざかっている。 核心から離れ往くのが人間の性(さが)である。 多様性の中に埋没され往く。 若し、此の地獄の如き家族に「宇宙(生命)の本質」(仏性)から生ま れる信頼と、其れに基づいた不殺生戒、何時如何なる場合でも「殺 す勿れ」が在れば、斯うは為らなかったでありましょう。 二元相対世界から生まれる、致し方無き常識の恐ろしさである。 判決に於いて、悪い前例を作らないという趣旨が無ければ、執行猶 予も付いたかもしれない。 しかし、飽く迄も「宇宙(生命)の本質」(仏性)に違(たが)わない信頼 と、其れに基づいく「殺す勿れ」に徹していたならば、絶対に斯うは為 らなかったと思う。 真心には、必ず真心が返って来るものだ。 自他一如、自利利人の法は皆具足しているのである。 寧ろ、官僚組織に、強いてはトランプ、習近平の核武装至上主義と 覇権獲得の(権)力至上主義に拠るものが日本の官僚組織内部にも 浸透してしまって、其れが忖度として表現されているものと思われる。 今や其の力が宇宙と I Tに及んで居るのである。 人類が基づくべき、人間の本質と云うものは、古代程驚嘆する迄に 鋭く確かである。 1000年を経て此の方、唯、好い加減に堕する一方である。 此処で、この事件を核抑止力に置き換えてみると、核戦争の脅しに 極度に唆(そそのか)されると、核戦争は始まるであろう。 誰も其れを罰する事は出来ないのである。 どんなに脅かされても、飽く迄も核戦争は始めないと云う事は、 少なくとも仏道で無い限りは在り得ないのである。 核抑止力の延長線上に在るものは核戦争である。 此処で完璧な非核無ければ核戦争は防ぎ得ない。 其れが人間だ。 完璧なる非核在りて初めて、絶対に核戦争には及ばないのである。 其れ無くしては絶対に、何時かは核抑止力に大穴が開くであろう。 核抑止する人間は神ではない。核武装の頂点に居る人間である。 そして、他の非核を強制する人間だ。 いざと為れば、必ず其れを行使するのは間違いない。 さもなくば、国連に核武装のピラミッドが出来る訳が無い。 何事も撤し切る処に、思い掛けない宝が手に入るものである。 徹し切る力が、世界の滅亡とは対極の宝を打ち出し得るのである。 そもそも、票と任期の規制内のものでは及び得ない。 生涯に及んで初めて可能と為るものである。 故に、如何しても滅私の活人技無ければ為し得ないのである。 ≪ 相対世界の中の絶対 ≫ 小生は今や、どの様に真理、そして真実を言葉に移すかに二十四 時間係っている。 夜中三時間睡眠中、気付いた時に、其の刹那、刹那、頭に浮かんで いる。 世界七十億の人類は、保身と覇権のゴジラ世界と、子羊かゴジラか の二元相対世界から脱却した真理(実)に基づいた世界と何れを選 ぶであろうか。 国連主要国(常任理事国)を除いては総て後者であろう。 特に、三大主要国の米・中・露の指導者達が保身と覇権で前者を選 ぶであろう。 アメリカは(権)力に依る支配者である。 小生はこころに拠る指導者である。 人類は力かこころか、何れに就くか? 力支配の相対世界か、こころ支配の絶対世界か? 人類は力に依存して生きれるか、権力依存世界で良いのか? 是では人類は悟れない。 人間に悟り無ければ、動物世界に異ならない。 悟りに拠る真理に基づいて初めて人間としての価値が在る。 権力に依存する相対的生き方に自主性は望まれない。 相対世界は、迷える子羊かゴジラかの何れかだ。 故に今、トランプと習近平の二人のゴジラだろう。 是れ等を裁き得る人間が居ない。 畜生ならば兎も角、我々は人類である。平等為る人類である。 人類たる価値は、核抑止力に拠る安定ではない。 真理への信頼に基づく幸福と平和である。 是を完成させない限り、世界に平和は訪れない。 三毒世界である。 二元相対世界の頂点、ゴジラに為るか、 真理に至った、絶対者に為るのかの何れかである。 後者に於いて非核、平等、幸福・平和に至る。 後者は世界に1~2人に過ぎない。 此処に差別生じ、核武装生じ、ヒトラー生ず。 悪の権化だ。 歴史が証明している。 だからこその今が在るのだ。 人類を誤魔化し、保身在るのみだ。 場合によっては、核戦争必定である。 アメリカは即刻、日本から撤退すべきである。 日本に核の傘は不要である。 若し、日本が再び被爆する様な事が生じれば、世界は滅亡するであ ろう。不昧因果である。 日本人が地上非核と沖縄返還に対する確たる態度で、率先して世 界団結し、アメリカの経済戦争を阻止すべきだ。 人類の行く末は、ゴジラに為るか、神に為るかの何れかである。 ゴジラとは物的絶対者であり、神とは心的絶対者である。 人間世界は差別の二元相対(例えば、強弱、勝ち負け、大小、上下、 賢愚、高低等)世界であり、自ずから、強、勝、大、上、賢、高を志向 する。 然るに、何れの場合も絶対者は実在しない。 何と為れば、宇宙は有限にして無常なるが故である。 神もゴジラも絶対的なる存在に非ず、相対的なるものに過ぎない。 しかし、刹那の「悟り」は存在其のもの、時間其のものの変革である が故に、此処に、身の進化の延長線上にある心の進化を遂げるの である。 斯様に、此の心の進化とは存在のみならず、自ずから時間的変革、 つまり「悟り」体験に拠る、刹那の存在であり、時間である。 否、此の刹那為るものは、時空を超越する、つまり人間の(無)意識 では把握し得ない世界、つまり「宇宙(生命)の本質」(仏性)を開示す る処の体験である。 其れは悟り、解脱、涅槃を通して近づき、触れ、其のものと為り得る 刹那なのである。 此の本質、即ち刹那(の生滅)こそ、動物から人類、そして仏菩薩へ と命を転了、進化せ使むるものであり、涅槃に至りては、其れが徹 底して浸透するのみである。 ≪ 生きるという事 ≫ 新幹線殺傷事件は、 人を二人殺したら、生涯安心して面倒を見てもらえると云う、 善悪の無い、人を思わない我欲を貫いた達成感だけであった。 人類史上に於いて此れ迄に、不可避なる境遇に縁りて止む無く、 どれだけの人類が餓死せざるを得なかったかを思えば、 裁判官の判決を聞いて、「二人殺せば、生涯不安無く生きて往ける」 と被告が目的完璧達成感から、法廷で万歳三唱したと云う。 判決の未熟さ、不完全さが暴露される結果と為った。 小生でも昔、「坐禅をする為には、刑務所に入ってでも、そうありたい ものだ」と思った事も在ったが、 坐禅はしないが、「生涯不安無く見て貰える」と云う目的である。 人を殺して迄の、生きる事からの逃避である。 こんな不条理を招来する法律は在っては為らない。 法と云うものは「生きるという事」を世間の人々に伝え得る様なもの でなければならない。 吾が新道元宗は前人未到の 令和宗として世界人類を牽引し、 世界人類をして幸福・平和に導く 宇宙に唯一の永遠なる恒常普遍の 真理である。 入口は坐禅(行)、出口は其れが (真)中道を経て孵化した働き、 「人を生(活)かす」である。 小生にとって 「人を生(活)かす」とは 本に恥じない事であります 其れが小生の師であります 仮令 刑務所の中に居ようとも 仮令 此の地上に吾一人であろうとも 大晦日も 正月も 生涯厳密涅槃行は時空に係わらない 世界人類の『教え』 令和宗 宗旨 「人を生(活)かす」 に反する事(物)は 即刻 必ず 世界レベルで正されねばならない 是 国連憲章の中枢に据えるべきで ある ≪ 令和宗の意義 ≫ 一体生命とは? 生命へのアプローチには、精神的なるものでも不完全であるし、 かと云って、肉体的なるものでも為し得ないのである。 要するに、精神と身体とが一体と為った一生命体としてアプローチす るのでなければ、生命其のものには迫り得ないのである。 其れこそ禅定と言われるものである。 つまり、身心を其の儘に定めて、其処に宇宙からの本質を受け取る。 是が宇宙(生命)の本質を悟る唯一為る正道である。 生命へのアプローチに種々在り。 学問的には、天文学、物理学、生物学、宗教、哲学、芸術等々。 更には、政治、主義主張も含めて様々であったが、 何れも其れに対する明確なる正解は得られては居らず、得られたも のは地獄か或いは混沌たる闇に過ぎない。 そもそも生命を統治するには、宇宙の存在の裡(うち)に生かされて いる人類である処、つまり宇宙から切り離されたものではない。 つまり、宇宙(生命)の本質に基づいた遣り方でなければ世界人類を して幸福平和には至り得ないのである。 其れには、世界の指導者たる者は宇宙(生命)の本質を弁(わきま) えた者でなければ不可能である。 人間と云う者は宇宙(生命)の本質を弁えた大涅槃(解脱)人以外は 絶対的生活でない相対的生命と言わざるを得ない。 悲しからずや、白鳥は空の青、海の青にも染まず漂う。 是が人間の宿命であり、悲しさである。 故に、人間と云う者は悟り、そして解脱し、涅槃に至らずには絶対的 存在には為り得ないのである。 悲しからずや、宇宙に唯一吾が令和宗のみが、絶対的存在で在り 得るのである。 此の令和宗を信ずる事に拠りて自由を得る事が出来る。 是は如何なる束縛も在り得ない。 唯、信ずる者が救われるだけである。 超、宗教、科学、主義主張為る真理に過ぎない。 信は人類諸能力中最も貴重なる働きである。 ≪ 令和宗、為る迄 ≫ 人類史上、今日に至る迄、人類が至り得た教訓、智慧は総て小生の 「人を生(活)かす」に結実されるのである。 嘗て、其処に至る迄の正苦が及び得なかったが為也。 小生四十余年来の刻苦精励、不惜身命の正苦に拠りて初めて至り 得たものである。 釈尊に至る迄の通戒偈の諸悪莫作、修善奉行の善悪為るものは、 時・処・位に依りて相対的為るものである。 「人を生(活)かす」が絶対的に真である。 此処に於いて戦争は起こり得ないのである。 聖戦も然り。 滅私の活人行である。 然もなくば、吾等人類在り得ず。 釈尊の「自利利人の法」(=自他一如)は「自生生人、自活活人の法」 である。 又、「坐禅中にも人を忘れず、捨てず、常に欲界に於いて坐禅弁道 すべし。」其の故は菩提心を生む為である。 是は、正確には坐中には自他の沙汰は無いのであって、只「人を生 (活)かせ」と云う事である。 又、其の故は「宇宙(生命)の本質」は解脱に拠りて、三毒を三善根( 施・慈・慧)に転じ、更に真中道を経て「坐」でない「人」だと覚り、「人 を生(活)かす」と云う本質其のものに、つまり涅槃行に為り得た故で ある。 カースト制度然り、六道(趣)然り。 地獄も天上も、皆平等に「本質其のもの」と為り得るが故也。 諸悪莫作、修善奉行。又不殺生でなく、例えば植物に花実を咲かす が如く、進化の方向性(目的)に直結する積極性、「人を生(活)かせ 」である。 不殺生戒には、自然災害、無視、無関心、抑圧、脅し、強制等が伴 う。「人を生(活)かす」が無い。「人を生(活)かす」でなければならない。 「宇宙(生命)の本質」(仏性)は永遠なる恒常普遍の真理であり、 解脱に拠りて、其の本質は三善根(施・慈・慧)として生(活)かされ、 真中道に拠りて「人を生(活)かす」が定理として生まれたのである。 米・中共に「人を生(活)かす」が無い。「人を生(活)かせ」でなければ 為らない。 米・中共に宇宙(生命)の真理、定理に叛(そむ)いている。 「人を生(活)かせ」にして初めて、自然災害、核武装、人種差別等の 諸悪は起こり得ないのである。 人生の目的は「人を生(活)かす」である。 神然り。仏然り。道然り。 万法、総て「人を生(活)かす」に往き着くのである。 何と為れば、「宇宙(生命)の本質」為るが故也。 小生四十余年来の刻苦精励、不惜身命の正苦に拠りて初めて至り 得たものである。 人類の三毒害の根源である貪(瞋、癡)を、坐禅の功徳、悟り、解脱、 そして宇宙(生命)の本質為る三善根(施・慈・慧)の働きに基づいて 、やがて究極の真中道、そして涅槃に拠りて転了し得た、仏・神・道 の母体の結実である処の「人を生(活)かす」と云う永遠なる恒常普 遍の真理に至り得たのである。 斯様に、令和宗は超宗教、超科学為る、宇宙の究極の真理を其の 宗旨と為し、何時でも、何処でも、誰にでも開かれて居るものである。 小生知る限り男尊女卑の翳り存せず 男女間に優劣を認めるべからず ゆめ日本天皇制に男女不平等を 起こす勿れ 垂範以て男女平等為るべし ≪ 日韓問題に関して ≫ 小生の右に出る者は居ない。 此処に厳密行(=人を活かす)を生んで往くのだ。 今後は、韓国が真に吾等が宇宙則に、自らが機能し往く。 愈々、本物(=宇宙則)に為る段階(=一歩)に入ったのである。 何卒、韓国自体が、宇宙則の一歩を歩み始める地球則の一歩を。 小生も生まれ変わりました。 「世界人類を生(活)かす」には、如何に在らねばならないか。 徴用工訴訟問題を解決する事か? 否、米朝に依りて、地上非核化を実現する事である。 其の方向へ一丸と為る事だ。 個人的賠償の問題ではない。 其の為に、個人的賠償問題は放棄すべきだ。 個人的、過去の賠償金請求の問題は、既に放棄し、地上非核化に 邁進すべきである。 況(ま)してや、世界中には、不可避的に不運にも見放され、見捨て られ、餓死し往く多くの人々を尻目に。 若し、其の立場で在るならば、世界中で救済し往くであろう。 聖戦に依る神では、世界を改革する事は出来ない。 悟り、解脱、涅槃に拠りて得た本質が世界を根本的に変革する。 坐禅や、坐禅で悟っ(身心脱落し)ただけでは、聖戦に依る神よりは 優れてはいるが、世界を改革する力及ばず。 更に、正法苦行に拠りて解脱し、釈尊不戯論(八大人覚の最終段階) に在る如く、更に、其れに徹し得る処に初めて変革する力を得る。 何と為れば、其れが真理為る「宇宙(生命)の本質」其のものである からだ。 ≪ 真の歓喜び ≫ 究竟、我独り。 天にも、地にも。 天上天下唯我独存であります。 無限宇宙の只中に、吾の自覚(=意識)在るのみ。 自己を依り処とし、自己を信ずる以外は無い訳であります。 小生が初めて身心脱落して悟り、宇宙の無限なる時間と空間に放り 出された時の体験であります。 本気とは其の事に他ならない。 最初は形(身)から入って往くが、最終的には、こころと為る。 進化の過程と同様だ。 永遠なる恒常普遍の真理である、宇宙(生命)の本質其のものに為 って往く。 そして、其のものに為って居る時には、其の自覚は無い。判らない。 若し、此の世に歓喜びが在るとすれば、 其れは坐禅の功徳と、其れに必然的に招来する悟りであり、人生に 悟道の在る事を知る事である。 何事にも代え得ないものである。 そして、更に其れに拠りて間違い無く「人を生(活)かし」得ている自己 の確かさに安堵する事である。 真の歓喜びとは、より深き安楽、安堵、安心から生ずるものである。 本質に於いて三善根(施・慈・慧)が生ずる本源為る、其の歓喜び以 外無いのである。 其の無上の歓喜びは、世界人類一人残らず万人に具わっている(= 本具仏性)のである。 然るに、人は其の幸せを青い鳥の如く、外に追い求め往き、自己を 見失って迷妄裡に死に往くのが人間である。 丁度、太陽の恩恵であり、其れに与(あずか)らないものは無きが如 し。 生死は其の外の事で、一大事であり、菩提心を掻き立てる源とは為 り得る。 死ぬる時節には死ぬがよく候。(良寛) 生死の中に佛あれば生死無し 但生死即ち涅槃と心得て 生死として厭うべきも無く 涅槃として欣うべきも無き時 此の時初めて生死を離るる分在り (『正法眼蔵(生死)』(道元禅師)) ≪ 向上一路門 と 向下一路門 ≫ 人類史上に於いて、5500年程前に釈尊の母体であるバラモン文化 の源であるインダス文明に於いて瞑想が営まれた。 其処から釈尊のヨーガは解脱に拠りて禅定へと完成し、更なる高み へ不戯論為る禅定と其の智慧に拠りて布教、修行されたのである。 生活に於ける日常性から、そうではない、内的の修まりの付かない 部分からの生きると云う事、寧ろ其れが真であったのであるが、其 の大疑が大人に為って、日常性から真理を打ち出したのである。 日常性からの向上一路に於ける精神的過程(真中道に至る迄の)か ら向下一路への反転は其の逆戻りの過程を経る事と為るのである。 矢張り、帰り(=涅槃行)は往き(=解脱行)の如く単純ではない。 世間の所謂多様性に対しなければならないのである。 要するに、坐禅以前の大疑の中に埋没して往かねばならないので ある。つまり、小さく大きくなって往かねばならない。 厳密に生(活)かすと云う事。 過去に於いては全く及び得なかった事を厳密に施して往く。 本質は斯うなのだ、と真実を。 刹那、刹那の厳密さの命懸けである。 坐禅(=悟り、解脱、涅槃)が生んだ事、厳密に「人を生(活)かす」と 云う、生きる事の精髄を明らかに証し以て往くのである。 道とは、往く為だけに在るのでなく、打ち上げたロケットが最大の噴 射力で地上を離れ、大気圏外へ出離し、行方不明に為ってしまうの でなく、往ったら必ず出発点の元に戻る為にあるのである。 必ず往還にして初めて道為るべきなのだと、其の困難さ、往路には 宇宙(生命)の本質からの証しが在ったが、還路に於いては0(ゼロ) からの「学び」が無ければ為し得ない。往路の原点同様、還路の原点 為る心構え無くしては為し得ないのである。 来し方を生かしての二十四時間仏作仏行ならぬ、二十四時間刹那 有効活用の正念相続である。 還路には其の困難さが在ったのだと気付いた。 二十四時間三百六十五日生涯、常に世界と共に進化し往くのであ る。 ≪ 不 昧 因 果 ≫ 世の中と云うものは絶対に微塵も誤魔化す事は出来ないのである。 人を誤魔化せても、自心を欺く事は出来ない。 其の人の本心通りにしか、世の中は決着が付かないのである。 此れを不昧因果と云う。 自心に超科学的為る様に、運命は進化せられるのである。 故に人類は向上しない限り、地獄に落ちる事は必定。 真に立派に為らない限り、誤魔化し様も無く下落し往く。 然るに、悲しいかな、人は皆、解脱出来るものではない。 故に、其れへの信無くんば世界は地獄から出る事は出来ないので ある。 誤魔化し様が無い。 身をどんなに働かせても全く、其れには関与し得ない。 方向違いだ。 此の道位、心の超科学的なるものは無いのである。 人間は向上すればするだけ、刹那に至れば至る程に微妙甚深に 真理(実)が見えて来る。 ≪ 令和宗の本意 ≫ 世の中の大部分の人間は、未だ我欲を募らせるばかりで、其れで 生涯を閉じてしまう。 苦行にも至り得ていない。 況(ま)してや、苦行からの結論も得ていない。 仮令、結論は得られても、其の実践が為されていない。 況してや、其の実践を為したとしても、其の結論には至り得ていない。 以下は、其処からのものである。 「人を生(活)かす」本体は自己である。 自己とは厳密行である。 小生にとって、「人を生(活)かす」とは、取敢えず、主体は著作(製本) である。 本を生み出す主体は自己である。 厳密行無くして「人を生(活)かす」は無い。 「人を生(活)かす」無くして厳密行無し。 然るに、「人を生(活)かす」から厳密行生まれたのか? 其れとも、厳密行から「人を生(活)かす」が生まれたのか? 始まりは何れか? 坐禅の功徳であり、悟りであり、解脱であり、そして涅槃に至って初 めて「人を生(活)かす」が生まれた。 若し、涅槃、もっと云えば真中道無ければ後厳密解脱行で、 何処迄も、恰も宇宙空間を当所(あてど)無く、只、只管(ひたすら) 仏を極めるであろう。 其れも又、「人の為」ではあるのだ。 否、其の様な消極的な祈りの様なものでなく、 積極的行為としての「人を生(活)かす」だ。 此れを生んだ母体は厳密行に他ならない。 此の厳密行無くして、「人を生(活)かす」無く、 『「行」でなく「人」だ』は生まれない。 『「行」でなく「人」だ』からは厳密行は生まれないのである。 厳密行から『「行」でなく「人」だ』である。 厳密行無くして「人」無し。否、 正確に云えば、解脱無くして「人」無し。 解脱を生む正法苦行(=千日行)無くして「人」無しである。 真中道、更に涅槃行無くして「人を生(活)かす」無しである。 遺すべきは常に行である。 厳密行の母体は坐禅の功徳であり、悟りである。 直接的には真中道であるのだが。 厳密行を疎かにしては「人」は在り得ない。 そもそも、釈尊が成道(=解脱為る初めての悟り)する以前の、釈尊 の母体であったバラモンの伝統に於ける究極の頭陀行の威儀として の但坐不臥には未だ「悟り」体験は無かったのであり、菩提心在れど も、個人的な領域であったもの(=坐禅の功徳、悟り)で、未だ諸仏 の師たる文殊菩薩の大解脱人には至り得てはいないのである。 要するに、解脱以前の正法苦行(=千日行)には「人を生(活)かす」 体の地球レベルの拡がりのあるものには至り得ていないのである。 厳密行とは究極的には(生涯)後厳密千日涅槃行である。 是は他でもない。 8:00~11:00 朝課(食) 11:00~4:30 托鉢 6:00~8:00 晩課(食) 11:00~2:00 睡眠 是等以外はテレビからの情報(必要最小限の)を得る事とネット作成。 是は機械的でなく、心で律し以て往くものだ。 誰でも出来る事であるが、是を刹那に至る迄、命懸けで為すのみ。 『願わくば、「人を生(活)かし」つつ、 誰でも出来る、当たり前の事を、刹那に至る迄本気で、命懸けで 遣る』だけである。 是以外には無いのである。 政治家の使命は、「人に生(活)きて」頂く為に、物質的、精神的基本 的条件を確保する為の機関たり得る事である。 是が、永遠なる恒常普遍の「世界人類の教え」であり、 是を以って、令和宗とするものである。 是、宇宙(生命)の本質、其のものであり、唯一坐禅に拠って至り得 る処のものである。 此の真理を素直に聞ける人が、果たして地上に何人居るか? 其れが人類の未来を決定付けるのである。 ≪ 不淫戒に関して ≫ 真に世界人類の幸福と平和の為に生きる人にとりては、 最も望ましい在り様である。(釈尊に証されている。) 最終的には、自ずから不淫戒は当然な事と言っても過言ではない。 真徹すれば、夢中にも、又精神的淫快に於いても撥無する事と為る 又、其れ位の真剣さが望ましい事は言う迄も無い。 精神的淫快に対して、要は、取り合わず、放任すれば何等問題を生 じないと云うだけの話である。 性欲のみならず、金欲に対しても同様である。 鐵漢 最後の真価 厳密行 吾師は脳梗塞で、六人部屋で寝たきりにも拘わらず、 毎早朝四時には必ず、病床で座った儘、衣を纏(まと)われ、 独り、早朝坐禅を欠かされなかったそうです。 宇宙(生命)の本質為りて、此れが 若し世界に受け入れられないとした ら、其れだけの三毒(貪・瞋・癡)害 を正さねばならないと云う事である。 日本人が、真為る本質(=令和宗)を 基にすれば、世界の範足るべし。 最終的、生涯厳密千日涅槃行は機械的にでなく、心で律し以て往く ものだ。 但し、言葉は本質的禅学として、 宇宙(生命)の本質にアプローチし、其の理法を説く。 科学的手法で望めば、其れは科学と云う学問を為す。 然るに、小生に於いては其の本質に在る吾として、自己を忘れる。 其処に、人類からは引き出せないもの、其の生命をして吾等を甘露 に潤すのである。 斯うした坐禅の功徳の裡に、時至れば自ずから悟りが訪れる。 此れが、軌道に乗った心の進化の出発点である。 此の大脳新皮質に拠る、種々の生きると云う事への手立て、能力に も拘らず、そうした一切の作為を捨てて、自己を忘れるのである。 個我を捨てるからこそ、其処に万法(=此の世の一切)の働きが自己 と云う媒体を通して、自己に露呈するのである。 道元禅師は「万法に証せられる」と言われた。 そう云う訳で、物利は心宝には及ばない。 身の進化は、細胞の核内の染色体を構成する塩基配列の微細な 設計図に拠りて決定付けられているが、 一方、人類に特有な大脳新皮質に依る心の進化も、本質的禅学とし て宇宙(生命)史の全容を永遠なる恒常普遍の真理に基づいて解明 する事が出来るのである。 斯様な訳で、此の本質的禅学為るものは、バラモンの伝統の托鉢、 或いは、何らかの生活手段に依りて自活して、人類の諸能力を棄て た処が出発点と為るが故に、人類の諸能力とは一線を画す超宗教 的、超能力的為るものである。 令和宗は、 宇宙(生命)(=万法)の頂に位するものである。 他の一切の追随を許さざるものである。 若し、在るとすれば唯、小生の本質的禅学以外には在り得ない。 宇宙(生命)の本質、其のものである。 DNAに非ず。大脳新皮質に非ず。 唯、存在と時間以前の対立の無い生滅、生滅と繰り返す刹那、刹那 其のものであるのみである。 大脳新皮質に依りて、宗教、学問、芸術等を生んだが、 是等に依りて、大脳新皮質の母体、つまり宗教、学問、芸術等の根源 為るものを把握し得ないのは当然である。 又、精神以前の身体に依りて精神迄を掌握し得ないのも、又是当然 である。 大脳新皮質の母体為る大脳新皮質以前のものを把握するには、 大脳新皮質に拠る働きを忘れる処にしか為し得ないのである。 万法、一切の根源を(に)把握(復帰)するには、一切から解放されて 初めて至り得るものである。 是が、唯一坐禅為るものである。 坐禅は自己を忘れる処から入り、やがて悟り、そして解脱する。 解脱したら、「人を忘れず。人を棄てず。」である。 此処に於いて、究竟、「人を生(活)かす」に転了し、其の「坐」を「人」に 譲るのである。 毫釐も疑えば、道を誤り、地獄往きである。 此処で、「坐」を「人」に転了する、即ち坐禅を行ぜずに、「人を生(活) かす」とは、恰も、地表の大気圏を脱出して、圏外より「人を生(活)か す」べく、自由に動き回る為に、酸素ボンベを棄てて、自らの身体の 順応性に一任して、二十四時間、刹那、刹那に生(活)きている様な ものである。 身は必ず心に牽引され、其の身体能力は既に心に生(活)かされて 居る。 身は心に従う。 身で心を支配するのではない。 「宇宙(生命)の本質」とは、其の様な超科学的為るものであり、 其れが真理である。 ≪ 光と影、二元論の往く末 ≫ 男女平等でなければならない訳。 世の中には、男と女が同数等しく限定されているのである。 男だけでも駄目だし、女だけでも駄目なのだ。 男女何れか一方を欠かすという事は仮の立場であって、本質的なも のではない。 本質に打ち勝ち、本質を受け入れ、本質を生(活)かす迄の苦労が 不可欠である。 若し、異論を唱えるものが居たとしたら、 其れは、貴方の考えが未だ未熟であるからだ、と。 男女平等への異論には何等の正当性も妥当性も無い、時・処・位に 基づく空虚な仮の立場に過ぎないのであって、将来、必ず不条理な 問題が生じる。 常に略(ほぼ)同数存在すると云う事実こそ、頭脳では如何とも為し 得ない男女平等の根拠である。 同様に、例えば、光と影。 皆、光を好む。 然るに、影在っての光だ。光在っての影だ。 光だけ、影だけと云うのは実在しない。 光と影の中に人生が在る。 一方を採って、一方を棄てると云うのは在り得ない事である。 2500年前の古代の釈尊でさえも、 比丘には250、比丘尼には348の具足戒を課して迄、 男女平等の価値を置いた。 人類は此の釈尊の真実を範模と為すべし。 況(ま)してや、進化の究竟せる現代に於いては言う迄も無い事であ る。 全て同様である。唯、徹し得ていないと云うだけの事である。 核武装せずに、智慧で以って世界人類が幸福・平和に遣って往ける 迄の骨折り、労苦こそが人類最上の汗なのだ。 此の汗を無(軽)視し、無駄骨折りと為し、捨てる処に人類の未熟さ、 不完全さが在る。 其の汗を流すのが、未熟さ、不完全さではないのである。 何処迄も、其処に本気で取り組む事が真実なる生き方である。 此の正道を脱線、逸脱せずに其の真の労苦を為さねばならない。 其れ以外に為すべき事は無いのである。 世界中の諸悪に対して、 そうした短絡思考しない。逃げない。 (力と数量の、智慧為らぬ頭脳に依りて)安易な道を選ばない。 真実を受け入れて、我見(損得、好き嫌い等)に走らず。 急がば回れ、正道を歩むべし。 先ずは、真理への弁(わきま)え、信。そして何処迄も其れに徹し切る 事である。 人類は此の真理(実)を歪めようとするのでなくて、此の真実に対して 積極的に正しく、何処迄も骨を折って往く、此の労苦、骨折りに取組 む事、是が人類の骨髄と為り、核と為りてこそ、此処に人類の真価 がある。 是以外には無い。 食事時以外のTVは ネット用に厳密限定 ≪ 正法苦行の意義 ≫ 托鉢自活に拠る正法苦行(=初厳密千日解脱行)を為すだけの菩提 心(=本気度)無くして仏道の核心とも云うべき解脱には及び得ない のであります。 唯一、現代日本に於いてのみ、是が可能である。 内外の志在る者であるならば、誰でも、 日本唯一の托鉢と坐禅の御誕生寺専門僧堂等にて、其の下地を 作って、日本国中何処でも、本気度一つで遣って往ける。 小生にとりては、其れはいとも易き、又好ましき、喜ばしきものであり、 寧ろ、為さない方が不思議な位である。 人間の心の域(=一線)と云うものが斯くも人間を二元論に規定してし まうものかと思われる程である。 尤(もっと)も、小生以前には無かったものであるだけに、其れも已む を得ぬ事かもしれないが、其れだけに、却(かえ)って残念である。 小生で40歳で3年間を終えたが、30歳以前ならばもっと好ましいも のであるだろう。 早い程宜しい。 解脱(悟り)は行中の張り詰めている時でなく、行を終えた後のホッ としている時等に訪れるものである。 今こそ、人類の大転換期であろう。 本質からの世界の指導者を生むべく、彼等に期待され得る処は 無限である。 小生、前年中に欠落した中程の88ページのホームページの復元を 終える予定でありましたが、今3~4年程前のものでないかと思いま すが、極力、其の儘を復元して居ります。 ≪ 教育と云う事 ≫ 真の教育無くして、世界人類の幸福と平和は在り得ない。 世界人類の幸福と平和在る処には、必ず真為る教育が在る。 教育無くして、人間の未熟さ、不完全さを導く事は不可能である。 人類史上、果たして真為る教育についての言及が為されたか? 是迄、世界中に様々な思想家、哲学者、宗教家、指導者等に真為る 教育についての明確為るものが在り得たであろうか? 是は極めて重大な問題であるが、其の答えは否である。 是は、世界が未だ闇に閉ざされていると云う事の証しに過ぎない。 最近、世界に普遍的なる道徳為るものが試みられた様であるが、 参考にすべき人類史に過ぎないもので、教育と言えるものではない。 真の教育の根底は、 小生は中学から高校への過渡期に始まった不登校と放浪である。 社会通念に反する行為だ。 其の原因とも為るべきもの、 正に、此処にこそ教育の存在意義が在るのである。 つまり、世界人類の幸福と平和への糸口と為り得るものである。 是は他でもない、菩提心である。 真の教育とは、 世間的欲求(性欲、金欲、食欲、睡眠欲、名誉欲等)に関する事でも ない。 又、学問的探究心、知識欲、興味等でもない。 又、芸術、スポーツ等の感動でもない。 唯一、宗教的なる菩提(道)心である。 是のみが唯一の真為る教育の可能性である。 しかし、悟りの無い一般世間に其の答えが在る訳は無いので在る。 其の往き付く処が坐禅である。 そして、悟り、解脱、涅槃。 先ず、菩提(道)心、それから坐禅である。 然るに、西洋は神が信仰の対象であって、 求道から修行、悟りへの道は無い。 但し、釈尊の影響に依りて今猶修道院は残ってはいるが、神への信 仰である。 社会通念に反する、不登校や放浪等に対する良薬は菩提(道)心に 処するものである。 菩提心の先に在る心である。 学問や芸術的感動やスポーツではない。 是等社会的通念の対極に位するものである。 教育の枢軸は坐禅でなければ為らないのである。 坐禅に拠りて悟り等々に至るのである。 悟り、解脱、涅槃から得られる、透徹した真理(実)こそが教育の精髄 と為らねばならない。 其の対象と為るものは、なまじ社会的為らざる者である。 教育の枢軸に悟り、解脱、涅槃がなければならないのである。 真為る教育者とは僧侶に他ならない。 政治の中枢に、僧侶に依る文科省を据え置くべきである。 嘗て、吾師は若い時、支援者も在って東大に入学して宗教大臣に為 ろうと思って居られたが、其の方が亡くなられて断念したそうです。 釈尊正法の根源は「宇宙(生命)の 本質」(仏性)の「人を生(活)かす」心 である。 未だに核武装を放棄し得ないのは 北朝に非ず、当米一国也。 恥を知るべし。地上非核化為らぬは 当米一国の為さぬ心也けり。 対中東現米国は9.11以降の再現。 当米一国の世界人類に対する慚恥 無きは諸の禽獣と相異なる事無し。 ≪ 本質の刹那の不昧因果 ≫ 答えを求めて、探して遣って居るのではない。 唯、無心で遣って居る。 かるが故に、真理(実)が飛び込んで来る。 唯、其の事実が在るだけ。 此の事実が真実である。 真実、真理が飛び込んで来る。 上昇が下降へ反転である。 宇宙(生命)の本質が無心なる吾に、其の真相を開示したのである。 宇宙(生命)は無心に、其の正体を明かすのである。 科学的、芸術的等、 無心には科学(芸術)する心は微塵も無いのである。 正法苦行以外、如何に究(極)めても、其の真理(実)に至る事は出 来ないのである。 悟り、解脱し、そして解脱出来ない、人をして解脱の終わり、つまり 本質其のものの働きである涅槃(=人を生(活)かす)行に導くので ある。 此の万法(=精神(物質)的一切、真理)に明らかに証せられる。 道元禅師『正法眼蔵(現成公案)』に、 仏道を習うと云うは自己を習う也。 自己を習うと云うは自己を忘れる也。 自己を忘れると云うは万法に証せられる也。 万法に証せられると云うは自己の身心、 及び他己の身心をして脱落せ使むる也。 万法(まんぼう)に証せられるに三つ在り、 一、悟り(身心脱落等) 二、解脱 三、涅槃 是等三法、全く異なる体験であるが、要するに、其の様に明らかに 気付か(覚醒)されるのである。 総て刹那であるが、其の一刹那は時空を超えて、無限の時間、無限 の空間に及ぶのである。 刹那為る無限、無限為る刹那である。 宇宙(生命)が人間の意識上に、斯くの如くに、其の真相を証し往くと 云う事を知る事は、実に不可思議な事である。 只、刹那の体験在るのみである。 此の宇宙(生命)の本質が、現実世界に如何に拘わるべきであるの か? 否、拘わらねば為らないのか? 宇宙(生命)が吾に語りしは、 「人を生(活)かす」である。 然るに、世界の指導者は「人を殺す」。 果たして、神なれども聖戦、 「殺人」をして生きる。 何と為れば、過去から導き出されたが故である。 過去は捨てよ。 自今已後である。 過去に繋縛(けばく)されて未来を失う。 未来を生(活)かすには、即刻真理に基づくのみ。 『恩愛の心肝を悩ます者は、皆是生死囚獄の繋縛たり。』 繋縛を解くを解脱と云う。 大迦葉曰く、 「発心と畢竟(ひっきょう、究極的悟り)とは二つ別無し。斯くの如き 二心に於いて、前の心難し。自ら未だ度する事を得ずして、先ず他 を度す。此の故に吾初発心を礼す。」と大迦葉は釈尊の初発心を 賞賛した。 発心は闇中に出路を見出すと云う、嘗ての大迦葉も礼する程のもの であり、畢竟は、恰も、宇宙船が大気圏外から圏内へ光明を放って、 燃え尽きながら帰還するが如く、圏外の遊泳自体が生命を超えたる 虚無に過ぎない事を悟り、究極的仏果「人を生(活)かす」を地上に齎 すと云う出身の活路に至り得たのである。 有から空無を経て、虚無への第一歩も、又、空無から虚無即虚無か ら空無、更に有への歩みも共に不惜身命の全身全霊の生涯在りて 初めて可能と為る事である。 小生に於いて、最後身釈尊滅後2500年にして初めて人類愛の必然 的根拠を宇宙より超科学的に、人類史上、瞑想に端を発する約 5500年の心の進化を経て明確に実証されたのである。 仏の先も神同様虚無に至る。 虚無為る人間間に在るものは三毒(貪・瞋・癡)のみである。 かるが故に、聖戦に至らざるを得ないのである。 肝心要は、 其の先、つまり神仏の先が人間であると云う真実。 此処に、三毒の結果癡愚に至らない、三善根(施・慈・慧)の智慧の 根拠が必然的に生まれ、人類、大脳新皮質の真価が此れから生み 出されざるを得ないのである。 其処は未だ、神仏にも拘らず、否神仏為るが故に、殆ど人類の未開 発為る領域で、自今已後の未開為る進化の源泉である。 刹那故に因果の道理歴然たり 議員選挙投票拒否も又、生涯独身を 貫く事等同様、優るとも劣らぬ立派な 自己の価値観に基づく選択肢である。 寧ろ、国民は総て、時流に流されぬ、 一層の厳正なる鑑識眼に拠りて、 選挙と云うものを考慮すべきである。 世の中、産めよ、増やせよ の空虚ではない。 少欲、知足の充実である。 人命に対するヒトラー優生学的癡愚 為る判断が、現日本に於いても、 当然の如く罷り通る時代である。 「生きる」に「生きる」は無い。 「生(活)かす」処に「生きる」は在る。 太陽に明らかである。 大宇宙と云えども、 此の「生(活)かす」には、 大宇宙も及び得ない。 其れ以外の何者も無いからだ。 2300年前、中国、戦国時代、荀子の『荀子』に、 性悪説であった荀子は、「学不可以已」(学は以て已(や)むべからず) と、(生涯学ぶ事をやむべからず)と説き、又、 『青は藍より出でて藍よりも青し』。「出藍の誉れ」を説いた。 其の師を超え、更に道を開き往きてこそ真の報恩である。 環境が厳しい程、自ずから人間は鍛えられる。 環境が緩めば、自ずから人間も緩む。 環境に左右されず平和裡に向上する最上が日常の坐禅(行)である。 ヨーガの完成者は釈尊であり、 釈尊(=太陽)の完成者は令和宗鐵漢 である。是、真の最後身心也。 人間は三毒(貪・瞋・癡)為る存在で、此れに因りて、構築された世界 というものは、今日に於いて自ずから力支配(抑圧)国家である強( 勝)者と、不毛、最貧国家である弱(敗)者間の必然的に不可避なる 対立に直面せざるを得ないのである。 此の地上に於ける必然的に不可避なる対立を生んだ三毒(貪・瞋・ 癡)に随伴する三毒害為る環境破壊に因る激甚自然災害は人類を 破滅に至ら使むべき喫緊の最重大課題と為って居るのである。 此れ等の今日の人類が直面する人類史上初の最悪なる状態に陥ら 使めた人類悪の根源為る三毒(貪・瞋・癡)害を回避するには、図ら ずも今日、古代釈尊以前からの人類の叡智に依りて、釈尊以来の 小生の「宇宙(生命)の本質」(仏性)を悟り、解脱して、三毒を転じた 三善根(施・慈・慧)に徹し得て、涅槃為る「人を生(活)かす」心に 転了し得た、太陽の「宇宙(生命)の本質」其のものである処の宇宙の 究極為る真の存在としての人類の「人を生(活)かす」心、此れに 地上が一丸と為りて、是迄の人類の歴史に終止符を打つべく、生ま れ変わる事に拠りて初めて解決への糸口と為るのである。 太陽は自ずから燃えて光明を放ち、 周りを育て、生(活)かす。 最期は自爆し、周辺に、元のガスと為りて、 多くの星を生む元を為すのである。 我々人類も太陽の如く、其の菩提心に拠りて 「人を生(活)かす」。 是、一切の究極也。 大宇宙の極みである。 人類の「人を生(活)かす」心。 是が万法の頂点である。 此の心に及び得る者は無い。 宇宙の至極の終極也。 如何なる事(物)も 此処に往き着く迄のもの也。 我々人類が生まれる迄には、 斯うした、気の遠くなる程の宇宙の営みが在ったのであり、 其れに基づいて我々が在る。 そうして、50年間程の吾が身心のプロセスに依りて、 其の終極に「人を生(活)かす」に至ったのである。 此れは、地上を潤し、 そして、最終的にはガスと為る。 然るに、此の終極は 地上人類が果てる迄、消える事は無い。 宇宙空間の何処にか、此の究極に至り得たか? 否、其れは問題ではない。 要は、此の地上の、唯、此の現実以外には 何も存在しないのである。 此れをして、令和と称するものである。 小生は釈尊を完成せ使めたが、 小生を完成して下さる人は、 新道元(=令和)宗、鉄牛寺本堂千手観音菩薩の、 坐禅堂に安置せる「諸仏の師」文殊菩薩の自由為る涅槃以て 正に千手為る夫々の現場に於ける、 世界人類を構成する一国民としての内面生活であります。 人類にとって最も困難な事は、 最終的に、神及び仏への我執、つまり(我、法)執著への囚われを 離れる事である。 人類史を顧みても諸々の神為るが故の戦争であった。 見性→悟り→解脱行→解脱→解脱行→真中道(=涅槃)→涅槃行 真中道(=涅槃)に至る迄は、仏への我執は取れない。 至り得て初めて、仏より離脱するのである。 虚像為る神は言うまでも無く、解脱して仏の向上一路に於いてすら猶 そうである。 釈尊は般涅槃に臨まれて、御遺教、最後に人類に、真中道(=涅槃) 前の、身の四苦を説かれたのである。 『………當(まさ)に勤めて精進して早く解脱を求め、智慧の明を以て 。諸々の癡闇を滅すべし。世は実に危脆(きぜい)也、牢強為る者無 し。我今滅を得る事悪病を除くが如し。此れは是應(まさ)に捨つべき 罪悪の者也。仮に名付けて身と為す。老病生死の大海に没在せり。 何ぞ智者は此れを除滅する事を得る事、怨賊を殺すが如くにして、 而も歓喜せざる事あらんや。汝等比丘、常に当(まさ)に一心に出道 を勤求(ごんぐ)すべし。一切世間の動不動の法は、皆是敗壊不安の 相也。汝等且(しばら)く止みね、復(ま)た語(もの)言う事得る事勿 れ。時将(まさ)に過ぎなんと欲す。我滅度せんと欲す。是れ我が 最後の教誨(げ)する所也。』と。以後一語も発せられる事無く般涅槃 されたのである。 全ては是、身(=地獄)から出る嘘である。精神的淫快も含めて、一切 係わるべからず。 人類の一切の諸能力在れども、人間の「人を生(活)かす」心、是程、 究極為る深きものは無いのである。 淫快為るものは自己が採っているのである。 人間の美しさ、素晴らしさと云うものは、 淫快とは、一切何等の関与も無いのである。 寧ろ、其の対極に在るものである。 人類は淫快に依りて真の生命力を見失い、 生きる歓喜び、希望、生き甲斐等 生命力の素晴らしさを見失ってしまうのである。 故に、年齢を重ねる程に精神が老いてしまう。 真の精神と云うものは、不老不死であり、 只、磨かれ、進化し本質に同じ往くのみである。 ボヤケた時は、 自己を信じ、依り処とすると、 自己の解脱が出る。 すると直ぐ、落ち着く、済んでしまう。 解脱と云うのは本質其のものである事だ。 解脱しているからこそ自燈明(=自己を依り処とせよ)、即落着する。 死滅が及び得るものは、 其の人の身のみである。 其の人の本質は身を貫いて、永遠なる存在である。 少欲・知足に戦争は生じ得ない。 障害者に対する差別は、決して在ってはならない。 其の平等に対する異端は、完璧に打破しなければならない。 仮令(たとえ)不都合在りとも、人命に対する平等は、永遠に 恒常普遍なる真理である。 是は男女間にも同様。 斯う云った処に少しの汚点も残すべきではない。 差別すべきは、政界等に於ける、忖度無く、平等に施政される処で ある。 生きると云う事は効果(率)ではない。 生を受けた個々の心の意義である。 其の意義を無視する事は、自己を見捨てる事である。 ≪ 令 和 宗 (本質的禅学) ≫ 「生命」が覚醒するが「見性」であり、 「人間」 々 「悟り」 々 「悟 り」 々 「解脱」 々 「解脱」 々 「真中道(=涅槃)」 々 「涅槃」 々 「涅槃行」である。 「悟り」(=身心脱落)とは人間の三毒(貪・瞋・癡)を悟る。 「解脱」とは不三毒(不貪・不瞋・不癡)を悟る。 「真中道(=涅槃)」とは「人を生(活)かす」を悟る。 「涅槃行」とは積極的・能動的為る三善根(施・慈・慧)を悟る。 只々、本質が究極の進化を以て、 本質に覚醒し往くのみ也。 真の涅槃行とは真の世界人類の幸福と平和也。 「人を生(活)かす」の究極の真理が究め尽くされて 居りながら、世界人類の意向に叛(そむ)いて、 未だに指導者達は、世界制覇、覇権獲得、保身 、脅し等から転向し得ない。 米国至上主義と世界を代表する中国の間に 「平等に人を生(活)かす」方向性を共有しなけれ ばならない。 生涯厳密涅槃行 三時間睡眠二十一 時間絶対開眼不臥 「人を生(活)かす」行 朝課・朝食――8:00~10:00 托鉢――11:00~4:30 晩課・夕食――6:00~ 8:00 睡眠――11:00~2:00 ※ 日・祝―― 托鉢が作務と為る 仏道に於いて、最も峻厳なるものはアヌルダを失明に至ら使めた 非正法(=中道ならざる)不臥不眠行。 そして、釈尊の非正法断食苦行。 そして、正法苦行為る摩訶迦葉尊者の十二頭陀行中の但坐不臥(常 坐)である。 釈尊サンガ(僧団)に於ける、 苟(いやし)くも仏道を歩む者ならば、「天眼第一」の盲比丘アヌルダ の峻厳さを認識し、弁(わきま)え知るべきである。 吾師の打ち出された千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)より、 三(~五)時間睡眠時以外絶対開眼不臥行に及ぶべく、日々の精進 が望まれる。 吾師の御生涯に於いても、此れが最低限の基盤に為っている。 師の行為らざるだけに、開眼は比肩すべき者の無い、真徹されたも のであった。 吾が母の弁慶仁王開眼の臨終も、其の時の母にして、偽らざる正直 な心であった。 是は、本気で生きる者の、失うべからざる宝である。 終わりの無い、此れ仏道の峻厳さの中軸である。 又、仏道は峻厳さだけではないのは言うまでもない。 「坐」から「人」の真中道を得たら、 退いて、坐禅して居るのは、寧ろ恥と為る。 坐禅にて時を費しては居れない。 是は、半ば機械的に決定(けつじょう)する。 飽く迄も、「人を生(活)かし」続ける。 如何なる事情在れども、 是は仏道に於いて最も峻厳なる、 盲比丘アヌルダの絶対開眼不臥行に基づくものである。 此れを以って、令和(=新道元)宗涅槃行と称する。 但し、是は、涅槃行に徹し得る者にして、初めて為し得る処のもので ある。 人をして、虚偽、迷妄為る、前後、左右、男女等の袋小路以前の 「宇宙(生命)の本質」(仏性)に至得、覚知すべし。 小生、三十六・七歳の入行以前に、寺に居た期間は、二年程であっ たけれども、其の間、何遣って居っても、般若心経以外は、経一つ、 作法一つ、何にも覚えなかった。 只、師の道とだけは決定して居ったけれども、其れが何であるのかは 全く白紙であった。 其の本志在れども、其の「自己を生(活)かし」得るべき本道無くんば、 精神が機能しなかったのである。 其れが機能したのは、寺を出て一人に為ってからであった。 人を人足ら使めるには、如何しても一人の自覚と「宇宙(生命)の本 質」が不可欠である。 極論すれば、坐禅(行)一つ、後は自己に基づいた徹底の仕様一つ である。 初行の坐睡に拠りて、其の境涯は徹底するに至る。 ≪ 世界指導者と菩提心 ≫ 菩提心と(非)正法について、 菩提心は、人の生死を超えるものである。 菩提心だから正法なのではない。 非正法と正法との判別は、菩提心による体験以外には在り得ない。 体験に拠りて初めて知り得るものである。 最早、自己が人類の幸福と平和に役に立ち得ないと云う判断が、 只自ずから知り得るのみである。 故に、小生の初行から涅槃行に至る迄の正法苦行があったのであ る。 ≪ 正法苦行 ≫ (悟り(身心脱落)) ・初厳密千日解脱行 (解脱) ・後 々 ・後厳密解脱行 (真中道(=涅槃)) ・生涯厳密涅槃行 此処で、小生の涅槃行が最終結論か? 要するに、「人を生(活)かす」に徹し得れば、行は要らないのである。 しかし、そうではないから行が要る。 如何に「人を生(活)かし」得るか? 何処迄も、時空を超えて、其の働き如何だけの問題である。 此処で、行と云うのは戒の代名詞であり、人類、戒在ればこそ立派 に向上し得るのである。 戒無くして、向上する事は不可能である。 仮令、釈尊でさえも戒無ければ悟れなかっただろう。 釈尊は般涅槃に臨んで、唯一遺されたものは、 仏垂般涅槃略説(ぶっしはつねはんりゃくせつ)教戒経(八大人覚)で ある。 「釈尊が御臨終に唯一、戒を略説された。 若し吾世に住するとも、此の波羅提木叉(はらだいもくしゃ、釈尊集 団の戒律、別解脱)に異なる事無し。 戒は第一安穏功徳の所住所であり、智慧を生ずる。」と。 人間、戒在ればこそ、大自在(由)が在り得るのである。 戒在らばこそ、立派に、自由に「人を生(活)かし」得る。 行とは二十四時間、生涯仏作仏行なのである。 二十四時間生涯、持戒(=行)為ればこその、立派に、自由に「人を 生(活)かし」得るのである。 生涯、戒無き人間は、生涯堕落せざるを得ない。 極むれば極むる程、そうである。 唯、持戒(=行)によりて、支えられ得て居るに過ぎないのである。 此処に、最終的に托鉢自活による涅槃行が涅槃と為らざる理由が 在るのである。 然るに、一般的には、通常戒等と云う堅苦しいものは受け入れ難き ものである。 一般的には二十四時間でも、三百六十五日でも、又数年間でも、生 涯に亘る正念相続と云うものは在り得ないのである。 謂わば、あらゆる意味での任期であり、相対的為る自己の起ち位置 、在り様に過ぎないのである。 つまり少なくも表裏が在る。 しかし、真の僧侶であるならば、そうであるからこそ、僧侶と為り、 二十四時間、三百六十五日生涯、持戒、つまり行に徹するのである。 若し、そうでなければ100%、坐禅から小生の涅槃行に至る迄の 正法苦行の諸段階其のものが在り得ないのである。 表裏が持てない。二面性が無い、絶対的なる命であるからこそ、 刹那の真理で在り得るのである。 又、其れを凡聖を超えて、令和宗として説き得るのである。 「宇宙(生命)の本質」の示す、人類の進化の過程と云うものは、此 の菩提心で、釈尊の中道と小生鐵漢の真中道に拠りて、人類の 進化、人類史を初めて構成し得たのである。 令和の時代は人類史に於ける、進化の頂点に在る。 禽獣から仏ならざる菩薩行である処の涅槃行に至る迄の確かさ、毫 釐も違(たが)わぬ、有限なる二元相対でない、無限の時空を超えた 絶対的、永遠なる刹那に基づくものであるが故に、此処に因果の道 理は誤魔化し様の無い処の不昧因果なのである。 「宇宙(生命)の本質」(仏性)は、刹那を通し(介し)て初めて、人類に 開示せられるのである。 環境破壊による激甚自然災害に対する、此れ迄の負の世界遺産の 比では無い、人類の存続に係わる、明らかに地上非核化以上に差 し迫った英断が不可欠なる重大なる喫緊の課題である。 世界に、此の世界人類の幸福・平和に立脚した、大胆なる英断を下 し得る指導者が待たれるのである。 世界人類の四分の一にも及ぶ動物達の生命が、僅か数ヶ月間で失 われると云う氷河期を連想させる程の、其の異常事態が今後繰り返 し絶え間無く持続すると云う、不可逆的なる、正に現実の地上生命 の危機に瀕して、此れを打開し得る人物という者は、地上の自己至 上主義国家では、とても為し得ない規模の大問題である。 自国でなく、世界に立脚し得る、資質を持った指導者でなければ打 開し得ない大難題である。 一旦、諦めたら、其の時点で正に地獄必定である。 諦めたり、自暴自棄に為る前に、人類の為に為し得る最大限の最善 を尽くすのが智慧ある、無我為る人間の心である。 世界人類に向かって、これこれ斯うだから、仮令(たとえ)一時的損 失は容認しても、此れが将来の我々の為であるから、少数者の保 身の為に世界人類を見捨てるべきでは無いので、仮令(たとえ)一時 的損害を認受しても、正道を共に歩もうと、無私の立場で国民を導き 得たならば、世界人類は負を認受してでも、其れに共鳴する筈であ る。積極的なる其の骨折り、労苦が不可欠なのである。 人類の欲と大脳新皮質と菩提心に於いて、科学的に、大脳新皮質 では、現在の異常気象を把握、理解し得ないから、其れに対する決 断を下し得ないでは、正しき判断は及び得ない。 現状は、人類の三毒によって齎(もたら)された悪業報の結果である 事を認識した上で、世界の指導者達が菩提心に基づいて、大脳新 皮質によって英断を下す以外、現状を打開する突破口は見出し得な いのである。 宇宙(生命)の本質(=少欲.知足の無我) から遊離するが貪、諸悪の根源也。 世界の諸悪は貪の三毒(貪.瞋.癡)害也 此処が飲み込めれば世界は極楽也。 吾師は言われた、「人間さえ居なきゃ ー、世の中平和其のものだ。」と。 宗教間に対立が生じたら、 既に、其れは宗教の名に値しない。 宗教とは相互に生(活)かし合う「教え」である筈であるからだ。 若し、そうでなければ、吾が令和宗は宗教ではない。真理である。 真の神ならば聖戦を殺すだろう。 少なくも、其処迄は、人類は進化しなければならない。 そして、虚偽為る神に依存するのでなく、宇宙(生命)の本質に 目覚めなければならないのである。 今や巧妙に、且つ事なかれ主義的に在る、 正に地獄の如き環境下に在りて、 自由為る小生に於いて、 一体、生きる指針と云うものは何であろう? 二元論的に何れでもない、〇(=ゼロ、空)に回帰すべき。 安住の地である〇を見据えて生きれば宜しい。 是が一番、「人を生(活)かす」道である。 人類は大きく神の世界と悟りの世界に大別される。 他者としての神は虚偽であり、 自己としての仏菩薩は真理である。 拠って、世界に真理は悟りの世界在るのみである。 若し、二千五百年前の釈尊の成道(=解脱)無ければ、 世界に真理為るものは存在しなかった。 宇宙(生命)に真理を見た、つまり体験したのは釈尊の成道以来で ある。 是は人類の原初の宗教・哲学的能力に縁りて至り得た偶発為る、 人類史上初の人間の諸能力以前の根源に於ける体験である。 《 真 理 の 由 来 》 真理の学問的探究は東洋のバラモン文化に於いて宗教的に始まり、 哲学的考察が為され、釈尊に拠りて果たして、図らずも体験に至り 得た訳であります。 其の後、古代ギリシャに於いても哲学的に考察された。 東洋の此の旺盛なる精神的成果が間違い無く、今日の迷走する世 界を導き、航海上の北極星としての役割を担うものである。 《 真 理 と 悟 り 》 真理を定義すると、無始無終為る悟り・解脱・涅槃に依りて得られた 「宇宙(生命)の本質」から導き出された永遠の恒常普遍なるもの。 是人類史上、釈尊の成道によりて始めて得られたもので、是が西方 のアフリカ、古代エジプトに広まり、古代キリスト教に修道を生ぜ使 め、国民の半分が修道僧と為ったのである。 其れが古代ギリシャのソクラテス、プラトン、アリストテレス等に真理と して考察されたものと思われる。 真理の由来は釈尊成道にあり、 坐禅は真理に至る唯一の手段であり、 真理其のものに価値が在るのでなく、真理に拠りて「人を生(活)かす」 処に人類の真価が在るのである。 人間の諸能力は、其れ自体にではなく、其れに拠りて「人を生(活) かす」処に、其の真価が在るのである。 仏教国の、「悟り」の真実に基づいた、悪の根源為る人類の三毒(貪・ 瞋・癡)の延長線上にある死刑は必須である。 他者としての神なる虚偽に依存する世界の死刑廃止よりも、 真理を確信するが故に、明らかに其れに離反するものは、明確に死 刑に処すだけの確信がある。 虚偽に依存する不明確さ故に、其の曖昧さ故に不明確に死刑の判 断が付かざるが故の死刑廃止である。 核戦争責任者と激甚自然災害責任者は共に死刑に処すべきである。 そうすれば、世の中一変するだろう。 是等は日本の指導者の最も忌避する両頭であるが、時流に流され ない一般の日本人の特質は、世界を導くに相応(ふさわ)しき不可欠 なるものである。 《 世界人類の幸福と平和 と 刹那 》 大脳新皮質の完璧なる本質化。 是が進化及び本質化の最終段階である。 最終段階とは云えども、其の本腰の入れ方は四、五十年来のスター トからの、今に至る迄の複雑さを増す一方、単純から無限の複雑さ への際限無い、終始一貫して、何処迄も捨て身で在り続けるのみで ある。 何事も年経る毎に負い続ける。 負うとは、負けるに非ず。負うものが新たに増え続けるのみ。 負うという事の真意は、 日常の心の持ち様として、刹那、刹那に常に、刹那レベルで斯く在る べきだの、恰も精密機器の指針の如き、繊細を以って忠実に行動す るの意である。 自己を信ずるどころの、好い加減では済まされない。 精密機器の針と行動との間にズレが在っては為らない。 是位の繊細さは、初心の時でも及ばないものである。 是が最終段階の最終段階だ。 此の繊細さが進化の究極に於いて、初めて体験するものである。 進化の究極、つまり真の、信ずる自己を持てない、刹那、此れ迄の 経験と云うものの通じない刹那。 自己を信じない刹那でなければならない。 厳密と云うよりも、精密機器の針の如き刹那でなければならないと云 う事だ。 恰も地上で宇宙の彼方の宇宙船の機能を繊細にコントロールする が如きである。 現代に地上に出来上がっているものを最大限に生(活)かして、 最大限の効果を生み出し得るかの問題である。 出来上がっているものが如何なるものであろうとも、其れに基づいて 、世界を此れから改善すべく、新たに構築して往かねばならないの である。 其れ以外に生きると云う事は在り得ない。 人間の能力は、少なくとも、決して禽獣的世界に止まるものではない。 限り無く、能力を生(活)かし得るのである。 最低限、其の菩提心に生まれ変わらねばならない。 要するに、人間と云うものは刹那に至る迄宇宙(生命)が其の本質 に為る、即ち是が真の世界人類の幸福と平和であるが、其処迄進 化すべく、つまり無我為る大我に為る迄、自己と云うものを持つ刹那 も持ち得ないと云う事である。 人間と云う者は唯一「人を生(活)かす」刹那に生きると云う歓喜びを 持ち得るに尽きる。 是が真の達人である。 自国至上主義(=孤立)は 自他至上主義(=全一)に 屈服する事、無疑必定 世界人類に告ぐ、 悟り、解脱、涅槃は貪・迷妄とは 一線を画し、如何なる分別も成立し 得ない、永遠なる恒常普遍の真理。 如何なる三毒害も成立し得ない。 捨てると云う事は損失ではない。 将来の無上世界を確証するものだ。 大涅槃人の未来の洞察眼は常人の 肉眼では窺い知り得ないものだ。 故に世界人類の幸福と平和の為に 自己の命を捨てる事で無窮の至福を 得るに至るのである。 釈尊も般涅槃に、 『…智慧在る者は吾身を除滅する事 怨賊を殺すが如く(=正法苦行)にし て、而も歓喜せざる事在らんや。 …汝等且(しばら)く止みね、復た 語(もの)言う事得る事勿れ。…』 と口を閉ざされたのである。 世に自らの命を断つ者は限り無く居 れども、真理を説き得る者の如何 に無きか。 植物の進化したものが人類である事は驚嘆と共に、宇宙(生命)の 微妙甚深為る働きと、人類の意識の限界を思わないでは居れない。 科学的探究心も然る事ながら、仮に其れが解明出来たとしても、其 れは本体其のものではない。 要は、本体其のものが如何に在るべきかである。 是、人類を閉ざして憚(はばか)らない、刹那の不可思議の為す処で ある。 然るに、人類が此の刹那に至り得る事は、釈尊以来、既に確証され て居る。 我々には宇宙に対して、此の宇宙果の在り様、責務に対して無関心 では居れないのである。 学問的操作でなく、真理に基づいた在り様でなければならないので ある。 令和は日本が「宇宙(生命)の本質」 に基づいて世界人類の幸福と平和 を構築すべく、敗戦の負い目から の完全脱却を果たす時代である。 人間と云う者は農耕生活による安定が齎した、二元相対世界から生 じた受動的、他律的なものでなく、必然的に「宇宙(生命)の本質」(仏 性)からの促がし、つまり純粋に菩提心による能動的、自律(=積極) 的なる瞑想を端緒とし、有限なる者が無限なるものに対峙する処に 、必然的に生まれた悟り、是が、道具を要する他の人間諸能力以前 の人間精神の根源的体験であり、其れ故に此処から得られた正法( =正解)、つまり永遠なる恒常普遍の真理でなければ人類は全て袋 小路に入らざるを得ないのである。 今、此の必然的に「宇宙(生命)の本質」(仏性)からの促がしによる 瞑想(=坐禅)を行じて悟りを生む処の純粋なる精神性に欠けるの は、偏(ひとえ)に高度文明化に随伴する多様化社会の弊害であり、 グローバルに迷妄、執著、つまり盲目的なる貪の追求に精神が麻痺 しているからである。 多様化すればする程、人類は破滅への一路である。 人間の心と云うものは、本質的には古代から殆ど変わっていない。 寧ろ、古代の方が、現代では想像も付かない程優れている。 釈尊迄の過去七仏を通しての通戒偈である善悪は二元論である。 然るに、「宇宙(生命)の本質」(仏性)である「人を生(活)かす」は二元 論ではない。真理である。 故に「人を生(活)かす」事が善悪や多様化を超えて一義なのである。 世界に処するには、 善悪でなく、「人を生(活)かす」でなければ為らない。 其処には負の世界遺産は在り得ない。 唯、開かれた世界が在るのみである。 世界人類の幸福と平和への一路門在るのみ。 地球を生かすも殺すも、世界人類が国境を超えて、互いに平等に生( 活)かし合う事で一致団結し得るか否かに掛かっているのである。 環境問題対策も極力、厳格に堅持しつつ、団結力で生(活)かし、 援助し合うべきである。 此れからの人類の未来の可能性は、斯うした、動物的力関係でなく、 人間の真価である、刹那に及ぶ、積極的なる智慧の生(活)かし方 に依る時代である。 事実と真理とは不連続である。 褶曲ではない。断層である。 言語道断と言われる如く、経と云う物がそうで在る様に、如何に語り 尽くしても至り得ない。 然るに、其の不連続性を連続足ら使めるのが「悟り」である。 坐禅一つに為り切った処に、其の道は開かれているのである。 決定(けつじょう)成らば、「悟り」は安楽の裡(うち)に訪れる。 解脱、涅槃は只、其の延長線上であるに過ぎない。 真実(理)を信受すれば、其れだけで間違い無い。 「宇宙(生命)の本質」と一如に為りて無上道である。 「虎穴に入らずんば、虎子を得ず。」 此処で、一つ考察し措(お)くべき事が在る。 其れは、二千五百年程前の古代釈尊が、比丘に二百五十、後に比 丘尼からの請願に縁りて、比丘尼には三百四十八の具足戒を課して 、男女平等に出家を認められた事である。 何故に女性には、敢えて男性よりも百近くも多く戒を課されたのか? 女性の方が、男性よりも何に対しての貪著が強いのか? 世の中には、「花より団子」と云う諺が在る。 女性は自己の血肉を以って、此の世に新生児を育て放出するので ある。 女性は男性よりも、其の身に関わって居る分、「花より団子」、余戒を 要したのであろう。 其れだけに、其の副産物としての、LGBT等の多様化である。 然るに現代に於いては、そうした面に於いても、男性にも優とも劣ら ぬ女性も一般的に為って来た。 心の進化と共に、現今では本質的に男女平等である。 生命の役割分担によりて、性欲の女性に対して、男性は身の力であ る金欲と名誉欲の覇権争いに止まっている。 世の中は、「花より団子」と「覇権争い」に象徴される。 然るに世は常に、菩提心に基づいて正道を歩まんとする精神の進化 を遂げているのである。 宇宙(生命)の本質である真理が証明された今日、其れ等の悪習か ら脱却せんとする、正に人類史上初の人類救済の新時代に入らんと しているのである。 世界人類の幸福と平和とは真理の事に他ならない。 小生は、身の医ではなく、精神の外科医として本質的禅学に携わろ うと思う。 《「人を生(活)かす」とは「刹那自戒堅持」の事》 「人を生(活)かす」には、保身(=自己に委ねる)では適わない。 常に、厳しい方を選ばねば適わない。 「自己を生(活)かす」のは機械的に、智慧は正法苦行で正念相続出 来るが、 「人を生(活)かす」には、自己に委ねず、常に刹那、刹那の厳しい在 り様の自戒を堅持して初めて「自己を生(活)かす」レベルに正念相続 出来る。 自己は信じても、決して自己に委ねるべきではない。 「人を生(活)かす」とは「刹那自戒堅持」の事である。 善悪に非ずして「刹那自戒堅持」 に拠りて「人を生(活)かす」也。 世界人類は一人残らず平等に、 「人を生(活)かし」且「生(活)かされる」 資格を享有するのが 「宇宙(生命)の本質」である。 向上・向下の通戒 是「刹那自戒堅持」也 刹那厳密が「人を生(活)かす」源泉也 悟り・解脱・真中道・涅槃が 刹那厳密の源泉也 最後は地球を一家と する涅槃行の完結也 (今後H.P公開(=製本)を主体と為す) 今と為りては 為し得る、為すべき全てを為し尽くして 既に去りにし恩人を偲びつつ 静かなる法悦に居る 《 世界を変革する力 》 人生、獲得する処に喜びも安心(あんじん)も無い。 捨てた処にこそ、在るものは喜びと安心である。 捨てると云う事が如何に高度なる精神世界を保証するものであるか は、実に世に明確なる処である。 悟り無くんば改革無く、 改革の存在根拠は「悟り」である。 悟りが世界を変革する様に為る事が、世界人類の幸福と平和への 入口である。 悟り無くして変革在り得ない。 変革するには、最難関の悟り、解脱行、涅槃行が必須、不可欠であ る。 でなければ、全て二元相対世界を超えられない。 世界の宝は正法苦行である。 ヒトラーを生んだ体制に、根本原因が在るのである。 悪を生ませない体質が在れば、悪が生ずる筈は無いのである。 神が生んだものは、(諸神間の)差別と戦争である。 ヒトラーが生まれたのは、ヒトラーを生むべき世の趨勢(すうせい)が 為したものである。 相模原障害者施設殺傷事件も世の趨勢の然ら使むる処であり、 人種差別と肉体的、精神的障害者に対する人命への差別意識等に 根本的に係わるものであり、 人命の尊厳性に対する意識が欠如している。 仏法に於いて、解脱した人間には仏道の持戒(=十重禁戒)中、第 一は、殺す勿れ、不殺生戒である。 最後(=十重禁戒中十番目)が不謗三宝戒である。 仏道に於ける大前提である。 是は他宗教の、「教え」の為には他者を殺すのも止むを得ない神宗教 とは一線を画するものである。 解脱した人間には、他の人命、たとえ障害者であろうとも、其れは為 し得ない事である。 戒為るが故ではない。 悟り、解脱から生じる慈悲心より為し得ない。 自己の命に代えても、他の命を殺す事は決して為し得ない事なので ある。 故に、何よりも大前提としての不殺生戒である。 是は宿命である。何と為れば自他一如為るが故である。 他者の命を自己の命と同様に思う。 此処に、生きる上での大前提が在る。 何を為すにも、其処に基づいているから、施政に於いても例外では ない。 だからこそ、人命に関わる事件が生じた時には、被疑者のみならず 被疑者を生んだ環境に100%の根本原因があると云う事を再確認 しなければならない。 負の世界遺産をはじめ、全ての社会問題は其処に由来するもので ある。 「悟り」では、其の社会を変革するには不十分である。 少なくとも、「悟り」から「正法苦行」を経て「解脱」しなければ世界を変 革する力とは為り得ない。 解脱だけでも世界に浸透する変革力には不十分である。 解脱から真中道を経て涅槃に至る、つまり「人を生(活)かす」に転了 し得なければ徹底し得ない。 更に、「人を生(活)かす」に転了し得ても、其れが涅槃に留まって居 ったのでは完璧ではない。 生涯厳密涅槃行と為り得て初めて、世界人類に浸透しないでは措か ない変革力を持ち得るのである。 そう云う訳で、世界人類の幸福と平和を望むだけでは不十分である。 少なくとも其れが幸福行、平和行と云う自ずからの実践でなければ ならない。 平和行とは、死刑廃止ではないし、刑務所に入る為に二人殺して無 期懲役と為り、法廷で万歳したと云う様な不条理を生む法体制であ ってはならない。 三毒(貪・瞋・癡)に対する厳しい態度、眼差しを失ってはならない。 此の厳しさを失えば、世の中は地獄に落ちる事は不可避であり、 負の世界遺産を生む事と為るのである。 涅槃にしても涅槃行でなければ、三毒害を容認する事に為り兼ねな い。 つまり、解脱も涅槃も、(生涯)涅槃行と為りて初めて無上の世界変革 力足り得るのである。 涅槃行 (令和2年2月1日~令和5年1月31日) 三時間睡眠二十一 時間絶対開眼不臥 「人を生(活)かす」行 小生、ホームページ中半部、消失した90ページ(A4)程の復元も、 残り、後20ページ程に為りました。 三年後、全編禅門各宗管長、等々。及び国立国会図書館(東京、大 阪)へ可能な限り製本、謹呈の予定。(地方図書館で閲覧、コピー可) 《 開 眼 》 此れは人類精神史上、本質的に最も峻厳なるものであるにも拘らず、 全く顧みられて居ない。 何れかと云えば、寧ろ愚か者の如くにしか思い為されては居ない。 真実は逆に、其れ程の厳しさ為るが故である。 釈尊、御説法中アヌルダが舟を漕いだ。 釈尊は、其れを窘(たしな)められた。 アヌルダは其の時に不臥不眠行を誓ったのである。 釈尊の説得にも拘らず、彼の峻厳さに因りて不運にも失明に至った。 釈尊に「目にも保養が必要だ。」と中道を諭されて、盲比丘アヌルダ は中道を覚り、『天眼第一』と釈尊に称されたのである。 釈尊の断食苦行を凌(しの)ぐ峻厳さであった。 伝統にも極められたにも拘らず、師原田老師の廃寺、東照寺を在家 教化の為の国際参禅道場として托鉢再建された吾師はアヌルダの 其の峻厳さを以って、生涯の別解脱(=持戒)、釈尊般涅槃の御遺教 (八大人覚)とされたのである。 師は言われた。『目は常に開けておく。失明するので無い限り。』と。 此れは鉄則である。 其れは東照寺の師の御遺影とも云うべき「開眼の証し」を見れば 一目瞭然である。 永遠なる別解脱として生涯常に正念相続すべきものである。 此れをして、吾母は、臨終に於いて、自ら正に弁慶立往生の仁王眼 の如く、偽らざる心を示されたのだと思う。 然るに、八大人覚為る別解脱は道元禅師の最期の御執筆でもあっ たが、正に人類史上初めて、千日行(三時間坐睡二十四時間仏作 仏行)として本質的人類精神史を総括し採り上げられた吾師在るの みである。 少なくも仏道者であるならば、最終的にはアヌルダを吾身に引き受 け、二十四時間三百六十五日、常に斯くあるべきである。 在家に於いても、悟り、解脱其のものではないが、其れに至る為の 別解脱として、生涯に亘る最終的正念相続である処の最上為るもの である事を確信する。 人間は睡眠欲を断つ事が最も困難であるだけに、人類向上には 是を以って、永遠なる別解脱『アヌルダ』として、不可欠である事を 確信するのである。 仏道の究極の進化(本領)は、一人残らず全世界人類と一つに為る 事である。 本質から発動される行為に於いて初めて間違いが無い。 仮令、間違いの如く思われるものでありても、 何れは、必ず本質に合致するものである。 生は本来、何れは時間に関わり無く滅するものである。 故に生である。滅無き生は在り得ない。 滅為るが故の生であるのが真理である。 総てを悟りし故に間違い無いのである。 偏執が無い。 何れにも囚われないが故に真足り得るのである。 無我為る施政が無上政也。誤魔化しが無い。 人が喜ぶばかりの政は悪政である。 人を本質為ら使む政が無上政である。偽りが無い。 一切の向上門は真中道迄。 後は、涅槃行を欲界中で何処迄も、只管「人を生(活)かす」のみ。 そして、只々自己を信徹して涅槃に至る迄。 絶対に本質に違(たが)わない。 何でも、悟りの種子に為らないものは無い。 そして、全ては後、只々「人を生(活)かす」のみが残るのである。 困難を乗り越えるには金や力ではない。 只々、信徹在るのみである。 此の極楽は太陽だ。 太陽に勝てるものは無いのである。 小生が、涅槃行が涅槃に至ったのは、母が亡くなって丁度三年目、 母の三回目の正月命日であった。 「人を生(活)かす」主体に、後は、其れ迄身に付いて居ったものが、 其れに従属する。 《 涅 槃 》 超凡越聖、又凡聖一如とも云う。 凡も聖も何れも、真徹する事に拠りて、其処に必然にして、智慧を生 ずるのである。 是、明確なる自覚である。 「悟り」とは別なれども、「覚了」するのである。 釈尊の中道然り、小生の真中道然り。 凡に非ず著かず、又聖に非ず著かず。 気塊は海中下降すると、地表に上昇し、 水塊は空中上昇すると、地表に下落するが如し。 凡聖何れにも偏(かたよ)らず、凡聖間に共に円環に閉じ一円相を 為す。閉じて、整って、円成し、角が無い。 生命を宿するものは何れも球体である。 何れからも閉じている。 出しゃばらず、突っ張らず、如何に走っても不動である。 凡聖、両極を、中途半端に非ず真徹して見ればこその、(真)中道に して「本具(為る)仏性」也。 「教え」は此の円環より出る。 生命足る本質は、正に其の様なものである。 是、万人が本質的に抱く理想的為る夢である。 仏(ほとけ)と云うものは、正に拘(こだわ)りが解(ほどけ)て、本質と 為るを云う。 時空に縛られず、「人を生(活)かす」。 然れども、日課後の食事。又、其れ等前後に夫々為すべき事。 此れ等、当り前の事、此れが涅槃である。 涅槃とは、最も合理的に「人を生(活)かす」為の日常茶飯事である。 《 教書演説 》 地上70億人の人類を措いて、 此の宇宙より大切なものは無いのである。 一体誰に、此れを託すべき人物が居るであろうか? 神の信奉者か? 其れとも、米国の指導者か? 其れとも、其れ以外の誰かか? 其れに最も相応しき人物は居ないのである。 一人も。 其れでは、其れを語り得る人物は居るか? 一人も居ない。 では、如何するのか? 自己以外には居ないのである。 そう思える人物は、自己以外には居ない。 誰か、吾だと言えるものが居るならば、そう語って欲しいものだ。 小生であるならば、自分以外には居ないと言う。 では、如何する? 自分に出来る事は、唯一、語りて、 語る為の二十四時間を過ごす事だ。 生涯、誰にも恥じる事無く。 古代釈尊が般涅槃の最期に、「捨てるべき、除滅すべき罪悪為る身 と名付けられた物」は、是、当(まさ)に滅し往く吾身の事と云うよりも 寧ろ、現代に於いては、 三毒に基づく、世界中の保身、覇権、差別等の有機的構成体系機能 と受け止めるべきものであると思う。 古代釈尊在世当時の世界と云うものは遊行の届く域内での事、 謂わば、人類の原点とも云うべき世界であった。 現代の様な高度文明多様化世界とは、「身」の在り様が、古代の様に 限定された環境では、在り得ない以上、止むを得ない事であろう。 神を生むは人類也。 神が人類を生んだに非ず。 人類が実在せる神聖為るものを生み、 其れに基づいて、生きる規範と為すべきである。 人類が抱き得る、実在する神聖であるならば、其れは望ましいもの である。 其れが本物と為れば理想である。 正に悟りは、其の実践であったに他ならない。 他だ、人類の過誤は、実在せざるものを実在させる処に、真実なら ざる虚偽が在るのである。 身(貪著)は時と共に、必ず滅(ほろ)び、 心(涅槃)は時と共に、必ず生(活)きる。 故に宇宙(生命)は毫釐も違わず、 正の進化を遂行し続けているのである。 自己を評すに、 為すべき前途限り無く、共に悠々青空仰ぎ、 嘗ての欲界未成年、今や本質古希の感有り。 現代に至りては、男女間に性能差は〇(ゼロ)である。 要は人間能である。 「人を生(活)かさん」とする心である。 此れは、人類進化途上、令和を以って真理と為る。 最早、平等為るべし。 人類史上に、人種差別は速やかに撥無(はつむ、跳ね返す)し、 汚点を残すべからず。 《 諸悪の根源 貪 》 我欲の結合体為る国家群に於ける、国家我系総体に拠りて統括さ れて居る、此の地上は、太陽系の誕生以来50億年経過した。 我等太陽系の太陽は、今後自ずから、其の限界に迄膨張すると、 大爆発して、50億年後には、其の遺骨の如き物(=白色矮星)を残し、 消滅するらしい。 恰も、吾等人類の今後の将来の運命を連想させる。 人類の三毒(貪・瞋・癡)結合体の統括総体の辿る運命は、其の本質 を遊離して、人類精神の貪著が膨張し往き、やがて空疎化、虚無化 の破滅へ向かわんとして居る。 是が、嘗ての負の遺産を生んだ人類の三毒害の悪循還を繰り返すと 云う自覚が為されない儘に、人類の三毒に拠る幻想から、未だに抜 け切れないで居る。 駿馬は鞭の影を見ただけで御者の意に従う。 凡馬は鞭が骨に迄徹した時、漸く目を覚ます。 宇宙(生命)の本質は「人を生(活)かす」である。 「人を生(活)かす自己を生(活)かす」為らぬ「自己を生(活)かす」自己 からは最早速やかに脱却し、人類が蒙(こうむ)る三毒害を最小限に 止めるべく、世界人類が一丸と為りて、可能な限り極力、国境を捨て て、一丸と為った世界人類の運命に基づいて生きて往くのが、 世界人類の幸福と平和への最短路為る事を知らねばならない。 《 覇権主義の運命 》 欧米の孤立。 離脱と至上主義。 嘗ての差別に基づく大航海時代と聖戦に拠る欧米の世界制覇、 及び独裁。 今も米英の至上主義は、猶健在ならんとす。 「宇宙(生命)の本質」は世界人類平等である。 七十億の衰亡に対する数億の繁栄ではない。 全一に於ける孤立は成立不可能である。 因果の道理に寸分の狂いは無いのである。 米国至上主義(=孤立)と全一体制主義とは相容れない。 かと言って、覇権闘争も望ましきものではない。 世界人類の団結は必然である。 今日、世界の指導者として、環境問題生存対策と地上非核化に直面 し得ない成金人間をリーダーと為すべきではない。 日本の採るべき方向性は米国に諂(へつら)う世渡りでなく、 世界を建て直す指導者として、入れるべき本腰を持たねばならない。 《 日本の真価 》 真理の見究めは絶対であり、相対的立場を超える。 激甚自然災害と地上非核化の両者の最大加害者は唯一米国であり、 最大被害者は唯一日本である。 此の最大加害者が最大被害者を独占しているのが現状である。 一番の悪党が米国である。 是よりも劣るのが、一番の被害者である日本である。 日本は未だに米国に追従したままである。 是が独立国家と言えるであろうか? 追従国家である。 是が見究めの真実である。 此の真実を直視し、 是等の両者を追及すべき者は日本を措いては無いのである。 世界に於ける日本の真価を問う。 米国が激甚自然災害と地上非核化に対して、率先して範を垂れる べきである。 是が世界のリーダーの当然の為すべき道である。 是に異論の在る者は世界人類の幸福と平和を希望しない者である。 涅槃行から涅槃に至り、 後は全くの自由也。 《 西洋大脳新皮質と東洋涅槃 》 現代人類は人類極悪破壊力に拠る人類根源悪支配体制である。 然し是は、人類根源悪の三毒(貪・瞋・癡)が、今や激甚自然災害と 核武装と人種差別等と云う人類生存の脅威と為って居り、是迄の 人類史に於ける必然的結果為る地獄道を招来して居るのは否め ない。 是は、西洋の物質世界の外的活動に起因している。 然るに一方、東洋に於ては精神世界の内的活動が為されて来たの である。 当然の事ながら、前者に於いては、激甚自然災害と核武装体制を招 来したし、後者に於いては、悟り、解脱、涅槃に拠る「宇宙(生命)の 本質」の真理に到達したのである。 此の世の一切の言葉は、如何に語られようとも、釈尊手掌上の悟空 に過ぎない。 明らかに、世界人類の幸福と平和を構築するには、此の東洋の 涅槃を根底としなければ、人類は、地獄は不可避である事が証明さ れて居る。 今に至りては、速やかに、是迄の来し方を猛省し、行く末を根本的に 新たに再構築し直さねばならないのである。 《 涅槃とは 》 涅槃に至りては、人間、 少欲・知足、帰依三法(仏・法・僧)、三聚浄戒(攝律儀(止悪)戒、攝 善法(行善)戒、攝衆生(利他)戒)、十重禁戒(不(殺生、偸盗、邪 淫、妄語、?酒、説過、自讃、慳法財、瞋恚、謗三寶)戒)に則(のっ と)り、「人を生(活)かす」。 涅槃とは、本質である「人を生(活)かす」主体。行は可能な限りの世 界(間))への観察眼での日常性(自由)に転ず。 小生が真為る最後身である。 仮令(たとえ)、いつか最後身が再来しても本質が永遠に恒常不変 である。 《 人間 (=心) を育てるとは 》 物質的、精神的基本的条件確保が全てではない。 心を育てる事が一般的基本的課題である。 逆に、是が出来れば、他は自ずから整うものである。 身体は自然に大人に為る。 心を育てるとは宇宙(生命)の真理を説き証す事である。 宇宙(生命)の真理とは「宇宙(生命)の本質」は「人を生(活)かす」事 である。 其の真理に到達するには坐禅を行ずる事である。 坐禅を行ずれば、自ずから少欲・知足と為り、自ずから「悟り」に至る。 「悟り」に至れば、自ずから正法苦行によって「解脱」に至る。 解脱に至れば、自ずから「涅槃」、つまり「人を生(活)かす」に至る。 何と為れば、 「宇宙(生命)の本質」(仏性)は自体一如であり、自利利人の法為る からだ。 宇宙と云うものは人間の一生と云うものと同様、誕生し、恒星(=太 陽)を生み太陽系を為して惑星(=地球)を生む。 地球は自然を育て、自然は生命を育み、生命は人類に迄進化した。 人類の身の進化は、個体として小人から大人へ、ホモ・サピエンス から現代人へと進化した。 一方、身の進化は心(=大脳新皮質)の進化へと移行した。 心の進化は、自我が、其の自他一如(自利利人の法)為る本質から の促がしである菩提心に縁りて、瞑想からヨーガを経て釈尊が禅定 に拠りて成道(=開悟)された。 更に解脱から涅槃へと転了し得たのである。 涅槃とは「人を生(活)かし合う世の中の在り様」の事を云う。 是が「宇宙(生命)の本質」に他ならない。 本質は、此の刹那、刹那の進化の途上に在るのである。 其れを因果の道理と云う。一刹那の違(たが)いも生じない。 不昧因果(いんがをくらまさず)為ればこそ、 諸悪莫作、修善奉行、自浄其意、是諸仏教である。(=通戒偈) 《 全一と至上の ねじれ 》 現代は世界全一体制と米国至上孤立主義によるねじれの時代で ある。 世界に全一為らんとする中東を、日本同様、足蹴にするのがトランプ 独裁の手法である。 スポーツで云えば、明らかに反則行為である。 新型コロナウィルスには貪著は無いが、此の貪著は其の本質を暴 露するものである。 今や、世界全一体制は是に屈するべきではない。 断じて、是を打倒するものである。 今や、日本が率先して其の範を垂れるべき時が来たのである。 地上非核化と激甚自然災害の喫緊の二大課題を果たすのが最も 本質的責務である。 トランプ氏の激甚自然災害への無視と核武装保有支配体制は、 日本を人類史上極悪の核爆破し、更に其れを足蹴に、世界に睨み を効かすのと同一である。 日米の在り様は極力、一新すべきである。 やがては新生中国が米国に採って代わる世界全一統合体と為る。 今後の日本の在り様は極力一新し、双方一丸と為るべく、採るべき 方向性を英断すべきである。 保身に見るべきもの無し。 本質に身心を回帰せ使めるべきである。 米国は北朝に対すると同様に中東に対するべきである。 此の世界全一体制に対し、孤立至上主義が猛省しなければ、世界人 類の幸福と平和は成立し得ない。 何の為の学問か? 保身の為ではない。 宇宙(生命)の本質に、身心に代えて回帰する為の学問である。 故に、真為る多様性とは、拡散でなく、何処迄も収束を目的とするも のである。 故に円相である。 涅槃とは 三時間睡眠二十四時間 生涯一刹那も許されないものである 人間と云う者は、死んで新たなる命に生まれ変われば、 どんな事でも出来る様に為る。 菩提心一つで、或いは感応道交して、 又、正法苦行すれば死んで生まれ変わる。 世界人類の幸福と平和を完成させるには、 其の分の自制心が不可欠、不可避である。 自制無くして、世界人類の幸福と平和は在り得ない。 自らの自制が万人の平和を構築する。 釈尊、八大人覚(御遺教)最後八番目の不戯論を具現する処の涅槃 を世界中に究竟す可し。 世界には常に釈尊最後身、鐵漢最後身、及び此の常在最後身が 不可欠である。 金同様、勝敗はこころに付いて来るものである。 世界人類の幸福と平和を目標にしない指導者は指導者足り得ない。 世界人類の幸福、平和と自利の追求とは相容れない。 少なくも他を受容して生(活)かし合うのでなければならない。 然るに、核武装体制と激甚自然災害への無視は、此れに反する。 世界のリーダーの造反は世界中を狂騒(躁)に陥れるのである。 北朝、中東の在り様は、至上孤立主義の必要悪に対して、此れを正 す為の全一為る必要悪に過ぎない。 世界人類の幸福と平和至上主義為る世界全一体制に、米至上孤立 主義が其の舵取りを転じない限り、世界の分裂は統一されない。 最早、世界新時代を迎えないでは措かないのである。 全一体制に於ける、至上孤立主義の為すべきは、核を捨て、自然破 壊しない。 此の当たり前の事に、即刻着手しなければならない。 自利の権化が是を為せば、世界人類は米国を世界の指導者として 認めるであろう。 何故ならば、今後将来の世界人類を真に生(活)かし得たからである。 少なくも、「自分等が金儲け出来れば良いんだ。」からは先ず卒業す べきである。 指導者足る者は、世界人類を正しく導き得る者でなければならない。 今こそ、令和と云う新時代を迎え、極東、日本こそが釈尊後の最後身 として、世界の霊峰足る小生鐵漢の「万人の生活原理」に基づいて、 国民一人一人が、其の自覚を新たにし、世界の舵取りを果たすので ある。 政治家も、此の認識に立って、自らを正し、舵取り役として恥じない だけの施政を為さねばならない。 日本から、世界を正し往く姿勢で臨んで戴きたい。 《 宇 宙 》 我々は、宇宙と云えば、自分の外部の彼方の事を思う。 しかし、宇宙とは「天上天下唯我独尊」。 正に自己こそ、宇宙の最足る者である。 自己が宇宙の花。宇宙の究極である。 宇宙を、遥か彼方の空虚、空(無)、虚(無)に求める事勿れ。 宇宙を、解る様で解らない自己に求めるべきだ。 そうすれば、宇宙とは宇宙其のものである事。 「宇宙(生命)の本質」に為るのである。 宇宙を自己に対峙するものとして探求しても、宇宙には至り得ない。 二元相対世界から脱却し得ない。 《 天命開悟 》 「宇宙(生命)の本質」は開悟すると云う事である。 是は宇宙開闢以来、太陽系を生み、人類を生み、現代文明を生み、 現状を生んでいるのである。 そして、人類史上今日程、世界が一丸と為らんとする兆しが感じられ る時代も無いのである。 其の故は、世界が今こそ涅槃に触れ得た、種々な危機に瀕してはい るものの本質的なる時代は無かったからである。 しかし、核武装と自然災害に代表される、其れ等の危機、 前者は、嘗て釈尊悟りを生んだ母体(=三毒)としての必要悪であり、 後者は、現代の繁栄を築いた結果の必要悪である。 是等は今後改善し得るものである。 逆に言えば、宇宙為るものは、人為の及ぶ処ではないのである。 「宇宙(生命)の本質」の進化は、既に小生によって証明された通り、 涅槃への一路門である。 人類史上、小生涅槃を体験し説き得た人間は皆無である。 つまり、宇宙(生命)の進化は、小生の真中道→涅槃行→涅槃と云う 、最終的に涅槃への進化一路なのである。 人類の三毒(貪・瞋・癡)が地上を破壊せずに、且つ地球に宇宙レベ ルの災難(例えば、大隕石の地球衝突等)が生じない限りに於いて、 此の先五十億年後の太陽大爆発迄は常に涅槃を極めんとしている のである。 仏法に不思議無し。 「人類涅槃説」は説に非ず。 既に体現された真理(実)である。 人類が小生に至る迄には、瞑想以来、釈尊を生む迄の人類の精神 史は人類存在に根源的に関わる、無視出来ないものである。 五千五百年程前のインダス文明(モヘンジェダロ等)の瞑想から、 バラモン教(BC1300~)の自然法(神意)と人間法(財産と性愛)を 両立させるヨーガの行、更に梵我一如のウパニシャッド哲学(BC800 ~BC200)の解脱を希求してのヨーガの行、其の延長線上に釈尊の 断食苦行、中道、成道と続くのである。 涅槃から出るものは自由とホームページ(本)であって、行ではない。 人間は如何なる問(課)題も超えて、常に自己の存在を超えて、刹那 刹那に自己の為すべき事から為すべきである。此れを涅槃と云う。 つまり、欠けるものの無い、湧出する涅槃其のものが、求道でなく、 施道、恩恵(恵み)に他ならない。 此れが世界を掌握する事には疑いが無いからである。 刹那、刹那と云うのは、各刹那に本質からの独立した自己が生(活) きている。其処に自己同一性なるものは存しない。 自己同一ならずして、本質回帰為る自己に刹那刹那に生まれ変わ らんと進化する自己である。 故に地獄が仏に生まれ変わるのである。 同一性は本質に在るのである。 三毒に因りて、人間は其の本質から遊離して三毒害を招来した。 悟り、解脱、涅槃に拠りて、刹那、刹那に本質其のものに為り往き、 本質の霊妙極まりなき、無我為る働きを為すのである。 本質を離れて、人間は在り得ない者である。 人間世界に、此れ以上の幸福、平和は存在しない。 《 真善美に関して 》 真善美は人間の理想としての普遍妥当な価値であるが、 真理のみ永遠なる恒常普遍なもので、 善、美は相対的、無常なものである。 哲学思想の大本にある、古代ギリシャ哲学者プラトンの哲学に於ける 三つのイデア論の全てが包括される形で、三百年程前に三つの学 問分野が確立された。 ドイツの哲学者カントによって三位一体為る、 「純粋理性批判」、「実践理性批判」、「判断力批判」に拠りて夫々、 真善美についての探究が行われたのである。 カントの真善美は、「宇宙(生命)の本質」である「人を生(活)かす」と 云う涅槃一路為る進化を遂げると云う永遠なる恒常普遍の真理に 究竟されるのである。 此れ等は究極的には、永遠なる恒常普遍の真理に対する、人類三毒 (貪・瞋・癡)の関係に帰する。 つまり、人類最大、究極の課題、 人類根源の害悪毒為る三毒(貪・瞋・癡)から「宇宙(生命)の本質」 への回帰と云う問題に集約されるのである。 本質への回帰が要である。 此れには、坐禅が要である。 もっと言えば、釈尊禅定である。 修禅定→修智慧→涅槃が宇宙(生命)を切るのである。 つまり、坐禅をして智慧を育て、世界を構築すると云う事。 坐禅をして智慧を育てれば、世界人類の幸福と平和は既に約束され て居る。 『此の真理に基づいて、相互信頼で一丸と為る事に尽きる。 此の信頼を出る者は悪人と為すべし。』 「悟り」に拠りて学問を超え、「解脱」に拠りて三毒(貪・瞋・癡)を超え、 「涅槃」に拠りて三善根(施・慈・慧)を究竟し、世界人類の幸福と平和 を完成し、「宇宙(生命)の本質」其のものに為る。 是、宇宙(生命)の完成である。 「宇宙(生命)の本質」(仏性)を二元論的に表現すれば、少欲・知足に して三善根(施・慈・慧)である。 「悟り」以前のものは全て人生を全(まっと)うするに至り得ないもの である。 如何なる芸術、哲学、学問、スポーツ、宗教政治等、一切合切全て、 如何なる人間能力も、諸欲も坐禅に拠る「悟り」をスタートとするので ある。 其処から始めて、解脱、涅槃、宇宙(生命)の本質其のものと為る。 其れ程、坐禅が人類の要である事は、五千五百年前の古代に於いて 瞑想が生まれた事に証(あか)されているのである。 人類は坐禅を根本とする事が負の遺産を生まず、宇宙(生命)の本質 への最短路を歩む事が出来るのである。 其の時、自ずからにして、人類は坐禅を根本とする事が、負の遺産を 生まず、宇宙(生命)の本質への最短路を歩む事が出来るのである。 其の時、自ずからにして、人類は少欲・知足であり、「人を生(活)か し合う」存在で在り得るのである。 人類が瞑想を始めて、僅か5500年である。 人類の誕生が、およそ550万年前であるから、人類誕生以降瞑想 を始めたのは千分の一しか経ていないのである。 今、速やかに此の高度文明化から、令和の時代に於いて「退歩の脚 」に転ずるべきである。 人間、涅槃は最も困難事であるけれども、涅槃至上也。 最困難事程、幸福、平和也。 最困難事と云うのは、「本質に為る事」、其の難しさの事である。 涅槃に代わるもの無し。 解脱無際、涅槃無量。 人間、欲の快に流されるか、向上の一歩一歩を進化し往くかの 何れかである。 全一とは自他一如に於ける 自(=一)と他(=全)の在り様の事 《 全一について 》 西田幾多郎(1870~1945) 東京大学哲学科卒、日本を代表する哲学者。 京都大学名誉教授。 『善の研究』等。 山岡鐵舟の師、滴水老師に参禅。 中村元、和辻哲郎、三木清等を育成。 『絶対矛盾的自己同一(的世界に於ける自己限定)』 (=場所的論理)。『世界新秩序の原理』 同級生で仏教学者(金剛経より『即非の論理』。『日本的霊性』 等)の鈴木大拙は師の遺骸の前に座り込んで号泣した。 西田哲学と鐵漢涅槃の関係は、 ウパニシャッド哲学と釈尊成道との関係に類似する。 久松真一(1889~1980) 京都大学教授、宗教哲学者、禅者。 「無相の自己」を覚し主著『東洋的無』を刊行。 ※ 大拙氏が西田氏に、西田氏が久松氏に夫々坐禅を勧めている。 夫々、其の「悟り」体験が深められている。 和辻哲郎(1889~1960) 東京大学教授、哲学者、倫理学者、思想史家 『古寺巡礼』、『風土』、『ニーチェ研究』、 「原始仏教の実践哲学」で博士号取得 (『風土』はハイデッガー『存在と時間』に示唆を受け、空間的 人間考察を行った。「風土が人間に影響する」。 グローバリゼーション(社会的、文化的、経済的に世界化、 地球規模化、地球一体化)に繋がる。 《 仏教の究極:涅槃への中道と真中道 》 人類が「宇宙(生命)の本質」と一体為る涅槃に至るには、 地獄か極楽か、の二つの重要な分かれ道が在る。 世界人類の幸福と平和完遂に不可欠為る人類究極の指針である。 此れ無くして仏道は語れない。 一つ目は釈尊の中道であり、他の一つは小生鐵漢の真中道である。 【中道】 (菩提心に拠りて)断食苦行→瀕死→中道(=「別悟り」)→成道(=「解脱 |←悟り?→| 悟り」) 禁欲に依る行では、本質に違(たが)い、必然的に死に至る。 自己の限界を知り、貪欲ならず少欲・知足為るべし。 小生、後厳密千日解脱行を始めて二ヶ月目頃、朝九時から夕方五時 迄福岡一帯での托鉢自活をして、二(三)時間閉眼坐禅二十四時間 仏作仏行(=不臥不眠行)を体験した。 三~四ヶ月で止めざるを得なく、斯う云う事を二~三度遣った。 列車の中で、座席からつんのめる様に転げ落ちた。 明らかに癡滅に至るのが判った。 実証的にも、臨死体験から「悟り」を得られる事は無いのである。 【真中道】 解脱後の悟上に得悟、際限無き後厳密千日解脱行の極仏は必然 的に衆生を離れ往くのであるが、上求菩提一色、衆生を離れた刹那 に坐禅が適(かな)わなく為る。敢えて言えば、身体呼吸機能にも拘 らず、大気が十分に流入してなきが如し。 自己と云う生命と宇宙との接点は呼吸である。 此の接点に刹那に異常が生じるのである。 つまり、心の持ち様が、「宇宙(生命)の本質」に違(たが)えると、其の 呼吸機能に不備が生じるのである。自ずから身体に異常を来たす。 是、精神身体医学(心身症)に於いても基本的事項ではないか? 坐禅不能に陥った其の刹那に、アッ「坐」でない「人」だ!と直感した。 是が小生の真中道体験である。 此れ、極仏ならざれば至り得なかった。 釈尊が、坐禅中にも衆生を忘れず、捨てずと説かれたが、其れは後 厳密千日解脱行とは相容れない。 釈尊の説かれた様に、菩提心を起こす為に欲界中にて在れども、上 求菩提一色の極仏行は「宇宙(生命)の本質」に違(たが)うが故に、 無私なる全身全霊が受けるものは、「宇宙(生命)の本質」其のもの が、自己に露呈されるのである。 世界人類の為に不惜身命であっても然り。 況や、三毒に基づくものに於いては世界人類の幸福と平和への種 々なる弊害が生じる事は必定である。 本質は、其れ程、無上甚深微妙為る、三善根(施・慈・慧)にして「人 を生(活)かす」こころに拠りて涅槃為ら使むるのである。 其の恩恵足るや、我々は流れる涙を忘れている。 日本の豊かなる四季の風土は、其の本質を余す所無く我々日本人が 享受し得るものである。 其の風土に依りて日本人の繊細為る心が、日本文化の中心思想で ある侘び・寂び(わび・さび)、人の世の儚(はかな)さ、無常である事 を美しいと感ずる「悟り」に近い美意識を培(つちか)った。 (芭蕉、万葉集、茶道、徒然草、能、雪舟、俳諧、良寛等へ) 侘び、寂(然)び、幽玄のこころが仏教の根本と重なるのである。 古代インド釈尊の仏道が、此の霊妙極まり無く豊かに変化する極東 日本の自然働きが日本人をして開花せ使めたのも其の風土の影響 に依るものである。 《 真 中 道 前 後 》 「宇宙(生命)の本質」の進化律が吾身に体現され、其のこころを得る 。 是、宇宙(生命)律の「人を生(活)かす」也。 「世界人類を生(活)かす」也。 「人を生(活)かす」とは、 「三毒(貪・瞋・癡)」転じた「三善根(施・慈・慧)」の事也。 悟(解脱す)れば、 三毒は、人も吾の様にと思い、人を吾事の様に思える。 是、不三毒(不貪・不瞋・不癡)也。 解脱すれば、 不三毒は三善根(施・慈・慧)に転ず。 行主体の為、観念的三善根。 真中道に由りて、 「行」が「人」に生まれ変わる。 涅槃行を涅槃に転了し得て円相を為し、 「人」が現実的、能動的、実践的に為りて、主体化され三善根の母体 為る本質の実践で、積極的に「人を生(活)かす」と為ったのである。 行としては本能的潜在化される。 此処に至りて初めて本質への入口に立ち得たのである。 霊妙極まりなき本質の働きは測り知れない。 《 涅槃への心理的プロセス 》 真中道によりて、其れ迄の初行完了(~40歳)後の解脱行(55歳~ 70歳)の究極点と為った真中道体験(70歳)(「行」でない、「人」だ。) があって、以降は後厳密千日涅槃行と移行するのであるが、是は 其れ迄の行とは異なって、有限為る行的なものではなく「人を生(活) かす」と云う、明らかに永遠なる恒常普遍の真理としての行いであっ た。是を最大限に完遂するには、矢張り涅槃行でなければならない が、「人を生(活)かす」には、其れに徹しなければ為らない。 完璧に徹するには、極仏としての解脱行とは異なって、極人としての 行、相反する二者が一円相を為すには、つまり其れ等が完璧に行わ れるには、つまり涅槃行が涅槃として確立するには内的再構築を要 した。機械的なものから内面的なものへの転入である。 効果的である為には機械的でなければならないし、内面的に没入し なければ為らないし、其の中で「人を生(活)かす」と云う事は、矢張り 、本質つまり真理に即する事である。 此処に於いて必然的に最も効果的に両立し得た涅槃に徹し得るの である 行(上求行と下化行共に)を撥無(はつむ:跳ね返す)し、真円(= 涅槃)と為りて、「世界人類を生(活)かす」。 涅槃とは「人を生(活)かす」事。 行に非ず、人に非ず。行であり、人である円相を為す涅槃である。 涅槃であらばこそ、人が受け入れざるを得ない。故に人を導き得る。 涅槃行であれば、人は受け入れない。故に人を導く機会を失う。 以上、吾真中道に於いては、吾体験無くしては釈尊中道の如き必然 性が無いのである。 極仏を否定し得て初めて仏道は完成し、総ての世界人類に浸透し 得るのである。 故に真中道によりて初めて仏道は完成した。 後は、是が世界人類の幸福と平和を完遂するのみ。 「宇宙(生命)の本質」が此れ迄、無から身的に大脳(新)皮質に、更に 解脱下(仏為る虚像)の現代世界、三大悲劇(遺産)に更なる自然破 壊。其の上に今の世界的新型コロナウィルス被害と諸難題が重積し ているが、一つだけ確たる真理が在る。 其れが、此れ迄人類が体験し得なかった涅槃である。 是が此れからの人類の辿るべき道を解明しているのである。 是を各人が体得するには、 先ず、〇(ゼロ)でなければ為らない。 先ず、白紙に為って、心の準備が為らねばならない。 其の上で、「人を生(活)かす」に基づく事。 其の菩提心の強い方が自然に上位に起って世界人類を導く。 是が「宇宙(生命)の本質」の在り様であり、 此れ、永遠なる恒常普遍の真理である。 具体的には、人類に三善根(施・慈・慧)として機能する。 此の様を涅槃と云うのである。 宗教、諸学を超越し、万事の基盤為 る真理 (=教え) として、此の「本質的 禅学」を提起するものである。 坐禅(⇒行)は「人を生(活)かす」 智慧(⇒涅槃)の手段に過ぎない。 智慧(⇒涅槃)を優先すべし。 解脱は涅槃の手段に過ぎない。 職業は智慧の手段に過ぎない。 智慧を優先すべし。 「宇宙(生命)の本質」は国境を越え、 職業を越える。 生老病死は四苦為りと云えども、 然(さ)らば、何もない方が良いかと言えば、 「宇宙(生命)の本質」は涅槃、「人を生(活)かす」である。 何も無い方が良さそうであるが、「人を生(活)かす」である。 何故か? 人を生かしてあげたい。活かさないでは措(お)かない。否、措けない 、だ。 掛け替えの無い命であるから。尊い生、愛しい生であるからだ。 宇宙(生命)の起源については、我々は肌では知り得ないけれども、 宇宙(生命)の本質、つまり生きる意味と其の価値(=涅槃)は判る。 故に、「人を生(活)かす」である。 此の四苦即涅槃であると云う事を悟るのが坐禅である。 死無くんば釈尊成道無く、生も無し。 死在らばこそ、人間は本物の生に向き合い、真為る向上を得られる。 死は生の出発点である。 角無く、上下左右閉じて完結し、最大にして最小為る自由で、何処に でも可動為る円相から生まれ出(いで)し智慧は、 日本から生まれるべくして生まれた、他に類の無い、道元禅師『正法 眼蔵』同様、難解なる日本の代表的哲学者西田幾多郎氏も好く円相 を描いた。 本質より出(いず)る表現を軸芯に二十四時間仏作仏行である。 「人」と「行」とが共に、常に無上なるを涅槃と云う。 是は、本能的「行」に於ける、最大限「人を生(活)かす」ものである。 此れは繊細なる日本の風土に培われた、勤勉なる日本人に最も 相応(ふさわ)しいものである。 大解脱人釈尊の完成者として、 涅槃人最後身、令和宗 古希鐵漢が 世界人類の幸福と平和を期して、 生涯、自由為る涅槃(生涯三時間睡眠 二十四時間仏作仏行)を行ず。 涅 槃 (令和2年3月1日~令和5年2月29日) 三時間睡眠二十一 時間絶対開眼不臥 「人を生(活)かす」行 朝課・朝食――8:00~10:00 托鉢――11:00~4:30 晩課・夕食――6:00~ 8:00 睡眠――11:00~2:00 ※ 日・祝―― 托鉢が作務と為る 宇宙を制するものは、勝敗でも、得失でも、又五欲の追求でも無いの である。 唯、千日行 (三時間坐睡二十四時間仏作仏行) 在るのみ。 初 (厳密千日解脱) 行で済む。 涅槃より、其の事実は明確である。 世の中は三十年前、既に完結しているのである。 老若男女誰でも、初行さえ為せば済む。 世の中は、初行で、素直で宜しい。 難しい事は何一つ要らない。 世の中と云うものは、そんなもので我欲の張り合いに過ぎない。 菩提心一つ在れば済む。 初行 (三十七歳~) は塾をしながら母親を看た。 托鉢は後行 (五十五歳~) 以降。 日本こそが真に世界を制し導ける唯一の国家である。 花は総て、其の持てし能力を十分に発揮して、咲き誇るのが、其の 使命である。 人類も又、同様に、共に幸福と平和と繁栄とを築く事が、世界人類 の使命である。 要は、進化の究極為る大脳新皮質が東洋の発菩提心するか、否か である。 釈尊成道は神の宗教に於いて影響を及ぼし、古代エジプト全人口の 半分が修道僧であった。 先進技術 (農業等) や医療行為 (病院等) のルーツは修道院にある。 (歓待する (hospitality) が病院 (hospital) の語源である等。) 近代には殆どは世俗に堕し、聖戦を招来した。 現存するものとして、「祈りと労働」の、黒い修道服のべネディクト会 や北海道にトラピスト修道院等がある。 小生が九大医学部学生の時、大脳生理学の講義で教授が、大脳の 左右両半球の役割分担が東西両洋文明の特質に関与していると云 う話を聞いたのを記憶している。 然るに、未だ其の点については、殆ど解明されては居ない様である けれども、明らかに「悟り」は東洋人の特質と言える。 いずれにしても、此の東洋的特質を基盤として、西洋的特質を構築 すべきであるのは疑い様が無く、双方が対立、反目するのでなく、 共に協調、協力するのでなければ成立し得ないと云う事は自明の理 である。 「悟り」の究極が「解脱」である。 「解脱」するには正法苦行無くしては生じ得ない。 断食苦行では、決して「解脱」には至り得ない。 結果は明らかであり、中道に至れば最高である。 要するに正法苦行が不可欠であると云う事である。 《 宇宙(生命)の本質に違(たが)わない我 》 菩提心(菩薩)の行願に、布施、愛語、利行、同事が在る。 「同事とは不違也、自にも不違也、他にも不違也」とある。 不違(ふい)とは、違(たが)わないと云う事。 「宇宙(生命)の本質」に違わないからこそ涅槃である。 違えば、必ず因果の道理に拠りて悪業報を感得する。 不昧因果である。 「宇宙(生命)の法則」(仏性)に違う在り様と云うものは成り立たない。 刹那の、因果の道理に拠りて真中道生じたのである。 仏は仏菩薩でなければならない。 極仏は釈尊断食苦行同様、死に至る病である。 挙句、夫々真中道と中道を生んだ。 小生、真中道以来、一度も坐禅をしない。 唯、表現を生むだけだ。 其れはそうだろう。四十余年間の大半に亘って生涯を懸けて専念し て来た唯一為るものを刹那の体験に拠りて転じ得た訳である。 二十代後半から古希に至る迄の一色在りてこそ、此の刹那が在り得 たのである。 「宇宙(生命)の本質」に違わない四十余年間であったからこそ、此の 一刹那が在り得たのである。 此の一刹那は「宇宙(生命)の本質」(仏性)を語りて余り在る。 進化の辿るべき往く末を世界中に開示するものである。 《 正法苦行為らばこそ 》 正法苦行ならばこそ、「宇宙(生命)の本質」の声とも云うべき真中道 を体験し得た。 然も無くんば、人類の如何なる能力を以てしても宇宙の本質を知る 事は在り得ないのである。 釈尊に於いてすら、解脱して「犀の角の様に、唯独り歩め」迄である。 現代高度文明化社会に於いては尚更である。 我々人類の母体為る宇宙と云うものが如何なるものであるかは、西 洋的科学的アプローチでは、何処迄往っても釈尊手掌上の悟空に 過ぎない。 然も無くば、神為る虚像を捏造して、聖戦を惹起する以外無いであ ろう。 人類を超越したものへの祈りは在り得る。 然も無くば、悟りに拠りて正法苦行へ移行する以外無い。 人類の出口とは、其れ以外無いのである。究極は涅槃である。 《 真の神の声 》 是は極仏一路為る解脱の延長線上に測らずも至り得た真中道を体 験し、涅槃へ至り得た、真中道為る刹那の体験の事である。 此の真中道こそ正に神の声に他ならない。 是以外に、人類が真の北極星を目の当たりにする事は在り得ない からである。 是も予期して至り得たものでなく、 菩提心一つ、生涯懸けて、不惜身命、全身全霊で究竟し得た結果に 他ならないのである。 此の永遠なる恒常普遍の真理、神の声を一旦聞けば、 今後、人類の進むべき在り様と云うものは自ずから正しく打ち出せ るものと思う。 《 無我為る本質と我の立ち位置 》 瞑想からヒマラヤ山中での苦行に極まり、究極的に中道に至り、 空(から)と為りて、無心裡に成道され、自他一如、即ち空(くう)(= 無(む))を悟ったのである。 解脱、涅槃は二元相対、動不動の法を超越し、 二元相対為ら使めて居る絶対為るものであり、 解脱は涅槃として完結するのである。 涅槃として完結し得た、つまり本質に回帰し得た人間は未だ嘗て 小生、最後身鐵漢一人である。 此の一は全を離れると、一の存在根拠を失う。 此処に真中道の存在根拠があり、 真中道とは全を離れた一は存在し得ないと云う事を知ら使めるもの である。 又、一の無い全も、全としての存在根拠を失う。 是が一と全の在り様である。 全は一に進化し、其の必然性が進化律である。 刹那生滅の道理に基づいた、歴然として毫釐(ごうり)も違(たが)わ ざる因果の道理に拠りて、必然性を以って進化を遂げているのであ る。 真中道無くんば中道は完成しない。 真中道在りて初めて仏道は完成する。 《 解脱の行方 》 解脱と言えども、「宇宙(生命)の本質」に違(たが)えば、未だ涅槃足 り得ない。釈尊断食苦行に異ならない。 小生、後厳密千日解脱行に於いて、真中道に至る直前迄、仏の究極 を信じていたのである。 仏道は無限の宇宙の如く、果て無き一路門であると思っていた。 否、不明な儘に、其れ以外には在り得なかったのである。 然るに、「宇宙(生命)の本質」は然(さ)には非ず。 其の不明が、刹那に至る迄に及んで初めて、其処に本質の在り様を 真中道の体験に拠りて知り得たのである。 其処から得られた在り様が涅槃である。 是、円相である。 上下左右何れにも偏(かたよ)らない。円相として完結している。 此処に於いて初めて、「宇宙(生命)の本質」に帰一する真中道を体 験し得、釈尊に於ける成道、つまり鐵漢に於ける涅槃「人を生(活)か す」、今の涅槃行為らぬ本能(潜在)化した行であり、「人を生(活)か す」涅槃と為り得たのである。 《 際限無き仏道とは 》 金剛経に、 「宇宙に際限が無い様に、仏道にも際限が無い。」と言う。 是は「教え」其のものに際限が無いと言うよりも、寧ろ 無辺、無尽為る煩悩の際限の無さをを言っているのである。 「仏法に不思議無し。」である。 仏道は解脱の延長線上に在る涅槃に拠りて、真中道を経て、既に 小生鐵漢に拠りて実証されている。 際限無き仏道と云うのは、 衆生無辺誓願度、煩悩無尽誓願断為るが故である。 「宇宙(生命)の本質」の永遠なる恒常普遍の真理(=涅槃)を 無辺、無尽為る煩悩に浸透させ、可能な限り、世界人類をして、幸福 ・平和に導く事の困難さを云うものであり、是は正に、仏道が世界の 人々に浸透し、「宇宙(生命)の本質」に拠りて統合された施政が為さ れる迄の困難さを云うものである。 国境、職業の壁を超えて、「万人を生(活)かし合う」の立場で、指導 者レベルでの根源的連帯感・信頼感が育まれて居れば、技術的な 事は、自ずから整い往くものであると思う。 是に拠りて、連帯感・信頼感を醸成する事が先決問題である。 従来の世界連合に代わる、「宇宙(生命)の本質」為る涅槃が、世界 をして全一為ら使め、世界に新時代の到来を宣言するものである。 今や、富める者が物的にも、是に資するものであり、其の真価を発揮 して戴く事を切に冀願するものである。 《 本質と人間 》 「宇宙(生命)の本質」は「万人を生(活)かす」である。 太郎さん、花子さん、次郎さん等の差(=分)別はない。 然るに、現実には「万人を生(活)かさない」人も居り、 又「生(活)かされない」人々もいる。 「人を生(活)かさなかった」事への因果の道理が働いている。 人を殺した人は死刑に遭(あ)う。 「因果の道理歴然として私無し。造悪の者は堕ち、修善の者は陞(の ぼ)る。毫釐(ごうり:ほんのわずか)も違(たが)和ざる也。」 不昧(くらまさない)因果である。 人を取捨した者は、人から取捨される。 世界人類の幸福と平和の為に生(活)きた人は、世界人類から生(活 )かされる。 此の道理を知れる者は、如何なる場合にも必ず、此の道理に違(た が)う事は無いのである。 「宇宙(生命)の本質」を経済で誤魔化す事勿れ。 涅槃の本髄為る「万人を生(活)かす」の本源は、 瞑想を生んだ稲作に在るのだ。 稲作に拠りて究極の「万人を生(活)かす」が生じたと言っても過言で はない。 貪は人を癡にする。貪癡は表裏一体也。 「貪の末路は癡である」。 「少欲・知足は世界人類を幸福と平和に導く基本である。」 《 男 と 女 》 身の永続性為る女性の受胎出産の苦に対応するものが、 心の永遠性為る男性の正法苦行と解脱の苦であります。 「悟り」に於いては平等であります。 女性は出産、男性は解脱、後行(涅槃)である。 「悟り」、初行迄は男女平等。 初厳密千日解脱行を行ずれば、解脱に至る心の準備が出来る(= 我執に死ぬ)。 すると、自ずから、やがて解脱が訪れる。 解脱体験と出産体験は相反する。 前者は身からの開放であり、心の永遠性であり、 後者は身への束縛であり、身の永続性である。 現代も、釈尊当時以来、其の精神世界は本質的には全く同様である 。 万人が平等に万人を生(活)かし合い、男女も一丸と為りて、 夫々が、夫々の真の特質を生(活)かし合って、 「宇宙(生命)の本質」為る究極の進化を遂げるべく、 正法苦行を起こし、世界人類の幸福と平和の礎を築く事が 宇宙への真の報恩である事は間違い無い訳であります。 母体をして真の母体為ら使めるのが、 心の永遠なる恒常普遍の真理、涅槃であります。 《 坐 禅 》 東洋が生んだもの坐禅。 西洋が生んだもの原爆である。 前者は一切を生(活)かし、 後者は一切を破壊する。 宇宙(生命)と坐禅の関係について、 坐禅は生命を生(活)かさんが為に宇宙(生命)が生んだ人類に唯一 の渡し舟である。 原爆は生命の三毒(貪・瞋・癡)が生んだ他者を破壊する為の究極 の地獄を生む道具である。 迷妄為る三毒(貪・瞋・癡)世界に小生が見出し得た唯一の渡し舟、 坐禅について、 嘗て、東洋バラモンに頭陀行(≒但坐不臥)為る一点が遺った様に、 唯一の幸福・平和への渡し舟である此の究極の坐禅行為る但坐不臥 行、現代的に換言すれば、正法苦行為る千日行(三時間坐睡二十四 時間仏作仏行)に此の世の正道の唯一為る突破口を見出し得たので ある。 正法苦行について、 精神身体医学から坐禅(=確信)への方向転換は坐禅の功徳であ る。 師の攝心会に出会ってから一~二年後の「悟り(身心脱落)」。 出家得度、寺を出てからの自己完結した求道。(=師の道を求めて の模索。坐禅を捨てる事も選択肢にはあった。) 放浪の途中、刹那に千日行への恐怖からの逃避である自己を見出 した。 それからが必然的為る千日行への一歩一歩であった。場所、生活 等々。三十四~三十五歳位だったと思う。 最初は千日行(初行)終えたら、又放浪に出るつもりで始めた。 不思議なもので、恰も植物が大地に根を張るが如く、大地に根付くも のであった。 此処迄は他者との関わりは無い。 釈尊の成道直後と同じだ。 それから、坐睡のみが取れた全く其の儘の十五年間足らずの正念 相続をして、挙句は日に一時間程の坐禅も儘為らぬ程に為り、遂に 坐禅をする為に、当時住職予定者であった人が居るであろう鉄牛寺 へ行く事に為ったのである。 必然的なる、他との関わりの始まりであった。 其の時点で解脱した。 「宇宙(生命)の本質」に同じたゆとりに因る。 菩薩の四つの行願の最後に同事とある。自他に違(たが)わない事 である。 そして、鉄牛寺に着いて初めて事の真相を知った。 寺には誰も居ない。見放された寺であった。 独参室の正面奥の経机には師の御遺骨が在った。 其の後、暫くして托鉢自活に依る後行を実家で始めたのである。 五十五歳であった。 「動中の工夫は静中に勝る事百千万倍」、正念相続の御蔭で大晦日 に発起し、翌日元旦から始めた。 今や古希、極仏に至る後行であった。 釈尊以来「無限に仏を極める」を最も在り得べき一つの在り様ではあ ったのであるが、其れは必然的に衆生を忘れる、「宇宙(生命)の本 質」に非ざる在り様であり、果たして不昧因果、真中道を招来するに 至ったのである。 此処に至るには後厳密千日解脱行無くしては不可能である。 此処に於いて初めて、中道は真為る中道と為り、仏道は仏道足り得 るのである。 釈尊中道同様、鐵漢真中道に於いて初めて人類は如何に在るべき かが明確に為るのである。 此処で、小生に於いては、堅牢なる船に闇夜の航路を示すべき北極 星の如く、全てを表現に托(たく)すべく、涅槃行を涅槃と為し、「宇 宙(生命)の本質」其のものと為りて、最大限を期して自己を律す る訳であります。 五千五百年程前の古代インダス文明の瞑想は、バラモンの究極の 極一点為る頭陀行(但坐不臥(常坐))に唯一留められて、是が 釈尊をして禅定一筋、但坐不臥は断食苦行に及んだが、元の但坐 不臥に戻って成道に至ら使めた。 成道後、「宇宙(生命)の本質」からの促がし、梵天勧請により、初転 法輪為ら使むべく、解脱に至ったのである。 悟りは必然的為る、他との関わりに於いて、深化し解脱に至る。 迷妄から真中道迄は渡し舟為る坐禅一筋である。 生命を生(活)かす為に、宇宙から授かったものである。 現代の多様性の対極である。 物事は二元相対世界から打ち出したものでなく、「宇宙(生命)の本質 」からの促がし、菩提心に拠りて、迷妄裡に探り当てた涅槃でなけれ ば、此の世の絶対的力とは為り得ない。 何と為れば、相対的世界の延長線上に過ぎないからである。 相対為らざる絶対為るが故に、世界を導き得るのである。 《 人間(類)を説く:砂粒から宇宙迄 》 小生にとって、此の本程有益な本は小生の知る限りでは一冊も無い。 次の小生(最後身)の為に、本能的に書き遺して居るのである。 先ず、砂粒からダラダラと始める。 《 淫 快 》 淫快は身の存続の為の必要悪である。 此の生命の真理を説く者は、正に真理を知る者である。 真理を知る為には先ず、解脱人でなければならない。 如何に解脱しようが、身は消えないから淫快は消えるものではない。 欲界中で衆生と共に在れば、如何に解脱者であろうとも、禁欲者なり とも淫快は在り得るものである。 何と為れば、生命は身と心、 心は自他一如であり、淫快と一如為らざるを得ないからである。 では何故に欲界中なのか? 欲界中ならばこそ愁苦在りて、菩提心生ずるからである。 仏祖は常に欲界に在って坐禅弁道された。 解脱者ならば必ず淫快が必要悪為る真理(実)を知るのである。 解脱するには、淫快は微塵も採るべきものではない。 真実(理)を語り得る者、真の解脱人ならば、其れを知っているので ある。 世の中は此処から始めるべきものであると言っても過言ではない。 小生、斯(か)く断言出来るのも、解脱人であるからである。 人生とは淫快ではない。 人生から淫快を除いた処から始めねばならない。 何と為れば、其れで人生を誤った人間でも、其れを語り得ないからで ある。 解脱人ならばこそ断言出来るのである。 其の真理(実)を知っている事は無上の歓喜びと為る。 何と為れば、真理であるからだ。 宇宙為るものはピラミッドの如く、多様なる全から最後身為る一(いつ )(=頂点)へと進化して来たものである。 頂点為る最後身、如来は常在為るべし。 《 脳の働きに就いて 》 脳は核として脳幹(食欲、睡眠欲の生命維持の源)があり、其の先 の下位脳幹(間脳(視床下部))は本能行動、性行動、情動行動等、 性欲の根源で、其の周辺に大脳辺縁部が在り、是は快感の本源で ある。 そして其の表層を覆う様に大脳両半球、右脳は感覚的、左脳は論理 的、思考、感情、判断等がある。 前者は東洋的で「悟り」に繋がり、後者は西洋的で「原爆」を生んだの である。 前者の特質は敢えて必然的究極為る頭陀行で乞食(托鉢)を生んだ。 一方、後者に依りては、破綻してヒッピーの様な乞食を生んだのであ る。然るに、造悪の極み為る原爆よりは、未だ増しだ。 彼等が反戦運動を興したのも当然である。 「悟り」と「原爆」とは大脳新皮質が生んだ極上と極悪為る産物である。 同一なる「宇宙(生命)の本質」でありながら、 何故に、洋の東西で此の様な相違が生じたのであろう? 其れ等の分水嶺と為るものが菩提心であるからだ。 菩提心在らばこそ、敢えて乞食(こつじき)を生み、無かりせば乞食(こ じき)に堕するのである。 乞食(こつじき)と乞食(こじき)との違いは菩提心が在るか無いかの 違いである。 在れば極楽、無ければ地獄である。 同じ事を遣っていても、目には見えないが、心の持ち様一つだけで天 と地の開きが出来る。 菩提心在らば常に坐相を為す。 《 欲 論 》 動物の本能が進化して欲、つまり本能に情動(視床下部)、更には分 別(大脳新皮質)が進化して来たのである。 動物的本能が欲に進化し、快感は大脳新皮質機能の影響を受ける。 《 世界人類の在り様 》 世界人類は「宇宙(生命)の本質」の促がし為る菩提心に拠りて、 政治に任せるのでなく敢えて自ら積極的に「宇宙(生命)の本質」に 目覚めるべきである。 正に最後身、釈尊が二千五百年前に人類に其の基本的在り様を 般涅槃に臨んで八大人覚として垂れ賜うたのである。 少欲、知足、楽寂静、勤精進、不妄念、修禅定、修智慧、不戯論。 斯くして日々、令和宗宗旨、「万人を生(活)かす」涅槃世界を構築して 行くべく礼拝、供養し、精進すべきである。 是以外には、何処を如何探しても、其れは恰も宇宙の果てへ去り行く 様なものである。 究竟、「万人を生(活)かし合う」涅槃世界に尽きるのである。 是、唯一為る永遠の恒常普遍の真理である。 人類総てが政治に拠りて物質的及び精神的基本的条件を確保出来 る訳ではない。 然るに、此れこそ正に政治の使命に他ならない。 世界人類が其の最低条件を確保出来る様に、地球レベルで生(活)か し合うのが真の進化である。 其の時初めて世界中に信頼が生まれ、世界中に最大限の繁栄を齎 す事に為るのである。 其れが「宇宙(生命)の本質」其のものであり、不昧因果為るが為であ る。 東洋には智慧によりて「万人を生(活)かし合う」涅槃力、そして西洋 には貪によりて他を制圧する原爆力の両極を生んだ。 今日、両者は一丸と為りて、涅槃を基盤とした世界再構築の新時代 に入らんとしているのである。 今こそ、敢えて人類の使命感を以って、より能動的、積極的に取り組 まねばならない。 《 大 法 螺 (ぼら) 》 癡に通じるものは原爆、然(さ)も無くば大法螺である。 癡を誡(いまし)める為の原爆は癡上の得癡である。 故に大法螺を吹く以外に無いのである。 其れも、真為る大法螺が吹けねばならない。 然るに、真に大法螺を吹くには、 其れだけの労力が要る。 常識的な事では済まない。 少なくも、そうでなければ、世の中に歓喜びは無いのである。 だから世界はゴジラに為るか、猫に為るかだ。 まともなのがゴジラである。 真為るまともが無い。 文字通り、人間は真為るまともに為るには、 生きている間に死ぬ事である。 首を括(くく)って死ぬのではない。 其れこそ、まともに死ぬ。 其れは、坐禅(行)をする事だ。 真剣である程まともである。 是が真為る正道であり、人生の精髄である。 生涯涅槃 三時間睡眠二十一時 間開眼不臥製本(托鉢) 朝課・朝食――8:00~10:00 托鉢――11:00~4:30 晩課・夕食――6:00~ 8:00 睡眠――11:00~2:00 ※ 日・祝―― 托鉢が作務と為る 〔消失した中間88p(A4)復元完了〕 (禅門三宗各管長、御誕生寺専門僧堂堂長、最乗寺専門僧堂堂長、 国立国会図書館(東京、大阪)へ製本(托鉢)済み次第、追次謹呈。) 『新道元宗(完結編)』 ( 1ページ~121ページ) 製本済 『新道元宗(解脱編)』 (122ページ~242ページ) 製本予定 『令和宗(真中道編)』 (243ページ~363ページ) 〃 『令和宗(涅槃編1,2)』 (364ページ~ ) 〃 《 「人を生(活)かす」 》 人間はどんなに人の事を思っても、自己を思う以上には思う事は出来 ないのである。 では、どれ程人間は自分の事を思えるか? 全く、何にも思えないのが事実である。 死ぬ時が来れば、唯死ぬ以外には無い。 唯其れだけで、何一つ思い浮かばないし、思う事も出来ないのだ。 それでは、完全に人を思えるには、完全に自分の事を思わねば為ら ない。 完全に自分を思うとは、敢えて自分を知り得るのでなければ、人を思 う事は出来ないのである。 自分と云う者を知り抜くとは、悟る以外には無いのである。 故に人を思うとは坐禅をする事に尽きるのである。 果たして、人を思う究極は、「万人を生(活)かす」である。 是は無上の真理である。 「人を生(活)かす」とは、 世の中、是だけで、子供から大人迄、永遠にして唯一の指針である。 故に正なる進化が在り、其の必然性に拠りて不昧因果なのである。 一切の根源には是が在るのである。 其れが真理だ。 社会的には、物質的、精神的基本的条件を確保して、自らは少欲・知 足にして「人を生(活)かす」、是が人類の理想的在り様である。 極論すれば、「人を生(活)かす」が在れば、坐禅も涅槃も要らない。 一切の根源、大前提為るものが、「人を生(活)かす」である。 無条件に平等に。 如何「人を生(活)かす」か? 故に涅槃である。 涅槃であれば人は生(活)きる。 故に坐禅である。 「坐禅をすれば人は生きる」。 是、究極の真理である 「坐禅をすれば世界は生(活)きる」のである。 涅槃「人を生(活)かす」 三時間睡眠二十一時間 開眼不臥製作 (托鉢) 《 食文化の安定から涅槃迄 》 霊長類(500~600万年前)誕生。 旧石器時代(200万年前~1万2千年前)は狩猟・採取。 新石器時代(1万年前~)に農耕生活始まる。 5500年前古代インダス文明で農耕生活に依る食文化の安定以来、 瞑想が始まった。 是を端緒としてバラモン教(3300年前~)の伝統から生み出された 釈尊の断食苦行によって至り得た中道に依りて、釈尊に「宇宙(生命) の本質」からの開示が為されたのである。 其れをして成道(解脱)と称するのであるが、 此の訪れるべくして訪れ得た刹那の体験為ればこその中道であった のである。 此の刹那無かりせば中道為るものも、単なる諦めにしか過ぎなかった でありましょう。 此の人類史上初めての自他一如の体験ならばこその中道足り得た のである。 死に至る苦行に於いては、其れは我執の極みであり、悟りは訪れる 訳は無いのであります。 無我にして初めて悟りは得られる。 小生、真中道は其れ自体が本質の開示であり、其のものが「覚り」で ある。 故に中道、真中道は其の必然的真理を世界人類完成の為の要と為る 二つの重要なる智慧として受け入れるばかりである。 何と為れば、是を再現する事は、余りに無駄であり、其の無駄を世界 人類に強いる事に為り兼ねないからである。 得られる結果も無駄に他ならない。 無駄で済めば宜しいが、人類に対しては無駄以上の悪影響に為る事 は必至であるからである。 小生も中道に基づいて、測らずも至り得た真理であったからである。 故に、従前の行は自ずから、恰も垢が取れる様に、只々「人を生(活) かす」に徹するのみである。 「宇宙(生命)の本質」は涅槃の「人を生(活)かす」であると云う事は、 今時に於いて人類史上初めて得られた真理であり、自今已後、従前の 負の遺産の再現為ら使めざるべく、只々猛省在るのみである。 人間と云う者は行が在る間は、未だ人間に徹し得ていない。 人間為らざる仏の習気(じっけ)が未だ残っている。不完全である。 普通の人間に為りて、つまり常識的に規則は正しく、何事も、人間に 着陸する時も、其処に徹し得なければ、中途半端で無い、其れだけの ものには為り得ない。 極行から真理を得て無行に戻り、自らを世界中に浸透せ使めねばな らないのである。 行が人間の邪魔をするのである。 行以前、瞑想以前の未分化の人間に迄戻って、原人間の立場から初 めて万人に「宇宙(生命)の本質」、人類の三毒(貪・瞋・癡)を了悟した 三善根(施・慈・慧)、「人を生(活)かす」の人類の根本精神を説き証( あか)す事に徹し得ねばならないのである。 如何なる分野に於いても、老病死為る人間が老病死為る人間を生( 活)かすとは? 自己の何処を以って、斯く在り得るのか? 其れは自己為る存在が宇宙(生命)の分身為る生命として生存して 居り、自己の母体為る宇宙は何処までも、其の究極へ志向(=進化) するエネルギーであると云う事。 そうでなければ、人類誕生の混沌世界から釈尊の延長線上を担う無 我為る小生が今日に於いて、果たしても涅槃に至り得る訳が無いの である。 此の宇宙の本質を思うべきである。 是が世界人類の幸福と平和への最短路である事は不疑なのである。 是をして、ジャンルを超えて「万人を生(活)かす」本源に為るのである。 真中道を只管、受け入れるのみである。 其れにて、世界が一丸と為った在り様を涅槃と言う。 「悟り」、「解脱」では世界を導く事は出来ない。 「涅槃」にして初めて、「世界の指導原理」と為り得る。 「宇宙(生命)の本質」の「人を生(活)かす」の真理を知れば、従前の 負の遺産(原爆、人種差別、ヒトラー等)は消滅する。 《 最終結論と出発について 》 小生が高校進学当時以来、古希に及ぶ今日に至る迄の五十余年間 の宇宙、世界に対して知り得た、至り得た最終結論が「人を生(活)か す」であった。 小生、此処に至る迄は何度生まれ変わっても、正法苦行から繰り返 そうと云う思いであったけれども、此処に至りては涅槃から始めるべ きだと思い至った。釈尊も初転法輪から始めると思う。 修行と云うものは、目的を以って行ずると云うよりも、斯く在るべきだと 云う信念で以って遣るものである。 然るに、「宇宙(生命)の本質」からの啓示とも云うべき「御覚(さと)し」、 真中道は其の在り様を刹那に決定付けるもので、其の過去に戻る事 はもう既に在り得ない。 釈尊が二度と断食苦行をしない様に。 そう言う訳で、無駄はしない。 過去は全て自己の血肉と為って居り、得られたもの、坐禅、悟り、 解脱、真中道、涅槃そして今、常に此の今をして出発点と為し、此の 本質に、只々徹するのみである。 世界七十七億の人類が居るのである。 「万人を生(活)かす」は「宇宙(生命)の本質」の働きである。 是に違(たが)えば、人類は、其の身も心も地獄に堕ち、 是に同(どう)じれば、人間は、其の身も心も涅槃に至る。 刹那生滅の原理に基づく因果の道理は毫釐(ごうり:すこしも)も違(た が)わざる不昧因果である。 今にして思えば、嘗て小生が子供の頃に精神身体医学の世界的権 威の池身猶次郎九大教授を慕って入学した小生の初心を完璧な迄に 根源的に果たし得たものである事は間違い無い。 《 国会中継を観て 》 今の総理と野党女性議員とは、 恰も、子を諭す、聡明な親の如し。 野党の針の山が今後の日本を築く。 政治家の保身安泰が、自ら真剣に為るには未だしである。 矢張り女性の自覚が男性を生(活)かす事は疑いの無い処である。 正にハグする処の話では無い。 日本は世界人類の姿勢を正さ使める。 真の美しさと醜さである。 洗練と忖度とは相容れない。 男の死に際は正に情無く醜い。 与党に在るものは忖度であって、イロハのイが無い。 イロハのイが無いと云う事は与党破綻である。 破綻は無に及ばない。 つまり無い方が善いと云う事である。 正に貪の末路の癡である。 猛省すべし。 一事が万事。 《 不淫戒と不淫快と不動淫快 》 不動淫快とは心因的淫快にも全く動じないと云う事である。 是、涅槃に於いて性欲に関する進化の究極と為るであろう。 動じる事無ければ、全く邪魔にはならないのである。 真中道迄は全く関与しなかったが、坐禅を行じなくなって 不動淫快に至った。 発菩提心は、無関心から始まって、四、五十年来の求道の過程に於 いて宇宙の真理に至り、全ては動じなければ済むのである。 《 令 和 宗 宗 旨 》 少欲・知足、不殺戒、不盗戒、不淫戒(=不動淫快)。 菩提心に依りて、(一)精進(日課等) (二)坐禅…… ・功徳 ・悟り ・正法苦行(初、後千日解脱行) (三時間坐睡二十四時間仏作仏行) ・解脱 ・智慧の深(進)化 (三)「人を生(活)かす」(=涅槃) (四)世界人類の幸福と平和を構築する。 ※ バラモン苦行者の伝統、釈尊中道以前に、坐禅の功徳及び悟りが 無いとすれば、是は正法苦行為らざる苦行の然ら使むる処である。 坐禅の功徳を楽しめば、直に悟り(身心脱落)は訪れるものである。 《 人を生(活)かす 》 人を生(活)かすには、少なくとも自己が生(活)きて居なければならな い。 自己が生(活)きるとは、人を思う心であり、人を思う心が自己を思う 心と為る。 慚恥(ざんち)の念(=自己を恥じる心)は人を思う心に置き換えられ る。無慚愧(ざんき)の者は諸(もろもろ)の禽獣(きんじゅう)と相異な る事無し。 今の恩恵は大抵は、嘗て人を思った分の恩恵である。 此れ迄、人を思った心が全て、今、自己を生(活)かして居る。 故に人を思わざる人は哀(あわ)れ哉(や)、淋(さび)しく地獄へ向か う。 《 女児虐待事件 》 小4女児(10才)が父親(42才)の2年間に及ぶ虐待に因り死に至っ た。母親も其れを阻止し得なかった。 小生、ネットを見ても、此の虐待の原因が判然としなかった。 推察するに、 父親の三毒(貪・瞋・癡。特に淫欲の貪著)であり、人類の悪の根源 為る三毒害の典型である。 貪(淫欲への)からの不満が瞋りと為り、2年間に及ぶ虐待(癡愚)に 明け暮れ、昂(こう)じて死に至ら使めた。 母親は、其れを見て見ぬ振りをし、黙認してしまったのである。 此れが、平和なる世間と云うものの恐るべき趨勢なのである。 世間に三毒害の大穴が開いて居る証拠だ。 ヒトラーを黙認したドイツ国民に等しい。 此の悪の根源為る三毒害を摘発し、撲滅、改善する力が世間に具わ っていないのである。 国民に、自己の三毒(貪・瞋・癡)に対する厳しい姿勢が具わっていな い。 此の貪(淫欲)の、在りの儘の姿を、無関心事として闇に葬り去って しまうのではなく、暴露し、明るみに出して、三毒(貪・瞋・癡)を共に 改善し往く積極性、菩提心を国民の個人レベルで養って往かねばな らないのである。 国政を支配するのも、正に此の国民一人一人の自己の三毒(貪・瞋・ 癡)に対する厳しさ以外には在り得ないのである。 日本国民一人一人が猛省しなければならない。 《 令 和 宗 宗 旨 》 少欲・知足、不殺戒、不盗戒、不淫戒(=不動淫快)。 菩提心に依りて、(一)精進(日課等) (二)坐禅…… ・功徳 ・悟り ・正法苦行(初千日解脱行) (三時間坐睡二十四時間仏作仏行) ・解脱 ・正法苦行(後千日解脱行) ・智慧の深(進)化 (三)「人を生(活)かす」(=涅槃) (四)世界人類の幸福と平和を構築する。 涅槃「人を生(活)かす」 三時間睡眠二十一時間 開眼不臥製本(托鉢) 朝課・朝食――8:00~10:00 托鉢――11:00~5:00 晩課・夕食――6:00~ 8:00 睡眠――11:00~2:00 《 究極為る東洋の神髄 》 「宇宙(生命)の本質」に基づいている人間世界と云うものは、5500年 程前に古代インダス文明に於いて食生活の安定と共に、自ずから安 坐し、心は自然(宇宙)と一体と為り、「宇宙(生命)の本質」からの促 がしに由りて瞑想を生んだのである。 「悟り」への端緒為る此の瞑想はヨーガへと進化し、ヨーガは更に最 終的には解脱を求めての行へと移行し、自ずから必然的に断食苦行 に及び、行為らざる中道を生起し無我と為りて、悟りを生んだのであ る。 無我と云うのは空(から)っぽと云う事ではない。 少欲・知足にして、純粋為る菩提心のみと為っている状態を云うので ある。 人間の諸行は如何なるものも此の釈尊の断食苦行、及び其の結果、 生起した中道には及び得ないのである。 「宇宙(生命)の本質」は涅槃(=「万人が生(活)かし合う世界」)であり 、人間が自由に行に非ざる、大脳新皮質(言語中枢)を涅槃する(= 「人を生(活)かす」)事、つまり修(聞思)及び修行智慧ならぬ修涅槃 智慧こそが如何為るものも及び得ないものであり、其の前段階として の正法苦行(=頭陀行(千日初行))と共に、釈尊八大人覚最終段階 為る不戯論は実践論として完結したのである。 『新道元宗(解脱編)』 ( 1ページ~121ページ) 製本済 『新道元宗(涅槃行編)』 (122ページ~242ページ) 製本予定 『新道元宗(真中道編)』 (243ページ~363ページ) 〃 『新道元宗(涅槃編)』 (364ページ~ ) 〃 初千日(解脱)行→解脱→後千日(涅槃)行→真中道→涅槃 解脱行とは解脱を生む為の行。涅槃行とは涅槃(真中道)に至る為の 行。 解脱以降は初解脱行の延長線上に在り、極仏行である。 是を称して涅槃行とする。 是が真中道を生み、此処から涅槃に至る迄には、是迄の解脱・涅槃行 の習気(じっけ)から涅槃「人を生(活)かす」に只々徹し行くのみであ る。 《 余りし刹那と坐禅の真価 》 常識と云う氷原を刹那の繊細さに於いて進入し往く、砕氷船の如き 坐禅。砕かれた氷原から現れる海水は無尽蔵である。 恰も肉眼下では見えなかった世界が、種々の顕微鏡下於いて別次元 の世界と為りて現れたが如し。 金剛般若経には、 「宇宙は果てし無いから人類の「生き方」も果てし無いものだ。」 と云っ た考え方が在るが、 釈尊の中道は正に其の否定として生(活)きた。 小生の真中道も釈尊同様、正に其の否定為る体験であった。 其処に至るまでの正念相続も、大気圏外に出た宇宙船の如く、其処 迄」のものである。 以降は、其の正念相続は、恰も大気圏外に出た宇宙船の如く、既に 血肉と為って居り、後は只管に其処に得た熟果「人を生(活)かす」の 涅槃智慧を本質から代弁する事に何処までも徹するのみである。 其れをして、解脱為らぬ涅槃と称するのである。 「窮鼠猫を噛む」と云う諺がある。 窮しない限り生じ得ない。 窮する事が不可欠なのであります。 死、貧、失敗等に縁ってであり、機械的、保身では窮し得ない。 人間には、機械的前進から、停(留)、後退、負け、マイナスと思え るものが無ければ、目覚しき進歩は為し得ない。 常識的でない、素晴らしきものは、其処にこそ潜んでいるのである。 但し、其処に不可欠なるもの、此れだけはと云うものが要る。 つまり、長年の蓄積に拠る、今と云う生命の在り様、自己に対する 大枠と慚恥である。 此の今と云う刹那在ればこそ、是が道を拓く一歩と為り得るのである。 若し、是無ければ、此の一歩は永遠に生み得ない。 恰も、極の氷原を割って、前進し行くが如くに、 割り入る筈の無い世界を切り拓き行くものである。 今と云う頂に達し得て、小生にとりて既に為すべきものを見失ってしま って、余り足る刹那を如何にしようかと当惑した。 此の当惑の一刹那の前に立ちはだかって、是と四つに組んだ。 其の時気が付いた。 此の覚為る刹那に至り得るのが、唯一坐禅であったと。 改めて坐禅の真価を見直したのである。 一人前の人間に為るには絶対に坐禅無くんば話に為らないのである。 常識的な事、或いはオリンピック的なものでは、決して及び得ない 真実の、真理の世界である。 常識的、力の相対的世界でない、誰も入り得ない、気付き得ない絶対 的真理の世界である。 人間一度は真摯に坐禅に取り組む事無ければ一人前の人間とは為 り得ない。 老若男女を問わず、人間の可能性としてである。 改めて、坐禅は生命と同等の、否其れ以上の価値の在るものである。 無駄な一刹那は在り得ないのである。 刹那生滅の原理に基づいて進化し往くものであり、其の可能性は無 限である。 是は坐禅は組まなくても「人を生(活)かす」と云う涅槃の智慧への 渡し舟としての坐禅であったのである。 此処に至れば、もう既に形式的坐禅は不要である。 此の至り得た一心で更に進化し行く、此の涅槃の智慧は果てしない。 小生の、此の製本の一歩一歩が砕氷船の如きものである。 刹那に取り組めば、新たな人類未踏の世界の可能性が生まれ出る のである。 其れ迄、知り得なかった生命の功徳(=恩恵)、悟り(身心脱落)、解脱 真中道、涅槃等、全て坐禅に拠りて至り得たものであり、 坐禅の恩恵足る哉、測り知れない、無限の可能性である。 若し、坐禅無くんば人生の苦、四苦は正に坐禅を生む為に在る様な もので、釈尊も禅定無ければ、四苦の滅苦も無かった。 坐禅無くんば、生命為るものは砂を噛むが如く味気無い。 生きる意味、価値、生き甲斐の無いものである。 世界人類が最も信頼を寄せるものは、絶対為る真理(実)である。 其の涅槃に基づいて、世界を構築しなければならない。 見性、坐禅の功徳(恩恵)に浴し、自ずからにして悟り(身心脱落)に 至り、更には正法苦行(初行)に拠りて解脱し、涅槃行に拠りて真中 道に至り、無量為る涅槃智慧の宝蔵に達し得て、人類救済の無上に して無量の智慧を養わねば為らないのである。 三毒(貪・瞋・癡)に拠る二元相対為る、勝敗、損得の悪知恵を生む のでなく、人類が世界人類を生(活)かす為の無限の智慧を得るには 坐禅をして、氷原下の海の如く、其の宝蔵に至るべく、刹那に及ぶ集 中力を養わねば為らないのである。 純粋に世の中には大脳新皮質(意識、分別)から生まれる産物と、 自我意識、無意識、分別を超えた本源為る「宇宙(生命)の本質」から 生まれる産物とある。 後者の宇宙から生まれるものと前者の分別から生まれるものとの関 係は釈尊手掌上の悟空に喩えられる。 宇宙(生命)の本質の働きは、人類をして其の様に為さずには措かな いであろう時間の問題である。 最短路を歩むべし。 《 男女平等 》 三毒に基づく男尊女卑は力に拠るものである。 真の男女観を具えるべし。 今の男女平等は完璧ではない。 其の為には老若男女を問わず、「花より団子」為らぬ、花志向でなけ ればならないのである。 慚恥(ざんち:恥を知る)の心無ければ、諸(もろもろ)の禽獣と相異な る事無し。 其の最短路は、正法苦行(初行)に拠りて解脱するに在り。 既に無上無量の智慧を得る為の涅槃妙心は得たり。 小生、日々、毛髪一本のズレの生滅に関与するが如し。 嘗て釈尊が比丘に250、比丘尼に348の具足戒を課したのは、 夫々の特質を踏まえての事である。 鐵漢の初行(正法苦行)完了後と釈尊の断食苦行後の中道後の成道 以前、つまり解脱以前迄は寧ろ女性に負う処が多いのである。 何と為れば人間の究極の目的は涅槃に在るからである。 涅槃に至るには解脱しなければならない。 解脱するには初行(正法苦行)が不可欠である。 初千日行をする為には命も金も一切を放捨せねばならない。 其れだけの菩提心の事である。 そして人類の種の存続は根本問題である。 其処に、是等二大目的を達成する為に男女の夫々の役割分担が在 る訳である。 其れ故に解脱以前に於いては、男女は平等に是等の人類の二大目 的を達成せんが為に世界が一丸と為りて、此の初行(正法苦行)者を より多く打ち出して解脱せ使め、如来常在せ使めて、無上にして無量 為る涅槃智慧を生み出して世界人類の幸福と平和を完成しなければ ならないのである。 そう云う訳で、男は金と覇権とセックスではない。 人類の究極の目的を達成する為に本来の男の使命を果たすべきな のである。 其の為には世界連合を十二分に機能させ得る為の組織として無上、 無量の智慧を生む為の機関を構築しなければならない。 スポーツ頑張れば済むではない。 心を養うべきである。 中道・真中道に基づいた円環(相)為る初行と云う未踏の向上一路と、 既得の向下一路の同時進行(化)が在れば、十分に機能し得るので ある。 人類の進化は進歩と、如来常在の為の退歩の両脚在りて初めて、 十二分に機能し得るのである。 本来人間と云う者は三毒(貪・瞋・癡)為る生き者であり、其の本源が 三善根(施・慈・慧)であるからだ。 進化には進化するだけの意味が在って進化しているのであり、身の 進化の究極為る大脳新皮質は正に人類救済の無上、無量の涅槃智 慧を生む為の向上一路門(見性→悟り→正法苦行→解脱→涅槃)に 至る為の進化であったのだ。 其の深き「宇宙(生命)の本質」の恩恵に報いるべく、人類は、釈尊手 掌上の悟空の如く、三毒に基づいた二元相対の対立意識から生じた 悪知恵を逞(たくま)しくするのでなく、人類救済の、生(活)かす為の 深き無量の智慧の宝蔵を開かねばならないのである。 有限為る西洋の産物には東洋の無限の働きを得なければ人類救済 が不可能である事は現実を見れば、言う迄も無く明らかであり、疑う由 (よし)も無い。 「急がば回れ」。東洋の「退歩の脚」に拠りて真理に到達し、根底から 宝蔵開けて、無上、無量の智慧を生まねばならないのである。 《 精神世界の究竟 》 5500年程前古代インダス文明に於いての農耕生活に拠る食生活の 安定に随伴した瞑想、及び其の後4000年程前のアーリア民族のイ ンド定住以降にバラモン教(古代ヒンズー教)は成立した。 其の四住期(学生期、家住期、林住期、遊行期)に則(のっと)り、 2500年程前に解脱を求めてのヨーガ断食苦行から釈尊(最後身)が 中道に拠って解脱成道(=ヨーガを禅定と転ず。)し、今時に至り涅槃 行から鐵漢(最後身)が真中道に拠って涅槃「人を生(活)かす」に拠り て仏道を完成したのである。 釈尊はカースト制度には反対であった。 是は4000年程前の定住アーリア人には、原住民の感染症に対する 免疫抗体が未だ具わっていなかった為、アーリア人には死者が続出 し、其の打開策としての人種差別であったと云う説もあるが、小生は 原初的神話的解釈の方を信じる。 と云うのは、「宇宙(生命)の本質」と云うものは永遠なる恒常普遍の 真理であり、人為的(自然、IS等)破壊やウィルス等では、如何にも為 らないものであるからである。 上述の此の一連の精神世界の萌芽が何故に生じたのかと言えば、 其れ等の根源為る「宇宙(生命)の本質」からの促がし、及び其れに 基づく菩提心に拠るものである。 是等の精神世界の要は、初行と涅槃であります。 ・解脱を生む初千日(解脱)行―――(最後身の為) ・涅槃(智慧)「人を生(活)かす」――(世界人類の幸福と平和の為) 世界は此の要を規範として、世界再構築しなければ為らない。 其の他の規範は二次的なものであり、何よりも此の要に徹する事が 最優先である。 其処には、自分だとか、金だとか何も無い。 其れ等は、此の要の二義的なものとして在る。 自分に何が出来るか? 出来る事は、「宇宙(生命)の本質」を言語化して、人類に伝える事で ある。 純粋に、此の「本質の代弁者」として二十四時間三百六十五日、是に 徹する事。後は余裕の然ら使むる処に過ぎない。 《 本質から人への開示 》 無我為る「宇宙(生命)の本質」から、我として存在する我々人類への 開示は、5500年程前の古代インダス文明の瞑想の如く、そもそもの 最初の段階で、我々の迷妄から発(菩提)(=道)心への促がしとして 、常に働きかけられているのであるけれども、其の受け取り方が人根 に依りて種々様々なのである。 無我為る心には、浅きものから深きもの迄、刹那に感応道交、見性、 悟り、解脱、真中道等としての本質が開示される。 そして最終的に、涅槃(智慧)の「人を生(活)かす」働きとして、本質 其のものに同じ行くのである。 此の時、世界人類は最も幸福と平和を享受する事と為る。 我々人類と本質との関係は、其れからの促がしに始まり、次第に深き 刹那に導かれ行き、最終的に本質其のものに同ずる事に拠りて、受 けた生命への報恩と為る。 《 菩提心の新世界 》 小学校、新入生の如し。 何の先入観も無く、唯、其の通りに良い子で、「促がし」に導かれてー。 小生から出るものは、只書くと云う事のみ。此処だけが違う。 「行」でなく、共に歩む。新入生の良い子で、一歩、一歩………。 〔六道(趣)〕 | 〔仏道〕 | 西洋 ←|→ 宇宙(生命)の本質 (東洋) | IS等≦自殺<菩提心<悟り、解脱<涅槃(智慧)< 「人を生(活)かす」<「人を生(活)かす」智慧(実践)世界組織 《 仏道の最先端 》 修(「人を生(活)かす」世界組織構築)智慧・実践。 国連ならぬ世界連合の再構築。 世界規模の「人を生(活)かす」智慧を生み、実践する世界連合を 再構築する事。 是が究竟仏道であり、仏道の究尽也。 動物の本能は人類の菩提心へと 進化した。 菩提心知らざる者は動物と相異な る事無し。 《 生きると云う事 》 「生きる」と云う事は大変な事だと思った。 生きる事、其のものに全ての意味が在ると云う事。 動物には、「生きる」と云う事は、大体喰って、寝るだけ。 後は、他との接触に因って、喧嘩と生殖。 然るに、人間が「生きる」と云う事は、其れ自体、大変な事である。 と云うのは、人間は動物ではない。人類特有の大脳新皮質に至る迄 の諸機能が進化しているから、動物の生き方の様に単純では済まさ れない。 其処には、自ずから人間為るが故の、斯く足る意味と価値と恩恵、 歓喜び等悲喜こもごもが在る訳であります。 人類足る者が在るべき理想像として、「人を生(活)かす」と云う無上 原理、真理が生まれるに至り、其の「宇宙(生命)の本質」の無上甚深 微妙為る働きを具足した世界の在り様を涅槃と言う訳であります。 つまり、生きると云う事には不可避なる進化の必然性が在る。 「宇宙(生命)の本質」からの促がし→坐禅→悟り→初千日解脱行→ 解脱→後千日涅槃行→真中道(=「行」→「人」)→涅槃(=「人を生 (活)かす」等。 人類は、其れをして神であるとか、自己の外に指導原理を委ねている けれども、其れは他に委ねるべきものでなく、自己実現せねばならな いものである。 其の指導原理を自己実現する事こそ人類の最重要課題である。 其れが古代東洋に於いて、其の「宇宙(生命)の本質」からの促がしに 拠りて、人間は菩提心を発し、瞑想、ヨーガ、苦行、「悟り」へと至った のである。 由って「生きる」と云う事には必然的に「悟り」が進化の過程に於いて、 人間である事の経るべき通過儀礼、具えるべき資格と為るのである。 《 坐禅無ければ人類無し 》 人類に悟り無ければ人類無し。 悟り 無ければ 解脱無し 解脱 無ければ 真中道無し 真中道 〃 涅槃 〃 涅槃 〃 平和 〃 故に悟り 〃 平和 〃 悟り 〃 人類 〃 坐禅 〃 悟り 〃 従って、人類に坐禅無ければ人類無し。 人類史上、此れ程の命の死活の真理(実)の体験を予測した事は無 かった。前代未聞である。 小生が未だ此処迄徹し得ていなかった事に他ならない。 若し、真に徹し得て居れば、直に此処に至り得る事は必定だ。 其れと共に、是迄の小生の刹那、刹那に狂いが無かった事に他なら ない。 不昧因果、進化の究極である。 只管、徹底在るのみ。 進歩と退歩の両脚無くんば人類は成立せず。 円相(還)が、其の在り様を象徴している。 世の中は、オリンピックでは片付かないのである。 「人を生(活)かす」の涅槃妙心である。 其れに違(たが)えるが故に、其処に刹那生滅の原理に基づく因果の 道理に従って三毒悪害としての不幸、戦争、地獄に陥るのである。 生きると云う事は動物の如く単純なものではなく、 日本の風土の微妙甚深にして繊細なる四季の理(ことわり)の如く、 「宇宙(生命)の本質」からの促がしの働きが常に及んでいる。 日本に於いて釈尊の正法が結実したのにも、頷(うなず)かれる訳で あります。 本質に基づく「生(活)かす生(活)きる」は永遠なる恒常普遍の 真理である。 世界人類を平等に幸福と平和に導くには、人類の三毒(貪・瞋・癡)の 根である貪著を断つ事が要であるが、貪著を離脱するには「解脱」が、 故に初行が不可欠と為る。 《 天命開悟 》 天命とは「宇宙(生命)の本質」の事である。 天命(=「宇宙(生命)の本質」)を覚(さと)らされる体験を覚天と為す。 真中道とは正に覚命体験である。 (釈尊は成道で梵天勧請(=「宇宙(生命)の本質」からの促がし)に依 りて初転法輪された。) (見性→悟り→)初行→(解脱→真中道(=覚命)→)涅槃(=本質) と、迷妄から一歩一歩、諸段階を経て漸次、為り行き、最終的に「宇宙 (生命)の本質」に基づいて人事万端が為され行く様に為らねばならな いのである。 釈尊の中道と鐵漢の真中道の両体験は人類が追体験する、無駄な 労苦を為すのでなく、「宇宙(生命)の本質」の真理として、初行を実践 し、涅槃に基づいて人事万端を為す事に尽きるのである。 解脱は必然的に、初行に何時しか付随するものである。 真の「知命(=天命を知る)(孔子『論語』)」とは「覚天」の事である。 嘗て伴老師が、初見後間も無く、「孔子の様な人だ。」と言われた事が あったが、古希にして真の「知命」に至り得て昔を思い出した。 《 世界新構築の根拠 》 坐禅に拠り、悟った段階で個人の救済は既に済んでいる。 後は「宇宙(生命)の本質」を吾身に体現する迄のものである。 其処に至り得る迄は、真実には得心し得ざるものである。 故に伴老師は小生に、出家以前に於いて、少なくも千日行を課された のである。 「宇宙(生命)の本質は」人類をして涅槃(=万人が万人を生(活)かし 合う世界)に至ら使むるべき、刹那生滅の原理に基づきたる進化する 力(エネルギー)を具足するものである。 一旦、真中道に拠りて涅槃を体現すれば、全ての迷妄は払拭され 涅槃が現前する訳であります。 其処迄至れば、世界人類をして平等に幸福と平和を享受し得るべく、 世界を新たに構築し、実践する以外には無い訳であります。 正法苦行(=初行)に拠りて真徹した菩提心は、自ずから戻るべき所 (=鉄牛寺)へ戻るが、其処でも同様に、更に戻るべき所(=実家)へ 戻って、自ずから正法苦行(=後行)を即決(五十五歳~)したのであ る。 初行完了(四十歳)から鉄牛寺へ行く迄の十三年間程は坐睡が横臥 と為り、仏作仏行が必要な労働時間に費やされただけで全く正法苦行 からは一歩も出ていない。 其の正念相続(=動中の工夫)の約十三年間でありました。 五十五歳~七十歳の十五年間は後行以降で、矢張り全く同様に正法 苦行からは一歩も出ていないのであります。 三十三、三十四年間、正法苦行一筋であります。 彼の釈尊も、此処迄は至っては居ない。真の最後身である。 是は進化の途上当然であるが、此処に至れば、身の進化同様、後は 只管、初行と共に涅槃智慧を生むのみである。 釈尊の真価は人類史上初めて、「宇宙(生命)の本質」を体現(解脱)さ れた処である。 《 真実は真理を開示する 》 そもそも「悟り」と云っても、人には殆ど全くと云う程無関心である。 況してや「坐禅」等と云うものは面倒な、拒絶反応すらある。 小生は医学部専門課程に於いては何等の魅力も持ち得なかった。 それで、一体何をすれば自己を欺かないものが在るのか?と真剣に 暗中模索した。 150年程前、実存主義哲学創始者、キルケゴール(デンマーク)( 1813~1855)。『死に至る病』で人間存在の実存(=絶望と死)の 救済をキリストに求めた。 小生には信仰心は無かったが、暗中模索の結果、宗教以外には対 象と為るべきものが無かった。 印象に残ったのはキリスト教のアッシジの聖フランチェスコ(伊)( 1182~1226)であった。 其れと釈尊の坐禅の小冊子であった。 其の小冊子で刹那に必然不可避的に方向付けられたのであるが、 今の小生が在るのは、曹洞宗管長の下の役職に在りながら在家の 青少年を指導された吾師の御一考(=千日行)、及び其の終生に亘 る御本懐の賜に他ならない。 今の全ては、自己を欺かない坐禅が此の暗闇中の僅かなる一点の 星の輝きと為りて遂に宇宙を開示するに至った事に拠る。 《 スポーツの三態(氷と水と水蒸気) 》 相撲の白鵬と野球のイチロー氏と柔道のラシュワン氏(エジプト、山 下氏と対戦)の夫々のスポーツの在り様に、今後の世界人類の在り 様の縮図の如き三態を観た。 夫々、優勝の勝負(我執)と日本人の優れ足る特質(誠実、質直さ)と 無私為る究極のスポーツ精神である。 氷では生命を育まないし、水だけでも濁るし、水蒸気にして初めて 循環し、生(活)き、生(活)かす。 《 行と云うもの 》 人生は行ではない。 そして、仮令解脱しても行が終わる訳ではない。 果てし無き極行(仏)が在り得るのである。 其れ等は大気圏外に出た宇宙船の如きもので、何れは涸渇するもの であるけれども、其の見極め、つまり地上に帰還するタイミングと云う ものは、其処を見極め得た者以外、正法苦行と云うものは無い。 従って、此処を誤ると、仮令(たとえ)正法苦行と云えども不可避に地 獄に堕ちる事必定である。 何と為れば、「宇宙(生命)の本質」の「人を生(活)かす」事に違(たが )えているからである。 是が、今日の世界の現状と云うものである。 人命と云うものは、大昔から然るべくして然ら使められた、刹那生滅 の原理に基づく、無上甚深微妙為る存在であり、毫釐(ごうり:ほんの 少し)も違(たが)わざる必然性(=因果の道理)の基に成立している ものである。 其処を弁(わきま)えた人間にして初めて其の見極めを付け得る人間 と言い得る。 斯様にして、「宇宙(生命)の本質」其のものに同じた存在と為るだけ である。 そうして、「万人が生(活)かし合う」事に徹し得ている在り様を涅槃と 謂い、此処迄徹し得れば、既に涅槃行として正念相続された菩提心で 、其れ以外敢えて行として為すべきものは無く、其れが人生其のもの である。 斯くして行が本質(=宝蔵)に真徹すれば、無尽蔵為る宝蔵、自ずか ら開けて受用如意為らん。 そうして、愈々(いよいよ)本質(=「人を生(活)かす」)に基づいて、 大脳新皮質の言語化に行(=正念相続)を忘れる程に真徹するので ある。 涅槃とは、三毒(貪・瞋・癡)でなく、「人を生(活)かす」の三善根(施・ 慈・慧)の本質に基づいて諸能力を尽くしている状態を云う。 そもそも、行は釈尊成道(=解脱)に拠りて行足り得たのである。 行は初千日解脱行を以って究極の行と為すべし。 然るに如来常在為ら使むるべく、最後身として常に、真中道以前の 後千日涅槃行を護持すべきものである。 《 無類の偉業 千日初行 》 人間の身心を最大限に生(活)かすのは坐禅に優(すぐ)るるもの無し。 成らば、人類は坐禅を主力と為すべきである。 しかし、現実にそうでないのは、未だ人類の真の労苦が及ばざる為で ある。 人類は是に基づいて行動すべきである。 真の利他は自利から始まる。 自らを利するとは坐禅(行)の事である。 利他とは坐禅(行)の事である。 自利利人の法は坐禅の功徳に基づく。 坐禅とは形を整える事にすぎないのではない。 坐禅とは人類の永遠の理想形なのである。 何故か? 臥でもない、動でもない。 身心共に最も覚して世界人類の幸福と平和の智慧を生み、而も無窮 也。 坐睡とは坐禅した儘、眠(ねむ)るのである。 眠るのに、坐相を崩さないと云うのは、身心の覚醒の極みである。 故に、(托鉢か就業、自活に拠る)正法苦行(三時間坐睡二十四時間 仏作仏行)と云うものは、如何なる人事も及び得ない、比類するもの の無い人類の偉業である。 故に、是を以って人類は未踏の解脱に至り、「宇宙(生命)の本質」の 真理の開示を体験し得るのである。 此処に初めて、真の自利利人の法が在り、物心一如の世界が在る。 《 世界連合 (世界精神オリンピック委員会) 》 此の題目を考えながら、小生が嘗て大学入学前に池見猶次郎教授 の精神身体医学を志していた頃の夢中に見た、眼前の、遥か彼方に、 今から思えば、恰も小生の将来を予感させるが如く、大海原に浮かぶ 虹色の細かな水滴に鏤(ちりば)められた広大なる巨大円輪の荘厳な 微動(かす)か為る重厚な存在感を思い出した。 是も今から思えば「宇宙(生命)の本質」(仏性)からの促がしに他なら ないと思う。其れ以外の思い様が無いのである。 さて、退歩の脚為る千日初行(三年間周期)十名を打ち出すべく構成 された世界精神オリンピック組織委員会は三年毎の世界精神オリン ピックとも謂うべき後千日涅槃行者(最後身の打ち出し)一名と正法 苦行者(初千日解脱行)九名の計十名を打ち出すべく組織されるもの である。 オリンピックでメダルを戴くのでなく、精神オリンピックにて世界人類に 幸福と平和を構築する処迄、人類は進化しなければならないのであり 、其処迄の労苦が未だ為されない儘に為ってしまっている。 未完成である。 《 覚天:天命(=本質) を覚(さと)る 》 「悟り」及び「解脱」は真中道の「覚(さと)り」には及ばない。 解脱は覚天の為に在るのである。 釈尊御遺教八大人覚に於ける最終の修智慧と不戯論は、其の後、 必然的に「宇宙(生命)の本質」の働きに拠りて、天命(=宇宙(生命) の本質)の如何なるものであるかを奇跡的に覚(さと)り得て、覚天と 涅槃智慧が進化を遂げたのである。 釈尊に於ける不戯論とは嘗て釈尊に影響したであろうウパニシャッド 哲学の形而上学的把握等も含めての戯論であるが、小生に於ける 悟上に得悟為る、覚天(=真中道)以前の解脱後の坐禅行(=後涅 槃行)と云うものは初解脱行以来の正法苦行の習気(じっけ)とも云う べきもので、潜在(無)意識、及び意識し得ない信の領域為るもので ある。 然るに、其れ等は明らかに覚天(=真中道)された事に基づきて、即刻 「人を生(活)かす」べく涅槃智慧を生み出して世界人類の幸福と平和 を構築しなければならないのである。 斯様に、不戯論の延長線上に真中道為る覚天が在って初めて修智慧 (聞思と行の智慧)から更に、「行」に非ず「人」だ!の覚天在り、そして 必然的に涅槃智慧つまり「人を生(活)かす」智慧を生むのである。 此処に至りて初めて、仏道は完成し、坐禅(行)は「人を生(活)かす」 智慧を生む為の渡し舟(手段)に過ぎないと云う事が明らかと為るの である。 「悟り」より解脱行(=初行)に至り、機熟して解脱し、更に以降の涅槃行 (=後行)は真中道に拠りて覚天を得、涅槃に入る。 覚天(=真中道体験)無くんば仏道完成せず。 此処迄は大愚でなければ為し得ない。 真賢とは大愚の事也。 大愚の極みが覚天(=天命を覚(さと)る)也。 然るに、大愚は大愚に納まらず、極海の大雪原を其の極点に至る迄 割り入るが如き狂愚為るべし。 「宇宙(生命)の本質」は人類が進化する根源的エネルギーである。 宇宙の本質は無始無終の、常に、刹那から無量劫に亘る生滅の無 常裡の進化の途上にある。 進化とは人類に於いては向上一路の事である。 今や、究極為る「万人が生(活)かし合う」無私為る涅槃智慧の進化に 他ならない。 《 鐵漢が使命 》 吾命は真理を人に伝え遺す為に在る。 其れは、宇宙の心が「人を生(活)かす」であるからである。 此れに違(たが)うと地獄を生み、此れに同ずると幸福と平和に至ると 云う事である。 是は永遠なる恒常普遍の真理である。 宇宙から小生に、此の真理が開示されるのに五十年間程掛かってい る。 一体誰が、此の真理を説き得ようか? 此の真理を説き得るのは、此れを覚(さと)った人間のみだ。 此の覚りは刹那に為された。 此の一刹那を機に、其れ迄の三十五年間程の坐禅(行)は完全に消 滅した。 此の一刹那は完全に不測の偶発事であった。 唯、宇宙の開示に拠りてのみ、初めて覚し得るものである。 此れは釈尊成道時の梵天勧請に拠りて初転法輪が為された如く、「 宇宙(生命)の本質」からの促がし無ければ仏道は生じ得なかったの であり、小生も宇宙の働きが小生を通して刹那に開示されたのである。 此の真(事)実から小生が得たものは、人類の至宝中の至宝である。 人類に此れ以上の宝物は在り得ないのである。 人類が、望み得る事すらも在り得ない処の宝物に違い無い。 此の、宇宙が本具する処の仏性は、正に仏道の仏道足る根拠である。 正に此れ以上の究竟は無い。 求道者は皆、此の至宝を手に入れんが為に修行の途上に居るので ある。 此れからの小生の使命は只管、此の真理(=仏性)を命在らん限り、 人に伝え遺す事である。 此の真理は手に入れようとして為し得るものではない。 只、小生を最後身として、世界が新たに構築されなければならないの である。 《 構えの中身 (要) 》 宗教の結論は「人を生(活)かす」である。 何と為れば、 宇宙(生命)が人類を生(活)かしたからだ。 其れで解らない者は千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)に 向かう以外無い。 此れが真理である。 小生が医学生の時、 自己の本意を遂げるには、何を選ぶかで宗教を選んだ。 古希にして、其の選択に狂いは無かった。 不昧因果。 毫釐(ごうり:ほんの少し)のズレも無く、である。 其の結果が100%出るのである。 吾師が、小生に“不昧因果”の書を遺されて居られた。 容れ物は付随物であり、実(中身)無くんば全く何の価値も無い。 千日行と「人を生(活)かす」が実である。 構えは大きいが中身は喧嘩(殺し合い)だ。 膨らみ過ぎて、恐ろしい程締(しま)りが無い。 今後真価を問われる。 「人を生(活)かす」が中身、構えは其れに付随する物である。 解らねば千日行から入る以外に無い。 《 宗教の結論 》 宗教の究極は「人を生(活)かす」である。 生かせば生きる。 此れが涅槃だ。 此れは解脱を貫く。 解脱は涅槃の為に在る。 其れが無我為る宇宙(生命)の本質である。 此れが人には菩提心と為る。 究極的に其処に神も仏も無い。 其れを体験するのが坐禅行だ。 坐禅行は涅槃智慧を生むに転了するのみ。 《 「自未得度先度他」の心 》 『自未得度先度他』 「自らは未だ得ていなくても、まず先に他に得させてあげる。」 と云う菩提心(=最高の悟りの境地)を起す発菩提心である。 此の心は真理に同じる(=信じる)力で、己を空しくしなければ出来な い事である。 『老若男女を問わず、此の心を発(おこ)せば既に導師であり、慈父で ある。是仏道極妙の法則である。』と道元禅師は修証義に説かれて いる。 小生は此の法則の根拠が明確でなかったが、真中道として覚天(= 体現)する事に拠りて初めて明らかと為ったのである。 測らずも、身心脱落と共に、初めと終わりに於いて道元禅師に合致し ている。 釈尊の正法は禅師の『正法眼蔵百余巻』に余す所無く説き遺されて 居る。 小生が十五年程前、鉄牛寺へ戻った際、曹洞宗の月報に、当時の管 長が「十五年後位に道元禅師級の人が出る。」と語られていたのを見 た。小生丁度其れから十五年に為る。 恐らく吾師、伴老師が亡くなられる前に話されていたのか?と思った。 師と別れる時に、「道元禅師は詩人だ。」と小生に言われた。 因果の道理、歴然として私無く、毫釐も違わない。 《 閻 魔 大 王 》 自己を看るのは、最終的には自己以外には無い。 地獄も極楽も、閻魔は自分以外には居ない。 閻魔を他に委ねるべきではない。 閻魔が自分である事を忘れない事だ。 自己を認める最後の番人だ。 是は全て済んだ涅槃人の、最後の慚恥(ざんち:恥を知る心)である。 地獄極楽を生かすも殺すも自心一つの問題である。 《 本来無一物 》 海には底が在るが、人間には底が無い。 無意識から死の淵、無限の宇宙へ開かれている。 中国禅宗、六祖慧能禅師の詩。 菩提本無樹 明鏡亦非台 (菩提に本から樹等無い) (明鏡にも又台等無い) 本来無一物 何処惹塵埃 (本来無一物) (何処に塵埃を惹かん) 「菩提、本(も)と樹無し 明鏡も亦、台に非ず 本来、無一物 何れの処にか、塵埃を惹かん」 是は物の話では無い。地獄も極楽も一切ひっくるめてだ。 小生、学生時代、此の「無一物」が気に入って壁に貼っていた。 道元禅師は、此の中国禅宗初祖菩提達磨下、中興の大禅匠、六祖 慧能禅師を崇敬私淑せられ、『正法眼蔵』中に讃仰し給う事97回に 及んだ。 涅 槃 100%、只管 「人を生(活)かす」 涅槃智慧への 進化の世紀だ !! 《 狂 愚 鐵 漢 》 小生、大愚 鉄幹と云われたが、 癡ではなし、狂愚為る可し。 吾師は老古仏、愚禿 鐵牛と云われた。 小生は、狂愚 鐵漢為る可し。 狂愚と云うのは、一歩一歩の、歯車の一歯一歯の噛み合わせに拠り て終極迄歩むと云う、恰も極の氷原を砕破進入し行く砕氷船の如き 歩みの事である。 《 同事と云う事 》 道元禅師は『修証義』で菩薩の利他行(布施、愛語、利行、同事)中、 『同事と云うは不違也、自にも不違也、他にも不違也、譬(たと)へば 人間の如来は人間に同ぜるが如し、他をして自に同ぜ使めて後に自 をして他に同ぜ使むる道理在るべし、自他は時に随(したが)うて無窮 也、海の水を辞せざるは同事也、是の故に能く水聚(あつま)りて海と 為る也。』と。 此の同事に於ける他の他者を「宇宙(生命)の本質」に置き換えれば、 つまり、向上一路門の極(仏)行(=涅槃行)から覚天して100%「人を 生(活)かす」涅槃へと転了して同じ、向下一路門に於いては地獄に 在りながら動じる事無く不動にして両極共に極め尽くして一円相を為 し、自他一如を無窮に成ずると共に、 自己の本質と宇宙(生命)の本質と同一である事を覚して(=覚天)、 其の涅槃智慧を完成させ行くと云う事であります。 哲学的に申せば、自他一如と嘗てのウパニシャッド哲学の梵我一如で あります。 斯様に、東洋に於きましては、哲学と宗教の境界が無い処が東洋の 特質であり、古代日本に於いても聖徳太子は仏教を根本に治世され たのである。今後の世界を導く要足るべき処であります。 《 保身と云う事 》 人類は総じて保身至上主義である。 「宇宙(生命)の本質」は「人を生(活)かす」である。 人類は此の真理に違えているのである。 従って、世界は自ずから地獄に為るのである。 保身とは消極的造悪である。 無関心と云う事がそうで在る様に。 真理から目を逸(そ)らす、背(そむ)ける、保身の為に。 世界人類が総じて保身ではなく、「人を生(活)かす」でなければ、 世界の不幸な人々、悲惨な人々を救う事は不可能である。 人類が高貴な行為と思い為して来た聖戦は宗教界での忖度の最た るものである。 現実上では殺し合いに他ならない。 世界中に蔓延している忖度為るものは保身の最たるものである。 是も事実上は消極的造悪に他ならない。 若しも造悪が世界人類をして幸福・平和に導くものであるならば 世界は既に極楽であるに違いないのである。 然るに世界は依然として敵対、対立して居るではないか。 即刻、聖戦其のもの、忖度其のものを抹殺するのみ。 其処にこそ、道は拓(ひら)かれるのである。 一人残らず、人類は「宇宙(生命)の本質」である「人を生(活)かす」と 為るべし。 是、無上の「生(活)きる」也。 《 アメリカの保身 》 米国には、 世界の主導国家として、世界に対しての寛容さ、寛容なる精神を期待 する。 主導国家として、不可欠為るものであると信じる。 そして、米国は中東を撤退すべきではない。 何の為に米国が在るのか? 米国の撤退は中東を地獄に陥れるのだ。 撤退すべきではない。 《 根源からの世界構築 》 人間諸能力の根源を為す処の、一切の道具を用いず、純粋に本具せ る「宇宙(生命)の本質」(仏性)からの、道具を用いる人間諸能力以 前の原能力の働きに基づいて(初)千日(解脱)行を行じ、其処から 培(つちか)われた涅槃智慧に拠りて、人類の諸能力を生(活)かす事 に拠りて、世界人類の幸福と平和を新たに構築して行くべきである。 是を世界連合の核心と為すべきである。 此処に於いて、初めて世界人類は地球のリーダーとしての信頼を得 る事と為る。 是は精神世界のオリンピック足るべし。 斯うした人間の退歩の脚に関わらず、 人類の進歩とされる、大脳新皮質の突っ走り、 特に科学的軍事対策等、 人類の方向性が、「宇宙(生命)の本質」に違える方向に走ると大過 誤と為るのである。 宇宙(生命)と云うのは、其の様な人類の小細工では全く太刀打ち出 来ないのである。 ゆめ、「宇宙(生命)の本質」に違える事無く、少なくも同じる、畏怖す る心無くして、人類の傲慢さで生きて行ける訳は無いのである。 不昧因果である。 貪業報だ。 《 覚天 (=真中道) の真価 》 坐禅→功徳(見性)→悟り(身心脱落)→正法苦行(初千日解脱行( 解脱の為))→覚天(真中道:「宇宙(生命)の本質」を覚る)→涅槃 中道に拠りて正法(=仏道)為り、〔仏道は向上、向下の両面性在る〕 真中道に拠りて、涅槃為る。〔向下門のみ〕 涅槃は覚天(=真中道)に随伴するもので、覚天体験が最要不可欠。 仏道は向上一路門の結果として、「宇宙(生命)の本質」に同ず(=覚 天、真中道に至る)れば、後は「人を生(活)かす」の向下一路門で涅 槃と為る。 円相と云うものは、向上門も向下門も共に、「宇宙(生命)の本質」を違 (たが)える事無く、人間が人間である事から出ないのが正道であり、 斯るが故に、釈尊をして中道為ら使め、小生鐵漢をして真中道為ら使 め、且つ下化衆生(向下一路門)に於いては、仮令地獄に於いても 動ぜず、自をして他に同ぜ使め、後に他をして自に同ぜ使め、無窮に 「人を生(活)かす」。 如何なる人間も、人間である事を出る事は出来ないのである。 悟空は釈尊の手掌上から出る事は出来なかった。 釈尊の解脱には悟空は及ばなかったからである。 然るに、釈尊も又、人間である事からは出る事は出来ない。 唯、解脱しているから、人間である事に動じないだけである。 仏、菩薩と云うも、解脱し、或いは無窮に向下一路、涅槃する処迄で あり、其の上は無い。 宇宙は無限為れども、人間は有限である。 仏人間、菩薩人間であるに過ぎない。 又、無窮為る向下と云うは、 「宇宙(生命)の本質」は、如何なる人間も人間である事から出る事は 出来ないものであり、其れであるが故に有限である。 世界人類が一人残らず向上、向下し得るのであれば、共に無窮で在 り得るが、他者に限定されざるを得ないと云う事が真理(実)為る本質 であり、其の本質の限界性が真中道として小生に其の本質を開示し、 覚せ使めたのである。 世界人類が、「人を生(活)かし」、涅槃智慧を生み坐禅(行)か初行を 修すれば済むのである。 斯様に人間の道は全て解明されているのである。 迷いも不可思議も全く無いのであります。 世界中が此の様に徹し得れば、人為的災害は解消し得る。 世界人類は幸福と平和に為り得るのであります。 後は、自然災害や不可避的世界的感染症に対して科学的に対処す るばかりである。 少欲・知足に精進し、坐禅を修する菩提心を以って我執を離れれば 宜しいのである。 《 涅 槃 》 解脱の究極は涅槃である。 此の両者の転了点為るものが覚天(=真中道)である。 此の覚命(=真中道)の前後で心境が一変した。 前は向上一路であったが、刹那の覚命体験にて、「行」ではない「人」 だと覚(さと)った。 「宇宙(生命)の本質」から、其れ迄背負っていたもの、坐禅から行か ら全て放捨させられた。 戒為るものは別解脱と言って正念相続として血肉と為っているもので ある。 従前の向上一路の結実為る向下三昧と為るのである。 此の完璧向下は、 釈尊苦行の中道に基づく正法苦行を超え、「宇宙(生命)の本質」と一 如為り得た証としての完璧向下在るのみである。 此の人類の究極に至り得た人間として、所謂苦行三昧の人間世界に 「宇宙(生命)の本質」からの正しき在り様を、釈尊以来の最後身として 現世界に開示するものである。 是が最後身の進化の究極為る大脳新皮質の究竟の唯一為る使命で ある。 進歩為るものは向上門と同じく無限為るものに非ず。 「宇宙(生命)の本質」としての人間存在の在り様であって、 何処迄も進歩すれば宜しいと云うのではない。 退歩なき進歩は進化に非ずして退化である。 「宇宙(生命)の本質」に一如為る事は人類の完成であり、 人類の完成とは世界人類の幸福と平和である。 然るに人類の進歩は、真の進歩に非ずして、三毒(貪・瞋・癡)に基づ くものであるが為に、人類をして不幸に陥れるものである。 故に、退歩の脚に基づく進歩、円相に象徴されるものでなければなら ない。 其の見極めは、其の限界(=真中道)を経た人間でしか解らないが故 に、此の重大責務を負うて居る訳である。 小生以外、此処に至り得た人間は皆無である。 自己の体験が人類の幸福と平和にとっての解答其のものを開示する ものである。 斯くして、宇宙に内在するエネルギーは生命を育み、物心夫々の 究極為る進化を完遂するに到ったのである。 其れが人類の涅槃、「人を生(活)かす」である。 自今已後、此の涅槃智慧を人類の諸能力に拠りて大いに活用す るのみなのである。 《 心機一転 》 小生、明日 四月一日より心機一転、 怠慢為らずして、ホームページ作成(製本)に努めようと思います。 《 新型コロナウィルス感染拡大防止策 》 新型コロナウィルス感染拡大防止に対して、最も有効なるものは、 老若男女を問わず、其の技術面は然る事ながら、其の技術を行使す る、しないの精神面に於ける、単なる技術を絶対不動にして真為る 技術足ら使める、小生の新道元宗の貪に対する「教え」に基づく自覚 に他ならない訳であります。 人類の諸問題総て同じである。 《 涅 槃 人 》 解脱人には、人類は敵(かな)わない。 解脱人は本質より、女性の心を射抜いて居る。 従って、其れを為し得ない男性の心も当然射抜いて居る。 菩提心は解脱に通じる。 従って、女性に通じ、男性に通じる。 更に、、小生が涅槃人と申すは大解脱人の事也。 世の事事に通ず。 《 世界を生む一歩一歩 》 本日(令和二年四月二日)より、小生が宇宙(生命)の進化に基づいて 、世界に垂範以って、涅槃智慧の粋とも云うべき、唯一為る永遠の恒 常普遍の真理に則(のっと)った世界人類の真道を此処に開示するも のである。 是、人類史上、初動の毫釐の疑も存せざる不滅の最善因にして、世 界人類に最善業報を誘引する事、不疑確実為るが故に、此の他に道 を求むる事勿るべし。小生の保証する処である。 其処で本題に入る。 今は、米国の核武装為る至上の軍備国家群主導体制である。 然るに、其処に在るものは抑止力と強者依存の対立しか生めない処 の力支配に過ぎない。 世界人類の幸福と平和を達成するに不可欠なる信頼が生まれる事 無くして、幸福、平和等は在り得ない。 根拠を持たざる力依存為らぬ信頼を生むには、信頼する方と、される 方とが共に「宇宙(生命)の本質」に基づくのでない限り、信頼は生じ 得ないのである。 「宇宙(生命)の本質」は、自らが其処に至り得ない限り、本質は夫々に 開示され得ない儘である。 夫々が其の本質に至る為には、人類に遺された唯一の正法苦行の 初行(千日行)以外には為し得ない。 故に、少なくとも現今の世界の主要国家、例えば国連常任理事国家群 等から二名、世界中で十名程の千日行者達が、国連の枢軸として其 の機関を設置する事に拠り、実習と共に三年間、三時間坐睡二十四 時間仏作仏行を行ぜ使め、行じ了われば、彼等から一名は、最後身 として後行の行者を生む。 其の時、既に世界各国の指導者として、夫々の世界各国が信頼する に足る人物足り得るのである。 以上は、小生が好い加減な気持ちで言っているのでなく、必然不可避 為る宇宙論からの総結論以外の何ものでも無いのである。 100%、進化の最終的、人類が辿るべき通過儀礼と享(う)け止める べきものである。 そして彼等は解脱する者として、淫快は終生、当然避ける事が彼等の 特権足るべし。 淫快為るものは動物的なるもので、種の存続に不可欠為るものとして 動物に付与されているものに過ぎない。 世界人類の幸福と平和を完成せ使むる者として、種の存続は、釈尊 がそうであった様に当然避けるべきものである。 是は其の使命を担う者ならば至極当然な事である。 題目に在る様に、恰も蟻の地を這うが如き、此の一歩一歩である。 《 宇宙(生命)進化の働き:本質 (エネルギー) 》 生存に有利な直立歩行が類人猿を人類に進化せ使め、 坐睡行(初行)が人類を解脱せ使め、又 坐睡行(後行)が人類を真中道に至ら使め、 覚命を経て、形而上学的、最後の我執、習気(じっけ)は断ち切られ、 「人を生(活)かす」に転了したのである。 是は正に大脳新皮質の量的進化に伴う意識(自覚)の進化に他なら ない。 精神的には植物の他律的摂取から動物本能、更に欲と菩提心から 生命の母体為る宇宙の本質への回帰と云う一連の質的進化である。 「宇宙(生命)の本質」は是にて通達し了えり、涅槃に至ったのである。 そして、「人を生(活)かす」涅槃智慧に拠りて、事事無礙に世界人類 をして幸福と平和に導くのである。 学問は個々の事実、或いは真理(事実)を生んでも、 其処に底流する真理(=意義)を見出さない限り、有限である。 我々の生存(生命)にとって如何なる意味が在るのか? 学問でなく、、永遠なる恒常普遍の真理(=意義)に至り得て初めて 人の心に蘇るのである。 「宇宙(生命)の本質」は涅槃と云う永遠なる恒常普遍の真理であり、 我々人類は、其処から涅槃智慧を育みて、世界人類の幸福と平和を 達成しなければ為らないのであるが、此処で忘れてはならない涅槃と 云う「人を生(活)かす」心の働きである。 学問や体験でなく、其の心の働きである。 学問や行や「人を生(活)かす」事に底流している心だ。 其の心の働きは、「宇宙(生命)の本質」の働き(仏性(=エネルギー)) であり、是は太陽の存在、つまり星の存在に由来するものである。 太陽が生命を育み人類を生んだ。 我々の「人を生(活)かす」心は太陽と同一なのである。 我々は本質に同じ、生き、働き、更に其の心を瞑想するのである。 宇宙の真理、「人を生(活)かす」涅槃の究竟する処は、最大限の「人 を生(活)かす」は瞑想と為るのである。 人心は、五千年程前の古代人の瞑想に始まり、斯くして「人を生(活) かす」瞑想に行き着くのである。 前者の瞑想は、改めてヨーガ(行)に端緒を開くべき運命にあった。 そして回帰した瞑想が最も高次の瞑想で、つまり洞察と直観に拠りて 悟り、解脱、涅槃の終極としての瞑想に了じたのである。 前者は「宇宙(生命)の本質」からの促がしに依るものであるが、 後者は「万人が生(活)かし合う」涅槃智慧の為に「宇宙(生命)の本質」 の声を生むものである。(釈尊の梵天勧請は前者に依るものである。) 是を、小生は「新道元宗(全四巻)」の後に、前者の総括を兼ねて、 「本質的禅学(究極の瞑想)」として製本する予定です。 「本質的禅学(究極の瞑想)」とは、学問を学問足ら使める「宇宙(生命 )の本質」学であります。 嘗て、小生、新潟県糸魚川で、 『巨大な星と云うものは、一~二百年に一度、超新星爆発をする。 此の星は、他の星の様に最期に、其の中心核が白い塊の残骸として 残らずに、完全に自ら粉砕して、周囲に飛散し、其れ等が核と為って、 多くの星が生まれる。』と云う某学者の『星の一生』の専門書を読んだ 時に、 「よーしっ、自分も、此の様な生き方をしたいものだ。」と、 此の時、千日行開始の決意をした。 正に、今や、三十五年程前の当時の太陽の一生と為って、其の真理 を生きているのである。 不昧因果。 毫釐(ごうり)も違(たが)えていない。 無意識的為るものは、 悟り、解脱、真中道(覚天)、涅槃、総てを貫いて、因果の道理は、 少しも違える事無く、総てを貫いているのだと改めて再確認した。 瞑想は古代より、ヨーガや世界中のあらゆる宗教や精神医学、心理 学、哲学、武道等のあらゆる分野に於いて用いられて来たが、 其の始まりは五千五百年程前の世界一肥沃な農耕地帯に於いて、 農耕生活の安定に伴って、「宇宙(生命)の本質」の促がしに基づく、 自然発生的、人類の精神性の萌芽として為され始めたものである。 人類の三毒に因る邪念の対極為るものとして、「宇宙(生命)の本質」 と云う、最も醒覚したる立場からの真理への直観的洞察に至る、此の 最も高度なる瞑想(三昧)は「人を生(活)かす」涅槃智慧の一環の最 終的為るものである。 是に拠りて、「宇宙(生命)の本質」からの声を生み出すのである。 小生が其の声を伝え遺す事は、世界人類の幸福と平和を成就する為 に、世界人類の個々人に真の自覚を促がす事に為るのである。 真の自立とは、唯一為るものに純一無雑である事だ。 生むとはそう云う事である。 我々人類の前途には未だ解決せねば為らない問題ばかりである。 正に我々は、太陽の光炎、恒星の輝きからは一歩も出ていないので ある。 其の本質に帰するのみだ。 是が涅槃である。 究極の瞑想とは、全身全霊で真剣に生きる事である。 行は既に創作に転じている。 《 命との取り組み 》 「人を生(活)かす」は『本質的禅学(究極の瞑想)』のネットと製本に転 了した。 是は涅槃智慧の一環でもある。 何事も、敢えて積極的に挑戦すべきだ。 消極的保身では進化ならぬ退化にすぎない。 五十億年後の太陽の大崩壊も、其れからの次の進化を期してのもの である。 我々人類も例外では無い。 「宇宙(生命)の本質」は永遠なる恒常普遍の真理である。 我々の眼の届かない所に於ける再生である。 是が信じられないものは、我々自身の存在を信じられない者である。 我々は人命の尊厳を見失ってはならない。 自己の命同様、掛け替えの無いものである。 そうであるならば、 地上のあらゆる人命に対する処し方が根本的に、地球レベルの取り 組み、そして其処からの自国の在り様が自ずから導き出されるので ある。 物事は、其の根底からの取り組みでなければ、進化し得ないのであ る。 恰も太陽が人類を生(活)かすが如くにである。 其れが「宇宙(生命)の本質」の在り様である。 是に同ずべし。 違(たが)えば、其の悪業報を蒙(こうむ)る事必定である。 真の遺教は此の本質に基づくものである。 其処を教えるのが真の教育である。 政策の根本には解脱が必要不可欠である。 故に公的機関に千日行を据えるべし。 《 世界人類の在り様 》 地上の最高責任者は世界各国の諸国民から選ばれた最高責任者達 の、更には其の中の最高権力者に拠るべきものか、其れとも最後身 にして、且つ極力平等為る、世界人類の幸福と平和の為に施政する 人物であるべきか? 世界の諸国民は一体、何れを選択するであろうか? 小生ならば後者を選ぶ。 何と為れば、世界人類は斯く進化するものであるからである。 太陽は、差別して其の恩恵を施しているのではない。 「宇宙(生命)の本質」の、無我為る働きである。 是が不昧因果なのである。 人類以来の善悪の業報と云うものだ。 進化とは「宇宙(生命)の本質」の働き、つまり善業報に他ならない。 進歩と退歩の両脚在って初めて進化が在り得る。 進化とは人類誕生以来の五百万年程の長期間の試行錯誤(=両歩 の脚)を経ての結果に他ならない。 釈尊成道は、瞑想以来の二千五百年間程の両歩の両脚の結果なの である。 人類とウィルスとの戦いも、人類の進化には、在る意味では、釈尊の 断食苦行に端を発して、核武装や自然破壊や人種差別と同様、 是等からの真の人類の進化の為には、不可避、不可欠為るものなの である。 刹那生滅の原理に基づく「悟り」、「解脱」、「真中道(覚天)」(涅槃)の 事である。 太陽の核から宇宙空間に放出された光は地上の物質に依りて種々 の色相を呈する。 地上の様々な国民も、其の時・処・位に依る諸条件に拠りて、様々な 生活を送る事に為るのであるが、本源が色を持てば成立しない。 同様に、最高機関は涅槃人でなければ為らないのである。 其の時、世界は最も豊かなる色相を呈し得るのである。 其処からの施政が必要不可欠なのである。 斯(く在)るが故に国連中枢に千日行者の機関が必要不可欠である。 唯一為る解脱人、更には涅槃人が必要不可欠なのである。 世界各国の国民としての在り様は、極力平等に、其の物質的、精神的 基本的条件が確保されるべく進化しているのであり、世界には見捨て られた、又不幸な人々が実在しているのであり、忘れてはならないの が、未だ、アフリカ等の未開なる、野生動物と共存する無政府状態、 乃至独裁体制も残存すれども、究竟涅槃の進化したる立場からすれ ば、野生動物や未開な人々を排斥するのでなく、共存してこそ進化が 在り得るのである。 ヒトラー為らば、未開な人々も野生動物も抹殺したであろうが、一体 何処にヒトラーの思い描く優れた世界が在り得るのか? 今日に於いても、世界は、物質から生命が生じた端緒為るウィルスに 因りて世界人類は、嘗て奴隷制度に拠りて是迄に栄華を極めた米英 が、此のウィルスに因りて最大の苦を強いられているのである。 我々は、此の令和の時代に於いて初めて、人類の真の進歩とは少欲 ・知足の正法に基づき、「人を生(活)かす」処の退歩の道を弁(わきま )えた生き方をしなければ為らないのだ、と云う事を思い知らされるの である。 我々人類の前途には、未だ我々人類が為さねばならない多くの事に 満ちている。 彼等を救済すべく、我々は進化して行かねばならない。 現今のウィルス同様、未だ未開な彼等を見捨てる事は出来ないので ある。 世界人類が一体と為って、進化して行かねばならない。 其れが進化と云うものだ。 其の長い歴史の因果の結果として、今の我々が在り、 此処から、我々は出発して行かねばならないのである。 人類は、生涯、唯一為る自己の使命を持つべきである。 《 時間的刹那と空間的素因 》 本具せる永遠なる恒常普遍の真理である宇宙(生命)の本質の、 全人類の心中の諸要素の不可思議為る一つは永遠に不滅なのであ るが、其れ等の素因は本質の開示への誘因と為る。 其れ等を意識化し得るレベルに迄導引するのが菩提心に拠る求道で ある。 時間的刹那と空間的素因で、前者は「悟り」として、後者は「覚天」とし て結実するのである。 《 五欲に対して 》 人類、五欲に対して、 釈尊の説かれた如く、少欲・知足為るべし。 解脱すれば、自ずから総てに於いて少欲・知足と為り、 金欲、性欲は貪著を離れる。 三毒(貪・瞋・癡)為る存在が、「悟り」「解脱」に拠りて、三善根(施・慈・ 慧)へ開き、転ずるが故に。 「花より団子」根性が、本当に死なない限り、世の中は駄目である。 斯(か)るが故に、世の中、「解脱」が不可欠。 解脱すれば、「貪に為るか為らぬか」を離れるのである。 《 小生に於ける禅学とは? 》 小生にとっての禅学とは、 そもそも、禅学の由縁は、自己が受けた生の不可思議為るものに対 する疑と探究心と、謂わば求道への契機と為る様な不可解さが、 何らかの生への価値を求める心(=慮知心)、裏返せば「宇宙(生命) の本質」からの促がし、つまり菩提心と為るのである(=発菩提する)。 (此の事は後の真中道(=覚天)に因りて実証されるのであるが―。) 是等は正に人類特有の大脳新皮質の大脳新皮質たる働きに拠るもの である。 動物の本能は進化して人類に於いて、欲と菩提心に転じ、「宇宙(生 命)の本質」からの促がしに依りて、動物的生命が精神性の萌芽であ る瞑想、更には菩提心に拠りてヨーガ、坐禅へと進化したのである。 そうした人類の有限為る儚(はかな)き命に於ける、永遠なる生命、つ まり「宇宙(生命)の本質」(=仏性)を得悟する一助と為るべく、其の 真実の証(あかし)を伝え遺すものであり、他の諸学とは一線を画する ものである。 《 本質裡の、「悟り」「解脱」そして「涅槃」 》 自己の疑と、大いなる宇宙の働きとが、 恰も、卵殻中のヒナが殻を突いて、世界に躍り出るが如きである。 殻とは生命の繁栄の為に宇宙が課した、人類への我欲であり、人類 が、其の我を忘れて大いなる世界へ飛躍するべき処のものである。 真中道(=覚天)は信の次元ではなく、体験された事実である。 解脱に於いては、未だ仏は信の次元であるが、 小生の涅槃に至りては、仏は既に菩薩為る存在と為った。 故に仏道とは信ずべき真理(実)、つまり宗教、科学を超えた超科学 であり、他の一切とは既に一線を画すべき真理(実)と為り得たのであ る。 是、吾鐵漢に於いて、釈尊に基づいて初めて実証された真理(実)で あり、釈尊の進化したる、未だ釈尊も道元禅師も未踏の真理(実)で ある。 「解脱」も「涅槃」に至りて初めて「真の解脱」足り得るのである。 「涅槃」無くんば、信の領域に留まりて、真理(実)とは為り得ない。 そもそも、人類は宇宙の恩恵無くしては、刹那の命も在り得ないので ある。 此の宇宙の働きを措いて、『天上天下唯我独尊』等と、大法螺を吹く 前に、人類は先ず「宇宙(生命)の本質」からの促がし在りて初めて自 己が大涅槃人足り得ると云う真相を体解しなければならないのである 。 大涅槃人に為りての「宇宙(生命)の本質」足る事が大前提であると云 う次第を忘れてはならない。 人類は斯く為る宇宙(生命)に対する畏怖の念(⇒謙虚にして寛大な る心)を忘れて、三毒に翻弄され、癡愚に堕して居るのである。 偉者程癡愚だ。 《 本質裡に想定された生 》 「自分は是だけだ。後は同じ事の繰り返しだから。」と、 自己の将来を想定する。 「どんなに長くても一年中には。」と、 其処から、此の無尽蔵に、計算に依りて限定された、架空為る生が 生じ、其処に足踏みする。 何故に、無尽蔵なる本質裡に、足踏みが為されなければ為らないの か? そもそも、無尽蔵に、想定された生為るものは相応(ふさわ)しくないし 、本質を違(たが)える在り様である。 要するに、可能為るものは常に緊迫感を以って望むべきである。 是は新型コロナウィルス対策に於いても同様で、 「日本は是位だから。」と、 測り知れないパンデミック(世界的大流行)に在りながら、 日本を想定してしまう 新型コロナウィルスには大脳新皮質は無いから、計算に拠る想定は 無い。 人類が斯うした感染症の敵為る原生命の生に立ち向う場合は特に、 如何なる場合もそうであるが、常に間断無く、一定の緊迫感を以って 望まねばならない。 さもなくば、原生命為るウィルスには人類は負けてしまう。 人間の本質は、相対的なオリンピックではない。 無限の宇宙を漂う、孤独な存在だ。 夫々が皆、斯く為る絶対的存在である。 好きに、自由に、思うが侭に在れば良いではないかと、 然に非ず。 其れは、大脳新皮質のみの相対化された産物に過ぎない。 無限の過去から戴いて居る、此の生命は、其の様な偶然性為る存在 でなく、宇宙(生命)の因果律に拠りて、毫釐(ごうり:ほんの少し)も違 (たが)う事無き営みに依りて、各々が絶対的必然性に拠り、此の世 に生み落とされた生命である。 個々が夫々、宇宙の絶対的必然性による洗礼を受けているのだ。 其の意味に於いて、皆、本質上『天上天下唯我独尊』である。 唯、釈尊のみの事では無い。 其の本質に至り、使命を果たせば、其れで終わりか、と言えば、 其の至りて、果たそうとする働き其のものも、本質の働きの他ならな い。其れで本質は終るのか? 本質は無始無終である。 自分では全て了わったと大脳新皮質で納得しても相対的判断に過ぎ ない。 本質は永遠にして恒常普遍為る働きである。 其れが如何なる場合でも、常に本質の刹那為る一点の緊迫感が 本源である。 此の生の持つ奇跡とは、其の必然的生である。 計算が無い。 人類生命の繁栄の為の宇宙の働きに拠り進化した、欲と大脳新皮質 であるが、本質に違えば、欲は地獄を生み、大脳新皮質に拠る我意 識が却って生命の無我為る働き、本質(=仏)力(=本源の生命力)を 欠く事に為る。 謂わば、進化の重大な役割を担うべき大脳新皮質の働きが、既に必 要悪と為るに至っては退化為る進歩であって、進化為る退歩が必要 にして、不可欠なのである。 人間が真中道(=覚天)によりて涅槃に至り、殺神のみならず、真の殺 仏を了じた今時、人類特有の大脳新皮質の進化は、既に身のみなら ず心も進化の頂点に達したのである。 自今已後、人類は「人を生(活)かす」と云う涅槃為る本質の本源の働 きに基づく新世紀に至り得たのである。 其の在り様は、刹那為る一点の緊迫感であり、此の計算されない 本源の生を生きると云う事である。 「人を生(活)かす」事が出来るのは菩薩であるからこそ出来る。 仏では絶対に出来ないのである。 仏に出来る事は菩薩に為る事か、人を誤魔化す事である。 人間とは0と100の間である。 0でも出来ないし、100でも出来ない。 人間ならば0と100では居られないのである。 10が90を生み、20が80を生む。 80は20から生まれるのである。 是が鉄則、不可思議である。 意識とは、そうしたもので在る様だ。 是は100を体験した者でしか明らかとは為り得ない。 此の延長線上に、動物の種々の本能的行動や習性の様な、人類の 三毒(貪・瞋・癡)に毒されない無分別の分別なる本質に同じて 人類足る霊妙極まり無き働きが可能と為るのである。 《 最後身心涅槃智慧即本質へ進化 》 最後身心が世界を牽引して、無量為る宇宙(生命)の本質から、 先ず、世界人類の平等為る物質的、精神的基本的条件確保の為の 智慧を生み、実践に導くと同時に、更に無尽蔵なる本質から、 世界人類を幸福と平和に導く涅槃智慧を完成させる。 世界人類に涅槃が浸透する迄には、無量の智慧と時間を要するであ ろう。 無尽蔵なる「宇宙(生命)の本質」からの、世界人類の為の涅槃智慧 は果てし無く続く。 此処には、ありとあらゆる一切の境界(差別)は存しないであろう。 東洋史に於ける、釈尊や聖徳太子の時代に於ける、本質的に政治と 宗教と学問が一体と為る時代を再来せ使めねばならないのである。 涅槃智慧の進化は自ずから「宇宙(生命)の本質」の永遠なる恒常普 遍の真理(実)に同ずるものである。 《 解脱と病気 》 正信は身心を整える。 坐禅をすれば、更に自ずから身も心も整う。 身心が整えば、病気に対する抵抗力は増す。 一旦解脱すれば、永遠に水と油の如く、混濁させても直に必ず 三善根(施・慈・慧)と三毒(貪・瞋・癡)が分離する。 新型コロナウィルス等の感染症にも、解脱が日本に於いて効を奏して いると云う可能性は否定出来ない。 《 本質の真理に同ずべく捨てると云う事 》 嘗て、吾師、伴鐵牛老師は小生に語って下さった。 「晴れて良し、曇りても良し富士の山。元の姿は変わらざりけり。」 そして、「剣の達人は剣を捨てる。」と。 明治時代、二十年余りの参禅により剣の達人と為った、一代限りの 「一刀正伝無刀流」の開祖、山岡鉄舟の事だ。 人類は、如何に有り難いものであっても、究極の究竟では捨てるもの である。 何故か、と言えば、「宇宙(生命)の本質」為る真理に同ずるが故であ る。 況(ま)して況(いわん)や、世界人類が最も忌み嫌う極悪なる物に於 いてを哉。 何事も進化していく、と云う事だ。 進化して、無我為る宇宙(生命)の本質の、人類に涅槃を覚天せ使め た霊妙極まり無き働きに同じゆくと云う事だ。 「核武装が人を生(活)かしているか?」 「否、脅しているだけだ。何もしていない。」 現代の世界の趨勢は、此れに準じている。 然るに、不可避なる世界的大地震や世界的ウィルス感染症は、共に 同じ様な頻度で人類を度々周期的に襲来するのである。 斯うした不可避なる、地震やウィルス感染症等の自然発生的脅威に 対処する為には、世界人類が一体と為って可能な限りの取り組みが 為されなければ対処し得ないものであるにも拘わらず、現代の、世界 の趨勢は、それどころか、近視眼的に、其の様な激甚自然災害や核( 化学兵器)武装や人種差別、ヒトラーと云った人為的脅威を敢えて生 むが如きは、正に人類の三毒(貪・瞋・癡)による癡愚を露呈するもの である事は明確である。 小生は、「坐禅を、そして行までも捨てた。」 「宇宙(生命)の本質」(=仏性)は其れ処の話じゃないのだ。 「人を生(活)かす」である。 「核武装(大量破壊兵器)の達人は核武装(大量破壊兵器)を捨てる。」 核武装とは、最大破壊力で以って他者を権力支配化に置くと云う物で ある。 今や、「人を生(活)かす」の涅槃(智慧)の新世紀に突入したのである。 人類の人類足る本領を進化せ使めねばならない。 《 真理へ、とは? 》 如何なる人間も、 真理を徹見した人間には適わない。 何と為れば、真理を徹見しているが為である。 「悟り」以外に、真理への王道に入った人物が居るか、 学問、芸術、宗教、スポーツ等々の種々なる生きる事に於いて? 極論すれば、メダルを戴く位では駄目だと云う事である。 (「宇宙(生命)の本質」(仏性)からの 促がしに基づく)使命感の日々で無 い限り、人類の進化は在り得ない。 《 涅槃と云う真理 》 「人に生(活)かされて居る」のだ、と云う事を痛感する。 でなければ、チッとも面白く無い、うんざりだ。 托鉢も、百円硬貨を鉢に布施して下さって、「病気しないで下さいね。」 と声を掛けて下さる。 其の心の笑顔に生かされて居る。 斯うして、ずーっと機械的に遣って居ったら、帰る時間に為る。 ネットも、間違い無く、「人を生(活)かす」と思うからこそ、無心に打ち 込める。 其の繰り返しだ。 「人を生(活)かす」で、当て所(ど)も無く遣って居ったら、ブーメランの 様に、「人から生(活)かされて居る」。 だからこそ、うんざりせずに、只遣れるのだ、と。 「生(活)かす」自分が、「生(活)かされて居る」自分である、と思い知ら されるのである。 でなければ生きると云う事は何の面白味も無い、うんざりするものだ。 涅槃とは「生(活)かす」と「生(活)かされる」とが一如為る世界の事で ある。 《 使 命 感 》 世の中は狙いで遣って居るのではない。使命感だ。 人の使命感と云うものは、 刹那為る一点の緊迫感を以って臨むべきもので、 息が止まる迄、尽きないものである。 是だけ遣ったから………。とか云うものではない。 世の中は安堵で了われる程、安堵では無いのだ。 自他一如。 命在る限り、刹那為る一点の切実なる緊迫感を以って臨むのが、 使命感である。 《 信 と 真(事)実 》 釈尊のヨーガによる成道は信仰でなく体験である。 ヨーガは、瞑想同様体験である。 仏道は体験に基づくものである。 釈尊の禅定は信仰で無く事実である。 釈尊禅定の実践と体験に基づく、小生の、宗教や科学を超えた、 超宗教、超科学的真理(実)為る事実として受け取るべきものである。 氷が溶けて水となり、水が熱せられて水蒸気となる事は事実であり、 信の対象ではない。 《 新道元宗 宗旨の五、の理由 》 新道元宗 宗旨の五の、本部国連の支部を日本に置く理由、 今や、令和為る新世紀の担い手足るに最も相応しき諸条件の整った 国家は世界中、日本を措いては皆無である。 自今已後、東アジア諸国家とプーチン氏と共に、日本が涅槃(智慧) に基づいて、世界を牽引して行かねばならないのである。 《 刹那為る一点の緊迫感 》 人間は常に自己の命が一ヶ月程であると云う認識で臨むべきである。 此の時に自己は一体何をするか? 此処に初めて、自己に委ねられた使命を明確に認識する事が出来る のである。 然も無くば、残りし命を無駄に過ごす事と為るであろう。 是が刹那為る一点の緊迫感と云う事である。 常に、息が止まる迄、此の連続である。 其処には、真に無駄が無い。 「人を生(活)かす」涅槃智慧と云うものは、未だ人類未踏の領域の 開拓である。 此の智慧の一つ一つが人類史上に於ける最後身心が生む心の進化 の究極の涅槃智慧である。 刹那為る一点の緊迫感の正念相続無くして及び得るものではない。 正に、科学上の宇宙膨張説に於ける宇宙の際の様なものである。 《 世界の要、禅心 》 人類には進歩(の脚)に対する、退歩の脚と云う処生方が在る。 一般に、西洋は前者であり、東洋は後者が夫々の特質であるだろう。 人類の心の進化で、 「解脱」、「涅槃」夫々に至る迄の「行」其のものは進歩の脚であり、 「解脱」、「涅槃」其のものは退歩の脚である。 真中道(=覚命)直前の後行は究極の進歩の脚であり、 「人を生(活)かす」涅槃は究極の退歩の脚である。 其の他に、東京大学と京都大学の夫々の特質。 又、バラモン教に於ける六道(趣)為る人間の在り様の天人(支配階 級)と人間で、前者は苦、迷が少なく解脱出来ない。後者は欲界の苦、 迷妄多く解脱出来る。と、古代人の人間分析は鋭い。 又、米国の第一(至上)主義と中国の一帯一路等々。 現今の、新型ウィルス感染症のパンデミックに対する、米、中夫々の 指導者としての在り様に於いても、 此処は坐禅の定、「禅定の心境」であるべき処である。 つまり、一切動ぜず、少しも捉われる事無く、本分(=天命)を果たす。 是でなければ、人類の向上、進化は在り得ないものと為ってしまう。 世界人類の幸福と平和への道は、斯くも厳しくあらねばならない。 つまり、人類の将来を見据えた、大局的見地に立たなければ、人類 の将来は無い。 世界の在り様は、オリンピックのボクシングではない。 ボクシングは自己が相手に勝てば良いのであるが、 世界に指導者足る者は、そうではなく、世界人類の幸福と平和が 本分(使命)である。 其の弁(わきま)えが不可欠である。 斯く為る次第で、 世の中最要は坐禅の心である。 捉われず、動ぜず、本分(使命)を果たす。 是が出来れば、涅槃に至る。 だからこそ、坐禅は人類世界の精髄である。 禅心によりて人間を作る。 第一(至上)主義者に一番欠けているものが坐禅である。 《 本質裡の欲と千日行 》 本質に欲が在る訳では無い。 人間に在る。 人間と云う者は、兎角「花より団子」である。 花とはこころであり、団子とは身の事である。 不惜身命、全身全霊で「人を生(活)かす」には、 刹那為る一点の緊迫感、為るまでの本気度(=正念相続)が望まれ る。 然るに、其れでも「宇宙(生命)の本質」には同じ得ては居ない。 本質に在るのは涅槃と云う、「人を生(活)かす」働きである。 人間の三善根(施・慈・慧)の心である。 解脱人は、此の本質に通じた人の事であり、 従って、五欲を離脱して居る事は言うまでも無い。 初行→解脱→後行。 解脱しているからこそ、自ずから後行が為るのである。 解脱するには初行が不可欠である。 釈尊の中道と成道、そして御遺教、八大人覚最後不戯論の延長線上 に正法苦行(千日初行)が吾伴鐵牛老師によりて、釈尊成道後初め てこころの進化を遂げ得たのである。 吾師の千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)無かりせば、 「解脱」はもとより、真中道(=覚天)、涅槃「人を生(活)かす」は 在り得なかったのである。 そもそも小生の出家得度後の出発点は、坐禅を初めて体験して 一年半程後であったと思うが、身心脱落直後の宇宙に放たれた、 唯一自己為る生命の原初自覚の「悟り」体験と、そして、其の上で 潜在意識下に打ち込まれた千日行と共に、本願を成就すべく、吾師 から野に放たれた、吾師の在野の道、是は取りも直さず自己の道に 他ならないのであるが、を模索する自己であったのだ。 吾師の道を成就すべく、師の命の福岡の寺を、或る機会に突然必死 の思いで跳び出た。 それから、自己の探究が始まったのであるが、 暫く後の厳格為る放浪行中の事であった。 「自分は何故に此の様な事をしているのであろうか?」と云う疑問を フッと思った時に不意に、無意識下に閉ざされていた千日行の恐怖 心が意識上に浮き上がって来たのである。 其の瞬間以来、千日行志向が不動のものとして決定したのである。 千日行の半年の準備段階に入ったのは、其の二年程後であったと思 う。 「花より団子」が「団子より花」へ、 つまり貪が「人を生(活)かす」に転了し得ないのが人間の常である。 是を可能為ら使めるのが、吾師伴老師が釈尊を進化せ使めた千日行 なのである。 此の、人の常「花より団子」が「人を生(活)かす」に迄生まれ変わる 「取って置き」の方法が千日行である。 団子では地獄しか生まない。 花であって初めて世界人類を幸福、平和に為ら使む。 《 不 昧 因 果 》 今時の新型コロナウィルスのパンデミックは、 人類を生(活)かす大宇宙の、自然と全生命の痛みから人類に対する 、永遠なる恒常普遍の真理として宇宙を進化せ使むる処のエネル ギーによる、宇宙の具足する復元力である。 人類の悪業に対する、因果の道理に基づく悪業報である。 不昧因果、因果の道理は亳釐も違わず。歴然として私無し。 悪を造りながら、悪に非ずと思い、悪の報あるべからずと邪思惟する に依りて悪の報を感得せざるには非ず。 人類による自然(生命)破壊とウィルスによる人類破壊と、宇宙に対 して何れが、永遠なる恒常普遍の真理に違わないであろうか? 明らかに人類の悪業に対するウィルスによる悪業報である。 宇宙に対しての、万物の霊長足る存在の在り様を覚天(=「宇宙( 生命)の本質」を覚(さと)る)しなければならない。 地球上無生物の進化が生命を育み、地上生命の進化が植・動物を生 み、其れが人類を生んだ。 人類の身の進化は大脳新皮質を進化せ使めたのである。 そうして、心の進化に此の世は委ねられたのである。 其れが菩提心による伝統に基づいて釈尊をして悟ら使めたのである。 釈尊の成道、解脱は吾師によりて千日行に具現化され、解脱を通して 究竟真中道をして、小生に「覚天」為ら使めたのである。 覚天とは「宇宙(生命)の本質」を覚(さと)る事であり、 此れによりて、涅槃に至ったのである。 真中道(覚天)による涅槃とは、超宗教的、超科学的永遠為る恒常普 遍の真理であり、「宇宙(生命)の本質」である。 是が最後身心である。 人類は此処に至って、涅槃智慧の進化に委ねられねばならない。 涅槃智慧とは「宇宙(生命)の本質」に違わない智慧の事である。 上座部(南伝、小乗)仏教では、僧侶(男女)は具足戒中、 淫、盗、殺、妄(嘘)を犯せば、追放され二度と僧侶に為れない。 不殺生戒は生命への尊厳性によるものである。 自然破壊による激甚自然災害と核(化学)兵器による威嚇は 生命の尊厳性を完全に無視するものである。 核破壊も、あらゆる人種差別やヒトラー等の優性学(思想)も全ては、 斯うした世界のリーダー達の、三毒(貪・瞋・癡)に基づく生命の尊厳 性への無関心が惹起したものである。 《 新型コロナウィルスの功罪 》 今時の新型コロナウィルスに因る復元力に依りて、 人類の、特に20世紀以降の驚異的自然破壊は、 是までの、人類が決して為し得なかった驚異的なる改善を遂げたの である。 又、「PM2.5の悪影響は新型コロナウィルス感染症に因る死亡率が 大幅に高くなる。」と云う研究結果が出ている。又、 「汚染された大気を吸った人が、新型コロナウィルス感染症に罹ったら 、ガソリンに火を点ける様なものだ。」とハーバード大学生物統計学教 授」は語っている。 是は恰も、異常なる気候変動に因るオーストラリア全土の長期に亘る 大火災を連想させるものだ。 是に因りて驚く程の動植物を死滅させた。 今後の異変の先駆けたる此の異変。 斯うした、特に20世紀後半以降の自然環境の異変、及び其れに伴う 動植物の生態系に及ぼす多大なる悪影響が地球環境に異常なる変 化を惹起し、今時正に是までに無いウィルスを生ま使めたのであると 云う憶測を否定出来ない。 「宇宙(生命)の本質」の進化に於ける因果の道理には微塵の違いも 生じ得ないからである。 新型コロナウィルスでなければ、今の激甚自然災害に歯止めを掛け る事は不可能であった。 其れ程、人類の三毒(貪・瞋・癡)は人類の菩提心を殺すものである。 核問題以上に喫緊の人類の最大課題は此処に至りて史上類を見な い今時の新型コロナウィルスの襲来を体験する事と為ったのである。 是は因果の道理による必然的不可避なる悪業報である。 日本はアメリカの真似をすべきではない。 人類は今時の新型コロナウィルス来襲一つで全てを覚知しなければ ならない。 世界人類が今後、如何に生きねばならないかを猛省する時である。 「宇宙(生命)の本質」は人類が三毒(貪・瞋・癡)によりて我を立て、 分裂して生き得る程、単純な生易しいものでは無い。 《 『新道元宗』から『本質的禅学』へ 》 地上非核化、 激甚自然災害の改善、 新型コロナウィルス感染症対 策と人類は益々困難な課題が上積みされ、対応し難いものと為って 来た。 『新道元宗』は此処迄にして、以降は『本質的禅学』の末部に増補す るものとする。 2017年5月、(2014年1月、HP公開) 『新道元宗(解脱編)』 ( 1ページ~121ページ) 製本済 『新道元宗(涅槃行編)』 (122ページ~242ページ) 製本予定 『新道元宗(真中道編)』 (243ページ~363ページ) 〃 『新道元宗(涅槃編)』 (364ページ~484ページ) 〃 2020年4月、『本質的禅学』に着手。上四編の総括を兼ねる。] 『本質的禅学』 (485ページ~581ページ) 〃 『鐵漢』 (582ページ~615ページ) 〃 『真遺教』 ( 1ページ~ ページ) 〃 本 質 的 禅 学 田 中 鐵 漢 aef172047@lib.bbiq.jp 4753kqry@jcom.zaq.ne.jp http://buddhatekkan.com/ [ 新道元宗 宗旨 ] 一、釈尊の、バラモン教の究竟、頭陀行の要、但坐不臥による 中道に基づく正法苦行、千日行(初行と後行)の実践。 二、千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行) ・初行…「宇宙(生命)の本質」(仏性)を弁えた「解脱」を生む。 ・後行…世界唯一為る最後身心、「涅槃」を生む。 三、国連中枢に千日行者の機関が必要不可欠。 世界中より五十名の初行者(解脱人)と、其の中より 五名の後行、最後身心、涅槃人を中枢に置く。 四、以上の五十名の中枢機関に基づく施政により、 世界人類の物質的、精神的基本的条件確保を果たし、 涅槃智慧によりて世界人類の幸福と平和と繁栄を構築、完遂す。 五、本部国連五十名の中枢機関は十名単位(九名の初行者と一名 の後行者)で日本の五箇所(東京、大阪、名古屋、京都、北九州 市)の各支部の道場にて托鉢自活、行終了後、本部に配置。 世界に唯一日本のみ托鉢自活による正法苦行(=千日行)可。 【 正 法 の 骨 格 】 [訂正]上述、左端より二行目、絶対にハッキリとを削除。 左端より五行目、大円を半円に訂正。
[新道元宗正法苦行の真意] インダス文明(BC2600~)での 稲作等による食生活の安定に随伴して生じた瞑想の習慣は 大自然の恵みと共に在る自己(の命)が、大自然(宇宙)を在ら使めて 居るものと一つに為ろうとする、「宇宙(生命)の本質」からの促しにより て生まれたものである。 人間生命の大転換を果たす釈尊を生んだバラモンの伝統。 是は、インダス文明(BC2600~)の瞑想から、1000年程してアーリ ア人種がインド定住しバラモン教(古代ヒンズー教、ヴェーダの宗教) が形成された。 其の経典の一つ、「リグ・ヴェーダ」に、「神々が祭祀を行うにあたって 、原人プルシャを切り分けた時、口の部分がバラモンと成り、両腕が クシャトリアと成り、………」という、神話的起源に在る様に、宗教的 身分(四姓)制度の、クシャトリア(王族、武士階級)の上に、バラモン( 祭祀、僧侶)(=仏教の前身)を置くバラモン主体の民族が形成され たのである。 アーリア人のインド定住以後、 部落から社会構造化され往くと共に、人間の根源的苦悩である 生老病死の四苦のみならず、人類が本有する三毒(貪・瞋・癡)等に よる愁苦によりて生じた菩提心によりて、其れがヨーガ行へと変遷し たのである。 自然法(神意)と人間法(財産と性愛)両立のヨーガ行から、 やがては梵我一如のウパニシャッド哲学(BC800~BC200)の宇宙 原理(ブラーフマン)を生み、解脱希求のヨーガ行が生まれ、 其の菩提心の究極に於いて、釈尊の断食苦行からの中道、そして 成道(=解脱)へと心の進化を遂げたのである。 東洋印度は、こころのふるさとでありました。 古代、インダス文明(BC2300頃)以来、ヨーガ、諸宗教、哲学、医学、 バラモン(教)の梵(浄)行と頭陀行(※)等の、歴史的にも、最も深く、 強い、生命の働きの伝統の中に釈尊は誕生されました。 釈尊は始めは、其の伝統の中で、誰よりも峻厳に、求道されて居られ ましたが、其れ等の一切は命の涸渇しか齎さない苦行であると知る に到りました。 釈尊が他の宗教者と異なるのは、釈尊が有史以来の悟りを開かれた と云う事実であります。此の釈尊の悟りは、釈尊個人のもので無く、 全人類、否、全宇宙の悟りであります。 大宇宙が、生命を生み、人類を生み、諸能力を生み、その究極に於 て、悟りを生むに至った訳であります。 其れが生命の必然性であります。 大宇宙は、輪廻を繰り返す無常でありますが、悟りは、永遠なる恒常 普遍の真理であります。 釈尊は、其の悟りに至る方法論を体系化され、人として歩むべき道( 彼岸に至る道)、所謂仏道を説かれました。 そして、恵まれたバラモン(教)の伝統の中で、中道の、命を育む苦行 、つまり生涯に渉る継続的、必要最小限の肉体的負荷と、最大限の 覚醒を維持し得る苦行を行じられました。 是こそ正法苦行であり、解脱・涅槃に至る苦行であり、安楽の法門で あります。 ここで、頭陀行(※)とは、托鉢自活により、少欲・知足にして、五欲 (性欲最易・睡眠欲最難)、衣・食・住に関して貪著せず、其れ等を必 要最小限に止め、そうする事によりて、三毒(貪・瞋・痴)、煩悩の塵 垢から離脱し、解脱・涅槃の為に全生命を、二十四時間、真剣に、坐 禅と一息半趺(注、下記)に注いで、但坐不臥行を行ずる。是が正法 苦行でありますが、斯うする事によりて、解脱・涅槃への智慧を生じ、 且つ、無窮なる涅槃へ至り得る訳であります。 此の釈尊の悟りによる仏道は、西洋文明に根本的に影響を与えまし た。キリスト教に修道生活が生まれたのも、其の影響の一つでありま した。文明も高度に為れば為る程、其の真価を認めざるを得ないもの と為るでしょう。文明は、(無)意識や、我(欲)から離脱した悟りの生 命から把握されなければ、人間が其の採るべき真の正しさと厳しさか ら逸脱してしまい、人類を悪(地獄)へと導くものと為ってしまいます。 故に二千五百年前以来の釈尊の正法の復活が、現代世界に果す 役割の重大さを実感せずには居れません。 [ 新道元宗の現代に果たす役割 ] 人事は万事、先が見えない。 人の世は、必然的、不可避為る四苦であります。 是が、ヨーガ(BC2300頃以降)→バラモンの梵我一如の苦行(BC 1300頃)→釈尊の断食苦行→中道→悟り(BC500頃)を生んだ。 自分は一体、何を為したら良いのか? 唯一、釈尊の成道(悟り)在るのみであります。 故に、万人は常に仏道(=正法苦行)を心掛けるべきであります。 宗教とは坐禅であると覚知し、そして坐禅だけに為っている人。 後は、具体的に、新道元宗が詳説致して居ります。 次の如くであります。 釈尊滅後、約100年で、北伝の大乗仏教と、南伝の上座部(小乗)仏 教とに根本分裂し、更に、南伝は100年から300年で20部派に枝末 分裂致しました。一方、大乗仏教は、紀元前後100年頃インドに興起 し、アジア極東の日本に於て、結実致しました。 しかし、戦後特に近年、愈々正法に対する意識が消え失せているの ではないでしょうか。しかし、下化衆生(菩薩道)的側面の強い大乗仏 教国である日本に於てこそ、釈尊の原始仏教である、上求菩提(阿羅 漢)的側面の強い上座部(小乗)仏教の長所を生かす事によって、正 法を復活する事が出来る。 大乗も上座部も、その根本精神は一つであります。 釈尊の御本懐そのものであります。上求菩提厳しければ下化衆生も 自ずと厳しい。此の葛藤が激しい程、仏道壮んであります。 互いに、二律背反の矛盾するものではなく、相互に相乗効果を生むも のであります。 仏道には下化衆生(菩薩道)的側面と上求菩提(阿羅漢)的側面があ りますが、正法苦行には、其れ等は不可分なものとして、自ずから兼 備して居る訳であります。 頂、高峻なれば、其の広がりは、自ずと豊かであります。 孰れに致しましても、恵まれた風土とインダス文明のヨーガの伝統と 、バラモン(教)の伝統(梵(浄)行)と、厳しい身分制度の中で、望まれ るべくして至り得た釈尊(・大迦葉)の正法苦行(頭陀行)、断食苦行、 中道、成道、梵天勧請、初転法輪、僧伽の形成(具足戒(梵行)と最 低限の三帰戒)、大迦葉(頭陀第一)への嗣法、生涯石窟夏安居、般 涅槃の此の釈尊の事実に他なりません。 是が正法苦行としての根本精神であり、一切の戯論(仏道も含めて) を超え、悟り、解脱・涅槃に至ら使めるものであります。 此処から一切が湧出して居る訳であります。 此処まで辿れば、大も小も、自も他も、有も無も、迷も悟もありません。 此の正法苦行の根本精神を基盤として、千日行(厳密三時間坐睡二 十四時間仏作仏行)を実践し、正法復活・興隆を果して行けば宜しい 訳であります。 生涯千日行は、(御遺教を含めて)正法苦行を、安楽行に転じ往く、 無窮の解脱・涅槃への一筋道であります。 正法苦行の無い、日本禅宗の伝統では、欲界中での坐禅?道を永 続する事は出来ないでしょう。 孰れは、伝統も世間に迎合したものと為り、是に歯止めを掛けない限 り、衰退の一途を辿る外無い。 仏道を復興するには、今一個半個が正法苦行を欲界中で行ずる以 外にありません。 日本に於いてこそ、出家、在家を問わず、誰でも、働きながらでも、正 法苦行(但坐不臥)により、正法復活・興隆を果し、峻厳なる無窮の解 脱・涅槃へ至る事が出来ます。 人に対しては、何処までも、大きく受け入れて、極むれば極むる程、 自己に対しては、何処までも厳密に為っていかねばなりません。 そういう訳で、究竟厳密 生涯千日行 (三時間坐睡二十四時間仏作仏行(坐禅主体)) [三時間坐睡、十四?坐禅と一息半趺、日課、三時間托鉢、作務(日 ・祝のみ)等]と 千日行(後継者打出し)攝心会 (毎奇数月、一日~五日、(参加者の有無に拘らない)) [三時間坐睡、十八?坐禅と一息半趺、日課等]を 実践致しております。 此ぞ、不戯論の極まりたる処であります。 普段は、北九州市内の道場で行じて居りますが、機会有り次第、鉄牛 寺で実践する予定で居ります。 此こそ、吾師、伴鐵牛御老師の御本懐でありました。 恩師の遺されたものを、展転して行じ興す事が、正に佛恩を報ずる 事であると強く信じます。 [ 釈尊への実際 (生涯日々是攝心会) ] 釈尊は般涅槃に臨まれて、最期の御教戒を説かれました。 少欲・知足にして精進し、心散ぜず、智慧を生む為の修禅定。 そして更に、聞思修の慧を以って、而も自ら増益すべく、 (サーリプッタ、モッガラーナ等の)聞思の智慧を起こし、 (摩訶迦葉、アヌルダ等の)難・苦行及び「証(さとり)」の実践的智慧 を生む修智慧。 更に、何処までも、其れに真実、徹すべく、不戯論と。 此の様に、最期に、大乗の御教誨を説かれた様に、人生は究竟 千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行(坐禅主体))を志向し、 常に、是を心掛け、何処迄も此れに徹底して行くべきものである。 菩提心を起こし、禅定のこころ(禅心、正念)を以て、万事に当たる。 仕事、労働等総てそうであります。 此の二十四時間の正念相続が、聞思修の智慧を生み、解脱・涅槃の 悟りに至らしめる処の、想像を絶する定力(集中力)を育むという事で あります。 坐禅により、身心脱落し、柔軟心を得、自分だけでなく、総ての人が、 そうあればと自然に願われる。是が、慈悲心だと思いますが、 悟った心が全世界であります。全世界(の人達)がそうあってほしい、 そうあれば、と思うこころ(菩提心)を根底に、定力(集中力)を養う事 により、修智慧を生み、究竟千日行に至る。 故に、厳密千日行は人を思うこころの結晶であります。 此のこころが、つまり仏性(本質)を思うこころが恐怖心を凌駕し、 正法苦行復活為ら使め、解脱・涅槃に至ら使めるものであります。 世界人類の幸福・平和を、何時でも、何処でも、誰でも、自らの事とし て為し得る。此の方法が千日行であります。 そして、是を基本として、可能な限り、是を世に興すべきであります。 仏道が、正しく把握される事が、世界人類が最も幸福・平和に至り得 る最短路であります。 千日行(後継者打出し)攝心会の御案内 仏道の目的は解脱・涅槃に在ります。是には千日行(三時間坐睡 二十四時間仏作仏行)が不可欠であります。 釈尊・大迦葉の頭陀行及び御遺教の正法が、如浄禅師より道元禅師 (宝慶記等)によって日本に齎されました。 悟り・解脱・涅槃は世界人類の幸福・平和の核であります。 日本と云う正法復活に世界唯一の最も恵まれた仏教国に於きまして 、欲界中托鉢(或いは働きながら)自活して正法苦行(=千日行)を実 践する。 そもそも、愁苦無ければ、菩提心発せず。欲界中でなくんば、仏祖(= 正法)生ぜず。仏祖は常に欲界に在って、坐禅?道致しました。 新道元宗大雲山鉄牛寺国際参禅道場では、五月一日~五月五日、 千日行(後継者打出し)攝心会を行います。 (詳細はネットで) 坐蒲上に腰掛けて、両膝を並立し、 其の両膝上に、両手掌を伏せて重ね 合わせ、其の上に頬を乗せて坐睡す る千日行(=初行)を完了すれば、坐禅 した儘坐睡する千日行(=後行)も出来 ますので、何れでも可。 《 涅槃の夢 》 ・千日行実践への決意は、釈尊の出家に相当するものであると思う。 バラモンの伝統の中での、一城の太子としての釈尊の原体験無け れば、求道への発心は起こらなかったのである。 (初)発(菩提)心 (=自未得度先度他の心)と解脱・涅槃とは、二つ ながら、別無し。 大迦葉、偈をもて釈尊を誉め奉るに、 『……、初めの発心は、起す事が困難である。自未得度先度他の心 であるからだ。是の如くの発心、最無上と名ける事を得たり。』と、 前者と後者を比べると、螢火と劫火の如くなるべしといへども、自未 得度先度他のこころを起せば、二無別なり。 人間は、欲界に在って、三毒(貪・瞋・痴)、四苦(生老病死)を目の当 たりにして、菩提心を生じ、発心し、悟って、四苦を滅する事が出来た 。然るに、人は依然として、苦海に浮き沈みしているのである。 釈尊は、菩提心生ずるが故に、欲界中に在って、坐禅弁道(=正法 苦行)すべきを説かれた。 小生、千日行を始める契機と為ったのは、 寺を出て、放浪中、一体何故に今の自分は一人、こんな事をやって 居るのだろうかと、ホッと思った時に、初めて千日行の恐さが浮き上 がって来た。 と同時に、千日行を意識した。 其れ(=其の恐さ)から逃げている自分の姿が解ったのである。 不思議にも、其れ迄は全く、微塵も千日行を意識する事すら無かった のである。 其処に気付けば、後は火縄銃の火種の様なもので、時間の問題であ る。 無意識の内に、其れへ向けての、無意識の準備が為されて往くので ある。 其の過程に於いて、小生は、塾の個人指導の為に、星の一生につい て学習していた時、『巨大な星というものは、百年か二百年に一度、 超新星爆発をする。此の星は、他の星の様に最期に、其の中心核が 白い塊りの残骸として残らずに、完全に自ら粉砕して、周囲に飛散し 、それ等が核となって、多くの星が生れる。』という某学者の著書を読 んだ時に、 よーしっ、自分も、此の超新星の様な、つまり、千日行をして、多くの 人を生む様な、そういう生き方をしたいものだ。と此の時、千日行開 始の決意をした。 《 本質までの三段階 》 坐禅を始めて、二年半位経った頃であったか、 坐禅を独り遣り始めて一年目に福岡安国寺開単攝心会師家伴鐵牛 老師に初めて相見して一年程後、 独り、自室で、夢中で 坐禅に没頭していた時、突然、其れまでの自己が、グラグラと木っ端 微塵に砕け散り、崩壊して、まるで唖者が白昼夢でも見ているかの様 に、此の大宇宙に生み(投げ)出されて、只独りの意識(自覚)だけが 在った。 悟った(身心脱落した)瞬間だ。 「宇宙(生命)の本質」に見(まみ)えた瞬間だ。 嬉しくって、外に飛び出して歩き回ったのを覚えている。 坐禅の功徳、更には智慧、そして「悟り」により、慈悲心生じ、施しの 心生ず。 一方、貪欲為るが故に、瞋り生じ、癡愚と堕する。 三毒の貪著が三善根(施・慈・慧)に転ずるには、千日行(正法苦行) 為らずんばならない。 是によりて、貪欲滅するによりて、 いつしか、ハーッと、気付かされる時節が訪れる。 「宇宙(生命)の本質」に触れた(=解脱した)瞬間だ。 一旦気付けば、未来永劫に、水と油の如くにして、 永遠為る恒常普遍の真理と為る。 千日行(初行)完了して、十三年間程の就労による正念相続(一日も 疎かにしない可能な限りの初行の厳密坐禅作法堅持)による動中の 工夫後、就労の為坐禅時間が確保し得なくなって、小生坐禅をする為 に鉄牛寺へ上山する段階で解脱したのである。 「動中の工夫は静中に勝る事百千億倍す」(白隠禅師)である。 五十五歳の元旦から千日行(後行)入り。 喜寿を迎えて、測らずも真中道(=覚天)の刹那に至り得たのである。 是によりて、是迄の全てが、恰も極頂の結び目を解いた如く、明らか と為った。 「宇宙(生命)の本質」に同じ涅槃入りした瞬間である。 以降、坐禅を組む時を費やす事が無くなった。 是等は総て永遠為る恒常普遍の真理と為る刹那であった。 〈鐵漢〉|〈釈尊〉|〈道元禅師〉 生涯厳密千日行(攝心会)録 [平日] (一日、十五日は祝?諷経) 午後六時~午前八時 坐禅 (二十三時~二時 坐睡) 毎正時十五分~五十五分 坐禅 毎正時 経行鐘(心中鉄牛寺殿鐘打ち) 十分間 経行(一息半趺) 五分間 止静 午前八時~午前八時半 朝課諷経 午前八時半~九時 朝食 午前九時~午後二時十五分 托鉢 午後二時十五分~午後五時 坐禅 〔食事準備等総て経行・止静(十五分間)(全三時間半位)で済ます。〕 [祝・日] 午前九時~十二時 内・外作務(洗濯、その他) 十二時~十三時 日中諷経 昼食 十三時~十六時四十五分 作務 十六時四十五分~十九時十五分 晩課諷経 夕食 入浴(洗濯) ※以外は平日と同じ。 [摂心会] 毎偶数月末日、 午後九時~翌月五日午前九時 平日の托鉢を坐禅(四?) 昼食に。 五日目は、祝・日の日程で。 《日課》 <朝課諷経> (自帰依三寶禮~四句請願文) ・一、十五日 祝禱諷経 (般若心経・参同契・壽量品偈) ・四、九日 略朝諷経 (般若心経・大悲呪・舎利礼文) ・奇数日 (観音経・参同契・壽量品偈) ・偶数日 (大悲呪・消災呪・宝鏡三昧・壽量品偈) ・祝、日 略朝諷経 (般若心経・大悲呪・舎利礼文) <日中諷経> (仏頂尊勝陀羅尼) <晩課諷経> (大悲呪・甘露門・四句請願文) 《月忌》 ・三日 母、月忌 (修証義・仏遺教経) ・七日 父、月忌 (修証義・仏遺教経) ・二十一日 開山諷経(伴鉄牛御老師、月忌)(大悲呪) 《年忌》 ・一月二十一日 開山諷経(伴鉄牛御老師、年忌)(大悲呪) ・二月十五日 釈尊涅槃会(大仏頂万行首楞厳陀羅尼) ・四月八日 釈尊降誕会(大仏頂万行首楞厳陀羅尼) ・九月二十九日 両祖忌(大悲呪) ・十月五日 達磨忌(大仏頂万行首楞厳陀羅尼) ・十二月八日 釈尊成道会(大仏頂万行首楞厳陀羅尼) 《 国家の信頼 》 ・国家の信頼というものは、何処から生ずるか。 其れは、国家を構成している国民、一人一人、つまり、人間そのもの への信頼である。 自己への信頼無くして、如何して、国政、世界への信頼が築けよう。 自己への信頼とは、我欲を離脱した処から得られる、悟り(=無我)か ら生れるものである。 世界人類の真なる幸福・平和を築く事は、其れ無くしては不可能であ る。 つまり、国家の信頼というものは、無我なる悟りから下される判断で なければ、真なる信頼は生れない。 果たして、世界中の指導者達に、其の判断が下せるか、否か。 然うで無い限り、下された判断というものは、思い掛けぬ所から、容 易に覆されてしまうだろう。 其れだけで済めば宜しいが、後は、混迷なる地獄しか残らないので ある。 核(武)力に信頼を置かざるを得ないよりも、人間そのものに、信頼 の置ける地球上に為らなければならない。 核力に信頼を置くという事は、自国の繁栄と権力の為であり、 人間そのものに信頼を置くという事は、世界人類の真為る幸福・平 和の為である。 《 生命の東西両洋の志向性 》 一切は、此の大宇宙より生じ出で、此の大宇宙へ滅し往く。 常に、此の大宇宙と一つに為って居るを不生不滅という。 現代、禅仏教が国際的に広がりを見せ、真剣に心の宝蔵として捉え られつつある。 釈尊とは解脱であり、「人を生(活)かす」「教え」である仏教の正法は 国境を越え、宗教を超える。 総ての世界人類の一人一人の心の根源為る「教え」である。 仮にも、是を抑圧するが如き為政者は、「宇宙(生命)の本質」に違う 指導者であり、指導者としての資格は無い。 涅槃為る「宇宙(生命)の本質」(仏性)は常に刹那生滅の原理に基づ いて無常に変遷し、進化の途上に在る永遠為る恒常普遍の真理であ る。 釈尊以来、現代に於ける仏法を正法、像法、末法と云った捉え方は、 在る一時期(千年、万年…)の傾向に過ぎない。 身(物)の進化の究極である大脳新皮質によりて、心の進化へと移行 し、菩提心によりて、釈尊をして「解脱(悟り)」せ使め、人類の西洋的 諸創造能力から、其れ等の根源である東洋の「宇宙(生命)の本質」 に同じ、更に釈尊は小生鐵漢に於いて心の進化を完遂し、涅槃智慧 の段階に転入し得たのである。 「悟り」、「解脱」、「涅槃」は不測、不可思議為る本質に同じ往く生命の 根源体験であり、人類の諸創造能力の母体と為るものである。 東洋の無我為る本質から生ずる涅槃(智慧)に基づいて、西洋の創 造的諸能力を生(活)かすのが生命の本道である。 《 アメリカの根本的過誤 》 西洋の遺産の最たるものは、負の、物の核武装であり、其の唯一の 被爆国は東洋の正の遺産を生んだ、他でもない日本であります。 東洋の遺産の最たるものは、死者の復活による神の存在を否定する 正の、心の、悟り、正法苦行、解脱であります。 米は他を排除するのでなく、極力、他を受容して、智慧に拠りて慈し み、施すべきだと思う。 政治とは、損得でなく、目先の得による安泰でなく、本質による、将 来の興隆でなければ為らない。 無上の破壊力を持つ核武装を生み、日本を其の対象国家と選定して 実行したのである、 戦勝国家、米国は敗戦国家日本を、其れを理由に軍事植民地化し、 其処を拠点として、其の周辺敵対諸国家を睥睨(へいげい)し、日本 を足蹴にしたのである。 其の後、当の米国は、自国に追従する一連の核武装諸国家と共に、 自らを温存して其の能力を完成させながら、他者へはあらゆる手段を 使って、一方的に非核化を強制して来たのである。 斯うしたヒトラー的独裁強制執行は、現代に於いては通用するもので はない。 過去の最大に誤算であった負の遺産の末路としての、負の遺産に 過ぎない。 神為る存在の虚構なる最高権威の帰結として、必然的に至り得た最 高権威としての核爆弾であった。 神為る最高権威の根拠を失った西洋は、唯一為る真実である「生命 の本質」足る根拠を、釈尊以後、現代に於いて世界的に決定的に再 確認したのである。 今や、常識的と為っている米国による是までの過去からの大誤算を 一掃し、是から真に決して人類史上に犯すべからざる核破壊という 大過誤に随伴して執られた世界制覇の中心地としての、被爆地の 軍事植民地化、及び其処から派生して出る、核戦争を大前提とする 力による一方的自国主張等を深く反省しなければならない。 非核化を強制するのであれば、嘗て核破壊を実行に移した世界に唯 一の核戦争体験国家が、先ず被爆国家に過去の反省と謝罪をした 上で始めるべきである。 これ等全てが、一強、米国が唯一為る被爆国日本を未だ、其の隷従 国家としていると云う事実は、人類史上、此れから永遠なる恒常普 遍の真理為る「生命の本質」に基づいて、世界人類の幸福と平和を構 築せんとする中心的役割を担う日本人として、決して忍受出来ない 世界的大過誤である事は明々白々である。 今や、将来の地球上の為に、世界の歴史の大転換点として、是迄の 日本の隷従国家的在り様を一新しなければならない時である。 日米の関係が一新されない限り、将来の世界人類の幸福と平和の 根底を失う事と為るであろう。 何と為れば、残された唯一の生命の真実に離反する事に為るから である。 真に深く反省すれば、過去の過誤は、これからの将来の障害とは為 らない。 100% 本質的禅学 「出来た時に引き締める」 《 「人に尽くす」から「人を生(活)かす」へ 》 「人に尽くす」は「人を生(活)かす」のでなければならない。 例えば、性欲について考えてみる。 性欲で人に尽くすと云う考え方がある。 性欲、淫快に於いて、「人に尽くす」とは人を悦(よろこ)ばせると云う 事である。 一方、「人を生(活)かす」とは? では、「生(活)きる」とは? 人間であれば、動物が生きる事とは異なって、「人間的に生きる」でな ければならない。 「真に人間的に生(活)きる」とは、如何(どう)云う事か? 如何(どう)云う生き方か? 是は、「人を生(活)かす」(生き方)である。 「人を真に生(活)かす」とは? 是は、人を酔わすのでなく、人を真に覚醒させる事である。 人を真に覚醒させるとは、人を覚(さと)す、つまり「悟らせる」事。 強いては、更に「解脱」させる事である。 「人を真に生(活)かす」とは「悟らせる事」なのである。 「人を悟らせる」とは、自(みずか)ら「悟り」、自(みずか)ら「解脱」して いなければならない。 要するに、「人を生(活)かす」とは、自(みずか)ら「悟り」、「解脱」し、 更に、他(人)を「悟らせ」、「解脱させる」事なのである。 斯う云う次第で、「人に尽くす」は「人を生(活)かす」でなければならな い。 故に、性欲為るものは、「人を生(活)かす」に昇華されなければならな いのであって、 種の存続機能は其れが不要に為れば、既に性欲(淫快)為るものは、 存続の為の酔い、酔わすものは覚醒し、覚醒させる段階に、敢えて 移行しなければならない処のものである。 性欲(淫快)済めば、即自(みずか)ら切替えて、「人を生(活)かす」に 転了されねばならない。 斯く為る次第で、人は欲界中で菩提心を生ぜ使め、自(みずか)ら敢 えて覚醒(悟り、解脱)し、酔える人類を覚醒せ使めねばならないので ある。 解脱(する)人と云う者は、 淫快は、仮令(たとえ)在れども、其れを決して採らない。 自らのものにしない。 列車の中から、外の流れる風景を眺めて居る様なものだ。 一般の人間と云う者は、寧ろ逆に性欲(淫快)に振り回されている。 性欲(淫快)に支配された動物的生き方をする者達が在る。 極限される淫快による酔いにすぎない。 そうした衝動には趣くべきではない。 其れが為に、人間は、誤魔化し、嘘をつかざるを得なくなる。 嘘が生活を支えていると云う状態である。 解脱為るものは本源を解脱するから、 五欲への執著を根本的に離れるのである。 是は、金欲に於いても同様である。 解脱が覚醒への最短路である。 生命為るものは、須らく覚醒すべきものなのか? つまり悟るべきなのか?と言えば、 三毒(貪・瞋・癡)の貪とは欲に酔っているが故に貪なのである。 諸悪の根源だ。 欲に酔えば造悪と為る。 故に覚醒しなければならないのである。 「人を生(活)かす」の前には人間の諸能力は、其の魅力を失う。 全ては「人を生(活)かす」を根本に、為すべきものである。 学問、芸術、スポーツ等々、総て然りである。 其の時初めて、核問題無し、人種差別無し、ヒトラー無し、自然破壊 無し。 人類は如何に金を生んでも、 其の為に犠牲にしてきた「人を生(活)かす」心を取り戻す為に、其の 何倍もの金を費やさざるを得ないのである。 経済学の根底にも、先ず、最短路為る「悟る」が不可欠なのである。 其の上での多様性でなければならない。 其の時には、新型コロナウィルスのパンデミックは激減するであろう。 人類は方向性を誤ると、経済学以前の原点に戻らざるを得ないので ある。 先ず「悟る」べし。 そうして、既に覚天された「人を生(活)かす」を森羅万象一切合財の 根源に据え、信奉すべし。 故に国連本部に千日行を置くべし。 其れを可能為ら使めるのは、唯日本在るのみである。 世界を牽引する人物は、始めに堅固なる、不殺(盗、淫、妄)戒の基に 「人を生(活)かす」涅槃(智慧)に了ずる解脱(涅槃)人である。 其の間に、地上のあらゆる信仰、神と共に信頼に基づく連帯感を築く のである。 進化した身の本来の目的は種の存続であり、更なる心の進化の目的 は「人を生(活)かす」涅槃である。 其の為の性欲、金欲が夫々の目的を果たしたら、其れ等は最早無意 味である。 斯(くあ)るが故に、「宇宙(生命)の本質」である少欲・知足為るべし。 貪は悪の根源である。 諸学総て同じ。 「宇宙(生命)の本質」の目的は究竟涅槃である。 《 涅槃為る進化に不可欠なる退化 》 釈尊の古代には中道による解脱迄であったけれども、 現代では人類三毒の負の進歩(=退化)による現代世界を露呈した 結果、小生鐵漢をして真中道(覚天)せ使め、涅槃に至り得たのであ る。 もしも、三毒に因る負の進歩(=退化)無ければ、今の涅槃には至り 得なかった。 物(身)の進化の究極は三毒を生ぜ使め、心の進化の究極(=涅槃) と為る。 同様に、そうであれば地球自然破壊も生じなかったであろうし、従って 現今の人類が是迄経験した事の無い新型コロナウィルスと云う(突然 )変異株も生まれなかったかもしれない。 人類は此れによりて、自然大破壊と地上核武装に代表される現代の 世界の来し方、誤った負の進歩、退化を深く猛省し、根本的に世界各 国を構成する世界人類が世界を構成する一個人として我々自身が如 何に在らねばならないか、此の令和新世紀に我々は「宇宙(生命)の 本質」によりて開示され得た涅槃に基づいた信頼と一体感を共有しな ければならないのである。 物(身)の進化は心を生み、心の進化は涅槃を生む。 進化の目的は涅槃である。 自然に花実を結ば使めるが如く、人類に涅槃を生ま使める。 其の目的に違えるものが生じると、「宇宙(生命)の本質」は自らを人 類に開示するのである。 《 人類に残された唯一の可能性:涅槃 》 日本の令和新世紀に人類の全ての危険性と可能性を露呈したので ある。 自然破壊に因る激甚自然災害と、嘗て類を見ない悪質巧妙に進化し た新型コロナウィルス感染症パンデミック、 地上非核化、そして 心的進化の究竟、涅槃。 前者に因る経済的損失は測り知れない。 現今の災禍は人為的戦争でない、原因不明なる変異したるウィルス によるものであり、或る意味で不可避であるが故に、現代に於ける 人類の営み其のものに根本的に疑義を抱かざるを得ないのである。 斯うした地球規模の最大の可能性と危険性とが同時に生起した、正 に善と悪の究竟為る時代は、此れ迄、在り得なかったのである。 是等から導き出される教訓は、自ずから明確である。 是をコロナウィルスに因る自然復元力とも云うべき、人類への悪業報 と信受し、来るべき地球規模の激甚自然災害と感染症パンデミックの 絶えざる襲来に備えて、 今こそ、我々人類は此れ迄人類が犯した過誤を反省し、根源の涅槃 に基づく涅槃智慧を生(活)かし、此処に生ずる信頼と一体感に基づ き、人類は根本的に分裂でなく、地球家族と為りて、国境を超えて、 不要なる武装を解除し、真の地球規模の保身の立場で、 富の偏在化でなく、富の遍在化を実現し、世界人類の幸福と平和を 構築しなければならないのである。 《 生きている時に、一度は死ぬ 》 生まれるも死ぬも、人類が如何に是を採り上げようとも、 自己に拘わらず為される処のものだ。 要は、如何に生きるかである。 是に明解に即答し得る者が居るか? 全人類に向かって。 斯(こ)うだ!と。 正に人類は是を求めて生きて居るのではないのか? そうではないのか? 《 正 道 と は ? 》 核武装の罪過を人類は認識しなければならない。 其れは広島と長崎での地獄を認める事なのである。 是を認める人間は、最早、人間足り得ない。 悪鬼である。 人類は神を生むと共に、悪魔をも生むのである。 善の慰めと同時に、悪の慰めの狭間に存する生き物である。 人類の正道とは、中道に基づいた正法苦行(=千日行)に拠りて解脱 し、究極の真中道(=覚天)に至り得た唯一の涅槃人によりて開示さ れる「宇宙(生命)の本質」の「智慧を生(活)かす道」である。 《 拙著『本質的禅学」とは? 》 『本質的禅学』は諸々の仏典と諸々の神の聖典に基づいて、 「宇宙(生命)の本質」の生みし仏神の進化し、「宇宙(生命)の本質 」為る、仏神に非ざる「人を生(活)かし合う」涅槃に基づきたる信頼と 一体感による涅槃智慧により、世界人類の幸福と平和を構築する礎 たる究極の書である。 釈尊では未だ不完全である。 小生、古希の覚天(真中道)でなければ、釈尊の成道位では世界人類 を導く事は不可能である。 覚天は人類の如何なる計らいを以ってしても、及び得ないものである。 「宇宙(生命)の本質」に涅槃入りする真中道でなければ、心の進化を 究竟し、「宇宙(生命)の本質」に同ずる事は出来ない。 此の体験に及び得るものは、何一つ無い。 釈尊の中道と吾鐵漢の真中道は共に追体験をするものでなく、 此の両者を以って「正法」と為すものである。 (正法苦行とは千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)である。 坐睡は初、後何れでも可。) 諦観(ていかん)には未だ神仏在り(残れり)。 覚天成らずば、及び得ず。 「悟り」とは万法(物質、精神一切)に証せられるのである。 万法に証せられるが故に「悟り」なのである。 「人を生(活)かす」涅槃も、又同様である。 極仏に於ける諦観や信ではないのである。 「宇宙(生命)の本質」に証せられて覚天するのである。 是、真中道也。 釈尊の中道は、厳密に言えば、「宇宙(生命)の本質」に違(たが)えた 禁欲による必然的結果為る諦観であり、其れだけでは完璧ではない。 釈尊成道の如く、「万法に証せられた」のではない。 真中道に於いては、「宇宙(生命)の本質」に証されたが故に、 「宇宙(生命)の本質」に同じ、涅槃入りし得たのである。 斯(く在)るが故に、「真中道」と称し、是(=覚天)によりて涅槃成じ、 涅槃智慧成り、世界人類の幸福と平和の真の礎足るのである。 《 身の目的、心の目的 》 進化の目的は涅槃であり、身が進化して心生じ、心の目的は涅槃で ある。 身の目的は涅槃にある。 「宇宙(生命)の本質」は差別無く、諸々の花を咲かし、人を生ぜ使め る。 身を制するは心である。 身が心を制するは虚偽であり、造悪である。 心が身を制する。 心とは「人を生(活)かす」涅槃である。 《 人類に対する欲とウィルスの意義 》 人類の究極目的である涅槃に至る(=進化する)には、未だ涅槃智 慧による「世界人類が生(活)かし合う」生き方に迄は未だ到達(=進 化)し得ていないが故に、人類の三毒害による、核(化学兵器)武装、 人種差別、ヒトラーや激甚自然災害が甚だしいが為に、新型コロナウ ィルスを発生せ使め、人類に根本的反省を促が使め、涅槃への進化 為ら使めたのである。 人類の悪業が甚だしきが為の、現今の新型コロナウィルスによる 復元力たる悪業報である。 新型コロナウィルスでなければ、人類は現今の三毒害を反省して 涅槃への進化を完遂する事が出来ないからである。 不昧因果。因果の道理は毫釐も違わず。 新型コロナウィルスも欲も共に人類の進化の究極の目的、繁栄と涅槃 の為である。 現今の新型コロナウィルス災禍の現状を鑑みても、西洋(欧米)の現 代文明では「宇宙(生命)の本質」からして、理想的在り様では無いと 云う事である。 矢張り、「宇宙(生命)の本質」に基づく智慧、つまり覚天による「人を 生(活)かす」涅槃による信頼と一体感に基づく涅槃智慧が不可欠な のである。 是によりて、世界人類の幸福と平和を構築する。 是までは分別(差別)の世界であった。 今後の令和新世紀に於いては、涅槃の「人を生(活)かす」世界でなけ れば為らない。 《 諸学と「悟り」 》 「悟り」に基づいて学問する立場と、 学問に基づいて「悟り」する立場について考察してみる。 如何なる学問も、其処から「悟る」事は不可能である。 しかし、「悟り」の立場から学問する事は、「仏教(御遺教)」や「本質的 禅学」の様に何等の支障も無い。 寧ろ、本来理想的には、学問為るものは、「解脱」「涅槃」の立場から 為されるべきもので、諸々の学問も、其れによりて真の学問足り得る のである。 正に原爆の存在が、其れを明確に証明している。 一方、学問の立場から「悟り」するのは、本来「悟り」其のものが、諸縁 を放捨し、自己を忘れる事から始めるものであるが故に、 諸学者が「悟り」について意見する事は、釈尊手掌上の悟空に譬えら れる。 「学問」から「悟り」へは至り得ないし、 「悟り」から「学問」へは、少なくも二重の労苦を要する。 物→身→学問→「悟り」→「解脱」→「涅槃」→世界人類の幸福と平和。 是は「宇宙(生命)の本質」の進化に於ける、六道(趣)同様の諸相で ある。 如何なる学問に於いても、是を否定する事は不可能である。 学者為る者は、是を信受した上での学問であるべきであり、其の時 初めて真の学問足り得る。 生命を生命たら使めている、「生命の本質」裡の生命と云う真理の 認識無くんば、恰も氷山の一角の認識のみで生きている様なもので、 海面下には無尽蔵の世界へ開けているのである。 此の事は西洋と東洋に於いても同様であり、測らずも、現今の新型コ ロナウィルスに於いても其の事を裏付けるが如き結果を得ている。 斯くの如く、此のウィルスを、我々に与えられた一つの恩恵と受け留 め得る程の真の底力を持たねばならない。 「解脱」は人類の真の底力に他ならないのである。 《 厳密と云う事 》 現今の新型コロナウィルス感染症の感染率に於ける母数が不明確で ある事が、一貫して、今後将来の為に是正されるべき課題であった。 斯うした基本的なる不明確さは、日常の、其れこそあらゆる分野に於 いて見出されるのが常であるが、今後の将来性に於いて看過され得 べからざる点であり、将来早晩、不可避的に進化せざるを得ない部分 である。 日本(人)の気質に於いてさえも、今後の日本の為に根本的に改善さ れ行かねばならない点である。 日本の、全分野に於いて、現今のパンデミックを契機に、 全世界の将来を生(活)かす、此の時空を超えた涅槃智慧為る 純粋な厳密さが構築されねばならない。 此の厳密さが全世界の涅槃に繋がるのである。 あらゆる分野に於ける不明確さは、日常に於ける人々の心の持ち様 、言い換えれば、生きる姿勢とでも云うべき問題である。 是が忖度とも為り、世界的にも波及するのである。 斯うした曖昧さを是正するのは、精神の根本的問題に拘わってくる。 根本的なる改善無くしては、是正され得ないものである。 此の根本的改善は一般的には在り難いが故にそうなのである。 是を可能為ら使めるには、是迄の社会通念の枠を超えた地道な取 り組みが不可欠と為る。 正に是こそ、正法苦行(=千日行)の根本的に自ずから為る厳密さ、 生涯に亘るオリンピックの様な厳密さである。 此の取り組みに基づけば、即刻是正されるのである。 矢張り本気度、全身全霊を以っての取り組みが不可欠である。 此れ無くして、如何に取り組もうとも、功成る迄には、恐らく無限の時 間が掛かるであろう。 二十四時間生涯の取り組み無ければ、生半可な常識では解決し得な い。 是は時空を超えた通例である。 全体の中での個は未だ弱い。 是を改善するには、個人レベルでの本格的取り組み、つまり小生が新 道元宗 宗旨の世界連合と一体と為った取り組みが不可欠である。 小生の「涅槃」も、此の厳密無くしては絶対に不可能であった。 狂愚為る程の厳密への執著である。 時空を超える絶対的厳密さにして初めて為し得る処のものである。 此の覚悟を育てる為の世界連合中枢に於ける取り組みである。 保身の為のものではない。 《 涅槃へ至る本質の進化の純粋性 》 嘗て、摩訶迦葉尊者は「釈尊の、(初)発(菩提)心を起こすのが最も 困難であるが故に、是を最も尊貴する。」と語った。 最初のスタートの心の動機の透明性が将来を決定付ける。 「宇宙(生命)の本質」からの促がしである菩提心によりて、 促がしに基づく、(食生活安定後)瞑想。 菩提心に基づく、動機を以ってのヨーガ(行)。 〃 、(伝統的) 釈尊の出家。 〃 、(釈尊に基づく)小生の坐禅。 〃 、(師に導かれての)小生の出家。 各々の段階総て、「宇宙(生命)の本質」(仏性)からの促がし(=働き 掛け)、更には、其れによる菩提心によるものであり、 古代インダス文明の瞑想に端を発し、五千年余りの、其の進化を遂げ 、釈尊の禅定による坐禅正法苦行(=千日行)の究極に於いて遂に 本源の「宇宙(生命)の本質」が明確に開示され、覚天(真中道)の刹 那を迎えたのである。 是が「宇宙(生命)の本質」の涅槃への入口であった。 学問では至り得ない。斯(く在)るが故に、政治でも駄目。 (出来れば解脱)体験が無ければ、人類を治める事は出来ない。 体験の究竟が、小生、鐵漢の覚天(真中道)である。 是は、人類史上一人も至り得なかった究極中の究極。 恐らく、永遠に未踏為る体験である。 是による涅槃が人類を治め得るのである。 此の本質に違(たが)えば、必然的に因果の道理の刹那生滅の原理 に基づく涅槃への進化の過程に於ける修正(=変異)が施されるので ある。 何と為れば、人類は、小生の覚天に至り得る事は極めて困難事為る が故である。 釈尊中道(諦観)と鐵漢真中道(覚天)をして正法と為す。 是最後身心であり、心の進化の至矣盡矣(いたれりつくせり)である。 是によりて「宇宙(生命)の本質」の涅槃入りしたる処からの涅槃智慧 によりて、世界人類の幸福と平和を構築するばかりである。 《「仏頼み」為らず、真仏「人を生(活)かす」為れ》 覚天(真中道)によりて、 究竟、「人を生(活)かす」を覚(さと)り、 是は、「人から生(活)かされる」と表裏一体為る世界(=涅槃)に通ず。 全ては自己の心一つで遣っている事であるけれども、 自己の心一つで自他全てを決めている様なものである。 不可思議。自他一如。自利利人の法。 太陽の働きによりて我々人類は宇宙から生(活)かされた。 此の太陽の恩恵が「宇宙(生命)の本質」である。 世界人類の心が、此の「宇宙(生命)の本質」に同じ、一如為る世界の 在り様を涅槃と云うのである。 天人(支配者階級)は悟れない。迷いが少ないからである。 しかし、「悟り」からしか「涅槃」へは至り得ない。 結果善ければ良し、ではない。 神仏に依存する消極性でなく、真仏為る「人を生(活)かす」(世界人 類が生(活)かし合う)指導者の積極性でなければ、やがて、必ず 悪業報(=欧米の二の舞を演ずる)を受けざるを得なくなる。 「人を生(活)かす」ならば1000に為る処が、100為らずマイナスに 陥るであろう。 心の進化は「涅槃」に究竟すれども、 涅槃智慧は際限無く進歩し行く。 心の幸福と平和は涅槃に基づくべきであるが、 世界人類の物質的、精神的基本的条件確保を目的とする施政には 限りが無い。 前者は本質であり、後者は時空の量的なものである。 政治家の本領は涅槃に基づき、涅槃智慧を何処までも際限無く、 積極的に実践し往く事である。 涅槃入りしたが故に 涅槃智慧(=本質的禅学)に 在らん限りの命を懸ける 《 宇宙と菩提心 》 人間は、枠に納まったら真本分が為せん。 唯、暗黙裡の本分内に納まってしまう。 此の大気圏内から、「人を生(活)かす」、自由為る大宇宙圏に出るの は定常状態では為せん。 寧ろ、其の平衡状態を砕破すべき何事かが生じた方が、大気圏外脱 出力を得るものである。 定常状態とは居心地の良さである。 此の居心地の良さ、是が過去からの大小様々なる習性と云う枠内に 居る世間人の通性であるが、是が国政内部の忖度等を生み堕す。 此処に、人間の菩提心為らざる本能的為るものが、此の菩提心を曇 らせ、鈍らせ、暗闇裡に閉じてしまう。一般人は敵(かな)わない。 此処に世界を牽引すべき菩提心を堅持し得るには、少なくも解脱し、 涅槃入りした涅槃人でなければ、世界を導く力とは為り得ない。 ところで、菩提心は何処で生ずるのか? 小学生位の向学心にも、又思春期の心理にも複雑に係わるものであ り、本人には判らざるが故に異常なる行動を生んだりする。 それから中高生期には、自己の進路として、其れに運命的に対峙す る。然るべき指導者不在為るが故である。 斯うした迷妄が真理への通路である事を知らないが故の迷妄なので ある。迷妄と菩提心とは表裏一体である。 迷妄為るが故の菩提心である。 六道(趣)に於いて天人(支配者階級)は、迷妄が無い為に悟れない、 人間は迷妄なる存在であるが故に、「悟り」を得る。 迷妄が一旦、其の正道為る方向性を得れば、其れが菩提心として 得道するのである。 他をして此の方向付けを為し得る者が不可欠。 嘗て、釈尊成道行法(=八大人覚)は、古代エジプトにて原始キリスト 教に修道者を生んだ。 エジプト国民の半分が修道者であった。 然るに神への修道であり、「宇宙(生命)の本質」の菩提心による求道 為らざるが故に、やがて凋落した。 菩提心とは「宇宙(生命)の本質」からの促がしであり、 洋の東西を問わず、 体験者から体験者へと感応道交され往くものである。 只管(ひたすら)、其の真摯なる下地さえ備わって在れば、やがては 世界を導引する主力と為る。 此の「宇宙(生命)の本質」からの促がしに始まる菩提心によりて、 至り得た涅槃は宇宙に点在する処の花である。 《 パンデミックで知る日本人の底力 》 テレビの某番組で、 様々な職種のトップの方々に、 「新型コロナウィルス感染症パンデミックの災禍を経験する事によって 、其の前後で、自己の専門との取り組みに、何等かの変化が在った か?」と云う問い掛けが為された。 斯うした本質に係わる問い掛けをリアルタイムに発信出来るのも、 現代文明の御蔭であります。 様々な分野のリーダーの方々の御話を御聞きして、其処に、職種を 超えた、日本国民として共有された一(いつ)為る心を感じた訳であり ます。 人類の諸々の能力の根源に底流する、個を超えた全一為る命(心) であります。 心(生命)の可能性を感じ取る事が出来、人が究極的に志向する処の ものは、小生の様に、其れだけで遣って来た人間でなくとも、つまり 釈尊の仏弟子でなくとも、一般の方々にも自ずから、仏道に於ける「悟 り」、「解脱」の心に通じるものであると云う事を感じました。 我々仏弟子は砂糖其のものを舐める事が出来ますが、一般の方々は 砂糖水を舐める事が出来るのだな、と云う事を痛感致しました。 要略すると、 パンデミックは世界中の人々の心に、顔の違いを超えた共通の生命 と共に、其の生命の持つ真の力の様なものを自覚せ使めた。 人類に、真に生きる意味を覚(さと)ら使めた。 諸悪莫作 修善奉行 自浄其意 是諸仏教 本来、善悪為るものは、其の善悪と云う分別を超えた、進化の究竟 涅槃に至る為の差別であるのだと云う事を痛感致しました。 矢張り、人類は万物の霊長でありました。 人類にとって極悪なる新型コロナウィルスも、人類が究極の涅槃へ至 る為には不可欠為る鬼手仏心(仏心鬼手)であります。 是は、取り分け、世界各国の指導者達の世界認識に於いて、彼等が 肝に銘じて居かねばならない基本的精神であります。 其れは人心に底流する永遠為る恒常普遍の真理、涅槃であります。 喧嘩ではない。相手を貶(おとし)める心ではないのである。 共に生(活)かし合う心である。 《 三毒為る心と菩提心 》 「実存(四苦)に於いて為すべき事」と言えば、世間には何一つ無い。 敢えて、何か一点でも在れば、と 恰も、海辺の砂浜から、其の一粒を見出す様に、 三毒為る心から、確かなる一粒の菩提心を見出すが如く、 小生は、生来初めて坐禅と云うものに触れ得たのである。 小生の前途には、先人達の宝蔵への入り口為る坐禅と云うものが 在ったのだ。 〈 最後心為る心の進化 〉 涅槃妙心(=「宇宙(生命)の本質」) [涅槃] ↑ 涅槃行心 [解脱] ↑ 解脱心 [悟り] ↑ [坐禅(ヨーガ行)] ↑ 菩提心 (少欲・知足) [瞑想] ↑ 心 (三毒) [永遠に絶えず「宇宙(生命)の本質」からの促し(前兆)の中に在る。] ※ 摩訶迦葉尊者は、発(おこ)すのが困難為るが故に、 釈尊の発(菩提)心を最も賞讃した。 「宇宙(生命)の本質」の促がしから菩提心が育まれると、 涅槃の少欲・知足と為るのである。 是を大人と云う。(釈尊般涅槃の御遺教「八大人覚」) 欲を追究するを小人と云う。 少欲・知足為れ。 インダス文明に於いて、農耕生活が安定し、集落に於いては、「宇宙( 生命)の本質」からの促がしによりて瞑想し始めた。 BC2000年頃には、集落が拡大して社会構造化するにつれて、人々 の生理的欲(睡眠欲、食欲、性欲)に加えて、社会的欲(金欲、名誉欲 )から三毒(貪・瞋・癡)生じ、人間の生老病死の四苦と共に其れ等が 愁苦と為りて菩提心を生んだのである。 其れと共に、集落での瞑想はやがてヨーガ行へと、更に釈尊の断食 苦行に進展したのである。 釈尊は「愁苦無ければ菩提心生ぜず。故に欲界に在りて坐禅?道す べし。」と説かれた。 吾師伴老師は東照寺で其れと無く、小生に伝統か在野かの選択を 窺(うかが)われたのであるが、師の道、つまり在野である事に何の 迷いも無かったのである。 其れは、師の命による福岡安国寺を出た際にも、野の花と為る事に 迷いは無かったのである。 如何なる伝統も、保身の為でなく進化を生むの為に在る。 〈 宇宙(生命)の心の進化 〉 動物(本能)→人類(欲)→西洋的特質→(菩提心)→東洋的特質 →悟り→涅槃(智慧)→世界人類の幸福と平和 ※ 西洋的特質に東洋的特質、即ち「宇宙(生命)の本質」の促が しからの菩提心無ければ、「悟り」による自他一如の全一為る ものを根拠とする、信頼と一体感生ぜず。 迷妄は「悟り」の為にある。「悟り」は「解脱」の為にある。 「解脱」は「涅槃」の為にある。 此の心の進化の目的は究竟「涅槃」にある。 「宇宙(生命)の本質」の進化の目的は「涅槃」であります。 人間の悪の根源である三毒(貪・瞋・癡)は、「宇宙(生命)の本質」の 「涅槃」の、「解脱」によりて転ずる処の三善根(施・慈・慧)の為にある。 人間の迷妄や悪の根源為る三毒は、心の進化の究竟為る「涅槃」の 為にあるのである。 身(社会)の存続と、(菩提)心とは別物である。 前者は六道(趣)であり、五欲から出ず、三毒(貪・瞋・癡)生ず。 後者は仏道であり、「宇宙(生命)の本質」の少欲・知足にして「人を生 (活)かす」涅槃妙心を生む。 西洋の諸能力と東洋の解脱が一体と為りて初めて、 地獄・癡愚は進化を遂げ、究竟涅槃「人を生(活)かす」妙心に基づく 智慧を生み、世界人類の幸福と平和と繁栄を完遂して、其の本来の 目的、「宇宙(生命)の本質」を果たし得るのである。 瞑想に端を発し、小生鐵漢の涅槃入りへの覚天に了ずる迄、略五千 年足らずである。 人類史五百万年程の最終五千年で、 『本質的禅学』によりて、 人類の為に、「宇宙(生命)の本質」理論を解き明かしたのである。 人類史を二十四時間(=一日)とすると、 瞑想に端を発して涅槃入りする迄に、最後の一分余りで覚天した事 に為る。 然るに、涅槃「人を生(活)かす」妙心の智慧によりて、 世界人類の幸福と平和と繁栄を、只管(ひたすら)構築するのみであ る。 此の外に、本道無し。 《コロナ禍に対する、涅槃智慧に基づく科学》 最低限、可能なる自然破壊に因る激甚自然災害改善と地上非核(化 学兵器)化と種々なる人種差別とヒトラー撤廃を為し得るだけの地球 規模の信頼と一体感に基づいた取り組みが無ければ、 不可抗力的、新型コロナウィルス感染症パンデミックの甚大なる災禍 を最小限に止める事は不可能である。 人類が一切を最大に制し得るのは涅槃智慧以外に無い。 涅槃智慧は人類(進化)の究竟である。 核(化学)武装でもなければ、人種差別でも、ヒトラーでもないのであ る。 《 通過(強化)儀礼としての科学と宗教 》 超科学、超宗教為る涅槃入りすれば、科学も、宗教も涅槃に至る為の 通過儀礼、否、強化儀礼足るべきものである。 何と為れば、如何なる科学も、又如何なる宗教も、「人を生(活)かす」 涅槃に基づき足る涅槃智慧には及び得ないからである。 涅槃からの科学、宗教が真に「人を生(活)かす」科学であり、宗教で ある。 其れは、恰も涅槃為る宇宙の調和と恩恵の如きもので、原爆も、聖戦 も、如何なる人種差別も無い永遠にして恒常普遍の真理である涅槃 からの中道と、「人を生(活)かす」真中道と云う最短路である。 《 パンデミックで知る真実 》 従来、経済力、科学技術と共に、世界を主導して来たアメリカが 現今の新型コロナウィルス感染症のパンデミックに因りて、世界最大 の感染者数、死亡者数と為ってしまい、依然として、其れに歯止めが 掛からず、最近、世界の主導国家としての立場から退きつつある様で ある。 世界中殆(ほとん)どの現代人が、或る種の良性の羨望心(是は民主 主義の原動力とも為る)を抱いていたが、其の常識が、たわい無くも 崩壊した。 最先端科学技術と云うものが人類にとって如何なる貢献度(価値)が 在るのかと云う本質的問い掛けに、明らかに科学為るものの人類に 対する真価を改めて問い質(ただ)さねばならないのである。 人類にとって、科学に代わる、もっと重要なるものが何であったのか? と云う事である。 其れは神でもないし、経済力でもないし、科学力でもない。 生きる為に、もっと重要なものである。 現今のパンデミックは我々人類に、其の問いを投げ掛けるのである。 是迄の遣り方では、明らかに間違っている。 では何か? 其の事が根本的に問われて居るのである。 恐らく世界人類が、其処に立ち尽くさざるを得ない。 是迄の唯一の民主資本主義への神話が根本から崩壊したのである。 今後、如何に生きるべきなのか? 一体何が在るのか? 唯一、最も日本に其の期待感が寄せられている様である。 最小限の労力で最大の効果を齎しても居る日本にである。 かといって、日本に独自の戦略が在ると云う訳でもない。 寧ろ、其の逆でも在るのだ。 人間の認識には、明確には為らないものである様だ。 スポーツ界に於けるイチロー氏の様な日本人の優れた気質が一つの 其の理由でありそうである。 然るに、日本人の気質だけでは及び得ない。 更に、もっと根本的為るものでありそうだ。 其れが、身の進化後、鐵漢が人類史上初めて心の進化を完遂して 涅槃入りし得た事、此れ以外には在り得ないのである。 よって、二千五百年前の釈尊成道と、現今の小生鐵漢の涅槃入りに よりて、今後の世界の在り様と云うものが、既に明確に定まったので ある。 此の根本が自今已後の人類の生きる指針と為ったのである。 世界は経済力ではない。 経済の根源と為る、「宇宙(生命)の本質」である。 此の本質は「人を生(活)かす」涅槃妙心である。 此の涅槃妙心から生まれ出る智慧が世界人類の幸福と平和を構築、 完遂する原動力足る事を人類は肝に銘じなければならない。 人類の能力全ては、此の「人を生(活)かす」涅槃妙心を根本に据える べし。 《 欲と菩提心と涅槃 》 欲と菩提心と涅槃、つまり万法(=宇宙と私)は、 朝、コーヒーを淹(い)れて飲む様なものである。 コーヒーカップが欲であり、 コーヒーが菩提心、 そして、其れを味わう事が涅槃。 《 神的社会(国家)規範と涅槃 》 不毛なる中東諸国家に、真為る自己は育ち難い。 胎児の時から、神により堅持される社会(国家)規範が確立されてい るからだ。 唯一、油田に拠る財力が、極端な格差の下に、国家を統制する。 厳しい環境下に在っては、東洋の肥沃な穀倉地帯での瞑想する様な 心のゆとりは無いのである。 コーランの神を信奉し、張り詰めた統制力が無ければ維持し得ない のであろう。 神を超えた真為る自己。 キリスト教とイスラム教との違いは、聖書とコーランの違いである。 其れ等と仏典の違いは、 仏典では、解脱迄であり、未だ、小生の覚天には至り得ておらず、 厳密に言えば、たとえ解脱しても、未だ神仏を排し切れない極仏が残 る。 臨済禅師にしても、 『仏に逢うては仏を殺し、……』である。 小生の覚天すれば、仏は「宇宙(生命)の本質」によりて、自ずから 消滅するのである。 殺すべき仏は何も無いのである。 殺す仏が在る間は未だしである。 殺仏以前の無仏為るが故に極仏存せず。 無仏為るが故に無神。 従って、たとえ厳しき環境下の中東に在りても、 イスラムの社会規範を超える真理、真為る自己。 神以前の「宇宙(生命)の本質」が在ると云う真実に目覚めるだけの、 真理への菩提心が望まれる。 イスラム教の神への信仰を否定する気は無い。 其の生きる姿勢は尊重すべきものであるが、 更に真理は奥深いのである。 其の真理に到達するには、 社会規範位では済まない。 何度死んでも為し得ない程の、中道を弁(わきま)えた真の正道(=正 法)の在る事を認めるのが正しい人間の在り様である。 「生きながら、死人と為りて成り果てて、思いのままにする業ぞよき」と 或る禅僧が言った。 健康に死に果てて、更に、思いのままにではない。更に生き果てると 云うか、一層健康に生死を超えて、貫き通してこそ、覚天するのであ る。 是が小生鐵漢の真中道。 釈尊の諦観による中道とは異なる。 万法、つまり、「宇宙(生命)の本質」から証される。 万法が万法自らを開示するのである。 小生に開示された、其の刹那をして「覚天」と称する。 此処に於いて初めて、 「(坐禅)行」為らざる、「人」だ!が確信されるのである。 此の「宇宙(生命)の本質」からの「御覚(さとし)」は 永遠為る恒常普遍の真理と為る。 小生以前の一切は、此の刹那によりて、 未来永劫、正道に導かれるのである。 《 不説過戒と不自讃毀他戒 》 『非法非律を行ずべからず。只一句を見聞して大乗の善心を生ずべ き也。』 人の過ちを論(あげつら)って、 他を貶(おとし)め合っても善きものは何も生まれない。 善悪の判断に拘(こだわ)って、自利心を起こさず、 「人を生(活)かす」心(=信頼と一体感)の基に、 支え合って、「人を生(活)かし合い」、利他を行じて、 世界人類の幸福と平和と繁栄を構築して行こう。 《 鐵漢に出来る事 》 小生が覚天により涅槃入りするまでは、此の世に答えは無かった。 何等の指針も存在しなかったのである。 然るに、令和元年九月に覚天した。 既に八ヶ月間程。 是によりて、小生、子供の頃からの「解らない」のど真中に 測らずも古希に於いて、刹那に覚天し、 「人を生(活)かす」の解を得たのである。 宇宙の心は「人を生(活)かす」だ! 『一生の参学、此処に了わりぬ。』 小生、此の解を得るまでには、どれだけの迷いを経てきたか。 一度(ひとたび)、解ってしまうと、常に此の解に包まれている。 然れども、小生が死んだら、『新道元宗』と『本質的禅学』は在れども 人々が、是を構築して行けるか? 其れでも、宇宙の心は「人を生(活)かす」であると云う、 永遠為る恒常普遍の真理を世界に伝え遺す事が出来たのは、 是に優るものは無い。 釈尊は、人類の本心を伝え遺したが、 小生は、「宇宙(生命)の本質」を伝え遺す事が出来たのである。 小生からすれば、 「鐵漢手掌上の釈尊」の感在り! 小生によりて、「宇宙(生命)の本質」の認識が究極の進化を遂げ、 了じ得たのである。 小生に於いては、此れ以上の働きは、 自今已後の人間が、此の涅槃「人を生(活)かす」妙心と云う究極の 永遠為る恒常普遍の真理を、是からの智慧によりて、全人類が、其の 信頼と一体感の基に、世界人類の幸福と平和と繁栄を構築する日々 である事を切に冀願するのみである。 《 絶対的、真為る善とは? 》 小生の説きし事が真実である事を、 人々の確信と為さんが為に、小生は真実を語るのである。 今の自己は小生が期して為っているものではないと云う事。 全ては万法から、真理が小生に自ずから開示されたものだと云う事 である。 此処に至る迄、総ては全く予期しない真理(実)が、刹那に小生に 証(あか)されたものであると云う事である。 何故に地球が在り、太陽が在り、動物が在り、人類が在り、欲が在り、 三毒が在り、地獄が在ったか? 究竟、今が在る為である。 我々人類の三毒(貪・瞋・癡)害悪は、因果の道理によりて、 永遠為る恒常普遍の真理為る「宇宙(生命)の本質」の涅槃(妙心)の 三善根(施・慈・慧)に転了されるのである。 是が宇宙の、涅槃を目的とする処の進化の働きである。 其れが、刹那に万法によりて為される「悟り」であり、「解脱」であり、 涅槃入りせ使むる「覚天」と云う心の進化なのである。 通戒偈(釈尊以前からの過去七仏を通してのもの)に、 諸悪莫作 修善奉行 自浄其意 是諸仏教 とある。 是等、善悪為るものは全ては相対的善悪の域を出ないのである。 人間欲は生命の繁栄を築く為には不可欠為るものである。 其の為に不可避的に生じる悪(=三毒害)は人類の本質為る三善根 (施・慈・慧)に至る為の必要悪であったのだ。 悪在らざれば、本質の善、即ち涅槃には至り得ず。 地獄為らばこそ「涅槃」足り得たのである。 何と為れば、人類が「宇宙(生命)の本質」に回帰し、一如と為るには、 「解脱」し、其の「解脱」を「解脱」する処の「覚天」が不可欠と為るから である。 其れだけの底力を生ま使めるだけの地獄が必要悪としてあったので ある。 人類の是迄の悪業(=負の遺産)と、少なくとも其れに報いるだけ の善業、即ち小生をして覚天為さ使めた生涯後厳密千日涅槃行 との振幅(ふれはば)で次第に「宇宙(生命)の本質」である涅槃に 収束して、是に同ずる処の進化である。 此の振れ幅は善悪業報の因果の道理を表現する。 正に、覚天して涅槃入りする為の必要悪としての日本への原爆投下 であり、日本以外には是を為し得る事は在り得ない訳であります。 世界に冠たる日本が、世界の三毒((貪・瞋・癡)に対する立場は 世界に枢軸と為るべきものである。 粒子的な刹那生滅の(悟りの)原理によりて、波動的な振幅から、 涅槃へ収束すると云うのは、物理学に於ける物質へ至る思考法であ る。 通戒偈の善悪は 地獄へ至る極仏を善為るものと為したる善で、涅槃入りしたる処から は、地獄を含む善でしかない。 謂わば、不完全なる善である。 「宇宙(生命)の本質」為る涅槃足り得ない。 「解脱」に繋縛された「解脱」で、文殊為らぬ迦葉である。 世間で使い物にならぬものである。 生(活)きた涅槃智慧を生み得ない。 「覚天」し、涅槃入りせずんば、「解脱」も「解脱」足り得ないのである。 《 本物とは ? 》 人類の心の趣く処の究極は、解脱でもなく、涅槃でもなく、 只管、「人を生(活)かす」涅槃妙心による智慧によりて、 一人でも多くの人々を、地獄、災難、不幸から幸福、平和に 導く事である。 此処に於いて初めて、欲は、三毒(貪・瞋・癡)を為さず、三善根(施・ 慈・慧)を生むのである。 人間が真の人間足り得るには、 此の解脱する底力が不可欠である。 此の力無くしては、何事も為し得ないのである。 是は、「殺し合う」強さでなく、『生(活)かし合う』真為る強さである。 「涅槃」によりて、総ては本物と為るのであります。 《 本質的禅学の中枢 》 『本質的禅学』の中枢とも云うべき、「悟り」及び「解脱」、そして「覚天」 であるが、何れも、構造的には同質為るものである。 先ず、「悟り」。 (曹洞宗宗祖、道元禅師の)身心脱落。 日本の仏法(正法)の骨格足る端緒とも云うべき体験である。 自室独りで坐禅中、突如に、刹那、グラグラ―ッと、自己が完全崩壊 した。 是は「宇宙(生命)の本質(源)」には触れ得ていないが、其の真近に、 接近し得た「証し」である。 次に「解脱」。 「宇宙(生命)の本質」に触れた(=解脱した)瞬間だ。 坐禅中、「ハーッ、アッ!、此の儘で良いんだッ。」と気付かされた。 譬えれば、浄水(本源)の旨(うま)みを知り得た。 一旦気付けば、未来永劫に、水と油の如く、 永遠為る恒常普遍の真理と為る。 千日行(初行)完了して、十三年間程の就労による正念相続(一日も 疎かにしない可能な限りの初行の厳密坐禅作法堅持)による動中の 工夫後、就労の為坐禅時間が確保し得なくなって、小生坐禅をする為 に鉄牛寺へ上山する段階で解脱したのである。 「動中の工夫は静中に勝る事百千億倍す」(白隠禅師)である。 「覚天」は、 「宇宙(生命)の本質」の自己への開示であった。 根本的に自己の在り様が刹那に正され(=進化し)た。 立脚点が、「自己」から「人」へ転移させられた。 自己にとって究極の信、或いは真理らしき対象、是等は正法苦行(後 涅槃行)の、つまり極仏と云う、他に選択肢の在る筈の無い唯一の道 であった。 此の究極の信によりて、人類史上初めて「宇宙(生命)の本質」を「覚天 」する事によって「涅槃入り」したのである。 「人を生(活)かす」涅槃の世界、つまり涅槃妙心に拠る三善根(施・慈 ・慧)に裏打ちされた信頼と一体感に基づいた世界に根本的に転換し てしまわなければ、永遠に世界人類の幸福と平和と繁栄を構築する 事は為し得ない。 覚天により行の卒業である。 つまり、覚天によりて、以降の方針、為すべき事が決定(けつじょう)す るのである。 上求菩提から下化衆生への、恰も噴水が頂上で下落するが如く。 従前の「行(ずる自己)」から「(生かすべき)人」への立脚点の転換で ある。 其処に『本質的禅学』の立場がある。 刹那為る体験、「覚天」によりて涅槃入りし、(涅槃)行を卒業したので ある。 何事も、徹する事によりて、道は拓ける。 「悟る」べき人は、既に三毒為らざる人である。 悟った段階で既に、三毒(貪・瞋・癡)は三善根(施・慈・慧)へと 転換している。 三毒が三善根へと刹那に転換する程根源的な、世間的には在り 得ない、豊潤さを秘めたる体験であるが故である。 是は道元禅師もそうであった様に、坐禅を始めて、小生は二~三年 後の事であった。 此の「悟り」体験が、其れを端緒とする、因果の道理(=進化)を以降、 実証し、世界を構築して往くのである。 是在らばこその、「悟り」の意義が在るのであって、 此の体験からの、斯うした進展が無ければ、チョッと石に躓(つまず) いた位の事にしか為らないのである。 道元禅師も、恩師如浄禅師より、即刻帰朝して正法を興すべき旨を 承って、漸(やや)躊躇われた様だ。 つまり、万法裡の一存在としての、促がしに次ぐ兆しの如き、万法か らの開示では自ずから得心が行かないのは当然である。 正に、其処から総ては始まるのであって、つまり釈尊原点の頭陀(但 坐不臥)由来の解脱行為る正法苦行、千日行が始まるのであって、 道元禅師も聊(いささ)か意外な感を否めなかった様である。 千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)在らざるが故也。 従って、「宇宙(生命)の本質」との係わり無き仏道であった。 我々人類の母体為る「宇宙(生命)の本質」との係わり無き自己、 及び仏道と云うものは在り得ないのである。 道元禅師御独り、母体為る本質に間近に接近し得たのである。 涅槃入りするには、是迄の人類の悪業報に報いるだけの善業(=生 涯後厳密千日涅槃行)を積まなければ「覚天」には至り得ず。 是、因果の道理に基づく不昧因果の真実である。 つまり、体験と本質(源)との係わり合い、及び必然的に、其処から生 ずる、人類を根本的に揺るがす処の、無量の宝蔵に開くものであると 云う真実(理)に至る『本質的禅学』を遺す事をも含めた、 或る、単なる刹那を、刹那に止(とど)めず、此の一点をして宇宙を 掌握する処迄の働きを為す処に本質裡の自己の意義と真理(実)が 在るのである。 人類が「宇宙(生命)の本質」為る涅槃入りするのは心の進化である。 人類が究極の心の進化を遂げ得るのは、個としてのみである。 人類の完成は個の完成にのみ基づく。 個の確立無くして世界人類の幸福と平和と繁栄は確立し得ない。 世界人類の幸福と平和と繁栄は独坐によってのみ為し得るのである。 然も無くば、世界は対立と闘争である。 《 「解かる」と「在る」 》 「宇宙(生命)の本質」為るものは人間には掴(つか)めない。 唯、其の働きとしてのみ把握し得るものである。 つまり、人類の「解かった」と云うものは、把握し得たと云うのは本物 ではない。 人類其の者を生んだ母体為るものを、生み出された者の側からは 把握し得ないのである。 生命は非生命から生じたものであるが故に異質なものである。 然るに、異質なるが故に、「解からない」が学問し、求道し、又心を交 わし得る。 「解かった」と云うのは、其のものに為らない限り、起こり得ない事なの である。 「宇宙(生命)の本質」が「解かった」と云うのは、「宇宙(生命)の本質」 其のものに為った、或いは一如と為った(=同じた)と云う事である。 其れが「涅槃」と言われる在り様である。 「涅槃」と云うのは、学問の様な「解かる」と云う、大脳新皮質による把 握されるものでなく、「人を生(活)かす」本質に基づいた在り様である。 小生が十代に、本当に「解からなくて」解からないと言うのと、 古希に及んで、「全てが解かってしまって」解からないと言うのと、同じ 「解からない」と云う表現ではあるが、心の進化以前と、進化完遂した 涅槃妙心と云う最後身心に基づく「智慧の実践」の段階の違いである。 「解かる」でない「在れば」、それも「正しく在れば」学問卒業である。 正しくとは、「宇宙(生命)の本質」に基づいて、と云う事である。 小生初めは、書く事が無くなったら如何しようと思った事も在ったが、 「書く」と云う事は「説く」と云う事であり、「説く」は無くならないのである。 何と為れば、 「説くべき」対象が在る限り無くならない。 「説く」事が無くなると云うのは、「説けない」と云う事で、 其れは「説き得ない」と云う事で、説く資格が無いと云う事である。 説き続けて居る事が、「宇宙(生命)の本質」に一如である「証し」だ。 太陽が正常である限り、其の様に。 《 鐵漢の直観的現世界観 》 日本人は、世界唯一の被爆国として、〇(ゼロ)から繁栄を築き上げ、 而も釈尊を生んだバラモン文化の伝統に次ぐ、精神の、西洋的と東 洋的両素養を具える、世界を牽引するべき優れ足る国民であり、且つ 小生を生ま使めたるべき、世界に冠たる、見込みの在る国民である。 又、中国とドイツに期待したい。 米国は危険だ。物に溢れるが、其れだけに、基本が為っていない。 今は、対立的、消極的為る非生産的、非難の時では無い。 協調と容認の積極的為る生産的、反省と新生の時である。 アメリカとブラジルのトランプの負けに対する反動が未だに止まらな い。 WHOは其れ等の独裁為る悪政を看過し、負ける様な組織ではない。 敵は新型コロナウィルスではない。 人間は其の様な物に負ける程の癡愚では無いのである。 真敵は自己の三毒(貪・瞋・癡)だ。 其れに気が付けない程の癡愚である。 《 涅槃裡の人類の為すべき事 》 涅槃とは、「宇宙(生命)の本質」裡の人類の在るべき姿である。 釈尊に『御遺教(八大人覚)』が在った様に、 小生鐵漢には『本質的禅学(新道元宗)』が在るのである。 人類誕生から略五百万年、釈尊から二千五百年程を経て、小生鐵漢 に心的進化を完遂した。 嘗てのヒトラーが百年以内には、既に現ドイツを構築したのである。 世界人類の幸福と平和と繁栄を極力早急に構築すべし。 人類の真価は、覇権や破壊力による軍事力や富ではない。 其れ等の権力や武力や富を生(活)かす智慧の行使によりて、 不可避なる自然破壊による激甚自然災害の改善と、世界人類の幸福 と平和と繁栄を構築する事である。 嘗て、アメリカ国民が野球界のイチロー氏のプレイの確かさを、無条 件で称賛した様に、現今のパンデミックに於いても同様にミラクルだと 言わ使めたのである。 最終的には、其れ等を、世界人類の幸福と平和と繁栄への方向付け をするのは菩提心に他ならない。 人類の諸能力を生(活)かすか、殺すかの要は堅固なる菩提心であ る。 此の菩提心は、諸学の根源を為すもので、心の進化を完遂する為の 原動力であり、且つ、世界人類の幸福と平和と繁栄を達成する為の 原動力に他ならない。 《 心の進化と文明の発展 》 瞑想→悟り→中道→解脱→真中道→覚天→涅槃、の体験無き者は 皆、精神的には五千年前のインダス文明での瞑想以前の人間と本 質的には変わり無いのである。 要するに、覚天と涅槃を知らざる者、世界人類の事だ。 小生を信ぜざる者は皆、たとえ悟っても、中道に至らざる者は皆、 エベレスト山中の苦行者に他ならない。 如何に世の中、苦行者に溢れているのかには、驚嘆するばかりであ るが、況(ま)してや、其れ等の原初の菩提心による苦行者達にも及 ばない、三毒(貪・瞋・癡)由来の愚行者達に至っては地獄に至る対立 しか生まない癡行者達なのである。 其の故は、「宇宙(生命)の本質」に違(たが)えている事を知らざるが 故だ。 「人を生(活)かす」とは如何に在るべきか? 心の進化の過程に於いて、少なくとも涅槃への真道に導く事である。 人の生き様に六趣(道)在る。 (地獄、餓鬼、畜生、)修羅、人間、天人(支配者階級) 三悪道 →仏道 『心の進化』には人類は殆ど未踏である。 大乗禅や「悟り」に至りては別世界の如し。 身の進化は自ずから為るものであるが、心の進化は殆ど為し難し。 解脱(=正法苦行)迄の菩提心を起こす事の如何に困難である事か。 文明の進歩と、心の進歩とは全く異質なものである。 今後の文明の進歩が、心の退化に為らない様に。 文明の退歩による、心の進化の道を歩む事を願うものである。 是が所謂(いわゆる)、「退歩の脚」と言われるものである。 唯独り犀の角の如く歩むのみである。 人の世は、並べて正法苦行ならぬ、死に至る苦行に他ならない。 唯一の出口は、正法苦行による涅槃入り在るのみである。 仏道に於ける、釈尊の八大人覚、 少欲、知足、楽寂静、勤精進、不妄念、修禅定、修智慧(聞思し行ず る智慧を修す)、不戯論も文明の高度なる発展と共に進化したので ある。 釈尊般涅槃御遺教(八大人覚)の要は修智慧であって、 「解脱行智慧を実践すべし。」と言う事である。 是が正に吾師伴鐵牛老師の千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏 行)であり、小生鐵漢の初厳密千日解脱行、後厳密千日涅槃行、 涅槃妙心智慧に他ならないのである。 是こそ、心の進化の究竟であり、之に尽きるのである。 是も現代文明の街中に於いてこそ為し得た事である。 「人を生(活)かす」とは、善業と悪業の涅槃へ収束し行く、最大振幅 から減衰し収束し、同じ行く波動の、繰り返される経過の真実である。 是が必然不可欠なる菩提心の俗(欲)界中での行であり、智慧の真 価である。 でなければ、真理と事実とが分断してしまう。 善と悪の涅槃へ収束し行く相乗効果である。 小生が放浪の旅に出る前に、東京の国立国会図書館で読んだ 三匹の猫の話で、 一匹だけ、何時も寝ているだけ。 でも、其の周囲には何も寄り付かない。 つまり、人の貪力を、此の涅槃人は作用・反作用の力で打ち消してし まって、人の心を既に内から抜き取ってしまって居るのだと。 此れには、死んでも対抗出来ない。 解脱して、本質を徹見しない限り、抗し得ないものである。 経験的に為し得るものでない。 唯一の経験は唯解脱在るのみだ。 他に欲に関して、極仏に類する心、絶対者為るものへの心、信の対 象への心、形而上的課題等、是等は「覚天」により、刹那に消え失せ 、対象は即、「人」へ転化する。 《 男と女と真の本分 》 吾師が語られていた。 「今は、ホモと云うものも在る。」と。 如何なる者も、真理には及び得ないと云う事か。 師の確かさに、今になって、思い及ぶのである。 師が亡くなられて、まだ二十余年である。 男女の真の在り様は、(理想的には解脱して、)淫快に動じない心が、 自己の本分を尽くす処に在る。 涅槃の「人を生(活)かす」心(「生(活)かす」とは酔わすではない。覚 醒させるである。)が、永遠為る恒常普遍の真理である「宇宙(生命) の本質」であり、火に入っても焼けない、正に太陽の心(働き)其のも のだ。 《 人間の真の限界と真理 》 人類の如何なる能力も、其れをして、宇宙原理の頂点と為す事は不 可能である。 其の能力が如何に人類を酔わせようとも、其の酔いから一歩も出る 事は出来ないからである。 個別的、相対的なる、有限の域を出ない。 解脱後の仏、神、信、絶対、(形而上的)価値等を極め尽くす事は出 来ない。 其れ等を一蹴するのが「宇宙(生命)の本質」を覚天する事である。 此処に至れば、人類の真の限界に至り、覚天する事によりて涅槃入 りするのである。 「宇宙(生命)の本質」の永遠為る恒常普遍の真理為る涅槃に入り、 其の涅槃妙心の智慧による世界人類の幸福と平和と繁栄を構築す る本道を得るのである。 真理と云うものは、信の領域でなく、真実である。 此処に於いて、刹那生滅の原理と因果の道理に基づく最後身心への 進化を完遂し、世界人類の幸福と平和と繁栄を構築する処の信頼と 一体感に基づく涅槃(妙心)智慧の進化の段階へ入るのである。 真理無き学問は実らない。 実らないばかりか、悪道に堕ちて長時の苦を受ける。 《 真理と遺教 》 真理と遺教は命の「証(あかし)」であり、上求菩提と下化衆生夫々の 究竟である。 人間の心は玉葱(ねぎ)の様な物で、最後は空(=本質)に至る。 先ず、使い物に為らない表面の薄皮(=三毒)を剥くと、栄養の有る 美味しい中味が出る。 剥く程に本質に迫(せま)る。 本質(涅槃)に至るには、一物も残さず剥く事に徹し切れねば「覚天」 には至り得ない。 覚天して、涅槃入りして初めて、一物も残らないのである。 修行と云うものは、此の日常である。 修行も学問も大脳新皮質も、本質の進化したるものであるが、本質に よりて、其れ等自体が、其れ等自体を放棄するに至って初めて、其れ 等の限界を知るに至るのである。又其処にこそ其れ等の真価が在り 得るのである。 総ては本質に具わった、進化による「宇宙(生命)の本質」の(本具仏 性為る)働きである。 必然的に不可避なる此の過程(発(菩提)心から涅槃入り迄の)を経 ない如何なる真理為るものも、総て真為る実在為らぬ嘘に過ぎない。 文頭、比喩に用いた玉葱とは、本質から生み出された三毒であり、生 命であり、物質である。 物質の根源には本質が在る。 科学的為る宇宙の開闢、ビッグバンの根底に本質が在るのである。 「初めに(物質以前の)本質在りき。」 絶えず無常なる生成と消滅の変遷裡に在る宇宙は、始まりも終わり も無い不生不滅為る、果て無き宇宙である。 是が霊妙極まり無き働き為る本質(=仏性)を具足するのである。 此の本質自体には真理すらも無い。真為る空である。 何も無いのであるが、万法を包蔵している。 是をして虚無ではないの意で、真空為る真理とでも云おうか。 是は科学的にも純粋なる真空は存在しないのと同様である。 故に真の虚無と云うものも在り得ない。 虚無とは単なる至らなさに過ぎない。 (学問同様、)虚無の裏には無量の宝蔵が控えているのである。 学問も虚無も世間と云うものは、此の玉葱の表面を包む赤茶の皮に 過ぎない。 此の一皮剥けば、本質に迫る。 内部を剥いて行けば解脱し、最後の芯の一片を捨て切るのが「覚天」 で捨て果てた処が「涅槃入り」であり、本質其のものに為ったと云う事 である。 此のプロセス総て、菩提心の為す働きである。 本質は人類に、心の進化の原動力としての菩提心として在る。 此の菩提心は、初めは、「宇宙(生命)の本質」からの促がしとして働 き、農耕生活に於ける収穫と自然との係わりの中で、「宇宙(生命)の 本質」からの促がしによりて瞑想が生まれた。 そして其れが、宇宙と社会構造の中の自己の三毒為る心によるヨー ガ行へと進展した。 修行の精髄が坐禅であるが、是から派生して、 釈尊の一息半趺(ぽ)為る経行(きんひん)(=歩行禅)、又 臥禅為るもの(睡眠時、上向きに真直ぐに寝て両腕は溝落ち辺りで 一直線に叉(しゃ)手(右親指を握り締めて拳を作り、是を左手で包む )し(是は坐禅の法界定印に当るもの)、此処に心を置く。)もある。 人類の三毒(貪・瞋・癡)害を制し切るには、 涅槃(覚天)に裏打ちされた解脱が必要不可欠である。 《 世界平和への原動力 》 世界を平和に導くか、或いは地獄に導くかの分かれ目は、個人の 価値観に帰着する。 其れが、普遍的価値を有するものか、或いは個人的能力に係わるも のか、で違いが生ずる。 前者であれば、世界人類の幸福と平和と繁栄に直結するが、後者の 場合、前者の様な普遍的真理とは為り得ない。 小生が文頭に掲げた真実は、 自国の繁栄を掲げる政治家と世界人類の平和を使命とする政治家と 、国民は何れを選択するか、と云う問い掛けに等しいものである。 恐らくは、大多数が前者を思うであろう。 是こそ、地獄への入口に他ならないのである。 全国家が総て、自国第一主義と為ったら、世界に幸福と平和が生ま れる筈が無いのである。 然るに、此処に世界の地獄や悲惨の改善を優先する国民であるなら ば、世界人類の幸福と平和の為に施政する政治家が生まれるのであ る。 此処に、個人的能力でなく、永遠為る恒常普遍の真理に立脚する 政治家が居ればこそ、世界は改善され行くのである。 自国第一以前の、世界の不幸を改善する政治家の存在と、其れを支 える国民、基本的には、其の国民が、其の気風を国家レベルで興隆 してこそ、世界人類の幸福と平和と繁栄に直結する原動力と為り得る のである。 是、菩提心の究竟である。 此の菩提心無くして、世界人類の幸福と平和と繁栄は不可能である。 自己の能力を基調と為す者は、世界を地獄に至ら使め兼ねないので ある。 《 宇宙契約原理 》 我々人類に出来る事は発(菩提)心する事である。 後は不昧因果。 此の善悪業報を現在か、やがてか、或いは未来に、 毫釐も違(たが)わず受けるのみ。 我々は量的に超越しても、 「宇宙(生命)の本質」から離脱する事は出来ない。 天に与えられた生命であるからだ。 小生に違えば天理に違(たが)い、 其の悪業報は不可避と為る。 既に進化は完遂され、 後は天との契約(因果の道理と刹那生滅の原理)に基づいている。 《 空前絶後の真実(理):覚天涅槃入り 》 人類の為の、小生の、「涅槃入り」せ使めた「覚天」は、 二千五百年前の釈尊ですら及び得なかった、空前絶後の真理である。 現代文明ならではの、心の進化の究竟である。 是をして最後身心たり。 故に、「人を生(活)かす」涅槃妙心の智慧によりて、 世界人類が、「宇宙(生命)の本質」に基づく信頼と一体感によりて、 世界人類の幸福と平和と繁栄を構築し、完遂する事を切に冀願しま す。 此の骨子は「如何なる生命(いのち)も疎(おろそ)かにしない。」と 云う事である。 《 上下 左右 》 上と下の歩み寄りを止めた時、 上としての意義、下としての意義を失い、 歩み寄り続けた時、中道と真中道の真理が 上としての真価、下としての真価を得る。 左と右の歩み寄りを止めた時、 左としての意義、右としての意義を失い、 歩み寄り続けた時、中道と真中道の真理が 左としての真価、右としての真価を得る。 此の歩み寄りが真苦である。 正に此の真苦こそが真楽(=世界人類の幸福と平和と繁栄)に至る のである。 是が宇宙の霊妙極まり無き調和と均衡である。 人類の身心も、之に一如為る(=違わない)を涅槃と云う。 進化とは此の「宇宙(生命)の本質」に収束し行く一歩一歩である。 《 瞋恚 (しんに) の害 》 瞋恚(=怒り)を縦(ほしいまま)にすれば、則(すなわ)ち、自ら道を妨 (さまた)げ、功徳の利を失す。 忍の徳たる事、持戒苦行も及ぶ事、能(あた)はざる処也。 能(よ)く忍を行ずる者は、即ち名付けて有力の大人と為すべし。 瞋恚の害は、即ち諸々の善法を破り、功名聞(評判)を壊す。 今世後世の人、見んと喜(ねが)わず。 〔釈尊 『御遺教経』〕 《 世界人類の正道への突破口 》 小生鐵漢の真中道「覚天」は、釈尊中道の諦観の域ではない。 「覚天」刹那の前後で、八ヶ月程前に下記の如く覚了したのである。 其の時の小生の体験を記したものを記載して置く。 『最早既に(後世にネット、製本等で)遺すべき事が無くなれば、後は 究極の正法苦行為る後厳密千日解脱行の功徳を施すだけであると、 此の五年間足らずに十五回程試みたが、其の都度、遺すべきものが 刹那生滅、必ず(言葉が)生まれた。然るに、愈々遂に語り遺すべき 言葉が出なくなって、其の儘、上求菩提に専念するのみであると、い ざ始めると、大気の出入りの無い呼吸筋のみの動きの如くで、正に衰 滅した。 自己の心とは裏腹に、ぼやけて旨くいかない。寧ろ一層、放棄した方 が宜しい。 言語道断は向上一路門に限る。否、寧ろ其れを悟る為に向上一路門 は在る。 向上一路門も極め尽くせば、其れを基底とした向下門が自由為る主 体と転ずるのである。仏は菩薩と為りて返り咲くのである。 そうして人類を幸福と平和と繁栄へと導くのである。』と。 斯くして、「行」でなく、「人」だ「人を生(活)かす」だ。と刹那に「覚天」し たのである。 刹那の劇的な「御覚し」であった。 是迄、「宇宙(生命)の本質」からの天啓迄に至り得ていなかった、 換言すれば、「覚天啓」に迄至り得ていなかっただけの事に過ぎ ないのである。 其れ以来、有無を言わさず、「人を生(活)かす」である。 どんなに、有り難そうな、尊貴すべきものも是には適わない。 「宇宙(生命)の本質」(仏性)に同じ、一如為り得て「涅槃入り」した からである。 此処に至れば、最早何を遣って居っても善い。 「人を生(活)かす」には「宇宙(生命)の本質」に於ける、涅槃への 進化の原動力を本具している訳で、能動的に、且つ積極的に「生(活) かして行かねばならないのである 自ら、能動的、且つ積極的に「人を生(活)かして行く」。 是が鉄則である。 だから、知らなかった。関係無い。では済まされない。 無知、無関心は罪である。 許されない。済まされないのである。 保身は罪悪である。 保身に為ったら入れ替えるべきである。 流れぬ水は濁り行く。 宇宙の営みは刹那生滅の原理による不昧因果である。 片時も留まらない。 人の心こそ宇宙の営み其のものである。 宇宙に一如為る時、最大限の進化を遂げているのである。 ゆめ保身を図るべからず。 「宇宙(生命)の本質」、涅槃と云う、永遠為る恒常普遍の真理は 人類が最も覚醒している状態、つまり欲に酔わない、欲への執著から 醒めて、覚醒しているのである。 坐禅は醒め行き、世界人類の幸福と平和と繁栄の為の智慧を生む 方法である。 悟りの宗教以外、総ては其の為のものではない。 学問、芸術、他の宗教、哲学、スポーツ等総ては究極に至る以前の 酔いに他ならない。 其れ等に全幅の信頼を置く以上は、ではあるが。 又、そうであるからこそ世界は繁栄するのであるが。 又、人生を豊かにもする。 今から二千五百年前迄は、東洋では醒めるプロセスを辿った。 涅槃とは、最も醒めた真実、真理。 「宇宙(生命)の本質」とは、涅槃妙心為る「人を生(活)かす」心が究極 の真理である。 宇宙の本質は「人を生(活)かす」である。 是、究極の真理である。 真理とは、学問でも、芸術でも、宗教でも、スポーツ等でもない。 「人を生(活)かす」涅槃妙心である。 是が究極の真理である。 人類を制するのは、「解脱」と「涅槃」である。 「涅槃入り」するのは、身心脱落し(悟っ)て、「覚天」する以外 には為し得ない。 「覚天」するには「解脱」が不可欠である。 核(化学)兵器武装等ではないのである。 是迄、人類が生んだ如何なる存在も価値も、小生鐵漢の 「覚天(啓)」の「涅槃入り」による、世界人類の幸福と平和と繁栄 を構築、完遂する涅槃妙心の智慧には及ばないのである。 《 真理為る人類の真実の解明 》 人類の三毒の貪と云うものは貪欲なのであって貪(むさぼ)るのであ るが、動物は本能であって、本能と云うものは貪らない。 生存すると云う目的を果たす迄の事である。 人間の欲は目的を果たしても止まらない。貪る。 少欲・知足で貪らなければ宜しいのである。 欲と云うものは、何故か貪る。 果て無く貪る。底無しに貪る。飽く事を知らない。 何故に貪るのか? 貪は瞋恚、癡愚為る程に貪るのである。 何故に、制御が効かないのか? 動物本能の如く、制御の効く欲に出来て無いのか? 底無し沼の様になっているのか? 不合理に何故出来ているのか? 動物の様な生存目的の合理性が無い理由。 何故に、態々(わざわざ)そうなのか? 欲に自動制御為る合理性が具わっておれば、問題無いのに、 何故に、地獄を生む程に、癡為る程に不合理に出来ているのか? 何故、欲には不合理に地獄を生む様に出来ていて、動物本能の自動 制御が働かないのか? 身の進化を遂げた、人類の身心の霊妙極まり無き働きにも拘らず、 人類の欲の不合理性は何故か? 若し、欲が動物の本能的であれば何の問題も生じないのである。 欲が三毒である理由は?三毒は人類の悪の根源なのである。 欲が三毒(貪・瞋・癡)ならばこその、動物では生じ得ない、人類特有 の独自の三毒を正すべき菩提心を生む為に、そう為っているのであ る。 つまり菩提心から坐禅を行じ、「悟り」、そして初行によりて本質為る 三善根(施・慈・慧)に転了し、更に「解脱」し、「涅槃入り」し、「宇宙(生 命)の本質」に同(どう)じ、世界人類に幸福と平和と繁栄を齎(もたら) す為に、態々(わざわざ)三毒を本有して居るのである。 若し、人類に動物本能的に自動制御が掛かれば、菩提心生ぜず、 向上する必要性も無いのである。 小生の「覚天」による「涅槃入り」在りて初めて、人類の諸悪の根源為 る三毒の存在根拠が明確に為ったのである。 悪を悪として受容し得るのは、此の存在根拠在らばこそである。 人類の心は刹那の「悟り」、「解脱」、そして「覚天」と云う、刹那生滅の 原理と因果の道理に基づく進化を遂げるのである。 悪を悪として受容し得るのは、此の存在根拠在らばこそである。 其れ故に、世界人類は人類史上、極悪業為る日本本土への原爆投 下と、其れに報いるべき極善業、「覚天」による「涅槃入り」との最大振 幅からの、振り子振動の如く、次第に減衰して一歩一歩涅槃へと、 何処迄も収束し行くと云う進化を遂げるのである。 若し、人類に生老病死の四苦や三毒の愁苦無ければ、菩提心生ぜ ず悟れない。 其れは生命の幸福・平和・繁栄、つまり人類に根源の本質、涅槃を 実現、体現せ使むる為なのである。 本質為り得る為に地獄が存するのである。 正に原爆の被爆は悟る為のものだったのである。 だからこそ、世界唯一の被爆国、日本に於いてこそ、小生鐵漢の 「覚天」に至り得たのである。 世界唯一の被爆国日本が世界唯一の「覚天」国家と為ったのは必然 であったのだ。 悟る為には三毒が必要不可欠なのである。 悟ってこそ、人類は本質其ものに同じ行く。 其れが本質の使命(=進化)なのであり、人類と本質を一如為ら使む 進化なのである。 人類に非合理なる三毒の存在根拠は三善根為る「悟り」を生ま使め、 生命の根源に同ぜ使むる為であったのだ。 正に是こそ、宇宙の微妙甚深為る恩恵なのである。 人類の三毒(貪・瞋・癡)は人類を悟ら使むる為に、 三毒生ずるから「悟り」、三毒を三善根に転了し、人類をして、幸福、 平和、繁栄に至ら使むる処の、宇宙の計らい、恩恵に他ならないので ある。 此の宇宙の本質の弁(わきま)え、東洋の叡智、涅槃の弁えに基づい た、西洋的特質が機能しなければならないのである。 「宇宙(生命)の本質」の促がし(前兆)による瞑想からは菩提心生ぜ ず、集落から社会構造形成と共に、四苦と三毒による愁苦から菩提 心生じ、其れからヨーガは自ずから苦行へと進展し、 唯一、釈尊苦行の菩提心が中道を経て、自(おの)ずから人類史上初 めての宇宙開闢(びゃく)為る「解脱」に至り得たのである。 是によりて、人類は心の進化を遂げ、永遠為る恒常普遍の真理を得 た訳である。 斯くして、小生鐵漢に至って初めて、従前の仰ぎ見るべき「涅槃」が 如何(いか)為るものであるかを明らかに為し得たのである。 然も無くんば、「涅槃」への迷いも、平和への迷いと同様、生きる指針 が掴(つか)めない。 「行(=心の容れ物)」ではない、「人を生(活)かす」だ。と云う明確なる 指針(=菩提心)一つで、積極的、能動的に施政する事である。 「悟り」以外の総ての宗教は信の宗教である。 小生の「覚天」による「涅槃入り」の「涅槃」の「人を生(活)かす」世界、 太陽の如き「宇宙(生命)の本質」に同(どう)じた世界が在り、是を真 の「涅槃」と云うのである。 「人を生(活)かす」世界には信は不要である。 真理に基づく世界である。 此処に至れば、信仰上の殺し合い、闘争は即座に消滅する。 真理に信は不要である。 永遠為る恒常普遍の真理とは、万法に証せられる真(事)実であ る。 《 万法(物質,精神的一切)に証される真理(実) 》 自己を措いて、宇宙無し。 「天上天下唯我独尊」である。 世界人類、本来、皆然うなのである。 我と云う、菩提心による自己三昧の宇宙であり、 本来、夫々が互いに生(活)かし合う世界なのである。 菩提心は、此の真理に至る唯一の力であり、 是によりて、「悟り」、「解脱」し、「覚天」し、「涅槃入り」し、 自己為る生命(いのち)に立ち帰るのである。 宇宙とは自己為る生命の、謂わば一神教とも言える。 「悟り」以前には自と他は分離し、対立状態にある。 けれども、「悟れ」ば、自他一如為る心に至り、 万法は自己と云う一生命と為るのである。 「悟り(身心脱落)」を『万法に証せられる』と云うは、 自己が自己の生命に立ち帰り往くと云う事である。 此処に至るに、 小生、物心付いて、五十~六十年要した訳である。 哲学で言えば、哲学は宗教を通して、十九世紀に実存哲学に至り、 仏教を通して、心の進化を経て、最終的に「涅槃」に至った。 (自己と云う生命為る)万法を体得する迄である。 「悟り」、「解脱」、「涅槃」総て自己を運んででなく、自(おの)ずから 自然に本質からの促しに始まり、万法に証せられ往くのである。 斯様に、生命為るものは母体為る宇宙に生(活)かされた吾であって、 自己の人智では如何とも為し難きものである。 人類の痴愚は、「宇宙(生命)の本質」を知らざる処に由来する。 自我の主張を、其れに優先してしまう処だ。 「宇宙(生命)の本質」、つまり万法(精神、物質の一切)裡の吾を知ら ざる処が根本原因と為っている。 仏性も三毒も、一切が、此の万法に由来している事を知らない。 其の万法を知る事が生命の究極の目的である。 自己の根源が何処に在るのか?と云う事である。 釈尊も神仏も万法手掌上のものである事から出る事は不可能である。 万法知らずして自己は実在し得ないのである。 人間は其の真理を自(みずか)ら確証して初めて、積極且つ能動的に 世界人類をして「人を生(活)かさ使める」事が出来るのである。 「仮に、性愛為るものが在るとすれば、其れは涅槃である。」 涅槃智慧は「人を生(活)かす」 「世界人類をして、生(活)かさ使めよ」と云う事である。 三毒(貪・瞋・癡)でなく、三善根(施・慈・慧)である。 仏教がヒンズー教を制し切れなかったのは、此処迄至り得ていなかっ た事も一因している。 《 米国の独裁警官 》 米国の黒人に対する人種差別は現新型コロナウィルス感染症パンデ ミックよりも怖い。 アメリカ国民が正すべきは、コロナウィルスではない。 国民に巣食った黒人に対する人種差別である。 即刻死刑にすべきである。 米国は、世界の警察は退いたが、国内の黒人に対する警察は、 独裁国家為らぬ、ヒトラー独裁、独裁警官である。 是位の地獄はコロナウィルス処の類ではない。 《 小生の千日行との出会い 》 小生、東京の東照寺にて得度し、後、福岡の安国寺にて一年半程で 寺を飛び出したのである。 二度と寺には行かないつもりで、生涯、師の道を唯独り、在野で歩む のだ、と云う信念で自己の道を模索していたのであるが、 当然、坐禅から入った道であったので、何遣って居っても坐が主体で あった。 常に、何処に居ても、坐と共にあったのである。 其れ以外、独り師の道と云う以外は、何一つ将来に対する当ても無く、 目的も無く、此の世のものとは、師にも、肉親にも全く縁を絶っていた のである。 つまり、志一つ以外、生涯、何にも持たなかった。 其れでも、心は常に満たされていた。 夜空を見上げるだけでも満たされていた。 其の野宿の旅中に、千日行の恐怖が思い掛けず、浮き出たのである 。そうして自己の本質、真実に立ち返ったのである。 其の時、自己の方向性が根底に定着したのである。 つまり、為すべきは、斯うなんだ、と云う不可避なるものが現れたので ある。 其れがつまり、釈尊を育んだ伝統から、仏道の延長線上に必然的に 進化を遂げるべく、吾師が小生の心の底に刻み込んで居られた千日 行であったのだ。 故に、小生の澄み切った心には千日行一つであった。 小生の正法苦行は其処から始まった。 《 香港の真理:日本が、未来を世界に問う 》 師が弟子の成長を見守る様に、 親が子の成長を見守る様に、 中国は香港を見守るべきである。 束縛するものではないし、又 親権を、成長した子に適用するものでもない。 菩提心の行願に、同事と云う事がある。 進化と云うものが、自己が「宇宙(生命)の本質」の涅槃に同ずる様 に、 『同事と云うは不違也、自にも不違也、他にも不違也。 他をして自に同ぜ使めて、 後に自をして他に同ぜ使むる道理在るべし。 海の水を辞せざるは同事也。 此の故に能く水聚(あつま)りて海と為る也。』 つまり、 『他をして自に同ぜ使むる』処の、自己が「行(=普遍的施政)」から、 『自をして他に同ぜ使むる』処の、「人(=世界人類の幸福と平和と繁 栄)」へと転ずる体験「覚天」に至るには、釈尊も及び得なかった真中 道である。 然るに、是が永遠為る恒常普遍の真理、「宇宙(生命)の本質」(仏性 )なのである。 人類が是に基づかない限り、世界は永遠に地獄から涅槃へ収束する 事は在り得ない。 《 世の中の教訓 》 世の中と云うものは不思議なもので、 貪(むさぼ)れば貪る程、手に入らない。 挙句の果ては、地獄に陥るのは必定である。 しかし、少欲・知足にして施せば施す程に手に入り、 結果的に、総てが手に入り、涅槃入りし、平和と為るのである。 是も不昧因果の結果である。 《 釈尊最後の教誨(げ) 》 動物の生存本能域の「酔い」は、人間ならば、極力速やかに卒業すべ し。 是は、人間としての嗜(たしな)みである。 無駄な、役に立たない事は極力為すべきではない。 是等は釈尊般涅槃、最期の一言。 『一切世間の動不動の法は、皆是れ敗壊(え)不安の相也。 汝等且、(しばら)く止みね。復(ま)た、語(もの)言う事得る事勿れ。 時、将(まさ)に過ぎなんと欲す。 我、滅度せんと欲す。 是、我最後の教誨(げ)する処也。』 以後、一言も語られなかった。 釈尊中道は、鐵漢真中道に進化を遂げたのである。 『小人の覇権争いの「酔い」から、極力速やかに、大人の協力一丸 団結邁進に卒業すべし。』 達者の嗜(たしなみ) 六月一日~ (製本は一年後) ・八時~;朝課(食)・ネット ・十一時~;托鉢・就寝 《 現代米国民の許すべからざる本質 》 米国路上の事件である。 警官が黒人を捻じ伏せ、黒人の首元を膝で押さえ込んだ儘、黒人や 周辺の制止する声を無視して十分近くも、死ぬ迄押さえ込んだのであ る。 以前から何度も同じ光景をニュースで目にした。 どれも、警官の黒人に対する過剰なる対応である。 現今のコロナウィルスには、怒りは生じないが、是等の一連の行為に は、其れ等の異常なる現実、不条理には怒りを抱かないでは済まさ れない。 現代の米国白人の黒人に対する異常性である。 日常的に、是程の人間の傲慢さが露呈する異常性を小生は知らない 。 是等の米国白人の、黒人を奴隷視する、警官行為に露呈する、 米国白人の大航海時代に端を発する、許すべからざる、彼等の三毒 (貪・瞋・癡)由来の黒人差別であり、偽らざる彼等の本質である。 是を、世界人類に対して謝罪が為されない限り、米国民の異常さは、 世界人類から許される事は無いであろう。 現代の地獄中の地獄が米国民の心中に根深く巣食っている、黒人に 対する無条件に許すべからざる本質的差別意識である。 米国民に対する信頼は、決して確立し得ない。 米国民の三毒(貪・瞋・癡)の異常さが、弱者に、其の捌(は)け口を 見出していると云うのが、其の真相である。 黒人達の怒りは、世界を覚醒させる程である。 二度と同類の事故は、起しては為らない。 是等の悪の根源を糾弾出来ない限り、何を為しても無意味である。 米国民の是等の現代の負の世界遺産の究極に対しての、世界人類 に対する釈明が即刻、不可欠、不可避である。 是は、新型コロナウィルスパンデミックに対する弁明を、米国が中国 に強いるのとは、次元を異にする。 一方は人類の人類に対する在り様としての、許すべからざる不条理 であり、一方は科学的検証も為され得ない、単なる可能性に対する、 終わりの無い追究である。 是等の両者を同時に為す米国の酩酊状態には為す術も無い。 然るに、世界の指導者達の、経済以前に先ず正されねばならない処 の、人間の基本的条件に対する、不可避にして不可欠なる最重大な る責務である以上、 是が解決されない限り、人類の将来は無い。 新型コロナウィルス以前の本質的最重要課題である。 根源悪に立脚する如何なる科学文明も、原爆同様、自己の保身と 世界の覇権略奪闘争の手段に他ならない。 人間性に立脚した科学性でなければ世界の平和は無い。 人類の迷走を看過し、放任すべきではない。 恐るべきは新型コロナウィルスではなく、 人類の三毒(貪・瞋・癡)程恐ろしいものは無いのである。 米国の失墜は不可避である。 《 「初めに坐禅在りき」 》 「初めに坐禅在りき」 何と為れば、坐禅行によりて、「宇宙(生命)の本質」為る涅槃に「涅槃 入り」したからである。 此の心の進化の諸段階に於ける諸相の前後は明らかに異次元であ る。 より高次元に生まれ変わっているのである。 「宇宙(生命)の本質」は人類に「促がし」と共に菩提心として働き掛け られている。 「宇宙(生命)の本質」が具現化したものが(正法苦行の)大乗禅なの である。 瞑想や、ヨーガや、断食苦行は此の円相を為す坐禅へ移行する諸相 である。 故に坐禅は真理の体現であり、円相為る体現した姿其のものである。 故に道元禅師は中国の正法の師、如浄禅師の下から帰朝直前に、 『宝慶記』、そして帰朝直後に『普勧坐禅儀』(二十八歳)を生ま使めた のである。 《 大前提為る真理 》 「宇宙(生命)の本質」(仏性)は人類に中道ヨーガ(=坐禅)を根本に 据える事を促がしている。 然るに、究竟、坐禅は坐禅其のものを否定し、「涅槃入り」する為 のものである。 「宇宙(生命)の本質」は涅槃である。 涅槃妙心は「人を生(活)かす」である。 又、其の為の智慧を生む心である。 《 存在・時刻 と 立場・時計 》 時計と云う物は、人間の為に時刻を刻む機械に過ぎない。 時刻其のものとは異なるものである。 時の流れ、時刻の本質的意義、時刻とは生命其のものである。 存在は時空と共に在り、其のものである。 生命は時空其のものである。 時空の為の道具ではないし、表現手段でもなく、時空其のものである。 立場は、存在する為の手段である。 是が存在其のものに成る為には、立場を超えて、其の本質に立ち入 らねば、本質的存在とはなり得ない。相対的存在の域を出ない。 世の中は、立場と時計で成立している。 総じて、相対的にして、本質為らざる、約束事の域を出ない。 此の世の中が時空の本質に立ち入らない限り、地球上空を周回する 宇宙船の如き、生きた屍である。 然るに、時計と立場と云った、世の中の約束事が、時刻と存在の本 質と為るには、其の約束事を超越した世界を生きない限り、玉葱( たまねぎ)の皮足るに過ぎない。 単に超越とは云うけれども、超越するとは、「宇宙(生命)の本質」に 同(どう)じて、一如為る事である。 本質に同じ往き一如為るとは、自己を忘れる事、自己を忘れるとは、 先ずは言葉を捨てて、そして本質に証せられる事である。 人間の約束事でなく、 存在其のものに打ち出された立場であり、 時間其のものに打ち出された時刻でない限り、 二元相対世界を超出する事は出来ないし、 心の進化も遂げられないのである。 大脳新皮質の神経シナプスの高度形成に因る高度文明化は為され ては来たが形骸化し、況(ま)して、シナプス為ら使める作業が三毒( 貪・瞋・癡)由来為るが故に、「宇宙(生命)の本質」からは益々遠ざか り行き、其の心は未だ三千年来のヒマラヤ山中の苦行者達にも及び 得ないのである。 何と為れば、悲しからずや、菩提心無きが故也。 菩提心の究竟は「人を生(活)かす」我である事だ。 是を涅槃と云う。 《「本質の促し」から「本質に同じ往く」心の進化》 穀物を育む大自然の恩恵に浴する我が、大自然に生(活)かされてい る自我が自然との対話の中で、「宇宙(生命)の本質」に促がされて、 梵(宇宙の最高原理)に対峙する我として、自然発生的為る梵裡の我 為る瞑想に端を発し、部落が社会構造化するに連れて、人類に本有 する三毒(貪・瞋・癡)や四苦等の愁苦による菩提心を生じ、瞑想は、 やがて、ヨーガ行へと進展し、最後身為る釈尊断食苦行は中道を経 て成道(=解脱)するに至ったのである。 そして二千五百年を経て、小生最後身心鐵漢をして「宇宙(生命)の本 質」を「覚天」し、「涅槃入り」して、永遠為る恒常普遍の真理、涅槃「人 を生(活)かす」妙心の涅槃(智慧)に進化し、完遂したのである。 釈尊は般涅槃に『八大人覚』で、「少欲・知足為れ」と打ち出されたの である。そして、修禅定、修智慧、不戯論と結ばれた。 然るに、人類が別解脱に少欲・知足に制御出来て居れば、 日本国家が世界唯一の被爆国と為らずに済んだであろうし、小生 鐵漢が、極仏為る生涯後厳密千日涅槃行によりて、「覚天」し「涅槃入 り」する事も無かったのである。 是迄の人類の悪業の剣先が、小生をして善業の剣先足ら使め、遂に 「覚天」為ら使めたのである。 人類の三毒(貪・瞋・癡)為るが故に、正に日本が極悪と極善の両極を 世界で唯一、一身に体験し、令和元年九月、「覚天」による「涅槃入り」 を世界で唯一、初めて体験する事と為り、永遠為る恒常普遍の真理、 涅槃「人を生(活)かす」妙心の涅槃智慧を生み、最後身心としての進 化を完遂したのである。 是も因果の道理に基づいた不昧因果足る処である。 涅槃とは元来、少欲・知足が本来の姿である。 「宇宙(生命)の本質」為る「涅槃」に同じて生きて居れば、自ずから少 欲・知足であり、此の時初めて宇宙の調和と均衡に違えず、世界人 類が幸福と平和と繁栄を最も速やかに享受し得るのである。 自今已後、日本が世界人類を正道に導き、世界人類の幸福と平和と 繁栄を構築し、完遂せ使める処の、世界に唯一為る世界指導国家足 り得るのである。 世界人類の従来の高度文明化世界に於ける自然破壊による激甚自 然災害と、恐らくは其れに随伴して生起した感染症パンデミックによる 、生存の危機に対応可能なる、従来の世界の在り様の根本的変革が 必要不可欠と為らざるを得なくなった。 最低限、世界人類が、米中間の対立に象徴される様な在り様でなく、 世界人類が空前絶後為る真理(=涅槃)への信頼に基づく団結でな ければ、世界人類の幸福と平和と繁栄は在り得無いと云う事が、 今日に至るまでの自然破壊に因る激甚自然災害と、其れに随伴して 生起したであろう、度々襲来する感染症パンデミックによりて、世界人 類が其の自覚を新たにせざるを得なくなったのである。 人類史上、負の三大世界遺産の解消為る「地上非核化」、「米国白人 の黒人人種差別に象徴される人種差別撤廃」と「ヒトラー的独裁撤廃」 と共に、自然破壊と感染症パンデミック対策が現感染症パンデミック を契機として、新たに令和新世紀の世界人類が、従来の人類の経験 と知恵でなく、確証された空前絶後為る真理(=涅槃)、及び其の(涅 槃)智慧への信頼と団結に基づくかの最重大課題と為ったのである。 人智と云うものは天意に通じない限り、唯一の真理である出口は 永遠に見出せない。 世の中は二元相対世界であるからだ。 其の証拠に、現代高度文明化世界に於いても、其の心は未だ、 釈尊成道前の、ヒマラヤ山中の苦行者達にも及び得ないのである。 自己の保身と安定を顧みない、其の不惜身命為る菩提心には遠く及 ばないからである。 又、如何に菩提心在れども、中道、及び真中道による正法為らずん ば正道を得ず。邪道、悪道に他ならない。 釈尊の中道による解脱の進化し足る、小生鐵漢の真中道為る「覚天」 による「涅槃」以外には、如何なる真理も在り得ない。 唯一の出口である。 《 唯、本質の真理の実践在るのみ 》 伝統に則(のっと)って、坐禅による正法苦行で世界人類の幸福と平 和と繁栄の為に不惜身命で完遂して達し得た究極の真理を説く事と、 世界人類の幸福と平和と繁栄の為に施政する事と、其の本質に於い ては何処にも相違が在る訳ではなく、同一である筈である。 決して違えるべきではない。 如何なる個別的特例も言い訳も成立すべきではないのである。 此の永遠為る恒常普遍の真理に基づいて、世界人類の幸福と平和と 繁栄を構築し完遂すべきである。 唯一の必要十分条件は、世界が二元論為る人情や我執や貪著を 離れて、保身や安定(泰)でなく、「人を生(活)かす」と云う「宇宙(生 命)の本質」の真理(実)に基づくべきであると云う事である。 《 生(活)きるとは? 》 真に「生(活)きる」とは? 「生(活)かす」事である。 「生(活)かす」事とは「生かせ使むる」事である。 世界人類をして「生(活)かし合う」世界である。 「涅槃」を構築、完遂せ使むる事である。 此の在り様を幸福・平和と言う。 物溢れれば良いと云うものでない。 心溢れれば、物は自ずと相応に身に具わるものである。 「宇宙(生命)の本質」、永遠為る恒常普遍の真理は、 「人を生(活)かす」である。 此の世の唯一の真理である。 《 坐禅と千日初行 》 釈尊、般涅槃の御遺教『八大人覚』の要は修涅槃妙心智慧の為の 修大乗禅定である。 是等の修禅定と修智慧の世界中の大人達が正法苦行、千日行(初行 )を世界に唯一の托鉢自活正法苦行可能国家日本で千日初行を実 践し、後「人を生(活)かす」涅槃妙心智慧を世界中に発信し、世界を 導き、国際連合中核の大改革を為し遂げるべく機能する。 遣る気が有るか無いかの違いだけである。 菩提心の強さの試金石としての初千日解脱行である。 備え有れば憂い無し。 世界人類を幸福と平和と繁栄に導く要は菩提心一つ。 唯一の、真理を体現する千日解脱行である。 世間と云うものは、実用性が無いと云う事で坐禅をしない。 「悟り」が稀で、「解脱」は皆無。 正法苦行が無いから「解脱」は不可能である。 故に、世の中は坐禅以前である。 鍵を握るは、「人を生(活)かす」に徹する事。 併せて、日々一時間でも坐禅に親しむ。 涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に親しむからである。 《 万法に証され往く真実 》 道元禅師『正法眼蔵(現成公案)』に、 「仏道を習うと云うは、自己を習う也。 自己を習うと云うは、自己を忘るる也。 自己を忘るると云うは、万法に証せらるる也。 万法に証せらるると云うは、 自己の身心、他己の身心をして脱落せ使むる也。」とある。 道元禅師が師の如浄禅師の下に参禅されて、二~三ヶ月後である。 身心脱落(=悟り)は、其れ迄の自我意識を構成していた神経回路の 殻が刹那に霧散して、突如として清浄世界に躍り出た体験である。 万法(物質、精神的一切)に証せらるるとは「宇宙(生命)の本質」( 仏性)を目の当たりにし得たと云う事である。 一方、釈尊の成道は「解脱」であり、 是は「宇宙(生命)の本質」に直接に触れ得たのである。 此れが人類史上の進化の究極であった。 更に、小生鐵漢の生涯後厳密千日涅槃行によりて、 測らずも、「覚天(=真中道)」により「涅槃入り」したのである。 是は「宇宙(生命)の本質」に同(どう)じ得た。 つまり、「宇宙(生命)の本質」其のものに一如為ったのである。 此処に於いて、あらゆる人類の諸問題も、一挙に解決される事と為っ たのである。 斯く為る次第で、釈尊の中道による正法苦行、即ち千日初行を行ず れば自ずから「解脱」する。 後は、涅槃「人を生(活)かす」妙心の智慧に基づいて、是を実践し、 世界人類の幸福と平和と繁栄を構築し、完遂するだけである。 《 空前絶後の解明された宇宙と人類 》 万法は生滅を繰り返す無常裡に在るが、其処には永遠為る恒常普遍 の真理が在る。 万法には夫々の使命(=進化)を具えていると云う事である。 物質には生命を生むと云う使命がある。 其の究極が人類の今である。 そして、人類にも物質(=身)から心を生むと云う使命(=進化)が在 る。 其の究極が小生鐵漢の涅槃である。 涅槃とは「人を生(活)かす」と云う涅槃妙心による智慧によりて、世界 人類の幸福と平和と繁栄を構築し、完遂せんとする精神世界の事で ある。 此れが「宇宙(生命)の本質」(仏性)が具現化された人間世界である。 植物には花実を結んで、より高度為る生命を生かすと云う植物の使 命が在る様に、人類にも涅槃と云う花実を結んで「宇宙(生命)の本質 」其のものに同ずると云う使命(=進化)が在るのである。 是が万法の(進化の)究竟であり、其れが万法の本質(=仏性)であ る。 総て是等の進化は、「宇宙(生命)の本質」の実体であり、 「因果の道理」と「刹那生滅の原理」に基づき、其の善悪業報は寸分も 違(たが)いを生じないのである。 斯うした人間の善悪業報と云うものは、人に対してのみならず、総て の生命ばかりでなく、宇宙に対しても、一如為るが故に不昧因果であ る。 是迄に人類が為した悪業の極みに、少なくとも報い得るだけの善業 を為すだけの菩提心無くんば、人類は進化し、涅槃に収束し得ない のである。 此処に於いて、小生一身に真理を体現し得たのは至高の歓喜であり ました。 測らずも、不昧因果にして、古希に「覚天」により、至上真理の「涅槃 入り」する真理を体験し、涅槃「人を生(活)かす」妙心を得たのである。 此処に於いて、此の令和新世紀は正に是迄の人類の過去を清算し、 其の涅槃智慧によりて、正に此れから、世界人類の幸福と平和と繁 栄を構築し、完遂せ使むる出発点に至り得たのである。 是を可能為ら使めたのが、釈尊最後身を享(う)けた鐵漢最後身心の 新道元宗でありました。 《 鐵漢五十年余りの必然性 》 小生、高校入学当初、人間と云う者は「斯うすれば善いんだ!」と云う 様な哲理の様なものが在る様な、否、何処かに必ず約束されて居る 筈だと云う様な予感と云うか、期待感の様な、促しと云うか、 そう云った「天啓」とでも云ったものを、何かに憑かれた様に、捜し求 めるが如く、其の意図を両親に説明して、家を出て、当て所も無く、心 の趣く儘に放浪の様な事をしたものだ。 入学したばかりの時に、同じクラスの者に、「教祖の様だ。」と言われ た事があったのを、今に為って思い出すのである。 高校には直に行かなく為った。 今にも、首元まで、其の答えが出掛かっているのであるが、其れが何 なのか判らない。 今から思うと、其れが余りにも、底無しにドデカ過ぎたので、 生命に対する期待感が最も強かったので、大学医学部に入って、正 に其の現実(講義)に直面して、嘗てからの疑義に向き合わざるを得 なく為ったのである。 矢張り、世間的通念では誤魔化し通す事は出来ないのである。 人間の本質と云うものは欺けない。 愈々(いよいよ)、癌の宣告を受けた様なものだ。 小生は宗教の道を選ばざるを得なく為ったのだ。 特に宗教に対して何か在った訳でもない。 唯漠然と、自己が身を置ける場と云えば、宗教以外になかったと云う のが正直な処である。 聖フランチェスコであるとか、親鸞であるとか。 偶然に、坐禅を組んだ時に、正に其の答えが其処に在った。 其の刹那以来、小生の迷いは吹っ飛んだ。 其れに決定(けつじょう)したのである。 小生、過去からの斯うした一連の趣向を「宇宙(生命)の本質」からの 促がし(前兆)、働き掛けとして捉えている。 「悟り」、「解脱」、「覚天」、「涅槃(入り)」等、総て是等を目的にした事は 一度も無かった。 総ては母体為る「万法」に証せられて、万法の本質に回帰せ使められ た処の明確為るサイン(兆候)である。 何故に回帰せ使められるのかと云えば、 其れが進化の究竟であるからだ。 其の様に生命(人類)は、本質的に回帰せ使められているのである。 其の働きと、其れに違(たが)えんとする人類の三毒(貪・瞋・癡)の歴 史であるのだ。 然るに、今世紀に於いて、感染症パンデミックに直面し、人類は其の 不可避、不可欠為る課題に直面せざるを得なく為った。 《 結 論 》 宇宙の心は「人を生(活)かす」だ。 我々人類も其の為に生まれて来た。 是を言うものが一体何処に在るか? 太陽を見れば解かるではないか。 小生、此処に至る迄七十年要した。 「宇宙(生命)の本質」は刹那生滅の 原理と因果の道理に基づく進化を 遂げ、「菩提心」は三毒を制し、 「初行」によりて三善根に転ず。 正法苦行、千日行で「解脱」に至り、永遠為る恒常普遍の真理、「涅槃」 (妙心)の智慧によりて世界人類の 幸福と平和と繁栄を構築し、完遂 するのである。 菩提心一つ、総ての障礙は 砕破し、使命(本分)を果たす。 残りし命の100%を 『本質的禅学』(新道元宗) に注ぐ。 人間の欲は必ず貪を生み、瞋恚と為 り、癡愚に至り、三毒と為るのである 。だからこそ、涅槃への悟道は地上 に不可避、不可欠なのである。 「人を生(活)かす」涅槃妙心は唯一の 永遠為る恒常普遍の真理である。 世界人類が共有する信頼と団結は 此の菩提心に他ならない。 要は菩提心の資質の問題だ。 無くんば、禽獣と相異なる事無し。 国家を構成する、総ての国民一人一 人が其の国家及び世界の態を表す。 人類が築くべきは繁栄ではない。 信頼と団結である。 真の繁栄は、其処からして、自ずか ら生ずるものである。 《 宇宙の心と人の智慧 》 一つと言えば、「覚天」、つまり「人を生(活)かす」だ。 宇宙と人との接点は呼吸である。 生命(いのち)の限り絶え間無く、其の大気が双方を出入りしている。 普段は意識しないが、宇宙が人に語る時は其の呼吸に表現される。 人が宇宙に不違為る時は機能し、違(たが)えると機能しない。 「悟り」と「解脱」とは異質であるが等価である。 「涅槃(入り)」は結果である。 「悟り」は間近にし、「解脱」は触れ、「涅槃(入り)」は同ずる。 「人を生(活)かす」は宇宙の心(真理)である。 「世界人類をして生(活)かさ使めよ」と云う事である。 「覚天」体験は、 刹那直観で、「出来無い!!」と。 「宇宙(生命)の本質」をして、小生に知ら使めた。 下化衆生消えたら、生涯後厳密千日涅槃行(=正法苦行の究極)は 成立しないのである。 完璧に、不備と云う事は在り得ないからである。 其処に、測らずも、宇宙の心の何足るかを、吾心に知り得たのである。 宇宙の心を吾身に体現すると云うのは、至って自然な、日常的に無意 識的に為されている事なのであり、其れを因果の道理と言っているに 過ぎないのであるが、 其の実態を吾身に体現し、覚証し得たと云うのは厳密の為す奇跡で あった。 正に、其れを知る為の正法苦行(初行と後行)であったのだ。 又初行によりて三毒(貪・瞋・癡)は三善根(施・慈・慧)に転ずる。 後行による「覚天」の「涅槃入り」による「人を生(活)かす」涅槃智慧 は初行の三善根の慧よりも能動的、且つ積極的である。 「覚天」の前後で智慧は蛍火と劫火の相違がある。 《 人を導く 》 人を導くには、二つの事が不可欠。 一つは真理。 後一つは、其れを伝え得る為の共通項、 二十四時間中、数個の定刻。 《 空前絶後、確固不動の真理 》 令和新世紀は、史上初の「涅槃」の世紀である。 涅槃智慧は「人を生(活)かす」である。 「世界人類をして生(活)かさ使めよ」と云う事である。 三毒(貪・瞋・癡)転了した三善根(施・慈・慧)が徹し切った心である。 此処迄の真理を得るには、其れだけの蓄積が無ければ及び得ない。 人類の三毒害は甚だしいものである。 原爆投下の悲劇による抑止力。黒人奴隷化の地獄。 癡の(ヒトラー的)独裁による悲劇。 何れを採っても、目を覆いたく為る程の地獄である。 そして、忘れてはならないのが、アフリカや中東に於ける、未開地域の 無政府状態。 特に、未開地域の禽獣的人類を生まない教育と医療は不可欠である。 総ては、人類の三毒(貪・瞋・癡)が人類のみならず、自然に惹起した 地獄である。 地獄は地獄を生む。是等の悪の連鎖に歯止めを掛け、心の進化為さ 使むるには、少なくとも、其れ等の悪業報に報いるだけの積極、能動 的善業無くしては、為し得るものでは無い。 其の善業とは、従来の二元相対的取り組みや、或いは保身、安定で は解決が付かないのである。 覇権争いの力に因る制圧か、或いは又無関心かでは根本的解決に 為らないのである。 従来の核武装抑止が、今では経済戦争で、永遠に平和には至り得な い。 世界的な信頼と団結を喚起する善業、即ち菩提心一つ、自ら進んで、 千日初行にて「宇宙(生命)の本質」に触れて、解脱し、更には「宇宙( 生命)の本質」に同ずる事によりて、従来の、世界人類の幸福と平和 と繁栄に直結しない、ヒマラヤ山中の苦行者然の心の進化為らぬ退 化を繰り返す事の無い様な、「急がば回れ」、心の進化の最短路に積 極的、能動的に取り組むのでなければ、二元相対世界を導く事は不 可能である。 世界には、常に 初行十名、後行一名が必要不可欠なのである。 千日初行(正法苦行)によりて、三毒(貪・瞋・癡)は三善根(施・慈・慧) に転了し、やがて「宇宙(生命)の本質」に触れて「解脱」し、千日後行( 正法苦行)によりて、「宇宙(生命)の本質」に同じ、「人を生(活)かす」 智慧を生み、世界人類の幸福と平和と繁栄を構築し、完遂せ使めん が為である。 明確為る真理に、明確為る実践が具わり、人類の心の明確為る進化 を遂げ得るのである。 究極の進化を遂げ、最高峰に出れば、自ずから、否が応でも、是迄 の見晴らしではない、下界の見晴らしは一変するのである。 今迄、曖昧、或いは不明であったものが、総て一挙に明確と為る。 《 大解脱(涅槃)人の呼吸 》 大涅槃人の呼吸は宇宙空間から地上の大気を吸引する呼吸である。 為そうとして出来る事では無い。 菩提心一つ、「宇宙(生命)の本質」からの促がしによりて、 宇宙(生命)に同じ得た人間の呼吸である。 不可思議である。 前後、上下が逆転して、更に復帰した呼吸である。 先ず、初行の坐睡時の重心が、横臥時の其れに比べて腹部に下 がる事によりて、腹式呼吸の方が呼吸筋の効率が良いので、物 理的、必然的に腹式呼吸に転ずるのである。 腹式呼吸は自律神経、身心を安定させるので、釈尊が解脱した 但坐不臥に由来する正法苦行と云う、生涯、最大限の精神の覚 醒と身体の安定を可能為ら使める坐睡は、正法苦行にとって必 要不可欠である。 此の非日常的、呼吸形式の変化が根本的に不退転を決定(けつ じょう)為ら使める働きを為す。 後行に於いては、唯「宇宙(生命)の本質」(仏性)裡の苦行に対する 信に裏付けられた菩提心一つが全てを解消為ら使めるのである。 人類の悪業を凌(しの)ぐ正法苦行(=生涯後厳密千日涅槃行)によ りて、初めて「宇宙(生命)の本質」が小生に、其の真相を吐露したの である。 斯様に、心の進化には必然的に正法苦行(=坐睡による腹式呼吸) が必要不可欠なのである。 後は菩提心(=遣る気)一つの問題である。 信頼と云うものは、信頼からしか生まれない。 当時、小生が吾師を「宇宙一」と信頼した、其の根拠は、小生が訳も 無く「宇宙(生命)の本質」からの促がしに促がされて、大学図書館か ら「釈尊の坐禅」についての一冊の小冊子を持ち帰り、其れこそ促が されて組んだ刹那に、「アッ、コレだっ !」と直感した。 此の直感に基づいて居るのに他ならない。 其の信頼によりて、真理に至り得たのである。 現代世界の信頼性の不在は、現代世界の混沌によるものだ。 如何なる真理も不在である。 真理は、直観(感応道交)と信頼による菩提心以外には至り得ないも のである。 信頼に基づいた一致団結は菩提心に他ならない。 是によりて、世界は統一されるべきである。 《 覇権争奪知恵か、悲惨人民救済智慧か 》 悲惨人民を無視する事は、間接的殺人である。 覇権争奪の知恵でなく、アフリカや中東等の最も恵まれない人民を 生(活)かす智慧を生むべきである。 《 政治と宗教 》 宗教が政治の心を忘れず、政治が宗教の心を忘れない処に、 宗教と政治の、夫々の真価と生(活)きる道が在る。 宗教の無い政治、政治の無い宗教は死物である。 是が「宇宙(生命)の本質」(仏性)の涅槃妙心である。 是は小生が、嘗て吾師をして「宇宙一」と思わ使めた其の心が、 四十数年間の一筋の道に於いて、測らずも「覚天」の「涅槃入り」によ りて、其の真理に同じ得たのである。 真理とは、世界人類の幸福と平和と繁栄の為に、難局を果たさんとす る、其処にこそ生(活)きる道が在るのである。 此の心が菩提心である。 此の心を忘れ、失えば死んでしまう。 「宇宙(生命)の本質」に違(たが)えてしまうからである。 《 苦 行 》 最早、人類は二元対立の袋小路に入り込んで、負の世界遺産を繰り 返す苦行を継続する癡愚を犯す事は無いのである。 では、何を為すべきか? 其れは、直に「人を生(活)かす」事である。 自我や覇権の探求でなく、「人を生(活)かす」に決定(けつじょう)し、 諸事万端為す。 「世界人類をして生(活)かさ使める」である。 原爆を造るか?人を差別するか?我意を独裁するか? 是等一切、根本的に成立しない邪道である。 自己は「人を生(活)かす」為の手足と為りて働く。 小生、日々の托鉢も、「人を生(活)かす」為の乞食である。 親が範を垂れれば、子も、其れに同ずる。 《 覚 天 》 小生、古希の「覚天」以来、此の九ヶ月間一度も坐禅を組んでいない。 四十五年来の坐禅一筋、特に此の十五年間の生涯後厳密千日涅槃 行では、毎日、全十七時間の坐禅行(三時間坐睡、五分前の打鐘経 行と十五分間の経行で計二十分間の経行は作務に充てる)であった が、思いがけずも、遂に是に終止符を打ったのである。 「覚天」によりて、刹那に「坐」ではない、「人」だと覚(さと)った。 人間、如何なる思いで遣って居る事でも、「人を生(活)かす」「宇宙( 生命)の本質」の涅槃妙心(智慧)の「太陽の心」に及び得るものは無 いのである。 思いではない、其の「存在意義」だ。太陽の心に為れば善いのだ。 「太陽」と為る為の「坐禅」である。 自己の一切を超越するもの(=価値)、換言すれば、宇宙(太陽)と自 己を繋ぐ存在が見出せないのであるが、其れが「宇宙(生命)の本質」 へのプロセスである「悟り」であり、「解脱」であったのであるが、其の 先が見出せないのであった。 其の先は、極仏為る、最早自己の意志、或いは形而上的価値の様な ものに他ならないのである。 其れ(=究極の迷妄)に終止符を打ったのが、「宇宙(生命)の本質」 からの制裁であった。 人為的威嚇物によるものでなく、人類の母体為る宇宙(生命) からの制裁である。 真の制裁とは、 真理に基づいた制裁であり、 其れは制裁ではなく、 世界人類をして、自ずから為る信頼と団結を完成せ使める、 「無上の教え」である。 真理に基づいた警察組織とは、 人種差別の制裁でなく、 差別撤廃の行使でなければならない。 そうした未だ覚醒せざる、神仏への価値による迷妄に終止符を打て たのが、小生の生涯後厳密千日涅槃行であった。 其の厳密さに於いてこそ、初めて及び得た「覚天」による「涅槃入り」で あった。 超我執為る我執の撥無だ。 其の詳細は、 此の五年間弱に十五回のネット完了と云う、必然的に生じた自己判 断であり、其の後に生起する再度のネットの継続であった。 此の十五回は、継続する滅為る生起の原理に基づいて、自(みずか) ら完了した事による、再度のネット継続であったが、 然るに「覚天」に於いては、最終的に、自(おの)ずから、ネット完了し た確認直後、自ずから自己の内部で、最早語り遺すべき事が消滅し てしまって、後は上求菩提のみだなと受け取った(=肩の荷を降ろし た)刹那に、坐の呼吸システムに於いて、身体に酸素の供給が、呼吸 による内的エネルギー吸収が不全に陥った如く、呼吸筋を支配する 呼吸神経系に「狂い」が生じて、続行不能状態に陥ったのである。 此の「狂い」を生む在り様の否定が、刹那に直観的に為されたのであ る。「宇宙(生命)の本質」に違えた事による、身心への異常である。 是は動物本能(習性)に等しい本能(習性)的反射である。 つまり、「宇宙(生命)の本質」(=涅槃)が有する霊妙極まりなき 働きであり、是を「宇宙原理」、又「仏性」と称するものである。 判断の介在しない、異常事態に対する本能的条件反射、丁度悪い物 を食すと反射的に吐き出すが如きものである。 判断でなく、自ずから其の「御覚(さと)し」が下されたのである。 つまり、下化衆生に、其の状態での自己の在り様に、既に為すべきも のが無くなった結果が、其の無く為る様な自己の在り様、つまり上求 菩提、後は極仏だけであるぞと云う在り様に陥らざるを得なくして居る 在り様其のものが、丁度悪いものを摂食して、自ずから嘔吐為ら使め たと云う生命維持の反射機能、其れが「覚天」である。 アッ!「坐」ではないのだ。「人」だったのだと云う「覚(さと)り」、 「宇宙(生命)の本質」からの「御覚(さと)し」であったのである。 自己としては、「そう云う段階に迄、愈々(いよいよ)達した。後は上求 菩提のみだ。」と認識した刹那に、其の生命維持反射が為されたの である。 「行」でない。「人」だと。其れが「覚天」である。 遂に、自己として伝え遺すべきものを尽くしたと認識した刹那の「覚天( =嘔吐)であったのだ。 「異常状態に対する条件反射」である。 此の刹那は一瞬に過ぎないが、 時空を超越した永遠為る恒常普遍の真理の吐露である。 前十五回の「完了してみた」のでなく、 真に消滅した(=語り尽くした)が故に、 「宇宙(生命)の本質」から「御覚(さと)し」が下されたのである。 最終の十六回目は、前十五回が在って初めて生じ得た奇跡で ある。 「人を生(活)かす」。 正に此の永遠為る恒常普遍の真理を得んが為に、 小生の七十年が在ったのだ。 孔子は『朝に道を聞かば、夕べに死すとも可也。』(『論語』)と言った。 嘗て、吾師は、小生の事を「孔子の様だ。」と言われた。 つまり、「孔子に止まらずに、真理に届け。」と言われた事と察した。 正に、其の先に在るもの、「人を生(活)かす」が手に入ろうとは夢にだ にしなかったのである。 其れ迄の小生は、刹那にして、「宇宙(生命)の本質」に打ちのめされ たのである。 是こそ正に「宇宙(生命)の本質」の涅槃智慧の「人を生(活)かす」と 云う事に他ならない。 更に、「世界人類をして、生(活)かさ使めよ。」と云う事に尽きるの である。 是が涅槃、「宇宙(生命)の本質」である。 此の涅槃妙心の智慧で以って、世界人類の幸福と平和と繁栄を構築 し、完遂為ら使めよ。 小生は、空前絶後為る、此の真理を単なる真理に留めずに、正に「人 に(活)かす」のが、世界の指導者的立場に在る人々の使命であると 強く確信するのである。 果たして、此の一刹那に真徹し得る者、幾許(いくばく)ぞ? 嘗て、吾師が言われた。 福岡安国寺専門僧堂攝心会、三年目位の頃だったかと記憶している が、東京東照寺から福岡安国寺への車中で、 「新幹線の中で、窓の外に、『 アメリカ打倒 ! 』と壁に書いてあった。 嬉しかった。」と。 小生、師が亡くなられて二十四年後にして、其れをフッと思い出した のである。 今では、もう既に三十年以上も前から、「仏性」、「正法」、況や 「悟り」すらも、仏界に於いてさえ、除外され、使用されなくなって しまったのだ。 此れが、物質至上主義の西洋主導の高度文明化世界の 恥ずべき弊害である。 三毒(貪・瞋・癡)用に、面倒くさい、ややっこしい事をしなくなった 結果だ。 此の令和新世紀が、時代の趨勢に従わない真実(=真理 ) を生(活)かし得る唯一無二の最後の好機である。 《 涅 槃 》 人間には正と負が不可欠である。 其れも、マクロとミクロとでは見当も付かない。 宇宙大か、其れとも極小か、二元相対世界である。 相対的+と-で初めて、頭脳は落ち着き処を得る。 つまり、先ず極悪と極善によりて、気の遠く為る程の、価値の振れ幅 の、減衰によりて、落ち着き処に見当が付く。 此処迄が、大脳新皮質の役割である。 人類の身心の進化の究極を為せば、其の母体為る「宇宙(生命)の 本質」も臨界点を超えて、雷の如く人類に「御覚(さと)し」が下るので ある。 其れによりて人類は「涅槃入り」するに至るのである。 既に涅槃に収束し往く、令和新世紀である。 此処に至りては、最早、人類の癡愚からは卒業して、 涅槃智慧によりて、世界人類の幸福と平和と繁栄を構築し、完遂しな ければならない。 三毒(貪・瞋・癡)からの離脱が「解脱」であり、「解脱」からの離脱が 「涅槃」である。 斯く為る故に、解脱によりて、三毒は三善根に転了せられて居るが故 に、其の解脱した世界からの「涅槃(入り)」に至りては、最早三毒為 らず、三毒害在れども、「宇宙(生命)の本質」に同じ得て、全く動じな い。 人間と云う者は、菩提心の無い禽獣(きんじゅう)世界から抜け出す のは、並大抵で無いのが一般である。 大抵は、其の儘、死の闇に眠り込む以外無いのである。 積極的に菩提心で心の進化を遂げるか、或いは恥を知らない禽獣と 為りて、ゴジラ(=禽獣)で世界を地獄に陥(おとしい)れるかの何れ かである。 菩提心も、「覚天」、「涅槃入り」で「人を生(活)かす」の正道を得る事 によりて、世界人類をして、「人を生(活)かさ使め」得るのである。 日本人の性向は、正に世界を心の進化に導くに、最も相応しき気質を 具えている。 此の真理に基づいた、東洋の確かさを根底に据えて、西洋の長所を 生(活)かさなければならない。 《 禅と真理〔=「宇宙原理」(仏性)〕 》 「宇宙(生命)の本質」は「涅槃」であり「真理」である。 『本質的禅学』は真理である。 故に鐵漢は100%『本質的禅学』である。 『本質的禅学』を完成させようとする事自体が「涅槃」であり、 『本質的禅学』其の物も「涅槃」なのである。 鐵漢の二十四時間三百六十五日生涯「涅槃」である。 故に小生の存在は『本質的禅学』と同一である。 「生きる」と云う事は価値であり、 価値とは「永遠為る恒常普遍の真理」である。 「真理」を予感し、体現し、語り、教え、生きる事も総ては是等「真理」 其の物である。 禅とは真理に入り、真理を生きる為の導入方法に他ならない。 禅とは「宇宙原理」に至る為の「男性原理」と「女性原理」の通過儀礼 である。 《 真為る超能力 》 小生、前項で、 「禅とは真理に入り、真理を生きる為の導入方法に他ならない。」と述 べましたが、では、其れは如何なる事か? 仏性の仏力を得ると言う事であります。 仏力とは、「宇宙(生命)の本質」の有する霊妙極まりなき働きの事で あります。 人間の諸能力を超越した、真為る超能力を得る。 即ち、超マクロにして、超ミクロ為る能力である。 大小を超えた、此の超マクロ、且つ超ミクロの力とは、 「宇宙(生命)の本質」が有する力で、 動物に見られる様な、本能的習性の様なもので、無意識なる、 生命其のものの有する力、生命機能、煎じ詰めれば、本質(=仏性)、 換言すれば涅槃、又其処から出る智慧、是が進化の究極である。 斯くして、初めて真の世界人類の幸福と平和と繁栄を構築し、完遂す る事が可能と為るのである。 《 宇宙と蟻 》 女を迷わすのは男だ。 男が迷わねば、女は迷わない。 不迷の根本は蟻の一歩一歩である。 是を忘れるのが迷への一歩である。 全宇宙の基に一蟻在り。 蟻の一歩と一歩がある。 息の根の止まる迄の。 同事の最最後(=自他一如)は、 (自己と云う)蟻の一歩一歩だ。 息が止まる迄。 (同事と云うは不違也。自にも不違也。他にも不違也。 事と云うは威儀、容態の事也。事を同じくする。 同事を知る時、自他一如也。 「琴詩酒」は人天神と夫々友と為る徳性を具えているから、 夫々の三昧に入る心は循環し止む時が無いと。 是、同事の参学也。 他をして自に同ぜ使めて、後に自をして他に同ぜ使むる 道理在るべ し。自他は時に随(したが)うて無窮也。 同事は菩薩の行、願也。 柔らかなる容顔を以て一切に向かうべし。) (道元禅師『正法眼蔵(菩提薩?四摂法))』) 更に、「琴詩酒」は勝負事にも多様化するが、要するに世界人類の 幸福と平和と繁栄への進化に連携すれば宜しいのである。 進化と退化の見究めは、『世界人類を生(活)かさ使めよ。』である。 是、大涅槃人の涅槃妙心智慧である。 《 中道に基づく空前絶後の刹那(=真中道) 》 小生、「覚天」する迄は、 自分は何度生まれ変わっても、永遠に極仏、即ち後厳密千日涅槃行 を「犀の角の如く、唯独り歩む」つもりで居た。 其の事が、結局は最も世の中の為に為るのだと思っていた。 尤(もっと)も、其の徹底為らばこそ、「覚天」を生んだのは間違い無い 事実であるが。 然るに、刹那の「覚天」によりて、其の牙城は見事に打ち砕かれたの である。 自己が一変した。 時空を貫く空前絶後の「刹那」であった。 有史以来、此の「刹那」を迎え得たと云う事は、不昧因果、確足る因 に、確足る果が生じたのである。 「宇宙(生命)の本質」に正鵠を射るには、西洋の如く、本質を相対的 に解明しようとするのではなく、東洋の如く、万法に証され(=導かれ) 往く自己でなければならない。 前者は極悪為る人類破壊兵器を生み、後者は極善為る涅槃を生ん だ。 西洋の短所は神と人間の二元論である事だ。 神と人が一如でなければ為らない。 神は解明するのではなく、神に導かれ往くものである。 然るに、神は実在しない。実在するのは宇宙(生命)である。 「宇宙(生命)の本質」の如何なるものであるかについて、総てに疑い を抱き、「一体、何を如何するつもり」なのか? 夢遊病者の迷走に、何か妙案でも在ると言うのか? 「宇宙(生命)の本質」とは、寸分の違いも許さない、刹那生滅の原理 に基づく不昧因果為る実相である。 斯(く在)るが故に、今の小生が在るのである。 其の存在が、其の事を証明している。 ヨーガの断食苦行から中道に至り、開放されたヨーガ行によりて、 測らずも解脱さ(悟ら)れたのである。 吾師は、釈尊の嗣法者摩訶迦葉(頭陀第一)の十二頭陀行の但坐不 臥(常坐)を千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)に進化せ使め たのである。 小生、半年間の準備期間を経て三年間、四十歳で此の初行を完了し た。 そして更に、五十五歳より後行を始め、小生鐵漢の真中道為る「覚天 」による「涅槃入り」によりて、「宇宙(生命)の本質」に同じて「涅槃」に 至り、涅槃智慧「人を生(活)かす」を生み得たのである。 もし是無くんば、夢遊病者の域である事を免れ得なかったであろう。 世の中は、「疑い」で出来上がるものではない。 唯、「疑い」を抱く事無く、「宇宙(生命)の本質」に同じた信頼と団結に よりて、躊躇する事無く、正に世界を一新すべき令和新世紀である。 《 絶 対 燈 明 》 真に人を人足ら使めるべく、最後身心に迄、進化せ使める菩提心の 源は「宇宙(生命)の本質」に在る。 人間は、此の「宇宙(生命)の本質」との感応道交によりて、無師独悟 、極まり無く「大涅槃人」に為れるのである。 是をして、釈尊に「自燈明、法燈明」と言わ使めたが、其の真相は、 自・法未分の本質裡の絶対孤独、「本質燈明」為る真偽以前の『絶対 燈明』である。 使命感と厳密さとは、自(おの)ずから、此の『絶対燈明』から生まれ るのである。 是こそ太陽の機能に他ならない。 太陽無くして、生命無し。 太陽が生命の要である。 人知は、宇宙の闇に他ならない。 太陽無き人造の闇である。 『恥(じる事)』を忘れた無機能。 『真剣さ』が智慧を生む。 荒涼為る無限の宇宙空間に、花実為る人智を生むには、 此の花実の対極を為す三毒(貪・瞋・癡)を制するだけの エネルギー無くんば不可能。 真理は「無事」では済まないのである。 真理を打ち出すには、『本質との対話』無くしては為し得ない。 《 修行の眼目と世界(人類)のこれから 》 現パンデミックを機に、生きる指針、つまり進歩を退歩に転換すべき 時である。 是迄は対立する方向性であったが、是からは受容する方向性でなけ れば為らない。 地球一家族である。 親が子の成長を見守り、願い、支援する。 物心為る境界を超えて、「宇宙(生命)の本質」に同ずる生き方。 最も効率的で、無駄が無い生き方である。 そもそも、修行為るものも、「覚天」し「涅槃入り」して、空前絶後為る 真理を体得する迄が修行の眼目であり、全ては此の、 世界の宗教者に問うべき、「最後身心」の試金石為る天啓、 「覚天」の一刹那を迎えんが為である。 正に自己の奇跡的一刹那を射止めた、奇跡の「青天の霹靂」で あった。 此の天啓に打たれたのは、小生に一点の我も在り得なかったか らである。 後は、其の「涅槃(妙心)」の智慧を生み、世界人類の幸福と平和と繁 栄を構築し、完遂する迄である。 勝ち負けとか、損得を超えた、互いに他を思い遣る生き方である。 そして、其処には「宇宙(生命)の本質」は、因果の道理に基づき進化 する「涅槃」であると云う事。 「世界人類をして生(活)かさ使める」、太陽の如き涅槃妙心により、 其の智慧を生んで、世界人類の幸福と平和と繁栄構築し、完遂する と云う、永遠為る恒常普遍の真理による信頼と団結が不可欠である 事を忘れてはならない。 世の中は方法では為らない。 肝心要は真理である。 東洋の修行は、其れへの菩提心である。 西洋の哲人は、探究する自己其のものについての、大脳新皮質以前 の存在其のもの(=宇宙(生命)の本質)を知らない。 思想は、傾向は在れども真理とは為り得ない。 涅槃とは、実在する「宇宙(生命)の本質」の事である。 実在するが故に、不昧因果の進化を完遂するのである。 其れは恰も、野生の馬をして、人と共に「生(活)か使める」が如くであ る。 人馬一如為る真理である。 《 真理為る菩提心と『本質的禅学』 》 世の中と云うものは、真理に往き着く迄に、100%と言って良い程、 迷妄裡に、自(みずか)ら入り行くのが常であるが、 其処に、真実を歩まんとする、優れ足る人は多くは居ない。 其処で、信頼と団結を得る人が居れば、其の人は真理を得た人でな ければ不可能である。 そもそも、其の真理を得ると云えども、其れは“悟りへの道”以外には 在り得ないのである。 「悟り」「解脱」迄である。 其処からの如何に難行であるかは、人間では量り得ないものである。 唯一可能なる道は菩提心在るのみ。 人の世を「生(活)かす」源は、只、此の菩提心在るのみである。 功利一つ無い。純粋に、只、独りの心に本来具わって居るものである。 本具菩提心、初めは、其れは登校拒否とか、世の常道為らぬ 不良を呈する。家出とか放浪とか云ったものである。 そうとしか為し様が無いのである。 然るに世の中には、其れに?がるものが何にも見出せない。 極論すれば、唯食う事だけである。 従って、世の常道に見出そうとする。其れが学問に入る事である。 或いは、諸能力に。 然るに、此の菩提心為るものは、そうしたもの一切受け付けない。 純粋為る、手の付け様の無い心である。 若(も)し、其れに答え得るものが在るとすれば、其れは、唯一、小生 の『本質的禅学』以外には在り得ない。 菩提心に答え得る、世界に唯一のものである。 《 平和と云う事 》 平和の裏には必ず地獄が在る。 平和と地獄とは表裏一体である。 斯様な「平和」は二元相対の平和であって、真の平和ではない。 人間の常識的平和に他ならない。 では、真の平和とは如何なるものか? 其れは観念的な、相対的平和ではなく、 宇宙の在る姿、涅槃の事に他ならない。 是が絶対的平和と言えるものである。 此れは人の心の世界である。 人間の涅槃妙心による智慧の生(活)かされ、生(活)きた世界の事で ある。 然るに、人間の心は、「悟り」、「解脱」し、「覚天」し「涅槃入り」し、 涅槃妙心の智慧によりて、世界人類の幸福と平和と繁栄を構築し、 完遂しない限り、人間悪の根源為る三毒(貪・瞋・癡)によりて、常に 「自分第一のお祭り騒ぎ」に明け暮れているのである。 そもそも人間と云う者は、大自然の息吹によりて、其の妙味を直観的 に知覚、予感するものであるが、高度文明化した現代社会に於いて は益々、其の機会にも恵まれる事が少なく為った。 其処で、相対的平和であるが、 此れを讃える事は、一方に於いて、地獄を温存する事に他ならない。 故に、世界平和を大前提とした上での自国平和が正道である。 然るに、自国平和など聞いた事が無い。 若し仮に在るとすれば、其れは自国第一主義である。 他(国)を無視し、他(国)の犠牲の上に成立している在り様である。 仮にも平和を讃えるとするならば、其の事自体に自ずから利他為る 自己犠牲が内在しているのである。 利他為る自己犠牲無き、つまりは三善根(施・慈・慧)に基づかない平 和は成立しないのである。 本質(=涅槃)に同ずると云う事には、「他を生(活)かす」涅槃妙心智 慧が裏打ちされているのである。 「人を生(活)かす」事無き涅槃(=平和)は成立しない。 「貪」為らぬ「施」の心に基づいて初めて、平和は成立するのである。 太陽の心を、真実を如何に表現出来るかと、日々思案している。 常に地獄と共存する平和である。 格差は自ずから「施」の心を生み、一如為らんと為すのが真実の姿で ある。 《 無我と云う事 》 荒涼たる宇宙の本質は菩提心である。 何故に暗闇が菩提心為るぞ? 宇宙には無量の星、つまり恒星、太陽の事だ。 闇中に点在しているではないか。 太陽が無量に暗闇に生命、我々人類を育てているではないか。 故に、我々人類は、小生の菩提心をして宇宙に同じ得て一如為り得 た。 つまり、此の宇宙の精神世界は菩提心に貫かれている。 そもそも進化は無生物に生命を育み、身から心へ、更には菩提心へ と其の進化を遂げたのである。 無我とは何ぞや? 悪い事をしない程に我(が)が無いと言うのでは、余りに消極的だ。 真の無我とは「我(われ)を忘れる程、菩提心一つに為って居る」事で ある。 大我とは真の積極性、能動性に基づいている事、つまり、少なくとも 三毒(貪・瞋・癡)を転了して三善根(施・慈・慧)であり、解脱、更には 涅槃の状態である事を言うのである。 無我ならぬ大我は「宇宙(生命)の本質」に同じ得た涅槃である。 「解脱」を解脱すると「涅槃」と為る。 「解脱」を解脱するには「宇宙(生命)の本質」其のものに為る、即ち 同ずるのでなければ、「解脱」を解脱する事は出来ない。 同ずるとは、「人を生(活)かす」事である。太陽の如く。 「犀の角の如く、唯独り歩む」のでなく、 「太陽の如く、人を生(活)かす」のである。 更には、「太陽の如く、世界人類をして、生(活)かさ使めよ。」 でなければならない。 是をして、「覚天」して「涅槃入り」し、本質為る涅槃に同じ得たと云う 事であり、是が真の大我の実体である。 人間は、所謂、無我では駄目なのである。 「悟って」三善根に転了し、三毒から見て無我であると云う事に過ぎな い。 更に菩提心によりて「解脱」し、大我を得て、積極的、能動的に「人を 生(活)かす」、更に「世界人類をして、生(活)かさ使める」のでなけれ ば及ばない。 「天意」は無我ではない。太陽の心(=働き)である。 「世界人類をして生(活)かさ使め合う」べく進化しているのである。 是を涅槃と云う。 太陽の心は、釈尊の如き大我であり、更に無窮の菩提心によりて、 全ての生命を生(活)かすのである。 世の中、平和で済むが、平和の影には、必ず地獄が在るのだ。 何故に地獄か? 人類の三毒の犠牲に為って居るからである。 自ずから自己の平和を、地獄を改善すべく、“施す”以外無いではな いか。 此れが真の平和だ。 無視、無関心をして、「ゆめ、平和と云うべからず。」である。 無我、無邪気な子供であってはならないのだ。 真の平和とは自らを施すだ。 涅槃智慧の大我でなければならない。 小生、人間は憎めども、此の本質を愛するものである。 太陽の心に違(たが)える在り様は必ず地獄に陥る。 此れが因果の道理、不昧因果である。 人間が宇宙(生命)から独立して、悪徳を為す事は余りに癡愚である。 《 三毒律法世界と涅槃菩提心 》 新型コロナウィルス感染症パンデミックによる無常観は、或る意味で 人心を生(活)かした事は否めない。 其れが菩提心だ。 菩提心を得た人は幸い也。 人間は敢然として、果敢に菩提心を生(活)きなければならない。 其れが人類の進化である。 世の中の事は、兎角、世法(法的)に縛られがちであるが、其の方向 性は、必ずと言って良い程、道を誤ってしまう。 つまり、死んでしまうのである。 小我でなく、真為る大我の立場に立って、事は為されるべきである。 此の判断の付く大人(だいにん)に成長しなければならない。 其れが真の教育であり、人創りであろう。 世法(法律)で縛れば宜しいでは、人間は成長、進化しない。 大我の下に即断出来る人物でなければ、小我では何時まで経っても 世界は進化しない。 法的小我為らぬ、超世法的大我によりて、世界は構築され、完遂され ねばならない。 其れの出来る人物同士の信頼と団結によりて、世界は変革されるべ きである。 是は基本を弁(わきま)えて居るからこそ可能と為るのである。 基本の弁(わきま)えも無い世界の事ではない。 《 基本の弁(わきま)え 》 基本の弁(わきま)えとは、小生が初めて坐禅を組んだ刹那に、 「アッ、これだ!」と決定(けつじょう)した自己の方向性の確かさであ り、そして其れ以降の「悟り」「初厳密千日解脱行」「解脱」「後厳密千 日涅槃行」「覚天」「涅槃入り」「涅槃」「ホームページ(製本)」でありま す。 そもそも、坐禅を行ずれば、其れだけで、三毒の大半は消滅する。 其の出発点に於いて、既に将来は決定して居るのであります。 そして、其れ等の要は吾師に其の道を開拓して戴いた師の正の御遺 産でありました。 母体為る世界の不遇な命への慈悲の涙が小生の菩提心の支えと 為って、恥を許さない、自己を生(活)かす為に、何処迄も可能な限り、 敢えて自己を奮い立たす、孤独な未踏の岩登りであります。 《 喫緊の最重大事 》 世界人類は今日に至る迄、超宗教的、且つ超科学的真理に至り得な かった。 此の絶対真理に至り得ずしては、世界人類を統一する事は不可能で ある事は当然であり、二元相対世界である事は不可避である。 然るに、此の令和新世紀に、初めて「覚天」し「涅槃入り」し得て、 超科学的、且つ超宗教的確証を体得し、真の「涅槃」と云う絶対真理 に至り得たのである。 此の絶対真理裡に初めて、是迄の二元相対世界は絶対世界に転じ 得るのである。 依って、現米中の在り様も自ずから、従来の矛盾を統一して、究極的 進化を完遂せねばならない事態に直面しているのである。 本題に入る。 人類の心の進化は真理の体得に依存する。 人間能力の延長線上に在るものは二元相対の敵対世界を避ける事 は至難事であろう。 現地球上は、米中の二大支配勢力の覇権争い状態で、世界人類の 幸福と平和と繁栄の方向への収束性が無い。 此れでは未だに、世界の物質文明に於いては雲泥の差は在れども、 精神世界の現状は、釈尊成道前の苦行者達にも及ばない。 今後、精神世界に於いても、物質文明の進化後、つまり最後物質世界 後の最後物質精神世界を構築、完遂せ使める為には、 此の令和新世紀に人類が如何に在らねばならないかを、米中の指導 者と共に、最後身心の立場として、相互に真剣に釈尊地球号は、此 の取り組みに直面しなければならないのである。 三者が真剣に此の不可避の最重要課題に直面する事自体に、先ず 最重大なる意義がある。 それから、次には米中両指導者が、「宇宙(生命)の本質」が 「世界人類をして生(活)かさ使め合う」涅槃為る処の真理に基づく 信頼と団結によりて世界人類の幸福と平和と繁栄を構築し、完遂し なければならないと云う基本方針を共有する事を大前提と為すべきで ある。 因果の道理、不昧因果に 人情は及び得ない。 人情のかけらも無いのが 因果の道理、不昧因果だ。 「因果の道理歴然足り。」 現実を観ずれば、其れは 余りに如実である。 《 世 間 》 自(みずか)らの心と真理とは違う。 其れは、真理に同ずべきものである。 其れが真理(=答え)を探究しても、すればする程、真理は遠ざかる。 先ず、其の心を捨てて、自己の最も為すべきを為し切って居る処に、 真理は自(おの)ずから自己を其の心に開示するものである。 真理を求めず、最も為すべきに徹し切って居るからこそである。 求める心を忘れる程、徹し切らねば、真理には届かない。 其れが真の無我である。 《 地 球 号 》 小生が古希に於いて、初めて、空前絶後の真理を体得した事に因りて 、其の前後で、古代文明以来、現代に至る迄の人類史は一挙に飛躍 を遂げた。 「世界人類の教え」は釈尊中道と鐵漢真中道によりて、語り尽くさ れているのであります。 小生の真中道為る「覚天」によりて、「宇宙(生命)の本質」は涅槃に して「人を生(活)かす」であると云う真理に至り得たのである。 其れ迄は、「強者として他を制する」二元相対論が原則であった。 宇宙の原理原則が、根本的に「強者として制して」居れば間違い無い のであったが、 「真理はそうではなかった」と云う、此の令和新世紀に至りて、 空前絶後為る、真の涅槃に達し得たのである。 「世界人類をして生(活)かさ使め合う」を原理原則と為さねばなら ない。 斯くして、「地球号為る箱舟」を完成せ使めねばならないのである。 《 認識上と、現実の地獄 》 地獄を「地獄也。」と知る事が、何よりも不可欠である。 嘗て、小生、伴老師に参禅する様になって数年後位に、 師が「人情を捨てる」と言われた時に、 小生は最も肩の荷を降ろした気がしたのを覚えている。 今の、涅槃に於ける地獄に於いても、四十年余り前の当時と同様の 体験をしたのである。 つまり、如何なる状況下であろうとも、淫快に関しては、「捨てよ。」と 云う事である。 淫快に誤魔化されるのである。 世の中は、常に此れに満ち溢れている。 是が認識上の地獄である。 精神は、此の身(=牢獄)から、即刻、開放されて、常に淫快の無い 自由を得ていなければならない。 精神は濁ならぬ粋(=浄)の不染汚(ふぜんな)の時、最も生(活)きて 居り、心の持ち様一つで自由自在である。 先ず、是が常に大前提。 慈悲心と淫快(人情)とは、涅槃と地獄の両極である。 前者は平和、後者は地獄である。 男女の関係(、否現代では人間間とも言える)が、何れを志向するか、 粋と濁との分岐点である。 愛は何れかの一方に帰結するのである。 此処が人間の資質である。 一方、地上の、現実の地獄はイエメンだ。 若し、人類が人間らしさを見失っていないのであれば、 世界中の諸国家レベルで、真っ先に此の地獄を救う支援を為さねば ならないし、決して間接的殺人である無視、無関心では済まされない。 同じ人類同士の使命感としての、不可避の責務の問題である。 両地獄を回避せ使むるのも菩提心一つである。 「三毒(貪・瞋・癡)為る人情(=淫快)の地獄は捨て、 三善根(施・慈・慧)為る涅槃の慈悲心を施せ。」 「宇宙(生命)の本質」は、 混沌の「小我の貪り」から、 涅槃の「大我の菩提心」への 進化の一路門である。 小生が正法苦行より至り得た 真理には、小生でも違(たが) い得ない。 涅槃(智慧)以降は、もう既に、 後は涅槃智慧により、 世界人類の幸福と平和と繁栄 を構築し、完遂するのみ。 人類に国家が先行する者は ヒトラー独裁国家だ。 中国社会主義国家の堅持は 米独裁の前には当然だ。 国家に人類が先行して初め て人間足り得るのである。 国家至上主義と人類至上主義 、人間ならば根本的に後者 を選ぶのが、思慮深い大人 ならば言うまでもない事だ。 親子の在り様を説く事の出来 ない国家と云うものに将来は 在り得ない。 依然、米中覇権争奪世界を 免れ得ない。 中国は如何為る主義主張を 掲げようとも、国家の単位 為る一家族が成立し得ない、 米国至上主義に列する、 ヒトラー独裁国家である。 香港は成長した子の在り様、 中国は大人足る、真の親の 在り様を夫々確立しなけれ ばならない。 夫々が完成した一人間として 、双方を認め合う事である。 是は「宇宙(生命)の本質」の 真理である。 真理に違えれば悪業報不可避 である。 《 真理中の真理 》 真理には体験上のものと、学問上のものとがある。 然るに、真理の体験は学問の次元では及び得ないものである。 体験的真理とは、万法より(=「宇宙(生命)の本質」からの促しで)生 ずる瞑想に由来する坐禅に基づく「功徳」「悟り」「解脱」「覚天」「涅槃」 である。 一方、学問的真理とは、大脳新皮質(言語中枢)の所産為る学問に 由来するものである。 前者は後者を捨てる処から始まるのである。 小生も、そもそも其処から始まった。 其れが、測らずも前者に至り、空前絶後の究竟に達し得たのである。 是、真理中の真理。 如何なる事象に於いても、是真の釈尊手掌上の悟空に過ぎない。 此の真理を超越するものは、宇宙間に存在しない。 如何なる人間も国家も法も、是を超える事は不可能である。 小生を通して、一切の法は生まれるのである。 是等一切を統括するものが「宇宙(生命)の本質」(仏性)である。 《 「人を生(活)かす」とは 》 対立する米中の覇権闘争を退避、解消する(させる)には、最低限 、此の世の如何なる性愛、淫快にも正念を失わないだけのものが無 い限り、人類を導く資格は無いであろう。 是も男女平等で如何なる禽獣為る男尊女尊、男卑女卑も生じ得ない。 世界の一国家を構成する一個人としての真の自覚が不可欠である。 更に次には、金欲と名誉欲の覇権欲、更に其の上に、生死に関わる 生理的欲求の食欲も少欲・知足に保つ事が出来なければ悟れない。 坐禅で「悟れ」ば、三毒(貪・瞋・癡)は三善根(施・慈・慧)に転ずる。 最後に二元相対、対立世界を自利利人為る自他一如世界に転ず るには、千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)を行じなければ、 睡眠欲を自由に制し、生死を透脱して、「解脱」するには至らないので ある。 五欲への貪著と瞋恚と癡愚から離脱し、斯くして初めて、其の延長線 上に、睡眠欲を二十四時間自由に制し得て、究竟、「覚天」し得るの である。 そして、「人を生(活)かす」と云う「宇宙(生命)の本質」為る涅槃の 真理に往き着く事が出来るのである。 斯くして、米中対立の解決は、本質的に一個人の解決に等覚なので ある。 「人を生(活)かす」とは、 米中の対立は「人を生(活)かす」でなく、 格差を生み、不運(幸)な人々を限り無く地獄に陥(おとしい)れ、更に 其れ等に無関心で、無視すると云う、間接的殺人を犯す事である。 嘗ての米国至上主義は、今では、米中覇権争奪世界の色相を呈する に至った。 是が更に、世界人類の幸福と平和と繁栄を構築するには、「宇宙(生 命)の本質」に違(たが)えた来し方の悪業(=激甚自然破壊と大量破 壊兵器製造)を猛省し、覇権争奪でない、「宇宙(生命)の本質」に 基づく信頼と団結に基づいた、「地球号と云う箱舟」上の世界人類 の在り様の認識の下に、涅槃智慧為る真理を生(活)かす以外には 、我々人類が採り得る道は無いのであると云う、真実なる共通認識を 新たにしなければならないのである。 《 星 (=真理) に為った男 》 本物は歴史を具現する。 真理の雪達磨だ。 真理(実)が真理(実)を語る。 坐禅とは真理であり、不動である。 《 真 理 と は 》 真理は外に転がっているのではない。 人心に本具真理為れども、 正に、其れを見出し得た人心から露呈されるものであり、 人心が「宇宙(生命)の本質」に覚天され得た処より、人類世界に 開示されるものである。 其処からして、涅槃為る真理、つまり世界人類レベルでの、仏法の 涅槃智慧に基づく世法の新た為る構築、及び其れ等が涅槃に至る迄、 世界人類の幸福と平和と繁栄を完遂するのである。 《 涅槃からの施政 》 吾師が仏舎利塔建立に当って言及された。 「1400年の昔、我が国の聖徳太子が十七条憲法を制定せられ、其 の第二条に曰く、 『篤く三宝を敬え、三宝とは仏と宝と僧也。即ち四生の終帰、万国の 極宗也。何れの世、何れの人か、此の法を貴ばざる。 人甚だ悪しきは鮮し、能く教うれば之に従う、其れ三宝に帰せずん ば、何を以ってか枉(まが)れるを直(なお)せん。』 聖徳太子が毎日夢殿で坐禅して国政を閲せられてましたが、日本及 び世界の平和の道は大聖釈尊の説かれた三宝帰依の外に道無しと 確信して、此の事を憲法に謳われたのであります。」と。 進化の究竟、涅槃の真理からの施政によりて、 貧富等の格差の無い、真に「人を生(活)かす」施政が為されるのであ る。 感染症パンデミックであろうが、なかろうが、 二元相対の米中の在り様も、真理に同じ居れば、常に涅槃智慧に よりて、一如為り得るのである。 《 不 昧 因 果 》 我々人類と宇宙との関係は、胎児の子宮内との関係に等しい。 宇宙の、大気中で太陽に育まれる人類の生命は、 子宮内の、羊水中で臍帯で育まれる胎児の生命である。 子宮から放出されて外気を吸ったら唯我独尊なのではない。 然るに、釈尊は誕生した際に、此の誕生偈を唱えたそうだ。 母体内の胎児が母体の生命と一如である様に、 宇宙内の人類は「宇宙(生命)の本質」(仏性)に導かれ、何処迄も 一如(=涅槃)と為り往く生命である。 是が、其の母体為る「宇宙(生命)の本質」に違(たが)えて、他(=自 然と他者)を破壊して、一如為らざる時は、当然、其の悪業報を受ける 事は不可避である。 因果の道理は、小生が「覚天」して「涅槃入り」した事によりても、 明らかに確証された。 其れが、現感染症パンデミックと激甚自然災害である。 《 真理について 》 真理中の真理について語り得るのは小生独りである。 真理とは永遠なる恒常普遍の真理であり、学問(哲学)に於ける観念 的なものではなく、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の事である。 此の空前絶後の真理を体現出来たのは、測らずも古希に及んで、 「覚天」により「涅槃入り」したからである。 是は静から動への実際である。 しかし此の動は、300余年前の臨済宗中興の祖の白隠禅師の「動中 の工夫」の静に基づく動ではなく、在るが儘の現実世界の事である。 つまり、「宇宙(生命)の本質」に同じ得たのである。 真理(=涅槃)を究竟し得て初めて、総てに得心し得た。 其処で、人類史に於ける真理についての言及に関して顧(かえり)み ると、インダス文明(BC2600~)の瞑想が、アーリア人のインド定住 後、社会構造化されて菩提心によりて、バラモン教(BC1300~)の 自然法(神意)と人間法(財産と性愛)両立のヨーガ行がBC1500年位 から始まったのが最初でなかったかと思う。 以降、釈尊成道(=解脱)、そして略(ほぼ)同時期に孔子が、 『朝に道を聞かば、夕べに死すとも可也。』(『論語』)と道(=真理)を 希求した。そして古代ギリシャではソクラテスが哲学として考察し、 そしてイエスのキリスト教である。是等、四聖人によりて真理(実)が 究明されて来た訳であるが、究竟、本物の真実為る超真理は唯一、 「宇宙(生命)の本質」(仏性)為る小生鐵漢の涅槃在るのみである。 此処に心の進化究竟し最後身心足り。 斯様に、東洋の古代の精神史、インダス文明の瞑想とバラモン教の 伝統、は人類の最も豊穣な風土によりて初めて、人類に「宇宙(生命) の本質」を開示するものであったが故に、唯一東洋に於いて、心は 究極の進化を遂げ得たのである。 「宇宙(生命)の本質」(仏性)の人類への開示に、風土は不可欠では あったが、千日行為る正法苦行に進化完遂し、既に風土的要素は 人類の菩提心一つの問題と為った訳である。 何時でも、何処でも、誰でも菩提心一つで真理を吾身に体現し得るの である。 「覚天」によりて初めて、東西の両洋は一如足り得るのである。 チベット、ウイグル自治区に於ける仏・法・僧は人類には不可欠なる 存在である。 貴重なる正の世界遺産は守護しなければならない。 虚無に進化は無い。 進化に在るのは方向性、つまり目的である。 其れが涅槃、太陽の如き、「人を生(活)かす」働きである。 「世界人類を生(活)かさ使め合う」 此の真理程、強堅不動為るものは無い。 人類が志向するものは是である。 小生は近い将来、此の真理に基づいて、トランプ氏と習氏が固い 握手を交わす時が訪れるのを信ずるものである。 《 大大前提 》 「宇宙(生命)の本質」(仏性)からの促し(=本具仏性故の前兆)に よる、五千年程前であれば自然の恩恵裡の自己の在り様から自然発 生した瞑想そしてヨーガ行が、現代であれば十牛図の最初の尋牛で あり、坐禅に往き着く迄、或いは千日行が大前提である。 真理とは、「悟り」であり、「解脱」であり、「覚天による涅槃入り」つまり 「涅槃」である。 夫々、「宇宙(生命)の本質」に接近し、触れ、入る(≠同ずる)のであ る。 本質為る涅槃へ覚醒し往く諸相を真理と為すのである。 進化とは其の実際である。 宇宙其のもの、つまり万法が人類を導くのである。 学問は真理に至る手段に過ぎない。其のものではない。 芸術は情の多様性であり、実在する神はいない。 神仏に依存している間は悟れない。 坐禅と坐禅の功徳に始まる。 其の恩恵が悟りを生み、成長した菩提心は千日行に移行し、 自ずから解脱に至る。 以降、極仏(=後厳密千日涅槃行)は宜しいが、「極仏酔い」からの 覚醒は、諦観以外、人間の自力では不可能である。 此の究極の覚醒は「宇宙(生命)の本質」からの啓示、即ち「覚天」無く んば至り得ない。 是に基づく、絶対施政、絶対教育にして初めて世界人類の幸福と平 和と繁栄を構築し、完遂する事が出来るのである。 斯く為る本質を神と転化せず、万人に本具せる仏性(=本具仏性) として、自(みずか)ら是に進化を遂げんとするを「生きる」と云う のである。 斯く為る本質を神仏力と為し、其れを自らのものと為さんとする苦行で あったし、其の果としての中道(=諦観)を経て初めて成道(=解脱) し得たのである。つまり本質に触れ得たと云う事である。 然れども、極仏からの覚醒無くしては、本質為る涅槃には同ずれども 、其のものとは為り得ず。つまり、涅槃に同ずると云う事と涅槃入りし、 涅槃と為る事とは意味合いが異なるのである。故に薩?(=菩薩)の 行願の同事は「自他は時に従って無窮也。」自と他が何処までも一に 為らんとする事は自他以前の一為るもの、つまり「宇宙(生命)の本質 」(仏性)為る「涅槃入り」する事を措いて無い訳である。 自他為る差別は実在するが故に。 此処で、小生に至りて、初めて「覚天」して「涅槃入り」し、 涅槃智慧によりて世界人類を生(活)かし、幸福と平和と繁栄を 構築し、完遂せ使め得るのである。 そして其の事自体が、既に仏菩薩の行に他ならないのである。 斯く、真に覚醒し、真の涅槃、つまり本質其のものと為り、極仏為る 停滞から脱却し得て、何と為れば悟るべきは其処迄、後は涅槃為る 「宇宙(生命)の本質」の実体為る太陽の機能(=生(活)きた涅槃智 慧)其のものを生(活)かすばかりであるからだ。 是が涅槃である。 施政、教育の基本は、施政者、教育者である。 是無くしては施政も教育も成立し得ない。 彼等が垂範以って導く最初の一歩が無ければ国家為らず。 自(みずか)ら範を示す者が不可欠である。 今は、其の範は米中の覇権争奪合戦しか成立し得ない。 故に小生鐵漢が唯一の真理を示しているのである。 此の他に世界平和が確立する道は皆無。 覇権争奪ではない。飽く迄も信頼と団結への智慧が人類の人類足る 所以である。 偽為る進化の退歩か、真為る退歩の進化以外には在り得ないのであ る。 人間も儚(はかな)き有限為る自己ならばこその涅槃であり、 然(さ)も無くば、人類は地獄しか生まないのである。 是こそ、(儚き有限と云う)退歩為らばこその、(涅槃と云う)進化であ る。 此の現実を弁(わきま)えざる人類は三毒(貪・瞋・癡)と云う進歩によ る覇権争奪と云う退化に陥るしかない。 《 真の男らしさと女らしさ 》 一人として真実を語れる者が居ないから小生が真実へ導く。 真の男らしさと女らしさには淫快、そして金欲は存在しない。 人間は真に男らしく、女らしく在るべきである。 此の基本を弁(わきま)えて、世界人類の幸福と平和と繁栄の構築と 完遂が在り得るのである。 不可避なる周期的激甚自然災害と感染症パンデミックの人類への悪 業報による国民生活維持不可能状態は、是等の不節制に起因する ものである。 今こそ、是等を根本的に猛省すると共に、世界的改善の智慧を完遂 すべし。 正に是こそ、日本野党の真の使命としなければならない。 《 同事(=同ず)と「人を生かす」(=入る) 》 同事と云うは不違也。自にも不違也。他にも不違也。 事と云うは威儀、容態の事也。事を同じくする。 同事を知る時、自他一如也。 (「琴詩酒」は人天神と夫々友と為る徳性を具えているから、 夫々の三昧に入る心は循環し止む時が無い。 是、同事の参学也。) 他をして自に同ぜ使めて、後に自をして他に同ぜ使むる 道理在るべ し。自他は時に随(したが)うて無窮也。 同事は菩薩の行、願也。 柔らかなる容顔を以て一切に向かうべし。 〔道元禅師『正法眼蔵(菩提薩?四摂法(抜粋))』〕 要するに、世界人類の幸福と平和と繁栄への進化に連携すれば宜し いのである。 五千年程前の「宇宙(生命)の本質」からの促し(=前兆)によりて、 瞑想を生ま使め、其の後菩提心によりてヨーガ行が生じた。 自らを顧(かえり)みても、「宇宙(生命)の本質」からの促しの後、 最終的には、菩提心によりて坐禅に往き着いたのである。 以来、坐禅の功徳、恩恵によりて、「宇宙(生命)の本質」に近付き(= 悟り(身心脱落)、道元禅師)、触れ(=解脱、釈尊)、「解脱」後、十五 、六年間菩提心一つで生涯極仏行(=生涯後厳密千日涅槃行)によ りて「宇宙(生命)の本質」に入り(=覚天、鐵漢)した。 小生の「覚天」によりて、「宇宙(生命)の本質」の「涅槃」に「涅槃入り」 し、「人を生(活)かす」涅槃妙心智慧によりて、心の進化は完遂し、 最後身心と為った訳である。 一切の存在を万法と云うが、「悟り」、「解脱」、「覚天」と万法に証さ(= 導か)れて「涅槃入り」する自己が在る。 「涅槃入り」した自己は「宇宙(生命)の本質」(仏性)為る「涅槃」裡の 自己、つまり涅槃其のものと為った自己である。 其れ迄の万法(=物心の一切)に証された自己の二元相対世界でな く、「涅槃」裡の自己、つまり「涅槃入り」して「人を生(活)かす」と云う 菩提心三昧、涅槃妙心智慧の実践のみの自己であり、同事の沙汰 は無いが故に、「涅槃入り」すれば、自己と涅槃の別は無い。 「人を生(活)かす」自己の全一為る在り様其のものが「涅槃」なのであ る。 小生に至りて、空前絶後にして時空を貫き、「覚天」で「人だ」の「涅槃 入り」を果たし、「涅槃」其のものと為りて、涅槃裡に「人を生(活)かす 」に徹する事が自(おの)ずから「涅槃」を現成し、現成涅槃したので ある。 「人を生(活)かす」「涅槃」を生み、大涅槃人の涅槃妙心智慧の『世 界人類を生(活)かさ使めよ』によりて、只管、世界人類の幸福と平 和と繁栄を構築し、完遂するのみである。 是によりて、米中の対立も、同様に対処すべきものである。 「覚天」し、「涅槃入り」した「人を生(活)かす」はシンプルであるが、是 涅槃妙心智慧は従来の仏教界に於いても革命的激震と為るであろう。 最後身心としての進化の究竟であるからだ。 「涅槃入り」する「覚天」は、刹那に業報一閃、究竟善業の業報(=天 啓)が啓示されたのである。 「宇宙(生命)の本質」は(太陽の如く)「人を生(活)かす」である。 是を「涅槃」と言う。 「解脱」前の自未得度先度他の心は、 「覚天」前の同ずる心と一(いつ)也。 何と為れば、「宇宙(生命)の本質」は「人を生(活)かす」「涅槃」である からだ。 「悟り」、「解脱」、「涅槃」無き「人を生(活)かす」涅槃妙心智慧は 永遠為る恒常普遍の真理(実)ではない。 菩提心は「覚天」によりて、「人を生(活)かす」涅槃妙心智慧に転化さ れ、世界中の三毒(貪・瞋・癡)による眠りから、三善根(施・慈・慧)の 覚醒に転ぜ使める力と為りて、世界人類の幸福と平和と繁栄を構築 し、完遂せ使めるのであるが、 世界の不幸(運)を無くすと云う事を最優先にすべきである。 令和新世紀の世界は、米中が垂範以って、此の永遠為る恒常普遍 の真理(実)に基づいて、基本的に信頼で団結すると云う事無くしては 、世界人類の幸福と平和と繁栄を構築し、完遂する事は永遠に不可 能である。 今こそ、来し方の諸悪を清算し、激甚自然災害に無条件で根本的に 歯止めを掛け、大量破壊兵器を撤廃する。 世界中が一丸と為りて補い合い、不可能を可能と為す。 是が最短路であり、是以外には無いのである。 人類の習癖、固定観念を破るのは容易ではない。 其れ程、意識と云うものは、保身と安泰に眠っているのである。 最大限に生(活)かすには、余程の覚醒無ければ及び得ない。 《 涅槃からの同事 》 自己が自己を思う心は涅槃である。 自己が人を思う心も自ずから涅槃である。 自他一如為るが故に。 自他一如為れども、他も実在する。 自他別在り。 故に、此の、他に同ずる在り。 是、同事。他にも不違也。 此の他、曲者で、十人十色。 地獄の底迄在る。 是に底無ければ宜しいが。 真に死んでない。酔っているだけだから。 是に同ずる在り。 真に死ぬ迄は、総て嘘である。 自(おの)ずから然ら使む。 心の免疫に届けば也。 人間嘘が無くなったら、大法螺(ほら)を吹くのである。 是は、親足る親が、子を思う心に等しい。 真に人が人を思う心である。 自己為らぬ、世界人類の幸福と平和と繁栄を願う心也。 涅槃を願う菩提心である。 涅槃とは、人を「殺して」、涅槃為る、本具せる心の免疫(=仏性) から人を復活せ使むるものである。 此の「殺す」と云うのは、「殺そうとして殺すのでない」。 欲界中で千日行(=正法苦行)完遂すれば、 人を「殺すのである」。「殺してしまっているのである」。 正法苦行行ずれば「死ぬ」。 自他一如。人も、既に殺してしまっているのであり、欲が 死んで居るのである。 故に欲に死ぬ人を、涅槃から復活せ使むるのである。 涅槃行(=生涯後厳密千日涅槃行)は、斯くして世界を 復活せ使むるのである。 是によりて「覚天」すれば、 自(おの)ずから「人を生(活)かす」のみである。 「覚天」以来、一刹那も坐禅に時を労しない。 只管、智慧を人に生(活)かすだけである。 不昧因果 毫釐も違わず。 《 涅槃の実際 》 人間の諸能力中の能力は超能力である。 超能力とは、是、真理の事である。 真理中の真理は超真理で、是は「宇宙(生命)の本質」(仏性)を 「覚天」する事である。 「覚天」すれば、自(おの)ずから、「行」でない。「人」だ!と刹那にして 導入せられ、自ずから「涅槃入り」するのである。 是が心の進化の究竟である。 超真理即究竟真理であり、 究竟真理即涅槃である。 涅槃とは、入れば、自己と宇宙との契約の如し。 「覚天」する迄は、解脱に基づき、涅槃為る世界を約束する処の、 究極極仏行として、恰もゼロ戦の戦士の様な者としか言い様の無い ものであったが、刹那の「覚天」によりて、是も、或る意味では、不昧 因果であるが、「宇宙(生命)の本質」入りを完遂したのである。 是をして、自己と宇宙との契約とも譬え得る。 既に行は無い。 涅槃裡の自己の為すべきは、 人類は何を為せば宜しいか、の指針を示す事である。 正に宇宙の天啓を人類に開示するのである。 世界人類が如何に生(活)きれば宜しいかと云う事である。 正に是、「人を生(活)かす」、即涅槃妙心智慧の実際である。 《 世界の指導者が為すべき事 》 特に世界各国の指導者達は、令和新世紀以来の涅槃に基づいて、 施政を為すべきである。 是が究極の治世である。 是は人類の信念や価値の次元ではない。 真理と云うものは、人類の信念、価値を超えた真実である。 真理に基づく施政。 目先の利害に捉われない。 時空を越えた、人間の心の進化の究竟からの施政である。 恰も、宇宙の調和と均衡を人類世界に具現するものである。 是が、可能な限りの、世界人類の幸福と平和と繁栄への最短路であ る。 人間世界特有の格差を生まない涅槃世界である。 人間の労が全て、其の為に為されているものである。 其の菩提心を働かす為には、自(みずか)らの菩提心を自らの存続の 為にも施される処のものだ。 他よりも自己がでなく、 菩提心が菩提心自体を生(活)かす世界、是涅槃である。 宇宙の花実為る人間の生と云うものは、 正に此の涅槃、「宇宙(生命)の本質」其のものである。 迷中を漂っても、心の進化は生まれない。 迷路に入り込むと、地獄に陥ってしまう。 得道。正道を得る。「覚天」して「涅槃入り」し、涅槃現成、現成涅槃し て初めて不惑である。 人類が、是に基づく以外、他には絶対に在り得ないのである。 そうして、信頼が生まれ団結するのである。 世界人類の幸福と平和と繁栄の構築の第一歩であり、唯、完遂する のみである。 不昧因果の今である。 《 人類の三態 》 米国と中国と日本。 人間の有りっ丈の精神と物質の能力を極めて、二百五十年程前に 独立した米国と、 国家の主義主張に基づく権力により統制された中国と、 菩提行により、「悟り」の道を究めた日本。 三毒の権化と国家権力と涅槃裡の人道と、 人類の可能なる三態である。 三毒(貪・瞋・癡)でも駄目。三毒に衣を被せても駄目。 真理からにして初めて、道が拓ける。 心の進化の辿る三態である。 真理の辿る道は、生まれた道を逆行する。 人類世界は最短路は在れども、近道は在り得ないのである。 不昧因果為れば也。 《 日本と米国と中国の在り様 》 分別や能力以前に心在り。 日本に基づいて、米でなく、中でなく、又、米であり、中である。 厳密の極みに天啓を得、 一元為らんとする極みを経て、敢えて二元足る。 二元為る事が不可欠である。 一元に片寄らず、二元に片寄らず、 其れ等の狭間である事、「人を生(活)かす」に基づいて、結果的に 行き来して居る処に、完璧に目的を果たしているのである。 目的(=涅槃)に基づいて、米(=自由)でもない、又でもあり、且つ、中( =束縛)でもない、又、でもある。 要は、自由か、束縛かを目的と為すのでなく、飽く迄も、「人を生(活) かす」「涅槃」第一主義なのである。 其の為に、在らん限りの命を尽くす。 是迄の米中双方に「涅槃」無きが故に、 米中双方が対立せざるを得ない。 対立するものを捨てて、共通認識「人を生(活)かす」。 自分(国)を生(活)かすでない。 (自己をも含めた)人を生(活)かす。 つまり、生(活)かし合う。 蹴り合わない。 他(全体)の幸福と平和と繁栄の立場から判断を下す。 人間の人間足る所以(ゆえん)は我欲に負けない事だ。 其れでは世界が立たない。 世界を立てる。 是が政治家の資格である。 国民の道具と為るよりも、国民を真に生(活)かせる人物でなければ ならない。 「教え」を生む為には日米中、敢えてチャンポンでなければならない。 チャンポン為る程、「教え」を生む。真理に近付く。 新型コロナウィルスのワクチン(=教え)と同様だ。 ワクチンの為には病人(=毒害)が不可欠。 悪為る毒害無ければ、「教え」生まれず。 三毒由来の自由と束縛無ければ、 「教え」としての涅槃由来の自由も束縛も生まれず。 「涅槃」とは、真至命其のものである。 此の根源為る「宇宙(生命)の本質」から一切の真為る言葉(=教え) は生まれるのである。 言葉に導かれるのでなく、「宇宙(生命)の本質」に近付き、触れ、其 のものと為り往く、自(みずか)らの心の覚醒によりて、太陽の如き 恩恵は自覚され、生み出されるのである。 《 不毛の中東に智慧を 》 小生は自己の無知を恥じるのであるが、中東情勢に於けるシリア難 民の惨禍は最大難民の崩壊寸前の戦争状態であり、現パンデミック 以上の、二十一世紀最悪の人道危機である。 正に是こそ、世界中で、団結して智慧を施して改善しなければならな い。 政治家は、世界人類の幸福と平和以前に、物質的基本的条件確保を 究尽すべし。 世界人類が此の大前提に結束すべきである。 そうすれば、人は道を誤らない。 欲に心を売った人間は、欲に自らを捨てた人間だ。 欲に殺された人間で、諸々の禽獣と相異なる事なし。 世間と云う者はそういうものだ。 唯、ひたすら退化しか生まない。 欲を凌(しの)ぐ心は進化する。 釈尊の祖先も。身を売って身を支えていたのである。 人類が感染症ウィルスに報応するには、「宇宙(生命)の本質」に違わ ない事だ。 何と為れば、「宇宙(生命)の本質」は涅槃に進化を遂げているが故。 《 涅槃と云う霊妙極まり無き働き 》 「覚天」迄は厳密行を行ずる事が主体であったが、覚天してからは、 「人を生(活)かす」事が主体である。 涅槃に入って、「人を生(活)かす」が主体であると説く事と為った。 其れに関わる作業の、日課、托鉢を含めた日常茶飯事等である。 「説く事」主体でありながら、日常生活規則性維持。 解脱裡と涅槃裡は次元が異なり、自(みずか)らに本質機能が意識化 されたものを表現する作業である。 天理を説く。 是は「質」と「量」と云う異質なものを質量一如為る世界を具現し、且つ 表現すると云う作業である。 二十四時間、質三昧でありながら、量は「人を生(活)かす」べく最大効 果を期すべく、自(おの)ずから為っているのである。 日常三昧でありながら、守るべきは損なわれてはいない。 法的規制無しに、万事が旨く捗(はかど)っている状態である。 此の時、最も霊妙極まりなき働きが実現しているのである。 機械的規制でも駄目。 かと言って、自由に目的三昧でも駄目。 涅槃とは、正に此の目的三昧の中に、自ずから規則制が自由に絶妙 に機能しているのである。 此の絶妙さは、宇宙の調和と均衡を在ら使める働きである。 是、「宇宙(生命)の本質」の働きである。 天然の自制が働いている状態。 是が涅槃の涅槃足るものである。 動物の本能的習性。 恰も亀が浜辺で孵化すると、直ぐに身を守らんが為に、海に向かって 直行する様なものだ。 不可思議であるが、完璧に涅槃を進化完遂せ使める。 外的規制でなしに、内的規制が自(おの)ずから働いているのである。 外的なものは、意識化されたもので、本物ではない。相対的である。 内的にして、初めて本物である。恒常普遍である。 此の規則性も、目的性も、「宇宙(生命)の本質」の涅槃妙心智慧の 「人を生(活)かす」が、其の人をして最大限に発揮すべく作用してい るのであって、規則性や目的性に基準があるのではない。 意識上のものは心の進化への、本質の働きの補助輪に過ぎない。 本質に違わなぬ菩提心の真剣さが、長い間に、無意識的に、種々な る覚醒を経て、「宇宙(生命)の本質」其のものと為り、心に霊妙極まり 無き涅槃妙心智慧として生み出されるものである。 《 最終製本『 鐵漢 (太陽に為る男) 』 》 最終製本を遅くとも一年以内に。(令和二年七月十三日)と為したが、 是は、『本質的禅学』が想定外に余力が生まれた事に因る。 早速其れに取り掛かった。 「後為すべきは、枝葉を除いて、核心を敷衍してみる事にした。 定年退職した老人が、余生を生(活)かすに似ている。 最も、是も「人を生(活)かす」一環である事には代わり無い。 子供の頃に、一切の束縛を離れて、放浪して自己を、宇宙の観点から 捉えてみるのに似ている。 究極の自己が如何なる事を語り得るのか? 何が出るか全く白紙である。 初行末の自己がそうであった様に。 「悟り」と初行しか知らなかった自己である。 其の小生に、日々二~三時間の坐禅が許されていたならば、鉄牛寺 へ行く事は無かった。 坐禅時間が確保出来なくなったから、鉄牛寺へ行ったのである。 動機は如何であれ、人間を真に進化させるのは、坐禅こそ本道であ る。 托鉢自活による千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)。 菩提心一つ、日本ならば出来る。 何の為に、其れを為すのか? 「涅槃入り」し、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」(仏性)其のものに為る 事である。 何故? 其れが最後身心であるからだ。 後は、「人を生(活)かす」涅槃妙心智慧により、世界人類の幸福と平 和と繁栄の基礎為る物質(精神)的基本的条件確保為さ使め、構築 し、完遂せ使めるのみである。 『本質的禅学』としようが、『鐵漢』としようが、何と言っても精髄は 永遠為る恒常普遍の真理である。 後は在るが儘に、然ら使めよう。 作為しない。」と。 終わった。 ゴロンと無垢の本体だけが残った。 如何にも勿体無い。 此の水晶玉。如何しよう? 個個は完成する。 個の完成は、地上の完成の第一歩である。 個としては、其処迄であるからだ。 後は、其の個が他を感化する段階だ。 其の為に、取り敢えず『本質的禅学』を為す。 釈尊仏道は、つまり心の進化は、『本質的禅学』に帰するだけである。 自分一人居さえすれば、日本であれば、完全無欠の水晶玉に為れる のである。 他国では、そうは往かない。 其れ程、日本は真理を生(活)かす、真理に近い、世界に誇るべき、 世界唯一の国家である。 《 『目は開けておく』 》 真理は在れども三毒(貪・瞋・癡)は消えない。 悟れば三善(施・慈・慧)根だが、悟った人間は0,00……01人であ る。 故に、99,99……99%世の中は三毒である。 殆ど大半は無意識的虚偽、否、寧ろ意識的禽獣為らざるを得ないの である。 先ずは、是等を制すべし! 彼等に物を言わせない事が不可欠。 世の毒には『目は開けておく』。 是は、コロナウィルスに対するアルコールである。 人間をアルコール漬けする訳にはいかないが、 三毒為るウィルスを根本的に殺すには、アルコール漬け。 つまり『目は開けておく』。 不動明王の“怒”は 涅槃に於いては、“慈”と為る。 何と為れば、総て解かっているからである。 《 『本質的禅学』と日本の世界的使命 》 全一と全(=多)と一(=個)との関係は自他一如と他と自の関係で ある。 正道(=心の進化)は一(いつ)から全、つまり個から全への不可逆で ある。 全から個へとは進化しない。 人間史に於いても必ず斯く為って居る。 故に、自己究明が物事の始まりである。 人類三毒からの悟り。そして其の自他一如。 菩提心からの解脱。そして涅槃。 涅槃妙心智慧からの全。 世界人類の幸福と平和と繁栄の構築と完遂への最も基本為る 基本的物質的条件確保である。 故に男女間も究竟は自己に戻らざるを得ない。 少なくとも、坐禅に親しむ事は常識的に為されるべである。 是が時・処・位に関わらず、人類の在るべき姿である。 解脱は限定された時・処・位によりて至り得たが、 千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)によりて、万人のものと為 ったのである。 是から真理が生じて居るのであるから。 日本『鐵漢』(=『本質的禅学』)の涅槃。 「涅槃」為る「宇宙(生命)の本質」(=仏性)。 現代では一時期、「仏性」も「正法」も、「悟り」さえも使用されなく為り つつあった様だ。 「日本」が「日本」と言えない。「アメリカ」としか言えない。 言えなくても構わないでは無い。 「日本」は「日本」である。 植民地でも、アメリカ「従属国家」でもない。 独立国家なのである。 逆に、米も中も涅槃為る「宇宙(生命)の本質」(仏性)と云う世界人類 をして幸福と平和と繁栄を構築し、完遂せ使める涅槃妙心智慧の源 泉である永遠為る恒常普遍の真理に至り得た世界唯一の日本であ る。 日本無くして、世界全人類の平等為る平和は成立し得ないのである。 質と量とは異なるものでありながら、真理の両側面である。 質だけでも成立しないし、量だけでも成立しない。 質と量とは、富士山で謂えば山頂と麓である。 山頂無くんば麓無し。麓無くんば山頂無し。 宇宙の調和と均衡とは万法の、有無を織り為す刹那生滅の奇跡であ る。 是が富士山を形成している。 霊妙極まり無き働きによりて、山頂を山頂足ら使め、麓を麓足ら使め て、富士山と云う宇宙(=世界)を形成しているのである。 宇宙の花実為る人類は、身の進化(=麓)から心の進化(=山頂)へ と究竟したのである。 日本とは、斯く為る現世界に唯一為る霊峰としての国家である。 日本国民は、日本である事の尊厳と威儀とを失ってはならない。 鐵 漢 田 中 鐵 漢 aef172047@lib.bbiq.jp 4753kqry@jcom.zaq.ne.jp http://buddhatekkan.com/ 《 真理に基づく政治とは 》 政界であろうが、宗教界であろうが、 宗教(特に仏教)と政治とのジャンルを超えた人間と云う者が在る。 其の真実とは、 涅槃から政治を掌握する事である。 何故に其れが可能であるか? 其れは、真理を掌握しているからである。 真理に基づかざる政治は為らないのである。 誤魔化しでは為らない。 政治は真実に基づかなければ為らない。 故に、政界であろうが、仏界であろうが変わりは無い訳である。 《 我と宇宙 》 宇宙は我によりて 涅槃を具現され 我も宇宙によりて 涅槃を享受する 宇宙と我と何れが欠けても 涅槃存せず 我と宇宙と共に 涅槃を涅槃する 小生自身でも『新道元宗』に於いては、甚だ未だ「覚天」していないが 故に、要を得ない。 「涅槃入り」して初めて『物が解かる』のである。 其れも致し方無い。 人間と云う者は其の様なものだ。 世界が纏まらないのは其れが為である。 真理に至り得ていないが故である。 故に、『新道元宗』を直し始めたら、総て直さなければ為らない。 涅槃への一歩手前の段階の物として、其れは其れで貴重である。 《 「悟り」と「解脱」と「涅槃」と 》 「悟り」は、 「宇宙(生命)の本質」に接近した証(あか)しである。 身心脱落(道元禅師)が涅槃への礎を築いた。 然るに、接近は覚醒し往き、「解脱」への下地が出来る。 三毒(貪・瞋・癡)は三善根(施・慈・慧)に転ずる。 菩提心の仏果である。 「解脱」は、 「宇宙(生命)の本質」に触れ得た証しである。 月面着陸した刹那だ。 不可逆・不退転と為る。 釈尊(=仏道)を生んだ。 「涅槃」への最低条件である。 「涅槃」は、 釈尊中道の如き「諦観(ていかん)」で無い限り、神技であり、 衆生を忘れない大乗仏教でも至り得ず、大乗仏教中の極仏に 徹し切った処にして初めて、其の可能性が生まれる。 是を可能為ら使めるのは、偏(ひとえ)に菩提心の確かさ在る のみである。 ◎是等の大前提と為るのが『坐禅の功徳』である。 《 専門(=差別) 》 人間、専門に特化すると云う事がある。 又、其れでこそ専門と言えるのであるが、 又、其れでこそ特化であろう。 特化為ればこそ、専門である。 つまり、人間の特化である。 特化には限りがあるか? 其れは相対世界と為る。特化を極めるだ。 究竟特化為りや? 其れが真特化であり、永遠為る恒常普遍の真理である。 是が、「覚天」の「涅槃入り」だ。 特化の特化。究竟特化は「涅槃」である。 即ち、特化即普遍化であり、特化の否定である。 正に、涅槃とは宗教為る特化を卒業して、政治為る特化を普遍化し、 特化に潜む人類の三毒(貪・瞋・癡)を三善根(施・慈・慧)に転ぜ使め 、保身、安泰に留まら使めず、従来の無明に一光を投じなければ為ら ないのである。 不法を自(みずか)ら積極的に改善しなければならないのである。 其の為の一歩は、先ず受認し、二度と善良なる公僕に対する間接的 殺人を犯さないと反省しなければ為らない。 自(みずか)ら、其の位の忠実さの範を示すべきである。 釈尊般涅槃、御遺教に、 『……睡眠の因縁を以って、一生空しく過ごして所得無から使むる事 勿れ。當(まさ)に無常の火の、諸々の世間を焼く事を念じて、早く自 度を求むべし。睡眠する事勿れ。諸々の煩悩の賊、常に伺って、人を 殺す事怨家よりも甚だし。安(いずく)んぞ睡睡眠て自(みずか)ら警? (きょうご)せざる可(べ)けんや。煩悩の毒蛇、眠って汝が心(むね)に 在り。譬(たと)えば黒?(がん)の汝が室に在って眠るが如し。當(ま さ)に持戒の鉤(かぎ)を以って早く之を屏除(びょうじょ)すべし。睡蛇 既に出でなば乃(すなわ)ち安眠すべし。出でざるに而も眠るは是れ 無慚(ざん)の人也。慚恥(ざん恥)の服は諸々の荘厳に於いて最も 第一為りとす。慚は鐵鉤の如く、能く人の非法を制す。是故に比丘常 に當に慚恥すべし。暫(しばら)くも替(す)つる事勿れ。若し慚恥を離 すれば、則(すなわ)ち諸々の功徳を失す。有愧(うぎ)の人は即ち善 法在り。若し無愧の者は諸々の禽獣と相異なる事無し。』と。 頭陀行と共に、千日行の根拠とも為るべき一節である。 睡眠は忖度にも置き換え得る。 更に、世界人類の指導者達の、核武装(大量破壊兵器)による、 全人類に対する力支配と云う共通理念は、規模の大小を問わず、 力で一方的に制圧して力至上主義を貫き通すのである。 黒人差別にも其れが露呈するのである。 是等、三毒(貪・瞋・癡)による支配である。 是が三善根(施・慈・慧)による涅槃世界に転じ無い限り、世界人類の 幸福と平和と繁栄は永遠に在り得ないのである。 正に禽獣による支配に他ならない。 是が安保理の大国一致制度を生み、安保改革案に歯止めを掛けて いるのである。 此の慣行を今こそ解体して、世界人類に開かれた、平等為る物質的 基本的条件確保する、「生(活)かし合う」国連組織作りを構築しなけ ればならない。 三毒至上主義では世界を地獄に陥れるだけであると云う認識に至り 得た、激甚自然災害裡の感染症コロナウィルスパンデミックであった。 涅槃妙心智慧である、『世界人類をして生(活)かさ使め合う』、 三善根(施・慈・慧)至上主義の施政を構築し、完遂しなければ為らな い。 でなければ、専門分野の特化は三毒の温床と為り兼ねないのである。 其の事は、今に至る迄の歴史を詳細に省察すれば明らかである。 物質文明に比して、心の進化の未熟さには驚きを隠せない。 偏(ひとえ)に、唯、菩提心の特化生ぜざるが故也。 宇宙には、三毒による、実り無き特化は在り得ない。 宇宙の特化は、太陽を特化為ら使め、ジャンルも差別も無く、永遠に 一切を平等に生(活)か使めるのである。 是をして「涅槃」足り。 世界人類七十七億人に特化(=差別)は通用しない。 寧ろ、特化の犠牲者達である。 世界人類の幸福と平和と繁栄とは特化に非ず。 世界人類の物質(精神)的基本的条件確保の実際である。 特化は空虚であり、ジャンルを超えた、是を実現する涅槃妙心智慧に よる施政の構築、完遂の実際以外の涅槃は在り得ないのである。 「大涅槃人は、七変化する透明の光の如し。」 是からは、初行完了後の施政が不可欠である。 是が進化の実際である。 時間の問題である。 涅槃為るが故に。 《 智慧と云うもの 》 智慧は、天から与えられるものではない。 智慧こそ、宇宙(生命)の花実中の花実である事を確実に認識しなけ れば為らないのである。 人類が其の諸能力を通して、人類進化の延長線上為る智慧を生む 事が涅槃への正道である。 此処迄の、真理に基づき足る真実(事物)は無いのである。 涅槃妙心智慧こそ、宇宙の究竟の宝である。 是こそ、物を物足ら使め、心を心足ら使める究竟である。 智慧を生む事程、真正の労苦、骨折りは無いのである。 人世一切苦行中、の至高の産物であり、 此処に至るには、一切万難を排し、更に、其れが偽でなく、真である 事によりて初めて、天意は自らを開かし一如と為るのである。 必ず、涅槃へ至る智慧は生まれるのであり、平等に共存する可能為 る智慧は必ず存するのであって、其処迄人類は休すべきではない。 是が世界人類の幸福と平和等、更には世界人類の平等為る物質的 基本的条件完遂為る涅槃への最短路である。 是は時空を越えた真理である。 無関心為る間接的殺人は在っては為らない。 小生と宇宙との契約が、是を確証している。 《 真理(=涅槃)と常任理事国の大国一致法 》 従来の非真理下(=涅槃以前)の常任理事国大国一致法体制と、 令和新世紀の真理下(=涅槃下)の特に米中日の在り様とは 自ずから、真理に基づいて改革され往かねばならない。 従来の力主導の常任五大国指導者の、少なくも一人に真理が 浸透すれば、自(おの)ずから改革され往くのである。 さもなければ、真理を認めざる虚無主義者に他ならない。 其れは「悟り」と「解脱」と「涅槃」とをを知らざる厭世主義者に他なら ない。 人類の進化を究竟する菩提心は「宇宙(生命)の本質」の促しに人知 が呼応する事によるものである。是「感応道交」である。 本源為る本質、つまり「涅槃」に同じ、一体と為り往く(=進化する)の である。 飽く迄も、従来の三毒(貪・瞋・癡)由来の力主導体制を貫き通すと したら、其れは虚無為らぬ非条理である。 其処迄、人知が三毒によりて癡愚に為り果てる事は不可能である。 何と為れば、人類の存在自体が、そもそも既に真理に基づいている からである。 世界一の力主導の米国が、発展途上国の印度、ブラジルと同等、否 最悪の事態に陥っている事が其れを証(あか)して余り在る。 大脳新皮質は、何処までも「涅槃」へ進化するのである。 国連も従来の、真理以前の在り様から、真理以降の在り様への脱皮 が為されなければ存命し得ないのである。 国連の脱皮が必然的に不可避にして不可欠である。 世界の指導者ならば慣行の世法で、自己の保身と安泰を図るべきで はない。 其れは「宇宙(生命)の本質」に違(たが)え、其の悪業報を受ける事、 必至である。 グテーレス氏、メルケル氏に倣って、其の一歩を進めねば、人類の 将来は無い。 現激甚自然災害と現感染症パンデミックは、其の前兆に過ぎない。 真理(=涅槃)新世紀は真理に基づいて、従来の戦勝国家体制から、 世界人類は真理(=涅槃)体制への移行が必然的に不可避にして 不可欠である。 《 鐵 漢 》 古代ユーラシア(ヨーロッパとアジア)大陸で、紀元前五~六百年頃 からの五~六百年間で、釈尊、孔子、ソクラテス、イエスと四聖人が 次々に誕生したが、現代に於ける現実世界に於いては、あまり役に 立ってはいない様である。 解脱と神的人格に於いては、益する処は、人類の支えと為り得る。 しかし、永遠為る恒常普遍の真理として確証が得られるかと言えば、 確証が無い。 真実為る真理は、只管(ただ)「宇宙(生命)の本質」(仏性)在るのみ である。 令和元年九月、空前絶後に至り得た「涅槃」である。 之に至るには、釈尊以来の法系が在りて、日本の道元禅師の御偉業 の恩恵を蒙りて、原田祖岳老師と伴鐵牛老師によりて、新道元宗の 田中鐵漢が正法苦行為る延べ二十年間近くの千日行によりて奇跡 的に宇宙の真理を吾身に体現したのである。 斯く為る次第で、最後身心、涅槃人として、『本質的禅学』製本後には 『鐵漢』に取り掛かります。 是は必然性で、只管菩提心の然ら使む処である。 若し、此の地上に小生一人であるならば、終日坐禅を組んで居る。 其れが一番宜しいからである。 托鉢以外何もする必要が無いからである。 現実は衆生と共に、人三昧である。「行」で無い「人」だ。 「説く」と云う事は、太陽の如く、空気の如く、水の如し。 永遠為る恒常普遍の真理として、常に人と共に在り、一体で在るもの だ。 《 宇宙と生命 》 総ての生命は、死滅すれば、涅槃妙心智慧を生む、涅槃為る 「宇宙(生命)の本質」(仏性)に回帰する。そして再生する。 宇宙と生命とは不可分であり、 宇宙即生命、生命即宇宙。 宇宙にも、自にも、他にも不離不即にして、一体と為って居る処が、 其のものに為っている。 宇宙も無く、自も無く、他も無く、自他一如にして、自利利人の法が生 まれるのである。 此の解脱した心で宜しいのであるが、 差別は実在する。現実の人は、そう云う訳には行かない。 其処で、極仏と為らざるを得なくなる。 極仏(=後厳密千日涅槃行)が極まる。 其の極まらんと為って居る処に、宇宙が自己に体現されたのである。 思いがけずして、自(おの)ずから、其処に真理を得るに至り得たので ある。 是が「覚天」であり、極仏為る「行」此処に究竟したのである。 是が「涅槃入り」した涅槃である。 斯くして、釈尊の延長線上は政治と云う現実に至るのである。 つまり、政治の中核に正法苦行を据える。 政治は其処からして、スタートするのである。 僅か三年余りの準備段階を経て、世界平和が実現するのである。 「急がば回れ」。是位の新幹線は無いのである。 世の中に、如何なる「近道」も失策に過ぎないが、唯一此の「最短路」 が実在するのである。 此の、涅槃妙心の智慧によりて世界人類の幸福と平和と繁栄に至る 為の基本である、世界人類の平等為る物質的、精神的基本的条件 確保すべく、世界政治を構築し直し、是を先ず完遂しなければ為らな い。 《 人類の宇宙への回帰 》 如何に小生が存在しようとも、其れで宇宙を制圧し得ると云う事には 為らない。 何と為れば、小生は宇宙より生み出されたる存在であるからだ。 「宇宙(生命)の本質」に違(たが)えば、其の悪業報を受ける事は 必至である。 宇宙(生命)の涅槃への進化には、微塵の狂いも生じないからである。 人類は是迄、過去に於いて、其の一線を超えてしまって居るのである。 人類に対して、そして自然に対して。 其れ等の悪業報は、宇宙の悪業ではない。 宇宙(生命)は涅槃への進化に他ならない。 人類からすれば宇宙への回帰、つまり人類が退歩と云う、真の進化 を遂げる以外には無いのである。 《 涅槃人の国際連合 》 小生は、究極の真理(=真解)に至った「大涅槃人」である。 我々人類は、斯くして、総て「涅槃人」足り得るのである。 涅槃人とは「自己を生(活)かす」前に、「人を生(活)かす」。 『世界人類をして生(活)かさ使め合う』世界を構築し、完遂せ使め るのである。 令和新世紀に、大涅槃人によりて、最早、真理(真解)を究竟する 段階は過去のものと為り、釈尊中道によりて「正法」が生まれたと 同様、鐵漢真中道によりて「真正法」が生まれたのである。 今や、真理為る真正法を現実世界に、時空を越えて具現する一路門 と為った。 真理(真解)は暗闇裡に微妙に七変化(へんげ)する光の如く、従来の 三毒由来の保身と安泰と云う暗闇中に一光を投じ、無明を砕破する 真理を開示するのである。 此の霊妙極まり無き、真の特化によりて、国連の現体制を強化、改善 し、世界人類の幸福と平和と繁栄の基礎足る、世界人類の平等為る 物質的、精神的基本的条件確保を完遂しなければならない。 鐵漢は、既に永遠為る恒常普遍の真理と為ったのである。 是は釈尊中道同様、鐵漢真中道であり、追体験すべきものでなく、 既に現実世界に如実に具現しなければ為らないのである。 真正法こそ、真仏法であり、是こそ真世法なのである。 然るべきものである故、確信し得れば、是を世界に施政しなければ為 らないのである。 正法苦行を超えて、政界で世界を牽引しなければ為らない。 原田祖岳老師と同じく、捨て子として、寺に捨てられた吾師、伴鐵牛 老師は、若き頃、奨学金の支援者在りて、僧侶でありながら、東大に 入って宗教大臣に為って改革しようと受験勉強しておられたが、支援 者が亡くなられ、断念せざるを得なくなったらしい。 道と云うものは、世法の外に在るものでなく、至り得れば現実を生(活 )かす、つまり、然るべき政治家と為る事こそ、道が生(活)きるのであ る。 「生(活)きる」とは、そう云う事で、其れ以外無いと判る事によりて、 政治家としての菩提心が無窮に、世界人類の幸福と平和と繁栄の 構築と完遂を可能為ら使めるのである。 菩提心は仏道のみの専売特許でなく、世界人類の為の、世界人類を 生(活)かす原動力である。 《 新国際連合発案 》 若し、力万能為らば、米国が地獄に陥る筈が無い訳である。 故に金や覇権でなく、心(=真正法)であり、新国際連合の中核に 日本を据えるべきである。 そして、心の進化の原点足る、釈尊を生んだ伝統がそうであった様に 、米中が日本の心(=真正法)に基づいて機能するのである。 真正法に基づきたる菩提心を核として、仏道の延長線上為る 新世法に基づいて、世界人類の幸福と平和と繁栄を構築し、完遂す るのである。 此処に、真の政教一致が、神の下でない、真理の下に、史上初めて 確立するのである。 諦めて成功したのは釈尊一人だ。 故に、米国と中国の対立の今だ。 皆、真理(涅槃)を知らざるが故に。 《 人類と大涅槃人 》 最後身心大涅槃人とは、究極の涅槃と云う真理に至り得て、人類を 幸福、平和と繁栄に導く人間である。 人間が菩提心によりて、坐禅すれば功徳生じて、人間の三毒志向が 三善根の其れへと成長する。 そして、自(おの)ずから「悟れ」ば、三毒は三善根に転じ、やがては 解脱行(=千日初行)に移行する。 解脱に不可欠為るものが三時間坐睡である。 人間の価値を本質的に決定付けるものが、此の千日行(三時間坐睡 二十四時間仏作仏行)であり、是によりて「解脱人」足り得るのである。 「解脱」は時間の問題だ。 更に、「覚天」によりて「涅槃入り」すれば「解脱」は打ち消されるのか と言えば、「解脱」を長長出為ら使むるのである。 人類の、向上一路為る心の進化と云うものは達磨方式であって、 岩登りに譬えて、一歩一歩の上昇の蓄積に他ならない。 前の一歩に支えられて、次の一歩が在り得るのである。 「涅槃入り」した「覚天」の「行」から「人」への転移に於いて、本質的に は、両者共に「人を生(活)かす」のであるが、前者は極論すれば、 威儀とも為り兼ねないし、又極仏(為る解脱裡の涅槃)とも為る。 是等は「宇宙(生命)の本質」の「涅槃」への進化の必然性なのである。 「涅槃」とは本質に基づいた多様性の実際である。 故に「涅槃」に於いては本質的に政教一致である。 宗教家が政治家に為っても、其処には只管、必然性在るのみであり、 菩提心に基づいた涅槃妙心智慧が機能するのである。 解脱の段階では、未だ「涅槃入り」以前であり、政治智慧には徹し得 ないのである。 如何なる道も、其の道に真に徹し得てこそのものであって、 其処にこそ、究竟道(=超新道)が開かれるのである。 其れは、身の進化の究極為る大脳新皮質と云う宇宙の花が、受粉し て果実を生み出すが如く、仏道為る心の進化を経て、本質に回帰し た心、「涅槃人」を生むのである。 解脱の段階では、政教一致とは為り得ないのは不可避である。 「涅槃入り」して「宇宙(生命)の本質」其のものと為り得てこそ、政教 一致足るのである。 人間、伝える智慧と云うものは、伝えようとしなければ、自(おの)ず から流れ出て来るものではない。 敢えて、努めて伝えようとしなければ智慧も生じ得ないのである。 敢えて、努めて、世界人類に幸福と平和と繁栄を齎す為の智慧を生 まなければならないのである。 機械的な作法の時間でなく、積極的、能動的に、何も無い処に、 敢えて智慧を生み往く時間である。 福聚(寿)海無量。無限に、智慧による、超政教為る新道新世界は 生み出されるのである。 達者の嗜(たしなみ) 八時 朝課(食) ネット等 十一時 托鉢 就寝 ※ 可・不可でなく、「人を生(活)かす」 正念相続の不可欠の○○○○である。 《 人類の本質 》 人間が生きると云う事は、基本的に坐禅を根底に据えた、 規則正しい生活である。 是が序論であり、結論は真理である。 本論は、「人を生(活)かす」。 後、為すべきは、本論に徹するだけである。是、「涅槃人」に等しい。 真理に貫かれた、菩提心による「涅槃」への進化一路門である。 「涅槃」とは「宇宙(生命)の本質」(仏性)の事で、 坐禅により「悟り」、行により「解脱」し、機械的でなく、「人を生(活)か す」、霊妙極まり無き規則性の「涅槃」(=究極の真理)に同ずる。 此の規則性は、宇宙の、人智の及び得ない、限り無き規則性であり、 斯るが故に学問に終わりは無いのであって、是によりて、宇宙の調和 と均衡が成立しているのであるが、是に基づく人類の二十四時間で ある。 故に機械的でない、必然的に霊妙極まり無き規則性が在るのである。 涅槃に於いては、坐禅は政治等の現実、つまり差別界に他ならない のである。迦葉(「頭陀第一」)為らぬ文殊(「智慧第一」)である。 嘗て僧侶であった。僧侶ではあるが、内容は現実である。 生まれ変われれば政治家に他ならない。 空前絶後の涅槃政治家であろう。 「涅槃入り」したが故に必然不可欠不可避である。 外道(=人間の諸能力)は、迷路為る地獄への未知為る世界。 仏道は、宇宙を把握し足る、涅槃への既知為る世界。 人間の知・情・意は、三毒(貪・瞋・癡)に陥るべきではない。 偏(ひとえ)に、菩提心に基づくべきである。 人類の諸能力の迷路に入り込むべきではない。 人間の従来の常識に酔って、「地獄入り」すべきではない。 人類の覚醒とは、解脱からの「涅槃入り」である。 人類の是迄の如何なる業績も「涅槃入り」には遠く及ばないのである。 人類の諸能力の多様性によりて、人生を豊かにするのは構わないが、 三毒(貪・瞋・癡)とは為るべきでない。 飽く迄も三善根(施・慈・慧)でなければ為らない。 「地獄入り」の知恵と、「涅槃入り」の智慧とは本質的に異なるもので ある。 知恵は何処迄行っても、永遠に迷路であり、智慧は涅槃妙心智慧に よる世界人類の幸福と平和の構築と完遂への基礎為る、世界人類の 物質的、精神的基本的条件確保の構築と完遂への一路門である。 永遠為る恒常普遍の真理として、吾師の心が小生を現成為ら使 めた如く、小生鐵漢の心は其の儘、永遠に涅槃現成為ら使める のである。不昧因果。 《 鐵漢と世界 》 要は、立脚点を世界人類に置くか、自己の保身、安泰に置くかである 。 前者ならば、世界は必ず好転する。 後者ならば、世界が悪化する事は不可避である。 他は在り得ない。 今こそ、真の退歩の進化を実践すべき時であり、 人類の知恵でなき、宇宙の真理に基づく智慧に則(のっと)らねば為ら ない。 《 菩提心とは 》 菩提心とは、「宇宙(生命)の本質」(仏性)の促しに触発されて、 五千年程前、古代インダス文明の農耕生活に瞑想が生まれ、そして 部落が社会構造化するにつれて、人類に本有する三毒(貪・瞋・癡) や生老病死の四苦由来の無常観から発生(はっしょう)する愁苦に 起因する菩提心によりてヨーガ(行)を生んだ。 道元禅師の『学道用心集』の(第一、菩提心を発(おこ)すべき事)に、 「所謂(いわゆる)、菩提心とは、前来云う所の無常を観ずるの心、 便(すなわ)ち是、其の一也。全く狂者の指さす所に非ず。」とある。 現代の令和新世紀に、小生鐵漢が空前絶後に「覚天」して、「宇宙(生 命)の本質」(仏性)に「涅槃入り」する事により、初めて「人を生(活) かす」処の、「行」ずる正念相続から「人を思う」正念相続、「自」から「 人」へ転了した真の菩提心に心は究竟進化したのである。 是は、「宇宙(生命)の本質」(仏性)の涅槃へ進化する原動力である。 存在の、進化と云う時間性が、人類に於いて、菩提心として機能する に至ったのである。 《 真理に基づく平和の構築と完遂 》 真理は、総て、大脳新皮質の言語中枢によりて言語化されるもので ある。 真理を学問的に究めれば、究める程に不可思議、不明と為るが、 体験上、至り得た真理は総て言語化される。 「悟り」であり、「解脱」であり、「覚天」であり、「宇宙(生命)の本質」( 仏性)為る「涅槃」であり、究極の唯一無二の真理は、唯「涅槃」在る のみである。 何と為れば、是こそ、「宇宙(生命)の本質」其のものであり、我々人類 を生み出した母体であり、人類の原初為る生命から、我々人類をして 母体其のものである、究竟涅槃に迄進化せ使めたのであるからだ。 種の永続は、人間に限らず、如何なる生命も為す処のものであるが、 真理を語る事は、只「大涅槃人」だけが為し得るのである。 身から心へ進化。 大脳新皮質の運動野、感覚野から、其れ等を支配する中枢、つまり 心が身を支配する中枢であり、身を超えた心が坐禅によりて、万法に 証せられて、自他一如を「悟り」、自己を超えた他の命に一如足り、是 は「宇宙(生命)の本質」(仏性)に接近した事を云う、更に「解脱」によ りて本質に触れ、自己を超えた万法、人類を超えた、其の母体為る 宇宙と一(いつ)為る生命、「我と天地と同根」為る釈尊成道(解脱)で ある。 更に、「覚天」により、心の進化の究極為る、「人を生(活)かす」涅槃 妙心智慧によりて、究竟涅槃し、宗教の枠を超えて、政治の施政によ る、世界人類の幸福と平和と繁栄の構築と完遂の段階に入るのであ る。 今日我々は、従来の物の筆頭、米国、そして其の列国の悪業報裡の 真っ只中に在る訳であるが、其れ等の象徴的なる米中の不可避なる 対立である。 是を根本的に解消しようとするならば、我々人類の根源に立ち返るの でなければ、永遠に為し得ないのである。 根源に本有する人間の三毒(貪・瞋・癡)が齎(もたら)した不可避なる 対立である。 是等地獄の因は「悟り」、「解脱」し、「涅槃入り」すれば生じ得ない果 である。真理為る「涅槃」世界では。 故に、垂範以って、涅槃妙心智慧を世界人類に提示しなければ為ら ないのである。 物の筆頭米国が、「涅槃人」足らんとする中国、更には同じく、熱心な るイスラム信仰者足らんとする中東と共に折り合いを付け、妥結させ 、合意を得なければ為らない。 今時の全人類が共に瀕死の危機に在りながら、只、残された有効なる 最善の智慧は団結力在るのみである。 是、「宇宙(生命)の本質」に違(たが)わざる、同ずると云う最善の 結果を齎(もたら)す最善策である。 今こそ、米、中、中東が、真理為る心一つに、真道への第一歩を踏み 出さねば為らないのである。 真理に基づき足る真道を、共に歩まんとする、其の信頼と団結を、 真理の体現者鐵漢を生ま使めた日本と共に、新たに築き、 世界人類の、普遍的、恒常的、幸福と平和と繁栄を構築し、完遂しな ければならないのである。 《 究竟仏道 》 佛祖正傳菩薩大戒血脈 (The Bloodline of the Buddha’s and Ancestors’ Transmission of The Great Bodhisattva Precepts) ―……→鐵牛祖印→田中鐵漢 田中鐵漢→釈迦牟尼佛―……→| ―……→大雲祖岳→田中鐵漢 と在る。 此処に於いて、三千五百年程前のバラモンの伝統以来、釈尊成道に よりて誕生した仏道が、五百万年前の人類の誕生以来、此の僅(わ ず)か三千五百年間に真理を了得したのである。 後は只管、涅槃妙心智慧によりて世界人類の普遍的、恒常的、幸福 と平和と繁栄を構築し、完遂するのみである。 《 山頂の意義 と 麓の意義 》 本具仏性。 仏性とは超解脱為る「涅槃」、つまり「宇宙(生命)の本質」の事である。 人類が「宇宙(生命)の本質」を称して「涅槃」と為す。 如何なる命も、一人残らず生まれながらに本具仏性(涅槃)なのであ る。 一旦授かりし命は、如何なる命も、心掛け次第で、本来自(おの)ずか ら開かれるべき宝蔵なのである。 本来、授かりし命は、命在る限りは、如何なる命も可能な限り生き続 ける事が宇宙への報恩である。 生きるとは、生きて「為すべき事」とは、本質的に命在る限り「生き続 ける事」である。 山頂の「人を生(活)かす」と、麓の「在り(生き)続ける」とは本質的に 一(いつ)であり、「人を生(活)かす」母体は「在り(生き)続ける事」で ある。 此処に、宇宙への報恩に、生命自体が輝くのである。 麓は麓を超えて、山頂を知る為に在り、 山頂は山頂を超えて、麓を知る為に在る。 授かりし命を、可能な限り「在り(生き)続ける」事。 是が「悟り」以前の生命の真価である。 生命の価値を言い得るのは、唯、「大涅槃人」一人である。 生命在りて、「悟り」、「解脱」在り、「解脱」在りて初めて「涅槃」在る。 「宇宙(生命)の本質」在りて生命在り、「涅槃」在る。 「宇宙(生命)の本質」が小生をして、「覚天」為さ使めたのである。 「覚天」し「涅槃入り」し、「宇宙(生命)の本質」其のものと為りて初めて 「涅槃」と言い得るのである。 「解脱」と「涅槃」とは別次元である。 「解脱」迄では、未だ生命其のものを表現してはいない。 「涅槃」にして始めて、本来の生命足り得るのである。 優生学志向等、及び現代の自然破壊の、一切の生命に対する癡愚と 無知による生命の軽視は即刻抹殺すべきである。 是等は人類の三毒(貪・瞋・癡)の最たるものであり、負の世界遺産 をも脅かすものと為り兼ねないのが実状である。 如何為る生命も、疎(おろそ)かにしてはならない。 世界人類の平等為る物質的、精神的基本的条件確保が不可避なる 厳然たる真実である。 真理(実)を語り継ぐ事程、重要な事は無い。 宇宙より、自己為るものに授かった命への恩に報いる事に帰する。 可能な限り、生(活)きる事である。 蝉の声を久し振りに聞いて思った。 死んだら、此の涅槃の世界に回帰するのかと思ったら、 ホッとする様な、幸福(しあわせ)な気持ちに為った。 《 地上非核化と自然環境復元 》 地上非核化と自然環境復元の両重大課題の本質は一(いつ)である。 一方は出来るが、他方は出来ないと云ったものではない。 一方が出来るのであれば、他方も同様である。 要は真剣さの問題である。 政治家の使命として、世界七十七億の人間生命の物質(精神)的基 本的条件を確保すると云う立場に立たなければ為らない。 国威発揚、国益重視の国家単位の施政では百%、上述の目的を達 せられないのは周知の事実であり、又主要国家のみの施政でも同様 である。 其れ等は、世界人類のメジャー為る国民の為のもので、マイナー為る 国民にとっては、犠牲を強いられるのである。 其れを不可避であるとする施政だ。 メジャー為る国民の為の施政でなく、メジャー為る国民の繁栄を犠牲 にしてでも、マイナー為る国民を生(活)かして往くと云う施政が為され なければならない。 世界の主流は、そうではない。 票を得る為の政権確保、維持の為が、マイナー為る国民への物質( 精神)的基本的条件確保迄の配慮と為らなければならない。 正法苦行為る千日行(初厳密千日解脱行と後厳密千日涅槃行)によ りて、「宇宙(生命)の本質」に至り得て、涅槃と云う本質の真理を了得 し、真の最大限為る世界人類の物質(精神)的基本的条件確保が可 能と為るのである。 宗教界のみならず、政界の千日行が為されなければ為らないが故に、 国際連合に、然るべき、其の中枢を設置しなければならないのである。 其の試金石足るべき、地上非核化条約締結である。 メジャー為る国家は保有し、マイナー為る国家には一方的に非核化を 強制するのは不条理だ。 地上非核化を強制するのであるならば、自(みずか)ら非核化すべき である。 そうして初めて、「人を生(活)かす」涅槃妙心智慧の施政が為される のである。 此処を誤魔化して、マイナー為る国家に犠牲を強いてはならない。 主要国家群の保身の時代は、もう過ぎ去ったのである。 主要国家群に於ける「退歩の真の進化」を遂げねばならない。 政治も宗教同様、此の菩提心が不可欠である。 菩提心は仏道のみの専売特許ではないのである。 自然環境復元の大前提足る地上非核化である。 此の覚悟無くして、自然環境復元は不可能である。 斯く為る試金石足る、正に世界の指導者達が、真の通過(人生)儀礼 、誤魔化し様の無い踏み絵、を、世界人類の物質(精神)的基本的条 件確保の為には、体験しなければ為らないのである。 人生を生殖レベルに貶(おとし)めるのが世間の癡と云うものであり、 最低限、、是無くして、金とセックスへの貪を解消し得無くして、現、自 然環境復元問題と感染症パンデミック対応問題の解決も在り得ない。 其の為には、解脱が不可欠であり、是を徹底せ使めるには、「涅槃」 無くしては、為し得ないのである。 生命を制すのは、原爆投下でなく、「涅槃」である。 総ての、現三重大課題は、個々の対処療法では、何れも解決し得な いのであって、総ての課題に底流している、人類三毒(貪・瞋・癡)に 気付かない限り、其れ等への根本的解決は不可能である。 其れ等の根本的解決為る、「宇宙(生命)の本質」為る「涅槃」を了得 した「大涅槃人」の真解に基づかない限り、何れも真の対応は為し得 ないのである。 何と為れば、総ては是等、人類の三毒(貪・瞋・癡)の最終産物に他な らないからだ。 世界人類が個人レベルで、自己の三毒(貪・瞋・癡)を覚(さと)り、 「宇宙(生命)の本質」(仏性)を信じ、其処からの自制にして初めて、 三大課題は自(おの)ずから解消するのである。 《 智慧について 》 「覚天」の前後で、智慧の性質が異なる。 前は、「解脱」に基づいた処の、仏道を極めて、人を度す為の、(聞思 と行の)智慧であったが、 後は、「涅槃」に基づいた処の、世道(=仏道以外)を究めて、「人を生 (活)かす」為の、世界人類の物質(精神)的基本的条件確保の為の 智慧である。 従来の仏道には「覚天」が無い為、真の涅槃妙心智慧は無い。 故に、令和新世紀以降の仏道の往き着く処は、施政によりて、世界人 類の恒常普遍為る幸福と平和と繁栄を構築し、完遂する為の基本為 る、世界人類の物質(精神)的基本的条件確保の方策を涅槃妙心智 慧に基づいて構築し、完遂する事である。 人類の諸道は、総て此の「涅槃妙心智慧」への一道に通じるのであ る。 《 真理への道 》 医学其のものは、小生の心を裏切るものでしかなかった。 それから、小生の心に適(かな)うものを、純粋に選択したのだ。 一切何も見出せなかった。 しかし、敢えて一つ言えば、宗教心であった。 小生、信仰心一つ無かったのであるが、 それでも一つ言うとすれば、唯、漠然とした、其れ以外、見出せなかっ たのである。 是だ、と云うものが何一つ無い。 人間の心と云うものは、本来、そう云うものなのかもしれない。 農耕裡に瞑想を生んだ古代人の心である。 斯(か)るが故に、生きる価値を、寧ろ何も無いからこそ、古代人が ヨーガ行を生んだ様に、其処に坐禅を見出し、坐禅行に入り、 師の恩を蒙りて、真理を見出せたのである。 何か、其処に一つでも在れば、為し得なかったと思う。 何も無い、と云う事が真理への原動力と為るのだ。 そして、古希にして、「大涅槃人」と為りて、 何も無い小生を生(活)かして居る人の恩を思わずには居られないの である。 正に、真理を支えているのは、人の恩である。 そう云う廻(めぐ)り合わせになって居るのも、 真理への、先人達の心が、然ら使めて居るのである。 師の恩によりて、辿(たど)り着いた宇宙の恩、そして是を支えている 人の恩である。 只、只、恩に支えられて生きている自己。 真理への偶発性は、真理に至り得た今の自己を在ら使めた処の、 「宇宙(生命)の本質」由来の、未真理の有する力に依るものである。 是は、「真理への直観力」である。 菩提心為るものは、是に他ならない。 未真理為るが故の菩提心である。 (菩提心に二つ在り。 一つは、極仏道の菩提心。是は行智慧により、他の一つは、 極世道の菩提心。是は涅槃妙心智慧によるものである。) 釈尊を生んだバラモンの伝統、そして釈尊の中道に基づく成道も、 此の未真理為るが故の菩提心であったのだ。 「真理への直観力」である。 真理とは自己のみで完結するものではない。 自己と、自己以外の宇宙の働き在りて初めて、真理現成(げんじょう) し、「涅槃入り」するのである。 真の自他一如(=哲学的にバラモン教の梵我一如。)、 自己と宇宙が一如為る世界を知るのである。是をして「涅槃」と称す。 是は、「宇宙(生命)の本質」の人類をして然ら使めて居るものである。 地球と共に回り続けている独楽の如く、是が真理、涅槃を在ら使めて 居るのである。 涅槃とは、報恩の生で、宇宙の調和と均衡の如き静寂である。 宇宙に生命の究竟を生み出している調和と均衡によりて至り得た 静寂こそが涅槃であり、是によりて涅槃妙心智慧が無量に生み出さ れるのである。 福聚(寿)海無量。 此の静寂が無為無量の功徳、仏力を包蔵している。 人類の母体は涅槃と云う静寂為る真理である。 性欲が生むものは、人間と云う個体を生むだ けである。 其れ以外、何も生まない。 嘗ては恐竜世界を、今日、人類が支配して居 る様に、 今日の三毒(貪・瞋・癡)人類世界を、 令和新世紀以降、涅槃妙心智慧世界が 支配しなければ為らない。 今後の人類の、正に此の三善根(施・慈・慧) の労苦を完遂する時である。 政治が人類を制するのではない。 人類が政治を制し往かねばならない。 人類の保身と安泰が政治の保身と安泰を 日常化している。 世界規模で根本的に覚醒しなければ為らない 。 《 心が最も進化した一年 》 小生、生涯を通して、古希に「覚天」して「涅槃入り」してからの一年間 程、進化した時間は無かった。 「涅槃入り」したのは小生一人であり、初めて真実に、人類に「涅槃」 が説けたからである。 人類唯一の真理、真実である、(バラモン教の伝統が結実した)釈尊 の成道(=悟り、解脱)、そして人間生命の本質為る涅槃妙心(仏性) へ至る仏教の核心足る「悟り」と「解脱」、そして「涅槃」について改め て精察してみる。 是等三者の体験は、総て異質なものであり、人間道では言語道断、 人類三毒の繋縛(けばく)から完全に解放され往く、涅槃宇宙への体 験である。 先ず、「悟り」は坐禅が齎(もたら)す必然性であり、 道元禅師は『正法眼蔵』の初めに、此処を「現成公案」で、 「仏道を習うと云うは自己を習う也。 自己を習うと云うは自己を忘れ る也。 自己を忘れると云うは万法に証せられる也。 万法に証せられ ると云うは自己の身心、及び他己の身心をして脱落せ使むる也。」と 御自身の「身心脱落」(=悟り体験)を記されている。 師の如浄禅師から、是によりて、帰朝し、布教せよと諭されて、師に は聊(いささ)か納得の往かざる処が残った様である。 未だ「解脱」に至らざるが故に。 小生も坐禅を始めて数年後位に自室で身心脱落したが、全く、驚嘆 と歓喜(よろこび)であった。 しかし是は、「宇宙(生命)の本質」(仏性)に接近し得たに過ぎない。 然るに、『参禅は身心脱落也。』と、世尊の大法の比肩する者無き、 仏法の總府(ほんけほんもと)足る師の如浄禅師が、是をして道元 禅師の大事了畢(しつ)を認めら、帰朝を薦(すす)められたのである。 小生、医学部学生でありながら、宗教の道を選択したからと言って、 坐禅や「悟り」を意識した事も無かったし、神を信じた訳でも無いので あるが、只、漠然と宗教以外には在り得なかったのである。 図書館で何れの道にするかと読み漁(あさっ)ていたら、偶然に釈尊 の坐禅の小冊子が目に留まり、自室に持ち帰って、興味半分に組ん でみた。 此の瞬間に「コレだっ!」と。小生二十六歳位だったと思う。 其れ以来の、古希の「覚天」迄の一念であった。 つまり、真理(=宗教心)と云うものは、そう云うもので、菩提心により て、「涅槃」と云う、究極為る真理へと進化し往くものである。 必然性 ←|⇒ 偶発性 菩提心|⇒ (能動性、積極性) 小 ――――――→ 大 ⇒| 瞑想→ 坐禅 → 「悟り」 → 「解脱」 → 「涅槃」 ↑ ↑ (驚嘆と歓喜) (其の儘で完了) 「人を生(活)かす」 | | 「宇宙(生命)の 「〃」への接近 「〃」に接触 「〃」其の者と為る 本質」からの促し 上求菩提主 上求=下化 下化衆生在るのみ ※ 偶発性の根拠は、只管、菩提心在るのみ。 此処で、釈尊の成道について考察してみる。 釈尊の成道は「悟り」か「解脱」か? つまり、「宇宙(生命)の本質」(仏性)を知り得たか、否か? と云う事である。 釈尊成道後、釈尊は五十日間程、前半は(恐らくは文殊菩薩以外は) 人類史上初めて悟られて、其の歓喜(よろこび)に浸っておられた。 後半は、其の初めての御体験を人に語り継ぐべきか、否かで思案さ れ、一旦思い止まられたのであるが、心中、梵天による「語り伝える べき」と云う勧請によりて、心機一転、三百キロメートルの街道を十日 間掛けて、嘗ての苦行者同胞に、「悟り」と云う初体験の『驚嘆と歓喜 (よろこび)』を語り伝える為に、会いに出向かれたのである。 「解脱」ならば、「宇宙(生命)の本質」に触れて、自己は本来、無為自 然にして、既に、一切を本具して居るのだと云う『確信』に触れ、 『本具仏性』を覚る。 此の『確信』を得たのであったならば、他の苦行者同胞達に対して、 黙するという判断に至る筈が無いのである。 『驚嘆と歓喜(よろこび)』と『確信』によりて、飽く迄も布教する筈であ る。 斯う云う次第で、釈尊成道は「悟り」であると共に、自己の内より、そし て御生涯を捧げて「解脱」された御体験であった。 元来、「悟り(身心脱落)」の「宇宙(生命)の本質」に接近した位では、 未だ「宇宙(生命)の本質」に至り得ていないが故に、布教するだけの 確足る根拠とは為り難い。 「宇宙(生命)の本質」に至り得て初めて、つまり「解脱」して初めて、 「宇宙(生命)の本質」(仏性)に基づいた『確信』によりて、布教が出 来るのである。 其の為には千日行(初行)が不可欠である。 宗教者としては、是で宜しいのであるが、 世界は「心の救い」だけでは解決が着かない。 既に世界は人類の三毒(貪・瞋・癡)によりて致命的に汚染されている のである。「心の救い」だけで、世界人類の幸福と平和に如何程の効 力を発揮し得るのかを考慮すれば明らかであり、其れだけで解決が着 くものでもない。 世の中は、其れ程、単純でもなければ、甘くも無いのである。 つまり、初行だけでは、是れ迄の人類の極悪業に報いるだけの極善 業には未だ至り得てなかったのは当然であり、又「解脱」の時節到来し て、『本具仏性』の『確信』を得ても猶、地上の地獄の三毒害を改善す るのは至難事である事も言うに及ばず。 故に、更に根源的善業、つまり千日後行が不可欠であったのだ。 斯く為る次第で、心の進化に於いて、「瞑想」から千日後行(=生涯後 厳密千日涅槃行)迄は、其の必然性に因るものであった。 然るに、「涅槃入り」する「覚天」の必然性は無いのである。 「覚天」するには最低条件、先ず真に生涯後厳密千日涅槃行に徹し 切って、生涯、下化衆生を忘れない事。 是が最低限不可欠なる必須要件である。 「覚天」は正に奇跡である。 吾と宇宙の二元論が、刹那に一(いつ)に為れるのは「解脱」の様な 必然性でなく、偶発事、つまり「覚天」による「涅槃入り」以外には在り 得ないのである。 動物本能は、人類に於いて、大脳新皮質と欲とに進(分)化し、前 者は後者と連係して、生命を繁栄させ、其の副産物として悪の根源足 る三毒(貪・瞋・癡)を生み、是に対応すべく、心の進化の原動力為る 菩提心を生んだのである。 心の進化とは、三毒を転了して三善根(施・慈・慧)に、更に本質其の ものに迄、刹那生滅の原理と因果の道理に基づいて本質化され往く 変遷であり、其の最終的為る刹那が「覚天」である。 世界には本質と本質為らざるものが在るだけで、 只管、菩提心三昧である。 此処に、吾と宇宙との別は無い。 此の個と全とが一如為る世界を「涅槃」と言う。 個が身を以って、刹那に、全足る天意を覚(さと)るを「覚天」と言う。 此の刹那に至るには、総てが真でなければ為らない。 此の偶発性の根拠は、此の偶発性に至る迄の只管菩提心在るのみ である。 そして、此の菩提心を確証するものが因果の道理であり不昧因果に 他ならない。 不昧因果に代わる必然性は無い。 只管、偏(ひとえ)に何処迄も菩提心在るのみ。 『因果の道理、歴然として私無し。造悪の者は堕ち、修善の者は陞( のぼ)る、毫釐(ごうり)も違(たが)わざる也。』 因果の道理によりて証明されたのが「涅槃」と云う「宇宙(生命)の本 質」(仏性)である。 吾師伴鐵牛老師の恩を蒙(こうむ)り足る小生とバラモン伝統との 必然性は、唯一、摩訶迦葉尊者と釈尊の頭陀行の威儀としての 但坐不臥(常坐)である。 後行に於いては、其の必然性は皆無であるが故に、小生の古希の 「覚天」の刹那は、果たして空前絶後であり、是によりて、「覚天」から の今に至る、此の略(ほぼ)一年間は人類(精神)史に画期的為る、 時代の変わり目足る時期(エポック)として、小生にとっても、最も心の 進化した此の一年であった訳である。 小生もそうであるが、智慧は絞れば絞る程に、従来の種々なる弊害 を打破する、新たなる可能性が生み出され往くのである。 此の労苦こそが我々人類の将来を構築し、完遂せ使めるのである。 決して此の労苦をこそ惜しんでは為らないのである。 人類は未だ是を為しては居ない。 今こそ、本気で、真剣に、積極的、能動的に不退転で是に取り掛から ねばならない喫緊の責務を、令和新世紀以降の世界人類の為に、我 々は負っているのである。 《 人 を 思 う 》 淫快(金欲)と世界平和とを「人を思う」と云う言葉で同一視する。 前者の「思う」は「淫快(金欲)を満たす」の意であり、 後者の「思う」は「自己を捨てる」の意である。 同じ「人を思う」でも、禽獣(=畜生)(餓鬼)と仏の開きが在る。 此の混沌裡に在るのが、所謂(いわゆる)世間であり、世界の実態で ある。 是を正し得る人物は、政治家には居ない。 宇宙の真理、「解脱」、「涅槃」を知らざれば、正し得ないのである。 地上非核化、(対激甚自然災害改善の)自然復元、人種差別撤廃等、 是等総て、混沌と真理を見究め切れず、 宇宙の真理為る「正法」と「涅槃」への信が及ばず、時流を変える力 に迄は及び得ないと云う事に因るのである。 世界人類が混沌に陥らない為の唯一の方法は、「大涅槃人」による 真理の開示を信じ、此れに基づいて世界構築し、完遂する事である。 此の混沌状態の根本原因は、永遠為る恒常普遍の真理に基づかず して、二元相対の自己(国)至上主義に基づき、地上の世界人類を生 (活)かして居る万法(=物心一切)に違(たが)える分裂(離)施政が 日常化している為に、今と云う不幸と闘争と飢餓が混在した、最も 混沌足る悪夢の世界を露呈して居るのである。 総ては虚偽で、真実を打ち出せない。 真実は誤魔化すしかない。 其の実体は、我欲に基づく癡愚である。 三毒(貪・瞋・癡)の最終段階である。 我欲に翻弄され、支配されて真の自己を見出し得ない。 真の自己を知らざる儘に、死に行かざるを得ない人々である。 是位の地獄と悪道と悲惨さは無いのである。 混沌が混沌を生み、地獄一路門である。 日本の近代詩人は、ヒトラーが首相に就任した頃、 「汚れちまった悲しみは 倦怠(けだい)の裡(うち)に死を夢む」と詠っ た。 二次大戦前の世界の風潮を反映して余り在る。 此の一路門に対して、是迄の人類の闇路に闇路を踏み添える悪循環 を断たねばならない。 人類は過去の体験の雪達磨である。 然るに、此の雪達磨には二つ在る。 一つは、是迄の煩悩の繋縛(けばく)の雪達磨である。 他の一つは、令和新世紀以降の、自由、開放への雪達磨である。 従来の地獄への雪達磨でなく、 自今已後の「涅槃」への雪達磨に転ずるのが、 人類の涅槃妙心智慧によるものである。 闇路の雪達磨に終止符を打ち、 菩提心による雪達磨と為らねばならない。 徹する処にこそ、真理を具現するのである。 中途半端では迷路に過ぎない。 偽が偽を生んで、「倦怠(けだい)の裡に死を夢む」以前に、 真理に基づいて、敢えて徹する事。 真が真を現成(げんじょう)し往かねばならないのである。 今や、世界は地獄に陥っている。 此の時に及んで、最高指導者達は宇宙戦を夢見てみせる程の癡愚さ である。 国民が起たねば、起つ者は居ない。 国民が政治を導くと云うのが真である。 其れだけの菩提心以外には無い。 根源知らざれば地獄在るのみである。 只管、根源の真理に基づくのみである。 宇宙に只、「大涅槃人」独り在るのみ。 真理を知り足る者には適(かな)わないのである。 オバマ氏に何も出来なかった筈である。 「涅槃」無きが故に。 自今已後、「涅槃」世界である。 「倦怠(けだい)の裡に死を夢む」でなく、 確信の基に、「涅槃」現成(げんじょう)するのである。 二度の世界戦争によりて、遂に世界が二分裂し、勝ちと負けに対立し 、二分裂した我が互いに自我を主張し合い、科学も其れに利用され、 「原爆入り」したのである。 原爆世界に入った方も、又其れに利用された方も共に落ち度を認め ない訳には行かないであろうが、「原爆入り」した当事者に最大の落 ち度が在る事は否定出来ない。 現世界は、其の「原爆入り」国家に追従する国家体制が布(し)かれ た儘の状態である。 此の地獄の極みは天意に通ず。 「宇宙(生命)の本質」は刹那生滅の原理と因果の道理によりて、 心の進化を遂げ、バラモン教が釈尊を生み、日本が釈尊の大乗精神 の最後の世界唯一の正法堅持国家であると共に、且つ世界で唯一 の被爆国家と為ったのである。 小生の「涅槃入り」は偶発事では無い。 不昧因果の必然性に起因するものである。 吾師伴鐵牛老師は既存の仏教界に対して根本的に失意の念を抱か れ、在家にて、其の指導に当られたのである。 師の菩提心の真実が小生を生ま使め、人類史上初めて、「大涅槃人」 として「涅槃」に至り得たのである。 必然性に基づいた最終的偶発性の所産であり、菩提心により至り得 た真理(実)であった。 然るに、此の偶発性為るものは、其の根底に、「宇宙(生命)の本質」 が本具する、万法を「涅槃」に進化せ使める涅槃妙心力(=仏性の仏 力)を本具して居る事によるものである。 「涅槃入り」するには、 日本が釈尊の大乗精神の最後の世界唯一の正法堅持国家であった 事、そして其の伝統に育まれた、在家に於ける吾師の菩提心の真実 と、そして小生が坐禅一筋で師に会えた事。 そして其の基に、 従来の人類が、其の三毒(貪・瞋・癡)の極悪の限りを尽くした挙句の、 日本が世界で唯一の被爆国家と為った事。 是等の諸条件が総て備わって、初めて、不昧因果、極善の限りを尽 くして、「涅槃入り」したのである。 《 自利利人の法 》 「宇宙(生命)の本質」は、宇宙の営み、太陽のエネルギーが地球上 に生命を育て、人類をして幸福、平和、繁栄に導く「涅槃妙心力」に よりて、「涅槃」へ進化せ使めて居るのであるが、「涅槃妙心力」は 人類に菩提心を生ぜ使め、涅槃妙心智慧によりて、人類に幸福と 平和繁栄を構築せ使め、完遂せ使めるのである。 此の立場、つまり涅槃人と為れば「自利利人一如」為るを知るので ある。 「人を生(活)かす」も「自己を生(活)かす」も同一である。 一枚の紙の表と裏の如きものである。 菩薩の行願「布施、愛語、利他、同事」、自未得度先度他、自他一如。 《 涅槃学からの自他一如 》 涅槃学とも云うべき、涅槃と自他一如との相関関係について述べる。 神の声として受け取るべきものである。 仏道は「悟り」から始まったが、「解脱」に及び、そして「涅槃」に至った のである。 小生の「覚天」による「涅槃入り」無くんば、仏道は未完成であった。 何と為れば、極仏が残るからである。 然るに、極仏は「涅槃入り」する迄、と云う事を覚了したのである。 「涅槃入り」して「宇宙(生命)の本質」其のものである世界を「涅槃」と 言うのである。 一旦「涅槃」に至れば、後は涅槃妙心智慧によりて、世界人類の幸 福と平和と繁栄を構築し、完遂するばかりである。 「涅槃」に至りて、初めて仏道の上求菩提が完結したのである。 此処に於いて、次に為すべきは世界人類を幸福と平和と繁栄に至ら 使む為の、物質(精神)的基本的条件確保である。 小生が生まれ変われればではあるが、 此の心は永遠に不滅為る恒常普遍の真理である。 是は因果の道理に基づく必然性、不昧因果である。 釈尊の『仏遺教経』の末部に「自利利人の法は皆具足す。」と説かれ ている。 是は疑い様の無い真理である。 人を利する(=人を生(活)かす)べく為した行為が総て、後に自己を 生(活)かして居る。 「人を生(活)かす」事が、其の儘、正に「自己を生(活)かす」事である と云う事。是は、一枚の紙の、表と裏の様なものであります。 表の無い裏は無いし、裏の無い表も無いのであります。 此処で、『自他一如』について顧慮してみると、 「悟り」も「解脱」も「涅槃」も是等総ては、吾と宇宙とが一(いつ)に為り 往く経過に過ぎないのである。 「宇宙(生命)の本質」からの促しが、吾に菩提心と転じ、 坐禅によりて、「宇宙(生命)の本質」(仏性)へ接近した体験が「悟り」 であり、接触したものが「解脱」であり、一如足り得たのが「涅槃」なの である。 「覚天」によりて、「涅槃入り」して、「宇宙(生命)の本質」為る「涅槃」 に至り、「行」でない「人」だと、「人を生(活)かす」涅槃妙心を得たの である。 「宇宙(生命)の本質」と吾とが一如と為りて、此処から初めて、真の 『自他一如』足り得るのである。 釈尊は成道後、梵天勧請によりて、布教を始められた。 故に釈尊は、未だ「涅槃」には至り得ていないが故に、「自他一如」で なく、「自利利人の法」として説かれているのである。 「涅槃入り」しなければ、自他一如足る「涅槃」は説き得ないのである。 「覚天」其のものが、吾と宇宙とが一如である事を体現し、 天意が吾身を通して具現化されるのを覚(さと)る体験である。 自他一如も、此処迄徹し得ねば、永遠に不滅為る恒常普遍の真理と は為り得ない。 故に人は信ずる事によりて、菩薩の行願,「布施、利行、愛語、同事」 為る訳である。 「宇宙(生命)の本質」(仏性)が体現されている世界を「涅槃」と言う。 ※「行」でない「人」だを、「原爆入り」でない「涅槃入り」だ。 と置き換える事によって、是からの世界が採るべき道が 明らかと為るのである。 トランプ氏の勇断によりて今後の世界の明暗が決定する。 《 本分と淫快と 》 小生、「涅槃入り」して以来、坐禅は、伝え遺すと云う小生に出来る唯 一の作業に完全に置き換わったのであるが、主に大脳新皮質(言語 中枢)の作業であるが故に、必然的に、やがて世間の人間の淫快の 泥水を浴びると云う事に至るのであるが、是は人間の三毒(貪・瞋・癡 )である。古希に為って初めて、そうなのであるが、是が欲界中と云う ものであろう。 淫快は、心理的なものさえ採るべきものではない。 本分と(心理的)淫快とは相反するものであるからだ。 人間の為すべき本分には障害と為るものである。 正に心理的淫快こそ三毒の貪の典型的なものである。 心理的淫快すら無くして、人間は生きるべきである。 是は常に自覚する事が不可欠である。 是は、世界人類の幸福と平和と繁栄の為に語り遺すべき結論として 語っているのである。 小生は、既に出家当時以来、今も猶、全く、夢にだに、性に関わらな いのであるが、敢えて小生は、無駄な事に関しては、必ず斯く在るべ きと言い遺して、「大涅槃人」としての責務を果たしておく 是が其の本分に最も適(かな)うからである。 政治家足る者は、最低限、斯く在らねばならない。 厳しく慎むべきである。 如何なる場合に於いても、常に此の心を忘れざるを精進と云うのであ る。 日米安全保障条約であろうとも、人間は従来の法以前の存在である。 是迄の人類が生み出した物で、「涅槃」に至らざる世界のものである。 決して、日米一如では在り得ないのである。 世界に唯一の被爆国日本が、日本の立場を打ち出すべきである。 人類の三毒害を認めるべきではない。 日本は非核の立場を打ち出して、世界を統合しなければならない。 是が大人である。 今こそ、世界人類が生まれ変われる か、否かの瀬戸際である。 小生に違(たが)う者は、 「宇宙(生命)の本質」に違う者であり、 神に違い、仏に違う者である。 其れは、世界と共に歩む者と為らざ る事は明確であり、ヒトラーの道を 歩む者達である。 小生に同ずる者は「宇宙(生命)の本 質」に同ずる者であり、神に同じ、 仏に同ずる者である。 其れは、世界と共に歩む者と為る事 は明確であり、神と仏の道を歩む者 達である。 此の道こそ「退歩の進化」であり、 従来の、対立する「進歩の退化」に 至る道でなく、永遠に不滅為る恒常 普遍の真理に基づく信頼と団結によ る、世界人類の幸福と平和と繁栄 に至る新たなる道である。 《 坐 禅(一) 》 小生が医学生の時に、医学では小生の心に適うものでは無いという 直観的なものによりて、では一体何が在るのだろうと考慮してみた。 生命に内在する測り知れないものの存在に、生涯係わって往くべきで ある、の純粋為る探究心であった。 宗教心以外には見出せなかったのである。 学問的には、何れも限界を直観した。 従って、此の探究心は、即、菩提(求道)心と為ったのである。 小生の場合、発菩提心の要因の一つである処の無常観は然(さ)りな がら、純粋為る菩提(道)心であった。 正に、其の測り知れないものこそ、「宇宙(生命)の本質」為る「涅槃」 であった事は、吾ながら、自己の直観力に狂いが無かったと言わざる を得ない。 刹那生滅の原理に基づき不昧因果為る涅槃へ進化する本質の仏性 と云う真理である。 坐禅に辿り着いたと云う事が、心の進化の出発点に立ったと云う事で ある。 「宇宙(生命)の本質」(仏性)(からの促し)と坐禅とは親と子の関係で ある。 「涅槃」に至るには、悟上に得悟為る極仏への信に基づく菩提心一つ である。 《 坐 禅(二) 》 坐禅とは、吾身を通して万法(=物心一切)を体現するものであり、神 仏や人類の諸能力以前の心の進化の始まりに、其の原型(=瞑想) を見る。 身の為の狩猟、農耕、そして東洋の世界一の穀倉地帯周辺の人心に 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しにより、心の為の瞑想が生じ 、菩提心を醸成し、ヨーガ苦行によりて釈尊が成道し、坐禅に進化を 遂げたのである。 心の進化は坐禅無しには為し得ないのである。 坐禅して悟らない限り、二元対立(世界)から出る事は不可能である。 人類は「解脱」からは一歩も出る事は出来ないのである。 「悟り」によりて人類は自己を超えた、大いなる根源的生命の可能性 を知り、更に千日初行(正法苦行)によりて解脱する事により、人間は 、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の存在を確信するのである。 そして「覚天」に因る「涅槃入り」によりて、「宇宙(生命)の本質」(涅槃) 其のものと為るのである。 永遠に不滅為る恒常普遍の真理(=涅槃)へは、此の坐禅によりて 至り得たのである。 斯くして、人間は涅槃人と為りて、向上門に終止符を打つのである。 更に、涅槃妙心智慧によりて真法(=仏法に基づく世法)を構築し、是 を完遂すると云う施政の段階に入る処の「大涅槃人」、つまり然るべ き政治家と為るのである。 人類は、仮令(たとえ)誤魔化しても、真理は不滅である。 究極の不滅の真理は、唯一「涅槃」のみである。 宇宙が消滅しない限り、涅槃は不滅である。 「解脱」は「涅槃」へ至る前段階で、人間の至り得た一段階に過ぎない 。 (昆虫類や甲殻類や多足類等の)節足動物や爬虫類や両生類は 成長する過程で脱皮する。 節足動物では、体表面のみならず、気管、消化器官の表面も脱皮す る。彼らの身の完成に向けての成長は、人類への進化と変遷を遂げ 、此の人類への身の進化は其の究竟(=大脳新皮質)の心の進化、 つまり、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)への回帰に進化は変遷を遂げ るのである。 進化の過程に於いて、全動物種の85%以上を占め、あらゆる所に汎 在する外骨格の節足動物から背骨を持つ脊椎動物に進化したので あるが、是は人類が「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しによりて、 人類が坐禅をして転迷開悟した心的進化を髣髴とさせるのである。 又、節足動物(昆虫類、甲殻類、多足類等)に於ける成長の過程は、 脱皮 解脱人 脱皮 涅 卵→(孵(ふ)化)→幼虫→(蛹(よう)化)→蛹(さなぎ)→(羽化)→成 =「悟り」 =「解脱」 =「涅槃」 槃人 虫 である。 ※ 「悟り」で幼虫と為り、「解脱」し、運動能を欠く蛹(さなぎ) と為りて、是に、やがて羽が生じ、成虫と為って飛び立っ て往くのである。節足動物では、体表面のみならず、気管 や 消化管の表面も脱皮し、脱皮殻ぎ捨てて成長して往く。 全動物種の大部分を占め、あらゆる所に汎在する虫の成長の過程 は余にも、人類の心の成長の過程(=進化)を具現化したものの様で ある。 男女が一(いつ)と為れるのではない。 其れは夢である。 「涅槃」が一(いつ)なのである。是が現実だ。 世の中の事は、総じて治まり切れないのである。 「涅槃」に於いてのみ、世界人類を真に導く事が出来るのである。 永遠に不滅為る恒常普遍の真理(実)為るが故に。 「解脱」を以って理想と為す事勿れ。 「解脱」は未だ仮の、凡聖の二元相対世界に過ぎない。 絶対無二の不滅の世界は「涅槃」である。 螢火と太陽の如くにして、空前絶後の生涯厳密千日涅槃行を十五年 間経過した処で至り得た「涅槃」である。 此の実証が中々出来ない。 遣ろうと思って出来る事でなく、只々悉(ことごと)く、尽くし切るのみで ある。 真を尽くす事以外に無い。 只々、好運としか言い様の無いものである。 故に、釈尊の中道と同様、此の中道と小生鐵漢の真中道に基づいて 「人を生(活)かす」のみである。 《 世界平和の要足る、差別と無差別 》 人類は、差別と無差別の存在である。 何(いず)れが欠けても不完全である。 更に、何(いず)れも究竟せねばならない。 ・無差別の究竟は、「中道」であり、 「正法」の信の礎を築く。 且つ、 「真中道」為る「覚天」による「涅槃入り」であり、 「涅槃」への信の礎を築く。 ※ 以上は永遠に不滅為る恒常普遍の真理である。 ・差別の究竟は、只管、「(世界)人(類)を生(活)かす」 365日毎日の規則性、午前と午後 、8時と11時の日常性在るのみ。 ※ 斯くして、初めて人類三毒(貪・瞋・癡)を制するのである。 実在する鐵漢と其の著述内容 とは一(いつ)であり、 言行齟齬(そご)せず。 《 釈尊最期の言葉 》 淫快と菩提心と、 菩提心を択(えら)ぶ者でなければ、語(もの)は言えない。 淫快と世界平和と、 世界平和を択(えら)ぶ者でなければ、語(もの)は言えない。 淫快を択(えら)ぶ者は、諸々の禽獣と相異なる事無し。 自己と世界平和と、 世界平和を択(えら)ぶ者でなければ、語(もの)は言えない。 少なくも、世界平和を願う政治家であるならば、此の心構えが 無ければ、政治家としての資質に欠ける者と言わざるを得ない。 釈尊は般涅槃に臨んで、最期に、 『…汝等且(しばらく)止みね、復(ま)た語(もの)言ふ事得る事勿れ。 時将(まさ)に過ぎなんと欲す。我滅度せんと欲す。 是、我最後の教誨(きょうげ)する処也。』 と諭されて、般涅槃されたのである。 《 鉄幹と鐵漢 》 解脱は鉄幹の賜であるが、涅槃は鐵漢の賜である。 一体、鐵漢に鐵漢足る何者が在るのであろうか?と。 是、菩提心為り哉? 最初に、一旦『よしっ、往こう!』と。 しかし、其の直後の、刹那の自己護持であった。 『是で往こう。』と、自己を偽らざる心であった。 此の刹那の、其れ迄の自己を護持したのである。 此の刹那の切換が、三十数年間を一貫して、遂に「涅槃」を覚(さと) り、真の鐵漢を生んだ様だ。 今改めて、只々其の自己に、驚きと自己を崇(あが)める心在るのみ である。 是、生来の純粋さが、自己の心に正直に反応して、古稀迄生きて来て 、是迄一貫した如意棒の如き心が真理を語り続けている様である。 今、其れを知るのである。 吾師を裏切った様な、一見後ろめたい様な心と、 若し、小生が裏切らなかったならば今の鐵漢は無かったと云う真実。 だからこそ、自己に対する驚きと、自己を無条件に崇める心が在る だけである。 そんな事も在るのだと。 真の修行とは、そう云うものだと、改めて思う訳である。 師の思惑も入らない、生涯を貫く不動の正念相続である。 だからこそ、「覚天」し、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)を体現し得たの である。 是に、刹那の師を思う心でも在れば、鐵漢に為らなかった。 溺れ掛けている親を見捨てて、出家した禅僧の話を思い出した。 《 菩提心と二元対立 》 制(抑)圧せんとする二元対立の方向性と、 涅槃へ向かわんとする菩提心の方向性がある。 前者は地獄に向かい、後者は平和へ向かう。 両者を同時に為す事は不可能である。 癡の極み為る地獄に向かうか、慧の極み為る平和へ向かうか、 何れかである。 常に平和を希求すべく、慧の極みへ向かって最大限の努力をしなけ れば為らない。 心を極めた人、「解脱人」や「涅槃人」は真理を弁(わきま)えているが 、身と云う有機的構成系(釈尊は般涅槃に臨み最期に、是を「滅を得 る事、悪病を除くが如し。此れは是、当(まさ)に捨つべき罪悪の者也 。仮に名付けて身と為す。老病生死の大海に没在(もつざい)せり。… …一切世間の動不動の法は、皆是れ敗壊不安の相也。……。」と諭 されている。)の限界を、三毒を歓喜し忍受して甘露を飲むが如くす る事能わざる者は、身の限界が其の儘、心の限界と為りて、二元相 対世界を脱する事が出来ずに、世界人類に「宇宙(生命)の本質」(涅 槃)為らざる地獄(癡愚)を生んでしまうのである。 「宇宙(生命)の本質」の世界は智慧による涅槃である。 世界人類の物質的、精神的基本的条件確保が涅槃世界である。 台湾問題を始めとして、香港問題、更にはチベット、ウイグル民族へ の配慮を差し措いた、一帯一路構想は、正に「宇宙(生命)の本質」に 違(たが)えた、観念的なものに過ぎないと言わざるを得ない。 東アジアの一体感は将来の世界平和の礎である。 《 不昧因果 》 「宇宙は解脱した世界である。」 と云うのは個の仮相世界である。 「宇宙は涅槃である。」 でなければ為らない。是、全一為る実相世界である。 「解脱」は人類が「涅槃入り」して涅槃現成する前段階である。 「涅槃」と為りて初めて「宇宙(生命)の本質」其のものを生きて居るの である。 是は、中道に因る「正法」に基づいて、真中道に因る「涅槃」によりて、 人類に宇宙の真理が開示されたのである。 「涅槃」とは人類が少欲・知足にして「人(=世界人類)を生(活)かし」 、人類生命の根本が「宇宙(生命)の本質」に違(たが)えていないと 云う事である。 仏道は因果の道理其ものに他ならないのである。 原爆が、激甚自然破壊が、人種差別が「人(=世界人類)を生(活)か す」事なのか? 総て人類を殺す事に他ならない。 人類が三毒(貪・瞋・癡)の癡愚為るが故に、涅槃妙心力によりて「世 界人類を生(活)かす」智慧を生み出し得ない儘で居る事に無力感を 抱かざるを得ない。 涅槃妙心智慧を無限に生み出すべく、全身全霊で信頼と団結に基づ いて臨まねば為らないのである。 嘗て、吾師伴鐵牛老師が攝心会での提唱を記録した書物を出版され た際に、提唱中、道理を弁えざるに対して、「どめくら」と言われた事 が宗務庁で差別用語だと指摘され、何度も呼び出され、「悟り」を否定 されたそうである。 師は唯、黙して居られたらしい。 「悟り」の宗門が、「悟り」を否定したとは、釈尊を否定して僧侶に為っ ているに等しい。 昔の事ではあるが、今や、心は進化し「涅槃」の令和新世紀である。 人類が生き残れる唯一の正道を開示する「涅槃」には、菩提心在り、 「悟り」在り、「解脱」を経て初めて、「涅槃入り」出来るのである。 「悟り」、「解脱」無き「涅槃」は虚偽である。 吾師が亡くなられて、既に二十四年、師が遺された不昧因果である。 《 菩提心 》 人間、菩提心無ければ、喰って、寝て、セックスするだけである。 大規模に、贅沢に、派手に遣るか、否かだけの違いである。 人間らしいと言えば、其れ迄だが、人間らしさが違う。 つまり、諸々の禽獣と相異なる事無し。 其れで構わねば、其れ迄である。 世界は、やがて地獄に陥るであろう。 其れが、今の世界に露呈して居る。 負い目を負えるだけ負って、首が回らない状態だ。 何れも、菩提心無きが故也。 敢えてしない。 積極的消極性だ。「進歩の退化」である。 真の積極性とは? 心の事だ。 身の事でない。 是、菩提心である。 東洋、取分け、日本が、其の舵取り役を担わねばならないのだが、 全く、ウンとも、スンとも無い。 馬に譬えれば、鞭打たれても走らない馬だ。 般涅槃に臨まれて、釈尊は最期に教示された。 『常に当(まさ)に、一心に出道を勤求(ごんぐ)すべし。一切世間の 動不動の法は、皆是れ敗壊(はいえ)不安の相也。』と。 更に言えば、「涅槃」に倣え。「涅槃」を思うべし。 真理(実)を思うべし。覚醒すべし。 身に翻弄されずに、 宇宙に生(活)かされて居る吾身を思うべし。 宇宙と共に、「人を生(活)かす」べきである。 生命在る限り、説く事が小生の使命である。 人間と云う者は、日常の二十四時間の絶え間無き菩提心の正念相 続によりて、何でも チョッとした事が覚る契機とも為るものである。 逆を言えば、此のチョッとした事が在らばこそ、人を導くのである。 欲でなく、只管、極めて淡々とした菩提心の日常性である。 《 感染症対策 》 自他を問わず、掛け替えの無い大切な命を思えば、自(おの)ずから 可能な限りの手を尽くすであろう。 一つでも残された手(=方法)が在れば、諦めたり、面倒がったりする 余裕は無い筈だ。 必ず為し得る手と云うものが出て来て、細心の注意を心掛ける筈だ。 自殺者や精神的に問題が在る者で無い限り、絞れば絞る程に、無限 に出て来る筈である。 何処迄遣るかは、後は、世界中で最も大切な命と、為し得る可能性と の折り合いで、指導的立場の人ならば、折り合いの場合でなく、 在らん限りの手を尽くさざるを得ない筈である。 そして、其れが人類の歴史であるだろうし、是迄も、又此れからも、 其れが歴史を生んで往くのである。 無駄は何一つ無い。無限に無駄は在り得ないのである。 2017年5月、(2014年1月、HP公開) 『新道元宗(解脱編)』 ( 1ページ~121ページ) 製本済 『新道元宗(涅槃行編)』 (122ページ~242ページ) 製本予定 『新道元宗(真中道編)』 (243ページ~363ページ) 〃 『新道元宗(涅槃編)』 (364ページ~484ページ) 〃 『鐵漢(本質的禅学)』 (485ページ~615ページ) 〃 『真遺教』 ( 1ページ~ ページ) 〃 真 遺 教 田 中 鐵 漢 aef172047@lib.bbiq.jp 4753kqry@jcom.zaq.ne.jp http://buddhatekkan.com/ 《 真 遺 教 》 真遺教は神仏や人物では及び得ない。 唯、体験によってのみ至り得る空前絶後の真理である。 是には、如何為るものも及ばない。 人間と宇宙の真理を説き遺す。 小生も、そうであったのであるが、 中学から高校へ掛けて、学校の教科以外の事柄、当時は其れとは 意識出来ないのであるが、実存への疑義から精神世界は始まるので ある。 「何か在る。」咽喉下迄来ているのであるけれども、其れが何だか判 らない。 「一体何が在るのか?」と、此の問い掛けが人間の意識に浮かぶと 云う事自体、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しに他ならない のである。 是が、先ず東洋の古代インダス文明の最も肥沃な穀倉地帯に、自然 現象と一体為る瞑想を生み、ヨーガ行へと進展し、釈尊成道に至る訳 である。 それから中東の砂漠地帯に神が生まれた。 人間の諸能力により、多様化された高度文明化社会が、そうした心 の内部からの問い掛けに対する障害と為り、正道への回帰を妨げて いるのである。 そもそも現代社会に於いて、坐禅に達し得た人は少なく、人知を超え る人であり、智慧に生まれ変わらんとする人なのである。 令和元年に小生が「涅槃入り」する迄は、釈尊の成道迄の事であり、 仏道とは、無限為る宇宙の如く説かれて来たのである。 金剛般若経であったか、 「宇宙の広大さに言い及ぶ事が出来るか?」。「出来ません。」 「仏道の際限無い事は、彼に等しい。」と。 然るに、極仏は「覚天」して「涅槃入り」する迄の事である。 後は、涅槃妙心智慧によりて世界人類を生(活)かして往かねばなら ない。貴重な時間の無駄遣いを為すべきではないのである。 世界人類の幸福と平和と繁栄を構築する為に、世界人類の物質的、 精神的基本的条件確保を完遂しなければ為らないのである。 此の完璧なる真理を、小生鐵漢が古希に「覚天」したのである。 人類史上空前絶後である。 是、吾師の恩恵の御蔭であって、生涯にして、延べ十八年間余りの 千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)の賜に他ならない。 空前絶後の正法苦行にして初めて至り得た、「宇宙(生命)の本質」 (涅槃)の永遠に不滅為る恒常普遍の真理である。 真の教育、教化(導)、布教とは此の真理を伝え、是に向かわ使める 事であり、真の施政とは是に違わず、是に基づいた為政である。 一旦、坐禅に往き着けば、後は宇宙の真理を開示し往く。 唯一の永遠に不滅為る恒常普遍の真理を世界中の指導者を含め、 全人類に開示するだけである。 そして、世界人類をして涅槃現成せ使めるだけである。 是を以って、地上を一新更始せずには措かないのである。 是が人類三毒解消の最短路である。 自己を生きるか、それとも世界人類の幸福と平和と繁栄と、 何れを望むか? 是は、正邪、深浅、真偽種々在れど、人間を見極める試金石足る。 後者を選択する人であれば、何遣って居っても「人を生(活)かす」人 であるから、其の人が世界を導かねばならないのである。 世界の第一線に立って、命在らん限り、可能な限りの働きを為すべき である。 菩提心による、真の働きが出来る人であるからだ。 坐禅入りする迄の、小生での十年間余りであるけれども、 要は、此の十年間余りの是非を問うているのではない。 「坐禅入り」するか、否かの問題である。 たとえ「坐禅入り」しても、最短路には、「涅槃入り」するか、否かである が、是も、釈尊中道による「正法」同様、真中道による「涅槃」、 「涅槃」とは「正法」の事であるから、自ずから「宇宙(生命)の本質」( 涅槃)と云う、永遠に不滅為る恒常普遍の真理足る事である。 小生が古希に於いて「覚天」し得たのは、小生が独自に為し得たもの でなく、小生の存在同様、太古からの因縁の集積に縁りて、出来上が ったもので、時空の必然性の為せる業である。 此処に至る迄の総てに縁りて、「涅槃」、「宇宙(生命)の本質」を現成 (げんじょう)し得て居るのであって、此の事は、つまり人類の是迄の 総てが、此の究極の正法苦行によりて肯定され得たと云う事である。 宇宙の本質は涅槃為るが故に、人類が此れ以上在り得ない処迄、 至り得たと云う事である。 後は、此処から生まれる涅槃妙心智慧によりて、世界中が是に拠る 信頼と団結で人心一新しなければならないのである。 此処に於いて、世界人類が此の事を肝に銘じて、各自、此の自覚を 新たにしなければ為らない。 分裂でなく、一(いつ)であるのが宇宙の実体であり、是を「涅槃」と云 うのである。 調和と均衡と静寂である。平和と平等の事だ。 分裂と対立と混沌ではない。 我々が意にも懸けない、虫一匹にも此の心が具わって居るのである。 此の涅槃の心を自覚しなければ為らない。 今や、人類は是迄の過去を反省し、即刻、生まれ変わりて、 将来を構築、完遂しなければ為らないのである。 人類を支配したり、制(抑)圧したり、力による敵対関係によるのでな く、「涅槃」の信頼と団結に基づく涅槃妙心智慧を生む事によりて、 「世界人類を生(活)かす」智慧で人類を導き、世界統一しなければな らない。 世界人類を時空を超えて最大限に生(活)かすべく、指導者達を教導 する事である。 どの様に? 施政内容、「世界人類を生(活)かす」施政とは? 武器ではない、智慧だ。人類を守る智慧。自然を守る智慧。 是が施政である。 (涅槃)世界とは欲の得失でなく、真理の究盡だ。 宇宙に空前絶後為る「覚天」と「世界人類平和の究盡」とは、 宇宙裡に人類生命が在る。後、在るのは疑問だ。疑問の後に在るの は正解である。正解を見出すのが人類史である。正解が出たら、後 は実践だ。世界中に実践する。 先ず、世界人類を然るべく教導する。世界中の指導者達に然るべく 真遺教を教導する。 人類を守る施政(智慧)とは、「真遺教」に基づいて、信頼と団結で 全一足り、涅槃妙心智慧を永遠に不滅為る恒常普遍の真理と為し、 何処迄も是に徹する事である。 人類は対立である。 是を信頼による団結で統一しなければ為らない。 統一した教えとは、 「涅槃」と云う永遠に不滅為る恒常普遍の真理のみである。 是、宇宙の実相である。 世界人類の為に、何処迄も最善の智慧を生む事である。 智慧を生むは身に非ず、心である。 心の進化を遂げたら、後は智慧を尽くすのみ。 最善の智慧を生む事に徹する事だ。 固定観念でなく、常に新たに生み出す。 信頼と団結が防衛と軍事に取って代わるべきだ。 是が真の智慧である。 世界平和の礎と為さねば為らない。 智慧が沸くのは、身心が引き締まった時である。 限り無き菩提心が必要不可欠である。 「他を生(活)かす」事が「自を生(活)かす」事に為る。 何と為れば、自他一如為るが故に。 「生(活)かす」とは、吾心が「宇宙(生命)の本質」(涅槃)足る事であ る。 斯(か)るが故に、 本質に違(たが)わず、本質足り得て、 宇宙の調和と均衡の静寂を人類世界に体現して居ると云う事である。 故に世界平和を具現するのである。 《 「覚天」に於ける真実 》 「覚天」間近に為ると、やがて二元相対世界が一塵も残さず、完璧に 一元絶対世界、つまり「覚天」して「涅槃入り」した「涅槃」と転ずるので ある。 涅槃現成体現体験である。 小生の二元の一元化体験は、上求菩提と下化衆生に於いてであっ た。 刹那に、完璧に一(いつ)に転ぜられる(=体現される)体験であるから 、其処には二元相対世界(男女、勝敗、得失等)の一切が消滅するの である。 此処迄来ると、一切の分別は死滅、崩落し、人類の究極の二元為る 凡聖の欠片も消滅し、上求菩提と下化衆生為る仏道が消滅し、必然 的に世界人類の幸福と平和と繁栄に直結する「施政入り」するのであ る。 必然的にそうで在るのであって、小生の余命の問題であるが。 一元には、既に(仏)道無く、涅槃妙心智慧、生(活)きるのである。 是、菩提心の「涅槃人」である。 《 心の進化とは 》 人類が獲得した人類特有の大脳新皮質の機能為る分別によりて、 人類は高度文明化為ら使めたと同時に、極悪なる原爆投下とヒトラ ー独裁と人種差別を招来したのである。 人類は古代に於いて、既に心の進化を遂げ、解脱していたのである が、是は現実を改善する迄には至り得なかった。 人類が是迄の極悪業報を体験して、今日に至って、正に其の日本に 於いて、其れ等を完璧に払拭するだけの、正法苦行為る千日行(三 時間坐睡二十四時間仏作仏行)の極善業によりて、完璧に人類の二 元対立世界を一元化為し得た「覚天」によりて、空前絶後に「宇宙(生 命)の本質」に一如為る「涅槃入り」し、涅槃現成したのである。 二元相対の一塵も残さぬ完璧なる涅槃世界を現成し得た事により、 今後の一切の悪業を根絶し得たのであり、自今已後の涅槃妙心智慧 によりて、世界人類の幸福と平和と繁栄を構築し、完遂する段階に入 った訳である。 《 真為る積極性とは 》 真為る積極性とは如何為るものか? 其れは、信頼と団結である。 人類は、其処迄、為し得るだけの確信を持てないのである。 一体何処に、其の確信を抱くだけの根拠が在り得るのか? 其れは、永遠に不滅為る恒常普遍の確実為る真理(実)以外には在 り得ない。 確実為る普遍の真理をして、確信せ使むるのである。 是が涅槃現成(じょう)である。 吾、鐵漢の空前絶後の涅槃現成である。 此の今をして、永遠為ら使めるのである。 否、有無を言わせず、斯くなければ為らないし、為ら使めねばならな いのである。 其れ以外、在り得無いと云う事である。 此処が世界人類の指導者足る者達の責務であり、使命である。 《 無 題 》 真理は「人を生(活)かす」が、 菩提心無き無我は「人を生(活)かさ」ない。 真の無我とは菩提心に等しい。 何と為れば、「宇宙(生命)の本質」は人類を生み出すが故に。 「解脱」とは「宇宙(生命)の本質」に触れる体験であり、 其れが、三毒からの解放に直結するのである。 「宇宙(生命)の本質」は「涅槃」と云う真理の世界である。 《 身から大脳新皮質へ 》 何故に、身(=欲)に心が生じたか? 動物に於いては、弱肉強食の観点から地上に於ける量的進化を遂げ 、神経系の質的進化に移行したものであろう。 是が心筋細胞の拍動の如く、自律神経系を構成し、更に大脳新皮質 の自覚的意識に迄進化し生命の最終段階に、菩提心によりて「宇宙( 生命)の本質」に回帰すべく、「涅槃入り」によりて涅槃妙心智慧に至 ら使めるのである。 《 西洋のスカラーと、東洋のベクトル 》 身が大脳新皮質迄、進化究盡すると、東洋では、苦行によりて、身は 身自(みずか)らを、中道によりて放棄し、「宇宙(生命)の本質」(涅槃 )に回帰すべく「解脱(悟り)」に至ら使めた訳である。 是が心の進化の至り得た処であったのであるが、 西洋に於いて、大航海時代が、欧米の富を獲得する為の手段として 非条理為る黒人の奴隷化が勃発するのであるが、此の点についての 反省が為されていない。ヒトラーのユダヤ人迫害に等しいものであっ た様だ。 原爆投下による人類への制裁と共に、人類三大悲劇にも拘らず、 キリスト教国家でありながら、其の反省すら為されていないと云う事は 原爆投下の威力でもあるまい。 是等に対する根本的反省無しには、何事も成立し得ないのである。 コロナの対応以前に為さねばならない事が在るのである。 為すべき事が為されれば、後は自ずから終息するものである。 一方、東洋に於いては、其れ等の極悪業報に報いるべく、古代中道 からの解脱(悟り)に基づいて、涅槃為る真理に至り得たのである。 此処に於いて、世界人類が真遺教に基づき、宇宙の真理を教導され る事により、世界人類の幸福と平和と繁栄を構築し、完遂するに至る のである。 世界の霊峰は日本に在る。 《 男と女 》 小生、人間を観ずるに、男、女(LGBT等も)では観ない。 価値は男、女に在るのではなく、 花を採択する人か、団子を採択する人かである。 孰(いず)れかで、人間(の価値)を判断する。 問題は男、女ではないのであって、 要するに、花を採るか、否かである。 男、女は平等でなければ為らない。 其れ程、貪欲は簡単ではない。 釈尊も御遺教で語られている。 『我は、良医の病を知って薬を説くが如し、服と不服とは医の咎(とが) に非ず。又、善く導く者の、人を善道に導くが如し、之(これ)を聞いて 行かざるは、導く者の過(とが)に非ず。』と。 小生は解脱して素直である。 涅槃裡の諸欲が、人類の真の多様性と為る。 高峻な頂ならば、自(おの)ずから広大な麓が拡がるのである。 《 心理的性愛 》 如何為る男女間も、「涅槃人」には及ばない。 「解脱」して、既に身の束縛から自由であり、「人を生(活)かす」者 であるが故に。 即ち、「涅槃」は心理的純粋な性愛の究極でもあるのだ。 斯くして、 あらゆる総ての人類を「涅槃」へ誘(いざな)うのであるのか? 是、薩?(=菩薩、菩提心)の行願、同事の究竟でもある。 「解脱」では及び得ない。「涅槃」にして初めて及ぶ。 好き嫌いや、取った取られた以前の、二元相対世界を超越した、 人類の及ばない世界である。 《 コルベ神父 》 アウシュビィッツ強制収容所内で、一人の囚人が脱走すると、同じ 号棟の十人の囚人が餓死刑に処せられる事に為っていた。 そして遂にコルベ神父が殉教を、友の為に決意する日が遣って来た。 神父の号棟の囚人が一人脱走したのである。 十名が選ばれ、其の中の一人の男性囚人が「さようなら。私には妻と 子供達がいる……。」と呟くのを耳にした時、独り身の神父は其の男 の身代わりと為りて、自(みずか)ら死を選んで贖罪を果たしたのであ る。 此の神父の行為は、イエス・キリストが、人類を其の罪から救う為、身 代わりに磔(はりつけ)に為ったと云う教義(虚構)、罪を贖(あがな)う 贖罪(信仰)に基づく殉教を、人間の極限状態に於いて実践したもの である。 是は、イエス・キリスト(キリストであるイエス)が十字架上の死によっ て、全人類の神に対する罪の状態(アダムとイブが禁断の木の実を 食べてしまった原罪)を贖うと云う贖罪(信仰)を自(みずか)ら実践す ると云うものである。 然るに、是は人類が実践すべき普遍的真理とは為り難い。 宗教に於ける殉教には、神の信仰の聖戦(ジハード)がある。 殉教者をシャハードと云う。 イスラム教の自爆テロも殉教作戦である。 一方、仏教に於いては、小乗仏教では、死後の無余涅槃を完全なる 究極の目標とし、抗議デモの焼身自殺もあった。 大乗仏教に於いては「宇宙(生命)の本質」自体を「涅槃」と称する のであって、煩悩や三毒から解放されて、自由に「人を生(活)かさん」 とする確証に基づく確信為るが故の菩提心のみで、何処迄も 涅槃妙心智慧を生み出す事による教導と施政であり、 (原)罪は存在しない。 《 神の宗教と仏教 》 人間、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に心が接触した刹那に覚る。 其の儘で、もう既に全てが具わって居ると云う事が。 「本具仏性」を覚知した刹那を「解脱」と云う。 「解脱」すれば、キリスト教の原罪が虚構である事は自明である。 故に、贖罪信仰は、贖(あがな)うべき罪なんかは存在しない。 罪どころか、心と云うものは本来、幸福であり、平和であり、豊かであ り、静寂である。是を「本具仏性」と云うのである。 此の「解脱」は「涅槃」の準備段階に過ぎないのであって、 仏道の究極は「涅槃」である。 「涅槃」とは「宇宙(生命)の本質」其のものの事である。 そもそも、生殖器官無くして、人類は存在しない。 少欲・知足であれば宜しいのであって、人間の根源悪の三毒(貪・瞋・ 癡)為ると地獄を生む。 《 鐵 漢 》 真理=真遺教=鐵漢=涅槃 ∥ 一 (いつ) ∥ 世界人類を生(活) かす 真理為るが故に、其の信頼と団結か、それとも地獄への三毒(貪・瞋 ・癡)か? と明確に為るのである。 神の宗教の信仰と、「涅槃」の自覚の真理である。 「涅槃」と云う実為る宇宙の真理は、小生鐵漢が、一年足らず前に 「覚天」したのである。 是が空前絶後の永遠に不滅為る恒常普遍の真理である。 真理が在って初めて、真の信仰と実践が在る。 虚構への信仰は世界人類を生(活)かす普遍的真理とは為り得ない。 是は、神仏への信に基づく殉教にも繋がる。 贖罪や、他者への訴えや、其の為に殉ずるもの等様々であるが、 世界人類の普遍的真理と為るには、其れが真理でなければ為らない。 真理であるか、虚構であるかは、自死を以ってしても為し得ない。 是迄、限り無き自死が在ったが、飽く迄も、真か虚かの問題であり、 生死の問題ではない。 其れを為し得るものが正法苦行による中道と真中道である。 《 宇宙と真理 》 宇宙(又、存在と時間)に、真理を超えるものは無い。 其の真理とは、永遠に不滅為る恒常普遍にして、生涯厳密千日涅槃 行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)にして初めて遭遇し得る奇跡 である。 宇宙と真理は不可分である。 其れは、量と質の関係にある。 量為る宇宙に、質なる真理である。 量(=スカラー)と質(=ベクトル)とは永遠と刹那の関係にある。 進化とは量の質化である。 山に譬えれば、富士山の山容と山頂の様なものだ。 山麓は大地に広がり、天に聳える。 植物が大地に根を張り、天を突く様なものだ。 凛(りん)として、天を突く様に命を感じる。 質化である。 其れが、敢えて、宇宙を涅槃と為すのである。 只の宇宙ではない。 生命の宇宙である。 身の心化。身の悪業でなく、心の善業の究竟である。 涅槃妙心智慧世界の完遂。 是によりて初めて、 宇宙即真理。 量即質。 山頂即山麓。 世界人類が平等にして幸福、平和であり、不平等無く、三毒(貪・瞋・ 癡)無く、不条理無く、非条理無く、無理無く、穏やかに、自然に、 宇宙の調和と均衡と静寂を人類世界に世界人類が個々に体現し得る 世界が何時か実現するのである。 《 人間の諸能力 》 芸術も真理に至るには、芸術を捨てなければ及ばない。 神技と在るが、神技に過ぎない。神技に止(とど)まる。 情の多様性に過ぎない。 人類の情と云うものに真実は無い。 薄情に聞こえると思うが、情の行き着く処は、情は情を捨てて菩提心 と生まれ変わる事である。 武蔵等の武士道為るものも、芸術同様、其の剣を捨てねば及ばない。 武蔵でさえ、捨て得なかった。 勝ち負けの二元相対から出られなかったのである。 スポーツも、勝ち負けに支えられている。 是を楽しむのが人間だ。 何れも、総ては坐禅に往き着くまでの事で、 根源に帰れば真理と菩提心以外には無いのである。 何と為れば、本能から欲と大脳新皮質に進化した。 欲と大脳新皮質の間に情が生まれた。 其れ等の系によりて、人類の悪の根源の三毒を生じているのである。 根源に在る欲、中でも人類が最も制し難い欲、睡眠欲を自己の意の 儘に制し得た人間でなければ、真実、真理を語る事は出来ないので ある。 是が出来て、そうして奇跡的に、否真実を言えば、因果の道理に基づ いて必然的に、宇宙と一如為り得て初めて「宇宙(生命)の本質」(涅 槃)其のものと為ったのである。 是を「涅槃人」と言うのであって、人類の身心の進化の真の究竟であ る。 是に基づいて、是までの人類史は一新されねばならないのである。 是迄の人類の過去の「宇宙(生命)の本質」に違(たが)えた諸悪業 を顧みて、是からの人類は涅槃妙心智慧で輝かしき未来を構築し、 此れを完遂し往かねばならないのである。 《 釈尊の限界 》 従来の仏法の限界は、真の「涅槃」に至っていない事、 「解脱」に於ける世法と仏法の二元相対世界から脱し得ていない事で ある。 「涅槃入り」と云う事は、「現実世界入り」と云う事で、 真の仏法に基づいた世法に、根本的に様変わりしなければ為らない。 対立でない。一丸である。涅槃妙心智慧による真法作りだ。 米国の、虚構為る贖罪体制の黒人差別に基づく、最強(金と力)であ りながら、自国第一主義である処が世界を狂わすのである。 最強で在るならば、世界人類第一主義でなければ為らない。 若し、そうであるならば、我々から米国第一主義である事を望むであ ろう。 偽体制による自国第一主義であるから、世界(中国を始めとする中東 )が整う筈が無い。 他は、知った事では無い。米国の在り様に倣って得をするだけだ、と。 人を生(活)かさないから、信頼も団結も在り得ない。永遠に。 其の「付け」が今だ。 過去の、黒人を足蹴にして得た富と力に基づいて得た力支配を生ん だ精神による知恵では適(かな)わないのである。 何と為れば、虚偽であるからだ。 真理でなければ、他国は従属しても、宇宙が許さない。永遠に。 成立出来る筈が無い。必ず過去のものと為る。 真理に基づかねば、地球の寿命と共に生きる事が出来る世の中には 為れない。 如何しても無理と、歪みと、悪を禁じ得ない。 米国の矛盾は世界のものだ。 真理に基づかない一発勝負を狙ってみる、だ。 真理、宇宙を超える事は、人間の出来る事ではないのである。 《 真に「人類を生(活)かす」もの ? 》 小生の為すべき事は、 真理を世の中に伝え、更に浸透せ使め、 是に基づいた世の中に、根本的に変革せ使める事である。 何と為れば、此の真理は、空前絶後にして、人類の認識を根源的 に革新するものであるからである。 人類史に於いて、此の原初の極めて必然的為る釈尊の成道を、進化 、完遂し足るものであり、人類の諸能力を在ら使めて居る処の根底を 為す、永遠に不滅為る恒常普遍の真理であり、 是が涅槃と称する「宇宙(生命)の本質」であるが故に。 相対立する世界の、二元の両極間を振幅しつつ、「宇宙(生命)の本 質」(涅槃)に一(いつ)為らんと、進化(=収束)し往くのである。 小生に至りて、両極を究竟し、自今已後、平等為る七十七億人を完遂 する迄、只管(ひたすら)収束し往くのみである。 世界の政治家足る者は、斯く在らねばならないし、 斯くして世界を、団結と信頼に基づいて導かねば為らないのである。 《 欲 と 覇権争奪戦 》 睡眠欲>食欲>性欲>|金欲>名誉欲 | 〔生理的欲〕 ←|⇒ 覇権争奪戦 (勝敗の二元世界) 《 世間 (欲界) と云うもの 》 退化 ←|→ 進化 覇権争奪戦 〔世間〕 信頼 地獄←淫欲←三毒(貪・瞋・癡)←大脳新皮質と欲→菩提心→涅槃 〔癡愚と安泰〕 (人間) 〔積極性〕 ↑ 本能 (動物) 悟ると、最も疎(うと)ましきものが身為る淫である。 人類が生きんとして求める淫欲は、死への入口である。 斯(化)るが故に、キリスト教に於いては、アダムとイブの失楽園の罪 を置いた。 要は、退化為らずして、「人を生(活)かす」進化為るべしと云う事で ある。 少なくとも、人間として此の世に生を受けたならば、本能よりも進化す べきだ。 退化するならば、人間として生まれない方が宜しいのである。 恥を知らない禽獣(きんじゅう)の方が益(ま)しだ。 菩提心の有無が、其の試金石である。 毎日(日課と三時起) 八時 朝準 ネット 十一時 托鉢 就寝 《 宇宙の調和と均衡と静寂に回帰 》 宇宙の調和と均衡と静寂を喪失する因が人類三毒(貪・瞋・癡)であ る。 人類が、其の母体為る宇宙の調和と均衡と静寂を取り戻すには、 此の宇宙に倣う以外には在り得ないのである。 宇宙を科学し、征服すると云う方向性から一歩退いて、自己を忘れて 、宇宙に証されるのである。 悟った人間は、宇宙を自己に復元し往く人間である。 正に菩提心為るものは、「宇宙(生命)の本質」からの促しによりて、 人間集団が部落形態から社会構造化されると伴に、人類の四苦や 欲への貪著に起因するものであるが故に。 真理と云うものは、菩提心と云う起動力とも云うべき涅槃妙心力に基 づいて至り得る、永遠に不滅為る恒常普遍為るものである。 「宇宙(生命)の本質」に違(たが)えずに接近し、接触して、「涅槃入り 」して、世界人類の幸福と平和と繁栄を完遂出来るのである。 其処には、人種差別無く、原爆投下無く、ヒトラーは存在しないのであ る。 国政は、先ず生存権の保障以前に暴力団で無い事だ。 《 恩寵 (おんちょう) とは 》 「恩寵(ちょう)とは神仏等が人間に与える恵み、愛。」とある。 自然の恩恵とは言うが、宇宙の恩寵に触れられる事は皆無である。 是は、小生の如く、「覚天」せざれば、至り得ない真理であるが故に。 然るに、是こそ空前絶後の恩寵中の恩寵であるにも拘らず、一人とし て、此の真理を知らないのである。 我々人類は宇宙の調和と均衡と静寂に回帰する事が必須であるが、 是は我々人類が、未だ知らざる宇宙の恩寵を蒙る事が出来るからで あり、是こそ人類が生み出す如何なるものも及べない処の、無上の恩 恵なのである。 総てに正鵠を射るが故に、此の弁(わきま)えが必要不可欠なのであ る。 此処に至らざるが故に、兎角、大儲けのつもりで、大損して居るのが 人類である。 是が三毒(貪・瞋・癡)の癡愚と云うものだ。 至宝を得るには、至難を経ねば至り得ないと云う事か。 止むを得ないと言えば、止むを得ざるものではあるが、 小生何も特別な人間ではない。 唯、昔から信・鈍・根と言う。 是、偏(ひとえ)に、菩提心の三態である。 《 宇宙真理を体得した鐵漢 》 正に、世界人類の幸福と平和と繁栄こそが宇宙原理である筈なのに 、何故に地球に寿命があるのか? 其れは宇宙の最高の智慧者にも寿命があるのと同様である。 此の真理は、宇宙を貫く、永遠に不滅為る恒常普遍の真理である。 真理は智慧を究竟す。 此の宇宙の真理の体得者が鐵漢である。 永遠不滅の真理である。 鐵漢は、仮令、宇宙が消滅しようとも、世界の唯一の永遠不滅為る 真理の体得者である。 仮令、「覚天」しても、得た真理は世界人類に伝え遺さない限り、何の 益にも為らないのである。 敢えて、世界人類に伝え遺さねばならない。 時空を越えて、世に二つの大事在り。 一つは「坐禅入り」であり、他の一つは「涅槃入り」である。 《 坐禅と涅槃 》 小生、今や坐禅から離れてしまったので、何やら、坐禅がつまらない ものの様に思われるかもしれないが、 要は、坐禅する時間が在ったら、 世界人類の幸福と平和と繁栄の為の智慧の一つでも生む時間に費 やすべきであると云う、 つまり「人を生(活)かす」の、刹那の「覚天」為る真中道による「涅槃 入り」に基づく「涅槃」為る「宇宙(生命)の本質」の、永遠に不滅為る 恒常普遍の真理に基づく判断である。 「坐禅入り」と「涅槃入り」とは蛍火と太陽との開きは在れども、 椀水に映る月も、海面に映る月も同じ月である。 要するに、「覚天」迄の菩提心の問題である。 其処に、人種差別は在り得ないし、原爆の破壊エネルギーの問題で もないし、ヒトラーの独裁力は関係無いのである。 唯、自己の菩提心の強さ在るのみ。 坐禅の功徳は、如何為る宝石も及び得ないものである。 自己と畳一枚在れば、他、何にも要らない。 誰でも、何処でも、何時でも出来る。 本物と云うものは、永遠に不滅為る恒常普遍為るものである。 無条件にして、如何なる者も此れを制し得ない。 故に、小生、坐禅を覚え立てには逆に、刑務所に入ってでも、正直、 坐禅に専念出来たらなァー、と思った程であった。 吾師は小生の其の心を見抜かれて、御自身に準(なぞら)えて、ズバ リと言ってのけられた。 「刑務所に入ってでも坐禅をする。」と。 悟った人間と云う者は、是位の神通力が在るものである。 そして其処に何の不思議も無い。 既に感応道交して居るが故に。 坐禅と云うものは、人間世界の総てに於いて、常識で把握出来ないも のである。 《 菩提心は自律特攻心 》 我々が置かれている世界は、地獄に成立して居る迷妄世界である。 其処に、若者が見出し得る確かなる救いの世界、つまり正解為るもの は無いのである。 総ては、止むを得ざる慰めでしかない。 何か一つでも、恒常普遍に世界人類を導き得る確足るものが在る であろうか? 無いのである。 だからこそ、東洋に於いて十牛図を生んだ。 先ず第一、尋牛(じんぎゅう)である。 其の確足るものを探し、尋ね行くのである。 此の迷妄世界の中を。 小生も、其の頃は迷える子羊であった。 紆余曲折、世間の常識の中を十年余り、遂に釈尊の坐禅に往き着い たのである。 是が「坐禅入り」である。 そして、「涅槃入り」であるが、是は釈尊「中道」と同様、鐵漢「真中道」 として、共に、人類が守護すべき「宇宙(生命)の本質」である。 是に基づいて、人類は涅槃智慧を生んで、世界人類の幸福と平和と 繁栄を構築し、完遂しなければ為らないのである。 此の真理に往き着くには、偏(ひとえ)に、尋牛の心で、是は菩提心 であって、是は太陽の機能の様なもので「世界人類を生(活)かす」心、 世界人類の平和が、此の菩提心に底流しているのである。 小生は、此の菩提心、世界人類の平和を願う心を自律特攻心と称す る。 極論すれば、究竟の真理も坐禅の功徳によって得られた正解の副産 物である。 自己を為しているものは、総て他であるけれども、 自己と云えば、只、此の菩提心一つ、 最終的には、万事に於いて、自己以外に頼れるものは何一つ無い。 《 米国の大過誤 》 米国は、先ず黒人に対し、土下座して反省する事無しに、米国の将 来は在り得ない。 世界の諸悪は、其処から流れ出る。 是が諸悪の根源と言っても過言では無い。 悪が悪を生んで限り無いのだ。 米国の黒人差別が、どれ程の悪影響を世界に与えているか、慚恥の 自覚が欠如している。 厚顔無恥の者は諸々の禽獣と相異なる事無し。 世界の長足る者は、其の資質無くしては為し得ない。 悪の統率者としての道しか残された道は在り得ないのである。 米国の黒人に対する差別は絶対に許すべからざるものである。 此の非法を、仮に、許したとしたら、世界は成立しない。 今の世界一の大国が、コロナウィルスの感染者、死者数に於いても 世界一であるとは何事か? 世界一、共に抑え込むべき国家で在りながら、逆である事は、一体 如何なる事を語るのか? 是は、取りも直さず、世界一の大国の在り様が誤って居る事を 露呈するものに過ぎないのである。 つまり、対応の仕方が、精神的に、根本的に誤っているのである。 其の心構えが、黒人に対しても、同様に露呈しているのである。 是は、大航海時代からのものである。 僅か、五百年余り前の事であり、現代に至っても、未だ真に反省に至 って無いが故に、哀れにも過去の非人間的精神を露呈した儘、今日 に至っているのである。 此の事に対する自覚が皆無である。 無自覚の儘に、今日に至って居る処が、米国の最大の悲劇である。 何と為れば、是は地獄への一路門であるからだ。 此の実情を明確に弁(わきま)えて、此の癡愚さ、無恥さを根本的に 猛省する事無しに、此の悲劇は解消され得ないのである。 現代最悪の大失態であり、世界が見て、見ぬ振りをせざるを得ない程 の非条理極まりない、世界を地獄へ引き摺り落す最悪の欠陥である。 中国の覇権は、米国への不信感が誘因と為らざるを得ない部分を 否定出来ない。 是、世界諸悪の根源であり、米国国民の、是に対する鈍感さ、 つまり驕慢さには測り知れない失望感を抱かざるを得ない。 是を解消しない限り、世界は開けないのである。 《 涅槃 (規則裡の不規則) の妙 》 物事は、規則通りに遣って居れば出来ると云うものではない。 不規則にこそ、生み出す機が在る。 では、不規則が良いかと言えば、然(さ)に非ず。 規則裡の不規則為るが故に然(しか)也。 規則無き処に不規則の機無し。 規則か、不規則かの二択の問題でなく、 要は、其れ等二元の底流が、「我を生(活)かす」でなく、「人を生( 活)かす」と云う事である。 是は、空前絶後の、至難中の至難事を経て至り得た最終結論である。 つまり、人類の身心の極限を極め尽くして至り得たものである。 斯(か)るが故に、軽視すべきものでは無い。 是をして、施政の中軸と為すべきものである。 何と為れば、永遠に不滅為る恒常普遍の真理為るが故に。 小生鐵漢独自の、特殊なものではなく、 飽く迄も、普遍性を究竟してのものなのである。 要略すれば、単純に、馬車馬の様に我武者羅に為せば宜しいのでな く、「悟り」でも、然(そ)うであるが、例えば、釈尊成道も、我武者羅の 挙句の、中道に至り得て初めて、成道し得たのである。 小生も、極仏(=生涯厳密千日涅槃行)の、可能性を極めた挙句に得 られた、一元為る、在るべき「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の真理であ ったのだ。 柿の実が熟して、木から地に落ちた様なものだ。 仏果と云う「人を生(活)かす」ものを結実したのである。 此の落地した熟果でなければ為らない。 其の為の諸条件であったのだ。 水だ!太陽だ!土だ!と云うよりも、熟果である。 熟果を生むべく、諸条件を整えねばならないのである。 是が、真の施政である。 是が、水だ!太陽だ!土だ!なんて遣って居ったら、 熟果に往き着かないであろう。 飽く迄も熟果の為、「人を生(活)かす」為の施政にして初めて最短路 で熟果を得る事が出来るのである。 此の熟果を得る為には、是を取り巻く、全てが、是を生んだのである。 何一つ欠けても、為し得なかったであろう。 諸条件を満たすには、環境が復元されねばならないし、自然を復元す るには、世界人類を生(活)かし合わねば、其れは不可能であるし、 生(活)かし合う為には、取った取られた、勝った負けたの二元対立世 界では不可能であるし、 如何しても、自己でなく、「人を生(活)かす」の退歩の脚、自(みずか )ら退いて、全体の為を思う生(活)き方、 自(みずか)らの保身、安泰でなく、全体の為の必要不可欠為る 自己犠牲は、全体が覚悟せねば為し得ないのである。 其の為には、第一主義は、 世界人類第一主義迄、退(しりぞ)いて、其処に立脚する以外には、 為し得ないのである。 是が、真理為る涅槃妙心智慧である。 此の智慧によりて、世界人類が平等に遣って往ける世界を構築する 為に、自己を制する。 抑止、制圧でなく、真理に基づく正しき自制と云う正道を歩まねば為ら ないのである。 是は、馬車馬(引き)第一主義では地獄行きだ。 矢張り、身第一主義ではなくて、心、更に智慧第一主義が、人類が 採択すべき正道である。 此の涅槃妙心智慧に基づく生き方に、進化を遂げねばならないので ある。 《 道 (宗教性) を超えた涅槃 》 小生が医学生で坐禅(=道(宗教性))を知らない時と、古希の今と 共通する部分と云えば、自己を遮(さえぎ)るものが全く何も無いと云 う事である。人も居ない。唯、世界平和を希求する心あるのみである。 未だ、何も知らざる一人の医学生に過ぎない時と、古希の今とは、 人生の出発点以前とゴール以後の違いが在れども、其処に共通する ものと云えば、道以前の一学生と涅槃人であるけれども、 前者は道(宗教性)以前の、無限の宇宙の如く開けたる、既に約束さ れて居る可能性の様なものを孕(はら)んだ心、是こそ「宇宙(生命) の本質」(涅槃)からの促しに他ならないのであるが、 一方後者は道(宗教性)以後の、道(宗教性)を超えた、世界人類の 生命の本質為る涅槃である。 是が真の宗教である。 真の宗教に至るには、多様為る宗教性が必然的に不可欠為るものと して何処迄も、肉付けされた世界が構築され往くのである。 《 人類 (身後) 究竟心進化 》 小生が、釈尊の『最後身』に倣って、自(みずか)らを『最後身心』と 称したのには、其れなりの故有っての事である。 究極の心の進化(「悟り(=身心脱落)」と「解脱」と「覚天(=涅槃 入り)」)は、夫々「宇宙(生命)の本質」(涅槃)への接近であり、接触 あり、帰一である。 「悟り」は坐禅の功徳三昧で、「解脱」は出家して寺を出て、欲界で 初(厳密千日解脱)行完了して、寺に復帰する直前の、自由に解放さ れた段階で、そして「覚天」は生涯後(厳密千日涅槃)行中、上求と下 化の、十五回(五年間)の完了と再起の繰り返しの極限に於いて遂に 十六回目に、其の迷う母体に、夫々「宇宙(生命)の本質」が刹那に、 偶然に必然性を以って、真理を体現せ使めたのである。 是等総ては、自己と云う存在の根源的変革である。 是等は恰(あたか)も、蝉が孵(ふ)化して幼虫と為り、脱皮して蛹(さ なぎ)と為り、羽(う)化して成虫と為って飛立つ様なものである。 故に、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違(たが)える様な心的状態や、 正法為らざる苦行では是等は生じないのである。 故に、釈尊も中道を経て、無我状態に於いて初めて成道され、『最後 身』足り、小生も不退転の菩提心裡に『最後身心』と為ったのである。 此処迄至れば、 道(宗教)を超越して、後は「人を生(活)かす」のみである。 只管、「人を生(活)かす」為に、日々二十四時間命が在るのである。 従って、必然的に施政に究竟する事に為るし、又其れ以外には無い 訳で、若し然(そ)うで無ければ、其れ迄の過去を全て否定する事に 為るのであって、其れは在り得ないのである。 偶然必然為らぬ不昧因果である。 命在らん限り、「世界人類を生(活)かす」涅槃妙心智慧を世界に 究竟するのみである。 要するに、極仏(=生涯後(厳密千日涅槃)行)に目的は無いのであ って、当然仏道を極めて居るのであるが故に、上求菩提と下化衆生 の両側面が在るのであるが、是等の本質的在り様以外のものは無い のであって、是等の宿命的為る振幅せる不確定性に基づいて初めて 「覚天」し得たのである。 是を譬えれば、「覚天」為る証(あか)し無き涅槃様状態とでも云うべき ものである。 心の進化の究極に至るには、此の究極の自制によって開放された 自由さが不可欠なのである。 此処に於いて初めて道(宗教)を超越する契機と為る刹那(=「覚天」 )が在り得るのである。 此の無我(=真の菩提心)にして初めて至り得るものである。 斯(か)るが故に、『最後身心』足るのである。 本来菩提心は、必然的に「宇宙(生命)の本質」に帰一し往くものなの である。 然るに、釈尊をして中道に至ら使めた断食苦行や、小生をして真中道 に至ら使めた、実り無き極仏行の、『死に至る菩提心』が自(おの)ず から「正法」を生み、「涅槃」を生んで、宇宙裡に生かされている人類 に、『生きる指針』を開示したのである。 是等は、共に信受し往くべきもので、敢えて追体験すべきものでは無 い。 要するに、二十四時間、三百六十五日、少欲・知足にして精進(坐禅 )すると云う正法に基づいて、「解脱」し、永遠に水と油の如く世の中を 正し、「世界人類を生(活)かす」智慧を構築し、完遂する事に尽きる のである。 仏界に於いては、初(厳密千日解脱)行を専らと為し、「解脱」しなけ ればならない。 更に、後(厳密千日涅槃)行に親しむも好ましきものである。 是が「宇宙(生命)の本質」(涅槃)であり、是に同じ、帰一して、是に 違(たが)わないのが、世界人類の幸福と平和と繁栄の構築と完遂 への最短路である。 具体的、現実的に、 世の中の事と云うのは、 退く事無くして、完成するものではない。 何と為れば、生命為るものは、 宇宙から生かされて居るものであり、 生かされて居る存在同士が、我を立て合って、 勝った、負けた。 取った、取られた。は無いのである。 人類は諸々の禽獣とは相異なるのである。 生かされている存在であるからこそ、 皆が生かし合って往かねばならないのである。 基本的に平等為る生命なのであって、然(そ)うでなければ為らない。 地上の有限為る資源に対しても、加速度的に増加する人類は、 少なくとも、少欲・知足が根本に無ければ為らないし、 「世界人類を生(活)かし合う」心が根本に無ければ、 世界は成立し得ないのである。 《 捨 て 処 》 人間と云う者は、 捨て処を知るべきである。 捨て処を知るには、人間は、大切なものは、 一から百迄捨てるべきではない。然(そ)うでなくて、 其の中、肝心要の最後の一つだけ捨てなければ宜しいのである。 是で往けば、皆旨く往く。 角を立て合って、覇権争奪合戦する必要が無く為る。 其の最後の一つは、時空を超えた一つである。 是、永遠に不滅為る恒常普遍の真理である。 そして、是に付随する、多様為る五十であろう。 是が涅槃である。 是は捨てて、捨てられるものではない。 人間の分別に依らない真理であり、 宇宙の調和と均衡と静寂である。 是が真の生き方である。 人間関係初め、総てに斯く在るべきである。 斯く在れば、世界人類は間違い無く、宇宙に帰一し、 信頼と団結は、自ずから生まれるのである。 《 令和新世紀、空前絶後の大課題 》 人知に血が通っていない。 死んだ知の集積に過ぎない。 各国、各分野のリーダーは居れども、夫々が分断し、対立し、孤立し て、相互に、根本的信頼に基づく連携が欠如している。 つまり、三毒(貪・瞋・癡)に立脚する自己の立場を離れて、三善根( 施・慈・慧)の立場に立って思い、考え、行動しなければ為らないので ある。 小生の全てを支える托鉢は、百%、先方の信心、心遣いに依存する ものであるが、其れだけでは乞食(こじき)に過ぎない。 しかし行乞(こつ)為る、乞食(こつじき)は、釈尊、吾師、自己の真理 に証されたものである。 托鉢される方も、する方も一心で、唯、機械的でも、「人を生(活)かす 」と云う目的を果たし得るのである。 根本的に「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に立脚して居るからこそ成り立 つのである。 小生の様に、釈尊の原点、換言すれば、吾師の道、つまり自己の道 に一切を委ねる信頼に基づいているが故に、為し得るものである。 信頼とは、好く言われるのであるが、 総ては、相対的、或いは神仏等虚為る、或いは学問的な人類の実存 とは係わり無いものである。 唯一、小生の「涅槃」のみが信頼に値するものである。 政治的信頼性は、是に基づく以外築き得ないのである。 社会的規範を逸脱しないからこそ、又然(さ)も無くば力尽くで、各国 の指導者足り得ているのである。 いずれにしても、人間の諸能力の行き着いた処であって、其処から出 る困難さが、今を現じて居るのである。 是が人間の諸悪の根源為る三毒(貪・瞋・癡)の末路であろう。 唯、社会通念の在ら使めて居る立場であって、何時、三毒が暴発する か判らない。 斯(こ)うした、小生と社会情勢との立場の違いが現存するのである。 今、アメリカと日本に象徴される双方の現実を熟慮するに、 西洋の知恵と東洋の智慧の根本的相違が明らかと為る。 自国の想定外の総理辞任に於ける、菅氏と二階氏の配慮には、死ん だ、血の通わない知恵を、「人を生(活)かす」智慧に転ずる機を感じ た。 (坐禅で悟って、)三善根(施・慈・慧)に立脚し、あらゆる障碍を砕破し て、世界人類の立場に立って智慧を練り上げて生み出す。 其処には必ず善策が生まれるのである。 改善される事必定である。 機械的では何も生まない。 自己の本分には、全身全霊で取り組まねば為らないのである。 人類の知恵は死物であり、生きていない。 三毒(貪・瞋・癡)に立脚した智慧に過ぎないのである。 原爆投下、人種差別、激甚自然災害等、総て然(そ)うである。 世界人類の立場に立って、如何して、其れ等が在り得ようか? 如何して、敏感に感じないで居れようか? 人類の、万物の霊長足る大脳新皮質の可能性は未だ全く開拓されて いないのである。 無量の智慧は、悪の根源、、三毒(貪・瞋・癡)に阻害された儘の状態 である。 如何為る困難も打開する智慧が、未だ生み出されない儘に為ってい るのだ。 今だからこそ、其の真剣さに立つ契機を得たのである。 日本人の正確さに倣うべきである。 終わりが、新世紀への始まりである。 死んだ、三毒に立脚した知恵が、血の通った、「世界人類を生(活)か す」涅槃妙心智慧に転ずるには、坐禅が最善である。 坐禅によりて精神集中し、邪気(念)を払い、自己を離れて宇宙の立場 で判断し得るのである。 鐵漢は偏(ひとえ)に、其の賜物に他ならない。 《 人類諸悪の根源 》 人類の諸悪、 大量破壊兵器、人種差別、ヒトラー等の根源は、 人類の三毒(貪・瞋・癡)である。 原爆投下、黒人差別、激甚自然災害等の根源は、 夫々個別に在るのではなく、 人類の三毒(貪・瞋・癡)によるものである。 坐禅すれば人間は「悟る」。 悟れば、三毒(貪・瞋・癡)は、自(おの)ずから三善根(施・慈・慧)に 転ずる。 「宇宙(生命)の本質」に帰一し、「涅槃」の永遠に不滅為る恒常普遍 の真理を得たのである。 是、宇宙をして、調和と均衡と静寂為ら使めているものである。 真理は人類を裏切らない。 真理を裏切るのが人類である。 真理は人類を真理為ら使めんとして居るのであるが、 是に違(たが)えるのが、人類の常なのである。 真理(=一元)は神仏を超越するし、人間(=二元)世界を超越する。 世界人類に信頼を得るのは真理以外には在り得ない。 真理を信ずる事が、世界に信頼を取り戻す契機と為るであろう。 正に是を世界中の選挙に掲げるべきである。 其れが、真の選挙足るべきである。 米国の諸悪が解消される事が、世界中の諸悪を解消する事に?がる のである。 《 究竟は「覚天」に究盡す 》 「覚天」は、一元(=涅槃)化であり、 宇宙(神仏等も)と人の二元化(=キリスト教失楽園や極仏等)の 逆である。 椀水に映る月を極めれば、 海面に映る月も同じであるし、 大海も分かるのである。 原初は如何とも在れ、吾関わらず。 只管、人事智慧の構築、完遂在るのみ。 世界連邦を構築し、国境を超えて 世界人類の物質的、精神的基本 的条件確保を目的と為すべし。 是が政治の本分である。 《 本質の究竟真理 》 率直に、「宇宙の本質」が小生をして最終的に正(ただ)使めた、とも 表現し得るのであるが、 事の始まりは、小生が坐禅に至り得て、坐禅を専らと為す様に為って、 其の功徳を、初めて知るに至るのであるが、 坐禅の功徳とは、取りも直さず、人間が無心に為って、知る事が出来 る「宇宙(生命)の本質」に過ぎないのである。 本質に導かれる。つまり、心の進化の端緒を得た訳である。 心の進化とは、 先ず、従来の人類の諸業(学問的真理も含めて)為る我が、本質に 導かれて(=自己を忘れて)、生命其のものの、暖かさ、優しさ、落ち 着き、柔軟為る心を得るのである。 (敢えて小生、我と言ったが、是は此の道以外の、即ち、永遠に不滅 為る恒常普遍の真理、或いは「世界人類を生(活)かす」大我為らざる 我の事である。 学問的真理は大脳新皮質の、掴み処の無い、体現され得ない、 「宇宙(生命)の本質」為らざる虚為る果て無き真理に過ぎない。 「宇宙(生命)の本質」為らば、真理として人類が体現し得るので ある。 一方「宇宙の本質」の真理は大脳新皮質の慮知心による菩提心によ る涅槃妙心力を借りて、生死を超えた全身全霊によって明らかに体 現された空前絶後の究竟真理である。 若しも釈尊が人類救済の、解脱を求めての断食苦行で、敢えて死を 選んだとしたら、釈尊は世界一の馬鹿者であったのだ。 然るに、釈尊は求道に於ける諦観による中道に基づいて、成道した のである。) 是は、「宇宙(生命)の本質」に接近して居る状態である。 此の延長線上に、程無く、「悟り」がある。 斯くして、人類の三毒(貪・瞋・癡)は、難無く、三善根(施・慈・慧)に転 ずるのである。 是が人間の菩提心を、更に、確足るものと為し、時至りて、必然的に 初行に至るのである。 完了すれば、既に比肩する者は無く、不退転にして、初行を興すべき である。 此の段階から、時至りて「解脱」は然るべくして訪れる。 釈尊が、自(みずか)らを「最後身」と為したには、其れ為りの故有る のである。 つまり、断食苦行→中道→成道、此の追体験は為すべきではなく、 此の先を、心の進化為さ使めねばならないからである。 又、小生鐵漢をして、「最後身心」と称したのにも、同様の故有っての 事である。 つまり、生涯後厳密千日涅槃行→真中道→「覚天」による「涅槃」、 此の追体験も為すべきものではない。 此の先は涅槃妙心智慧による施政以外無いからである。 斯様に、心の進化を究竟するには、心の緊張と緩和裡の、心に掛か る事柄が消えた雲間が不可欠である。 然るに、是等は為して為し得るものではなく、不退転の菩提心により て、自(おの)ずから「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に導かれ往くが如く に、是に帰一し得た刹那に体現された真実である。 共に、自(みずか)ら体現した自明の真理として信受するもので、 追体験する必要は無いのである。 偶然裡の必然である。 以上が認識されれば、後は、斯く足る是等の中道と真中道に基づい て、世界人類の幸福と平和と繁栄の基盤である処の、世界人類の 物質的、精神的基本的条件確保を構築、完遂せ使めねばならないの である。 是が政治家の真の使命である。 《 忍 の 徳 》 断食苦行によりて中道に至り得て、成道された釈尊にして初めて、 当然の事として受け入れる事であるか。 釈尊、般(はつ)涅槃に臨まれて、 『忍の徳たる事、持戒苦行も及ぶ事能(あた)わざる処也。 能(よ)く忍を行ずる者は、乃(すなわ)ち名付けて有力(うりき)の 大人(だいにん)と為すべし。 若し其れ悪罵(おめ)の毒を歓喜し忍受して、甘露を飲むが如くする 事能(あた)わざる者は、入道智慧の人と名付けず。 所以(ゆえ)は如何(いかん)と為れば、瞋恚(しんい)の害は、即ち、 諸々の善法を破り、好名聞を壊(え)す、今世後世の人、見んと喜(ね が)わず。』と。 是も、大脳新皮質によりて、自(おの)ずから閉じるに至るものである。 《 日本の政治家と僧侶の使命 》 古代ギリシャでは、呼吸(息)[=プシュケー]が生命、心を意味し、 日本でも、息(いき)から「生きる」が生まれた様に、 呼吸は人間為る生命体と宇宙間との間断無き大気交換による、 最も基本的、生命エネルギーの発生源である。 観念的でなく、此の呼吸を極めるには千日行以外には無いのである。 千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)によりて、自(おの)ずから 腹式(臍下丹田)呼吸に転ずる。 小生が「涅槃入り」した「覚天」も、特に呼吸を通して、「宇宙(生命)の 本質」(涅槃)を自己に体現し得たのである。 坐禅中の呼吸と云うものは、通常意識せず、正に自然なのであるが、 其処(そこ)に、刹那に異常を惹起し、持続不能の不協和状態を呈し た事によりて、「行」でない「人」だ!と刹那に天意(=本質)を覚(さと )り、「覚天」し、「涅槃入り」したのである。 人類史上、最極悪は米国による日本への二度に亘る原爆投下に極 まるのである。 故に人類は地上非核化によりて、人心一新し、其れによりて信頼を 新たに築かねばならないのである。 日本は今日に至る迄、此の地獄の負の遺産を、極善為る正の遺産 足る「涅槃」迄、心の進化を完遂せ使めたのである。 正に是は不昧因果〔因果を昧(くら)まさず〕に他ならない。 世界は今や、正に此の「涅槃」へと収束し往く進化の途上に在るので ある。 令和新世紀を迎えて、我々は涅槃妙心智慧によりて、少欲・知足にし て、物質的、精神的基本的条件確保を第一義に図り、世界人類の幸 福と平和と繁栄を構築し、完遂しなければ為らないのである。 千日行を世に興す事が人類の進化を加速する。 是は禅僧の責務である。 世の中は人間の能力を生(活)かし、自己主張する方向性であるが、 此の、心を耕し、「世界人類を生(活)かす」、此の真理(実)への方向 性が最重要不可欠なのである。 政治家と僧侶は連携して、世界を興起せ使むるべく、涅槃妙心智慧 を生まねばならないのである。 日本の政治家、及び僧侶が今後、世界に対して果たさねばならない 責務は重大である。 《 小生がトランプ氏ならば 》 先ず、世界が一つに為れる礎を築く。 信頼だ。是が無ければ何一つ始まらない。 其の為に、敢えて、地上非核化。 次、地上最も複雑に不安定に混沌とした中東情勢。 不毛なる中東の極端な格差を無くすべき世界レベルでの智慧。 それから、コロナ対策である。 米国の失態の根本原因が何処に在るのか? 社会常識からすれば、明らかに其の真逆であるべきであるが、 真実は然(そ)うはならないのは何故か? 恐らく、此処にこそ、人類の最大の問題点が在るのである。 高度文明化する過程で、人類が陥った過誤が有ったに違いないので ある。 余りに物質偏重する中に、人類が見失ってしまった貴重な部分である 。 是が他ならぬ鐵漢なのである。 米国が野球界に於けるイチロー氏に寄せる心だ。 賞賛はすれど、自身は如何にも為らない。 黒人に対する差別、我欲の統制が効かない。 つまり、能力偏重と本質の喪失である。 是は、現代高度文明化に随伴する人間の三毒(貪・瞋・癡)害の典型 である。 要するに、東洋と西洋とを分かつ最も顕著なる特質である、東洋の「 悟り」であるのだ。 正に、「高度文明化」と「悟り」とは、人類の特質の二つの対極足るも のである。 日本と米国に其の典型を見るのである。 印度やブラジルの途上国に於ける感染者数が異常に大なる事とは 事情は明らかに異なるのである。 第二次世界大戦の終結の直接的原因と今時の感染症パンデミックの 特徴の原因、是等双方の底流は一つなのである。 人間の能力の暴走と表裏一体為る、本質の喪失である。 是は人類の三毒(貪・瞋・癡)の結末なのである。 斯くして、西洋、取り分け、現国連常任理事国家は東洋、日本、鐵漢 を範として、是に基づくべきなのである。 そうして、国連の真の主張に基づいて、常任理事国家が「世界連邦」 に生まれ変わらねば為らないのである。 此の様に、世界情勢と云うものは、根源から取り組まなければ変革し 得ないものである。 「急がば回れ」、「退歩の脚」だ。 本質的取り組み無くして、改善は在り得ない。 小手先の二元対立でなく、本質的一元化を図らねば、問題は解決し ないのである。 黒人差別も同様である。 是は、本質的には自国の貪欲を満たす為に、偶々(たまたま)黒人が 其処に居たと云うだけで、黒人を動物的に奴隷化したのであって、 其れは日本に原爆投下したのと同様なのである。 自国の三毒(貪・瞋・癡)の結果である。 矢張り、 坐禅(行)による、二十四時間の根源からの取り組みにして初めて、 本質に基づく、相対的為らざる、不動の正解(=真理)に至り得るの である。 社会通念では、其処に至る前に、取り返しの付かない三毒(貪・瞋・癡 )為る行為に陥ってしまう。 悲劇は、相手を(切り)捨てた処から始まる。 仮令、相手が離れたとしても、其の事で相手を見捨てたら旨く行かな いのである。 何と為れば、自己為る者は全一為る存在であるからだ。 全体が一(いつ)と為って調和し、均衡が取れて、静寂なる「涅槃」が 現成し、宇宙の真理為るからである。 小生が坐禅を止めたのも、其の事を体現し、「覚天」したからである。 つまり、本質為らざる、学問的帰結としての on か off かの攻撃用の スイッチに為ってしまう。 万物の霊長足る人間生命の本質的問題を、本質為らざる学問的 レベルに置き換えて処理すると云う大過誤に陥ってしまったので ある。 其れは、「宇宙(生命)の本質」為る涅槃妙心智慧によりて処理し なければ為らないのである。 学問為るものは、如何に複雑為れども、其れはシグナルの複雑さで、 大脳新皮質の複雑さ、つまり未だ、身の進化の極限に過ぎない。 進化を終えた身から、心の進化への移行が無い。 未だ本質的には、アルプス山中の苦行者にも至り得ていないのであ る。 先ずは、釈尊の原点に復帰してからの事である。 其処からして初めて、スイッチに及ばない、 本質に帰一する事が出来るのである。 《 大戦終結は史上最悪原爆支配の開始 》 世界三大負の遺産中最悪為る原爆支配による日米の関係(沖縄問 題等)に於いて、日本にとっての米国による核の傘は全く不要である。 若しも日本に再び原爆投下への方向性が生じたならば、世界は地獄 に堕ちるであろう。 今現在でも、世界は平安を維持する事すら困難なのである。 原爆投下の脅し以上の、日々の生存の危機に陥っているのである。 其の原因は、総て終戦以後の人類の在り様に在ったのである。 今こそ人類は是迄を原爆から自衛へ、自衛から涅槃へと正さねばなら ないのである。 「涅槃入り」した鐵漢の日本の菅氏が、其の先頭を切るのである。 第二次世界大戦の終結は、原爆投下と云う人類史上最悪の、最も人 類三毒(貪・瞋・癡)の極悪極まるものであり、終結為らぬ、原爆支配 の開始であった。 斯(か)るが故に、今の地獄が在るのである。 火と水と風と気温の、果てし無き時空に於ける激甚自然災害と感染 症パンデミックによる日常生活持続不能状態。 黒人に対する大航海時代以来の奴隷化する蔑視。 物質世界のテレビゲーム的米中の対立。 是等の悲劇は総て原爆支配に因る大戦の終結に始まっているので ある。 大戦の終結は表向きであり、地獄の開始に他ならない。 何と為れば、原爆投下と其の支配を引き摺って居るからである。 人類と云う者は根本的に解決しなければ改善し得ないのである。 ヒトラー独裁が原爆独裁に極悪化したに過ぎない。 是に付随する沖縄不法占拠である。 「沖縄問題は原爆独裁の弊害である。」 二次大戦は今だに継続して居るのである。 地上非核化にして、初めて二次大戦は完全に終結するのである。 中国の南沙諸島問題処の話では無い。 沖縄県民の為に日本の独立国家を侵害すべきではない。 そもそも核の傘の発想自体に誤りがある。 地上非核化であれば、そんなものは不要である。 自衛隊だけで宜しいのである。 米国の侵犯は不要だ。 人類生きるのに格闘技は不要なのである。 TVゲーム位で宜しいのである。 人世は格闘技に在るのではなく、涅槃にある。 涅槃とは宇宙の調和と均衡と静寂である。 「宇宙(生命)の本質」である。 是は涅槃妙心智慧による世界。 本質に基づく信頼と一体の世界である。 地上非核化、自然復元、沖縄完全返還。 日本植民地化完廃。 日本は米国依存を断って、沖縄も含めて完全自立すべきである。 人類は理想的には、信頼に基づく、自衛隊の無い国家足るべきであ る。 此の方向性を持ってこその人類である。 個人レベルに於いても、国家レベルに於いても、 「宇宙(生命)の本質」に基づく「涅槃」の在り様である。 人類の心の進化の究極である。 何と為れば、自衛隊と「涅槃」とは異質であり、両立しない。 自衛隊の個別的自衛権と、警察組織が在れば宜しいのである。 武器を生む前に坐禅すべきである。 米国は、カポネは消滅したが原爆投下したとは何事か? カポネの方が益しである。 極限に迄、極悪化して居るのが現在である。 今が極悪の頂点である。 人類は心の進化を遂げるべく生まれたのである。 涅槃迄。 涅槃を目指すのが人類の方向性である。 是を日本が米中と共に先導するのである。 何と為れば、世界唯一の日本が涅槃の発祥地であるからだ。 此処から世界平和を発信するのである。 世界人類、一人として、世界平和を希求しないものは居ないのである。 人間であるならば、是真である。 涅槃の真理説けるのは 小生鐵漢だけ 出来る事は小生鐵漢を 崇仰するのみである 鐵漢を神と受け留めて 生(活)かすのみ 真に最後身心也 《 ヒトラーと原爆と黒人差別 》 ヒトラーと原爆と黒人差別、是等は世界の三大負の遺産である。 果たして、米国は世界遺産の発起国でありながら、負の世界遺産の 時点で、成り行き上、一時(?)、立場上退いた。 小生、ヒトラーを終結させた当事国が、極悪化して原爆投下、原爆支 配している。 ヒトラーが原爆に極悪化したのである。 更に、五百余年前の家畜の如き黒人奴隷の習癖が、未だに当然の 如く警察権力に露呈して止まる事が無い。 更に、人類の貪欲の帰結としての自然破壊が齎した、止まる処を知ら ない記録的、壊滅的異常気象、激甚自然災害と、嘗て無いウィルスに よる感染症パンデミックと、其れ等に随伴する世界規模の生存上の 危機的状況等、正に地獄の一歩手前である。 斯るが故に、 此の機に及んで、不昧因果(因果を昧(くら)まさず)、小生鐵漢が 空前絶後にして「覚天」し、涅槃為る真理に至り得たのである。 是迄の一切の人類の諸業、諸学の依り処を得たのである。 是に基づいて、諸事万端、取り計らって行くべきである。 人類は自己を顧みて、懺悔する心を生む事無くして、心の進化は得ら れないのである。 心の進化に不可欠為る、菩提心の基と為る、(三毒(貪・瞋・癡)為ら ぬ)慚恥(ざんち)(=恥を知る)の心が欠かせない。 《 「本質」からの促しの不解なもどかしさ 》 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し、は 人心には「擬(もど)かしさ」と表現されるものである。 「擬(もど)く」の形容詞で、「じれったく、歯痒い」、「気が急(せ)き、落 ち着かない」、「思う様に為らず、じれったい」の意。 Frustrating(英)、心痒(心がかゆい)(中)。 つまり「擬(もど)かしく、歯痒い様子で探し回る」のである。 此の促しによる擬(もど)かしさの生き様は全く様(さま)に為らない。 まともで無いから、一見不良の様なものである。 当然の事ながら、裏を返せば、此の「促し」の母体である「宇宙(生 命)の本質」(涅槃)を予感させる要素の様なものであるが故に、 解らないから、然(そ)う為らざるを得ないのである。 先ず、此の疑義に本質への方向性を与えるものとして「坐禅入り」す るのである。 そして、本質へ接近し、接触し、帰一し、「涅槃入り」して坐禅は其の 役割を終えるのである。 高校入学時の頃の「促し」為る疑義から坐禅に往き着く迄十年間、 是無ければ何も始まらない。 此の最も様(さま)に為らない時期が最も重要である。 そして、「初行入り」迄十年間程、「後行入り」迄二十年間、 「覚天」迄十五年間である。 令和元年九月「覚天」して、丁度一年である。 斯様な訳で、 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しに応えるには、つまり 真に本質的生き方をする者は、釈尊も然(そ)うであった様に、 坐禅以外には在り得ないのである。 坐禅は人心を本質化し、涅槃妙心智慧を生ま使め、世界平和を構築 、完遂せ使めるのである。 自心の疑義が「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に帰一する 唯一の手段が坐禅である。 《 「宇宙の本質」と菩提心と坐禅 》 人類の真価は、偏(ひとえ)に菩提心に有る。 此の菩提心は、人類の三毒(貪・瞋・癡)が「宇宙(生命)の本質」か らの促しによりて、人心を、永遠に不滅為る恒常普遍の真理である 処の「宇宙(生命)の本質」(涅槃)へと進化せ使め、世界人類の幸福 と平和と繁栄を構築し、完遂せ使めんとする心である。 此の「促し」によりて、インダス文明に於いて自然(現象)と一体為る 農耕生活裡に瞑想が生じ、部落から社会構造化するにつれて菩提 心生じ、自心の擬(もど)かしさとして、「涅槃」に帰一する迄に下記の 諸段階を経るのである。 「促し」による擬(もど)かしさから本質に迫る唯一の手段が、瞑想や ヨーガに端を発する坐禅であり、坐禅以外は人事一切、総て人類の 二元相対世界の域を出でざるものである。 先ず、「坐禅入り」→「悟り」→「解脱」→「覚天(涅槃入り)」→「涅槃」と、 「悟り(身心脱落)」迄は出家、在家に係わらず、「坐禅入り」すれば、 間も無く至り得るものである。 是、偏(ひとえ)に坐禅の功徳によるものである。 此の功徳(「悟り」)は、人をして、精神(心理)的出家足ら使めるもので あるが、解脱には、出家と千日行(初行)が不可欠である。 「解脱」以降は大気圏外の領域である。 是を可能為ら使めるのは、唯一坐禅在るのみである。 坐禅を生ま使め、坐禅(行)為さ使め、現実実践為さ使めるのが菩提 心である。 菩提心は積極的、能動的であり、坐禅は消極的、受動的である。 菩提心は本質より出で、手段為る坐禅を生み、「宇宙(生命)の本質」 (涅槃)に帰一せ使め、坐禅を放棄して、「世界人類を生(活)かす」の である。 《 涅槃妙心智慧に基づく究竟知恵 》 人類は鐵漢独り、真に「涅槃」に至って、まだ一年経過したばかり、 唯一の真理、「涅槃」からの真法を真遺教に書き遺す日々である。 古代、釈尊在世当時、智慧は聞思の智慧と行智慧で、行智慧は頭陀 行であった。 二千五百年後の今、行智慧は究竟生涯厳密千日涅槃行であり、 「涅槃入り」によりて究竟智慧為った。 小生鐵漢により、智慧は「涅槃」に究盡されたのである。 人と人との間は、特に米国と中国に象徴される。 人心の時空に於ける究極に至って初めて、本質より可能と為るもので あり、三毒為る人類が「宇宙(生命)の本質」(涅槃)へ接近、接触、帰 一して至り得た「涅槃」より、施政知恵を生み、世界人類の幸福と平 和と繁栄の基盤である処の、世界人類の物質的、精神的基本的条件 確保を構築、完遂せ使めねばならない。 是が人類の「宇宙(生命)の本質」(涅槃)への進化の必然性である。 既に、心の進化は究竟され、涅槃入りした最後身心が、未だ進化遂 げざる世界(地獄)を教導し、進化せ使めるのが宇宙の必然性である 。 最後身心は 地上の最後の一人 を守る最後の一人 である 《 吾師の恩 》 坐禅は宗教であるが、是、超宗教・超科学的にして真理へ至る唯一 の手段である。 解脱 覚天 涅槃入り 涅槃 ↓ ↓ ↓ ↓ 正信――→確信――→確心――→心(本質)――→真理(涅槃) 正信で無くんば、解脱無きが故に真理に至らず。 僧侶の自殺行為による抗議等は消極的自爆テロに異ならず、 又、イエスを生んでも、虚構である以上、共に真理為らざるもので、 世界人類を教導し、生(活)かし得ぬものである。 世界人類を教導するには、確証に基づく確心無くんば為し得ず、 神は虚構にして、確信は持ち得ないのである。 坐禅(行)には確証に基づく確心が有る。 小生が吾師に心酔したのは、今に為って分析してみるに、師の確か さであったのだと思う。 原始仏教の究極であった、托鉢自活による十二頭陀行中、十一項目 は衣食住に関する戒で、最後のみ威儀としての但坐不臥である。 師は此の但坐不臥(常坐)を以って、千日行(三時間坐睡二十四時間 仏作仏行)を賞揚されたのである。 そして後行(=後厳密千日涅槃行)に対して、 「一体、如何遣って眠るのか?」と言い残されて居る。 小生、「後行入り」(五十五歳)の時、 過去の遺物、禅板(坐睡時、顎下で頭部を支える六~七十㎝の板棒) を使ってみた。 昔の僧は皆、然(そ)う遣って眠ったらしい。 しかし、坐睡は自力(=菩提心)の勢いのみで、初めて為し得るもので あって、道具等に依存する様なものではない。 正月元旦より即日為せた。 是が、小生が心酔した、師の確かさである。 師でなければ、此の確かさには至り得ないのである。 吾師の志によりて、伝統を出られ、原田祖岳老師の廃寺を東照寺に 托鉢再建されて後、鉄牛寺(=新道元宗)を建立された師にして初め て為し得た師の確かさであり、其の恩恵によりて、今の小生が在る。 不昧因果。 師の下を離れて四十年近く為る。 師足る者、如何に在るべきか? 小生は、宗教に対する「信」と云うよりも、「坐禅の功徳」から師に相見 (しょうけん)したのであり、此の小生にして、吾師は敢えて、但坐不臥 からの千日行を生まれたのだと思う。 小生が、其れに向き合う「刹那」に遭遇したのは、寺を出て後、暫くし て自転車で野宿しながらの日本一周の、厳密な坐禅行の途中の事で あった。 《 「甘え」から、泣く子も黙る寂静涅槃 》 人間には、老若男女を問わず、貪り から涅槃へ通ず「甘え」と云う ものが有る。 是は、唯一「涅槃」へ通ず情である。 寂静へ至る情。 赤子が泣き飽きて、静まる様なものだ。 泣く子が黙る「大涅槃人」である。 大いなる愛に、泣く子が泣く事を忘れるのである。 其処から真の積極性、菩提心を興して、世界人類に及ぼして欲しい。 《 真 理 》 真理は永遠不滅の恒常普遍為る「宇宙(生命)の本質」である。 是以外に真理為るものは無い。 最初の真理は釈尊成道であった。 真理とは永遠に不滅の恒常普遍為るものである。 斯くして、正法が生まれたのである。 是に基づいて、二千五百年後に極東、日本に於いて、初の正法苦行 為る千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)が生まれたのである。 中世以降、人類は本質を探究する事から目を背(そむ)け、現象のみ を追求してきた。 釈尊の予言によると、 釈尊滅後の千年間は正法であるが、其の後は中世以降の千年間は 像法(=正法に似た法)、そして末法と為っているが、 其の結果が、世界の今の現状である。 宇宙と生命を分離出来ない様に、身と心も分離出来ない。 宇宙は進化して、生命を育み、生命は進化して、身は大脳新皮質を 生じ、心を生んだのである。 心は進化して「悟り」、「解脱」し、「涅槃」に至った。 是等は夫々、「宇宙(生命)の本質」への接近、接触、帰一として、 人類が体現した唯一の真理である。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しと、諸悪(苦)の根源である 三毒(不善根)(貪・瞋・癡)との化学反応によりて、菩提心 生じ、 是によりて、心は進化を遂げ、最終的に「宇宙(生命)の本質」である 処の「涅槃」に帰一出来たのである。 菩提心でなければ、「宇宙(生命)の本質」である「涅槃」には至り得な いのである。 本質に帰一するには、菩提心で「涅槃入り」する以外に無いのである。 学問では本質には至り得ない。 此の真理によりて世界人類の幸福と平和と繁栄は完遂するのである 。 令和新世紀の菅新総裁には、世界を斯く、導いて頂く事を祈願致しま す。 大脳新皮質を本質化し、真理為る真実を事実化して往く作業であ る。 是、心の進化の究竟を普遍化するものなのである。 此の理想を迷い無く、確信を持って為し得るのは、偏(ひとえ)に 「覚天」し、「涅槃入り」した事に基づくが故である。 是、人類史上、空前絶後であり、 世界人類を幸福と平和と繁栄に至ら使める唯一無二の正道である。 是は、要するに、心を「解脱」出来ない有限為る二元対立の身に置く か、それとも、解脱と究極の真理を志向するこころ、つまり「宇宙(生 命)本質」(涅槃)に置くか、と云う事である。 三毒の貪り から奴隷にしてしまう、原爆を生む、淫快や金を貪る。 故に、我々は貪 なのだから、是を一歩控えて、自制すべく努める。 是が人間の品格を保ち、日本及び世界が向上する本因なのである。 是、万人共通に不可欠為る心掛けである。 支配者階級には、取り分け、心すべき事である。 貪り は火、心進化すれば少欲、知足にして鎮火する。 「大涅槃人」 は、一切の人事をブチ抜いて居るから、総てに於いて、 人を諭し得なければ為らない。 例えば、性愛の究極は「涅槃」であるとか、 学問の究極の目的も、他の一切の人事同様、真理為る本質であると か、何と言っても正鵠を射て居る訳であります。 「涅槃入り」した後の、此の真遺教を遺す作業が不可欠な訳でありま す。 良薬為れども、服と不服とが在る。 服すと云う事が不可欠なのでありますが、 「最後身心」 に応じねば、其れ迄の事である。 空前絶後にして、唯一最終最後の機会なのである。 釈尊にしては、解脱であったけれども、 小生鐵漢にして、「涅槃入り」して、真に「最後身心」 為るが故に、 此の機を失すれば、永遠に地上、地獄行きは必定不可避なのであり ます。 《 身 (=体力) と 心 (=智慧) 》 人類の究極の目標は世界人類の幸福と平和と繁栄である。 是を実現する為には、世界各国が其の目標を共有(本来ならば享有) し、其の下に一致団結して、其の為の涅槃妙心智慧を生み出す事に 尽きるのは明白である。 涅槃妙心智慧とは、「宇宙(生命)の本質」である涅槃に基づいた、 つまり「世界人類を生(活)かす」為の智慧の事である。 結局、人類の目標は「世界人類を生(活)かす」智慧を生み出し、 是を実践する 事である。 小生鐵漢が「覚天」して至り得た「人を生(活)かす」智慧を生み出す事 について触れて置く。 釈尊であれば、成道後の御生涯は正に其の成道に至る智慧である 仏教を構築する事であったのであるが、小生鐵漢に於いては、「涅槃 入り」によりて、小生に可能な限りの「世界人類を生(活)かす」智慧の 構築と完遂に他ならないのである。 此の「智慧」を生む、二十四時間三百六十五日の規則正しく、唯其れ だけに専念するのである。 体力を強化する事は世間で常識的であるが、能動的、積極的に此の 智慧を生む事は施政者でない限り、普通は為されない事であるだろ う。 然るに、此の「人を生(活)かす」智慧以外には、人類の究極の目的を 果たす事は無いのである。 此の「人を生(活)かす」智慧を見失っているのが我々なのである。 世間では、スポーツを楽しみ、関心を寄せるのであるが、 其処から一歩進んで、より能動的、積極的に「世界人類を生(活)かす 」智慧について、もっと関心を持つべきである。 政界に於いても、貪と、其の副産物としての保身、安泰 でなく、 一歩進んで、能動的、積極的に其の智慧を生み出す事に専念しなけ れば為らない。 国民の代表として、斯く在るのが、施政者としての使命であると確信 する。 斯くして、体力を増強、或いは維持する事から、智慧を生み出す事に、 移行して往くと云う事こそ、是は人類の心の進化の証しなのである。 本気で、其の事に取り組めば、体力と智慧と、同じエネルギーを使う であろうが、人類の最終目標の為には、何れでなければ為らないか は、自明の理である。 此の真の智慧を生む為には、心を、敢えて斯く究盡しなければ為し得 ないのである。 智慧は自然に流れ出て来るものでも、容易に生み出されるものでもな い。 其れに二十四時間三百六十五日、専念して、可能な限り規則正しく、 智慧至上主義と為らねば為し得ないものなのである。 又、然(そ)うであるからこそ、智慧が生み出され得るのである。 《 世界の基盤 》 上に起つ者の責務は、透明で有る事。 教育者も同様である。 世界のトップは、尚更の事である。 透明であると云う事は、真理であると云う事である。 つまり、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に帰一していると云う事である。 絶対的信頼が、此処に成り立つ。 透明であって初めて、世界平和の基盤が確立するのである。 心の進化と透明性は同義である。 貪が世界を闇にする。 信頼壊れ、教育破壊され、世界の基盤が壊れる。 光無く、希望無く、喜び消える。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)は「貪」でなく「施」である。 平和とは「本質に同ずる」事である。 日本が世界の霊峰である。 世界の不透明なる闇を晴らすのが、令和新世紀の最大の責務である 。 生きる喜びを復活するのが日本の責務である。 日本が世界に範を示す。 生(活)きる喜びは本質的信頼 に有る。 《 涅槃妙心智慧 》 「宇宙(生命)の本質」である、本来の心為る「人類を生(活)かす」「涅 槃」は心の進化の究竟である。 極仏為る生涯後厳密千日涅槃行に於いて、機熟して、刹那に 「行」でない「人」だ!と「覚天」し「涅槃入り」して至り得た、「人類を生( 活)かす」涅槃妙心智慧が機能する世界、是が「涅槃」である。 是が唯一の、永遠に不滅為る恒常普遍の真理である。 本来人間の心は「涅槃」に由来し、此れが諸悪(苦)の根源為る三毒( 貪・瞋・癡)によって、「解脱」の段階から「悟り」、そして迷妄へと、つま り「宇宙(生命)の本質」から離脱した、二元相対世界に転落してしま って居るのである。 人類の智慧と云うものは必ず「覚天」、「涅槃入り」、「涅槃」迄至るも のなのである。 涅槃智慧が得られていないのは、未だ、人類の「人類を生(活)かす」 菩提心が及び得ていないのである。 世界人類の幸福と平和と繁栄を構築するだけの労苦が必要不可欠 なのである。 可能為るものを、否、見捨てられないものを見捨てて、自己満足して 居るのであるから。 米国、印度は今や地獄である。 本来ならば、米国が印度を救済すべきなのであるが、現実と云うもの は然(そ)う云うものなのである。 小生鐵漢を否定する者は世界平和を思わない癡愚者に過ぎない。 《 花より団子 》 「花より団子」とは言うけれども、花とは世界人類の幸福と平和と繁栄 であり、団子とは自国(己)的欲である。 花は永遠に不滅為る恒常普遍であり、 団子は二元相対の時空的に有限為るものである。 要するに、儚(はかな)き身を択(と)るか、本質為る涅槃妙心を択(と) るかである。 夫婦、団子ペアーが、花志向と為るべきが団子志向と為って居るのを 貪 と言うのである。 夫々、自立した二個の花志向と為らねば、世の中は改善しないので ある。 世間と云うものが、然(そ)う為る事が世界平和の基盤なのである。 然るに、団子ペアー、或いは団子志向が基盤と為って居るのが、 世界が改善しない根本原因である。 世界を、無視と無関心で地獄と為す。 個々の自覚の問題である。 世間に、此の自覚を喚起するには、少なくとも最低限、指導者が率先 垂範しなければ為らない。 其処から、波間の隅々に迄、浸透させねばならないのであるが、 現実は、其の逆である。 指導者が、団子志向の範を波間の隅々に迄示して、世界各国に其れ を正す力が無い。 世界各国の無力さを露呈するのが、今の現実である。 唯一、日本こそが世界に自覚を喚起せ使める最後国家 である。 日本の奇跡は世界を奇跡為ら使めるのである。 世界に自覚を促す。 世界に本気為ら使めて、貪り から覚醒せ使め、 物質的、精神的基本的条件確保志向為ら使めん事を! 人類誕生以来、命が命と為して、最後国家為ら使めて居るのであ る。 《 地獄(悪)の連鎖を涅槃(奇跡)の連鎖へ 》 ヒトラー独裁は集団心理の権化である。 ヒトラーが人類三毒の権化を演じたのである。 人間の悪の根源が如何に恐ろしいか。 世界平和は個人個人が自己の心の三毒を三善根に転ずる以外には 無いのである。 仮令(たとえ)悪意を抱かずとも、人類は集団心理で、無関心、無視、 で間接的殺人集団に陥ってしまうのである。 人類は能動的、積極的に此の菩提心を発しない限り、本有する三毒 によりて、対立は避けられず、現米中間に象徴される不可避なる戦争 状態に陥ってしまう。 人類は能動的、積極的為る菩提心の発露以外には地獄を避ける事 は出来ないのである。 菩提心の発露とは未だ「覚天」せざる「人を生(活)かす」と云う本質に 至らざる自己を発菩提すると云う事であり、世界に悪を生まない処の 一)、物質的基本的条件確保不可能の救済と、 精神的基本的条件確保不可能の救済。 二)、貪に因る諸悪の自制と其の取り締まりと根絶。 三)、貪に因る諸悪発生の芽を制する。 事である。 更には、菩提心によりて、能動的、積極的に、米中の対立を対立でな く、米中間に信頼を生む事である。 米国と中国間に信頼を回復するには? 是が現代の最大の課題である。 米中の天秤には支柱が無ければ成り立たないのである。 此の支柱こそ、正に永遠に不滅為る恒常普遍の真理為る「涅槃」の 「世界人類を生(活)かす」 涅槃妙心智慧 である。 斯くして初めて双方に調和と均衡と静寂が成立し得るのである。 此の機に小生が真理に至ったと云う事が不昧因果 なのである。 米中が従来の流れに抗して、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の本質的 信頼に基づいて、米中間の信頼の礎を築く事が、此の第一歩である。 だからこそ、此処に其の「証(あか)し」としての地上非核化の意義が あるのである。 何と為れば、正に此の上記三)の貪に因る諸悪の芽こそが原爆 支配連合の根源であるからである。 是を契機として、米中が新たなる信頼に基づいて不要なる世界中の 出費(軍事費)を、世界を建て直し、改善する為の資金源と為す事が 出来、是によりて、上記一)が実現可能と為る。 地上非核化を即刻実現すべし。 是が世界に奇跡を起こす端緒と為るのである。 悪が悪を生むのでなく、 奇跡が奇跡を連鎖する。 《 「解脱」と「涅槃」と 人類 》 人間は「解脱」すれば水と油に為るが、是が人を生(活)かすには、 「涅槃」に帰一しなければ為らない。 「涅槃」に帰一するとは、「覚天」して、水と油にして、元の木阿弥に 為る事である。 人類には、此の真中道を釈尊中道と共に信受(堅持)する事である。 《 本質的(究竟)信頼 は「覚天」の仏果 》 「覚天」と「説く」とは完全に同格である。 後残るものは自己への信頼 である。 何と為れば、「覚天」を超えるものは何も無く、「宇宙(生命)の本質」に 帰一したからである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)を超えるものは何一つ無い。 此処から、本質的信頼とは絶対的信頼であり、究竟信頼である。 此の信頼を超えるものは何一つ在り得ない。 神と個人が同一為る処の信頼 である。 此処に、神への信は全く意味を為さなく為る。 何と為れば、「宇宙(生命)の本質」を超える神と云うものは虚像に 等しいからである。 人間は能動的、積極的でなければ為らない。 能動的、積極的に「貪(むさぼ)る」のでなく、 能動的、積極的に「施(ほどこ)す」のである。 「貪(むさぼ)り」は地獄を生じ、 「施(ほどこ)し」は涅槃を生ず。 受動・消極は間接的殺人に至る。 世間と云うものは、能動的、積極的貪か、 受動・消極為る間接的殺人かの何れかである。 唯、能動・積極為る施のみが、此の世に「涅槃」を生んだのである 。 《 絶対 (本質的) 信頼 》 一旦、上求菩提の終極である、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に帰一し 得て、後は、「人を生(活)かす」のみ。 其れ迄の一切は、時空を超えて、肯定されるのである。 是は釈尊中道同様、追体験すべきものでない、中道と、只管「世界人 類を生(活)かす」涅槃妙心智慧の構築と完遂に尽きる真中道である。 其の為の二十四時間三百六十五日、無駄な時と云うものは在り得な い、如何なる刹那も総てが、自己のー100は必ず+100に生まれ変 わる。故に、常に自由に勤めるのである。 是、全面的自己信頼の根拠である。 此の信頼の拠り処は、「涅槃」為る真理であるが故に、絶対信頼 為 るのである。 《 「悟り」の自覚 と 信頼 》 命には二つ在る。 一つは「人」。 後一つは「自分」。 何時も、「人」で在り続ける事は出来ない。 矢張り、「自分」が在っての「人」だ。 「人だ!」と言っているのは「自分」なんだ。 「人だ!」を、 上求菩提で遣り、下化衆生で遣り、最後は自分(=極力、規則正しく) で遣るのである。 「宇宙(生命)の本質」は「涅槃」であり、 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に帰一するのは菩提心によるものであ る。 本質為る涅槃の自己は菩提心為るエネルギーに因るものであり、 是が自己を自己為ら使め、宇宙を宇宙為ら使めて居るのである。 此のエネルギーの一片によりて、宇宙に生み出されし、刹那の自己 と云う自覚の、「悟り(身心脱落)」 生じ、全ては此の自覚 に決定 付けられた方向性に基づくものである。 道元禅師が身心脱落によりて帰朝し、正法眼蔵を遺された様に、 小生鐵漢は、正法苦行の千日行初行を完遂した訳である。 道元禅師入滅後、荼毘に付して舎利を収め、四ヵ月後に遺稿の整理 が為された。二祖孤雲慧奘が全て整理、写本されたものである。更に 三祖と螢山禅師等によりて宗祖の本質的「悟り(身心脱落)」に、宗教 儀礼や中国禅門の諸様式を取り入れるべく再度入宋したのである。 そして現代に至り、百年程前に、西田幾多郎に二十年程遅れて京大 で教鞭を執った和辻哲郎が主著『倫理学』等で哲学的に道元禅師の 悟りに基づく『正法眼蔵』を採り上げた事で、禅師が世間に流布する 事と為ったのである.。 小生は坐禅を始めて三~四年目の頃に「悟り(=身心脱落)」、千日初 行完了後、不動の「悟り」に促されて、正に「犀の角の如く、唯独り「解 脱」した。つまり、「宇宙(生命)の本質」に接近し、接触し、 そして、見事に千日後行入りした訳である。 此の余談を許さぬ完璧さが、十五年後、古希の「涅槃入り」を可能為 ら使めたのである。 何も無い処、日常性から離脱せ使める、「宇宙(生命)の本質」(涅槃) への方向付けの契機と為る、「悟り(身心脱落)」の自己の自覚 が、 最終的に宇宙の真理為る「涅槃」を喝破するに至ら使めたのである。 此の本質的絶対自己 にして、本質的絶対信頼 が在り得るのであ る。 此の宇宙に只独り生み出された自己為る生命、即ち絶対孤独為る吾 の自覚 は万人に共通であり、純粋に、森羅万象を包括する坐禅によ る功徳によって得られたものである。 是は仏道(教)以前の、普遍的に万人が享有し得る体験なのである。 何と為れば、吾等が生命は「涅槃」に由来するものであるが故である。 是をして、既に正法苦行(初行)の菩提心有れば、心の進化は完成す るであろう。 然(さ)もなくば、只管「世界人類を生(活)かす」のみである。 何時でも、何処でも、誰でも、 「生(活)かす」基盤が「信頼」である。 「信頼」の基盤は、団子(=身)でなく花(=心)に生(活)きる事である。 政治も「身」を支えるのでなく、「心」を支える施政に進化して初めて「 宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違(たが)わず、帰一し、世界に平和を 構築、完遂し得るのである。 中国は未だ、身を支える施政にして、心を支える施政とは言い難い。 米国は未だ、身を支える施政に過ぎない。 日本は心を支える施政足る。 《 人間間の信頼の基盤為る自己への信頼 》 「悟り」とは「自己の自覚」であり「宇宙(生命)の本質」に接近した証し。 「解脱」とは「本質の自覚」であり「宇宙(生命)の本質」に接触した証。 「涅槃」とは「人の自覚」であり「宇宙(生命)の本質」に回帰した証し。 「涅槃入り」した「人を生(活)かす」自己は「悟り(身心脱落)」で自覚さ れた自己が底流を為している。 是は行以前、出家以前の坐禅の功徳によるものである。 全ては此の、宇宙の絶対自己の自覚に基づくものである。 此の自覚された絶対自己の前途に在るものは、釈尊在世時の頭陀 行中の但坐不臥以外には無い。 故に吾師は千日行を賞揚されたのである。 人間と云う者は、人と人との間の存在以前に、其の間を成り立たせて いる各個人に於ける自己為る我の本質的絶対自己の自覚無くして、 人と人との間も成り立たないのである。 真の人間とは、本質的絶対自己の自覚が大前提である。 此の全一為る自他の関係以外には、人間世界は真には成立し得な い。 本質的絶対信頼は自己への本質的絶対信頼が無くして、他への本 質的絶対信頼が成立する筈は無いのである。 貪欲への信頼は永遠に成立し得ない。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違(たが)えるからである。 故に、少欲、知足が鉄則である。 貪が施に転じてこそ、格差消滅し、宇宙の調和と均衡と静寂に同じ、 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に帰一し得るのである。 微に入り、細に入れば地上の最後の一人に至る迄、止む処が無い。 《 必要悪為る貪 》 三毒の貪――→「悟り」――→「解脱」――→「涅槃」 勝ったも、負けたも無い、 只、貪為るが故に、癡愚と為り、瞋恚と為るのである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し に、貪 や四苦に対する愁苦 無ければ菩提(道)心 生ぜず。 貪 は坐禅を生み、其れによりて「悟ら」使め、「宇宙(生命)の本質」( 涅槃)に回帰せ使むるのである。 貪為るが故に、世界は多様化され、世の中に繁栄を齎す。 一方、貪為るが故に、人間は菩提(道)心生じ、坐禅を生んで、「宇宙 (生命)の本質」(涅槃)に回帰し得るのである。 貪の意義 は、 三毒(貪・瞋・癡)為らぬ貪と云うものは、人類にとって必要悪であり、 或る意味で、人類の進化に不可欠為るものである。 要は、諸悪の根源為る貪も、三毒為らぬ貪から、人類の智慧によりて 、三善根(施・慈・慧)に転じ、世界人類の幸福と平和と繁栄への起爆 剤と為り得るのである。 是が霊妙極まりなき涅槃妙心智慧の働きであり、人類の真価である。 智慧の可能性は無量である。 福聚海無量 人類の心の進化には坐禅が必要不可欠。 坐禅無くして心の進化無し。 世界人類の幸福と平和と繁栄に坐禅が不可欠である。 坐禅が無いから現今の地獄なのである。 坐禅が必須科目に為れば、世界は間違い無く平和である。 貪が無ければ、人類は或る意味で求道者か動物である。 人類が動物と異なる処は、貪である処と知恵(智慧)が有る処だ。 故に人類は凡聖を問わず、究極の真理に至り得た、東洋の叡智為る 坐禅を行ずべきなのである。 三毒(貪・瞋・癡)―→地獄―→坐禅 貪には坐禅が正道なのである。 坐禅の功徳は不可思議である。 覇権の根源は、貪に因る信頼の欠落である。 貪無ければ覇権対立在り得無いのである。 人種差別の貪はヒトラー独裁の貪に転じ、やがて其れは原爆支配体 制の貪から、貪の母体為る生命存続の危機に瀕せざるを得ない状況 に陥って居るのである。 人類は今や、本質的絶対信頼によりて、原爆支配体制と云う貪の権 化の擡(たい)頭を地上非核化によりて根絶し、地上が一丸と為りて 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)へと進化せ使めねばならないのである。 人類史は正に貪に基づく人種差別 の歴史であった。黒人差別然り。 ヒトラー然り。現代に至りて、是が 原爆投下、支配に極まるのである。 是等総ては貪の裏返しの極悪であ る。 世界人類の幸福と平和と繁栄には 規則正しさ (鉄則) が不可欠である。 《 一 (いつ) の世界 》 人間が「勝った、負けた」の二元相対から出るには、吾命と一(いつ) 為る全人類の命為る立場、自他間の命が一枚岩である意識、 自他別個の命で無いと云う意識でなければ、物が二つに見えてしまう 。二元世界と為る。 此の大いなる立場でない限り、二元対立世界から出る事は出来ない。 一つ物を二つに分けない。 一(いつ)為る立場である。 《 坐禅の威儀 》 坐禅は人間の性能を向上させる根本である。 何と為れば、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの人類の無上法である からである。 諸悪の根源為る三毒(貪・瞋・癡)も、坐禅を行ずる事によりて、悟ら ずとも、即三毒為らぬ貪、「涅槃」に於いては貪為らぬ貪 に転ずる 事が出来るのである。 坐禅と云うものは行ずるだけで、其れだけの功徳を生ずるのである。 坐禅を行ずれば、其れだけで悪い事が出来無く為るし、嘘が付け無く 為る。 三毒(貪・瞋・癡)為る存在であるが故に、人間は坐禅をしない。 敢えて人類は坐禅を興隆すべし。 老若男女を問わず、日々二十~三十分でも坐禅に親しむ事は、世界 人類の幸福と平和と繁栄の礎を自(みずか)ら築く事に為るのである。 米国の地上核武装と中国の香港、 台湾、尖閣諸島覇権支配とを 交換条件に和解すべきである。 相互に、此の「世界人類を生(活) かす」立場( =本質的絶対信頼)に 立脚すれば、世界人類の幸福と 平和と繁栄の礎を築く。 《 本質為る現象 》 本質と現象は哲学の最重要なる根本的課題であったが、小生鐵漢が 此の令和新世紀に此を永遠に不滅為る恒常普遍の真理として、吾身 心に体現したのである。是、人類史上空前絶後であり、従来の大脳新 皮質の解釈為らぬ、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に帰一する事により て、本質(涅槃)に現象(進化)し往く生命の真実(理)を世界人類に開 示するものである。 人類は、 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しに応じ(=坐禅を始め) 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に接近し(=悟り(身心脱落し))、 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に接触し(=解脱し)、 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に帰一する(=(覚天して)涅槃入りする )。 世界人類は此の本質(涅槃)に現象(進化)し往く生命の真実(理)為 る能力を享有して居るのである。 小生がネットを始めたのは、此の真理を知って戴く為に他ならないの である。 世界人類の誰一人として、此の真理に違(たが)える事は出来ないの である。 何と為れば、是は世法を超越する、誰も侵す事の出来ない真理である からだ。 不昧因果為る因果の道理と共に、世界人類の物質的、精神的基本 的条件を確保しなければ為らない根拠が此処にあるのである。 令和新世紀以降の世界人類の択(と)るべき心は明確である。 此の真理に基づく新世法を世界的に構築しなければ為らない。 《 真理の前後 》 宇宙の真理を体現したのは、人類史上、小生独りである。 是が、古代からの「解脱」の別称としての「涅槃」でなく、小生が「覚天」 して「涅槃入り」した真実の「涅槃」である。 故に、此の真理為る「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に至った前後で、 従前の人類史が根本的に一変するのが 当然である。 何と為れば、本質無き現象の時代から本質に基づく現象への転換点 であるからだ。 要するに、虚構から真理(実)の新世紀への本質上の大転換期に直 面して居る訳である。 小生の高校入学当初、中退しての正に此の真理への試行錯誤の極 大振幅、つまり生に対する疑義の塊から五十四~五十五年後の古希 の(五年間で十五回にして十六回目の)「覚天」から「涅槃入り」へ収 束し、減衰し往く振動であった。 宇宙の本質が人類を幸福と平和と繁栄に導く(進化せ使むる)も のであると云う事は、小生鐵漢によりて既に実証(=体現)された 真理(実)であるが、人類には正に意外にしか思えないが故に神 を虚構するのである。 宇宙其のものが、本来、永遠に恒常普遍に総ての人類を向上さ せるべく機能して居ると云う真実が驚きであるからなのだ。 然るに是は、仮令(たとえ)、人類が如何なる境遇にあろうとも、永遠 に不滅為る恒常普遍の真理である。 斯(か)るが故に、人類は新たに微細に其の境遇を隅々に至る迄、 構築、完遂して往かねばならない。 我々が本来如何に恵まれた存在であるかは、実に驚くべき事であり、 感謝し、恩を抱かざるを得ないのである。 人類に本具する、此の能力を享有しなければ為らないのである。 此の本具仏性を覚ら使めるのが恩師釈尊であり、外から得られる相 対的為るものでなく、絶対的恩恵を知ら使めるのが吾師の恩であった のだ。 地獄に堕ちるのも、涅槃へ趣くのも、吾心一つによるものである。 《 情と菩提心 》 情と云うものは、欲から大脳新皮質への進化の途上に形成されたも のであり、欲に基づくものである。 情に生(活)きれば、世の中は間違い無く地獄に落ちるのである。 其処を大脳新皮質で制御するのである。 其の方法論として、過去より宗教生まれ、学問生まれ、芸術等が生ま れたのであるが、其の為に最上為るものが最初に「悟り」として、大脳 新皮質の最上為る機能である菩提心によりて、心の進化を遂げたの である。 正に万物の霊長足る人類であった。 是が心の進化の端緒と為った訳であるが、是以来、本質的心の進化 は果たされる処か、寧ろ釈尊の予言通り、退化し、今や地獄への 一途で、正に世界人類が生命の存続の危機に瀕しているのである。 図らずも不昧因果にして機を逸せず、二千五百年後に小生鐵漢が 菩提心によりて「覚天」し、「涅槃入り」して心の進化を完遂し得たので ある。 此の宇宙の真理を生(活)きるには、情を超越した、大脳新皮質の最 上機能である菩提心に基づかねば為らない。 情に基づく施政でなく、菩提心に基づく施政でなければ為らない。 つまり、菩提心によりて至り得た「宇宙(生命)の本質」の究極の、 永遠に不滅為る恒常普遍の真理である「涅槃」に基づかなければ為 らないのである。 如何為る知恵も、涅槃妙心による智慧には及ばない。 「涅槃」とは涅槃人の真中道によりて体現された真理であり、 世界人類には、釈尊中道と共に、鐵漢真中道による、 少欲、知足にして、三毒(貪・瞋・癡)転じた三善根(施・慈・慧)の 涅槃妙心智慧による「世界人類を生(活)かす」施政(生き方)が為さ れなければ為らないのである。 《 世界人類の真の教え(=真理) 》 小生、自(みずか)ら顧みるに、高校入学当初より中退して以来の混 沌から始まった。 正に盲人が闇中を徘徊するが如し。 家を出て放浪して回ったり、敢えて就労してみたり、宗教団体に関心 を寄せたり…………。 小生が真面(まとも)に然(そ)う遣るから、両親も半ば協力的に小生 に一任せざるを得なかった様である。 此の状態から始まっているのだ。 今の小生が、五十四~五十五年前の小生に出会っていたならば、 即刻、坐禅により教導出来、小生が「坐禅入り」する迄の十年間は 要しなかったであろうが、先ず何よりも、吾師の恩恵を受ける事が出 来た事が、最も小生の運命を決定付けるものであった。 師の千日行の賞揚である。 此の究極に至り得たのは、正に空前絶後であった。 斯くして、顧慮するに、 釈尊の御遺教は二千五百年前の古代文明の古代人から生まれた「 解脱」の、極仏を残したる唯一の真理であったのだ。 極仏を認めたるが故に、下化衆生に未だ完全に徹し得ざる部分を残 す。是は上求菩提に対しても同様である。 敗戦真際の特攻隊の様なものである。 此処は真理に基づいて、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰しなけ れば為らないのである。 当時は諸悪の根源、三毒(貪・瞋・癡)を重視したが、 小生は、更に心の進化を遂げ、「世界人類を生(活)かす」涅槃妙心 智慧を最重視するのである。 是によりて、自(おの)ずから悪の根源は消滅するのである。 諸悪の根源を断絶し得ない、果て無き極仏が、真理為る「世界人類を 生(活)かす」涅槃妙心智慧に転換したのである。 受動、消極的為る諸悪莫作よりも、 能動、積極的為る修善奉行によりて 自浄其意するのが真の「教え」足るのである。 今の混沌世界に於いては、地獄で悪を正すのでなく、 「真理」で世界人類を教導すべきである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰し、 本質的絶対信頼に基づく、本質的改善を世界的に実践すべく、 其の為の涅槃妙心智慧を世界的に興し、施政しなければならない。 阿部氏の持病が、 日本の命運を 左右すべきではない。 《 真の出家者 》 湖上で、小舟から落ちて溺れ掛けている親を見捨てて出家したと云う 中国の故人の逸話は、 吾親と世界人類の救済と二者択一を迫られたら、如何するか? と云う事を示唆している。 若し、吾親を選択したならば出家の意味がない。 仮令生き延びても、其の背後には世界人類の犠牲が在るのである。 真の出家者のみならず、世界人類は此の覚悟無くして、 世界人類の幸福と平和と繁栄は確立し得ないのである。 是を貪 と云う。 世界平和と貪とは対極を為す。 ヒトラーは此の真逆の貪著である。 日本から世界へ、地獄の三毒(貪・瞋・癡)為らぬ、 「悟り」の三善根(施・慈・慧)、「涅槃」の涅槃妙心智慧を 確立し往かねば為らない。 《 米国大統領選 》 米国の大統領選は、もう既に選挙されている。 小生の真理の「涅槃」か、 トランプ氏の諸悪の根源の三毒(貪・瞋・癡)かである。 全世界総ての人々の心は、 真理の「涅槃」と、三毒の奴隷との選択を迫られているのである。 前者を択(えら)ぶ人は、既に救われ、 後者を択(えら)ぶ人は、苦海に没するのである。 是は選挙以前の、誰も逃れる事の出来ない、 一人一人の明暗を分かつ、心の問題である。 《 分 別 》 菩提心以前の「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しによりて瞑想を 生んだ、社会構造化以前の村落での農耕古代人の生き様が最も純 朴であったであろうが、狩猟生活以後の最も安定した、心の進化の出 発点とも云うべきものであっただろう。 世界人類の幸福と平和と繁栄の為には、相対的分別我意識も欲も不 可欠であるのであるが、人類の三毒(貪・瞋・癡)による、「勝った、負 けた」、「取った、取られた」の二元相対の分別意識を象徴するが如き 、地球規模での地上を二つに分断せしめた二度の世界大戦を惹起し たのである。 人類の特質は、社会構造化すると共に「宇宙(生命)の本質」(涅槃) の働きによりて、人類三毒から菩提心生じ、「宇宙(生命)の本質」(涅 槃)へ接近して「悟り」、接触して「解脱」し、帰一して「覚天」して「涅槃 入り」し、極仏了じて「行」から「人」へ転じ、「世界人類を生(活)かす」 処の「涅槃」に回帰し、宇宙(生命)の進化(=上求菩提)を完遂した 事である。 絶対我意識 は「悟り(身心脱落)」による、宇宙に唯我為る自己の自 覚であるが、相対我意識 は諸悪(苦)の根源為る三毒(貪・瞋・癡) 害を蔓延(はびこ)らせるのである。 原爆無くんば、生涯後厳密千日涅槃行無く、「涅槃」無し。 極々悪為るが故に、極々善生ず。 十六回目(五年間)にして初めて、原爆投下の極悪業(=被爆と云う 地獄)に毫釐(ごうり、ほんの少し)も違(たが)わざる善業報為り得た 訳である。 「覚天」し「涅槃入り」して、上求菩提完遂したのである。 「行」でない、「人だ!」。「涅槃」の「人を生(活)かす」である。 吾師が、東京東照寺より福岡安国寺専門僧堂攝心会師家として来ら れる時に、『新幹線の窓の外を眺めていたら、壁に、アメリカ打倒!と 書いてあった。』と言われた。『嬉しかった。』とポツリと呟(つぶや)か れた。 今に及んで、其の事が思い出されるのである。 人類三毒(貪・瞋・癡)は、止まる処が無い。 斯(か)るが故に、原爆投下後の感染症パンデミックによる、今の地獄 に陥っているのである。 過去の人類の悪業に報いるべく、小生、一年前の「覚天」による「涅槃 入り」であった。 心の進化の究極は「宇宙(生命)の本質」(涅槃)である。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)へ至るには、心の進化を完遂しなけれ ば為らない。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しによりて、坐禅を始め、 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に接近し、接触し、帰一する事によって、 悟り(身心脱落し)、解脱し、覚天するのである。 我々は坐禅によりて悟る(身心脱落する)事で、日常性を超越する大 いなる生命を覚知し、解脱によりて、我々の心の煩悩や迷妄(苦)は、 円相で表現される処の「宇宙(生命)の本質」(涅槃)為るこころ(=本 質)の一波万波(=現象)に過ぎないのだと云う確信を得るのである。 更に、「覚天」によりて、心の真源為る「宇宙(生命)の本質」(涅槃) から吾身心が正される。 是、刹那に為される「涅槃」の体現である。 此の刹那以来、一時の坐禅も為していない。 既に身心で其の無駄を承知して居るからである。 身心が坐禅を為さない。 坐禅を為す時間があれば、遺教する 斯(か)様に、こころの真源と「宇宙(生命)の本質」(涅槃)とは同義で ある。 心の進化を究竟して初めて、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)へ至り、 「大涅槃人」と為るのである。 真に宇宙(の本質)を知る者は学者でなく、進化の究極為る最後身心 の「大涅槃人」のみである。 米国の大統領と日本の大涅槃人に、分別と智慧の人類の両極を見 る。 是、原爆の投下者と被爆者である。 不昧因果 。 極仏は菩提心によるもので、大脳新皮質由来の菩提心は身の進化 の究極で、心の進化の究竟の始まりである。 菩提心は宇宙の恒星の如き物で、宇宙以上でも、以下でもない。 恒星は生命誕生の原動力(エネルギー)であり、宇宙を構成している。 此の菩提心によりて、我々人類は心を、「宇宙(生命)の本質」(涅槃) に迄進化させ得たのである。 つまり、是は瞑想に始まり、「涅槃」に上求菩提を了じ、 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰するのである。 宇宙を超出するものは在り得ない。 生命を超出するものものが無い様に。 「最後身心」とは「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰し足る「大涅槃人 」の事である。 無限為る菩提心為るが故に、其れをして、究竟本質を了じ得たので ある。 故に、極悪も限界に至ったと云う事である。 是以上の造悪は、地上の終末を意味する。 つまり、自今已後は通戒偈、 『諸悪莫作 修善奉行 自浄其意 是諸仏教』 の真理(実)を、今にして真底より再認識するに至るのである。 世界人類が共に負を平等に分かち合い 、能動的、積極的に共に生 (活)かし合って往かねばならない。 無知、無関心、は言う迄も無く、「人を捨てる、否忘れる」事すら「宇宙 (生命)の本質」(涅槃)に違(たが)えるのである。 即ち、間接的造悪である。 常に、能動的、積極的に「世界人類を生(活)かす」でなければならな い。 自今已後、如何なる国策も、涅槃為る真理に基づいて施政されるべ きである。 米中は地上非核化と覇権行使とを交換条件に、時を移さず積極的、 能動的に和解するのが最善策である。 双方が垂範以って、諸悪を放棄して、生(活)かし合うのでなければ、 地上の地獄を改善して往く事は不可能である。 早い程、世界人類を生(活)かす。 「百害有って、一利無し。」である。 絶対為る心の真源に、双極為る相対対立である。 真源は相対より生じて、相対へ回帰する。 双極は双極を出でず。 真源無くして、双極為らず。 真源在りて、初めて双極が双極足り得るのである。 双極が真源を「忘れず、捨てず」。唯、真源を生(活)かすのみである。 《 淫快について 》 淫快は本来ならば迷妄為るものであるが、負である と云う事が解る のである。 是は、今に至って、有り難い事であると、嬉しい気がする。 是非を、真理の為に真理より断言する。 釈尊ならば、『静かな所に独り居を楽しむべき。』と御遺教で説かれ、 詳細には及ばれていない。 小生、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰して一年に為るが、是は 此の真理より、真理の為の真実である。 一年前に「覚天」する迄は、全く問題に為らなかった事であるが、「涅 槃入り」して一年に為る今、得られた真実である。 八大人覚で、少欲、知足、そして楽寂静(遠離)、精進、換言すれば 坐禅生活とも言える、で決して淫快を採らないのは真実であり、最 も安楽であると共に、人間と云う者は二十四時間刹那刹那に進 化しなければ為らないと云う事である。 人生とは、正に此の真理への真実一路なのである。 此の菩提心、つまり無形式の形式(=無分別の分別)を形成し、無行 の行、つまり本物の、分別に拠らない生き様を生むのである。 斯(こ)うしなければ為らない、と云うものでなく、自(おの)ずから本能 的に然(そ)う在ると云うものであるが、結果的に形式を踏襲する事に 為る。 かと云って、「覚天」以前の厳密さではない。 自(おの)ずから、然(そ)う在るのである。 少欲、知足は基本であるが、 五欲(睡眠欲、食欲、性欲、金銭欲、名誉欲)に於いて、 睡眠欲と食欲は必要最小限が少欲、知足であり、 性欲は、淫快は捨てる。 是が迷妄を生ずる処の最足るものである。 人間の本質的力を付けるのは、淫快を捨てて掛かる 事である。 然るに、世間と云うものは、金は必要最小限は無ければ為らないが、 淫快は必要最小限と云う訳には往かないが、淫快を捨てる事で真理 に適(かな)うのである。 永遠に生殖以外、生む事の無い、無駄な二元相対意識は不要に為る し、目的が明快に為る。 集中するし、エネルギー効果が極まる。 心身共に最上の状態を生むのである。 名誉欲は、要するに「世界人類を生(活)かす」に正されるのである。 我に基づけば造悪であるし、無我に基づけば真理に適(かな)う。 是等を実現するのが世界人類の物質的、精神的基本的条件確保に 基づく施政である。 当然の事ながら、是は全一的在り様を志向すべきである。 東洋と西洋夫々の長所を生(活)かし合わねばならない。 根本義為れば、自(おの)ずから拓(ひら)く。 力有る者が、世界を制(=教導)するのである。 力とは真理である。 《 「解脱」から「涅槃入り」迄 》 「解脱」迄の坐禅は「自己を忘れる」、及び其の初厳密千日解脱行で あるが、 「解脱」以降の坐禅は解脱によりて、我々の心の煩悩や迷妄(苦)は、 円相で表現される処の「宇宙(生命)の本質」(涅槃)為るこころ(=本 質)の一波万波(=現象)に過ぎないのだと云う確信を得て、やがて 極仏の「後行(=生涯後厳密千日涅槃行)入り」し、「常に坐禅の中に 於いて衆生を忘れず、衆生を捨てず、あらゆる功徳を一切に回向し 」、十五年余り後に「涅槃入り」する事と為ったのである。 「解脱」以降の、後行による「涅槃入り」迄は、地上から大気圏外へ出 る様なもので、果てし無く宇宙空間を、唯離れ往く様なもので、是は、 其の事自体が、「人類を生(活)かす」事ではないと云う事を自(おの) ずから体現して覚(さと)る、「覚天」する迄の上求菩提の究盡なので ある。 是、人類空前絶後の体験であり、是から人類は「人を生(活)かす」と 云う刹那を必然的に「宇宙(生命)の本質」(涅槃)から「覚天」為る体 現為さ使められるのである。 人類が褶曲為らぬ断層的進化を遂げる時は、人類も自力では為し得 ない。人類が自ら奇跡を起こし得るものでもなく、「宇宙(生命)の本質」 (涅槃)に帰一するには、人類任せでは、其の進化は為し得ないので あり、「大涅槃人」によりて、小生が吾師によりて、軌道を敷かれた如 く、今は小生が吾師の働きを担うというのも不昧因果である。 菩提心は宇宙の恒星の如きもので、宇宙以上でも、以下でもない。 恒星は生命誕生の原動力(エネルギー)であり、 宇宙を構成している。 此の菩提心によりて、我々人類は心を、「宇宙(生命)の本質」(涅槃) に迄進化させ得たのである。 是は(釈尊中道の)諦観でなく、刹那の「覚天」であり、菩提心の坐禅 による「悟り(身心脱落)」と、初行による「解脱」と、そして最終的「涅 槃入り」なのである。 此の最終的「覚天」が無ければ、世界的に敗戦時の特攻隊を認める が如き生き方しか採り得ないのである。 第三次世界大戦に至る事は不可避と為るであろう。 要するに、我々が生きると云う事は、国境を境にして他国を忘れると 云う事は第三次世界大戦が不可避であると云う事なのである。 決して「忘れ」てはいけないし、況(ま)してや「捨てて」はならないので ある。 「忘れる」事すら、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違(たが)えるのであ る。 「忘れた」刹那に「宇宙(生命)の本質」(涅槃)によりて正されたので ある。 此の、身心を挙げて、刹那に理屈抜きに、閃光体躯を貫くが如く、体 現するのが、上求菩提としての仏道の究極である。 斯くして、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に回帰し、「世界人類を生( 活)かす」と云う涅槃妙心智慧による真法を構築して、是を完遂せね ばならないのである。 是は感染症パンデミックからの智慧に留まらぬ、「宇宙(生命)の本質 」(涅槃)の永遠に不滅為る恒常普遍の真理によるものである。 道元禅師が『宝慶記』に、 「坐禅の中に於いて、衆生を忘れず、衆生を捨てず、乃至蛆虫に迄も 常に慈念を給ひ、誓って済度せん事を願い、あらゆる功徳を一切に回 向す。此の故に仏祖は常に欲界に在って坐禅弁道す。他界は愁苦無 きが故に菩提心発せず。世々に諸々の功徳を修して心柔軟為る事を 得。」と師の如浄禅師の(釈尊大乗禅の)御説法を記録されている。 道元禅師入滅後、荼毘に付し、舎利を収めて四ヵ月後に二祖孤雲慧 奘によりて遺稿の整理が為されたのである。 衆生を忘れ、衆生を捨てれば菩提心発せず、 菩提心を発して衆生を済度する為に敢えて欲界で坐禅弁道された。 又、「衆生を済度する」とは、「人を度す」。 釈尊に於いては、仏子を度し、八大人覚を教導する事であった。 其の意味での、衆生を忘れず、捨てずである。 「解脱」迄の上求菩提では、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)には及ばざ る事が「覚天」による「行」でない「人だ!」である。 「人を生(活)かす」の「涅槃入り」であった。 「世界人類を生(活)かす」のである。 此処に於いて初めて、上求菩提を完遂し得たのである。 正確に言えば、是は一年後には(「我(国)の為 の吾」でなく、)「世 界人類(の為 の吾)を生(活)かす」である。 太陽の如き「涅槃」と、蛍火の如き「解脱」である。 是をして真に「人を忘れない」、「人を捨てない」である。 是が「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違(たが)わない事である。 忘れるだけでも、捨てるだけでも「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違え る。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違えない為には、 極仏の「後行(=生涯後厳密千日涅槃行)入り」しなければ為らなかっ たと云う事である。 「忘れる」、「捨てる」から激甚自然災害、感染症パンデミック、人種差 別、原爆支配、更に大量破壊兵器…………と為り、 地獄への一路を辿ったのである。 仏道は「解脱」でも世の中に浸透しない。 「悟り」すら無いのである。 唯一の永遠に不滅為る恒常普遍の真理である、「宇宙(生命)の本質 」為る「涅槃」から教導して初めて、世の中に浸透し往く。 従来の政治に真理は無かった。 然るに、真理に基づく強固なる国際協調と其の施政によりて、やがて は、真理が世界人類の隅々に迄浸透するのである。 宇宙の真理に基づかない限り、世界人類の幸福と平和と繁栄は在り 得ないのである。 米中対峙する二元相対世界には永遠に打開策は見出せない。 唯一為る真理無きが故である。 空前絶後為る日本発の真理への絶対信頼によりて初めて、双方に 本有する信頼が可能と為るのである。 従来の伝統では不可能である。 此の真理の礎は千日初行であり、不可欠為る千日後行であったのだ。 小生が「涅槃入り」して「世界人類を生(活)かす」と云う 永遠に不滅為る恒常普遍の真理を得たのである。 軌を一にするかの様に、激甚自然災害と感染症パンデミックにより、 世界人類は生存の危機に瀕し、従来の生き方の見直しを余儀無くせ ざるを得なく為った。 此の機を逸しては、永遠に人類の幸福は在り得ない。 今程、人類の底力を発揮しなければ為らない時は、二度と現れない のである。 世界人類の指導者達は一丸と為りて、此の覚悟をしなければならな い時である。 此の自然破壊と人間破壊に対処し得るのは、人間同士の対立でなく、 真理に基づく信頼による団結以外には在り得ない。 是が人類の智慧であり、更なる智慧を生む為の原智慧であり、 根本智慧である。根本智慧とは宇宙の真理である。 菩提(道)心と探究心の違いについて、 前者は、心に本質が現象されたものであり、常に心に存在する。 後者は、本質の現象を表象(記号、象徴)化しようとする心であり、 意識的に存在する。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)が心に「促し」として、無意識的に現象す る。 総ての宗教家に欠けるものが、「涅槃」と云う真理の体現であり、 哲学者に欠けるものは、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)と云う、 永遠に不滅為る恒常普遍の真理の体現である。 真理の体現無き産物に過ぎない。 《 三毒と真理 》 人間と云うものは、「自覚」の問題である。 何処迄自覚が及んでいるか? である。 動物に自覚は無い。 唯、本能任せである。 「大涅槃人」は、宇宙の調和と均衡と静寂足る涅槃妙心への自覚か ら、無自覚為る迷妄によりて生じる、実在しない影を、恰も甘露を飲む が如く、済ますのである。 是が、不完全為る自覚者によりて、力による分裂を生じ、戦争に至ら ざるを得なく為ってしまうのである。 故に、此処に、「大涅槃人」の(涅槃妙心)智慧によりて、明快に事が 済み得るのである。 究極の自覚は、世界人類の幸福と平和と繁栄である。 此の自覚には、如何なる三毒(貪・瞋・癡)も如何とも為し得ない。 此の宇宙に、一塵も無きが真也。 人類の三毒(貪・瞋・癡)は宇宙(生命)の真理への必要悪足る迄。 《 本質と云うもの 》 小生は昔から、人のする様な事には興味が無かった。 人の遣る様な事は大した事無いのだと云う単純な気持ちである。 故に、今が在ると云う事は、恐らく間違い無い気がする。 何か、然るべき能力を持って居れば、其れに専念していたかもしれな いが、然(そ)うした才能が無かった御蔭で、人類の能力を超えた、「 涅槃」と云う「宇宙(生命)の本質」の永遠に不滅為る恒常普遍の真理 に至る事が出来たのである。 人類には、能力が無い事こそ一つの才能であると云う事を忘れては 為らない。 恐らく、子供心に、然(そ)うした諸道の限界が、直観出来ていたのか も知れない。 何にも考えた事も無いのだけれども、本質と云うのは、然(そ)う云う もので、老若男女に拘らない。 人がしないから、人が言わないからこそ、しなければ為らないし、 言わねば為らないのである。 宇宙(生命)の真実であるからである。 《 涅 槃 論 》 キリスト教に於ける終末論、或いは釈尊の末法思想等、 人類の未来は、地球の寿命を待たずして、近未来的に終わりが訪れ ると云う悲観的為るものであるが、斯(こ)うした思想や論法に拘らず、 実態は、「宇宙(生命)の本質」は人類をして「涅槃」へと進化せ使める ものである。 令和新世紀を境にして、是以前の二元相対の対立世界とは異なって、 今や、「涅槃」の絶対信頼世界で在るべきなのである。 従来の貪は、必要悪としての貪の極悪為る弊害を生むに至ったので あり、其の確証為る「宇宙(生命)の本質」(涅槃)への接近、接触、帰 一である。 即ち、現今の三毒(貪・瞋・癡)害悪の極限状況と、其の対極としての 「覚天」であったのだ。 極々悪の対極としての極々善との最大振幅からの、「涅槃」への減衰 振動しつつ収束し往く未来を、我々は築くべく心の進化を完遂しなけ れば為らないのである。 人類の三毒(貪・瞋・癡)は三善根(施・慈・慧)へと進化しなければな らない。 原爆支配からの「涅槃入り」に至るべく進化を遂げなければ為らない のである。 涅槃論の根拠は、小生鐵漢の「覚天」であり、是は自己自身、絶対に 否定し得ない真実である。 是は、従前の思想や論法でない、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)を体 現した真理(実)である。 世界人類の真の底力、真価が問われるのである。 《 迷 路 》 人間、何事も学問的に為ると、小さな迷路に入り込んだ気がする。 何度試みても迷路から出られない。 一旦退いて、 小生が至り得た「涅槃」から俯瞰すれば、 其の結果から、其のものが、もう既に 其れ等迷路に正解を与えているのだ。 小さな入り込んで苦しむ必要は無いのだ。 「涅槃」を遣って居れば、もう既に済んでしまって居るのである。 《 菩提心と性欲 》 最低限度、世界人類の平和の為に、 自己の性欲を捨て得る者でなければ、 其れは二元相対の身に過ぎない。 こころ足り得ない。 最低限の菩提心有る者は、果たして幾許ぞ。 世間とは其の身である。 性欲(淫快)すら意の儘に為らなくて、 一体何を為し得るであろう。 此の足場の無い処の向上する力(エネルギー)を菩提心と云う。 此の菩提心が最低限不可欠である。 でなければ、人類と言えども諸々の禽獣と相異なる事為し。 恥を知らない。 心の進化無ければ、地上は破滅するであろう。 求める事しか無いのを貪と言う。 唯、三毒(貪・瞋・癡)の害毒在るのみである。 先の、世界が二つに分断し、殺し合って、瀕死状態の日本に二度の 原爆投下で世界に勝利宣言をした。 此の三毒が、今や感染症パンデミックで世界最大の感染者と死亡者 を出し、其の政治中枢機関に世界最大の犠牲者を出したのである。 更に其の大統領選挙戦に於いても、最悪の選挙討論会を世界中に報 じ、選挙に於いて勝敗を認めない飽く迄も我執を押し通そうとするが 如き世界の指導者は、正に嘗てのヒトラーである。 嘗てヒトラーを封じ込めた連合国家のリーダーが今やヒトラーと為り、 中国を対峙する国家として立ち向かい、第三次世界大戦に向かわん として居るのである。 これがアメリカ国家の実体である。 此の宇宙に真理程強いものは無いのである。 だからこそ真理だ。 永遠不滅にして恒常普遍である。 真に強いと云う事は、二元相対世界ではない絶対世界である と云う事。 つまり、「悟った」、更には「解脱」し、 もっと強いのが、是、「宇宙(生命)の本質」為る「涅槃」の世界である。 此の絶対自己の絶対信頼に基づくのが、 世界人類の幸福と平和と繁栄の絶対世界である。 《 職 業 》 人間は職業が有れば、職業に依存する。 此の依存が諸悪を生む事と為るのである。 坐禅道は一切何物にも依存しない生命である。 故に托鉢による乞食行であるし、 往き着く処は、行無き行であり、 正に太陽の機能の様なものなのであろうと思う。 太陽は太陽である事を知らず、一切を生(活)かす。 宇宙(生命)の進化機能の様なものである。 職業も在るべき処のものは、限り無く果てし無い。 治生産業、元より布施に非ざる事無しである。 《 人を生(活)かす 》 我々は、世界人類と共に、万物の霊長として平不平等を超えて、同じ く命を受けて生(活)かされた。 然るに、其れ等の命が後天的に何等かの諸条件で、不平等為る格 差の下に生活を強いられているのである。 其れ等の不平等為る格差は、屡(しばしば)、其の国家の国政や民族 意識や文化に原因がある。 是等の原因を改善する為に、本来の物質的、精神的基本的条件を世 界規模で確保すべく、世界人類が彼等と共に生(活)きると云う事で ある。 《 日本と米国 》 人間は本有の三毒(貪・瞋・癡)を、「悟って」、或いは智慧で、本具す る三善根(施・慈・慧)に転ずる事が出来る。 現今の米国と日本に、人類の三毒と三善根の典型を見る気がする。 此の事は、人類が如何に生きるべきかを如実に顕現するものである。 人間は「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰すべく、諸悪の根源為る 三毒(貪・瞋・癡)による能力で勝っても、修善為る三善根(施・慈・慧) の智慧によりて生きるべく進化を遂げねばならないのである。 《 米国の真の罪過 》 米国の真の罪過は、二度に亘る、日本への原爆投下にあったのでは ない。 是以降の日本を統治する体制にある。 日本国民の心を、永遠に世界覇権の踏み台にして居る事である。 日本国民を米国の世界支配に仕るべき犠牲者にしている事である。 十六世紀の大航海時代以降の黒人奴隷に始まり、今に至る此の米 国国民の心底に巣食う是等の横柄さは米国の最大の致命的なる過 失である。 此の米国の三毒(貪・瞋・癡)の毒害が、日本国民のみならず、世界 人類の精神を毒して居る罪過を心底より米国は自覚しなければなら ない。 世界人類をして、原爆投下の正当性を認めさせ、原爆支配を肯定せ 使める限り、世界に信頼心は育(はぐく)まれないのである。 更に、日本人が、此の事を甘受する事自体、日本国民の精神を永遠 に腐敗せ使めるものである。 米国が自(みずか)らを反省して、撤退し、真の精神的自立を遂げ、 其の物質的力を世界に施し、世界人類共同体と為る事によりて、 世界から真の信頼を得れば、世界平和は、やがて訪れるのである。 人類三毒(貪・瞋・癡)による必要悪は「涅槃」を目的とするものであり、 令和新世紀以降の「涅槃」の世界に、最早必要悪は在り得ないのであ り、虚偽為るもので、最早在っては為らないものである。 《 涅槃の世界人類 》 釈尊に基づいた小生の生命体験が「覚天」為る涅槃入りの刹那であ った。 二千五百年前の釈尊も成道され、同じ志であったと思う。 其れは、東洋精神が進化した、世界の頂点であったのだ。 そして、吾師伴鐵牛老師によりて、既に軌道が敷かれ、不昧因果にし て、師の滅後二十四年、見事に心の進化を遂げたのである。 小生の完璧なる無疑其のものが、「涅槃」の真理を自証 (自(おの) ずから証し以て往く)して居る のである。 此の体現こそ、正に世界平和の礎である。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)が世の真法の真正為る根拠足るのであ る。 是に違(たが)う者(国家)の悪業報は必然にして不可避である。 小生の高校入学時の若い頃、若し是在らば、即刻此の道に身を置い たであろう。 然るべき真遺教である。 《 永遠為る「涅槃」と云う真理 》 「涅槃」と云う真理為る「宇宙(生命)の本質」は現象し、不可思議為る 刹那に人心をして進化(=体現)せ使めるのである。 我々人類に於いて、身からこころ へと進化したのである。 スポーツ→芸術→学問(哲学等)→宗教→涅槃(への段階的諸体現 ) 唯、体現 在るのみ。学問するか「涅槃」 するか?である。 何れも険しい道ではあるが、世界は「涅槃入り」しなければ物は言え ない。 自己を運びて、「悟り」、「解脱」し、「覚天」するのでない。 自己為らぬもの が刹那に、霹靂閃電、体現せ使めるのである。 雷の避雷針為る人材とは、菩提心の無心人(=真為る無我)である。 是は生涯正法苦行でなければ為り得ないのである。 此の自己為らぬもの は体現した者でなければ解らない。 是こそ、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)其のものである。 然るに、「悟り(身心脱落)」は、正法苦行以前の坐禅の功徳 により て、(宋の如浄禅師の下で、道元禅師が真剣に本気で坐禅を行じら れて数ヵ月後に身心脱落された様に)小生も坐禅の功徳を楽しんで いた時に、突然グラグラーッと、正に、9・11ニューヨーク超高層ビル 崩壊の如く、自己自身が根底から崩落した訳であります。 是こそ、坐禅で無ければ絶対に在り得ない奇跡でありまして、 是も、自己を運んで遣って居たのではない。 只管、坐禅の功徳 と一つに為って居ったのでありまして、 其処が、雷の避雷針足り得たのであります。 雷とは、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)其のものの、刹那に為される働 きであります。 是等は釈尊の前後を顧慮しても明らかである。 バラモン教→ウパニシャッド哲学→釈尊→小生鐵漢の「涅槃入り」。 心は進化する。 「悟り(身心脱落)」―→「解脱」―→「涅槃」 心の刹那の進化(向上)体験と云う、未知為る「宇宙(生命)の本質」( 涅槃)からの、身心への働き掛けであり、顕現であり、開示である断 層的不連続性によって生ずる智慧(自覚)によりて、人間は心的に生 まれ変わって往くのであるが、是等は説明可能な褶曲的連続性の知 恵や心の成長等とは異なるのである。 《 瞑想から坐禅行へ 》 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しによりて、古代人は農耕生活 裡に瞑想を為したのである。 心の進化の出発点は此の静慮、即ち瞑想(サマーディ;三昧)である。 是が「涅槃」為る「宇宙(生命)の本質」への回帰に帰結するのである。 瞑想(サマーディ)は禅定(ディヤーナ;禅那、靜慮)と訳された。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しと人類三毒(貪・瞋・癡)との 化学反応によりて、人心(=大脳新皮質)に菩提心生じ、瞑想はヨー ガ(苦)行へと進展し、理念上の「解脱」を希求するに至り、釈尊をして 中道に至ら使めたのである。 釈尊の中道によって至り得た成道は、道元禅師や小生の身心脱落為 る「悟り」でなく、自他一如為る、天地同根体験の「悟り」であったろうと 推測される。 又、波羅提木叉(=別解脱)為る釈尊御遺教に、『智慧によりて「解脱 」を得べし』とある如く、釈尊の「解脱」は体現されたのでなく、「涅槃」 同様、理念上のものであった。 人類は「悟って」、人間に本有する三毒(貪・瞋・癡)を三善根(施・慈・ 慧)に転じねばならない。 同じく御遺教に、 『睡眠する事勿れ。諸々の煩悩の毒蛇、眠って汝が心に在り。 常に伺って人を殺す事、怨家よりも甚だし。 睡蛇出でざるに眠るは無慚(=恥を知らない)の人也。 慚恥は鐵鉤の如く、得く人の非法を制す。 無愧(=無慚)の者は諸々の禽獣と相異なる事無し。』とある。 睡眠欲は最も制し難い欲である。 睡眠時間から一時間取って、坐禅する習慣を身に付ける事によりて、 生活全般を生(活)かす事は非常に好ましい事である。 《 必要悪為る三毒 》 人類は何故に三毒為る生命なのか? 其れは、小生鐵漢が「覚天」して「涅槃入り」し、 「宇宙(生命)の本質」為る「涅槃」に回帰し、 そして、此の永遠に不滅為る恒常普遍の真理に基づいて、 世界人類の幸福と平和と繁栄を完遂する為であったのだ。 如何に学問的に真実を究明しようとしても不可能である。 小生鐵漢が至り得た「涅槃」から、総ては明らかと為るのである。 若し、日本に原爆が投下されなかったならば、 小生鐵漢は、「涅槃」には至らなかったであろう。 不昧因果為るが故である。 小生の「涅槃入り」によりて、是迄の人類史は総て肯定されるのであ る。 然るに、一旦「涅槃入り」した以上、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違 (たが)う事は為しては為らないのである。 《 原点から、軌道に乗る迄 》 或る時、寺を衝動的に飛び出して、小生の、完全に孤独な模索が始ま ったのである。 出る前は、吾師の道を歩み、野の花に為るのだと思っていた。 出て、如何に遣って往くべきなのか、と暗中模索であった。 黒でもない、白でもない、グレイであった。 只言える事は、根源的求道の吾菩提心有るのみであった。 星一つ出ていない真っ暗闇の浜辺で、唯海の騒めきを耳にして居る 様なもので一歩も進めないのであるけれども、此の菩提心と云うもの が、道心とも言われる様に、其れ自体が道なのである。 既に、其の場、其の儘で全ては具わって居るのであろう。 危惧一つ有り得ないのである。 是、解脱以前の解脱である。 時には、坐禅すらも捨てるべきではないかとも。 時には歩き回ってみたり。 結局、自転車で日本の海岸線を周回しながらの、テントでの厳密坐禅 行であった。 最初は東京から山側に北上したけれども、急遽、折り返して海岸線に した。 途上、定住して坐禅行すべきであると思ったり、釈尊の坐禅を 為すべきだと思ったりした。 やがて、全く意識に無かった千日行の恐怖が刹那に、心の意識上に 浮かび上がって来たのだ。 其の時、自分の遣って居る事が、其れから逃げて居る事に思えたの である。 其れ以来、千日行が意識の前面に顕れ、只管千日行在るのみと為っ た。 小生、千日行為る正法苦行為らばこそ、大気圏外で地球を周回する 宇宙船に為らずに、地獄の中でも、仏道が息衝いて往けるのである。 千日行無くんば、何処に居ても、其の宇宙船から出る事は不可能で あったろう。 故に吾師は、千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)を賞揚され たのである。 《 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)が進化した道 》 人間社会が宇宙の花其のものである。 宇宙と宇宙の花とは別次元に在るのでなく、宇宙の花によりて、宇宙 は宇宙して居るのである。 宇宙の本質が宇宙に現象しているのである。 此の宇宙は無常であり、刹那生滅の原理と因果の道理に基づき、 進化する。 宇宙の進化は、小生鐵漢の「涅槃入り」を期して、人類に其の必要悪 為る三毒為ら使めたのである。 恐らくは、原爆に対する「覚天」、が人類に対する宇宙、の究竟 なのであろう。 是が宇宙と、宇宙が生んだ人類の在り様の宇宙規範 である。 是は宇宙に於ける国際的外交上の規範ではなく、宇宙に於ける地球 規模での世界人類の規範である。 後は其の仏果為る涅槃妙心智慧によりて、 地上の世界人類の幸福と平和と繁栄によりて、宇宙の進化を完遂し 了えねばならないのである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰すれば、心の進化の起源(原点) が、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し(=予兆)による瞑想であ った事は明白である。 心の進化は瞑想に端を発し、小生鐵漢の「涅槃」に進化完遂したので ある。 農耕古代人の瞑想は人類の輝かしき宇宙の本質為る精神世界完遂 の端緒であったのだ。 人類史に於いて、「涅槃」の体現は「宇宙(生命)の本質」を確証する 以外の何ものでもないのであり、所謂、神や仏を超越した体験である。 是をして「最後身心」と称する。 《 「最後身心」以降の世界 》 日本本土への二度の原爆投下から始まった大量破壊兵器支配体制 は、七十数年後の令和新世紀の、自然破壊による激甚自然災害と生 態系への悪影響に因る感染症パンデミック等により、日常生活存続 の極めて危機的状況を呈するに至ったが、是を回避する為の、世界 人類が択(と)り得べき最善の道への回帰を余儀無くさせられるので あり、是こそ、正に禅の道に他ならないのである。 禅の道に基づいた、幸福と平和と繁栄を新たに構築しなければ、人 類の未来は在り得無いと云うことを、令和新世紀は世界に知ら使める のである。 是は、「宇宙(生命)の本質」の「涅槃」と云う、永遠に不滅為る恒常普 遍の真理を現成するのである。 世界人類が、人種や、国家や、老若男女の差別無く、総て同等に帰す べき本源である。 「大(=宇宙)は小(=差別)を兼ねる」のである。 故に、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に基づく「解脱」や「涅槃」にではな いが、理想的には千日行の菩提心 さえ有れば、既に釈尊の御遺教 の別解脱し、従前の涅槃足り得るのである。 国民と共に、施政者の此の菩提心に基づいた、世界一体の施政が不 可決である。 進化とは優化であり、「涅槃」へと、進化を構築、完遂するのである。 《 性欲と金欲 》 男女間も、金も獲得しようとするものではない。 先ず、菩提心によりて、捨てた処、否全く思わない処から始まって、 其処から出来上がって、両者共自(おの)ずから為る処のものである。 生涯を通じて、両者共考えた事も無い、と云うのが菩提心 である。 自(おの)ずから自然に納(おさ)まる。落ち着く。 然るに、世間と云うものは、其の身の世界で、其れ等に趣く。 故に、釈尊は般涅槃の最期に諭された。 『一心に出動を勤求(ごんぐ)すべし。一切世間の動不動の法は、 皆是れ敗壊不安の相也。…… ……汝等且(しばら)く止みね、 復た語(もの)言う事得る事勿れ。……我滅度せんと欲す。 是我最後の教誨(きょうげ)する処也。』 と般涅槃された。 吾老師が言われて居った。 『金も命も要らないと言う奴は如何仕様も無い。と云う訳ですねェー。』 と。 真理は生命を内包する。 宇宙は「涅槃」為る真理其のものである。 《 「死ぬ」と云う事 》 人間、「身」では死なない。 死ぬのは「心」だ。 故に「心」を養うべし。 「心」を養うとは、精進する事である。 精進するとは、「人を生(活)かす」と云う事である。 「世界人類を生(活)かす」と云う事である。 生死は「心」の問題である。 「身」の死は、物の生滅の問題に過ぎない。 人世、そんなものに全てを懸けて居るのである。 故に情愛も「心」と為るべし。 百年の尊い生命を癡愚に済ますべきではない。 永遠に不滅為る真理(=宇宙)に回帰すべし。 《 大前提上の「涅槃」の完遂 》 宇宙に「涅槃」為る人類を大前提と為し、 人類の為すべきは、人類世界を宇宙の涅槃為ら使める事である。 此処に至るを「大涅槃人」と称す。 人類は必ず、斯く大前提足るべく進化するのである。 是が「涅槃」為る「宇宙(生命)の本質」の現象である。 万物は刹那生滅する無常為る存在であり、其処に時空を生じる。 太陽系地球人類は略(ほぼ)百年足らずを其の寿命と為す。 「覚天」は恰も、身体を害する物を食すと、反射的に嘔吐するが如き もので、間髪を容れない直観(=無分別智)による本能的反射である。 そもそも、存在の把握は、学問では不可能である。 永遠為る可能性に過ぎない。 唯、「涅槃」に於ける直観による智慧でのみ可能である。 其れは、大前提と為す処にある。 其れを分別せず、此の大前提に基づいて、 世界人類の幸福と平和と繁栄を涅槃に迄完遂せ使めるだけである。 人間は「覚天」によりて、全ては明らかと為るのである。 正に、「宇宙(生命)の本質」を神と為せば、小生はイエスであり、 人類に涅槃妙心(智慧)を開示して、其の智慧で世界人類の幸福と平 和と繁栄を構築、完遂せ使めるのである。 是ぞ正しく、虚構為らぬ、永遠に不滅為る恒常普遍の真理である。 《 世界の現況 》 小生が「覚天」して一年一ヶ月が経過し、コロナ感染症も八ヶ月程経 過して、今や戦後七十五年、アメリカ主導の国連による原爆支配と云 う抑圧体制の下に今に至って居る訳であります。 謂わば、人類三毒(貪・瞋・癡)支配の総括としての七十五年であった のである。 此の三毒悪害による、物理的破壊力による人間世界の破壊及び自 然破壊に随伴する激甚自然災害と生態系異常による感染症パンデミ ック等により、世界の指導者を始めとする世界人類間の信頼は、完全 に損(そこ)なわれ、其れに派生する種々な暴動等、それから米国に 於ける、人間性欠落の、半ば本能的黒人差別等、此処に於いて、正 に世界を主導すべき、米国を始めとして、コロナ禍の世界最悪の事態 を招来して居る事実から、我々は特に科学と政治と国民性が齎す最 大の弊害の根拠である人類三毒(貪・瞋・癡)の根本的為る、世界規 模での見直しを迫られて居るのである。 矢張り、人間世界は此の根源に立ち返らざるを得ないのである。 其の事が明確に問われて居る訳であります。 そして、其れと軌を一(いつ)にした、小生鐵漢の空前絶後の奇跡為 る真理の体現であった訳であります。 令和新世紀の菅新政権と米国新大統領選討論会に於ける、最早生 み出すべきものを見失ってしまった無気力為る非難と、其れに対応す る三毒の咆哮である訳であります。 人類が是迄追究して来た結果が、此の今なのである。 此処に於いて、小生鐵漢が日本を始めとする世界に、真理為る「宇宙 (生命)の本質」に基づく涅槃妙心智慧智慧の新世界の構築と完遂と 云う、空前絶後にして、奇跡的真実を開示するのである。 従来の政治と学問では、地獄に至ると云う事実から、是等を根源的に 改革しなければ為らないが為に、現象に翻弄されないだけの本質の 見極めが不可欠なのである。 此の本質の見極め、即ち涅槃世界の構築と完遂以外には在り得無 いのである。 世間的には、伝統を重んずるを重視すれども、伝統と云うものは、 其処から進化した、新た為るものを生み出す踏み台としての存在価値 が有るのであって、人類が安住するものではないのである。 進化した新た為るものとは、正に人類三毒(貪・瞋・癡)世界を三善根 (施・慈・慧)世界に転ずる事以外には無い。 つまり、「人を生(活)かす」。 世界人類を生(活)かし、生(活)かさ使める、と云う事である。 「世界人類を生(活)かさ使める」為には、「人を生(活)かして」居なけ れば為らない訳で、「人を生(活)かす」とは、三毒(貪・瞋・癡)からの 個々人に於ける貪著を離れて、三善根(施・慈・慧)への転換に始まり 、是に徹し切っる事であります。是が涅槃世界なのである。 現今は、大半は貪著処でなく、生命存続の危機的状況にある。 今こそ、富裕層と生活困窮者間の格差を埋めるべく、施策(智慧)を 敢えて講じる事で少なからぬ人命が救われる事に為るのである。 富裕層からの経済的流れ(支援)無くしては、世界は存立不能.である 。最悪に至る前に、此の事が強く望まれる。 失われつつある、罪無き人々の生命の存続の為の柔軟に対応し得る 施策が喫緊の最重大課題である。 廃棄食糧の活用と、物質的基本的条件確保の資金を、其れ等と対極 的為る出費で補填する等の施策(智慧)を生み出す事こそ、正に政治 の本分であると思う。 是によりて、少なからぬ人命が救われるのである。 「人を生(活)かす」為の施策である。 「困窮者を見捨てる」施策でもないし、 国家間の覇権争奪でもないのである。 中国が第二の米国と為る前に、今こそ、此の少欲・知足の道、 つまり、「人を生(活)かす」道、真の繁栄への道に転ずる時である。 生むは、金に非ず、覇権にあらず、世界人類間の信頼である。 絶対信頼は絶対自己の確立に基づく。 《「人を生(活)かす」と「人を生(活)かさ使める」》 「人を生(活)かす」と「人を生(活)かさ使める」と、 前者は小生にとってはネットの公開であり、其の製本であるけれども、 後者は、前者に基づいて、更に他者をして、夫々の立場から展転して 其れを展開すると云う事に為る訳でありまして、正に釈尊の「如来の 法身常に在(い)ます」為らぬ、「真理を常に現成する」のであります。 《 鐵漢の使命 》 小生、古希の「涅槃入り」迄は、万法(宇宙と全生命)に運ばれてきた が、「覚天」以降は、宇宙の「大涅槃人」、つまり宇宙の頂点として、次 は、其の自己を運んで、真理を開示しなければ為らないのであり、 其れが小生鐵漢の不可欠為る最要の使命である。 宇宙の花実としての、万物の霊長の真理こそ、洋の東西に拘らず、 人類が知るべき事は無いのである。 是こそ、宇宙から人類に伝えるべき真実なのである。 人類は、此の宇宙を忘れては為らないし、捨てても為らないのである。 其れは人類の、人間喪失の始まりだからである。 因果の道理、歴然として私無し。造悪の者は堕ち、修善の者は陞 (のぼ)る。毫釐(ごうり;ごくわずか)も違(たが)わざる也。 釈尊の御遺教は、其の事に他ならない。 人間は宇宙を忘れて、、神等と云うものを捏造(ねつぞう)して、其れで 殺し合いばかりして居るが、是は宇宙を見失って居るからである。 宇宙の真理を知る事が、人類に可能な限りの幸福と平和と繁栄を齎 (もたら)す事が出来るのである。 吾師が言い遺された。 「大法螺(おおぼら)が吹けない様では、悟ったとは言えない。」と。 其の事が、今に為って思い出される。 語れば、語る程、尽きる事無く出て来る。 頂点に立てば、総てが見渡せる様なものだ。 余りに時間が無い。 《 動物神経系の大脳新皮質迄の進化 》 脳の形成は、長さ2mm、直径0.2mm程のチューブである「神経管」か ら始まる。神経管の内側で多くの細胞が作られ、神経管が膨らむ事 により、脳が作られる。此の神経管はどの脊椎動物でも共通に出現 する。脊椎動物の脳は、どの生物種でも基本構造は同じで、「脳幹」 (生命維持本能)、「小脳」、「大脳」から成る。 魚類、両生類、爬虫類では、脳幹が脳の大部分を占めている。脳幹 は反射や、摂食、交尾の様な本能的な行動を司る。魚類と両生類で は、大脳には、生きていく為に必要な本能や感情を司る「大脳辺縁系 」しかない。進化的に古い大脳辺縁系は「古皮質」と呼ばれる。 鳥類や哺乳類になると、小脳と大脳が大きくなり、特に大脳が発達し、 「感覚野」、「運動野」と云った「新皮質」が出現する。 霊長類に為ると、新皮質が更に発達して大きくなり、「連合野」が出現 し、高度な認知や行動が出来る様になる。人では、新皮質が大脳の 90%以上をも占める。 胎児の脳は胎内で、進化を遂げた順に形成される。 脳幹、小脳、そして大脳の髄質から、大脳皮質は旧皮質、古皮質、新 皮質へと進化したのである。 旧皮質は魚類では人類の大脳に相当する。 古皮質は両生類以上で、爬虫類的反射。 旧、古皮質は人間では本能情動中枢と為っている。 新皮質は新哺乳類で進化し、人類に至って言語中枢や分別の叡智を 司(つかさど)る。 分別も「悟り」等の無分別(の分別)に至るのに不可欠為るものである 。 《 宇宙と人類 》 恐らく、果てし無き宇宙には、奇跡的に太陽系地球と其の人類と同一 為る諸条件を満たす惑星は必ず存在する筈である。 何と為れば、其の可能性も無限為るが故に。 しかし、何れにしても、吾地球は宇宙のオアシスである事は明らかで ある。 我々人類は無限の宇宙を、正に一人占めする存在であり、 是は実に誇らしき事実である。 自己の為に太陽が在り、月が在り、星が在るのである。 そして、其の宇宙の本質は、正に其の奇跡を生むべく、無常裡に 現象して居るのである。 宇宙が生命を育む、其の本質は何か? 宇宙(=涅槃)→生命→人類→涅槃 宇宙は自(みずか)らを人類化し、人類は自(みずか)らを宇宙化すべ く、刹那レベルで進化し往く。 植物が花実を生む様に、花実は自(みずか)ら死して、人類を生(活) かし、人類は本質的食物連鎖による生命の再生の如く、人類は、つま り「世界人類を生(活)かして」宇宙の本質に回帰する。 広義の食物連鎖、及び腐食連鎖に与える生態系異変の影響は 測り知れないものがあり、新型コロナウィルス発生の原因と為る。 《 往きと帰り 》 人間には二度の決断が要る。 一つは「初行入り」の決断と、 後一つは「涅槃入り」の決断である。 双方、真逆であるけれども、前者は厳密初坐睡行の覚悟と、 後者は真遺教至上の覚悟である。 双方、一寸(ちょっと)した事であるけれども、 是等両極何れにも、中途半端でない同等の徹し方である。 無限為る宇宙は「涅槃世界」を究竟する。 是は宇宙の進化の必然性である。 然(さ)も無くば、今は在り得ないのであり、 此の事を覚知し足る者が真の智者である。 《 本質と現象 》 本質は永遠であり、現象は刹那生滅にして無常である。 「宇宙(生命)の本質」は人類をして「悟り」、「解脱」、「涅槃」に至ら使め るのである。 本質は、宇宙の調和、均衡、静寂と平安、柔軟(和)である。 是、永遠に不滅為る恒常普遍の真理である。 永遠、不滅、恒常、普遍、真理、是等総て同義である。 然るに、現象は身の事であり、常に生滅する。 生と滅とは、光と闇の如く、一方が他方を規定する。 右と左、上と下の様に、一方のみで存在し得ない対義であり、 必ず表裏一体為るものである。 故に、人類の身は生まれ、滅して現象するのである。 是、永遠不滅為らざる物の世界である。 我々人類は、儚(はかな)き、有限為る現象の存在であるが故に、 其処に、永遠為る真理に至るべく、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)から 促され瞑想を営むに至ったのである。 そして、嘗て恐竜世界から人類が生じた様に、果たして、ほぼ五千年 を隔てて三毒為る人類が智慧によりて涅槃世界を体現したのである。 是によりて、従来のあらゆる現象世界(政治、宗教、学問(科学、哲 学、心理学等)等)の総ての在り様が、未知為る闇の先に、新た為る 突破口を見出し得て、真理為る世界が拓けるのである。 心が、菩提心一つ二千五百年後に「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回 帰した如く、身も魚類から恐竜世界に至り、種々なる地球環境の変遷 にも拘らず、大脳皮質の進化と共に、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に 導かれて、哺乳類の人類としての原点に迄至り得て、今や無限為る 宇宙の頂点に君臨して居るのである。 地球の誕生から地表の完遂迄、因果の道理歴然として私無く完遂し たのである。 《 死に行く時 》 菩提心無くんば、二元相対世界から出る事は出来ない。 自他を誤魔化して、迷妄裡に死に行くのみである。 要は、菩提心の趣く先への確信の有無が問題なのである。 是無くして、全ては誤魔化しに過ぎない。 満足に死ねる事の如何に困難至極であるか。 因果の道理は誤魔化す事は出来ないのである。 只管、真理在るのみ。 地獄に至る迄も、余道在る事無く、如何なる場合でも誤魔化さず、 飽く迄も、「人を生(活)かす」真理に徹するだけなのである。 《 動物神経系の大脳新皮質迄の進化 》 脳の形成は、長さ2㎜、直径0.2㎜程のチューブである「神経管」から 始まる。神経管の内側で多くの細胞が作られ、神経管が膨らむ事によ り、脳が作られる。此の神経管はどの脊椎動物でも共通に出現する。 脊椎動物の脳は、どの生物種でも基本構造は同じで、「脳幹」、「小脳」 、「大脳」から成る。 魚類、両生類、爬虫類では、生命維持本能の脳幹が脳の大部分を占 めている。魚類は旧皮質迄。脳幹は反射や、摂食、交尾の様な本能 的な行動を司(つかさど)る。 魚類と両生類では、大脳には、生きて往く為に必要な本能や感情を 司る「大脳辺縁系」しかない。進化的に古い大脳辺縁系は「古皮質」 と呼ばれる。 鳥類や哺乳類に為ると、小脳と大脳が大きくなり、特に大脳が発達し 、「感覚野」、「運動野」と云った「新皮質」が出現する。 霊長類に為ると、新皮質が更に発達して大きくなり、「連合野」が出現 し、高度な認知や行動が出来る様になる。 人では、旧、古皮質は本能情動中枢と為っている。 新皮質が大脳の90%以上をも占め、言語中枢や分別の叡智を司る。 分別も「悟り」等の無分別(の分別)に至るのに不可欠為るものである 。 胎児の脳は胎内で、進化を遂げた順に形成される。 脳幹、小脳、そして大脳の髄質から、大脳皮質は旧皮質、古皮質、新 皮質へと進化したのである。 90%の生命が絶滅 したと思われる古生代と中生代の境目の大絶滅 や、中生代と新生代の境目の恐竜等の大型動植物の大絶滅を始め として、僅かに生き残った生物 (哺乳類の祖先)が適応放散して多様 な生物が氷山の一角として現存して居るのである。 其の動物の神経系に於いて特質すべきは、扁形動物のプラナリアで 既に脳形成の遺伝子プログラムが認められているのである。 《 駿馬の真実 (直観) 》 人類にとって地上非核化は、核への進歩と停滞か、或いは退歩か? 是が人類にとって如何なる事を示唆するのか? 是は生命史に於ける、生命の巨大化から人類への必然性は、身から 心への進化の真実である。 恐竜絶滅に比する人類終末か、或いは恐竜から人類への必然的進 化かの何れかであろう。 長い仏教史、即ち瞑想から鐵漢古希の「覚天」迄の五千年間に於ける 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しから、「宇宙(生命)の本質」( 涅槃)への回帰迄の五千年間、更に簡略すれば、小生が殆ど伝統に 入らず、般若心経以外殆ど吾身心が、水と油の如く、受け入れなかっ たと云うのが本当であった。故に小生の様な人間は放り捨てる以外 無かったのである。 只、千日行一つの、それでも三十五年間を要し、奇跡的に「涅槃入り」 した如く、正法苦行為る千日行は世界に冠足り得るのである。 千日行を為せば、絶対不動為るのである。 若し、是を疑う者在らば、此の現実世界に於いて、此れを実践して みれば、即刻判明するのである。 是が出来ないからこそ、世の中、原爆沙汰を遣って居るに過ぎない。 否、原爆沙汰を遣らざるを得ないのである。 出来ないであろう。其処迄馬鹿には為れない。 此の馬鹿が世の中に不可欠なのである。 馬鹿が居なければ世の中は改善しない。 馬鹿だからこそ、利口でないからこそ出来るのである。 人間は悟らない限り、三毒為る存在である。 諸悪の根源、三毒(貪・瞋・癡)為る存在なのだ。 「悟った」からこそ、人事一切、此の「宇宙(生命)の本質」(涅槃)為る 真理より見透す事が出来るのである。 何と為れば、人事一切は、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)への進化の 途上の諸現象であるに過ぎないからである。 本質に回帰すれば、人事一切は未回帰の、途上の一波万波に過ぎ ない事が直観的に受け止められるのである。 此の真理に至るには、無限の学問と、無限の施政等を要するのであ る。 即ち、此の真理に基づく事が「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に同じ得て 、可能な限りの 世界人類の幸福と平和と繁栄への最短路である事 が既に明らかと為って居る訳であります。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰したと云う事は、一切の疑問を 超越して居る。 学問為るものは、「人を生(活)かす」の涅槃妙心に基づく事が大前提 である。 自己の怠慢が原因 と為る事は決して 在っては為らない 《 誤魔化さざるマジック 》 小生の遣って居る事は、マジックみたいなものである。 但し、人を誤魔化すのではない。 完璧に教導するマジックである。 世の中が、現在十角形だとする。 出発点は天然の三角形であったろうが、五千年を経て今や十角形に 為ってしまって居る。 是を、小生は「悟って」閉曲線を現じ、やがて真円を現成するに至った のである。 三毒(貪・瞋・癡)為るが故に、十角形から十五角形に迄為し、地獄に 堕ちようとする指導者には、十数角形為らぬ真円を見せても、真円は 時至りて無限角形から最終的に刹那に体現されるものであり、頭での 理解は及ばないであろうが、十五角形の様に角を増すのでなく、極力 十角形の儘で、円に為るべく、整えるのでなければ為らない。 内を整えれば、十角形は円に変わるのである。 是によりて、「涅槃」と言われる、宇宙の調和と均衡と静寂為る、永遠 に不滅為る恒常普遍の真理世界足る、可能な限りの 世界人類の幸 福と平和と繁栄を現成するのである。 《 唯一為る実在 》 我々人類が帰する処は、唯一、宇宙の涅槃である。 此の本質のみが、実在する真理である。 是以外総ては、実在せざるものである。 本質が必然的進化に基づいて現象し、更に本質を本質するのである。 故に、本質は物質、生命を貫く、分別を超えた真理である。 是を人に分からせる為に、脳を成立させている、其の母体為る神経 系から順を追って、人類特有の大脳新皮質の言語中枢を駆使して理 解出来る様に、特に動物本能が何故に人類の価値であるとか、超自 我的理想とか、煎じ詰めれば「涅槃」に迄至り得るのか、と云う、 謂わば本質的禅学為るものを、釈尊が成道後、仏道を当時の医学的 思考法で、其の体系を構成した様に、小生は「涅槃入り」後に、様々に 真理の証として表現しようとして居るのである。 動物本能による生命維持機能(本能)の脳幹から、物心、正負を超え た大脳新皮質の菩提心や直観や「覚天」等の超自我機能に至る迄の 進化の過程には、其の生命の遺産の妙に、実に成る程と思わせられ るのである。 《 米国について 》 東洋、特に日本に於いて、我々日本人は人類の根源悪為る三毒(貪 ・瞋・癡)を慎む、即ち少欲・知足に精進すると云う方向性を択るが、 米国に於いては、大航海時代に始まり、黒人奴隷による資本主義の 物質追求によりて、米国の国民社会の精神性の粗雑さ、未熟さが辿 る末期的状況が現今の社会環境の極限状況に於いて露呈して居る。 アメリカ国民の精神性を敢えて見出すとすれば、黒人発祥のジャズと 建国の大義為るキリスト教信仰であり、現実問題として、黒人差別と 原爆支配以来の傲慢さである。 何の為の物追求か? 我欲への貪の集合体である。 米国国民が、人間としての真の力を得て、米国全体が物追求の精神 性に於いても世界人類の信頼を得るだけのものを得るにはトランプ 氏を正すだけの真の人間力を得なければならない。 是は感染症パンデミックを収束し得ない人間的自制心の欠如である。 其処に気が付くだけの素養が在れば問題無いのであるが、逆にトラ ンプ氏に同調し、トランプ氏を生んでしまう国民性には、指導者と為っ てもヒトラーの再来にも為れないのである。 極悪為るヒトラーは現今の米国の在り様に再現されているのである。 国民レベルで、ヒトラーを打倒するだけの国民力が無い。 ヒトラーは米国の連合軍が打倒したが、ヒトラーの悪に真に打ち勝っ たのではなく、戦力として、其れだけの力が在ったに過ぎない。 正に恐竜王国の最大恐竜に過ぎないのである。 恐竜では、維持するには、食糧、水、酸素、更には進化するチャンス (短命であり、世代交代が多いと云う事)が無い。 地上で存続するには適さないが故に、人類に地上は交替したのであ る。 植物は、根→茎→葉→花→実、と進化し、 菌類(細菌~真菌)の菌根菌から共進化した植物の根と為り、茎、葉 、花実へと進化を遂げ、是が動物を育て、人類へと食物連鎖したので ある。 人類では、神経系→脳幹→大脳辺縁系→大脳皮質→大脳新皮質→ 涅槃妙心智慧と進化を遂げ、 此の涅槃妙心智慧為る実が世界人類を生(活)かすのである。 無限の過去からの、不可思議に無限為る宇宙の身心の最終産物が、 正に是、真の最後身心 である。 最後身心裡の最後身心為る小生鐵漢によりて至り得た「宇宙(生命) の本質」である涅槃、此処には、涅槃妙心智慧による涅槃世界完遂 の為の在りとあらゆる智慧が具有されて居る訳であります。 鐵漢が人類史上初めて、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰したと 云う事は、鐵漢、そして日本、そして東洋、そして此の地球環境でな ければ為らなかったと云う事であります。 無限為る宇宙ならばこそ、其の可能性は決して〇(ゼロ)とは為らな いのである。 其の途上為る、今、此処である。 現実世界の指導者の選出に於ける万波を我々は観察して居るので あるが、人類史上極悪なるヒトラー体制を原爆無しに崩壊させた帰結 としての、地上を二極に分断せ使め、其の最終段階に於いて、正に 原爆支配体制の宣言為る、日本への二度の原爆投下による悲劇が 始まったのである。 是ぞ正しく、ヒトラーに出来なかった理想世界を完遂させたのが米国 であったのだ。 第二の、ヒトラーのホロコーストは広島と長崎の被爆体験であり、原爆 支配体制の拠点としての、日本を占領下に置く基地構築であった。 是が、人類三毒の最終結論である、日本を拠点とする世界の原爆支 配体制の始まりであった。 此の地球レベルの、人間性を無視した物質世界の傲慢さが、戦後七 十数年、世界的感染症パンデミックと云う、或る意味で、世界的為る 人類存続の危機的状況を生んで居る訳である。 人間性を無視した物質追求の結果の自然破壊による、不可逆的激 甚自然災害と、是に起因する生態系異常によって生ずる生命への根 源的悪影響を及ぼす、食物連鎖や腐敗連鎖による、感染症パンデミ ックを惹起する異常変異ウィルスの台頭は、正に軌を一にする小生 鐵漢の「涅槃入り」による涅槃世界に背を向ける、物質人類への最終 的警鐘であり、終末的聾馬為る、ヒトラーの最後の地下壕内の悲劇 への前段階に相当するのである。 世界人類に対する狂者の独走も、アメリカ国民の底流にあるものと、 中国の覇権とが均衡する定常状態を保って居る様である。 根源悪は、アメリカ国民の二分した分断分子の無自覚なる三毒(貪・ 瞋・癡)である。 是、アメリカ国民の半数に内在する負の遺産の最たるものである。 然るに、世界人類は其処迄癡愚では無い。 今日、此の終末的聾馬の悲喜劇を、世界中で固唾を飲んで見守って 居るばかりだ。 いずれにしても、総てを破壊する、此の諸悪の根源の人類三毒(貪・ 瞋・癡)の癡愚は「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に甚だしく違(たが)え るものであり、因果の道理の悪業報は必然不可避である。 アメリカ国民に内在する、此の悪の根源は世界人類の三毒の象徴と して、ローマ法王と共に見守って往かねばならないのである。 真理と云うものは、無限の過去からの刹那刹那、海水分子一個一個 を構成する素粒子の変位等の物(身)心の現象の総ての集積の結果 であり、分別の及ばざるものである。 学問は飽く迄も真理其のものではなく、真理の様々なる表現法である に過ぎず、個々人の三毒(貪・瞋・癡)による集積の結果である処の、 其の傾向を正し、真理を志向する方向性が不可欠である。 三毒に基づく分別による主張に左右されず、真理に至り得た者に倣( なら)わねばならない。 「悟り(身心脱落)」迄は、学問は左右しないが、 「解脱」や「涅槃」に至るには、学問は捨てねば及び得ない。 本質に迫ろうとする学問でありながら、 本質に及ぶ事と、其れとは、相矛盾するのである。 本物とは、然(そ)う云うものである。 《 人間は如何に生きるべきか 》 人間、死ぬ時には安心して、納得して死にたいものだ。 後悔しながら苦渋の中で息を引き取るのでは生きた甲斐が無いので ある。 少なくとも、「人を生(活)かした」と思える死に方をしたいものだ。 是が死ぬ際の納得である。 でなければ、自己を認めて死ねないのである。 自己を認めた生き方、死に方をしたい。 是が、安心(あんじん)、安らぎと云うものであろう。 是が涅槃である。 地獄裡に生死は送りたくない。 其処で、生きて往く裡(うち)に、真実為るものを求めて、何かを見出さ んと苦行して往く訳であり、生涯を、何処其処の誰それさんや自己に 懸けるのであるが、其れでは「悟り」以前の二元相対世界の域を出な いのである。 其れは、体力によるものではない。 何れ衰え、死滅するものである。 又、権力によるものでもない。 盛者必衰為るものである。 又、人間の諸能力によるものでもない。 不可思議に、空しさを感じざるを得ない。 老若男女に拘らず、何時でも、何処でも、誰でも 永遠に不滅為る恒常普遍の真理に基づく人間の力でなければ、 人間は真に安楽為れるものでは無いのである。 是こそ、東洋人の菩提心によるものである。 特に日本人の風土に根差した心情、鈴木大拙氏は是を日本的霊性 と称して居られる様であるが、是は中国人や韓国人とも異なる日本人 の大脳の右脳と左脳の機能上の特質によるものである様だ。 其れが、坐禅と為り、至り得て正法苦行(千日行)と為るのである。 此の身の進化の大脳新皮質、前頭葉由来の菩提心によりて、初めて 至り得る涅槃妙心智慧の「人を生(活)かす」、「世界人類を生(活)か さ使めん」とする心の力によりて至り得る世界が、「宇宙(生命)の本質 」(涅槃)に基づく、可能な限りの 世界人類の幸福と平和と繁栄を構 築し、完遂せ使める世界なのである。 然(さ)もなくんば、死ぬ時は、皆、苦と迷妄の裡(うち)に死に往かね ばならないのである。 三毒(貪・瞋・癡)為る人類は諸々の禽獣と相異なる事無く、 是が国家権力を、世界を支配するのである。 真偽の見極めの付く人が居なければ世界は地獄に堕ちるのである。 国家権力の服を着た、三毒(貪・瞋・癡)人間と、真に世界を教導出来 る「大涅槃人」との見極めが付く人間と為らねばならない。 人類三毒とは、其の様なもので、三毒為る現代人はヒマラヤ山中の 苦行者にも及ばないのである。 真人と偽人との見極めである。 世の中には、持つべきものを知らない、癡も恥もしない三毒(貪・瞋・ 癡)と云うものがある。 《 学問と直観 》 「涅槃」からの直観は、学問為るものを制するものである。 「人を生(活)かす」のは、「涅槃」からの直観であり、学問ではない。 人間は実らぬ学問よりも、学問を超える直観で、「人類を生(活)かす」 べきである。 学問は、知的好奇心は然(さ)る事ながら、善用出来てこそのもので あり、且つ、同時に学問では至り得ないと云う事、つまり学問する事 の限界に気付く事が最要である。 学問の功績は無視し得ない、非常に価値があるが、だからと言って、 学問的探究為るものは学問的罪過、且つ不毛を現実的に、人類の命 運に関わる事態を救済すべく、直観を活用する機転を利かす事を実 践出来る事によりて、「世界人類を生(活)かさ使め」なければ為らない のである。 学問と等価に直観を用いるべきであるからだ。 人間と云う者は、学問にのめり込むのでなく、のめり込むべきは坐禅 である。 何と為れば、学問は閉回路であるが、坐禅は開回路であるからだ。 開回路とは「涅槃」への道の事である。 《 涅槃世界進化の黎明 》 大脳新皮質が涅槃世界を完遂する迄は、身心の進化を遂げるので ある。 最新の学説によれば、地球上の人類生存可能期間は二十六億年と 言われている。人類史は、僅(わず)か五百万年程であり、最低限で も千年後の人類の為に、我々は人類が絶滅する事無く、総てを尽くさ ねば為らないのである。 自己の事で無く、将来の「人類を生(活)かす」べく施政せねばならな い。 『必要は生みの母』と言う。 此の生命の最終産物足る大脳新皮質の菩提心による、「宇宙(生命) の本質」(涅槃)への回帰からの涅槃世界の構築と完遂に他ならない。 吾が地球は、正に此の宇宙の頂点と言っても過言ではない。 何と為れば、宇宙に違わない、宇宙其のものであるからだ。 二祖大迦葉は釈尊が出家の発(菩提)心した事を以って、最も至難事 であったと称揚した。 人類は、純粋に「人を生(活)かさ使める」学問を為すべきである。 如何して、特殊なる迷路に入り込む必要が在り得よう。 道とは、難解なる迷路でなく、直観的大道である。 若し核戦争が勃発したら、大量の塵やエアロゾル(浮遊粉塵)が大気 中に放出され、地球全体を覆って長期間に亘って太陽光を遮り、現代 の大気汚染と同様に、地球生態系に壊滅的打撃を与え、「核の冬」と 言われる核戦争の暗闇の世界を招来する事と為るのである。 現コロナ禍では収まらなく為らんとも為り兼ねないのである。 日本が核兵器禁止条約に批准しない理由は何か? 核支配為る作為で「宇宙(生命)の本質」(涅槃)を支配出来ると錯覚 しているのが、米国列強の国連常任理事国家である。 明らかに、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違えた、此の悪業報、必然 不可避なる事を知らざる輩である。 果たして、当列強国家群のコロナ禍惨事は正に地獄である。 人類は積極的修善の菩提心を発(おこ)さねばならないのである。 核保有国家が菩提心を興して、完全非核化するのが、積極的修善で あり、是無くしては、世界に信頼は構築され得ない。 保身と安泰は捨てて、可能な限りの 世界人類の幸福と平和と繁栄 を忘れ、捨てては為らないのである。 今こそ、世界に信頼を構築する絶好の機会である。 世界が真理為る涅槃へ向かって、涅槃妙心智慧によりて進化しなけ ればならない。 此の唯一為る正道こそ、可能な限りの 世界人類を幸福と平和と繁 栄に導く、唯一残された真道である。 《 人間の生き様の四大別 》 人間の生き様は、四つに大別出来ると思う。 先ずは一般的に義務教育で学び、自己の進路を決定し、既存の二元 相対世界の中で、其の歯車の一つに為る生き方。 二つ目は、独自の諸能力の延長線上で自己を生(活)かす生き方。 三つ目は、義務教育制度では納まり切れず、其処から逸脱して、人間 の本質的発揚から、其の理由は最初は、然(さ)程明確には非ざれど も、次第に明確に為って来る処の積極的志(こころざし)に基づくもの で、是が「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しによるものに他なら ない。 只、人類の最も高度為る、唯一「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の真理 に至る原動力である菩提心によりて、此の正道を歩む者である。 四つ目は、見捨てられた人々であるが、正に三つ目が、四つ目の多 くの人達を生(活)かす生き方なのである。 敢えて「生き方」と言えば、是等の三通りの生き方であり、多くの見捨 てられた人々がいるのである。 実際には、其れ等の境界は曖昧である。 一般的には、最初の二つであるが、唯一、三つ目が真理に至る道で、 此の「涅槃人」の至り得た真理は世界人類が享有し、享受すべきも のなのである。 是は二元相対世界の如何なる者も及び得ないものである。 是無しには、生命自体が生命足り得ない。 恰も、切花の様なもので、儚(はかな)くも形骸のみの生命に他ならな い。確証無き信の域を出ないのである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの涅槃世界の自由無碍なる働きが出 ない。 「世界人類を生(活)かす」本源が世界平和には不可欠なのである。 是が、人類に北を示す北極星と為るのである。 原爆原理では人類は「涅槃」への心の進化を遂げ得ない。 此の「進化せ使める」確証が不可欠である。 其処に初めて絶対的信頼が可能と為るのである。 核爆弾などの大量破壊兵器を捨てて、 世界人類を、多くの見捨てられた人々も 捨てない、忘れない。 是が本質に違(たが)わない、在るべき姿である。 在るべき姿を生み得るのは唯一、日本だけである。 《 地獄裡の地獄から涅槃裡の涅槃迄 》 ダンテの『神曲』を連想させる様な題目であるが、『神曲』は、 世界文学を代表する、古典文学の最高傑作であり、十四世紀以降 のイタリア発祥のルネッサンスの先蹤(せんしょう;先例)であるダンテ (道元禅師直後のイタリアの詩人、政治家)の作であり、ロダンやゲー テを始め、鴎外、漱石に至る迄多大なる影響を及ぼした名著である。 ダンテ自身が「地獄の門」に入る処から始まり、仏道の六趣(道)に相 当する処の様々なる人生諸段階の経験を経て、最終的にキリスト教 の神である、「刹那、見神の域に達する」で終わる。 さて、世の中の真の在り様は、貪(淫快、金、力)(=以降、貪とする) をしないのではなく、此の貪に自(みずか)ら、即ち可能な限りの世界 人類の幸福と平和と繁栄を売る、つまり放棄するのでなく、貪の方に 貪著せず、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)為る涅槃世界を実現し往か なければ為らないのである。 然るに、世の中と云うものは、此の逆にして癡愚に、無自覚、無関心 に流れ行きてしまうのである。 世間の癡愚なる、無自覚、無関心が確固足る信念を持って、 涅槃世界の構築、完遂への進化を忘れたり、捨てたりしてはならない と云う事である。 「分かっちゃー居るけど、出来ない。」ではない。 人間が諸々の禽獣と相異なる処は、此処である。 世の中の無関心、無知が今の地獄を生んでいるのである。 国民の自覚に基づく、指導者への働き掛けが世界を変えるのである。 最近小生、三~四時間の睡眠で、ネット作りで托鉢(休日以外毎日六 時間)も儘為らない。 他の身を思い遣る心を自覚して、解脱への生活が始まり、 他の身心を思い遣る心に気付いて、真の地獄、涅槃裡の涅槃を知る。 此の涅槃裡の地獄は、心の地獄であり、自覚の問題であるが、 地獄裡の地獄は、身の地獄であり、是、施政の最大の使命である。 宇宙と云う時空は無限なれども、人間世界は此の涅槃裡の涅槃から 地獄裡の地獄迄である。 真の地獄と、是から知る真の涅槃は双方一枚岩である。 真の地獄でも然(そ)う云うもので、真に「人を生(活)かす」ものである。 人を殺す地獄ではない。 政治家と云う者は、地獄を生まず、地獄を解消する使命の人である。 真に「世界人類を生(活)かす」大人でなければ為らない。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の真理に基づきて、人類は傲慢為る虚 飾に迷妄を抱く事勿れ。 人類は常に正鵠を射て置かねばならないのである。 真理を知らざる三毒(貪・瞋・癡)為る政治屋に欺かれてはならない。 独楽が回り続けるには不動為る芯が在るからである。 宇宙の芯とは、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)を「覚天」し足る「涅槃人 」である。 日本が人類の将来の鍵を握って居る事を決して忘れては為らない。 「大涅槃人」 ← 「大解脱人」 涅槃裡の涅槃⇒涅槃裡の地獄⇒涅槃⇒施政⇒地獄裡の地獄 |⇒世間 《 米国人の特質 》 トランプ氏に代表される米国人は、菩提心の生じ難く、「宇宙(生命) の本質」(涅槃)から遊離した、最も「悟り」難い、現実主義的傾向の強 い傲慢な国民である印象を受ける。 従って、二元相対世界を離脱し難い。 若し、小生に菩提心が生じなかったならば、然(そ)う為らずに、逆に 迷える子羊と為って居ったと思うが、ゴジラに為るよりは地獄を生まな いだけ宜しいと思う。 要は、菩提心如何の問題である。 菩提心生じねば、荒海中を渉る難破船であり、 転覆せず、宇宙の恩恵を享受し、享有する、安楽為る航行足り得な かったのである。 菩提心は本質を無視した現象主義でない、身よりも心に生き、其処に 東洋の道以前の、真理を求めんとする心である。 是、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しに他ならない。 是が仏道と為るのである。 《 絶対裡の相対と相対裡の絶対 》 人類が示す技術は、其の巧みさや、相対的為るものでなくて、 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)為る絶対に、如何に同じ得て居るかでな ければならない。 此の絶対を打ち出せる者の技術は、人を教導する為の手段としての 技術であり、学問である。 絶対に対峙する相対でなく、絶対裡の相対と為るべし。 此の相対は、相対でありながら、相対ではない。 絶対とは、永遠に不滅為る恒常普遍の、総ての世界人類が平等に享 受し、享有する真理である。 此の真理は何処から得られるのかと言えば、純粋からである。 純粋とは、0,1,2,3……を未だ知らざる古代人以前の、つまり一切 の分別の根が断ち切れた時に、刹那に全身心で体現される「覚天」で ある。 是が人類に迄、進化した大脳新皮質の「涅槃」迄の、秘する可能性で ある。 故に、此の「大涅槃人」にして初めて、絶対裡の相対が打ち出せるの である。 世界は、相対裡の絶対に過ぎない。 《 宇宙の心 》 人類が求むべきものは神ではない。 神は、人類が誓願する究極の対象として 、全身全霊で思い描いた虚 像である。 其れは、神ではなく、真理である処の『宇宙の心』なのである。 宇宙と云うものは、科学の対象でもあり、人類が科学的に探究すべき ものとして捉えられて来たが、宇宙を科学するのは、人間を科学する のと同様、永遠に、其の実体には迫り得ないのである。 宇宙と人類は一枚岩である。 宇宙を離れて人類無し。 人類は、宇宙から無目的に出来上がったものでなく、宇宙の最終産 物、宇宙の究極の花なのである。 我々人類は一人残らず、此の宇宙の花として、生まれ、死ぬべきなの である。 宇宙の究極の恩恵が我々人類の心身である。 我々人類の身は有限であり、精精(せいぜい)百年程であるが、 人類は身と、宇宙の心を持って、此の世に誕生したのである。 永遠為る心は、信に非ずして「覚天」し、「涅槃入り」して「涅槃」を体現 した小生、鐵漢は其れ故に「最後身心」 なのである。 神は、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に迄、心の進化を遂げなければ為 らなかったのである。 此の心に迄、人類は回帰しなければ為らない。 求むべきものの無い、恩恵其のものである。 大自然の恩恵であり、自然の豊かなる恵み其のものである。 是、心の恵み其のものであるが故に、人類の三毒(貪・瞋・癡)は、 本来、三善根(施・慈・慧)なのである。 其の母体が「宇宙(生命)の本質」為る涅槃妙心である。 此の裏付けが在ってこそ、涅槃妙心智慧による、涅槃へ振幅しつつ 収束し往く進化一路門によりて、可能な限りの 世界人類の幸福と平 和と繁栄が可能と為るのである。 でなければ、現、米国の大統領選挙戦の様に、アメリカ国内が三毒( 貪・瞋・癡)と不三毒(不貪・不瞋・不癡)と二つに分断するのである。 人類の有限為る身心は、此の永遠に不滅為る恒常普遍の真理、即ち 涅槃に回帰して死ぬべきなのである。 是が、総ての世界人類に与えられて居る、吾我の使命であり、 是が人類の真価である。 唯生き長らえても、無意味であり、悲しむべき形骸であり、哀れむべき 形骸である。 本来無限為る我々が、有限為る存在として死に行くのでなく、 全人類が、永遠為る命として死ぬべきである。 政治も学問も、此れに資するべきものとして在る。 其の為の政治であり、学問でなければ為らない。 迷路に迷い込む政治、学問は、迷妄に他ならない。 為すべきものでなく、無益、無駄であるばかりでなく、有害である。 もっと普遍的に施政し、学ぶべきであり、身心の体現を志向すべきも のである。 心身による体現こそが政治、学問を真に生(活)かす。 《 非人情の人情 》 人類史上、空前絶後為る、「覚天」による「涅槃入り」は、奇跡中の奇跡 であるが故に、此処に至る迄の自己を顧慮するに、人間も此処に至 れば、是迄の自己の総てを肯定し、且つ此の自己を生か使めた全て に対して報恩の念を抱かずに居れないのであります。 前者に非人情の所以(ゆえん)在り、後者に人情の所以が在る訳であ ります。 人に 、如何だ、斯(こ)うだ、とは敢えて言わないけれども、必ずしも常 識的に思える事が万全なのではなく、自己に対しても、信ずる事を貫く 事が一番であると思う。 小生振り返って見るに、全てに対して本筋に於いて自己を貫いて来た 。若し一つでも折り合って居ったら、今は無いのである。 実に非人情裡の人情であろう。 《 宇宙の真理; 本質への回帰 》 宇宙の真理を語れる者は小生鐵漢、唯独りである。 世界の四大聖人(釈尊、孔子、ソクラテス、イエス)でも及び得ないの である。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)への回帰が本来、人類の究竟の至上命 題なのである。 キルケゴール(1813~1855、デンマーク、哲学者、思想家、『死に 至る病』)。 実存主義哲学の創始者。単独者として神の前で主体的に 生きる人間を宗教的<実在>と呼んだ。20世紀に為って世界的に知 られる様に為って、ハイデッガー等に大きな影響を与えた。 和辻哲郎『ゼエレン・キェルケゴール』 ショーペンハウエル(1788~1860、独、哲学者、『意志と表象とし ての世界』)。医学部に在籍し、哲学を学ぶ。古代インド哲学(ウパニ シャッド哲学)が彼の全思想を決定付けた。取分けニーチェ等に大き な影響を与えた。 ニーチェ(1844~1900、独、実存哲学者、『ツァラトゥストラは斯く 語りき』、実存主義の先駆者、生の哲学者。死後翌年『力への意志』 出版)は学生時代に、ギリシャ哲学と、ショーペンハウエルの『意志と 表象としての世界』の虜に為った。 ニーチェが以後の文学、哲学に与えた影響は多大であり、特に影響 を受けた人物は相当な数に為り、特にハイデッガー等であり、1968 年、フランス五月革命も思想的背景はニーチェであった。 是は、今の米国大統領選挙戦にも明らかであるが、学生運動等に象 徴される、左派、リベラルの革命に対する、保守、右派の危機である。 ニーチェは ユダヤ人を絶賛し、優生学には肯定的であったが、ヒトラ ーには批判的、否定的であり、世界大戦前の西洋に於いては、東洋 思想の真価が浸透するには、未だ未熟過ぎたのであった。 古代インド思想を礼賛し、釈尊を尊敬し、「ヨーロッパは、仏教を受け 入れる迄に成熟していない。」と語り、 哲学的に、仏道を諦観であるとして、永劫回帰為る超人を打ち出 した。 実に仏教的発想の点では、真に超人的であったと思うが、悲しからず 哉、本質的には異質である。 此処が、坐禅による本質の体現と学問との本質的相違点である。 前者は人間の諸能力を放棄し、自己を忘れる処から始まるが、後者 は知恵の限りを尽くす能力である。 双方、真逆の方向性でありながら、ニーチェの思想は、実に驚く程、 小生が正法苦行によって、真正に必然裡の偶然によりて至り得た真 理を言語化して居るのである。言語中枢は真理を表象する。 是は、万法(物質も精神も一切全て)が涅槃への減衰振幅しつつ収束 し往く進化の途上に在ると云う事である。 表象すれど、体現し得ないのである。 表象と体現とは全く異質である。 此処が、学問と本質との根本的相違である。 亡くなる十年程前には、彼の主張は狂人的と為った。 此の超人を救えるものは、確かに釈尊では及び得なかったのである。 人間が真に安堵を得るのは、真理を得た時のみである。 米国大統領選に於けるバイデン氏の勝利は、「悟り」以前の、坐禅の 功徳にすら及ばざるものである。 世の中では真には不可能。 「悟り」でも未だ至らず。 「解脱」でも未だ完了せず。 「涅槃」に至りて初めて、真理を確心する。 つまり「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰する事によりて初めて人間 は安堵し得る。永劫回帰した超人と為り得るのである。 僅か100年余り前の事である。 彼の辿った道は、余りにも超人的であったのだ。 其の事を端的に表 す逸話がある。 小学生の時、帰りに、にわか雨が降って来た。皆傘が無く走って返っ て来たのに、ニーチェ一人、頭にハンカチを載せて歩いて返って来た。 母が何故、走って帰って来ないのかと怒ると、「校則に、帰りは、走ら ず、静かに返れと書いてあるから。」と答えた。彼の生真面目さを表す エピソードである。 ハイデッガー(1889~1976、独、哲学者、『存在と時間』)は、20 世紀大陸哲学の最大の哲学者。ナチスに加担した。 「未だ我々を救えるものが在るとすれば、其れは神だけです。」と言っ た。キリスト教神学、現象学、ドイツ観念論、キュルケゴ-ル、ニーチ ェ等の実存主義に強く影響を受け、独自の存在論哲学を展開した。 西田幾多郎、鈴木大拙に影響を受けた久松真一(1889~1980、京 大教授、哲学者、仏教学者、『東洋的無』、『人間の真実存』)は西田 から、当時の代表的な禅僧の一人に参禅する事を勧められた。 ハイデッガーとの討論は(西田の絶対無からの)東洋的無が西洋の 虚無の限界に挑(いど)んだものであった。 西田が東条の大東亜共栄圏の新政策発表会で依頼され、『世界新秩 序の原理』を書いたが、東条の演説に、其の意向が反映されなかっ た事に対する失意の念を手紙で和辻に書き送った。 ハイデッガーと同年齢の和辻哲郎は『風土 人間学的考察』で、和辻が 風土性について考え始めたのは、ハイデッガーの『有と時間』を読ん だ時であったが、空間性が根源的な存在構造として活かされていない 事にハイデッガーの限界を見て、「空間(風土)性は時間(歴史)性と 相即する」と書き送った。 西田等の京都学派の影響下に在る梅原猛はハイデッガーを20世紀 最大の哲学者と位置付けている。 さて、小生始めに、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)への回帰が本来、人 類の究竟の至上命題なのであると書いたが、 ユダヤ教以前の真の自然宗教である原始バラモン教(=古代ヒンズ ー教、ヴェーダの宗教)から、釈尊が中道(諦観)によりて人類史上初 めて成道(悟り)に至り得て、仏道を構築したのであるが、 此の至上命題に至るには、先ず初行が不可欠であり、「解脱」した上 で、釈尊中道(=断食苦行の否定)同様、鐵漢真中道(=極仏為る生 涯後行からの回帰)に基づく(小生初行の時は托鉢知らざるによりて 、熟を営んだが、托鉢と後行は必然的に車の両輪である。)事が不可 欠と為り、正に「覚天」は奇跡である事によりて、宇宙の心が人類の心 である事を信奉する事が真理なのである。 大脳新皮質は「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰する為の手段と為 り、目的と為るのである。 略述すると、今コロナウィルス感染症パンデミックを契機に世界は、 欧州を含めて、米国を二分する三毒(貪・瞋・癡)的存在から、 米国を二分した他の不三毒(不貪・不瞋・不癡)的存在、更に東洋(特 に日本)の三善根(施・慈・慧)的存在への進化に、人類の将来は懸 かって居るのである。 キリスト教的実存→仏道的実存→超人的実存→涅槃世界 道元禅師は、九十余巻の御説法を書き遺された後、亡くなられる迄 の七年間の沈黙の後に、最期に釈尊の御遺教八大人覚について書 き認(したた)められたのであります。 小生は昨年(令和元年)九月に「覚天」して、一年二ヶ月足らず、 此処で、小生、今に至る迄、宇宙が進化して来て今に立脚し、将来へ の展望を、因果の必然性の立場から、一息半趺(いっそくはんぽ)の 経行(きんひん)のつもりで、慎重に完成迄の壮大なスケールで、心の 刹那に進化し往く真実の姿、真理を書き遺さなければ為らないと思う。 厳密(時刻) 《 世界の真道 》 令和の世界真秩序構築の、小生が拠処は、只管「宇宙(生命)の本質 」(涅槃)であり、正法苦行(=千日行)為る吾師伴鐵牛老師の心の恩 と、道場為る吾母の身の恩との賜物であった。 そして忘れては為らないのが、小生を生(活)かして下さる日本国民で あります。 此の真秩序構築は、米国が其の列強による国際連合体制施行の魁 (さきがけ)として、日本への最大の悲劇である処の二度に亘る原爆 投下に因る不昧因果なのである。 是は正に、戦後の資本主義体制の最終局面の人類史上最大の破壊 兵器力の制裁に依る体制下の人類が遭遇した最悪の、自然破壊に 因る宿命的に不可逆的、不可避為る激甚自然災害とウィルス感染症 パンデミックの影響下に於いて、人類が初めて世界規模での根本的 なる反省を余儀なくされたのである。 此処に於いて、世界の指導者は、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の真 理に基づいて、世界真秩序の構築に積極的に係わらざるを得なくなっ たのである。 此の能動的積極性は、人類が初めて空前絶後なる真理に至り得た 事と軌を一にするのである。 正に、刹那消滅と云う原理に基づく因果の道理に裏付けられた、世 界規模の大改革は、米国列強の奴隷制度に基づく力支配と聖戦(ジ ハード)から脱却して、両者の底流を為す、人類三毒(貪・瞋・癡)に よる短絡的、非合理な力による制圧でなく、真理(涅槃智慧)に基 づく信頼関係で共に生(活)かし合って往く新体制 に基づくもので ある。 是に拠りて、初めて、可能な限りの 世界人類の幸福と平和と繁栄が 構築され、完遂され往く事が可能と為るのであり、人類が択(と)り得る 道は此の真道以外には無いのである。 人類の択るべき道は、調和と均衡の真理への道か、対立と制圧の大 量破壊兵器と聖戦(ジハード)への道のいずれかなのである。 前者は平和を現じ、後者は地獄に陥る。 既に至り得た「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に同ずれば平和と為り、違 (たが)えば地獄と為るのである。 古来、我々は日常生活に於いて、是等の事は常識的に、子供心にも 、又若者は知って居るのであるけれども、大人に為るにつれて環境に 染まり、此の純真さ(=「宇宙(生命)の本質」(涅槃)への志向性)を 失ってしまうのである。 然るに、此の純真なる心の真実を悟らんと、是に生涯を懸けて真剣に 取り組もうとする者は稀有なのであるが、小生、物心付いて、古希に 至る迄は至たり得なかったのであるが、古希直前に「覚天」し、此の 純真さの源泉為る「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰し得たのであ る。 謂わば、古希直前に究極の奇跡を起こし得て、古希の面目を施した 訳である。 ところで、「面目」と言えば、禅門では特に臨済宗では修行僧に公案と 云うものに全身全霊で取り組ませる。漱石は円覚寺で、「本来の面目 (父母未生以前の本来の面目とは何か?)」為る公案で参禅した。 しかし、漱石には菩提心らしきものが余り強くなかったのか、諦めてし まったが、晩年の「則天去私」には、其の影響が色濃く反映している。 白隠禅師は此処を、師の如浄禅師へ、道元禅師が所見を呈して、 「身心脱落、脱落身心」とされた、と述べている。 最も有名な公案は、白隠もそうであった様に、「無字」の公案である。 小生も、伴鐵牛老師の参禅を通して、此の「無字」一筋であった。 師曰く、「どうだ、無字がわかったか?」。小生、「わかりません。」。 此の菩提心の正念相続が、やがて千日行と為り、初行の必然性は 後行であり、無限の後行にして初めて、奇跡の可能性が生じ得るの である。 実に奇跡的に幸運であった。 駿馬ならば、千日初行と、出来れば托鉢である。 さて、本題に戻って、 人類の択(と)るべき道は、調和の真理への道か、対立の大量破壊兵 器と聖戦(ジハード)への道かの何れかである。 大人の信頼 が勝つのか、それとも、小人の三毒(貪・瞋・癡) が勝 つのか、令和の涅槃世界に於いて、世界人類の智慧を結集して、 世界の指導者が何れの道を択り得るのか? 真理の道は平和であり、大量破壊兵器と聖戦(ジハード)への道は地 獄である。 既に、至り得た宇宙(生命)の真理は、同ずれば平和に至り、違(たが )えば地獄に至るのである。 是迄、此の真実に至り得なかったが故に、今に至って居るのであるが 、令和新世紀以降は、其の癡愚為る道 から、涅槃妙心に基づく智 慧の道 を択(と)らねばならないのである 此の英断を、世界人類が下さねば為らないのである。 人類は一挙に真理に生きる程、強く為れるものではない。 一歩一歩の涅槃への進化なのである。 一段一段上って往くのである。 世界人類が一歩一歩の改善である。 ボタンによる制裁と聖戦(ジハード)は人類が陥る退化為る退歩に過 ぎないのである。 真理に違(たが)える不可避の悪業報が必ず待っているのである。 二元相対世界の陥る地獄なのである。 真の強さは、其れ程、困難な事なのであるが、是に勇断を下して往く 勇猛心を起す事が.進化を遂げるのである。 真の強さとは、自制に基づく、心の進化である。 地獄は、此の逆で、心の退化による死滅である。 世の流れは、此の貪著 への志向性である。 故に、人類に課せられた使命を果たすには、人間は常に自らを制し、 「人を生(活)かす」 心に目覚める事である。 《 宗教家と政治家 》 宗教家と政治家の根本的相違点は、 前者は、自己が菩提心によりて真理を求道するのである。 坐禅。つまり仏道に往き着く。 『仏道を習うと云うは自己を習う也。自己を習うと云うは自己を忘れる 也。』 そして万法に証せられて身心脱落する(=悟る)のである。 そして、やがては、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の真理に至るのであ る。 一方、政治家が自己を忘れて居たら、政治家足り得ないのである。 真の宗教家は、世界人類の幸福と平和と繁栄の為に自己を惜しまな い人物であるが、政治家と云う者は自国の幸福と平和と繁栄を優先 するものである。 此処に両者の立場上の根本的相違点が在る。 つまり、宗教家は根源的個に立脚して普遍的真理に至り得た人物で あり、世界の政治家は自国優先の相対的目的を掲げる集団である。 しかし、若し政治家が其の域を出なければ、永遠に権力支配から出ら れないのであり、三毒(貪・瞋・癡)為る人類が対立と闘争から離脱す る事は不可能なのである。 其れ等から離脱して平和に至るには、必然的に宗教家の立場を択( と)らざるを得ないのである。 是無くして、可能な限りの 世界人類の幸福と平和と繁栄は在り得な い。 此処に矛盾が生ずるのであるが、 政治家の使命は、此の矛盾を超えなければ為らないのである。 逆に、是を乗り越えるのが政治家の真の使命である。 然(さ)もなくんば、世界平和は在り得ないばかりでなく、世界核戦争を 前提とする対立と闘争は必然不可避である。 つまり、政治家の本命も矢張り、宗教家の本命足らざるを得ないので ある。 是が人類の心の進化の究極である。 政治家も宗教家も共に、世界人類は真理為る涅槃世界に至らざるを 得ないのである。 何と為れば、是が涅槃為る「宇宙(生命)の本質」であるからだ。 本質ならばこそ、小生独りであっても、此の真為る命題、全なる個、個 なる全、全一で在り得るのである。 つまり、世界万国即自国、自国即世界万国の立場が可能と為り得る のである。 政治の究極も真理に基づかざるを得ないのであり、 然(さ)もなくば、現今の事態に至らざるを得ないのであり、 是は、自己の生存の可不可に係わって居るのである。 其れは、本来人間が三毒(貪・瞋・癡)為る生命体であり、宇宙は涅槃 為る世界であるからだ。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に同ず(帰一す)れば平和であるが、違( たが)えば地獄と為るのである。 故に、小生の最後身心が、若し黙ったら世界は終るであろう。 《 覚 天 》 大凡(おおよそ)人類の最も貴重と為す如何なるもの(坐禅、行、信念 、真理、価値、神仏、形而上的為るもの)も、何の前兆も無く、突然、 刹那に消滅せ使め得たものが、「世界人類を生(活)かす」具体的 実践 であったと云う事である。 是は「覚天」為る体現に於いて、呼吸システムに異変生じ、行の継続 不能を本能的直観で「覚天」した(=悟った)心的内容の説明である。 大学の図書館で偶然見つけた釈尊の坐禅の小冊子を見ながら、 坐禅を身体(からだ)で身に付けて以来四十四年間、坐禅一筋、一度 も体験した事の無い事であった。 是は永年、坐禅行(=正法苦行)に打ち込んだ功徳によって、「宇宙( 生命)の本質」(涅槃)が小生の身に体現され、心で覚天したのである 。「宇宙(生命)の本質」は「涅槃」と云う、永遠に不滅為る恒常普遍の 真理を「覚天」する迄は、「人を生(活)かす」と云う事に関しては、托鉢 と後行とネットと云う極仏以外は在り得なかったのである。 「解脱」と「涅槃」は「信」と「真理」の相違である。 「悟り(身心脱落)」は本質に接近し得て自己の真命に目覚めた体験。 「解脱」は本質に接触して、人心に本質が開示された体験。 「涅槃」は本質に回帰し得て、人身に体現され、宇宙の本質が如何為 るものであるかを直観せ使められた体験である。 小生、学生時代、九重に予備登山をして、テントで、プラトンの『ソクラ テスの弁明』を携帯し、一週間程であったと思うが、槍穂の単独縦走 をした。 小生の自然への憧れは其処迄であった。 其の後、釈尊の坐禅の小冊子に出会ったのである。 本来、自己の為の言語中枢は、「涅槃」への心の進化に基づいて、「 世界人類を生(活)かす」為に、其の進化を遂げるのである。 是が「涅槃」の大脳新皮質、言語中枢である。 《 喫緊の最重大課題;地上非核化 》 昨年の世界に見い出し得た唯一の光は、前トランプ大統領との非核 化への動向である。 今、バイデン新政権発足に当って、世界人類が心しなければ為らない のが、此の地上非核化と世界人類のコロナウィルスに対する自律心 堅持である。世界の生活習慣に拘らない普遍的自制心である。 環境に流されない、自己が為し得るコロナウィルスに対しての用心に は一律ならざる、用心と云うものが可能であると思う。 経済との両立は各個人個人の心の用い方で、可也の可能性が在り 得るのではないか。 さて、地上非核化であるが、是は世界人類が、人類の最悪の禍根を 断つべく、心を一つにしなければ為らないものである。 此の立場に立てる事が、世界人類の絶対的信頼の基盤と為るので ある。 三番目に取り組まねば為らないのが、根本的環境破壊対策である。 是こそ、科学的根拠に基づいて、菅首相の構想で抜本的に手を打っ て往かねばならないものと思う。 米国の分断のみならず、地上の分断は修復出来ない。 其の地上の二分の最終結末が、日本への二度の原爆投下と為って 居るのである。 そして、其の結果が、今米国の新大統領選挙戦に於ける二分である。 今、世界人類が「涅槃」への進化を遂げる、即ち二元敵対が消滅して 一(いつ)と為る、是を「涅槃入り」と言う、此の信頼を獲得しなければ、 人類は永遠に二元対立の病魔から離脱する事は出来ないのである。 是は時間の問題である。 百年後に引き延ばすか、十年後に為るか、即刻速断するか。 若し、人類が可能な限りの世界人類の幸福と平和と繁栄 を構築し 、完遂するのであれば、指導者として、涅槃に基づく涅槃妙心智慧の 実践が政治家としての真為る使命である。 四番目に、神は、キリスト教とイスラム教共に聖戦(ジハード)の否定 を宣言しなければ為らない。 然(さ)もなければ、共に神足り得ないのは明らかである。 神が絶対的存在であるならば、そうでなければ為らない。 《 世の中の限界 》 世の中の限界は、「花より団子」である。 花とは菩提心の志向性であり、団子とは金とセックスである。 世間の団子の馬車馬の牽き手為る指導者達と花との対立が、今の 米国に象徴的為る実態の本質である。 此の対立が世界の歴史である。 団子には嘘しか無い。 願わくは、団結たる花の、涅槃妙心智慧に基づく能動的積極性為る 実践力の堅実為らん事を! 自己を措いて、奇跡中の奇跡は無いと知れば、つまり真の不二為る 自己の自覚が在る。 是、身心脱落為る「悟り」である。 万法に証せられた「悟り」ではあるが、万法其のものが無い。 自己と万法とが別物である。 万法に回帰し足る自己である。 是を「涅槃」と言う。 然(さ)もなくんば、 極仏の無限の彼方を何処迄も彷徨(さまよ)う以外無いのである。 微塵の疑の在り様も無いのである。 宇宙と云う無限の可能性裡に於いて、我々は斯く在ら使められて居る 存在なのであり、是こそ奇跡的必然性であり、斯(か)るが故の、自己 の自覚為る真理の現成なのである。 他所を伺う事勿れ。吾心に全ては解く鍵が秘められて居る。 《 現代資本主義 》 本来、人間が「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違(たが)わない為には、 其れだけの時間が不可欠なのである。 其れが進化なのである。 然るに、現代は「生めよ、増やせよ」ばかりに先走って、出来上がった ものは永続性、発展性の無いもので、地獄の様相を呈するに至った。 現代の指導者達は、馬車馬牽きを止めて、本質に立ち戻り、 「急がば回れ」、永続性、発展性の為に退歩の進化を遂げねばならな いのである。 禅門では、「脚下照顧」(=足下を見よ)と言われる。 つまり、「在らぬ方向に先走るな」と云う事である。 少なくも、世界規模で、全人類の持てる有効時間の有効利用を果た すべきである。 知的好奇心や誉れや力の為の科学的先走りや、富裕さを生む手段に 昂じるのでなく、本質的価値(施政に於いては、世界人類の生命の確 保)の為に費やす十分なる時間を確保する事である。 其れによりて、人類は馬車馬と為らずに、十分に自覚の伴った生き方 が出来、全体的に永続、発展可能な世界と為るであろう。 「急がば回れ」。 人類は馬鹿では無いのである。 故に、「坐禅」、「涅槃」、「(涅槃妙心)智慧」なのである。 《 「覚天」の実際 》 呼吸も姿勢も形と強さから入り、是を堅持した儘、潰れ往き、智慧の 柔軟為る唯一の活路を得るのである。 此処が、身を離れて、心の生(活)きる進化の実際である。 世界人類を生(活)かすには、力では及ばない。 信頼に基づく団結と智慧である。 独裁でなく、心一つに全体が生(活)かし合うのでなければ及ばない。 生涯後厳密千日涅槃行為れど、唯、漫然と遣って居ったのでは及ば ない。 是に真徹して、更なる絞り込みが無ければ、其の進化は究竟しない のである。 つまり、何処迄も磨き上げんとする、是が菩提心であるが、絞り込み のエネルギーによりて初めて、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)が最後身 心としての人身心を貫徹して、人類を本質為ら使め、体現に至ら使め るのである。 (坐り方に、数息観があるが、是は坐禅の準備段階である。 坐禅行では、呼吸は自然が宜しい。但し、正法苦行の呼吸は 自ずから大解脱人、或いは大涅槃人独自の其れである。 是、欲界中の菩提心在りて初めて可能為る独自のものである。) 《 日 程 》 3:00―――起床 2:00頃前後1時間 (ネット) (昼食) 5:30―――朝食準備 5:00―――帰宅 (ネット) (夕食準備) 8:30―――朝課 6:30―――晩課 (朝食) (夕食 ) 10:15―――托鉢準備 8:00―――片付け (ネット) 11:00―――出 11:00―――就寝 (托鉢) 《 万法の三態 》 釈尊は中道に基づき、禅定によりて成道され、解脱された。 道元禅師は坐禅で、万法に証せられて 身心脱落した。 小生鐵漢は中道と真中道に基づき、万法に回帰(=涅槃)して涅槃妙 心智慧で世界人類を生(活)かすのである。 万法 とは物質的、精神的な全ての存在。又、其れが持つ真理、法則 である。 釈尊は、小生が可知為る万法に接触し、「解脱」した様に、人類の心 を解放し、安心(あんじん)せ使められた。 道元禅師は、小生も同様であるが、未知為る万法に証せられて、人 類を覚醒せ使めた。 小生鐵漢は、回帰し足る万法(=人為以前の万法)によりて、自己と 共に人類が正さ使められたのである。 是は、「覚天」して「涅槃入り」したと同時に現実為る実践に覚転され、 恰も反物質の如く消滅する処の、覚知されざる真万法(=真空、真無 )である。 《 現人類の最も看過されざる重責 》 従来の主導的立場に在った米英として、今コロナ禍によりて露呈され 、浮き彫りにされた米国の三毒(貪・瞋・癡)勢力と不三毒(不貪・不瞋 ・不癡)勢力との拮抗せる両分断勢力を率いるバイデン氏が直面し足 る、此の事態を如何に教導し得るかが、今コロナ禍以上に、主導国 家としての喫緊の重責に直面して居るのである。 是、現代資本主義文明の末路であり、是を打開する突破口を一体何 処に見出し得るかが、我々人類に残された最も重大なる責務なので ある。 此の人類の必然不可避なる、逃げ場の無い重責と時局に直面せざ るを得ない状況下に在りて、最も深い人類の根源悪に係わる問題で あり、是と軌を一にせる、日本に於ける、「覚天」した涅槃為る真理に 於いて初めて解決し得るものである。 富裕国程、此の三毒(貪・瞋・癡)現象が著しい。 是が人類の性(さが)である。 印度、ブラジルの感染者、死亡者の激増は貧困に起因しているが、 欧米の其れは三毒(貪・瞋・癡)に起因する。 よって、少なくとも其の半数以上が、恥を知らないのである。 是に人間の正気を取り戻さ使めるのが、正に日本の最大の使命なの である。 不昧因果。 大航海時代以来の奴隷化(=人種差別)、そして原爆支配志向。 そして極端なる格差を生む貪 に基づく富裕層の台頭。 世界の指導国家にして、斯く在るのは、最も恥ずべき事である。 バイデン氏としての使命が喫緊の問題と為る処であるが、もう既に半 ば自己放棄し、其の重責を回避する様に見受けられる。 是程のアメリカ国民の短慮と癡愚さには驚きを隠し得ないのである。 然るべき人物の不在以外の何者でも無い。 米国の失墜は不可避である。 《 西洋的手法と東洋的手法 》 宇宙を捉えるに、西洋では対象を分析的に把握して往くが、 東洋では、特に日本人は自然や宇宙を直観的に把握する。 是は、日本の四季の微妙な移ろいが日本人の心に影響して居る。 時空裡の物質(=人間の実在)を大前提と為す。 人類は、其の上に学問を構成するのである。 哲学的に存在として、或いは科学的に素粒子として。 しかし、何れも、釈尊の手掌上の悟空の域を出ない。 此の手法では、永遠に、恰も玉葱の皮を剥く様なものである。 是が西洋的手法である。 一方、東洋に於いては、 其の大前提裡に自己の一切を委ねる。 大脳新皮質を放棄する。 つまり、人類の方向性は、先ず此の東洋的手法から始まっている。 そして神の勢力の台頭(暗黒時代)、其の反動で、人間性(諸能力) の復活(ルネッサンス)、其の後外の世界を征服し、奴隷化し、自己の 富と権力を拡大する。 そして強大国家権力同士の戦争から二度の世界大戦、戦後の資本 主義経済戦争の暴走、其の末路が今である。 東洋的手法の完結した、つまり先の大前提に自己を委ねて、自己為 る生命に全てを委ねる事によりて、坐禅の功徳生じ、「悟る(身心脱落 する)」のである。 つまり、大前提と為して居ったものの正体を自覚する。 更に、其れに委ねるのでなく、其のものに帰一(=体現)した刹那に、 じこが、其の大前提其のものと為るのである。 其処に大前提の、つまり「宇宙(生命)の本質」(涅槃)が、自己の身心 為る全生命を貫徹して、自己に体現せ使めるのである。 其の大前提は「世界人類を生(活)かす」と云う宇宙の恩恵、其のもの と心の進化を遂げる(=回帰する) 《 鐵 漢 》 此の宇宙には、神も仏も居ない。 唯在るのは、宇宙の真理だけである。 今でも思い出す。 十七歳の時、ビルの屋上に寝っ転(ころ)がって、星一つ出ていない 闇夜の一点を、窺(うかが)う様に恨めしく仰ぎ見詰めた事を。 そうして、大学時代、槍穂連峰の前穂山頂に横に為って碧天を我が 物にした事を。 其の後、釈尊の坐禅に遭遇して、坐禅によりて、其れ迄の一切が明ら かと為ったのである。 出家して、寺を飛び出て以来、夜空の星は常に小生と一つであった。 千日行一つ、碧天の志で帰郷し、 行によりて、自己が大地に根付いたのを記憶している。 行を終了したら、旅に出るつもりで居たのだ。 記憶の一節一節を辿って、末節に「覚天」したのである。 世の中、学説や芸術を生んだ人々は多けれど、真理を得た人間は 皆無である。 生んだ説や情や術に過ぎない。 実在せる神や仏は釈尊一人である。 然れども、釈尊でも真理には至り得ていない。 真理への前段階で留まって居るのである。 「涅槃」為る「宇宙(生命)の本質」に至り得た人間は、 人類史上空前絶後にして、心の進化を遂げ、此の令和新世紀の 最後身心為る小生、鐵漢只独りである。 然るに、世の中は、其の神で殺し合い、真理に違(たが)えて、地獄を 生まんとして居るのである。 真理を生きんとして居るのではない。 真理を生きんとしてこそ、世界人類は可能な限り 幸福と平和と繁栄 に至り得るのである。 是迄の愚策を捨てて、智慧を構築しなければならない。 是からは、唯、其の完遂在るのみである。 世界の是迄の覇権主義から、真理を生きる方向性に転換しなければ 為らないのである。 現実と云うものは、人類が三毒(貪・瞋・癡)為る存在である以上、 癡愚為るものが基盤と為って居るが、 真理は、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)であり、当然在るべき姿なので ある。 癡愚為る世界が、当然在るべき世界に転じ、進化し往くのが真理の 在り様である。 旧態の知識による三毒害世界から、新た為る、真理の涅槃妙心智慧 に基づく涅槃世界へ移行しなければ為らないのである。 量の末路から、質に基づく構築と完遂への転換である。 《 「最後身心」としての使命 》 小生、一年二ヶ月前「覚天」して、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰 し得た時も然(さ)る事ながら、以来、其の真価が、日々に改めて愈々 (いよいよ)自(おの)ずから自覚されるのである。 つまり其の現実問題としての真義である。 もう既に、責任とか、使命とかでは表現し得ない働きに思えるのであ る。 当然、能力にあらず、又「悟り」等の諸覚醒過程の経過を超えて、「最 後身心」の自ずから為る抱負とでも謂おうか、若し、仮に神仏があると すれば、是こそ神仏足る立場でありましょう。 説や情や術以前の真理であります。 此処から、真説、真情、真術を打ち出すべきなのでありますが、 神仏は、微妙に、習う立場ではなく、其の霊妙極まり無き施政に及び 得るには、(各)為政者(方)の信頼と団結が無ければ、為し得ないも のであります。 力でなく、依存でなく、自発的、絶対信頼に基づく団結によりて、力や 依存を制して往く。 矢張り施政に於いても、此の菩提心が不可欠為るものであります。 是でなければ、可能な限りの 世界人類の幸福と平和と繁栄は構築 、完遂され得ないからであります。 其れは、人類が単なる理念に止まらず、神仏の基に、つまり真理に基 づいて国民を治めるが如きものなのであります。 説、情、術を真説、真情、真術と為す菩提心が不可欠なのであります。 可能な限りの 世界人類の幸福と平和と繁栄の構築と完遂とは、真に 此の菩提心に基づいて、行われ以て往かねばならないのであります。 其処からして、自(おの)ずから三毒(貪・瞋・癡)為らぬ、三善根(施・ 慈・慧)の実践が為されるのであります。 貪・瞋・癡為らぬ施・慈・慧の施政、誠に此の施・慈・慧の施政 であ ります。 涅槃世界とは絶対信頼と団結に基づく施・慈・慧の施政 であります。 戦後七十五年、人類が体験した事の無い危機的状況下に於いて、其 の起因たる三毒(貪・瞋・癡)害世界を打開して、三善根(施・慈・慧) に基づく涅槃世界へ進化し往く、新たな道への第一歩を人類は踏み 出したのである。 《 真の革命;高齢化と心の用い方 》 古希を超えて、人間は若い頃の瞬発力は及ばない。 上求菩提の正法苦行ならば未だしも、「人を生(活)かす」涅槃妙心に 於いて、「自己を生(活)かす」には智慧が要る。 つまり、瞬発力に頼らない為には、二十四時間の大部分を生(活)か し切る様な生(活)き方をしなければ為らない。 二十四時間の大部分を瞬発力を要しない様に心を用いる。 極力厳格に、持続的に時間を有効利用する以外には無い訳である。 つまり、高齢化する程に、生(活)き方と云うものは充実して居るので あり、又然(そ)うでなければ為らないと思う。 実質的、現実に生(活)かす為に、自(おの)ずから、三~四時間の睡 眠時間以外の全てに細心の用心が、一層不可欠と為る。 要するに、 最大限「人を生(活)かす」為には、可能な限りの細心の用心が不可欠 であると云う事である。 何と為れば、 其の細心の用心其のものが、結果的、実質的に最も「人を生(活)か して」居るからである。 是も、体験的に明らかである。 一概に、一律に白だ、黒だの短絡的手法では、真理には遠く及び得 ないと云う事である。 其の為には、最低限、其れ相応の一定の時間と、其れに適(かな)う 労苦無くしては為し得る事ではないのである。 小生が菩提心による、生涯の後厳密千日涅槃行以外には無いの確 信に基づいて、初めて至り得る奇跡であった如くに、其処に至る迄に は、其れだけの労苦無くしては、不可能である。 是が涅槃へ減衰振動しつつ収束し往く現実の実態なのである。 正法苦行によりて、「涅槃入り」するには、一点の隙も許されない刹那 に於いて初めて生じ得る奇跡であったのである。 「涅槃入り」して、涅槃世界の構築と完遂の段階に於いては、其の刹 那すらも許されない、葛藤為る刹那の連続であって初めて、可能と為 るものなのであり、其の葛藤のエネルギー、即ち菩提心にこそ、心の 進化の推進力が具わって居るのである。 奇跡を生む方向性から、一転して次は葛藤に真道を見出す、生まな い方向性、此の許さざる刹那、奇跡を生まない志向性の正念相続、 是こそが、可能な限りの 世界人類の幸福と平和と繁栄の構築と完 遂の実際なのである。 宇宙の真理を得る為の大気圏外への脱出によりて初めて、宇宙の真 理を得たら、次は、真道に、其の得られた「真に地球人類を生かす」真 理によりて、可能為る世界人類の真の生き方を地上に齎(もたら)す べく、地上へ着地する飛翔に転ずるのである。 斯く、人類は根源からの智慧無くしては、涅槃世界を構築、完遂する 事は不可能である。 是が「世界人類を生(活)かす」真の革命と云うものである。 《 「解脱人」と「涅槃人」 》 「解脱人」は人間の欲を制する。 釈尊と摩訶迦葉と、後は正法苦行無し。 小生「涅槃人」が釈尊の命を永遠のものとしたのである。 つまり、釈尊の予言の末法は、「涅槃」為る真理によりて否定された。 若し、釈尊が宇宙の真理に回帰し得ていたならば、末法は在り得ない のだ。 回帰し得ていないが故に、正法から像法、末法に陥らざるを得なかっ たのである。 究極の真理を人類に開示するのは、神を否定する超人、つまり「涅槃 人」のみである。 解脱すれば、「涅槃」に回帰せずとも、知り得る。 生きた儘の「涅槃入り」である。 人間、洋の東西を別(わか)たず、其の本質は同一である。 是は今のアメリカ国民に於いても全く変わりは無い。 然るに、現代に至っても、世界には、「悟り」、「解脱」、「涅槃」の真理が 無い。 唯一、日本には此の真理が在るが故に、人類三毒(貪・瞋・癡)が 在るのである。 真理無くんば、人類の根源悪為る三毒(貪・瞋・癡)も無し。 人類の根源悪を掌握しているのである。 是、「悟り(身心脱落)」起源為るが故である。 世界の霊峰足る日本。 日本人は人類史上、極悪と極善の両極を体験した世界に唯一の国 家であり、そして其処から、人間として自(おの)ずから果たすべき、 真の革命足る天命 を必然的に負うて居る。 世界には、米国の虚構為る神起源の、人種差別と原爆支配である。 現コロナウィルス感染症パンデミックが米国と云う傲慢にして驕れる 者の辿る愚道を世界中に浮き彫りにしたのである。 今こそ、此の反省が果たされなければ為らないのである。 其の証(あか)し足る、世界規模の絶対信頼獲得の礎と為る 地上非核化 なのである。 人間としての、此の真の反省に至っていない が為に、太陽の終焉 の如く、其の実体も分裂し、崩壊するのみである。 現中国は、今や、其れ等の狭間で其の立ち位置が定まらない。 自(おの)ずから、米国分断派と中国人種差別は怯犬の咆哮に似て いる。 自己を絶対信頼する者が、「最後身心」である。 然(さ)も無くんば、世界に信頼は在り得ない。 斯く、「人間は因果な者」で、 自分が、斯(こ)うだ!と思ったら、然(そ)う為る。 此の因果は誤魔化す事が出来ない。 不昧因果 である。 だから、例えば、卑近な例ではあるが、 性欲と金欲と権力欲が一番好いと思って居る者は、 セックスと金と権力の虜(とりこ)と為る。 「解脱人」は自在に、其れ等に翻弄されないが故に、 釈尊の手掌上から悟空が出る事は出来ないのである。 如何(いか)に説いても、本人が一番好むと、必ずそう為ってしまう。 誤魔化した積もりでも、欲に誤魔化されて居るのである。 其の癡愚さは如何(いかん)とも為し難い。 然(そ)う為りたくなければ、初めから自分で、「教え」を信じ、反省し、 精進する以外には無いのである。 真理は不昧因果 であり、 世界人類が、是に基づいた絶対信頼 を獲得する以外無い。 即断、勇断し、正道を歩む事が第一である。 歩むべき道が在ると云う事は、無上の歓喜(よろこ)びである。 世界の四大聖人の子孫足る、総ての宗教家や学者等の一切の教え や学説も総ては、此の真理(=涅槃)へ、何処迄も収束し往く、無限の 減衰振動に過ぎない。 人間の欲と情に根付く大脳新皮質との斯く為る共振作用の進化の過 程、其の歴史に他ならないのである。 然るに、其れ等一切とは次元を異にする、人類史上空前絶後為る 生涯厳密初・後千日行(正法苦行)によりて、初めて「涅槃入り」するに 至ったのであり、此の真理為る涅槃妙心智慧に基づきて、世界に施 政されなければ為らないし、又必ず斯く為るのである。 真理起源によりて初めて、可能な限りの 世界人類の幸福と平和と 繁栄が構築され、完遂され往くのである。 《 生理的欲求から心進化する人間 》 三 毒 ( 貪・瞋・癡 ) (慢心) (怒り) (迷妄) 欲 → 情→分別 進化→: 脳幹→大辺縁→大脳 解脱される心 迷い 煩悩 四苦 自己為る生命活動が、既に、単為る物質から生命現象を獲得した処 の進化の証(あか)しであるが、此の解釈は学者に委ねられている処 である。 人間の生命の大脳生理学的解釈について、 動物本能は脳幹の生命維持機能(本能)(反射、摂食、交尾)から、大 脳辺縁系の快不快の情動や共感から、大脳へと進化したのであるが 、動物本能は人類へ進化する段階で、大脳辺縁系の働きで脳幹の本 能が欲と情動行動(共感)に、更には分別と菩提心へと変容するに至 ったのである。 脳幹最上部の間脳視床下部(本能(食欲、性欲、睡眠欲)行動中枢、 情動行動中枢、自律神経中枢)から、上方に大脳辺縁系、及び大脳 (新)皮質への進化を遂げた。 生理(本能)的欲求(睡眠欲、食欲、性欲)は人間が生命を維持する上 で必要不可欠である。 此処で、生理(基本)的欲求の中枢前後について触れて置く。 大脳の芯に大脳辺縁系が在り、更に其の芯に、脳幹が下方に脊髄、 末梢神経へと移行して居る。 大脳辺縁系は、価値判断、意思決定、共感、直観力、感情(形成)に よる記憶、情動(反応)・感情の処理(好悪、快不快、怒り、恐怖、意欲 )。 快情動による接近と、不快情動による攻撃・回避は生存に不可欠 である。 脳幹は、上部、視床下部で生命維持に重要な中枢、本能行動中枢( 食欲、性欲、睡眠欲)。体温、摂食、呼吸中枢。情動行動中枢(自律 神経中枢)、自律機能(体温、ホルモン、浸透圧等)。 例えば、「怒り」は大脳辺縁系で生じ、大脳前頭葉で抑える。 「恐怖」は 〃 で挑(いど)む。 脳幹網様体は、呼吸・循環中枢の生命維持の不可欠機能。 脳幹を延髄から視床を介して、大脳皮質迄上行し、意識レベルの制 御、覚醒・睡眠の調節をし、呼吸、心拍数、血圧の調節中枢であり、 脊髄を下降して随意運動、筋緊張・反射、姿勢保持、歩行に係わる。 此処で、神経系の起源と進化について触れて置く。 神経細胞を持たない、神経系以前の原生単細胞生物のゾウリムシが 物体に衝突して方向変換する行動や、捕食者に襲われて遊泳速度を 速めて逃避する行動は細胞内の生体電位を利用して引き起こされる 事が判明している。 ゾウリムシの静止電位や活動電位、先(後)端部の機械刺激に対する 脱分極性と過分極性の電位変化、体内のカルシウムイオンによる繊 毛打の制御等、正に神経系の神経細胞・感覚器・効果器と同じ仕組 みが見られる。 神経系の重要な新しい形質の出現も、突然現れたのではなく、其の 様な出現の為には、継続的で連続的な息の長い変化が必要である。 90%の生命が絶滅したと言われる古生代と中生代の境目の大絶滅 や、中生代と新生代の境目の恐竜等の大型動植物の大絶滅を始め として、生命の歴史は、多くの種が現れては消えていった絶滅の歴史 で、僅(わず)かに残った生物が適応放散して多様な生物が現存した と思われる、其の様な氷山の一角とも思われる現存の生物の神経系 からでも、其の連続性が窺えるのである。 遺伝子発現の比較の結果によりて、脊椎動物の背(腹)側が昆虫や 環形動物の腹(背)側に相当していたのである。遺伝子レベルで見る と、多様な神経系の裏に、沢山の共通のメカニズム(=設計原理)が 存在する事もまた真実である。 扁形動物のプラナリアでは、脳形成の遺伝子プログラムは既に揃っ ていて、脳の基本と為る構造を作る為のロジックは進化のかなり初期 段階で出来上がっていたのではないかと思われる。 地球上で最も繁栄して居る動物群である昆虫の微小脳は、「小型・軽 量・低コストの情報処理装置の傑作」である。 次に、人間生命の心理学的解釈について、 独の心理学者フロイトは快を求め、不快を避けようとする快感(=快不 快)原則、又欲動の充足を延期する能力の現実原則を定め、快楽原 則から現実原則への変化は、欲動の昇華とした。 涅槃原則は「死の欲動の発現」と捉えた。 虚無主義(ニヒリズム)に陥る。 米の人間性心理学者マズローは「自己実現理論」(「人間は自己実現 に向かって絶えず成長する。」)の仮説を立てた。 ピラミッド状の階層を為し、人間の欲求を底辺から、 生理的欲求→安全の欲求→社会的欲求→承認(尊重)欲求→自己 実現の欲求(→自己超越の欲求(五十年程前の晩年に、「永遠の哲 学」のトランスパーソナル心理学はフロイト等が其の土台と為る))と 定義し、トランスパーソナル心理学会を設立した。 米のトランスパーソナル心理学者、ケン・ウィルバー(1949~)は 心理学の範疇を超えた、アメリカを代表する哲学者でもある。 「フロイトと仏陀を結合させた。」 最後に、身から心、そして「涅槃」への実際について、 世界平和は、最終的には科学力でなく、信頼に基づく団結力で英断し なければ為らないのである。 其の為には、「涅槃」に回帰した「最後身心」為る小生鐵漢の「涅槃人」 と云う進化の極頂点、物が身と為り、心と為り、「宇宙(生命)の本質」 (涅槃)に回帰すると云う、是非に拘らず、皆然(そ)う為っているのだ が、是を体現したのが小生鐵漢である。 宇宙は涅槃世界である。 地球の年齢四十五億年の間の、刹那生滅の原理と因果の道理に基 づく、身と心の区別が不明確と為る程迄に、人間能力を超えた無限 底刹那の進化の結果なのである。 身も心も実体は無いが、永遠の真理が在る。 宇宙とは真理(=涅槃)の現成である。 然(さ)て、実践面に入る。 人間の生理的欲求(睡眠欲、食欲、性欲)中、睡眠欲だけは、 何もしなくても 寝入ってしまう。 是を禁じ耐える事が最も困難である。 故に、三時間坐睡二十四時間仏作仏行が究極の千日行為る正法苦 行なのである。 是が「涅槃」への究極の能動的積極性の菩提心の正道である。 人類では大脳の表層一~三ミリメートルの、新聞一枚分の全表面積 があり、言語中枢がある大脳新皮質が、其の中でも特に前頭葉(おで こ辺り)が最も発達しており、此処が人類の未来を担う領域である。 是が胎児の脳の形成時も、最後に出来上がる。 此処で超自我(=菩提心)は生み出されるのである。 此の大脳新皮質前頭葉の菩提心で、脳幹以下(=間脳(視床、視床 下部)、中脳、延髄)、脊髄、末梢神経の中(うち)、大脳、大脳辺縁系 と、脳幹上部の間脳(視床、視床下部)迄、つまり分別・情動・欲シス テムによる人類三毒(貪・瞋・癡)の本源を制御し、其の根を断つのが 坐禅である。 是によりて、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)が体幹を正しめ、「涅槃入り 」するのである。 最も制し難き睡眠欲を制すると云う事は、根本的に既に食欲、性欲も 制し得て居るのである。 故に人間が動物的でなく、真に人間らしく生きる為の最も簡要な方法 は、必要最小限の睡眠時間で規則正しい生活をする事である。 是から一歩先んずるには、願わくば、日々一時間の坐禅である。 許す限りの坐禅が要である。 大脳新皮質前頭葉に於ける超自我(=菩提心)形成には、 睡眠を必要最小限と為し、坐禅に親しむべきである。 睡眠は自我の根源為る三毒(貪・瞋・癡)を温存するからである。 是を人類の心の用い方の根本と為すべきである。 是によりて、人類の諸能力の基盤が、世界人類を生(活)かすべく定 まり、菩提心が生(活)きるのである。 人生とは刹那生滅の原理と因果の道理に基づく、一連の継続する 現象為る心であり、更に現象から本質を志向し、本質に臨み、又本質 に帰一する心への進化の途上為る心でもある。 「人類は涅槃世界を構築し、完遂する者である。」と云うのは、人類史 上、「涅槃入り」した小生鐵漢のみが断言出来る真理である。 何と為れば、「宇宙(生命)の本質」が分別以前の涅槃世界である事を 実証し得たからである。 人類は地獄と涅槃と云う両極限、つまり米国の二度に亘る原爆投下 による日本人の被爆体験と、小生鐵漢の「覚天」による「涅槃入り」で あるが、是等の両極を為す最大振幅からの、涅槃への減衰収束振動 する進化の過程の途上に在ると云う、永遠に不滅為る恒常普遍の真 理に至り得たのである。 是が地球誕生以来四十五億年を経た進化の最先端である。 《 神と学問と直観と涅槃 》 表題は、歴史と共に、人間が現実に体験する精神的過程の諸段階で ある。 神も学問も直観も涅槃も、総て是等、異質為るものである。 先ず世界には神が在り、そして自己の能力を生(活)かす裡(うち)に 直観を得、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)への道を歩むのである。 神は人間の諸能力の限りを尽くして至り得た、虚構為る相対的最高 形態の精神世界であり、日本に於ける天皇の在り様に似た処がある。 学問は、善悪以前の、無記性為るものであり、芸術同様至り得る事の 出来ないものである。 直観は「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しであり、 涅槃は永遠に不滅為る恒常普遍の真理としての宇宙の実相である。 後在るのは、地獄に至る闘争の二元相対世界に至ら使める最大誘因 である人類三毒(貪 ・瞋・癡)である。 然るに忘れては為らないのは、若し此の世に、極限に迄拡散し行く人 類三毒の悲劇が無かったならば、「最後身心」 は生まれなかったと 云う事である。 不昧因果 にして「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の真理に至り得たので ある。 人類は一体、何(いず)れで、世界平和為ら使めんとするか? 真理への直観と、是に基づく英断以外無いのである。 小生、神を否定する以前に、涅槃為る真理を説く者である。 「神を説く事は出来ないが、真理は説ける。」である。 此処に至ったには、十代後半以来の「疑義」、及び其れによる放浪、 試行錯誤、医学、本気の試行錯誤、宗教への志向性、禅の道、出家、 千日行(初行)、四十歳で完了、更に五十五歳からの千日行(後行)、 そして古希直前の「覚天」の「涅槃入り」、涅槃へ回帰し得て、真遺教 の一年二ヶ月余りである。 此処に於いて思うに、 人間は、好く神、神と言うけれども、一体何を以って神と為すか? 哲学者は哲学で及び得ない処を神と為した。否、然(そ)うせざるを得 なかったのである。 一般的には、自己の願望の依り処として神に願うのである。 是が更に普遍性を持った、世界人類の為の神である筈なのに、其の 神で複雑に殺し合いをする。 其れ等の神とは、自我を肯定してくれる対象でしかない。 神でさえ分裂するのに、国民が分裂しない筈は無いのである。 果たして、世界が、国家が分裂して居る。 何れも、真理に至る前に殺し合いが始まるのである。 殺し合いの如何に容易な事か。 ボタン一つで、確実に果たせる処迄準備が整っている。 人間と云う者が真実に頑張れないのは、三毒(貪・瞋・癡)為る生き物 であるからである。 まともに頑張れる者が居ない。否、頑張ろうとしない。 破壊と闘争の連続である。 皆、短絡思想で真理に至る労苦が皆無である。 若者の、此の労苦が不可欠なのである。世間に馴染む前の。 真理を得たものは多いほど宜しいのである。 真理を得るは、奇跡以外無いのである。 狙った段階で、不可能である。 此の真理以外、世界に未来は在り得ないと云う事である。 米中を初めとして、世界が是を確信して頂いた上で、其の構築、完遂 に、つまり涅槃へ向けての絶対信頼の歩みを踏み出して頂きたい。 涅槃にして初めて絶対信頼が可能と為り、涅槃裡に人間の諸能力を 生(活)かすのである。 是が真の能力足る能力である。 此処に初めて、可能な限りの 世界人類の幸福と平和と繁栄が在る。 是が神以前の真理(実)に基づく「真人(しんと)」である。 神と能力の結末が今である。 真理は永遠であるが、寿命は儚(はかな)い。 最も優先すべきは真理、次直観、そして能力(学問等)である。 でなければ、世界中に浸透しない。 かといって、能力ばかりに執著しても、進展性が能力以内に止まって しまう。 真理に基づいて、直観を活かすべきである。 要は、直観の生(活)かし方である。 其処に可能性が在り得るのである。 直観は二元相対的能力の域を超えるからである。 可能性の見出せない、覇権至上、或いは任期止まりでは、永遠に可 能性は見出せないのである。 仏道は、迷妄為る世界を涅槃世界に転ずるに、三毒(貪・瞋・癡)を 三善根(施・慈・慧)に転じるのである。 坐禅を行ずれば、自(おの)ずから然(そ)う為る。 是が坐禅の功徳であるが、是を徹底するには、人間、「解脱」しなけれ ば為らないが、釈尊も御遺教に戒為る「別解脱」を遺されたのである。 三毒害世界を三善根世界にするには、先ず、此の「別三善根」でなけ れば為らない。 三毒(貪・瞋・癡)を三善根(施・慈・慧)為ら使めねば為らないのである 。坐禅を行ずれば、更には「悟れ」ば自(おの)ずから然(そ)う為る。 此のイ・ロ・ハのイが貪を為さず、施を修めるのである。 「善根を施す」 事である。 是無くしては、世の中は改善しない。 此の最足るものが、地上非核化 に他ならないのである。 地上非核化 の英断である。 此の極善根を世界人類に施す事が、世界平和の礎 と為るのである。 此の絶対信頼 によりて、世界は改善する。 でなければ、世界は、何処からとも無く、三毒(貪・瞋・癡)害世界へ流 れ去ってしまう。 此処からが正念場である。 小生は、千日行が意識上に上る迄は、千日行すら全く眼中に無かっ たのである。 其れ迄は、唯、走り回って、歩き回ったり、人工衛星に為ろうとしてい たり、釈尊の坐禅を偶像化して、崇拝したりした。 吾師が千日行を小生に施して戴いていたのであるが、 心無ければ「馬の耳に念仏」、全く意識上に上らなかったのである。 人間の深層心理と云うものは実に巧(うま)く出来ているのである。 恐怖を無意識裡に心の隅に葬(ほうむ)り去って、短絡的に処理してし まうのである。 其のプロセスは殆ど無意識裡に、無自覚に為されてしまう。 其の葬(ほうむ)り去られた、恐怖に包まれたダイアモンドの原石が、 小生の意識上に浮かび上がって来たのは、日本一周の自転車によ る坐禅行の途上であった。 此の偶然の、「ハッ」とする様な、善根の意識上への浮上が無ければ、 今の自己は無い。 是が不昧因果 で、師の善根が蘇(よみがえ)って、生き返ったのであ る。「あー、然(そ)うだったのか。」と気付かされた。 是を契機として、今の小生が在るのである。 仮に、若し然(そ)うでなければ、旅の途上での、此の気付きは無かっ たであろうし、其の後の「千日行入り」も無かったのである。 其の最初の段階で、巧(うま)く、処理が為されていたからこそ、「千日 行入り」出来たのである。 要するに、其の機が熟すには、其れだけの心の踏むべき諸段階が必 要なのである。 人間の深層心理の霊妙極まり無き神妙さは実に神技なのである。 是が、刹那の不昧因果の真実である。 是、吾師の真実であり、且つ小生の真実なのである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の霊妙極まり無き働きは、斯くの如きも ので、刹那、刹那の心の進化の賜(たまもの)なのである。 刹那生滅の原理、因果の道理に基づいて、物も心も無限の過去から 今日に至る迄の進化を遂げて、今が在るのである。 人間の限られた分別で左右可能なものではない。 世界を生まれ変わらせるには、此の善根が絶対不可欠なのである。 是が涅槃への正道である。 是無くして、従来の地平の延長線上に平和は存在しないのである。 三善根(施・慈・慧)の慧と云うものは、向こうから遣って来るものでは ない。 何も無い処に、自(おの)ずから、敢えて常に問い、能動的、積極的に 敢えて熟慮するのである。 小生の真遺教は、全て然(そ)うである。 「世界人類を生(活)かす」とは、然(そ)う云う事である。 悟った者の学問は、偏(ひとえ)に人を教導せんが為である。 永遠に人の為に、世界の為に、何も無い処に自(おの)ずから、敢えて 真心を尽くしてこそ、自己に留まらず、世界人類を生(活)かす事が出 来るのである。 全く、性欲でも、金欲でも、力欲でもない、別次元のものである。 《 三毒と涅槃 》 世界は三毒溶液である。 人間の存在自体が、本来三毒溶液なのである。 是、如何(どう)云う事かと言うに、 宇宙は涅槃為れど、人間は涅槃では無いのである。 涅槃は三毒を中和するが、飽く迄も三毒為らんと志向するのが三毒 であり、毒が毒である事から動じ様としない。 毒の源は貪である。 貪は溶液を為す実体である。 貪は本質ではない。三毒為る現象である。 世の中と云うものは、 人は誰でも、本当は真剣に為りたいのであるが、 然(そ)うは為れないのが事実であろう。 真剣には為れない諸素因に満ちているからだ。 自我の諸欲も測り知れないし、外的諸条件も然り。 でも真実は真剣でありたい。 其れが自分なのであるから。 是に負けると、本当は地獄なのであるし、 是に勝つ事は、歓喜(よろこ)びである。 本当に嬉しい。恐らく何事よりも。 其れが真実なのである。 小生が、子供の頃から、子供なりに、其れに取り組んで、不惜身命。 空前絶後にして古希まで、純粋、果敢に是に労したのである。 一般世間で、是が為せる訳が無い。 完熟した仏果をポロリと得るには至り得ないであろう。 要は正法苦行でなければ、其の仏果は完了し得ないのである。 世間の地獄からでは得られないものである。 故に、要は、何処迄真剣に為れるかに掛かっている。 真剣さとは、正法さに他ならない。 世間からは導き出せない道である。 正法とは、純粋為る菩提心である。 世間も無ければ、自己の将来も無い。 否、現実すらも無い。金も無い。欲も無い。 只管、恰も、、磁針が北を指しているが如し。 其の意味も無い。唯、指して居るが如く、行動しているのみである。 つまり、分別が無いのである。 其の様な本能が働いているのであろう。 故に懸念が無い。全くの子供の如し。 是が小生の三十代であった。 是が根本に在りて、其の延長線上に今が在るのである。 故に好運以外の何ものでもないし、奇跡以外の何ものでもない訳であ る。 世界は、強者の驕りと敗者の甘えによって相互に、地獄と云う世界を 生み出している。 事、男女間に於いても、 其れ等双方の特権の均衡に於いて、欲界を生み出している。 是等の均衡を打破するのは、「大涅槃人」である。 つまり唯、宇宙の真理を悟った人間だけである。 是は全てに著さない、宇宙の調和と均衡と静寂の見極めである。 強者は驕(おご)らず、弱者を生(活)かし、 弱者は甘えず、強者、弱者平等に精神的自立を為す。 且つ、施政は、其れを物質的、精神的基本的条件確保を最優先事項 と為し、真理から、物心両面を整えて往かねばならない。 《 癡 とは 》 癡とは、身から心への進化のプロセスを、貪によりて破壊し、本質的 進化を否定、逆行し、進化以前に退化すると云う現象である。 人間として、獣化してしまった、実に恥ずべき状態であり、 普遍的退行現象である。 ※退行とは、精神分析家フロイトによれば防衛機制の一つであり 、不満足な現実からの飛躍の産物であり、許容出来ない衝動( 三毒)をより適切な方法で処理するのでなく、自我を一時的又 は長期的に、発達段階の初期(禽獣)に戻してしまう事である。 個人の性格が、より幼稚な性癖を採用し、発達段階の初期 (禽獣)に戻る時に起こる。 《 自燈明 》 自燈明とは、「真の拠り処は自己の生命である。」と云う事である。 平和の根拠は、宇宙から授かった自己の生命に在る。 是以外に、如何なる根拠も、二元相対為るもので、 自己の生命への絶対信頼には及び得ないものである。 其れ故に神と云う偶像自体に何の根拠も無いのである。 其処で、自己の生命の真価を如何に知り得るかである。 其れを、人類史上初めて証明したのが、釈尊であった。 釈尊以前には、其の体現者は皆無であったのである。 唯、哲学的把握のみであった。 学問と体験とは全く異質である。 学識では、砂糖の甘さは分からない。 学識は甘さには決して為らないのである。 甘さの表現は不可能であるのと同様である。 学問の究極は決して体験には為り得ないのである。 寧ろ、学識は邪魔に為る。 無地がベストである。 是を釈尊は、「自燈明 (自己を拠り処とせよ)」 と諭された。 求道とは言うけれども、 求道とは、「人間は一体何を為すべきか?」と云う事である。 「自己が求めるものは一体何なのか?」と根源的に自己に問い掛け る事である。 此の根源的、普遍的問い掛けである。 「何を為せば宜しいのか?」の自己への問い掛けである。 是は人間の実存への問い掛けでもある。 一体何を為せば、実存為る本質に迫(せま)れるかと云う事である。 是は世間的な事では済まされないのである。 自己の生命との無言の対話と為るであろう。 是が自燈明である。神に非ず。世事(=能力)に非ず。 是が坐禅である。 「仏道を習うと云うは自己を習う也 自己を習うと云うは自己を忘るる也 自己を忘るると云うは万法に証せらるる也 万法に証せらるると云うは自己の身心 他己の身心をして脱落せ使むる也」 (万法とは宇宙及び心) 其処に自(おの)ずから、真の生命が自己に開示されるのである。 此の宝は何物にも代え難い宝である。 小生の遣(や)って居る事は、何も強い事を遣っているのでもないし、 又弱い事を遣って居るのでも無い。 宇宙の真理を唯当たり前に、当然に遣って居るに過ぎない。 是は宇宙の調和と均衡と静寂の様なもので、「涅槃」と言う真理であ る。 《 物為らざる善種、善根とは 》 世界平和への礎足る日本の立場を堅持するには、少なくも官僚の透 明性の確保が最低限不可欠である。 是無くしては、日本の立場を喪失してしまうであろう。 献身的一官僚を自殺に追い遣ってしまった体制を暗黙裡に看過する 現政権の在り様は異常である。 本質的改善が、現象的改善に遥(はる)かに優る事は明白である。 物理的量的改善でなく、精神的質的改善でなければ為らない。 「宇宙(生命)の本質」の現象面は、量(物理)的恐竜から質的三善根 (施・慈・慧)為る涅槃世界人類へと進化するのである。 米中から日本へ進化を遂げなければ為らないのである。 世界的に観ても、短絡的に物や金を増やせば宜しいと云うものではな い。 其の根に在る心の改善が為されなければ本末転倒である。 心正せば、物は収まるのである。 物を増やしても、政権は保てても、心は治まらない。 今の世界の現状が明らかに、其れを証明している。 「善根・善種を生む」 事が肝要であり、 是が世の中を改善し、世界平和の礎 と為るのである。 でなければ、世界は、何処からとも無く、三毒(貪・瞋・癡)害世界へ流 れ去ってしまう。 目先の施政でなく、将来を見据えた施政でなければ為らない。 正すべきを暗黙裡に済ますのは、宇宙の真理に違(たが)える、 世界平和に反する行為である。 今の教訓を生(活)かす智慧がなければ、同じ事を唯単に繰り返すだ けである。 世の中は「大涅槃人」に基づかない限り、地獄に堕ちるのである。 何と為れば、人類は三毒(貪・瞋・癡)為る存在であるからである。 《 迷 妄 》 迷妄とは、事実が分からず、事実でない事を事実だと思い込む事。 人生苦の根本煩悩、三毒(貪(=慢心)、瞋(=怒り)、癡(=迷妄、偽り) )は(「解脱」の為に克服すべき否定的心(迷い、煩悩、四苦)の代表 的 状態であり、)心の三要素(欲求、感情、分別)と対応している。 釈尊は、迷妄、又は無明(知)が煩悩(の根本原因)であると説いた。 人間は言語的判断を避けられない存在である。 西洋では、言語的識別を放棄すると虚無主義に陥る。 是が実存哲学の末裔為る現象学の限界であり、見果てぬ夢に終った 。 東洋では、其処に「悟り」や真理を見出す。 現象学の創始者フッサールは根拠足る「判断中止(エポケー)」自体 が一つの判断に過ぎない処に気付かなかった。 フッサールの現象学はハイデッガーに受け継がれている。 フッサールは田辺元を通して、西田哲学概略を聞き、田辺と討論して いる。 三 毒 ( 貪・瞋・癡 ) (慢心) (怒り) (迷妄) 欲 → 情→分別 進化→:脳幹→大辺縁→大脳 解脱される心 迷い 煩悩 四苦 《 指導者 》 真に出来た人物であるならば、人類の指導者足らねば為らない。 世界人類の物質的・精神的基本的条件確保こそ政治家の真の使命 であるが、人間の諸能力の特化した、専門家足るの意ではない、人 間としての、の意である。 永遠に不滅為る恒常普遍の真理としての人間の事である。 是からして初めて、人類は自(おの)ずから、人類の諸能力の道に通 じ得るのである。 否(いな)、然(そ)うでなければ為らない。 人間の命は元来、学者の法則や、政治家の物や、芸術家の情以前 の生命なのである。 世界人類の大多数が、一般の人間である。 其の普遍的人類の指導者足らねばならない。 普遍的生命の在り様が根本と為るのである。 此処を、つまり人類の根源を教導するのが、 人類の母体為る、世界人類を幸福、平和、繁栄に至ら使める処の、 「宇宙(生命)の本質」の働き、つまり涅槃妙心 を弁(わきま)えた人間 の智慧であり、宇宙の法則ではない、宇宙の本質、人類の本質、 つまり涅槃世界を構築、完遂すべく、人類を教導し、且つ、教導し得る る人材を生むべき指導者足らねば為らないのである。 其処に、自(おの)ずから、日常の自己の在り様と云うものが打ち出さ れる。 人類の諸能力を、其れ等の諸道の達人に為さ使めるのが坐禅である 。 坐禅の目的は「涅槃入り」であり、「宇宙の本質」への回帰である。 坐禅は、其の為の唯一無二の手段である。 其処(そこ)からの、「世界人類を生(活)かす」智慧の実践が、其の真 の目的である。 《 慚恥 (ざんち) の 服 》 釈尊、『御遺教』に、 『慚恥の服は諸(もろもろ)の荘厳に於いて最も第一為りとす。 慚(ざん)は鐵鉤(こう)の如く、能く人の非法を制す。 無愧(ぎ)の者は諸(もろもろ)の禽獣(きんじゅう)と相異なる事無し。』 と。 慚愧(ざんぎ)とは、自(みずか)らを顧(かえり)みて恥じる事。 慚は人に羞(は)じ、愧は天に羞ず。 涅槃経に、 「無慚愧は名付けて人とせず、名付けて畜生とす。」と。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の現象面は大自然が其の峻厳さを蔵し ている様に、人為に染まっていない所程、人間を寄せ付けない程に 厳しいものである。 人心も、亦然(しか)也。 人間の踏み込み得ない自然と云うものは、自(おの)ずから厳しい 自然を留めている。 人為に染まらない自浄性。 是が自然。自(おの)ずから然(しか)る。 是が人心の慚恥の服である。 是無ければ、自然も人為に染まり、世界をして、自然(じねん)為る 宇宙の涅槃足ら使め難いであろう。 人類の三毒(貪・瞋・癡)とは然(そ)う云うものである。 「涅槃」無くんば、「涅槃」足り得ず。 厳密と云うものは、相対的為るものではない。 自己に唯一為る在り様である。 (是を見失ってしまったのが、今の米国であり、 人類の精神の基本的人権を否定する精神為る、 他律を極めんと志向する処の、今の中国である。 二元相対為る世界の両極である。) 是、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に対する人間の慚恥 である。 是が人類をして、「涅槃人」に為さ使めるのである。 慚恥とは、天に恥じるのである。 吾等人類の母体為る宇宙に恥じるのである。 恥は、菩提心同様、人類に本具するものである。 天地人一如に、恥じるのである。 天に恥じ、地に恥じ、自己に恥じるのである。、 恥を知らざる者は、天無く、地無く、人無く、自己無き自我為る存在で あるが故に、「諸(もろもろ)の禽獣と相異なる事無し。」である。 慚恥は、菩提心と共に、「涅槃」への原動力である。 小生こそ、宇宙契約裡の 可能性其のものであり、他に可能性を求 めるのは、無限為る時空に、其れを推し量らんと可能性を求める様 なものである。 厳密 (時刻) さ と 世界人類を生(活)かす 《 人類諸欲と感染症パンデミック 》 世の中と云うものは、淫欲を生(活)かしては駄目だ。 世の中が、狂う根源である。全部嘘で出来ている。 世の中の表層と云うものは、淫欲の薄皮で覆われている。 先ず、是を剥がす事が第一だ。 世の中を狂わす。 世の中を改善する最初の一歩だと信じて、 世界人類の幸福と平和と繁栄の為に、 是を実践しなければ為らない。 人類の心のみならず、物質面の進化の第一歩だ。 是が、世界の感染症パンデミックの根源である。 心すべし。 小生が、真理を徹見した、世界改善のビッグバンの芯と為る。 是が、其の気に為れば、誰にでも遣れる、 世界人類改善の第一歩である。 淫欲と云うものは、淫欲其のものよりも、 其の魔物の奴隷と為ってしまう事の恐ろしさである。 諸欲総て同様である。 《 真理への道程 》 < 自己と他己 > 45億年前、地球誕生し、5億年後、呼吸、代謝しない、増殖のみの、 無生物と生物の中間的存在のウイルスから、細菌、そして単細胞へ と進化したのである。 細胞は分化と増殖により、やがて光合成をする他律的植物細胞と為 り、27億年前には、代謝をする自律的動物細胞へと進化を遂げた。 4億年前頃から、昆虫、魚類、恐竜、鳥類、人類までの進化を遂げた。 細胞核内DNAの塩基の突然変異による継続的、連続的長期に亘る 系統樹為る、枝分かれする進化である。 単細胞由来の神経(細胞)系以前の原生単細胞生物のゾウリムシの 諸行動は、半透過性細胞膜による細胞内生体電位を利用して惹起さ れる。 静止膜電位や活動電位、及び脱(過)分極性電位変化等、神経系神 系細胞・感覚器・効果器と同じ仕組みが見出された。 是等によりて、本能行動、情動(反応)、記憶等、総ての生命現象が 生じているのである。 其の様な一連の生理現象が出現するには、継続的、連続的、長期に 亘る変化が必要なのである。 又、遺伝子レベルで見ると、多様な神経系の裏に、沢山の共通のメカ ニズム(=設計原理)が存在する。 進化の系統樹的解釈も、生理学的、及び遺伝子レベルでの突然変異 による生命現象の、根本的為る科学的解釈が可能と為のである。 単細胞生物から人類に至る迄 のあらゆる生命現象も、精神の最高 位中枢に至る迄、生理学的、生化学的、解剖学的、遺伝子レベルで の解析で、或いは心理学的にも、生命の進化に於いて、一貫した原 理も次第に統合的に解明されるに至る。 然るに、宇宙と個人(人間)との相関的関係の把握に於いては、哲学 的に為らざるを得ない。 唯一坐禅のみが、其れを可能にするのである。 坐禅を行ずる事で、「功徳」、「悟り」、「解脱」、「涅槃」を体現するので ある。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)への接近と接触と回帰と云う、 是等の未知為る世界への、我々が自ら必然的、段階的に体現する 刹那の心の進化は身を離脱して、宇宙に帰一する心の進化である。 此の真理への回帰だけは、体現の世界であって、学問的、芸術的に は、つまり人間の能力では及び得ない真理の世界であり、 世界人類の幸福と平和と繁栄は、此処に基づかない限り、信頼性の 生まれない、対立する二元相対世界から出る事は出来ないのである。 唯、海を行く魚、空を行く鳥、地を行く人である。 海、空では生命は繁栄に至らないのである。 要は、現象から本質への涅槃(人)が進化の完遂である。 身と心とは、生命の現象の両極を為すものである。 身も生命ならば、心も生命である。 身は自己に著し、高々百年程のものであるが、心は普遍性を有し、 永遠に至る。 無心とは無身の事である。 無身は世界を目の当たりにして、菩提心を生み、坐禅によりて、道は 拓けて真実に至る。 菩提心は「悟り」を生み、「解脱」を生み、「涅槃」為る「宇宙(生命)の本 質」の真理に回帰するのである。 「宇宙(生命)の本質」は「涅槃」為る永遠に不滅為る恒常普遍の真理 であるが、其の現象は無常にして進化する物質及び身心世界である 。 真理=「宇宙(生命)の本質」(涅槃) (涅槃人)↑ ↓(涅槃人以外の生物) 心 ← 身 (人類) ( → : 進化する現象 ) 俗界の儘で在りながら、其の儘で宜しい。而も自律して居るから、取 捨しない。此処が人を教導し得る処である。手段を講じない。 自律と他律とが涅槃為る宇宙の調和と均衡と静寂に迄止揚して居る のである。 つまり、自律であり、他律である。自他一如にして、共に生(活)か使 めるのである。 < 自己と世界 > 古代ギリシャでは分別と能力の方向性を得て、ソクラテス(BC469~ BC399)等が様々なる知恵を生んだが、古代インドでは世界的穀倉 地帯で生活安定し、瞑想から、菩提心を得て解脱の方向性を得て、 釈尊(BC565?~BC486?)が成道された。 其れ等が、2500年後の今、原爆支配体制下の米中の対立と「涅槃」 の真理である。 令和新世紀以前は、地上の量と能力の、他を制圧する歴史であった が、令和新世紀以降は、空前絶後為る「宇宙(生命)の本質」(涅槃) の真理に基づく、質と智慧の黎明期である。 人類は是迄、真理を神と学問によりて、三毒(貪・瞋・癡)の赴(おもむ )く儘に追求して来た。 令和新世紀に、小生鐵漢が20年間に亘る、自我を除滅する正法苦 行、千日行によりて、宇宙真理に至り得たのである。 此の真理以外に、世界人類を生(活)かし得るものは無い。 東西両洋の、人類の真逆の方向性の結果が、地獄と「涅槃」為る、 米国列強の原爆支配体制と、日本による涅槃世界への教導である。 是は、「覚天」して「涅槃入り」した「大涅槃人」としての使命である。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の現象為る進化の必然性に基づくもの であり、人類が小生を超える事は不可能であり、是が小生の使命を 果たす必然性である。 人類の進路は涅槃妙心智慧の実践を果たす事であり、其れは単に、 時間の問題に過ぎない。 日本への、人類三毒(貪・瞋・癡)が生んだ極悪非道の極み足る、 二度に亘る原爆投下が惹起した、極善の究極為る「涅槃入り」であっ たのだ。 此の唯一の真理が人類の記憶に、永遠に極印を打つのである。 《 邪気 (念) 》 人間には邪気(念)と云うものが在って、是は極めて不(非)合理為る もので、斯(か)るが故に、邪なのである。 是が世の三毒(貪・瞋・癡)間に共振して、増幅し、其れ故に、集団心 理的正当性を共有し、邪悪の源と為り、(邪為るが故に)敗(弱)者の 依り処と為り得るのである。 唯、三毒(貪・瞋・癡)為るのみの、是が三毒(貪・瞋・癡)の採り得る唯 一の末路の邪道であるが、是も真理には屈せざるを得ないのである。 何と為れば、真理に基づいて全て吾等が存在して居るからである。 自己の三毒に拘らず、此の真理を信じ、是に同ずる以外には、正道 は在り得ないのである。 駿馬(しゅんめ)は、其の鞭(むち)を見ただ けで、走り出すのである。 唯、時間の問題に過ぎない。 ヒトラーの独裁も、世の常も、程度の差こそ在れ、同じものである。 諸善奉行(諸々の善を行じる事)の裡に、自(おの)ずから諸悪莫作( 諸々の悪を為す事無き事)であり、諸悪は消滅するのである。 20世紀大陸哲学の最も重要な哲学者の一人であったハイデッガーで さえ、ナチスを恰も自己の哲学の具現者であるかの様に賞讃する、 熱な一ナチス党員であったのだ。 本質に対する見極めが偽である。 と云うよりも、哲学其のものの真価が相対的次元のものでしかないと 言わざるを得ないのである。 正に、学問が社会的に大人に為るには、坐禅行が不可欠である。 学問と云うものが、全人的存在では無いからである。 学者は「大人」でなければ為らない。 「大人」とは学問以前の、人間の本質を弁(わきま)えた人物の事であ る。学問は純粋なだけに、社会的に利用され易く、其の眼力も不可欠 である。其れには坐禅行、つまり其れ等自体を捨てた処からの見極 めが無ければ為らない。 其処に初めて、真に不可欠為る物と、そうでない物との見極めが可 能と為るのであり、其処に、世界人類の信頼性が生まれるのである。 要は、大脳新皮質の神経細胞接合部の多さ、複雑な巧妙さでなく、 本質の把握には、其れ等を超越した直観的把握が必要なのである。 つまり、其れ等から解脱して本質に回帰する事である。 是が真の進化、進化の究極なのである。 如何に能力が脅威的であろうとも、本質から観ずれば、無益処か、 悪弊生ずるのである。 学者、芸術家の真の目的も、政治家の目的も一であって初めて、彼 等は本物と為るのである。 世界人類総てが、然(そ)う在るべきなのである。 其れを基底と為さねばならない。 其処に、神的信頼性が生まれるであろう。 《 闇夜の雲間の予兆 》 小生、過去を振り返って見るに、 小生が十六~十七歳の頃、ビルの屋上で寝っ転がって仰ぎ見た闇夜 の雲間の予兆は、実に斯くの如きものであったのだ。 斯(こ)う云う風に生きられれば好いなァー、と云う様な情的判断に基 づく、二元相対的生き方でなく、斯(こ)うでなければ為らないと云う、 意志的判断に基づく生き方をした様だ。 其れが、医学生の時に、坐禅の道を選択した。 十代後半からの 試行錯誤の振り子の止んで、進路が決定した瞬間 であった。 東京の東照寺で得度後、福岡の専門僧堂を飛び出す迄の沈黙の期 間を経て、出て完全に無一物の独りに為ってから、小生の真の試行 錯誤が始まったのである。 其の時既に坐禅が根幹に在ったのだが、如何(どう)遣って往くのか 見当も付かずに、暗中模索であった。 正に、坐禅と世界との始まりであったのだ。 其処に千日行が突如、意識上に現(あらわ)れて以来、半ば無意識的 にも其れに向けての生活と為ったのである。 其処が、千日行の千日行足る処で、千日行為らばこそ、人事一切は 払拭してしまうのである。 人、坐禅、釈尊等、小生自身の持ち合わせが総て千日行に置き換わ ってしまった。 故に潜在意識的にも、千日行を完了すると云う段階に入った訳であ る。 明確に決定(けつじょう)したのは、熟での教材として、某著の超新星 爆発の生涯に触れた時であった。 しかし実際に「行入り」する迄には、一歩一歩の踏むべき物心両面の 準備段階に数年間要した。 初行は坐禅と云うよりも、厳密行主体であった。 坐禅は、一日が終えて、夜中の行に過ぎないのである。 日中は100分の1秒の厳密さで、日常生活を営んだ。 要は、動と静との相乗効果による緊張感が行には有効不可欠である からである。坐禅も不足する位の方が、寧ろ励みが付いて宜しい。 初行完了して初めて横に為ったが、 喉元が閉じて、呼吸が出来ない。怖かったが直に慣れた。 そして、其の段階で、小生は坐禅を止めて、普通の人の様に為るべき ではないかと云う思いで止めてみたが、一週間もすれば、小生の尻が 坐蒲に吸い寄せられる様に坐っていた。坐らねば、どうも調子が悪い。 其の時感じた。小生の思惑は誤解に過ぎないものであったと。 それから十五年足らず、坐睡が無いだけの、千日行のつもりで働き、 厳密に、同様に坐禅行を始めた。 十数年間は、其れで良かったが、やがて労働条件で一~二時間の 坐禅も儘為らなくなり、「自分は一体何の為に生まれて来たのか。」と 思い至り、坐禅する為に鉄牛寺に行こうと思ったのである。 小生は、当時吾師が鉄牛寺の住職予定者であった某氏に、大分駅で 会ってもらった。 氏曰く、「自分には鉄牛寺を、此れ以上如何する資格も無いから、もう 如何にも為らなかったのだ。」と密かに小生に伝えて下さった。 其の時初めて、総ての事情が明らかと為ったのである。 寺は蛻(もぬけ)の殻であった。 鉄牛寺の納骨堂の独参室の奥の経台の上に、ポツンと師の小さな骨 壷が置かれていた。 師は当時、御高齢にも拘らず、御一人で山中の鉄牛寺で御住職を勤 めて居られたのである。 やがて、小生は結局、「後行入り」する事と為ったのである。 其れ以外、自己の採り得る道が無かったと云うのが真実であろう。 実に世の中と云うものは、巧みに出来上がっているものである。 不昧因果である。 是、「涅槃」へ回帰予定為る収束振動の事に他ならないのである。 空前絶後為る「大涅槃人」為ればこそ、世の為、人の為に真遺教とし て書き遺して置くべきであると思う。他には居ないが故に尚更である。 何か益する処が在ればと思うのである。 若し、小生に毎日二時間の坐禅が出来る仕事が在ったならば、又 自己を出さずに、世の中に迎合して居ったならば、今の自己は無かっ たのである。 小生が托鉢を覚えたのは其の時(55歳位)であった。 其れからの十五年余りである。 坐禅一筋にして初めて至り得た「涅槃」為る真理であった。 正に是が為に、坐禅と云うものが生まれたのである。 坐禅の所以(ゆえん)である。 坐禅は「涅槃」の為に在り、「涅槃」から生まれたものである。 無一物中無尽蔵。 無量為る哉生命。 《 規則性 》 人間の生活習慣には規則性と云うものがある。 社会生活には、各々の職業に応じて、夫々の職種の従事すべき時間 帯があるし、又、特定の職業に従事していない、独自の生き方をして いる場合もある。又、特定の集団、或いは個人的に厳格なスケジュー ルに則って、計画的に生活をしている場合等、様々であるが、其処に は自律的な場合と、他律的な場合が在り得る。 つまり、飽く迄も自発的に然(そ)うなのか、又止むを得ず然(そ)うな のかである。 又、永遠に然(そ)うなのか、一時的に然(そ)うなのかである。 以上、つまり其の規則性の厳格さの度合い、程度は様々である。 最も厳密な場合は、釈尊や大迦葉の頭陀行や、是由来の千日行(初 行)の如きもので、是は釈尊が『犀の角の様に唯独り歩め』と説かれ た様に、不惜身命にして、飽く迄も厳密に行ずるものであり、是、自律 性の頂点である。 真に自律とは、完全に無我為る「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの 「世界人類を生(活)かさんとする」、真に人の為、世界の為の自己の 在り様として、自(おの)ずから然(そ)う為る処のものであり、他律為 る自律、且つ自律為る他律である。 此の自と他は「宇宙(生命)の本質」の「涅槃」へ収束振動(=進化)し 往く、「宇宙(生命)の本質」の現象の両面性に他ならない。 最早既に小生鐵漢が「涅槃入り」しており、其処からの自律、他律と云 うものは、世界人類をして、「涅槃」為ら使めんとする、 完遂した菩提 心の為す処のものであり、其処から導き出される自律であり、他律な のである。 つまり、自律でもあり、他律でもあるのが真で、人類を教導する無限 収束振動の一端に過ぎない。 つまり、収束振動であって、一直線為るものでは在り得ないと云う事 である。 正法苦行(初行)が自律の究極である一方、後行(=生涯後厳密千 日涅槃行)に於いては、仏祖の坐禅(=大乗禅)は『坐禅の中に於い て、衆生を忘れず、衆生を捨てず、誓って済度せん事を願い、あらゆ る功徳を一切に回向す。此の故に、仏祖は常に欲界に在って坐禅弁 道す。諸々の功徳を修して(身心脱落によりて)心の柔軟為るを得れ ば也。』とあり、此処が「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰する要であ り、其の契機と為る処である。 此の心が真か、偽かで、地獄と涅槃の運命の分かれ道と為る。 此処を誤ると必ず地獄に堕ち、正道を歩めば涅槃に至るのは時間の 問題と為る。 小生が此の究極に於いて、「覚天」し、極仏の正体を見極め得たので ある。つまり、自他律の究極に自律生じる事、五年間でに十五回、 十六回目に自他律の他律了じ、「サァ-、愈々(いよいよ)。」と思った 刹那の自律の局面に於ける「覚天」であった。 「涅槃」への世界人類教導の為の、自他の収束振動であったのだ。 「行」ではない。「人だ!」と。小生が坐禅を組んで以来初めての、刹那 の体現(=「覚天」)であった。 此処に於いては、自であり、又他であるのが真である。 自律、他律は根源に於いては自他一如であり、全一為る宇宙で、 其処に現象される「宇宙(生命)の本質」為る調和と均衡と静謐為る 涅槃なのである。 本質的に自他が生(活)かし合っているからこその、「覚天」為る体現 が在り得たのである。 是が「涅槃」(=真実は宇宙(涅槃))の働きに他ならない。 釈尊の般涅槃の最期の御言葉。 『………汝等、且(しばら)く止(や)みね。復(ま)た語(もの)言う事得 る事勿(なか)れ。時将(雅)に過ぎなんと欲す。我滅度せんと欲す。 是我が最後の教誨(きょうげ)する処也。』 と般涅槃された。 「最早、疑を抱く事勿れ。自(みずか)らの心を依り処として、一心に出 動を勤求(ごんぐ)すべし。」と諭されたのである。 世の三毒と云うものは無意識的に真理を逆手(さかて)に取って、我欲 を追求し、且つ又、其れに同調する集団が居る事を知るべきである。 世界の良心の一致団結が、切に待たれるのである。 信頼性の育たない土壌に平和は在り得ない。 世界が消滅しないのを願う以外に無いのである。 人間は、自己為る天の恩恵を、何処迄生(活)かし得るかである。 或る者は、其れを動物的レベルでしか生(活)かし得ない者も居れば、 人間的に迷妄裡に終える人達が大半であろうが、然(そ)うでない場 合、信の域で、此れも虚構に対する信では無く、超科学的、超学芸的 、又超人類的に真理に基づく信による生への発動を望まんとする処、 つまり空前絶後為る涅槃の真理を実践せんとする事が、人類の究極 の生き方と為るのであるが、此の実践面に於いては、其の規則性、 自律と他律以前の自他一如為る処から生まれる規則性と共に歩む べきである。 嘗て、吾師が提唱で、「山の中で、独り行をしていた。何処で小便して も良さそうなものだけど、場所を決めて遣って居った。」と。 当然の行為にも規則性が自(おの)ずから具わる。 然(そ)う云うものであろう。其れが人間である。 其処に無意識的に、人間らしさを打ち出しているのである。 行為の本質は他律的であるけれども、打ち出している自己は自律的 である。 極仏は神仏同様、他律裡の自律であり、其の究極に於いて、真の自 律(=「涅槃人」)を覚(さと)るのであり、是が「涅槃入り」である。 是、「禅学」の極みである。 自己が打ち出し得るものを自覚して、此処迄至り得たのではない。 無自覚に、只管、心の赴く儘に、促されるが如くに、素直に、裏返せば 、初動に基づく慣性律で無自覚的に、此処に至っているのである。 全く無意識的、無自覚的為るものである。 敢えて言うならば、「人を生(活)かす為」、「世界を生(活)かすため」、 偏(ひとえ)に、一貫して菩提心のエネルギーによるものであろう。 善悪以前の無記性為る太陽エネルギーの様なものである。 是は宇宙の存在を肯定為ら使める本質であり、現象為るものである。 「存在」を肯定為ら使める、「存在」の根拠足る万法律である。 人類は「存在」を言語化する以前に、「言語化」以前の「受容」が出来 ねば、そもそもが自己否定する以外無いのである。 存在、つまり時間空間の受容から始まれば、何等問題は生じ得ない のである。「受容」に至る迄の問題に過ぎない。 道元禅師『正法眼蔵(現状公案)』 「仏道を習うと云うは自己を習う也 自己を習うと云うは自己を忘るる也 自己を忘るると云うは万法に証せらるる也 万法に証せらるると云うは自己の身心 他己の身心をして脱落せ使むる也 (万法とは宇宙及び心)」 『自己を忘るると云うは万法に証せらるる也』が、 存在(時間と空間)を「受容」すると云う事である。 つまり、人類の究極が坐禅に往き着く事に他ならない。 人は、「高が坐禅か、坐禅位。」と思いがちである。 「何も生まない。座って黙してしまうだけだ。」と。 是が出来ずに、今と云う地獄に至ってしまったのではないか。 少欲・知足にして、必要最小限で、世の常に惑わされず、真実に自覚 的に生きようとする態度である。 人類は誤魔化す事は不可能なのである。真理が其れを許さない。 是が不昧因果、因果の道理である。 坐禅の道を歩めるか、否か、と云う正道に至るのである。 生とは然(そ)う云うものなのである。 真実に向き合って生きるか、背(そむ)きながら生きるか、である。 小生の様に、其れで至り得た「涅槃人」為らばこそ、語り尽くせないの であるが、スポーツでは、優勝、優勝で人を酔わす。一種の「酔い」で ある。身体能力への酔いに他ならない。 身は心へと進化したではないか。 心は「涅槃」へと進化したではないか。 進化律を逆行するのは、真理に反する事なのである。 人類は真理に目覚めなければならないのである。 其れが、我等人類を人類足ら使めて居る本体なのだから。 然らざる人類が、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違背する事は癡愚 以外の何物でも無い。 小生も「覚天」した当初(一年三ヶ月前)は、自己にどれだけの事が語 れるのだろうかと思った。 しかし、其処は大脳新皮質、言語中枢の働きで、是は前頭葉の菩提 心に支配されているのである。 菩提心一つで、如何にでも為る処のものである。 人類の将来は、人類菩提心による真理(実)への志向性以外の何も のでもないのである。 是に基づいて、総てを生(活)かして往かねばならない。 小生は母が入院して、独りに為って以来、初めて一週間程、自宅から 一歩も出る事無く、世界史に向き合いながら、ホームページに掛かり 切りに為った。自(おの)ずから、然(そ)う為ったのである。 そうして、母が亡くなって三年余り経って今、再び其の様な状態が続い ている。 今回は、「涅槃」為る真理からの打ち出しで、減る処か、益々出て来る 。止まらない。チョッとした処から次々と出て来るのである。 規則性を保とうとすれども、然(そ)うはさせない様だ。 まァ、為すだけ為さねば落ち着き様も無い。 堤防に亀裂生じて、水が漏れ出した如くだ。 止むを得ない。 此の止むを得ない と判ずる中枢を小生は「涅槃中枢」 と称する。 人間の大脳新皮質は菩提心生ずる源泉に「宇宙(生命)の本質」(涅 槃)に帰一する領域「涅槃中枢」為る部位が存在し得るのである。 宇宙に対峙する人間でなく、宇宙に一(いつ)為る人間である。 最早、此の涅槃中枢によりて、菩提心生じ、自己のみならず、世界人 類をして世界を再構築し、是を完遂せ使めるのである。 正に是、涅槃妙心智慧の湧き出る領域である。 人間を支配するものは、人間ならず、自己に本具せる涅槃中枢に他 ならない。 迷妄為る自己を、此の自己に本具せる涅槃中枢によりて、自律せ使 めるのである。 そして此の中枢を、自己に開発し得た人間(=涅槃人)による世界教 導を実現しなければ為らないのである。是を目標と為さねばならない。 涅槃中枢から生ずる菩提心によりて、世界人類は平等であり、人種 差別は全廃されるに至るのである。 元来、人類は宇宙の本質が本具されているからこそ、其れを「覚天」 したのである。 各々の自己が、夫々自身を宇宙(涅槃)支配するのである。 自己の裡(うち)に宇宙其のものが内在して居るのである。 老若男女を問わず、人種、職業、あらゆる身分にも拘らず、本質的に 本具宇宙(涅槃)して居る訳である。 哺乳類の中の大脳新皮質の進化した人類として、其の前頭葉宇宙( 涅槃)中枢中核に菩提心を本具するのである。 「宇宙(生命)の本質」は「涅槃」為る永遠に不滅為る恒常普遍の真理 として現象するのである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)為る真理に、地上の風土性は無いが、 本具する真理に達する為の風土的要件はある。 古代インダス文明が地上の他の如何なる地域よりも最適であったの だ。食生活の安定と静穏な豊かな自然環境に恵まれていた。 其の大自然裡の農耕生活に、自(おの)ずから瞑想が生まれ、成道 への禅定に進展し、心の進化の礎を築いたのである。 斯くして、自己が自己を完全支配する完全自律為る、大脳新皮質、宇 宙(涅槃)中枢の涅槃妙心(智慧)の開発が可能と為るのである。 宇宙の生命現象は完全他律から、宇宙(涅槃)支配(=世界)の完全 自律への進化であり、是完全他律に同等で、完全自他律、つまり宇宙 の万法は自他未分化為る自他律為るものなのである。 換言すれば、万法とは自己(鐵漢)に内在する自他であり、 宇律とは、其の止揚に他ならない。 《 宇宙裡の大脳新皮質の進化 》 涅槃(妙心)中枢―→宇宙(物)中枢 世界人類を生(活)かす 「宇宙(生命)の本質」の真理 涅槃妙心智慧により は太陽系を生(活)かす 「宇宙(生命)の本質」為る 太陽の如く 涅槃へ進化する現象は 宇宙同様 自(他)律裡の他(自)律 自他未分化 にして ↑ 心せずして ↑ 宇宙の調和と均衡と静謐 ↑ の其の物質 「覚天」 ↓ ↑ ↓ 「解脱」 ↓ ↑ ↓ 菩提心 ↓ ↑ ↓ 心 ← 身 世界は三毒 (貪・瞋・癡)の表現(=戦(闘)争)である。 自然 (じねん)為る欲の風情為る可し。 正の遺産為るものは、人の生死の深さ分、 そして 負の遺産為るものは、人の貪(欲)の深さ分、 成るものである。 貪(欲)と云うのは衝動である。 衝動を生まないのが「解脱人」である。 衝動を生んでしまうのが、普通の人間である。 人間は本気で遣った事しか、言葉に出せない。 真の本気とは、「人を生(活)かす」事だ。 此の心が菩提心である。 《 覇権至上 》 人類は、今日に至る迄、其の力に盲従して来たが、今日に至りて、其 れが、妄想である事を否定し切れないのである。 矢張り、肩を窄(すぼ)め、身を縮込めらざるを得ないのである。 最早、是迄の様には遣って居られない。 否応無しに、細心の配慮をして自覚的に生きざるを得ないのである。 しかし、其の心遣いは、日常生活に於いて不可欠為るものでもある。 ややもすれば、我々人間は傲慢に、無自覚に為りがちである。 我々人類が是迄、其の三毒(貪・瞋・癡)に盲従し、無自覚であり過ぎ た処の、其の心の本源への配慮を思い起さねば為らないのである。 一歩ならず退いて、其の癡愚にして無自覚に陥っていた分を、人間に 回さねば為らないのである。 人間に回すとは、直接的に「人を生(活)かす」である。 恒常、普遍的に「人を生(活)かす」べく、基本的条件確保に尽力する。 人類は宇宙の子なのである。宇宙(=不昧因果)に対する畏怖の念 を知らない。 斯(か)るが故に、今の状態に陥っているのである。 総ては、欧米、及び国連主導国家の在り様である。 米国の遣り方は、戦争を、自らの覇権維持の手段と為す戦争商売を 掲げて、覇権奪回である。 米国は日本の厳密さに学ばねば為らない。 今の感染症パンデックが証明して居る。 此の悪循環を繰り返すのではなく、反省の時機である。 《 涅槃(妙心)世界の由来と未来 》 地球上、農耕生活に恵まれる古代文明地域での生活に随伴する多 様性(諸学問等)と文明化、そして一方で不毛地域での勢力拡張集団 による周辺地域の統合化、例えば古代インダス文明に於けるアーリア 人種の(平和裡為る)侵入等、が世界平和の基礎であったのだろう。 是が大航海時代では、単なる勢力拡張為る植民地支配を目的と為す 方向性に於いて、奴隷化生じ、是が強いては、やがてヒトラー独裁を 生む事と為ったのであるが、其の起源に於いては、人類は必然的に 自(おの)ずから多様性(諸学問等)と文明化と云う、人類の心の進化 を辿るのであるが、現代に於いて、其の末路に至ったのである。 然るに此の末路が人類の輝かしき将来への黎明足り得たのである。 此の人類の因果の必然性に基づく核心となる為るものが、是迄見過 ごされていた、東洋の叡智、つまり人間の本質に対する弁(わきま)え である処の禅の道にありて、至り得た、物理学的には反粒子世界為 る、悟道、つまり涅槃(妙心)世界、更には宇宙(心)世界なのである。 是が、今後、心的進化を遂げる人類の辿る、宇宙(心)世界への正道 なのである。 要するに、人類三毒(貪・瞋・癡)に基づかずして、三善根(施・慈・慧) に基づき足る宇宙(涅槃)世界の事であり、 是は、「互いに生(活)か し合う」、「宇宙(生命)の本質」為る涅槃世界の事である。 0か1である。0は後から作られたものである。 農耕生活に随伴して1,2,3……と数学が生まれたのである。 要するに、此の本質的禅学為る、『真遺教』は心の進化に於ける必然 性以外の何物でもないのであり、其の由来は瞑想からの坐禅であっ た。 人類は、坐禅を離れては真理には至り得ず、真理に至る唯一の 手段が坐禅である。是は 人類史が明らかに証明している。 人間の如何なる能力を以ってしても、真理には至り得ないのである。 何と為れば、如何なる能力も、能力と云うものは、人類が獲得して往 くものであり、其れは絶対的なるものではなくて、何処迄も相対世界の ものに過ぎない。若し能力に絶対的なもの、絶対能力為るものが在る とすれば、其れは虚構為る神仏以外には在り得ないのである。 然るに、坐禅は獲得するのではなく、其の能力を獲得しようとする 自己、正に其の自己を忘れる行(為)なのである。 其の延長線上に初めて宇宙に回帰する体験が生じ得るのである。 正に坐禅は其の為の唯一為る手段に過ぎない。 坐禅の目的は、智慧を得る事も然(そ)うではあるが、究極の真の目 的は「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰する事である。 二千五百年前の釈尊も、此処迄には至り得なかったが、其れは止む を得ない事である。 古来小生に至る迄、托鉢自活による(生涯後厳密)千日(涅槃)行(三 時間坐睡二十四時間仏作仏行)を行じた者は皆無であるからである。 人間の能力の延長線上に在るものは相対的なる人事に過ぎず、 捨てる事の延長線上に在るものは、絶対真理為る宇宙回帰である。 但し、真理は坐禅を内包する。 回帰すれば、最早、坐禅する間が有れば直接に「世界人類を生(活) かす」べく尽力するのである。 《 「覚天」は「覚人」に帰する 》 「覚天」は「覚自」為らず、詮ずる処、「覚人」に帰する。 天に添う非ず、人に添う也。 究竟、人を措いて、天無し。 天無く、自己無く、「人」也。 斯く在りて、初めて天も天足るのである。 天は天を思わず、人を育む。 生命無き太陽は太陽足り得ず、真天とは人類の事也。 故に、「覚天」による「人だ!」「人を生(活)かす」だ。 余道無し。 故に、是で「宇宙(心)中枢」為る訳である。 只管、涅槃妙心智慧を生み遺すのみ。 釈尊の「大人覚」の帰する処は「大覚人」である。 「人」の他に神を立てるから、是で殺し合いに為り、争いが絶えない。 「人」を神と為せば、「互いに生(活)かし合う」のである。 《 「涅槃入り」と宇宙(心)中枢 》 人類の如何為る行も、「覚天」の「涅槃入り」に及ぶものは無い。 一つには、是迄、正道の行、正法苦行が無かったからである。 人類の心の進化は、僅(わず)か五千年程の間に指数関数的 に進化を遂げた事に為るのである。 高度文明化に於ける人類の物の進歩には驚嘆せざるを得ない が、其れだけに、此の百年間を通して、及び戦後の資本主義に 於ける、人類三毒(貪・瞋・癡)の毒害による自然破壊の末路と 共に、其の不昧因果為る正法苦行による宇宙への回帰と、至り 得た宇宙の真理が、正に、今に顕現しているのである。 今、世界人類の指導者達、特に米中露の各指導者が必然的に、 彼等の、其の使命を果たすべき時に、正に、至り得たのである。 「涅槃入り」は、従前の「行」が、刹那に「人」に転ずるのである。 双方、共に人の志向する方向性としては、真逆である。 坐禅組まずして、ホームページ作りに専念するのみ。 「涅槃」は「解脱」を呑了(どんりょう)する。 淫欲に関しては、最も簡単である。避ければ宜しいだけ。 小生、今に至りて、「避ける」と云う事を覚えた。 坐禅を覚えて以来、初めてである。 三毒(貪・瞋・癡)を避けて、「人」を避けず。 淫か、不淫かは身体的なものではない。 心の問題である。 心不淫為らば、身体的淫には拘らないものである。 是が、「解脱」と云うものだ。 少欲・知足で迷妄無く、「世界人類を生(活)かす」 宇宙律。 《 米中露地上非核和平協定 》 米・中・露、そして日本の指導者が、肚(はら)を決めて、サタン(悪魔) でなく、サンタに成り切る。 米・中・露非核和平協定は、小生が初めに言った事であったが、 果たして、今異常自然環境と感染症パンデミックに陥って同じ結果に 至ったのである。 肚を決めるとは、 小生が今に為って肚が決まった。 「覚天」為らぬ、「覚人」である。 是、人が人を思う心、菩提心の核である。 飽く迄も、「人だ!」、「人を生(活)かす」である。 そうすれば、間違い無く、確実に「涅槃」への、約束された、収束振動 と為る。 国連トップから始めて、英、仏等々…………。 是を契機に、国連による、旧態の核支配体制から、一挙に世界人類 の過去を一新して、新時代の新体制を構築しなければならないので ある。 《 小生鐵漢の精進 》 以前、京大の山中教授が、新型コロナウィルス感染症パンデミックに も拘らず、日本が世界の他の先進諸国家等に比べて、上手(うま)く 対応出来ている、其の要因を『Factor(ファクター)X』として、其れを 究明されて居られたが、依然として不明の儘であった。 若し、小生鐵漢が其の『Factor(ファクター)X』に為れるのであれば、 と、〇(ゼロ)為らぬ、其の可能性を生(活)かそうと決意した。 小生に出来る事は、『真遺教』は然(さ)る事ながら、日常生活を「規則 正しく」する事位である。 規則性は、敢えて為そうとすれば、其れは『行』と為る。 恐らく、『真遺教』も其の段階に至ったのかもしれない。 小生の日常生活に於ける規則性位、当然の事ながら、「涅槃入り」して 以来、是迄一年三ヶ月程、『真遺教』の為の規則性の可能性であった のだが、今より、改めて、精進としての規則性として、令和新世紀に 備えて取り組むべく、決意した。 《 本質と現象(「悟り」の哲学) 》 本質と現象は宇宙の両面性である。 宇宙には本質性と現象性とが在る。 現象は、其の究極に於いて、本質為る宇宙に回帰し、 つまり、規則性究竟すれば涅槃生じ、規則性から涅槃に回帰し、 本質は、其の究極に於いて、現象為る宇宙に回帰する。 つまり、涅槃究竟すれば規則性に復元し、涅槃から規則性に回帰す る。 規則性為るが故に涅槃、涅槃為るが故に規則性である。 前者は生命の本質化であり、後者は生命の現象化である。 前者は「悟り」、「解脱」、「涅槃」。後者は「宇宙」である。 生命とは周期性であり、太陽系周期性の動的面為る 現象性(=規則性)と、静的面為る本質性(=涅槃)である。 生命は、是等の現象化と本質化とが正道であり、 此の宇宙律為らざるものは、正道為らざる余道であり、 因果律による業報受けざるには非ず。 《 真理裡の三毒 》 真理の宇宙世界は、調和と均衡と静謐である。 欲界の三毒世界は、不調和と不均衡と喧騒である。 何故に然(そ)うであるのか? 人間が少欲・知足に落ち着かず、貪によりて、其処から拡散するから である。 つまり、心が整って居ない。 欲の衝動に衝き動かされている状態である。 自(みずか)らに、収束する絶対的力が養われていない、二元相対為 るものであるからだ。 驚嘆する勿れ。其れが世間と云うものの実態である。 釈尊も息を引き取られる際に、『……汝等、且(しばら)く止(や)みね。 復(ま)た語(もの)言う事得る事勿(なか)れ。時将(雅)に過ぎなんと 欲す。我滅度せんと欲す。 是我が最後の教誨(きょうげ)する処也。』 と般涅槃された。 今も古代も、人間の迷妄は同一である。 然(そ)う云うものであると云う事の自覚は大きい。 此の自覚の拡散が、根本的に世の中を改善する善根と為る。 海外に比較すれば、日本人は質実である。 日本人の此の素養の故に日本で釈尊は開花したのである。 過去に於いて、一部に然らざる指導者が存在したが、其れが、地理 的、風土的影響力に培われた日本人の本質ではない。 《 前総理、阿部氏に思う事 》 若しも、阿部前総理が真に、今後の日本国民、強いては世界人類の 幸福と平和と繁栄を思うならば、此の儘、世界に闇の負債を遺し、葬 り去る事無く、自(みずか)ら、日本国民の前で、改めて人類の未来を 思い、心を我々に寄せて戴きたい。 《 「覚天」の真価 》 小生、一年三ヶ月前に「覚天」し、「涅槃入り」を遂げた。 「涅槃入り」すれば、世界は即刻、「涅槃」に転ずるのである。 「覚天」は、「宇宙(生命)の本質」が「涅槃」である事を覚(さと)る。 「宇宙(生命)の本質」に回帰した事を知るのである。 是、「涅槃」への収束振動が一定した事である。 二千五百年程前の釈尊の、人類史上初めての「悟り」以来の、心の 進化の完遂した最後身心足り得たのである。 世の中の女性は、出産と育児と云う大任(たいにん)を授けられてい る。 是に代わる男性の大任は、「悟り」であるだろう。 女性が出産し、男性が悟った。 是が、人間としての、男女の男女足る夫々の大任なのである。 釈尊以後、心の進化を遂げ、宇宙の真理に迄至り得た。 涅槃(妙心)世界と宇宙(心)世界である。 前者は自(他)律裡の他(自)律、後者は自他未分化である。 男女の大任以前の、正法苦行((生涯後厳密)千日(涅槃)行)了ず れば、人間が根源から既に完璧に済んでしまっている状態である。 唯、人類の三毒(貪・瞋・癡)が、其れを許せないだけである。 三毒(貪・瞋・癡)は認め得ざるが、人間は認めるのである。 釈尊は、比丘尼には348、比丘には250の具足戒を護持させた。 小生「最後身心」が、女性には出産の大任に代わる、男性には「悟り」 への、三毒(貪・瞋・癡)為らぬ、三善根(施・慈・慧)の善種 を施した。 《 「宇宙の真理」からの独白 》 「生む」と云う事は、生のみに非ず。 死も亦(また)、生むのである。 生まねば、生のみならず、死も亦、生まない。 「生まない」本体も、死のみならず、「生命」 を生むのである。 全ては、「生」の肯定(=受容)から始まっているのである。 『初めに、〔「生」の実感〕在りき。』 である。 「身心脱落(=悟り)」の『原初の“生”の実感』 である。 原初感為る、清涼感と、宇宙に対峙せる「独り」為る生命の、 楽しい様な、嬉しい様な静謐を湛えた不可思議感。 仏道は、此処から始まる。 是が仏道である。 是と現実世界。 其れが、十年間正念相続裡に現実を生(活)き、果たして「解脱」して、 軌道に乗り、(生涯)後(厳密千日涅槃)行、托鉢によりて十五年間練 り上げ、進化の究極に於いて、果たして不昧因果、必然裡に、奇跡 的に「覚天」し「涅槃入り」したのである。 故に、世界は、小生から始まらねば為らないし、小生無くして、 何も始まらないのである。 此処から、全てを打ち出す真無我。 真理からの湧出は止める事は出来ない。 唯一人、「宇宙の真理」の働きを避ける事は出来ないのである。 太陽を消す事が出来ない様なものである。 同じ事を、命の在る限り、言い続けるであろう。 《 托鉢と真理 》 小生が医学生時代、福岡安国寺専門僧堂開単攝心会師家(吾師)伴 鐵牛老師に初めて相見した。 出家する迄の八年間であったが、三年位後には、既に托鉢と坐禅の 寺(=鉄牛寺)の事を口にされた。 毎年、五月と十一月、一日~五日の五日間、延べ十六回の攝心会に は初回から全回、同様に参加し、其れが小生の生活の基軸であった。 然るに、小生が托鉢の事を知ったのは、坐禅時間を確保する為に、 初めて鉄牛寺へ出掛けて行った五十五歳の時であった。 長野県内の十数都市を、毎早朝一番列車で日没迄、一年余り、毎月 四十万円位托鉢した。 其の後、福岡県内を毎年一巡で、毎月半分位、やがて北九州市内を、 其の半分位。十五年前ではあるが、今から思うと、当初は元気であっ た。 吾師の「千日行」、「托鉢と坐禅」無ければ、斯(こ)うは遣れなかった。 何よりも行と托鉢とが、車の両輪であるからこそ、遣れたのである。 其れ以外の原動力は無い。 小生の托鉢と云うものは、100%他力であって、完全に、自力と云う ものは無い。 少しでも自己と云うものを持っていたら、托鉢は一歩も歩めないので ある。一歩でも歩を進める事が出来なく為る。 恰(あたか)もムカデが、歩む事を考えた瞬間、進めなく為るのと全く 同じである。 正法苦行無くんば托鉢無し。托鉢無くんば正法苦行無し。 其れも、正法苦行有りての事である。 千日行が命であった。 其れでも、古希直前に「覚天」して、「行」が「人」と為った。 「人を生(活)かす」の自己である。 自己として在るのは、唯真理、そして其れを伝え遺す事のみ。 「真理」のみ、是「宇宙」である。 「宇宙と云う真理」、是が小生に他ならない。 分かり易く言えば、太陽。太陽が自己。是が真理である。 小生が、独り寺を飛び出す以前は、自己が無い。 寺(=伝統)に無いから、自己が出来る訳が無い。 其れ故に、只、伴鐵牛老師の御心に、其の青写真が在ったのである。 世界人類の将来を担う、今の日本の政局の様なものである。 旅の途上、千日行が意識上に浮かび上がった。 千日行との関わりで、其の時、初めて自己が生まれたのである。 其れが三十五年程して、古希直前に、「宇宙の真理」に基づいて、 刹那に「極仏行」が「人」に逆転したのである。 世界人類が背負いたる今、と云う時、今人類が何を為さねば為らない か、其れが嘗て小生が寺を飛出して、老古仏足る吾師の千日行を 戴いた如く、日本の各政党が、一体何を興さねば為らないかである。 もう既に、其の正答は明らかと為っている。 釈尊も断食苦行によりて、中道に至り、成道された。 小生も、極仏行によりて、真中道に至り、「涅槃入り」したのである。 何(いず)れも、「癡愚から死に至る苦行」 によりて、夫々「中道」、「 真中道」に至り、真理に到達したのである。 正法とは「(世界)人(類)を生(活)かし合う」と云う「真理(=教え)」で ある。 (いざと云う時に備えて)常に堅忍質直に、少欲・知足にして、坐禅 (行)を嗜(たしな)むのが人の心掛けであるべきである。 《 黎明の新時代 : 令和三年 》 今年も残す処、後一日。 人間は何事も、自己の信ずる処ならば、何処迄も徹底する事である。 でなければ、事は為らない。100%徹底する事である。 だからこそ、其処に道が拓ける。 何と為れば、真理は、 永遠に不滅為る恒常普遍為るからである。 真理を欺く事は出来ない。 不昧因果。 小生も、余分は削ぎ落とされて、真に徹底して、 『真遺教』を遺す事に徹した。 此の自由は、真理に至った「最後身心」に許されるものである。 では、世界人類に自由は在り得ないのか? 「人を生(活)かす」の涅槃妙心(智慧)(=真理)を信じ、求める者 のみ、同等の自由を享受し、享有せ使め得るのであります。 以下、其処について、 《 「自未得度先度他」の 心 》 動物本能が人類の本性(人間に普遍的な思考、感覚、行動等の概念 )と欲に進化し、本性から大脳新皮質前頭葉由来の菩提心が生じた。 小生が 医学生時代、宗教(坐禅)に鞍替えした。 自己に正直に、自己を誤魔化さないのは、坐禅道を選択する以外無 かったのである。是、菩提心である。 必然的に得度に至った。 ロケットも、打ち上げ時の推力が最大であり、 床上の物体も動き出す瞬間の摩擦力が最大であり、 物体に力が働かない限り、慣性の法則で、物体は静止し続けるか、 等速運動をする様に、(初)発(菩提)心(の実行)が最も起こすのが 困難なのである。 小生の場合も、生涯自己を欺く事が出来なかったのである。 其の後、身心脱落した。 故に東照寺では、人から「仙人の様だ。」と言われたのを覚えている。 東照寺から安国寺へ行った時も、言われる儘で何も分からなかった。 僧侶と云うよりも、唯自己に正直に、師に委ねる以外無かったのであ る。 千日行に遭遇する迄は、其れでも坐禅だけは、自己と一つであった。 其の様に純粋で、自己を誤魔化す事が出来なかったからこそ、今が 在るのである。 僧侶の為す事、坐禅と般若心経以外、何一つ覚えなかった。頭に入 らなかったのである。寺に居た延べ二年間程。 要するに、突き放して自(みずか)ら遣らせるしか無かったのである。 今から思うと、御寺の御心遣いにも、小生、頭が上がらない。 道元禅師『正法眼蔵(発菩提心)』に、 摩訶迦葉が釈尊を褒(ほ)め奉るに、 「発心(=(初)発(菩提)心)と畢(ひっ)竟(=究竟)とは別である。 前者は起こす事が困難である。是は自未得度先度他の心である故に 釈尊の初発心を礼拝讃嘆する。」と。又、 「蛍火と太陽程ではあるが、自未得度先度他の心を起こしたならば、 差別は無いのである。」と。 (自未得度先度他とは、自己が未だ渡らざる前に、他人を済度せよ、 の意で、釈尊入滅後に編纂された「涅槃経」中の語。) 釈尊成道されて、千七百余年、道元禅師、御遺偈、 『五十四年 第一天を照らす 箇の(ぼう?)跳を打して 大千を触破す …… 』 (五十四年の生涯を懸けて、仏道(坐禅)の真実に至った。 此の自己が、其れを世の中に開示した。……) 禅師の「身心脱落」の真実であったのである。 小生鐵漢は、釈尊、道元禅師、そして八百余年後、吾師の千日行に よりて、師遷化されて二十四年後、宇宙の真理を究盡したのである。 『七十余年 宇宙に回帰し 世界を回帰せ使む』 何と為れば、人類は三毒(貪・瞋・癡)為る生命体であると云う事であ る。 真理とは、宇宙の調和と均衡と静謐(ひつ)であり、此の「涅槃」為る 宇宙に点在する水素原子から物質が生じた。 無機から有機、及び其れ等の可能なる多様化と淘汰、 そして其れに 基づく生命の進化と繁栄、弱肉強食の量から質的進化、そして人類 に於ける三毒の量から質、即ち身から心への進化、更に心の進化に よる、宇宙への回帰である。 宇宙が今を生んだ。 宇宙の進化の究竟は「人を生(活)かす」である。 では、何故に三毒也哉? 若し、三毒無くんば、日本の二度に亘る被爆体験無し。 其れ無くんば、敗戦国家日本の吾師の菩提心生ぜず、小生に千日行 は授(さず)からなかったのである。 此の極悪為る「原爆投下」と不昧因果の小生鐵漢の「涅槃入り」によ りて、本来ならば、人類の衰退と滅亡に帰するであろう世界人類の運 命が、此の新型コロナウィルス感染症パンデミックを契機として、世界 人類が生まれ変われる、真実、最後の好機と為ったのである。 「原爆投下」為る極悪と、「涅槃入り」為る極善の間に、小生の生涯が 始まっているのであるが、人類三毒(貪・瞋・癡)の台頭が、此の間に 人類の繁栄と同時に、是迄の悪業報を齎(もたら)したのである。 此処に於いて初めて、人類は刹那的に従来の人間生活存続の危機 感から、根本的に施政の見直し、と云うよりも、国家間の在り様が国 民レベルで其の日常生活に於ける見直し、つまり無駄を無くし、実直 に生きると云う姿勢(施政)が必要不可欠と為って来たのである。 是は国家レベルに於いては、尚更の事、世界人類の命運に関わる真 実なのである。 小生が「覚天」した直後のパンデミックであったが、其処に至る迄には 、戦後の人類三毒の暴走の始まりと為る、終戦以降の原爆支配体制 による力支配が底流にあるのである。 然(そ)う云う訳で、小生の「宇宙(生命)の本質」回帰は必然為るもの である。つまり、 人類三毒は本質回帰の為の必然的必要悪であったのである。 回帰せずんば、「涅槃」為る真理無し。 真理なき世の中は地獄以外の何ものでもない。 生きると云う事は欲であり、満たされねば、生の衝動と為り、時と場合 によりては、生存競争としての弱肉強食等、貪足らざるを得ないので あるが、貪は人類三毒(貪・瞋・癡)として際限無く瞋恚と癡愚を生み、 人間世界に毒害を及ぼし、人類を地獄に陥(おとしい)れるのである。 釈尊は、少欲・知足を説かれたが、是は、「宇宙(生命)の本質」(涅槃 )に接近して、心が進化した結果の、真に積極的、能動的生き方であ って、今に至り、其の極限に於いて小生を生んだのであり、今こそ、 真理より、真実に生きる時を迎えたのである。 然るに、人間の性能には高低がある。 高が低を導く以外無いのである。 性能が良い程、平和に為り、悪い程、地獄を生ず。 究極の芸術、究極の科学、形而上学的課題等は我々の「酔い」に過 ぎないものであって、是等は宇宙の真理為る、「人を生(活)かす」に転 ずべきものである。 現在、世界の飢餓者は世界人口の10人に1人で、原因は災害(干ば つ、洪水)、紛争↑、貧困である。又、中程度、深刻な食糧不安は4人 に1人であり、食糧不足の80%以上が自然災害地域居住者である。 現コロナウィルス感染者は、世界人口の100人に1人で、死者は 4000人に1人である。 それから、軍事費が飢餓者、食糧不足者の救済に充(あ)てられなけ ればならない。其の方向性が心の進化である。 我々は地上の個々の人間を志向すべきなのである。 究極の志向の遠心性は、究極為る求心回帰である。 斯くして、人間は如何に在らねばならないかを知るのである。 其れも、「世界人類が生(活)かし合う」以外には無いと云う事である。 先ずは、其処に帰着して、其処で初めて物事が始まるのである。 進化とは、世界人類が、先ず其処迄至る事が何よりも先決である。 「急がば回れ」、斯く在れば、是を「涅槃」と云うのである。 如何に物を生んでも、、其の、宇宙に違(たが)えば、今に、到らざるを 得ないのである。 人間関係と云うものは、「人を生(活)かす」心であり、是が“生きる ”と 云う事であり、人類愛とは「世界人類を生(活)かさ使め合う」と云う事 である。 小生は、此の真理を刹那に、恰も「青天の霹靂(へきれき)」の如くに 「覚天」したのである。 直後、坐蒲から立ち上がり、階下に駆け下りた。 そして、其れ迄の自己が総て瓦(が)解したのである。 此の当たり前の事が、落雷を受けた如く体躯の芯を貫いて体現され たのは、此の古希直前に於いて初めての体験であった。 其の事が、極仏行が氷解し、究極の二元相対の根が断ち切れて、自 (おの)ずから「涅槃入り」したのである。 唯、小生鐵漢独り、「涅槃入り」して宇宙を究竟し足るが故に、斯く説く のである。 真理から、人間同士が真の在り様を知らねば為らない。 小生でなければ、真理を伝え得る者は居ないが故に、生命在る限り、 小生亡き世にも、斯く在らんが為に、其の使命を果たさねば為らない のである。 小生は、人類史に於ける、従来の二元相対的、力支配に非ずして、 日本の枠に留まるものでなく、世界に垂範以って、斯く在ら使めねば ならない。 宇宙の真理其のものであり、『最後身心』である。 「世界人類を生(活)かさ使め合う」「教え」として信受すべきである。 真理を信受する事によりて初めて、人類の幸福と平和と繁栄為る 「涅槃」を享受し得るものである。 宇宙の本質から離れて、三毒為る分別が暴走するものではないので ある。 令和新世紀は、此の本質に回帰する、史上、最も進化し足る時代の 到来である。 小生、「涅槃入り」して、涅槃妙心を得、宇宙心を得た。 最終的、宇宙心は自他未分化の太陽の心である。 つまり、真理に至り得て、人々は(真)中道に基づいて、少欲・知足に して、「世界人類を生(活)かし合う」と云う世界を構築、完遂しなけれ ば為らないのである。 是が、釈尊の「刹那の悟り」に基づく御遺教の「自利利人の法」以降に 生まれた、自未得先度他の心である。 「宇宙(生命)の本質」の「涅槃」為る、永遠に不滅為る恒常普遍の真 理を信じて、「人を生(活)かす」と云う事である。 要は、一切衆生に普遍的に「人を生(活)かす」事に尽きるのであり、 是が「宇宙(=太陽)の心」である。 仏道の集大成が、小生鐵漢の、万人に普遍なる、「人を生(活)かす」 である。 此の太陽の様な当たり前の事が、世界の四大聖人以来、我々人類 が探究して来た根本問題の正解であったとは、解かって見れば、余り に当然である。 此処まで来たら、人類足る者、各国指導者間の信頼を醸成し、構築、 完遂し往くのみである。 鐵漢ならば、是だけで、 世界を制する。 「宇宙の真理」 為るが故に。 「宇宙の真理」を得た人間で あるならば、世界を主導す る人間として、常に随所に 主足る人間でなければ為ら ない。 人間の本性は、世界人類 が修羅でなく、涅槃を願う ものである。 地上がエベレストを生むが 如く、 小生に基づきて、 世界を構築、完遂すべし。 正に日本人が肚を据えて、 世界に範を垂れ、真理が 三毒 (貪・瞋・癡) を制す 時代が到来したのである。 《 完 璧 》 人間と云う者は、完璧である程、不完全に遭遇する。 此の両極は不可分である。 完璧は不完全を顕現するのである。 自己の生命は、他者の生命を思う。 自他一如、自他未分化為るが故である。 「涅槃」でありながら、飢餓は世界人口の10人に1人。 中程度・深刻な食糧不安は4人に1人であるとは、一体何を顕現する のか? 是は人間の在り様が誤って居る事を露呈する何物でもないのである。 施政が三毒(貪・瞋・癡)為るからである。 三毒(貪・瞋・癡)施政が、三善根(施・慈・慧)施政に転じなければ為ら ない。 何処に、三毒(貪・瞋・癡)施政の原因が在るのかを、世界の指導者 は徹底的に究明しなければ為らないのである。 徹底的に「涅槃」為ら使めるべく、施政を正(ただ)使めるべし。 何と為れば、真理為るが故。 世界の指導者には、其の責務があるのである。 其れが指導者足る者の使命である。 然(そ)うでなければ、世界の指導者として失格である。 世界の指導者達は一体何を遣って居るのか? 自己の責務を全指導者で反省しなければ為らないのである。 指導者とは、然(そ)う云う者である。 米国は日本に基地を置いて、一体、其れで何を為すつもりか? 其れが一体、世界平和に、如何(どう)影響力が有るのか、反省しな ければ為らない。 米国民はじめ、西洋人は、「宇宙(生命)の本質」を知らない。 米国は専ら、日本を拠点とする原爆(軍備)の世界支配体制と物質の 資本主義、即ち人類三毒(貪・瞋・癡)の象徴的存在である。 此の米国民の悪業報は現実に明らかであり、今や世界の潮流は日本 をはじめとする中国の今後の在り様に移行しつつある。 世界の黎明足る新時代の到来である。 何と為れば、令和新世紀が人類史上初めて「宇宙(生命)の本質」( 涅槃)に人類が回帰したが故である。 人類が初めて真理を手に入れたからである。 従来の人類史は、真理を知らざるが故に、人類三毒(貪・瞋・癡)の赴 (おもむ)く儘の、弱者を奴隷支配し、略奪し、世界を原爆支配体制志 向の、日本への二度の原爆投下、及び其れに継ぐ原爆支配体 制の構築であった。 米国が日本に於ける、原爆世界支配体制から撤退し、〇(ゼロ)から 真に世界平和の為に日中等と共に連携して往く国民性が構築されな い限り、米中対立は必要であり、地獄に帰せざるを得ないのである。 即刻、世界人口の10人に1人の飢餓と、4人に1人の中程度・深刻な 食糧不安を救済すべく、世界の指導者達が一丸と為りて、施政の改 善を施さねば為らない。 小生は、宇宙の真理と世界人類との落差を正すべく、人類の三毒(貪 ・瞋・癡)を改善しなければ為らないと提言するものである。 日本主導で、人類史上初の、地球規模の、此の改革を興(おこ)すべ きである。 此の宇宙に生じた生命の、我々人類に迄、進化した者の、宇宙に帰 一した心のみが、此の大宇宙を独占し得るのである。 其れは、常に天上天下唯我独尊なのである。 仮に、遥か彼方に同じく『最後身心』が居たとしても、其れは同等足る 者である。 大宇宙の進化は、我が地球以外に在り得ないのである。 是は量的現象面ではなく、「宇宙(生命)の本質」の「涅槃」為る、永遠 に不滅為る恒常普遍の真理なのである。 是が規則性である。 我々人類、そして今は、好い加減に偶然裡の産物ではないのであっ て、刹那生滅の原理、因果の道理と云う超科学的な人類の及び得な い必然裡の大宇宙の恩恵であって、人類史上、心の黎明たる、釈尊 孔子、イエスと共に世界の四大聖人たるソクラテスの無知の知も、 此処迄究盡されなければならない。是が智慧である。 生命は規則性裡に 進化し 生滅する。 《 日 程 》 3:00―――起床 2:00前後1時間 (ネット) (昼食) 5:30―――朝食準備 5:00―――帰宅 (ネット) (夕食準備) 8:30―――朝課 7:00―――晩課 (朝食) (夕食) 10:30―――托鉢準備 8:30―――片付け (ネット) 11:00―――出 11:00―――就寝 (托鉢) ※ 此の規則性こそが衆生を思い遣る心と為る。 完璧為らざる原因は、何時も自己である。 《 真の自律 :規則性裡の徹底 》 規則性の否定ではなく、収束振動の『気付き』による、涅槃妙心智慧 足る規則性の確立なのである。 是が自然(じねん)、自(おの)ずから然(しか)ら使められる真実であ る。 宇宙の調和と均衡と静謐(ひつ)は規則性の究竟なのである。 正法苦行によりて、人類三毒(貪・瞋・癡)を完璧に離脱した。 是、「行」の上での解脱である。 真の「解脱」は、其の十四~十五年後、日常生活に於ける正念相続後 、鉄牛寺へ往く直前であった。 人間の根源が、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)為る涅槃妙心であり、 解脱した心(=仏心)の三善根(施・慈・慧)が、我欲からの三毒(貪・ 瞋・癡)に盲従せ使められているのが人間である。 三毒に隷従する、三毒の奴隷状態である。 「悟れ」ば、此の闇雲の奥からの力により、人間の本質的変換が、根 源から無意識裡に果たされるのである。 「悟れ」ば坐禅は自(おの)ずから、柔軟心を得て、「人を思う」大乗禅 為る。 斯様に、「涅槃入り」に於いては、「人が外(はず)れた」、「人を忘れた」 、「人を捨てた」刹那に、涅槃妙心の「人を生(活)かす」真実に至り得 るのである。 規則性が進化を完遂し往く宇宙現象であり、是が生命の裏づけであ り、根拠であり、不昧因果 なのである。 規則性が完遂する処に、生命は完遂する。 規則性が違(たが)う時は、生命存続も違う。 宇宙(心)の規則性が人類の規則性なのであり、「人を生(活)かす」 自律 を完遂せ使めるのが、「涅槃」への収束振動なのである。 此の心が身を制する。 規則性は無機の本質である。 此の本質が生命の源である。 是が「宇宙(生命)の本質」の母体である。 人間の不規則性は規則性に回帰する。 規則性を知る為には不規則性との収束振動である。 三毒の極限が、善の極限を生んだ如く、 不規則性は宇宙の涅槃為る規則性に収束振動する。 つまり、解(わ)かって往くのである。 人類は「大解脱人」、「大涅槃人」には適(かな)わない。 本質への回帰は、「衆生を忘れない」、「衆生を捨てない」。 正法苦行によりて、根本的に全てを受容して居りながら、「真の自律」 を完遂するのである。 「真の自律」 とは宇宙(心)の真理である。 《 心の進化の究極の概略 》 人間は自我(欲)から始まるが、心が進化(=成長)するにつれて、 直観的に能力の次元でなく、人間の能力以前の生命の実存への切 込みから始めざるを得ないのである。 是は社会通念では解決出来ないものであり、是は教育の現場に於い て、其の本質的問い掛けにも答え得るだけの知見が不可欠なのであ る。 其の為には、少なくとも真理を語れなければ全く無力としか言い様も 無いのである。 其の時に、真理(=正解)を一言言って遣らねばならない。 『人を生(活)かす』事だと。 何故かと問えば、 『宇宙が然(そ)の様に働いているからだ。』と。 更に、『宇宙は元来、「世界人類が生(活)かさ使め合う」様に機能して いるのだ。』と。 小生は坐禅の功徳に心酔して、坐禅を好んで遣って居った時に、 突如として、「身心脱落」して悟った。 坐禅を始めて二年位の時だったと思う。 故に、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)への軌道に乗るには、 本質志向の真偽が第一、次に可能な限り、坐禅の時を持つ事が必要 。 悟って、氷山の一角の底の、本質為る生命の在る事を体現する事に よりて、柔軟心を得、人を思う心が生ずるのである。 本質は「涅槃」であり、是に回帰する。 自(他)律裡の他(自)律である。 此処に、更に敢えて規則性と云う、吾本願とは一見対峙する志向、 是は人間の生と死に似て、生を全うするには、死は其れに反するもの の様であるけれども、豈(あに)図らん哉、死在らばこその、生の充実 なのである。死無き生は動物に異ならず。 吾が本願と規則性も亦(また)、持続可能為る相乗効果的緊張感を生 ずるのである。 此の延長線上に、「宇宙(の調和と均衡と静謐)入り」するのである。 此処迄来ると、既に、宇宙の立場に居る。 分別でない、直観的分別なのである。 宇宙心に類するものである。 此処迄の原動力が菩提心である。 此の菩提心と恥とは表裏一体である。 宇宙からの菩提心に対して、恥じるのである。 相対的な恥ではない。 吾が母体為る宇宙に対して、絶対的に恥じるのである。 是が生の意義である。 世界人類を生(活)かす為。 世界人類の幸福と平和と繁栄の為である。 《 現パンデミックからの教訓 》 我々人類は、米国とブラジルに共通する在り様は、世界を地獄に陥( おとしい)れる、と云う教訓を得なければ為らない。 因果の道理 とは、 『悪を造りながら、悪に非ずと思い、悪の報在るべからずと邪思惟(ゆ い)するに依りて、悪の報を感得せざるには非ず。』である。 《 生命と科学 》 生命は、何ものにも置き換えられるものではない。 生命科学は、生命現象を普遍的に、解釈され得る方法で、置き換えら れたものに過ぎない。 然るに、生命の本質は、我々人類が測り得るものではない。 唯、体験によってのみ、初めて覚(さと)り得るものである。 極論すれば、吾「最後身心」によりてのみ、初めて知り得る、超科学的 為るものである。 真理に触れると云う事が、如何に困難であるかと云う事を、唯、知る のみである。 生命と云うものは、科学で知り得る事は、ほんの氷山の一角に過ぎな いと云う事である。 故に、科学者は無知なる智に、必ず至らざるを得ないのである。 《 信と行覚(=覚天) 》 信(=薩?(菩提心)の行願)は行覚(覚天)(=涅槃)に何処迄も 収束振動して往くのである。 『菩提心を発(おこ)すと云うは、「自未得度先度他(自己が未だ渡らざ る前に他を済度する)」の心を発願し営む事である。 是、「薩?の行願(布施、愛語、利行、同事)」である。 是が仏道極妙の法則である。』 是が『修証義』の核である。 要するに、「人を生(活)かす」と云う事である。 《 身心に於ける自他律 》 身的他律性の究極――心以前の身の世界(植物、動物等) 身的自律性の究極――オリンピック等のメダル 心的他律性の究極――神仏への信仰、学問 心的自律性の究極――正法苦行(悟り、解脱、涅槃)と「宇宙入り」 《 真 理 》 七十年 研鑽 只管独り 宇宙真理を触破し 一年四ヶ月 只管独り 大千を触破す 宇宙真理の七十年 人の一年四ヶ月 後を残さず 調和 均衡 静謐 への 只管収束振動在るのみ 《 身から心へ進(心)化 》 我々の人類史は、(能)力から心へと進化して来た。 釈尊、イエス・キリスト以降、今日に至りて、人類史上初めての国家覇 権(金と力)から心(=真理)への収束の必然性である。 誰にも因果の道理を昧(くら)ます事は出来ない。 米国が分断を生ぜ使めた原因を究明し、自(みずか)ら反省して、 同じ過誤を二度と生まない様に正すべきである。 米国に地上非核化の自力が有れば、世界が再認識するであろうが、 内部構造の欠陥、覇権志向の弊害、分断に対する統合力が無い。 是からは、世界が一丸と為りて、只管収束振動すべく、其の歩調を合 わせて、連携して、進化を完遂しなければ為らない。 現今のアメリカは本質的に、嘗ての、世界を分断させ、世界大戦に至 ら使めたヒトラーを想起させるのである。 米国は今こそ、人類の根源悪為る三毒(貪・瞋・癡)に対する自覚を迫 られるのである。 頂点が「宇宙の本質」に違(たが)えば、世界に余程、本質的実力が 無い限り、纏(まと)まり様が無いのである。地獄の改善の仕様が無 い。 頂点の指導者足る者は、世界が団結出来るべく配慮して往かねば為 らない。心こそ進化して往かねばならないのである。 《 能力と真理 》 人間の諸能力は、人を感動させ、又驚嘆させる。 一方、真理と云うものは、落雷が大地に放電するが如き、静謐為る 根源的「覚醒」である。 前者は有限為る二元相対域を出ない、個別的特殊性 であり、斯(か )るが故に、感動を生じ、人間に回帰する。 後者は永遠に絶対為る普遍性 であり、斯(か)るが故に、万人をして 時空を超え、生死を超えて真理に教導し、宇宙に回帰する。 斯(か)様に、人類諸能力と真理とは蛍火と太陽の開きが在るのであ る。 如何為る能力も、小生に至り得ない。 是を伝える事は、真の「思い遣り」である。 能力と菩提心とは真逆であるからだ。 真理を求めるならば、菩提心を発(おこ)す事である。 世界人類が、其れ等の国家や宗教や民族の違いを超えて、 真理に基づいて、調和と均衡と静謐(ひつ)裡に、 等しく分かち合い、全体で生(活)かし合わなければ為らないのである 。 《 人類史上初の危機に直面 》 現パンデミック対策も然(さ)る事ながら、現環境問題対策は、其れに 輪を懸けて、人類の生滅に関わる最も深刻なる最重大課題である。 今後の十年が、人類生滅の命運を分かつ、可能な限り最小限の汚 染 (CO2、コロナウィルス等)と、可能な限り最大限の智慧 を実践 せざるを得ない時機と為る。 即刻、地球レベルでの決断と実行が絶対不可欠であり、人類の是迄 の悪業報の総決算足る今に直面して、今程、従来の相対的生き方で は済まない、人類一丸と為りて、此の絶対的危機的状況に、人類史上 初めて直面せざるを得なく為って、人類存続の明暗を分かつ此の十 年に、一筋の光明を放たねば為らないのである。 全人類が対人間でない、人類の是迄の悪業報としてのウィルスと自 然災害と云う、対自然環境に対して共通の人類存続課題に直面する のは人類史上、現今が初めてである。 又、此れ等に対する、人類の従来の生き方の抜本的見直しが必至と 為らざるを得ないのである。 此の十年間の不可避なる最重大課題に対する、是迄に無い根本的 英断が不可欠である。 正に人類滅亡の危機に直面して、現パンデミックでは、人類の敗北迄 には至らないが、此の十年間の人類の覚悟が為らざれば、十年後に は人類の敗北を認めざるを得ない状況に至るのである。 然(そ)う為れば、万物の霊長足る人類は万物の癡愚者であったと云 う事に為るであろうが、是迄の地球生命史の如く、此の生き残りが、 やがて、我々に生まれ替わって、過去の我々を語るであろう。 そして、我々よりは智慧の生(活)きた、より進化した人類史を築く事と 思う。 要するに、総力を挙げての、時間の問題である。 早ければ早い程、宜しいであろうが、此処に至り得るには、相応の時 間を要するのである。 只管、「涅槃」への収束振動による知見である。 人類は、人間の三毒(貪・瞋・癡)でなく、「宇宙(生命)の本質」( 涅槃)に同じねば為らない。 《 超科学的考察 》 人類の幸福と平和と繁栄は、『最後身心』に帰して、是より発(おこ)す 。 是が人類の進化の礎と為る。 何と為れば、真理為るが故に。 『最後身心』が宇宙の極頂である。 《 今、如何(どう)しなければ為らぬか? 》 今の此の混乱期、先の見えない、出口の無い、拡散の止まらないパ ンデミックと其の世界情勢下で、今、如何(どう)しなければ為らない か? 正解は、自己である。 何と為れば、真理であるから。 然るに、如何にも為らない自己もある。 生きている限りは、為す事が在るのである。 コロナウィルスの感染を拡散しない為にも。 国家や人や環境の問題ではない。 是は、バイデン氏も同様である。自己である。 然るに、自己が如何にも為らない。中国次第だ。 習氏も同様である。自己である。 然るに、是も、米国次第で、米国に負けない事だ、と。 結局は、二元相対の対立意識が如何(どう)にも為らない。 米中間の宇宙の真理 に基づく信頼感が、双方に成立していない。 然るに、唯一、日本に於いて、小生鐵漢によりて、此の真理に至り得 たのである。 真理以外、無いと。 そこで、真理とは如何(どう)云うものだ? 真理とは、皆、「自己が如何(どう)する」、以外無いと云うのが真理で ある。 其処(そこ)で、小生が此の真理(実)を説く。 沖縄基地支配は非合理である。 何と為れば、 沖縄支配の発想の根拠が中国支配にあるからだ。 此の為に、日本を半(なか)ば私物化すると云う、十七世紀以降の 米国の奴隷化制度に他ならない。 是に甘んぜざるを得ない日本人精神は、米国の隷属国家である事を 否めない。 先ず、米国の対中政策を改革して、米中露非核和平条約を締結すべ きである。 そして、日本に於ける米国基地を完全に撤廃すべきである。 是無くして、世界平和は机上の空論に過ぎない。 世界平和の核心は、米中露非核和平条約締結である。 米国の施政に於ける根源的罪過は、第二次世界大戦終戦時に始ま ったのである。 此の結果が不昧因果 為る現米国の現状であり、 米英のパンデミック感染者と死者の異常さと、米国国家の分断とは、 明らかに米英による十六~十七世紀以降の奴隷化制度に基づく、巨 万の富の蓄積と植民地支配の、強(勝)者の、人類三毒(貪・瞋・癡) に基づく驕慢さと、其の延長線上にある、対中政策の無謀さに起因し ている。 此の米国の罪過は、日本本土への二度の原爆投下と、其の後の 沖縄基地配備である。 すくなくとも、沖縄を基地として占拠すべきではない。 如何に対中政策であろうとも。 是は宇宙の真理からの言葉である。 トランプ氏が生まれたのも、其の不昧因果 為る必然性によるもので ある。 核支配(軍事破壊力)世界体制が出来上がっているが、是が一旦機 能し始めたら、地上地獄必定である。 機能しない抑止等は、在り得ない。 よって、当体制の帰する処は、もし、地獄でなければ、何だ? 其れこそ、真理なのである。 何と為れば、地獄に陥る脅しは、永遠為るものではない地獄に他なら ないからだ。 癡愚者の地獄行きの虚構に過ぎない。 だからこそ、真理迄に至り得た小生鐵漢が宇宙に唯一の真理を説き 明かして居るのである。 世界と云うものは、科学に基づく原爆支配等と云う短絡的、単純為る ものではない。 三毒(貪・瞋・癡)に基づく大脳新皮質の産物では、永遠に及び得ない ものである。 宇宙の真理に至り得た人間にして初めて、永遠に真実を語り得るし、 永遠に世界を教導出来るのである。 現今の米国の分断は、米国国民に確足る将来が見えないからである 。将来への展望が無いからである。 「知」では立たない。ブラジルの「情」でも立たない。 唯一、立つのは菩提心によりて、真理に至り得た国家である。 世界に唯一、日本在るのみ。 宇宙現象の進化は本質への回帰である。 量は質に準ずる。 是は、今日に至る迄の「宇宙(生命)の本質」の「涅槃」への進化に歴 然としている。 『本質は現象し、本質するのである。』 本質から遊離した現象は、本質に回帰し得ない亡霊に過ぎない。 然るに、二千二十年、人類史上初めて、本質に回帰し、真理を了得し たのである。 宇宙開闢以来、小生鐵漢によりて為し得た事である。 現代に於いて、人類が採り得る可能性を考察した結果、唯一釈尊坐 禅の在るに至り、吾師の正法苦行(=千日行)を得た訳である。 苦節、古希直前「涅槃入り」し、宇宙真理に至り得たのである。 釈尊中道、断食苦行するに及ばず。 宇宙は能動的に少欲・知足にして、 鐵漢真中道、正法苦行(=千日後行)するに及ばず。 宇宙は「人を生(活)かす」である。 (但し、後行は為すべきものであるが、極仏は不要。) 後は、 『世界人類を生(活)かさ使め合う』 のみ。 是が世界平和への最短路である。 《 一体 誰が どの様に 》 今、パンデミックの渦中であるが、是に対しては万全を尽くし、後は収 束するのを待つ以外には無い訳でありますが、 世界は、バイデン氏か、トランプ氏か、習氏か、果たして真理(鐵漢) か? 明らかな様に、自制と真理(鐵漢)であろう。 要するに、真理である。 人類史上、神仏以外、真理は在り得なかった。 神か釈尊成道(=悟り)である。 然るに、神は聖戦為る、制圧や支配の根拠足る、実在しない虚構に さえ為る事もある。 人類と云う者は「涅槃」への収束振動で、パンデミックも政局も、是等 の異常事態は即刻、収束しなければ為らないものである。 どれも駄目で、何れも二元相対世界のものでしかない。 真理ではなかったのである。 然るに、今、此処に、唯一独りが釈尊より宇宙真理に至り得たのであ る。 正に現パンデミックの直前、一年四ヶ月前である。 人知では、既に及び得ないものである事が明白である。 真理。 後は、世界の指導者達が、是に基づき、世の中を改善するのみであ る。 真理無き世から、真理に基づき足る世界の構築と完遂在るのみであ る。 《 鐵漢の一日 》 真理と金の拮抗の一日である。 真理 の背後には世界がある。 金の背後には自己の存続 がある。 両者の相乗作用である。 従前の生涯厳密千日行と托鉢である。 厳密行為れば、其処に自(おの)ずから、厳密に托鉢も在るが、 今、「人」に至り得てからは、自(おの)ずと、金も無い。 両者の調和と均衡と静謐(ひつ)であり、相乗効果でもある。 且つ、此の為の最大限の、且つ最小限の規則性なのである。 宇宙の調和と均衡と静謐は、究極の究竟であり、斯(か)るが故の、 其の刹那、刹那なのである。 《 「人を思う心」 》 高校入学して其の後中退、或る時、フラッと世の中に出て、放浪した。 日常生活では目にする事の出来ない世間の、最低限の裏世界の現 実を垣間見た。 零落(おちぶ)れ果てて、身を寄せる術(すべ)も無く、辛(かろ)うじて 横たわる、五~六人程の部屋に、路上の塵が風で一角に追い遣られ たかの如く、生きているとも死んでいるとも分からない。 布団に包(くる)まって横たわっている。 最後の最後の溜り場であった様だ。 不動の冷気が漂っていた。 人間の世界には、思い懸けぬ片隅に、こんな閉ざされた、裏社会の 一角も在ったのだと知った。 《 選挙戦 》 勝ち負けと云うものは、勝ち星の多い方を勝ちとするものである。 選挙戦であれば、得票数の大小で、明確に決定する。 然るに、世界のトップに為ると、是が、然(そ)うでない。 大小では決定しない。 小さくても、其処(そこ)に不正が在ったのだと、勝敗不正論を掲げて、 食い下がる。 挙句の果てに、政治の中枢を占拠する。 是は、二度の原爆投下で壊滅し、其処を占拠して、世界原爆支配体 制の拠点と為したのと同様である。 つまり、飽く迄も自己が世界の指導者として、他者を完全に自己の支 配下に置かねば、気が済まない三毒(貪・瞋・癡)の貪の究極に過ぎ ない。 真の勝者足る者は、世界を自己の支配下にするのでなく、 「世界人類を生(活)かさ使め合う」者の事である。 其処にこそ、世界人類の幸福と平和と繁栄があるのである。 米国の是迄の遣り方は、世界を地獄に陥れる遣り方に過ぎない。 頂点に立てる者が如何為る者でなければ為らないか、如何なる者で あるのかを知ら使めるのが、今の米国の現状である。 米国の根底が悪である事を露呈する何ものでもないのである。 次の頂点が、斯(こ)う為らない様に、世界は、其の根底に何が無け れば為らないのかを明確に知るのである。 其れこそ、宇宙の真理(実)に他ならない。 是を得るには、其れだけの事、真実が不可欠なのであり、其れが人 類の能力為らざる方向性、つまり求道すると云う菩提心によりて、 自我の根源の人類三毒(貪・瞋・癡)を悟った人物でなければ、此れを 可能為ら使める事は不可能なのである。 是を果たしたのが、小生鐵漢の『最後身心』なのである。 故に、如何なる人物も、『最後身心』に基づかない限り、此の二元相対 の対立世界を脱却する事は不可能なのであり、其れが是迄の現代で あったのである。 故に、世の中と云うものは、悪を為さない、悪を懲らしめるだけでは、 何も解決しないのである。 真実は、(諸悪を為さず、)善を施す 事である。 善を施す とは、如何為る事なのかを、世界人類は知らない。 其の究竟の意は、 自己の能力を捨てて、「自己を捨てて、人を捨てない。」 「自己を忘れて、人を忘れない。」と云う事であります。 是を生涯実践する事なのである。 如何(どう)して、其の様な神仏がする様な事をするのか、否、出来る のか?と。 其れは、生命其のもの、つまり釈尊の真実為る事を覚(さと)るからで ある。 是、坐禅の功徳 である。 此処に、二元相対為る人間世界から離脱する処の、真実の在処(あ りか)を予感させるのである。 故に、自己を忘れ、世界平和為ら使める、普遍的為る絶対に真理を 委(ゆだ)ねるのである。 斯(か)るが故に、 人類の根源悪為る三毒(貪・瞋・癡)が三善根((施・慈・慧)に転じ、 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰するのである。 つまり、「悟り(身心脱落)」、「解脱」、「覚天(涅槃入り)」を全身全霊で 身を以って、体現するのである。 是等を究盡した者を『最後身心』と云い、釈尊の『最後身』を継承する、 宇宙に唯一為る小生鐵漢の『最後身心』なのである。 人類の心と云うものは、身より進化を遂げて、此処迄進化を遂げねば 、宇宙に回帰する事は出来ないのであり、宇宙の真理に至る事は不 可能なのである。 《 小生鐵漢の生き様 》 小生の生き様は、宇宙に生かされる蟻(あり)である。 宇宙である為には、蟻でなければ為らない。 蟻である為には、宇宙でなければ為らない。 飽く迄も、宇宙である事が本分である。 其の為には、必然的に蟻なのである。 蟻だからこそ、宇宙であるのだ。 本質は蟻を現象し、 蟻は本質を開示する。 《 物と心の真実 》 宇宙空間生物の存在は極めて稀であり、宇宙は物質世界である。 160年程前にダーウィン(英)が『種の起源』を著し、4年後にDNAが 発見され、2年後にメンデル(オーストリア)の指摘因子をgene(遺伝 子)とした。遺伝子は殆(ほとん)どの生物にあり、染色体のDNA二重 らせん構造の塩基配列の遺伝情報である。 宇宙(物)に遺伝子は無い。 遺伝子の究極が心である。 心が三毒(貪・瞋・癡)害を生ぜ使め、心が悟って三善根(施・慈・慧) に転じ、「涅槃入り」し、物質世界にも等しい宇宙の涅槃に回帰するの である。 宇宙を宇宙足ら使めるのが人間の心である。 自己の心以外の世界は無いのである。 宇宙と云うものは人間の数だけの心を生んでいる。 心を生んだ母体は宇宙である。 心が究竟した真理は涅槃であり、此の事実が永遠に不滅為る、万人 の本来の心に恒常普遍為る真実なのである。 元来の心の在り様が涅槃なのである。 宇宙は物に過ぎない。 地上の生命以外の他の生命を求めて、宇宙を探し回るのは自己を知 らざる愚者のする事である。 宇宙が「地獄」だ「涅槃」だと言うのは、思う人の心の在り様の問題で あり、悟れば宇宙は涅槃である。 富士山もエベレストも、其の素晴らしさは然(そ)う思う心の素晴らしさ であり、芸術に於いても同様である。 一切の素晴らしさの根源為る心の根源が涅槃である。 他を追って探し回るべきではない。 自己の其の心を悟り、知るのみである。 一切の素晴らしさを掌握し尽くすのである。 《 総 論 》 地上の『最後身心』が宇宙に存在する可能性は、実に奇跡的為るも のであり、正に日本は宇宙の頂点足るべきである。 現象 ← |⇒ 本質(涅槃) (相対) | (絶対) 〔進化〕 物→身→人心→仏心→「覚天」(回帰)→「涅槃(妙心)入り」 「悟り」 「人を生(活)かす」 「解脱」 宇宙は、奇跡的、地球等の人類惑星以外は涅槃物質界であり、 人類自然界は涅槃世界である。 地球上の涅槃世界こそ、人類が生死し、人心 は身と共に、やがて 現象裡に死滅するか、仏心として本質裡に生きるかである。 心は拡散振動の極限に至り、不昧因果、収束振動によりて、『最後身 心』が「涅槃入り」し、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰した。 《 老 化 》 小生の寺を飛び出してからの正念相続、つまり三十代後半であるが、 今に至る迄、三十五年間保持しているのであったが、「覚天」して一年 四ヶ月、坐禅を離れて、最近踏ん張りの効かない自分に気が付いた。 従前の調子で往くから、其の理由が分からなかった。 何処かに其の原因が在るのだ、と。 是が、四苦の一つである、老化だ。 人間七十一歳にも為れば、矢張り、何時迄も従来の踏ん張りは効か ない。其処で、踏ん張らないで済む様に、極力、規則性を日常から護 持する事にした。 高齢に為る程に、日常の心遣いに極力、油断しない事である。 以上は、「老い」の現象的側面であるが、 本質的側面では、「老い」は充実の拠り処である。 「老い」でなければ学び得ない事もある。 仮令(たとえ)、機械の如く100%遣ったとしても、其れだけの事で、 世の中を教導し得たかと云う事とは、亦(また)別問題である。 「老い」によって初めて見えて来るものがある。 其れが、世間の人の心である。 人間と云う者は、人の間と書く。 此の実態は、三毒(貪・瞋・癡)為る有機的構成態の一つと云う事 である。 人間の存在の悲しさは此処にある。 構成態の一つでありながら、斯く在るが故に孤独であり、悲しく地獄 なのである。是が三毒害である。 本質から遊離した貪欲に過ぎないからである。 仮令(たとえ)現象的には誤魔化し得ても、本質的には誤魔化す事は 不可能である。 世界の今も、此の三毒(貪・瞋・癡)害の断末魔に他ならないのである 。 真理に目的は無い。 宇宙に、人類を育む為だとか云うものは無いのである。 真理其のものが、「涅槃」へ進化する処の目的なのである。 然るに、此の真理は、「覚天」しない限り分からない。 極佛(行)では、未だ明確なる真理とは為り得ていないのである。 唯、言える事は、世界人類の平等為る真の幸福と平和と繁栄への最 短路である事を信じて疑わないと云う事である。 因果の道理より不昧因果為るが故に。 此処に於いて「覚天」によりて初めて、極佛(行)為る確信に基づく 坐禅行(=正法苦行)と云う宇宙の単独飛翔を挿(はさ)まずして、 直接に「人を生(活)かす」事だと、全身全霊で体現し得たのである。 人類の能力(学問、芸術、スポーツ等)の磨き上げられた如何なるも のも、「普遍的に人を真に生(活)かす」 もので無い限り、総ては宇宙 を只管(ひたすら)彷徨(さまよ)う宇宙船に他ならないのである。 是等総ては極佛(行)に尽きるのである。 「人を生(活)かす」に戻れと云う事である。 人間の能力は高齢と共に下降線を辿る。 然るに、極佛(行)は頂点に於いて、刹那に、其の本道でない事を覚( さと)り、即座に其れを放棄して、本道為る真理、「人を生(活)かす」を 生きる。 此処から始まるのである。 「人を生(活)かす」には及び得ない。 能力と極佛(行)とは斯(か)様に真逆なのである。 《 「覚天」の真実 》 五年間で十五回の、「他、否自」の繰り返しの挙句の、十六回目の「他 、否自」で、真実、自と為ったかとホッと肩の荷を降ろして、ヤットの感 の刹那の、天理(=宇宙の真理)の開示であった。 坐禅続行不能。坐禅による坐禅否定であった。 坐禅が極佛(行)其のものを、刹那に直観的に一蹴したのである。 呼吸システムが正常に機能しない。 「極佛(行)」でない。「人」だと反射的に立ち上がった。 坐禅を覚えて以来、四十三年間程、初めての事であり、且つ、余りに も明確にして、一塵の疑も寄せ付けないものであった。 『最後身心』と為れば、坐禅する時間が在れば、「人を生(活)かす」の である。 極佛(行)は無益だと覚(さと)った。 極佛(行)の究極は、其れを為して居る自己に至るのである。 人事総て、能力は自己に至る。 真理を委ね足る極佛(行)でさえ、其の根底に自己が在ったのである。 故に、「宇宙(生命)の本質」の顕現足る「涅槃」の調和と均衡と静謐 の永遠に不滅為る恒常普遍性為る真理によりて、極佛(行)としての 小生鐵漢に体現せ使められたのであった。 是、本質の持つエネルギーとも言うべき物か。 アインシュタインの相対性理論の E=mc2 (E;エネルギー、m;質量 、c;光速度)。 是『物質(=質量)とエネルギーが可換である。』と云う 事である。 従って、素粒子は人間をして体現せ使めるエネルギーを持つのであ る。 つまり、人類の拡散振動より、「覚天」による「涅槃入り」からの、「涅槃 」への収束振動せ使めるのである。 極佛(行)は「解脱」の延長線上為る生涯後厳密千日涅槃行(=正法 苦行)であり、釈尊の究竟であり、謂(い)わば、世界人類の幸福と平 和を標榜する真理足るものと信ずべきものであったのであるが、 「覚天」しない限り、真理としての超科学的確証を欠く。 《 妄 想 》 人間の妄想為る油は、正道為る水に浮いて、 混ざり合う事は決して在り得ない。 是が正道の正道足る処であり、 「解脱」の「解脱」足る処である。 是が自然(じねん)と云うもので、自(おの)ずから然(しか)ら使む。 泡(あぶく)が湧(わ)いては消え、湧(わ)いては消え往く様なもので ある。 《 処世界梵〔唄(ばい)〕 》 〔釈尊入滅後200余年後の中国魏の唄。 (日本は卑弥呼(242~248生誕)の弥生時代)〕 『處世界如虚空。如蓮華不著水。心清浄超於彼。稽首禮無上尊。』 (しいしかいじきくん。 じれんかふじゃしい。 しんしんじんちょういひ。 きーしゅりんぶじょうそん。) 「世界に処する事虚空の如く、蓮華の水に著(つ)かざるが如し。 心の清浄なる事は彼に超ゆる。稽首して無上尊を礼し奉らん。」 更には、無上道(=正法苦行)を行じ奉るべし。 是は果て無き宇宙の如く、際限無い。 地上は略(ほぼ)七十七億個を基とする三毒(貪・瞋・癡)の有機的構 成態から出来上がっているのである。 初厳密行を了じた者は既に(水と油の如く)解脱域に達している。 《 『最後身心』の智慧 》 妙(心)の為の厳(密)、厳(密)の為の妙(心)。 相反する双方 の同時進行、相乗効果と相補性。 顔面に併せ持つ右眼と左眼の機能。 東西両洋の長所を活かして最善を為す。 《 涅槃世界 》 睡眠欲は二日間。 食欲は二週間。 性欲は生涯。 禁欲し得る期間である。 人類存続には何れも禁欲不可能である。 世界人類の幸福と平和と繁栄の為に、眠くなり、腹が減り、異性を求 めるのである。 其の為に、 淫快の素因は人類存続であるだけに、消滅はしないが、 解脱すれば死んでいる。 生理(本能)的欲求が満たされれば、後天(社会・文化)的高次の欲 求※の方が、(其れ等への適応機制として生まれる処の)行動原理と 為る。 ( ※; 獲得、優越、達成、保身、防衛、支配、求知、解明等。) 是等の総括としての、大脳新皮質前頭葉の心の進化の究竟足る、虚 構為る他力の信仰為らぬ、正法(正道)への自力の菩提心への進化 を遂げるのである。 衆善奉行、要は「人を生(活)かす」が問題なのである。 《 宇宙の涅槃化作用 》 アインシュタインの相対性理論、 E=mc2 (E;エネルギー、m;質量、c;光速度) に在る様に、 「宇宙(生命)の本質」は物質(m)と可換為るエネルギー(E)による 涅槃化である。 宇宙の調和と均衡と静謐の現成(げんじょう)が、「涅槃」と云う、 永遠に不滅為る恒常普遍の真理である。 涅槃化すべき進化であり、其の為の菩提心なのである。 『最後身心』による、「涅槃」回帰に至る迄の心の進化であった。 宇宙とは、宇宙物から涅槃世界への永久機関である。 今では永久機関は実現不可能との結論に至っているが、是は 宇宙が、涅槃から涅槃への拡散振動、最大振幅、収束振動する 永久機関である事を知らないのである。 是を知る為には、根本的に社会通念から離れて、真理の根源からの 「気付き」が不可欠である。 例えば、「我々は星から生まれた。」と云う事。 是は超科学的に信じざるを得ないのである。 科学的にも否定する事は不可能である。 何と為れば、真実であるから。 以下同様に、世界人類の本質化(涅槃化)為る永久機関である事が 真理である。 若(も)し、然(そ)うでなければ、小生の奇跡為る「涅槃入り」は在り得 無い事と為る。 人類の分別に三毒(貪・瞋・癡)を本有して居るが故に、宇宙を神と為 し、自然と人類は征服すべき、対峙するものと思い為す。 此の頂点が米国である。 以下は殆(ほとん)ど、同様に忖度と保身で、是に倣(なら)わざるを得 ないのである。 他の追随を許さない迄に、原爆支配を完成させたからである。 斯(か)様に、此の世界に信頼も団結も成立の仕様が無いのである。 此の罪過程、大為るものは無い。 世界を地獄に陥れた根源悪為る三毒(貪・瞋・癡)害であった。 此処に激震が走ったのが、今に至って居るのである。 世界指導国家足る米国の本質は、其の分断と共に信頼し難いのは止 むを得ない。 其れ等の原因は十六~十七世紀以降の米英の奴隷化制度による富 の蓄積と植民地化支配に基づき足るが故である。 是等は世界が文明化社会と為る迄の過渡期的時代であった。 奴隷化支配と云う、人類の三毒の貪欲による非人道的非条理性由来 の悪弊の後遺症足るものであり、是は力支配の人間的欠落であり、 世界の指導国家足り得ないのである。 宇宙は涅槃世界である。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違(たが)えるものであるが故の、今の 現状なのである。 因果の道理、歴然として私無し、造悪の者は堕ち、修善の者は陞 (のぼ)る。毫釐も違(たが)わざる也。 今後、新世紀の出発点に先立って、是に対する忠誠為る反省が為さ れない限り、米国の現状は永遠に不可避と為る。 米中露非核和平条約締結が完了すれば、地上の今後の課題は総て 解消されるであろう。 環境対策では自然相手で、未だ人間相手の肝心要が済んでいない。 最も根深い人類の根源悪である。 アインシュタインは、日本で、湯川博士の前に平伏(ひれふ)して、 平身低頭、何度も何度も頭を下げて、泣きながら謝罪したではないか 。日本本土に二度の原爆を投下した当人に、此の反省が為されない 儘、トランプ現象迄引き摺って、分断を復元し得ない儘ではないか。 常識的な事では、其の根源悪は微動だにしないであろう。 トップが動けば世界が一新する。 動かねば、世界も動けない。 第一主義と誇りを唱えている場合ではない。 根源的反省に基づく実践無ければ、世界が信頼するに値しない。 《 分 断 》 今や、世界は各国のリーダーが夫々の国家、国民の繁栄を築かんと する時代から、宇宙の真理に到達した唯一の人物が、世界を俯瞰して 、現状に於いて最善であると判断した事を世界各国のリーダーが施政 すべき時代に移行しようとして居る。 世界大戦以降の分断が解決し得ないからである。 此の分断の根本原因は、人間の分別其のものに在る。 分別が、人間の根源悪である三毒(貪・瞋・癡)志向か、否かに基づく。 此れは、格差の問題ではない。貪欲であるか、否かである。 要するに、貪欲に基づく分別なのである。 米国に於いて、是で顕著に二分して居るのである。 世界の指導国家程、此の傾向が強い。 三毒(貪・瞋・癡)志向の最足るものが原爆支配である。 分断解消の根本的最善策が、米中露非核和平条約締結である。 小手先で解消し得る分断ではない。 原爆支配体制こそ、分断の根本原因である。 力支配に隙が在る。必ず、其の悪業報は必至である。 日本の柔道に於ける柔(やわら)、柔軟心に学ぶべきである。 柔軟足り得るには、此の確足る根拠が在るのであり、 是が、身心脱落(=悟り)によって得る、柔軟心であり、 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に接近した事によって生まれる心的変容 なのである。 頂点の原爆支配が、 どれ程、世界人類の最後の一人の心迄に、 分断を強いてしまっているかと云う認識と自覚が及び得ていない。 どれ程、世界人類の心全体に及ぶ迄に、心狂わす根本原因と為って いるかと云う認識が、自己の三毒(貪・瞋・癡)によりて出来なく為って しまって居る処に、悲観的に為らざるを得ない。 三毒は分別に基づくものである。 分別無ければ、三毒無く、少欲・知足なのである。 分別は本能と結合して貪を生む。 貪を生まざる分別は、無我、即ち真理に基づく分別以外、在り得ない のである。 其の「証し」が原爆支配と自然破壊である。 即ち、「涅槃」為る真理に至り得た人間でなければ、貪の解消は及び 得ない。 貪に基づく分別に流されてしまうだけだ。 原爆支配と、信頼に基づく団結(=平和)は、決して両立し得ないの である。 信頼無き団結は、暴力集団に為り兼ねないのである。 リーダーの英断が必要不可欠である。 宇宙真理を人類に伝え遺す事が、『最後身心』の絶対使命である。 偏(ひとえ)に、真摯(しんし)為る指導者方が、地上にどれだけ居るか に尽きる。 認識の甘さを痛感せざるを得ない。 唯一為る、「涅槃」への永久機関への最難関の英断在るのみ。 早い程、勝負が早いのである。 《 地上非核和平条約締結 》 原爆世界支配国家を構築し、完遂した米国が締結に取り掛からなけ れば、日本と中・露・英・仏(=米国以外の国連常任理事国家)の締結 に基づく団結が地上非核化に至ら使めるのである。 核のボタンと云う、原爆世界支配権力を米国大統領のみが行使出来 る原爆世界支配体制 と信頼と団結に基づく平和体制 とは両立し 得ないのである。 必然的に二者択一に為らざるを得ないものである。 仮に、両者の中道を往くとすれば、「二兎追う者は一兎をも得ず」。 必然的に地獄に堕ちざるを得ないのである。 人類の三毒(貪・瞋・癡)は、然るべき指導者が、英断 しない限り、 如何とも為し難きものである。 世界平和の第一条件は、米国の核放棄以外無い。 偏(ひとえ)に、米国(大統領)の核世界支配体制其のものが、人類( の尊厳)を否定する、短絡的為る、動物レベルのものである。 如何に綺麗事を陳(の)べ立てても、ボタン一つで、総て虚偽である事 が判るのである。 其の様な非条理は無い。 人間の否定であり、信頼の否定であり、 其のボタン支配から生まれ得るものは、何一つ無い。 唯在るものは、終戦に至る迄の、最後の沖縄の心である。 其処に至る迄に辿った、過去の人類の過誤は、力によって平和を求 めた事に他ならない。 つまり、其の能力による平和構築 の結果なのである。 人間と云う者は、能力に基づいているのではない。 能力の根底に在るものは、人類の根源悪為る三毒(貪・瞋・癡)なので ある。 要するに、人類三毒によりて、平和を築かんとした結果が今なのであ る。 三毒為る能力による平和構築でなくて、三善根(施・慈・慧)による、自 (おの)ずから為る、真の信頼性に基づく平和構築でなければならない 。 此の三善根(施・慈・慧)は「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に生かされて 居る、人類の根底足る心であるからである。 是を知らざる、世の癡愚者達の世界構築は、小生鐵漢の「覚天」によ りて、刹那に否定されたのである。 此の『最後身心』が真実(理)を開示して居るのである。 今、仮令(たとえ)環境が改善され得たとしても、人間の心が改善され ない限り、必ず、再び環境も破壊されるであろう。 人類の貪は其れ程、根深いものなのである。 人類の極悪業が原爆投下と核(=大量破壊兵器)による世界支配で あり、其れ故に極善業が地上非核化(=米・中・露非核和平条約締結 )である事は明確である。 「覚天」による『最後身心』が空前絶後にして、宇宙の真理を人類に開 示したのである。 是を契機として、人類史は飛躍的に改善され得なければ為らないので ある。 「覚天」による涅槃回帰は、是迄の如何なる基準を以ってしても、及び 得ないものであるからである。 人間世界は連続性が真なのではないのであり、真の不連続性が二元 相対世界からの絶対為る真理の顕現なのである。 厳密為る連続性よりも、真理に基づく不連続でなければ為らないので ある。 是迄の人類の進化其のものが、変異に因るものであり、謂わばミスと 云う不連続性の刹那、刹那の集積に他ならないのである。 人類の真の進化は連続為る意識上の突然変異にこそ存するのである 。 人類の分別に基づく行動による飛躍でなく、 物質エネルギーに起因する処の涅槃化エネルギーによる意識上の変 異である。 仮令(たとえ)環境は改善されても、人間の心は改善され得ないのであ る。 本末転倒であり、真の改善は人心の改善足る非核化に他ならない。 此の団結を自(みずか)ら唱えなければ、世界の指導者としての資格 は無い。 他を犠牲にした、傲慢為る三毒(貪・瞋・癡)由来の自国第一と言わざ るを得ないのである。 「強者が富を獲得するのである」と云う様な、訳の分からない支離滅裂 なる論法では世界人類を納得させる事は出来ない。 悪の権化に他ならないのである。 人類と云う者は、力による掌握ではなく、心による掌握である。 前者は偽であり、後者が真である。 何と為れば、能力と云うものは真理に基づくものであるからである。 能力は二元相対の有限為るものに過ぎず、真理は絶対の、無限為る 宇宙に由来するものであるが故に。 《 世間の階梯 》 最も 低俗為るは、淫快を心だと勘違いして、癡愚者と為る事である。 物を生む、癡愚者でない人間。 能力を生(活)かす生き方をする人間。 精神性を重んじる、知的生き方をする人間。 心を志向し、菩提心を育(はぐく)み、真理を志向する人間。 生殖無き射精は相容れないのである。 非生産的であり、生の浪費である。 是も心の進化の一端であろう。 世界人類の幸福と平和と繁栄を志すならば、是位の真剣さを要するの である。 《 性善説か、性悪説か 》 世の中には 性善説と性悪説為る相反する説が在る。 率直に言って、人類は性悪為る存在である。 諸悪の根源が三毒(貪・瞋・癡)であり、貪の儘(まま)に、世界支配に 至るのである。 社会構造化すると伴に、東洋では菩提心が生じたが、西洋に於いて は、人間能力を極め尽くし、世界を分断せ使めた。 三毒(貪・瞋・癡)害である。 斯(か)るが故に、求めれば求める程失う。手に入らない。 捨てれば捨てる程、何時かは相応の見極めを持って生(活)きようとす るのであるが、菩提心次第で、地獄にも堕ち、又真理にも至るのであ る。 其れ程、人間の三毒(貪・瞋・癡)為る迷妄は、菩提心の真偽一つに懸 かっているのである。 故に真為る人間は相応の善業を得、偽為る人間は相応の悪業を感得 するのである。 捨てる程に手に入る。 性悪ではあるが、其の底は宇宙である。 宇宙と一つ。宇宙心、否宇宙物と言っても宜しい。 真の智慧の出(いず)る涅槃妙心である。 何一つ、拘(こだわ)るべきものを持たない心である。 只管(ひたすら)、「人を生(活)かす」事だけ。 是が宇宙の真理であり、 真の性善説とは、説に非ずして真実である。 修証一如 小生鐵漢が、 『最後身心』と して垂範以って 米中露非核 和平条約締結 を確信する。 人間と云う者は、完璧な時程、細心の 注意が必須。 人間は自(おの)ずから、涅槃収束し往 くに連(つ)れて、必ず自ずから、気を 引き締め往かねば為らないのである。 今後、益々、気を緩めては為らない。 改めて、日本が世界を率先垂範し往 かねば為らない。 日本に世界人類の幸福と平和と繁栄 の責務がある。 世界は、朝鮮半島を生(活)かす事が 世界を生(活)かす事と為るのである。 是、真理の発動である。 朝鮮半島を生(活)かす事が世界を生( 活)かす事と為る。 身は脆(もろ)い。究極は心である。 宇宙は物であり、究竟涅槃妙心(智慧 )足る。 肝心要は、真理に基づく責務である。 七十余年前、日本粉砕。 今や、米国粉砕。 米国内面は中国に劣る。 日本が先導する。 「人を生(活)かす」 は 行(日常の規則性) である。 《 日常と物質(エネルギー)の規則性 》 真の日常(規則)性は、「宇宙(生命)の本質」其のものであり、 宇宙の「涅槃妙心」以前の宇宙(物)の物質エネルギー(E=mc2)の 規則性に由来するものである。 《 人類の根源 》 人間世界の根幹は、「宇宙(生命)の本質」の教導から、其の現象面の 構築、そして其の完遂である。 人間世界の諸悪の根源は人類三毒(貪・瞋・癡)由来の毒害である。 《 人間性に基づく社会性 》 明確に為らざる事への拘(こだわ)り(=執著)を「捨て」、「忘れる」事が 、社会性への通過儀礼であるが、此の「明確為らざる事」こそ、極める べきものなのである。 是、真の人間性への入口である。 然るに、殆(ほとん)ど、人間が社会に?み込まれて始まり、其の坩堝( るつぼ)裡に没し去る。 真の社会性とは、人間性を犠牲にするものでなく、人間性に基づく社 会性でなければならない。 《 「獲得」と「捨てる」の効果的刹那的切替 》 小生、此の一年四ヶ月間程、「覚天」する迄の自己は、 坐禅を覚えて以来四十五年間程、ずっと捨てて、獲得する事の無い時 を過ごして来た。 「覚天」して、「人を生(活)かす」事、ホームページ公開に徹したのであ る。 此の一年四ヶ月程の日常は、世事を吸収して、教導すべきを伝え遺す と云う作業であったのである。 是等、二律背反する方向性の生活の相違であるが、 今に為って初めて気が付いた。 小生の規則性の衰えの原因が、此の生活方法の違いに在ったのだと 。一年四ヶ月間の生活習慣の相違に起因するものであると、初めて気 が付いたのである。 其処で、以前であれば、全く問題に為らない事が、なかなか儘為らな いのも、考慮すべきであると、今に至って再び、嘗ての厳密であった心 の遣い方を、主体的にすべきであると判断した訳である。 《 『最後身心』からの実証的、 宇宙と人類への考察―菩提心 》 小生は人類が、未だ脱却し得ない力と量と云う身の進化のプロセスよ り、既に至り得て居る心の進化の究極、つまり宇宙の真理の立場で、 真の正道を、恐竜から人類への進化の真実を説き証(あか)すのであ る。 現実を生(活)かす智慧は二元相対世界からでなく、其れ等を超越した 、宇宙の真理から生まれ出るものである。 果たして、「集団による、死に至る地獄」からでなく、「独りの正法苦行 の涅槃」からである。 《 フェーズ ( 一 ~ 五 ) 》 一、質量(物質)に可換為る、「本質からの促し」のエネルギーと瞑想。 二、人類悪の根源為る三毒(貪・瞋・癡)由来の菩提心とヨーガ行。 三、釈尊成道後の正法苦行(=初行)後の「解脱」への菩提心。 四、「宇宙の本質」に回帰せ使めたる極佛坐禅行(=後行)。 五、真理に基づく世界構築、完遂への菩提心。 宇宙物質のエネルギーが「宇宙(生命)の本質」からの促しとして、世界 一肥沃な古代インダス文明の農耕生活人の瞑想に端を発するのであ る。 瞑想―(集落の社会構造化)→三毒→菩提心→坐禅→正法苦行( =初行)→極佛行(=後行)→「覚天」による「涅槃入り」。 人間は「悟り」、「解脱」し、「涅槃入り」した者でなければ、人類を教導す る事は不可能である。 其れ程、人類三毒(貪・瞋・癡)は容易に三善根(施・慈・慧)には転じ 得ないものである。 癡愚者には、真理は映(うつ)らない。 悟った人間でなければ真に人類を教導し得ない、と云う事である。 歴史を顧みれば、是は明らかであり、其の結果としての今なのである。 「悟り」などは意識上には存在しない程に、真理は人類の三毒(貪・瞋・ 癡)裡には無いが為である。 三毒は時・処・位に拘らず、如何なる境遇に於いても、悟らない限り三 毒なのであり、癡愚なのである。 其の証拠に、坐禅をしようと言う人間が出ない。 其れ程、人間と云う者は、癡愚である事の自覚が出来ない者なのであ る。 嘗て、釈尊成道後、仏道苦行がエジプトのキリスト教徒達に修道 と云 う行を生んだ。 三~四世紀、聖アントニウス(エジプト)は、砂漠(洞窟)等で四十年間 苦行し、其の周辺に人が集り、修道院が建ち並び、砂漠は修道僧で 一杯に為った。 当時のエジプトで全人口の半分が修道僧であったとも言う。 「砂漠での苦行者」、「修道生活の父」、「修道院の創始者」である。 又、断崖絶壁や柱の頂で修道生活をした。 五世紀、聖シメオン(シリア、登塔者)は、四十数年間、塔の上で修行 し、人々を教導した。 人間が本気に為れば、必ず坐禅しないでは居れないと云うのが本気 度なのである。 本気に為れば、人間は自(おの)ずから、坐禅に赴(おもむ)くものなの である。 坐禅は、善行中の至善である。 其の気に為れば、一日二十四時間の中、十分でも二十分でも心掛け るだけで、其の人の二十四時間を制するのである。 原爆抑止力では、人類三毒(貪・瞋・癡)を募(つの)らせる事しか出来 ない。愚策中の至愚である。 要は、其の気が生じるか、否か。 本気に為れるか、否かだけの事である。 『為せば成る。為さねば成らぬ何事も。成らぬは人の為さぬ也けり。』 人類三毒(貪・瞋・癡)への自覚が無い。 大脳新皮質は、進化を遂げ、前頭葉に菩提心を生ぜ使めたのである 。菩提心を契機として、坐禅為る方向性、是が即ち釈尊であり、達磨 に他ならない。 何時でも、誰でも、何処でも、一冊の説明書さえ有れば、即可能である 。 此の菩提心が、宇宙物質エネルギーを人類に発動せ使め、人類をし て、大脳新皮質自体を否定し、涅槃に回帰せ使めたのである。 人類の菩提心は、宇宙の太陽である。 菩提心の目的は、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)回帰である。 菩提心無き国家は、三毒(貪・瞋・癡)国家である。 菩提心有りて初めて、世界人類の幸福と平和と繁栄が可能と為る。 是迄人類は万物の霊長足る進化を遂げたが、更に身は心としての進 化に至り、大脳新皮質由来の心は菩提心を生ぜ使め、是によりて菩 提心は其の大脳新皮質自体の機能を涅槃化せ使めたのである。 涅槃化とは、瞑想に端を発し、三毒為る自己に菩提心生じ、ヨーガ行 為る求道は禅定、成道、つまり「悟り」、「解脱」、「涅槃入り」と、我等が 母体為る「宇宙(生命)の本質」への段階的帰一の進化を経て、宇宙 其のものに回帰したのである。 斯(こ)うした進化を遂げる過程に於いて、進化すればする程、其の関 門は困難であり、最終的、涅槃回帰に至りては、正に奇跡以外の何も のでもない。 是等は総て、現状の否定であった。 涅槃回帰に至りては、此処に至る迄の乗り物であった坐禅其のもの、 極佛行(=後行)其のものを正に、否定したのである。 是は、小生『最後身心』独り、空前絶後にして、最終的に宇宙の真理を 透過し得た奇跡であった。 此の奇跡を生ぜ使めた物(=エネルギー)は人類の方には在り得ない 。 宇宙物質(=質量)エネルギーに他ならないのである。 宇宙には、地球等以外には、生命は全く存しないのである。 アインシュタインの相対性理論(E=mc2)により、 エネルギーに可換為る物質質量によるエネルギー以外には、極佛行 (=生涯後厳密千日涅槃行)を否定し得る突然変異の如きものは在り 得ないのである。 従前の一切合切を否定して、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」に回帰し 得たのである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の真理 に基づいて、斯く在ら使められ ているのである。 《 「心の進化」と 学問 》 「心の進化」に於ける、刹那の不連続性、「宇宙(生命)の本質」(涅槃) へ開け往く人心(=涅槃妙心)への 第一段階である「悟り(身心脱落)」の前後は、刹那の不連続為る進化 である。又、 第二段階である「解脱」であり、 最終段階の「涅槃入り」による、宇宙(=涅槃世界)への解放である。 是等総て、前後際断せる、不連続的、心の進化なのである。 此の真実を、如何なる数式で以ってしても、科学的に証明し、或いは 芸術的に表現し得たとしても、其れ等は視覚的、或いは聴覚的等の 五感に基づくものに過ぎないが、心の進化足る是等の諸段階的体験 は総て坐禅中の体現である。 真理を得るには坐禅以外に無いのである。 孔子の『論語(里仁)』に、 『朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可也』とある。 道とは真理の事である。 人類は、唯、真理を信受し、人類三毒(貪・瞋・癡)でなく、人類三善根( 施・慈・慧)に基づいて、人類諸能力を世界人類の幸福と平和と繁栄 の為に生(活)かさなければ為らないのである。 《 今 》 大前提為る始終不明為る、際限無き時空裡の一点の自覚と、此の時 空的拡散。 宇宙の調和と均衡と静謐(ひつ)(=質と云う完結した量)エネルギー が真理(涅槃)エネルギーであり、是が世界人類の幸福と平和と繁栄 の構築、完遂エネルギーと為るのである。 是は世界を分断するエネルギーではなく、世界が其れに基づく処の 団結エネルギーである。 是は、宇宙の永久機関足る、刹那生滅する物心の進化する処の 涅槃化エネルギーであり、又小生をして、『最後身心』足ら使めた処の 体現エネルギーでもあった。 《 人類存続要件を超越して 》 人類の生理(本能)的欲求である、睡眠欲、食欲、性欲の中前二者は 禁欲不可能にして、元来、少欲・知足足るべきものである。 性欲は種の存続に不可欠為るものではあるが、 是は坐禅と良く似ている。 初めは、坐禅で自己を律すれば、非常に困難であるけれども、 禅心、つまり常に人類を真に生(活)かさんとする心は根源的に其れを 凌駕しているのである。 坐禅中程の安楽は世の中には在り得ない。 「解脱」して、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に接触して、水と油足るので ある。 「解脱」して、刹那に宇宙の調和と均衡と静謐為る心を初めて知るの である。 「解脱」、更には「覚天」による「涅槃入り」が人心の頂点であり、 人類史為るものは、正に此の「涅槃」に収束振動の進化の途上にある のである。 世界人類の幸福と平和と繁栄の構築と完遂への涅槃妙心智慧の実 践あるのみ。 人類存続要件は正に克服されるべきものであり、是等を超越した 、宇宙の真理に帰一しなければ為らないのである。 《 人間の見極め ―反省 》 人間を見極めるには、過去の反省が為されているか、否かである。 是は人間に止(とど)まらず、世界人類史に於いても全く同様である。 「完璧」と云う事は、自己(国)だけが完璧である事と、 全体(世界)が完璧である事と在る。 真実は、自己(自国)と全体(世界)、つまり個と全とは分断して居るも のでなく、全の中の個であり、個に基づく全なのである。 是等、全と一の双方が両立して居る在り様を『全一』と云う。 つまり、宇宙と自己が、宇宙に回帰し得た自己(=涅槃人)である事だ 。 又、世界と自国とが一体であると云う事である。 此の『涅槃人』でさえ、世界人類が回帰し得た訳ではない。 回帰し得た人間は『最後身心』独りである。 故に、『最後身心』でさえ、完璧志向の人間なのである。 況(ま)して、一般の人間が完璧と云う事は、 唯、自己に対する反省が為されていない証拠である。 人間と云う者は、常に完璧志向にして、完璧途上に在ると云う事であ る。 何と為れば、宇宙とは、涅槃世界への永久機関である が故に。 「完璧」を言う人間は、自己に対する反省が至り得ていない事を露呈す るに過ぎない。 常に反省の連続であってこそ、人間は世界人類の幸福と平和と繁栄 に向かって進化していると言えるのである。 《 男 と 女 》 男と女とは、一対一に過ぎない。 世界は一と全である。 全一的在り様を知るべきである。 男女を世界と混同しては為らない。 世界は男女の延長線上でなく、真理に基づく心的進化の高次元為る ものである。 朝鮮半島を生(活)かす事が、世界を生(活)かす事と為る。 是、真理の発動である。 《 確 心 》 小生が今に為って、初めて確心した事がある。 是迄、ずーっと思って、否(いや)信じて来た事であった。 しかし、今に至って初めて、ハッと気が付いた。 然(さ)もなくんば、100%可笑(おか)しいと。 中夜寂然として声無く、釈尊は、般涅槃に弟子達に略して法要を説か れた。 『……汝等、且(しばら)く止(や)みね。復(ま)た語(もの)言う事得る 事勿(なか)れ。時将(まさ)に過ぎなんと欲す。我滅度せんと欲す。 是、我が最後の教誨(きょうげ)する処也。』と般涅槃された。 最期に、斯(か)くの如く吐露された釈尊の、此の真実の実状を確心 出来る者は、小生『最後身心』でなければ不可能である。 小生ですら、今初めて此の真実を確心するに至り得たのであるから。 つまり、皆、自己為る者は有機的構成態の一つであると云う事である 。シーンと静まり返っていたにも拘らず、釈尊の心の中には、真実に違 (たが)う、迷妄為る世間の声が騒(ざわ)めいていたのである。 吾師、伴老師は、『全部、嘘だ!』と吐露された。 小生にして、今、総てに納得がいくのである。 斯く、我々は有機的構成態の一つであるが故に、其の構成態裡に 共鳴する騒(ざわ)めきを聞くのである。 此の真実を確心するに至り得るには、無我為る宇宙に回帰し得てい なければ不可能である。 100%の無我にして初めて、其処に確心と云うものが生じ得るのであ る。 人類には、普段は無意識裡に、此の心の騒(ざわ)めく声と云うものが 、老若男女に拘らず、心に生ずる事がある。 しかし、真理と、其の騒(ざわ)めく世界とを明確に、超科学的把握で 為し得るのは『最後身心』でなければ不可能である。 故に、釈尊は最期に『汝等、且(しばら)く止(や)みね。復(ま)た語(も の)言う事得る事勿(なか)れ。』と吐露されたのである。 此の、心中に生ずる騒(ざわ)めきの声と云うものは、人類の身に由来 するものであり、心の進化に逆行するものである。 世間としては、其れが事実ではあるけれども、真理からすれば、其れ は三毒(貪・瞋・癡)(=身)由来の、二元相対世界の声に過ぎないもの である。 世界人類の幸福と平和と繁栄の構築、完遂には、宇宙由来の真理、 そして其れに基づく処の、宇宙に回帰した自己由来の規則性が不可 欠なのである。 世界人類の成熟度 は米中露非核和平 条約締結に尽きる 《 自活心と他活心 》 自活心(=自己を活かさんとする心)と他活心(=他を活かさんとする 心)の活かさんとする心の方向性が自と他に相違している。 しかし、是等双方の根は一(ひと)つである。 此の根源は、双方に作用する処の根本の心である。 是が、全体を生(活)かさんとする心である。 全体の中に自己も在る。 何者にも拘(こだわ)らない、自由為る心である。 全体を生(活)かす為に、機能する心である。 其処に、生(活)きた規則性が在り、生(活)きた涅槃妙心智慧を生む のである。 《 人間の質 ( たち、quality ) 》 此のコロナ禍は、世界人類に自己の質(たち)を見直す機会を与えた。 つまり、成熟していない自己は、自己を然(そ)の様に根底から自覚し たであろうし、成熟した自己は、自己の使命、「人を生(活)かす」を思う 本源の心に接し得たであろう。 此の自己の自覚は、根源的問い掛けを与えた事は疑わざる事実であ ろう。 自己を生(活)かすも、殺すも自己の心一つである。 是は不可避なる事実である。 斯くして、人間の業為るものは、人類の質(たち)の自然淘汰も果たす べく因果業報為るのである。 《 真善美 》 真善美は我から生ずるものであり、坐禅道は是等の根底で、是等を超 越した世界である。 是が西洋と東洋の根本的相違である。 前者は真善美の探究の結果としての現異常事態である。 後者は真善美の根底を透脱した世界の涅槃一路である。 西洋は東洋の釈尊の手掌上の悟空である。 《 白と灰と黒 》 七仏通誡偈(釈尊までの過去七仏の共通した教え)。 諸悪莫作 諸(衆)善奉行 自浄其意 是諸仏教 是等四句中、要は衆善奉行である。 此の一句で全てを言い尽くしている。 只管、諸々の善事を行じ切る、徹底した菩提心の実践在るのみ。 是、世界人類通誡の『教え』である。 例えば、核拡散防止条約は諸悪莫作であり、 核兵器禁止条約は衆善奉行である。 世界人類が如何に諸悪莫作(=諸々の悪を為さない)を遣っても、 世界は決して白くは為らない。真っ黒が真っ黒でなく為るだけ。 核兵器禁止条約であれば白。 三毒列強の損失に為る事は、団結して動じ様としない。 斯(か)様な次第で、三毒列強の衆善奉行が至難中の至難事なので ある。 如何しても、三毒(貪・瞋・癡)が三善根(施・慈・慧)と為らない。 自国の利のみを追求する慣習、習癖から脱却出来ないのである。 三毒に基づく団結でなくして、団結すべきは三善根に基づく団結であっ てこそ、団結の意義と云うものがあるのである。 支離滅裂にして、真正な根拠に欠く。 仏道に於いても、最も普遍的為る真正の根拠は、宇宙の真理に基づく 事である。是こそ、真正なる白。 黒から白への移行には、僧侶の正法苦行でなければ至り得ない。 更に、其処に必然的奇跡が不可欠である。 然るに、此の永遠に不滅為る恒常普遍の真理によりて、既に人類が 是から逸脱する事は宇宙を敵に廻す事に等しい。 此処に、「涅槃」への収束振動の必然性の真価が在るのである。 ミャンマーも斯く在る事を深く期待するものである。 《 米国民の恥 》 米国のコロナ感染者数が収束しない根本原因は五百年来の一連の 奴隷化と植民地支配と原爆支配に基づいた繁栄にある。 其れ等は人類悪の根源為る三毒(貪・瞋・癡)に由来する。 日本は唯一の二度の原爆投下により、灰の中から完全に生まれ変わ って、〇(ゼロ)から質直堅実に直向(ひたむき)に再建を果たして来た が、米国は、更に、原爆実効支配体制構築、完遂を、日本支配により て果たした。 此の一連の米国の傲慢さと恥の知らなさと云う人間的欠落が、いざ コロナ禍に対して、従来の米国民の勝者としての、其の特質が今の 結果を招来して居るのである。 因果の道理歴然として私無し。造悪の者は堕ち、修善の者は陞( のぼ)る。毫釐(ごうり)も違(たが)わざる也。 力と能力によって、他を制圧する生き方に起因する処の悪業報である 。 人間と云う者は、徹底して痛い目に合わなければ、容易には其の本質 には至り得ないものである。 故に、釈尊の断食苦行から中道が生まれ、 小生鐵漢の生涯後厳密千日涅槃行から真中道が生まれたのである。 駿馬は鞭(むち)の影を見ただけで走り出す。 核兵器禁止条約を締結するだけの実行力が有れば、 現コロナ禍に因る感染者数も収束するであろうが、英国の行動力に期 待する。 小生も、宇宙の調和と均衡と静謐に回帰した後、其れと一つに為るの に、どれだけ収束振動しなければ為らなかったか、困難である事は確 かである。 言い訳と屁理屈で、中々予定通り、ストレートに収まらない。 結果として現成して居る、宇宙の「涅槃」為る調和と均衡と静謐に至る 迄の如何に困難であるかと云う事である。 其処に至り得る迄には、唯、菩提心有るのみ。 此の菩提心で、微妙為る、此の『宇宙との違(たが)い(=ズレ)』を修 正し往くのである。 嘗ての三毒(貪・瞋・癡)によりて勝ち得た栄光(傲慢)が親子間で、或 いは代々と受け継がれて来ており、人類に本有する三毒為るが故に、 其処に疑いを挟む余地も無き儘に大人に為って来ているからである。 子供の頃から身に染み付いた環境(=国民性)に疑いを抱くのは容易 ではない。 其処に、宇宙の真理に違(たが)える、人間としての隙が生じて、分断 も含めて、今に至っているのである。 故に、此処に気付くのは、一度死に切って、根源的反省が為されなけ れば為らないのである。 温存と保身と忖度の延長線上に在るものは責任回避に起因する処の 取り返しの付かない、恐ろしき地獄に他ならない。 是を癡 と云うのである。 世の中に善悪無し。 小生の『最後身心』に基づくを以って善と為す。 只管、自今已後、収束一路在るのみ。 《 宇宙(太陽) と 我々人類 》 太陽は我々人類に、絶えずエネルギーを注ぎ込む。 我々人類は、其れによりて無量の智慧を生み得るのであり、我々人類 には、此の太陽の恩恵に対して、此れを生(活)かし得る制御・管理シ ステムが不可欠であり、是無くんば、我々人類は必然的に、此の機能 系統に不備が生じてしまうのは不可避である。 同様に、智慧に対する管理システム構想への心構えが不可欠なので あり、是は我々の日常生活に於ける、生きる心構え、態度であり、是 には、湧出エネルギーに対する管理システム、つまり、其れに対応す るだけの、厳密為る細心の配慮が不可欠なのである。 是無くんば、我々は、其の機能系統を維持し続ける事は出来ない。 湧出エネルギーに対する必要最低限の配慮である。 大い為る自然の湧出エネルギーに遜色無き対応能が、我々人類 足る価値である。 我々は、自然に対する畏怖の念を忘れれば、正念喪失してしまうので ある。 国家(人(類))対国家(人(類))間の、対立、分断でなく、 宇宙(太陽)に帰一する国家(人(類))間の団結である。 人類は個人レベルでなく、国家レベルで、更には世界レベル、更には 宇宙レベルでの生活の取り組みでなければ、涅槃現成 為り得ないの である。 何と為れば、人類の成り立ちは、元来、宇宙(太陽)を母体として成立 したし、して居るが故に、地球を母体とし、世界人類を母体として生き て往かねばならないからである。 マクロレベルで、ミクロレベルの配慮が不可欠と為らねば、やがて必ず 失策する。 然るに、マクロもミクロも究極的に実在しない限り、元来無き物であり、 元来無き者が、無き者に如何に限定しても、此れは決して限定し得な いものであり、仮令(たとえ)限定したとしても、其れは虚空に釘を打つ 様なものである。 自然は絶えず刹那生滅し往き、頭脳は停滞する。 頭脳も自然と伴(とも)に、常に刹那生滅し去って居るのが真実の在り 様なのである。 肝心な事は、虚空に釘を打つのでなく、宇宙に帰一する 事なのであ る。 正に人類の存在自体が奇跡であり、此の奇跡裡に生ずる事も亦奇跡 である。 我々の為すべき事は、奇跡為る真理を只管(ひたすら)信受し、 そして生(活)き、生(活)かすのみである。 《 日本主導、涅槃世界への心の進化 》 日本は世界人類の将来を決定付ける運命を担っているのである。 正法苦行(後行)による『最後身心』の必然的奇跡がなければ、其の 真実(理)に至り得なかった。 此の、刹那の奇跡によりて、宇宙に、「人類の生命の何足るか」が、 空前絶後に、人間の意識に明確と為ったのである。 つまり人間が宇宙に回帰し得て初めて、宇宙と人間が一つと為り、 無我為る「太陽の心」足り得たのである。 是は、力と量との問題では解決の付かない、質の問題なのである。 質に間違い無ければ、量は一個で宜しい。 人間と云う者は、質に至り得ないが為に、力と量の二元相対世界から 脱却し得ず、敗壊不安為る生涯で終わらざるを得ないのである。 宇宙の真理に基づいて、人類は「涅槃」に収束し往く正道を歩み得た のである。 日本主導為るべし。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)の真理に基づいて初めて、 世界人類の幸福と平和と繁栄の構築と完遂への進化を先導し得るの である。 《 究竟菩提心取捨に拘らず 》 人間は取るか、捨てるかではない。 太陽である。 太陽に取る事も、捨てる事も無い。 三善根(施・慈・慧)、涅槃妙心智慧に基づき、三毒(貪・瞋・癡)執著を 離脱している。 ものが無ければ、影を生じない様なものだ。 正法苦行によりて、人間は「解脱」以前に、三毒(貪・瞋・癡)を根絶し、 「解脱」、「覚天」は、人類を永遠に制する。 《 癡愚者と智慧者 》 人類は、貪為る存在であるが故に、小生鐵漢は宇宙の真理、「涅槃」 に回帰し得たのである。 動物に貪無きが故に、「涅槃」知らず。 人類は貪と伴に、其の有害無益を知る。 故に、智慧者は、三毒(貪・瞋・癡)を三善根(施・慈・慧)に転了してい る。 癡愚者は、飽く迄も三毒(貪・瞋・癡)に執著して有害無益に死滅する。 智慧者は、其の癡愚を知り、地獄を涅槃に転ず。 《 善悪の彼岸 》 善悪の判断は時処位によりて、其の二元相対的判断に基づき、普遍 的為る基準は存在しない。 人文科学(哲学、倫理学)や宗教的に善悪について論じられている。 道徳的、宗教的……為るものが、夫々の時処位に応じた、特異的判 断基準が存在するであろう。 無分別 ―→妄分別―→分別智―→無分別智―→涅槃妙心智 (動物) | (三悪趣) (三善趣)| (仏) (真理) 動物本能界| 地獄・餓 | 善悪界(菩提心) | (菩提心) | 鬼・畜生界 | | [三毒(貪・瞋・癡)] | [三善根(施・慈・慧)] 原爆無くんば、真理には至り得なかった。 原爆とは我々人類の根源悪の三毒(貪・瞋・癡)害の至極悪である。 原爆は過去の物と為り得るが、真理は、在り哉(や)否哉(や)の、永遠 為る至極善である。 従って、或る意味で、原爆は我々人類が「涅槃」為る宇宙の真理に至 る必要極悪であった、と言わざるを得ない。 然(さ)も無くんば、釈尊中道に基づく、吾師伴老師から小生鐵漢の真 中道への奇跡は永遠に生起し得なかったのである。 此の釈尊中道から、小生の真中道、更に今に至る迄、其処に一貫して 居るのが、我々人類に最も根源的為る、世界平和への問い掛け、即 ち菩提心 なのである。 つまり善悪の見極めは、其れが普遍的為らざる個別的価値判断に基 づくものか、或いは普遍的、世界人類の幸福と平和と繁栄に基づくも のかに懸かっている。 我々 人類の諸能力の根底を為す人類三毒(貪・瞋・癡)為る我執 に由来するものか、或いは其れを「解脱」し、無量の菩提心に支え られた、三善根(施・慈・慧)に由来するものかである。 然(さ)も無くんば、永遠に不滅為る恒常普遍の真理には至り得ない。 其れによりて、善とも悪とも判断し得ると云う事である。 菩提心 とは、人類三毒(貪・瞋・癡)が、アインシュタインの相対性理 論(E=mc2)により、エネルギーに可換為る物質質量によるエネルギ ーに由来する「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しとの化学反 応によりて、涅槃為る「宇宙(生命)の本質」の涅槃妙心由来の三善根 (施・慈・慧)志向の精進を発菩提し、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に帰 一せんとする心である。 釈尊成道後、仏道が三~五世紀のエジプトのキリスト教徒達に、修道 と云う行を生んだが、やがて殆ど世俗化し消滅した。 精進無き神の信仰は虚構に過ぎない。 《 森 発 言 》 今回の森元首相の女性蔑視発言は、日本女性の真価を顕現するに 至った。 男女同権と云うよりも、寧ろ中枢男権が危ぶまれるの観在り。 温存・忖度・保身は男性の方に、特に、其の傾向が強い。 令和三年、益々、日本に期待される。 《 坐禅の功徳 》 坐禅の功徳は、小生が始めて坐禅を組んだ瞬間から始まっているの であり、其れ以来、其の恩恵に浴している。 当時は、其れは静穏にして安楽為るもので、兎角(とかく)哲学的に為 りがちな人間の実存が、坐禅と云うフィルターを通すと一変して、其れ は別次元の世界に転じるのである。 其れは、此の世の如何なるものからも体験し得ないものである。 流石(さすが)に、バラモン文明であり、釈尊なのである。 「好きこそ、物の上手なれ」で、坐禅こそ真理に浴する当体である。 後は、物の問題であるが、是は政策であり、生きる策(=生き方)であ る。悪事を犯さない限り、自(みずか)ら、万策を講ずる以外無い。 坐禅の功徳は、恒常普遍の真理為る、宇宙の調和(=涅槃)に由来す るものであり、是が「宇宙(生命)の本質」である。 是に回帰し得た状態が世界人類の平和である。 《 上求菩提とは 》 小生十五、六歳の頃、求道や宗教以前の、何か在る(筈だ)と云う掴 み様の無い予測めいたもの(前兆)が心を占めていた様な気がする。 其れが何であるのか、全く見当も付かない。しかし喉元まで、其れが 及んでいる様な気がするのである。 様々なる試行錯誤を経て、生命を求めて医学部に入学し、専門課程 に入ると共に、其の期待感は消え失せた。 其れから、背水の陣で本気で、最も相応(ふさわ)しき道を決めるのに 、宗教で、坐禅に見出したのである。 しかし是は科学的判断で、未だ求道心でも菩提心でもない。 「掴み処の無い、予測めいたもの」に相応しい道の選択であったのだ。 其れ故に、真理に至り得た小生『最後身心』は是を、「宇宙(生命)の 本質」(涅槃)からの促しの自心への投影※と受け取るのである。 其処に、「悟り」生じ、「解脱」し、「覚天(涅槃入り)」が在るのである。 其れは、自(おの)ずから現実の人々の在り様に及び、其の為の打ち 出しと為る訳である。 前項目の《 坐禅の功徳 》で述べた様に、心中で、医学を坐禅に転じた のが菩提(求道)心であり、是を以って発(菩提)心と為し、発上求菩提 と為す訳である。 小生は発(菩提)心以前の「坐禅の功徳」の段階で、既に「悟っ(身心脱 落し)た」。 上求菩提無き下化衆生は在り得ない。 本来、上求菩提は自己の生命の真実に対する問い掛けである。 此の問い掛け自体、人類の最も普遍的なる疑問である。 故に、此の問いの正解を得る事は、人類に普遍の救済に他ならない のである。 生命の真実の第一歩が坐禅の功徳である。 是が、「悟り(身心脱落)」への導入期である。 「悟り」は究極的「涅槃」為る「宇宙(生命)の本質」への接近である。 「解脱」が接触。「覚天」が回帰。 下化衆生は、噴水の如し。頂上の水勢は下る以外無いのであり、 自然(じねん)為るものである。 宇宙(回帰)の自然な働きである。 上りは労する。小生、古希迄労した。 下りは自然(じねん)。本質的に労しない。 只管(ひたすら)、知るのみである。 言語中枢三昧。 言語化によりて認識が及び、「真遺教」為るのである。 小生の従前の認識は、、すべて真理無きものに過ぎないが故に、 開け足る真理の前途は限り無いのである。 然るに、人類は其の認識には至り得ないが、 『朝に道を聞かば、夕べに死すとも可也』とある様に、 真理を聞き、信受してから、本腰が始まるのである。死ぬ処の事では 済まされないのである。 真理への信が人類の信頼を生み、団結を生み、根源悪の三毒(貪・瞋 ・癡)を制すのである。 真理への信頼に基づく世界団結である。 是によりて、世界人類の平和と繁栄の構築、そして完遂一路が可能と 為るのである。 〔※―古代インダス文明に於ける、世界一豊穣為る農耕生活者に瞑 想を生む、更には其の集落からの社会構造化と共に生じた三毒(貪・ 瞋・癡)の三善根(施・慈・慧)へ転ずる誘因足る、小生の十六才位か ら、坐禅に往き着く二十六才位迄の略(ほぼ)十年間の、アインシュタ インによる宇宙の物質質量に可換為るエネルギー(=フロイト、ユン グのリビドー)に由来する「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しによ りて、三毒を本有する人間の心に投影された、ヨーガ苦行への菩提心 発現(=発菩提心)の源足る影であったのだ。〕 《 フロイト精神分析学とユング分析心理学 》 心理学の開祖はアリストテレス(古代ギリシャ、哲学者) 「心は脳髄に在り」 (ソクラテス(BC5)→プラトン→アリストテレス(BC4)) ルネ・デカルト(十七世紀、仏、哲学者、数学者) 合理主義(近世)哲学の祖、「我思う、故に我在り」 哲学から心理学が生まれた。心身二元論 ウィリアム・ジェームズ(1842~1910、米、哲学者、心理学者) 「心理学の父」、『宗教的経験の諸相(1901)』 『プラグマティズム(1907)』。 西田幾多郎、 夏目漱石、内村鑑三等が影響を受けた。 『宗教的経験の諸相(1901)』によりて、後、トランスパ ーソナル心理学を生む事と為った。米国の代表的哲 学者であり、トランスパーソナル心理学者でもある ケン・ウィルバート(1949~ )はトランスパーソナル 心理学の代表的論客である。 フロイト(1856~1939、オーストリア、精神科医、精神分析学創始 者、無意識研究、リビドー(性的エネルギー)論) 七十歳の誕生日に、アインシュタインから祝電と共に次の一 つの質問が届いた。 「人には他者を攻撃しなければ為らない理由があるのではな いか。」と。 当日、フロイトは、次の趣旨の演説をした。 「我々は外見上の成功に欺かれて、自分を見失ってはならぬ 。」と。 フロイトは、マルクス、ダーウィンと並んで二十世紀の思想に 大きな影響を与えた。 フロイトの「力動論」や「リビドー」の概念はエネルギー保存則 を元にして居るとも言われる。 彼の性的一元論は次のユングによりて進化を遂げた。 ユング (1875~1961、スイス、精神科医、心理学者、ユング分析 心理学創始者) ニーチェ(1844~1900)(『ツァラトゥストラは斯く語りき』等 )に感銘を受けて、近代心理学を受け入れる(=専攻する) 準備をした。 フロイト(1856~1939)と親交があった。 1951年、鈴木大拙氏と親交を結ぶ。 ユングがフロイトと訣別した理由は、フロイトがリビドーを性(反理性) 的なものと見做したのに対し、ユングはもっと一般的な心的エネルギ ーと見做した点だ。更に無意識に対しても、フロイトの様に快感原則 に支配された反理性的なものとは考えず、寧ろ意識を補償する積極的 、肯定的な機能を持ったものと見做す一方、個人的無意識と並んで人 類に普遍的な集合的無意識を仮定した事である。 ユングは「補償」の考えを背景に東洋思想や神秘主義にも興味と理解 を示し、其の事も在って、其の学説は文学をはじめ多方面の多方面の 人文科学に影響を及ぼしている。 フロイトの言う「無意識」は個人の意識に抑圧された内容の「ゴミ捨て 場」の様なものであるが、ユングの言う無意識とは「人類の歴史が眠る 宝庫」の様なものである。 ユング心理学(分析心理学)は個人の意識、無意識の分析をする点で はフロイトの精神分析学と共通しているが、個人的な無意識に留まら ず、其の奥底には個人を超え人類に共通しているとされる集合的無 意識(普遍的無意識)が存在すると考えた。 ユングは人間の成長過程を「個性化の過程」と呼び、全ての人間が経 験する処の、意識と無意識の調停作業とした。 ユング分析心理学に於ける影は、其の人の意識が抑圧したり、十分 に発達していない領域を代表するが、又未来の発展可能性も示唆す る。其の人の生きられなかった反面をイメージ化する力と言えよう。 影は否定的な意味を持つ(しばしば悪や恐怖の対象としてイメージ化 される)場合が多いが、此の否定性を乗り越えて、自己を発達させね ばならない。 其れは影を無意識の世界に追い遣るのではなく、寧ろ影との対決、影 を自分自身の否定的側面、欠如側面と意識化し、影を自我に統合す る事が、自我発達の道であり、自己実現の道(個性化の過程)である とユングは唱えた。 河合隼雄(1928~2007、心理学者、京大名誉教授) 日本初のユング研究所 《 人間生命の心理学的解釈 》 オーストリアの心理学者フロイトは快を求め、不快を避けようとする 快感(=快不快)原則、又欲動の充足を延期する能力の現実原則を定 め、快楽原則から現実原則への変化は、欲動の昇華とした。 涅槃原則は「死の欲動の発現」と捉えた。 虚無主義(ニヒリズム)に陥る。 米の人間性心理学者マズロー は「自己実現理論」(「人間は自己実 現に向かって絶えず成長する。」)の仮説を立てた。 ピラミッド状の階層を為し、人間の欲求を底辺から、 生理的欲求→安全の欲求→社会的欲求→承認(尊重)欲求→自己 実現の欲求(→自己超越の欲求(五十年程前の晩年に、「永遠の哲 学」のトランスパーソナル心理学はフロイト等が其の土台と為る))と 定義し、トランスパーソナル心理学会を設立した。 米のトランスパーソナル心理学者、ケン・ウィルバー(1949~)は 心理学の範疇を超えた、アメリカを代表する哲学者でもある。 「フロイトと仏陀を結合させた。」 自己(世界)を生か せるは自己だけ 余時間百%生かす 大の柔軟、 TVと小の厳密 《 「覚天」前後の変化 》 小生「覚天」して一年五ヶ月に為るが、其の前後で、小生の日常の変 化は先ず第一に、坐禅をしない。そして仰向けに為って睡眠を取る。 次は、ホームページ公開に専念した事。 そして、厳密二十四時間が、托鉢(十一時)と就寝(十一時)と夕食後 片付け(八時半)は殊更に注意した規則正しい生活に為った事である 。そして最後に、小生が有機的構成態と称したものであるが、坐禅行 しなく為って、やがて大脳新皮質三昧に為って、淫快を生じた事である 。是は生涯後厳密千日涅槃行の結果止むを得ぬものと判断したので あるが、又敢えて避けもしたが、如何しても止むを得ぬ。 それで、全く構わない事にしたのである。 然(さ)も無くんば、人類は人間破壊に陥るであろう。 人類存続に不可欠為るものが、大脳新皮質で消滅するものでは無い のである。 斯く為る次第で、性に関するものは小生位に為ると、自由自在ではあ るが、宇宙の真理に基づけば、後は構わ(=拘(こだわ)ら)なければ 宜しいのである。 《 デニ・ムクウェゲ氏 》 国連と云う原爆支配体制組織であっても、コンゴ等の世界に蔓延する レイプ(強姦)等の性暴力に対する世界的法規制の強化を真っ先に、 世界が一丸と為って図るべきである。 是こそ指導者達の使命である。 G7の日本が世界を主導する国家として、発案しないのは不合理であ る。 産婦人科医デニ・ムクウェゲ氏の功績に報いるべく、人類の恥を次世 代に負わすべきでない。 為し得る最善を尽くさねば為らないのである。 即刻、新世紀の今、世界規模で一気に対応しなければ為らない。 人間性を破壊しかねない、悪意による日常茶飯事的、暴力的人災の 最足る、放置され得べからざる、解決されなければ為らない重大課題 である。 日本国内の女性差別問題に敏感である今、世界規模である女性への 暴力に対して発言しない事は無いのである。 世界の政治家の三毒と差別に対する自覚に基づく連携強化を図り、 一気に対処すべく、世界を主導しなければ為らない。 世界の知恵の最先端が、宇宙の遥か彼方にまで出かけて行って、 学問的探究の覇権に労する力が有れば、せめて地球上の人間破壊 に至る地獄を直視するだけの人間性を忘れず、世界中の「見捨てられ た弱き女性達を生(活)かす」のが世界の指導者達の真の使命なので はないのか? 非核が及ばないから、レイプも禁止出来ないではない。 レイプを禁止出来れば、非核も為るのである。 『為せば成る。為さねば成らぬ何事も。成らぬは人の為さぬなりけり。』 要は本気度である。 早い程、解決が早い。 「解脱」は地上を覆い 宇宙真理が世界を包む 令和三年 人類新世紀の黎明 「涅槃」為る 宇宙の調和と静謐への 世界人類の平和と繁栄の 構築と完遂一路 《 世界人類涅槃化の実態 》 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰し了(お)えた『最後身心』は、 如何為る人間も、宇宙の調和と静謐為ら使める。 是も、すべては坐禅による、「覚天」以前の、生涯後厳密千日涅槃行 為る極佛行の賜(たまもの)である。 小生鐵漢が『最後身心』として、初めて至り得た真理(=宇宙)は世界 を包摂する。 ニーチェが『超人』を打ち出した如き、 大脳新皮質による従来の文化的偉人達とは一線を画して、 正法苦行による宇宙の真理の体現に基づくものである。 「真理」は真理為るが故に、人間世界の万事に於いて、其の真道を打 ち出さねばらない。 従来、未だ「真理」に至り得ていなかったが故に、 令和の新時代は、人間世界の真道の黎明期である。 《 世界の真実 》 世界人類に核兵器が不可欠であると云う神話は、 バイデン氏が、人間を信じられない事によるものである。 しかし、世界人類が、人間を信じる方向性を開示しているではないか。 人間を信じる世界人類の中で、唯バイデン氏一人の人間への不信感 が人間を信じる(=受け入れる)、世界人類の平和を希求する真心を 殺しているのである。 此の不信感が、世界中の最後の一人に及ぶ迄の宇宙の真理を受け 入れられないで居る。 バイデン氏は語るだろう。 「人間の三毒(貪・瞋・癡)が消えないではないか。」と。 『最後身心』は告げる。 「三毒(貪・瞋・癡)を三善根(施・慈・慧)に転じた人間ばかりではない か。 如何(どう)して貴方は人間の三善根(施・慈・慧)を信じられないのか。 貴方は人間の三毒(貪・瞋・癡)を信じる。 宇宙は人類其の者なのである。 我々人類が成立して居るのは、我々人類が宇宙其の者であるからだ 。其処に不信感が入り込む余地は無い。 人類の進化は真実(理)なのである。 真理とは調和と静謐である。 調和と静謐には不信感の一欠(か)けらも在り得ない。 宇宙回帰は真実であり、 真実が宇宙回帰なのである。 恥ずべきは、人間が信じられない心其のものである。」と。 《 菩提心は三毒を超越している 》 菩提心は、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しによりて投影され た三毒(貪・瞋・癡)の(発(菩提)心足る)影である。 影と、影を生んだ障害物とは別物である。 (「解脱」に至る)菩提心と三毒(貪・瞋・癡)とは別次元である。 正法苦行の坐睡が「解脱」への正道である事よりも明らかである。 「解脱人」でもなき一独裁者によりて、世界、七十七億の人間の命運を 意の儘に、左右するのは決して在るべからざる事である。 人間は「涅槃」為る「宇宙(生命)の本質」を信じて、斯(か)く在れば、 世界中の諸悪は、やがて自(おの)ずから消滅するのである。 是が涅槃に帰一する収束振動為る心の進化の真実である。 宇宙は進化し往く物でありな がら、其れに違背するのが 人類であり、最も困難な事が 心の進化である。 《 パワーバランス 》 米国と中国とは、相互に能力的に世界人類の代表者としての自覚 を持たねばならない。 此の新時代に於いても、未だ基本的なる此の自覚さえ不明確である。 国家間のパワーバランス(=勢力的均衡)目的でなく、(世界的)調和 に基づく静謐である。 パワーバランスとは「悪を犯さない」である。 消極的で受動的である。 能動的に、より積極的に「善を為す」べきである。 「善を為す」とは、「生(活)かし合う」 事である。 世界平和の為の調和である。 調和の為には、相互に「生(活)かし合う」精神が不可欠。 「生(活)きる」とは「生(活)かす」である。 「生(活)かせ」ば「生(活)き」る。 然(そ)う云う様に、宇宙は為っているのである。 「張り合う」のでない。「生(活)かし合う」のである。 基本的に、是を根本と為すべし。 国家間であろうが、個人間であろうが基本的には同様。 《 勝つと云う事 》 “勝つ”は負ける。 “勝つ”を究盡(ぐうじん)し尽くして、“勝つ”が無いのが勝つ。 飽く迄も、究盡し尽くした究竟である。 如何なる人間でも、其処(そこ)迄はしないであろう。 放棄するか、潰(つぶ)れるか、死ぬかである。 武蔵でも剣を捨て切れなかった。 絶対不滅為る“勝利”とは如何なるものか? 柔軟心にも至り得るべきである。 《 可能為る真理の概略 》 「坐禅(の功徳)入り」は物理学上の反世界の体現か。 「悟り(身心脱落)」は二元相対世界からの脱却。 「解脱」は欲求・情動(=脳幹、大脳辺縁系)からの解放。 「覚天」は「解脱」からの解放である。 是等の諸段階は、総て、現実世界の意識上の深化体験である。 二元相対世界の分別(=大脳(新)皮質)から解放され、 斯(か)くして「涅槃入り」し、二元相対世界の分別(=大脳(新)皮質) から解放され、最終的に、宇宙に回帰するのである。 超宇宙が、其れこそ宇宙の限界である。 此の限界為るものは実在しない。永遠為る宇宙である。 個人間、及び民族間、国家間レベルの相対的在り様での結論は、相 対的結論に過ぎない。 宇宙に回帰した自己と云う絶対的立場からの結論にして初めて、普遍 的為る真理足る。 自己とは宇宙の産物であるからだ。 真理と云う普遍性からの多様的対応でなければ、宇宙の調和と静謐 を具現する処の、世界人類の平和と繁栄足り得ないのである。 身は倦怠と放逸と堕落。 心は徹底と進化と涅槃。 地獄と涅槃(真理)は人間世界の進化に於ける両極であり、 既に、「解脱」にて、水と油であり、菩薩の行願、同事の実践である。 是、涅槃一路為る、「人を忘れない」、「人を捨てない」大乗禅の『最後 身心』に取捨無く、善悪無く、唯回帰した宇宙三昧である。 言語中枢機能三昧でもある。 《 人間の諸能力と本質 》 人間の本質に迫るには、宗教的、或いは学問的為る方法が在るが、 本質為るものは、学問的には体験し得ないものであり、 坐禅(行)によりて、自(みずか)ら体現する以外には無いのである。 道元禅師の『正法眼蔵(現成公案)』に、 『仏道を習うというは自己を習う也 自己を習うというは自己を忘るる也』とある如く、 其の本質に迫るには、「解脱」志向の段階で、自己の諸能力を放捨し、 正法苦行(初行(=三時間坐睡二十四時間仏作仏行))に専念しなけ れば為らないのである。 人間は発(菩提)心する段階で既に本質(=真理)を希求して居るので あり、斯(か)くの如く菩提心堅固な人は、迦葉が釈尊の発心を最も称 賛した様に、尊ぶべき人間である。 坐禅道に、人類から隔絶せる未踏の真理を、既に予兆し得て居る者で あるが故に。 人類の起源を科学的に現象的に探究する事も在るが、本質的に「涅 槃」為る「宇宙(生命)の本質」に回帰する事が正道なのである。 人心の果てを探し回り、人心の内奥には、過去からの人類史の記憶 の集積に繋縛(けばく)される。 只管(ひたすら)自心を依り処と為し、天命開悟すれば、其れが其の儘 世界人類を正道に導き、世界人類を真に生(活)かす事が出来るので ある。 知的好奇心を満たしても、其れが世界人類の平和に何等直結するも のでは無いのである。 其の様な事に手放しで大喜び出来る程、人間の心は未だ本質を弁( わきま)え得ては居ない。 脚下照顧、地上の世界人類の現実を直視しなければ為らない。 人間の生命、つまり「生(活)きる」と云う事、 如何に「生(活)き」るか? 又は 如何に「生(活)き」られるか? 又 如何に「生(活)き」ているか? である。 其れ等に不可欠なるものは、 生命と能力と本質である。 先ず、生きて居る事、そして真理足る本質である。 本質は現象(進化)し、諸能力として一定の進化を遂げる。 「宇宙(生命)の本質」は「涅槃」(為る宇宙)に帰一(回帰)すべく進化し て居るのであり、 要は、意識するしないに拘らず、回帰すべく進化しているのである。 詮ずる処、回帰する事なのである。 諸能力が回帰するとは? 諸能力によりて「人を生(活)かす」、「人を生(活)か使める」事である。 『最後身心』として回帰し了(お)えたら如何(どう)為るか? 後は、『最後身心』として、「人を生(活)かす」事である。 人間は世界人類と共に在るのである。 「人を生(活)かす」源足る太陽の如く。 人間で言えば、表現(教導)する事である。 人間の諸能力の究極は、其れ等の諸能力其のものを捨てて、「人を生 (活)かす」のである。 今はネットでホームページを公開する事。 ホームページ作りの内容は、「人を生(活)かすべく」である。 「人を生(活)かす」為に表現する日常生活である。 小生『最後身心』も「涅槃」への収束振動をしている。 つまり、「説く事」と「日常生活」とである。 「説きさえすれば善い」と云うのではない。 其処には、つまり「生きる事」には、自(お)ずから規則性、リズムと云う ものが具わって居る。 其れが調和と静謐である。 一人で勝手に生きているのではない。 他との相関関係裡に生きている。 他とは、宇宙の調和と静謐であり、人である。 宇宙の調和と静謐とは、規則性(均衡)である。 規則正しい生活。 規則正しく説くのが「涅槃」の在り様である。 其れへの収束振動。 何故に収束振動するのか? 規則性は自(おの)ずから、最も機能的在り様が現成(げんじょう)して 居るのである。 自然(じねん)為る規則性である。 其れと、「説く事柄」である。 其処に、収束振動する所以が在る。 「説くべき内容」についての判断。 既存の情報からの「生(活)きる」と「生(活)かす」に本質的に相応(ふ さわ)しい事、其の表現に、収束振動する所以が在るのである。 《 諸悪莫作と修善奉行 》 下根の諸悪莫作は禁じ難し。上根の修善奉行が最要也。 世の中は、下根の諸悪莫作を咎(とが)め労するよりも、上根の修善 奉行を共に「生(活)かし合う」べきである。 下根の修善奉行は為し難く、修善を生(活)かし、上下共に修善奉行 に益するが肝心也。 諸悪莫作以前に、皆一丸と為って、修最善為るが善し。 下根の諸悪莫作、修善奉行は直に為るべし。 然(さ)もなくんば、修善奉行も成らず。 上下共存するが、世の中の実態である。 悪を無くしても、善は興こらないのである。 『二兎追う者は一兎をも得ず』。 《 生存欲 》 欲(望、求)とは、人間、動物が、其れを満たす為に、何等かの行動、 手段を取りたいと思わせ、其れが満たされた時には脳内で「報酬系」 が活動し、快を感じる感覚。不快を感じさせない様にする。 フロイトは快感原則(=生(心)理学的な必要を満たそうとする事)に よりて、身から心への移行過程を科学した。 ユング以降は構造心理学での「報酬系」 へ移行した。 【生理的・本能的な欲求】(生命を維持し、子孫を残す短期的欲求) ・身体内部情報に基づいた欲求 睡眠欲、食欲、性欲、呼吸、飲水、排便、排尿、体温調整。 ・身体外部情報に基づいた欲求 逃避:不安や危機を感じた時逃げ出したいと云う欲求を生ず。 闘争:逆に戦う事で生存しようとする欲求。 「困難な状況に為ると、宗教的(祈り、念仏等)に、対象が ハッキリしていなくても、助けを求め、縋(すが)りたく為る 感情」を生存欲の一部として捉える。 【心理的(安全への)・社会的な欲求】(社会、文化的影響大の後天的) ・知識、名誉、地位 ・保身、防衛、支配、対立、攻撃、恭順、屈従、非難、拒絶、養護( 守り助ける)、求知、解明 《 現代世界の指導者足る資質 》 世界の指導者足る者は、人間の資質が問題である。 資質とは、人間としての全存在によりて、根源的に整えられた(=宇宙 に回帰し得た)大脳新皮質による分別、所謂(いわゆる)無分別の分 別と云う、明晰為る洗練された分別の事である。 是は物理的必然性によりて現成(げんじょう)してる、宇宙の調和と静 謐である。 《 慚恥(ざんち)の念 》 人間には、恥じると云う事が在る。 何に恥じるのか? 「宇宙(生命)の本質」に対して恥じるのである。 本質に帰一している自己に対して恥じるのである。 此の自己の使命が有りて、如何(どう)して恥じずに居れようか。 即断為り、生涯の方針は一道に定まる。 「涅槃」への収束振動は微細に至る迄、常に機能している。 《 過渡期 》 令和新世紀は、従来の、人類の諸能力(学問、宗教、芸術、スポーツ ………等)が限界点 を迎え、此の先にある世界、即ち其れ等の根底 を為す処の、深層心理学の対象と為る様なものではなく、其れ等を超 越した、唯一菩提心を残して、大脳新皮質が其れ自体を放捨する処 の禅の道へ移行する時期に入っているのである。 禅門で言われる『退歩の脚』、「退歩為る進化」の時代が到来したのだ 。トランプ現象は、正に其の顕現であった。 バイデン氏の核兵器禁止条約締結によりて、総ての難題のしこり が 解(ほど)け往く端緒(たんしょ)と為るであろう。 最大振幅からの、「涅槃」への収束振動段階に入ったのである。 小生の『最後身心』が、正に其の発端と為った。 《 志(こころざし) 》 人生との取り組みが純粋である程、人間は将来、大志を貫く事が出来 る。純粋であるから、世の中を客観的に把握出来るし、何の片寄りも 無く正道を打ち出せる。 是が指導者としての基本的なる資質である。 然るべき者の前途に在るものは真実である。 人間、真実(理)に至る唯一為る道が坐禅道である。 此の延長線上に在るものが、其の「功徳」と「悟り(身心脱落)」と「解脱 」、そして「涅槃」、真理なのである。 是以外に、人間の択(と)るべき正道は無い。 『最後身心』に基づいて正法苦行(初行)を実践すべきである。 然(さ)すれば、「解脱」に至り、世界の指導者としての資質が具わる。 是を土台として、世界を教導する志を持たねばならない。 世界の指導者が極悪道を貫けば、世界人類の心は末端に至る迄、其 の三毒(貪・瞋・癡)害に害されてしまうのである。 然(そ)うでなく、斯(か)くして、極善道を実践しなければ為らないので ある。 然(そ)うして、破壊された自然と人間の心、そして、其れ等の均衡を 再生しなければならない。 奴隷支配産業に基づく原爆支配志向に起因する対立と分断である。 《 分断の根本原因と最重大課題 》 世界中に波及する米国国民の分断は、米国国民の人格形成過程に 於ける分断であった。 奴隷化による富の蓄積は、自他の甚だしき分断であり、貪欲の魔界で ある。 そもそもトランプ氏を生んで、世界を破壊しておりながら、同胞意識も 責任感も罪の意識も恥も無いのである。 此の一体感の欠如は、米国国民一人一人の心の奥底に巣食う奴隷 化による富の蓄積と云う貪我 為る分別に起因する処のものである。 今時の「涅槃入り」へのスタートラインに立って、其の事が危惧される。 環境問題への取り組みも、今に至って初めて、癡愚者に堕す事を回避 した、受動的、消極的、「諸悪莫作」為る対応であった。 積極的、能動的生き方、「修善奉行」と云うものは、地上非核化(=核 兵器禁止)である。 小生の正法苦行(=初行)に相当するものが、バイデン氏の核兵器禁 止条約締結である。 是によりて、世界人類の平和の礎 が確立するのである。 世の中の、癡愚と云う慣性の法則には、宇宙の「涅槃」進化足る本質 上、地殻変動の地震の如き必然的為る、宇宙の質量に可換為るエネ ルギー由来の外力が必然的に機能するのである。 誰にも出来ない、遣(や)ろうとしない善行を施さねば為らないのである 。バイデン氏は其の力を具備しているか? 次期のハリス氏が、其の使命を継ぐ事に為るのか? 『最後身心』は程無く、現前しないのである。 「為せば成る。為さねば成らぬ何事も。成らぬは為さぬ心也けり」 正に、其の令和新時代である。 《 柔軟心 》 人間、柔軟心(にゅうなんしん)無くして世界平和には至り得ない。 要は、柔軟(にゅうなん)なる心である。 そして不可欠為るものが、徹底した受容力である。 そして其れ等を支えるのが、堅固なる菩提心である。 宇宙は、宇宙と云う事に於いて、有限であるが、菩提心と云うものは、 宇宙を宇宙と為す、測り知れない人類の心である。 宇宙を宇宙と為すのは、、唯菩提心在るのみ。 此の菩提心によりて「悟って(=身心脱落して)」、柔軟心足り得たので ある。 真の強さは、此の柔軟心である。 是によりて初めて、世界人類を教導出来るのである。 是無くんば、永遠に二元相対の、宇宙に迄及ぶ、覇権争奪戦に終わり が無く、地獄へ赴(おもむ)かざるを得ないのである。 常に原爆支配下の、取った、取られたの対立構造。 是等の末路は、指導者の資質無き者が世界をリードして来た事に起 因するものである。 偏(ひとえ)に正法苦行無かりし結末である。 真っ先に為さねばならないのが、核支配体制の本質的改革である。 然(そ)うして、世界人類の心に信頼感を生む事。 世界の指導者達の合意の下に、バイデン氏が率先垂範しなければな らないのである。 其処から、施策する。 次に環境改善、自然を再生する為の万策を講ずる。 斯(か)くして、自然と人類への三毒(貪・瞋・癡)害を改善しなければ為 らないのである。 菩提心は、真理への水先案内人である。 宇宙の真理足る調和と静謐は、人をして柔軟心を得せ使め、「涅槃入 り」せ使めて、世界人類を包摂するのである。 《 人情を捨てる 》 小生が 医学生時代、福岡での伴老師の開単攝心会に参加した当初、 独参の時に、老師がポツリと、「人情を捨てる」と言われた。 其の時、不思議にスーッと、肩の荷が下(お)りた気がしたのである。 其れが、潜在意識下で、自己の坐禅への道の本質なのであった。 人情(=情欲)為らぬ慈悲(=悟り)の世界である。 今から振り返るに、実に有り難い御言葉であった。 其の様な事は意識した事も無く、思い掛けなかったのだ。 しかし是は何事を為すにも、其の運命を大きく左右する基本的心構え である。 両者共に、人を思い遣る心であるが、人情は情欲に基づく相対的なも のである一方、慈悲は「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に基づくものであ る。 人情は我に基づき、慈悲は無我に基づく。 前者は西洋的特質であり、後者は東洋的特質である。 現コロナ禍に於いても其れ等の相違が顕著に露呈した。 ノーベル生理学・医学賞を受賞された山中教授が言及されたファクタ ーXは我に基づく情欲でなく、他者を真に思い遣る無我為る慈悲心に 基づく東洋、特に日本人の心情にほかならないと推察するのである。 因(ちな)みに、『正法眼蔵随聞記』(編者懷弉)に、 「学道の人は人情を捨つべき也。人情を捨つると云うは、仏法を順じ 行ずる也。」 とある。 是は、道元禅師の法嗣、孤雲懷弉(三十七歳)が、法嗣と為りて、両者 なお気鋭にして、油の乗り切った時期に師の教えを全身で受取った 四年間の、聞くに従いて記し留めたものである。 《 米国・中国 各々の自制 》 米国と中国の覇権争奪戦は、 米国は米国のみ、中国は中国のみの事しか無い。 アフリカの無政府状態。 黒人差別。 中国の台湾、香港、ウィグル、チベット等の基本的人権迫害。 タイのNLD政権に対する、国軍のクーデター等々。 地上の地獄に対して直視しない。 自国の平和と繁栄のみの、地上の平和を願わない。完遂して往かな い。 其れで、自国の在り様を果たして居ると言えるのか。 指導者としての責務を遂行していると言えるのか。 世界に平和を齎(もたら)そうとしているのか。 世界を見捨てる事は決して在っては為らない事である。 世界の地獄は、自己の心中の地獄である。 男が愚かなのは、女の所為(せい)であり、 女が愚かなのは、男の所為(せい)である。 国民が愚かなのは、指導者の所為(せい)であり、 指導者が愚かなのは、国民の所為(せい)である。 『最後身心』足る人材が不可欠である。 《 宇宙解釈から宇宙体現へ 》 無限為る時間、空間に於ける、運動する物質(マター)は、始めも終わ りも無く、全て永遠に併存する処の大前提である。 此の物質(マター)エネルギーが太陽と成り、動物為る生命を育(は ぐく)み、宇宙に於ける人間世界によりて「涅槃」回帰せ使め、涅槃妙 心智慧に基づきて、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に帰一すべく、世界 人類平和の構築と完遂に至ら使むるのである。 斯(か)様に、此の進化は、量から質への本質的移行性を具備する、 「涅槃」への永久機関足るのである。 然るに、生命誕生の科学的解明は未だ不明である。 我々は 思考の基準、つまり涅槃妙心智慧の母体為る「真理」を知らね ばならない。 「真理」が万事の判断の、唯一為る基準と為るのであるから。 故に『最後身心』以前に真理足るもの無し。 真理無き生命は迷妄である。 真理に基づき足る生命によりて初めて、涅槃妙心智慧に「生(活)かす (される)」涅槃世界が完成するのである。 真理無き愛国心は、三毒(貪・瞋・癡)に基づく覇権国家に陥らざるを 得ない。 真理に基づきて初めて、世界人類を平和へ教導する処の、涅槃世界 に基づく愛国心足るのである。 科学に欠けるものは真理である。 科学で得られた宇宙(生命)とは、単なる仮説としての組み立て設計 図に過ぎない。 科学を生(活)かすも、殺すも人間に基づく。 100%、物質(マター)から生命が誕生した。 故に進化は直観的にも分かるが、其れを科学するには、飽く迄も仮説 の域を出ないのである。 小生は是を、不毛なる極佛行に非ずして、邪道なる極科学と称するの である。 本質への志向性を忘却している。 「人を忘れている」。「人を捨てている」。 直観性である。 科学出来なければ真理には至り得ないのではない。 極科学するから、真理に辿(たど)り着けないだけである。 徹底分からないものは、直観的に大前提として受け容れ、 坐禅道へ赴(おもむ)くのである。 本物で在るならば、然(そ)うする筈であるが、人次第である。 人間は科学に翻弄(ほんろう)されては為らない。 科学するのは人間である。 人間の主体性在って初めて、科学を生(活)かす事が出来るのである 。「科学以前に人間在り」と云う事を忘れているのが人類の最悪の不 幸である。 科学以前に、本質の「悟り」への正道が在る。 「涅槃化エネルギー」足る宇宙エネルギーによりて、人類の三毒(貪・ 瞋・癡)に翻弄されないだけの菩提心を発(おこ)す道が、人類の進化 の正道である。 《 真の多様性 》 多様性とは言うけれども 自然の光の色彩は混ざる程に、透明に澄んで来るが、人工の絵の具 の色彩は混ざる程に、黒く濁って来る。 宇宙は無我為る、生(活)かすエネルギーであるが、人類は三毒(貪・ 瞋・癡)為る、我執のエネルギーである。 濁り往くか、澄み往くかの要は、夫々の根底が何か?である。 根底が、「人を生(活)かす」自己であるか、其れとも、「自己を生(活)か かす」人であるかである。 「人を生(活)かす」自己為る自己を生かす事も、自(おの)ずからにして 在り得る。 前者に基づく多様性にして、宇宙の調和と均衡と静謐を具現し、「涅槃 」為るのであるが、 後者に基づく多様性は、地獄で原爆体制の覇権闘争から抜け出せな い。 唯、未だ真理を知らざる癡愚なるが故である。 善く整えられし国家とは、善く整えられし自己に基づくのである。 未だ嘗て『最後身心』の為らざりしが故にして、不昧因果の結果也。 《 絶対的既得権 》 元来、人間は三毒(貪・瞋・癡)為る動物である。 是が、自他共に「涅槃」へ収束振動の進化を遂げ往くのである。 此の出発点が、小生が「涅槃入り」した一年五ヶ月前である。 個人レベルで、或いは地球規模で正負に振れ往くからこそ、人間は 一丸と為って、初めて向上する事を体験可能と為るのである。 三毒(貪・瞋・癡)為る人間世界に、「諸悪莫作」(=悪を為さない)を其 の信条と為しても、「修善奉行」の飛躍は生じ得ないのである。 其れでは、何時迄経っても、世界は改善され得ないのは当然である。 要するに、能動的、積極的に具体的に改善策を打ち出す以外、世界 の、温存と忖度と保身と云う慣性の法則は揺るがないのである。 世界人類が一丸と為りて、面による点の改革を遂行しなければ為らな い。 是こそ正に、紙面に拠らない、宇宙に拠った既得権の行使である。 元来、世法と云うものは、真理法に準ずべきものであって、当然地球 規模の普遍性を持たねばならないものである。 是に特殊性が有っては為らない。 時空に拘らず、世界人類が平等であるからだ。 然るに地上の現実は目を覆いたくなる程の悲惨な現状である。 真理に基づいた国際法の確立が世法の進化である。 既に、面為る量から点為る質への本質的進化を遂げた現在に於 いて、従来の国際法も本質的改善が為されなけれ為らないだろう。 宗教戦争や大航海時代の奴隷化による植民地支配に基づく、世界大 戦を通して、現代世界に、其の権利が享有される枠組みではあるが、 普遍的真理に基づいた、「世界人類が生(活)かし合う」国際法の確立 が、人類の菩提心の重大課題である。 バイデン氏と習氏の覇権争奪に帰するからである。 最早、今は正に、科学上のビッグバンの如き、質の新時代である。 《 米英の地獄 》 米英の地獄は世界の地獄である。 而(しか)も、其の第一主義と為れば、地獄の主、閻魔(えんま)に 他為らない。 何(いず)れにしても、第一主義は張り合いに他為らない。 善に基づく張り合いならば、激励にも為るが………。 自(みずか)ら、其の身を正さねば為らない。 自己の地獄は、世界の地獄なのである。 《 収束振動 》 振動は「涅槃」への、分別の迷いではなく、分別の機能による愚直為 る機械的反復である。 其処に、分別を超えた、真理為る「宇宙(生命)の本質」(涅槃)回帰と 云う奇跡が生じるのである。 《 日 程 》 3:00―――起床 2:00前後1時間 (ネット) (昼食) 5:30―――朝食準備 5:00―――帰宅 (ネット) (夕食準備) 8:30―――朝課 7:00―――晩課 (朝食) (夕食) 10:30―――托鉢準備 10:00―――片付け 11:00―――出 11:00―――就寝 (托鉢) 《 涅槃への収束振動の真実 》 人間と云う者は、「涅槃」『最後身心』の最大振幅からの、涅槃世界へ の収束振動をしてこそ、「涅槃」完遂し得るのである。 人類の進化とは、善と悪の収束振動によりて初めて、涅槃世界が完 成するのであって、此の愚直さが不可欠であり、 其れを可能為ら使める、真理を弁(わきま)えた度量が不可欠である。 斯く在れば、必ず、世界人類の「涅槃入り」為るのである。 《 急がば回れ 》 真理への最短路は、最も普遍的なる真実である。 是によりて、人類の諸道の真の在り様と云うものも、自(おの)ずから 明らかと為る。 個から全へ、特殊から普遍へ至る最善の正道の精髄が、唯一の正法 苦行の千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)である。 是によりて、釈尊と同じ位に至る事が出来るのである。 正道為らざる諸道に於いても、間違いの無い正しき道 を歩み得るの である。 正しき道 とは、如何(どう)云う事か? 是は、真理を具現する生き方の事である。 真理を具現するとは、極力、有らん限りの力を尽くして、宇宙エネルギ ーの代弁者と為りて生きる事である。 『最後身心』とは然(そ)う云う人間である。 其の本質は太陽と全く変わらない。 刹那に於いて、宇宙が開け、宇宙に回帰するのである。 人間と云う者は究極に於いて宇宙とピタリと一つに為る。 世界を制するのである。 全宇宙、全人類が、此の一刹那に懸かっている。 正に是が究竟涅槃 である。 是によりて、宇宙は分断せず、空前絶後にして、完結し了(お)得た のである。 子が親の理想を達成した様なものだ。 是が不昧因果為る真理(実)である。 《 分断と全一 》 如何為る超大国も、還元すれば、一人間である。 唯、ヒトラー独裁に陥らない事だけである。 ヒトラーは原爆を生み、覇権争奪を生み、分断に至るのである。 『最後身心』為る一人間が、其の儘全足り得ねばならない。 此の在り様を、「全一」と言う。 此の多様性に、分断等の、宇宙の調和と均衡と静謐に対する違背が 在っては為らないのである。 《 真 理(令和新世紀以降) 》 世界人類の物質的、精神的基本的条件の確保が、『最後身心』の「覚 天(涅槃入り)」した、世界人類が果たすべき使命である。 令和新世紀の真理は当基本的条件の拠り所である、涅槃化エネルギ ー為る宇宙物質(マター)エネルギーによりて体現した処の、永遠に不 滅為る恒常普遍の真理である。 《 身心脱落 (=悟り) 》 小生が坐禅を始めて、二、三年程経過して、 坐禅の功徳に浸っていた時、 刹那の、根底からの完全自己崩壊、グラグラーッと、そして記憶に残 った、宇宙の調和と均衡と静謐に対峙する、絶対孤独為る自己覚の 新鮮さである。 《 規則性 》 矢張り人間には、生きる為には、最終的に、其の規則性から出る事は 出来ないのである。 規則性と心と、何れに重点が在るかである。 目的に変わりは無いのであるが、重点が交互する。 心の為に規則が支えと為っている。 常に、此処に至る迄の真摯にして、愚直為る徹底した打ち込み有って 落ち着く。 エントロピー(乱雑さ)でない、真の多様性、 宇宙の調和と均衡と静謐も、其の完成品である。 調和については、釈尊の頃から、古代ギリシャに於いて、ピタゴラスに よりて音楽、哲学、数学に適用され、アリストテレス、プラトンに受け継 がれた。 近代科学(アインシュタイン等)の立脚点においても、調和概念に深く 関わっている。 漱石は『草枕』で、 「初めて我は画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保つ」と。 規則性、過失無き、善く整えられた心、恥じる心無くんば、世界平和は 不可能である。 一人残らず「人を生(活)かす」心が、世界人類の幸福と平和と繁栄を 構築、完遂せ使める。 《 正負の混迷・収束振動から0の涅槃へ 》 正は規則性、男性原理(漢民族等)。 負は心、女性原理(弱者、黒人等)であり、 0は涅槃である。 人類史は、 純朴な農耕集落から、人類三毒(貪・瞋・癡)による混迷・紛糾振動し 往き、其の悲劇は米国の、日本への二度に亘る原爆投下、そして世 界原爆支配体制の確立に極まったのである。 其の日本に於いて、釈尊の「悟り」は、正法苦行によりて「解脱」、「涅槃 」へと、「宇宙(生命)の本質」に回帰し、空前絶後に、世界に「涅槃」と 云う宇宙の真理を開示したのである。 世界の極大三毒世界は米中と云う対立構造を呈し、此の二元相対世 界からの、其れ迄に生じた世界的諸弊害を収束する涅槃世界の構築 、完遂への収束振動への一歩を歩み始めたのである。 然しながら、ミャンマーは未だ一国内に於ける分裂が顕著と為った。 アメリカ国民に露呈した分断は、ミャンマークーデターに及んだのであ る。 軍と市民を?(つな)ぐものは、「解脱」でなく、涅槃世界の宇宙真理で ある。 是を正すには世界人類を根本的に教導し得る宇宙真理でなければ、 原爆支配体制に於いては為し得ないのである。 其れを世界人類に開示するには地上非核化、つまり少なくも核兵器禁 止条約締結底の世界団結力無くしては為し得ない。 今や、世界人類は宇宙の真理を見極める時代に入ったのである。 地球上の難題は総て、涅槃世界への、人類が越えねば為らない不可 欠為る試練である。 《 生きる 》 人間、生きると云う事は、喰う事では無い。又能力でも無い。 当然、性愛でも無いし、金でも無い。人情でも無い訳だ。 自己の信念である。 自己の信じる道を歩む、此の心が菩提心 である。 是が往き着く処は、釈尊の坐禅である。 此の往き先は寺とは限らない。 往き先が、世の中に無かったから、 吾師は千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)を施された。 純粋な菩提心は千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)に往き着 くのである。 是さえ有れば、食う事は何とでも為る。否、何とでもする以外無いので あり、其の事が、生きると云う事である。 斯(か)くして、行を遣り遂げ、完了し、其の正念相続を十五年間程、 一時間の余所見(よそみ)も無く、坐禅する為に寺へ戻る迄為し、 寺へ戻る直前に、「解脱」したのである。 其れから、托鉢を覚え、後行(=生涯後厳密千日涅槃行)の十五年間 で、「涅槃」に至ったのである。 人類の究極の目的は、「覚天(=涅槃入り)」である。 「覚天(=涅槃入り)」する事が、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)回帰であ る。涅槃回帰が究極の目的であり、生命の真価であり、進化の究極の 目的であり、涅槃化する進化の永久機関の真意とする処である。 其処に至ると、万法に於いて解決して居り、世界人類を教導しなけれ ば為らない時である。 世界人類の三毒(貪・瞋・癡)を三善根(施・慈・慧)に導かねば為らな い時である。 貪でない、施。人類の我欲を捨て、「人を生(活)かす」。 人間には、先ず是が出来ない。 此れが、世界的、全般的分断であり、我々の日常茶飯である。 生(活)かし合うべく、妥協点を見出す。折り合いを付ける。 無駄な争いに走らない。平和裡に済ますには、可能な限りの折り合い を付けるければ為らないのである。 貪でなく施。瞋でなく慈。癡でなく慧。 是等の三毒(貪・瞋・癡)を智慧によりて三善根(施・慈・慧)に転じる処 が人間の価値である。 其処に、世界人類の平和が在り得る。 折り合いを付けられない頂点が米国と中国、米中である。 故に、核兵器禁止条約締結を世界に率先垂範する事が、世界の指導 者としての取るべき態度である。 此処(ここ)から始めるべきだ。 然(さ)もなくんば、常に世界戦争でなければ、其処への途上に過ぎな いのである。 《 宇宙の心 》 貴方は、抑(そもそも)宇宙の心を知っていますか? 人類は、正に是を知る為に生まれているのです。 是を知る事程の根本事は無い。 一切智の根源である。 人間に心が有るのに、母体為る宇宙に、其の源が無い筈が無いので ある。 我々人類は、宇宙の心に回帰すべく、進化しているのであり、常に其 の途上に在る。 唯独り『最後身心』のみが知る処である。 世界人類が、是を具現するのが因果の道理の究極である。 其れに違(たが)える者は、必ず其の悪業報を受け、恥じねば為らない のである。 「生(活)かし合う」のが「涅槃」為る宇宙の心である。 我々人類が宇宙の心に至るには、只管(ひたすら)坐禅(行)による 以外不可能である。 唯、坐禅(行)によりて、宇宙の心への扉が開かれ、其の功徳を戴き、 接近し、接触し、帰一し、其の涅槃回帰するのである。 一切他事無し。 超物理学的為る心の科学者でも、転生(生まれ変わり)説に止まる。 真理に至るには正法苦行(千日行)による体現以外には無い。 真理に往き着く事が如何に困難至極であるかは、『最後身心』に尽き るのである。 《 愛国心 》 小生、世界に唯一の、二度に亘る被爆国である日本に生まれて良か ったと真実思う。 因縁在りて、『最後身心』として、究極の真理に至り得たのである。 更に、日本には、斯(か)るが故に、殺人産業国家と為る危険性を回 避する自衛国家である事だ。 国家組織は一般的に、殺人業を営まざるを得ない運命にある。 勝者の論理の戦争産業の運命を免れ得ないのである。 故に人類は、例外を除いて、殺人業に基づかざるを得ないのであるが 、其の時代を経て、平和を構築、完遂する新時代を迎えたのである。 然(さ)もなくんば、人類に平和は在り得ない。 其れこそ、不可避なる殺人と云う原罪から根源的に免れ得ないのであ る。 此処に信頼感が育つ訳が無い。 更に愛国心は言う迄も無い。 三毒(貪・瞋・癡)世界の中で、最も願わしき時空に生まれ得た事を、 小生は、実に有り難く思うものである。 果てし無き、力と量の地獄に世界人類を誘導する、釈尊手掌上の二つ の悪しき悟空である。 令和新世紀は、従来の力と量による制圧、支配体制から、宇宙真理 に基づく、信頼団結世界への移行を果たし、世界人類が永遠の地獄 一路から不滅為る平和構築、完遂への一歩を踏み出さねば為らない と云う事は自明の理である。 軍事の為に国民を犠牲にする在り様と云うものは、我々日本人にとっ 言う迄も無く、世界人類の真情にとっても、願わしきものでない事は明 らかである。 時処位に基づく二元相対の判断によるものでなく、 是が、宇宙真理に基づく絶対判断に因るものでなければ、世界中の 国家が共有する愛国心に基づく訳には往かないのである。 然るに、世界の実状は、頂点列強が核支配体制の、信頼性の育たざ る状況下にある。 絶対にこそ信頼が生まれるのであり、相対世界には信頼性は育ち様 が無い。 本質的に生まれ変わらねば、心の進化は生じ得ない。 「諸悪莫作」の装いから、「修善奉行」への飛躍が出ない限り、温存と 忖度と保身に変わりは無い。 米国と中国は現日本に倣うべきである。 《 真理(実) 》 人類の心の進化には、真理が絶対不可欠。 修善奉行の至極は真理を信受し、具現する事である。 真理無くして、世界平和は絶対不可能。 其れは、泳ぎを知らない者が水中で生き延び得ないのと同様である。 真理在りて初めて、空往く鳥、海往く魚の如く迷う事無し。 釈尊は「我が心を依り処とせよ」と説かれた。 我が心は、宇宙の真理に帰一、回帰して初めて涅槃妙心足るのであ る。 涅槃妙心とは、「世界人類を生(活)かさんとする心」である。 宇宙の真理に違(たが)えば、必ず其の悪業報を受ける。 《 貪 性 》 宇宙には、雷を生む、電子、陽子の電荷由来の電界に付随する磁界( 場)と云うものが在る。 地球は、南北両極を両端とする一本の棒磁石と見做し得るそうだ。 何も無い処に磁性が働いている。 亀が海浜で孵化すると、直(ただ)ちに海の方に急ぎ、又渡り鳥の渡り も、此の磁性に基因する習性らしい。 物質には電荷に磁性が在る様に、 人類には欲求に貪性が本有し、其の弊、三毒(貪・瞋・癡)が習癖を形 成する。 貪性は悟(覚)らない限り、貪裡に死滅せざるを得ないのである。 悟(覚)れば、三善根(施・慈・慧)に転じ得る。 「解脱」すれば、貪性は消滅すると共に、其の悪癖も消滅する。 宇宙の本質は涅槃化エネルギーを包摂する永久機関足る涅槃為る 永遠に不滅為る恒常普遍の真理であり、人類三毒(貪・瞋・癡)は其( それ)への、刹那生滅の原理に基づく進化の途上に在るのである。 人類が三毒(貪・瞋・癡)世界に於いて、菩提(道)心を発(おこ)すか否 かが、地獄から涅槃への分岐点である。 人類には予定調和為る「覚天(涅槃入り)」から、其の完遂迄の心の進 化があるのであり、人類は此の修正(=進化)すべき未熟為る偽性(仮 性)より、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促しが人類三毒(貪・瞋 ・癡)との化学変化で生起した菩提心によりて必然的に三善根(施・慈 ・慧)と転了され往く処の仮象(かしょう)に過ぎないが故に、心の進化 を遂げ、宇宙に回帰すべく、正道によりて涅槃回帰の予定調和に収束 するのである。 学問によりて、宇宙の根源に至る事は不可能であるが、 欲(求)に内在する貪性(三毒)が布施(三善根)に転ずるのは、自他 一如為る、二元相対世界を超越する絶対的体験、「悟り(身心脱落)」 によりて可能と為るものである。 人間と云う者は、欲に貪著せ使められる分別に、真理への志向性を 説く事で、其の貪性を教導し、世界を浄化し得るのである。 世界人類の物質的、精神的基本的条件確保が根本である。 其の為に、世界各国が連携して機能しなければ為らない。 其の基点として、特に米中露核兵器禁止条約を締結する事が必須で ある。 是が、指導者としての使命であり、英断の必然性である。 此の団結から、全ては始まる。 何と為れば、世界人類の平和を願わない人類は居ないのである。 其れが、「世界人類を生(活)かす」宇宙の心である。 《 性愛と云うもの 》 性欲は射精を目的とする。 是が「種の存続」だ。 「種の存続」の為の性欲である。 故に「種の存続」を目的としない、つまり射精を目的としない貪欲は 癡愚為るものである。 射精を目的としない性愛も、又癡愚である。 敗壊不安為る、儚(はかな)き身への執著であるが故に。 而も、目的の無い射精は実にだらしない。 癡愚としか言い様の無いものである。 世界には、物質的、精神的基本的条件すら与えられない悲惨、地獄が 満ち溢れているのだ。 淫快は、何等生むもの無く、「百害有って一利無し」、 人類の向上、進化に逆行するものである。 男子足る者は、斯(か)く為る腑甲斐(ふがい)無さからは、最早決別し なければ為らない。 自(おの)ずから、如何に為ければ為らぬかが自明である。 此処に、人間らしい弁(わきま)えが生まれる。 射精を消費、「種の存続」の為でない射精を浪費へ置き換えれば、他 の諸欲総てに於いて全く同様である。 此処に、自(おの)ずから少欲、知足が真実であると云う事が証明され たのである。 少欲、知足為るべしではなく、 涅槃世界の真実は少欲、知足為るものである、と。 少欲、知足でない者は、貪著の癡愚為る、地獄を志向する者なのであ る。 此処に資本主義体制に於ける金と力への偏重が誘因と為る格差、 及び中国国内の全面的格差の是正が不可欠と為る。 世界人類の幸福と平和と繁栄を願う者は、自(おの)ずから少欲、知足 足る人間であり、貪の三毒は、「人を生(活)かす」施の三善根に転じる のである。 涅槃世界は少欲、知足を、其の根本と為す処の真理の世界である。 軍事大国は貪の典型である。 何の為の軍事か?貪の為の軍事である。 軍事では無い自衛 が真理に基づく在り様である。 ローマ帝国※は滅亡したではないか。 何の為の軍事か? 其れは貪著為る人間世界に対立する為であるならば、此れは制圧、 支配体制を出る事は出来ない。 是が国連安全保障理事国家群の在り様である。 しかし、是は自国の貪著に基づく欺瞞(ぎまん)である。 真理に基づく、真実為る在り様と云うものは自衛 である。 宇宙の真理に回帰し得た者、『最後身心』が開示する涅槃世界。 『剣の達人は剣を捨てる』 是は今にして思えば、吾師、伴鐵牛老師の御言葉であった。 人間を切り殺すのを目的として生まれて来た人間は一人も居ない。 小生の坐禅も宇宙の真理に至る手段に過ぎない。 此の奇跡に至り得たらば、真の目的を果たさねば為らないのである。 『軍事の達人は軍事を捨てる』 そして自衛国家 足らねば為らない。 其の在り様の英断であり、団結でなければ世界平和には至り得ない のである。 信頼に基づく団結が貪著を制し、癡愚を排するのである。 是が人類の真価である。 此処に於いて、全世界諸国家規模の信頼が確立するのである。 然(さ)も無くんば、信頼性は成り立たない。 〔※―千二百年間程継続したローマ帝国の繁栄と栄華は、其の領土 が余りに広大で、統治する為に三百九十五年東西に二分した事で国 力、戦力が減って、西ローマが滅亡し、結果として別の道を辿り、イス ラム帝国による二百年間に亘る十字(架)軍の遠征により、千年余り 継続した東ローマ帝国も十五世紀半ば滅亡した。 「盛者必衰」の理(ことわり)通り、貪著必衰。 「聖戦」もキリスト教徒勢力の、イスラム教徒勢力への百年間に亘る侵 攻の間に生まれたものであり、貪著の種々の複雑な様相を呈した。〕 米国の黒人差別は、世界人類を 悪魔の眠りに陥(おと)し込み、狂わ す現代最悪の負の遺産である。 フィリピンのドゥテルテ氏に及ばな い。中国の習氏の肯(がえ)んじなさ に一理あり。 米国は世界の統率者の資質が欠落 して居る。 《 絶対真理(実) 》 如何なる外的条件にも左右されない、純粋に一個人の絶対的内的体 験であり、唯宇宙と自己と他己との関与に於いて体現し得た絶対体験 であり、如何なる者も大宇宙を変革し得ないのと同様、真理(実)であ るが故に、既に体現された真理(実)は、小生が死滅しようとも、如何 為る者も、如何とも為し得ない永遠に不滅為る恒常普遍の絶対真理 である。 是に違(たが)える者は、因果の道理によりて毫釐(ごうり)も違(たが) わざる悪業報を受けるのである。 原因が在るからこそ、其の結果が生まれる。 原因無き処に、結果は在り得ないのである。 善因善果、悪因悪果。 宇宙は嘘を付かない。 「人間を生(活)かす」のである。 世界人類を、平等に。 《 ビッグバン 》 現代のビッグバン為る学問上の仮説を掲(かか)げるのでなく、古代か ら今に至った唯一為る真理を説かねば為らない。 真理とは宇宙の調和と均衡と静謐を具現する涅槃世界である。 力と量の二元相対の現象世界より、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)化永 久機関足る、永遠に不滅為る恒常普遍の真理である。 力と量の現象為る相対世界の事では無い。 ブラックホールでない、「涅槃入り」である。 宇宙を表現する能力為る学問でなく、其れ以前の、宇宙によりて表現 される処の根源的体現である。 「金も命も要らぬ」底の教導を為さねば為らない真理(実)為るが故の ビッグバン為らぬ、『最後身心』の本音である。 《 不可逆為る一振れからの世界連合 》 無窮の「極佛行」有らばこそ、其の対極為る「人を生(活)かす」が生ま れ得た。 是が一定期間の行であれば、其処迄、生まれ得なかった。 其の様な、然るべき判断を下す事すらも無く、無益な機械的為るもの にしか成り得なかったであろう。 徹し切ったからこそ、其処(そこ)に、恰(あたか)も、車道の進行方向 に進入禁止の標識を見て、進路回生せ使めるべく下車し、振り返って 両手を振って安全に無事故為ら使めたのである。 小生が、其の標識を初めて目にしたからこそ、涅槃真理への正道を得 たのである。 天災であろうが、人災であろうが自(みずか)ら体験する迄は適正なる 対応は為し難い。 我々人類は、自(みずか)ら其の真理を獲得する事は不可能である。 一切、自(みずか)らを運んで心の進化を遂げたのではなく、宇宙に よりて、自(みずか)らが運ばれて、三毒人類が涅槃世界の入口に至り 得たのである。 唯、天に覚(さと)ら使められて、「覚天」し得たのであり、 能力的にも自(みずか)ら体験して、涅槃収束振動し往く以外無い。 「行(自己)至上」でない、「人至上」だと、真逆の対極に迄、改め得たの である。 極行に徹したからこそ、極人に徹し得る。 振れ幅が大きい程、戻りも大きいのである。 是、不可逆の一振れである。 振れ幅が小さければ、戻りも小さい。 小生が生まれ変わったら、坐禅の二度手間は取らない。 世界を変革する世界連合 を構築、完遂する。 宇宙の真理に基づく信頼に団結した世界連合 である。 世界連合憲章に則って世界人類の物質的、精神的基本的条件確保と 格差是正を完遂する。 絶対真理を弁(わきま)えた世界中の指導者達が交代して統率し、 世界中の三毒(貪・瞋・癡)を三善根(施・慈・慧)に転ぜ使める。 法律が心を生むのではない。 心が万(よろず)の法を生むのである。 今を措いて、其の時は無い。 米中の心を教導する日本である。 《 孤 独 》 人間の孤独感は概して、一般的な相対(現象)的孤独、実存(虚無 的本質)的孤独、そして宇宙(真理的本質)的孤独とに分類出来る 。実存(虚無的本質)的孤独は、 マックス・シュタイナー(1806~1856、独、哲学者、『唯一者』)は、 キルケゴール(『単独者』)と同時代で実存哲学の先駆けと為り、 「孤独は知恵の最善の乳母(めのと)である。」 「私の事柄を、無の上に、私は据えた。」と、 自我を思想の根底に置いて、創造的虚無 を説いた。 エンゲルス、マルクスやニーチェの超人概念に影響を与えた。 ニーチェは狂人と為り、シュタイナーは餓死したらしい。 真の孤独とは、宇宙(真理的本質)的孤独である。 是は、真に安楽で、調和と均衡と静謐の清浄為る宇宙に受けた生の、 喜々とした、真の生命の歓喜(よろこび)である。 是が「悟り(身心脱落)」による真の孤独と云うものであり、二元相対世 界の孤独、隔離、疎外、孤立等の寂しさでなく、其れ等の対極に在る 、悟った絶対孤独、生涯二度と忘れない純粋な孤独の楽しさである。 生命とは、元来、然(そ)う云うものである。 仏道の各論は、涅槃為る宇宙の調和と均衡と静謐を具現する諸道の 頂点足るのである。 坐禅の安楽は、涅槃為る宇宙の調和と均衡と静謐に心の進化を遂げ る。 宇宙とは完璧な孤独だ。 《 真理(調和)の体現 》 調和は、BC2500年頃からの瞑想の体験に端を発する。 涅槃為る宇宙の調和と均衡と静謐に於ける、調和体験が、坐禅の功 徳以前の、真理への初めての体験である。 瞑想に始まり、坐禅の功徳、「悟り(身心脱落)」、そして「解脱」、「覚天 (涅槃入り)」と涅槃為る宇宙の調和と均衡と静謐に、心の進化を遂げ 、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)へ回帰するのである。 調和の対極に在るのが、人類の三毒(貪・瞋・癡)の根源、生理(本能) 的欲求である性欲(情動)等の五欲、及び支配、攻撃等の社会的欲求 への貪著に起因する闘争、混沌である。 フロイトやユングの方向性は適確であったが、人間の潜在意識の集合 体、無意識等を撥無(はつむ;払い除ける)して「悟れば」、刹那に言語 道断である。 調和(と均衡)は、自(おの)ずから静謐を生む。 覇権争いは混沌の代名詞であり、 信頼は調和の代名詞である。 ミャンマーの恥は 世界人類の恥だ 《 究 竟 》 無神論者や虚無主義者等と云った分別や自我意識でなくして、人類 の生命を超越した、究極の価値、東洋流に云うと極佛行(自力)、西洋 流に云うと神信仰(他力)、是等を完璧に否定し得る者でなければ、 世界人類を教導する事は出来ない。 人間は宇宙エネルギーで宇宙行を行ずるのが生きると云う事であり、 是をして仏道と称するものである。 釈尊迄の過去七佛の通戒偈、 諸悪莫作 修善奉行 自浄其意 是諸仏教 人間と云う者は、殺されても真理を求め、生きるものだ。 況(いわん)や、殺す事在らん哉。 ミャンマーの軍部の、僧侶等、市民に対する、日々の蛮行はヒトラー独 裁に類するものである。 今や、世界中に、ありとあらゆる人種差別が横行している。 是等は、世界の指導者足る者達の間の真理への信頼に基づく団結力 の無さに因るものである。 《 宇宙真理を具現せ使める指導者 》 小生、托鉢と「人を生(活)かす」(ホームページ)の七十一歳である 。金の為に遣っている時が、人間一番楽なのである。 生きる糧を得ている、不可欠為る必要最小限の事を為しているのであ るから、心は疲れないで済むし、唯其れだけに専念して居りさえすれ ば宜しいのであるから、心煩わす必要も無いし、結局、体力的には、 仮令(たとえ)苦ではあっても、一番楽なのである。 一番労するのは、「人を生(活)かす」事である。 人間と云う者は、出来れば前者に落ち着くのが一番ホッとする。 後者は金にも為らないし、純粋に人の為に吾身を削る事に他ならない からである。何処(どこ)迄も…………。 故に、此の労苦が生(活)きると云う 事である。 心が真に生(活)きている。金に眠っていない。 何処迄も創造的に、自己と云う可能性の世界であるからだ。 真に「人を生(活)かし」得る可能性である。 相対的為らざる絶対、真実の世界である。 身を削って、人を生(活)かさんとする心である。 何処迄削れるのかが、常に付き纏(まと)う。 其のギリギリを常に思う。身を削る創造性である。 小生は、托鉢と托鉢以外と明確に、其処が分離している。 蟻と太陽、束縛と解放であるが、其の心は双方とも完全に解放されて いる。 故に、実に稀なケースであるのだ。 是も生涯ものであって、保身と直結するものであるが故に猶更である。 少しでも楽に在りたいと思うものであるが、教導と云う創造性の誘惑が 強い。是、菩提心に他ならない。 下化衆生とは、斯(こ)う云うものか。 其れに、真理を如何に伝えるか、と云う事である。 此の可能性、真理の橋渡し役としての可能性である。 為し得る限りの可能性。 是が、世界人類の平和の可能性でもある。 故に、『最後身心』として自(おの)ずから真剣に為らざるを得ない。 真剣さの必然性だ。 自己を運ぶ事でなく、世界人類を運ぶ事であるからだ。 其の為に、常に在るのだ。 然(さ)て、如何(どう)しよう? 人間の心と云うものは、コロコロと玉の如く転がるもので、決して一定 していない。 菩提心が宇宙を貫いているからである。 是が、宇宙の進化の原動力為る、涅槃化エネルギー(=物質(マター )エネルギー)であろう。 菩提心によりて、世界人類の可能性を何処迄も追求し、世界人類を教 導する。 是が創造性である。 常に宇宙エネルギーと一(いつ)なのである。 其の中の托鉢。 又、托鉢であるからこその創造エネルギーでもあるのだ。 相乗効果である。 ギリギリであるからこその相乗効果である。 物と心との相乗効果。 世界の現実と宇宙の真理との相乗効果である。 是、宇宙エネルギーの実態だ。 『最後身心』為るが故に、総てを吐き出さずには居れないのである。 只管(ひたすら)、宇宙の真理を具現出来る指導者が待たれるの である。 世界各国の指導者達は、能力追求の方向性に止まって居るが、此の 幻想に招来される地獄から脱却すべく、我々人類が初めて至り得た 真理(実)への信頼と団結によりて、此の歩みを進めるのである。 小生を措いて、最早、宇宙は無い。 在るのは、宇宙無き地獄だ。 其処に、一体如何なる平和が在り得るのか。 在るのは、覇権争奪闘争と地獄往きだ。 此れが、人類の三毒(貪・瞋・癡)の帰する処である。 悟(覚)らない限り、人類の諸悪の根源為る三毒を超越した宇宙真理 足る真実の生命には至り得ないのである。 自覚した自己に基づかない限り、力と量の相対世界では、世界人類を 生(活)かし得る、信頼に基づく団結力は生まれ得ないのである。 此の遣る気、菩提心無き世界に平和は無い。 自(おの)ずから為る規則性とは? 此の志向する処、目的は? 規則性には、其の根拠が在るのである。 何に基づく規則性なのか? 是が明らかと為れば、行の必要性も無く為るのであり、 正に是を明らかに知る事が、仏道の目的に他ならない。 何を以って、人類を教導するのか? 只管(ひたすら)、真理である。 真理とは、「人を生(活)かす」。 宇宙エネルギーとは涅槃化(進化)エネルギーである。 前者は太陽の心であり、後者は「世界人類を生(活)かす」心、 涅槃妙心 である。 目的は、涅槃妙心智慧を生む事であり、其の為の規則性である。 釈尊の御遺教の八大人覚に於ける修智慧は行智慧であった。 小生鐵漢に至って、涅槃妙心智慧 に至り得たのである。 『法華経』に、 釈尊が何も説かずに、青蓮華の花をつまんで瞬きをされた(=拈華 瞬目)時、一人摩訶迦葉が其れを見てにっこりと微笑まれた(=破 願微笑)。 其の時、釈尊は、「吾に正法眼蔵涅槃妙心 あり。摩訶迦葉に附嘱 (ふしょく)す。」と摩訶迦葉(=初祖)に正法眼蔵涅槃妙心 を正伝 された。 とある。 《 宇宙真理(涅槃)規則性 》 3:00―――起床 2:00前後1時間 (ネット) (昼食) 5:30―――朝食準備 5:00―――帰宅 (ネット) (夕食準備) 8:30―――朝課 7:00―――晩課 (朝食) (夕食) 10:30―――托鉢準備 8:30―――片付け 11:00―――托鉢出発 11:00―――就寝 絶対規則性と 「世界人類を生(活)かす」 涅槃妙心は表裏一体。 菩提心は宇宙を貫徹する。 《 突然変異 》 人類に至る迄の生命の進化の原動力為る遺伝子の突然変異である が、是が無い人類三毒(貪・瞋・癡)には心の進化が断たれている。 動物本能が欲求と情動に、更に欲求と情動と分別に、更に此の段階 で分別から三毒、更に欲求と情動と分別と、そして「宇宙(生命)の本 質」(涅槃)からの促しとの化学反応による、三毒由来の菩提心が生 起し、「悟り」によりて心の進化を遂げ、宇宙に帰一せ使めんが為に、 宇宙を貫徹する菩提心によりて、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)回帰為 ったのである。 故に、三毒為る人類に突然変異為らぬ心の異変、つまり「悟り」、「解脱 」、「覚天(涅槃入り)」在らばこそ、つまり三毒人類にも心の進化が可能 と為ったのである。 「悟り」、「解脱」、「覚天(涅槃入り)」は正に、心の慣性(=習癖)を撥無 (はつむ;払い除ける)する唯一の無上道である。 心の進化とは、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し(=涅槃化エ ネギー)に基づく、心の慣性の異変なのである。 心の進化に男女の別は無い。 従来の力と量の大小関係でなく、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)へ帰一 する問題である。 つまり心の進化度、本質回帰度の問題である。 是に基づいて上下が生ず。 つまり『最後身心』に基づく、世界人類の幸福と平和と繁栄の構築と完 遂の新時代に入るのである。 是は宇宙の必然性である。つまり宇宙は涅槃への、永遠に不滅為る 恒常普遍の永久機関なのである。 真理は『最後身心』から、世界人類の身心に、共観し足る身心を通し て浸透し往くのである。 七十七億の世界人類に、核兵器禁止条約締結の賛否を問うべし。 米英の核支配体制、黒人差別に因る分断、ミャンマーのクーデターに 因る分断等、力の原理で、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)には及び得な い。 現代の負の世界遺産は、今猶、現存する現実の最重大課題である。 《 核兵器禁止条約締結 》 人間世界と云うものは、エベレストの登頂に似ている。 最終段階の頂上直下の登頂が最も峻険である。 生命の存続に、総てが其の限界を超えるものであるからだ。 正に、此の最終段階為る核兵器禁止条約締結である。 頂点の米国に、其の菩提心が無ければ、以下言わずもがなである。 世界規模の恒常維持の安泰と温存と保身である。 然(しか)しながら、是は宇宙真理為る「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に 違(たが)う悪業である。 此の悪業報は必然不可避である。 一旦登頂すれば、後は下り坂。 世界平和への最終段階の入口に佇(たたず)み、退化然(さ)ながらの 現今である。 此処(ここ)が、正に、人類の真の正念場。 宇宙の真理に基づく信頼と団結によりて、一気に英断すべきである。 此処に、核武装国家の抑止と云う幻想為る安泰と温存と保身活動為 らぬ、人類の真価が顕現されるのである。 《 善悪の根拠 》 涅槃と規則性とは表裏一体である。 涅槃妙心は、善悪の判断及び世界人類の平和の真の拠り処であり、 人心の本源足る心である。 つまり宇宙の規則性が善悪の判断の指標足るのである。 宇宙の調和と均衡と静謐が、其れ等の完成品であり、 其処から森羅万象が生まれ、今の我々が存在するのである。 此の規則性は、小生が「覚天」する迄の厳密行の様な規則性ではなく 、つまり極佛行の規則性でない、「覚天(涅槃入り)」して「行」でない、 「人」だと体現せ使められた刹那以降の規則性なのである。 死んだ時計でない、生きた、「人を思う心」に基づく規則性なのである。 体現せ使められた事によって、刹那に、根源的為る「人を生(活)かす」 と云う、純粋為る涅槃化エネルギー其のものに生まれ変わったのであ る。 従(したが)って、不動の規則性ではあるが、其の根底に「人を忘れな い」、「人を思う」涅槃化エネルギー其のものに帰している。 真に生(活)きた心とは、生命の完成を期して、涅槃への収束振動を 志向し続けて居り、此れが善悪の判断の真の根拠足るのである。 つまり、善悪の判断の指標は、極佛行(人類の諸能力も含めて)由来 の規則性に派生する種々の相対的判断基準でなく、涅槃為る宇宙の 真理に由来する規則性、涅槃化エネルギーに基づく、涅槃へ収束振 動し往く規則性、是が真に「人を生(活)かす」、世界平和足ら使めるべ く機能する、厳密と柔軟が共存する、完璧為る宇宙の真理足る規則 性なのである。 小生『最後身心』から真為る絶対的善悪の判断基準が生み出される。 世界人類を教導するには、人類の三毒(貪・瞋・癡)を以って為す。 人類三毒は狂うが、是が地獄を生む。 宇宙真理は調和と均衡と静謐為るが、是が涅槃である。 涅槃回帰の『最後身心』、鐵漢を興(おこ)さずんば、地獄が涅槃に 帰一する事能(あた)わず。 人類は世界平和を思って初めて、自(みずか)らの三毒を三善根為ら 使め得るのである。 世界平和を真に願わざる人間は、自(みずか)らの三毒に狂う人間で ある。 《 生きる事は苦である 》 釈尊は悟られ、亡くなられる時に、 「生老病死は常に来たりて衆生を切る」と諭(さと)された。 生苦、老苦、病苦、死苦は四苦(人間の持つ四つの根元的苦)である 。(此の苦とは「逼迫(ひっぱく;追い詰められて余裕が無く為る)した 苦悩」の意。) 「元来、生きる事は苦である」と気付く事は、 苦を苦と思う事は当然であって、楽を苦悩して居るのではないと諦観 する事によって納得し、覚(さと)るのである。 諦観とは、真理に至り得れば、其れが真為るを知る処のものである。 自己の至り無さが、本来楽なるものを苦にして居るのでは無いと諦観 する事は非常に有意義であり、然(そ)う思うだけでも安心する部分が ある。 苦悩して居る事を苦悩する苦も在る。 一切皆苦の理が諦観出来れば、と云うよりも、 そもそも、根本的に「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し により て、古代人が瞑想を始めた様に、自(みずか)ら、何らかの行動を起こ す、或いは発心するのである。 生命の真実なる喜楽は、燥(はしゃ)ぐ様なものでなく、其の様な喜楽 は一時的興奮に過ぎないのである。 真実の楽は淡々とした、静謐甚深微妙為る安楽である。 然(しか)しながら、刹那の「悟り(身心脱落)」、「解脱」、「覚天」体験は 別である。 刹那為る「覚天」体現が即、(極佛行と云う究極の)分別の根(=残りか す)を滅尽(めつじん)する事なのである。 斯(か)くして、四苦、貪著や二元相対為る分別の根等を滅尽すれば、 宇宙真理為る涅槃世界に躍り出る事が出来るのである。 宇宙の調和と均衡と静謐を現実世界に実現する涅槃化なのである。 生きる事が苦ならば、何故に生まれ出づる意味が在るのか?と。 我々が受けた生が大前提であり、我々の分別の及ばざるものである。 自己の生命も、他己の生命も同一なる生命である。 悟(覚)り無き三毒(貪・瞋・癡)為る存在に、喜楽が有る筈が無いので ある。仮令(たとえ)有ったとしても、一時的な興奮に過ぎない。 奇跡が起きたとしても、世界中が喜楽と成る事は無いのである。 喜楽でなく、安楽なのである。 四苦からの滅苦の、覚(さと)りの弁(わきま)えが不可欠である。 生苦からの、攻撃、闘争、支配等の心理・社会的欲求は本質を弁(わ きま)えざる人間である。 敏感な者程苦悩する。 其処に未熟が重なれば、看過すべからざる問題と為る。 世界には、斯様(かよう)に、根本的に悪因に溢れているのである。 善因楽果、悪因苦果である。 大人は、未熟者を本質的に導く 事が出来ねばならない。 世界の霊峰足る日本に於いてさえも、其の事が、世界中のコロナ禍の 最終段階に於いて露顕される現今である。 物事は究めれば、其れ等の諸現象に内在する本質に関わらざるを 得ないのである。 本質的見極めの粘り強い労苦が、世界平和への命運を左右する。 自(みずか)ら、二元相対の迷路で、苦患(くげん)境をさ迷うべきでは ない。 一切皆苦、つまり日常的身(心)苦と壊(楽)苦と無常苦であるが、 智慧を以って、是等を観る時、苦を離れ、清浄への道に入る事が出来 るのである。 《 「人を捨てる」と云う事 》 「衆生を忘れる」、「衆生を捨てる」人間は、真実の自己を忘れ、捨てる 人間である。 是が真である証(あか)しは、 本来、世界人類の全生命は皆同等にして、自他一如為る生命であり、 「宇宙(生命)の本質」が現象し、多様化して『最後身心』足るピラミッド 頂点に究竟進化し、其の根底から頂点迄分離出来ない全一為る生命 の有機的構成態であるからである。 是は、唯一『最後身心』のみが至り得る宇宙の真理である。 因果の道理の根拠である。 百余分割しても、総て完全再生する、原始的為る、扁形動物プラナリ アの神経系に於いても 既に、脳形成の遺伝子プログラムより、人類の 脳神経系との遺伝子の相同性がある事が確認されている。 動物の神経系から人類の大脳新皮質に至る迄の進化の過程は、受 精卵の幹細胞が最初に神経細胞に分化する処から始まり、一番最後 迄 成熟を続ける。 鳥類、哺乳類で出現した大脳新皮質は進化して、人類の特質為る大 脳新皮質は大脳の90%以上をも占め、言語中枢や分別の叡智を司( つかさど)る迄に進化した。 是は人類が両手でものを生み出していった事に基づき、其の為に最も 機能的為る直立二足歩行、そして直立安座、瞑想、悟りへと心の進化 を遂げたのである。 人類の大脳は体躯(く)に支えられた、身の進化の究極の、頭の一部 分に限局して居るに過ぎないが、是は地球の太陽系に対する如きもの で、人間世界の地球に対する、又大脳の体躯に対する関係に等しい。 是が体躯の上に安定した大脳でなければ、「悟り(身心脱落)」、「解脱」 、「覚天(涅槃入り)」等、是等総ては生じ得なかったのである。 総ては直立不動、禅定裡の事である。 斯(か)く為る諸体現、大脳機能による覚知は、禅定に基づいて心に 涵養された宇宙の涅槃化エネルギーの刹那為る発(はつ)露である。 恰(あたか)も、地殻内の不調和と不均衡と軋轢(あつれき)が復元さ れて、宇宙の調和と均衡と静謐に回帰したかの如く。 地殻のエネルギーの軋(きし)みが宇宙の本質に回帰する現象が地震 であり、其れ等の狭間にある、我々人類の心の貪著や迷妄が涅槃為 る宇宙に回帰するのが諸々の段階的諸体現である。 斯(か)く足る、大脳の本来の機能が発揮される為には、心の本源に 立ち戻らねば為らないのである。 覇権争奪に打ち興じている様では問題は永遠に解決しない。 人間らしさが、直立二足歩行に随伴する大脳新皮質の神経細胞(ニュ ーロン)の数(二千億個)と接合部位(シナプス)(数百兆個)の量的、 質的向上により、複雑、精緻な統合体の美しいネットワークを形成す る事に基因している事からも其の事は明白なのである。 其処を無視した、単なる大脳新皮質独自の暴走に帰結した、中国漢 民族による暴走(ミャンマー軍部の暴走と同質)と、格差である。 故に、如何に東洋の叡智が真に優れ足る根本であるかは言う迄も無 いのである。 学問や主義は真の本質から遊離したものに過ぎない。 人類は今からでも、坐禅によりて、従来の世界の立て直しを図らねば ならない。 誤った 大脳新皮質の使い方をして、得た結果が、今の米中の終わり の無い覇権争奪闘争である。 トップ為らばこそ、坐禅を行じて、世界を正しく導かねば為らない。 此の世に、坐禅を行じない、真の人物等は居る訳が無いのである。 「天性の人物だ」等と他を評する禅の大家も居るが、 坐禅を行じないで、其の様な人物が育つ訳が無いのである。 悟らないで、人間が真理(実)に至る事は不可能である。 真理(実)を知らざる人物が、人類を教導し得ないのは、是迄の歴史を 観れば明白である。 坐禅は自滅では無い。 宇宙に回帰する心の進化は、坐禅(行)によるものであり、 涅槃為る宇宙の真理に基づく信頼と団結によりて、世界平和の構築と 完遂を果たさねばならない。 「世界人類を生(活)かす」世界の二大頂点であるが、 如何(どう)して「世界人類を生(活)か」さないのか? 大脳新皮質の使い方が、地に足が着いていないからである。 大地に直立する事のみが、人類の人類足る証(あか)しである。 是を純粋に具現するのが坐禅であり、坐禅が人類生命の精髄である 。是によりて、人間は「涅槃」為る宇宙に回帰出来るのである。 《 刹那生滅 》 生命は刹那を存在し、存在を刹那する。 刹那、刹那来たりて、二度と戻らない。 個性無き、常に新たなる、清浄なる生命。 来る刹那、刹那は身を纏(まと)い、普遍なる真理である。 二度と戻らぬ刹那を生(活)かさねばならない。 最も貴重為るものである。 刹那を生(活)かす事こそ、 自己を生(活)かす事であり、 人を生(活)かす事である。 《 千日行 》 社会通念に基づく日常性と正法苦行為る千日初行の本質的相違点 について考察すると、 前者は、上下、左右、前後、内外、そして優劣等に対する強弱、大小、 高低等の知情意の選択的二元相対世界であり、 後者は其れ等を超越した純粋為る菩提心の、恰(あたか)も宇宙空間 を孤独に只管(ひたすら)直進する様な世界である。 一般人は此処で其の心情の拠る術を失い、只管(ひたすら)、強く、大 きく、多く、優れ足るを貪著する。 何れにしても、諸悪の根源為る三毒(貪・瞋・癡)を本有する人類為る が故に、発菩提心しない限り、地獄の閉塞世界に陥らざるを得ないの である。 其れ程、身に支配された心の人類なのである。 然るに、千日行は心に支配された身の人間である。 此の身と心の逆転が、自 から他 への転換の前提条件と為る。 世界の現状を顧みるに、如何に人類が是迄、吾身(=三毒)に甘えて 来たかを顧慮すれば、其れは余りにも顕著に、其の時処位に拘らず、 人類の癡愚を露呈しているのである。 延長線上に力と量の究極の覇権争奪世界が展開するのである。 究極の真理に至るには、生涯自活後厳密千日涅槃行(=後行)(三時 間坐睡二十四時間仏作仏行)でなければ不可能である。 小生、早朝から夕方迄の福岡県内の半年一巡の托鉢では、列車中の 開眼坐禅で、二度、つんのめる様に座席から転げ落ちた。 釈尊が死に至る断食苦行で中道を得たからこそ、以後悟られ、 小生鐵漢が釈尊中道に基づいて、生まれ変わる正法苦行を完遂(= 涅槃回帰)し、真中道為る心の進化を遂げ得たのである。 人間は名誉や勝利や貪著の為には、一時的にも専念し得るのである 。一体誰か、『最後身心』足り得る者が居るのか? 「発菩提心すべし。然らば与えられん。」。 勝敗を超越して、諦観為らぬ、永遠に不滅為る恒常普遍の絶対的能 動・積極的安心(あんじん)に至り得ていないと、涅槃回帰した『最後身 心』とは言えないのである。 世界人類には其れが出来ないので、米中の覇権争奪闘争に終止符 が打てない。 是が人類の限界に他ならない。 少なくとも一年半前迄は、小生も、涅槃為る宇宙真理には至り得てい なかったからである。 『最後身心』は空前絶後、真理を以って古希を迎えたとは奇跡の業報 であった。 世界平和の可能性は、『最後身心』志向する事である。 然(そ)うすれば、志(こころざし)常に高く、最も有効に心の進化を遂げ 、平和の光が射し始める。 米中の在り様が率先垂範して、諸悪莫作の受動的消極性で疲弊し往 くのでなく、主体的に修善奉行の能動的積極性で地上非核化の勇断 が不可欠である。 『為せば成る。為さねば成らぬ何事も。成らぬは為さぬ心也けり。』 人間は、「勝ちたい」と云うものが残っている間は、未だ未熟である。 其の気が無く為る程成熟して初めて、世界平和への道を歩む事が出 来るのである。 唯一菩提心には、「勝ちだ!」は存在しない。安泰を求めない。 人間、菩提心程強いものは無い。 三毒(貪・瞋・癡)為る生命が必然的に地獄往きである事は不可避 である。 三毒で、地獄をさ迷う、癡愚為る頑迷固陋(がんめいころう)なのでは ない。 常に刹那、刹那の規則性と菩提心との商量である。 菩提心と規則性※とは相乗効果を生む。 < 宇宙真理(涅槃)規則性※ > 3:00―――起床 2:00前後1時間 (ネット) (昼食) 5:30―――朝食準備 5:00―――帰宅 (ネット) (夕食準備) 8:30―――朝課 7:00―――晩課 (朝食) (夕食) 10:30―――托鉢準備 8:30―――片付け 11:00―――托鉢出発 11:00―――就寝 西洋では、東洋の四苦の「生きる苦」は、実存から虚無主義、厭世主 義に陥り、東洋の苦行の道を辿らなかった。 此処が西洋人の限界であり、東洋人の叡智は、西洋では原爆投下為 ら使めたのである。 世界は米中露英仏の核兵器による安泰でなく、 真理の涅槃妙心に基づく世界人類の信頼と団結でなければ、 世界平和は在り得ない。 世界人類は安泰と保身と忖度の眠りでなく、 菩提心に基づく覚醒でなければ、 人類の三毒(貪・瞋・癡)は三善根(施・慈・慧)に転じ得ないのであ る。 《 現パンデミックとミャンマー軍部の暴走より 》 人間と云う者は、必ず宇宙の真理 に基づかなければ為らない。 是が世界平和を達成する超最短路である。 力と量の世界からの試行錯誤によって現代(=国連)が在るのである が、今や其の内実は殆ど機能していない。 此の試みは人類の諸悪の根源為る三毒(貪・瞋・癡)に基づきたるも のであるが故に、諸悪莫作の域を出ておらず、世界人類の平和にとっ て不可欠為る修善奉行的側面が欠如、欠落しているのである。 是は、従来の力と量による施策では、如何に多く強くあろうとも、不可 能なのである。 其れでは、二元相対、敗壊不安の域を出ない。 真理に至るには、其れ等から脱却して、自己を忘れ、万法に証せられ るのでなければ、宇宙の真理(実)に至る事は出来ないのである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違(たが)える悪業は、其の悪業報を受 ける事必至、不可避である。 ミャンマー軍部の暴走は殺人兵器を持った暴走族が集団暴走し、市民 生活を脅(おびや)かしている様なものである。是を取り締まる世界警 察組織の構築が急務である。 其の為には、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に基づく信頼・団結が不可 欠なのである。 唯、無関心を装わざるを得ないでは、甚だ未熟としか言い様の無いも のである。 世界人類は、是を恥と受け留めねばならない。 人間として、是程の恥は無いのである。 二十一世紀最大の負の遺産であり、恥である。 無視する方も、される方も、世界人類に対する、ヒトラーやISを上回る 恥知らずである。 世界人類がミャンマー軍部に乗っ取られ、遣りたい放題に世界人類を 見縊(くび)る 。 是、世界人類の将来に深く係わらざるを得ない、不可避にして人類の 真価を問われる重大局面である。 現代に於ける、ミャンマー軍部は、正に人間性否定に対する、我々世 界人類への問い掛けに他ならない。 何故に彼らが人間性否定の権利を自在にし得るのか。 正にミャンマー軍部は人類の恥部であり、人類三毒の化(ば)け者であ る。 此処に於ける沈黙は、間接的殺人に他ならない。 中国は世界人類に対して、明確なる裁断を施すべきである。 原爆抑止は人類にとって、悪影響しか与え得ないものなのである。 人類の真価は一体何処に行ってしまったのか? 人類の三毒(貪・瞋・癡)は大航海時代の奴隷制度から人種差別(特 に黒人)、ヒトラー独裁、地上を分断する世界大戦、原爆投下、米国分 断、パンデミック、米中覇権争奪、ミャンマー分断と世界人類の精神世 界に一連の大きな風穴を開けた。 是は精神世界のみならず、地球環境に於いても根源的弊害為るオゾ ンホールが出来た。 地上十㎞のジェット気流迄の対流圏の上層、五十㎞迄の成層圏内の 、地上二十五㎞前後のオゾン層が地球を包む様に多くの紫外線を吸 収し、地上の生態系を保護して居るのであるが、南(北)極にオゾンホ ール(オゾン層の穴)が出来、温室効果ガス為る、冷媒、溶剤用のフロ ン、バロンがオゾン層を破壊し、ホールより入射した紫外線が、あらゆ る生物の遺伝子(DNA)に悪影響を惹起し、免疫機能低下、皮膚癌を 誘発する。 そして北(南)極、シベリア永久凍土等の氷を溶かし、有害な細菌、ウィ ルス等が放出される。 アルプスの 永久凍土では1000種類の微生物が確認されており、其 の実体は不明である。 オゾンホールについては、1983年以来、1987年モントリオール議定 書に報告されている。 総て是等は、人類の三毒(貪・瞋・癡)の暴走に他ならない。 戦勝国家群(国連安全保障理事国家群)による格差が拡大し往く、 暴走産業・経済、制圧と覇権による「儲かる」貪著でなく、信頼と団結 による「人を真に生(活)かす」涅槃妙心の生き方をして来なかった、 略奪文明の末路である。 悪に対してものが言えない。 正使める力を持たない。 信頼無く、団結無い、癡愚世界である。 報道は機械的で、「人を生(活)かす」力と為り得ていない。 国連は、原爆発明で、世界が有事の際には、是で制圧可能と云う事で 、成り立った国際組織である。 国連の中枢は原爆と大量破壊兵器である。 よって、此の発想から「オーム真理教団」が生まれた。 謂(い)わば、教団は国連の原爆(=大量破壊兵器)支配体制主導と 云う成立要件の、悪い部分に忠実であった組織であるし、其れ故に、 未だ継続して居るのである。 しかし、其れだけに諸悪莫作の受動消極的側面にしか機能していない のであり、世界規模の修善奉行の能動積極性と云う、最も重要不可欠 な機能を持つ組織でなければ、甚だ未熟な世界としか言い様の無い ものである。 涅槃と云う「宇宙(生命)の本質」に至り得た今時に於いては、如何に しても、此の機能を有する世界連合 の構築が不可欠な急務であると 確信する。 人類は今や、此の新時代に突入したのである。 今や、米中が率先垂範して、是迄の人心を入れ替えて、不完全な諸悪 莫作レベルの任意的国家集合組織でなく、完全な修善奉行レベルの 世界信頼団結組織を新たに構築しなければならない。 正に是が、小生の「覚天(涅槃入り)」による真に究竟涅槃した涅槃回 帰に基づいて、破壊された人間性と自然環境の可能な限りの改善を 図る事が、我々人類の最重大にして不可欠為る急務である。 《 本質と現象 》 本質は現象するが、現象は本質しない。 其れは、生命が誕生したら必ず死滅する様なものである。 然(しか)しながら、 唯一、現象が本質する方法が在る。 其れは、菩提(道)心を発(おこ)す事である。 発菩提(道)心によりてのみ可能である。 換言すれば、坐禅(行)によって、生命は本質(涅槃)化するのである。 人類の諸能力(為る現象)では不可能である。 一般的に、菩提心無き西洋に於いては現象すれど、本質(涅槃)化為 し得ない。 要するに、坐禅(行)さえ為せば、誰でも、何時でも、何処でも本質(涅 槃)化(=体現)するのである。 《 命が極めると云う事 》 正法苦行とは、菩提心により、自(みずか)らを忘れて真理に至る、 釈尊が進化した処の唯一の厳密行(=機械化)である。 一般的な、単為る機械化に非ずして、飽く迄も菩提心を基盤とするも のである。 是によりて初めて、死せずして、其の究極に於いて、真理に生(活)か され、「真の自己(世界)」に為れるのである。 人間の生命と云うものは、限り無き程に複雑である。 単純に規制(=機械化)すれば済む様なものであるが、其れでは人間 の心は死んでしまい、機械の如く、生き甲斐も、喜びも、希望も、生きる 意義すらも喪失してしまい、弱肉強食の動物界に異ならず、「世界人類 を生(活)かす」涅槃妙心智慧を生む「宇宙(生命)の本質」為る涅槃に 帰一し得ず、不完全極まりなき未熟国家と為らざるを得ないのである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違(たが)えるが故に、何れ心進化し足 る涅槃世界の信頼団結によりて制せられる事は必至である。 然(さ)れば如何(どう)する? 先ず、要は涅槃回帰した小生、『最後身心』を信じ、是に基づく事であ る。 是、菩提心に基づくものであるが故に、既に二元相対の地獄世界を脱 却し、そうして、単なる機械化に堕(だ)せず、人をして真に「人を生(活 )かす」生き方に教導するものである。 人類を統制するには 、其れが菩提心に基づくものであるか、或いは 二元相対世界の分別(主義、主張等の人類の諸能力)に基づくも のかが在る。 前者であれば、涅槃為る宇宙の真理に由来するものであり、永遠に「 世界人類を生(活)かす」のであるが、 後者は、人間が涅槃為る宇宙の真理、「宇宙(生命)の本質」に帰一せ んとする人間の心の主体性、つまり是が菩提心に他ならないが、此の 発菩提(道)心の萌芽を摘んでしまうのである。 仮令(たとえ)、其の場は制し得ても、是では、やがては其の将来は、 物質至上文明の地獄道を辿らざるを得ないのである。 「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に違(たが)えて、人類の生命が幸福、平 和には至り得ない事は、余りにも明白である。 「世界人類を生(活)かす」には限りが無く、菩提心に基づく機械化 も同様であり得る。 此の永遠為る真理足る涅槃妙心と、刹那に商量息衝く機械化との不 断の緊張感が生命を生(活)かす。 宇宙の調和と均衡と静謐為る、究極の、完成し足る緊張感に至るに は、限りが無いと云う事である。 何と為れば、『最後身心』を生んだのは、正に此の宇宙の涅槃化エネ ルギー以外の何者でも無いからである。 此の両極の一方を択(と)らずに、其れ等を収束振動させるのである。 是によりて、限り無き涅槃妙心の緊張感が培(つちか)われるのである 。斯(か)く在れば、表面的でない、真の人間へと教導し得る。 三毒(貪・瞋・癡)由来の虚構によりて、人類の自由を奪ってしまわない 。又、其れを看過しても為らないのである。 看過すれば、看過される者と本質的に変わらないからである。 菩提心有らば、此の限り無き収束振動によりて、必ず涅槃へ帰一する 事は必定である。 絶対に乱拡する事が無い。 時に従うて無窮為る、菩薩の行願の、同事の完成し足るものである。 急ぐ必要は無い。只管(ひたすら)、真摯(しんし)為る事である。 「失敗は成功の元」、復帰せんとする緊張感で人類を教導し得るので ある。 斯くして、究竟、涅槃回帰する必然性が、此処に在るのである。 此の為には、無駄な時間を作らず、生まない事である。(正念相続) 斯(か)るが故に、可能な限り、独り、静かが望ましい。〔楽寂静(釈尊『 八大人覚』)〕 如何なる境遇に在れども、是は努力次第で可能と為り得る。 斯(か)くして、「真に生(活)きた人間」と為り得るのである。 「真に生(活)きた人間」とは、「人を真に生(活)かせる人間」の事であ る。 人を生(活)かせない人間は、自(みずか)らも真に生(活)きる事は不 可能である。 癡愚為る人間が、癡愚為る人間を育てる様な事が在っては為らない。 ミャンマーは 中国が握っている 国益だ 未だ分断は 未解決である 《 大 穴 》 地上人類の心に開いた大穴と、上空成層圏オゾン層に開いた大穴、 総ては、人類三毒(貪・瞋・癡)の、ミャンマー軍暴走とオゾンホール為 る悪業報である。 自然破壊に対しては、採り得る対策は可能である。 問題は、地上完全孤立せんとするミャンマー軍である。 是に対する、採り得る対策が見出せない。 過去からの、世界に莫大な軍事費にも拘らず、地上の一点の癡愚者 達の盲走に対しては、如何とも為し得ない無力感である。 軍事は自衛があれば十分である。 禅門では必ず、『脚下照顧』と誡(いまし)めてある。 宇宙の彼方に行ってまで、科学的戦略を講じる以前に、「地に足を付 けて足元を見よ」と云う事である。 此の一点に対する良薬は何であろう。 問題は、無防備なる民衆が無制限に殺害され往く事である。 ミャンマー軍の、ロヒンギャ難民虐殺の本質が無制限にミャンマー民 衆に向けられているのである。 若(も)し、是を看過すれば、大穴は拡大する一方である。 国益の為に、罪無き彼らの生命を犠牲にするべきではない。 指導者足る資格は如何にあらねばならないか? 人類(人間)の大穴は致命傷である。 人類(人間)は是程の三毒(貪・瞋・癡)による癡愚ではないのである。 本来、三善根(施・慈・慧)為る智慧によりて打開するのが宇宙の真理 である。 《 真理とは空前絶後為るもの 》 吾師伴鐵牛老師は鉄牛寺に、昇龍の如き御遺影と、「不昧因果」の掛 け軸を遺され、「眠るが如く」亡くなられたのである。 師の昇龍の気迫に比肩する者無し。 真理為るが故に、 不昧因果(=因果の道理)なのである。 不昧因果(=因果の道理)為るが故に、 真理なのである。 宇宙→瞑想→釈尊→道元禅師→鐵牛祖印→鐵漢→宇宙(回帰) と云う涅槃回帰の永久機関(=永劫回帰)と共に、五千年前以降の 心(=仏道)の進化を明確に証明したのである。 正に、今こそ地球規模の涅槃回帰の完遂だ! 仏道の伝教の実際は、時空を隔てても、不昧因果為るが故に、必ず 開花するのである。 心の進化とは、只管(ひたすら)菩提心に貫徹されるものである。 真理(体験)は、存在自体が時間的(=刹那)に、断絶されて初めて 顕現する(される)ものであるからである。 真理は奇跡としてしか、体験され得ないものである。 体験され得た事が、正に奇跡中の奇跡なのである。 故に『最後身心』である。 再現の必要性が無い。 人類が択(と)り得る、最後に遺された唯一の道である。 是が菩提心の必然性である。 人類は、此の真理を知る為に、どれだけの月日を費やして来たであろ う。 人類の意識(=自覚)は七百万年前の人類の誕生と同時に、大脳新 皮質による分別として生じたであろうが、いみじくも我々と同世代に至 って、大脳賦活系網様体為る脳幹網様体が脳幹を延髄から視床を介 して、大脳皮質迄上行し、意識レベルの制御、覚醒・睡眠の調節をし ている事が解った。 十七世紀には「良心」として、又デカルト(仏、近世哲学の祖)が、「我 思う、故に我在り」と意識を捉え、十九世紀半ば、哲学から心理学が生 まれ、無意識や潜在意識について言及された。 是等については、既に釈尊成道により仏道が生じ、唯識思想が生ま れた。 人間の心について、最も根源的なものは、人類が本有する諸悪の根 源為る三毒(貪・瞋・癡)ではなく、人類の心の進化の端緒と為った瞑 想を生ぜ使めた、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)からの促し である。 是は本人に明確には意識されないが、人生、生きる、生命、心(意識) 等の様々な根源的問い掛けを生ぜ使めるもので、発菩提(道)心の契 機を与えるものである。 人間の意識についても、東洋では心の分析が、そもそも仏教の空(性) (シューニャ、スンニャター;~を欠いている、又0(ゼロ)の名称)から、 釈尊の悟りに基づいて為された。 「一切法は因縁であり空しい。しかし比丘は空では無い。」 一世紀前半、最初の大乗仏教の経典「般若経」成立。 五世紀~七世紀に「般若心経」成立。 四世紀の大乗仏教の瑜伽行唯識学派から唯識思想が生まれた。 唯識は大乗仏教の空の思想に基づいている。 唯識の、三毒を根本とする煩悩の精緻な探究では、煩悩は自己を中 心に据えて志向した時に起きる数々の心の働きであり、他者や社会全 体を思考の中心に据えれば煩悩即菩提(=智、道、覚)である。 (無)意識についての解釈は、 六識 (意識 と前五識(眼・耳・鼻・舌・身の各識))と無意識 の、潜 在意識 (未那(まな)識;熟睡中は意識は停止するが、未那(まな)識 は常に阿頼耶識に纏(まと)わり付いて悪を作り活動し自己に執著)と 阿頼耶識 (内蔵する種子から対象世界の諸現象を生じ、其れ等は又 、其の人の阿頼耶識に薫習(くんじゅう)与えて種子を形成し、刹那生 滅しつつ相続する)である。 フロイト(1856~1939)のリビドーは三毒の貪著から、 ユング(1875~1961)の集合的無意識は阿頼耶識から示唆を受け たものかと推測される。 三島由紀夫の最後作『豊饒の海』(四部作)は、唯識をモチーフの一つ に取り入れ、第四部最終回入稿日に三島事件で割腹自殺した。 それが彼のニルバーナ(涅槃)体現の実践であった様だ。 彼の目指したものは「覚天」の小説化に他ならない様な気がする。 彼は究極的に仏教の「涅槃」を、彼の手立て足る小説で実現しようとし た。謂わば極佛行を小説化したのである。 発想其のものが、元来、究竟し得ない事々に於いて、実現する事自体 、死を以って為すより、解決し得ない事なのである。 自衛隊の理想的在り様に思いを託して、世界を完結させ、彼の理想を 貫いたのである。 彼の試みは、自死以外には、坐禅行入りするしか残されていなかった のであり、其れ自体、彼にとっては死を意味するものである。 心の進化に唯識は全く不要であり、要するに坐禅する以上のものは無 いのである。 極論すれば、総ては、真理に至り得ないが故の方法論に過ぎない。 然るに、世界人類総てが新幹線では有り得ないのであり、 時間の問題である。 其処に仏道の存在価値が在り、「世界人類を生(活)かす」為の様々な 手立てが在り得るのである。 意識の定義は、ジョン・サール(1932~、米、哲学者)は、 「意識とは、私達が、夢を見ない眠りから覚めて、再び夢の無い眠りに 戻る迄の間、持っている心的な性質の事である。」 是が最も包括的、暫定的定義である。 シリアに三善根 (施・慈・慧)を ! 地上の最も地獄 《 涅槃呼吸 》 極言すれば、題目の「涅槃呼吸」為るものは、習得するには正法苦行 の初行と後行でなければ不可能である。 生涯後厳密千日涅槃行(=後行)を行じた者でなければ、絶対に涅槃 為る宇宙の真理には至り得ないと云う事である。 是には、初厳密千日解脱行(=初行)に基づいた呼吸法に則(のっと) って、托鉢自活による本格的生涯坐睡厳密行によりて初めて、如何為 る人類にも不可能為る、完成した身の進化を完全否定し、身を制し得 た心の進化に基づく涅槃呼吸システムが身に付くのである。 是は終生変わらない。 正に、真理とは死ぬ位の事では到底至り得ない。 故に真の正道とは、非常識的な、唯、菩提心によりて自(おの)ずから 、呼吸システムを三毒為る身から、菩提心為る心に基づか使む、正に 初行と後行の正法苦行によりて初めて可能為る真の正道である。 只管(しかん)、菩提心の為せる業(わざ)である。 鉄牛寺の伴鐵牛老師の昇龍の如き御遺影が、鉄牛寺の真髄を象徴し ている。 仮令(たとえ)世界人類が至り得なくても、涅槃為る宇宙の、永遠に不 滅為る恒常普遍の真理に変わり無い訳である。 是を軽んずるか、信奉するかは、其の人次第。 要するに、正道、正法、真理が在ると云う事。 諸道総て是に通ず。 《 踏み絵 》 世界で唯一の原爆被爆国家日本に於いて、捨て子として、寺に預けら れた吾師伴鐵牛老師が、思う処在りて、同じ境涯の、師として心酔して おられた著名な原田祖岳老師の下を去られ、在家で摂化指導する道 を択(と)られた師の存在に、坐禅に唯一の生きる道を見出した鉄幹と 云う存在が出会った因縁で、其処に「悟り(身心脱落)」生まれ、正法苦 行為る千日行(三時間坐睡二十四時間仏作仏行)が生まれ、「解脱」、 「覚天(涅槃入り)」し、「宇宙(生命)の本質」(涅槃)に回帰、涅槃為る 宇宙の、永遠に不滅為る恒常普遍の真理に至り得たのである。 斯(か)くして、此の『最後身心』が、其の因縁に縁りて不昧因果、核兵 器禁止条約締結に基づき、涅槃為る世界人類の幸福と平和と繁栄を 完遂せ使めるのである。 斯くして、世界人類は過去の極悪業(原爆投下、人種差別、ヒトラー独 裁等)に報い得るのである。 何の為の『最後身心』であるのか。 我々人類が辿った極悪業に報いんが為の『最後身心』なのである。 故に核兵器禁止条約締結を期し、世界人類、もっと言えば世界中の指 導者達の意識、否、厳密に言えば国連常任理事諸国家の指導者達の 意識の菩提心のレベルが如何程であるかの目安足るものが、核兵器 禁止条約締結なのである。 是によりて、世界人類の将来の見通しが明確と為る。 つまり、是程、世界平和の信憑(ぴょう)性に直結して居るものは無い のである。 言葉だけのものか、表面的なものか、或いは本物であり、今の世界の 指導者達が、自己の職業としてでなく、職業(任期)を超えた、一人間 として全生命を賭けた意識からのものとして、彼らが全身全霊で、将 来の世界人類の為に為さねばならない事、其れは自(おの)ずから、 好(い)い加減な、其の場凌(しの)ぎの欺詐(ぎさ)と安泰と保身で、自 己をも含めて、総てを誤魔化して済ます事は出来ないのである。 真剣であれば必ず彼等の心の赴(おもむ)く処は、明らかに自(おの) ずから決定する筈である。 若し然(そ)うでないとしたら、其れは単なる強者の集団心理で好い加 減に済ましているに他ならない。 若しも自己に、世界を左右する全権が与えられたとしたら最善を尽くす 筈である。 中途半端に最重要事を済ます筈は無いのである。 要は世界の指導者間の信頼性の問題である。 其の信頼性が培(つちか)われているか、否かに尽きるのである。 其処で、小生『最後身心』の存在意義を顧みると、此処に至る迄の 信頼、此の永遠の信頼在ったればこその『最後身心』である事に疑い は全く無いのである。 其の信頼無き処に『最後身心』は完全に在り得ない。 其れ程、宇宙と云うものは好(い)い加減ではないのである。 101%の1%の、刹那生滅の原理に基づく変異の自然淘汰によりて、 完全円満為る涅槃と云う宇宙の真理に収束振動(=進化)し往くので ある。 不昧因果、因果の道理が100%為るものでなければ、「覚天(涅槃入 り)」し『最後身心』足り得なかったのである。 此の100%の信頼性に基づく、世界人類の核兵器禁止条約締結と云 う、世界人類の指導者としての資質が問われているのである。 是は誤魔化す事が出来ない踏み絵である。 信頼団結の本質に基づく絶対為るものか、或いは力と量の脅威に基 づく相対的現象によるものか、二元相対世界の現実に於いては、信頼 関係も相対的為るものに過ぎない。 絶対信頼は相対世界に於いては不可能なのである。 絶対世界、つまり涅槃為る宇宙の真理に基づいて初めて、絶対信頼 が在り得る、可能と為るのである。 此処に於いて初めて、従来の常任理事諸国家支配の国連主導の力と 量の相対的支配から脱却して、信頼団結の世界連合 を構築しなけ れば為らない。 其の試金石としての、核兵器禁止条約締結である。 是、ミャンマーの軍独裁に象徴的為る弱肉強食志向から脱却し、本質 の信頼団結を図る真の踏み絵である。 世界警察足る本質には未だしと言わざるを得ない。 次項目以降、270項目程前の大項目 真遺教 をクリックして頂くと継続して公開されます。 《 意 識 》 |